スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2009年8月

装飾下

|| 目次 ||
分析■2日(日)「バローチスターン」はインドの失態か?
言語■4日(火)「zh」を「l」に
映評■7日(金)Agyaat
映評■9日(日)Teree Sang
映評■14日(金)Kaminey
映評■14日(金)Life Partner
分析■17日(月)ヒンディー語紙に幸福実現党?
映評■18日(火)Before the Rains
映評■23日(日)Sikandar


8月2日(日) 「バローチスターン」はインドの失態か?

 7月16日にエジプトのシャルムッシェイク(Sharm-el-Sheikh)でインドのマンモーハン・スィン首相とパーキスターンのユースフ・ラザー・ギーラーニー首相が会談し、共同声明を発表した。この共同声明は、「単なる外交文書で法的拘束力はない」(シャシ・タルール副外相)とされながらも、今後印パ両国の政治や外交に大きな影響をもたらす可能性がある。

 インドではこの共同声明はマンモーハン・スィン首相と外務省の「大失態」とされている。その主な理由は2つである。まず、インドは26/11事件以降、パーキスターンに対し、十分なテロ対策の実施を二国間協議プロセス再開の必須条件として来たにも関わらず、共同声明では対話が最優先され、「テロ対策と二国間協議プロセス再開を切り離す」との文章が組み込まれたことである。もうひとつは、バローチスターン問題に触れられていたことである。

 今回は後者の、バローチスターン問題と今回の共同声明の意義について少し触れてみようと思う。

 シャルムッシェイク共同声明の中で、該当する部分は以下の短い文章である。
Prime Minister Gilani mentioned that Pakistan has some information on threats in Baluchistan and other areas.

訳:ギーラーニー首相は、パーキスターンがバローチスターンや他の地域における脅威について、いくつかの情報を持っていると述べた。
 バローチスターンとは、パーキスターン西部に位置し、イラン、アフガーニスターンと接する地域で、その面積はパーキスターンの国土の約半分を占めている。バローチスターンには主にバローチと呼ばれる部族が住んでいる。遊牧民族のバローチはアフガーニスターン南部やイラン東部にも分布しており、これらを合わせた地域がバローチの伝統的なテリトリーであった。独立志向の高いバローチは、印パ分離独立直後からパーキスターン政府に対して再三反乱を起こしている。2006年にもバローチスターンでバローチの指導者ナワーブ・アクバル・カーン・ブグティーの統率の下、大規模な反乱が起こったことは記憶に新しい。パーキスターン政府はそれらを武力で押さえつけている状態である。また、パーキスターン政府はバローチスターンで反政府活動を行うバローチスターン解放軍(BLA)などのテロ組織をインドが支援していると主張し続けて来ており、今回は、ダイレクトな表現はないものの、初めて印パ間の公式な外交文書の中で、バローチスターンについて触れられた。共同声明には、長年両国間の係争地となっているカシュミールの名前が見当たらないことにも注視すべきである(その点でパーキスターンにおいて批判も出ている)。もし共同声明にカシュミールの名前が出て来ても誰も驚かなかっただろうが、バローチスターンが名指しされたことは、インドの政治家、官僚、メディアにとって全くの青天の霹靂であった。

 インド側の一般的な受け止め方は、パーキスターン政府が、パーキスターン人やパーキスターンに拠点のあるテロ組織の26/11事件への関与を認める代わりに、バローチスターンでインド人テロリストが暗躍していると主張することで牽制し、一方的に不利な立場から脱却しようとしていると言ったものである。テロ問題に関し、これからパーキスターンに対してさらに強硬な態度に出ようとしていたインドにとっては出鼻をくじかれた形になり、共同声明でバローチスターンについて触れられたことはインド側にとって全く不利な事態を招くことになってしまったというのが、多くのインド人の見解だ。当然、野党はこの共同声明の内容を厳しく糾弾している。

 共同声明における「バローチスターン」に関し、7月28日付けのザ・ヒンドゥー紙に興味深い社説が掲載されていた。筆者はパーキスターンの大手テレビ局Geo TVのハミード・ミールで、題名は「India and the Baloch insurgency」。ミール氏によると、パーキスターンは今回の共同声明において、「慎重で、計算され、かつ限定した形で」バローチスターンへの言及を巧みに行ったとし、その理由を分析している。ミール氏の主張では、まずシャルムッシェイクでの首脳会談時、ギーラーニー首相はスィン首相に対し、バローチスターンにおけるテロ活動にインドが関わっているという証拠を示した調査書類を手渡したと言う報告があるが、それは誤りで、実際には首脳会談の2日前に行われた外務次官同士の会談において、パーキスターン側がバローチスターンについて言及したのが真実であるとのことである。最近、バローチスターンの反政府分子とつながりを持つと言う3人のインド人がパーキスターン国内で逮捕されたようで、パーキスターンのサルマーン・バシール外務次官はインドのシヴシャンカル・メーナン外務次官に対し、このことを盾に、テロ対策の是非を問題としない二国間協議再開、つまり26/11事件を水に流すことを迫ったとされている。彼によると、共同声明で、二国間協議再開優先とバローチスターンへの言及が盛り込まれたのはそのためであるらしい。

 もしバローチスターンの反政府活動にインドが関わっていると言うのが真実なら、パーキスターンにとってはまたとないインドに対する反撃材料となる。だが、ミール氏によると、パーキスターン政府は、この問題をインド側に提示する際に、非常に慎重な態度を意図的に取っていると言う。その理由はいくつかある。まずひとつは、バローチスターン問題を大々的に取り上げることは、印パ間で新しい「責任のなすりつけ合い」を招き、それは印パの関係改善を望まない国内の過激派を助長させるだけだからである。ふたつめは、バローチスターン問題が公になることで、パーキスターンとアフガーニスターンの関係が悪化する恐れがあるからである。なぜそれによってパーキスターンとアフガーニスターンの関係が悪化するのか、社説では明確な説明がされていなかったのだが、ミール氏の主張では、インドはアフガーニスターンのカンダハールにある総領事館を、バローチスターン解放軍などの支援を行う前線基地として利用していると半ば断言しており、インドを非難することは、アフガーニスターンへの非難にもつながってしまう恐れがあるからと言うことなのかもしれない。みっつめは、バローチスターン問題はカシュミール問題ほど深刻なものではないからである。しかも、元々バローチの間では、パーキスターン、アフガーニスターン、イランにまたがる大バローチスターンを統一して独立する構想があり、その問題の国際化は、これら三国にとって好ましいことではないと言うことらしい。また、バローチスターンには、アラビア海に面したグワーダル港に大々的に援助している中国の利権が絡んでいる他、米国のCIAが、対立を深めるイランへの工作として、イラン国内のバローチ分離派に援助をしているようで、バローチスターン問題の表面化は、バローチを抱えるパーキスターン、アフガーニスターン、イランだけでなく、米国、中国、インドを巻き込んだ、新たなグレートゲームを招く恐れもある。よって、パーキスターン政府はそれらを計算に入れた上で、シャルムッシェ共同声明において、「慎重で、計算され、かつ限定した形で」バローチスターンについて言及することにした、と言うのがミール氏の主張であった。

 もちろんこれはパーキスターン人の見方であるので、それをそのまま受け止めることはできない。3人のインド人が逮捕されたという情報も未確認である。しかし、よく読んでみるとミール氏は今回のギーラーニー首相の「成果」である共同声明を、賞賛しているようで実は擁護しているのではないかと思えて来た。何かスッキリしない社説であった。

 すると、7月31日付けのヒンドゥスターン紙に、元外務官僚のアルンダティー・ゴーシュの、共同声明に関するインタビューが載っていた。彼女の主張では、共同声明においてバローチスターンが名指しされたことは、当然パーキスターンのイニシアチブによるもので、スィン首相は深く考えずにそれを看過してしまったのであろうが、それは実はインドの失態ではなく、パーキスターンのオウンゴールであると言う。以下、該当部分を翻訳して転載する。
質問:あなたは、共同声明でバローチスターンが言及されたことは、インドの失態だと思いますか?

 私も最初はそれを見て驚きました。しかし、後に共同声明を再読すると、その意味がよく分かりました。インドが過ちを犯したとは思っていません。パーキスターンが国内問題を国際問題化してしまったのです。パーキスターンの野党と過激派は、インドがもはやこの問題をいつでもどこでも取り上げることが出来るようになってしまったとすぐに気付くでしょう。バローチの人々はパーキスターンの空爆を被って来ましたが、今まで他国がそれを取り上げることはしませんでした。国会にバローチの代表者は非常に少なく、この問題について話そうともしません。しかし今、パーキスターンはこの問題を取り上げました。インドがこの機会を使わない手はありません。インドの政治家がこの問題を国際舞台で議題にする能力があるかどうかは分かりませんが、人権委員会などの舞台で議題にすることはできます。

 (中略)

 私の考えでは、共同声明でバローチスターンについて言及したことは間違いではありません。2006年にナワーブ・アクバル・カーン・ブグティーが殺されたとき、インド外務省は厳しく糾弾し、彼の殺害の状況について疑問を投げかけました。そのときパーキスターンは怒って、インドの内政干渉を批判しました。そして今、パーキスターンが自ら「国内」問題を国際化しようとしているなら、インドもそれを国際的な人権委員会やその他の機関に提議することができます。

 パーキスターンは、国際社会の監視の中に飛び込んでしまい、もはや引き返すことも出来なくなってしまったと自ら気付くときが来ると信じています。そのとき彼らは、この文章を取り消すために躍起になるでしょう。
 実際、バローチスターンの独立や自治を求めるバローチの活動家たちは今回の共同声明を歓迎しており、インドに対して、今後バローチスターン問題を外交の場で積極的に取り上げて行くことを期待する声明を相次いで出している。最近、チベットとウイグルの問題が国際的に注目を集めるようになったが、バローチスターン問題もその流れに乗ってこのまま国際化して行くかもしれない。パーキスターン政府はおそらくその失敗にいち早く気付いており、ハミード・ミール氏もそれを隠すためにわざわざ「パーキスターンが巧みな方法でバローチスターン問題を取り上げてインドに一泡吹かせた」と言った論調の社説を書いたのではないだろうか?もっとも、インド自身も同様の分離派問題を抱えている国であり、バローチスターンに積極的に介入できる立場にないが、ひとつ重要な外交カードを手に入れたと言っていいだろう。

8月4日(火) 「zh」を「l」に

 8月4日付けのタイムズ・オブ・インディア紙に、「Azhagiri is now Alagiri」という記事が掲載されていた。中央政府の化学肥料大臣を務めるMK「Azhagiri」が、自身の名前の公式スペリングを「Azhagiri」から「Alagiri」に変更したというニュースである。何のこっちゃと思われるかもしれないが、普段からインドの固有名詞のカタカナ表記にこだわっている僕にとっては大きなニュースであった。

 タミル語やマラヤーラム語には、他の言語にはあまり見られない「反舌のl(エル)」という発音がある。日本でタミル語を習っていたとき、この音の発音は、「ヒャに近いラ」みたいに教わった覚えがある。カルパナ・ジョイ/袋井由布子著「タミル語入門」(南船北馬舎)には、「舌先が硬口蓋の近くまでくるよう舌を丸めて発音するラ(舌先は口蓋に触れない)」と説明されている。この音をアルファベット表記する際、「l」の他に慣用的に「zh」が使われる。「Tamil」の「l」の音も実は「zh」であり、「Tamizh」と表記されることもある。もしこの音を日本語で表記しようと思った場合、やはりラ行を使うしかない。よって、「Azhagiri」は「アラギリ」になる。同じような問題を抱えた有名な固有名詞には、元々アレッピーと呼ばれていた「Alappuzha」と言うケーララ州の町がある。この地名の中の「zh」の音も「反舌のl」であり、カタカナ表記する際は「アラップラー」などにするのが適切である。

 MKアラギリ大臣がスペリングを変更した理由は、北インド人が彼の名前を間違って呼ぶことがあまりに多いからである。やはりインドは広いので、北インドの多くの人々は、南インドの言語の特徴を理解していない。よって、「zh」と書かれている音をつい「z」や「j」の音で発音してしまうのである。つまり、彼の名前が「アザギリ」になったり「アジャギリ」になったりするのである。パンジャーブ出身のマンモーハン・スィン首相も例外ではないらしい。一番の問題は、北インド人が間違って彼の名前を発音するため、アラギリ大臣自身が自分の名前を呼ばれていることに気付かないことが多々あることのようだ。とうとうアラギリ大臣は、より読み間違いの少ない「Alagiri」の綴りに変更することを余儀なくされたのであった。

 「zh」は北インド人と南インド人の間のギャップの典型例と言ってよさそうだが、インドの言語を表記するアルファベットの慣例の中には、他国の人になかなか分かりにくいものがいくつかある。代表的なのは有気音である。北インドの諸言語の主な子音には無気音と有気音の区別がある。少量の息と共に発声されるのが無気音で、大量の息と共に発声されるのが有気音である。ヒンディー語などを習う際、無気音と有気音の区別を理解するため、口の前に小さな紙をたらし、発声のときにその紙が揺れる子音が有気音であると教えられることが多い。アルファベット表記では子音に「h」を付加して書かれる。インド独立の父ガーンディー(Gandhi)の「ディ」の音が有気音だし、インドの国名のひとつバーラト(Bharat)の「バ」の音も有気音である。カタカナ表記する際はこの「h」は特に気にしなくていい。有気音を気にしすぎて企業名バールティー(Bharti)が「ブハルティ」などと表記されているのを見たことがあるが、これは大きな間違いだと言っていい。また、「t」の有気音は「th」になるが、この音を英語の「th」とごっちゃにしている日本人も多い。日本語では慣例として英語の「th」をサ行やザ行で表記しているが、ヒンディー語などの「th」は「t」の有気音であり、タ行で表記しなければならない。ニューデリーの大動脈となっている道路に「Rajpath」と「Janpath」があるが、これらはそれぞれ「ラージパト」、「ジャンパト」とカタカナ表記されなければならない。しかし、ヒンディー語の知識の欠如から、「ラジパス」、「ジャンパス」などと誤って書かれているのを時々見掛ける。

 それと似ていながらちょっと違うのが、南インドの諸言語に見られる「th」と「dh」である。北インドの諸言語には歯音の「t」「d」と反舌音の「t」「d」(舌をそらして発音される)があるが、これらはアルファベット表記上では区別されていないので、日本語カタカナ表記の際もあまり問題にならない。だが、南インドの諸言語のアルファベット表記の慣例では、歯音を「th」「dh」、反舌音を「t」「d」と区別する。よってこの場合も「th」を、英語→日本語と同様にサ行やザ行で表記するのは間違いとなる。デリーに「Swagath」という南インド料理レストランがあるが、この店名の中の「th」も正にこれであり、その正しいカタカナ表記は「スワーガト」になる。

 次に紛らわしいのが、北インドの諸言語にある「反舌の弾き音」と呼ばれる子音と、その有気音である。これらの音は日本人にはラ行の音に聞こえる。よって、カタカナ表記ではラ行で書き表すべきである。だが、アルファベット表記では「r」「rh」のときもあるし、「d」「dh」のときもある。一定の規則はない。問題となるのは後者の場合である。これをカタカナ表記でもダ行で書いてしまうと、原音からだいぶ遠ざかってしまう。「女の子」のことをヒンディー語アルファベット表記で「ladki」と書くことがあるが、この中の「d」は「反舌の弾き音」であり、カタカナ表記の際は「ラドキー」ではなく「ラルキー」にしなければならない。もちろんそれを判断するには現地語の知識が不可欠になる。

 他にも、母音の表記の仕方など、いくつか気を付けなければならない表記法があるのだが、子音に関する主な留意点はこのくらいである。その中でもタミル語とマラヤーラム語の「zh」の音の表記はやはり一番分かりにくいものだった。「Azhagiri」が「Alagiri」になったように、「zh」が「l」と表記されることが多くなれば、より分かりやすくなると思うのだが、もしかしたらタミル語の擁護者たちが今回の彼の判断に「タミル語独自の音を蔑ろにするつもりか」などと異議を唱え、話がややこしくなるかもしれない。

8月7日(金) Agyaat

 インド映画界の風雲児ラーム・ゴーパール・ヴァルマー。インドの典型的娯楽映画のスタイルを嫌い、海外の様々な映画から着想を得た、斬新な映画をプロデュース・監督し続けて来ている。インド映画の中では、カメラワークに強力な主張を持たせている数少ない監督でもある。しかし、あまりにへそ曲がりな創作スタイルであるため、彼の映画は当たり外れが大きい。本日より公開のホラー映画「Agyaat」も、ラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督作品の中では外れの部類に入ると言っていいだろう。



題名:Agyaat
読み:アギャート
意味:未知
邦題:アギャート

監督:ラーム・ゴーパール・ヴァルマー
制作:ロニー・スクリューワーラー、ラーム・ゴーパール・ヴァルマー
音楽:バーピー・トゥトゥル、イムラーン・ヴィクラム
歌詞:プラシャーント・パーンデーイ、サンディープ・スィン、サリーム・モーミン
振付:ヴョーマー・カヴディーカル
出演:ニティン・クマール・レッディー、プリヤンカー・コーターリー、ガウタム・ローデー、ラスィカー・ドゥッガル、ハワード・ローゼマイヤー、ラヴィ・カーレー、イシュラト・アリー、イシュテヤーク・カーン、カーリー・プラサード、ジョイ・フェルナンデス
備考:PVRアヌパムで鑑賞。

ニティン・クマール・レッディー(中央)やプリヤンカー・コーターリー(右上)など

あらすじ
 助監督のスジャート(ニティン・クマール・レッディー)は、密かに人気女優アーシャー(プリヤンカー・コーターリー)に憧れていた。彼のアシスタント、サミーラー(ラスィカー・ドゥッガル)はスジャートに片思いしていたが、スジャートがアーシャーに憧れていることも知っており、彼を応援していた。

 ある日、スジャートはアーシャー主演の映画撮影に参加することが決まる。プロデューサーはムールティ(イシュラト・アリー)、監督はJJ(ハワード・ローゼマイヤー)、主演男優はシャルマン・カプール(ガウタム・ローデー)、アクション監督はラッカー(ラヴィ・カーレー)、撮影監督はシャッキー(カーリー・プラサード)であった。彼らは、ジャングルの奥地でロケを行うことになった。

 シャルマンは傲慢な男で、小間使いのラクシュマン(イシュテヤーク・カーン)をこき使っていた。彼はロクな宿泊施設もないジャングルに滞在することを拒否するが、アーシャーになだめられる。ラッカーはシャルマンを馬鹿にしており、撮影中に喧嘩にもなるが、周囲の人々の仲裁によって何とか事なきをえる。アーシャーが風呂場で何者かに盗撮されるという不気味な事件を起きる。このように何かと撮影は順調に進んでいなかった。

 そんな中、突然カメラが故障してしまう。修理には数日を要した。森林の案内役であるセートゥー(ジョイ・フェルナンデス)は、その間にキャンプをすることを提案する。ロケ隊はセートゥーのガイドによってさらにジャングルの奥地へ入って行った。

 夜、彼らは空に不気味な星を見る。その後、奇妙な鳴き声も聞く。セートゥーはその正体を確かめに暗闇の中へ入って行くが、帰って来なかった。翌朝残りの人々が捜索してみると、何者かに惨殺されたセートゥーの遺体が見つかった。彼らは動転して逃げ出すが、帰りの道を知っていたのはセートゥーのみであり、ますます迷うことになる。その間に、また1人、また1人と、謎の死を遂げて行く。

 映画公式ウェブサイトのディレクターズ・ノートの中でラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督は「Agyaat」のインスピレーション源として、「エイリアン」(1979年)、「遊星からの物体X」(1982年)、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1999年)の3作を挙げている。外界から隔離されたグループが1人、また1人と殺されて行く様は、上記3作に代表されるホラー映画に共通の特徴で、それらを大いに参考にしたことは嘘ではないだろう。だが、「Agyaat」を見てまず思い付くのは他でもない「プレデター」(1987年)である。もし過去の名作ホラー映画に敬意を払うならば、ジャングルの中で透明な宇宙人と戦う「プレデター」の名を挙げずして、それは完結しないであろう。

 劇中で、主人公らを襲う「謎の生物」の正体は明かされない。透明で目に見えず、とてつもない力で人間を引きずったり、ものすごいスピードで地中を這って人間を地面の中に引きずり込んだりする。水が苦手だという特徴も明らかにされるが、それ以上のことは分からない。一応登場人物の間でのやり取りの中では、殺人鬼は夜に見た不気味な星と関連しており、宇宙からやって来た宇宙人なのではないか、と言う説と、この地球上にはまだ人間に知られていない未知の生物が存在するはずで、殺人鬼はそのひとつだろうという説と、お化けか何かという説が紹介されていた。だが、2時間弱の映画の中で、観客はその生物の姿を見ることはないし、正体の種明かしもされない。挙げ句の果てに「Coming Soon Agyaat 2」というテロップが出て終了となる。このままシリーズ化して行くつもりなのか?ラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督は観客をなめているのか?最近「○部作」を銘打った映画が多いが、あくまで映画という媒体は一話完結が基本であって、このように謎を残したまま、作られるかどうか分からない続編に持ち越すような作り方はいい加減としか言いようがない。エンディングを考えずに撮影を始めてしまい、結局いいまとめ方が思い付かなかったために、このようにお茶を濁したのではないかと勘ぐってしまう。

 ちなみに、あらすじでは敢えてエンディングに触れなかったが、ジャングルに迷い込んだ10人のパーティーの中で生き残るのは2人のみである。また、死んだ人々が皆、「謎の生物」に殺される訳ではないことも追記しておきたい。

 これで肝心のホラーの部分が優れていたらまだ救いようがあったのだが、ラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督の今までのホラー映画と同様に、うるさい効果音で観客を怖がらすという原始的手法に終始しており、日本の名作ホラー映画の足下にも及ばない。

 キャストの中で、ボリウッドで有名な俳優は皆無である。プリヤンカー・コーターリーぐらいが一部の熱心なボリウッド映画ファンの記憶に残っているくらいか。彼女は元々ニシャー・コーターリーという芸名を使っていたが、いつ頃からか本名プリヤンカー・コーターリーに戻している。ちょっと恐怖におののきすぎではないか、というオーバーアクティングなシーンもあったが、このような低予算の映画の中で適度なセクシーさを出すには適切な女優だったと言えるだろう。

 主演のニティン・クマール・レッディーはテルグ語映画界の俳優のようである。脇役を演じていた俳優たちは、演技の力や方向に差がありすぎてチグハグな印象を受けた。ムールティを演じたイシュラト・アリーはコメディー気味の怖さを出すために突っ走っていたような感じであったし、JJを演じたハワード・ローゼマイヤーは全く大根役者であった。ラッカーを演じたラヴィ・カーレーがもっとも味のある演技をしていたと言える。

 「Agyaat」は、ヒンディー語の他、タミル語とテルグ語でも同時制作され、公開されている。タミル語版、テルグ語版はまた微妙に違うのかもしれない。少なくとも何人かの俳優のヒンディー語の台詞は棒読みに近くて、映画の雰囲気を損なっていた。

 ロケ地はスリランカの世界遺産シギリヤとその周辺のジャングル。シギリヤにはシギリヤ・ロックと呼ばれる巨岩があり、その中腹に壁画があったり、岩の上に5世紀の宮殿跡が残っていたりする。映画中にもシギリヤ・ロックが出て来たが、さすがに壁画や宮殿跡などは登場しなかった。

 「Agyaat」は、ラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督が得意とするホラー映画ではあるが、尻切れトンボかつ俳優の演技に統一性のない駄作であり、わざわざ見るに値しない作品である。エンディングで、「『Agyaat 2』へ続く」とされていたが、続編はこのまま作られないのではないかと思う。

8月9日(日) Teree Sang

 数週間前から、映画館に行くたびに1枚のポスターが気になっていた。「彼は17歳、彼女は15歳」というテロップと共に、妊娠した少女が写っている「Teree Sang」という映画のポスターであった。容易に「15歳で妊娠」というストーリーが想像できた。同様のテーマの映画では、16歳の妊婦が主人公の「JUNO/ジュノ」(2007年)が記憶に新しいが、サティーシュ・カウシク監督の弁では同映画のリメイクではないようである。主演の2人はほとんど無名だが、脇役陣にはなかなか興味深い顔ぶれが揃っており、見てもいいかという気分にさせられた。さらに、デリーでロケが行われていることを知り、さらに興味をそそられたのであった。「Teree Sang」は8月7日より公開となった。



題名:Teree Sang
読み:テーレー・サング
意味:君と共に
邦題:君と共に

監督:サティーシュ・カウシク
制作:バラト・シャー
音楽:サチン・ジガル、バッピー・ラーヒリー、アヌ・マリク
歌詞:サミール、ヴィラーグ・ミシュラー
振付:ガネーシュ・アーチャーリヤ、アハマド・カーン、ホルムズド・カムバタ
出演:ルスラーン・ムムターズ、シーナー・シャーハーバーディー(新人)、ラジャト・カプール、ニーナー・グプター、サティーシュ・カウシク、スシュミター・ムカルジー、アヌパム・ケール(特別出演)
備考:サティヤム・ネルー・プレイスで鑑賞。

左から、ニーナー・グプター、ラジャト・カプール、
シーナー・シャーハーバーディー、ルスラーン・ムムターズ、
サティーシュ・カウシク、スシュミター・ムカルジー

あらすじ
 カビール・パンジャービー、通称クークー(ルスラーン・ムムターズ)は、オートリクシャーの運転手をする父親パンジャービー(サティーシュ・カウシク)と主婦の母親スシュマー(スシュミター・ムカルジー)と共にオールドデリーに住む17歳の少年であった。クークーは政府系学校に通っていたが成績はいい方ではなかった。ひょんなことからクークーは名門私立学校に通う15歳の女の子マーヒー(シーナー・シャーハーバーディー)と出会い、恋仲となる。マーヒーの父親は著名な弁護士モーヒト・プーリー(ラジャト・カプール)で、母親(ニーナー・グプター)はそのアシスタントをしていたが、2人とも仕事で多忙で家を留守にすることが多かった。マーヒーは家族の愛に飢えていたものの、冒険を好む明るい少女に育っていた。

 大晦日、両親がロンドン出張で留守なのをいいことにマーヒーはクークーとキャンプに出掛け、そこで一夜を共にする。だが、マーヒーは妊娠してしまう。まずマーヒーはそのことをクークーに打ち明ける。クークーとその仲間たちは中絶をさせようとするが、マーヒーにはそんな残酷なことは出来なかった。クークーは仕方なくそのことを両親に話す。パンジャービーは激怒するが、それ以上に激怒したのはプーリーであった。

 もはやどうしようもなくなったクークーとマーヒーは、ヒマーチャル・プラデーシュ州の山間の町ダルハウジーへ逃げる。そこでボロ屋に住み始めた2人は、すぐに所持金を使い果たしてしまったため、お金を稼ぎ始める。クークーは慣れない肉体労働をして苦労するが、何とか生活は軌道に乗りつつあった。

 一方、当初は表沙汰になるのを避けていたプーリーであったが、とうとう非常手段に打って出た。カビールが娘をレイプして誘拐したと公表し、全国的に指名手配させたのである。ダルハウジーでもそのニュースは広まり、クークーは表を出歩けなくなってしまう。だが、仕事をしなければ食べて行くものがなかった。マーヒーのための薬を買わなければならなかった。とうとう我慢しきれなくなって市場へ出て行ったが、そこで人々に発見され、追いかけ回される。クークーはマーヒーを連れて逃げ出す。

 ちょうどそのとき、クークーとマーヒーの居所を突き止めたパンジャービーとスシュマーがダルハウジーに来ていた。彼らはクークーとマーヒーをデリーに連れ帰る。ところがその途中でマーヒーが産気づいてしまい、病院へかつぎ込まれる。そこにはプーリーが警察と共に待ち構えていた。マーヒーはそのまま病室へ運ばれ、クークーは逮捕されてしまう。マーヒーは無事男の子を出産した。

 クークーの裁判が始まった。クークーにはレイプと誘拐の容疑がかかっており、原告側弁護士も敏腕であった。だが、パンジャービーは奇策に打って出る。全財産を投げ打ち、なんと原告であるモーヒト・プーリーにクークーの弁護士を依頼したのである。プーリーも複雑な気持ちながらそれを受け容れる。プーリーは弁護の中で、強姦か否かの分かれ目である女性側の同意を何歳から認めるべきかという議論から話を始め、クークーはマーヒーを妊娠させたが責任は果たしており、確かに過ちを犯したが罪は犯していないとし、もし罪人がいるとしたら娘を放任していた自分がそれであると結論づけ、クークーに対する訴えを取り下げた。しかし裁判長(アヌパム・ケール)は訴訟の棄却を認めず、代わりにマーヒーに対しては勉強をそのまま続けること、カビールに対しては3ヶ月間拘留所で今後のことについてゆっくり考えることを科した。

 低予算の映画で、主演の若手俳優2人の演技も未熟であったが、脚本は十分に面白く、示唆に富んだもので、しかも後半はスリルとアドベンチャーに満ちていて意外性があった。性教育映画としても価値がある。佳作の一本と言えるだろう。

 この作品は大まかに言って、2つの観客層に別々のメッセージを送っている。ひとつは10代の観客に向けたもので、青春を謳歌する権利は誰にでもあるが、性行為は結果を伴うと言うメッセージである。劇中ではクークーとマーヒーが避妊したのか否かは出て来なかったので、避妊は問題になっていない。高校や中学に通う年齢の男女が子供を作って責任が取れるのか、というもっと根源的な問いが問い掛けられていたと言っていいだろう。クークーとマーヒーの場合は、それぞれの家族を捨てて逃亡し、お金を稼いで生計を立てるという非現実的な手段を採ったが、それも長くは続かなかった。マーヒーは父親に、幼くして望まない妊娠をしてしまった女性に適切な道が用意されていないと泣きながら訴え、厳格な父親も最終的には娘の言葉にかなり影響されるが、裁判の判決は、決してクークーやマーヒーを甘やかすものではなかったし、解決法が提示された訳でもなかった。つまりそれは、責任を持てない年齢で一線を越えるべきではないというメッセージであった。

 もうひとつは未成年の子供を持つ親に向けたメッセージである。マーヒーの両親は仕事を優先するあまり、子供と共に過ごす時間を十分に持てなかった。しかも父親がマーヒーと話すときは叱るときだけであった。それが結局マーヒーの妊娠につながってしまった。

 弁護士のプーリーは、カビールを訴えたはずが、裁判において彼を弁護することになるのだが、その中で興味深いことを議論していた。性行為の際、女性の同意能力は何歳から認められるかという問題についてである。つまり、何歳より下の女性との性行為が違法行為となるか、である。どうもインドでは一般に16歳から同意能力が認められるようであるが、州によって違いがあるらしく、例えばマニプル州ではその年齢は14歳らしい。「Teree Sang」では15歳の少女が主人公になっていたが、それはその法律を踏まえての微妙な年齢設定なのであろう。

 主演のルスラーン・ムムターズは、「MP3 - Mera Pehla Pehla Pyaar」(2007年)でデビューした若手男優である。なんと彼はダニー・ボイル監督「スラムドッグ$ミリオネア」(2008年)の主演候補でもあったようだが、「ハンサムすぎる」という理由で落選してしまったらしい。もし「スラムドッグ$ミリオネア」に出演していたら人生が変わっていたことだろう。「Teree Sang」でのルスラーンは演技も踊りもまだまだ未熟で自信に欠けているところがあったが、まだまだこれからであろう。

 ヒロインは新人のシーナー・シャーハーバーディー。ルスラーンに比べてより自然な演技が出来ていたし、素朴な魅力のある女優だと感じたが、演技力はまだ発展途上であるし、このままスター女優に成長して行くようなオーラも感じなかった。だが、「Teree Sang」では、ベッドシーンまではなかったものの、15歳の妊婦というセンセーショナルな役を堂々とこなしているし、いきなりキスシーンにも挑戦していて、度胸は感じる。まだ若いので今後どういう道を歩むか分からないが、このまま映画界に進んで大化けすることもあり得る。

 他に、監督のサティーシュ・カウシクが主人公クークーの父親を味のある演技や台詞と共に演じていたし、ラジャト・カプールやアヌパム・ケールと言ったベテラン俳優が裁判シーンで落ち着いた演技を見せており、若手の主演を支えていた。

 「Teree Sang」は基本的に低予算映画であり、音楽に気合いが入っている訳ではないが、2曲だけ特筆すべきである。まずは「Morey Saiyan」。スローだが力強いロック・バラードに仕上がっており、この曲だけ突出して素晴らしい。サチン・ジガルという新しい作曲家コンビが作曲している。もう1曲は「Lal Quile Ke Peechey」。この曲はデリーのテーマソングみたいになっており、この曲が使われるダンスシーンも、デリー中の名所旧跡で撮影されている。

 映画の大部分はデリーが舞台となっており、実際にデリーの各地でロケが行われている。今年はデリーが舞台の映画が多いが、「Teree Sang」はその1本に数えられる。ラール・キラー、チャーンドニー・チャウク、コンノート・プレイス、クトゥブ・ミーナール、ジャンタル・マンタル、フィーローズ・シャー・コートラー、プラガティ・マイダーン、インド門などなどが登場する。他にヒマーチャル・プラデーシュ州の避暑地ダルハウジーが出て来る。

 「Teree Sang」は、15歳の少女が妊娠してしまうというセンセーショナルなプロットながら、大スター不在の地味な作品であるために、世間の注目は集めにくいかもしれない。完成度も一般の娯楽大作に比べたら低い。しかし、そのメッセージにはなかなか興味深いものがあり、この作品をボリウッド映画の多様な進化の一端として捉えてもおそらく間違いではないだろう。デリー中心の映画と言う意味でも意義がある。ムンバイーで作られるボリウッドの大衆娯楽映画への対抗勢力として、デリー辺りにもうひとつヒンディー語映画の拠点があるべきだというのが僕の持論であり、「Teree Sang」はその可能性を感じさせてくれる作品であった。

8月14日(金) Kaminey

 今週は、14日のジャナマーシュトミー(クリシュナ生誕祭)と15日の独立記念日が重なっており、映画公開に適した週になっている・・・はずだったのだが、インド各地で豚インフルエンザが猛威を振るっており、プロデューサーやディストリビューターにとって大きな誤算となっている。マハーラーシュトラ州では予防策のため13日から3日間映画館が閉鎖されることになり、本日より公開の「Kaminey」と「Life Partner」も同州では公開が先延ばしとなってしまった。デリーでも日に日にH1N1ウィルス感染者数が増加しているのだが、まだマハーラーシュトラ州ほど深刻ではなく、新作映画も予定通り公開となった。しかし、多くの人々は混雑を避けており、動員観客数も悪影響を受けそうである。まずは「Kaminey」を見た。

 「Kaminey」は、ヴィシャール・バールドワージ監督の作品である。バールドワージ監督は音楽監督から映画監督へ転向した変わり種で、その監督作品を見ても、「Makdee」(2002年)や「The Blue Umbrella」(2005年)のような子供向け映画を撮っているかと思ったら、「Maqbool」(2003年)や「Omkara」(2006年)のようなシェークスピア原作の重厚なドラマ映画も作っている。新作「Kaminey」はシェークスピア原作ではないが、予告編から、またも一風変わった映画であることがうかがわれた。

 興味深いことに、この映画の原作はケニア人脚本家カイェタン・ボーイの書いた脚本のようである。あるときミーラー・ナーイル監督が世界中の若手脚本家を集めてワークショップを行った際、ナイロビから来たカイェタン・ボーイの脚本がバールドワージ監督の目に留まったようだ。後にバールドワージ監督は金銭的に困っていたカイェタン・ボーイから4,000ドルでその脚本を買い取ったと報じられている。映画の冒頭にはちゃんと彼の名前が出ていた。



題名:Kaminey
読み:カミーネー
意味:ゲス
邦題:カミーネー

監督:ヴィシャール・バールドワージ
制作:ロニー・スクリューワーラー
原作:カイェタン・ボーイ
音楽:ヴィシャール・バールドワージ
歌詞:グルザール
振付:アハマド・カーン、ラージュー・スンダラム
衣装:ドリー・アフルワーリヤー
出演:シャーヒド・カプール、プリヤンカー・チョープラー、アモール・グプテー、チャンダン・ロイ・サーンニャール、テンジン・ニマ、シヴ・スブラーマニヤム、リシケーシュ・ジョーシー、ガリオス・パカ、デーブ・ムカルジー、ラージャトヴァ・ダッター、エリック・サントス、サンデーシュ・ジャーダヴ、ハリーシュ・カンナー、シャシャーンク・シンデー
備考:サティヤム・ネルー・プレイスで鑑賞。

左から、デーブ・ムカルジー(上)、ラージャトヴァ・ダッター(下)、
チャンダン・ロイ・サーンニャール、シャーヒド・カプール、シャーヒド・カプール、
プリヤンカー・チョープラー、ガリオス・パカ(上)、アモール・グプテー(下)、
シヴ・スブラーマニヤム(上)、リシケーシュ・ジョーシー(上)、
テンジン・ニマ(下)

あらすじ
 これはムンバイーに住む双子の兄弟の話。兄のチャーリー(シャーヒド・カプール)は舌足らずで、「s」の音を「f」の音で発音する癖があった。弟のグッドゥー(シャーヒド・カプール)は吃音症で、何か言おうとするとどもっていた。父親の死をきっかけに2人は袂を分かっており、別々の人生を歩んでいた。チャーリーは手っ取り早く金稼ぎをするのが好きな性格で、競馬の八百長に関わっていた。ベンガル人マフィアのムジーブ(デーブ・ムカルジー)、シュモン(ラージャトヴァ・ダッター)そしてミカイル(チャンダン・ロイ・サーンニャール)と共にギャングの一員を気取っていた。一方、真面目な性格のグッドゥーはNGOの訓練生をしており、スウィーティー(プリヤンカー・チョープラー)という恋人がいた。

 チャーリーは八百長レースを仕組んだはずが、騎手から裏切りを受け、レースをメチャクチャにされて面目を潰された。騎手を捕まえて尋問したところ、フランシスという男が黒幕であることが分かる。チャーリーはフランシスの宿泊するホテルに押しかけ、仲間が出払ったところを見計らってフランシスを捕まえる。だが、仲間が戻って来たことで逃亡を余儀なくされる。駐車場まで走り、そこで発車しようとしていた車を横取りして逃亡した。ところがその車は警察の車両であった。しかもその車両には、末端価格1億ルピーのコカインが入ったギターケースがあった。そのコカインは、悪徳警官のロボ(シヴ・スブラーマニヤム)とレーレー(リシケーシュ・ジョーシー)が、麻薬密輸のドン、ターシー(テンジン・ニマ)に届けるはずのものであった。チャーリーはそれを見つけて持ち去り、その価値が分かると大喜びする。また、ロボとレーレーは、監視カメラの映像などを頼りに、車を奪った人物の捜索に乗り出す。もちろん、コカインのことは秘密であった。

 一方、グッドゥーはスウィーティーが妊娠したことを知って悩んでいた。彼には堕胎をさせることは出来なかったし、かと言って彼にはちゃんとした人生計画があり、今すぐ結婚することも出来なかった。悩み抜いた末にグッドゥーはスウィーティーと結婚することを決める。ところが、スウィーティーは初めて自分の出自を明かす。彼女は、マフィア上がりのマラーター至上主義政治家ボーペー(アモール・グプテー)の妹であった。ただでさえボーペーはマラーター以外の人々の排他運動を繰り広げていた。ウッタル・プラデーシュ州に出自を持つグッドゥーとの結婚を認めるはずがなかった。しかし、グッドゥーとスウィーティーは秘密裡に結婚を済ます。それでもボーペーはスウィーティーの妊娠と結婚を嗅ぎつけており、手下を結婚式に送り込んで来た。2人はスクーターに乗って逃げ出し、このままハネムーンへ高飛びしようとするが、グッドゥーはスウィーティーがまだ何か自分に隠しているのではないかと疑う。スウィーティーはショックを受けて彼の元を去ろうとするが、その隙に警察がグッドゥーを連れ去ってしまった。グッドゥーはチャーリーと間違えられたのである。スウィーティーは警察署を訪れて説明するが、効果はなかった。

 尋問室でグッドゥーは身に覚えのないことについて尋問を受ける。その中で、チャーリーが1億ルピーのコカインを奪ったことに勘付く。その頃、チャーリーの家にはボーペーたちが押しかけていた。ボーペーはチャーリーの携帯電話を使ってグッドゥーの携帯電話に電話をするが、それはロボが取った。ボーペーとロボの間で、チャーリーとグッドゥーの交換が密約され、多少の混乱を伴いながらもそれは実行された。チャーリーはロボに引き渡され、グッドゥーとスウィーティーはボーペーに引き渡された。

 ロボとレーレーはチャーリーを尋問してコカインの在処を吐かせようとするが、隙を見てチャーリーは反撃し、ロボを負傷させてレーレーを取り押さえる。そして彼らのボスであるターシーと連絡を取り、コカインと金の受け渡しの交渉をまとめる。一方、ボーペーのアジトに連れられて来たグッドゥーは殺されそうになるが、1億ルピー相当のコカインの話を切り出し、ボーペーの興味を引く。グッドゥーはボーペーの手下と共にコカインを取りにチャーリーの家へ行く。そこではチャーリーがターシーに売るためにコカインを整頓していた。チャーリーとグッドゥーはコカインを取り合うが、結局はチャーリーがグッドゥーに譲ることになる。だが、そのとき何者かにボーペーの手下が皆殺しにされていた。グッドゥーはコカインを持って直接ボーペーのところに行かず、警察署に寄る。警察はボーペーの一味を一網打尽にするため、グッドゥーを囮に使うことにする。グッドゥーは盗聴器を装備し、コカインの入ったギターケースを持ってボーペーのアジトへ帰る。そこではスウィーティーがマシンガンを持って兄に反乱を起こしていたが、グッドゥーが無事なのを見て気を静める。ところがそこにターシーの一味やチャーリーがやって来る。また、密かに包囲網を巡らせていた警察も姿を現す。さらにはベンガル人マフィアたちが突撃して来る。混乱の中でコカインは火の中に投じられて灰となり、ボーペーやターシーは殺され、チャーリーも撃たれて怪我を負う。だが、彼はターシーの顧客だった黒人マフィアが隠し持っていた大粒ダイヤモンドを密かに手に入れていた。グッドゥーとスウィーティーは無事であった。

 それからしばらくして、スウィーティーは双子の子供を産む。チャーリーも、ダイヤモンドを売った金で、念願だった馬券業を始め、ソフィアという女性とも出会う。もちろん、彼の発音では彼女の名前は「フォフィア」であったが・・・。

 今年のボリウッドは未曾有の大不況に直面していると言われるが、よく精査して行くと、一般的娯楽映画とは違った独自のスタイルの映画を作ろうとする明白な努力が見られるユニークな作品がコンスタントに続いており、ボリウッド映画の国境が確実に拡大しているのを感じる。「Dev. D」、「Barah Anna」、「Sankat City」などをその例に挙げたい。それらに共通するのは、麻薬、売春、誘拐、盗難、賭博など、裏社会に関わる人々の物語を、洗練された脚本の上で描写している点である。「Kaminey」もその作品群に加えられる。バールドワージ監督は子供向けの映画も精力的に作っているものの、基本的にシニカルな視点を持った監督だと言える。「Kaminey」には恋愛もあるが、恋愛だけに埋没していない。コメディーもあるが、観客を大笑いさせようという意図も感じられない。全く生き方の違う没交渉の双子の兄弟が出て来るが、兄弟愛の再確認でもってきれいにまとめられていた映画でもなかったし、勧善懲悪のメッセージもなかった。スリルに満ちた展開であったが、そのスピード感だけを追い求めた作品でもなかった。一連の出来事を、誰にも肩入れせず、冷徹な視点で淡々と描写して行く中で、乾いた恋愛、乾いた笑い、乾いたスリルを適度にまぶしていく手法が採られており、結果的に「Kaminey」を独特のエンターテイメントに仕上げることに成功していた。それに加えて音楽がまた秀逸であるし、それを劇中で有効活用しているため、ここまで変わった脚本とストーリーテーリングの作品ながら、ボリウッド映画の伝統から外れていないという特徴も指摘できる。

 「Kaminey」の奇妙奇天烈さの例をひとつ挙げるとしたら、それは主人公2人の言語障害である。兄のチャーリーは、ヒンディー語では「トートラー(तोतला)」と呼ばれる症状である。トートラーは一定の発音が出来ないのだが、チャーリーの場合は「s」の音が「f」になってしまう。映画のナレーションもチャーリーが務めているし、もちろん彼の台詞もたくさん出て来るのだが、その中の「f」の音にはよく注意しなければならない。いくつかは「s」に変換して理解しなければならないからだ。一方、弟のグッドゥーはいわゆる「どもり」であり、何かを言おうとすると一定時間つっかえてしまう。これだけの設定がしてあるなら、映画中でこれらの特徴が何か重要な役割を果たすのかと考えてしまうが、特にそれが進行に大きな影響を与えるようなことはない。チャーリーのトートラーは、最後のオチを含むいくつかのギャグのネタになっていたし、グッドゥーのどもりはスウィーティーとの恋愛のちょっとした鍵にもなっていたが、ただそれだけだった。この要素ひとつだけ取っても、何か違った作品だと言うことが分かる。

 「Kaminey」では、生き方の違う双子の兄弟が主人公であった。正しい道を歩む人と狡猾な人の生き様とその結末を対比させて人々を啓蒙するような構造のストーリーは、日本昔話からボリウッド映画まで、どこにでもある。ボリウッドでは名作「Deewaar」(1975年)が有名だし、最近公開された「Short Kut - The Con is On」(2009年)もその一例だと言える。しかし、「Kaminey」は、2人の兄弟の中から正しい道を歩む方を持ち上げていた訳でもなかった。両者にハッピーエンドが用意されており、正義や悪の判断はされていなかった。そういう意味でも、勧善懲悪を基本とするボリウッド映画の伝統から外れた作品であったし、さらに勧善懲悪のメッセージを送ることが可能なプロットであったにも関わらずそこまで踏み込まなかったところにむしろ特異な印象を受けた。しかし、エンディングは多少取って付けたような印象も受けた。もしかしたらハッピーエンドを望むプロデューサーなどの意向が働いたのかもしれない。

 題名の「Kaminey」とは「下劣な者たち」という意味だが、その題名の通り、劇中の登場人物でまともな人間は皆無と言っていいだろう。ヒーロー、ヒロインを含めて皆それぞれ性格に欠陥があり、問題行動を起こす。ゲス共のゲスっぷりを淡々と描写していることが映画の最大の醍醐味であろう。

 双子の兄弟はシャーヒド・カプールが1人2役で演じた。性格の違う2人の兄弟を、演技だけで完全に演じ分けるのはまだ荷が重すぎたかもしれないが、かなりの程度まで成功しており、より深みのある俳優になって来たと言える。プリヤンカー・チョープラーも多少エキセントリックな演技であったが、よくこなしていた。2人の濃厚なラブシーンもある。

 「Kaminey」には、今までボリウッド映画であまり見たことのない俳優が多数脇を固めていた。その中で特筆すべきは、マフィア上がりの政治家ボーペーを演じたアモール・グプテーである。彼は「Taare Zamin Par」(2007年)の脚本・助監督として知られる裏方の人間だが、今回本格的な俳優デビューを果たしている(大昔に端役での出演経験はあるようだ)。これがデビュー作とは信じられないくらい堂々とした演技であった。他にチャンダン・ロイ・サーンニャールやテンジン・ニマなど、個性的な魅力のある俳優が出演しており、映画を盛り上げていた。今後の活躍に期待である。

 音楽はヴィシャール・バールドワージ監督自らが担当している。現在、挿入歌のひとつ「Dhan Te Nan」が大ヒットしており、劇中でも中盤の盛り上がりで、スクヴィンダル・スィンらが歌うこのダンスナンバーが満を持して使われていた。「Kaminey」のサントラは購入して損はない。

 前述の通り、チャーリーの台詞やナレーションは、「s」を「f」と発音する独特のしゃべり方になっているので、ヒンディー語の聴き取りは困難を要する。ちなみに題名になっている「カミーナー」(その複数形が「カミーネー」)は、ヒンディー語の罵詈雑言を代表する言葉のひとつなので、インド人の前では注意して使うようにした方が吉である。また、ベンガル人とマラーター人のキャラクターがいる影響で、ベンガリー語とマラーティー語も出て来る。アフリカ人がしゃべっていたのはスワヒリ語であろうか?英語字幕が出ていた。

 映画の中には名台詞もあった。チャーリーが何度も繰り返す「人生はどの道を選ぶかで決まる訳ではない、どの道を捨てたかで決まるのだ」という台詞である。

 「Kaminey」は、一般的な娯楽映画とは一線を画した作品だが、ボリウッドが提示する新しい大衆娯楽映画のひとつの形であり、今後この方向の作品がさらに増えて来そうな予感がする。ただ、筋を追うのが多少困難で、完全に都市部のマルチプレックス向け映画であるし、暴力シーンの多さからファミリー層には向かないため、インド全土でのヒットはあまり望めないだろう。

8月14日(金) Life Partner

 「Kaminey」に続けて、本日より公開の新作ヒンディー語映画「Life Partner」を見た。こちらは完全なコメディー映画。結婚を巡る悲喜こもごもを題材にしたボリウッドのコメディー映画には良作が多いし、ゴーヴィンダーも期待できそうであったために、鑑賞を決めた。今ホットな若手女優ジェネリアとプラーチー・デーサーイーの共演も見所である。



題名:Life Partner
読み:ライフ・パートナー
意味:生涯のパートナー
邦題:ライフ・パートナー

監督:ルーミー・ジャーファリー
制作:アッバース・マスターン
音楽:プリータム
歌詞:ジャーヴェード・アクタル
振付:サロージ・カーン、ボスコ・シーザー
出演:ゴーヴィンダー、ファルディーン・カーン、トゥシャール・カプール、ジェネリア、プラーチー・デーサーイー、アヌパム・ケール、ダルシャン・ジャリーワーラー、アムリター・ラーオ(特別出演)
備考:サティヤム・ネルー・プレイスで鑑賞。

左から、ジェネリア(上)、ファルディーン・カーン(下)、ゴーヴィンダー、
プラーチー・デーサーイー(上)、トゥシャール・カプール(下)

あらすじ
 南アフリカ共和国ケープタウン。ジート・オーベローイ(ゴーヴィンダー)、カラン・マロートラー(ファルディーン・カーン)、バーヴェーシュ・パテール(トゥシャール・カプール)は仲良し3人組だったが、彼らの結婚に対するスタンスは全く別だった。カランにはサンジャナー(ジェネリア)という恋人がおり、恋愛結婚を望んでいた。父親(アヌパム・ケール)に溺愛されて育ったサンジャナーは、思い付きで半年に1回は職業を変えてしまうような落ち着きのない女の子であった。一方バーヴェーシュは、保守的なグジャラート人家庭に育ち、お見合い結婚を望んでいた。ジートは全く結婚を望んでいないばかりか、離婚弁護士をしており、数々の夫婦の離婚を成立させて来た。

 ある日、バーヴェーシュがインドのグジャラート州まで結婚相手を探しに行くことになり、カランとサンジャナーも一緒に付いて来た。バーヴェーシュたちは、父親(ダルシャン・ジャリーワーラー)の旧友ジャーデージャーの家に宿泊し、結婚仲介業者の助けを借りながら結婚相手を探すが、なかなかバーヴェーシュの好みの女性がいなかった。だが、彼はジャーデージャー家の娘プラーチー(プラーチー・デーサーイー)に理想像を見つける。話はとんとん拍子で進み、バーヴェーシュとプラーチーの結婚式が執り行われた。このとき成り行きからカランとサンジャナーも結婚する。

 しかし、南アフリカ共和国に帰ってからの2組の結婚生活はうまく行かなかった。カランは昇進したために忙しくなり、ハネムーンは延期となる。サンジャナーは結婚後も未だに恋人気分で、全く家事もせず、わがままばかり言っていた。仕方なくカランは全ての家事を自らこなしていたが、過労により倒れそうになる。それを見たサンジャナーは家事に挑戦するが、大失敗して火事を起こしてしまう。とうとうカランとサンジャナーは離婚することを決める。

 一方、バーヴェーシュとプラーチーは、ハネムーンで絆を深め、順調な滑り出しを見せていた。ところがハネムーンから帰って来た後、保守的な父親とモダンな考え方を持ったプラーチーの仲が次第に険悪なものとなって行った。バーヴェーシュも父親に逆らえず、プラーチーを擁護出来なかった。挙げ句の果てにプラーチーに手を挙げてしまう。バーヴェーシュとプラーチーの離婚も決まる。

 当然、彼らの離婚手続きを担当したのはジートであった。ジートは、再びめでたく独身に戻ったカランとバーヴェーシュのために祝杯を挙げようとし、2人をバーへ連れて行く。そこで彼は1人の女性(アムリター・ラーオ)と出会う。最初はいつも通り彼女の離婚を調整したジートであったが、その後恋に落ちてしまい、結婚することになる。カランとバーヴェーシュは、自分達を離婚させておきながら自分が結婚しようとしていることに怒るが、彼らはジートの結婚式に出席する。

 高層ビルの屋上で行われた結婚式にはサンジャナーやプラーチーの姿もあった。だが、サンジャナーはダイナマイトを身体にくくりつけて来ており、下の階へ下りる階段の扉も封鎖してあった。ダイナマイトのタイムリミットは5分であった。もはや死を覚悟したバーヴェーシュは、どうせ死ぬならと、プラーチーに謝罪の言葉を述べた。プラーチーはその言葉に喜ぶ。また、カランとサンジャナーの父親はサンジャナーを止めようとしていたが、その中で父親がカランとサンジャナーの離婚を計ったことが分かる。カランとサンジャナーも仲直りする。だが、このとき5分が過ぎてしまった。・・・と思ったら、ダイナマイトは爆発せず、夜空に花火が上がった。実はこれは、ジートとサンジャナーが計った策略だった。ダイナマイトも偽物であった。そのおかげでカランとサンジャナー、バーヴェーシュとプラーチーはまたよりを戻すことになったのだった。

 ボリウッドでは伝統的に結婚前の男女のドタバタを描いたコメディー映画は星の数ほどあるし、結婚後のドタバタを描いた名作コメディー映画も、「Masti」(2004年)、「No Entry」(2005年)、「Shaadi No.1」(2005年)など、数多く作られるようになって来ている。その中でこの「Life Partner」を意義付けるならば、それは結婚前と結婚後の様子をバランス良く配分したことにあるだろう。また、恋愛結婚vsお見合い結婚という単純な図式になりがちだったところを、結婚自体に反対する離婚弁護士ジートを割り込ませることで、さらにマサーラー味を利かせていた。実際のところ、劇中で恋愛結婚とお見合い結婚は対立しておらず、むしろ結婚をする必要があるのかという点が議論されていたと言っていいだろう。恋愛結婚したカランとサンジャナーも、お見合い結婚したバーヴェーシュとプラーチーも、それぞれトラブルに巻き込まれている。

 多少変わっていたのは、カランとサンジャナー、バーヴェーシュとプラーチーの2組の夫婦がかなり簡単に離婚をしてしまうところである。インド映画では一般に離婚を悪とする考え方が強いので、この離婚の扱いについてはちょっと過激な印象を受けた。「Life Partner」のプロットを分析してみても、この2組を離婚させることなしに、自然に同様のエンディングに持って行けたと思う。例えば裁判所で離婚成立までの猶予期間を与えられ、その間に仲直りするという流れである。このような展開の映画には、「Shaadi Karke Phas Gaya Yaar」(2006年)や「Kambakkht Ishq」(2009年)など、先例がある。「Life Partner」のエンディングは取って付けたような雑なまとめ方で多少興醒めであったが、離婚した2組の再婚が一応納得できる形で提示されていた。

 この映画で残念だったのは、期待の若手女優であるジェネリアとプラーチー・デーサーイーの欠点が浮き彫りになったことである。ジェネリアは2003年から映画に出演していたが、南インド映画界を経て、「Jaane Tu... Ya Jaane Na」(2008年)によって一躍注目を集めた女優で、今後ボリウッドのスター女優の座を争う存在になるかと期待していたが、「Life Partner」での彼女は、「Jaane Tu... Ya Jaane Na」のイメージそのままの演技で、もしかしてジェネリアはこういう演技しか出来ないのではないかと不安にさせられた。しかも、「Jaane Tu... Ya Jaane Na」の時は、同年齢の若い俳優たちに囲まれていたおかげか、リラックスした開放感があって良かったが、今回は大味で閉塞的な演技が目立った。また、「Rock On!!」(2008年)で映画デビューを果たしたプラーチー・デーサーイーは、ジェネリアなどと並んだ際に身長の低さがばれてしまっていた。別に身長が低いことで女優としての価値がガタ落ちになる訳ではないが、映画女優にとってスクリーン上での存在感はとても重要である。プラーチーにも、正統派女優としての成長を期待していたのだが、元々の彼女のフィールドであるテレビ女優止まりの実力しかない恐れが出て来た。どちらにしろ、まだ彼女たちの潜在能力を判断するのは時期尚早であるため、今後の活躍に期待したい。

 華々しいコメディー映画としての大部分はゴーヴィンダーが担っていた。台詞でのギャグ、アクションでのギャグ、そして絶妙なダンスの3拍子が揃ったゴーヴィンダーは、常に映画の中心であった。ファルディーン・カーンとトゥシャール・カプールは、彼らの個性が活きる配役のおかげで光っていた。

 音楽はプリータム。豪華なダンスシーンが多かったが、耳に残った曲はほとんどなかった。唯一、ジェネリア演じるサンジャナーが歌う音程の外れた「Kuke Kuke」が印象的であった。

 言語は基本的にヒンディー語。バーヴェーシュの一家がグジャラート人であるため、所々にグジャラーティー語が入る。

 「Life Partner」は、最上のコメディーとは言わないが、普通に楽しめる娯楽映画である。ゴーヴィンダーはやっぱり目が離せないし、若手女優2人の共演も話題性がある。見て損はないだろう。

8月17日(月) ヒンディー語紙に幸福実現党?

 インドに住んでいると、インドにとって日本はちっぽけな存在なのだと言うことをヒシヒシと感じる。日々の新聞やニュースの中で日本のことが報じられることはほとんどない。インドが常に動向を注視している国は、パーキスターン、中国、米国ぐらいである。その他、南アジア諸国はやはり大事で優先順位が高く、その次に中東やアフガーニスターンが来て、欧州や豪州の報道がそれに続くが、それでもまだ日本の順番が来ないくらいである。日本関連のニュースで一番多いのは、日本企業が開発した新テクノロジーや新製品の記事で、それも写真と1行のキャプションのみのものがほとんどである。大体コンパニオン風の女性が一緒に写っているので、日本の情報を報道すると言うよりも、紙面の雰囲気を和らげる目的で掲載しているのではないかと思われる。最近は日本の新聞やニュースでもインド関連のニュースが報じられることが多くなったと聞くので、二国間の相互報道量を比較したら、日本の方がインドのことを取り上げる機会が多くなっているかもしれない。このような状態なので、新聞に日本について書かれた記事があると、ついついどんなことが書かれているのかじっくり目を通してしまう。

 僕は基本的に、英語の新聞であるタイムズ・オブ・インディア(TOI)紙とザ・ヒンドゥー紙に加え、英字紙ヒンドゥスターン・タイムス(HT)紙と同系統のヒンディー語紙、ヒンドゥスターン紙を読んでいる。タイムズ・オブ・インディア紙は真面目な記事から三面記事までごった煮状態だが、読んでいて一番楽しい新聞である。ザ・ヒンドゥー紙はクオリティーペーパーとして名高い。南インドを拠点としているだけあり、デリー版でも南インドの情報が豊富で、インド全体で何が起きているかを概観するのに重宝する。ただし、最近はあからさまな親中国路線を採っており、その点が興味深くもあり、不安でもある。ヒンドゥスターン紙は、文化系の記事が豊富なので勉強になる。また、ヒンディー語紙の方が、インドの社会悪について踏み込んだ報道をしていることが多いので、英字紙だけではインドの情報収集には不十分だと感じる。

 インドは新聞が安いので、このように個人で複数の新聞を取っても経済的な負担はあまり感じない。しかも古新聞を廃品回収屋(カバーリー)に売ると結構な値段が回収できるので、ますます新聞の比べ読みがしやすい環境にある。毎日読む新聞を3紙に留めているのは単にそれ以上の新聞を読む時間がないからで、もし無限に時間があるなら、インディアン・エクスプレス紙やジャンサッター紙などの優良紙も併せて取りたいところである。

 インドは、核保有国ながら被爆国である日本に大いなる同情を持っている国のひとつで、例年原爆記念日の時期は日本に関する記事が掲載される確率が高くなる。8月8日付けのヒンドゥスターン紙を読んでいたところ、日本関連の記事を発見した。しかしその題名は「日本はインドから多くのことを学びたいと思っている(भारत से बहुत कुछ सीखना चाहता है जापान)」という意味深なものであった。

 第一段落には、このようなことが書かれていた。
 アジア唯一の先進国であり、技術力や開発力において世界の大国と肩を並べる存在の日本だが、成長率や五ヶ年計画政策に関し、インドを師匠と考え、尊敬している。日本はこれらに関してインドから学ぶのみではなく、経済や技術の面でインドを全面的に支援したいと考えている。
 日本がインドを師匠と考えているかどうかはちょっと議論が分かれるところであろうが、敗戦後の日本を応援してくれたりしたことはあったし、仏教の故郷である天竺への憧れも昔からあったはずで、まあ見過ごしていいだろう。ところが、第二段落になると意外な政党名が登場する。
 仏教を信奉する日本は、仏陀の祖国インドに対して多大な憧れを抱いている。しかし、今までインドと親密な関係を築いて来られなかったことに遺憾も持っている。日本人のこの感情を代弁し、幸福実現党の饗庭直道(あえば じきどう)広報本部長は、「我が党の政策では、インドと軍事同盟を結ぶだけでなく、科学、技術、経済のレベルでも相互に連携することを謳っている。我が党は、インドが国民を教育するために開始した様々な計画は、日本にとってもモデルとなると考えている。インドの教育政策も、日本は参考にできる」と述べた。
 まるで幸福実現党が日本を代表する政党であるかのような書き方である。その後の文章でもさらに幸福実現党によるインドへの賞賛が続く。幸福実現党は、宗教団体「幸福の科学」を母体に、2009年5月に結成されたばかりの新しい党なのだが、そのような政党が早くもインドの新聞に登場するのは異例のことだと感じた。記者はアトゥル・クマールという人物で、どうも日本に駐在しているようである。

 そうしたら翌日のヒンドゥスターン紙に、またもアトゥル・クマール氏による、幸福実現党関連の記事が掲載されていた。題名は「大川氏は教育と保健の改革に取り組んでいる:仏教の影響でインドに愛着を持つ日本人女性(शिक्षा व स्वास्थ्य सुधार में जुटीं ओकाया : बौद्ध धर्म के कारण जापानी महिला को भारत से बिशेष लगाव)」。「大川氏」とは、幸福の科学の総裁かつ幸福実現党の総裁である大川隆法の妻、大川きょう子のことである。ヒンディー語では名字が誤って「オーカーヤー」と表記されていた。この記事には、大川きょう子氏とインドの関係についてかなり詳細に記述されていた。
 もし1人の日本人がインドのボードガヤーにやって来て、そこの子供たちの教育や保健を改善するためのプロジェクトを構想したとしたら、一体日本人がどうしてそんなことに関心を抱いたのか不思議に思うことだろう。だが、日本のある教祖の妻が、そのプロジェクトを実行に移したのである。そして彼女のこの愛着は仏陀の影響によるものなのである。

 幸福の科学という宗教団体を運営する日本の大富豪、大川隆法の妻、大川きょう子は、インドに対し、特にボードガヤーに対し、特別な愛着を抱いている。1996年に仏跡巡礼の旅をしたときに、彼女は大いなる感動に包まれた。彼女は、ボードガヤーこそ彼女の前世の誰かが住んだ場所だと感じた。ボードガヤーで何かをしようと思い立ったほど彼女はインドに入れ込んでしまった。だが、知り合いがいなかったためにその計画はなかなか進展しなかった。そんな中、2005年にホテル経営のスダーマー・クマールが運営するスーリヤー・バールティー・スクールとつながりが出来た。

 その後、大川きょう子氏はこの学校を使って仏陀の覚醒の地において何かすることを決意した。2007年から、彼女の発案に従い、幸福の科学はこの学校を経済的に支援し始めた。この学校が順調に運営されるようになった後、彼女の関心は他の地域にも移った。

 幸福の科学銀座本部において大川きょう子氏は、「間もなく仏教巡礼地で他の福祉プログラムを開始する」と述べた。スーリヤー・バールティー・スクールの指導者ユーキ・イナエ氏は、「大川きょう子氏の支援は、学校の大きな支えとなっている。ここの子供たちのためにたくさんのことが行われている」と述べた。

 現在大川きょう子氏は衆議院総選挙のために多忙な毎日を送っており、自らも立候補している。しかし、すぐに彼女は新しいプロジェクトと共にインドへ行く予定だ。彼女は、飲み水の浄化や保健の改善も考えている。ビハール州の他、マハーラーシュトラ州でも彼女の団体は活動をしている。

 彼女は、インドとネパールの人々が日本語を学び、日本に仕事をしに来ることを望んでいる。彼女は自分の夫を仏陀の化身と信じており、彼女自身も前世において仏陀の国でマンジューシュリー(文殊)として生まれたと考えている。

 彼女がそう感じたのはインドに行った後だった。宗教の世界から政治の世界に飛び込むことは新しい挑戦だと考えている。彼女は、この挑戦でも成功すると信じている。
 その後数日間は特に日本関連の記事も幸福実現党関連の記事も見当たらなかったのだが、8月13日付けのヒンドゥスターン紙に突然、発明家のドクター中松氏について書かれた記事が掲載されていた。主な内容は、ドクター中松氏がミサイルをUターンさせる装置を発明したというものだが、その他にも彼が今まで数々の発明をして来たことについて触れられていた。一応、最近北朝鮮のミサイルが話題になっていたので、その関連かもしれないが、よく考えたらドクター中松氏は幸福実現党公認候補として衆議院総選挙に出馬する予定であり、やはりモロに幸福実現党関連の記事であった。この記事の記者の名前も、アトゥル・クマール氏である。

 アトゥル・クマール氏の署名記事に注目してもう一度過去の新聞を読み返してみると、8月7日付けのヒンドゥスターン紙にも日本の選挙関連の記事が載っているのに気付いた。題名は「日本のメディアの報道によると、自民党の敗北は決定的(जापानी मीडिया की मानें तो जिमिंग्तो की पराजय तय)」。日本でも散々、今回の衆議院総選挙における自民党の旗色の悪さが報道されているので、どんなことが書かれているのかは容易に想像が出来るだろうが、その中で自民党の歴史と現状について簡単に解説されていた。
 自民党は日本でもっとも古い政党で、1955年の結成時以来、一時期を除き、与党を維持して来た。日本では中道右派政党とされている。日本最大の政党であり、2003年には当時最大野党だった自由党を併合した。2005年の選挙では圧勝し、公明党と連立政権を組んだ。そのとき、安倍晋三が総理大臣に就任した。その前は小泉純一郎が総理大臣だった。しかし、2007年の参議院選挙で自民党は敗北し、初めて参議院で野党となった。安倍総理はこの敗北の責任を取って辞表を出し、福田康夫が総理大臣に就任した。2008年9月1日に福田総理も辞表を出し、そのときから麻生太郎が総理大臣を務めている。しかし、与党内のこのような政治的不安定さは国民に気に入られず、党のイメージを損なうこととなった。

 その他、北朝鮮によって拉致された日本の子供たちや市民の解放に失敗したことでも、国民は与党に対して憤りを感じている。野党は政府が不況に対処できていないとして批判をしており、税金の負担が増加し続けていることもマイナス要因となっている。
 この文章に続けて、民主党と幸福実現党が与党に対する批判を強めていることについて触れられており、やはり幸福実現党を紹介するような記事になっていた。しかし、見ての通りアトゥル・クマール氏が書いた自民党の解説には、自由党が自民党と合併したとか、安倍晋三氏が参議院選挙での敗北の責任を取って総理大臣を辞職したとか、北朝鮮に拉致された日本人の解放に失敗したとの断定とか、事実と異なることが書かれており、日本の政治に対する彼の理解力に疑問を感じる。日本の政情についてコンスタントにヒンディー語で記事を書いてくれているのはありがたいが、なぜここまで幸福実現党を持ち上げるのか、不思議でならない。また、宗教団体が支持母体の政党について記者が特に何も違和感を覚えていないのも気になる。インドにはインド人民党(BJP)を筆頭に、宗教と無関係でない政党がいくつかあるので、その辺の感覚は麻痺しているのであろうか?

8月18日(火) Before the Rains

 全くノーマークだったのだが、先週の金曜日から、サントーシュ・シヴァン監督の英語映画「Before the Rains」が公開されていた。この映画の初公開年は2007年であり、なぜこの時期にインドで初公開となったのかについては謎である。ただ、インド独立運動が高揚しつつあった1937年のインドを舞台としており、そのためにわざわざ独立記念日の週での公開を狙っただろうことだけは予想できる。

 「Before the Rains」は、イスラエル映画「Yellow Asphalt」(2001年)の中の「Red Roofs」という短編を原作としている。映像の美しさで知られるサントーシュ・シヴァンが監督を務め、インドを代表する演技派俳優であるラーフル・ボースとナンディター・ダースが主演している他、ライナス・ローチ、ジェニファー・エール、ジョン・スタンディングなどの英国人俳優が出演している。



題名:Before the Rains
読み:ビフォア・ザ・レインス
意味:雨季の前に
邦題:雨季の前に

監督:サントーシュ・シヴァン
制作:ダグ・マンコフ、アンドリュー・スポールディング、ポール・ハーダート、トム・ハーダート、マーク・バートン
音楽:マーク・キリアン
衣装:SBサティーシャン
出演:ライナス・ローチ、ラーフル・ボース、ナンディター・ダース、ジェニファー・エール、ジョン・スタンディング
備考:DTスター・サーケートで鑑賞。

ライナス・ローチ(左)とナンディター・ダース(右)

あらすじ
 1937年、ケーララ州の森林地帯。英国人ヘンリー・ムールス(ライナス・ローチ)は香辛料プランテーションの造園を計画しており、そのために近隣の村人たちを使って道路を建設していた。地元出身のTKニーラン(ラーフル・ボース)は、英語を学んでいたためにヘンリーの右腕となって働いていた。ヘンリーはTKの働きに感心し、彼に銃をプレゼントする。また、ヘンリーの家でメイドをするサジャーニー(ナンディター・ダース)は、既婚でラジャトという旦那がいたが、ヘンリーと恋に落ちていた。

 ある日、英国からヘンリーの妻ローラ(ジェニファー・エール)と息子ピーターが帰って来る。今まで誰にも邪魔されることなくヘンリーと愛し合っていたサジャーニーの置かれた環境は一変する。そんなとき、ヘンリーとサジャーニーが聖なる森の滝で愛し合っていたところを目撃していた子供たちが、ラジャトにそのことをばらしてしまう。ラジャトは怒ってサジャーニーに暴行を加えるが、サジャーニーは相手がヘンリーであることだけは話さなかった。そのままサジャーニーは助けを求めてヘンリーの家までやって来る。

 もしヘンリーがサジャーニーに手を出したことが村人たちにばれてしまったら、反英運動が盛り上がりつつある村は大騒動となる。ヘンリーはとりあえずサジャーニーをTKの住む使用人小屋に連れて行く。そしてTKにサジャーニーをどこか遠くへ連れて行くように命じる。TKはサジャーニーをボートに乗せて送り出す。ところがサジャーニーは帰って来てしまう。サジャーニーはヘンリーに裏切られたことを知り、彼の目の前で、TKの銃によって自殺してしまう。ヘンリーとTKは密かにサジャーニーの遺体を聖なる森の河に沈める。

 サジャーニーが突然消えたことで、サジャーニーの兄マーナスは村人を動員して捜索を始める。捜索ではサジャーニーは見つからなかったが、聖なる森で遊んでいた子供たちが偶然サジャーニーの遺体を発見する。銃殺され沈められていたことで、殺人事件として捜査が始まる。

 村人たちはTKを犯人だと考えた。なぜならTKが銃を持っているのをマーナスが以前に見ていたからである。また、TKはサジャーニーを家まで送ったこともあった。マーナスやラジャトはTKを捕まえ、彼の父親を含む長老たちの前に突き出す。板挟みになったTKは、自分はやっていないと主張するしかなかった。そこで、真実と嘘を判別するカンマダンという伝統的儀式が行われることになった。その儀式によってTKの潔白は証明された。TKは、サジャーニーは自殺したのだと訴える。だが、自殺したサジャーニーを河に沈めた人間がいるはずであった。父親はTKが、誰が犯人か知っていると感じた。とうとうTKは、ヘンリーの名前を出してしまう。TKは、ヘンリーを殺す使命を与えられ、そうしなければ村八分にされることになった。

 一方、ヘンリーの家では、ローラが夫の行動に不審を感じていた。ローラは直感から、夫がサジャーニーに手を出していたことを感じ取る。ローラとピーターは急遽英国に帰ることになった。一人残されたヘンリーは、完成間近の道路へ行く。そこでTKはヘンリーを殺そうとするが、彼には出来なかった。TKはヘンリーに、英国に帰るようにとだけ言い残し、去って行った。

 主人とメイドの禁断の恋愛という、目新しくない要素が物語の核となっているものの、1937年という時代設定とケーララ州の美しい自然、そしてサントーシュ・シヴァン監督の映像美のおかげで、魅力ある映画になっていた。もしこれを一種の犯罪映画だとすれば、主人公はメイドのサジャーニーを自殺に追い込み、それを必死に隠蔽する英国人ヘンリー・ムールスになる。だが、それは必ずしも物語の核心ではない。一方、英語を習ったおかげで英国人に仕える機会を得、出世を夢見るTKが、インド人としてのルーツとの間に板挟みになる様子を物語の中心だと考えると、より深い読みの出来る映画となる。ただ、心情描写は弱く、TKのその葛藤がよく表現されていた訳ではない。TKはあくまで主人のヘンリーを守ろうとし、最後の最後でどうしようもなくなったときに初めてヘンリーをサジャーニー自殺の原因と暴露している。

 題名の「Before the Rains」には、第一義として、雨季前に道路を完成させようとしていたヘンリーの野望が象徴されている。だが、伝統的に雨頼みの農業をしているインドにおいて、「雨」という言葉には、「歓喜」の感情が含まれる。そしてそれをこの映画のプロットに当てはめた場合、それは「インド独立」と言い換えることが出来るだろう。つまり、インド独立前、インドを植民地支配していた英国人が、徐々にインドを撤退せざるをえなくなる状況に焦点が当てられている。ラストでもTKはヘンリーに、インドを出て行くように忠告する。TKは銃を持っており、丸腰のヘンリーを殺すことも出来たが、それはしなかった。これは、非暴力によって独立を成し遂げたことを象徴しているのであろう。

 英領時代のケーララ州の森林を舞台に、主人、メイド、アシスタントの人間関係を中心に物語を紡ぎ出したことは良かったが、独立運動という要素を入れたために、多少プロパガンダ映画の色が出てしまい、それがかえって全体の美しさを損なっていたようにも感じた。純粋な人間ドラマとして映画を完成させていたら、もっとユニバーサルなアピールのある映画になっていたのではないかと思う。

 主演のライナス・ローチという英国人俳優については全く知らないのだが、「Batman Begins」(2005年)や「The Namesake」(2006年)などに出演している。どうやらインド放浪経験があり、インド好きだと思われる。ラーフル・ボースは、この映画の真の主役と言っていい。いつものおどおどした演技であった。ナンディター・ダースの出演機会は案外少なかったが、サーリー姿がとても美しく、演技にも力が入っていた。

 劇中では、ケーララ州の自然だけでなく、文化に関する映像もあった。例えば何らかの祭りにおけるピーコック・ダンスが一瞬だけ出て来ていたし、真実と嘘を判別するカンマダンという儀式も登場した。

 言語は基本的に英語だが、ケーララ州を舞台にしている影響で、マラヤーラム語の台詞も頻繁に登場する。マラヤーラム語の台詞には英語の字幕が付く。ちなみに、サントーシュ・シヴァン監督自身がケーララ州出身である。

 「Before the Rains」は、完全に映画祭向けの上質な映画を好むハイソな観客層のための映画である。最大の売りはサントーシュ・シヴァン監督の映像美。ナンディター・ダースのファンにもお勧めできる。

8月23日(日) Sikandar

 90年代を代表するボリウッドの名作「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)を一度でも見た人なら、脇役ながら、無言の愛らしいスィク教徒の子供のことを覚えているだろう。あの子の名前はパルザーン・ダストゥール。「Kuch Kuch Hota Hai」以後も「Zubeidaa」(2001年)、「Kabhi Khushi Kabhie Gham」(2001年)、「Parzania」(2007年)など、いくつかの映画に端役で出演していたようだが、今ではすっかり成長し、遂に主演をはるまでになった。現在公開中の「Sikandar」である。ヒロインもまた注目。その年の映画賞を総なめした名作「Black」(2005年)で、主人公ミシェルの子供時代を演じ、絶賛を受けたアーイシャー・カプールと言う子役がいたが、彼女も立派に成長しており、「Sikandar」でヒロインを務めている。一見すると子供向け映画に見えるが、テーマはインドが抱える様々な問題の中でも最も悩ましいカシュミール問題であり、一筋縄ではいかない作品であることがうかがわれた。日本一時帰国前の慌ただしい時期だったが、この映画を見ておくことにした。



題名:Sikandar
読み:スィカンダル
意味:主人公の名前
邦題:スィカンダル

監督:ピーユーシュ・ジャー
制作:スディール・ミシュラー
音楽:サンデーシュ・シャーンデーリヤー、ジャスティン・ウダイ、シャンカル・エヘサーン・ロイ
歌詞:プラスーン・ジョーシー、ニーレーシュ・ミシュラー、クマール
出演:パルザーン・ダストゥール、アーイシャー・カプール、マーダヴァン、サンジャイ・スーリー、アルノーダイ・スィン(新人)
備考:サティヤム・ネルー・プレイスで鑑賞。

左から、パルザーン・ダストゥール、アーイシャー・カプール、
マーダヴァン、サンジャイ・スーリー

あらすじ
 カシュミール。14歳の少年スィカンダル・ラザー(パルザーン・ダストゥール)は、ジハーディー(イスラーム原理主義テロリスト)に両親を殺され、叔父と叔母と共に暮らしていた。サッカーが大好きで、将来はサッカー選手になることを夢見ていた。スィカンダルは、学校に転校して来たナスリーン(アーイシャー・カプール)と言う女の子と仲良くなる。

 ある日、スィカンダルとナスリーンが学校まで近道するために森林の道を歩いていると、道端に拳銃が落ちているのを発見する。ナスリーンは止めるが、スィカンダルは拳銃を拾う。得意になったスィカンダルは、いじめっ子3人組を銃で脅して屈服させる。

 スィカンダルの叔母が洗濯機が欲しいと言っているのを聞いたスィカンダルは、ナスリーンと共に市場へ行く。そこで展示されていた洗濯機を勝手にいじったことで、店主のジャーヴェードに叱られる。咄嗟にスィカンダルは銃を取り出し、ジャーヴェードに突き付け、そのまま逃げ出す。

 実はジャーヴェードは、カシュミールの独立のために活動するカシュミール自由隊(KAF)の一員であった。ジャーヴェードは、KAFの司令官ゼヘギール・カーディル(アルノーダイ・スィン)にそのことを報告に行く。拳銃を持つ少年に興味を持ったゼヘギールは、スィカンダルに近付き、彼に銃の使い方を教える。見る見る内にスィカンダルの腕前は上達する。最後の試練として与えられた任務が、ある人物の暗殺であった。この課題さえこなせば報酬として洗濯機がもらえるとのことだった。スィカンダルは何の疑問を抱かず、暗殺に乗り出す。だが、その前にそのことをナスリーンに話していた。

 暗殺のターゲットになっていたのは、ムクタール・マットゥー(サンジャイ・スーリー)という人物であった。ムクタールは元々テロリストだったが、政界へ進出し、平和的手段によるカシュミールの独立を目指していた。スィカンダルはムクタールに照準を合わせるが、ナスリーンが盾になってそれを止めたため、暗殺は失敗に終わった。その様子を見ていたゼヘギールは、失敗したスィカンダルに暴行を加えるが、スィカンダルは咄嗟に銃を取り出してゼヘギールを撃ってしまう。ゼヘギールはその場で絶命した。

 ラージェーシュ・ラーオ中佐(マーダヴァン)率いる国家ライフル隊は、ゼヘギールの遺体を確認し、犯人を追跡し出す。ラージェーシュが恐れていたのは、ゼヘギールはインド軍によって殺されたとカシュミール住民が考えることであった。一方、KAFのテロリストたちも、ゼヘギールの暗殺者を捜索する。スィカンダルは怖くなって拳銃を捨てようとするが、いじめっ子3人組に拳銃を奪われてしまう。だが、運が悪いことに3人組が銃を持ってゼヘギールの話をしているところをテロリストたちに見られてしまい、彼らは殺されてしまう。スィカンダルとナスリーンは3人が殺されているのを見つけ、銃を取り返そうとするが、そこへ軍人が来てしまい、追い払われる。

 ラージェーシュ中佐は、殺された3人の子供のそばにいたスィカンダルとナスリーンに興味を持ち、まずスィカンダルを探し出す。スィカンダルは家から逃げ出し、森林に身を隠す。ナスリーンはスィカンダルにブルカーとバッグを渡し、モスクへ行ってマウルヴィー(神官)に匿ってもらうように助言する。スィカンダルはブルカーを着てモスクへ向かう。ところが、スィカンダルがブルカーとバッグを脱ぎ捨て、マウルヴィーのところへ行った途端、バッグが大爆発を起こす。スィカンダルの命に別状はなかったが、全く訳が分からず、逃げ出すしかなかった。ナスリーンを頼ろうとしたが、そこで彼が密かに見たのは、ムクタールに「娘よ」と呼ばれるナスリーンの姿であった。ナスリーンはムクタールの娘だった。

 ラージェーシュ中佐はモスクに爆弾を持ち込んだ少年を全力で捜索する。スィカンダルは森林の小屋で一晩を明かす。朝起きると、彼の前には拳銃と写真とメッセージであった。

 一方、ムクタールとナスリーンはデリーへ向かおうとしていた。そこに立ちはだかったのがスィカンダルであった。スィカンダルはムクタールに銃を向けるが、やはりナスリーンが盾になった。仕方なくスィカンダルは銃を捨てる。銃を拾い上げたナスリーンは、意外なことにムクタールを射殺する。そこへラージェーシュ中佐が登場し、遺体を処理して去って行く。

 「Sikandar」の監督ピーユーシュ・ジャーは、以前「The King of Bollywood」(2004年)というカルト的映画を撮っている。この作品はほとんどヒットしなかったのだが、ボリウッドの落ち目の映画スターの孤独がドキュメンタリー・タッチでよく描写されており、僕の中では隠れた名作として記憶されていた。ジャー監督はその後しばらく映画監督業から離れており、最近では「Saas Bahu Aur Sensex」(2008年)で俳優デビューしたことぐらいしか映画関連のニュースがない彼であったが、カシュミールを旅行中に再び映画を監督することを思い立ったようで、それが今回の「Sikandar」につながっている。

 「The King of Bollywood」のこともあり、「Sikandar」には多少期待を寄せていたのであるが、見終わった後の正直な感想は、残念ながら限りなく駄作に近い映画というものであった。致命的なのは、ストーリーが訳分からない、各人物の行動の動機がよく分からないという点である。一体ナスリーンは正真正銘のテロリストで最後に改心したのか、それとも父親に操られていただけだったのか、最後のムクタール射殺におけるラージェーシュ中佐の役割は何だったのか、最後にナスリーンを橋の真ん中で下ろしたのはどういう意味があるのか、などなど、はっきりしない部分が数え切れないほどあった。監督はこの映画によって、カシュミール人の子供が皆テロリストではないということを伝えたかったようだが、そのメッセージが読み取れるようなストーリーにもなっていなかった。そもそも映画監督としての技量すら疑問であった。ストーリーテーリングが下手すぎるのである。BGMも派手な使い方をしすぎて雰囲気を損なっていた。また、子供向け映画と思わせておいて、これだけヘビーな映画を見せるのは酷である。子連れの家族のことを考えなければならない。

 むしろ映画中でよく描写されていたのは、分離派テロリスト、インド軍、政治家、マウルヴィーの関係である。印パ分離独立時に紛争地域となったカシュミールは、駐屯する軍人の横暴、分離派テロリストによるテロ、住民のコミュナルな感情を扇動して票集めに走る政治家など、様々な人々の思惑が交錯し、複雑な状況に置かれている。カシュミールで、殺人など、何か事件が起こると、それが単純な事件であっても、複雑な事情が絡み合って、大きな事件に発展してしまうことがある。「Sikandar」でも、偶然拳銃を手にした少年が偶発的にテロリストのリーダーを殺してしまったことで、厄介な問題が雪だるま式に引き起こされていた。

 パルザーン・ダストゥールの演技は特に大したことはなかった。「Kuch Kuch Hota Hai」の頃の面影は十分残っているが、それだけで飯を食って行こうと思ったら甘すぎる。もっと演技の勉強が必要だ。だが、アーイシャー・カプールの方は依然として堂々とした演技を見せており、さすが「Black」の子役である。ただ、台詞は吹き替えのように思えた。もし台詞も自分でしゃべっていたのなら、絶賛したい。ちなみにアーイシャー・カプールはインド人とドイツ人のハーフで、プドゥッチェリー(ポンディチェリー)近郊のオーロヴィル在住のようである。

 マーダヴァンは厳然とした軍人の役で、迫力と威厳のある演技をしていたが、脚本の稚拙さのためにそれが劇中でうまく生きていなかった。サンジャイ・スーリーは怪しげな政治家をうまく演じていたが、ウルドゥー語の台詞にあまり慣れていない感じがした。テロリストのゼヘギール・カーディルを演じたアルノーダイ・スィンは新人だが、堂々とした演技で、今後成長が見込めそうだ。彼は実は国民会議派のベテラン政治家アルジュン・スィンの孫である。

 音楽はサンデーシュ・シャーンデーリヤー、ジャスティン・ウダイ、シャンカル・エヘサーン・ロイの合作で、歌詞もプラスーン・ジョーシー、ニーレーシュ・ミシュラー、クマールの合作と言う、寄せ集めになっているが、ひとつだけ特筆すべきことがある。それは、著名なウルドゥー語詩人ファイズ・アハマド・ファイズの詩が、挿入歌「Gulon Mein」に使われていることである。

 ウルドゥー語が州公用語のひとつとなっているカシュミール地方を舞台にしているため、台詞はアラビア語やペルシア語の語彙を多用したウルドゥー語となっている。よって、ヒンディー語だけの知識では台詞を理解するのは困難である。しかし、どこか文語的な台詞が多く、ウルドゥー語の台詞は必ずしも映画の雰囲気を高めるのに貢献していなかった。

 「Sikandar」は、一見子供向け映画のようだが、実際はカシュミール地方の深刻な問題を取り扱ったヘビーな映画である。しかも、監督の技量不足のために、完成度は低い。「Kuch Kuch Hota Hai」のスィク教徒の少年や「Black」の少女がどう成長したか見る目的ならまだ意義はあるが、それ以外の目的で無理して見る必要はない映画である。



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