スワスティカ 印度文学館 スワスティカ

装飾上
Parineeta
装飾下

 シャラトチャンドラ・チャットーパーディヤーイ(1876-1938)。ラヴィーンドラナート・タゴールと並び称せられる、ベンガルを代表する文学者。1913年に文壇に登場して以来、30作以上の長編小説と、無数の短編小説を発表した。彼の作品は今でもベンガル地方のみならずインド全土で愛読され続けており、度々映画化もされている。その中では「Devdas」がもっとも有名。今回は彼の長編小説のひとつ、「Parineeta(既婚者)」(1914年出版)をヒンディー語版から邦訳。20世紀初頭のカルカッタを舞台にした恋愛小説である。同作品も今まで数度映画化されているが、今年2005年にもボリウッド映画化されて公開された。

第1章

 グルチャラン氏は1人部屋に座り、考え込んでいた。すると、彼の娘がやって来て言った。「お父さん!お父さん!お母さんがちっちゃな女の子を産んだわよ!」この吉報は矢のようにグルチャランの心臓に突き刺さり、彼の顔はまるで大惨事でも起きたかのように青ざめてしまった!これが彼の5人目の女の子となる。1人の男の子もなく、続けて5人目の女の子!

 グルチャラン氏は毎月60ルピーの月給で働く、ごく普通の男だった。家計は困窮しており、人生は乾き切り、目は精気を失っていた。身体は老馬のように痩せ細り、生きながらにして死んでいるかのような外見だった。そのような状態だったため、この凶報を聞くや否や彼の全身から血が抜けてしまい、煙管(キセル)を手にしながら古い枕に寄りかかって、死人のように身動きもしなかった。まるで息をすることも困難であるかのように見えた。

 アンナーカーリーからこの吉報を聞いても、グルチャラン氏は何も答えなかった。それを見たアンナーカーリーは父親の身体をゆすりながらもう一度言った。「お父さん、赤ちゃんを見に行きましょうよ!」

 グルチャラン氏は彼女の方を見て、小さな声で言った。「ワシは喉が渇いてしまった。さあ、まずは水を一杯持って来ておくれ。」

 アンナーカーリーは水を持ちに行った。そのとき、彼には毎年の費用のことが思い浮かんだ。グルチャラン氏の脳裏には、ありとあらゆる種類の心配事が、呼びもしないのに浮かんで来てはその場に留まった。その様子はまるで、列車がプラットフォームに到着するや否や、3等車の乗客が我先に車両の中に突進して席を取り合うかのようだった。グルチャラン氏の頭はメリーゴーランドのようにグルグル回り始めた。

 彼は、ドゥルガー・プージャー(女神祭)の日がやって来たことを知っていた。去年、次女の結婚のために、バウー市場の先祖代々伝わる2階建ての邸宅を抵当に入れたが、その6ヶ月分の利子もまだ払い切れずに残っていた。ドゥルガー・プージャーに合わせて、三女のところに果物、お菓子、衣服などを送らなければならなかった。昨日、会社の会計を夜の8時まで計算していたが計算が合わず、今日の正午までに収支を合わせて英国に送らなければならなかった。それはいいとしても、先日ボスが出した、「汚い服を着て来てはならない」という命令は厄介だ。命令違反すると罰金を科せられ、給料から天引きされてしまうだろう。困ったことに、この1週間血眼になって探したが、安くていい洗濯屋が見つからなかった。これら全ての心配事に悩むグルチャラン氏は、煙管を吹かしながら両手を上に伸ばして枕にもたれかかって寝転び、神様に呼びかけた。「ああ、神様!カルカッタでは多くの人が車や馬の下敷きになって死んでいますが、あなたのお考えでは、彼らは私よりも罪深い人間なのでしょうか?ああ、慈悲深い神よ!救いの神よ!もしどこかの車が私をひき殺してくれるなら、私は自分を果報者と思うでしょう!ああ、神様!どうか私の願いを聞き届けて下さい!」

 そのとき、アンナーカーリーが水を持って来て言った。「お父さん、はい、起き上がって水を飲んで。」

 グルチャラン氏はやっとのことで水を飲み干して言った。「さあ、このコップを持って行きなさい!」

 グルチャラン氏は娘が立ち去った後に再び横になり、また思案の海の中に沈み込んだ。

 すると、ラリターが部屋にやって来て言った。「叔父さん!チャーイ(お茶)を持って来たから起きて!」

 グルチャラン氏はチャーイと聞いて起き上がり、ラリターの方を向いて安堵の溜息をついた。まるで彼の悲しみの半分が消え去ってしまったかのようだった。彼は言った。「こっちへおいで、こっちへ来てちょっとここに座りなさい!お前は夜通し起きていたのかい?」

 ラリターはニッコリと微笑んで叔父さんの近くに座った。彼女は叔父さんのことが大好きだった。彼女は言った。「私が夜ずっと起きていなくてもよかったわ。」ラリターだけが叔父さんの肉体的・精神的苦痛を理解していた。しかし神様にお願いする他に彼女に何ができようか!

 両親を失ったラリターに、グルチャラン氏は限りない愛情を注いでいた。彼女がそばに座ると、グルチャラン氏は彼女の頭を撫でながら、自分の願望を話し始めた。「ラリター、もしお前がどこかの良家に嫁ぐことができたら、私は自分を果報者だと思うよ。」

 ラリターは黙って聞いていた。

 グルチャラン氏は続けて言った。「ラリター、お前はこの哀れな叔父さんの家に来たばっかりに、夜も昼も苦労しなくてはならなくてすまないね。」

 ラリターは頭を振って言った。「夜も昼もどうして苦労しなくてはならないの、叔父さん?私はみんなと同じようにしてるだけよ。」

 グルチャラン氏はチャーイを飲みながら、今度は少し微笑んで言った。「ラリター、今日の食事はどうしようか?」

 ラリターは叔父さんを見て言った。「今日は私が作るわ、叔父さん!」

 グルチャラン氏は驚いて言った。「お前が作るのかい?何を?お前は料理できるのかい?」

 「できるわ!叔母さんが教えてくれたもの!」

 グルチャラン氏はチャーイのカップを地面に置きながら言った。「本当かい?」

 「ええ、叔父さん、本当よ!何度も何度も叔母さんの目の前で料理したのよ。」

 それを聞いて、グルチャラン氏はラリターの頭に手を置いて祝福を与えた。今日、彼はひとつの仕事から解放された。

 グルチャラン氏の家は道の片側にあった。そこから道を通る人たちを見渡すことができた。チャーイを飲みながら彼は表の道の方を見て言った。「シェーカル、お前かい?ちょっとこっちに来なさい!」

 体格の良い1人の若者が部屋に入ってきた。グルチャラン氏はシェーカルを座らせて言った。「お前は今朝、叔母さんの知らせを聞いたことだろう?」

 シェーカルは微笑んで言った。「女の子が産まれたそうで、そのことでしょう?それとも他に何かあるんですか?」

 長い溜息をつきながらグルチャラン氏は言った。「そう、お前は簡単に『そのことでしょう』と言うが、私の身に起こっていることは、私にしか分かるまい。」

 シェーカルは答えた。「そんなことおっしゃらないで下さい、叔父さん!もし叔母さんが聞いたら悲しむでしょう。それに、神様からの授かり物にはたとえ何であろうと満足すべきでしょう。」

 しばらく黙った後、グルチャラン氏は言った。「神様からの授かり物に満足しなければならないことは、ワシだって分かっているさ。それでも神様はいいこと悪いことの区別をなさっているとは思えないね!神様はワシがどうにもならないくらいの貧乏人だってことを分かってらっしゃるはずだ。それでいて神様はどうしてワシのような貧乏人にこんな果報を下さるのだろう?この家だって、お前の父親に抵当に入れてしまった。家を抵当に入れたことにワシは何の不安もない。不安なのは、ひとつの重荷が肩から下りない内に、新しい重荷が乗っかってくることだ。見てごらん、シェーカル、この世のものとは思えないくらい美しく賢いこのラリターだって、本当はどこかの王家で優雅に暮らすべきなんだ。ワシのような貧しい家には全く釣り合わない。お前も考えてみておくれ、この子をどうしてそこら辺の家に嫁がせることができようか!ワシの目の黒い内は絶対にそんなことできないだろう!この子の美しさの前では、王家の家宝の宝石すらかすんでしまう。この子はこの世にふたつとない貴重な宝石なんだ。しかし、この貴重な宝石の鑑定家がどこにいようか?今の時代、人々は金のためだけに生きている。だからいつの日か、貧困のために、この子をどこかの田舎者に嫁がせなくてはならなくなるだろう。シェーカル、こんな状態に陥ったワシの気持ちがどんななのか、考えてもみておくれ。ワシの心の痛みがどんなか、感じておくれ。ラリターはもう13歳になってしまった。しかしワシの手元には、この子の縁談をまとめるための金は1ルピーもないんだ。」

 グルチャラン氏の目には涙が溢れてきた。シェーカルは黙って彼の話を聞いていた。グルチャラン氏は再び話し始めた。「シェーカル、何かいい方法を考えておくれ!お前にはたくさんの友達がいるだろう。誰か、お前の話を聞いて、ラリターをもらってくれる人はいないだろうか?そうすればこの子にとってどんなに幸せだろう!最近の貧しい若者はお金の話をしないと聞いている。ただ礼儀正しく、美しく、賢い妻を求めているそうじゃないか。だから、神様のご慈悲とお前の努力でラリターの縁談がまとまらないだろうか、そして私の重荷が取れないだろうか?私は心からお前を祝福するよ、どうかこのシェーカルが幸せに何不自由なく暮らせるように!これ以上の祝福はないだろう!ワシはお前たちみんなの助けがなければ生きていけないんだ。お前の父親もワシを弟のように可愛がってくれている。」

 シェーカルはうつむいて言った。「分かりました、私が何とか頑張ってみます!」

 グルチャラン氏は言った。「その言葉を忘れないでおくれ、シェーカル!ラリターのことはお前が全部知っているだろう。8歳のときからお前はこの子を教えて来たんだ。この子の賢さと礼儀正しさは見ての通り。お前がそのことは一番よく知っているはずだ。この子は今日から家事を全部するだろう、この子の肩に全てがかかってるんだ。」

 ラリターはずっと黙って座っていたが、このとき彼女は顔を上げてシェーカルの方を見た。彼が視線を向けると、彼女は唇に少し微笑みを浮かべ、再びうつむいた。

 グルチャラン氏はまた深い溜息をついてしゃべり出した。「ラリターの父親は多くの金を稼いだが、慈悲深い性格から全てを喜捨してしまった。そして自分の一人娘のもとには1ルピーも残さなかったんだ。」

 このときもシェーカルは黙っていた。

 グルチャラン氏は続けて言った。「しかし彼が1ルピーも残さなかったとは言えないだろう!彼は不幸な人々の悲しみを遠ざけたが、その恩恵はこの子が受け取っているんだ。だからこの子は女神なんだ。そうでなかったら、こんなに賢いはずがない。お前もそう思うだろう、シェーカル!」

 シェーカルは黙って微笑んでいた。

 シェーカルが帰ろうとすると、グルチャラン氏はもう一度念を押して言った。「ワシが言ったこと、覚えておいておくれ、シェーカル!確かにこの子の肌は白くないが、しかしこの子の美しさ、柔かさ、優しさ、賢さは、世界中探しても並ぶ者はいないだろう。」

 頭を振りながら(肯定の仕草)、シェーカルは外に出た。彼の年齢は25歳か26歳くらいだろう。文学修士号を取得した後、しばらくは法律の勉強をしていた。そして去年試験に合格して弁護士になった。彼の父親ナヴィーンラーイ氏は砂糖の貿易商だった。彼はこの商売により億万長者となり、今や家にいながら商売をしていた。彼の長男アヴィナーシュも弁護士をしていた。次男がシェーカルだった。ラーイ氏の3階建ての邸宅は近所のどの家よりも高く、グルチャラン氏の家と隣り合っていた。ラーイ氏の邸宅の長い長い屋根は、グルチャラン氏の家の屋根とつながっていたため、両家は非常に仲が良かった。その屋根は、両家の女性たちがお互いの家へ行く唯一の道だった。

第2章

 シャーム市場のある大富豪の家族と、シェーカルの縁談が進んでいた。彼らは今日、シェーカルの家に来て、来月に結婚式を挙げることを提案して帰って行った。しかし、この案はシェーカルの母親が承知しなかった。母親は家の奥から伝言を送り、「シェーカルが花嫁を見て気に入らなければ、結婚式を行うことは許しません」と言い張った。

 ナヴィーンラーイ氏はただ財産のことしか考えていなかった。この結婚により莫大な金が手に入る計算だった。だから、彼は自分の妻の主張を聞いて激怒して言った。「お前は何を言っているんだ?嫁を見る必要がどこにある?見たところで何も変わらんだろう!まずはこの縁談をまとめて、そして結婚式を挙げなければ!もしシェーカルが望めば、嫁を見て来るだろう。ワシらもみんなで行って見ようじゃないか。」

 これだけ言っても、妻は承知しなかった。彼女はこの縁談を早急にまとめることに反対して言った。「シェーカルの許可がなければ、この縁談は絶対に成立させません!」

 妻の頑固さにナヴィーンラーイ氏は困り果ててしまった。その日、彼は何も飲まず、何も食べず、居間で黙りこくっていた。

 シェーカルはオシャレな男だった。彼は家の三階に住んでいた。彼の部屋全体はモダンに装飾されていた。母親に何度も何度も説得されたため、今日シェーカルは花嫁を見に行くことになり、その準備に追われていた。服や靴を身に付け、鏡の前に立って髪を整えていた。そこへ、ラリターがやって来た。彼は、ラリターが入って来たことに気付かなかった。ラリターは最初黙って立っていたが、しばらくして彼に聞いた。「お嫁さんを見に行くんでしょ?」

 シェーカルは裏を振り向きながら言った。「うわっ!来てたのか、ラリター!ちょうどいい、ちょっと手伝ってくれ。相手が一瞬でオレを気に入るようにかっこよく身支度しなくちゃならないんだ。どこか変なところないかな?」

 ラリターは静かに笑って言った。「シェーカル兄さん、私、今とっても忙しいの。今はちょっとお金をもらいに来ただけ!」

 こう言って、ラリターはシェーカルの枕の下から鍵の束を取り出し、引き出しを開け、お金を抜き出した。そのお金を衣服の端に結びつけながら彼女は自分で言った。「私、必要なときにお金を持って行ってるけど、どうやって返したらいいかしら?」

 シェーカルはくしで髪をといていた。ラリターの言葉を聞いて、シェーカルは彼女の方を向いて言った。「将来返すつもりなのか、それとも今返しているところなのか?」

 この問いの意味をラリターは少しも理解することができなかった。彼女はきょとんとして彼の方を見ていた。

 シェーカル「オレの方をどうして見てるんだ?オレの言ったことが分からなかったのか?」

 ラリターは頭を振って言った。「分からなかったわ!」

 シェーカル「それじゃあ今は理解する必要はないよ!もう少し大きくなったら、自然と分かるようになるだろう。」

 そう言って、シェーカルは外へ行ってしまった。

 夕方になるとシェーカルは家に帰ってきて、黙って寝台に横たわり、ぼーっと考え事をしていた。そのとき母親がやって来た。母親を見ると、彼はすぐに起き上がった。母親は椅子を彼の近くまで持って来て座り、シェーカルに聞いた。「お見合いはどうだった?何か言いなさいよ。」

 シェーカルははにかんだ笑顔と共に言った。「いい娘だったよ、母さん!」

 シェーカルの母親の名前はブヴァネーシュワリーだった。年は50歳ほどだったが、身体の美しさから、見た目は35〜36歳くらいに見えた。彼女はとても心優しい女性だった。生まれも育ちも片田舎ではあったが、都会に嫁いだことから、都会の華やかな生活に慣れ親しんだ。彼女のひとつひとつの仕草から、田舎っぽさは全く感じられなかった。実直さと誠実さにおいて、彼女は他の女性に引けをとっていなかった。彼女は一方で都会の習慣を自分のものにしたが、他方で田舎特有の質実剛健な性格を失っていなかった。

 シェーカルは、母親のブヴァネーシュワリーをとても誇りに思っていた。どれだけ誇りに思っているか、当の母親にも十分分からないほどであった。彼は心の中で母親を女神のように敬っていた。彼は人生において何の不足もなかった。知恵、学問、容姿、財産、全てが彼の手中にあった。しかし、それでもブヴァネーシュワリーのような母親の胎内から生まれてきた幸せを、彼は神様が与えてくれた最高の果報だと考えていた。だから、彼は全身全霊で母親を慕っていた。

 シェーカルの母親は言った。「いい娘だったのはいいけど、他に何か言うことはないの?」

 シェーカルはうつむきながら微笑んで言った。「母さんが聞いたことに答えただけだよ。他に何か言う必要がある?」

 ブヴァネーシュワリーもシェーカルの言葉を聞いて微笑んで言った。「シェーカル!お前は私の質問に満足の行く答えをしたと思ってるのかい?どんな容姿だったか言ってごらんなさい。肌は白かった?それとも黒かった?ラリターみたいだった?」

 シェーカルは視線を上げて言った。「ラリターの肌の色は黒いけど、ラリターよりもだいぶ白かったよ。」

 母親「目や口はどんな感じだった?」

 シェーカル「特に悪くはなかったよ、母さん!」

 「それじゃあ、縁談成立ってお父さんに伝えるわよ?」

 母親のこの言葉を聞いて、シェーカルは黙ってしまった。彼は母親の方を黙って見ていた。母親は言った。「シェーカル!その娘の学歴はどんなものかしら?どこまで勉強したの?」

 シェーカル「それは聞くの忘れてたよ。」

 母親は驚いて言った。「どうして聞かなかったの、シェーカル?最近の若い子は、女の子の教養を一番重視してるっていうのに、お前はそれを聞くの忘れたのかい?」

 シェーカルは微笑んで言った。「ついうっかりしてたよ!」

 シェーカルの言葉を聞いて、母親はとても驚いてしまった。しばらくの間、彼女は息子の顔を黙って見ていた。母親は再び口を開いた。「それじゃあどうしてお前は正直に言わないんだい、その娘と結婚したくないって!」

 シェーカルがその問いに答えようとしたところへ、ラリターがやって来た。ラリターを見るや否や、彼は黙ってしまった。ラリターはゆっくりと歩いて来て、ブヴァネーシュワリーの後ろに立った。ブヴァネーシュワリーはラリターを左手で掴んで前に引っ張って言った。「どうしたの、ラリター?」

 ラリターは小さな声で言った。「何でもないわ、お母さん!」

 ラリターは以前、ブヴァネーシュワリーを「おばさん」と呼んでいた。しかし、ブヴァネーシュワリーがそれを止めて言った。「私は確かに母親だけど、おばさんじゃあないわ。」そのときからラリターは彼女を「お母さん」と呼ぶようになった。ブヴァネーシュワリーは愛情たっぷりに彼女を抱き寄せて言った。「何でもないの?それじゃあ、私に会いに来たのかしら?」

 ラリターは黙って立っていた。

 シェーカルは言った。「母さん、ラリターは母さんに会いに来たんだろう、でもラリターにそんな時間はないんだ。こんなことをしていたら、ラリターはいつ料理をするんだ?おじさんがこの前言っていたよ、これからラリターが食事を作るって!」

 母親はシェーカルの言葉を聞いて笑いが込み上げてしまった。彼女は言った。「全くおじさんも仕方のない人ね!思ったことをつい口に出してしまったんでしょう!ラリターは、まだ結婚すら決まってないのよ、シェーカル!まだまだ子供なんだから。おじさんが言ったからって、それがそのままそうなるなんてことはないの。それに、この子の作った料理を誰が食べるって言うの?もう私のところの料理人を送っておいたわ。これから彼女があそこの食事を作るでしょう。うちは、お前の兄嫁が全部面倒見てくれてるからね。それに最近私は、昼ごはんをラリターのところで食べているのよ!」

 シェーカルは、母親が持ち前の慈悲深い性格から、可哀想な家族の悲しみを軽減するために全てを行ったのだと理解した。彼は安堵の溜息をついて黙り込んでしまった。

 1、2ヶ月後のある日の夕刻、シェーカルはソファーに横たわって何かの小説を一生懸命読んでいた。そのとき、ラリターがやって来て、枕の下から鍵の束を取り出し、ごそごそと物音を立てながら引き出しを開け始めた。シェーカルは本を読みながら言った。「何してるんだ?」

 ラリターは言った。「お金もらうわね!」

 「ああ」と言って、シェーカルは再び読書に没頭した。衣服の端にお金をくるんで、ラリターは立ち上がった。今日の彼女は、きれいに着飾り、化粧をして来ていた。彼女は、一度でいいからシェーカルが自分を見て欲しいと思っていた。

 ラリターは言った。「兄さん、10ルピー持って行くわよ。」

 シェーカルは言った。「ああ。」

 しかし、彼は視線を上げて彼女の方を見なかった。彼女は他にいい方法を思い付かなかったので、そこら辺の荷物を整頓し始めた。それでも彼の気を引くことはできなかった。彼女は静かに立ち去ろうとした。それでもラリターは、このように立ち去ってしまったら、もうシェーカルに見てもらえないだろうと考えていた。彼女は再びドアのそばに立ち、じっと待っていた。今日、彼女は演劇を見に行くところだった。

 しかし、彼女はこのままでは劇場へ行くことはできなかった。なぜなら、シェーカルの許可がなければ家の外に出れないことになっていることを彼女は知っていたからだ。誰も彼女に、なぜ彼の許可を得る必要があるか教えた者はおらず、彼女もこのことについて疑問を呈したことはなかった。人間が知力によって思考し、何らかの信条を決めるのと同様に、彼女は自分の持って生まれた知力によって、シェーカルの許可を得る必要性を受け容れていた。他の人は自分の好きなことをすることができるし、自分の好きなところに行くことができるが、自分は他の人たちとは違うのだと、彼女は心の中で考えていた。彼女は、自分の無力さを感じ取っていた。彼女は叔父さん、叔母さんの命令を正しいと思っていなかった。

 ドアのそばに立ったラリターは、小さな声で言った。「私たち、演劇を見に行くわ。」

 ラリターの小さな声は、シェーカルの耳には届かなかった。そのため、シェーカルは何も答えなかった。

 今度はラリターは少し大きな声で言った。「みんな私を待っているわ。」

 ラリターの声は今度はシェーカルの耳に届いた。小説を置いて彼は言った。「どうしたんだ?」

 ラリターは少し怒って言った。「今まで聞こえなかったの?私たち、今日、演劇を見に行くの。」

 シェーカルは聞いた。「私たち?誰と一緒に行くんだ?」

 ラリターは答えた。「私、アンナーカーリー、チャールバーラー、その叔父さんとか。」

 シェーカルは言った。「叔父さんって誰のことだ?」

 ラリター「ギリーンドラっていうの。5、6日前にここに来たの。ムンゲールに住んでいるわ。これからカルカッタの大学に通うんですって。とってもいい人よ。」

 シェーカルは彼女の言葉を遮って言った。「そうか、お前はそいつのこと全部知ってるってわけか。大の仲良しになったみたいだな!それで、ここ4、5日間来なかったんだな。毎日トランプでもして遊んでるんだろう!」

 シェーカルの口調が変わったのを見て、ラリターは驚いてしまった。彼女は、こんな質問をされるとは夢にも思っていなかった。彼女は黙ってうつむいて立っていた。

 シェーカルは聞いた。「図星なんだろ、ここのところ毎日トランプして遊んでたんだろ?」

 ラリターは小さな小さな声で、躊躇しながら言った。「ええ、チャールバーラーがどうしてもって言うから・・・」

 「どうしても?」と言いながらシェーカルはラリターの全身に視線を走らせて言った。「上から下まで着飾りやがって。好きにしろ!行けよ!」

 しかしラリターは魂が抜けたかのように黙って立っていた。

 チャールバーラーはラリターの隣に住んでいた。ラリターとチャールバーラーは大の仲良しだった。チャールバーラーはブラフマサマージ(1828年に設立された新興宗教団体の名前)の家族だった。ギリーンドラを除いて、彼女の家族全員をシェーカルは知っていた。5、6年前、ギリーンドラはここに来て数日間過ごしたことがあったが、これまでバーンキープルで勉強をしており、その後はカルカッタに来る機会がなかった。だからシェーカルは彼のことを知らなかった。シェーカルは、黙って立っているラリターを見て言った。「行けよ、なにぐずぐずしてるんだ?行けったら!」こう言って、シェーカルは小説を取って読み始めた。

 しばらく黙って立ち尽くしていたラリターは、小さな声で聞いた。「行っていいの?」

 シェーカルは言った。「ああ、そう言っただろ!」

 シェーカルのこの態度を見て、ラリターは演劇を見に行く気分ではなくなってしまった。しかし、このまま行かないわけにもいかなかった。

 ラリターとチャールバーラーの間では、費用を半分ずつ出し合う約束になっていた。

 チャールバーラーたちは待ちくたびれてしまっているだろう。時間が経つにつれて、彼女たちのイライラも募って来るだろう。そんな情景が彼女の目の前に浮かんで来た。しかし、彼女はどうしたらいいか思い付かなかった。無言のまま2、3分が過ぎ去ってしまった。ラリターは言った。「今日だけだから・・・行っていい?」

 本を放り出してシェーカルは言った。「なんでオレの邪魔するんだ、ラリター?好きなようにしろよ!お前はもう大きくなったんだ、自分で考えて行動しろ!」

 ラリターは、シェーカルの言葉を聞いてさらに驚いてしまった。ラリターは事あるごとにシェーカルに怒鳴られていた。これが初めてのことではなかった。彼女はシェーカルの叱責を聞くのに慣れていた。とは言え、ここ2、3年は怒鳴られることはなかった。一方でラリターの友達は彼女を待っており、他方でラリターは着飾ったまま立ち尽くしていた。ただお金を取りに来ただけなのに、このような困難に巻き込まれてしまった。一体友達に何て言い訳すればいいのだろう?

 今日までシェーカルがラリターを止めたことは一度もなかった。彼女は自由にどこへでも行ったり来たりすることができた。今日も彼女は着飾ってシェーカルのところにお金をもらいに来ただけだった。彼女は、自分の自由が制約されることが悲しいのではなかった。13歳になってまで、シェーカルに叱られることが悲しかった。自分の年齢を思うと、彼女は恥ずかしさのあまり穴があったら入りたい気分だった。自尊心の涙を流しながら、彼女は5分間まるで石像のようにじっと立っていた。彼女の心は、暖炉のように燃え盛っていた。しかし、シェーカルの方から何も優しい声が掛けられなかったため、彼女は涙を拭いながら黙って立ち去った。

 ラリターは自分の家に来ると、召使いを送ってアンナーカーリーを呼んだ。彼女はアンナーカーリーに10ルピーを渡して言った。「みんなで演劇を見て来て!私は体調がよくないの。チャールにもそう伝えてちょうだい。」

 アンナーカーリーは聞いた。「どうしちゃったの、お姉ちゃん?」

 ラリターは言った。「頭が割れそうに痛いの、あと胸がムカムカするの。どんどん悪くなってるみたいだわ!」

 そう言って、ラリターは寝返りを打った。チャールバーラーが来て説得したが、叔母が無理矢理連れ出そうとしたが、ラリターはうんと言わなかった。

 アンナーカーリーは10ルピーを手にしていたので、早く劇場に行きたくてソワソワしていた。演劇鑑賞が中止にならないように、アンナーカーリーはチャールバーラーを呼び、10ルピーの紙幣を見せて言った。「お姉ちゃんの調子は良くないわ。お姉ちゃんが来なくても困ることはないでしょ。ほら、これを見て、私たちだけで行きましょうよ。」

 チャールバーラーもそれに賛成した。アンナーカーリーはまだ小さかったが、要領の良さだけは一人前だった。チャールバーラーは彼女を連れて劇場へ行った。

第3章

 チャールバーラーの母親の名前はマノールマーだった。彼女はトランプ遊びが大好きで、その他に趣味はなかった。しかし、彼女のトランプの腕は「下手の横好き」程度であった。ラリターとチームを組むと、彼女はその欠点を補うことができた。マノールマーの従兄弟ギリーンドラがやって来てからというものの、彼女の家では毎日昼頃にトランプが行われていた。ギリーンドラはトランプが上手かった。彼はいつもマノールマーの敵方になって遊んでいた。そのため、彼女はラリターの援軍が必要であった。ラリターが加わるといつも熱戦が繰り広げられた。

 演劇を見に行った次の日、ラリターはマノールマーの家に時間通りに来なかった。そこでマノールマーは召使いを送って彼女を呼んだ。そのとき、ラリターは英語の本をベンガル語に翻訳していたため、彼女は来なかった。今度は親友のチャールバーラーが彼女を呼びに行った。しかし、彼女の説得にもラリターは応じなかった。

 そこでマノールマーが自分で彼女を呼びに行くことになった。マノールマーは、ラリターが机に広げていた紙と本を取り上げて言った。「ラリター、行くよ、そんなことしても裁判官にはなれないんだから。さあ、トランプするよ。さあ、早く。」

 ラリターは困ってしまった。ラリターは言い訳を並べて言った。「今日私は行けないわ。明日必ず行くから。」マノールマーがあれこれ言って説得したが、ラリターは行こうとしなかった。ラリターの叔母が遂に彼女を説得し、マノールマーはラリターを連れて来ることに成功した。今日もラリターはギリーンドラの敵方になって遊んだ。しかし気が乗らなかったため、トランプをしても全然楽しくなかった。最初から最後まで彼女は気が晴れなかった。彼女の心はソワソワしてなかなか落ち着かなかった。何とか彼女はトランプを終わりにして、そこから立ち去った。立ち去るときにギリーンドラが言った。「昨日君は来なかったね。お金だけ送って、自分は来なかった!まあいいさ、明日また見に行こう。」

 ラリターは優しい声で言った。「昨日、体調がとても悪かったの!」

 ギリーンドラは微笑んで言った。「でも今はもう大丈夫なんだよね?明日は絶対に一緒に来てもらうよ!」

 「私、明日は絶対に行くことができないわ!明日私はとっても忙しいの!」そう言って彼女は走ってそこから立ち去った。彼女はもちろんシェーカルを恐れていたが、今日の彼女の感情はシェーカルに対する恐怖だけではなかった。なぜこんなに恥ずかしい気持ちになるのか、彼女には分からなかった。

 ラリターは、シェーカルの家と同様に、近所の家にも子供の頃から行き来しており、遊んでいた。彼女は人見知りしない性格だった。だから彼女はチャールバーラーの叔父のギリーンドラにも人見知りしなかった。彼と話をするのに何のためらいもなかった。しかし、彼女は心の中で、ギリーンドラは知り合って少ししか経っていないのに、どうして自分に対してこのような愛情に満ちた視線で見つめてくるようになったのか、不思議に思うようになっていた。今日まで彼女は、男性の愛情に満ちた視線がこれだけの深い恥じらいを引き起こすものだと考えたこともなかった。

 少しためらったものの、ラリターは自宅からシェーカルの家に行った。シェーカルの部屋に直行すると、彼女は仕事をし始めた。子供の頃からラリターは、シェーカルのいろいろな世話をして来た。シェーカルの本を整頓したり、散らばった物を片付けたりすることに彼女は快感を見出していた。最近シェーカルの部屋には誰も来ていなかった。もし数日間ラリターがシェーカルの部屋に来られなかったりすると、彼の部屋は廃品回収屋の店のように足の踏み場もないような状態になってしまうのだった。あっちに服が落ちていると思えば、こっちにインクがこぼれていたり、本があちこちに散らばっていたりした。ここ5、6日間、トランプ遊びに忙しかったラリターは、シェーカルの部屋に来ることができなかった。だから部屋はひどい状態になっていた。全ての物があちこちに散らかっていた。まるで誰かが全ての物をわざとあちこちに放り投げたかのようだった。ラリターは部屋を片付け始めた。全ての物をひとつひとつ元の場所に戻した。シェーカルが帰って来る前に部屋の片付けを終えようと彼女は急いでいた。

 ラリターは、暇ができるとブヴァネーシュワリーの家に来て、彼女のそばに座っていた。この家の家族は、彼女の家族同然であった。この家のみんなも、彼女を自分の家族の一員だと思っていた。両親が死んだとき、ラリターは8歳だった。よって彼女は叔父の家に引き取られることになった。そのときから彼女は弟のようにシェーカルに付きまとっており、彼から学問の手ほどきも受けた。シェーカルがラリターをとても愛していることは誰もが知っていた。しかし、その愛が今、形を変えつつあることには誰も気付かなかった。ラリター自身も気付かなかった。周囲の人々は、ラリターが子供の頃からシェーカルと一緒にいて、彼に非常に可愛がられていることだけを知っていた。これまで誰も、それを不適切だと考える人はいなかった。また、シェーカルは誰かに何かを勘付かれるようなことをラリターにしなかった。ラリターがこの家の嫁になったり、なる可能性があるなどということは、誰も夢にも思っていなかった。このような想像は、両家の誰もしていなかった。ブヴァネーシュワリーすらそのようなことは考えたことがなかった。

 ラリターは、シェーカルが来る前に仕事を終えて立ち去ろうと考えていた。しかし、彼女は冷静さを失っていたため、時計を見るのを忘れていた。だいぶ時間が経ってしまっていた。部屋のドアのそばから足音がして初めて、彼女はハッ気付き、青ざめて隅に立った。

 シェーカルは部屋の中に入るなり言った。「おっ!よかった!お前、来てたのか!で、昨夜はいつ戻って来たんだ?」

 ラリターは黙って立っていた。

 シェーカルは安楽椅子に座って言った。「答えろよ、昨夜お前は何時に帰って来たんだ?2時?3時?どうした、言葉が出ないのか?」

 ラリターはそれでも黙っていた。

 ラリターが口を開かないのを見て、シェーカルは怒って言った。「もししゃべらないのなら、どうして立ってるんだ?下に行けよ、母さんが呼んでたぞ。」

 ラリターは泣きそうな顔をしながら階下に下りた。ブヴァネーシュワリーは台所に座って、食べ物を皿に盛っていた。彼女のそばに行ってラリターは言った。「お母さん、私を呼んだ?」

 「いいえ、呼んでないわ!」こう言って、彼女はラリターの方を見て言った。「どうしてそんな青い顔してるんだい、ラリター?何も食べてないのかい?」

 ラリターは首を振って答えた。

 ブヴァネーシュワリーは言った。「そうかい、この皿を兄さんのところへ持って行っておくれ。」

 ラリターはすぐに皿を持って部屋に来た。彼女が見ると、シェーカルは前と同じように安楽椅子に腰を下ろして目を閉じていた。まだ背広も脱いでいなかった。手や顔も洗っていなかった。ラリターは彼のそばに行って言った。「食事を持って来たわ。」

 シェーカルは目を閉じたまま言った。「そこら辺に置いてくれ!」

 しかしラリターは皿を持ったままそこに黙って立っていた。

 シェーカルは目を閉じていたが、ラリターが立ち去っておらず、そのまま立っていることに気付いていた。2、3分後、シェーカルは言った。「いつまでそんな風に立ってるんだ?遅くなるだろう。早く食事を置いて、どこかへ行け!」

 それを聞いてラリターは心の中で悲しい気分になっていたが、優しい声で言った。「遅れたっていいわ。今、私は何の仕事もないもの!」

 すると、シェーカルは彼女の方を見て、笑って言った。「やっと口を開いたな!もし下で仕事がないなら、近所の家で仕事がいっぱいあるだろう。もしそこでも仕事がなかったら、もっと遠くの家で何か仕事があるだろう!お前の家はひとつじゃないんだ、いっぱいあるんだろう?」

 「ええ、私の家はいっぱいあるわ!」そう言って、彼女は怒りと共に食事の皿を机の上に置き、走って部屋から出た。

 シェーカルは彼女が去るのを見て大声で言った。「ラリター、ちょっと夕方に来てくれ!」

 「階段を何度も何度も上ったり下りたりする元気は私にはないわ。」ラリターはこう言って下に行ってしまった。

 母親は彼女を見て言った。「ラリター、お兄さんに食事を持って行ってもらったばかりで悪いけど、このパーン(噛みタバコ)を持って行ってもらうのを忘れてたわ!」

 ラリターは言った。「お母さん、私とってもお腹空いちゃった。もう上に行く元気がないの。誰かに頼んでちょうだい。」

 ラリターの美しい顔が不安と心配の色で染まっているのを見て、ブヴァネーシュワリーは彼女をそばに座らせて言った。「そうかい!そうかい!それならお前が食べて行きなさい!パーンは召使いに頼んで届けさせるわ。」

 ラリターは何も言わず、食事をするために座った。

 彼女はシェーカルに腹を立てていた。演劇を見に行かなかったのに、シェーカルは彼女を叱った。チャールバーラーの母親が無理矢理彼女にトランプをさせるのに、シェーカルは彼女の状況を知りもせずに叱った!ラリターはこの怒りのために、シェーカルのところに4、5日間行かなかった。それでも、彼女はシェーカルが事務所へ行っている昼頃に彼の部屋に来て、片付けをしていた。シェーカルが帰って来る前に彼女は立ち去っていた。

 シェーカルはだいぶ後に自分の間違いに気付いた。ラリターがあの日演劇を見に行かなかったことを彼は知った。自分の間違いに気付いたシェーカルは非常に残念な気持ちになった。そのため、彼はラリターを呼ぶために2日間に渡って人を使わせた。それでもラリターは来なかった。

第4章

 ラリターの家の近所には、1人の老いた乞食がよくやって来ていた。その乞食にラリターはひどく同情していた。乞食が賛歌を歌いながら慈悲を乞いにやって来ると、ラリターはいつも彼に1ルピーを恵んでいた。乞食は1ルピーをもらうと大喜びし、ラリターに何度も何度も祝福を与えていた。ラリターも乞食の祝福を喜んで聞いていた。乞食はよく言っていた。「ラリターは前世でワシの母親だったんじゃ!」乞食は、ラリターを一目見たときから、彼女のことを母親だと思っていた。彼は、憐れみを誘う声で彼女を、お母さん、お母さん、と呼んでいた。今日も彼はやって来るなり、お母さんを呼び始めた。「ああ、お母さん!ワシのお母さん!今日はどこにいるんじゃ?」

 ラリターは、自分の「息子」の声を聞いて困ってしまった。すぐにでも出て行ってお金を恵んでやりたい気持ちでいっぱいだったが、どこにそんなお金があろうか?シェーカルは今、家にいるだろう。彼の家にお金を取りに行くことはできない。ラリターはシェーカルに怒っているのだ!しばらく考えた後、ラリターは叔母のところへ行った。ところが、ついさっき叔母と召使いの間で口喧嘩があり、叔母はしかめっ面をして食事の準備をしていた。そのような状態だったため、ラリターは叔母に話しかける勇気が出なかった。ラリターは部屋に戻り、窓から覗き込んで見ると、老乞食はまだ戸口に座って賛歌を歌っていた。ラリターの心は動揺した。今までラリターは、この乞食を手ぶらで帰したことはなかった。だから、今日も彼女は彼に何かを恵んでやりたかった。彼女は困り果ててしまった。

 乞食はもう一度、「お母さん」と言ってラリターに呼びかけた。

 そのとき、アンナーカーリーが走って来て言った。「お姉ちゃんの息子の乞食がさっきから呼んでるわよ!」

 ラリターは言った。「いいかい、アンノー!よく聞いて!もしお前が私のために働いてくれたら、私はお前にいいものあげるわ。お前は急いで行って、シェーカル兄さんから1ルピーもらって来てちょうだい!」

 アンナーカーリーは走って出て行った。そして1ルピーを持って来てラリターに渡した。

 ラリターは聞いた。「シェーカル兄さんはお金を渡すとき何か言ってた?」

 「何も言ってなかったわ!ただ、『ベストのポケットから持って行け』って言っただけよ。」

 「私のこと何も言ってなかった?」

 「いいえ!何も言ってなかったわよ!」と言って、アンナーカーリーは遊びに行ってしまった。

 ラリターはそのお金を老乞食に渡し、そのまま立ち去った。今日の彼女は、乞食の祝福も聞かなかった。なぜか彼女は恐怖を感じていた。

 ここ数日間、チャールバーラーの家では、以前にも増してトランプ遊びが行われていた。だが、ラリターは今日は行かなかった。頭痛がすると言い訳を言って、顔を布で覆って寝ていた。実際、彼女は何もする気がしなかった。彼女の心は落ち着かなかった。

 午後になると、ラリターはアンナーカーリーを呼んで聞いた。「アンノー!最近お前はシェーカル兄さんのところに勉強しに行ってないの?」

 「どうして?毎日行ってるわ!」

 ラリター「兄さんは私のこと何も聞かないの?」

 アンナー「いいえ。あ、そうそう、こんなこと聞いてたわ、『ラリターは昼にトランプ遊びをしに行ってるのか?』って。」

 ラリターは慌てて言った。「で、お前は何て答えたの?」

 アンナー「『お姉ちゃんはチャールバーラーのところに毎日トランプ遊びしに行ってる』って答えたわ!そしたら、シェーカル兄さんが『誰と誰がトランプ遊びしてるんだ』って聞いたから、私は、『チャールバーラー姉さん、ラリター姉さん、叔母さん、チャールバーラーの叔父さん』って答えたの。そしたら兄さんが、『その中で誰が一番上手かな?ラリター、それとも叔母さん?』って聞いてきたから、『叔母さんは、ラリター姉さんが一番上手って言ってるわ』って答えておいたわ!」

 それを聞いて、ラリターは烈火のごとく怒り、大声を上げて言った。「お前、なんでそんなこと言ったの!この馬鹿!お前はいっつもそうやって話をこんがらがらせるんだわ!もうどっか行ってよ、おしゃべり!お前には絶対に何もあげないわ!」と言ってラリターはそこから立ち去ってしまった。

 ラリターの機嫌が一変したのを見て、アンナーカーリーは驚いてしまった。彼女はまだ幼かったため、ラリターがなぜ突然怒り出したのか、理解できなかった。

 2日間に渡ってトランプ遊びは行われなかった。ラリターが来ないため、マノールマーの遊びも中止せざるをえなくなってしまった。マノールマーは心の中で、ギリーンドラがラリターに惚れているのではないかと疑っていた。マノールマーは、ラリターが来ないこの2日間、ギリーンドラがどれだけ不安と焦燥感に駆られているかを観察していた。それだけでなく、彼は外に散歩しに行くことすら止めてしまった。ギリーンドラは今や、部屋の中であちこち立ったり座ったりして過ごしていた。

 3日目の昼、ギリーンドラはマノールマーに言った。「姉さん、今日もトランプ遊びをしないの?」

 マノールマーは言った。「仕方ないだろう、ギリーンドラ。遊び手が揃わないんだ。まあ、今日は3人で遊んでみようか!」

 マノールマーの言葉を聞いて、ギリーンドラのトランプ熱は冷めてしまった。彼は言った。「3人でトランプはできないだろう。あの家の娘、ラリターと言ったっけ、彼女を呼んで遊ぼうよ、姉さん!」

 マノールマー「彼女はもう来ないよ!」

 ギリーンドラはすぐに答えた。「どうして来ないの?家族が止めてるの、それとも自分で来ないの?」

 「ラリターは自分で来るのを止めたんだよ!あの子の叔父さん叔母さんはそんな人じゃないよ。」

 ギリーンドラの顔に一瞬笑みが浮かんだ。彼は言った。「それじゃあ、姉さんが行けば解決するよ!ちょっと行って説得すれば、ラリターはすぐに来るだろう!」そうは言ったものの、ギリーンドラは心の中でその言葉通りになるか少し不安だった。

 マノールマーは彼の不安を見抜いて笑って言った。「そうかい、それじゃあ今から呼びに行ってみるよ!」と言って、彼女はラリターの家へ行き、彼女を無理矢理連れて来た。

 こうして今日もトランプ遊びが行われた。実のところ、今日のトランプ遊びはかなりの盛り上がりを見せた。ラリターは連戦連勝だった。2時間に渡ってトランプ遊びが行われ、みんながみんな熱中した。そのときアンナーカーリーが走ってやって来て、ラリターの手を掴んで引っ張りながら言った。「姉さん、急いで来て、シェーカル兄さんが呼んでるわ!」

 シェーカルの名前を聞くや否や、ラリターの顔は青ざめてしまった。彼女はトランプを投げ出して聞いた。「兄さんは今日、仕事に行かなかったの?」

 「知らないわ。多分早く帰って来たんじゃない!」

 ラリターはマノールマーにすまなそうな顔をしながら言った。「叔母さん、私、行かなきゃ!」

 マノールマーは彼女の手を掴んで言った。「駄目よ、こんな風に投げ出すことはできないわ!あと数回遊んでから行きなさい!」

 ラリターは困った顔をして言った。「叔母さん、もう遊ぶことはできないわ!もし少しでも遅くなったら、シェーカル兄さんは怒ってしまうでしょう。」こう言って、ラリターは走って立ち去った。

 ギリーンドラは聞いた。「シェーカル兄さんって誰だい?」

 マノールマー「前にある大きな屋敷に住んでる人だよ。」

 ギリーンドラは首を振りながら言った。「あの屋敷に?だったら多分、ナヴィーンさんの親戚か何かだろう!」

 マノールマーは笑って言った。「親戚?あの年寄りは、ラリターの叔父さんの家まで乗っ取っちまおうとしてるんだよ。」

 ギリーンドラは驚いてマノールマーの方を呆然と見つめていた。

 マノールマーは彼に全ての話を聞かせ始めた――何らかの経済的事情により、グルチャラン氏の三番目の娘の結婚話が前に進まなくなってしまっていたときがあった。ナヴィーンラーイ氏は多額の利子と共に、グルチャラン氏の家を担保に金を貸した。まだその金は返し切れておらず、ナヴィーンラーイ氏は今にもグルチャラン氏の家を取り上げようとしている。グルチャラン氏は崖っぷちに立たされているのだ!

 全ての話を話した後、マノールマーはさらに、ナヴィーンラーイ氏がグルチャラン氏の家を取り壊して、その跡地にシェーカルのために大きな宮殿を建てようとしていることまで聞かせた。2人の息子のために別々の屋敷を残すことが、ナヴィーンラーイ氏の願望だった。

 全ての話を聞いたギリーンドラは悲しい気持ちになり、グルチャラン氏の置かれている窮状に同情した。彼は言った。「姉さん、グルチャランさんにはまだ女の子がいるよね?彼女らの結婚はどうなるんだろう?」

 マノールマーは答えた。「グルチャランさんの娘たちもまだ残ってるし、それにラリターもいるしね。あの孤児のラリターの責任を、可哀想に、グルチャランさんは1人で背負ってるんだ。みんなどんどん大きくなってるしね。1、2年の内に彼女たちの結婚を終えなくちゃならない。しかも、グルチャランさんを助けようとする人は彼のコミュニティーにはほとんどいない。ただ彼をコミュニティーから追い出そうとする人ばかり。習慣に従わない者は、すぐにコミュニティーの爪弾き者になってしまう。私たちのブラフマサマージは、あの人たちのコミュニティーより何万倍もマシよ、ギリーンドラ!」

 ギリーンドラは黙っていた。マノールマーはまたしゃべり出した。「いつだったか、ラリターの叔母さんが私のところへ来て、ラリターのことを考えて泣いていたことがあったわ。『あの娘はどうなるの?どうすればいいの?何のいい方法もないわ!』ってね。グルチャランさんは、ラリターの結婚に悩むあまり、食べ物も喉を通らないそうよ。ギリーンドラ!お前はムンゲールでいろんな知り合いがいるだろう!誰か、ラリターの美しさと賢さを見て、結婚する気になる人はいないかね?実際、ラリターみたいな賢くて教養のある女の子はなかなかいないよ!それにあの美貌は、何十万人に1人いるかいないかのものでしょうね。」

 ギリーンドラは悲しそうな作り笑いをして言った。「そんな知り合いどこにもいないよ、姉さん!それでも、僕がその問題のために助け舟を出すことはできるよ。」

 ギリーンドラの父親は、医者業で莫大な財産を築いていた。その財産の唯一の相続人がギリーンドラだった。

 マノールマー「じゃあ、お前が金を貸すって言うのかい?」

 ギリーンドラは言った。「貸すってわけじゃないけど、でも、返すことができたら返してくれればいいし、返せなくても別に構わないよよ、姉さん!」

 マノールマーは驚いて言った。「それで、そんな風にしてお金をあげて、お前は何の得があるのさ?私たちの家族にも、コミュニティーにも、何の得もないだろう!そんな風にお金をあげてしまう人がどこにいるって言うの?」

 マノールマーの方を見て、ギリーンドラは笑って言った。「僕たちのコミュニティーの人じゃないのは確かだけど、僕たちの国の、ベンガルの同胞じゃあないか。彼らがお金に困っていて、僕たちの手元にはお金がある、ただそれだけさ。姉さん、グルチャランさんに一度聞いてみてよ!もしグルチャランさんがお金を受け取ってもいいって言うなら、僕はそうするよ。それにラリターはグルチャランさんの本当の娘じゃないんだ。僕が彼女の結婚の費用を全額出すよ!僕はあのいたいけな娘のためなら、何でもすることができる。」

 ギリーンドラの話を聞いて、マノールマーはいい気がしなかった。マノールマーの家の損になるわけではなかったものの、女性本来の性質から、隣人に無計画に金を渡すことに反感を覚え、それを止めようと考えた。

 チャールバーラーは2人の話を黙って聞いていた。ギリーンドラのこの金銭援助の話を聞いて、チャールバーラーの心は喜びで舞い上がった。彼女は言った。「叔父さん、そうして下さい。私、行って叔母さんに話して来るわ!」

 マノールマーは彼女に怒鳴って言った。「黙ってなさい、チャール!子供が口挟むことじゃないんだよ、大人の話なんだから。ラリターの叔母さんには、私が行って話して来るわ!」

 ギリーンドラ「そうして下さい、姉さん!それにグルチャランさんは、とってもいい人だと思うよ。」

 マノールマーは一瞬黙ってから口を開いた。「私だけでなく、みんな言ってるよ、あの夫婦は素晴らしい人たちだってね。ギリーンドラ!でも私はそれが命取りになると思うよ!そのおかげで、あの家族が家を失って路頭に迷う日がやって来ることは十分ありえるね。お前も見ただろう、それが怖くて、ラリターもシェーカルの名前を聞いた途端に走って行ってしまったんだ。ラリターだけじゃないよ、あの家族はみんな、シェーカルに何も言えないのさ。一度ナヴィーンラーイの罠にはまったら、あの家族を助け出すことは難しいだろうね、その前に何とかしてあげればいいんだけど。」

 マノールマーの方を見て、ギリーンドラは言った。「その通りさ、それじゃあ姉さん、グルチャランさんにその話をしてくれるね?」

 マノールマー「分かったわ、話してみるよ!もし貧しい人を助けることができたなら、それ以上の善事はないだろう!」

 しばらく黙った後、マノールマーは微笑んで聞いた。「ところでギリーンドラ、お前はどうしてそんなにあの家族を助けるために躍起になってるんだい?ちょっとその訳を言ってごらんよ。」

 「姉さん、躍起になんかなってないさ。困っている人を、自分のできる範囲で助けることは、我々全ての人間の義務でしょう!」と言って、ギリーンドラは少し顔を赤らめ、何も言わずに部屋から立ち去った。しかしその直後に部屋に戻ってきて座った。

 マノールマーは言った。「また来たのかい!」

 ギリーンドラは微笑んで言った。「姉さんはグルチャランさんの苦労話を話してくれたけど、全部本当の話とは思えないんだ!」

 マノールマーは驚いて言った。「どうして?」

 ギリーンドラは言った。「ラリターがお金を使っているところを見たことがあるけど、とても貧乏な家のお金の使い方じゃなかったよ。姉さんも知ってるでしょう、あの日、みんなで演劇を見に行ったとき、ラリターは来なかったのに10ルピーを送ってよこした。チャールバーラーがその証人だよ!ラリターのお金の使い方を見ていると、彼女の毎月の支出は20〜25ルピー以下じゃないと思えるんだ。」

 マノールマーは彼の話をすぐには信じなかった。彼女はチャールバーラーの方を見た。

 チャールバーラーは言った。「本当よ、お母さん!シェーカル兄さんがラリターにお金をあげてるの、ずっと前からね。子供の頃から、ラリターはシェーカルのタンスからお金を持ち出してるのよ。シェーカル兄さんも何も言わないの。」

 マノールマーは言った。「シェーカルはそれを知ってるの?」

 「ええ、シェーカル兄さんは全部知ってるわ!ラリターは、兄さんの目の前で錠を開けてお金を持って来てるの!先月、アンナーカーリーの人形の結婚式(人形同士を結婚させて遊ぶ遊び)があったときにパーティーがあったけど、そのお金は誰が出したと言うの?全部ラリターが出したのよ!」

 マノールマーは長い溜息をついて言った。「そうかい、私はそのことについては何も知らないわ!でもこれだけは確かね、シェーカルはナヴィーンラーイほど下賎な人間じゃあないわ。男の子は母親に似るって言うしね。だからシェーカルは優しい人間に育ったんでしょう。ラリターもいい娘だわ。みんなあの娘のこと大好きだからね。子供の頃からラリターはシェーカルのそばにいたわ。あの娘はシェーカルのこと『お兄さん』って呼んでるし、シェーカルもあの娘のことが大のお気に入りだわ。ところでチャール、シェーカルの結婚式が今月行われるって聞くけど、それは本当なのかい?この結婚で、ナヴィーンラーイは大金を手にするって話ね!」

 チャールバーラーは言った。「ええ、本当よ、お母さん!今月中にシェーカル兄さんの結婚式があるわ。もう全部話は決まったみたいよ!」

第5章

 グルチャラン氏は社交的な人物だった。目上の人とも目下の人とも彼は分け隔てなく話をすることができた。グルチャラン氏は持ち前の社交性を発揮し、ギリーンドラとも2、3日の内に仲良くなった。彼はとても信心深く、素朴な性格であったため、姑息な小細工などは全く好まなかった。論争に負けるようなことがあっても、彼の顔に怒りの色が浮かぶことはなかった。

 グルチャラン氏はギリーンドラとよく話をするようになっていた。グルチャラン氏はいつも夕刻にギリーンドラをチャーイ(お茶)に呼んでいた。会社から帰って来ると、グルチャラン氏は手や顔を洗ってラリターに言うのだった。「ラリター、チャーイは沸いてるかい?」そしてすぐにアンナーカーリーを呼んで言うのだった。「ギリーンドラおじさんを呼んで来なさい!」ギリーンドラがやって来ると、グルチャラン氏の家は急に華やぎ、話に花が咲くのだった。

 時々ラリターは叔父さんのそばに座って話を聞いていた。ラリターが来ると、ギリーンドラの話は急に教養に満ちたものになるのだった。心に喜びの高波が押し寄せるのを感じながら、ギリーンドラは饒舌に話をした。主に彼は、最近の社会の情勢を話題にした。彼は、近代社会の欠陥、弱点、不平等性、不正などについて鋭い見識を持っており、このような汚れた社会に対する嫌悪を表明していた。これらの批判には現実味があった。それらの証拠を挙げる必要がどこにあろうか!ギリーンドラの話は、社会から抑圧されたグルチャラン氏の人生とピッタリと重なっていた。最後に、グルチャラン氏は彼の意見に全面的に賛成して言った。「ギリーンドラ、お前の言っていることは本当だ。嘘などひとつもない。自分の娘をいい花婿に嫁がせたいと考えない親がいるだろうか!しかしそれを皆が皆、実現させるのは不可能だ。その上、世間の人は『お前の娘はもう年頃だ、結婚させなさい!』と言ってはばからない。だが、そんなこと言われても、娘の結婚が進むわけじゃない!誰も助けてくれないのに、あれこれ言う人だけは多い。ギリーンドラ、他でもない、ワシのことを考えておくれ、娘たちの結婚を挙げるために、ワシは住み慣れた自宅まで失おうとしている。利子すら払うことができないのに、担保に入れたこの家を救うのは難しい。その内、家から家へ乞食をして廻ることになるだろう!こんなことを言っていいものか知らないが、こんなときに世間は何も助けてくれないばかりか、私をのけ者にしようとしているんだ、ギリーンドラ!」

 このような話題になると、ギリーンドラは黙って耳を傾けていた。グルチャラン氏はそのままの調子で言うのだった。「ギリーンドラ、お前が言ったことは全て真実だ!こんな社会は見捨てて、森の中に住む方がどんなにマシだろうか。あんな罪深い偽善者たちとは関わり合いになるもんじゃない!不便はあるだろうが、それでも静かに暮らすことはできるだろう。人の首を絞めて人間性を破壊するような社会に生きるのは、ワシらのためにならない。この社会は金持ちのためだけにあるんだ、ワシらのような貧乏人のためじゃない!金持ちだけ気楽に暮らせばいいんだ、ワシらがいる必要なんてどこにもない。」こう言っては、黙り込んでしまうのだった。

 ラリターは毎日この激情的な議論を注意深く聞いていた。それだけでなく、夜眠る前に、それらの話について自分で考えを巡らせていた。ギリーンドラの意見は、彼女の心に染み渡っていた。彼女は心の中で、ギリーンドラさんの考えは本当に正しいと考えていた。

 ラリターは自分の叔父さんのことをこの上なく愛していた。ギリーンドラが自分の叔父さんに言ったことを、彼女は絶対的真実だと考えていた。彼女は、自分の叔父さんの不安と心配が、そのために増大していることを知っていた。ラリターは考えた――叔父さんは食べることも飲むことも止めてしまった。叔父さんが今、苦境に立たされているのはなぜか?なぜなら、社会が叔父さんをジャーティ(共同体)から追い出そうとしているからだ。その理由は、叔父さんが私の結婚に反対しているからだけではない。もし今日どうにかして私が結婚して、明日もし不幸にも私が未亡人になって、叔父さんのところに戻って来たら、叔父さんはジャーティから追放されてしまうだろうか?――これらの問題にラリターは答えを見出すことはできなかった。

 ギリーンドラは、ラリターの叔父さんに対して今まで見せてきた尊敬や同情、また、述べてきたこと全てに対し、実際に行動で示すことにやぶさかではなかった。そうするより他に、彼の前に道はなかった。ラリターのギリーンドラに対する尊敬は日に日に増して行った。だんだんとラリターも夕刻が来るのを楽しみにするようになった。彼女の好奇心は、今や以前にも増して大きくなった。

 最初、ギリーンドラはラリターに敬語を使っていた。しかしある日グルチャラン氏がそれを止めて言った。「ラリターはお前より年少なんだ、だから敬語を使うのを止めなさい!」そのときから、彼はラリターに敬語を使うのを止めた。

 ギリーンドラはラリターに聞いた。「チャーイを飲まないのかい?」

 ラリターは何も答えずにうつむいた。グルチャラン氏はギリーンドラの方を見て言った。「シェーカルが、ラリターがチャーイを飲むのを禁止したんだよ。シェーカルは、女性はチャーイを飲むべきではないと考えているようだ!」

 ギリーンドラはそれを聞いていい気分がしなかった。ラリターは、叔父がそんな話をしたことに腹を立てた。

 今日は土曜日だった。今日は遅くまで会話が弾んでいた。みんなチャーイを飲み終えたが、話は続いていた。今日のグルチャラン氏は、何だか乗り気ではないようだった。今日の会話をよく思っていないかのようだった。時々、困った顔をして黙り込んでしまっていた。

 ギリーンドラはその様子を見て言った。「おじさん、どこか身体の調子が悪いんですか?顔色が悪いですよ。会社で何か問題でもあったんですか?」

 グルチャラン氏は、煙管(きせる)を口から外して言った。「いや、そんなことはない。身体もいたって健康だ。」グルチャラン氏は顔を上げながらギリーンドラを見つめた。グルチャラン氏は正直な性格であったため、彼の心の不安と心配は、顔に表れてしまっていた。それを彼は自分で気付いていなかった。

 ラリターは以前、彼らの会話をただ聞いているだけだったが、今では議論に加わるようになっていた。叔父さんの不安を彼女も完全に理解していた。彼女は聞いた。「そうよ、叔父さん、何か心配事でもあるみたいだわ!」

 ラリターの言葉を聞いて、グルチャラン氏は少し笑いが込み上げた。そして正直にそれを肯定して言った。「ラリター、そうだね、今日のワシの気分はどうもよくないようだ!」

 それを聞いて、ギリーンドラとラリターは、心配事の理由を知るためにグルチャラン氏の方をじっと見つめた。

 グルチャラン氏は言った。「ナヴィーンさんは私の事情を全部知っている!それなのに、あの人は道の真ん中で、みんなの前で、私に罵声を浴びせかけたんだ。でも、ナヴィーンさんが悪いんじゃない。6、7ヶ月経ったのに利子すら払うことができないワシが悪いんだ!」

 ラリターは一瞬にして状況を理解した。彼女は話題を変えようと思った。彼女は、グルチャラン氏が家計の問題を他人の前で何の考えもなしにしゃべり始めないか不安になった。なぜなら、グルチャラン氏は悲嘆に暮れると、誰に何の話をすべきか、すべきでないか、分別がつかなくなってしまうからだ!ギリーンドラの前で家計の話をすることを、ラリターは適切なことだと思っていなかった。そこで彼女は言った。「叔父さん!そんなこと心配する必要はないわ。その話は後でしましょうよ!」

 ラリターが話題を変えようとしたが、グルチャラン氏はそれに従わなかった。彼は悲しげな様子で再びしゃべり始めた。「後で話すことはない、ラリター!ギリーンドラ、お前も分かるだろう、ラリターはワシが悩んでいる姿を見たくないんだよ。でもね、ラリター!この叔父さんの問題を、他の人たちは見て見ぬ振りをしてるんだ!」

 ギリーンドラは聞いた。「ナヴィーンさんに何を言われたんです?」

 ラリターは、ギリーンドラが彼女の家族の経済事情について既に知っていることを少しも知らなかった。そのため、ギリーンドラのこの質問を聞いて、彼女は恥ずかしい気持ちになった。そして、このような野暮な質問をしたギリーンドラに怒りが込み上げた。

 ギリーンドラの質問に答え、グルチャラン氏は全ての話を包み隠さず聞かせた。かなり前から、ナヴィーンラーイ氏の妻は胃腸の病気に悩まされていた。治療に不足はなかった。病気は今に始まったことではなかったが、最近になって急速に悪化していた。古い持病であることもあり、医者たちは、どこかの療養地へ気分転換に行くことを勧めた。このため、ナヴィーンラーイ氏はお金が緊急に必要となった。そこで、彼は強硬に借金の取り立てを始めた。グルチャラン氏にとってそれは大きな問題だった。いったいどこからそんなお金を捻出すればいいのか?

 グルチャラン氏の話を聞いて、ギリーンドラはしばらく黙っていたが、彼は優しい声でしゃべり出した。「実はずっと前からあなたに言おうと思っていたんですが、躊躇して言えなかったことがあるんです。もしあなたのお許しがあれば、今日それを言いたいと思います。」

 グルチャラン氏は笑いながら言った。「何の話だい、ギリーンドラ!ワシに話をするのに躊躇する奴なんて誰もおらんよ。ワシの許しなんかいらん、お前はいつでも何でも言っていいんだよ!」

 ギリーンドラは言った。「姉さんからある日、ナヴィーンラーイさんが高額の利子でお金を貸していることや、ナヴィーンラーイさんからお金を借りたことであなたが窮地に陥っていることを聞いたんです。だから、私は銀行に眠っているお金を使って、あなたを少しでも助けることができればと考えたんです。私のお金は、今のところ何の役にも立っていません。それに、今はナヴィーンさんもお金が必要です!あなたも借金から逃れられることができるでしょう!」

 ギリーンドラの言葉を聞いて、グルチャラン氏とラリターは顔を見合わせた。ギリーンドラはためらいながらも再び話し始めた。「今のところ、私にそのお金は全く必要ありません!もし私のお金があなたの役に立つなら、私は自分を幸せ者だと思うでしょう。叔父さんは、お金があるときに返していただければ結構です。急ぐ必要はありません。ナヴィーンさんもお金を必要としていることですし、ちょうどいいときにお金が手に入れば、皆にとってこれほどいいことはないでしょう。」

 グルチャラン氏は言った。「全額お前が出すと言うのかい?」

 ギリーンドラ「はい!それであなたのお役に立てるならば・・・」

 グルチャラン氏がその言葉に返答しようとしていたところへ、アンナーカーリーが急いで走ってやって来て言った。「シェーカル兄さんが、急いで服を着替えて着飾って準備するようにって言ってたわ、お姉ちゃん!みんなで演劇を見に行くそうよ。」そう言って、アンナーカーリーはやって来たのと同じくらいの勢いで外に走って出て行った。アンナーカーリーの興奮振りを見てグルチャラン氏は微笑んだが、ラリターはじっと座ったままだった。

 少し後に再びアンナーカーリーが来て言った。「まだ座ってるの、お姉ちゃん?さあ、立って、急いで準備して、みんなお姉ちゃんを待ってるのよ。」

 このときもラリターは前と同じようにその場に座っていた。アンナーカーリーの喜び様を見てグルチャラン氏は笑いが込み上げた。そしてラリターの頭を撫でながら言った。「行きなさい、ラリター、行きなさい!少しも遅れてはならないよ!みんなお前を待っていることだろう。」

 仕方なくラリターは立ち上がった。しかし立ち去るときに彼女は感謝に満ちた眼差しでギリーンドラを見ていた。彼女の眼差しの奥にある感謝の念を、ギリーンドラはしかと感じ取った。

 その後、きれいに着飾って化粧をしたラリターは、パーン(噛みタバコ)を渡すことを言い訳にして、一度居間に出てきた。しかし、そのときには既にギリーンドラはいなかった。ただグルチャラン氏のみが、枕にもたれかかって横になっていた。彼の閉じた目の端から、涙がこぼれ落ちていた。ラリターはすぐに、それが喜びの涙であると理解した。それを見て、彼女は叔父さんの邪魔をするのはよくないと思い、黙って部屋から出た。

 部屋から外に出たラリターは、シェーカルの家に直行した。叔父さんの気持ちを考えると、彼女の目にも涙が溢れてきた。アンナーカーリーはそのときそこにはおらず、既に車の中に座っていた。シェーカルは部屋の前に立っていた。おそらくラリターを待っていたのだろう。彼が顔を上げて見ると、ラリターの大きな目が見えた。シェーカルはここのところずっとラリターと会っていなかったため、落ち着かない気分だった。ラリターの涙を見てシェーカルは動揺し、彼女に聞いた。「どうした?ラリター、お前、泣いてるのか?なんでだ、どうしたんだ?」

 ラリターは頭を振ってうつむいた。

 久し振りにラリターに会ったため、シェーカルの心の中ではいろいろな感情が沸き起こっていた。彼は優しく彼女の顔を上に向けて言った。「あれ、お前、本当に泣いてるのか!何が起こったんだ、話してくれよ、ラリター?」

 シェーカルの同情と愛情を感じたラリターは、自分を抑えることができなくなってしまった。彼女は立っていた場所で、シェーカルに背を向けて座り込んでしまった。そして顔を覆って大声で泣き始めた。シェーカルは彼女を一生懸命慰めようとした。

第6章

 ナヴィーンラーイ氏は貸していた金を利子も込めて全額グルチャラン氏から受け取った。もう借金は1ルピーも残っていなかった。ナヴィーンラーイ氏は家の権利書を返すときにグルチャラン氏に聞いた。「グルチャラン、こんなお金、誰からもらったんだ?」

 グルチャラン氏はとても丁寧な声で言った。「ナヴィーンさん、それは聞かないで下さい。私にお金をくれた人に、『誰がお金を出したか言わないように』、と口止めされているんです。」

 ナヴィーンラーイ氏は自分のお金を取り戻しても、少しも嬉しくなかった。借金を取り戻すことが彼の望みでもなかったし、グルチャラン氏が借金を返せるとも思っていなかった。彼は心の中で、グルチャラン氏の家を取り壊して、そこに別の家を建てる計画を練っていた。彼の計画は頓挫してしまった。そのため、動揺したナヴィーンラーイ氏は皮肉っぽく言った。「口止めするのは当然だろう、グルチャランよ!お前は何も悪くない、悪いのはワシなんだ、ワシがお前に借金を返すように強要したんだ。こんなことが起こるとは、全く世も末だ。」

 グルチャラン氏は悲しい声で言った。「ナヴィーンさん!そんなこと言わないで下さい。私はあなたから借りたお金を返しただけです。あなたがかけてくださったご慈悲の重みを、私は永遠に背負い続けます。私はそれを一生忘れないでしょう!」

 ナヴィーンラーイ氏はそれを聞いて微笑んだ。彼は非常に頭の切れる男だった。もしこれほど賢くなかったら、砂糖の貿易だけでこれだけの富を築くことはできなかっただろう。彼は言った。「グルチャラン!お前は立派な男だし、それをワシも知っているが、しかし借金を全部返す必要はなかったんだ!ワシは妻の病気のためにただお金が必要だっただけだ!ところで、お前はあの家をどれだけの利子で担保に入れたんだ?」

 「家を担保になんて入れてませんし、利子もまだ決まってません!」

 ナヴィーンラーイ氏はその言葉が全く信じられなかった。彼は聞いた。「なんだって!これだけの大金を、何の証文もなしに?」

 「ええ、ナヴィーンさん、本当です。とても心の広い青年なんです!まるで慈悲そのもののようですよ!」

 「青年?どの青年だ?」

 グルチャランはこの質問に答えなかった。彼は、自分が口を滑らせてしまったことに気が付いた!

 グルチャラン氏が黙っているのを見て、ナヴィーンラーイ氏は、彼がこれ以上話すことをよく思ってないことを感じ取った。そのため、ナヴィーンラーイ氏は微笑んで言った。「まあいい、口止めされているなら言わなくてもいい、気にすることはない!ところで、ワシは世界のあらゆるものを見てきたつもりだ。それで分かったことだが、何の下心もなく金を他人に渡すような奴はいない。ワシは、お前が将来、何か問題に巻き込まれないか心配だ。だから今、ワシはお前に警告してるんだ!」

 グルチャラン氏は何も答えず、家の権利書を持って席を立った。立ち去る前にグルチャラン氏はナヴィーンラーイ氏に慇懃に挨拶をした。

 ブヴァネーシュワリーは、自分の健康回復のため、常に西の方角にあるどこかの町に療養に行っていた。空気や水が変わることにより、彼女の胃腸の病気はだいぶよくなるのだった。この病気を言い訳にして、ナヴィーンラーイ氏はグルチャラン氏から借金の取り立てをしたのだった。ブヴァネーシュワリーが西へ旅立つ準備も始まっていた。

 アンナーカーリーはシェーカルの部屋に来て言った。「シェーカル兄さん!兄さんたちは明日行っちゃうの?」このときシェーカルは座って荷物を詰め込んでいた。彼はアンナーカーリーを見上げて言った。「おお、アンナーカーリー!ちょっと行って、ラリターを呼んで来てくれないか!ラリターも旅行の準備しないとな!オレはまだまだたくさんやらなきゃならないことがあるんだ。もう時間もないし!」シェーカルは、いつもと同じように今回もラリターが同行すると思っていた。

 アンナーカーリーは首を振って言った。「今回はお姉ちゃんは一緒に行かないわよ?」

 「どうして行かないんだ?」

 「あれ!兄さん、そんなことも知らないの?お姉ちゃんはどこにも行けないわ。だって、お姉ちゃんの結婚を今月か来月にするために、お父さんがお婿さんを探してるところなのよ。」

 それを聞いてシェーカルは衝撃を受けた。彼は何も返答せず、呆然として地面をジッと見ていた。

 アンナーカーリーは家で聞いたことを詳しくシェーカルに聞かせた。彼女は、結婚の費用全額をギリーンドラが出すこと、非の打ち所のないような優れた花婿を求めていること、そのような花婿を探すために、父親は今日も会社を欠勤すること、父親はギリーンドラと一緒に花婿を見に出かけるところであること、などを話した。

 シェーカルはそれらの話を注意深く聞いていた。彼の心にはいろいろな感情が沸き起こった。彼は、ラリターが自分のところへ最近ほとんど来ないことを考えた。

 アンナーカーリーは言った。「兄さん!ギリーンドラ兄さんはとってもいい人なのよ。真ん中のお姉ちゃんの結婚式のとき、ナヴィーン叔父さんが私たちの家を担保にしたの。だから、お父さんはいつも言ってたわ、2ヶ月後には家を失って、路上を放浪することになるだろうって。そのことを知ったギリーンドラ兄さんは、お父さんの借金全部を出してくれたのよ。お姉ちゃんは言ってたわ、もう私たちは家を失うことはないでしょうって。本当の話よね、シェーカル兄さん?」

 この話をアンナーカーリーから聞いたシェーカルは、言葉を失ってしまい、何も答えることができなかった。

 シェーカルが黙っているのを見て、アンナーカーリーは聞いた。「何を考えてるの、兄さん?」

 シェーカルはハッと我に戻り、言った。「さあ、行ってラリターをすぐに呼んでおいで!オレが呼んでいるって伝えてくれ、緊急だって。さあ、急いで行って!」

 アンナーカーリーはすぐに走り出し、ラリターを呼びに行った。彼女が去った後、シェーカルは感情の海に沈み込んだ。目の前の箱を開けたままにして、ただそのまま呆然と座っていた。彼は、何を持って行くべきなのか、何を置いて行くべきなのか、全く考えることができなくなってしまった!彼は自分の目から涙が溢れ出てくるのを感じた。

 シェーカルが自分を呼んでいるのを聞き、ラリターはすぐにやって来た。しかし、部屋に入る前に彼女は、シェーカルが真剣に考え事をしているのに気付いた。シェーカルは地面をじっと見つめていた。目の前には箱が開けたままになっており、眉間にはしわが寄っていた。シェーカルのこのような状態と表情を、ラリターは今まで見たことがなかったため、驚いてしまった。驚きと同時に恐怖も感じた。恐る恐る、静かに彼女はシェーカルのそばに寄った。シェーカルは彼女を見ると言った。「こっちに来い、ラリター、ここに座って!」シェーカルはまるで、夢から覚めたかのようだった。

 ラリターはとても優しい声で聞いた。「私を呼んだかしら?」

 「えっ?」少しの間黙ってから、彼は言った。「明日、朝の便で、母さんとイラーハーバードに行くんだ。今回は帰って来るのが遅くなるかもしれない。この鍵を持ってろ、お金が必要だったら、引き出しに入ってる。」

 毎年ラリターはブヴァネーシュワリーと共に旅行するのを楽しみにしていた。彼女は、この箱の中に全ての荷物を詰め込む瞬間がどんなに楽しかったかを思い出した。今日のラリターは、開けっ放しになっている箱を見て悲しい気分になった。

 シェーカルは咳払いをしながら彼女の方を見て言った。「ラリター、いいか、いい子にしてるんだぞ!それでももし何か必要なものがあったら、兄さんからオレの住所を聞いて、何でもオレに手紙を書いてよこすんだぞ。」

 2人は黙っていた。ラリターは心の中で、シェーカルが今回自分が一緒に行かないことをおそらく知ってしまったんだ、と考えていた。同時に、シェーカルは自分が一緒に行かない理由も知ってしまっただろう、と考えた。それを考えると、ラリターは恥ずかしくなって、穴があったら入りたい気分だった。

 突然シェーカルが言った。「ラリター、もう行っていいぞ!お前も知ってるだろ、オレはとても忙しいんだ。だいぶ時間が経ってしまった。事務所にも行かなきゃならんしな。」

 ラリターは箱の前に来て座り、言った。「さあ、事務所に行く準備をしてちょうだい。私が荷物を詰め込んでおくわ。」

 「そうしてくれるととってもありがたいな!」ラリターに鍵の束を渡し、シェーカルは立ち上がった。部屋の外へ出るときにふと思い出し、ドアのそばに立ち止まって言った。「オレに何が必要か、全部知ってるよな?」

 ラリターは箱の中に荷物をひとつひとつ調べ出した。シェーカルの質問に何も答えなかった。

 シェーカルは下に行って、母親にアンナーカーリーが言った話の真偽を確かめた。全て真実だった!グルチャラン氏が借金全額を返済したことも、ラリターのために素晴らしい花婿を探していることも本当だった!その他いくつか質問した後、シェーカルは水浴びをしに出て行った。

 約2時間後、水浴びし、食事を済ませたシェーカルは自分の部屋に服を着に来た。部屋に入るや否や、彼は自分の目を疑うような光景を目にした。この2時間、ラリターは何も仕事をしておらず、箱の前に頭を抱え込んで座っていた。シェーカルが来る音に気付いたラリターは、ハッと頭を上げて、すぐにうつむいた。彼女の目は涙で赤くなっていた。シェーカルは彼女の涙に気付いたが、見なかった振りをした。彼は黙って背広を着始めた。服を着ながら、平静を装って彼女に言った。「もういい、ラリター。お前は今、何もできないみたいだ、昼に来て荷造りしてくれ。」こう言って、シェーカルは事務所に行ってしまった。彼は、ラリターの心情を隅から隅まで理解していた。それでも、不用意に何かものを言うのはよくないと考えた。もっとも、そんな勇気は彼にはなかった。

 その日のティータイムにラリターが自宅の居間に入ると、そこにシェーカルもいるのを見て驚いてしまった。彼は旅行に出る前にグルチャラン氏に挨拶しに来ていた。

 ラリターはチャーイを用意して、ギリーンドラと叔父さんの前に置いた。ギリーンドラは聞いた。「ラリター、シェーカルさんにチャーイを出さないのかい?」

 ラリターはかわいらしい声で言った。「シェーカル兄さんはチャーイを飲まないの!」

 ギリーンドラはそれ以上何も言わなかった。そういえばラリターはいつか、シェーカルがチャーイを飲まないこと、また他の人にもチャーイを飲ませないことを話していた。ギリーンドラはその話を思い出していた。

 グルチャラン氏は手にチャーイのカップを持って、ラリターの花婿の話をし始めた。「いい男だ、大学で文学を学んでいる。」その話を話し終えた後、彼は付け加えた。「だが、ギリーンドラは気に入らなかったようだ!確かにあの男は色白でもハンサムでもない、しかし、結婚の後、誰が外見など気にしようか?それに容姿が何かの役に立つというのだろうか?男は内面が重要なんだ!」

 グルチャラン氏は、何とかしてラリターの結婚式を挙げて、一刻も早くこの重荷を下ろしたい気分で一杯だった。

 シェーカルとギリーンドラは、この日この場で初めて顔を合わせた。ギリーンドラの様子を見て、シェーカルは笑いが込み上げた。シェーカルは言った。「ギリーンドラさんはなんでその男を気に入らなかったんでしょうね?彼は学生のようですし、年もちょうどいいでしょう。何も欠点はありません!これほどの良縁はないでしょう!」

 ギリーンドラがなぜその男を気に入らなかったのか、シェーカルは全て理解していた。彼は、ギリーンドラが他の男も絶対に気に入らないであろうことまで知っていた。ギリーンドラはシェーカルの質問に何も答えず、顔を赤らめた。シェーカルは、ギリーンドラの顔が赤く染まったのにも気付いた。シェーカルは立ち上がって言った。「叔父さん、明日私は母を連れてプラヤーグ(イラーハーバード)に行きます。でも、お願いですから、吉報は遅れずに伝えて下さいね!」

 グルチャラン氏は答えた。「何を言ってるんだい、シェーカル!お前はワシの全てなんだ、他に誰がいる!ラリターの『母親』がいなくては何も話は始まらないよ。そうだろ、シェーカル?」そう言ってグルチャラン氏は微笑み、ラリターの方を見た。

 しかし、彼はラリターがそこにいないのに気付いて言った。「ところでラリターはどこに行ってしまったんだ?」

 シェーカルは言った。「自分の結婚話が話題になってるんです、どうしてこの場に留まっていられるでしょう!」

 グルチャラン氏は真剣な顔をして言った。「どうしてこの場に留まっていられるかって?あの娘も大きくなったものだ、世の中のこともだいぶ分かってきたとみえる!」彼は一度深い溜息をして言った。「ワシのラリターはサラスワティー(学問と芸術の女神)とラクシュミー(美と富の女神)の合わさった姿だ。あのような娘を誰でも持てるわけではない。ラリターのような娘は、心からの信仰と礼拝をした者こそが授かるんだ、シェーカルよ!」

 ラリターの話をしているとき、グルチャラン氏の痩せた顔はキラリと輝いた。その輝きを見て、ギリーンドラとシェーカルの2人は尊敬の感情が沸き起こった。

第7章

 ラリターは自分の話が始まった途端、そこから立ち去って、シェーカルの部屋にやって来た。彼女はシェーカルの箱を引っ張ってきて灯りの下に置き、必要な衣服や荷物を詰め込み始めた。そのときシェーカルもそこにやって来た。シェーカルが来るや否や、ラリターはシェーカルを見て目まいがし、何も言うことができなかった。

 裁判で負けた被告というのは、魂の抜けたような状態になり、何もしゃべることができず、すっかりやつれてしまい、まるで別人のようになってしまうが、まさにそのときのシェーカルの状態もそのようであった。わずか1時間の内にシェーカルの顔は、ラリターが識別することができないぐらいに変わり果てていた。シェーカルの顔は悲しみと不安に歪んでいた。彼の全てのものが失われてしまったかのようだった。シェーカルは、重く乾いた声で聞いた。「ラリター、何してるんだ?」

 シェーカルの状態を見てラリターは驚いてしまった。彼女はシェーカルのそばに来て手を掴んで言った。「兄さん、どうしたの?どうしてそんな顔をしてるの?」

 ラリターに無理して微笑んだシェーカルは、言い訳しながら言った。「なぜ?別に何でもないさ!」ラリターに優しく触れられたことにより、シェーカルには少しだけ生気が戻った。近くにあった椅子に座りながらシェーカルは言った。「何してるんだい、ラリター?」

 ラリターは答えた。「兄さんのオーバーコートを入れるのを忘れてたの。それを入れに来ただけよ。」シェーカルは温かい眼差しで彼女の言葉を聞いていた。ラリターは話し続けた。「去年、列車の中で兄さんはとっても寒い思いをしたでしょ。あのときコートは持ってたけど、厚手のコートは持ってなかったわ。だから、旅行から戻った後、兄さんのサイズのオーバーコートを作ってもらったの。」こう言って、ラリターはコートをシェーカルに見せた。そのコートは、冷たい風も通さないほどの厚手のコートだった。

 シェーカル「このコートのこと、お前は今まで何も言わなかっただろ。」

 ラリターは微笑んで言った。「シェーカル兄さん、あなたは頑固な人だわ!もし事前に言ってたら、あなたはこのコートを作らせなかったでしょう?そう考えて、内緒でコートを用意させておいたの。」ラリターはそのコートを箱に詰め込んで、シェーカルに言った。「兄さん、寒かったらこれを着てね!」

 「分かった。」シェーカルはしばらくの間、ラリターの方をじっと見つめていたが、突然口を開いた。「いや、そうはいかない!」

 ラリターは言った。「どうして、兄さん?このコートを着てくれないの?」

 シェーカルは取り繕って言った。「そういうわけじゃない、別のことさ!」話を変えて彼は聞いた。「母さんの荷造りも終わったのか?」

 ラリター「ええ、昼に全部やっておいたわ。」そう言いながらラリターは全ての荷物を点検して箱を閉めた。

 その後、シェーカルはラリターに聞いた。「そうか、ところで、オレは来年からどうなるんだろう?」

 「なぜ?」

 「ラリター、オレはその『なぜ』を今、ひしひしと感じてるよ!」シェーカルは何かを言いかけたが、ふと話を変えて、笑いながら言った。「そうだ、ラリター、嫁入りする前に、何がどこに置いてあるか、オレに言ってから行ってくれ。何があって、何がないか、何をどこに置くべきか、全部オレに教えておいてくれ、そうしないと、いざというときにすぐに物が出て来なくなって困るからな。」

 ラリターはちょっと腹を立てて言った。「もう、冗談はよして!」

 シェーカルは笑って言った。「ただ『冗談はよして』と言うだけじゃ何も進まないんだ!ラリター、これは本当なんだ。オレはこれからどうしていけばいいんだろう、お前も考えてくれよ。オレの野望はお前も知ってるようにでっかいが、それを実現させる力はオレにはないんだ。それに全ての仕事を召使いにさせることもできない。オレは多分、お前の叔父さんみたいに残りの人生を生きることになるんじゃないかと思うよ。クルター(インド風のシャツ)とドーティー(腰布)だけ着て生活するだろう。とにかく、神様がお望み通りになってくさ!」

 ラリターは恥じらって、鍵を放り投げて立ち去った。

 彼女が立ち去ったのを見て、シェーカルは大声で叫んだ。「ラリター、明日の朝、絶対に来てくれ!」

 しかし、ラリターは聞きながら聞こえない振りをした。彼女は急いで2階に下りて行った。そこで彼女は、アンナーカーリーが月の光の下で花輪を作っているのを見た。彼女のそばに寄ってラリターは言った。「アンナーカーリー、そんなところに座って何を作ってるの?」

 アンナーカーリーは作業に夢中になりながら言った。「花輪を作ってるの。今夜、私の娘(人形)の結婚式があるのよ!」

 「お前、そんなこと私に言ってなかったじゃない!」

 アンナーカーリー「だって、ついさっきまで何も決まってなかったの、お姉ちゃん!たった今、お父さんが占い表を見てくれて、今月は今日の他に吉日がないって教えてくれたの。娘は大きくなってしまったわ、もし結婚式を挙げないと、みんなに怒られるわ。今日、どうしても結婚式をしなくちゃいけないの、お姉ちゃん!それと、2ルピーをくれないかしら、バラート(花婿のパレード)のためにお菓子を買わなきゃ!」

 ラリターは笑って言った。「あら、お前はお金が必要なときだけ私のこと思い出すのね!いいわ、私の枕の下から持って行きなさい!でもアンナー、これだけ考えて、汚ないところで育ったお花と結婚できるかしら?」

 アンナーカーリーは真面目に答えた。「他の花が見つからなかったら、汚ないお花をお婿さんにして花輪を作るしかないでしょう?私は、こんな風にたくさんの娘を汚ないお花と結婚させたわ、お姉ちゃん!私は全部知ってるわ。」こう言って、彼女はお菓子を買いに行った。

 ラリターはそこに座って花輪を編み始めた。

 しばらく後に、アンナーカーリーが戻って来て言った。「みんなに招待状を渡したけど、シェーカル兄さんにだけ渡してないわ。兄さんにも渡してくるわ、そうしないと気を悪くするでしょう!」こう言いながら、彼女はすぐにシェーカルの部屋の方へ走り去った。

 アンナーカーリーはしっかりした女の子だった。全てのことを規則通りに行っていた。彼女はまだ幼かったが、知能はだいぶ発達していた。シェーカルに招待状を渡した後、下に降りて来て、ラリターに言った。「シェーカル兄さんがひとつ花輪が欲しいそうよ。急いで行って、渡して来て。後は私がやるわ。もう結婚の時間が来ちゃったわ。遅くなるといけないし。」

 ラリターは首を振って(肯定の仕草)言った。「アンナーカーリー!私は行けないわ、お前が行って来て!」

 「それならいいわ、私が行って渡して来る!その大きな花輪をちょうだい!」

 ラリターは花輪を取ってアンナーカーリーに渡そうとしたが、少し考え直して言った。「やっぱり私が渡して来るわ!」

 アンナーカーリーは年寄りのような真剣な口調で言った。「そうね、そうしてちょうだい、お姉ちゃん!私はとっても忙しいの、息をつく間もないわ!」

 アンナーカーリーの口調と、年寄りのような言葉を聞いて、ラリターは笑いをこらえ切れなかった。彼女は花輪を持って、笑いながら立ち去った。シェーカルの部屋に着き、ラリターが覗き窓から中を覗くと、シェーカルは何枚もの手紙を一生懸命書いていた。彼女は静かにドアを開け、中に入り、黙ってシェーカルの裏に立った。彼女が来たことをシェーカルは気付かなかった。しばらく黙っていたラリターは、シェーカルを驚かせるために花輪をそっと彼の首にかけた。そしてすぐに後ろの椅子に座った。

 シェーカルはびっくりして言った。「これは何だい、アンナー?」しかし、振り返ったシェーカルの視線にラリターが入ると、彼は驚いて真剣な声で言った。「ラリター、お前、これは何したんだ?」

 シェーカルの言葉が予想外だったため、ラリターは立ち上がって言った。「私、何したの?」

 シェーカル「オレに何聞いてるんだ?お前、知らないのか、それならアンナーカーリーのところへ行って聞いてみろ、今夜、花輪をかけたらどうなるか?」

 ラリターはこのとき初めて、自分が何をしたのか理解した!(花輪を異性にかけることは結婚成立の印)彼女の顔は赤くなった。彼女は慌てて顔を取り繕って言った。「そうじゃない、そうじゃないわ!私はそうじゃなくて、ただ花輪を・・・。」言いかけた言葉を言い切ることができずに、彼女は結婚したばかりの花嫁のように恥じ入って部屋の外に走り去った。

 シェーカルは彼女が立ち去るのを見て、大声を上げた。「ラリター!ちょっとオレの話を聞いてくれ!大切なこと頼みたいんだ!」

 シェーカルの呼びかけをラリターは無視した。彼女は自分の部屋に来ると、枕に顔を押し付けて寝転がった。

 幼年時代から少女時代に渡るこの5、6年の時間を、彼女はシェーカルと共に過ごした。しかし、そのような言葉をシェーカルの口から聞いたことは一度もなかった。シェーカルの性格と性質を彼女はよく知っていた。シェーカルは真面目な性格の男だった。シェーカルが彼女に冗談を言うことはなかった。あったとしても、ラリターは気にしなかった。彼女はそのような想像をしたこともなかった。花輪の意味を考えると、彼女はとても恥ずかしくなり、自分の顔をどの穴に隠したらいいのか分からないほどだった。

 彼女は寝転がりながら、シェーカルが自分を大切な仕事のために呼んでいたことも思い出した。行こうか行くまいか悩んでいたところに、シェーカルの召使いがやって来て言った。「ラリターさん、どこにいますか?あなたをお坊ちゃまが呼んでますよ!」

 ラリターは部屋から出て小さな声で言った。「分かったわ、今行く!」シェーカルの部屋の前に行って覗き込むと、彼はまだ手紙を書き終えておらず、急いで筆を動かしていた。しばらくの間、彼女は黙って立っていたが、ふと口を開いた。「私を呼んだ?」

 シェーカルは手紙を書きながら言った。「全く、今日のお前は一体何をしたんだい?さあ、入って!ここに座って!」

 ラリターは機嫌を悪くして言った。「もうやめて、またその話?」

 「別にオレが悪いわけじゃないだろ、ラリター?お前がやったことだ!」

 ラリター「私は何もしてないわ、私の花輪を返して!」

 シェーカル「そのためにお前を呼んだんだ、ラリター!オレのそばに来い、オレがお前の花輪を返してやるから。お前がやり残したことを、オレがしてやる!」

 ドアのそばに立っていたラリターは、黙って何かを考えていた。彼女は言った。「言っておくけど、もし私をからかったりしたら、もう二度とここには来ないから。私の花輪を返して!」

 シェーカルは首にかかっていた花輪を取って言った。「こっちに来て持って行けよ!」

 「それを私の方に投げて、そうすれば私がそれを取るから!」

 「もしそばに来なかったら、返してやらないぞ!」

 「じゃあいらない!」そう言ってラリターは帰ろうとした。

 シェーカルは彼女が帰ろうとしているのを見て、怒鳴って言った。「なんでこれをこのままにして行ってしまうんだ?」

 彼女は立ち去りながら怒って言った。「そのままならそのままでいいわ!」

 ラリターはそこから立ち去ったが、下には降りなかった。彼女はバルコニーの隅に立って、空を見上げて何かを考えていた。空には月が微笑んでいた。その黄金の光は、この世の全てのものをキラキラと輝かせていた。その月光の色にラリターも心を奪われていた。立ち尽くした彼女の心に、いろいろな思いが沸き起こった。自分に怒りが込み上げたし、恥も感じた。そこに立ちながら、彼女はふとシェーカルの部屋の方を向いた。なぜか、彼女の顔には誇りに満ちた笑みが浮かび、目からは涙が溢れ出た。彼女はもはや右も左も分からない幼い子供ではなかった。そうならば、このような笑みを浮かべることがあろうか!彼女の立場はどん底にあった。両親のいない孤児、叔父だけが唯一の頼りだった。近所の人々は彼女を憐れに思って可愛がっていた。シェーカルの態度もその一例だった。彼は、彼女のことを身寄りのない憐れな子だと思って、愛情を込めて面倒を見ていた。シェーカルの母親も彼女に限りない愛情を注いでいた。この世界に、彼女の身内はいるだろうか?誰もラリターのものではない。だからギリーンドラは彼女を助けようとしたのだ。

 ラリターは目を閉じて心の中で考えた――シェーカル兄さんに比べて、私の叔父さんの立場はとても弱い。叔父さんはシェーカル兄さんの前では無も同然だ。その叔父さんの家に引き取られた私は、叔父さんの首にかかった鎖となっている。シェーカル兄さんの縁談は、兄さんと同じくらい裕福な家と進んでいる。兄さんの結婚は多分その家と行われるだろう。今日かもしれないし、数日後かもしれない、ただ時間の問題だ。そして、この結婚でナヴィーンラーイさんは大金を手にする――彼女はシェーカルの母親からその話を聞いたことがあった。

 それなら、シェーカル兄さんはなぜこのような冗談を言うのだろう、そして私をからかうのだろう?ラリターは、寂しげな空を見上げてそれを考えていた。その後、彼女が振り向いて見ると、シェーカルが彼女の後ろに立って笑っていた。そして、シェーカルはその花輪を突然ラリターの首にかけた。それを見て彼女は泣き出し、言った。「兄さんはなぜこんなことするの?」

 「お前こそ、なんでこんなことしたんだ、ラリター?」

 「私は何もしてないわ。」こう言って、彼女は花輪を引きちぎろうとしたが、彼女の視線がシェーカルの視線と合ったため、手を止めた。彼女はもう花輪を引きちぎることはできなかった。しかし、彼女は泣きながら言った。「私は、不幸で無力で邪魔者だわ、だから私をからかうんでしょう、シェーカル兄さん?」

 シェーカルは依然として笑って立っていたが、ラリターのこの言葉を聞いて黙ってしまった。彼は言った。「オレがお前をからかったのか、お前がオレをからかったのか!」

 ラリターは濡れた目を拭いながら言った。「私が兄さんをいつからかったって言うの?」

 シェーカルは少し黙った後に言った。「少し考えれば分かるさ!最近お前は好き勝手に行動してる、だからオレが、お前が旅行に行くのを止めさせたんだ。」こう言ってシェーカルは黙った。

 ラリターはつんぼのように立ったまま聞いていた。月の黄金の光の中に2人は立っていた。そのとき、下の部屋ではアンナーカーリーが自分の人形の結婚式を執り行っていた。ほら貝の音が鳴り響き、静寂が破られた。

 少し後にシェーカルは言った。「だいぶ寒くなってきた、さあ、下に行けよ!」

 「今行くわ。」こう言って、彼女はシェーカルの足を触れてプラナーム(インドの最敬礼の仕草)をして言った。「これだけは教えて。私、今からどうすればいいの?」

 シェーカルはそれを聞いて笑い出した。一瞬、彼は恐怖を感じたが、両手を伸ばしてラリターを掴み、抱きかかえた。そして彼女の唇に自分の唇をそっと押し付けてから言った。「今からオレは何も言わない、お前が自分で理解しろ、ラリター!」

 シェーカルのこのような愛情表現を見て、ラリターは鳥肌が立った。彼女は後ずさりして言った。「それじゃあ、兄さんはただ私に花輪をかけただけで、こんなことしたの?」

 シェーカルは微笑んで言った。「そうじゃない、ラリター、そうじゃない!オレはずっと前からこうしたい気持ちでいっぱいだったんだ。でも、なかなか決心がつかなかった。今日の今、オレはついに決断したよ!オレは今日、やっと分かった。オレはお前なしじゃあ生きていけないんだ!」

 ラリター「でも、兄さんのお父さんが聞いたらきっと怒るでしょう、それにお母さんも困ってしまうでしょう。兄さんが考えていることは、起こりえないわ!」

 シェーカルは言った。「ああ、父さんが聞いたら絶対に烈火のごとく怒るだろう、でも母さんはきっと心から喜んでくれるに違いない!とにかく、もうどうにもならない。起こるべきことが起こったんだ!もう誰も止めることはできない!さあ、下に行って、お母さんに挨拶しておいで!」

 ラリターは下に降りた。だが、立ち去るときに彼女は何度も何度も振り向いて、自分の愛する夫を見た。

第8章

 約3ヶ月後。グルチャラン氏がナヴィーンラーイ氏の家に来て、床に座ろうとしたところ、ナヴィーンラーイ氏は大声で怒鳴りつけて言った。「駄目だ、駄目だ、駄目だ、そこじゃない、あそこの椅子まで行って座れ!ワシはこんなときに身を清めることなんてできない!お前はジャーティ(≒カースト)を変えたそうじゃないか、それは本当か?」

 動揺したグルチャラン氏は、遠くに離れた場所に置かれた椅子のところまで行って座った。しばらく彼はうつむいて座っていた。4日前、グルチャラン氏は法的にブラフマサマージ(キリスト教に影響を受けたヒンドゥー教改革団体)に加入した。今や彼のジャーティはブラフマサマージーになった。ナヴィーンラーイ氏はこのことを今日知ったばかりであった。今やグルチャラン氏に、ベンガル人コミュニティーの中に入り込む権利はなかった。グルチャラン氏が座ったのを見て、ナヴィーンラーイ氏の目からはまるで憤怒の炎が吹き出るかのようであった。一方、グルチャラン氏はまるで罪を犯した者のように黙り込んで座っていた。グルチャラン氏は、誰に相談することもせずにブラフマサマージに入ってしまった。しかし、そのときから家計の赤字は増え、泣き声や叫び声が起こり始めた。家の隅々まで平穏はなかった。このような状態だったため、グルチャラン氏は非常に落ち込んでいた。

 ナヴィーンラーイ氏は再び糾弾するような口調で言った。「答えろ、お前はブラフマサマージに入ったのか?」

 グルチャラン氏の目に涙が溢れてきた。悲痛に満ちた声で彼は答えた。「はい、本当です!」

 「そのような汚らわしい行為をお前はなぜした?お前はわずか60ルピーの月給で生きてる分際だろ、なのになぜ?」ナヴィーンラーイ氏は怒りに震えるあまり、うまくしゃべれないほどであった。

 泣きながらグルチャラン氏は震える声で答えた。「ナヴィーンさん、何と言えばいいでしょう、分別を失ってしまったんです!不幸のあまり、何も見えなくなってしまったんです。私には、ブラフマサマージに入ることは首を吊ること同然だと思い付かなかったんです。とうとう私はブラフマサマージに入ることがいいことのように思えてしまったんです。だから私はブラフマサマージを受け容れてしまったんです。」

 ナヴィーンラーイ氏は大声を上げて怒鳴って言った。「よくもそんなことしてくれたな!自分で首を吊る代わりに、宗教と共同体をしばり首にしてしまった。何ということだ!もういい、お前はここから出て行け、そしてその汚れた顔を二度とここに見せるな!お前の面倒を見てくれる奴のところへ行って、好きにしてろ。」それを聞いて、グルチャラン氏はそこから立ち去った。彼は、ナヴィーンラーイの怒りに恐れるあまり、何をすべきか、何をすべきでないか、全く考えることができなかった。グルチャラン氏はもうそこへ出入りすることができなかった。

 グルチャラン氏に怒りをぶつけ、怒鳴りつけるだけでは、ナヴィーンラーイ氏の怒りは収まらなかった。彼はすぐに石工を呼び、グルチャラン家に通じる屋根伝いの通路に壁を作らせた。その道を閉鎖したことにより、彼の怒りはやっと落ち着いた。

 一方、カルカッタから遠く離れた場所にいたブヴァネーシュワリーは、この知らせを聞くと大声を上げて泣き出して言った。「シェーカル、いったい誰があの人にこんなことするようにそそのかしたんでしょう?」

 シェーカルは、誰が助言を出したのか、すぐにピンときた。しかしそのことは言わずに、母親に言った。「母さんが自分からあの一家と絶縁することだってありえたと思うよ。彼らの影すらも社会から追放していただろう!何人もの娘の結婚を、あの人がどうしてさせることができるだろう、それもちょうど適齢期に?結婚のことを、オレに相談することだってできただろうに!」

 ブヴァネーシュワリーは首を振りながら言った。「結婚さえ順調に進んでいればよかったのに!そんな状態のときに、代々守ってきた宗教を捨てるなんて、グルチャランさんはよっぽどの無知なんでしょうか、それともズル賢いんでしょうか?もし気が動転するたびにみんながみんな宗教を捨て去ることを考えだしたら、何千もの人たちが自分の共同体を、宗教を捨て去ってしまうでしょう。生を与えて下さるのが神様なら、私たちの面倒を見てくれるのも神様、あらゆることをしてくれるのも神様だわ。神様がグルチャランさんを守って、手助けして下さるところだったのに!」

 シェーカルは黙っていた。ブヴァネーシュワリーは涙を拭いながら言った。「もしラリターを連れて来ていたら、何とかしてあの娘だけでも救うことができたでしょうに!グルチャランさんは、だからラリターを私たちに同行させなかったのかもしれないわ!私は、あの娘の結婚の準備が本当に進んでいるとばっかり思ってたわ。」

 シェーカルは恥ずかしそうにブヴァネーシュワリーを見て言った。「母さん、今すぐ家に帰って、今言ったことをしようよ!ラリターはまだブラフマサマージに入ってない、今のところ叔父さんが入っただけだ。叔父さんはラリターの本当の叔父さんでもない。ラリターには身内がいないから、叔父さんのところに引き取られただけだ。」

 ブヴァネーシュワリーはよく考えてから言った。「それはいいけど、お前の父さんはとても頑固な人よ。どう頑張っても、それを許してくれるとは思えないわ。多分、あの一家と会うのも禁止するでしょう!」

 シェーカルも同じことを考えていた。彼は母親の言葉に何も返答せず、黙って聞いていた。そして心の中で思案を巡らせていた。

 シェーカルはもはや旅先に1分たりとも留まることはできなかった。彼はイライラしながら2、3日あちこち徘徊して回った。耐え切れなくなった彼は母親に言った。「もうここは飽きたよ、母さん!家に帰ろう!」

 その日、ブヴァネーシュワリーも家に帰ることを決め、彼に言った。「私も飽きてしまったわ。」

 カルカッタに戻った2人は、両家の間にあった屋上の通路が閉ざされてしまっているのに気付いた。2人は、グルチャラン氏と何らかの関係を持つことや、彼と話をすることすら、父親の機嫌を損ねるであろうことをすぐに察知した。

 夜、シェーカルが食事をしに席に座ったとき、母親も来て彼のそばに座った。彼女は言った。「ギリーンドラとラリターの縁談が進んでいるそうよ、私は前からそうなるんじゃないかと思ってたわ。」

 シェーカルはうつむきながら言った。「誰が言った?」

 ブヴァネーシュワリー「ラリターの叔母さんが言ってたわ、他に誰が言うの!お前の父さんが昼寝をしている間、私が彼女に会いに行ったの。悲しみで彼女は目を赤くしてたわ。その後、私に全部話してくれたの。これこそ運命の悪戯だわ、シェーカル!誰を責めたらいいんでしょう。そうは言っても、ギリーンドラはいい人だわ、とても優しい性格の人。彼に嫁ぐんだったら、ラリターは何も困らないでしょう。彼はお金持ちだし。」そう言って彼女は黙った。

 シェーカルは何も答えることができなかったばかりか、目の前に置かれた皿から料理を取って食べることもできなかった。母親がそこから立ち上がって去って行くと、シェーカルも何も食べずに席を立った。手と口を洗った後、彼はベッドに横たわった。

 次の日の夕方、シェーカルは散歩をしに外に出た。そのときグルチャラン氏の家ではいつものようにお茶会が開かれており、笑い声が聞こえて来ていた。そこから漏れてくる話を耳にしたシェーカルは、少しためらった後、何を考えたのか、静かにグルチャラン氏の部屋に入って立ち止まった。彼が来るや否や、そこには沈黙が流れた。シェーカルの顔を見て、皆は表情を変えた。

 シェーカルがカルカッタに戻って来たことは、ラリターを除いて誰も知らなかった。今日はギリーンドラの他に1人の男性がそこにいた。彼は驚いてシェーカルの顔を見ていた。ギリーンドラの顔は真顔となり、彼は壁の方に視線を移した。そのとき大声で話をしていたのはグルチャラン氏だった。シェーカルを見て彼の顔は青ざめてしまった。彼のそばに座っていたラリターはチャーイの用意をしていた。彼女は一瞬顔を上げてシェーカルを見て、再び下を向いた。

 シェーカルは前に出て頭を下げて挨拶をし、片隅に座って笑いながら話し始めた。「突然みんなどうして黙ってしまったんですか?」

 グルチャラン氏は小さな声で祝福を与えた。どんな祝福の言葉を言ったのか、誰も聞き取ることができなかった。

 シェーカルはグルチャラン氏が考えていることを理解した。そのため、彼はグルチャラン氏が祝福の言葉を言い終わらない内に自分の話を始めた。彼は、カルカッタに戻って来たこと、母親の体調が良くなったことなど、全ての話を聞かせ始めた。そして彼は初めて会った人物の方に視線を向けた。

 グルチャラン氏はもうだいぶ平静を取り戻していた。彼はその青年を紹介して言った。「彼はギリーンドラの友人だ!2人は同郷なんだ。とても素晴らしい人物だよ、今シャーム市場に住んでいる。ワシと知り合ってからというものの、よくここに来てくれてるんだ。」

 シェーカルはグルチャラン氏の言葉に頷きながらも、心の中では、「見た目だけは穏和な性格に見えるがな!」と考えていた。シェーカルはグルチャラン氏に言った。「おじさん、他に何か変わりはありませんか?」

 グルチャラン氏は何も言わず、黙ってうつむいた。

 「それでは、おじさん、私はこれで失礼します。」こう言ってシェーカルは立ち去ろうとした。彼が行こうとしているのを見て、グルチャラン氏は慌てて言った。「シェーカル!お前はワシに何が起こったか全部聞いたことだろう、それでも時々は会いに来ておくれ。ワシのような貧乏人をこんな風に見捨ててしまわないでおくれ!」

 シェーカル「分かりました、おじさん!」こう言いながら彼はラリターの叔母さんに会いに家の中に入って行った。しばらくして、ラリターの叔母さんの泣き声が居間まで聞こえてきた。彼女の泣き声を聞いて、グルチャラン氏にも涙が込み上げてきた。そして彼は自分の腰布でその涙を拭った。ギリーンドラの顔は、まるで罪を犯した人のような形相になっており、呆然と表の方を眺めていた。シェーカルが席を立つ前に、既にラリターはそこから立ち去っていた。

 シェーカルはラリターの叔母さんとの会話を終えて部屋の外に出た。階段を下りていると、暗闇の中で、ドアのそばにラリターが立っているのを見つけた。彼女を見るや否や、彼も立ち止まった。ラリターはシェーカルに挨拶をして、彼のそばに来た。彼女はシェーカルが何か言うかと思って待っていたが、やがて少し後ずさりして小さな声で言った。「兄さんは私の手紙に何で返事をくれなかったの?」

 「どの手紙だ?」

 「いろんなこと書いたのよ。そう、ならその話は忘れてちょうだい!ここで何が起こったか、兄さんは聞いたでしょう。私に何か命令はあるかしら?」

 シェーカルは驚いて言った。「オレの命令?オレの命令ってどういうことだ?オレの命令を聞いて何か得でもあるのか?」

 ラリターは怪訝な顔をして言った。「どうして?」

 シェーカル「そんなの当たり前だろう。オレが誰に命令するって言うんだ?」

 ラリター「私の他に誰がいるの?」

 シェーカル「お前にどうして命令しなきゃならないんだ?それに命令を出したところで、お前がそれを聞くはずないだろう?」シェーカルは悲哀に満ちた声で言った。

 ラリターはそれを聞いて心の中で戸惑った。

 彼女はシェーカルの胸のそばですすり泣いて言った。「もうそんなこと言わないで!そんな冗談ちっとも楽しくないわ。お願いだから、今、私をからかうのはやめて!教えてちょうだい、何がどうなるのか?私、恐くて夜も眠れないの。」

 「何を恐れてるんだ?」

 ラリター「何言ってるの?恐れを感じないなら、何を感じるというの?兄さんは私の家族でも、お母さんでもなかったんだわ。叔父さんが何をしたのか、兄さんは知ってるでしょう!今、お母さんが私を助けてくれなかったらどうなるの?」

 シェーカルはしばし沈黙した後に言った。「それはそうだが、今になってどうして母親がお前を助けることができるんだ?父さんは、お前の叔父さんが誰かから大金をもらったことまで知ってるんだ。しかも叔父さんはブラフマサマージに入ってしまった。オレたちはヒンドゥーなんだ。」

 そのとき、アンナーカーリーがやって来てラリターに言った。「叔母さんが呼んでるわ。」ラリターは大声で言った。「分かったわ、お前はちょっとどこかに行ってて、今行くから。」そして声を低めてシェーカルに言った。「それはそうだけど、それでも私の宗教は兄さんと同じよ!もし兄さんがヒンドゥー教から離れられないなら、私も離れられないわ。それにギリーンドラさんから借りたお金は私が返すわ。それは私の責任よ、すぐに返してみせるわ!」

 シェーカル「そんな大金、どこから手に入れるんだ?」

 ラリターはこの質問に答えるのにしばらく黙っていたが、急に笑い出して言った。「兄さんは、女の人に誰がお金を出すか知らないの?私もその人からもらうわ。」

 シェーカルの心はひどく動揺した。彼は言った。「しかし、お前の叔父さんは、その金のためにお前を売り払ったんだ。」

 ラリターは暗闇の中でシェーカルの顔を見ることができなかったが、彼の喉に詰まった声を聴き取ることができた。彼女は言った。「全部嘘だわ、無意味だわ!私の叔父さんのような立派な人は世界に2人といない。兄さんはわざと叔父さんを悪く言ってるんだけよ。叔父さんの苦労と悲しみを知らない人がどこにいるの?兄さんが知らないはずはないでしょう。」ラリターは一気にまくしたてた後、少し息をついてから、再び口を開いた。「それに叔父さんは、私の結婚の後にお金を受け取ったわ。だから叔父さんに私を売り払う権利なんてないの。もし私を売り払うことができる人がいるなら、それは兄さんよ、他には誰もいないわ!」そう言って、ラリターはシェーカルの言葉を待たずに部屋の中に入ってしまった。

 しばらくの間、シェーカルは呆然とそこに立ち尽くしていた。そして、ゆっくりとグルチャラン氏の家から外に出た。

第9章

 その夜、シェーカルは遅くまで狂人のように、何の目的もなく路地をあちこち歩き回った。家に帰って来ると、彼は座って考え込んでいた。シェーカルは、ラリターが言った言葉に驚いていた。ラリターはどこからあんなことを学んだのだろう?あんな恥も外聞もない言葉をいつから発するようになったのだろう?大した度胸だ!いったい誰があんなこと教えたのだろう?今日のラリターの態度に、彼は怒りと驚きを同時に感じていた。しかし、これは明らかにシェーカルの間違いだった。もし彼が少しでも冷静に考えることができたなら、おそらく自分の弱さや無力さに腹が立ったことだろう!ラリターが言ったことは真実だった。他に彼女に何ができただろう?

 シェーカルは、数ヶ月間ラリターから離れている間に、いろいろなことを思考していた。その思考の中で、彼は一生涯の幸福を感じることもあれば、悲しみを感じることもあったり、損得の勘定をすることもあった。シェーカルは、ラリターがどれだけ自分の人生の一部になってしまっているかを実感した。そして、彼女がいない人生が、どんなに困難で悲しいものかも実感していた。子供の頃からラリターは彼の家族の一員だった。シェーカルは常に彼女を大切にして来た。自分の身の回りのことも、ラリターに任せっきりにしていた。シェーカルは心の中で、ラリターが自分の一生の伴侶にならないことがないように願っていた。自分の両親がそのことを反対しないように、ラリターが誰か他の男と一緒にならないように願っていた。シェーカルは以前からこのような心配を抱いていた。だから、シェーカルはカルカッタを発つ前にラリターの首にマリーゴールドの花輪をかけたのだった。

 旅先でグルチャラン氏が宗旨替えしたことを聞き、シェーカルは動揺した。彼は心の中で、ラリターはもはや自分のものにならないのではないか、とさらに深刻に悩むようになった。どんなときでも、彼はラリターの家の状況を逐一知るようにしていた。それでもラリターの今日の毅然とした態度に、彼の全ての感情は渦に巻き込まれたかのように混乱した。シェーカルは、これらの感情よりも、行動の方が誉れ高いことであることを理解できなかった。以前、彼はラリターが遠くに行ってしまわないかと不安だったが、今では自分が彼女を手放さざるをえなくなってしまわないか不安だった。

 シャーム市場の富豪との間に進んでいたシェーカルの縁談もお流れになってしまっていた。ナヴィーンラーイ氏が望んだダウリー(持参金)があまりに多額であったため、彼らは支払うことができなかった。シェーカルの母親も、この縁談をあまり好んでいなかった。よって、シェーカルはこの問題から解放された。しかし、ナヴィーンラーイ氏は今でも1万〜2万ルピーの大金をせしめようと躍起になっていた。彼は以前と同様にいい縁談を探し続けていた。

 シェーカルは、一体どうしたらいいのか考えていた。あの夜は簡単に事が済んでしまったが、それが果たして本当に有効になるだろうか?ラリターは自分の結婚が済んだと完全に信じてしまうのだろうか?永遠の関係がこれで決定されてしまったのだろうか?シェーカルは今まで、ここまで深く考えたことはなかった。あのとき彼は、ラリターを抱きしめて、「ラリター、今、起こるべきことが起こってしまった。もうこの関係を誰も壊すことはできない。お前はオレから離れることはできないし、オレもお前を手放すことはできない」と言った。このように深く考える力は、あのときのシェーカルにはなかったし、そのような時間もなかった。

 あのとき、頭上では月が微笑んでいた。月の黄金の光に包み込まれていた。そのようなときに彼は愛するラリターの首に花輪をかけたのだった、そして彼女の胸中に満たされていた愛情の聖水を飲んだのだった。愛の世界において、2人は互いに自分の全てを捧げて合っていた。あのときの彼に、善悪の判断は全くできなかった。金の亡者と化した父親の怒った顔は目の前から消え去っていた。彼は、母親がラリターを可愛がっていることを知っていた。だから、母親の同意を得ることは難しいことではないと考えていた。同じように兄アヴィナーシュにも助けてもらって、父親を説得することもできるだろうと考えていた。何とかすれば、家族全員がラリターとの結婚を認めてくれるだろうとの期待があった。だが、シェーカルは、グルチャラン氏が宗旨替えをして、その道を閉ざしてしまうというようなことが起こるとは夢にも考えていなかった。このように神様に見放されてしまうとは、一度も考えたことがなかった。ラリターとの結婚は既に済んでいるというのに!

 これは、シェーカルにとって巨大かつ困難な問題だった。彼は、このようなときに父親を説得することが不可能に近いことを知っていたし、母親すらも自分の味方をしてくれないだろうことも予想できた。彼はもはや何の解決法も見つけることができなかった。

 「あぁ!どうしよう?」と言って、シェーカルは深い溜息をついた。彼はラリターのことをよく知っていた。彼女を教えたのは彼であったし、行儀作法のしつけもした。ラリターは一度身に付けたことは二度と忘れなかった。彼女は、自分がシェーカルの唯一の妻となったことを知っていた。だから、今日、夕刻の暗闇の中で、ためらいなく彼女はシェーカルの近くに立ち、彼を直視していたのだ。

 ラリターの結婚はギリーンドラと決まってしまった。しかし、彼はこの結婚を認めるわけにはいかなかった。口を開き、全てを明らかにするときが来ていた。全ての秘密が明らかになるだろう――そう考えると、シェーカルの目には炎がきらめき、彼の顔は赤く燃え上がった。そしてまた彼は、ラリターに花輪をかけ、ラリターを抱きしめ、そしてラリターの唇から愛情を吸い込んだことを考えた。ラリターは何も拒否しなかった。彼女は悪いことをしていると考えていなかったし、何のためらいもなかった。彼女はシェーカルを自分の夫だと理解した。だがしかし、シェーカルは自分のこの行動を、どうして他人に伝えることができるだろうか?彼は誰かに顔を合わせることもできなくなるだろう!

 また、実際問題として、両親の承認なしにはラリターの結婚は不可能だった。このことには何の疑いようもなかった。しかし、シェーカルが秘密を明らかにすることで、ギリーンドラとラリターの結婚が破談するようなことがあったらどうなるだろうか?そんなことがあったら、彼は家の中でも外でも合わせる顔がなくなってしまうだろう!

第10章

 シェーカルは、ラリターと結婚することは不可能だと思い、諦めてしまった。何日間も彼は恐怖を覚えていた。彼は、ラリターが突然やって来て全てを暴露するのではないか、彼女の言葉に答えなくてはならなくなるのではないか、と考えるようになった。しかし、数日間が過ぎ去ったが、誰にも何も聞かれなかった。誰かにそのことがばれてしまったかどうかすら分からなかった。ラリターの家でもシェーカルの家でも、その話が話題に上ることはなかった。

 シェーカルの部屋の前にある屋根から、ラリターの家の屋根を見渡すことができた。シェーカルは、ラリターを見てしまわないように、その屋根に立とうとしなかった。しかし、何事もなく1ヶ月が過ぎ去ると、彼は少し安心し、心の中でこのように考えるようになった――女というものは、恥と外聞を気にするものだ、ラリターは誰にもあの話をしなかったのだろう、女は、たとえ心を粉々に傷つけられても、それを言葉に出すことはない――。彼は、女性の心の弱さ、恥じらい、そして謙虚さを、神様に何度も何度も感謝した。だが、これだけ考えた後でも彼の心は落ち着かなかった――オレの心はどうしてこんなにも常に不安定なのか?恐怖が取り除かれても、オレの心の中に依然として何かが引っかかっているのはなぜだろう?ラリターはこのまま黙っているだろうか?誰かと結婚して嫁に嫁いでしまえば、彼女はもう何も言わないだろう。ラリターの結婚はもう決まったのだ。夫と共に自分の家族を作っていくのだ。しかし、そう考えた途端、オレの身体が燃え上がるのはなぜだろう?なぜこれほどまで怒りが込み上げるのだろう?

 シェーカルは自分の家の屋根を毎日散歩していた。今日も彼は散歩に出たが、ラリターの家には誰も見当たらなかった。ただアンナーカーリーだけが何かの用事のためにそこに来たが、シェーカルを見ると彼女はうつむいた。シェーカルは、彼女を呼ぼうか呼ぶまいか迷っていたが、そうこうしている間に彼女は彼の目の前から消えてしまった。シェーカルは、この壁が出来たことによる両家の反目を、アンナーカーリーでさえも敏感に感じ取っていることをすぐに悟った。

 このような状態のまま、さらに1ヶ月が過ぎ去った。

 ある日、ブヴァネーシュワリーがふと思い出したように聞いた。「シェーカル!最近ラリターを見たかい?」

 シェーカルは答えた。「見てないよ。どうかしたの、母さん?」

 ブヴァネーシュワリーは言った。「2ヶ月くらい前、ラリターが屋根の上にいるのを見たの。呼びもしたのよ。でも、ラリターはだいぶ変わってしまったようだったわ。まるでもうラリターじゃあないみたいだったわ。病気にでもかかったのかしら。顔はやつれて青白かったわ。だいぶ年を取ったようにも見えたわね。誰もラリターが14歳の女の子だと信じられないくらいよ。」ブヴァネーシュワリーは涙ぐんだ。

 自分の腰布で涙をぬぐうと、彼女は再び話し出した。「ラリターは汚れて破れたサーリーを着ていたわ、つぎはぎもしてあったわね。私がラリターに、『ラリター!他のサーリーはないの?』って聞くと、あの娘は、『あるわ!』と答えたけど、私はそれを少しも信じることができなかったわ。ラリターは、叔母さんからもらったサーリーを着たことは一度もないわ。私がいつもサーリーをあげていたの。ここ6、7ヶ月、私はあの娘にサーリーをあげていないわ。」

 ブヴァネーシュワリーは黙り込んでしまった。彼女の口からは、もはや一言も発せられないかのようだった。自分の濡れた目を彼女は腰布でぬぐった。彼女は、ラリターを自分の産んだ娘のように可愛がっていたため、悲しみも人一倍であった。

 しばらくして、ブヴァネーシュワリーは再び口を開いた。「今日まであの娘は私の他に誰にも何も欲しがったことはなかったわ。食事のとき、もしお腹が空いていても、ラリターは誰にも何も言わずに私のところに来ていたわ。私はあの娘の顔を見ただけでお腹が空いていることが分かったのよ。シェーカル!ラリターは自分の悲しみを決して他人に話さないし、あの娘の悲しみを共有できる人もいないんだと思うわ。ラリターは私をただ単に『お母さん』と呼んでいただけじゃないわ、あの娘は私を本当の母親のように愛してくれていたんだわ!」

 シェーカルは母親の方に顔を向けることがどうしてもできなかった。彼はうつむいて座りながら、彼女をチラッと見て言った。「それだったら母さん、ラリターを呼んで、必要なものを何でもあげればいいんじゃないかな!」

 ブヴァネーシュワリーは言った。「今になって、ラリターがどうして受け取るでしょう!お前の父さんは、家と家の間の道を閉ざしてしまったし、私もどんな顔して向こうの家に行くことができるでしょう?グルチャランさんが不幸から狂ってしまって間違ったことをしたとしても、私たちは彼をお払いさせて仲間に引き戻すべきだったんだわ。仲間に引き戻すばかりか、私たちはグルチャランさんを仲間外れにしてしまった。悲しみのあまり、グルチャランさんはジャーティを変えてしまった。全ての原因はお前の父親にあるわ。いつでもお金のことばかり!私は、グルチャランさんはとてもいいことをしたと思うわ。心が憎しみで満たされたとき、人間はどんなことでもしてしまうものだわ。ギリーンドラさんはグルチャランさんにとって、私たちよりも頼りになる人だわ。おそらく来月、ギリーンドラさんとラリターの結婚式が行われるでしょう!きっとラリターはギリーンドラさんと共に幸せに暮らすことができるでしょうね!」

 シェーカルは驚いて母親に聞いた。「ラリターの結婚式は来月なのか!」

 ブヴァネーシュワリー「私はそう聞いたわ。」

 シェーカルはそれ以上何も聞かなかった。

 母親は言った。「ラリターの話によると、叔父さんの体調がどうもよくないみたいよ。健康に暮らせる方がおかしいぐらいだわ!あんなに心に心配事を抱えているし、家計も火の車。グルチャランさんの家はいつも不幸でいっぱいだわ。」

 母親が立ち去った後、シェーカルも立ち上がって自分の部屋に行った。そしてチャールパーイー(インド式ベッド)に横たわって、寝返りを打ちながらラリターのことを考えていた。

 シェーカルの家は細い路地にあった。その路地には、2台の馬車や自動車がすれ違うのが難しいくらいの道幅しかなかった。それから約10〜12日後のある日、シェーカルは事務所から帰宅していた。すると、誰かの馬車で道がふさがっていたため、彼の馬車はグルチャラン氏の家の前で止まってしまった。馬車から降りたシェーカルは、グルチャラン氏の家に医者が来ていることに気付いた。

 何日も前に彼はグルチャラン氏の病気のことを母親から聞いていた。だから彼は自宅に行かずに、グルチャラン氏を見舞うために彼の部屋に入って行った。グルチャラン氏はチャールパーイーに死人のように横たわっていた。そばにはラリターとギリーンドラが座っていた。医者は椅子に座って検査をしていた。

 グルチャラン氏は小さな声でシェーカルに座るように言った。ラリターも彼に気付くと、少しヴェールを引っ張って顔を覆い、顔を背けた。

 その医者は近所に住んでおり、シェーカルのこともよく知っていた。薬の指示を紙に書いて、彼はシェーカルを連れて外に出た。ギリーンドラも表にやって来て、医者に診察代を払った。医者は立ち去ろうとするギリーンドラに言った。「絶対安静が必要だ。まだ病気は悪化していない。患者をどこかの保養地にでも連れて行くことができたらいいのだが。」

 医者が行った後、シェーカルとギリーンドラは中に入った。ラリターはギリーンドラに目線を送って自分のところに呼んだ。2人は互いに内緒話をし始めた。シェーカルは椅子に座って黙っており、グルチャラン氏の方を見ていた。グルチャラン氏の顔はこのとき壁の方を向いていたため、シェーカルが再び戻って来たことを彼は知らなかった。

 しばらく黙って座っていたシェーカルは退屈に思い、立ち上がった。ラリターとギリーンドラはまだ内緒話をしていた。シェーカルは誰とも何の話もしなかった。これがシェーカルに対する侮蔑でないとしたら他に何であろうか?

 今日、シェーカルは、ラリターが彼に過去に起こった出来事を全て忘れて欲しいと思っていると、完全に理解した。今や彼は何も恐れる必要はなかった。今や彼には何の責任もなかったし、彼女のことを考えて思い悩む必要もなかった。ラリターはおそらくそれら全ての束縛から彼を解放したのだ。部屋に戻り、背広を脱ぎながら、彼は何千回も考えていた――今ではギリーンドラがラリターの身内なのだ、ラリターの家族の唯一の支えもギリーンドラなのだ、そしてラリターの未来もギリーンドラの肩にかかっているのだ。オレは今やラリターの何でもないのだ。ラリターは何があろうとオレの機嫌を伺う必要はないのだ、オレと話すことすら望んでいないのだ。

 シェーカルは背広を脱ぐと、安楽椅子に座った。彼はまだ同じことを考えていた――ラリターはオレを見た途端、ヴェールで額を覆って顔を背けた、まるで赤の他人みたいに!オレの目の前でギリーンドラをそばに呼んで、ずっと話をしていた。シェーカルは、今や自分はラリターの何でもなく、ギリーンドラだけが彼女の身内なのだということを感じていた。

 ラリターのこのような振る舞いにシェーカルは非常に衝撃を受けた。シェーカルの心の中にあったラリターへの愛情は、徐々に憎悪に変わって行った。

 そしてシェーカルは、ギリーンドラとラリターの内緒話のことを考えた。もしかしてオレのことを内緒で話しているのではあるまいか!シェーカルはそう思うだけで恥ずかしくなった。しかし、彼は自分で自分を慰めて考えた――いや、そんなことはない、もし2人がその話をしていたなら、即座にその場は修羅場となって、オレは答えを出さなくてはならなくなっていただろう!

 突然部屋に母親がやって来る気配がして、シェーカルの思考は中断された。母親は言った。「シェーカル、お前、どうしたんだい!まだ手も顔も洗ってないじゃないかい。」

 「今からするところだよ」と言って、シェーカルは急いで下に降りた。シェーカルは母親に自分の悩みを悟られたくなかったため、すぐに顔を背けて下に降りたのだった。

 シェーカルはラリターのことを何日も何日も考えていた。そして心の中で自尊心から寂しさを募らせていた。それはシェーカルの間違いであり、過剰な点であった。彼は、全ての過ちの原因がどこにあるかを考えたことがなかった。あの日から今日まで、彼はラリターに対して一筋の希望の光も投げかけたことはなかった。ラリターはシェーカルと胸を開いていろいろな話をしようとしていたが、彼はその機会すら彼女に与えなかった。全ての罪を彼はラリターになすりつけていた。それでいて、彼は自分自身の暴力、怒り、自尊心に身もだえしていた。シェーカルだけでない、世界の全ての男性は、全ての罪を女性に一方的になすりつけているのだ。憐れな女性は、その全てを我慢しなければならない。男性は、自身の心の炎の中に女性を引き込んで灰にしてしまうと同時に、自分自身をも破滅させてしまう。男性は常に女性を動物のように弱い生き物だと見なしてきた。だから男性は傲慢と言っていいだろう。シェーカルは、男性がどれだけ高慢かつ傲慢かであるかを示す好例である。

 心の中で嫉妬の炎を燃やしながら、1週間が過ぎ去った。今日も事務所から帰って来ると、シェーカルは思考の炎の中に自分を燃やしていた。突然、ドアがノックされ、彼は目を覚ました。彼の心臓は動きを停止してしまった、なぜなら、アンナーカーリーと共にラリターが彼の部屋に入ってきて、床に敷かれた絨毯の上に座ったからだ。腰を下ろしたアンナーカーリーは言った。「シェーカル兄さん、私たちもう行っちゃうの。だから兄さんに挨拶しに来たのよ。」

 シェーカルは黙って彼女を見ていた。

 アンナーカーリーは言った。「兄さん、私たち、知らず知らずの内にいろいろ迷惑なことをしちゃったかもしれないけど、それを謝りたいの。」

 シェーカルはそのとき、これはアンナーカーリーではなく、他の誰かの口から発せられた言葉であると理解した。シェーカルは聞いた。「明日どこに行くんだい?」

 「西の方よ!お父さんをムンゲールに連れて行くの。そこにギリーンドラさんの家があるわ。私たち、お父さんがよくなっても戻って来ないわ。ここの空気や水はお父さんのためによくないの。」

 「お父さんの様子はどうかな?」

 「今はちょっとよくなったわ。」アンナーカーリーはそう言って、新しい服を見せて言った。「これ全部、おばさんがくれたのよ。」

 ラリターはずっと黙って座っていたが、ふと立ち上がって机のそばに立つと、鍵を取り出して机の上に置きながら言った。「これ、タンスの鍵、まだ私が持っていたわ。」そして少し微笑んで言った。「でも、少しのお金も残ってないわ。全部使っちゃったわ。」

 シェーカルは何も言わず、彼女の方を見ていた。

 アンナーカーリーはラリターに言った。「もう行きましょう、お姉ちゃん、だいぶ遅くなっちゃったわ。」

 ラリターが何かを言う前に、シェーカルはアンナーカーリーに言った。「アンナーカーリー、母さんのところに行って、パーン(噛みタバコ)を持って来ておくれ!」

 しかしラリターはアンナーカーリーが行くのを制止して言った。「お前はここにいて、私が行ってくるわ!」そう言って彼女は急いで下に行き、パーンを持って来て、シェーカルに渡すように言いながらアンナーカーリーに手渡した。

 パーンを受け取ったシェーカルは悲しい気持ちになった。まるで勝機がありながらも負けてしまった賭博師のように黙って座っていた。

 「じゃあ、もう行くわね。」こう言ってアンナーカーリーはシェーカルのそばに来て、彼の足を触ってプラナーム(最敬礼)したが、ラリターはその場で手を合わせて挨拶しただけだった。そして2人は立ち去ってしまった。

 シェーカルは気が抜けたように呆然と座っていた。ラリターがやって来て、話したいことを話して、行ってしまった。別れのときに、彼女はシェーカルに少しの機会も与えずにすぐに立ち去ってしまった。シェーカルは、狐につままれたように座り続けていた。まるでしゃべることを忘れてしまったかのように、何も話すことができなかった。シェーカルはラリターといろいろなことを話したかったが、その機会は手に入らなかった。アンナーカーリーを彼女はおそらく、そのことが話題に上ることを避けるために連れて来たのだろう。彼は心の中で考えた――おそらくラリターもその話をすることを望んでいないのだろう。過去の全てを忘れたいと思っているのだろう――このようなことを考えながら、糸の切れた凧のようにフラフラと立ち上がって、チャールパーイーに倒れ込んだ。彼の心は、ラリターのいない寂しさでいっぱいだった。今日のこの出来事により、彼の心はさらに悲しみで満たされることになった。

第11章

 約1年が過ぎ去った。グルチャラン氏の体調は、ムンゲールに行った後も快方に向かわず、とうとう危篤状態となってしまった。グルチャラン氏を心から尊敬していたギリーンドラは、彼の世話を精一杯していた。

 臨終のとき、グルチャラン氏はギリーンドラの手を掴んで強く頼んだ――皆のようにワシの家族を見捨てないでおくれ、お前とワシの父子のような関係を、本物のものにしておくれ、と。

 この言葉はつまり、グルチャラン氏が自分の娘をギリーンドラに嫁がせたいと望んでいることを示していた。

 グルチャラン氏はギリーンドラに言った。「たとえお前とワシの娘の結婚式を生きている内に見られないとしてもどうってことはない。あの世から喜んで見させてもらうよ。ギリーンドラ!どうかワシのこの最期の願いを忘れないでおくれ!」

 ギリーンドラは喜んでグルチャラン氏のこの望みを実現させることを誓った。

 ブヴァネーシュワリーは、カルカッタにあるグルチャラン氏の借家人たちによく彼の様子を伺っていた。グルチャラン氏が天国へ行ってしまったという知らせも彼らから聞いた。

 シェーカルの家でも不幸が起こった。突然、ナヴィーンラーイ氏がこの世を去ってしまったのだ。ブヴァネーシュワリーは深い悲しみに沈み、精神に異常をきたしてしまった。彼女は心を落ち着かせるため、家事を全て長男の嫁に任せ、カーシー(ヴァーラーナスィー)に旅立ってしまった。行く前に彼女は、「来年、シェーカルの結婚式のときは私に知らせること。私が帰って来て全てを取り仕切ります!」と言い残した。

 シェーカルの結婚は、ナヴィーンラーイ氏が亡くなる前に全て準備を整えていた。もう今頃には結婚式は済んでいるはずだったが、ナヴィーンラーイ氏の急死により1年延期されることになってしまった。しかし、花嫁側はもうこれ以上待つことを望まなかった。そのため、彼らは昨日話をしにやって来た。結婚式は今月に行われることになった。

 シェーカルは母親を迎えに行く準備をしていた。タンスから荷物を出して箱に詰めていると、彼はラリターのことを思い出した。このような仕事は全部ラリターがやっていたのだった。

 ラリターがいなくなってから3年ほどが過ぎ去っていた。その間、シェーカルは彼女の消息を全く知ることができなかった。彼は彼女の消息を知ろうとすらしなかった。まるで全く興味を失ってしまったかのようだった。彼はラリターを憎むようになっていたが、今日、彼の心に変化があり、ラリターがどうなったかを知りたくなった。ラリターは幸せに暮らしているだろうか、誰と結婚したのだろうか、結婚式は盛大に行われただろうか、そうではなかっただろうか、何か悲しいことはないだろうか――これらのことをシェーカルはどうしても知りたくなった。

 グルチャラン氏のカルカッタの家に住んでいた借家人は皆、家を去ってしまった。家は空き家になってしまっていた。シェーカルは、ギリーンドラの様子をチャールバーラーの父親に聞いてみようと思い立った。彼はしばらくの間、箱の中に衣服を詰め込む手を休め、窓から外を眺めていた。そのとき、家の召使いがやって来て彼を呼んだ。「お坊ちゃま!アンナーカーリーのお母さんが呼んでますよ。」

 シェーカルは召使いの方を振り返り、驚いて聞いた。「誰だ?アンナーカーリーのお母さん?」

 召使いはグルチャラン氏の家の方を指差して言った。「お隣のアンナーカーリーの家族が、昨夜戻って来たんです。」

 シェーカル「そうか、今行く!」そう言って彼は下に降りた。

 日は沈もうとしていた。シェーカルが家の中に入って来るのを見て、1人の女性が痛ましい声を上げて泣き出した。シェーカルはその不幸な未亡人――亡くなったグルチャラン氏の妻のそばに座った。彼女の悲痛な泣き声を聞いて、シェーカルの目にも涙が込み上げてきた。彼は腰布の端で涙を拭った。それは、ただグルチャラン氏を思い出しただけではなく、自分の父親のことも思い出して流した涙だった。

 日が沈んだ。ラリターがやって来て灯りを灯した。遠くから彼女はシェーカルに挨拶をし、少ししてからその場を立ち去った。シェーカルは、ラリターがもう誰かの妻になってしまったのだと悟った。だからシェーカルは、17歳の幼い人妻に視線を向けなかったし、堂々と話をする勇気もなかった。それでも、横目で一瞬だけ見た限りでは、ラリターはかなりやせ細ってしまったように見えた。

 未亡人が泣き終わった後に話したことは、以下のことだった――

 彼女は、自分の家を売って義理の息子と共にムンゲールに住みたいと考えていた。シェーカルの父親は、以前からこの家を買い取ろうとしていた。だから、もしシェーカルが適切な値段でこの家を買い上げてくれるなら、彼女にとってこれほど嬉しいことはない。なぜなら、少なくとも家は知り合いの手に委ねられるし、もはやこの家に何の未練もないからだ。さらには、いつかまたカルカッタに来たとき、数日泊まることのできる場所が残っているというのも大きな利点だ。

 それらの話を聞いたシェーカルは言った。「その件については母さんと相談しなくてはならないでしょう。しかし、それが実現できるように精一杯努力します。」

 涙を拭いながら、グルチャラン氏の妻は言った。「シェーカル、お前の母さんが戻って来るのかい?」

 シェーカル「今日中に私が母さんを迎えに行きます。」

 ラリターの叔母さんは、いろいろな話をひとつずつ聞いていった。シェーカルの結婚式はどこで行われるのか?ダウリー(持参金)に何がもらえるのか?いくらぐらいの装飾品が与えられるのか?ナヴィーンラーイ氏はいつ亡くなったのか?ブヴァネーシュワリーはどこにいるのか、元気にしているのか?これらの話を全て彼女はシェーカルから聞き出した。

 2人の会話が終わるまでに、夜空には月が輝いていた。ギリーンドラはこのとき下にやって来た。おそらく妹に会いに来たのだろう。グルチャラン氏の妻はシェーカルに聞いた。「シェーカル、お前は私の義理の息子を知っているかい?あの子のようないい婿はなかなかいないわよ!」

 シェーカルは言った。「間違いないでしょう。ギリーンドラさんとは何度も話をしたことがありますし、よく知っています。」こう言って、シェーカルは立ち上がって急いで立ち去ろうとした。しかし、彼は居間を出たところで立ち止まらざるをえなかった。

 ラリターがその深い闇の中で、扉のそばに立っていた。彼女は聞いた。「今日、お母さんを迎えに行くの?」

 「ああ!」

 「お母さんはとても落ち込んでしまったの?」

 「気が触れてしまうくらい落ち込んでいたよ。」

 「シェーカル兄さんは元気?」

 「元気さ。」そう言いながら、シェーカルは急いで立ち去った。

 シェーカルは恥じらいのあまり身震いした。ラリターのそばに立ったことにより、自分の身体が汚れてしまったと思っていた。

 家の中にやって来ると、彼は荷物を適当に詰め込んで箱を閉めた。列車が出発するまでまだ余裕があった。シェーカルは、ラリターとの思い出を全て焼き尽くしてしまいたかった。ラリターのことを思うと、全身が炎のように燃え上がるのだった。彼はラリターのことを忘れるために誓いまで立てた。彼は悲しみのあまり、心の中でラリターを罵った。ラリターに対して、心の中で「売奴女」などという罵声まで浴びせかけた。

 グルチャラン氏の妻は、会話中にこんなことを言った。「あまり幸せな結婚ではなかったから、誰も気配りすることができなかったの。ラリターはお前を呼ぶように言ったんだけどね。」ラリターのその傲慢な態度に、彼の全身に怒りが込み上げて来た。

第12章

 シェーカルは母親を連れて戻って来た。結婚式まであと10〜12日だった。

 ブヴァネーシュワリーが戻って来て2、3日経ったある日の朝、ラリターはブヴァネーシュワリーのそばに座って何かを箱に詰めていた。シェーカルはラリターが来ていることを知らなかった。だから、母親を呼びながら部屋の中に入って来たシェーカルは驚いてしまった。ラリターは顔を下に向けながらも仕事を続けていた。

 ブヴァネーシュワリーは言った。「どうしたんだい?」

 母親のところに来た理由を忘れてしまったシェーカルは、「いや、何でもない」と言ってそこから立ち去った。彼はラリターを直視することができなかったが、彼の視線は彼女の両手をかすめていた。彼女の両手にはガラス製の腕輪があった。シェーカルは乾いた微笑みと共に言った。「これは一種の偽善じゃないか!」彼は、ギリーンドラこそがラリターの夫だと思い込んでいた。彼は、既婚の女性が両手に既婚者用の金属製の腕輪を身に付けていないのを見て驚いたのだった。

 その日の夕方、シェーカルが急いで下の階に下りていると、ラリターが上に上って来た。途中で2人はお互いに気付いた。ラリターは片側に寄って道を開けたが、シェーカルがそばを通り過ぎようとすると、小さな声で言った。「言いたいことがあるの。」

 シェーカルは驚いて言った。「誰に?オレにか?」

 ラリター「ええ、兄さんに言いたいことがあるの!」

 シェーカル「オレに言いたいことがまだ何かあるのか?」

 ラリターは黙ってその場に留まっていたが、深い溜息をつくと、ゆっくりと立ち去った。

 次の日、シェーカルは居間で新聞を読んでいた。そのときふと顔を上げると、ギリーンドラがこちらへやって来るのが見えた。ギリーンドラは彼のそばに来ると、椅子に座った。シェーカルは挨拶して、新聞を置いた。そして、まるで彼がやって来た理由を探るように、彼をジロジロ見回した。しばらく2人は顔を見合わせているだけで何も言わなかった。今日まで2人ともこのことについて話をしようとしなかった。

 ギリーンドラは仕事の話を始めた。彼は言った。「今日はあなたに頼みごとがあって来ました。私の義母が望んでいることを、あなたも知っているはずです!義母は、あの家をあなたに売りたいと考えています。義母の伝言を伝えるために私はここに来ました。私はあの家のことをなるべく早く片付けて、ムンゲールに戻りたいと思っています。」

 ギリーンドラを見るや否や、シェーカルの心の中に激しい嵐が沸き起こった。ギリーンドラの言葉を彼はよく思わなかった。彼は怒って言った。「それはいいが、父さんが死んだ後は、兄さんが家のことを決めている。全ては兄さんの意向次第だ。兄さんのところに行って聞いてくれ!」

 ギリーンドラは微笑みながら言った。「それは私たちも知っています。でも、あなたの口からおっしゃっていただければ話が早いのですが!」

 怒りの収まらないシェーカルは言った。「お前の口からでも話は進むだろう!今ではお前があの家の責任者なんだからな!」

 ギリーンドラ「もし私が言う必要があるならば、私が言っています。しかし、昨日義姉さんが言っていました、あなたの協力を少しでも得ることができれば、全て解決したも同然だ、と。」

 シェーカルは大きな枕に寄りかかりながら話をしていたが、ギリーンドラのこの言葉を聞いた途端、驚いて立ち上がって言った。「誰が言ったって?何て言ったかもう一度言ってみろ?」

 ギリーンドラ「ラリター義姉さんが言っていました!」

 シェーカルは「ラリター義姉さん」という言葉を聞いて驚いてしまった。彼は、ギリーンドラの話をこれ以上聞くことができなかった。彼は好奇心と焦燥心の入り混じった顔をしてギリーンドラの方を見ながら言った。「ギリーンドラさん、ちょっと聞きますが、あなたはラリターと結婚したのではないんですか?」

 ギリーンドラは躊躇しながら答えた。「いいえ、あなたは家族の皆をご存知でしょう!アンナーカーリーと結婚しました・・・」

 ギリーンドラはラリターから何もかも聞いていた。彼は言った。「確かに最初はそんなはずではありませんでした。アンナーカーリーと結婚するつもりじゃなかったんです。グルチャランさんは亡くなる直前に私に対して、他の誰とも結婚するなとおっしゃいました。私もそのときグルチャランさんにそのように誓いました。グルチャランさんの亡くなった後、ラリター義姉さんは何もかも私に話してくれました。義姉さんは既に結婚していること、そして夫がまだ存命であることを。多分他の人だったらそんなことは信じてなかったでしょう、でも私はすぐに義姉さんの話を信じることができました。女性は2度結婚することはできないのです、そうでしょう?」

 シェーカルの目には既に涙が溢れていた。ギリーンドラのこの言葉を聞いて、彼の目からは涙がこぼれ落ちた。彼はもはや何も考えることができなかった。彼は、男が他人の前でこのように涙を流す恥すらも忘れていた。

 ギリーンドラの方をシェーカルは呆然と見つめていた。彼は前々から疑念を抱いていた。今日、彼はラリターの夫が誰であるかを知った。シェーカルは涙を拭いながら言った。「しかし、ギリーンドラさんもラリターを愛しているのでしょう?」

 ギリーンドラの顔に一瞬、悲しみの表情が浮かんだが、彼はすぐに気を持ち直し、笑って言った。「あなたの質問に答えるのは無意味です。どれだけ愛していても、誰かと結婚した女性と結婚することはできません!とにかく、いや、すみません、私は年上の人の前でこのようなことは話さないのですが。」

 ギリーンドラはもう一度笑って、立ち上がりながら言った。「それでは私は行きます。後で会いましょう。」こう言って彼はシェーカルに挨拶して立ち去った。

 シェーカルは前々からギリーンドラを嫌っていた。ラリターの結婚の件で、その嫌悪の感情は最高潮に達していた。しかし今日、シェーカルは、ギリーンドラが立ち去った後、彼が座っていた場所に何度も何度も頭を下げて敬意を表し続けた。人間なかなかここまで潔くなれないものだ、笑いながらこれほどつらい決断をすることができるとは!シェーカルは今日、人生で初めてそういう感情を感じた。

 昼下がり、ブヴァネーシュワリーは衣服を整理するのをラリターに手伝ってもらっていた。そのときシェーカルもそこに来て、母親のベッドに腰を下ろした。今日の彼は、ラリターを見ても逃げなかった。

 ブヴァネーシュワリーは彼の方を見て言った。「どうしたの、シェーカル?」

 シェーカルはしばらく何も答えずに衣服を見つめていたが、その後口を開いた。「母さん、何してるの?」

 ブヴァネーシュワリーは言った。「結婚式でどれだけ服が必要か、花嫁にどんな風に贈るか、準備しているところよ!もっと服を注文しないといけないでしょう。そう思うでしょ、ラリター?」

 ラリターは首を振って(肯定の仕草)答えた。

 シェーカルは微笑んで言った。「もしオレが結婚するのをやめたらどうする、母さん?」

 ブヴァネーシュワリーは笑って言った。「そんなことできると思ってるのかい?」

 シェーカル「じゃあそう思ってよ、母さん!」

 慌てた母親は言った。「何、縁起でもないこと言ってるの?こんなときにそんなこと言わないで!」

 シェーカル「オレ、今まで黙ってたけど、もう黙っていてもどうにもならない!何がどうなっても構わない。これ以上黙っていることはオレにとって不名誉でしかないよ、母さん!」

 ブヴァネーシュワリーはシェーカルの言葉の意味を理解することができなかった。彼女は悲哀に満ちた表情で息子を見た。

 シェーカルは言った。「母さん!母さんはオレのした過ちを全部許してくれたよね。あとひとつだけ許して欲しいんだ!オレはこの結婚をすることはできない。」

 シェーカルの言葉を聞いて、ブヴァネーシュワリーの焦燥感はいや増したが、それを顔に表さないように彼女は言った。「そうかい、シェーカル、分かったわ!今、私はとても忙しいの。」

 シェーカルは顔では笑いながら、それでいて真面目な声で言った。「オレは真剣に言ってるんだよ、母さん!オレはこの結婚を絶対にすることはできない!」

 ブヴァネーシュワリー「結婚は子供の遊びじゃないんだよ、シェーカル!」

 シェーカル「子供の遊びじゃないから、オレは母さんに何度も言ってるんだよ!」

 ブヴァネーシュワリーはとうとう頭にきて言った。「私に説明しなさい、一体どういうことなの?こんな冗談、私はちっとも面白くないし、理解することもできないわ!」

 シェーカルは小さな声で言った。「また別の日に言うよ、そのときは何もかも全部話すから、母さん!」

 「また別の日言う?」衣服を隅に押しやりながらブヴァネーシュワリーは言った。「私を今日中にカーシー(ヴァーラーナスィー)に送りなさい!もうこんな家に私は1分もいたくないわ。」

 シェーカルはうつむいてじっと座っていた。ブヴァネーシュワリーはとても厳しい口調で言った。「ラリターも私と一緒に行くわ!今からその許しをもらうところよ!」

 このときシェーカルは顔を上げ、少し笑って言った。「母さん、母さんがラリターを一緒に連れて行くなら、誰の許しをもらう必要もないよ。母さんの命令が全てなんだから!」

 シェーカルの笑みを見て、ブヴァネーシュワリーは驚いてしまった。そしてラリターの方を見て言った。「ラリター!この子の言ったこと聞いたでしょ!私がお前に何でも命令することができるし、お前を好きなところに連れて行けると思ってるみたいよ!お前の叔母さんの了承を得る必要があるってことをシェーカルは分かってないみたいだわ!」

 ラリターは黙っていた。だが、シェーカルの話と表情を見て、彼女は恥じらいのあまり地面の中に潜り込みたい気分だった。

 シェーカルは言った。「もし母さんがラリターの叔母さんに知らせたいなら、好きにすればいいよ。でも、母さんが言ったことが全部なんだ!何の疑いもない!それに、ラリターは母さんと一緒に行くことを絶対に拒否しないだろう。ラリターは母さんのものなんだ、この家の嫁なんだよ、母さん!」こう言ってシェーカルはうつむいた。

 ブヴァネーシュワリーは言葉を失ってしまった。腹を痛めて産んだ息子が、自分の前でこのような冗談を口にするとは!しかし彼女は平静を保ちながら言った。「何を言ってるんだい、シェーカル、ラリターが私のものだって?」

 シェーカルは顔を上げず、小さな声で言った。「母さん、本当のことだよ。それは今日の話じゃない、4年前の話なんだ!母さんはラリターの姑なんだ、ラリターは息子の妻なんだよ!オレはこれ以上言いたくない。ラリターに全部聞いてくれ!」こう言ってシェーカルはラリターを見ると、彼女は頭をヴェールで覆い、母親にプラナーム(目上の人の足に手や頭を触れる最敬礼)をしようとしていた。シェーカルも彼女のそばにやって来て立った。2人は祝福を得るために母親の前にひざまずいた。その後、シェーカルは1分もその場に留まっていることができず、急いで立ち去った。

 ブヴァネーシュワリーの喜びは果てしなかった。彼女の両目からは喜びの涙が溢れ出た。彼女はラリターのことを心から愛していた。本当の娘だと思っていたほどだった。彼女はラリターを優しくそばに寄せ、彼女の前に装飾品の箱を置いて開けた。彼女は瞬く間にラリターの全身を装飾品で飾り立てた。そしてラリターに言った。「だからギリーンドラはアンナーカーリーと結婚したの?」

 ラリターはうつむいて言った。「ええ、母さん!この世にギリーンドラさんのような素晴らしい人はいないわ。私があの人に全てを打ち明けたとき、すぐに信じてくれたわ。あの人は、私が既婚者だと理解してくれたの。私が、『この世に私の夫は生きているけど、私と結婚するのもしないのもあなたの自由です』と言ったら、ギリーンドラさんはそれ以上私に質問しようとしなかったわ。」

 ブヴァネーシュワリーは喜んだ。彼女はラリターの頭に手を置いて言った。「お前たち2人が長生きするように!それじゃあラリター、お前はここにいなさい!私は今からアヴィナーシュのところに行って、花嫁が変わったことを伝えるわ。」

 こう言って、ブヴァネーシュワリーは満面の笑みを浮かべながらアヴィナーシュの部屋の方へ向かった。ラリターは新妻のように頭にヴェールをかぶって腰を下ろした。


−完−

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