スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

禁忌編

装飾下

【10月16日〜10月31日】

10月16日(水) デリー帰還

 ラクナウー、ファイザーバード、アヨーディヤー、アラーハーバード、ヴァーラーナスィーと、ウッタル・プラデーシュ州の中央部を5日という短期間で旅行して来た。昨日の夕方には無事にデリー行きの夜行列車シヴ・ガンガー・エクスプレスに乗ることもでき、一安心。かなり疲れが溜まっていたので、寝台列車とはいえグッスリと眠ることができた。

 同じコンパートメントには、オリッサ出身デリー在住の家族が乗り合わせていた。偶然その家族は日本との関係が深く、親類の中には日本に数年留学し、デリー大学で日本語を教えている教授がいたり、お父さんは日本を旅行したこともあったりした。

 列車はガジアーバード方面からヤムナー河を渡り、デリー市街地へと入って行った。ちょうど旅の始めに僕が乗ったデリー・ラクナウー・シャターブディー・エクスプレスとすれ違った。なんか変な気分だ。過去の自分とすれ違った気になった。

 ニューデリー駅には朝8:00頃到着した。今回は旅行期間が短かったこともあり、デリーに帰りついたことに特別の感動もなかった。そそくさとパハール・ガンジ方面へ歩き、プリペイド・リクシャーで自宅まで帰った。

 今日から学校があったので、シャワーを浴びる間もなくまた家を出て学校へ向かった。特に身体は疲れていないつもりだったが、昼食を食べた後はさすがに眠気が襲ってきた。

 授業が終わった後、G.K.1のNブロック・マーケットにあるファブ・インディアへ直行した。今回の旅行で唯一失ってしまったもの、それがファブ・インディアで買ったお気に入りのクルターだった。金具にひっかけて破いてしまったのだ。同じのが欲しくて見に行ったら、サイズは一回り大きかったものの、同じデザインのものがあった。迷わず購入した。

10月17日(木) Japan Week迫る

 来週の月曜日から再来週の火曜日まで、つまり10月21日から29日まで、「Japan Week」というイベントが開催される。例の日印国交樹立50周年を記念したイベントの一貫だが、その中でも今回のが最大規模だ。いろいろな行事が一気に行われる。

 今年の4月にあった和太鼓の演奏がまたある。しかしグループは違う。前回は「YAMATO」というグループだったが、今回は「炎太鼓」というグループだ。前回の和太鼓が大好評だっただけに、おそらく今回も大成功を収めるのではないかと思う。少林寺拳法の演武や柔道の短期講習もあるそうだ。これらはどちらかというと「男」とか「動」に属するものである。どうもインド人は男っぽくてアクションがあるものが好きなので、これらはけっこういい線行くのではないだろうか?

 一方、「女」的で「静」に属する行事もある。書道、陶芸、生花、染物、琴、日本人形、日本画、折り紙、茶道などなどの展示、実演、演奏だ。別に悪くはないが、日本文化というと、今までどうもこちら方面の紹介が多すぎたような気がする。僕はもっとダイナミックな日本をどんどん見せたい派だ。空手、少林寺拳法、剣道、柔道などは絶対インド人に受けるだろう。極めつけは相撲だ。だが相撲も空手も少林寺拳法も、もともと起源はインドにあるらしいので、里帰りというか逆輸入に近いかもしれない。

 近藤房之助というブルース・ミュージシャンのコンサートや、「文殊の知恵熱」という謎のグループのパフォーマンスもある。日本人会婦人部のコーラス・グループ、コール・マユールのコンサートもある。けっこう盛りだくさんである。

 同時に日本映画祭も開催される。ところが上映作品をよく見てみると、先日行われたインド国際映画祭で上映された日本映画と全く同じだ。

●「東京マリーゴールド」(2001年、市川準監督、田中麗奈)
●「飢餓海峡」(1964年、内田吐夢監督、三国連太郎)
●「バウンス ko Gals」(1997年、原田眞人監督、佐藤仁美、役所興二)
●「ソナチネ」(1993年、北野武監督、ビートたけし)
●「おかあさん」(1952年、成瀬巳喜男監督、田中絹代)
●「カルメン純情す」(1952年、木下恵介監督、高峰秀子)
●「巨人と玩具」(1958年、増村保造監督、川口浩)
●「ハッシュ!」(2001年、橋口亮輔監督、田辺誠一、高橋和也)

 いろいろ行われるJapan Weekではあるが、僕はもしかしたらあまり参加できないかもしれない。まだ詳しいことは書けないが、来週ぐらいにラージャスターン州のアジメールへ行く予定がある。ただの観光旅行ではないので、予定は未定であるが。

10月18日(金) Students For Harmony

 JNUで夕方から外国人留学生による「Students For Harmony」という文化紹介ショーのようなものがあったので行ってみた。

 会場に着いた途端にとりあえず停電に。JNU中が真っ暗になってしまった。もちろんイベントも電気が来るまで開始延期となった。いかにもインドらしい、神頼みに等しい幕開けだった。

 電気は1時間後くらいになってやっと来て、すぐにイベントは始まった。まずはスーダン人による開始の儀式。ただ鳩を飛ばしただけで終わった。次にインド人の若者たちによるモダンなダンスがあった。その後はスリランカ人によるキャンディアン・ダンス、チベット人の踊り、カザフスタン人だかなんとかスタン人、イエメン人、エチオピア人、・・・とにかくいろんな国の人たちが、各国の伝統的なダンスを披露した。「Devdas」の「Kaahe Chhed Mohe」のダンスをインド人の女性がソロで踊ったりもしていた。日本人の学生も盆踊りを披露していたが、なぜか各自竹の棒を持って打ち合う、グジャラート州のダンディヤー・ダンスみたいなことをしていた。盆踊りであんなことしたかな・・・?

 JNUにはアジアやアフリカからの留学生が多い。今回のショーを見ると、インドが地理的にも、文化的にも、アジアとアフリカの中心地となっていることが分かる。そして、やはりインド文化の成熟度の高さを思い知らされる。インド古典芸能のレベルの高さに比べたら、周辺地域の芸能は子供の遊びの域だろう。それぞれにいいところはあるのだろうが、インドの芸能はちゃんと観客に魅せる工夫が成されている点で絶対的に優位に立っている。観客に訴えるものがあったのは、スリランカのキャンディアン・ダンスくらいだ。他の芸能は、基本的に踊っている人たちだけが楽しむような、輪になって踊るタイプの踊りだった。正直な感想、見ていて楽しいダンスとつまらないダンスがある。

 だが、その中でもエチオピア人やスーダン人などの、アフリカ人のダンスはよかった。まずみんな背が高いので、ステージで踊るととても映える。それに加えて音楽が自然と身体が動くようなリズムなので、観客も一緒になって楽しむことができる。スーダンはムスリム国家で、スーフィーの踊りを踊っていたが、はっきり言ってそのダンスはイスラーム教のものではなく、全くアフリカ土着のものに等しかった。南アジアや中東のイスラーム教しか知らなかったので、アフリカン・ムスリムは非常に興味深かった。う〜ん、まだまだ世界は広いな・・・。インド人もアフリカン・ダンスには一目置いているようで、アフリカのダンスが一番よかったと言う人が多かったみたいだ。

10月19日(土) Dil Vil Pyar Vyar

 実は来週の月、火とテストで、明日の午後は予定があるので、こんなことはしていられないのだが、来週アジメールに行くかもしれないので、今の内に映画を見ておこうと思って、昨日から封切られた新作映画「Dil Vil Pyar Vyar」を見にチャーナキャー・シネマへ行った。

 「Dil Vil Pyar Vyar」を直訳すると「心心愛愛」みたいな感じか。「いろんな心にいろんな愛」とでも訳せばいいだろう。ヒンディー語特有の言い回しで、言語学的に非常に興味深い。「チャーイ(茶)」と言うところを「チャーイ・ワーイ」、「カーナー(食べ物)」と言うところを「カーナー・ワーナー」と言うと、それぞれ「チャーイか何か」「食べ物か何か」みたいな意味になる。

 この映画の特徴は、まず主役級登場人物の多さにある。「Mohabbatein」や「Hum Saath-Saath Hain」みたいな感じだ。ずらっと書き連ねてみると、マダヴァン、ジミー・シェールギル、サンジャイ・スーリー、ラケーシュ・バーパト、ナムラター・シロードカル、リシター・バット、ソーナーリー・クルカルニー、バーヴナー・パニー。僕が知っているのは、タミル語映画界のスターであるマダヴァン、「Dil Hai Tumhara」に腹話術師役で出ていたジミー・シェールギル、「Agni Varsha」で出ていたソーナーリー・クルカルニーぐらいだ。はっきり言って、マダヴァン以外は新人か、それに近い人たちだ。マダヴァンでさえ、ヒンディー語映画界では新人の範疇に入っているかもしれない。つまりキャストはほぼ新人で固められた布陣ということになる。

 そして音楽は、インド映画音楽界の巨匠、R.D.ブルマンの過去の名作14曲のリミックスである。これもこの映画のひとつの特徴であり新しい試みだ。インド人にとって、どの曲も馴染みのある曲ばかりみたいだが、僕には「なんとなく聞いたことあるかも」ぐらいの曲だ。最近、過去の映画の翻案や、過去の映画音楽のリミックスが密かにボリウッドで流行しているが、全曲リミックスというのはこの映画が初めてだろう。「Dil Vil Pyar Vyar」の音楽CDは割と売れてるみたいだ。それにしても挿入歌14曲というのは、インド映画がいかに3時間あろうと、かなり多い。

 ストーリーは3組+1組(+2)のカップルの恋愛を中心に描かれる、非常にややこしく、固有名詞を覚えるのが大変な、それ以上に新人揃いの俳優の顔を覚えるのが大変な、インド映画通かつヒンディー語理解者にとってもストーリーを負うのがちょっとだけ難しい映画だった。




Dil Vil Pyar Vyar


Dil Vil Pyar Vyar
 クリシュ(マダヴァン)とラクシャー(ナムラター・シロードカル)は幸せな夫婦で、2人でミュージシャンを目指していた。2人で音楽活動を続けるうちに、ラクシャーの歌声が有名プロデューサーの耳に留まり、ラクシャーはCDデビューを果たす。最初の内はクリシュはラクシャーを一生懸命支えるが、ラクシャーが有名人になるにつれて苦悩し始める。妻だけ才能を認められ、たくさんのお金を稼ぎ、そして社会に認知されていく。その一方で自分は・・・。クリシュは次第にラクシャーに冷たくあたるようになり、CD会社へ行って自分を売り込むが、採用されない。しかもラクシャーの夫であることが分かるとCD会社の態度が急変することにも嫌気がさした。やがてラクシャーは家を出てしまい、クリシュは1人苦悩のどん底に落ちる。そんなとき、優勝賞金500万ルピーのボーカル・コンテストが開催される。

 リティク(ジミー・シェールギル)は大金持ちの家の御曹司で、働きもせずにブラブラと過ごしていた。そんなとき偶然、ジョー・ジョー(リシター・バット)という女の子と出会い、一目惚れする。リティクはジョー・ジョーに言い寄る。ジョー・ジョーは貧しい家の娘だったが、考え方はしっかりしていた。結婚を迫るリティクにジョー・ジョーは言う。「あなたが自分でお金を稼げるようになったら結婚するわ」しかしリティクはどうやって働いていいのか分からず、困惑する。そんなとき知ったのが、優勝賞金500万ルピーのボーカル・コンテストだった。

 デーヴ(サンジャイ・スーリー)は1年前に妻パーヤルを亡くし、その悲しみをひきずっている男だった。妹のラチュナー(バーヴナー・パニー)と共に住んでいた。彼らの近くにガウリー(ソーナーリー・クルカルニー)という女性が弟と共に住んでいた。彼女の弟ガウラヴ(ラーケーシュ・バパト)は、車椅子生活をしており、彼もまた過去の悲しい出来事のために精神を病み、一言もしゃべろうとしなかった。ガウラヴは音楽の才能に溢れた若者だったが、恋人のプリヤーと一緒にバイクで調子に乗って走行中に事故に遭い、プリヤーは即死、ガウラヴは両足を怪我して歩けなくなってしまったのだった。プリヤーの命日にガウラヴは自殺をはかり、病院に運ばれる。手術の間、心配するガウリーをデーヴは勇気付ける。デーヴとガウリーはいつの間にかお互いに惹かれあっていたのだった。また、ラチュナーもガウラヴに対して恋心を抱いており、一命を取り留めたガウラヴの看病をする。ある日デーヴはガウリーにプロポーズをするが、ガウリーはガウラヴの足が治るまでは結婚しないことを打ち明ける。ガウラヴの足の手術のためには大金が必要だった。そして何より必要だったのが、ガウラヴ自身の、再び歩き出そうという強い気持ちだった。デーヴは優勝賞金500万ルピーのボーカル・コンテストの看板を見て参加を決意する。

 こうしてクリシュ、リティクそしてデーヴの3人は、同じ舞台に競技者として立つことになった。この3人は既にお互い何度か顔を合わせて知り合っており、友達になっていたのだが、お互い譲れない。それぞれ背景は異なるが、3人に共通していたのが、自分のためではなく、誰か愛する者のために歌うという姿勢だった。3人は精一杯心を込めて歌う。リティクが歌っているときにジョー・ジョーが会場に駆けつけ、クリシュが歌っているときにラクシャーが駆けつけた。

 結局優勝はクリシュとなった。しかしクリシュはラクシャーを取り戻しており、賞金の必要はなかった。クリシュはその賞金をデーヴに渡す。会場でデーヴが歌うのを見ていたガウラヴは感動し、突然歩き出す。リティクとジョー・ジョーも無事ゴール・インすることができた。こうして3組のカップルはめでたく結ばれたのだった。

 クリシュとラクシャー、リティクとジョー・ジョー、デーヴとガウリーの3組のカップルの恋愛模様が中心となり、その他ガウラヴとラチュナーの恋愛が少しだけ描かれ、またデーヴの過去の妻パーヤル、ガウラヴの過去の恋人プリヤーも回想シーンでだけ登場し、つまり3組+1組(+2)という、非常にややこしい構成の筋だったが、別に三角関係などはなかったので、全て恋愛は平行線を保って展開しており、俳優の顔を一生懸命記憶しておきさえすれば、話は大体理解できると思われる。これで三角関係が入ったら、3時間映画じゃなくて、テレビ・ドラマになってしまう。

 オムニバス形式の映画だったので、どうしても各小話はこじんまりとしてしまっていた。また、三角関係まで行かないにしても、それぞれのカップルの恋愛に、他のカップルの恋愛が絡んで来ることがあまりなかったため、最後で無理矢理3つの話をひとつにまとめたような印象を受けてしまった。こういうストーリーは難しいよな・・・。しかし見終わった後に満腹感はあった。ちょうどインドの定食料理ターリーを食べた後の気分だ。各料理はまあまあなんだけど、お腹いっぱいになったからいいや、みたいな感じだ。

 果たして映画中に14曲も挿入歌が使われていたかカウントしていなかったが、しかしそれでもミュージカル・シーンの多い映画だった。序盤はミュージカル・シーンの間にストーリーが入っているような感じだった。それだけに各ミュージカル・シーンは短め。

 ヒンディー語が分からなかった頃、ヒンディー語映画を見る際のミュージカル・シーンの位置づけは、言わば脳みその休憩時間だった。ストーリー部分では何を言っているかよく分からず、表情やジェスチャーからなんとか筋を追おうと必死になっており、非常に疲れるのだが、ミュージカル・シーンなら言葉が分からなくても気楽に楽しむことができる。大体ヒンディー語が分かるようになった今でも、僕にとってミュージカル・シーンは休憩時間だ。はっきり言って歌で何を言っているのかはあまり聞いていない。脳を聴き取りモードにすれば、聴き取ることは可能なのだが、それよりも視覚に重点を置いて、ダンスをまず楽しみ、音楽は歌詞ではなくメロディーやリズムだけを楽しむようにしている。インド映画を初めて見た人は「なぜ途中で突然歌って踊り出すのか?」という疑問を必ず抱くみたいだが、僕にとって既に映画にミュージカル&ダンス・シーンは必要不可欠のもののように思われてきてしまっている。

 だが、この「Dil Vil Pyar Vyar」はミュージカル・シーンが多すぎた。僕に言わせれば休憩時間が多すぎた。まるで鈍行列車か鈍行バスに乗っているかのようだった。ちょうど先日旅行したウッタル・プラデーシュ州のバス移動が思い起こされてきた。あまりミュージカル・シーンが多すぎるというのもよくないな、と思った。

 出てくる俳優の数も多すぎたので、それぞれの印象が薄い。マダヴァンはさすがに重みのある演技をしていたが、御曹司役を演じたジミー・シェールギルにしてもあまり好きになれない顔をしているし、サンジャイ・スーリーも典型的なスター顔ではなく、どちらかというと悪役か脇役顔だ。女優陣に至っては全く個性がない。特別美人でもなく、かといってブスでもない、という、いわゆる「モーニング娘。」タイプの女優ばかりが出ていた。しかも最近のインドの流行と趣向を反映してか、みんな細身の女性ばかり。ぽっちゃりタイプの女優が幅を利かせていた時代は、少なくともヒンディー語映画界ではもう終了したのだろう。今になって思うと、少しふくよかな方がスクリーン上で迫力があってよかったな・・・。アイシュワリヤー・ラーイぐらいの美貌があれば、痩せていてもグッと惹き付けるものがあるのだが・・・。




マダヴァン(左)と
ナムラター・シロードカル(右)


リシター・バット(左)と
ジミー・シェールギル(右)


ソーナーリー・クルカルニー(左)と
サンジャイ・スーリー(右)


バーヴナー・パニー(左)と
ラーケーシュ・バパト(右)


 大物スターが出ているわけでもなく、ストーリーが特別優れていたわけでもないのだが、なぜか映画館の盛り上がりはすごかった。よく分からないシーンでピーピー口笛が鳴ったりしていた。やはり過去の名曲のリミックスが多く使われていたため、観客も乗りやすかった、という理由もあるかもしれない。だが、おそらくはちょうどノリのいい若者連中が集団で見に来ていただけなんだろう。

10月20日(日) コンノート・プレイスNブロック

 現在デリーで密かにホットなのが、いや、個人的にホットなのが、コンノート・プレイスNブロックの外円地帯である。ここは数ヶ月前まで特に何の見所もないような場所だったのだが、いつの間にかたくさん店が開店した。

 まず、デリーの喫茶店チェーンの両巨頭である、バリスタとコーヒー・デイが、ほぼ軒を連ねる形で並んで立っている。バリスタは最近メニューが変わって、また一層選ぶのが難しくなった。平均コーヒー1杯40ルピー前後なのだが、最高級になると1杯70ルピーもするコーヒーもある。僕はコーヒーのことは全然分からないので、新手のぼったくりのように思えてならない。コーヒー・デイはバリスタの廉価版みたいな感じだ。

 そのバリスタとコーヒー・デイの間に挟まれて、バナナ・リーフという南インド料理レストランが新装開店した。ここは現在密かに通いつめて味を調べているところだ。僕はデリーで一番おいしい南インド料理レストランは、ムニルカーにあるウドゥピだと思っているのだが、このバナナ・リーフももしかしたらいい線いってるかもしれない。僕の大好きなバター・マサーラー・ドーサーの味はウドゥピの勝ちなのだが、バナナ・リーフのメニューにはけっこうオリジナリティーがあり、この前は「Green Dosa(45ルピー)」というのを食べたらけっこうおいしかった。ターリーも悪くなかった。店の雰囲気も清潔かつフレンドリーで、かかっている音楽もセンスがいい。

 そのバナナ・リーフの向い側、シンディア・ハウス(Scindia House)にモモ・ベレというモモ専門店もオープンした。チベット風餃子であるモモを、ファスト・フード感覚で提供しており、着眼点がいい。チキン・モモ、マトン・モモ、ヴェジ・モモ、ポーク・モモの4種類があり、スティームかフライかを選べる上に、アーリヤ風かモンゴル風かも選べる。アーリヤ風というのはつまりインド風で、微妙にスパイシー。モンゴル風は中国風で、マイルドな味。僕はデリーでもっともおいしいモモを出す店は、チャーナキャー・シネマの前にあるチベット料理店街の、一番映画館に近い店だと思っているので、そことモモ・ベレのモモを比べてみる。

 まず1皿に盛られるモモの数はチャーナキャーが8個、モモ・ベレが10個でモモ・ベレの勝ち。しかし1つ1つの大きさはチャーナキャーの方が大きい。味はどちらもおいしいので甲乙つけがたい。値段はチャーナキャーの方がチキン・スティーム・モモで45ルピー、モモ・ベレはチキン・アーリヤ・スティームで60ルピー。店の清潔度は断然モモ・ベレの勝ち。しかし何と言ってもモモ・ベレの優れた点は2つある。まず、タレがおいしいこと。何でできてるタレか僕は味オンチなのでよく分からないが、とにかく最後までなめたくなるほどおいしい。チャーナキャーの方はインド風醤油をつけて食べるしかないので、タレに関してはモモ・ベレに軍配があがる。そしてモモ・ベレではなんと日本風の緑茶を飲むことができる。15ルピー。やはり日本人にとって、お茶と一緒に餃子を食べることができるのは至福の瞬間だ。お茶の味は大したことないが、メニューにあると思うだけで感謝の気持ちでいっぱいになる。また、セット・メニューも用意されている。

 急に発展したコンノート・プレイスNブロックだが、欠点もある。なぜかこの辺りには、あまり人相の良くない、観光客をカモにしてそうなカシュミール人がウロウロしており、旅行者に気軽にオススメできる場所ではない。僕は既に彼らと顔見知りになってしまったが、話せば話すほど怪しい連中だ。旅行者を半ば強引にシュリーナガルへ送っていると思われる。僕はシュリーナガルへ自ら望んで行った男としてカシュミール人から一目置かれているところがある。本当にシュリーナガルへ行っておいてよかった。そして無事帰ってこれてよかった。

 ついでに書いておくと、最近コンノート・プレイスで郷愁を誘うのが、かつて旅行者の間で猛威を振るった耳かきワーラーたちである。彼らの仕事場だったセントラル・パークは、現在デリー・メトロ工事のために立入禁止となってしまい、耳かきワーラーたちはコンノート・プレイス中をふらふらと徘徊している。特にオデオンやプラザなどの映画館の前にぼんやりと佇んでいることが多い。彼らは皆、赤い帽子をかぶっているのですぐに分かる。耳かきワーラーちなみに両耳掃除してもらって5ルピーが正しい値段だと思う。

10月21日(月) テストを受ける?与える?

 今日からInternal Assesment、つまり中間テストがある。ところが何のテストがいつあるのか、ほとんど明らかになっておらず、生徒たちは大いに困惑していた。僕はもうサンスターン2年目なのであまり驚かなかったが・・・。結局今日は、会話とライティングの授業だけテストがあった。

 ところで、ヒンディー語で「テストを受ける」を「パリークシャー・デーナー」という。「パリークシャー」とは「テスト、試験、試練」などを意味し、「デーナー」は「与える」を意味する。つまり、「テストを与える」という意味になる。生徒がテストを「与える」のだ。一方、先生は「パリークシャー・レーナー」、つまり「テストを受ける」ということになる。日本では「受験」という言葉が示す通り、学生にとって試験というのは「受ける」もので、受け身のものだ。だが、インドでは学生が試験を与える、つまり「試験官に答案用紙を提出する」ということだと思うが、学生側が主体となっている。

 はっきり言ってインドでも受験戦争はかなり過熱している。もしかしたら日本よりも激しいかもしれない。カースト制度という身分の差が一方であるが、他方で学歴社会の上下関係もある。だいたいカーストの高さと学歴の高さは比例するのだが、インドではアーンベードカル博士のように、昔から不可殖民出身の人が学歴の力で偉業を成し遂げた例もあり、カースト制度を自力で克服するのに高学歴は必須となっている。高カーストの人々にとっても、高学歴はステータスというよりも必須項目であり、低カーストの人々にとっても志高い人は学歴の階段を頂点まで上りつめる努力をする。

 だから、インドの受験戦争は本当の意味で受験戦争ではないのだ。ヒンディー語の「パリークシャー・デーナー」に象徴されるように、試験は学生が与えるものなのだ。学生が積極的に参加していくものなのだ。日本のように、受け身で悲壮感あふれる戦争ではない。受験戦争というと、まるで太平洋戦争時代の、徴兵されて強制的に兵隊にされていく若者のようだ。インドでは違う。イギリス植民地時代のフリーダム・ファイターのように、自ら命を理想のために投げ出して戦いを挑む勇ましい雰囲気だ。直訳して与験戦争と言ってもいいだろう。

 ・・・と、全てのインド人の学生たちが実際にこう考えて勉強しているのかは知らないが、「勉強しないといい職に就けない」という焦りは、どのインド人からも感じられる。だからインド人は、やたらと実用的な学問をしたがる。コンピューター、経済、法律、医学などなど・・・。僕のように、ヒンディー語を学んでいる外国人は、全く無意味なことをしているように見られることが多い。僕がインド人にされて一番困る質問は、「ヒンディー語を学んで何の得になるんだ?」だ。初対面のインド人から、ほぼ100%に近い割合でこの質問をされる。

 この質問の意味は2つある。ひとつは、生まれてからヒンディー語をしゃべっていて、ヒンディー語を改めて学ぶということの意味がよく分からない人がする質問。だいたい田舎の無教養なインド人がその意味で質問してくることが多い。それなら逆に答えようがあるのだが、やはり「ヒンディー語なんて勉強しても将来何の役にも立たないだろう」という意味で質問してくる人に対して、納得いく答えを返すのは難しい。冗談で軽く受け流したいときは、「君と話すためさ」とか言うが、説教気味に「学問に上下はない。どの学問が得で、どの学問が損などと考えてはならない」とか答えたり、「インドの文化に興味がある。文化と言語は表裏一体。文化を理解するには言語を理解しなければならない」ともっともらしく答えてみたり、「ヒンディー語だけじゃなくて、サンスクリト語、タミル語やベンガリー語も勉強してみたい」と相手をさらに混乱させたりすることもある。実際のところ、身に付いたヒンディー語が僕の将来を安泰にするとは考えていない。でもヒンディー語を勉強していることに好感を持ってくれるインド人も多いし、ヒンディー語が分からずにインドに関することをしている人に比べたら圧倒的に有利な立場にいることは確かなので、別に損なことをしてるとは思っていない。インドは英語がなまじっか通じてしまうので、英語ができればインドのことが分かると思っている人が多いが、それが大きな間違いであることは僕の目からは火を見るよりも明らかだ。インドの一番おいしい部分は現地語で食べなければ味わえない。

 また、僕はヒンディー語の「マイナーなのにメジャー、メジャーなのにマイナー」という微妙な立場が好きだ。世界有数の話者人口を誇る言語なのは確実だし、ヒンディー語映画を楽しめるという豪華特典付きだし、多くの日本人は気付いていないが、インド文化は日本文化と絶対に深い部分でつながっている部分があり、ヒンディー語を学び、インド文化に触れるたびに僕は自分のDNAを解析されていくような気分になる。

 しかし、インドの底知れない深さに時々怖くなることもある。今までインドに人生をつぎこんだ日本人に数人会ってきた。そういう人々を見るたび、インドは一生を懸けるに足る国であると実感する一方で、1人の人間の一生ごときで何とかなる国ではないことも思い知らされ、果てしない恐怖を感じる。「インドは分かった」と言える瞬間が一生やって来ないかもしれない、というか、やって来ないだろう。よくインドを1、2回旅行しただけで「インドは分かった」ような顔をしている人がいるが、そういう人の語るインドは取るに足らないことが多い。逆にインドに何十回も来ていて、それでいて「インドは分からない」と言っている人の言葉はズッシリと来る。

 話を元に戻すが、とにかくインド人は「学生が試験を与える」のである。聞くところによると、アメリカの大学で優秀な成績を収めるのは大半がインド人だという。そういえば英語でも「試験を受ける」は「take an examination」などで、受け身である。フランス語を聞いてみると、「have」や「pass」に当たる動詞を試験と一緒に使うそうで、やはり受け身のイメージがある。他の言語でも多分試験は受け身のものであることが多いと思われる。それらを総じて考えてみると、インド人が優秀な成績を収めるのは、どうも「試験を与える」という積極的態度にあるのではないか。

10月22日(火) 蛇足

 今日もテストがあった。

 インドのテストは日本のテストとどうも感覚が違う。これは去年から薄々感じていたことだったが、今回のテストでかなり実感となった。インドのテストはとにかく書けばいいのだ。知っていることを書いて書いて書きまくればいいのだ。

 日本には「蛇足」という言葉がある。無用なものを無闇に付け足すことへの戒めである。大学受験生だったときも、この「蛇足」はなるべく避けるように訓練されたのを覚えている。まず問題をよく読み、何を問われているのかを理解し、問われている内容だけを簡潔にかつポイントを抑えて書くことが重要であると教えられた。そもそも、日本の試験問題は文字数が決まっていることが多く、要旨をまとめて書く能力がないと非常に辛い。

 だがインドは違う。「蛇足」にあたることでも、全く関係ないことでも、とにかく知っていることを書きまくれば高得点がもらえるみたいなのだ。

 例えばこんな問題があった。

「ヒンディー語文学が始まったのは何世紀と言われていますか?」

 問題文は「何世紀」か聞いている。日本の感覚で考えたら当然「○世紀」で答えないと間違いになる。僕は「11世紀」と書こうとした。しかし、ふと「なるべく多く書いた方がいい」と考え、問題文の反復になるが、「ヒンディー語文学が始まったのは11世紀であると言われている」と書いた。別にこれで問題はなかった。

 しかし先生が言うには、これよりもっといい答えがあるという。「ヒンディー語文学が始まったのは1050年からで、この時期は『アーディ・カール』と呼ばれ、1375年まで続いた」と書くと最良らしい。さらにもっと知っていることを付け加えていくと、さらに高得点になるそうだ。

 「何世紀?」と聞かれて「○○年」と答えたら、普通間違いではないのか?でも世紀で答えるより、正確な年数で答える方が、知識の質は高いことは確かだ。インドではおそらく問題文はひとつのきっかけを与えるに過ぎず、テストとはそのきっかけを利用して受験者が頭の中に詰め込んだ知識を披露する場なのだろう。昨日書いた「学生が試験を受ける」ではなく「学生が試験を与える」の心構えだ。

10月23日(水) アナンニャ

 カタック・ダンスの巨匠パンディット・ビルジュー・マハーラージがプラーナー・キラー(オールド・フォート)で踊るというので、夕方から見に行った。イベント名は「アナンニャ」。「唯一の、ふたつとない、ユニークな」みたいな意味だ。

 7時から開演の予定だったが、僕はプラーナー・キラーに6時に着いてしまった。一応外に「アナンニャ」の看板が出ていたので、情報はガセではないようだ。とりあえずプラーナー・キラーのどこで行われるか確かめてみるため、中に入ってみた。プラーナー・キラーは遺跡というよりは、崩れかけた巨大な城壁に囲まれた公園という感じだ。昔一度来たことがあるので、特に目新しいものもない。僕がプラーナー・キラーに着いた頃から急に辺りが暗くなり、肌寒くなって来た。最近デリーは急に寒くなった。夜は長袖が必要なくらいだ。




夜のプラーナー・キラー


 プラーナー・キラーの中でも「これぞプラーナー・キラー」みたいな、もっとも有名な門の前に舞台が作られていた。この門をバックに野外で踊るというわけか。もちろん門はライトアップされており、崩れかけた門が夕闇の中で幻想的に浮かび上がっていた。しかしまだ開演時間まで時間があったので、全然人は来ていなかった。テレビ局の人がチラホラいたぐらいだ。僕は1人椅子に座って、舞台の上で行われているタブラーやスィタール奏者たちの音合わせを見ていた。蚊が多いな、と思っていた瞬間、突然辺りに白いスモッグが立ち込めた。殺虫剤だ。または不殺生の国インドのこと、虫除け剤かもしれない。しかしとにかく人がいるところにそんなもの突然噴きかけるなっつ〜の。見ると白い霧を噴射する機械が取り付けられた自転車が会場の周りをグルッと巡っている。ベトナム戦争を思い出してしまった。

 次第に客席が埋まってきた。やはり来るのはハイソな人々ばかりだ。やはり暇そうな奥様方が多く、だんだんマダムの園の中にいるかのようになって来た。見ると手には皆、案内状みたいなものを持っている。どうやら何かパスが必要だったみたいだが、僕は1時間前に来たおかげでチェックされなかった。早く来ておいてよかった。

 予定より少し遅れてイベントは始まった。まずはビルジュー・マハーラージの愛弟子と思われる女の子がソロ・ダンスを披露し、集団ダンスがあったあと、遂に大御所ビルジュー・マハーラージ登場。実は僕は彼のダンスをちゃんと見るのは初めてだ。以前歌を歌っているところは見たことがあるのだが。

 ビルジュー・マハーラージが舞台に上がると自然と拍手が沸き起こる。ビルジュー・マハーラージは、外見はいかにも「おっさん」という言葉がピッタリのおっさんで、用務員とか列車の車掌とかやってそうだが、非常に有名な人物である。舞台の中央にはマイクが置かれ、彼はカタック・ダンスというよりもインド舞踊全般に通じる哲学から、簡単な言葉で説明し始めた。そして音楽に合わせて、説明したことを実践して踊ってみせた。やはり言葉で説明してもらうと、踊りの楽しみ方がよく分かる。「足首に着けたグングルー(鈴)は女の音、タブラーの音は男の音。女の後を男が追いかける。女は木の陰に隠れる。男は追いかける。女は逃げる。最後に男は女の手首を掴む」とか説明して、その踊りをグングルーのシャンシャンという鈴の音とタブラーのドゥンドゥンという音の掛け合いで踊って見せたりする。また、上半身はパントマイムのように、また落語のように、感情や物語をジェスチャーで表現する。さすが大御所と言われるだけあって、迫真の演技、絶妙のリズム感、そして生きた伝統としてのオーラが漂っていた。しかしビルジュー・マハーラージが踊ったのはその演目だけで、後は弟子たちが踊りを踊り、彼自身は演奏の指揮と、歌や太鼓を担当していた。




パンディト・ビルジュー・マハーラージ


弟子たちの踊り


 ビルジュー・マハーラージの弟子で、日本人カタック・ダンサーの佐藤雅子さんもインド人ダンサーに混じって数演目出演しており、活躍していた。別に日本人だからと言って特別扱いされているわけでもなく、普通にインド人と肩を並べてこういうイベントに出演しているのだからすごい。

 プラーナー・キラーの幻想的な門をバックに、美しい衣装を身にまとった踊り子たちのダンスを見ていると、まるでムガル朝時代にタイム・スリップしてしまったかのように感じた。遺跡で伝統芸能を見るというのは、なかなか興があってよい。この「アナンニャ」は今日から1週間続き、この後カタカリ、オリッシー、マニプリー、バラタナーティヤムなど各インド伝統舞踊の巨匠が登場する。全部見てみたい気もするが、残念ながら僕は明日からアジメールへ行ってしまうので見ることができない。しかし少なくとも今日、ビルジュー・マハーラージの踊りだけでも見れてよかった。これから冬になるにつれて、こういうインドの文化に触れることのできるイベントが増えるので楽しみだ。

10月24日(木) アジメールへ

 朝6:10、アジメール行きのシャターブディー・エクスプレスはゆっくりと動き出した。僕はプロ写真家の石川武志さん、そしてアマチュア写真家のNさんと共に、車内に座っていた。いつも旅行をいざ始めるときに感じるワクワク感とはどこか違う、不思議な感覚のまま・・・。今回はアジメールに最大1週間滞在し、ヒジュラーの取材をする。

 インドにはヒジュラーと呼ばれる人々がいる。ヒジュラーと聞いてピンと来る日本人は少ないかもしれない。例えインドを旅行した経験があったとしても。しかしヒジュラーについて一度知ってしまえば、その印象は強烈に残るだろう。そしてその印象は大概、驚きと嫌悪感と共に刻まれるだろう。

 ヒジュラーとは一般に両性具有者と考えられている。男性器と女性器を併せ持って生まれてきた人が、ヒジュラーと呼ばれる一種のカーストに組み込まれると一般に言われている。だが、実際は男から女に性転換した人がほとんどである。つまり男性器を切除した人たちだ。ヒジュラーは女性用の衣装であるサーリーを着て、女物のアクセサリーを身に付け、化粧をしている。見た目は男の面影を存分に残していることが多く、一度「これがヒジュラーか」と認識してしまえば、すぐに見分けが付く。ヒジュラーの仕事はめでたい行事を祝うこと。子供が生まれたときや、結婚式など、めでたいことのあった家庭へ行ってダンスを踊ったりしてお金をもらう。しかしその方法は極めて強引であることが多く、金額も目の玉が飛び出るほど高額なので、前文の書き方は正しくない。「ヒジュラーは子供が生まれたときや、結婚式など、めでたいことのあった家庭へ押しかけて、無理矢理ダンスを踊ったりして多額の布施を強奪する。」こう書いた方がより真実に近いだろう。ヒジュラーは不思議な力を持っていると信じられているため、インド人はヒジュラーたちを決してないがしろにしたりしない。また、大道芸人や乞食のようにマーケットや列車の中で急に歌を歌ったり踊りを踊ったりして、お金を乞うこともあるし、売春をして稼ぐこともある。とにかくこれらのことから、ヒジュラーは一般のインド人にとってはっきり言って嫌な存在、タブーなのだ。「ヒジュラー」という言葉を聞いただけで、インド人は苦笑したり、顔をしかめたりする。

 日本において、そのヒジュラー研究の第一人者なのが、写真家の石川武志さんだ。世界にヒジュラーの研究論文はいくつかあるそうだが、写真家としての立場から、豊富な写真と共にヒジュラーを紹介し、研究してあるのは、石川さんの著書「ヒジュラ インド第3の性」(青弓社)くらいである。

 現在石川さんはヒジュラー調査のためにインドに来ている。今回の目的は、アジメールのヒジュラーにインタビューすること。石川さんはヒンディー語ができず、ヒジュラーは英語ができないので、通訳が必要だった。だが、ヒジュラーはインド人にとってタブーの部分であるため、インド人通訳に仕事を依頼することは難しかった。また、そもそもインド人で日本語が堪能な人はデリーにもパハール・ガンジなどを中心に腐るほどいるわけだが、学術調査などでインド人に通訳を頼むと、せっかく調べた情報を金目当てで他の人に横流ししてしまうことが多いらしく、信頼できないらしい。というわけで、デリー在住の日本人でヒンディー語が一応分かる、僕にその仕事が廻ってきた。ちゃんと仕事を完遂できるか自信がなかったが、僕以外に頼めそうな人がいなかったし、いい経験になると思ったので引き受けた。

 さすがにインドに1年滞在しているので、僕もヒジュラーに遭遇したことは何度かある。一番初めにヒジュラーを見たのは確かデリーのインド門だった。インド門のスケッチをしているときにやって来て、何やら僕にしゃべりかけてきた覚えがある。その後、街中、列車の中、結婚式などでチラッと見かけたことがあったが、彼ら(彼女らと書くべきか)と腰を落ち着けて話すような機会はなかった。

 別にアジメールがヒジュラーの名産地であるというわけでもないらしい。基本的にヒジュラーはインド全土に分布しており、都市であっても町であっても村であっても何らかの形で存在する。石川さんが各地のヒジュラーを訪ねて廻った結果、アジメールのヒジュラーが「地方都市におけるヒジュラー」の代表に適していると判断し、中心的に調査・撮影を重ねてきたそうだ。田舎のヒジュラーは都会のヒジュラーよりも古い伝統を残しているらしく、ヤクザまがいの行為もあまりしないようで、ヒジュラーの中では比較的付き合いやすい連中らしい。また、ラージャスターン州のヒジュラーは原色のサーリーに身を包んでおり、アクセサリーも派手なので、写真家の目には特に魅力的に映るらしい。

 というわけで、今日は朝4時起きでニューデリー駅に向かい、6:10発のシャターブディー・エクスプレスに乗っていたのだった。僕が通常の旅行と違う気分になっていた理由は3つ。1つは通訳という仕事のために旅行をすること。1つはあまりいい噂を聞かないヒジュラーたちと接触すること。もう1つは、1箇所に長期滞在する旅行は稀なことである。石川さんは今回の旅行でヒジュラー調査を一段落させる意思を固めており、自然と表情に緊張感があった。アマチュア写真家のNさんは、石川さんの写真家仲間で、今回はただ石川さんにくっついてやって来ただけである。2人ともアジメールは何度も来ているのだが、僕はほぼ初めてだった。一度だけ、ジャイプルからウダイプルへ向かうバスに乗っていたときに、途中アジメールで停車したことがあったくらいだ。

 シャターブディー・エクスプレスは遅れに遅れて2時頃アジメールに到着した。僕たち3人はソーブラージ・ホテルというところに1週間滞在することになった。特に何の変哲もない一般的な中級ホテルだ。

 宿に荷物を置いた後、早速ヒジュラーに会いに出掛けた。アジメールはヒンドゥー色の強いラージャスターン州の中にあって、非常にイスラーム色の強い中規模都市である。モイーヌッディーン・チシュティーというスーフィーの聖人のダルガー(廟)で有名で、全インドからムスリムが巡礼に訪れる。だからダルガーまで続く参道にはトルコ帽をかぶったムスリムの姿が非常に多い。しかし路地裏に入ると小さなヒンドゥー寺院もたくさんあり、ヒンドゥー教徒もたくさん住んでいることが伺われる。アジメールはお世辞にも清潔な町ではなく、ドブ水を満々と湛えた側溝が路地の片隅を走っており、そこにブタが顔を突っ込んでいた。そんなクネクネした汚ない路地を抜けて、ヒジュラーの家まで行った。

 まずはヒジュラーの家の向かい側の家に入った。そこには英語のしゃべれる一家が住んでおり、石川さんとは9年以上の付き合いがあるそうだ。その人たちを通してヒジュラーと接触を重ねてきたらしい。だが、そのときちょうどヒジュラーたちはディーワーリーのためにどこかへ行っており留守だった。石川さんがアジメールを訪ねたのは2年振りだったため、喜んで迎え入れてくれた。

 また夕方来ようとその家を出たところ、ちょうどヒジュラーが仕事(?)から帰ってきたところだった。ラージャスターン州特有の派手なサーリーを身に付けた、女ではないが女っぽい顔や容姿をした人々がゾロゾロゾロゾロ十数人列を成して歩いてきた。その中に石川さんと面識のあるグルジー(ボス)もいたらしく、「今は疲れているから後で来い」と言われた。アジメールのヒジュラーとの第一接触だった。

 アジメールには3つのグループがいる。2つのグループは隣接して住んでおり、僕たちが今行ったところだ。残るもう1つのグループの住む家にも行ってみた。こちらのヒジュラーは丘の上に巨大なハヴェーリー(邸宅)を構えていた。しかしそこのグルジーは1年前に死去してしまったらしく、現在4人のチェーラー(弟子)が住んでいるだけらしい。しかもここに住んでいるのはあまり柄のいいヒジュラーではないそうで、ここはもう調査には使えなくなってしまった。

 その後、石川さんらに連れられてモイーヌッディーン・チシュティーのダルガーへ行ってみたが、今日は木曜日なのになぜか混雑していたので、今日のところは中に入るのをやめておいた。1週間滞在するのでいつか行けるだろう・・・といいながら一度も行けなかったりして・・・。

 一応夕方もヒジュラーの家に行ってみたのだが、「明日の朝来い」と言われてしまった。日本人の「考えておく」と、インド人の「明日」の意味は「NO」である、という自分で考えたんだか、誰かが言っていたんだか知らないフレーズが頭を横切った。だが、とりあえず第一日目だし、今日のところは諦めることにした。

10月25日(金) ディーパーワリー・バスティー

 一時はどうなることかと思ったが、とんとん拍子で事が進み、ヒジュラーのバスティーへの同行と撮影の許可がグルジーから下りた。

 バスティーとは、市場を巡って喜捨金を集める行為だ。11時に来いと言われたので、朝からヒジュラーの家の前で待っていたら、11時半頃に着飾ったヒジュラーたちがゾロゾロと出て来た。総勢15、6人ほどだ。僕と石川さんはヒジュラーの後からノソノソとついていった。

 今回は来月4日にあるディーパーワリー(ディーワーリー)のためのバスティーである。何か大きな祭りがあると、ヒジュラーは縄張りの市場を巡って店主から金を巻き上げて行く。まるで税金を徴収するかのように、これが当然だという顔で店主に金を要求する。金額は店のレベルに応じて様々だ。屋台のような店だと10ルピー以下、小さな店だと11ルピー〜21ルピー、立派な店だと101ルピー、僕たちが見ている中では最高501ルピーの喜捨をもらっていた。ヒジュラーたちはどこの店がどれだけ儲けているか全部お見通しのようで、小さな店が道の両側に並んでいるような地域は、両側にヒジュラーたちが展開し、1店を2〜3人で分担して次々と絨毯戦術で集金して行く。そして儲けている店があるとヒジュラーは全員その店の中に入り、座り込み、粘り強く交渉する。フルコースになると、ヒジュラーたちは店の前で太鼓や鈴を打ち鳴らし、歌を歌い(大体映画音楽みたいだ)、踊りを踊る。このヒジュラーのグループは平均年齢が比較的高かったので、年寄りのヒジュラーたちは途中日陰で休み休み進んでいた。若い稼ぎ頭のヒジュラーが機動力を生かして遠くまで喜捨を集めに行っていた。




店の前で楽器を演奏し、歌を歌い、
踊りを踊って喜捨金を徴収中


儲かってそうなバイク屋では
ヒジュラーが全員店主を取り囲んで
じっくり交渉


 金を巻き上げられる店主の表情は様々だ。「ヒジュラーは神様だから仕方ないよ」と言う人もいれば、強引に金を取られて泣きそうな顔をしている人もいた。ヒジュラーはどうも子宝と密接な関係があるらしく、店主に子供の健康を伺ったりしていた。もし金を出し渋るとどうなるか。ヒジュラーはおもむろにサーリーの裾を捲り上げて、あの部分を相手に見せたり、そのままサーリーをすっぽりと相手にかぶせたりして嫌がらせをする。

 ヒジュラーのバスティーに同伴し、撮影しながら、ヒジュラーたちと会話をしている内にだんだん打ち解けてきた。仲良くなってみるとみんなフレンドリーで、いろいろ質問された。下ネタも連発された。バスティーは昼の11時から午後4時頃まで続いた。以下、今日ヒジュラーについて気付いたことを断片的に書いていく。滅多にできない経験をすることができて、半ば放心状態に近いので、あまり頭の中を整理して書くことができない・・・。

 まず、今回取材したヒジュラーたちは全員マールワール地方の人々である。元からアジメールに住んでいるヒジュラーに加え、マールワール地方各地から助っ人のような形で出稼ぎに来ているヒジュラーもけっこういた。アジメールのグルジーがリーダーとなってバスティーを行っていた。

 ヒンディー語は文法性が存在する言語である。つまり主語が男性名詞なら動詞は男性形、女性名詞なら女性形といった、文の構成要素間における性の一致である。例えば、「ラルカー(少年)・カーナー(食べ物)・カーター(食べる)・ハェ(です)=少年は食べ物を食べます」、「ラルキー(少女)・カーナー・カーティー(食べる)・ハェ=少女は食べ物を食べます」となる。だが問題はヒジュラーが建前上は両性具有者である点だ。ヒジュラーは男扱いしたらいいのか、女扱いしたらいいのか。女性として扱って、女性形で例えば「アープ・カハーン・セ・アーイー・ハェン?(あなたはどこから来ましたか?)」のように言えばいいのだろうか、それとも普通に男性形で「アープ・カハーン・セ・アーエー・ハェン?」にすればいいのだろうか?(アーイーが動詞「来た」の女性形、アーエーが男性形)一応聞くところによると女性扱いすると喜ぶとのことだったが、僕は最初、男性形にしたらいいのか女性形にしたらいいのか分からずに、曖昧に「アープ・カハーン・セ・アーイェー・ハェン?」と男性形と女性形の中間の発音のような気持ちでしゃべっていた。だが、どうもヒジュラーたちの発音を聞いていると、男性形でしゃべっているようだった。「ハム・ローティー・カーテー・ハェン」のように。これはどうもラージャスターニー語と関係あるかもしれない。特に今回接触したヒジュラーたちは全員マールワール地方の人々だったので、マールワーリー方言をしゃべっている。マールワーリー方言には文法性が存在しないかもしれない(詳しくは知らないが)。だから男性でも女性でも男性形で全部しゃべっている可能性がある。とにかく、ここアジメールのヒジュラーと話すときに関しては、あまり文法性に気を遣って話す必要がないかもしれない。また、アジメールの人々の用法を聞く限り、「ヒジュラー」という単語は男性名詞である。複数形や斜格で「ヒジュレー」になるのを聞いた。おっと、かなり専門的な話になってしまった・・・。

 どうも「ヒジュラー」という言葉は蔑称の意味合いを含んでいるらしく、ヒジュラーたちは自分で自分を「ヒジュラー」とは呼ばない。自分のことは「私たち」とか「私たちみたいな人々」と言っている。だから僕もヒジュラーのことをヒジュラーとは呼ばず、「あなたたち」と呼ぶことにした。また、名前の裏に「バーイー(「姉さん」みたいな意味。baaiiであり、「兄弟」の意味のbhaaiiとは別)」という尊称を付けて呼ぶといいようだ。例えばライラー・バーイーのように。グルジーに対してはグルジーと呼んだ方がいいと思われる。

 少なくとも北インドのヒジュラーはバフチャーラーという女神を信仰している。バフチャーラーの寺院はグジャラート州の同名の町にあり、ヒジュラーの聖地となっているようだ。バフチャーラーはシヴァ神と関係ある女神で、ドゥルガーなどと同系列みたいだ。このヒジュラーたちの家にはバフチャーラーの像やポスターはなかったが、石川さんの著書には写真が載っていた。鶏の上に乗り、刀、三叉戟、蓮の花を持っている女神である。

 しかし基本的にヒジュラーは宗教上は中立っぽい雰囲気である。ヒンドゥー教でもイスラーム教でもない。「あなたは何の宗教を信じてますか?」と聞いたら、「全部信じている」と答えていた。だが、アジメールという土地柄、ここのヒジュラーはどちらかというとイスラーム色が強いような気がした。家にはイスラーム教関係の飾り物が多かった。他に赤ん坊の像が飾ってあったのと、歴代のグルジーの写真が飾ってあったことに気が付いた。

 ヒジュラーの生活単位は「ソマーズ」と言うようだ。多分ヒンディー語の「サマージュ(社会)」のマールワーリー訛りではなかろうか。ひとつの家に複数のヒジュラーが共同生活を営んでおり、それを「ソマーズ」と呼んでいた。

 家でヒジュラーが何をしているかと言えば、一般のインド人とほとんど変わらない。床にゴローッと寝そべってテレビを見ている。チャーイを飲んだり、ビーリーを吸ったり、パーンを噛んだりしてくつろいでいる。大体上の階級のヒジュラーはこんな感じなのだが、下の階級のヒジュラーは食事の支度をしたりしている。

 いろんなタイプのヒジュラーが住んでいる。グルジーは決して笑顔を見せず、まるで「不思議の海のナディア」のネモ船長のように、常に厳格な表情で周囲に睨みを利かせている。顔はヌスラト・ファテー・アリー・カーンに似ている。下ネタを連発するお婆さん(?)ヒジュラもいる。理解できるものから理解できないものまで、下品な話をたくさんしていた。やはりあの部分に関するネタが多い。一方で、「あまり汚ないことを教えるんじゃない」とそれを叱る良心派ヒジュラーもいたりする。まだ男が抜け切れない、ヒゲとマユゲの濃いヒジュラーもいた。多分入門したてで切ってないのだろう。下働きをさせられていた。ヒジュラー版武蔵丸と僕たちの間で勝手に命名したヒジュラーもいた。かなりの巨漢で、武蔵丸そっくりのノッシノッシという歩き方をしていた。稼ぎ頭らしき若いヒジュラーは、踊りもうまいし目の使い方も魅惑的で、バスティーでも頑張っていた。顔はオカマといったところ。




稼ぎ頭のソーナムちゃん(18)


 どうもヒジュラーは高学歴者みたいだ。大学や大学院を卒業した人もいるみたいだが、証拠がないので実際のところは分からない。だが、インドのカースト制度に無理矢理組み込むとしたら、ヒジュラーはおそらくブラーフマン階級になる。祭祀に関わっているし、人々の相談役、占い師、シャーマン、伝統医学系の医師のような役割を果たしていると思われる。

 今日は11時から2時頃までヒジュラーのバスティーに付き合って、その後5時から6時までヒジュラーの家で軽くインタビューをすることができた。だが、話が乗ってきたところでグルジーからストップが入り、「また明日来い」ということになってしまった。チェーラーたちは基本的に僕たちに興味があるらしく、いろいろしゃべりたいような雰囲気なのだが、グルジーがNOと言ったらNOなので、それ以上無理に長居することはできなかった。2日目にしてはまあ上出来だろう。



 今日は暇な時間を見つけてクワージャー・モイーヌッディーン・チシュティーのダルガーへ行ってみた。このダルガーでは無理矢理多額の寄付金を要求されるとかいう噂を聞いていたので、少し用心してかかった。まず、ダルガーには必ず頭を何かで覆って入らなければならないので、参道でトルコ帽を買った。もちろん靴は脱がなければならないので、門で預けて裸足になって入った。早速ガイドらしき若者が僕に付いてくる。僕はなるべく敬虔なムスリムに見えるように、境内に入るときに床を右手で触って頭にかざし、敬意を表した。ガイドには「アッサラーム・アライクム」とアラビア語で挨拶。「僕は日本から来たイスラーム教徒である」とヒンディー語で自己紹介する。そして聖人廟の前に座っている寄付金集めの人には自ら進んで51ルピー寄付。広場でカッワーリーを歌っていた楽師たちにも自ら進んで10ルピーの寄付。一通り見てまわったが、特に最後にガイド料を請求されたりしなかった。別にそんなに悪質な場所でもないように感じたが、たまたまガイドしてくれた人がいい人だったのだろうか?




クワージャー・モイーヌッディーン・
チシュティー廟


 ちょうど金曜日だったため、境内は多くの信者たちでごった返していた。特に廟の中はもうバーゲン・セール状態。墓にチャーダル(ベッド・シーツのような大きな布)をかぶせるといいらしいが、さすがに僕はそこまではやらなかった。男性は皆トルコ帽をかぶっているので皆ムスリムに見えるのだが、おそらく中にはヒンドゥー教徒もいると思われる。モスクにヒンドゥー教徒が入ることは稀だが、こういう聖人の廟ならヒンドゥー教徒もイスラーム教徒に混じって参拝に訪れることは珍しくない。

 クワージャー・モイーヌッディーン・チシュティーの廟はインドでも随一のイスラーム教聖地なだけあって、アクバル、フマユーン、シャー・ジャハーンなど歴代のムガル皇帝や、ハイダラーバード藩王国のニザーム(太守)から寄進を受けて廟、モスクや門など新築や拡張工事を繰り返した。だが、スケッチするのに面白い建物はなかった。入り口にアクバルが寄進したと言われる大きな鉄製の鍋が二つ置いてあったのが面白かった。これで参拝者たちに配るプラサードを作っていたそうだ。今でも作っているようなことを言っていたが、中を覗きこんでみたらお金が放り込まれており、賽銭箱のようになっていた。あまりきれいではないので、これで作ったプラサードは食べたくない。



 本日のヒジュラーの調査を終え、夕食はダルガー近くの食堂で食べた。軒先に兄ちゃんが座ってタンドゥール釜から次々とナーンを取り出しているような店だ。旅行中、僕はあまり肉を食べないのだが、せっかくイスラームの町に来たのでチキン・ムグライを食べてみた。それほどおいしいとは感じなかったが、安いことには安かった。

 それにしても既に僕の中でヒジュラー効果が起こっている。そこら辺にいる女の人が皆ヒジュラーに見え出したのだ。普通の脳の状態なら、女性を見たら「女だ」という認識が働くとする。しかしヒジュラーと半日行動共にした今、僕の脳は女性を見ると、「女か?・・・女だ・・・な」と反応する。いちいち女であることを確認してしまうというか、パッと見、みんなヒジュラーに見えてしまうというか、かなりアブノーマルな状態になってしまった。不幸なことに、夕食を食べていた食堂で、どういう運命の巡りあわせか、本物のヒジュラーも食事をしていたのだ(日中行動を共にしたヒジュラーではなかった)。だから僕はあたかもヒジュラーに囲まれて、常に監視されているような錯覚に陥ってしまった。今夜の夢にヒジュラーが出てきそうだ・・・。

10月26日(土) プシュカル

 今日は9時頃からヒジュラーの家へ行って、朝食を作っているところなどを撮影した。その後、なんとなく若いヒジュラーに「名前は何?」「出身地はどこ?」などインタビューを開始したのだが、石川さんがメモと取ったことが問題となり、ヒジュラー同士で口論が始まってしまった。




朝食を作る下っ端ヒジュラー


 ちょうど今はアジメールのヒジュラーだけでなく、周辺地域のヒジュラーがディーワーリーのために集まっていた。だから各地のグルジーの間で考えが違った。「ヒジュラーの名前や住所をメモすることは禁止されている」という人もいれば、「そんなの書かせておけばいいじゃないか」という人もいたりして、しばらく激しい論争が続いた。名前や住所を教えてくれたヒジュラーは年配ヒジュラーから叱られてすねていた。気まずい雰囲気になってしまった。

 ディーワーリー前でヒジュラーたちは毎日バスティーに忙しかったし、これだけ多くのヒジュラーがいる場で、ヒジュラーについて突っ込んだインタビューをすることは難しいと判断し、今回のヒジュラー調査はこれで終了ということになった。一応今日のバスティーにも同行したが、アジメール郊外のほとんど何もないようなところでバスティーをしていたので、絵にもならず、すぐにヒジュラーたちとは別れて帰った。

 今回の石川さんのヒジュラー調査旅行は、20年間のヒジュラー研究に決着をつけるのが一番の目的だったらしいので、インタビューができなくてもこれで十分だったみたいだ。アジメールのヒジュラーとは10年ほど付き合いがあったそうだが、ヒジュラー社会にもアップダウンがあり、彼らの全盛期はもう既に過ぎ去ってしまっていた。とは言っても、僕には全て目新しいことばかりだったので、おかげで非常に貴重な体験をさせてもらって感謝している。それにしてもヒジュラーと付き合っていくのは非常に難しそうだ。



 午後からプシュカルへ行った。プシュカルはヒンドゥー教の聖地であり、全インドでも珍しい、創造神ブラフマーを祀った寺院がある地だ。

 ヒンドゥー教にはトリムルティーという考え方がある。簡単に言えば、ヒンドゥー教の三大神はブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァであり、世界の創造はブラフマーが、世界の統治はヴィシュヌが、世界の破壊はシヴァが行うという考えだ。この中で、ヴィシュヌとシヴァを祀った寺院はインド中腐るほどあるのだが、ブラフマーを祀った寺院となると非常に少ない。寺院が少ないということは、つまりは人気がないということだ。世界を創造したはずのブラフマーの人気が急下降したことについてはいろいろな説があるが、神話を交えた説明が一番面白い。

ブラフマー人気がた落ちの理由
 世界の創造を終えたブラフマーだったが、1人で寂しかったので、自分の体からサラスヴァティーという女性を作り出した。ブラフマーはサラスヴァティーの美しさに一目惚れし、彼女を妻にしてしまった。自分の娘を妻にすることは、いくら神様でも許されないことである。よってブラフマー神は、世界を創造したという功績にも関わらず、人々の信仰を勝ち得ることができなかった。

 プシュカルはアジメールからバスで30分ほど。山をひとつ越えた先にある。町の南側に人口の湖プシュカル・レイクがあり、岸辺は全てガートとなっている。ヒンドゥー教の聖地の割には、巡礼客らしきインド人の姿は少なく、かえって外国人観光客の方が目立つくらいだった。

 早速ブラフマーを祀った寺院に行ってみたが、やはり参拝客は他のインドの聖地に比べたら全然少なかった。猿の数も少なかった。寺院の地下にはなぜかシヴァリンガが祀ってあった。僕が行ったときにちょうどご開帳の時間になり、ブラフマーの像を見ることができた。




ブラフマー寺院


 外国人旅行者の中で、プシュカルの人気はけっこう高い。その一方で、アジメールと聞くと顔をしかめる人も多い。しかし僕の印象は全く逆だった。プシュカルの人間はすれてて好きになれなかった。プシュカル・レイクの周りは外国人旅行者相手のバーザールがグルッと取り囲み、外国人旅行者にたかろうとするインド人も多く、パハール・ガンジ化が著しかった。かえってアジメールの方が、外国人に対してちょうどいいくらいの反応で、居心地がよかった。プシュカルのいいところは、ヴァーラーナスィーのようにガートでたたずめることと、日本語が使えるネット・カフェがあることぐらいだ。

 プシュカル・レイクの東岸からサンセットを見た。夕暮れになるとこの辺りには外国人が夕日を見るためにゾロゾロ集まってきて、それに合わせて音楽師たちも出現し、楽器を演奏し、歌を歌い出す。だが、2人で太鼓をドンドンけたたましく叩く奴がいて、そいつのおかげで他の音楽師たちの弦楽器の音や歌声がほとんど聞こえなくなってしまっていた。音楽師たちは非常に迷惑していた。非常に虚しい気分になった。日が沈んだ後、アジメールへ戻った。




プシュカル・レイクに沈む夕日


10月27日(日) デリーへ

 もともと1週間の滞在予定だったが、ヒジュラーの調査が早々に終わってしまったので、今日デリーに向けて帰ることになった。列車は行きと同じアジメール・シャターブディー・エクスプレス。午後3:50発だった。午前中はアジメールの旧市街を歩いたりして過ごした。

 3時半頃、アジメール駅へ行って列車に乗り込んだ。疲れが溜まっていたのか、椅子に腰掛けたら急に眠たくなってしまった。あまり食欲もなく、せっかく出された夕食も食べることができなかった。ほとんど眠って過ごした。

 デリーに着いたのは夜中の11時頃。もうデリーはだいぶ寒くなっていることに気が付いた。そろそろホット・シャワーが必要になってくる季節だ。今まで水シャワーで頑張ってきたのだが・・・。

 駅前で石川さんたちと別れ、僕は自宅へ戻ることにした。プリペイド・タクシーでニューデリー駅からユースフ・サラーイまで50ルピー。最近ここのプリペイド・タクシーを愛用している。料金が非常に安くなるのがいい。ただ、プリペイドだと乗せてくれるオート・リクシャーが少なくなる。でも探していればその内見つかるので、それに乗ればよい。今回も問題なく帰ることができた。

10月28日(月) デリーのヒジュラー

 石川さんのアジメールにおけるヒジュラー調査は終了したのだが、ついでにデリーのヒジュラー調査にも同行することになった。

 まずは1年前にヒジュラー調査が行われていたニュー・ウスマンプルへ行ってみた。ニュー・ウスマンプルはヤムナー河の東側、ほぼ河岸に広がるムスリムの町。非常に蝿の多い地域だった。ヒジュラーの家まで行ってみたのだが、そこに住んでいたヒジュラーは引っ越したとのことだった。引っ越し先はバダルプル。デリーの南東、ファリーダーバード(ハリヤーナー州)との州境近くにある町だ。そんな辺鄙なところに引っ越してしまったとは・・・。石川さんの予想によると、ヒジュラー同士の勢力争いに敗れたのだろうとのこと。昔から土地に根付いているヒジュラーはずっと定住するのが普通なのだが、特に新興住宅地などを縄張りにするヒジュラーは、その土地の利権を手中に収めるため、他のヒジュラーのグループと抗争を繰り返すことが多いそうだ。

 次に石川さんが4、5年前までコンタクトをとっていたヒジュラーを探すことにした。そのヒジュラーもトランス・ヤムナー(ヤムナー河の東側)に住んでいるそうだ。しかし石川さんは土地勘を失ってしまったため、適当なところでリクシャーを降りてヒジュラーを探し始めた。降りたところはスィーラムプル。なんとデリー・メトロの巨大な駅が出来ていた。雰囲気は東京駅からディズニーランドへ向かう京葉線の駅に似ていた。

 スィーラムプルの商店街でとりあえず「この辺にヒジュラーは住んでますか?」と聞いてみたら、すぐに「ああ、住んでるよ」と教えてくれた。その商店街の路地をちょっと入ったところにヒジュラーの家があった。家にはもう60過ぎと思われるお婆さんヒジュラーが1人で留守番をしていた。他のヒジュラーたちはディーワーリー・バスティーに出掛けたらしい。しかしそれは石川さんと親交のあったヒジュラーではなかった。だが、僕たちを温かく迎えてくれて、リムカまで飲ませてくれて、いろいろ話をしてくれた。石川さんの知り合いのヒジュラーの住所も教えてもらえた。そのヒジュラーは敬虔なイスラーム教徒みたいで、毎年ウルスの時期にアジメールのダルガーに参拝している他、既に4回もメッカに巡礼したそうだ。

 石川さんの探し求めていたヒジュラーはラクシュミー・ナガルに住んでいた。もともとこのヒジュラーたちはトルクマン・ゲートに住んでいたそうだが、このグループも何らかの理由でデリー郊外に引っ越したそうだ。ところが僕たちがそのヒジュラーの家を訪ねて行くと、門のところにいたヒジュラーにあっけなく門前払いされてしまった。さっきのヒジュラーとは正反対の待遇だ。どうも石川さんと相性の悪かったヒジュラーがタイミング悪く門のところにいたみたいだ。ここはこれ以上長居できそうな雰囲気ではなかった。

 最後にパハール・ガンジのヒジュラーと会うことにした。このヒジュラーはパハール・ガンジのボスとでも言うべき人で、このヒジュラーに睨まれたらもうパハール・ガンジで商売することができなくなるというぐらい権力を持っているらしい。ちょうどディーワーリーの1週間前ということで、パハール・ガンジはディーワーリー関連の商品を売る店と、それを買いに来た客でごった返していた。その中をくぐり抜けて、ヒジュラーの家を訪問した。ここではチャーイを飲ませてもらえたものの、適当にあしらわれているような感じだった。大したことを話すこともできず、立ち去った。もうデリーのヒジュラー調査も終了ということになってしまった。

 やはりヒジュラーを調査、研究するというのは、とてつもなく難しいことであることが、この数日間のヒジュラー調査で実感できた。石川さんはよく20年間もヒジュラーを撮影し続けることができたと感心してしまう。石川さんの著書にはヒジュラーのヌード写真まで載っているのだ。一方で、ヒジュラーたちは自分たちの生活を他人に公開することを非常に嫌がっており、それを無理矢理暴いていくことに良心の呵責も感じた。ヒジュラーを研究するという行為は、コロンブスがアメリカを「発見」するという考え方に近いと思う。ヒジュラー自身は研究されることをよく思っておらず、かえって迷惑に思っている。だから、興味本位や立身出世目的でヒジュラーを研究するのは犯罪に近い行為だ。そっとしておいてあげたい気分になった。また、男性よりも女性の方がヒジュラー調査に向くという話を聞くが、一番いいのはニューハーフの調査者だろう。客観的な視点を持てるニューハーフのヒジュラー研究者が、ヒジュラーと親交を深めながら彼らの本音を聞き出す形がヒジュラー研究の一番理想的な形だ。

 かくいう僕自身もヒジュラーに対していろいろな先入観を持っていたのだが、大事なのはヒジュラーを同じ人間として接していくことだろう。はっきり言ってヒジュラーたちはそこら辺のインド人とあまり変わらない生活をしている。たとえ去勢しているからといって、人間の尊厳が変わるわけでもない。ただちょっと特殊な仕事をしているだけだ。相手のプライバシーに関わることをズケズケと質問したり撮影していくのはよくないことだ。自分がそんなことをされたら嫌だろう。それと同じでヒジュラーも、ヒジュラーとしてというよりも人間として、自分に関わることには、よほど親しくならないと口を開きたがらない。そして、もしヒジュラーを特別視しなければならないとしたら、それは蔑視や好奇の目ではなく、生きた神としての尊敬の念だろう。

 今回のヒジュラー旅行で得たものはいろいろあったが、その中でもヒジュラーが得体の知れない存在ではなくなったことが大きいと思う。これからは僕も、ヒジュラーに対して「変な奴らだ」という感覚ではなく、同じ人間として接していけるような気がする。一方で、いろいろ貴重な写真を撮らせてもらったので、ヒジュラーたちに遠慮なく載せてしまっているのだが・・・(い〜んディア写真館に10枚ほど展示してある)。ヒジュラー社会はインドの最も面白い部分であることは確かだ。

10月29日(火) Deewangee

 今日は久しぶりに学校へ行った。僕がいない間にピクニックがあったり、近くでボヤ騒ぎがあったりしたらしいが、特に問題なくスッと日常の学生生活に戻っていけた。だが、まだ身体に旅行疲れが残っているみたいで、すぐに眠気が襲ってくる。

 疲れていたにも関わらず、授業後映画を見にPVRアヌパム4まで行った。今日見た映画は「Deewangee」。「マッドマン」という意味だ。キャストはアジャイ・デーヴガン、アクシャイ・カンナー、ウルミラー・マートーンドカル。




左からアジャイ・デーヴガン
アクシャイ・カンナー
ウルミラー・マートーンドカル


Deewangee
 ラージ・ゴーヤル(アクシャイ・カンナー)は有能で正義感の強い弁護士だった。あるとき有名な音楽プロデューサーのアシュヴィン・メヘターの殺人事件が起こる。容疑者としてタラング(アジャイ・デーヴガン)が逮捕されるが、タラングの幼馴染みであり、大人気の歌手サルガム(ウルミラー・マートーンドカル)から依頼されて、ラージはタラングの弁護人としてその事件に関わることになる。

 タラングは吃音症(どもり)で内気だが、優れた音楽の才能を持つ男だった。そして時々記憶が飛ぶ障害もあった。ラージはタラングが人を殺せるような男でないと判断し、彼の無実を証明するために全力を尽くす。裁判において、最初は「タラングがアシュヴィンを殺す動機がない」ということが争点になっていたが、その動機を検察側が提出する。なんとアシュヴィンが今までプロデュースしてきた音楽は、全てタラングが作ったものだったのだ。タラングはアシュヴィンのゴースト・ライターだった。また、タラングはサルガムのことを誰よりも愛しており、アシュヴィンがサルガムを襲おうとしたことも発覚する。こうして、タラングがアシュヴィンを殺害したことは確実になってしまう。

 しかし、一方でラージはタラングの秘密に気付いていた。タラングは精神分裂症だったのだ。タラングの心が極度の抑圧状態に陥ると、人格が入れ替わり、ランジットと名乗る人格がタラングの体を支配するのだ。ランジットは粗暴で残酷な性格だった。ラージは法廷でわざとタラングを傷つけるようなことをして、うまくランジットの人格を引き出すことに成功し、タラングの責任能力のなさを証明する。タラングは罪を問われず、精神病院に入院することになった。

 だが、タラングはそんな一筋縄でいく男ではなかった。実は精神分裂症は演技だったのだ。全てはタラングが巧妙に仕組んだ計画だったのだ。タラングの才能を食い続けたアシュヴィンは死に、代わってタラングの才能は世に知れ渡り、罪にも問われなかった。裁判が終わった後にそれに気付いたラージは後悔し、もう一度裁判をやり直すよう要求する。また、精神病院からタラングを出さないように院長を説得する。

 ラージがそうするのは、罪人は罰を受けるべきという信条があったと共に、サルガムに対する愛情が大きな動機となっていた。いつしかラージとサルガムは恋仲になっていた。だが、タラングはそれを面白く思っていなかった。タラングはサルガムを取り戻すために次第に凶暴になっていく。精神病院を退院することはできたものの、サルガムに包丁をつきつけて「オレを愛していると言ってくれ」と言ったり、サルガムの友人をボコボコに叩いたり、なんとかサルガムを誘拐しようとしたりした。ラージも負けてはおらず、サルガムを守り、タラングを再び逮捕するために警察と共に奔走する。

 タラングを発見することができないまま、サルガムのコンサートが行われることになった。そこにタラングが現れることは確実で、ラージたちは厳重な警戒態勢を敷く。だが、まんまとタラングに出し抜かれてサルガムは連れ去られてしまう。最後はラージとタラングが波止場の廃墟で死闘を繰り広げ、ラージはタラングを海に突き落とす。

 次の日、海の中を探したが、ラージの死体は見つからなかった。ラージとサルガムは結婚し、新婚旅行に出掛ける。しかしそこで聞こえてきたのは、タラングが作った歌だった。その声はタラング・・・?もしかしてタラングはまだ生きているのか?不安がるサルガムにラージは言う。「有名な歌だから誰でも歌えるだろう・・・。」

 殺人事件の容疑者が二重人格者で、その二重人格が実は演技で、演技ながらもやっぱりそいつは二重人格っぽい性格をしている、という仕掛けが面白いサスペンス映画だった。何と言ってもアジャイ・デーヴガンの演技が際立っていた。アジャイは「Hum Dil De Chuke Sanam」のような口下手で純粋な男か、「Company」のような無口な悪役が似合っているのだが、この映画ではその両方を一度に演じさせてしまったところがすごかった。臆病でどもりがちな男タラングから、凶暴なランジットに人格が移行すると、眼光がガラッと変わり、まるで別人のようだった。この役はシャールク・カーンに演じさせてもけっこうピッタリはまったのではないかと思う。とにかく、最近メキメキと頭角を現しているアジャイのキャリア・アップに追い風となっただろう。

 アクシャイ・カンナーも最近徐々にいい映画に出始めている。「Taal」で見たときには、「前髪が寂しい男優だ・・・」という印象が強かったが、最近は増毛しているのか、あまり頭髪に目がいかなくなった。その一方で目が行くようになったのが唇。アクシャイは下唇を噛む仕草をよくする。癖というよりは、意識的にしていると考えた方がいいだろう。チャーム・ポイントにしようという作戦だろうか?

 ウルミラー・マートーンドカルも最近になってスクリーンでよく見るようになった。ウルミラーの顔は不思議だ。目の形が特徴的で、人間離れしており、昆虫の顔をアップで見ているような気分になる。体のラインも少し変わっているように思う。でもダンスはうまく、背筋がピンと伸びていてかっこいい。この映画の中での演技はまあまあと言ったところか。だが、お腹のプルプルした肉が気になった・・・。一度気になりだすとその後はずっとその部分に目が釘付けになってしまった。踊るたびにプルプルする・・・。

 音楽は「Devdas」「Shakti」と立て続けにリリースが続いているイスマイル・ダルバール。最近ノリにノっていると思っていたが、「Deewangee」の曲は個人的にイマイチだった。ちょっと手を抜いたか?

 エンディング・シーンは不気味な余韻を残しながらもハッピー・エンドということになったが、僕はこういう終わり方は嫌いではない。なんとなく続編を匂わせているような、まだ悪夢はこれからなのさ・・・という暗示のような・・・。全部丸く収まってめでたしめでたし、という終わり方もそれはそれでいいのだが、サスペンス映画でそういう終わり方をすると、少し低脳な映画に見えてしまうような気がする。

10月30日(水) Realizing Rama

 インドの二大叙事詩と言えば「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」である。この2作品はインド人のプライドの根幹となって、今でも人々の心の中に生き続けている。その中でも「ラーマーヤナ」は、実はインド人だけではなく、他国の人々のアイデンティティーの一部にもなっている。「ラーマーヤナ」はタイ、カンボジア、ミャンマー、インドネシア、フィリピンなどの東南アジアの国々まで普及し、それぞれの国の文化形態に受容されて形を変えながら、現在まで生き続けているのだ。変な話だが、東南アジアの人々のアイデンティティーをひとつにするものを突き詰めていくと、インドから伝わってきた「ラーマーヤナ」に行き着くそうだ。別にその時代に「南アジア」とか「東南アジア」などという線引きはなかったはずで、どちらかというと東南アジアまでインド文化圏が広がっていたと考えた方が理解しやすい。インドという国ができ、国境の線引きがなされたのはつい最近だが、その前は、西はアフガニスタンから東はインドネシアまで、インド文化の影響下に置かれている地域が広がっていたのだ。

 その東南アジアのダンサーたちが、東南アジア版「ラーマーヤナ」をベースに、コンテンポラリー・ダンスを踊る舞台が今日、カマニ・オーディトリアムで行われた。招待状を友達からもらったので、行ってみることにした。

 「ラーマーヤナ」を東南アジア各国のダンサーがコンテンポラリー・ダンスにするということで、もしかしたらゲテモノっぽいパフォーマンスになってしまうかもしれないと危惧していたが、その逆で、「ラーマーヤナ」の本質を捉えた素晴らしいダンスだった。衣装は神話時代のインドの雰囲気を醸し出しながらも、モダンで動きやすそうなデザインで、ステージの裏には蓮の花のような巨大なオブジェが置かれており、その蓮の花が開閉して、中から人が出てくる仕掛けになっていた。登場人物の名前、セリフ、筋の説明などは全くなく、音楽と踊りだけで進行していくのだが、「ラーマーヤナ」のあらすじを知っていれば自然と理解できるようになっていた。

 ただ、やはりインドの「ラーマーヤナ」と少し違う部分もあった。舞台用にアレンジしたかもしれないが、あらすじと共に気が付いたことを書いておく。

 まず、ラーマ王子がダシャラタ王から王冠を受け取るシーンから始まる。それを止めるのがカイケーイーで、ラーマは王宮から追放される。ここまではいいのだが、追放された後のラーマはなぜかラーヴァナの執拗な攻撃を受けて苦しむ。ラーヴァナの罠にはまって洗脳され、悪の道に走りそうになるのを、ラクシュマンやスィーターが必死で助けていた。こういうシーンはインド版「ラーマーヤナ」にはなかったはずだが・・・。その後スィーターがラーヴァナに連れ去られ、ラーマはハヌマーンの協力を得てランカー島へ渡る。そしてまずはスィーターを助け出して、その後ラーヴァナと対決をする。インド版ではまずラーヴァナを倒してからスィーターを助け出したはずだが・・・。ラーヴァナを倒したラーマは、王宮に凱旋し、王位を継ぐ。




Realizing Rama


 コンテンポラリー・ダンスと言いながらも、踊り方はインド古典舞踊と似ていた。どの踊りも素晴らしかったが、特にハヌマーンと猿の軍団のアクロバティックな踊りが面白く、大いに受けていた。

 ダンサーはブルネイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、ミャンマー、フィリピン、シンガポール、タイ、ヴェトナムの10カ国から寄り集まっていた。そのおかげで会場には東南アジア人が多く、特殊な雰囲気だった。「ラーマーヤナ」の素晴らしさを改めて実感した一夜だった。

 ・・・そういえば、「ラーマーヤナ」は日本に伝わって「桃太郎」になったという説がある。また、中国の「西遊記」も「ラーマーヤナ」がベースになっているという。今度は日本や中国も仲間に入って、アジア全土で「ラーマーヤナ」をやってみるといいかもしれない。

10月31日(木) PC購入

 うちの大家の息子のスラブ(15)が、最近お父さんに新しいパソコンを買ってもらった。

 去年のディーワーリーの頃からスラブは「もうすぐお父さんに新しいパソコンを買ってもらうんだ」と楽しみにしていたが、お父さんは何かと言い訳をして延ばし延ばしにしていた。一時はスラブが高校に入るまでパソコンは買わないことになっていたのだが、僕がアジメール旅行から帰ってきたら、スラブの部屋の机にはデスクトップPCがズデンと置いてあった。ディーワーリーのプレゼントということで買ってもらえたらしい。

 日本のパソコン業界から考えると、インドで売られているパソコンのスペックはかなり偏っている。スラブが買ってもらったPCは、ペンティアム4、ハード・ディスク40GB、メモリー256MBとかなりのハイ・スペック。その一方でCD−ROMはCD−Rが付いていないし、モニターの解像度も800×600と低めだ。OSはウィンドウズXPプロフェッショナルとウィンドウズ98の両方がインストールされており、起動時に選ぶことができるという変わった仕様。インドでは未だにウィンドウズ98が一番人気があるOSである。割と自由にカスタマイズが可能で、フリーズも少なく、実用主義なインド人好みらしい。その他スラブのパソコンには、スピーカー、キーボード、マウス、ジョイ・スティック、バッテリー装置(停電に備えて)などが付属していた。基本的にインドのパソコンはオーダー・メイドが基本なので、客の要望に合わせて作られるみたいだ。

 スラブは早速僕の部屋からヒンディー語映画の音楽CDを手当たり次第に借りて行って、自分のパソコンにコピーした。それだけならいいのだが、スラブが狙っているのは僕のインターネット回線だ。LANで僕のパソコンと自分のパソコンを接続して、同時インターネット接続をしようと画策している。そうなると面倒なので、僕は「LAN端子を新しく買わないといけない」「常にホストPCをオンにしておかないとネットできない」とか言ってうまく言い逃れしているところだ。

 スラブはコンピューター・ゲームが好きなので、僕に何かゲームは持っていないか聞くのだが、あいにく僕はインドに来てまでゲームに時間を費やしたくないので、家には全く置いていない。そんなスラブが意外にも借りて行ったのが、「Kundli」というソフトである。要するにホロスコープ占いソフトだ。インドでは、生まれたときの星の位置によってその人の運命が決定されると考えられており、生まれた瞬間の星の位置関係を図に表したものを「クンダリー」と言う。酔狂で買ったソフトだったが、占い結果はまるで難解な数学の答案のような、やたらと難しいことが書かれており付いていけなかった。

 僕の部屋にはロンリー・プラネットのインドのガイドブックや、神谷武夫氏の名著「インド建築案内」など、インドに関する書籍がいくつか置いてあり、スラブが部屋に来たときにそれらを見せて、「インドってこんなに興味深い国なんだよ」と何回か彼を啓蒙しようと試みたことがあった。しかしスラブは全く母国に興味がない様子で、「インドは取るに足らない国だ」とよく言っていた。その割にはクリケットの国際試合があるとインド・チームを熱狂的に応援したり、毎週木曜日にビール・バーザールで売り出されるチョーレー・バトゥーレーが大好物だったり、まあいろいろ子供心にも複雑な祖国への思いがあるみたいだ。

 そんなスラブがクンダリーに興味があるとは思ってもみなかった。「そんなもの借りて行ってどうするの?」と聞くと、スラブは「クンダリーで人間の運命が全部分かるんだ」と言っていた。その言葉には冗談めいた響きは全くなかった。本当に占いで人間の過去から未来まで全部分かると信じきっている様子だった。

 「Kundli」はスラブのパソコンにインストールされた。その内大家さんもやって来て、「Kundli」を興味深く見守っている。とりあえずスラブの運勢を占った後、大家さんの運勢も占うことになった。その内大家さんの奥さんもやって来て、奥さんの運勢も占った。「Kundli」は占い結果をプリント・アウトすることもできる。僕もスラブもプリンターを持っていなかったので、大家さんはスラブに、下の階にあるネット・カフェへ行ってプリント・アウトしてくるように命令した。なんか占いソフトひとつで一家が俄かに大騒ぎになっていておかしかった。

 インド人は世界一占い好きな民族であることはほぼ間違いないのだが、インド人にとって占いというのは、占いの域を超えて、現実よりも現実味を帯びた運命の表象のようなものなのだろう。しかも占いと名が付くものなら何でも信じてしまいそうな勢いだ。ちゃんと霊験あらたかなサードゥが占ったクンダリーならまだしも、こんなコンピューター・ソフトでさえ、占い結果をプリント・アウトするほど真剣に受け止めるとは・・・。呆れてしまうというか、微笑ましいというか・・・。

 しかしひとつ気になったのは、生まれた時間に関すること。「Kundli」には生年月日の他、生まれた時間を記入する項目がある。聞くところによると中国の占いも生年月日に加えて時間が分からないと正確な占い結果が出ないみたいだが、インドも同様である。だが、一般の日本人は、自分の生まれた時刻なんていちいち覚えていない人がほとんどだろう。だから日本人がそれら占いの本場で占いをしてもらおうとすると、時刻が分からないために正確に占ってもらえないことがある。インド人や中国人はきっと、自分の生まれた細かい時間まで全部知っているのだろうと今まで思っていた。ところが、大家さんも奥さんもスラブも、みんな正確な時刻は知らなかった。何時までは大体分かるのだが、分単位までは誰も知らなかった。奥さんは実家に電話してまで確認していたが、結局やはり分までは分からなかったようだ。

 その他、いかにもインドだな、と思った大家さんのセリフが、「神様の画像をコピーしておいてくれ」だった。僕のパソコンにはヒンドゥー教の神様の画像がたくさんコレクションしてあり、いくつか神様画像集CDも持っている。それをコピーして何をするかといえば、そう、パソコンに神様の画像を表示させて、それに向かってプージャーをすると言うのだ。インド人のすごいところは、どんなハイ・テクノロジーでも宗教に簡単に取り込んでしまうところだ。寺院参拝とプージャーをネット上で行うことができるサイトも星の数ほど存在する(日本にもあると思うが)。21世紀に入っても、当分の間インドから宗教が消え去ることはないだろう。



―禁忌編 終了―

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