スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2003年9月

装飾下

|| 目次 ||
生活■2日(火)今度はマラリア?
分析■4日(木)オールド・モンク
生活■6日(土)デリー日本人留学生交流会
映評■7日(日)Kuch Naa Kaho
映評■8日(月)Calcutta Mail
言語■10日(水)ヒンディー語とウルドゥー語
言語■12日(金)ヒンディー語が書けないインド人
分析■13日(土)インド人女性と性
旅行■14日(日)ムンバイーTVCM撮影旅行記
分析■19日(金)ジャハージー・バーイー
映評■20日(土)Boom
分析■21日(日)インドに著作権はない?
生活■24日(水)鳩
演評■25日(木)ASIMO MEGA SHOW
生活■26日(金)バイク購入
祝祭■27日(土)日本人学校夏祭り
生活■28日(日)Amazing Thai Taste
分析■29日(月)意外に快適なデリーの道路
映評■30日(火)Mumbai Matinee


9月2日(火) 今度はマラリア?

 前回8月31日の日記で、病院での診断の結果、黄疸または肝炎になったと書いた。ところがあまりに簡単に診断されて納得がいかなかったため、昨日はインド最高の施設を持つインドラプラスタ・アポロ病院へ行った。アポロ病院は非常に高価なのだが、医者のレベルは高い。デリーで外国人が何か重病を患ったり重傷を負ったりしたときはだいたいこの病院に来ることが多い。

 今回は正確な検査をするために、血液検査とX線検査をしてもらった。血液検査ではなぜか3、4回一気に採血されたので、かなりぐったりとしてしまった。1回血をとれば全部分かるだろうに・・・。

 アポロ病院の医療の質はおそらく評判通りインド最高だと思うのだが、総合大病院のため、不便もある。検査をするのにあっちからこっちへ歩き回らなくてはならなかったりする。また、デリーにはリッチなインド人が多いので、患者の数もかなり多い。待ち時間が長いこともある。待合室のエアコンが強すぎるのも難点である。おかげで診断が終わった後、僕の病状は前よりも悪化してしまった。

 ここの医者が言うには、僕は肝炎でも黄疸でもないそうだ。やっぱり・・・。黄疸になったら目や爪が黄色になるはずだが、僕の身体にそのような兆候は微塵もない。だがマラリアの可能性があるという。・・・そういえば3、4ヶ月前にアッサムを旅行していたので、ハマダラカに刺された可能性はある。デリーにもマラリア患者やハマダラカがいないとは言えない。今度は一気にマラリア気分になった。もしA型肝炎だったら、汚染されたウンコを食べたことになるのでカッコ悪いが、マラリアだったら比較的見栄えのいい病気である。とにかく検査結果は1日後に出るので、その日はそれで家に戻った。

 もうすっかりマラリアになった気分で再度病院を訪れて結果を見てみると、結局黄疸でもマラリアでもなかった。じゃあ何だったのだ、という話だが、別に何でもないようだ。病名がはっきりしない。ただ身体の抗体がかなり弱っており、これからウイルスや細菌に感染する恐れがあるらしい。そのため抗生物質を処方された。

 今日になってなんとなく体調も回復してきたのでよかったが、まだ身体に力が入らない感じだ。肝炎やらマラリアやら恐ろしい病名を言われたことによる精神的ショックも大きかった。例の占い師の予言も結局当たっていないようだ。案外インドにいても大病には罹らないものなのか・・・。

9月4日(木) オールド・モンク

 インドが世界に誇れるものはいくつかある。アーグラーのタージ・マハルだったり、世界一長大な叙事詩マハーバーラタだったり、音楽や舞踊などの古典芸能だったり、世界で活躍するIT技術者たちだったり、人によって挙げるものは様々だろう。それだけインドにはユニークなものが存在する面白い国である。その中で、オールド・モンクの名を挙げる人も少なからずいるのではなかろうか?

 オールド・モンクとは、インド産のラム酒の名前である。インドの酒というと、日本のインド料理屋によく置いてあるマハラジャ・ビールなるビールを思い浮かべる人がもしかしたら多いかもしれないが、マハラジャ・ビールはデリー周辺では手に入らないし、僕は今までインドで見たこともない。インドのビールの王道といったら、キング・フィッシャーしかない。しかしキング・フィッシャーの味に慣れてしまうと、日本のビールが甘露のようにうまく感じるというぐらいの味なので、僕はキング・フィッシャーをインドの酒の代表にしたくない。やはりインド産ラムの決定版、オールド・モンクを代表選手として推挙したい。




オールド・モンク


 僕はインドに留学するまでラムの味を知らなかった。漠然と、ラム酒というのは船乗りが船着場の酒場で仲間たちとポーカーでもしながら飲んでいるような渋い飲み物だろうと思っていた。インドに来て酒関係でまず驚いたのは、インド人はビールに氷を入れて飲んでいることだった。その次に知ったのは、どうもインド人はラム酒が好きだということだった。ウィスキーやらジンやらウォッカやらも飲むが、定番はラムという感じだ。特に軍人はラム好きが多いらしい。しかも、オールド・モンクというラムが一番安くてうまいようだ。僕もインド人につれられてラム酒を少し飲んでみたら、思っていたよりも甘くて、どちらかというとレディース向けの味がした。それもそのはず、ラムはサトウキビからできている。このラムにコーラを混ぜて飲むと非常にうまいことにもすぐに気が付いた。ちなみにインドではワインは女の飲み物と見なされているため、大の男がワインを飲むことは少しオカマっぽい行為に思われる(上流階級ではまた別だが)。

 オールド・モンクからラムに入ったので、僕にとってラム=オールド・モンクだった。バカルディーやスィッキム・ラムなど、他の銘柄も売られてはいるが、オールド・モンクに適うラムはなかった。インドに来て、僕はすっかりラム好き、というかオールド・モンク好きになってしまった。

 こうなってくると、日本に帰ってもラムを飲みたくなる。だが、帰ってみて気付いたのだが、ラムを置いてある居酒屋というのは日本には案外少ないものだ。インドでラムの置いていないバーは考えられないのだが、日本では相当気の利いたところへ行かないとラムにはありつけない。また、あったとしても、そのラムがまずい・・・!まるっきり気の抜けた味である。オールド・モンクがいかにうまかったか、まずい日本のラムを飲んで思い知らされた。

 年配のインド好き日本人にも実はオールド・モンク好きは多い。「オールド・モンクこそ世界一のラム酒」と言う人もいて、僕は「やはり」と頷かされた。しかしなぜオールド・モンクはこんなにうまいのか?1リットル200ルピー足らずの酒が、どうしてこれほどハイ・クオリティーの味を醸し出すことができるのか?全く不思議である。また、一度軍隊用に製造された非売品オールド・モンクを飲んだことがある。これが一般市販用のオールド・モンクよりもさらに濃厚な味がして、さらに驚いた記憶もある。このオールド・モンクが、インド10億人を守る軍人たちの力の源になっているのか・・・!

 オールド・モンクの瓶の形もいい。オールド・パーのパクリと散々けなされているが、それでも僕は好きだ。いかにも安物っぽいラベルが貼ってあるのも一興。ときどきそのラベルがかなりずれていたりするが、味に問題はない。変なおじさんの絵がかいてあるが、いったいこれは誰なのだろう?

 日本に帰るときはオールド・モンクを買い込んでお土産にしようと計画するのだが、いつも出発間際はかなり忙しくなってしまうので、酒屋に行って酒を買っている暇がなくなってしまい、今まで買っていったことはない。空港でオールド・モンクを販売していないのは、インド政府の最大のミスだと思っている。なぜインドが世界に誇るオールド・モンクを空港で堂々と売り出さないのだろうか?クルター・パージャーマーを着て、アンバサダーに乗っていても、オールド・モンクを嗜まなかったら、真のインド人とは認められないだろう。まさにインドを代表する酒、オールド・モンク。日本で果たして手に入る場所があるのだろうか?

9月6日(土) デリー日本人留学生交流会

 いったいデリーには何人の日本人留学生がいるのだろうか?そんな素朴な疑問から始まったデリー日本人留学生交流会、今年は2回目を迎えた。去年は忘年会シーズンに行ったが、今年はインドの大学などの新学期開始1ヶ月後にあたる9月の今日行うことにした。会場は前回に引き続き、ヴァサント・ヴィハールにある日本料理レストランたむら。1人150ルピーで日本食ビュッフェ食べ放題飲み放題という格安の値段を設定していただいた。

 今回は留学生との交流を希望する社会人の人も数人参加してくれて、またインド人や韓国人なども数人来ており、合計39人が交流会に参加した。日本人の留学生に限ると、その数は28人になる。内訳はジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)の学生が15人、デリー大学の学生が5人、ケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンの学生が4人、その他が4人である。現在の留学状況を見ると、やはりJNUに留学する日本人が一番多いということになる。ただ、今回はデリー大学に新しく入った人が参加していなかった。もしかしたら発見できなかっただけかもしれない。デリー大学のキャンパスはバラバラになっているので、下手すると一人の日本人にも会わずに留学生活を終えてしまう人もいるかもしれない。

 上記の通り、この他にも日本人留学生がいる可能性は十分にあるのだが、2003年度のデリーでの日本人留学生の数は、約30人ということにして差し支えないだろう。去年も日本人留学生の数は30人だったので、そう変動はない。

 前回の留学生交流会は必ずしも成功とは言いがたかったのだが、今回は割と盛り上がったと思う。特に新たにデリーに来た人々には、コネクションの輪を広げるいい機会になったと思われる。

 僕のこのホームページもデリー在住の人によく読まれているため、「体調はもういいんですか?」とか「肝炎は治ったんですか?」とか「お前が口をつけた食べ物は食べない」とか、いろいろ質問された。ここでもう一度書いておこう。僕は別に肝炎でもマラリアでもなく、ただ単に高熱が出て体調を崩しただけだった。肝炎と診断されたのは誤診だった。マラリアも可能性があると言われただけで、血液検査の結果、マラリア原虫は発見されなかった。先週の水曜日あたりから高熱が出たが、1週間後の今週の水曜日にはだいぶ回復し、今はもう普通に生活できている。いろいろな人に心配をかけてしまったことをこの場を借りてお詫び申し上げます。

9月7日(日) Kuch Naa Kaho

 最近デリーの高級映画館は週末どこも大混雑である。当日そのまま行ってチケットを取るのが困難というか不可能になってきたように感じる。以前はヒット作以外だったら上映時間10分前に行っても手に入っていたのだが、今ではヒット作はまず真っ先に満席になるのはもちろんのこと、それによって他の作品にも観客が流れ込むので、週末はどの映画も必ず満席になる。映画館側からしたら大儲けだろう。

 今日は最新作「Kuch Naa Kaho」を、パテール・ナガルの高級シネマ・コンプレックス、サティヤム・シネプレックスで見た。ここの混雑ぶりも相当なもので、PVR系列の映画館よりも駐車場の整備が整っていないため、出入口は動けないくらい渋滞となっている。

 「Kuch Naa Kaho」とは「何も言わないで」という意味。主演はアイシュワリヤー・ラーイとアビシェーク・バッチャン。特に期待をしていたわけではないが、アイシュワリヤー・ラーイが出演していたために見てみたいと思った。やはりインドの至宝は巨大なスクリーンで楽しまなければ。




アイシュワリヤー・ラーイ(左)と
アビシェーク・バッチャン(右)


Kuch Naa Kaho
 ニューヨークで母親と共に住んでいたラージ(アビシェーク・バッチャン)は、従姉妹の結婚式に出席するためにムンバイーへやって来た。父親のいないラージにとって、叔父のラーケーシュ(サティーシュ・シャー)は父代わりの存在だった。今回はラーケーシュの長女の結婚式のためにラージを呼び寄せたわけだが、その他にラージのお見合いをさせる目的もあった。

 ラージは結婚する気などなかったが、ラーケーシュは会社の部下のナムラター(アイシュワリヤー・ラーイ)を付添い人にしてラージのお見合いを無理矢理決行させる。ラージはお見合い相手を適当にかわしてやり過ごすが、その内ナムラターに恋をしてしまう。

 ところがナムラターは既婚で、アディティヤという息子もいた。だが、夫のサンジーヴはアディティヤが生まれる前に失踪しており、7年間ナムラターは女手一人でアディティヤを育ててきたのだった。アディティヤはラージを気に入り、自分のお父さんになってくれるように頼むが、ラージの気持ちをしったナムラターは彼を避けるようになる。

 ラージはナムラターが既婚であると知りながらも、彼女と結婚することを決意する。ナムラターも遂に彼の熱意に負け、ラージと再婚することを決める。だがそのときに突然夫のサンジーヴが現れる。サンジーヴは金を儲けるためにアメリカへ行っていたのだった。だがナムラターもアディティヤも、サンジーヴを受け入れることはできない。サンジーヴは自分がいない間に父親としての地位を確立したラージに対して次第に強硬な姿勢をとるようになる。

 従姉妹の結婚式の日。遂にサンジーヴ、ラージ、ナムラターの複雑な関係が一触即発の状態となる。そこでナムラターはラージと共に住むことをサンジーヴをはじめ皆の前で宣言する。サンジーヴはナムラターとアディティヤをラージに託し、その場を去っていく。

 映画の題名通り、何もコメントしたくないほど退屈な映画だった。アビシェーク・バッチャンが出る映画はどうしてこうもつまらなくなってしまうのだろうか?別に彼だけの責任ではないと思うのだが、なぜか彼のせいでつまらなくなったかのように思えてしまうのは役得というか役損か。

 一応僕はどんな映画でもいいところを見つけて書くようにしているので、今回もそうしよう。まず、最初のスタッフ・ロールはなかなか面白かった。テロップで俳優やクルーの名前を紹介するのではなく、映像の中のオブジェクトにそのまま名前が映し出されていた。しかしてっきりアイシュワリヤー・ラーイの入浴シーンかと思わせておいて、実はアビシェーク・バッチャンのだったというのは客をおちょくり過ぎだと思う。

 アビシェーク・バッチャンの演技は、無表情で黙っているシーンくらいしか褒めるべきところがない。アイシュワリヤー・ラーイも今回はあまり魅力的に描かれていなかった。それにしても7歳の子供の母親役になってしまっていいのだろうか、アイシュは?まだお母さん女優に転向するのは早すぎると思うのだが・・・。

 映画の中で、音楽の良さだけは際立って光っていた。音楽監督はシャンカル・エヘサーン・ロイのトリオ。「Dil Chahta Hai」の音楽監督で、ユニークな音楽を作るので僕はけっこう好きだ。「Kuch Naa Kaho」の音楽ではテーマ・ソングの「Kuch Naa Kaho」、新感覚ディスコ・ソング「Tumhe Aaj Maine Jo Dekha」などがよかった。ちなみに「ABBG」という曲があるが、これは映画を見て初めてどういう意味か分かった。歌詞は英語のアルファベットが一見無造作に並んでいる。「ABBG TPOG IPKI UPOG」のように。これはよく見たら英語の混じったヒンディー語になっており、「ちょっと奥さん、お茶を飲んでくださいな、私は飲んで来ました、あなたが飲んでください」という意味になっている(エー、ビービー・ジー、ティー(茶) ピーオー・ジー、アイ(私) ピーケ アーイー、ユー(あなた) ピーオー・ジー)。この曲の言葉遊びには脱帽。

9月8日(月) Calcutta Mail

 昨日に引き続き今日も映画を見に行った。今週の本命は実はこの「Calcutta Mail」であった。数ヶ月前から予告編がTVなどで流れていたのだが、やっと公開となった。PVRアヌパム4で鑑賞。

 「Calcutta Mail」とは、別に手紙のことではなく、列車の名前である。調べてみたが、このような名前の列車は見当たらなかったので、架空の列車だと思われる。主演はアニル・カプール、ラーニー・ムカルジー、マニーシャー・コーイラーラー。メジャーだが渋い俳優が揃っている。




ラーニー・ムカルジー(左)と
アニル・カプール(右)


Calcutta Mail
 一人の男がコールカーターのハーウラー駅に降り立った。男の名はアヴィナーシュ(アニル・カプール)。アヴィナーシュは下町の安宿に宿泊するが、そこでブルブル(ラーニー・ムカルジー)という小説家志望の女の子と出会う。

 アヴィナーシュはラカン・ヤーダヴという男を躍起になって捜していた。毎日どこかへ出掛けるアヴィナーシュを見て不思議に思ったブルブルは、アヴィナーシュの秘密を探ろうといろいろちょっかいを出す。その内アヴィナーシュは、誘拐された自分の息子を探しにコールカーターへ来たことを打ち明かす。しかしラカンの方もアヴィナーシュを殺すために刺客を送り、アヴィナーシュは瀕死の重傷を負ってしまう。

 病床でアヴィナーシュはブルブルに全てを語る。アヴィナーシュは道中偶然にサンジャナー(マニーシャー・コーイラーラー)という女性に出会った。サンジャナーはビハールの有力者スジャーン・スィンの一人娘で、乱暴者のラカン・ヤーダヴと無理矢理結婚させられそうになり、ラカンから逃げていた。アヴィナーシュはサンジャナーを助け、そのまま彼女と結婚して故郷で暮らしていた。二人の間には息子も生まれた。ところが彼らはスジャーン・スィンに見つかり、サンジャナーはラカンに殺害され、息子は誘拐されてしまった。そこでアヴィナーシュは単身コールカーターへ息子を探しにやって来たのだった。

 息子の救出に焦るアヴィナーシュの元に、スジャーン・スィンがコンタクトを取ってくる。スジャーン・スィンも娘を殺したラカンを恨んでおり、またラカンは息子の身代金を要求していた。だからスジャーン・スィンはアヴィナーシュに力を合わせて息子を取り戻そうと提案して来た。

 身代金を用意したアヴィナーシュは、ラカンを駅に呼び寄せる。しかしこれはラカンとスジャーン・スィンが共謀した罠だった。実はサンジャナーを殺したのもスジャーン・スィン自身だった。罠の中を生き残ったアヴィナーシュはスジャーン・スィンの邸宅に忍び込んで息子を取り戻し、またスジャーン・スィンはラカンに殺させて、ラカンも警察に殺させた。こうしてアヴィナーシュは再び息子と共に田舎で暮らし始めた。彼らの元にブルブルも小説を書きにやって来る。

 期待していた割には案外大したことのない作品でガッカリした。なぜ主人公の男はコールカーターに来たのか、それが分からない前半は割とサスペンスに満ちていて引き付けられるが、要はマフィアに誘拐された息子の救出劇であり、一般的なインドのアクション映画の王道を行っていた。

 題名の通り、駅や列車が重要な舞台となる映画で、インドの駅の様子や列車の様子が生々しく描かれていたのはよかった。普通のインド映画は案外列車の旅などのシーンを映さないことが多い。移動するときは全部飛行機でビューンと行ってしまうことがほとんどだ。しかしインドの国内移動といったら何といっても列車の旅である。ブルーのシートが並ぶ寝台車がスクリーンに出てくると、無性に旅に出たくなる。

 これまた題名通り、コールカーター(カルカッタ)も主な舞台になっていた。コールカーターといえばベンガリー語の本拠地。この映画はヒンディー語映画ながら、ベンガリー語も少し混じっていた。インド映画のすごいところは、他の言語が出てきても字幕なしでそのままやり過ごしてしまうところだ。ヒンディー語とベンガリー語くらいだったら何とか少しは理解できるくらいの共通性があるようで、観客もベンガリー語を理解して反応していたようだった。ヒンディー語圏の人にとってベンガリー語は、東京弁に対する関西弁ぐらいの違いなのかもしれない。その辺の感覚は日本人の僕には未だによく分からない。ちなみにコールカーター名物のドゥルガー・プージャーもちゃんと映画の隠し味に使われていた。コールカーターの雑踏もよく表現されていたと思う。

 主人公のアヴィナーシュがコールカーターで泊まった安宿は、パハール・ガンジの安宿ナヴラング・ホテルやブライト・ゲストハウスなどを思い起こさせた。僕もインドに来たての頃はあんな宿に泊まっていたなぁと懐かしい気分になった。それにしても1ヶ月500ルピーの宿泊料は安い!何かとインド独特の旅情のある映画だったと思う。

 主演のアニル・カプールは最近ヒット作に恵まれていない。この映画もそんなにヒットはしないだろう。しかもいつからかアニル・カプールは子持ちの男ヤモメ役が多くなってきたように思える。いい俳優だと思うので、もう1、2本くらい大ヒット作に出演しておいてもらいたい。

 マニーシャー・コーイラーラーがいきなり出演していたが、マニ・ラトナム監督の「ボンベイ」の頃を思わせるような清楚な雰囲気が漂っており、近年のマニーシャー映画の中では一番印象がよかった。一方のラーニー・ムカルジーは伸び悩んでいる感じがした。ブルブルという役も焦点が定まっていない輪郭のぼけた役で、ちょっと失敗のような気がした。

9月10日(水) ヒンディー語とウルドゥー語

 JNUのヒンディー語科では、ウルドゥー語基礎の授業が必修となっている。よって現在文字からウルドゥー語を勉強しているところだ。だが、ヒンディー語を習得した僕にとって、ウルドゥー語を学ぶということは、全く異なった外国語を学ぶこととは全く別な体験になっている。なぜならヒンディー語とウルドゥー語はほとんど同じ言語だからだ。

 ヒンディー語とウルドゥー語の関係を一言で言い表すのは難しい。まず一般の認識として、ヒンディー語とウルドゥー語は「語」の名称が違うのだから全く別の言語だと思われていることが多い。ヒンディー語はインドの第一公用語となっており、ウルドゥー語はパーキスターンの公用語となっていることも、それらの言語が全く別の言語であるかのような印象を強めているし、文字を見たらヒンディー語とウルドゥー語がほとんど同じ文法構造をした言語であることなど想像もつかないだろう。

 だが、実際のところ、ヒンディー語とウルドゥー語はほとんど同じ言語である。ヒンディー語を学べばインドは当然のこと、パーキスターンへ行っても難なく意思疎通ができるし、ウルドゥー語を知っていればパーキスターン人とだけでなく、インド人とも会話ができる。ヒンディー語とウルドゥー語の文法はほとんど同じと言って過言ではない。

 少しヒンディー語とウルドゥー語のことについて学ぶと、今度はこういう考えを持つようになる。ヒンディー語はヒンドゥー教徒が使う言語で、ウルドゥー語はイスラーム教徒が使う言語ではないか・・・?確かにウルドゥー語はインドでも使われており、例えばイスラーム教徒が多く住むオールド・デリーに行けば街の看板はウルドゥー語だらけである。しかし、インドのイスラーム教徒が全員ウルドゥー語を使っているかといえばそれは間違いで、ベンガル地方のムスリムはベンガリー語を話すし、カルナータカ州のムスリムはカンナダ語を話す。また、パーキスターンでもウルドゥー語を母語とする人はわずかで、ほとんどのパーキスターン人はウルドゥー語とは別にそれぞれ母語を持っている。他の例を挙げてみよう。A.R.ラフマーンという有名な音楽家がいる。彼は元々ヒンドゥー教徒で、名をA.S.ドゥリープ・クマールといったが、イスラーム教に改宗し、名前も変えた。では、イスラーム教徒になった途端ラフマーンはウルドゥー語を話し始めたのだろうか?答えは否。彼はタミル人であり、母語はタミル語であり、たとえイスラーム教に改宗しても母語はタミル語のままである。つまり、言語と宗教を結びつけて考えることはできないということだ。言語と宗教を無理矢理結び付けようとするのは政治的意図があるからに他ならない。言語は完全に地理的要因に根ざしたものだ。「12マイル行くと言葉が変わる」という諺は成り立っても、宗教が変わると言葉が変わるということはありえない。

 ただ、確かにヒンディー語の語彙にはサンスクリト語からの借用語が多く、ウルドゥー語の語彙にはペルシア語やアラビア語からの借用語が多いという特徴がある。その特徴を再び宗教に結びつけて、サンスクリト語=ヒンドゥー教、ペルシア語、アラビア語=イスラーム教とするのも間違いだ。サンスクリト語が成立した頃にヒンドゥー教は存在しなかったし、イスラーム教成立・普及以前からアラビア語もペルシア語も話されていたものだ。ここで問題となるのは、語彙の違いが言語の違いの基準になるか、ということだ。日本語で考えてみると分かりやすい。下に3つの文を用意した。

 @私はみんなと会ってとても幸せな時を過ごした
 A私は集会に参加して非常に幸福な時間を享受した
 B私はパーティーにジョインしてハイなフィーリングになるくらいエンジョイした

 3つとも意味はほとんど同じだが、使っている語彙が違う。@はいわゆるやまとことばをなるべく使い、Aはいわゆる中国語由来の漢語っぽい語彙を使い、Bは英語を混ぜて表現した。果たしてこれらは何語になるのだろうか?@は日本語、Aは中国語、Bは英語?いや、全て日本語に変わりないだろう。英語の語彙で考えてみてもいい。英語の語彙の中で英語固有のものと言われるのは全体の20%に過ぎず、他はラテン語、ギリシア語、フランス語などからの借用語が大半を占めている。しかし英語は英語である。つまり、語彙は言語そのものに影響を及ぼさないということを意味する。ヒンディー語とウルドゥー語の語彙が違うからと言って、別の言語と断定することはできない。そもそもヒンディー語とウルドゥー語で語彙が違うということすら怪しい。ヒンディー語の中にも多くのアラビア語、ペルシア語起源の語彙が入っており、逆もまた然りである。

 一方、ヒンディー語とウルドゥー語の文字の違いは、視覚に関わるだけあって大きな違いだ。ヒンディー語はサンスクリト語の表記に使用されていたデーヴナーグリー文字(デーヴァナーガリー文字とも言う)を適用して表記され、ウルドゥー語はアラビア文字を改良して表記されている。どちらの文字も表音文字であることと、不完全な形の音節文字であることは共通しているが、見た目は全く違うし、文字の表記の方向も逆である。では、文字の違いは言語の違いの根拠となるか?これも日本語や英語に当てはめてみれば案外すんなりと理解できる。例えば下の4つの文がある。

 @私は今日学校へ行きました
 Awatashiwa kyou gakkoue ikimashita
 Bアイ ウェントゥー スクール トゥデイ
 CI went to school today

 @とBは日本語の文字で書かれ、AとCは英語のアルファベットで書かれている。しかしこれは@とBが日本語であり、AとCが英語であることを意味しない。おそらく一般の人なら、@とAが日本語で、BとCが英語であると認めるだろう。要するに、文字の違いは言語とは無関係であることが分かる。

 では、ヒンディー語とウルドゥー語は全く同じ言語であると言っていいのかというと、ここでもうひとつの問題が立ちはだかる。発音の違いである。ウルドゥー語で使われるいくつかの音には、ヒンディー語話者が区別をしていない音がある。例えば「ザ〜ジャ」の音。ウルドゥー語にはいろんな種類の「ザ」「ジャ」の音があり、ウルドゥー語の文字ではそれらを区別しているが、ヒンディー語話者は「ザ」と「ジャ」の音の区別すらつかない状態である。まるで日本人が「r」と「l」を区別していないように、「ザ」と「ジャ」を聞くときも話すときも区別していない。これはインド人と一緒にウルドゥー語の授業を受けていて実感したことだ。日本人なら少なくとも「ザ」と「ジャ」の区別ぐらいはつくので、この点で僕はウルドゥー語を学ぶ際に他のインド人に対して優位に立っている。同じようにウルドゥー語には複数の「サ」の音があるのだが、地方によってはヒンディー語話者は「サ」と「シャ」の区別すら曖昧な状態である。他にも「タ」、「カ」、「ハ」など、ウルドゥー語では2つの音の表記がありながら、ヒンディー語では全く区別せずに表記、発音されている音がある。

 しかしこれらの音の区別よりも重要だと思ったのは、ヒンディー語を話す人々がその違いのコンセプトを全く理解していないことだ。前述の通り、ヒンディー語にもウルドゥー語の語彙(つまりアラビア語、ペルシア語起源の語彙)がある。だが、「ザ」「ジャ」「サ」「シャ」「タ」「カ」「ハ」などのそれぞれの音の違いは意識せずにひとつの音として彼らは子供の頃からそれらの語彙を使用してきた。それが突然ウルドゥー語の授業になって、「この単語に使われているこの『ザ』の音と、この単語に使われているこの『ザ』の音は別の音だ」と言われたってすぐには理解できなくて当然なのだろう。また日本語に帰って考えてみると、現代人にとって仮名遣いの違いが発音に影響しないことに当てはめてみるといいのかもしれない。現代仮名遣いでは「お」と「を」、「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の他、限定的に「わ」と「は」、「え」と「へ」を表記上区別するが、発音では区別していない。だが、これらはかつて区別されていた音だ。さらに平安時代頃の歴史的仮名遣いでは「い」「ひ」「ゐ」、「え」「へ」「ゑ」などなどの区別もあり、奈良時代以前の日本語を表記する上代特殊仮名遣いともなれば「き・け・こ・そ・と・の・ひ・へ・み・め・よ・ろ・(も)」の12〜13個の音が2種類ずつあったと言われている。表記が違えば、それは発音が違う、またはかつて違ったことを意味する。よって昔の日本人はこれらの音を区別して発音していたということだ。しかし、これらの区別を現代日本人にいきなり突きつけても混乱するだけだ。それと同じ現象が、ウルドゥー語のクラスでインド人の学生に起こっているように観察される。ヒンディー語話者には、ウルドゥー語の発音で聴き取れないものがいくつか存在する。

 では、発音の違いは言語の違いの根拠となるだろうか?例えばアメリカ英語、イギリス英語、オーストラリア英語などは、語彙の違い以上に発音の違いが顕著だが、それらは同じ英語ということになっている。しかし方言という分類を持ち込むなら、それらの英語は言語レベルではなく方言レベルでの違いを持つことになる。もちろんどこまでが言語と言語の境界線で、どこまでが方言と方言の境界線なのかを規定するのは困難だし、ここではそこまで議論しない。だが、アメリカ英語、イギリス英語、オーストラリア英語という分類が許されるなら、ヒンディー語とウルドゥー語も同じレベルで同一グループに分類され、同じレベルで違うグループに分類される資格を持っていると思われる。

 ただ、本当にウルドゥー語話者が文字上で違いのある音を正確に発音できるのかははなはだ怪しいと思っている。公用語としてウルドゥー語を学習するパーキスターン人はそれらの音を正確に聞き分けて発音しているのだろうか?ウルドゥー語の文字があちこちで躍るオールド・デリー在住のインド人たちは、果たしてウルドゥー語の正確な発音をしているのだろうか?ラクナウー出身で、自分の母語はウルドゥー語だと主張する人のウルドゥー語はどうだろうか?ウルドゥー語で区別され、ヒンディー語では区別されていない音は、元々外来語の音である。ウルドゥー語の教師や研究者などの特殊な職業に就いている人ならともかくとして、日常的にウルドゥー語を話している人々のウルドゥー語は本当に文字通りの発音をしているのか、非常に疑問である。やはり言語は地域に根ざすものであり、ところ変われば発音も変わるのが普通だろう。だから発音でヒンディー語とウルドゥー語を区別することにも慎重にならなければならないと思う。

 結局、ヒンディー語とウルドゥー語は、文法が共通している他は、多くの相違点があるものの、文法の共通点のみにおいて、同じ言語であると言うことができそうだ。文法こそが言語の違いを規定する。2つの言語間で文法が同じだったら、それらは同一の言語と言っていいだろうし、文法が違ったら違う言語だと言っていいだろう。だが、文法にもいろいろな種類があり、「文法が違う」で簡単に済ませられる問題でもないことは明記しておかなければならない。少なくともヒンディー語とウルドゥー語は、文法が同じであり、同じ言語であると言って構わないだろう。

9月12日(金) ヒンディー語が書けないインド人

 実は今月は早くもテスト月で、毎週何らかのテストがある。もう既に済んだテストもあり、結果が返ってきたものもある。

 先週行われたテストは、ちょうど病気で寝込んでいた時期と重なっていた。何とか無理をしてテストを受けたが、ずっと寝込んでいてほとんど勉強をしていなかったし、薬の副作用なのか手がピリピリ痺れた状態で答案を書いていたので、散々な結果を予想していた。多分クラスで最下位だろう、と。ちなみに1時間のテストで、1つのテーマについてヒンディー語で文章を書く形式のテストだった。しかし返ってきたら評価はA、B、C9段階評価(それぞれプラス、オンリー、マイナスがある)のうちのBオンリーで、ちょうど真ん中だった。同じクラスのアメリカ人も同評価だったので、勉強せずにこのくらいなら上出来か、と安心した。

 そのテストを行った教授は内容以上に文法やつづりに厳しい人で、「例えインド人であっても外国人であっても、ヒンディー語修士にいる者が正しいヒンディー語を書けないようでは、修士で学ぶ資格はない」と叱咤していた。だから僕が書いたヒンディー語の間違いを数箇所細かく指摘されていた。

 やはり同じクラスのインド人が一番気になるのは、僕たち外国人がどの程度の評価をもらったか、自分より上なのか下なのか、ということらしく、普段はあまり話したことのない人までも僕のところへやって来て評価を聞いてきた。さすがにAの評価をもらったインド人学生もおり、外国人よりも高い評価をもらえて一安心している人もいた中、インド人の癖にCマイナスをもらった人もいて、かなり落ち込んでいた。どうもC評価をもらうインド人は、内容云々よりもヒンディー語がよっぽど書けていないようだ。

 ところでインドの学校には、英語で授業を教えるところと、ヒンディー語などの現地語で授業を教えるところがあり、大学でもこの区別がある。僕の友人(日本人)がデリー大学学士一般教養過程の、ヒンディー語で授業が行われるコースに通っているが、その人の証言によると、やっぱりヒンディー語が全然書けていないインド人学生がけっこういるらしい。その人の方がよっぽど正確なヒンディー語が書けるようだ。インド人よりも上手にヒンディー語が書けるようになったら、それはそれでなんだか嬉しい気分になるだろう。

 インドにはいろんな言語があり、ヒンディー語圏以外から来ている学生がヒンディー語ができないのは納得できる。しかしヒンディー語圏にいながらヒンディー語を正しく書くことができない人というのも存在し、少し理解に苦しむ。

 例えば上流階級のお子様なら、家庭でも普通に英語を使っており、ヒンディー語ができないということが十分ありうる。「ヒンディー語ができない」ことが逆にステータスの高さを示すという、半ば笑い話に近い状態になっているのが、現在のインドの都市部の現状である。

 しかしこれはそれとはまた話が別のようだ。なぜならヒンディー語で授業が行われる大学や、ヒンディー語科などに入学する学生は、十中八九上流階級の子供ではないからだ。金持ちの子供は英語で授業が行われる学校、大学へ行き、もっと実用的な学問を学び、果てはアメリカやイギリスに留学してしまうケースがほとんどである。ヒンディー語と関係のある学校に在籍している生徒は、ド田舎から来た人や、中流階級以下の人オンリーと言って過言ではないだろう。それでもヒンディー語が書けないのだ。いや、この場合も、それゆえヒンディー語が書けないと書くべきか。

 なぜヒンディー語を書くことができないインド人がいるのか。これにはまずヒンディー語という言語の暗部が関係していると考えられる。現在「ヒンディー語」と呼ばれている言語は、一般的見解では北インドの各州で話されていることになっている。しかし実際地方地方でかなりの方言差があり、それらをヒンディー語の方言とはせずに、別の言語とすべきだとする考えもあるほどだ。実は前回の日記で書いたヒンディー語とウルドゥー語の違いよりも、ヒンディー語内部の各方言の相違の方がもっと複雑で重要な問題だともいえる。それらの言語を全てひっくるめて無理矢理ひとつの「ヒンディー語」としてしまったのには、当然のことながら政治的な理由が存在する。

 もし、それら地方のヒンディー語を別の言語とするならば、現在僕のクラスメイトになっているインド人たちは皆ヒンディー語のネイティブ・スピーカーではないことになる。なぜなら皆、ビハール州やラージャスターン州の、電気が来ているか来ていないか分からないような片田舎からやって来た人ばかりだからだ。彼らの話す言葉も非常に訛っており、聴き取りづらいことが多々ある。こんな状態だから、標準ヒンディー語を書くことは彼らにとって実はけっこう難儀なことかもしれない。だが、まがりなりにもヒンディー語科に在籍しているのだから、正確なヒンディー語を話し、書くことは最低条件だろう。

 また、正しいヒンディー語が書けないというのは、ただ単に識字率の問題に連なっている問題なのかもしれない。まだまだ字を読んだり書いたりすることができない人はインドにはごまんといる。教育の質の問題とも関わりがあるのかもしれない。しかしだからといって、やはり大学くらいの高等教育機関に来る人が、ヒンディー語を書けないようではいけないだろう。

 前述の通り、現在インドでは都市部を中心に、母語であるヒンディー語などの地方語が蔑ろにされ、外国語である英語がもてはやされる傾向がどんどん加速している。一方で、保守的な人々からはヒンディー語を保護する動きも活発になっている。ヒンディー語科にいるような人々は、やはりヒンディー語保護の立場に立っている人が多い。確かにいろいろな理由からヒンディー語を書くことができないインド人がたくさんいる現状を見ると、英語に走るインド人の姿は滑稽かつ危険な迷走のようにも思える。しかし人間は第一に経済的理由で活動することが多い。インド人が英語優先主義に走るのは、別にヒンディー語を蔑ろにしたいわけでもなく、英語を崇拝しているわけでもなく、ただ単に英語を知っていればいい職につけていい収入が得られる可能性が高いという単純な世知辛い理由によるものだと思う。ムガル朝時代にはペルシア語が現在の英語と同じ地位にあったわけだし、もっと遡れば、サンスクリト語だってインド人にとっては外来語だったわけだ。現在のインドの言語状況は、ごくごく自然なもののように思える。だから僕は別にヒンディー語奨励の立場でもなく、ヒンディー語排斥の立場でもなく、ただ傍観しているだけだ。

 そういえば日本でも正しい日本語が書けない大学生・社会人とか、同じ問題があるから、インドのこの現状を一方的に批判することは筋違いかもしれない。中でも僕なんかは文章を公共の場にさらしているので、ヒンディー語が書けないインド人学生批判のこの文章に日本語の間違いがあったら、それこそ恥さらしだな・・・。

9月13日(土) インド人女性と性

 インドで広く読まれている雑誌に「インディア・トゥデイ」がある。英語版、ヒンディー語版両方が出版されており、中流階級〜上流階級ぐらいのインド人がよく読んでいる雑誌だ。僕は別に毎週購読しているわけではないのだが、今週号(9月15日号)はついつい買ってしまった。なぜなら特集が「The Sex Report」だったからだ。パラパラと読んだところ、書いてあることに非常に疑問を感じたので特に気にしていなかったのだが、やはり巷で割と話題になっているようなので、ここでも取り上げることにした。内容が内容なだけに、ちょっと成人向けの記事になってしまうことをご容赦願いたい。

 今回のこのセックス・レポートは、インド人の女性の性に関する意識を明らかにしようとしたもので、インドで過去最大規模の調査が行われたと書かれていた。インドの主要10都市に住む19歳〜50歳までの中流階級〜上流階級の独身/既婚/離婚/別居中女性2305人にインタビューが行われたそうだ。ほぼ全ての返答者はカラーTVを所有し、5分の4が家を持ち、15%が携帯電話を持ち、25%が自動車を持っている、とも書かれていた。

 この時点で、既に「インド人女性」という言葉は使えないだろう。よく言われる格言に「インドに平均はない」「インドで平均を出すな」というものがある。インドはあまりに上下の格差が大きいため、平均を出しても何の役にも立たない数字が算出されるだけだ。この調査では都市部に住む中流〜上流階級の女性に限定されている。限定したのは正解だと思う。インタビュー相手の属性を限定すればするほどそのデータは正確度が増すからだ。しかしこの調査がインド人女性の性に対する考えを代表しているとはとても思えない。

 インディア・トゥデイに載っていたデーターから、興味深いものをいくつか掲載してコメントをしてみた。

セックスはあなたの人生で
どれだけ重要ですか?
重要 43
非常に重要 23
関係ない 25
重要ではない
あなたは自分のGスポットが
どこにあるか知っていますか?
はい 42
いいえ 29
知らない/言えない 29



 人生の中でセックスに重きを置いている女性が全体の66%を占めた。まあこのくらいなのだろう。それにしてもいきなりGスポットと言われて答えられるインド人女性がいるのだろうか?日本人でも引くと思うのだが。

あなたの好きな前戯は
何ですか?
キス 55
マッサージ 16
身体を見る 14
服を脱がせる 11
ポルノ映画を見る
知らない/言えない 27
あなたは次のどれを
試したことがありますか?
オーラル・セックス 27
アナル・セックス 13
同性愛 16
乱交
知らない/言えない 41



 左のデーターはインド映画っぽいロマンチックな情景が浮かぶが、右のデーターは俄かに信じがたい。オーラル・セックスをするインド人は、マニプリーなどのノース・イーストの方の人を除いたらあまりいないというイメージがある。いったいどんな人にアンケートを取ったのだろう?

もしあなたの友人があなたに
ポルノ映画を渡したらどうしますか?
見ずに返す 37
パートナーと一緒に見る 28
寝室で一人で見る 11
女の友人と見る
知らない/言えない 16
セックス中のあなた自身の快感は
どれだけ重要ですか?
パートナーと同じくらい重要 52
パートナーよりは重要ではない 10
パートナーよりも重要
重要ではない
知らない/言えない 23

 左の質問はなんか変な質問だ。こういうシチュエーションがインドでありえるのだろうか?

もしあなたのパートナーが
オーラル・セックスを
拒否したらどうしますか?
それが自分にとって
重要であると知らせる
18
オーラル・セックスをするのをやめる 16
無理矢理やらせる 11
彼とのセックスを拒否する
知らない/言えない 49
どれぐらいの頻度で
セックスをしますか?
週に1回以上 29
2週間に1回〜2ヶ月に1回 29
1週間に1回 23
しない 11
毎日



 この左の質問も変な質問だ。インド人女性が自分からオーラル・セックスをしようとするシチュエーションが想像できない。頻度の方は、分類が大まかすぎてあまり参考にならないような気がする。

あなたはマスターベーションを
しますか?
しない 75
する
知らない/言えない 16
あなたは浮気をしたことが
ありますか?
いいえ 81
はい
知らない/言えない 12

 クリシュナとラーダーの既婚者同士の恋愛が正当化されているだけあって、インドでは浮気が意外と多いと聞いていたのだが、このデーターを見る限りでは少ないと言っていいのだろうか?いや、7%という数字は多いのか?

あなたの好きな体位は何ですか?
男性上位 53
女性上位 10
側位
座位
バック
知らない/言えない 25
あなたのパートナーが浮気をしたら
あなたはどうしますか?
話し合って解決する 67
彼に自分も同じことをする
権利があると伝える
関係を終わらせる
許し、忘れ、日常に戻る
知らない/言えない 13

 インド人は何か問題が起こったときに、なるべく当事者同士で話し合って解決するという習慣が日常的にも見受けられる。それが度を越して、本当に当事者同士だけで勝手に話し合って事を進めていく部分もある。

セックスについて誰と相談しますか?
女友達 52
誰とも相談しない 29
親戚/両親/兄弟姉妹 10
男友達
知らない/言えない 12
男性のどの部分に
性的魅力を感じますか?
胸毛 42
ペニス 28
筋肉質な腿 12
知らない/言えない 12

 ついに出た!やはりインド人の女性の多くは男性の胸毛に性的魅力を感じているようだ。他でもない胸毛に男の色気を感じる人が42%もいるとしたら、これは日本と比べてかなり高い数字だと言っていいだろう。欧米では当然かもしれないが・・・。だがインドでは毛深いほどもてるということなのだろうか・・・。胸毛の濃い民族の女性は、胸毛に性的欲望を感じるようにできているのかもしれない。神様はうまく人間を作りたもうたものだ。

いつ初体験をしましたか?
結婚後 85
大学時代
婚約後
高校時代以下
何歳のときに初体験をしましたか?
18〜21歳 32
21〜23歳 28
23〜27歳 19
18歳以下
27歳以上
知らない/言えない

 都市部の女性へのアンケートとのことだが、もしこのデーターが信用に値するなら、いくら都会に住んでいてもインド人の女性は意外に保守的であることが明らかになったと言えるだろう。婚前交渉をするインド人は未だにけっこう少ないのだろうか?映画「Dil Se」にも婚前交渉について話すシーンがあったな・・・。ちなみに初体験の平均年齢は22歳らしい。

結婚生活であなたはセックスに
飽きていますか?
いいえ 74
はい
知らない/言えない 18
あなたは愛していない人と
セックスができますか?
いいえ 64
はい 15
知らない/言えない 21

 このあたりは定番な質問かつ順当な答えかもしれない。

 全体的に見て、これらインド人女性はかなりいい子ぶって返答しているのではないかと思える節が見受けられる。だが、これが実際のところなのかもしれない。実生活の例を見ても、ほとんどのインド人女性は21世紀の現代にあって、まだ純粋さを失っていない部分があると思う。一方で過激な返答もあるわけで、やっぱりなんだか平均を出すことに意味がないように感じる。

 個人的に、コンドームに関してのアンケートを知りたかったのだが、残念ながらコンドームに関しては全く触れられていなかった。インドで避妊しているカップルは絶望的なほど少ないのではなかろうかと予想される。というより婚前交渉をしないから問題ないのだろうか・・・?

 やはりアンケートを取るのには非常に苦労が伴ったようで、インタビュアーがセックスに関してのインタビューを始めただけで、返答者は怒り出したり、不審な目で見たり、無視したりと、ネガティブな反応をする人がかなりいたようだ。よく2300人も調査することができたと感心する。インドではまだまだこういう方面の調査は人々から全面的な協力が得られないだろう。増してや村に行って村の女性にこんなことを質問したら、インタビュアーは生きて帰って来れないかもしれない。あな恐ろしや。

 それにしてもインド人の性に関しては謎だらけである。多くの人がそれを解明しようと努力している(?)が、未だに全貌は解明されていない。だが、有名な「カーマスートラ」や、カジュラーホーの寺院群に見られるタントリズムなど、もともと性に関してはなんだか訳が分からないが進んでいるようなイメージのインドも、実際のところは世界でも上位に食い込むくらい保守的な国だと言っていいだろう。もし本当にそういう保守的な思考が残っているとしたら、僕はインド人に是非それを維持していってもらいたいと思っている。あまり欧米の毒々しい文化に影響されないように・・・。

9月14日(日) ムンバイーTVCM撮影旅行記

 8月中旬くらいから、デリーの日本人社会に怪情報が飛び交っていた。何かの撮影のために日本人が必要で、適役な人を探している、と。ある情報筋によるとボリウッド映画のかなり重要な役に日本人が必要という話で、また別の情報筋によると日系企業のテレビCMに出演する日本人を探しているという話で、全く情報が錯綜していた。ムンバイーに住んでいると、時々日本人に映画出演の話が舞い込むことがあるらしいが、デリーでもそんなに頻繁ではないが、そういうことはある。以前インドのテレビCMに出演した元デリー在住の日本人男性を知っているし、あのラジニーカーントの映画に出演したこれまた元デリー在住の日本人女性とも会ったことがある。

 個人的に興味があったので探りを入れてみたところ、結局どうも別々のプロダクションから偶然同時に、ボリウッド映画出演の話と、テレビCM出演の話が進行しているようだった。まずはやはりボリウッド映画の方に興味があったので、コンタクトしてみることにした。日本人が必要なボリウッド映画と聞いて真っ先にピンと来たのが、シャーム・ベネガル監督が現在製作中というスバーシュ・チャンドラ・ボースの伝記映画「Netaji - The Last Hero」である。ボースの人生と日本の間には密接な関係があり、特に日本軍とボース率いるインド国民軍の共同作戦であるインパール作戦はあまりにも有名だ。もう一人のボース、新宿中村屋に日本で初めてカレーを紹介したラース・ビハーリー・ボースの登場も期待される(2人のボースは血縁関係ではないが、2人は日本で出会ったことがある)。インパール作戦で玉砕する日本軍の二等兵の役でも何でもいいから、ベネガル監督の映画に出てみたいと思った。しかしそれは少し早とちりだったようで、連絡先の人物に電話をして聞いてみたところ、どうも何かの低予算刑事映画かサスペンス映画に出演する日本人役だった。なんか限りなく殺される役っぽい。そのときもう既にデリーで撮影をしているとのことだった。しかしどうもその電話に出た男の話し方がマフィアっぽくて、僕が「日本人を探してるって聞いたのですけど、僕が手助けできますが」と言ったところ、いきなり「いくら必要だ?」と来られたので引いてしまった。まるで「覚醒剤1kg売りたいんだが」「いくら必要だ?」というような麻薬や覚醒剤取引の会話をしているようだった。インド映画界とマフィア界に密接なつながりがあるのは公然の秘密となっている。その男の話し方を聞いただけで、ちょっとこの話は危険なかおりがするからパスしておこうと思った。ちなみに「いくら必要だ」と聞かれて「いくらでもいい」と答えたところ、「1日600ルピーでどうだ」と言われた。撮影は5日間あるというから合計3000ルピーのギャラということになる。

 もうひとつのテレビ出演の話の方は、向こうからこちらにアプローチがあった。ムンバイーからスカウトマンがデリーに来ており、JNUを中心に日本人の若者を探していたからだ。詳細を聞くと、ある日系企業のテレビCMのために、マニプリーや中国人などではなく、生粋の日本人(男2人、女1人)を探しており、撮影はハイダラーバードのラーモージー・フィルム・シティーか、ムンバイーのフィルム・シティーで行われるらしい。もちろん飛行機代、ホテル代、飲食代全て向こうもち。しかも報酬は日本のアルバイトのレベルで考えても高額な値段。こんなおいしい話が何度もあったら、インド生活をやめれなくなる、というぐらいだった。しかし誰でもいいというわけではなく、写真審査があった。デリー在住の日本人数人の写真が送られた。僕も一応写真をEメールで送ってみたところ、なんと一発でOKが出た。理由は「ブルース・リーに似ているから」だったらしい。ブルース・リーって香港人なんだけど・・・。それにしても僕はよくインドで「ブルース・リーに似ている」と言われる。とにかく僕はブルース・リーの威光のおかげでテレビCM出演が決まってしまった。

 だがそれからが非常に長かった。平日は授業があるため、週末に撮影ということになっていたのだが、向こうが何度も何度もスケジュールを変更してくるので、毎週毎週その撮影の日程に振り回される格好になった。「今度の週末に撮影だ」と連絡があり、そのつもりで待っていると、直前になって何らかの理由で1週間後に延期になり、それがまた1週間後に延期になり・・・という感じだった。その内「どうせ今週の撮影も延期だろう」と考えるようになったのは自然の成り行きである。しかし先々週に、僕の他に採用された日本人が既にハイダラーバードへ行って撮影を行ったとの話を聞いたため、撮影の話はどうも本当で、無事生還することもでき、報酬もちゃんともらえることが確認された。そして遂に今週末、僕がムンバイーへ行くことが本当に決定した。土曜日の夕方にデリーを出て、日曜日に撮影をし、日曜日の夜にデリーに帰ってくる日程だった。

 13日の土曜日の朝、指示された通りインディラー・ガーンディー国内線空港のジェット・エアウェイズ(インドの国内線専門の私営航空会社)のオフィスへ行ってみた。言われた番号をカウンターに提示してみると、本当にチケットが発行された。しかしよく見てみるとそのチケットはムンバイーからデリーへ行く飛行機が予約されており、しかも名前も間違っていた。なんちゅういい加減なアレンジだ!その場でデリーからムンバイーへ行く便に変更してもらい、名前の件も伝えておいたので事なきを得たが、かなり不安が募ったのは言うまでもない。しかしとにかくムンバイー行きの航空券は手に入った。いよいよテレビCM出演が現実のものとなった実感が沸いた。ちなみにインドの国内線の飛行機は割高で、デリー〜ムンバイー間は8345ルピー(約2万5千円)もする。

 夕方8時半のフライトだったため、準備をして7時頃に再び空港を訪れた。ジェット・エアウェイズを利用するのは初めてなのでワクワクする。さすがに私営の会社なだけあって、手続きはテキパキしている。相変わらずの厳重な荷物検査を潜り抜けて飛行機に乗り込む。飛行機は時間通りに出発した。横6人がけの比較的小さな飛行機だったが、機内食はオーベロイ・ホテルが提供しているだけあってかなり美味。ジェット・エアウェイズはいい航空会社だと思った。1時間半ほどでムンバイーのチャトラパティ・シヴァージー空港へ到着した。

 エコノミー・クラスだったものの、ジェット・エアウェイズがけっこう快適だったため、空港に着いたときには既にスター気分になっていた。もしかしたらベンツが待っているか、最低でも白塗りのアンバサダー(政府の要人用)が待っているだろう、そんな妄想を頭の中によぎらせながら空港を出ると、デリーで会ったスカウトマンのサンジャイが僕を迎えに来てくれていた。しかし僕を待っていた乗り物は、なんと彼所有のスクーター。ガクッ!なんだか話が違ってきたぞ、と内心思いつつも彼のスクーターの後ろにまたがって今夜宿泊するホテルへ向かった。ムンバイーの気候はデリーとそんなに変わらなかった。

 サンジャイからのメッセージによると、「君のためにいいホテルを予約した」とのことだった。「いいホテル」と言えば普通に想像するのは5つ星ホテル。いや、この際3つ星、4つ星ホテルでも文句は言うまい、と思っていた。サンジャイのスクーターは空港近くの街を走り抜けていく。やはり空港の近辺にあるのは高級ホテルだったが、それは素通り。だんだんホテル街のような場所になってきて、中級ホテルがいくつか並んでいたが、それも素通り。結局辿り着いたのは、ホテル街のホテルの中でも一番安そうなこじんまりとしたホテルだった。名前はシャングリラ。名前だけは立派だ。サンジャイの話によると、この辺りに外国人を泊めてくれるところがあまりなかったらしい。5つ星なら確実に泊めてくれるだろうと心の中で反論しつつ、部屋を見てみると一応ホット・シャワーとテレビとAC付き。だが僕の鑑識眼によると、1泊500ルピーは越えないだろうと予想されるくらいのレベルの部屋だった。ただ、ムンバイーはホテル代が他のインドの街に比べて圧倒的に高いので、こんなホテルでもけっこうするかもしれない。それにしてもこれがインド人の言う「いいホテル」なのか・・・。彼の生活レベルが悲しいかな知れてしまう。

 サンジャイは早速「バーに一杯飲みに行こう」と僕を誘った。バーというとデリーでは割と高級な飲食店に分類され、ディスコと一体になっているバーもある。僕はまだまだめげていなかったので、「ボリウッド・スターに会えるかな」と彼に目を輝かして話していた。ところが着いたところは場末の酒場のような場所。1日の仕事を終えた野郎どもがひしめき合って気持ちよさそうに酒を飲んでいた。まずこんなところにボリウッド・スターは訪れないだろう。デリーではレストランでアルコールを出すのに高額な税金が必要なので、酒が飲めるレストランというとどうしても高級レストランになってしまうのだが、どうもムンバイーでは普通の安食堂でも酒を出すことができるくらい規制が緩いようだ。同じような安っぽいバーがホテル街にいくつも並んでいた。しかし彼が自慢するように、そのバーのチャンナ豆は非常においしかった。その夜はオールド・モンクを飲んで早々に寝た。



 日曜日の撮影は昼の12時から6時までとのことだった。よって午前中僕はホテルに閉じこもって勉強したり(次の日テストだった)テレビを見たりして過ごした。11時半過ぎにサンジャイが昨日と同じスクーターで僕を迎えに来た。昨日は夜着いたのであまり実感が沸かなかったが、日中にスクーターでムンバイーの街を走ってみると、「インド随一の大都会ムンバイーに来たな!」という気分になる。南国の木、青い空、MHナンバー(マハーラーシュトラ州)の自動車、赤いバス、遠くに見える高層ビル・・・。ホテル・シャングリラから30分ほどで、ボリウッド映画の子宮、フィルム・シティーに到着した。

 映画の撮影所というと日本ではおそらくもっといかにも映画を撮るためのありとあらゆる施設が林立しているような場所なのだろう(例えば江戸時代の街並みを再現したような撮影所など)。だが、フィルム・シティーは広大なジャングルがそのまま敷地になっている。ハイダラーバードのラーモージー・フィルム・シティーも同じくだだっ広い敷地に撮影施設が点在している。どうもインドでの映画撮影所というのは、広い敷地があればいいのだろう。だが噂によるとこのフィルム・シティーのジャングルには虎やチーターが住んでおり、夜になると時々出没するらしい。しかも、アーディワースィー(原住民)が未だにこのジャングルの中で生活をしているという。こういうところがインドの訳のわからんかつすごいところだ。ジャングルのあちこちには映画のセットが建造されていた。フィルム・シティーの中をスクーターで駆け抜ける。




フィルム・シティーのジャングル
遠くにはムンバイー都市部のビル群


 ここで今回のTVCMのコンセプトを紹介しておこう。テーマは「Made In Japan, Entertainment For The World」。いくつかのバージョンが作られるようだが、僕が出演するのはパンジャービー・ダンス編である。パンジャービーたちがバングラー・ダンス(パンジャーブ地方の踊り)を踊っていると、その中に突然謎の男が飛びこみ、激しいバーングラーを踊り目立ちまくる。しかしその男の顔は見えない。散々踊った挙句、最後にその男が顔を見せると、それはなんと日本人だった。ここで冒頭の「Made In Japan, Entertainment For The World」というナレーションかテロップが入るという寸法だ。どちらかというと「Entertainment For India」だと思うのだが、まあいいとしよう。とにかく、そのパンジャービー・ダンスを踊る日本人役が僕である。とは言っても踊りを実際に踊るのはスタントマンで、僕は最後の顔見せのシーンだけを演じればいい。他にも同じようなプロットでタブラー・バージョンやバラタナーティヤム・バージョンなどが製作されているようで、それらにも別の日本人が出演する。

 スクーターが停車した場所には、よく映画スターがロケ地で待機するような、控え室カー(何と呼ぶのか知らない)が停まっていた。この中に座っているように指示される。おお、こんな豪華な控え室を宛がわれるとはスター級、と思っていたのも束の間、その控え室の中にどやどやとパンジャービーの格好をしたインド人たちが乗り込んでくる。なんだ、僕一人のための控え室じゃないのか・・・。またまたガックリ。しかしなるほど、彼らがパンジャービー・ダンスを踊るバック・ダンサー役か。聞いてみるとどうも彼らはダンサーの仕事をしている人たちで、普段はダンス・ショーなどに出演したりして生計を立てているようだ。コレオグラファー(ダンス指導者)も男女一人ずつ来ていた。監督らとも挨拶を交わした。




控え室カー


控え室カー内部


 控え室カーが動き出し、フィルム・シティーの小高い丘の上にあるロケ地に到着した。ムンバイーの街とフィルム・シティーを一望の下にできる絶好のロケーションである。そこには既にパンジャーブの田舎風のセットが組んであり、機材も一通り出されていた。僕の出番は最後だけなので、基本的に放っておかれた。しばらくすると、パンジャービーの格好をしたダンサーたちの撮影が始まった。僕の代役であるインド人もいた。どうも僕に似た顔の人が選ばれたようで、一瞬お互いの顔をじっと見つめて合ってしまった。確かに似ていなくはない。だが肌の色が決定的に違う。映像の力で何とかなるのだろうか。

 TVCMにしろ映画にしろ、インドの撮影というとひたすらノンビリと進むイメージがあるが、なかなかどうして彼らは皆プロフェッショナルに仕事をしていた。6時までという時間制限があったこともあるし、今日中に撮影を終わらさなければならないという差し迫った事情もあったが、屋外ロケで一番問題となるのは太陽である。日が沈むまでに撮影を終了させなければならないのだ。見ていて特に頑張っていたのは監督とコレオグラファーで、彼らの仕事ぶりはプロを感じさせた。




女性ダンサーの髪を準備中


撮影中の様子


クレーン・カメラも使用


女性ダンサーたちは一休み


 2時半頃にランチ休憩となった。ケータリング・カーも来ており、ロケ地は俄かに屋外インド料理ビュッフェ会場となった。ローティー、ライス、ダール、ダヒー(ヨーグルト)、野菜カレー、チキン・カレー、フライド・フィッシュなどなどが用意されており、これがまたうまくて驚いた。こんなおいしい食事が食べられるとは、インド映画業界で働く人々はなんて幸せなのだろうか。




ケータリング


 ランチ・タイムは15分のみで、早速撮影が再開された。いっこうに僕の出番はなく、ただ撮影を見学するのみだった。フィルム・シティーへは一般の観光客も訪れることができるようで、外部の人が撮影を見に来たりしていた。残念ながら映画スターは近くでロケをしていなかったが、午前中にはすぐ近くでアミターブ・バッチャンが新作映画「Khaki」のロケをしていたそうだ。「Khaki」のロケ地にはトラックがひっくり返っていた。また、スタッフの説明によるとなぜかアフガニスタンの外務大臣が撮影を見学しに来ていた。しかし外務大臣(Foreign Minister)というのは誤訳で、多分大使のことだと思う。アフガニスタンの外務大臣がインドに来ていたらけっこう大変なことだ。

 4時頃ようやく僕に着替え命令が出た。早速控え室カーに入って青色のパンジャービー衣装を着る。予めサイズを知らせておいたので、僕の身体に合うように仕立てられていた。そして今度はメイクアップ・カーに入って顔にメイクを施してもらった。化粧をしたのはこれが生まれて初めてだ。というかTVCMへの出演自体が生まれて初めてだ。だんだん緊張してくる。

 ただ、ひとつの懸念があった。衣装は僕専用に仕立てられていたが、パンジャービーの男性の衣装でもっとも重要なパートであるパグリー(ターバン)が、スタントマンと共有だったことだ(巻くタイプのパグリーではなく、カポッとかぶるタイプのパグリーだった)。インド人の頭のサイズと日本人の頭のサイズが違うことを監督はどうも計算していなかったようだ。いざパグリーをかぶってみると、明らかに窮屈である。しかも、パグリーの似合う日本人というのは経験上稀だ。頭でっかちな日本人の顔にはなかなかフィットしない。僕の顔もパグリーが似合わない部類に入る。そして決定的にスタントマンと異なったのは髪型だった。僕はこの撮影のためにずっと髪を切らずにいたのでけっこう長髪になっていたが、スタントマンの髪型は生粋のインド人スタイルで、短髪だった。僕の髪をパグリーの中に押し込む努力が行われたが、ただでさえ窮屈なパグリーだったので無理だった。遂に監督から「髪を切れ」命令が出た。短髪を長髪にするのはカツラしかないが、長髪を短髪にするなら切ればいいので簡単だろうと思い、CM出演が決まったときからずっと床屋へ行かなかった。しかもどうせ撮影が終わったら切ろうと思っていたので一石二鳥だった。しかしふと気が付いてみると、主役である僕が、代役であるスタントマンの髪型に合わせるというのはどういうことか?もしかして僕の方が代役だったということか?いや、しかしスタントマンは顔が映らないが、僕は映る。やはり僕の方が主役だ、などと考えている間に僕の髪はヘア・ドレッサーによってバサバサと切られてしまった。パグリーも無理矢理頭にはめ込められた。




僕の代役との2ショット


 5時頃になってようやく僕の登場するシーンの撮影が始まった。僕が出演するシーンはたったの2シーン。まずは、後ろ向きでジャンプして着地して、満面の笑みと共に振り返る、というシーンの撮影が行われた。この「満面の笑み」というのが難しくて、監督から「君の笑顔は偽物っぽい。もっと心から笑ってくれ」とか「君の視線でインド人全員のハートを射止めるんだ」とか「どうして君の笑顔は引きつっているんだ、ピクピク動いているぞ」とか「カメラの向こうに君の友達がいると思って」とか「笑うときにまばたきするな」とか、ありとあらゆる助言と叱責を受けて、何度も何度も撮り直された。20回は撮り直したと思う。これだけ何度も撮り直していると、だんだん自信が失われてきて、頭の中が真っ白になる。ようやくOKが出たときには、顔の筋肉が痺れていたほどだ。

 2番目のシーンは、ただカメラに向かって日本風のお辞儀をするだけだった。これは簡単で、数テイク撮っただけでOKが出た。これにて僕の出番は終了。時間にして30分にも満たなかったと思う。このためだけに僕は飛行機に乗ってはるばるムンバイーに来たのかと思うと少し虚しい気持ちになった。




僕の登場シーン撮影中


 それにしても演技をするのがこれほど難しいこととは思わなかった。僕は今までインド映画を見て、散々「この俳優の演技は全く駄目だ」とか書いてきたが、これからはそんなこと書けなくなりそうだ。このTVCMをきっかけにボリウッド・スターとしての栄光の階段を駆け上るかと思っていたが、ただ自分に演技の才能がないことを実感しただけだった。再び僕がカメラの前で演技をすることは、人生の中でもう二度と訪れないだろう。

 僕の撮影が済んだ後も引き続き撮影は続けられた。もうこの辺りからは本当に日没との時間勝負で、監督もクルーもみんな血眼になって走って移動して大急ぎで撮影をしていた。日が沈む7時前にはめでたくパック・アップ(撮影終了)となった。




ダンサーとコレオグラファーの集合写真
ちなみにこの中にいる僕は代役である


 どうもインド映画の撮影の仕事というのは日雇い労働と変わらないようで、映画の撮影が終わると各々のギャラの支払いの時間となった。僕は個室に呼ばれてちゃんと現金で提示額通りの報酬を受け取り、領収書にサインをした。他の人の領収書もあったので覗き見してみると、仕事によって全く報酬が違った。300ルピーくらいの人もいた。恐ろしいほどのヒエラルキーだ。

 帰りの飛行機は、行きのジェット・エアウェイズとは打って変わって、深夜2:40発のエア・インディアのフライトだった。ロンドン、ニューヨーク行きの国際線だが、途中デリーにも立ち寄るので国内移動にも利用できる。値段を見たら6533ルピーだった。デリーからムンバイーへ来るときに利用したジェット・エアウェイズよりも2000ルピーほど安い。国内移動を飛行機でする際、国内線を利用するよりも国際線を利用した方が安くなるという裏技があるようだ。しかし時間帯は最悪だ。深夜12時頃に空港へ行って、2時半頃に飛行機に乗り、4時頃デリーに到着するという疲労困憊コースである。撮影が始まるまでの待遇にも疑問があったが、撮影が終わってからの待遇はまさに手の平を返したかのように変わったように感じた。つまり僕は用済みということか・・・。

 スカウトマンのサンジャイの家が空港のすぐ近くだったので、撮影が終わった後は彼の家に行って彼の家族と会い、夕食をご馳走になって、時間になったら空港まで送ってもらった。エア・インディアは本当に最悪で、時間帯は悪いし、セキュリティーのために顔写真を撮影されるし(ジェット・エアウェイズではそんなことはされなかった!)、席は窮屈だし、機内食はまずいし、ほとんど眠れないしで、4時過ぎにデリーに着いたときにはヘトヘトになっていた。空港から自宅に戻ったときには5時になっていた。

 僕や他の日本人が出演するそのTVCMは、聞くところによると15日〜1ヶ月後に放映されるそうだ。もちろん日本では放映されない。インドのみである。しかしそれにしても僕の偽物くさい笑顔が電波に乗って全インドに届くと思うと恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。もし映画上映前に流されるCMに、僕が出演したCMが巨大スクリーン上にバーンと流れるようなことがあったら、僕はしばらくの間映画館へ行けなくなるかもしれない。これからは戦々恐々の毎日だ。僕は金と名誉に目がくらんで、安穏な生活を悪魔に差し出してしまったようだ・・・。

 だが、ムンバイーでテレビCMのための撮影に参加したことは、僕のインド滞在の中でもいい経験、いい思い出になった。自慢の種、笑い話の種も増えたことだし、幸いここはインドなので、日本よりも断然気が楽だ。惜しむらくは、パグリーをかぶるために変な髪形にされてしまったことだ・・・。かなり短くされてしまったためにいじりようがない。また髪が伸びるまで我慢するしかないだろう。早速大学でクラスメイトから「なんだその髪型は?」とからかわれてしまった。

9月19日(金) ジャハージー・バーイー

 現在インド人移民は世界中に住んでいる。比較的新しいところではイギリス、アメリカ、オーストラリアなどに移住した人々、古いところでは南インドからマレー半島に移住した人々などが有名だろう。その中で、イギリス植民地時代に19世紀〜20世紀にかけて世界のあちこちに移住したインド人はおそらくあまり一般的に知られていないのではなかろうか?

 19世紀はまさに西洋列強の帝国主義がアジアを侵食しつつある時代だった。インドでも既にイギリスの東インド会社が支配地域をインド全土に広げており、1857年のインド大反乱を機にインドはイギリス政府の直接統治下に置かれた。当時のイギリスは世界中に植民地を持っており、自国の発展と利益のためだけにサトウキビなどのプランテーションを構築していた。当初はアフリカからの黒人奴隷をプランテーションの労働者として使用していたのだが、奴隷制度が禁止されると、今度はインドから「契約労働者」という名目で労働力を補給するようになった。1838年〜1917年の間、50万人以上の「契約労働者」がフィジー、モーリシャス、トリニダード・トバゴ、スリナム、赤道ギニアなどのイギリス植民地のサトウキビ・プランテーションへ連れて行かれた。彼らはの契約は一般的に5年だったが、契約期間が終わった後もインドに帰らずにその地に留まる者がかなりいた。彼らはそれぞれの土地で生活し、働き、子孫を繁栄させ、今では上記の国々の人口の大半をインド系移民が占めている。日本人にとってそれほど馴染みのない国が多いのだが、フィジーなどはそれでも比較的ポピュラーなヴァカンス先なので、フィジーへ行って初めてそこにインド系移民がやたら多いことに驚く人も多いと聞く。

 「契約労働者」は一般的にギルミティヤー労働者と呼ばれる。契約労働者として海外へ出て行ったインド人の大半はボージュプル地方(ビハール州からウッタル・プラデーシュ州東部)の人であり、ギルミティヤーは英語の「agreement」が、その地域の方言であるボージュプリー風に訛った単語である。また、彼らは自分たちのことを「ジャハージー・バーイー」と呼ぶようだ。「海を船で渡ってきた兄弟」みたいな意味である。

 今日はそれらギルミティヤーのインド系移民の中でも特にカリブ海の国々(トリニダード・トバゴ、スリナム、赤道ギアナ)に移民した人々を題材としたドキュメンタリー映画「Jahaji Bhai」のプレミア試写会がスィーリー・フォート・オーディトリアムで行われ、僕もひょんなことから誘われたので行ってみた。実は僕はフィジーのインド系移民を調査したことがあるので、それらギルミティヤー・インド人には興味がある。こじんまりとした試写会だったが、トリニダード・トバゴとモーリシャスの高等弁務官(英連邦の国々では大使のことをこう呼ぶ)、スリナムの大使に加え、情報放送省大臣のラヴィ・シャンカル・プラサードが出席していた。

 はっきり言って映画は大したことがなかったのだが、映画上映の前に賓客たちが話したことが興味深かった。まずは大臣のラヴィ・シャンカル・プラサードが話をした。彼はちょうどボージュプル地方出身のようで、自分の故郷から海外へ移住したインド人のことを他人事と思えず、出席を決めたと言っていた。彼は契約労働者たちのことを「奴隷」と呼んでイギリスのしたことを非難し、なぜボージュプル地方から多くのインド人が連れて行かれたかについて自分の意見を述べていた。やはりビハールの人々はアショーカ王の時代までビハールがインドの中心だったということを強調する傾向にある。しかしイギリスがインドを植民地としたときには、イギリスにとって重要な地域はデリー、ラクナウー、カルカッタ、ボンベイ、マドラスであり、ボージュプル地方はそれらの都市を結ぶ通り道に過ぎず、重要な地域ではなかった。また、ボージュプル地方の人々は無教育な人が多かったため、奴隷扱いしても何の抵抗もしないだろうと侮っていた。だからボージュプル地方から多くの貧しいインド人が合法的奴隷として海外へ連れて行かれたと言っていた。

 それに反論したのがモーリシャスの高等弁務官だった。ただしラヴィ・シャンカル・プラサードが多忙のため退席した後だったが、彼は自国の例を挙げて大臣が述べたことは全く見当違いであると主張した。彼はまず契約労働者は奴隷ではないということを強調した。個人の意思で労働者募集に応募して、契約した人々が契約労働者となり、また彼らはちゃんと給料ももらっていた。そしてなぜボージュプル地方から大半のインド人が契約労働者となったのかという問題にも触れていた。ボージュプル地方のインド人は元からサトウキビ栽培をしており、非常に洗練されたサトウキビ畑労働者となりえた。だからボージュプル地方から集中的に労働者が募集されたと言っていた。

 それだけに留まらず、モーリシャスの高等弁務官は、1915年に南アフリカからインドに帰る途中にモーリシャスに立ち寄ったマハートマー・ガーンディーのことに話を進めた。ガーンディーはモーリシャスに移民したインド人に3つのことを話したという。1つは「モーリシャスは既に母国なのだから、インド人がインドを愛するようにモーリシャスを愛すること」、2つめは「教育を充実させること」、3つめは「政治に積極的に参加すること」。それ以後、モーリシャスのインド系移民たちはガーンディーから言われたことを忠実に守り、自分たちの文化を守りつつ政治的実権も掌握していったという。

 さらにモーリシャスにあるガンガーに話が移ると、彼はますます饒舌となった。なんとモーリシャスにもガンジス河があるという。インド系移民がモーリシャスのジャングルの中を探検していると、きれいな湖を発見した。その美しさに心を奪われた移民たちは、その湖の畔にシヴァリンガを作ってプージャーを始めた。そのシヴァリンガが寺院となり、やがてモーリシャスのインド人だけでなくアフリカのインド系移民たちも参拝に訪れるほど有名な寺院となった。そして今から約10年前に、誰かがインド本国のガンガーの水を汲んで来て、その湖に流した。それによってその湖と、その湖から流れる河がガンガーとなったという。高等弁務官は、そのモーリシャスのガンガーはインドのガンガーよりも美しいと声高らかに宣言した。

 モーリシャスのガンガーはインドのガンガーよりも美しい――この言葉には深い意味がある。実際にモーリシャスのガンガーはゴミを捨てたり沐浴したりすることが禁止されており、本家のガンガーよりも圧倒的に清潔なようだ。だがこれは表面上の意味である。彼はインド本国のインド人が、自分たちの文化を忘れつつあることを嘆くと同時に、また自国のインド人が、インドから遠く離れつつも、インドの文化を大事に維持していることを誇ってこの言葉を発したのだった。彼はヒンディー語を使わずに英語ばかりを話すインド人が増えてしまった現状に警鐘を鳴らしていた。

 僕は以前にも書いた通り、これから将来インドが英語に向かって走り続けるのか、ヒンディー語へ回帰するのかについては、傍観の立場をとっている。確かにインド人がインドを代表する言語であるヒンディー語を二の次にして英語至上主義に走っていくのを見るのは残念だ。しかし、アジア各国の人々と比較して英語力のあることが、インドの有利な点になっていることは認めなければならない。ヒンディー語保護が直接に英語力の低下を招くとは思えないが、日本の英語教育を見てしまうと、あまりにヒンディー語を保護しすぎるのも問題かもしれないと思ってしまう。英語は今のままを維持して、もっとヒンディー語学習の意義と、ヒンディー語学習による利益(つまりヒンディー語を学ぶことによって職が簡単に得られるようにすること)を創出していくことが重要だろう。

 ただ、こういう意識改革は、インド人が自ら問題意識に目覚めてやっていくべきことだと考えていた。しかし一方でこういうのは極めて政治的な活動になってしまうという限界も感じていた。その最悪の形が原理主義だ。しかし今日、モーリシャスの高等弁務官の話を聞いて「これだ!」と思った。19〜20世紀に海を渡ったインド系移民たちこそ、インド本国に文化保護を強く主張できる人々ではなかろうか。彼らはある意味外国人だ。だからインドを公正で客観的な目で見ることができる。しかし一方で彼らはインド人だ。インドを自然な愛情と共に見ることができる。本国のインド人も、全く関係のない国の人の言葉には耳を貸さなくても、彼らの言葉ならスッと心に入ってくるはずだ。かつて契約労働者たちは、故郷を去って黒い海を渡ろうとするとき、「ラームチャリト・マーナス」「ハヌマーン・チャーリーサー」そしてガンガーの水が入った壺を持って旅立ったという。つまり、彼らはただひとつ、宗教を心の支えとして海を渡ったのだった。そして目的地に着き、永住を決めた後も、ただインドに恋焦がれながら、インドの文化を大事に大事に保護してきた。彼ら移民たちの国は、言わば母なるインドの子供たちだ。子供たちは立派に成長した。しかし母親は今、おかしな方向へ向っている。まるで病気になってしまったかのようだ。こういうときこそ、子供たちが力を合わせて母親を助けるべきだ。

 世界各国の旧植民地国に散らばるインド系移民たちは、不幸な歴史の生き証人とも言える。しかし、別の見方をすれば、インドは世界各地に「ジャハージー・バーイー」という心強い子供たちを持つ、子宝に恵まれた国だとも言える。彼らが親孝行するときは今だと思う。しかも現在目下、「ハワーイー・ジャハージー・バーイー(飛行機で海を渡った兄弟たち)」も増殖中だ。さすが大家族主義国家インド!

9月20日(土) Boom

 ここ2週間ほど忙しくてあまり映画を見に行けなかったのだが、今日は時間があったのでサッティヤム・シネプレックスで新作映画を見ることができた。見た映画は昨日から公開され始めたばかりの「Boom」。インド映画離れした過激な表現と、奇抜なファッションで注目度の高かった作品だ。

 主演はアミターブ・バッチャン、グルシャン・グローヴァー、ジャッキー・シュロフ、ジャーヴェード・ジャーファリー、ズィーナト・アマーン、スィーマー・ビシュワース、パドマー・ラクシュミー、マドゥ・サプレー、カトリーナ・カイフ。前者三人(アミターブ、グルシャン、ジャッキー)はボリウッド映画によく出てくるお馴染みの俳優だ。ジャーヴェードもマルチ・タレントで、TVに映画に音楽にいろんな才能を発揮している。ズィーナトとスィーマーはけっこう名の売れた女優のようで、後者三人(パドマー、マドゥ、カトリーナ)は本当のモデルである。




Boom


Boom
 シェーラー(パドマー・ラクシュミー)、アヌ(マドゥ・サプレー)、リーナー(カトリーナ・カイフ)はインドのトップ・モデルでルームメイトだった。ある日ムンバイーのインド門前で行われたファッション・ショーのステージの上で3人は他のモデルたちと喧嘩をする。そのときモデルの髪からいくつものダイヤモンドが散らばった。このダイヤモンドは盗品で、ドゥバイに住む大物マフィア、バレー・ミヤーン(アミターブ・バッチャン)へ密輸される予定のものだった。ダイヤモンドは雑踏の中で紛失してしまった。

 ダイヤモンドの密輸を取り仕切っていたのは、チョーテー・ミヤーン(ジャッキー・シュロフ)というマフィアだった。彼の別名はフィフティー・フィフティー。必ず50%のマージンを取ることから名付けられた名前だった。チョーテー・ミヤーンは部下のブーム・シャンカル(ジャーヴェード・ジャーファリー)に、3人のモデルの捕獲を命ずる。シェーラーたちは女召使いのバーラティー(スィーマー・ビシュワース)と共に捕らえられる。

 一方、ドゥバイではバレー・ミヤーンが養子のミディアム・ミヤーン(グルシャン・グローヴァー)にダイヤモンド奪回を命じていた。ミディアム・ミヤーンはムンバイーのチョーテー・ミヤーンにダイヤモンド奪回を命じ、チョーテー・ミヤーンはブーム・シャンカルと捕まえた3人のモデルにダイヤモンド奪回を命じた。

 ブームはシェーラー、アヌ、リーナーに銃を渡し、銀行強盗を命じる。なぜかこの辺りから召使いのバーラティーが急に策士となって作戦に参加し始める。バーラティーの機転でバング(大麻)を飲んだ3人はハイテンションのまま銀行へ、そこでバレー・ミヤーンの部下チョートゥーラームからダイヤモンドを奪うことに成功した(この辺のストーリーが混乱していた)。

 3人は召使いのバーラティーと共にブーム・シャンカルを出し抜いてドゥバイへ渡り、バレー・ミヤーン、ミディアム・ミヤーンと接触する。そしてダイヤモンドの取引を餌にして、バレー・ミヤーン、ミディアム・ミヤーン、チョーテー・ミヤーンの3人を一箇所に呼び出し、3人を仲違いさせて相討ちにさせた。こうしてブーム、シェーラー、アヌ、リーナー、バーラティーは、3人のマフィアから巨額の金を手に入れた。また、ブーム・シャンカルも最後には裏切られて海に放り出された。

 この出来事の後、バーラティー、シェーラー、アヌ、リーナーは手に入れた金で悠々自適の生活を送ったという。

 まず全体的な感想から書くと、はっきり言って期待外れの映画だった。ハリウッド映画っぽいボリウッド映画を作ろうとしているのは分かるのだが、ストーリーがよく分かりにくかった。また、インド映画のレベルを超えたエロチックなシーン、大胆なファッション、そして残酷シーンがあって、これはインド人の観客には受け入れられないだろうと思った。

 ナヴァラサ評の@恋愛を最高評価の3にしたのは、別にロマンティックな映画だったからではなく、極度にエロチックな映画だったからだ。インドで「シュリンガール(恋愛)」と言った場合、男女の恋愛に加えてエロティシズムのニュアンスもある。モデルたちの着ている服は胸元が大胆にはだけていて胸が丸出しだったし、チョーテー・ミヤーンの机の下で働いている女性(何をするためかはここでは書くまい)などは際どすぎる表現だった。

 アミターブ・バッチャン演じるバレー・ミヤーンのバカ殿的キャラクターや、ジャーヴェード・ジャーファリー演じるブームの口癖「アイヤイヤイヤイヤ〜」などはおかしくてよかった。その他ニヒルなコメディーが随所に散りばめられていた。よってA喜笑のラサも3にしておいた。

 G嫌悪が3なのは、あまりに暴力シーン、残酷シーンが多かったからだ。特に小指をミシンで切断するシーンが出てくるのだが、この血生臭いシーンには会場から嫌悪の声が挙がった。僕も思わず顔をしかめてしまった。

 マフィアの業界用語が頻出し、マフィア口調のしゃべり方だったので、映画をほぼ全て理解することはできなかったのが悔やまれる。中盤でストーリーを見失ってしまった。もし全部理解できたら、もう少し評価は上がったかもしれないが、帰り際にインド人も「金の無駄遣いだ」と口々に言っていたので、やはり大衆受けはしないと思われる。

 あと、どうも3人のモデルが誰が誰だかよく分からなかった。僕が人の顔を覚えるのが苦手なだけかもしれないが、もう少し顔に個性のある3人をキャスティングしてくれたらもう少し理解度が上がったかもしれない。グルシャン・グローヴァーとジャーヴェード・ジャーファリーの顔もなんとなく似ていて混乱した。

 実はこの映画のサントラは、タルヴィン・スィンやサンディープ・チャウターなどの有名なアーティストが参加しており、現在インドのヒット・チャートのナンバー1である。しかし「Boom」は2時間の映画で、ミュージカル・シーンはほとんどなく、それらの音楽が生かされることはなかった。

 細かいところで面白い部分があった映画だったが、エロ・シーン、グロ・シーンがいくつかあることと、脚本の整合性のなさのせいで、僕はあまりオススメできない映画である。題名通りのブームにはならないだろう。

9月21日(日) インドに著作権はない?

 MD、MP3、CD−R、DVD−Rなど、記録技術の進歩に従って90年代ぐらいから急速に「著作権」という言葉が音楽、映画、コンピューター・ソフトウェアなどの業界の人々の口から発せられる回数が増えてきた。それだけでなく、著作権はいまや文学や芸術に関わる人全てが直面する問題となった。そんな中、インドでは依然として「著作権」という言葉は市民権を得ていない。つまり海賊版の音楽、映画、ソフトウェア、本、衣服、食品などなど、ありとあらゆる商品に著作権無視のものが見受けられる。著作権無視というより、元々著作権など存在しないかのようだ。

 インドの著作権侵害の例を挙げ始めたら枚挙に暇がない。例えば僕はよくインド映画の音楽CDをよく買う。もちろん大手のCD屋で正規に売られているCDである。しかしある日それを見た大家の息子のスラブは僕に言った。「兄さんはどうしてそういう無駄な買い方するの?こんなの(違法コピーの)MP3で全部手に入るのに。僕がいい店教えるよ」僕はただ、「僕がちゃんと買うことで、インド映画界の発展に貢献してるんだ」と答えただけだったが、スラブはよく理解していないようだった。

 映画界でも著作権無視は絶望的なほど浸透している。新作映画のVCDが封切前に手に入ったり、ケーブルTVに上映中の新作映画が放映されたりと、もうやりたい放題である。

 インドで売られているパソコンやソフトウェアはもっとひどい。僕はインドで海賊版ウィンドウズ以外で動いているパソコンを見たことがないし、ソフトウェアも1枚の正規版CDから何千もの海賊版CDが増産されるという状態だ。

 取り締まろうと思っても、取り締まる人間が一般庶民と同じく海賊版メディアの恩恵を日頃受けている人だろうから、本格的に取り締まることは不可能だろう。また、政府機関のパソコンで動いているウィンドウズだって、大半が海賊版であることが容易に推測される。インドではもうどうしようもないほど著作権は侵害されまくっている。

 だが、僕は実は著作権という考え方が嫌いである。一応法律だから著作権は侵害しないように生きているつもりだが、ときにインド人の著作権に対する態度が痛快に思えることがある。なぜ著作権が嫌いか。それはひとつの根源的問いが僕の心の中にあるからだ。著作権を主張する人というのは、大概芸術家や作家など、知的創造物の創出を生業としている人々だ。そして大概なぜかそういう職業というのはかっこいいイメージがつきまとい、本人たちも大きな顔をしている人たちばかりだ。しかし彼らの仕事は果たして著作権云々を主張していばるほど偉い職業なのだろうか?人間が生きる上で必要不可欠な衣食住に関わる仕事をする人が威張るのは納得がいくとして、なければないでもいいようなエンターテイメントに関わるような人が、自分が作り出したものに執着して、あたかもそれが自分だけのものであるかのように振舞うのを見るのは好きではない。彼らの仕事は第一に人を喜ばせることである。娯楽も確かに人間が生きる上で必要不可欠なものであることは認める。しかし、そういう人たちがいなくても人は自然に娯楽を見つけることができるだろうし、娯楽で強引に金を取るような商売には疑問を感じる。エンターテイメントに関わる仕事をする者は、人を喜ばせてなんぼだ。報酬はあくまでそのお客さんの感動いかんによって決められるべきだろう。そう、僕が理想とする芸術家の生き方は、インドの道端に生きる大道芸人だ。あれこそ芸術家の本来の姿だと思う。そしてかつてマハーラージャーの宮廷に住み込んで芸術の追求に打ち込んでいたというお抱えの芸術家たち。彼らもマハーラージャーの歓楽のために作品を生み出し、それにより褒美をもらったり寵愛を受けたりしていたという意味で、本来の芸術家だと思う。娯楽に関わる者というのは本来ちょっと卑しい存在だったのではないか。

 インドの文学史を紐解いてみると、やはり著作権という観念は皆無だったことを痛感させられる。例えばバラモン教の聖典ヴェーダ。いつだったか僕はヴェーダについてこういう説明を受けたことがある。「ヴェーダというのは、誰かが作ったものではなく、元々存在していたものである。空気中だったり、草木の中だったり、生き物の体内だったり、とにかくこの世界の至る所に元々存在していたものである。それを特別な能力を持った人が言葉にしたものがヴェーダである。」ヴェーダだけでなく、「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」、その他のインドの古典文学の成立についても同じような説明がなされることが多い。要するにそれらの作品の作者は実際にその作品を作ったのではなく、神の声だか何だか知らないが、ただ元々あったものを「発見した」または「編集した」だけだというのだ。元々あったものなら、著作権なんて最初から存在しない。

 ただ、昔の文学で著作権を気にしている作者など世界に一人もいないだろう。インドだけに限って述べるような話でもないかもしれない。しかし、昔のインドの文学者たちが、作品を自分自身で作ったものではなく、何かの啓示を受けて言葉にしたと受け止めていることは非常に面白いと思う。確かに現代の作家や芸術家でも、よく「突然インスピレーションが沸いて一気に作り上げた」とか「朝起きたらなぜか頭の中にイメージができあがっていて、それを形にしただけだった」と言う人がいたりする。そしてえてしてそういう突然のひらめきによって作られたものは名作となることが多い。インド人の考えるとおり、真の芸術作品というのは本当は個人の力で創出されるものではなくて、そこら辺に漂っている何かをキャッチして形にしただけのものかもしれない。

 作品成立の時点で著作権がないとなると、成立以後の改変が起こることは必然だ。インドでは口承文学の伝統が根強かったこともあり、語り手から語り手へ受け継がれていくごとにどんどん形が変わっていくということが多かった。まずすぐに変わってしまうのは言語である。口承文学として伝わった作品を、記録者がその人の方言で好き勝手に記録してしまうことなど日常茶飯事であったため、後世に残っている作品の言語からオリジナルの作者の言語を復元することは実は難しい。また、コピー機などなかったので、文字で記録された作品であっても、書写される内に変わってしまうことは多い。それに加え、後世の人がオリジナルに勝手に文や章を追加してしまうことも少なくなかった。「ラーマーヤナ」の第7章ウッタラーカンドが後世に追加されたものであることは有名である。また、過去の作品を題材にとって新たにリミックス作品を作るという伝統もインドの文学ではよく見られる。また例が「ラーマーヤナ」になってしまうが、トゥルスィーの「ラームチャリト・マーナス」やケーシャヴの「ラームチャンドリカー」などなど、「ラーマーヤナ」の筋を基にして後世に作られた文学作品はインドには腐るほどある(インド国外にもある)。日本の和歌でも「本歌取り」という技巧があるし、中国でも「三国志」を基に「三国演技」が作られたりしているから、やはりこれもインド特有の事象ではなかったといえるだろう。結局著作権なんていう考え方は、つい最近生じたものだし、あまり根拠のないもののように思える。ただ芸術家などと呼ばれる元々乞食か寄生虫同然の人たちの腹を満たすための言い訳じゃないのか。

 文学でも芸術でも、根本的には「みんなで楽しむもの」であり、誰かが所有権を主張するような性格のものではなかったと思う。欧米の文学史がどうだったかは知らないが、少なくともアジアの歴史では、一度世に普及した作品は、みんなの手で自由に改変されて行くオープン・テキストだったと言っていいだろう。現代で言えばフリーソフトのようなものか。ウィンドウズがクローズド・テキストとすれば、リナックスはオープン・テキストだ。こういう伝統的な考え方がインド人の心に根付いているから、著作権という考え方はあまり受け入れられないと考えるのはちょっと深読みしすぎだろうか?ただ単に業者は儲かるから海賊版を売り、消費者は金を節約するために海賊版を買っているに過ぎないというのが結局の結論だろうか。

9月24日(水) 鳩

 最近ちょっと嬉しかったことがあった。

 僕が学んでいる教室はほとんど倉庫のような場所で、壊れた椅子や文化祭などに使ったと思われる看板などが隅に置かれており、外へつながるシャッターまでついている。おそらく以前は倉庫かガレージに使われていたのではなかろうか。もし絵画を学ぶために来ているなら、なんとなくアトリエという雰囲気でちょっといい感じなのだが、残念ながらそうではない。講義を聴講するために来ているのだ。一方、他の教室を覗いて見ると、普通に教室という感じの部屋になっている。つまりMAヒンディー語コースだけがこのような物置部屋教室を宛がわれているのだ。インドの大学におけるヒンディー語科の地位が何となく知れてくる。

 授業はほぼ毎日9時頃から始まる。僕はキャンパスの外に住んでいることから、早め早めに出発しているため、いつも朝早く着く。ただ、教室の扉は錠がかかって閉まっている。鍵開け係の人がひとつひとつ鍵を持って教室の扉を開けていくので、それを待っていなければならない。扉が開いたら中に入り、電気をつけたりパンカー(天井のファン)を回したり窓を開けたりする。これが僕の日課である。しかしある日の朝、教室の窓を開けていると、ふと教室の隅に動くものを見つけた。鳩だ!

 教室の中に鳩が入り込んでいた。昨日からずっと窓も扉も閉まっていただろうから、昨日のいつぞやに入ってきてそのままずっとこの教室に閉じ込められていたことになる。見ればあまり元気がなさそうである。しかし道路に牛がうろついている国だ。今さらこんなことで驚いていてはインド在住者の肩書きに傷がつく。僕は気にせずにそのまま席に着いた。

 そのまま授業が始まり、鳩のことなどすっかり忘れてしまった。鳩もずっとじっとしていたようで、その存在に気付く者はほとんどいなかったようだ。そのまま4時間目になり、教授が入ってきた。その教授はヒンディー語学科はもとよりJNU中に危険人物として知られるほど厳しい人である。皆の顔に緊張が走る。そのときに何を思ったか、しばらくじっとしていた鳩が羽ばたきをしたのだ。これでその教授に鳩の存在が知られてしまった。

 その瞬間、僕の脳裏に一瞬にして、その教授が鳩を見てどういう反応をするのかの予測シミュレーションがいくつもパパパッと浮かんだ。「なんだ鳩か」と気にも留めないか、「授業の邪魔だ、誰かこの鳩を追い出せ」と命令するか、「お前らワシを鳩と一緒に講義させるつもりか、なめんなよ」と怒り出すか、はたまた鳩をネタにガザル(詩)を詠いだすか、そのどれかだと思った。しかし、その教授がとった行動はそのどれでもなかった。

 「誰か、パンカーのスイッチを切りなさい」

 教室の天井には巨大なファンがいくつも回転して風を送り出している。しかしこのファンは実は飛行する生物にとって天敵で、夜などに、部屋の明かりにつられて部屋の中に入ってきた虫などが、フラフラッとパンカーの方へ近づこうものなら、「パン!」という音と共に高速回転するパンカーの羽にはじかれ、あわれあえなく下に落下して落命する。これはインドの夏の夜によくある風景である。このパンカーに誤って手を突っ込んでしまったらどうなるか、ということも実は実験済みで、何を隠そう僕が長袖の上着を着ようと思って袖に手を通していたところ、つい腕を上に上げてしまい、そこにあったパンカーに手首あたりをぶつけてしまった。僕はてっきり手首から先が切り飛ばされたものと思って動転したが、ただ袖の先が汚れただけで、手首は無事だった。どうやらパンカーには人間を殺傷するほどの力はないようだ。回転中突然落下して来たら殺傷力があるかもしれないが・・・(これもインドではあり得ない話ではないらしい)。

 話が横にそれてしまったが、とにかく教室にいた鳩を見てその教授が言った言葉が、「パンカーのスイッチを切りなさい」だったのだ。鳩がパンカーに当たって死傷するのを防ぐための指示だった。

 雨季が明け、セカンド・サマーと呼ばれる時期になっているので、最近日差しも強いしけっこう暑い。エアコンなどなく、唯一の避暑装置であるパンカーを切ってしまったら、暑くなるのは必定である。しかしこのままパンカーを回し続けていたら、そのパンカーに鳩が激突して命を落としてしまうかもしれない。確かにそれは起こりうる。複数の人間の快適さよりも、一匹の動物の命を守る・・・この些細な出来事から僕はインドの素晴らしさを改めて実感した。そして僕は朝その鳩を見つけたときに、そのことに気付かなかったのを恥じた。教室のパンカーは全てスイッチ・オフされて、教室の中は暑くなった。でもいいのだ、鳩の命を守るためなら・・・。

 命を大切にする気持ちというのは、世界のどこにでもあるとは思うが、やはりインドは他国に比べて一歩二歩抜きん出ていると思う。何を基準に命を大切にする国か粗末にする国か決めるのは難しい。しかし僕はひとつの基準を知っている。それは野良犬である。野良犬がいる国は人間の快適さよりも動物全般の命を大切にする国だと思っている。野良犬がいない国は、人間が生活する上で便利で安全なように、平気で邪魔な生物を抹殺することができる精神性を持った国民の国である。そういう意味で、インド人は命を大切にし、日本人は命を軽視していると思う。いや、軽視するようになったと言うべきか。僕が子供の頃などは野良犬なんてけっこうそこら辺うろついていたものである。それがいつの間にかほとんどいなくなってしまった。狂犬病などの予防のために保健所に連れて行かれて殺害されたのだろう。いるのは去勢されて温室育ちのペットの犬だけである。あんなの犬とは認められない。やはり野良犬こそ正真正銘の犬である。野良犬を道から排除しておいて、「命の大切さを理解しましょう」とか「自然に触れ合いましょう」なんて吹聴するのは偽善である。野良犬のいない国の国民を信じるな、これを肝に銘じて国際化社会を生き抜くべし(?)。

 ちなみに例の鳩は、パンカーが止まってしばらく後に、安心したのか窓の方へ飛び立ち、窓の格子の隙間から外に出て行った。すぐにパンカーをオンにしたのは言うまでもないが、すぐに停電になってまた止まってしまった・・・。

9月25日(木) ASIMO MEGA SHOW

 以前ホンダのASIMOがインドに来たというニュースを見たが、まだインドに滞在していたようで、今日はスィーリー・フォート・オーディトリアムで「ASIMO MEGA SHOW」があった。チケットが手に入ったので行ってみた。

 ASIMOのことはニュースやTVCMなどで十分知っていたが、実際に見るのは初めてだった。インドにいながら日本の最新テクノロジーを目の当たりにすることができるとは何だか不思議な気分だ。相変わらずスィーリー・フォート・オーディトリアムの警備は厳重で、せっかく持っていったカメラや、携帯電話など、全て入り口で預けなければならなかった。こういう過敏な警備がデリーの嫌なところだ。しかしホンダ関係の人のおかげで一番前の予約席に座ることができた。

 午後7時から始まる予定だったが、インドで時間通りに事が進むようなことはなく、やはり30分ほど遅れて始まった。しかし前座で変なダンサーたちが変な音楽と共にダンスをしたり、ホンダのCMが延々と流されたりと、かなりじらされた。やがてASIMOの開発秘話ビデオが流され、やっとASIMOに会えるかと思ったら、またダンスが始まり、いい加減にしろと怒りが頂点に達したところでやっとASIMOの登場となった。

 おお〜!TVで見たASIMOそっくりのASIMOが歩いてきた!これは感動!しかし実物は思ったよりもコンパクトで小さかった(身長120cm)。親しみやすいデザインにするために小さめに設計したようだ。ASIMOは両手を合わせて(完全に合わさっていなかったが)「ナマステー」と挨拶し、あとはヒンディー語の混じった英語で司会のお姉さんと会話をしていた。いろんな動きをすることができて、これはもうインド人もビックリだろう。日本人もビックリしてしまった。




ASIMO


 ASIMOの意味は「Advanced Step in Innovative Mobility」の略らしい。・・・なにもそんな無理にこじつけなくても・・・。日本語の「足」とかけたんだろうに・・・。21年の歳月と3000億円の資金を投入して製作されたらしく、現在インドに来ているASIMOはタイの駐在員だそうだ。つまり普段はタイで働いており、今はインドに出張に来ているというわけだ。

 ASIMO自慢の階段上り下りも披露され、会場のインド人のボルテージが最高潮に達したところで、観客参加型のイベントになった。もちろんインド人は積極的だ。会場のあちこちから子供たちがステージへ駆ける。まずは数人の観客がステージに上がって、ASIMOと一緒にダンスを踊った。音楽は「Dil Chahta Hai」の「Woh Ladki Hai Kahan」。この曲のダンスといえば、両腕を横に広げて鳥のようにパタパタ動かすのが有名だ。しかしASIMOが踊ったのはハワイのフラダンスのような動きだった。ちょっと振り付けが違うぞ、ASIMO!その後、観客と一緒に片足でどれだけ立てるかとか、一緒に写真を撮ったりとか、いろいろアトラクションがあった。

 インドに住んでいると普段、インド人ってすごいんだなぁ、とか、インド人って駄目だなぁ、とか思ったりするものだが、今日ばかりは、日本人ってすごいんだなぁ、と思った。おそらくこれを見たインド人たちもそう思っただろう。ASIMOを見た子供たちの中から将来インドのロボット工学を担う人が出てくるかもしれない。現在のインドのロボットというとこれだからな・・・。




インドロボット工学の結晶
「ダンスキング」


 もちろん、ASIMOを見て自分が日本人であることに少し誇りを感じた。今度11月にICCR(Indian Council for Cultural Relations)主催の外国人留学生文化交流イベントがあり、日本人留学生も何か出し物をしなければならないことになっている。一応無難に盆踊りでもしようかということになっているが、ASIMOに踊ってもらった方が絶対に受けるのだが・・・。

 ところで変な話になるが、ASIMOを見ていてふと思ったことがある。なぜロボットというのは基本的に男に見えるのだろうか?ASIMOの声は男の子の声で、司会のお姉さんも何の疑問もなしに「ガールフレンドはいるのかな?」「とってもハンサムね」とか言っていた。ASIMOが男であるとは、ASIMOのウェブサイトにもどこにも書いていないと思うのだが。また、大体ロボットが出てくる漫画を見ても、男型のロボットが主流で、女型のロボットは男型のロボットにリボンををつけたり、おっぱいをつけたり、ピンク色にしたりしてなんとか女のように見せているだけだ。ASIMOをはじめ、いろいろなロボットが登場しつつあるが、人型ロボットというのは、どちらの性別かといえばほぼ全部男と相場が決まっているような気がする。つまりロボットというのはなぜか男が基本形である。一方、自然界では、受精卵からの発現の過程で最初は全員女で、男の遺伝子を持つものは途中から男に変化する。つまり自然界では女が基本形なのだ。人工の世界と自然の世界の違いの根本がここにあるような気がした。

9月26日(金) バイク購入

 後進国ほど道に二輪車が多いと言われるが、インドにもスクーターやバイクなどの二輪車が多い。一昔前までは二輪車は中流階級の象徴、四輪車は上流階級の象徴になっていたが、最近では中流階級も四輪車に手が届くようになり、二輪車の保有者の層も下の方へとかなり広がってきた。特に若者にとってバイクはステータス・シンボルである。持ち物の有無で身分をはかられる国なので、とりあえずバイクがあれば彼女ができるという話も聞いたことがある。

 しかしバイクに限ったことではないが、最近のインドの都市部では「持っているか持っていないか」という価値基準から、「何を持っているか」という価値基準にだんだんと移行しつつあると感じている。例えば日本でもテレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器と呼ばれた時代があった。その頃の日本ではおそらく所有していることに意味があり、ステータスがあっただろう。インドもそうだったし、農村ではまだそうだろう。だが、デリーを見てみると、どんな貧しい家にも(たとえスラム街の住人でも)オンボロでもとりあえずテレビや冷蔵庫などがあったりして、次第に所有していることに意味がなくなってきた。そこでデリーなどもだんだんと次のステージ、「どんな性能のものを持っているか、どんなスタイルのものを持っているか」という、機能性、デザイン性に価値基準が移行してきた。つまり、いい性能のものや、かっこいいものを持っている人がステータスを得るのである。これが過ぎれば、今度は日本の現在のように「どの会社の製品か、どのブランドか」というブランド主義へ移行するのだろう。

 ちょっと前までのインドのバイクというと完全に実用主義だった。インド人のバイクの評価基準はまず第一に燃費であり、低燃費の100cc以下のバイクが主流だった。シートは平らになっており、3〜4人が座りやすいようにできているものが人気だ。お父さんが運転し、後ろに座ったお母さんとの間に子供が1人か2人座り、まだ子供がいたらお父さんの前にも一人子供が座るという「一家揃ってお出かけスタイル」はインドの微笑ましい光景である(法律では3人乗り以上は違法だが)。しかし21世紀に入ってからインドのバイク会社(ヒーロー・ホンダ、カワサキ・バージャージ、TVSスズキ、ヤマハ、LMLなど)が、100ccオーバーの機能重視、デザイン重視のバイクをどんどん投入してきた。一気にバイク市場は100cc台へと移行し、デザインも日本人の好みにかなうようなものも出てきた。

 僕は家から10km離れた大学に通うためにバイクを買おうと思っており、注意深くインドのバイク市場を見てきた。狙いはやはり100cc台だった。現在のインドの売れ筋バイクは何と言ってもカワサキ・バージャージのパルサーである。150ccと180ccがあり、特に180ccはステータス・シンボルとなっている。パルサーのヒットのおかげでバージャージは急速にシェアを広げつつある。同じバージャージのエリミネーターはアメリカン・タイプのバイクで、これも180cc。現時点でインドで一番高いバイクになっており、やはりこれもステータス・シンボルである。一方、ヒーロー・ホンダのCBZは歴史の長い150ccバイクである。TVSスズキもフィエロF2という150ccバイクを出している。しかし恐るべき勢いで売れているのはLMLという会社の110ccバイク、フリーダムだ。最近になってユニクロ並みのカラー攻勢に出てきて、ピンクとかオレンジとかクリーム色とか、センスを疑うような色のフリーダムがインドの道に溢れるようになった。





Kawasaki Bajaj - Pulsar180



Kawasaki Bajaj - Eliminator



Hero Honda - CBZ



TVS Suzuki - Fiero F2


 しかしもっとも気になっていたのは、ヒーロー・ホンダが自信を持って今年7月に送り出した、インド初の200ccオーバーバイク、カリズマである。排気量223cc、最高時速125km、そしてスポーティーでスタイリッシュなデザインは、現在売られているインドのどのバイクをも凌駕する。TVCMではインド映画の大スター、リティク・ローシャンが宣伝をしており、ヒーロー・ホンダの気合の入り方が伺われる。

 ところで、上に挙げたバイクの他に、インドにはもうひとつの「主流」が存在する。インドの四輪車界にアンバサダーという傑作があるように、インドの二輪車界にはロイヤル・エンフィールドというカリスマ的バイク会社がある。エンフィールドのバイクはどれもクラシックで男らしい外観であり、排気量も350cc〜500ccあるバイクばかりだ(上でカリズマを「インド初の200ccオーバーバイク」と表現したが、それはインド人の表現である。エンフィールドは別格のようだ)。エンジンをかけるとドドドドドという大音量を発し、頑丈なレッグガードは相当ひどい転倒からも運転手とバイク本体を守る。しかし故障しやすいのが難点で、特に電気系統がすぐにいかれるそうだ。ただ、アンバサダーと同じで故障しやすく直しやすいというバイクなので、慣れればすぐに自分で直せてしまうところもいいところだ。日本にもエンフィールドのマニアはけっこういるようである。かねてから、インドに来たら是非エンフィールドのバイクを乗り回してみたいと思っていた。




Royal Enfield - Thunderbird


 最近になってカワサキ・バージャージがウインド125という125ccのけっこう性能の良さそうなバイクを出したり、またヤマハが大排気量のアメリカン・バイク、ドラッグ・スターを年内に出すという噂が流れたり、カリズマに対抗する形でカワサキ・バージャージやTVSスズキも200ccオーバーのスポーツ・バイクを準備しているという話を小耳に挟んだりと、どれにしようか、待った方がいいか、非常に迷っていた。しかし、TVCM撮影で思いがけない臨時収入があったことに後押しされ、雨季が明けたのをひとつの契機として、遂にバイク購入に踏み切った。本当にいろいろ迷ったが僕が最終的に選んだのはヒーロー・ホンダのカリズマである。

 カリズマを選んだ決定打は、左足のギアペダルだった。日本のバイクはつま先のみでギアを上げ下げするようになっているが、インドのバイクは、サンダルを履いていても操作しやすいように(?)、ギアアップのときはかかとを使うようになっている。ホンダのカブと同じタイプだ。僕はそのインド式のギアペダルが嫌いだったので、日本式のギアペダルを持ったカリズマに心が引かれた(今のところ完全に日本式のギアペダルを持ったバイクはカリズマだけである)。また、インドのバイクには必ずレッグガードが付いているが、カリズマには付いていない。これもカリズマのかっこいいところだ。

 カリズマの外見が、僕が昔持っていたバイクに似ていたことも購入の動機になった。僕は日本ではヤマハのFZ400という400ccのバイクに乗っていたが、インドに来る前に売ってしまった。1997年〜1999年の間にしか売られなかった幻のバイクであり、けっこう愛着があったので、その面影が残るカリズマには一目惚れした。

 カリズマはインド離れしたデザインをしているので、道で非常に目立つ。まだ新しいバイクなので、みんなから注目される。この目立つ点がマイナス・ポイントにもなり、プラス・ポイントにもなると考えた。マイナス・ポイントは、駐車中に悪戯されたりベタベタ触られたり盗難の標的になったりしやすいことだ。しかしプラス・ポイントは走行中目立つため、注意してもらって事故に遭う可能性が少し減るかも、ということである。盗難に遭ったらそこで僕のバイク人生がひとまず終わりなだけだが、交通事故に遭ったら人生そのものが終わってしまう。インドではとにかく目立つバイクがいいと考えた。

 ちなみに「カリズマ(Karizma)」という名前は、英語のcharisma(カリスマ)と、ヒンディー語のカリシュマー(奇跡)をかけて作られた造語だと思われるが、それ以外にも日本語のイナズマ(稲妻)が関係しているのではないかと深読みしている。どちらにしろ、けっこうかっこいい名前でこれも気に入っている。だが、惜しむらくはインド人の中にカリズマのことを「カリジュマ」と発音する人が多いことだ。

 バイクは決まったが、色でも迷いに迷った。カリズマには赤、青、紫、金、銀、黄、黒の7色があった。僕が持っていたFZ400は銀色だったので、銀色のカリズマがまず第一候補だったが、よく見てみるとカラーリングの点で少しかっこ悪いところがあり、銀は止めることにした。そしてここはやはりインド映画ファンとして、TVCMでリティク・ローシャンが乗っている赤いカリズマを買うことにした。言わばリティク・ローシャン・モデルである。

 ところで、インドで外国人がバイクを購入するときにどんな規制があるのか、よく分からない。僕の友人で何人かがバイクを買ったが、それぞれ必要だった書類はまちまちだ。中には大家さんのコネで、ほとんど何の書類も要求されずにバイクを買えた人もいる。僕の場合は大使館からのレターを要求された。また、デリーではインド人でも外国人でもバイク購入に政府からの指示で住所証明書が必要である一方で、隣のハリヤーナー州に行ったらお金さえあれば簡単に買えてしまうらしい(ハリヤーナー・ナンバーになるが)。ちなみにハリヤーナー・ナンバーの自動車は警察に捕まりにくいという話も聞いたことがある。警察官はハリヤーナー出身の人が多いからだ。本当だろうか?

 ちょうど今日はダシャヘラーの9日前、ナヴラートリーの第一日目だった。9月中ごろにはピートル・パクシュという期間があり、この時期に新しいことを始めたり新しいものを買ったりすることは不吉だと信じられているため、インド人は高い買い物をしない。しかしナヴラートリーになると、インド人の散財シーズンに突入する。ナヴラートリーからダシャヘラー、そしてディーワーリーまで、この時期のインド人は超積極的な消費行動をする。売り手としてもこの時期が一年で一番の稼ぎ時なので気合が入る。また、多額の現金を持ち歩いたり、家に置いてあることが多いので、泥棒、スリ、空き巣が増えるのもこの時期である。僕は別に何も気にせずにヒーロー・ホンダのショールームを訪れてカリズマを買ったのだが、たまたまナヴラートリーの第一目だったので、たくさんの人がショールームに来て次々とバイクを買って行っていた。カリズマも飛ぶように売れていた。少し遅かったら赤いカリズマも売り切れてしまうところだった。




Hero Honda - Karizma


 早速カリズマに乗ってデリーを走り回ってみた。400ccのバイクに比べるとパワーは劣るが、でも日本のバイクと同じ感覚で乗ることができるいいバイクだと思った。ただ、シートが高いので、ある程度身長がないと乗りこなせないだろう。後ろのタイヤが排気量に比べて細いことと、ミラーの位置が低いことが少し気になった程度だった。まだ慣らしなので時速50km以下で走行しているところである。

9月27日(土) 日本人学校夏祭り

 毎年9月下旬になると、ヴァサント・クンジにある日本人学校で夏祭りがある。今年も当然のことながら開催され、当然のことながら僕も行ってみた。日本に住んでいる人にとったら、「9月に夏祭りとはこれいかに?」という感じだろうが、一度夏祭りに来てみれば、「9月に夏祭りというのも悪くない」と思うだろう。夏祭りの日、日本人学校の敷地に足を踏み入れた瞬間から、突然日本にワープしたような錯覚に陥る。会場には日本の最新ヒット曲が流れ、中央には盆踊りの櫓が据えられ、デリー中の日本人が集結している。昨年は800人が訪れたそうだ。

 日本人学校夏祭りにおいて、学生としてもっとも気になるのは古本販売である。夏祭りでは日本語の本が格安で手に入る。今年は大人向けの本が3冊20ルピーだった。学生は開店と同時に古本販売のところへ走るべし。しかし残念ながら今年の古本屋は去年に比べて品揃えがよくなかった。インド関係の日本語の本がモスト・ワンテッドだったのだが、ほとんど見当たらなかった。インドに関係ない本ばかりだ。普通の人にとったら、インドに来てまでインドの本なんて読みたくないってことだろうか?

 夏祭りのもうひとつの楽しみといったら、(学生は)普段食べることができない日本食を食べられることだ。しかし、ふと気が付いてみると、日本食材店Yamato−yaができてから、あまり日本食に対する渇望感がなくなっていた。去年に比べて日本食にありつける機会が格段に増えたし、元々僕は病気にでもならない限りインド料理だけでも生活していけるので、今回の夏祭りでは食べる方にあまり神経がいかなかった。だんだんデリー在住の日本人の生活が向上してきたのではないかと思っている。

 盆踊り大会にも参加し、割と真剣に踊ってみたらなかなかいい汗をかいた。金魚すくいをやったら見事玉砕した。かなり粘ったのだが、1匹も捕れなかった。その他、フリーキックやらボール射的やら、楽しいアトラクションがあった。夏祭りは午後5時〜8時までなのだが、もう少し遅くまでやってもいいのでは、と思った。

 夏祭り中、Yamato−yaを手伝ったり、新たな知り合いもできたりして、今年も個人的に有意義なイベントだった。

9月28日(日) Amazing Thai Taste

 27日と28日の両日、チャーナキャープリーにあるタイ大使館でタイ料理フェスティバル「Amazing Thai Taste」が開催されていた。タイ人の友達に誘われていたし、タイ料理は大好きなので、当然訪れた。昨日も実は行ったのだが、用事があって1時間しかいれなかった。今日は2時〜6時までずっとタイ大使館にいた。

 タイ料理フェスティバルには、ブルー・エレファント、スパイス・ルート、バーン・タイ、バンコク°1などなどのデリーにあるタイ料理レストラン数軒が出店していた他、タイの雑貨や輸入商品などが販売されていた。料金は少し高めで、どの食べ物もだいたい100ルピー前後だった。しかしその味は本格的。一口食べただけで「うんめぇ〜!」と叫ぶほどだった。やっぱりタイ料理はうまい。インド料理と比べられたら困るが、一般論としてやはり日本人にはインド料理よりもタイ料理の方が口に合うのだろう。その他、ランブータン、マンゴスチン、グァバなどのタイのフルーツがただで食べれたり、タイ名物シンハ・ビールも60ルピーで販売されていた。

 ただ食べて飲んで買うだけでなく、いくつかイベントも用意されていた。2時間ごとに行われるのがラッキー・ナンバー。入場券(80ルピー)にナンバーが記載されており、それが当選番号と一致すると、シャツ、ショールや、タイ料理レストランでのディナー券などがもらえた。しかし僕の番号は当たらなかった。こんなところで運を使っても仕方ないのでまあいいとしよう。

 タイの古典舞踊のパフォーマンスなどもあった。中でも面白かったのは、タイのマーシャル・アーツ。一人が棒を持ち、もう一人がトンファーを持って、組み手のような感じで模擬的に戦うのだが、コメディー仕立てになっており、けっこう楽しかった。タイ料理の実演調理などもあった。




タイのマーシャル・アーツ


 今日ばかりは腹いっぱい食べまくり、その後腹の調子がおかしくなったほどだった。でもそろそろタイにもう一回行きたくなってきたな・・・。

9月29日(月) 意外に快適なデリーの道路

 今までバスやオート・リクシャーを利用してデリー市内を移動していたのだが、バイクが手に入ったので、移動が格段に楽になった。オートの半分の時間で目的地に着くことができるし、移動代の節約にもなる。それにバイクで走るとまた違ったデリーが見えてくるものだ。

 インドで自動車を運転するというと、とにかく危険なイメージがある。インド人は交通ルールを守らない、というか知らないし、運転免許制度は機能していないに等しいので彼らの運転技術もあやふやだし、何かあったらとりあえず突っ込むという性格の人が多いので、確かに日本で運転するときとは違った哲学を持って運転をしなければならない。まず違うのは、クラクションの使用頻度だろう。日本ではクラクションを使う機会はあまりないが、インドではとにかくクラクションを使って自己主張しなければならない。曲がるときも頼れるものはウインカーよりもクラクションである。「譲り合い」なんてものもインドの道路には存在しない。とにかく行けるところまで前進し、どちらも動けなくなったらそこで初めてどうするか考えるという習慣になっている。特に信号が停電になって消えたときなどはひどい。信号が消えた瞬間、四方の道から信号待ちをしていた車が一気に交差点中央へ押し寄せ、主導権の取り合いをする。僕が日本で免許を取ったときは、「だろう運転」ではなく「かもしれない運転」をしなさいと言われたが、インドでは「だろう運転」を遥かに凌駕した「させる運転」である。とにかくボディーを入れて対向車だろうが後続車だろうが、相手を無理矢理止めて進むという運転法だ。僕は日本の運転法が身に染み付いているので、日本式の安全運転をしているつもりだが、インドではそれがかえって身の危険を招くこともありうる。

 しかし、これらのことを考慮に入れても、結局デリーは運転するのに快適な街だと思う。特に僕の住む南デリーは、基本的に非常に快適なドライブをすることができる。東京よりもかえって安全なくらいだ。南デリーの主要幹線は道幅が広く、舗装もちゃんとされているところが多い。緑が多いのもいいし、それらの道に犬や牛がいることは稀である。交通量もラッシュ・アワーを除けばそれほどひどくはない。中央分離帯やフライ・オーヴァーなども着々と完備されつつある。これらのおかげでUターンがしにくいとデメリットはあるものの、安全性は確実に増した。チャーナキャープリーからインド門にかけての地域なんかは交差点にロータリーが設置されているので、けっこう迷いやすいのだが、慣れればノンストップでずっと走行することができる。南デリーでもひどい道はあるが、道を選んで移動すれば非常に快適な走行をすることができる。こんな立派な道路のある首都は、他にあまり例がないのではないかというくらいだ(結局イギリス人の置き土産なのだが)。インド人のひどい運転を差し引いても、自動車の運転は絶対に東京の方が危ない。気を付けるべきなのは、インド人の運転と、ところどころにあるスピード・ブレーカーと、突然道路に開いている穴のみだ。

 南デリーに比べると、北デリーはまだまだひどい。道路があまり舗装されていないので道が悪いところが多いし、自動車、自転車、サイクル・リクシャー、牛車などが混然一体となって進まなければならない道があったりするので、神経を使う。一番ひどいのはデリー・メトロの建設現場である。地下鉄を覆うための金属製のカバーの上を走行しなければならないところがあるのだが、ツルツル滑るので二輪車はかなり危ない。早く完成させてもらいたいものだ。北デリーにはあまり行きたくないというのが本音だ。

 また、デリーの道で楽しいのは、道端にいろいろな遺跡があり、それらの遺跡を楽しみながら走行することができることだ。例えばISBT近くのリング・ロード。ラール・キラーのすぐ裏を走ることができるし、ラール・キラーと隣のサリームガル・フォートの間に架かるムガル朝建築っぽい橋をくぐり抜けることができる。プラガティ・マイダーン近くの道ではプラーナー・キラーの威容を間近に見ながら走ることができるし、フマーユーン廟の前にあるロータリーは、ダルガーがそのままロータリーになっている。リング・ロードから遠くに見えるフマーユーン廟は夕方特に美しい。また、裏道を通っていると思わぬところで意外な遺跡に出くわしたりすることもあり、なかなか楽しい。

 罰金が安いのもいい。スピード違反でも飲酒運転でもノーヘルでも無免許運転でも信号無視でも、警察に捕まったら罰金一律100ルピーである(インド人庶民にとっては安くないが)。最近罰金大国化が進む日本とは大違いである。もちろん警察は外国人と見ると1000ルピー以上の罰金を要求してきて、ほとんどを懐にしまい込むのだが、100ルピーだけ払っておけば文句は言われる筋合いはない。違反運転をこんなに気楽にできる国も他にないだろう(別に違反はしていないが)。

 ところで、今のところ僕のカリズマは調子よく走ってくれている。現在200kmほど走行した。カリズマを選んでよかったと心底思っている。カリズマ自体に問題はないのだが、泣けてくるのは砂埃である。1日外に置いておいただけで砂埃まるけになる。いや、舗装されていない駐車場に停めておいたら、たった3時間で既に砂だらけになっていた。ここは砂漠か、と文句を言いたくなるほどだ。インド人は早朝、家の前の道を掃き掃除する習慣があるのだが、それによって巻き上がった粉塵でもバイクは砂だらけになる。とにかく砂には泣かされている。

9月30日(火) Mumbai Matinee

 今日は久々にPVRアヌパム4で映画を見た。僕の贔屓の男優、ラーフル・ボース主演の「Mumbai Matinee」。先週の金曜日から封切られた新作映画である。キャストはラーフル・ボース、パリーザード・ゾーラービヤーン、ヴィジャイ・ラーズ、サウラブ・シュクラなど。




Mumbai Matinee


Mumbai Matinee
 ムンバイーの広告代理店に勤めるデーブー(ラーフル・ボース)は32歳の童貞で、日頃からなんとか童貞を捨てることばかりを考えていた。ある日デーブーは偶然あるチラシを手に入れる。そのチラシには、どんな悩みでも解決するバーバー・ヒンドゥスターニーの広告が載っていた。

 デーブーはバーバー・ヒンドゥスターニーに相談するためにホテル・ピカデリーを訪れる。そこの1階で出会ったのは、売れない映画監督ニティン・カプール(サウラブ・シュクラ)だった。デーブーとニティンはすぐに仲良くなるが、ニティンと2階に住むバーバーは犬猿の仲だった。ニティンはバーバーに相談することを勧めないが、デーブーは2階へと上がって行く。

 バーバー・ヒンドゥスターニー(ヴィジャイ・ラーズ)は聞きしに勝る変人だった。バーバーはデーブーに変な薬を渡す。その薬を飲んだら急にデーブーはオフィスのセクシー・ガール、アヌーシャーにもてるようになったが、それは勘違いだった。いざ告白しようとしたらデーブーはビンタされる。

 再びデーブーはバーバーの元を訪れる。今度はバーバーはデーブーを売春宿へ連れて行くが、運悪く警察の手入れに出くわしてしまい、彼は逮捕されてしまう。ニティンの機転によりデーブーはなんとか釈放される。

 一方、映画制作で行き詰っていたニティンは、毛嫌いしていたバーバー・ヒンドゥスターニーの元へ相談に訪れる。そのときバーバーがニティンに提案したことは、恐るべきプランだった。

 三度バーバーの元を訪れたデーブーは、バーバーに言われるまま裸になって運動をする。しかしいったい何のためかは分からなかった。

 それからしばらく後、デーブーはニティンが監督した映画が公開されたことを知り、友人と一緒に映画館へ見に行く。しかしそれはなんとポルノタッチの映画で、男優はなんとデーブーだった。バーバーのところで裸で運動をしたときに、密かにビデオカメラで撮影されており、合成で勝手にポルノ映画に出演させられてしまったのだ。しかも運の悪いことにその映画は大ヒットし、デーブーは一躍セックス・スターとして有名になってしまう。童貞なのにセックス・スターとは!デーブーは怒ってホテル・ピカデリーへ押しかけるが、ニティンもバーバーも既にいなかった。デーブーは職を失い、大家から家を追い出されてしまった。

 ベンチに座ってしょげているデーブーの元へ一人の女性が現れる。ジャーナリストで、セックス・スターのデーブーにインタビューをしに来たのだった。彼女の名前はソーナーリー(パリーザード・ゾーラービヤーン)といった。ソーナーリーは家のないデーブーを自宅に泊まらせて、彼の話を聞く。話している内に次第に二人は恋に落ちる。しかもデーブーは驚いたことには、実は彼女も処女だった。やがて二人はめでたくベッドインするのであった。

 基本的に英語の映画だったが、ヒンディー語やベンガリー語もところどころで使用されるヒングリッシュ映画だった。ストーリーはとても分かりやすく、また奇妙奇天烈である。鬱な中に笑いがあるようなテイストの映画だ。2002年にインドで公開されたイギリス映画「The Guru」を思い起こさせるようなプロットだった。

 32歳童貞男の童貞喪失物語という、インド映画にしては少し際どいテーマだったが、軽妙なタッチだったので気軽に楽しめる映画に収まっていた。最後はロマンティックに締めくくってあるので、カップルで見ても問題ないと思う。「Boom」のドロドロとしたエロさとは違うので、軽くヒットするかもしれない。

 ラーフル・ボースの演技はさすがで、もじもじおどおどした表情がいかにもという感じだった。その他にも極めて個性的なキャラクターが何人か登場する。その筆頭はバーバー・ヒンドゥスターニーを演じたヴィジャイ・ラーズ。彼の顔は時々ボリウッド映画で見る。マッドな悪役のことが多いが、今回は主役を食うほどのマッドな脇役だった。

 デーブーの本名はデーバーシシュ・チャタルジーという。これは典型的なベンガル人の名前である。デーブーが警察に逮捕されて署に連行されるシーンがあるのだが、そこの署長もベンガル人で、デーブーがベンガル人であることを知ると一転してベンガリー語で叱咤するというシーンがある。なぜかこのシーンが馬鹿受けしていた。彼らはベンガリー語を理解し、ベンガリー語の内容がよっぽど面白かったのか、ヒンディー語圏の人にとってベンガリー語自体が嘲笑の的なのか、爆笑の理由は謎である。僕は今まで、ヒンディー語映画の中でベンガリー語が出てくると必ず観客から爆笑が巻き起こるという現象を何回か見てきた。そういえばあるタミル語映画を見たときもヒンディー語を話す人が出てきたが、立場は逆転しており、道化役がヒンディー語を話して爆笑を誘っていた。インド内の言語間で軽い摩擦があるのかもしれない。



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