10月1日(火) インド国際映画祭

 今日からインド国際映画祭(International Film Festival of India 2002)が始まった。今日はスィーリー・フォートでプレス向けの映画が上映されるだけだ。しかし今日の新聞にスケジュールが掲載されるということなので、早速朝、新聞を買って調べた。

■2002年度第33回インド国際映画祭スケジュール表

 新聞には今日の朝11時からチケット発売が開始されるというので、学校をさぼって、カロール・バーグの北にあるリバティー・シネマへ行ってみた。リバティー・シネマは今日は「Road」を上映していたが、ちゃんと映画祭のスケジュールが貼り出されていた。しかしチケット受付は9時からと書かれていた。しまった、と思い、チケット売り場に駆け込む。カウンターは幸いガラガラだ。カウンターの人に「明日の映画祭のチケット売ってくれ」と言ったら変な顔をされた。「何が欲しい?」と聞かれたので、新聞の切り抜きを差し出して、マークを付けた映画全部くれ、と言った。だが「明日のしか売れない」と言われたので、とりあえず明日の午後6:30からのオリヤー語映画「Maguni Ra Shagada」のチケットを売ってもらった。バルコニー席で40ルピー。しかしよく見てみると、僕のチケットのシリアル・ナンバーは001だった。つまり僕が一番最初にチケットを買ったことになる。もしかして他のインド人はあまり映画祭に興味がないのだろうか?焦って今日チケットを買いに来る必要はなかったのかもしれない。

10月2日(水) Maguni Ra Shagada

 昨日から始まったインド国際映画祭。初日の昨日、スィーリー・フォートにはラター・マンゲーシュカルが来たそうだ。今日からデリー各地の映画館で一般向けに各国、各言語の映画が上映され始める。

 今日はマハートマー・ガーンディーの誕生日でもあった。「インド独立の父」の誕生日は国民の祝日となっており、もちろん学校も休みだ。午前中はゆっくりと過ごし、午後から行動を開始した。

 まずはパハール・ガンジのシーラー・シネマへ。明日の午後9:30から上映される北朝鮮映画「Racing To Crown」のチケットを4枚予約しておいた。韓国人に(深い意味で)お世話になっている日本人の友人たちと一緒に見るつもりだ。2000年の映画だから、金正日政権下で製作された映画だ。北朝鮮って、いったいどんな映画を作っているのだろうか?かなり興味本位で購入した。しかしこちらも売れ行きはよくないみたいで、僕が買ったチケットのシリアル・ナンバーは002〜005だった。誰かが1枚先にチケットを買ったということだ。いったい誰だろう?

 パハール・ガンジでブラブラと暇潰しをした後、午後6:30からリバティーでオリヤー語映画「Maguni Ra Shagada(マグニの牛車)」を見た。オリヤー語映画を見るのは初めてだったが、ベンガリー映画っぽい雰囲気だろうな、と予想はしていた。そしてその予想通り、インドの素朴な田舎が舞台の悲しい物語だった。

Maguni Ra Shagada
 オリッサ州のとある田舎の村。マグニは牛車タクシーのドライバーだった。毎日村と駅を行き来して、村人たちの足となっていた。マグニは誰からも愛される朗らかな性格で、カサラとカリアという2頭の牛を何よりも大事にしていた。

 両親の決定に従い、マグニはクスムという美しい女性と結婚する。マグニは牛と同様、クスムに対しても限りない愛情を注いでいた。2人は仲睦まじい新婚生活を送っていた。

 ところがある日、マグニの村にバスが運行し始める。もはやマグニの牛車に乗る者はいなくなった。今までマグニの牛車を愛用していた人々も、バスにしか乗らなくなってしまった。不幸は続く。同居していた父親と母親が相次いで亡くなり、遂にクスムも死んでしまう。

 生活に困ったマグニは遂にカサラとカリアも売り払わざるを得なくなる。マグニの家にはただ牛のいない牛車だけが残った。失意の内にやがてマグニも死んでしまう。マグニの遺体を乗せた牛車は、最後の道をゆっくり進むのだった。

 1時間半ほどの短い映画で、映画の内容よりもオリッサ州の田舎の様子がよく分かってよかった。女性は皆サリーを着ているが、サリーの下にブラウスなどを着ていなかった。結婚式の様子も見れたが、新郎新婦が変な冠を付けていたり、花嫁がずっと腰をかがめて歩いたりしており、デリー周辺の結婚式とは大分様子が違った。

 オリヤー語は全く知らないが、時々ヒンディー語と同じ単語が出てきたりして、やはり基本的に同系統の言語であることが確認できた。ベンガリー語の分かる人に言わせれば、オリヤー語とベンガリー語はかなり似ているそうだ。

 総合的に見て、映画祭に出品するのにちょうどいい作品だと思った。こんな映画ばっか見ていると退屈してしまうが、たまに見るのだったらいいだろう。近代化の波に押し流されて古き良きインドの田舎の村が変貌していく姿の断片を垣間見た気分だった。なぜかオート・ワーラーやリクシャー・ワーラーに同情してしまいそうになる。

 客入りは10%ほど。全然観客がいなかった。これなら予約しなくても全く大丈夫だ。インド人にはあまり映画祭で映画を見る趣味はないみたいだ。ただ、一応明日の午後3:30から同じくリバティーで上映されるタミル語映画「Kannathil Muthamittal」のチケットを予約したら、シリアル・ナンバーは023だった。さすがに日本でも有名なマニ・ラトナム監督の映画(「Bombey」や「Dil Se」の監督)は比較的人気があるみたいだ。

10月3日(木) Kannathil Muthamittal/Racing To Crown

 午前中が授業に出て、午後から映画を見にリバティー・シネマへ出掛けた。

 まず3:30からマニ・ラトナム監督のタミル語映画「Kannathil Muthamittal(ほっぺにキス)」を見た。音楽はA.R.ラフマーン。主演はマダヴァンやスィムランなど。どちらもタミル語映画界のスターである。




Kannathil Muthamittal


Kannathil Muthamittal
 タミル・ナードゥ州チェンナイ。作家のティルチェルヴァン(マダヴァン)とその妻インディラ(スィムラン)の間には3人の子供がいた。長女のアヌダ、長男のヴィナヤン、そして次男で末っ子のアキランだ。やんちゃな子供たちに手を焼きながらも、ティルチェルヴァンたちは幸せに過ごしていた。

 アヌダの9歳の誕生日が来た。ティルチェルヴァンとインディラはアヌダに真実を打ち明ける決意をする。実はアヌダは2人の子供ではなく、孤児院で養子にした子供だった。それを知ったアヌダはショックを受け、心を閉ざしてしまう。そんなアヌダにティルチェルヴァンは、アヌダを養子にした過程を話す。

 アヌダはスリランカからの難民で、シャーマーという名の女性の子供だった。彼女はラーメーシュヴァラムでアヌダを産んだ後、すぐにスリランカへ帰ってしまった。孤児院に入れられていたアヌダを見て、そのときちょうどラーメーシュヴァラムにいたティルチェルヴァンはインスピレーションを得て小説を書く。そしてその子を養子にすることを決意する。しかし独身の男性が養子をもらうことは法律上不可能だったため、恋人だったインディラーと結婚し、養子をもらったのだった。つまり、アヌダが両親の結婚のきっかけとなったのだ。

 自分がラーメーシュヴァラムで生まれたこと、そして母親の名前がシャーマーであることを突き止めたアヌダは、今までの自分の写真を一冊のアルバムに収め、両親には内緒でラーメーシュヴァラムへ旅立つ。アヌダが行方不明になったことを知った両親もすぐにラーメーシュヴァラムへ飛ぶ。アヌダはラーメーシュヴァラムでも母親の手掛かりをつかむことができなかった。海を眺めて佇むアヌダに、ティルチェルヴァンは優しく語り掛ける。「お父さんが絶対に母親に会わせてやるから。」

 こうして、ティルチェルヴァン、インディラ、そしてアヌダはスリランカへ旅立った。そのときスリランカはゲリラと政府軍の戦いの真っ最中だった。3人は戦火の中をくぐり抜けつつ、アヌダの真の母親であるシャーマーを探す。そして遂にシャーマーの生まれ故郷の村に辿り着く。ティルチェルヴァンはシャーマーの兄と出会うことに成功し、公園で待ち合わせをする。しかしシャーマーはゲリラの一員となっていたのだった。

 アヌダたちは公園でシャーマーを待った。しかしそのとき公園にやって来たのは軍隊だった。突然そこでゲリラと政府軍の銃撃戦が始まり、インディラは負傷してしまう。アヌダはインディラが負傷してしまったことに傷つき、もうインドへ帰ることにする。だが、インディラの要望により、約束の公園にもう一度だけ行ってみることにした。

 公園は先日の銃撃戦で廃墟となっていた。そこへ一台のオート・リクシャーが止まる。中からはシャーマーが出て来た。シャーマーとアヌダは、アヌダが生まれたとき以来の再会を果たす。アヌダはシャーマーに「チェンナイに来れば戦争もないよ」と言うが、シャーマーは「この国に平和が訪れたら必ず行くわ」と答える。アヌダは「それはいつ?」と聞く。しかしシャーマーは何も答えずに再びジャングルの中へ去っていくのだった。

 まさにマニ・ラトナム監督らしい、社会問題に深く切り込みつつも娯楽性を盛り込んだ作品だった。スリランカのLTTE(タミル・イラーム解放の虎)を暗に題材にしているところがすごい。現在ではLTTEと政府の間で話し合いが持たれ、スリランカの治安もこの映画ほど酷くはないが。僕もこの前実際にスリランカに行ったが、何も怖い目に遭ったりしなかった。

 インドの映画監督で、映像を見て一目で識別できる人は、マニ・ラトナムぐらいだという話を聞いたことがある。彼の映像には確かにインド人離れした独自の作家性を感じる。1コマ1コマに彼のサインが刻まれているかのようだ。敢えて荒を探すとしたら、全体的に淡々とした撮り方で、テロに遭遇するシーンや砲撃・銃撃を受けるシーンにおいてもそんな感じだったので緊張感に欠けていたところがあったことか。

 ミュージック・マスターの異名を持つA.R.ラフマーンの音楽も、聞いて一耳で彼の音楽だと分かった。聞いていて気持ちのいい曲が多く、まるで耳から脳にかけて洗浄されるかのようだ。今回の作品で、彼の歌はミュージカル・シーンで自然に挿入される形で使用されていることが多かった。タミル語映画特有の、突然脈絡なしに挿入されるダンス・シーンもいくつかあったが、それは前半に固められており、ストーリーが重厚になる後半にそういうシーンが無造作に挿入されるような間違いがなくてホッとした。

 アヌダを演じた子役の演技はとてもよかったと思う。マダヴァンやスィムランはどちらかというと子役のサポート役のようなものだった。僕のマダヴァンのイメージは「Rehnaa Hai Terre Dil Mein」のガキ大将役で固定されていたので、かえって今回の彼の抑え気味の演技は新鮮だった。

 僕の行ったことのあるラーメーシュヴァラムやコロンボの風景が映画中に登場したのも少し嬉しかった。スリランカのシーンは全てスリランカでロケされたか知らないが、見ていてまたスリランカに行きたくなった。ラーメーシュヴァラムの風景も実際以上にきれいに映っていた。

 おそらく今回の映画祭でもっとも人入りがよかった映画ではないだろうか?少なくともバルコニー席はほぼ満員だった。やはりデリー在住タミル人らしき人が多かったみたいで、タミル語が飛び交っていた。隣に座っていたおじさんは、映画中の曲を口ずさんでいた。



 現在日本では北朝鮮拉致問題がホットな話題になっている。そんな中、僕は北朝鮮の映画を見る機会に恵まれた。

 いったい北朝鮮はどういう映画を作っているのだろうか?それを知る人はこの世にあまり多くないだろう。今回の映画祭一番の注目作だったため、友人に声を掛けてみたら、総勢6人集まった。韓国人の友達も来てくれた。韓国人は北朝鮮の映画を見ると犯罪になるため、彼は日本人に変装しての鑑賞となった。

 題名は「Racing to Crown」。「栄冠への道」ぐらいに訳せばいいだろうか。映画館の前に貼ってあったポスターを見たら、どうもマラソンをテーマにした映画であることが知れた。そして見てみたら納得。これは1999年の世界陸上女子マラソンで金メダルを取ったチョン・ソンオクを題材にした映画だった。

Racing to Crown
 チョン・ソンオクは、現役マラソン選手のコーチと共に、ビッグなマラソン選手になることを夢見る女の子だった。子供の頃から毎日毎日特訓し続けていた。

 アトランタ・オリンピックに国民の期待を一身に受けて臨んだチョン・ソンオクだったが、結果14位の惨敗。北朝鮮女子マラソン界はその結果を深刻に受け止め、活動の規模を縮小せざるを得なくなる。チョン・ソンオクは高齢(といっても24歳前後だが)を理由にリストラされ、コーチとも喧嘩をして田舎へ帰ってしまう。

 田舎に帰ったチョン・ソンオクは、普通の女の子になることを決意するが、父親はそれを戒め、兄弟も彼女を勇気付ける。そしてみんなで金正日将軍に祈りを捧げる。すると突然金正日からの鶴の一声があり、女子マラソンをさらに保護発展させるようにとの通達が出る。こうしてチョン・ソンオクも再びマラソンをすることができるようになる。

 シベリア世界陸上競技大会が近付いてくる。そんな中、チョン・ソンオクは捻挫をしてしまい、走ることができなくなる。彼女にとってこの大会が最後のチャンスだったのだ。他の選手たちがシベリアに旅立っていくのをチョン・ソンオクは涙ながらに見送った。

 チーフ・コーチは落ち込むチョン・ソンオクを山奥へ連れて行く。そこにちょうど金正日将軍が通りかかる。チョン・ソンオクは金正日を一目見ようと彼の後を追いかける。すると、驚いたことに彼女の捻挫した足は治っていた。これなら走れる!チョン・ソンオクは選手団と合流することになる。

 遂にマラソンが始まった。チョン・ソンオクは日本の市橋有里と激闘を繰り広げ、遂に金メダルをゲットする。感極まった北朝鮮政府により、テポドンも発射される。北朝鮮に戻ったチョン・ソンオクは大観衆に歓迎され、一躍英雄となる。そして彼女はコーチの元へ駆けつける。

 コーチはチョン・ソンオクを祝福し、2人は再び平壌の街を走り出した。すると後ろから大勢の人々が北朝鮮の旗を持って追いかけてきた。後ろには巨大な平壌ゲートがそびえ立っていた。金正日は偉大なり!ということで感動のエンディングを迎えた。

 なんとコメントしたらいいだろうか?ある意味、期待通りの映画だった。期待通り過ぎた。金正日が徹底的に神格化されており、全ての栄光は金正日のおかげということになっていた。インド映画のように途中数回ミュージカル・シーンがあり、金正日を讃える歌や、お国のために粉骨砕身働く美徳を歌った歌などが流れた。金正日の肖像が登場したときは、思わず手を合わせて拝んでしまったくらいだ。

 世界陸上やオリンピックの映像は実際の映像が使われており、主人公のチョン・ソンオクは、彼女に似た女優(か?)が演じていた。実際に見てみれば分かるが、チョン・ソンオクはお世辞にも美人とは言えない顔をしているので、彼女を演じた女優も自然とアレな顔だ。しかし脇を固める男優陣、女優陣はおそらく北朝鮮でも随一の俳優だと思う。男優はものすごい味のある演技をしていたし、脇役の女優は皆かわいかった。

 物語の中で、なぜかGショックの腕時計も重要な小道具となっていた。もともとそのGショックはコーチのものだったのだが、チョン・ソンオクがずっと自分のものにしていたのだった。そしてそのGショックを付けて走ると勝利が転がり込むというジンクスがあった。この辺のエピソードはもしかして実話に基づいているかもしれない。

 Gショックの他にもなぜか日本の製品が多く見受けられた。日本車、日本のバス、日本製のスポーツ用品などなど・・・。いったいどこから盗んで来たのだろうか?ベンツも走っていた。あと、マラソンの映像は実際の映像だったので、本物の市橋有里やシモンなども映っていた。まさか北朝鮮で映画に登場しているとは夢にも思っていないだろうな・・・。

 平壌の様子を垣間見ることができたのもよかった。あらすじにも書いたが、平壌にはデリーのインド門やパリの凱旋門に勝るとも劣らない立派な門が建っているみたいだ。地下鉄も出て来て興味深かった。しかし基本的に平壌の街の道路には人っ子一人、車一台、犬一匹いなかった。映画の撮影のために交通規制をしたのかもしれないが・・・。

 大注目作品だったにも関わらず、客入りは限りなく0に近かった。どこでも座り放題だった。暇そうなインド人が数人見に来ていたが、北朝鮮人、または韓国人らしき人影は、僕の友達を除けば全くなかった。おそらくインド人は僕たちのことを北朝鮮人だと思っていただろう。金正日の肖像や賛歌が出てくると大笑いしてたし。

 最後に挿入されたテポドン発射の映像にはぶっ飛んだ。絶対に日本では上映不可能な映画だろう。「Racing to Crown」はインドにいたおかげで体験することもできた貴重な映画だ。インドの懐の広さに感謝すると共に、これからの北朝鮮映画界の発展と健闘を祈る。

10月4日(金) Konikar Ramdhenu

 映画祭が始まってからというものの、毎日リバティーに映画を見に行っている。リバティーはカロール・バーグの北にあり、僕の自宅からかなり遠い。今のところ、まずバスでコンノート・プレイスへ行って(7ルピー)、そこからオート・リクシャーに乗ってリバティーへ向かう(35ルピー)という手段をとっており、帰りもこれの逆なのだが、これでは少し金がかかる。しかし毎日行っている内にだんだんカロール・バーグへの適切なアクセス方法が分かってきた。ユースフ・サラーイから535番のバスに乗れば、カロール・バーグにもリバティーにもダイレクトで行くことができる。535番はコンノート・プレイスやパハール・ガンジも経由するので、けっこう便利な便だ。ただ、本数が少ないので、かなり時間に余裕を持ってバス停で待たなければならないのが難点。

 今日はリバティーで昼の回の映画を一本見ただけだった。アッサミー語映画「Konikar Ramdhenu」。英語の題名は「Ride on the Rainbow」だった。福岡国際映画祭にも出品されたそうだ。アッサミー語映画を見るのはもちろんこれが初めてだ。

Konikar Ramdhenu
 ある少年が少年院に送られてきた。容疑は殺人。少年は少年院に来てから一言もしゃべらなかった。名前がコクニであることは分かったが、その他は一切不明だった。

 少年院の管理人のボレは、コクニに根気よく話しかけ続ける。彼が海の話をしたとき、ようやくコクニの顔に興味の色が浮かぶ。その後、コクニとボレは次第にお互いのことを話すようになり、絆を深めるようになる。ボレは一度ドゥルガー・プージャーのときにコクニを外へ連れ出して、一緒にグワハティーの街を散策する。完全に心を開いたコクニは、自分の素性や殺人のことについても重い口を開いた。

 コクニの村は丘の麓にある美しい村だった。家は車2台に象3頭を有する裕福な家。コクニの学校は3階建てで、コクニは学校で奨学金がもらえるほど優秀な生徒だった。彼は先生からも両親からも愛されていた。村には1歳年下のメグニという女の子がおり、コクニはその子に恋していた。しかしある日勉強が嫌になり、家出してグワハティーへ単身出てきて、ある工場で働くようになった。しかしそこの工場長が夜酔っ払ってコクニに乱暴を働いたので、怖くなった彼は思わず近くに落ちていた鉄パイプを拾って工場長の頭を殴ったのだった。

 少年の証言により正当防衛が認められ、コクニは無罪となった。しかしコクニは家に帰りたくないという。そこでボレはその工場で手掛かりを掴んで、1人でコクニの村を訪ねてみる。しかし実際の村の様子は、コクニの語ったこととは正反対だった。

 彼の家は貧しく、父親は酔っ払いで酒に全ての金を使い果たし、母親は泣き暮らしていた。3階建ての学校などなく、メグニという女の子は実はコクニよりずっと年上の、クラスメイトのお姉さんだった。メグニの家には、コクニが描いた絵が飾ってあった。それは虹に乗って海を渡るコクニ自身の絵だった。ボレはコクニを養子にすることを決意し、彼の父親に同意書にサインさせる。

 ボレも既に定年になっており、コクニとボレは共に少年院を出る。ボレはコクニを連れて自分の村へ行く。2人の新たな人生の始まりだった。

 見終わった後に心がスッキリする映画だった。不幸な境遇の少年と、定年を控えた心優しいおじいさんの間に友情が育まれていく過程を丁寧に描写しており、ほのぼのしていた。主役である子役、おじいさん役の俳優の演技も文句のつけようがなかった。最後はコクニとボレが2人で踊るミュージカル・シーンで終わるのだが、そのメロディーは映画館を出て家に帰る間、ずっと頭の中でリフレインしていた。「ティンティナティンティナ、ティンティナティンティナ・・・、ゴブラッ!ゴブラッ!」アッサミー語映画もなかなかやるな、と唸らせる作品だった。ちなみにあらすじの固有名詞は、記憶があやふやなので適当である。

 ほぼ全編アッサミー語だが、やはり時々ヒンディー語に似た単語が出てきて、聞いてて面白かった。「トゥ・ナーム・キ?」が「君の名前は何?」になるということが分かった他、ヒンディー語と共通の動詞をいくつか発見することができた。おそらくベンガリー語とはもっと近いはずだ。ベンガリー語が分かれば、オリヤー語やアッサミー語など、インド東部の言語にさぞや応用が効くことだろう。

 アッサム人の顔はインド人ほど角ばっておらず、インド人と日本人を6:4の割合で混ぜ合わせたような顔をしている。アッサムは僕にとって次の旅行の目的地の最有力候補なので、少しでもグワハティーの様子を垣間見ることができてよかった。基本的には普通のインドの街と全く変わりなさそうだ。

 当然ながら、映画館にはアッサム人らしき人がチラホラいた。あとは暇潰しに見に来たようなインド人ぐらいか。客入りはやはり10〜15%程度。僕みたいに「この言語の映画はどんな感じなんだろう?」という純粋な好奇心で来ているような映画マニアはいないみたいだ。もっとも、そういう映画マニアはスィーリー・フォートの方で見ているのかもしれない。どっちかというと、映画館としての設備はスィーリー・フォートのような多目的劇場よりも、映画館の方が断然勝っていると思うのだが。

10月5日(土) Amandla/Fancy Rains/American Chai

 今日は昼から続けて映画を3本見た。やはりインドとは言え、映画祭に出品される作品だけあって、どれも外れがなくて映画好きにはたまらない期間だ。本当はもう朝から晩まで映画館に缶詰になって全部の映画を見てみたい気分だ。

 まず12時半からチャーナキャーで南アフリカ映画「Amandla」を見た。「Amandla」とは「力」という意味だ。アパルトヘイトと革命歌をテーマにしたドキュメンタリー映画で、アパルトヘイト施行からネルソン・マンデラが大統領になるまでの流れを、当時の映像、当時を代表する革命歌と、有名な歌手や革命家のインタビューと共に紹介していた。だから特にストーリーはなかった。音楽の持つ力、音楽が南アフリカの黒人に自由をもたらした過程、音楽を忘れない限りどんなに抑圧されても人々の心に自由の火が灯っていることを実感させられた。

 ドキュメンタリー映画なので、途中退屈になる場面もあるのだが、歌や音楽がとても心に響く映画だった。黒人の群集が一斉に歌い、踊るシーンはものすごい迫力がある。やはりアフリカはインド以上に魅力に満ちた土地だと思った。

 やはり客入りはかなり少なかった。果たしてインド人は南アフリカのアパルトヘイトについてどのように思っているのだろうか?肌の色による差別はインドに根強く存在するし、かつてイギリス人によって自らが差別されていた歴史も持っている。また、インド人の中には黒人差別の感情も少しある。インドで見るアパルトヘイトの映画は、少し複雑な感情を沸きおこさせた。



 続けてチャーナキャーでスリランカ映画「Fancy Rains」を見た。こちらはインドの芸術映画に似た、田舎が舞台のほのぼのとした映画だった。

Fancy Rains
 ある日、田舎の村にサーカス団がやって来た。村の子供たちは遊び場所をサーカスに奪われて不機嫌だったが、サーカスを見て感動し、早速サーカスごっこをして遊び始める。サーカス団のピエロであるビンドゥーと、紅一点のライラは子供たちとすぐに仲良くなり、彼らにアクロバットをいろいろ教えてあげる。

 しかし華やかなサーカス団も内部では人間関係が渦巻いていた。ちょうどチーフは海外へ出張しており、今のところマネージャーがサーカスを取り仕切っていたのだが、彼はそのサーカス団の乗っ取りを仲間たちと共謀していた。その計画を遂行するためには、チーフの息のかかったビンドゥーが邪魔だった。マネージャーはビンドゥーに乗っ取りの計画を話して仲間に引き込もうとするが、ビンドゥーは承知しなかった。そればかりか、彼はそのことをチーフに告げるという。そこでマネージャーはビンドゥーが空中ブランコをしているときに、わざと失敗させて怪我をさせてしまう。

 ビンドゥーは近くの寺院に運ばれて治療を受ける。ところがビンドゥーが抜けたサーカス団は一気に人気を失ってしまう。ビンドゥーはすぐに回復するが、マネージャーは彼を解雇し、新しいピエロをコロンボから招聘することにしたのだった。

 そこでビンドゥー、ライラと子供たちは、一計を案じる。一方で駅に迎えに行くマネージャーを邪魔し、他方で駅に着いた新しいピエロをうまくコロンボへ追い返し、ビンドゥーがその新しいピエロに成り代わってサーカスに出演した。しかしマネージャーたちはそれがビンドゥーであることに気付き、彼らもまた計画を練る。ビンドゥーのかばんにわざとサーカス団の売り上げ金を隠し、彼を泥棒に仕立て上げたのだった。ビンドゥーは警察に連行されてしまう。出張から帰ってきたチーフも、ビンドゥーが盗みを働いたことに失望する。

 しかし子供たちはビンドゥーが泥棒をしたことを信じなかった。子供たちは力を合わせてマネージャーたちの企みを暴き、ビンドゥーを救い出す。チーフもビンドゥーを疑ったことを謝る。こうしてサーカス団に平和が戻ったのだった。

 とうとう3ヶ月間の公演を終えたサーカス団は次の土地へ移動することになる。ビンドゥーとライラは子供たちに「必ず戻ってくるから」と約束し、去って行った。

 いい映画だった。だが、それ以外に言いようがない。うまくまとまった映画だとは思うが、斬新さに欠けていた。村にサーカスが来て、一騒動起こって、解決して、また去って行く、というあらすじは分かりやすいと言えば分かりやすいのだが、ありきたりな感じがした。2002年製作の映画らしいが、はっきり言って5、60年ぐらい前の白黒映画のテイストだった。ハッピー・エンドで終わったところはよかったが、ビンドゥーとライラの仲とか、ビンドゥーの母親の病気とか、いろいろ解決されていない事柄も多かった。また、字幕がよくなくて、全てのセリフに字幕が入っていなかった。かなり要約されて訳されていた感じだ。

 題名の「Fancy Rains(気まぐれな雨)」の由来もよく分からなかった。特に雨が降るシーンもなかったし、雨に関する重要なトピックもなかったと思う。原題は「Arumosam Vehi」。多分英語の題名と同じような意味だろう。字幕が省略されていたことにより、それに関わるセリフか何かを見逃してしまったのだろうか?

 少し手厳しい評価だが、もともとスリランカの映画はどんな感じが見てみたいという興味本位で見た映画だったので、見れただけでも満足だ。それほど悪くはなかったし。客入りは「Amandla」より少しよかった程度。



 チャーナキャーで3:30〜6:30(5:45頃終わった)の「Fancy Rains」を見た後、すぐにオート・リクシャーでパハール・ガンジのシーラー・シネマへ。6:30からの「American Chai」には案外余裕で間に合った。芸能人並みに忙しいスケジュールだ。

 「American Chai」という題名はもしかしたら「Amrican Pie」のモジリかもしれない。先日見た「American Desi」とも酷似している。アメリカ在住インド人監督によるアメリカ映画で、いわゆるヒングリッシュ映画っぽくてなかなか楽しそうだったので、スケジュールを無理してでも見てみようと思った。

 映画が始まる前に、監督の舞台挨拶があった。僕はずっと映画祭の中でも一般用の上映会場ばかり行っていたので、こういう映画祭っぽいイベントには初めて立ち会えた。おそらくプレス向けの上映会場であるスィーリー・フォートでは、各映画の始まりにこのような挨拶が頻繁に行われているだろう。とは言え、特に大したことを言うでもなく、「皆さん、今日は来てくれてありがとうございました。楽しんでいただけると光栄です。感想をEメールで送ってくれると嬉しいです」ぐらいだった。




American Chai


American Chai
 スリールはアメリカ生まれのインド人。両親は、スリールは大学で医学を勉強していると思っていたが、実は彼は親に内緒で音楽を専攻していた。スリールはミュージシャンになることを夢見ており、自分をインドの伝統に縛りつけようとする両親の目を盗みつつ、友達とバンドを組んで音楽活動をしていた。彼はギター、キーボード、スィタールなどを弾きこなし、作詞作曲もしていた。

 しかしスリールはあるとき遅刻を原因にバンド・メンバーから外されてしまう。また、付き合っていたアメリカ人の彼女にもふられてしまう。そんなときに出会ったのが、インド人でダンサーになることを夢見るマーヤーだった。スリールは新しい友達と、インド音楽と洋楽をミックスさせた音楽を演奏する新しいバンドを組み、マーヤーとの交際も始める。新しいバンドは活動を開始し、コンペティションへの出場権も得る。そのコンペティションには、かつてスリールの所属していたバンドも出場することになっていた。

 スリールは両親に、ミュージシャンになりたいこと、医学ではなく音楽を専攻していたことを打ち明けるが、父親はそれに激怒する。スリールはコンサートに来て、自分の音楽を聴いて欲しいと言うが、父親は怒りのあまり聞く耳を持たない。しかし結局彼らは息子の演奏を聴いていた。父親は、スリールの音楽を聴いて考えを変え、息子のやりたいことをやらせるのが一番いいと悟る。両親の理解を得たスリールは、自分の夢をかなえるために旅立つのだった。

 どうしても同じくアメリカ生まれのインド人の若者を描いた「American Desi」と見比べてしまう作品だった。それほどテーマが似通っていた。アメリカに住みながらもインドの伝統を守り続ける両親、インド人としてよりも、アメリカ人としてのアイデンティティを持っている息子、そしてインド人の恋人ができるというストーリー・・・挙げて行ったらキリがない。しかし決定的に違った点があった。「American Desi」では主人公がインド人としてのアイデンティティを再確認することが最終的なテーマなのだが、「American Chai」ではインドの伝統からの解放がテーマとなっていた。つまり全く逆の結末となっていたのだ。もしこの2つの映画に甲乙つけるとしたら、僕は「American Desi」の方に軍配を上げる。総合的に「American Desi」の方がまとまりがよかったことも理由のひとつだが、やはりインド人がインド文化に帰って行く様を見る方が安心できる。「American Chai」の結末は「Bend It Like Beckham」の方に似ていた。

 最近インド人が英語で映画を作り出したということは前にも書いたが、それよりも、インド人がインドの文化を笑いのネタにし始めたということの方が重要かもしれない。笑いのネタにするということは、自身の文化に対して客観的な視点を持てるようになったということだろう。

 監督・脚本はアヌラーグ・メーヘター、主演はアーローク・メーヘター。実はこの2人は兄弟だ。スリールを演じたアーローク・メーヘターの経歴を見てみると、ニュー・ジャージー州生まれのインド人で、7歳のときにインドを旅行してインドにはまってしまい(インド人がインドにはまるというのも変な話だが)、ハルモニウム、キーボード、ヴォーカル、スィタール、ギターなどをマスターしながら音楽を勉強し続け、現在では演技も勉強している人だそうだ。つまり、けっこうスリールとキャラクターが重なっている。実際、映画中の曲のいくつかは彼が自ら作ったみたいだ。歌も当然本人が歌っているし、演奏も本物だろう。

 ところが、アーロークの音楽の才能は認めるが、演技力の方は首を傾げてしまう部分があった。感情があまり表情に出ておらず、淡々とし過ぎといか、クールにかっこつけ過ぎだった。アーロークとキャラがかぶっていたとは言え、アーローク自身の自叙伝ではないので、気取る必要はない。映画の主人公というものは、かっこ悪いところを有りのままに見せてこそ、かっこいい部分が生きてくるものだ。アーロークはとりあえず純粋にミュージシャンを目指した方がいい。

10月6日(日) Girl's Secret/The Web of Love/Devdas

 今日も映画を3本見た。まさに映画三昧の日々。

 まず朝9:30からオデオンでエジプト映画「Girl's Secret」を見た。エジプトは行ったことがあるのだが、エジプト映画を見る機会には恵まれなかった。だからエジプト映画を見るのはこれが初めてだ。タイトルが意味深だったのも、この映画を見ることに決めたひとつの理由だった。

Girl's Secret
 普通の17歳の女学生だったヤスミンが、ある日突然出産してしまう。今までヤスミンが妊娠していたことすら知らなかった両親や家族は驚き、困惑する。結婚前に出産することは、敬虔なイスラーム教徒の両親にとって耐え難いことだった。父親は誰なのか問いただすが、ヤスミンは何も言おうとしない。自殺未遂までする有様だった。

 父親は隣に住む、ヤスミンのクラスメイトの少年シェッディーだった。ヤスミンの父親はシェッディーを殺したいぐらい憎んでいたが、シェッディーとヤスミンの結婚をさせる。なぜなら結婚せずに子供を産むことはイスラーム法に反するからだ。しかし父親はヤスミンを部屋に閉じ込めて、シェッディーとは二度と会わさないようにしてしまう。その間、二人の子供は衰弱死してしまう。ヤスミンは様々な幻想の中、ベッドに横たわる。

 ヤスミンを演じた女の子はけっこうかわいくて演技力もあり、よかったのだが、相手役のシェッディーを演じた少年がなんか気に触る顔をしていて好きになれなかった。ストーリーは前半が「ヤスミンの身に何が起こったのか」という謎に焦点が当てられ、度々過去の映像が断片的に映し出される。だから割と画面に引き寄せられるものがあるのだが、ヤスミンとシェッディーの仲が明らかになってからは退屈だった。あまり意外性もなかったし、終わり方は観客を煙に巻いたような曖昧なものだった。

 僕のイメージの中で、エジプト人の顔はインド人と割と似ていることになっていたのだが、インドに1年間住み、インド人の顔をこれでもかと目に焼き付けてから、この映画でエジプト人の顔を見てみると、やはり全然違うと思った。特に目の大きさが、インド人に比べると小さい。肌の色の平均値は、インド人よりエジプト人の方が白い。仕草やジェスチャーも違う。

 カイロが舞台になっていたのかは分からないが、とにかくエジプトの都会の様子も見ることができた。・・・はっきり言ってインドよりひどい。渋滞の程度はインドと変わらないかもしれないが、走ってる自動車のボロいこと、ダサいこと・・・。エジプトに行ったときの記憶が思い起こされ、あまりカイロには住みたくないな、アラビア語じゃなくてヒンディー語勉強しててよかったな、と思ってしまった。



 3:30から同じくオデオンでスリランカ映画「The Web of Love」を見た。昨日もスリランカ映画を見たので、これが2回目のスリランカ映画鑑賞になる。しかし、この映画はあまりに退屈過ぎて、途中で居眠りまでしてしまった。時間軸がバラバラで、いろんな時間軸の映像が断片的につなぎ合わされているので、理解するのに苦労する。まだ昨日の「Fancy Rain」の方がよかった。

The Web of Love
 大学で男子学生が女子学生を刺殺するという事件が起きる。物語はその事件より以前、その事件の前後と、その事件後のストーリーが断片的に折り重なって進む。

 スレンは同じ大学のプリヤンカに恋をしていた。しかしプリヤンカはスニルという夫がいた。スニルは海外に行ってしまい、プリヤンカは寂しく暮らしていた。スニルが海外で愛人と共に住んでいるという話を聞き、失望する。そしてスレンを誘い、一夜を共にする。

 スニルはスリランカに帰ってくると、プリヤンカを連れて海外へ行こうとする。プリヤンカはスレンを避け始めるが、スレンはしつこくプリヤンカに付きまとう。スニルはスレンに会い、ストーカー行為をやめるように忠告するがスレンはやめようとしない。

 あるときスレンは暴漢に襲われて暴行を受け、片足が不自由になる。スレンは自分の人生を滅茶苦茶にしたプリヤンカを恨み、大学へ行ってプリヤンカをナイフで刺す。

 プリヤンカは病院に運ばれたが死亡し、スレンは逮捕される。そしてスレンの裁判が行われる。

 途中で眠ってしまったので、もしかしたら上のあらすじは間違っているかもしれない。一応僕の記憶の断片をつなぎ合わせて書いたが、実際はこれらの出来事が脈絡なくランダムな順序で並べられて行くので、初めは何が何だか理解できなかった。もし2回見たらけっこう分かるのかもしれないが、僕はもう2度とこの映画を見ることはないだろう。

 スリランカの芸術映画を2本見てみたが、どちらも案外期待外れだった。スリランカの自然は非常に美しいし、歴史もある国なので、もっとマシな映画を作っているかと思った。スリランカの娯楽映画はどんな感じだろうか?是非見てみたい。

 なぜかこの回、けっこう客入りがよかったのだが、それは日曜日の一番いい時間帯の映画だったからだろうか?それとも題名が妙な期待を煽ったのか?インド人が見たらさらに退屈な作品に思えただろう。



 その後もまたオデオンで、6:30からヒンディー語映画「Devdas」を見た。とは言っても、今年の7月にリリースされたシャールク・カーン、マードゥリー・ディークシト、アイシュワリヤー・ラーイ主演の「Devdas」ではない。1955年製作、ディーリープ・クマール主演の「Devdas」の方だ。今回の映画祭ではやたらと「Devdas」がクローズ・アップされており、各時代、各言語の「Devdas」が上映されている。しかし、その中でも最高傑作の誉れが高いのが、このディーリープ・クマール主演の「Devdas」なのだ。それをスクリーンで見るチャンスに恵まれたのも、全て映画祭のおかげである。やはり映画はスクリーンで見なければ意味がない。
Devdas

 ストーリーは大体2002年版と同じだし、現在取り組んでいる「Devdas」翻訳を読んでもらえば分かるので省略。

 なんと50年前の白黒映画のリバイバル上映にも関わらず、場内はほぼ満席状態。青春時代の思い出にひたるつもりっぽいお年寄りから、クラシック映画を愛するインド人、果てはどこから聞きつけたのか旅行者っぽい外国人の姿もチラホラと見受けられた。盛り上がりも上々。有名な俳優が登場すると場内から拍手が沸き起こった。

 この1955年版「Devdas」を見ると、2002年版「Devdas」がいかに原作を現代風にアレンジしているかが明らかになる。2002年版はロンドン留学からデーヴダースが田舎に帰ってくるところから始まるが、1955年版は原作に忠実に、デーヴダースとパールヴァティーの少年時代の描写から始まる。デーヴダースの留学先もロンドンなどではなく、原作通りカルカッタである。まるで小説を忠実になぞっていくような映像化の仕方で、ちょうど原作を翻訳中の僕にとって、ひとつひとつのシーンが心の奥まで染み入った。特にデーヴダースたちの少年時代の映像は、ずっと涙ぐみながら見ていた。まるで自分の子供の頃のヴィデオを見ているかのように感じた。

 シャールク・カーンが演じるデーヴダースから「Devdas」の世界に入ってしまったので、最初ディーリープ・クマールの演じるデーヴダースに違和感を感じた。パールヴァティーもアイシュワリヤー・ラーイのイメージが強かったし、チャンドラムキーもマードゥリー・ディークシトのイメージで固定されていた。ディーリープ・クマールの演技は割と抑え気味で、けっこうモゴモゴ口調なので、彼がそれほど素晴らしいとは思わなかったし、デーヴダースを演じるには老けた顔をしすぎていると思った。だが、最後の方では許せるようになっていた。要は慣れだろう。

 最後、パールヴァティーは瀕死のデーヴダースに駆け寄るシーンがある。2002年版では門が閉じられてしまい、パールヴァティーはデーヴダースに触れることができずに終わる。このエンディングはすこぶる評判が悪い。1955年版はどうかと思い、固唾を呑んで最後のシーンを見守っていたが、やはり門が閉まってしまい、パールヴァティーはデーヴダースを見ることも適わなかった。僕は「Devdas」は素晴らしい小説だと思っているが、最後だけが気に入らない。作者には、せめて指先だけでも、パールヴァティーが、死ぬ直前のデーヴダースに触ることができるようにしてもらいたかった。なぜわざわざこんな悲しいラストにするのだろうか?ちょっと変えれば悲しいけどもハッピー・エンドにできるのに・・・。

10月7日(月) Hanuman Junction

 今日からナヴァラートリーが始まった。ナヴァラートリーとは「9夜」という意味で、ダシャヘラー(今年は15日)までの9日間のことを言う。この期間、多くのヒンドゥー教徒は断食をし、果物と牛乳だけ食べて過ごす。ちょうど季節の変わり目なので、過食による病気を抑えるという科学的理由もあるようだ。日本では、規則正しく食事をすることが健康の基本だと考えられているが、インドでは過食が体調不良の原因とされることが多く、時々断食して胃を休めるべきだという考えが一般的である。

 この9という数字は9つの惑星と関係があるとか、ドゥルガーとマヒシャースラの戦いが9日9晩続いたからとか、いくつかの説がある。最近は映画祭のことばかりに気が向いてしまっていたが、いつの間にか街中が祭りっぽい雰囲気になり、あちこちにドゥルガーを祀った祠が作られていた。僕も自然とワクワクしてしまう。



 6時半からテルグ語映画「Hanuman Junction」を見た。が、反則技を喰らってしまった。なんと英語字幕が付いていなかったのだ。インド国際映画祭の注意書きには「All Films in English or Subtitled in English」と明記されているにも関わらず、いきなり字幕なしで上映するとは・・・。インド人はこれだからすごい・・・。もっとも、会場にはテルグ語の分かるテルグ人らしき人たちが数人来ていただけだったが。一瞬帰ろうかと思ったが、お金を払ってしまったし、仕方がないので字幕なしで最後まで見た。本当は途中から字幕が入り始めるのを期待していたのだが(「あ、ごめん、忘れてた」みたいなノリで)、容赦なく一切字幕なしだった。

 普通の娯楽インド映画だったので、字幕なしでも理解できるかと思ったが、ちょっとストーリーがこんがらがっていて筋が掴めなかった。だからあらすじや評価は書かない。僕はテルグ語映画を見たのは初めてだし、テルグ語映画界のスター事情も知らないのだが、雰囲気はタミル語映画と似ていた。コメディー・シーンは言葉が分からなくても爆笑できた。

 しかしおかげで全くチンプンカンプンの言語の映画を見るということがどういうことなのかを思い出すことができた。僕も初めてインドに来てヒンディー語映画を見たときはちょうどこんな感じだった。ストーリーの大筋は何となく分かるのだが、細かいところは分からず、表情や音楽から登場人物の感情やストーリーの流れを読み取るしかない。後はダンス・シーンやアクション・シーンを楽しむだけだ。僕はもうおかげでヒンディー語がけっこう分かるようになったので、既にヒンディー語映画に対して、そういう純粋な見方をすることができなくなっている。でも、インド映画のいいところのひとつは、言葉が分からなくても大体ストーリーの流れが掴めて、例え筋を見失ってもダンス・シーンくらいは楽しむことができることだろう。

10月8日(火) Choice

 昨日の夜からインターネットがつながらなくなった。そして今日の朝、依然としてインターネットがつながらないのに加えて、携帯電話までつながらなくなっていることに気が付いた。まるで通信の孤島に取り残されたみたいだ。携帯電話で電話を掛けようとすると、オペレーターの声が流れてきて、「あなたの電話番号はインド政府によって禁止されました。最寄りのエアテルのオフィスに申請書を提出して下さい。」というようなことを言われる。しかし既に2週間前に申請書は出したはずだ。いったいどうなっているのか?インターネットまで接続不可になってしまったので、僕はインド政府に対して何か反逆でも企てたかと不安になった。北朝鮮映画を見たのがいけなかったのだろうか?

 とにかく何とかしなければいけないので、朝早速ユースフ・サラーイのエアテルのオフィスに殴りこんで、どうなってるのか聞いてみた。しかし「まだ担当者が来ていない」ということで取り合ってもらえなかった。僕は自分の電話番号やSIM番号を紙に書いて、担当者のデスクの上に「僕の携帯を使えるようにしろ」と書き置きを残して学校へ行った。

 幸い学校から帰ってきた頃にはインターネットの接続は回復していた。しかし携帯電話は使えないままだった。友達に僕のモバイルに電話してもらったら、「この電話番号は存在しません」という状態。存在しないとは何事だ、と怒り心頭に達し、授業後再びエアテルのオフィスへ。担当者はいたが、「もう(申請書を)出したから今日の夕方には使えるようになる」との返事。ということは今まで出していなかったのか?そういう疑問も浮かんできたが、「夕方には使えるようになる」という言葉を真に受けて帰ってしまった。しかし結局今日は1日中僕のモバイルは使用不可だった。どうやら調べてみると一昨日ぐらいから通じなくなっていたみたいだ。モバイルを買ってからちょうど2週間。もしかしてSIMカードを使用し始めてから2週間以内に申請書をインド政府に提出しないと、接続を停止されるのかもしれない。既にけっこういろんな人からかかってくるようになっていたので、多くの人々に迷惑をかけていなければいいが・・・。



 今日はインド国際映画祭の映画を一本見た。中国映画「Choice」である。インド国際映画祭は、スケジュールが直前になるまで発表されないぐらいの手際のまずさなので、映画の紹介なんてほとんどない。一応映画祭のウェブサイトはあるのだが、主要な作品しか紹介が載っていない。この「Choice」についても全く詳細が分からず、ただ中国映画という前知識のみで見に行った。事前にネットでこの映画を調べても、題名がありふれた単語なので検索するのは不可能に近かった。しかし、結果的に見てよかった映画の部類に入ったのでよかった。まさに「Best Choice」。重要な決断を迫られた2組のカップルが、選んだ選択肢によって、どういう未来が展開されるかをいくつか見せるタイプの映画だった。一昔前に流行った手法だ。

Choice
 固有名詞は忘れたので、アルファベットで書いていく。

 A男とB子は離婚して3年になる元夫婦だった。2人の間には1人の娘(C子)がいた。また、A男にはD子というガールフレンドがおり、B子にもE男というボーイフレンドがいた。

 ある日C子が難病を患っていることが発覚する。その治療には、同じ遺伝子を持つ子供が必要だった。つまり、A男とB子の別の子供が必要だった。中国では未婚の男女が子供を作ることは違法らしく、また人口抑制のため子供を3人作れないようになっているらしい。よって、A男、B子、D子、E男の4人は重要な選択を迫られる。

●チョイス1

 A男とB子が再婚し、子供を作る。そして子供が生まれた後に離婚し、お互いのパートナーと結婚する。しかしこの選択は、D子とE男の嫉妬を巻き起こし、失敗に終わる。

●チョイス2

 A男とD子が結婚し、B子とE男も結婚し、A男とB子の人工授精により子供を作る。人工授精は成功し、B子は妊娠するが、C子はその子供が生まれるのを待たずして死んでしまう。

●チョイス3

 C子が自ら死を選び、A男とD子、B子とE男を結びつける。しかしこの方法をとったら、なぜかC子は死なずに済み、4人も幸せになる。

 「他人の命を救うために他の誰かが傷つく必要はあるのか。自分の感情を犠牲にしてまで他人の命を救うべきなのか。」これがテーマになっていた。子供の命を救うために4人はいろいろな方法を考えるのだが、結局幼いC子が自ら死を選ぶことによって、全ては解決されるという、斬新な終わり方だった。C子の無邪気さ、かわいさと、彼女に対する4人の愛情、そしてカップル同士の複雑な関係がうまく描写されていて唸ってしまった。

 実は最後の選択で、C子が死なずに済んだかどうかはよく分からない。C子が書いた手紙により、4人はC子が死を覚悟したことを知る。そしてA男とD子、B子とE男は抱き合う。その後、チラッとC子が元気な姿で、弟(妹?)と共にいる姿が映し出される。だからおそらくC子は何らかの方法で助かったのだと思う。そう信じたい。その最後の一瞬の映像でそう信じさせてくれたからこそ、僕は大きな満足感と共に映画館を出ることができた。中国映画、なかなかやる。

10月9日(水) Mitr - My Friend

 突然明日から休日となった。10日〜15日まで6日間の休みである。今日の昼頃突然発表されたので驚いてしまった。こういうことはもっと早くに告知するべきだ。しかし休みになってくれたおかげで、急に心は旅行モードになった。それからの授業は上の空、頭の中で旅行プランがグルグル回り始めた。多分今のところラクナウーを中心にウッタル・プラデーシュ州中部旅行をする予定。ラクナウー、アヨーディヤー、カーンプル、イラーハーバードあたりを狙っている。



 今日見た映画はインド映画なのに言語は英語という、いわゆるヒングリッシュ映画「Mitr - My Friend」である。以前PVRで上映されていたが、そのときは僕はあまり英語のインド映画に注目しておらず、見逃してしまった。しかしインド国際映画祭は僕にその映画を見るチャンスを与えてくれたのだった。3:30からオデオンで見た。

 ヒングリッシュ映画とは言いながら、実はタミル語の方が多く使われていた。主人公はタミル人家族という設定だからだ。アメリカ英語とインド英語の合間に時々タミル語が混じり、ほんの少しだけヒンディー語も出てくる。もちろん英語以外の言語が出て来たときには字幕が付く。

 監督はレーヴァティー。もともと南インド映画界で活躍した女優で、今回が監督初挑戦。主演はショーバナー、ナシール・アブドゥッラー、プリーティ・ヴィッサー。




Mitr - My Friend


Mitr - My Friend
 インドの田舎生まれのラクシュミー(ショーバナー)はアメリカ在住のインド人プリトヴィー(ナシール・アブドゥッラー)と結婚し、アメリカへ移住する。二人の間にはディヴィヤー(プリーティ・ヴィッサー)という娘が生まれる。

 ディヴィヤーは高校生になった。彼女はインド人としてよりも、アメリカ人としてのアイデンティティーの方が強かった。ボーイフレンドもいたし、女子サッカー・チームの選手だった。母親のラクシュミーは、ディヴィヤーに口うるさく小言を言うので、娘との関係はよくなかった。しかも夫のプリトヴィーは仕事中心の人間で、家庭と妻をあまり顧みていなかった。ディヴィヤーが、大学に進学せず、働きたいと言い出したことが原因で、ラクシュミーはディヴィヤーとも、プリトヴィーとも仲違いして孤立してしまう。その内ディヴィヤーは家を飛び出し、プリトヴィーも遠くへ長期出張へ行ってしまう。

 ラクシュミーの唯一の心の支えはインターネットだった。ラクシュミーは留守中、インターネットでチャットをしている内に、相談相手を見つける。その人は「Mitr」というIDで、タミル語を理解していた。彼女はその見知らぬチャット相手のMitrといろんなことについて話をする。次第に自信を取り戻したラクシュミーは、暇な時間を見つけてワークショップやエアロビクスに通い始め、生きがいを見つけて行く。

 やがてディヴィヤーとも仲直りしたラクシュミーは、遂にMitrと実際に会う決意をする。しかしそこに現れたのはプリトヴィーだった。実はMitrの正体はプリトヴィーで、ラクシュミーは実生活では喧嘩ばかりしていた夫とチャットで心を開いて話をしていたのだった。最初は困惑する2人だったが、最後にはお互いの愛を確かめ合って抱き合う。

 もはやヒングリッシュ映画の定石と言っていい、「海外在住インド人家族、両親はインドの伝統を保持、子供はそれを嫌がる」という構図だった。僕はそのヒングリッシュ映画を3つに分類した。ひとつは「American Desi」のように、最後でインド文化に回帰して行くパターン、ひとつは「Bend It Like Beckham」「American Chai」のように、最後でインドの保守的文化から解放されるパターン、もうひとつは「Monsoon Wedding」「Everybody Says I'm Fine!」のように、そのどちらにも当てはまらない映画である。しかし「Mitr - My Friend」は1番目のインド文化への回帰と、2番目のインド文化からの解放、両方のテーマを併せもつ映画のように感じた。それはおそらく、主人公はNRI2世の娘ディヴィヤーではなく、NRI1世の母親ラクシュミーだったからだろう。

 ラクシュミーは典型的なインド人の主婦だったのだが、チャットを通して次第に家事以外の生きがいを見つけることに挑戦して行く。その一方で、関係が冷え切ってしまった夫と最後によりを戻す。娯楽映画でも芸術映画でも、インド映画を見ている限り、インド人にとって結婚は絶対であり、離婚はほとんど選択肢にないように思える。終わり方がいかにもインドらしくてよかった。

 女性監督なので、やはり女性から見た男性像が鋭く描かれていた。ラクシュミーはせっかく夕食を作って待っていたのに、プリトヴィーから電話があり、「今日は夕食いらない」。ラクシュミーは作った夕食を流しに捨てる。プリトヴィーは仕事でほとんど家にいないくせに、家庭内で問題が起きると責任を全てラクシュミーに押し付ける。まさに女性からの視点だろう。男の僕まで、仕事ばかりして家庭を顧みないプリトヴィーに憎しみを感じてしまった。また、いつも小言ばかり言うラクシュミーが、急に大人しくなって何も言わなくなり、態度も冷たくなったのを感じたときの、プリトヴィーの「何が起こったんだ?」というマヌケな表情も鋭いと思った。妻から口うるさくアレコレ言われている内が華で、妻から何も言われなくなったら夫婦仲は危険信号だろう。そうなったときの夫の表情は案外情けないものだ。

 どうしても比較してしまうのが、Eメールでの恋愛を描いたハリウッド映画「You Got Mail」だろう。もっとも、「Mitr - My Friend」はヤフー・チャットでのやり取りだったが、まあ同じようなものだろう。「You Got Mail」では、実生活では仲違いしている2人の男女が、Eメールでは心を開いて会話ができるという設定、「Mitr - My Friend」ではそれが夫婦になっただけだ。もしこの2つの映画に白黒つけるとしたら、圧倒的に「Mitr - My Friend」だと思う。「You Got Mail」ではインターネットが現代風の恋愛を演出していたに過ぎないが、「Mitr - My Friend」はインターネットだけでなく、他にも多くのことがテーマになっており、インド映画のエッセンスも微妙に入っているため、見ていて飽きない。また、チャット相手が夫だったという事実をストーリーの結末に持って行ってどんでん返しを計るのではなく、終盤に差し掛かったところでさりげなくネタばらしをして、観客の気持ちを安心させ、あとは結末までスムーズに流して行く手法もインド的で見事だった。もしどんでん返しを計ろうとしたら、多分アッと驚く人は多くなく、「予想通り・・・」と白ける人が大部分を占めてしまっただろう。インド映画で重要なのは、観客を最後で驚かせることではなく、映画館中の観客の気持ちをひとつの流れに乗せて、観客が望む方向へうまく持って行くことだと思う。



 昨日から接続が止められていた僕の携帯電話。今日も夕方エアテルのオフィスへ行って文句を言った。そうしたら、今日の夜になってやっと接続が回復した。原因はよく分からない。多分エアテルのオフィサーが僕の申請書を大元へ送付していなかったことによる接続停止だと思われる。どうやら申請書を提出しないと、2週間でモバイルの電話番号は止められるらしい。別に今まで携帯電話を持っていなかったので(日本ではPHSを持っていたが)、携帯のない生活というのには慣れていたつもりだったが、いざ一度携帯電話という便利な通信手段を味わってしまい、その後それが急に失われると、無性に不安になるというか、怒りが込み上げてくるというか、その間僕に電話をかけてくれた人に申し訳ないというか、とにかく自分が異常な状態に置かれた気分になる。いずれにせよ、携帯電話が再び使えるようになってよかった。

10月10日(木) Falling Stars in the Fall/北村真展

 朝からサロージニー・ナガルにある鉄道予約オフィスへ行き、チケットを予約した。第一希望は今日の午後10時発の4230 New Delhi Lucknow Mailだったが、やはりインド中がダシャヘラー休みのため、ここ数日間ほとんどの列車のチケットはずっと満席状態だった。しかし幸いシャターブディー・エクスプレスやラージダーニー・エクスプレスなどの高級列車は席が空いていた。どうもインド人にこれらの高級列車はあまり人気がないみたいだ。というか、庶民には手の出ない料金なのだろう。そこで明日午前6:20発の2004 New Delhi Lucknow Shatabdi Expressを購入、併せて15日の午後6:45発の夜行列車2559 Shiv Ganga Expressも買った。デリーからラクナウーまでのシャターブディー・エクスプレスの値段が745ルピー、ヴァーラーナスィーからデリーまでの寝台席の値段が313ルピー。これだけでもシャターブディー・エクスプレスがいかに高価か分かる。

 時刻表によると、ラクナウーには明日の昼12:20に着く。この102時間25分の間、ラクナウー、アヨーディヤー、(不可能だと思うがカーンプル)、イラーハーバードを見てまわり、ヴァーラーナスィーでダシャヘラーを迎える予定。いつものように、かなりハイペースの旅行だ。

 ラクナウーに行くと言うと、なぜかインド人は異口同音に「クルターを買って来い」と言う。ラクナウーのクルターはかなり有名らしい。また、カーンプルのサンダルも有名らしい。各地に特産品があるというのは当然と言えば当然かもしれないが、商品が均質化・普遍化しつつある現代において、中世の雰囲気を未だに残しているようでワクワクする。まるで交易商人になって街から街へ渡り歩いてるような気分だ。荷物が増えるのが嫌なので、滅多なことがない限り買い物はしないと思うが・・・はてさて僕のこの鉄の財布紐を緩ませるような珍品に出会うことができるだろうか?

 今回行く予定の都市は全てウッタル・プラデーシュ州(UP州)に属している。特にラクナウーはUP州の州都である。ウッタル・プラデーシュ州はインドで最大の人口を擁する州であり、インド文化の押しも押されぬ中心地のひとつでもあるのだが、今まで僕は隅っこの方のアーグラー、マトゥラー、ヴァーラーナスィーぐらいしか行ったことがなかった。今回の旅行はまさにUP州の中央部を攻める。ずばり旅行のテーマは「ウピウピUP大作戦」、というのは嘘で、「アワディー文化とナワーブ文化を訪ねて」かな。ちょうど授業でアワディー語(ラクナウーを中心に話されているヒンディー語の方言)の詩を勉強したりしているので、生のアワディー語を聞いてみたいと思っている(今でも話されているか疑問だが)。また、アワディー地方は「ラーマーヤナ」のホーム・グラウンドでもある。ラーマーヤナ・ファンの僕のとっては必ず訪れなければならない土地なのだ。と同時に、ムガル朝時代はナワーブと呼ばれたイスラーム教徒の太守が統治していた場所で、イスラーム色も非常に強い地域だ。



 今日はインド国際映画祭最終日。12時半からオデオンで上映された中国映画「Falling Stars in the Fall」を見た。

Falling Stars in the Fall
 アイシンは探偵になることを夢見ながら、青島駅でしがない鉄道警備員をしている若者だった。彼はふとした拍子にチェンヤオという女性と出会う。彼女はギャンブルに明け暮れる母親と義父から逃げて青島に来て、毎日仕事に明け暮れて暮らしていた。彼女の夢はお金を貯めて大学へ行って小さな店を開くことだった。彼女は実父の「流れ星を見ると幸せになれる」という言葉を信じ、流れ星を見れば全てがうまくいくと思っていた。アイシンとチェンヤオは度々会うごとに親しくなって行き、次第に恋心を抱くようになる。

 しかしあるときチェンヤオの母親が脳の癌になってしまう。チェンヤオは母親の癌を直すためにさらに仕事の量を増やす。アイシンの援助によって店を開き、その上、友達に連れられてチェンヤオはナイトクラブで働くことに挑戦したが、彼女には合っていなかった。チェンヤオがナイトクラブで働いていることを知ったアイシンは、絶望して彼女と絶交する。

 しかしアイシンはチェンヤオの母親が癌で入院しており、お金が必要である事情を知る。アイシンはチェンヤオに謝るが、彼女は許さない。その内チェンヤオの母親は死んでしまう。失望したチェンヤオは店をたたみ、青島を去ろうとする。

 そのときアイシンはちょうどテレビのニュースで、今日流星群を見ることができることを知る。アイシンはチェンヤオを連れて広場へ出て、「僕と結婚してくれ」とプロポーズをするが、チェンヤオは去って行ってしまう。

 次の日の青島駅。チェンヤオは荷支度をしてトボトボと列車に乗ろうとしていた。ふと見ると駅の掲示板には夜空いっぱいに流れ落ちる流れ星の絵が描かれていた。もちろんアイシンが描いたものである。チェンヤオは感動するものの、そのまま去って行ってしまう。また来年の大学受験までに帰ってくることを約束して・・・。

 日本のテレビドラマのようなノリの映画だった。題名も「秋の流れ星」という、なんとなくロマンチックなような、文学的なような、アヤフヤな感じだった。あまりに展開がドラマチック過ぎて感情移入ができなかった。インド映画の過剰なドラマチックさには無条件で引き込まれてしまうのだが、他の国の映画ではどうも駄目だ。なぜだろう?これもインド映画のマインド・コントロールか?なぜか映画が終わった後、一部で拍手が沸き起こったが、僕は拍手するに値しない凡庸な映画に思えた。

 10日間続いたインド国際映画祭も今日で終わり。この10日間で僕は合計14本の映画を見た。その中でも特に印象に残ったのは、ダントツで北朝鮮映画「Racing to Crown」。インドにいたからこそ見ることのできた映画だろう。北朝鮮にいたとしても見れていたかもしれないけど。インド映画の中ではアッサミー語映画「Konikar Ramdhenu」がよかった。また、ヒングリッシュ映画「Mitr - My Friend」もいい映画だった。個人的にはいろんな収穫のあった映画祭だった。

 ところが、やはり一般のデリー市民には、この映画祭はすこぶる評判が悪いらしい。盛り上がるというよりも迷惑を被っているそうだ。映画祭のせいで映画館が占領されるし、上映される映画はほとんどインド人好みの映画ではないし、そもそも映画祭の主催者は映画祭を盛り上げる努力を怠っているとしか思えない。はっきり言ってインドで国際映画祭を行う意味はあるのだろうか?いったい誰のために映画祭を行っているのだろうか?いろいろ疑問の残る映画祭だった。



 現在ラリト・カラー・アカデミーで日本人画家、北村真の特別個展が開かれている。日印国交樹立50周年記念の一環として催されたイベントだ。10月14日までだったので、UP旅行へ行く前に見ておこうと思い、映画を見た後行ってみた。

 北村真という人物がどれほど偉大な人か、実は僕は全く知らない。絵を描くのは好きだが、あまり他人の絵に興味はないので、画家の名前とか全然知らない。インドを題材に絵を描いているということで、興味が沸いて見に来たのだった。

 会場に入るとまず盆栽の展示がしてあってビックリした。そして階段を上って行ってみると、いくつかカラフルな絵が展示してあった。インドの人物や風景をパステル調の絵の具で描いており、しかもインド神話が題材になっているような感じだったので、北村真もなかなかやるな、と思っていた。ところがよく見てみるとそれはインド人現代画家の作品で、北村真の作品は隣だった。改めて気を取り直し、そちらの方を見てみる・・・が、なんだこの暗さは・・・。インド人の絵ばかりなのだが、なぜかみんな怖い顔をしており、こちらを睨んだり、あさっての方向を悲しげに見つめたりしている。画面の中には黒いブルカーをかぶった女の人や、カラスが飛び交い、不吉な様相を醸し出している。こんな絵を部屋に飾ったら、絶対に呪われそうだ。絵もなんとなく漫画っぽくて僕は好きになれなかった。どちらかというと、オマケ的に展示してあったインド各地の遺跡の絵の方がほのぼのとしており、ホッとできてよかった。僕も同じくインド各地の建築物の絵を描いているので、ライバルの絵を偵察したような気分だった。

10月11日(金) ラクナウー

 いかにデリーでも、一度定住してしまうと腰が重くなり、旅行に出掛けるのにエネルギーが必要になる。実際、7月のラダック旅行から帰ってきて以来、2ヶ月以上デリーの外に出ていなかった。旅行に行きたいとは思いながらも、きっかけが掴めずにズルズルと日にちだけが過ぎて行ってしまった。今回の旅行のエネルギー源になったのは突然降って沸いた6連休だった。やはり連休が目の前にドンと置かれると、自然と身体が旅行モードになる。

 ラクナウー行きのシャターブディー・エクスプレスは、少し誇大表現するならば、日本の新幹線並みの設備だった。椅子は清潔だし、荷棚もガラス張りでオシャレだし、乗務員もバーテンダーみたいなユニフォームを着ている。トイレも針小棒大に言うならば、飛行機の中のトイレみたいな感じだった。デリーからラクナウーに着くまでに、1リットルのミネラル・ウォーター、おしぼり、新聞、軽食、チャーイ、フルーツ・ジュース、朝食、チャーイなどのサービスがあった。午前中の便だったので、食事の内容は少し貧相だった。

 ラクナウー・ジャンクション駅には予定より20分ほど遅れて到着した。シャターブディーにしては遅れ過ぎだ。降りると早速オート・ワーラーの親分みたいなのが近付いてきて「リクシャー?」と聞いてくる。僕はもう既に達観してしまったので、こういう客引きがいると妙に安心するものだ。歓迎されてる気分になる。客引きが全くいないと逆に寂しいし不安になる。果たしてこの街は僕のような旅行者を受け入れてくれるのか・・・、と。

 ラクナウーは「地球の歩き方」に載っていないため、日本人旅行者の数はあまり多くなさそうだ。しかし英語版旅行ガイドの大御所「ロンリー・プラネット」にはちゃんと掲載されているので、外国人旅行者がほとんど足を踏み入れない場所でもなさそうだ。つまりちょうどいいくらいの外国人受け入れレベルにあると推測していた。駅で声を掛けて来た人も、「外国人旅行者からぼったくってやろう」という思考回路ではなく、「とにかく客を見つけよう」という感じだったので、安心できた。というか、僕はヒンディー語で受け答えしていたので、あまり外国人には見られなかったのだろう。

 オート・ワーラーの親分に付いて行くと、その子分らしき人がやって来た。親分は子分に「こいつを連れてけ」と言った。僕はその子分のオート・リクシャーに乗って、ラクナウーで最も大きな繁華街であるハズラト・ガンジへ向かった。言い値は45ルピー。高いとは思ったが、ラクナウーは初めてだし、僕もデリーでオートの体感料金は身に付いているので、後からどうにでも文句を言える。とりあえずそれに乗って、「ロンリー・プラネット」のラクナウーのページの、一番始めに紹介されている、チャウドリー・ロッジという安いホテルへ向かった。

 しかし後で大体地理感が掴めてから分かったことだが、子分はだいぶ遠回りしてハズラト・ガンジまで行った。しかもチャウドリー・ロッジを知らなかったので、あさっての方向を、誰に道を尋ねるでもなく突き進んだ。さんざん迷った挙句、やっとホテルは見つけたが、子分は70ルピーだか80ルピーだか要求して来る。普通に考えたら、道を知らないくせに安請け合いして無闇にオートを走らせた方が悪い。50ルピーだけ渡してとっとと逃げた。50ルピーでも激高だが・・・。後から知ったところによると、サイクル・リクシャーなら駅から5ルピーか10ルピーで来れたみたいだ。まあまだ初めだからこんなもんか。

 それにしても気になるのは、僕の「Choudhary」の発音があまり通じないことだ。ヒンディー語の文字に忠実に発音すると「チャォダリー」みたいな感じだと思うのだが、もしかしてアクセントがいけないかもしれない。僕は「チャ」にアクセントを置いて発音していたのだが、インド人の発音を聞いてみると「ダ」にアクセントを置くべきかもしれない。

 チャウドリー・ロッジはシングル・ルーム、共同バス・トイレで120ルピーだった。部屋にPCの電源をつなぐためのコンセントもあったし、オーナーもフレンドリーだったのでここに泊まることに決定。ひと息ついた後、早速ラクナウー探検に出発。

 ラクナウーはウッタル・プラデーシュ州の州都である。英語で書くと「Lucknow」。「Luck(幸運)」が「Now(今)」来るみたいで縁起が良さそうだ。人口は200万人ほど。しかしデリーに住み慣れてしまうと、もはや他の都市はどれだけ大きくてもほぼ田舎に見えてしまう。ちょうどチャウドリー・ロッジがある周辺の地域、ハズラト・ガンジはさすがに栄えているが、そこから一歩出てしまうともはや何の変哲もない田舎だ。だが、ハズラト・ガンジにバリスタがあったのには少し驚き。ドミノ・ピザ、バスキン・ロビンスなども発見。まあ健闘している方だと思う。

 今日はラクナウー最大の見所、バラー・イマーム・バーラーを見に行った。アワド藩王国のナワーブ(太守)、アーサーフッダウラーが1784年に建てた巨大な宮殿である。ラクナウーの旧市街に位置していた。

 さすがにインドもだいぶ旅行して来て、イスラーム建築もけっこう目に焼き付けて来た積もりだった。また、「地球の歩き方」に載っていないという理由だけで、「どっちにしろ、そこまですごくはないだろう」という先入観も少し持っていた。ところが、バラー・イマーム・バーラーにはただただ圧倒された。まず門に描かれている魚の彫刻にビックリ。偶像崇拝禁止のイスラーム教の建築物に、こんなものを入れちゃっていいのだろうか?門をくぐるとそこには円形の庭があり、その奥にさらに門が。奥の門をくぐると正面にバラー・イマーム・バーラーの威風堂々たる肢体が横たわっていた。右手には中規模のモスクもあった。




バラー・イマーム・バーラーの門の魚


バラー・イマーム・バーラー


 バラー・イマーム・バーラーの宮殿内に入るのには10ルピーのチケットが必要だった。やはりラクナウーは外国人旅行者にとってメジャーな観光地ではないらしく、ここの入場料に外国人料金はなかった。中に入ろうとするとガイドが声を掛けてくる。ガイド料は105ルピーだと言う。最初は断ったが、話を聞いている内に面白そうになって来たので、ガイドを頼むことにする。結果的にガイドを頼んで得した。というか、バラー・イマーム・バーラーはガイドに説明してもらわなければ行っても意味がない、と言って過言ではなかった。

 まずは宮殿のホールを案内してくれた。宮殿の内装は中国様式、ペルシア様式、インド様式が並存しており、ナワーブの悪趣味な美意識が伺われた。宮殿のホールは、巨大なのは巨大なのだが、ラージャスターン州のマハーラージャーの宮殿なんかと比べると派手さが足らない。だが、バラー・イマーム・バーラーのすごさはこの次にあった。

 一旦外に出ると、ガイドは僕を端の方の、裏口みたいな入り口の方へ案内してくれた。そこの看板には英語で「Labyrinth(迷宮)」、ヒンディー語で「ブールブライヤーン」と書かれていた。その裏口から急な階段を上ると、宮殿の2〜5階に行くことができる。だが、「迷宮」の言葉通り、宮殿の2階以上は迷路のように入り組んでいた。通路が入り組んでいると言うよりも、階段が入り組んでいるのだ。上の階に上がるのに、下に降りなければならず、下に降りるためには上に上がらなくてはならないという、非常に凝った迷路になっていた。もちろん防衛のためだ。ガイドがいなかったら絶対に迷ってしまっただろう。また、宮殿は音の通りが非常によく、これもセキュリティーのために役立っていたと思われる。屋上に出るとラクナウーの旧市街を一望に出来た。

 バラー・イマーム・バーラーの屋上から、隣にあったモスクも見下ろすことができた。スケッチ欲が沸き起こってきたので、そこでガイドの人とは別れて一人スケッチを始めた。2時間ほどで完成。久しぶりのスケッチにしては傑作に仕上がった。




バラー・イマーム・バーラーから
隣のモスクを眺める


 バラー・イマーム・バーラーの隣には、ルーミー・ゲートという代わった形の門があった。イスタンブールにあった門のレプリカらしい。「ルーミー」とは「ローマの」という意味。このルーミー・ゲートには無料で上がることができたので、もちろんてっぺんまで上ってみた。すると今度はバラー・イマーム・バーラーの宮殿を一望できた。この風景もスケッチすると傑作に仕上がるだろう。しかしもうそのときは日没が迫っていたので、写真だけ撮って下に降りた。




ルーミー・ゲート
変わった形のゲートだ


 はっきり言って、ラクナウーは超穴場である。バラー・イマーム・バーラーは絶対に世界遺産級の遺跡だと思う。「地球の歩き方」にラクナウーの項がないのが不思議なくらいだ。インド人観光客の数は元々多いみたいで、リクシャー・ワーラーや観光地周辺にたむろってる人たちはけっこうすれていた。だが外国人観光客の姿は全く見なかったので、多分「ロンリー・プラネット」に掲載されているとはいえ、外国人にとっては依然としてマイナーな観光地なのだろう。そして有名になった途端、外国人料金が設定されるのだろう・・・。なんか複雑な気分だ。バラー・イマーム・バーラーの周辺にもいくつか巨大な遺跡が点在しており、まるでデリーのような遺跡都市的景観である。明日もさらにラクナウー観光をするつもりだ。実は今のところけっこうラクナウーが気に入っている。

10月12日(土) ラクナウー/ファイザーバード

 昨日行ったのはバラー・イマーム・バーラー(大きな聖人廟)。今日は朝からそのすぐ近くにあるチョーター・イマーム・バーラー(小さな聖人廟)へ行った。

 チョーター・イマーム・バーラーは1837年ムハンマド・アリー・シャーによって建てられた霊廟である。入場料は1ルピー。だが、バラー・イマーム・バーラーに比べると全く見劣りのしてしまう粗末な建造物だった。派手さはあった。黄金のドームを頂き、内部には世界各国から輸入したシャンデリアが天井からぶらさがっていてきれいだった。日本から購入したシャンデリアもあった(日本ってシャンデリア作ってたのか?)。だが、成金趣味っぽい贅沢さを感じさせ、あまり気持ちのいいものではなかった。しかも、いつかの洪水によって内部に置いてあった各種お宝が全てダメージを受けてしまっており、虚しい気持ちになった。




チョーター・イマーム・バーラー


 チョーター・イマーム・バーラーの庭には、タージ・マハルの偽物みたいな建築物が建っていた。ムハンマド・アリー・シャーの娘の霊廟らしい。タージ・マハルの偽物というと、アーマダーバードのビービー・カ・マクバラーが有名だが、こんなところにもあったとは。もちろん大理石で作ってあるわけではないので、非常に汚ならしいタージ・マハルになっていた。




偽タージ発見!


 チョーター・イマーム・バーラーよりさらに奥の方に、ジャーマー・マスジッド(この名前のモスクはインドにたくさんあるが)がある。これもムハンマド・アリー・シャーによって造られた建造物だ。こちらはけっこう変わったデザインのモスクでかっこよかった。だが、モスクの正面に大きな木が育ってしまっていて、正面から見ることができなかった。モスクは真正面から見てその左右対称性を味わうのが楽しいと思うのだが、このモスクはそういう楽しみ方をさせてもらえなかった。ムスリム以外は入場禁止だったので、中に入れてもらえなかった。




ジャーマー・マスジッド


 本当は今日、ジャーマー・マスジッドのスケッチを描く予定だったのだが、いいアングルで見ることができなかったのでやめた。そこで、昨日も上ったルーミー・ゲートへ行き、上からバラー・イマーム・バーラーを見下ろして、そのスケッチを描くことにした。2時間ほどで完成。

 最後にレジデンシーと呼ばれる遺跡へ行った。ここはインド史はおろか世界史にも名を残す事件、1857年のセポイの反乱の舞台となった場所だ。かつてイギリス人の居住区だった場所だが、争乱によってそれらはほとんど破壊され尽くしており、今ではラクナウーの若者たちのデート・スポットと化していた。ここはなぜか外国人料金(100ルピー)が設定されていたが、僕は「インドに住んでいるからインド人だ」という理屈を通し、インド人料金(5ルピー)で入れた。

 ラクナウーには他にもたくさんの見所がありそうだ。街をサイクル・リクシャーに乗って移動しているだけでも、あちこちに新旧立派な建物がゴロゴロしているのを発見することができる。しかし今回のところは主な観光地を見ただけでラクナウーを後にすることにした。

 2時頃、ラクナウーのカイサル・バーグ・バス・スタンドからファイザーバード行きのバスに乗り込んだ。ファイザーバードはラクナウーから東にバスで3、4時間ほどのところにある町で、アヨーディヤーへの観光拠点となる。ファイザーバード自体、かつてアワド藩王国の首都になったことがあるので、何か面白いものがあるかもしれない。

 やはりバスで移動すると、農村の様子を間近に眺めつつ移動することができるからよい。ウッタル・プラデーシュ州の田舎も、まさに「正しいインド」とでも言うべき風景が延々と続いていた。まるで「ラーマーヤナ」の時代から時が止まってしまったかのような、昔ながらの家屋、生活、自然を見ることができた。

 ファイザーバードには5時半頃到着した。ちょうど町中ダシャヘラーのための飾りつけに追われており、あちこちにドゥルガーを祀った祠が建っていた。ふと思ったのだが、ラーマーヤナ神話のお膝元であるここアワド地方でも、ダシャヘラーはなぜかドゥルガーの祭りになってしまっている。ベンガル地方ではダシャヘラーはドゥルガーがマヒシャースラを退治した日になっているが、一般的にはラーマがラーヴァナを退治した日ではなかったのか?後から町中を散策してみたが、全てドゥルガーの祠で、ラーマを祀った祠はひとつも見当たらなかった。多分祠を作るのはドゥルガー・プージャーのためで、ラーム関連の祭りを祝うにはラーム・リーラーを行うのだろう。

 ファイザーバードでは、シャーネ・アワドというホテルに泊まることにした。シングル・ルーム、バス・トイレ付きで175ルピー。石鹸やタオルも付けてくれた。ここのレストランでビリヤーニーを頼んだら、2、3人分くらいの量が山々と盛られて出てきて驚いた。

10月13日(日) アヨーディヤー

 朝、テンポーと呼ばれるミニバスに乗ってアヨーディヤーを目指した。アヨーディヤーはファイザーバードから6Kmほどの地点にある町。ヒンドゥー教7大聖地のひとつにして、「ラーマーヤナ」の舞台となった場所。しかし世界史には、1992年、ヒンドゥー教過激派によるバーブリー・マスジッド破壊と、それによるヒンドゥー・ムスリムの抗争の引き金となってしまった「インドの恥部」としての記憶が新しい。今年の3月にも、バーブリー・マスジッド跡にラーム・ジャナムブーミ寺院を建てるとか建てないとかで揉めていた。全インドを動かすほどの力を持った聖地アヨーディヤー、いったいどんな町なのか、是非この目で確かめてみたかった。

 テンポーはファイザーバードを出て、田舎道を少し走ると、すぐに小さな町中へ入って行った。テンポーから降りて辺りを見回してみると、雰囲気は去年のちょうど今頃訪れた、これまたヒンドゥー教の聖地ヴリンダーバンに似ていた。町中に星の数ほどある寺院、一族郎党総出でやって来たらしき参拝客ツアーズ、オレンジ色のドーティーを身に纏ったサードゥ、参拝客相手の派手派手しい小店、店のスピーカーからけたたましく流れるヒンドゥーの神々を讃えた讃歌、そして道のあちこちには乞食と猿たち・・・。ヒンドゥー教の聖地に乞食がたくさんいるのは、インド人参拝客は巡礼地で功徳を積むために進んで喜捨することから、容易に理解できるのだが、なぜ必ず猿がいるのだろうか?まるでわざわざ猿の多い地域に聖地を作っているかのように思える。しかも聖地の猿は決まって攻撃的だ。とにかく参拝客の流れに従って歩き出した。




アヨーディヤーの町並み


 早速現れたのが自称ガイド。相手が少年だったのと、ガイド料の言い値が5ルピーと据え置きだったことが気に入ってガイドを頼むことにした。

 ヴリンダーバンでもそうだったのでもう慣れてしまったが、ヒンドゥー教の聖地というのは必ずこういうことが起こる。なぜかガイドは僕を特に由緒なさそうな寺院へ連れて行って、そこの寺院管理職ブラーフマンに引き合わせる。ブラーフマン階級には基本的に尊敬を払っているが、寺院に住んでるブラーフマンは金の権化であることが多い。彼らは外国人の僕を温かく迎え、寺院の由来や神像の説明などをしてくれて、プラサードを与えてくれた後に、すぐに寄付金の話をし始める。その額は大体100ルピー単位だからふざけているし、過去に大金を寄付した人々の偉業を讃えて、参拝客に寄付に対する競争心を煽る(?)。しかし僕もこういう際の対応方法を自分なりに編み出していた。全ての寄付金を断っているとケチに思われるから、一箇所だけまとめて101ルピーぐらい与えておくのだ。ガイドは次から次へといろんな寺院に僕を連れて行くが、そこで寄付金を要求されても「あそこの寺院でもうあげた」と言って逃げる。

 結局そのガイドは観光名所というよりも、そういう寄付金を要求して来る寺院にしか連れて行ってくれなかった。ラーム・ジャナムブーミ寺院は、道だけ教えてくれて案内してくれなかった。もしかしてそれらの寺院だけコミッションとかもらえるのだろうか?この聖と俗の混交もインドの宗教の特徴だろう。

 気を取り直して、いよいよインドで最もデリケートな部分であるラーム・ジャナムブーミ寺院へ行くことにした。しかしそこの警備は果てしなく厳重だった。まず外国人は必ずパスポートをチェックされ、パスポート番号やヴィザ番号、それに宿泊中のホテルなどをメモされる。そしてガイドというか監視員が1人必ずそばに付いて来る。カメラなどの電気製品や金属類は当然の如く持ち込み禁止で、入り口で全て預けなければならない。荷物を預けたら、鉄格子で囲まれた通路を進んで行く。まるで囚人になった気分だ。そして寺院に辿り着くまでに合計3回の身体検査がある。

 これらの厳重な警戒態勢をかいくぐって僕が見たものは、本当にちっぽけな祠だった。あまりに小さすぎて、最初僕は気付かずに通り過ぎようとしたくらいだ。祠と言うより、テントに近い。白いカバーで覆われた小さな箱、という感じだった。「これがラーム・ジャナムブーミ。ラーマが生まれた場所である。」と説明された。しかも参拝場所から祠まではけっこう離れていて、祠の中の様子があまり見えない。どうもラーマの神像がちょこんと置かれていたように見えたが、呆気にとられていたのであまり覚えていない。参拝場所にはブラーフマンが座っていて、参拝客にプラサードをくれる。そのブラーフマンと少しだけヒンディー語で会話をした後、入場料代わりに10ルピーだけ布施してラーム・ジャナムブーミを後にした。バーブリー・マスジッドは跡形もなく破壊され尽くしていた。

 イスラーム勢力がインドに侵入したとき、多くのヒンドゥー教寺院を破壊して、そこにモスクを建てたのは事実だろう。あのタージ・マハルが建っている場所でさえ、以前はヒンドゥー教寺院が建っていたと考えられている。タージ・マハル自体がもともとヒンドゥー教寺院だったという説まであるぐらいだ。このアヨーディヤーにしろ、ラーマ生誕の地に建っていたラーム・ジャナムブーミ寺院をムスリムが破壊して、その跡地にバーブリー・マスジッドを建てたのは本当のことかもしれない。しかし僕の見地からすれば、ここが本当に「ラーマーヤナ」に出て来たアヨーディヤーなのか怪しいし、ましてやそこでラーマが生まれたという話にどれほどの信憑性があるのか甚だ疑わしい。そもそもあの話は神話ではないのか?マトゥラーのクリシュナ・ジャナムブーミだって、実際は偽物なのだ。とにかく、インド人というのは歴史書を残してこなかったぐらい時間に対する観念が雄大というか、希薄だが、場所に関しては、出鱈目でもいいからはっきりしていないと気が済まない民族なのかもしれない。

 半ば念願でもあったラーム・ジャナムブーミ寺院を見た僕の心は、かえって暗くなってしまった。こんな小さな祠のために、インド人は宗教対立を繰り広げていたのか・・・。先程ガイドと一緒に訪れたいくつかの寺院のブラーフマンや、アヨーディヤーに住むヒンドゥー教徒の話を聞いてみると、「モスクを壊してやったぜ、イエ〜イ!」みたいな達成感に溢れていた。それも僕を暗くさせた。

 現在は小さな祠のままのラーム・ジャナムブーミ寺院だが、将来そこに大きな寺院が建築される予定となっている。まだ政府から許可が出ていないので、工事が始まっていないだけだ。そのラーム・ジャナムブーミ寺院の石材が作られているところがあった。カーリヤシャーラーという場所だ。そこへ行ってみると、なるほどラーム・ジャナムブーミ寺院に使用される予定の石材が山積みされており、工匠たちが石材を削って、形を整えたり彫刻を彫ったりしていた。また、カール・セーヴァー・プラムという場所には、ラーム・ジャナムブーミ寺院の大きな完成予定模型が置かれていた。「寺院はいつ出来るのですか?」と聞いてみたら、その模型の近くに座っていたブラーフマンは空を指差して「答えは上にある」と言った。




ラーム・ジャナムブーミ寺院の
石材を作る人々


 アヨーディヤーからファイザーバードに戻った。すぐにホテルをチェック・アウトし、イラーハーバード行きのバスに乗った。

 確か中国に「南船北馬」という言葉があったと思う。南は船の移動が便利で、北は馬での移動が便利という意味だ。インドの移動手段を評して「北は列車、南はバス」という言葉が果たしてあるか分からないが、今回ウッタル・プラデーシュ州中央部をバスで移動して、なんとなくそんな言葉が浮かんできた。南インドははっきり言って列車よりもバスの方が便利で、バス停に行けば必ず自分の目的地へ向かうバスが待機しており、スイスイと移動できる。だが、北インドのバスはどうも使いにくい。まず、デラックス・バスのようなものがあまりなくて、ローカル・バスでの移動が主体となる。ローカル・バスは道の途中で客を拾いつつ進んでいくし、主要なバス・スタンドで10分ほど止まるので、かなり時間がかかる。座席も固いし、椅子にゆとりがなくてギュウギュウ詰めになるし、あまり気持ちのいい移動ができない。そして一番腹が立ったのが車掌。入り口にどかっと座って、「チケット買ってけよ!」「まだチケット買ってないのはどいつだ!」と大声で叫んでいるだけだ。乗客はそこへ行ってわざわざチケットを買わなくてはいけない。しかもお釣りはすぐにもらえない。チケットの裏にお釣りの分だけ数字を書いてもらい、後から渡してもらうシステムになっている。なぜすぐにくれないのだろうか?また、ラクナウーからファイザーバードまで58ルピー、アヨーディヤーからファイザーバードまで75ルピーかかったが、よく考えてみるとローカル・バスのくせにちょっと料金が高いような気がする。

 イラーハーバードに到着したのは6時半頃。ファイザーバードから約5時間かかってしまった。サイクル・リクシャーに乗って、「地球の歩き方」や「ロンリー・プラネット」に載っていたホテル・コンティネンタルという安いホテルへ向かおうとしたが、リクシャー・ワーラーは「そのホテルはムスリム地区にある。今日そこでムスリムが殺されたから、道が閉まっている。オレが他のいいホテルに連れて行ってやる。」と言われた。まあデリー、ヴァーラーナスィー、アーグラー辺りのリクシャー・ワーラーがよく使う手口だ。コミッションの入るホテルに客を連れて行って小金をせしめようとの魂胆だ。しかし、イラーハーバードは外国人観光客も少ないし、もしかして本当のことかもしれないと思い、まずはリクシャー・ワーラーの紹介するホテルに連れて行ってもらった。ところが、あいにくリクシャー・ワーラーが勧めるホテルは安かったのだが、外国人の宿泊はできなかった。田舎の町に行くと、この問題が時々浮上する。実はインドには外国人を泊めれるホテルと泊めれないホテルがあるのだ。イラーハーバードは人口200万人の都会で、立派な観光資源も存在するのだが、外国人観光客はあまり訪れないらしく、外国人が泊まれるホテルは限られている。ガイドブックに載っているホテルなら外国人は宿泊することができるだろう。もう道が閉まっていても、警察がいても、とにかくホテル・コンティネンタルまで行ってくれ、と頼んだ。リクシャー・ワーラーは「あそこに行くと病気になる」とかいろいろ言い訳をしたが、僕が歩いて行こうとしたら根負けして行ってくれた。もちろん、道が閉まっているようなこともなく、ホテル・コンティネンタルに無事泊まることもできた。シングル・ルーム、バス・トイレ付きで180ルピー。リクシャー・ワーラーは逃げるように去って行った。

 実は、今回最初の内は、僕はリクシャー・ワーラーに外国人とばれていなかった。ヒンディー語で全て会話をしていたし、デリーから来たことにしておいた(嘘ではない)からだ。ところがこのようなよくある手口に引っ掛かってしまった。リクシャー・ワーラーの連れて行くホテルがインド人専用であることに業を煮やし、「僕は外国人だ」とばらしたのだが、きょとんとしていてあまり理解していないように見えた。

 よく外国人旅行者は、インド人が外国人旅行者の足元を見てぼったくっているように思っている。特に日本人は、「一番騙しやすいのは日本人」とかガイドブックに書かれていることから、ものすごい被害者意識が強い。しかし、結局インド人に一番騙されているのはインド人なのだ。被害総額弾突トップはインド人だ。リクシャー・ワーラーも、お土産屋の店員も、旅行代理店も、外国人旅行者とインド人旅行者の差別なく、分け隔てなく、平等にぼったくっている。有名な観光地になると、日本人には日本語のしゃべれる日本人ぼったくり専門スタッフが派遣されるだけの話だ。

10月14日(月) イラーハーバード

 今回の旅行では、午前中観光、午後都市移動というハード・スケジュールで動いている。さすがにこれは疲労がたまる。まるでマラソンか、何かのゲームをしているみたいだ。僕はあまり一箇所滞在型の旅が好きではない。やることがなくなって退屈してしまうからだ。リズム感を持って移動し続けた方が、緊張がほぐれなくて体調も維持できる。しかし今回はさすがに急ぎ過ぎたと反省している。

 イラーハーバードの見所は何と言ってもサンガムである。ヒマーラヤ山脈から流れ出た2本の大河、ガンガーとヤムナーは、ずっと平行を保ちながらインド平原を流れ、ここイラーハーバードで初めて流れをひとつにする。聖なる河が交わる場所、それがサンガムだ。ヒンドゥー教の聖地である。

 サンガムは案外イラーハーバード市街から離れた場所にあった。サイクル・リクシャーで郊外の道を進んでいると、途中から「自称ボートマン」たちが自転車に乗って一生懸命ついてきた。見るからに悪そうな顔をしている。観光客から金を巻き上げるタイプのインド人の顔だ。

 サンガムに通じる道は途中で2つに分かれる。ひとつは南へ、ひとつは東へ。サンガムの近くに巨大な砦が建っており、南へ向かう道はそのすぐ下にあるボート乗り場に通じている。東南へ向かう道は直接サンガムへ続いている。ボートマンたちはリクシャー・ワーラーを南の方へ誘導した。サイクル・リクシャーから降りると早速ボートマンたちが僕を取り囲み、無理矢理ボートに乗せようとする。値段を聞いてみると350ルピーと言う。よくもまあそんな大それた値段を提示できるもんだ。僕は相手にせずにサンガムの方、つまり東へ向かう道の終点まで歩き始めた。2人のボートマンがしつこく僕の後に食い下がってきて、値段をゆっくりと下げてくる。

 ガンガーとヤムナーの交わるサンガムの沐浴場は河の中央部にぽっかり浮かんでいる。河はそんなに深くないので、そこまで歩いていくこともできる。河岸やサンガムでは多くの巡礼者たちが沐浴をしていた。インドを旅する外国人旅行者の中にはいろんなタイプの人がいて、インド人に混じって沐浴をする人もいるのだが、僕はそこまでやったことはない。そこまでやったらきっと僕は本当のヒンドゥー教徒になってしまいそうで怖い。サンガムの様子も見ることができたし、そろそろ帰ろうと思ったら、まださっきのボートマンたちが食い下がっており、必死に僕をボートに乗せようとしている。値段は100ルピーまで下がっていた。ガイドブックには50ルピーくらいと書かれていたのだが、僕がうっかり「100ルピー以上出す積もりはない」と初めに口を滑らせてしまったため、100ルピー以下の値段にはならなかった。100ルピーというのは高いと思ったが、せっかくなのでボートに乗ることにした。




サンガム


 あれだけボートマンたちはボートマンと名乗っていたのに、僕がボートに乗り込むと僕の近くに座り込み、ボートは他の人間が漕ぎ出した。ボートはすぐにサンガムまで行って、桟橋に横付けされた。そこにはブラーフマンがおり、僕を呼ぶと目の前にココナッツの実を置いて「30ルピーだ」と言う。なぜ外国人からそうやって無理矢理金を巻き上げようとするのか。アヨーディヤーから連続してこういうことをされたので、けっこう頭に来ていた。ヒンドゥーの聖地にのこのこやって来てしまったのはこちらに非があるかもしれないが、何も知らない外国人から金を取って無理矢理プージャーさせる必要があるのか。僕は断って、何もせずにまたボートに戻った。

 ボートに乗って唯一よかったのは、ガンガー河とヤムナー河の水がまさに交わっている場所を見ることができたことだ。交わっているというよりも接していると言った方が正しいかもしれない。ガンガーの黄土色の水と、ヤムナーの碧色の水がせめぎ合って線を作っており、まるで梅雨前線のようになっていた。この自然の芸術こそが聖地たる由縁だろう。神話ではサラスヴァティー河というもう1本の河がここで交わっていると言われている。




青いヤムナー河(奥)と
黄土色のガンガー河(手前)


 しかし実はサンガムより感動したものがサンガムの近くにあった。サンガムのボート乗り場のそばには大きな砦がある。現在は軍の敷地となっており、一般人は中に入ることができないが、一箇所だけ入場を許された場所がある。それがアクシャイヴァトという寺院だ。砦の地下に作られた寺院で、そこには不死の木が祀られている。その木はどうでもよかったのだが、その寺院に置かれている数々の神像は、今まで見てきたヒンドゥーの石像の中でもトップクラスに優れたものだった。全体的に皆ふくよかな身体、真ん丸い目、ふっくらとした顔をしており、表面に塗られた絵の具もはっきり残っていた。ふとタミル・ナードゥ州マドゥライ名産の木彫神像が思い浮かんだ。もしかしたらドラヴィダ人がモデルになっているのかもしれない。シヴァ、サラスヴァティー、ヴィシュヌ、パールヴァティーなど、御馴染みの神様の像の他、ナーガ、シャニ、ダルマなどレアな神様の像もあった。そこでも例によって100〜200ルピーの布施を要求され、断ったら罵られたが、その寺院で働いていた子供に日本の5円玉をあげたら待遇がよくなった。本当は写真撮影禁止だと思うのだが、許可してくれた。「どのくらい古いものなのですか?」と聞いてみると「5000年から1万年前のものだ」との答えが帰ってきた。インド人は時間の観念はいい加減だ。




シャニ


 その後、イラーハーバード大学へ行ったのだが、あいにくダシャヘラー休みで大学の門は閉ざされており、中に入ることができなかった。イラーハーバード大学の建築は見所が多かったのだが・・・残念。また、イラーハーバードの主要観光地のひとつ、アーナンド・バヴァン(インド初代首相ジャワーハルラール・ネルーの邸宅)も月曜休みで閉まっていた。タイミングが悪かった。しかも、ホテルに戻るためにサイクル・リクシャーに乗り込んだ拍子に、服の端をサイクル・リクシャーの金具に引っ掛けてしまい、破いてしまった。ファブ・インディアで買ったお気に入りのクルターだったのに・・・。やはりブラーフマンを蔑ろにしたのがよくなかったのだろうか。

 2時頃にヴァーラーナスィー行きのバスに乗り込んだ。このバスは一応デラックス扱いらしく、座席にクッションが付いていて座り心地がよかった。しかし車掌は最悪。車掌のすぐ後ろの席に座っていたので、車掌と客のやり取りを全て見ることができたのだが、この車掌は本当に偉そうな態度で客を取り扱っていて嫌な感じだった。全員がチケットを買うまでバスを発車させないし、バスが混んでくると、乗り込もうとする乗客を「まだ後からバスが来るから、そっちに乗れ」と追い払っていた。ウッタル・プラデーシュ州のバスには終始気分を害された。

 イラーハーバードからヴァーラーナスィーまでバスで4時間、6時頃にはヴァーラーナスィー駅に到着した。

 ちょうどダシャヘラーの時期を移動して来たので、各地の祭りの様子を見ることができた。どんな小さな町や村でも立派なドゥルガーの祠をこしらえており、道路は派手な電飾で飾り立てられていた。しかしやはり今まで見てきた中で、ヴァーラーナスィーのドゥルガー・プージャーの派手さにかなうところはなかった。もうまるでディズニー・ランドの夜のパレードみたいだ。いや、規模も派手さもあれ以上。光の洪水の中をサイクル・リクシャーに乗って、ゴーダウリヤー交差点まで移動した。

 ヴァーラーナスィーには多くの宿があるが、僕はプージャー・ゲストハウスという火葬場近くの宿に泊まることにした。実はヴァーラーナスィーにはベンガル人が多く住んでいる。ベンガル地方と言えばドゥルガー・プージャーの本拠地。よってヴァーラーナスィーのドゥルガー・プージャーも気合の入り様が本場並みで、インド各地からわざわざヴァーラーナスィーでドゥルガー・プージャーを見るために来るベンガル人もいるみたいだ。というわけで、半ば予想していたことではあるが、宿の空き室状態がよくなかった。しかし運良くプージャー・ゲストハウスにちょうど一室空き部屋があったので、そこに泊まることにした。シングル・ルーム、バス・トイレ付きで80ルピー。プージャー・ゲストハウスはガンガーを一望の下にできる部屋が気持ちいいので評判だが、僕の泊まった部屋は全くそんな部屋ではない。まあでも屋上のレストランから思う存分ガンガーを眺めることができるので満足。

10月15日(火) ヴァーラーナスィー

 ダシャヘラー当日となった。とりあえず早朝早起きして宿の屋上へ上がり、日の出を見た。東の空は雲がかかっていて、地平線から太陽が出るところは残念ながら見れなかった。そういえば今年の1月1日にも、インド最南端の地カンニャークマーリーで日の出を見たが、そのときも東の空は雲がかかっていた。もし、きれいな日の出を見ることができるかどうかを左右する「日の出運」というのがあるとしたら、今年の僕の日の出運はあまりよくないだろう。




ガンガーの日の出


 ヴァーラーナスィー来訪は3度目になるので、特にあくせく観光をする必要もない。朝食を食べた後、ヴァーラーナスィー名物、迷路のような路地やガンガー沿いのガートを散策して、気軽に話しかけてくるインド人たちとの会話に興じた。ヴァーラーナスィーのいいところは、皆外国人に慣れているので、気軽に会話ができることだ。僕がヒンディー語を理解することを知ると、変に見栄を張って英語で話すこともなく、喜んでヒンディー語で会話をしてくれる。会話の内容も「どっから来た?」「職業は?」「結婚してるか?」などの当たり前の会話ではなく、もっと知的な話をすることができる。ヴァーラーナスィーに住んでいるとヒンディー語が上達しそうだ。ただ、ここのヒンディー語はボージュプリーというヒンディー語の方言なので、少し標準ヒンディー語と違うところもあるにはあるのだが、そんなこと言ったらデリーのヒンディー語もパンジャービー語、ハリヤーナー語、英語との混交言語と化しているので、特に気にする必要はないだろう。

 昼から日本人数人で、ヴァーラーナスィー南部、ガンガーの対岸にあるラームナガルという町へ行った。そこにはラームナガル城というマハーラージャの宮殿があり、今日はダシャヘラーを祝ってパレード&ラームリーラーがあった。ラームナガルまでオート・リクシャーで行くと、ゴーダウリヤー交差点から100ルピーかかってしまうくらい遠いのだが、なかなか楽しい体験となった。

 ラームナガル城は、対岸から見るとけっこう立派に見えるのだが、実際に行ってみるとそれほど立派な建築でもなかった。あまり整備がされていなかったのが原因だが、それが逆に生活感を醸し出していた。城の内外はマハーラージャを一目見ようと集まった地元のインド人で溢れかえっており、警察もたくさん動員されていた。乗り物として象が何頭も待機しており、特にマハーラージャ用の象は立派な装飾が施されていた。マハーラージャが登場すると、インド人たちは「マハーラージャ・キ・ジャーイ!(マハーラージャ万歳!)」と両手を上げる。インド人たちの心には、今でもマハーラージャが尊敬すべき対象となっているようだ。ラージクマール(王子)やラーニー(姫)もいて、まるで中世に迷い込んだかのような気分になった。マハーラージャはブラーフマンに導かれてプージャーをし、しばらく後に専用の象に乗って城を出てパレードをした。インドではまだ中世がしぶとく残っているのだ、と実感した瞬間だった。基本的に写真撮影は禁止されていたので、マハーラージャたちの写真は撮らなかった。




マハーラージャ専用象


 今日の夕方6:45発の夜行列車に乗り、デリーへ帰る予定だった。ラームナガル城から一度プージャー・ゲストハウスに戻り、預けている荷物を持って駅へ向かわなければならない。しかしこの過程が非常にスリルに溢れるものとなってしまった。

 ラームナガルのマハーラージャのパレードを見たのが4:30頃だった。そこからオート・リクシャーでゴーダウリヤーまで戻ろうとしたのだが、まずパレードのおかげで道が大混雑。それを抜けるのに非常に苦労した。その後、急にリクシャーの調子がおかしくなり、途中で止まってしまう。ガソリンがエンジンにうまく供給されなくなって、馬力が出なくなってしまったみたいだ。リクシャー・ワーラーは道端にリクシャーを止めて自力で修理し始めた。そうしたら数分で直ってしまった。

 ガンガーに架かった橋を渡り、対岸を北上する。ヴァーラーナスィー市街に入ると、主要道路がドゥルガー・プージャーのために通行止めになっており、回り道を余儀なくされた。もちろん道は大混雑。ヴァーラーナスィーの地理感がないので、どの辺りまで来たのか見当がつかず、不安だけが募るばかり。しかも突然リクシャー・ワーラーと通行人の間で口喧嘩が始まり(多分ちょっと接触したんだと思う)、すぐに殴り合いの喧嘩となってしまって大ピンチ。なんとか周りのインド人が仲介に入り、喧嘩は収まった。リクシャーは再び動き出す。

 「ああ、今どの辺を走ってるんだろ・・・」とあたふたしていたところ、急にリクシャーが止まって「着いたぞ」と言われた。ゴーダウリヤー交差点周辺は歩行者天国(?)になっており、自動車は入れなくなっていた。だからその手前で降ろされたのだった。早速そこから急ぎ足で宿まで向かう。もう時計は既に5:30をまわっていた。

 プージャー・ゲストハウスに着き、荷物を受け取って宿を出たのがちょうど列車の発車時刻の1時間前。ゴーダウリヤーから駅まで、1時間あれば余裕で着くと言われていたのだが、今日はダシャヘラー&ドゥルガー・プージャーで混雑しており、どれだけかかるか分からない。急いで路地を抜けて大通りに出て、オート・リクシャーを拾う。

 ところがそのオート・リクシャーがまた途中でガス欠になって止まってしまった。オート・ワーラーが言うには「誰かがオレのリクシャーからガソリンをこっそり盗みやがった」という話だが、そんな話僕には関係ない。とにかく急いでもらわないとマジで困るのだ。僕は他のリクシャーに乗り換えようとしたが、オート・ワーラーはガソリン・タンクに息を吹き込んで(こうすると最後の一滴までガソリンを使うことができるみたいだ)なんとかガソリン・スタンドまでリクシャーを辿り着かせようとする。町にはドゥルガー・プージャーのためにアップテンポの音楽が大音響で流れており、それにクラクションの音、エンジンの音、牛の鳴き声などがミックスされてだんだん陶酔状態となって来た。まるで何かの映画のクライマックス・シーンのような気がして来た。もう6時をとうにまわってしまっている。

 オート・リクシャーはなんとかガソリン・スタンドに辿り着いたが、給油機の前には2、3台リクシャーが止まっていて時間がかかりそうだ。もう我慢できなくなって、そのリクシャーを降りて近くに止まっていたリクシャーに乗り換えた。ところが案外聞いていたほど時間はかからず、6:20頃にはヴァーラーナスィー駅に着いてしまった。ホッとしたことにはしたのだが、焦り過ぎたことに対して軽い後悔の念も感じた。列車は予定通りの発車だった。こうして4泊5日5都市周遊の忙しい旅がほぼ終わったのだった。

 今回の旅行でつくづく思ったのが、インドは旅する者の気持ち次第で全く表情が変わってしまうことだ。アヨーディヤーやイラーハーバードでブラーフマンに多額の布施を要求されて気分を害したことから、僕の心にインドに対する軽い拒否反応が芽生えてしまった。そしたらその瞬間からインドは僕に冷たくなった。やることなすことうまくいかない。インドが生き物と化して、体内にいる僕を吐き出そうとしているかのようだった。もしかしたらブラーフマンの呪いかもしれない。デリーに帰ったら集中的に乞食に喜捨しようと心に決めた。



―銀幕編 終了―

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