スワスティカ これでインディア スワスティカ
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宴旬編

装飾下

【12月1日〜12月15日】

12月1日(日) ブルース・リー

 インドでブルース・リーとジャッキー・チェンの人気は絶大である。インド人はもともと男らしい男を好む気質なので、その二人に加え「ロッキー」や「ランボー」のシルベスター・スタローンや、「ターミネーター」のアーノルド・シュワルツネッガー、あとはプロレスの選手などがインド人の若者のヒーローとなっている。ただ、インド人はブルース・リーやジャッキー・チェンのことを、日本人で空手の使い手だと勘違いしている人が多いので、説明するのが面倒なこともある。

 僕は昔からひとつの疑問を持ち続けていた。この日記でも以前書いたことだが、道を歩いていると、なぜか見知らぬインド人から親しげに声を掛けられ、握手を求められたりしていた。あまりにそういうことが多く起こるので、僕はひとつの仮説を立てた。僕に容貌の似た人間がデリーに住んでおり、けっこういろんなところを歩き廻っていて、顔を知られた存在なのだろう、という説である。そういう仮説を立てることで、この不可解な現象を無理に説明し、納得していた部分もあった。

 ところが、ついに先日その謎解明の鍵となる事件が起きた。PVRサーケートに新しくできたバーで友達と飲んでいたときのことだ。本当にインドのバーというのは、見掛け倒しでしょうもないことが多い。まず、必ず音楽が大音響でかかっている。お互いの声が聞こえない。静かに飲めるバーというものは皆無と言ってよく、ハードロック・カフェのまがい物のようなバー&レストランがほとんどである。また、インテリアに凝っているところもあるのだが、細かいところに目をやると「う〜ん」であることが多い。料金も高く、ビール1本100ルピー以上は必ずする。ただ、店員がフレンドリーなのだけが取り得であったりもする。そんな店員の中で、勇気のある奴が突然僕に握手を求めてきた。「あなたはジャッキー・チェンに似ている。是非握手してくれ」と。

 インドに来て以来、半分菜食主義になったことから、僕はゆっくりと痩せてきている。顔もインド渡航以前に比べて細くなってしまった。それゆえ、どうもインド人の目から見ると、僕の顔はブルース・リーに似ているみたいなのだ。ジャッキー・チェンには似ていないと思う。僕が「ブルース・リーでは?」と聞くと、「ああ、ブルース・リーです」と言い直していた。インド人はブルース・リーとジャッキー・チェンを混同しているようだ。そしていつものように「ブルース・リーとジャッキー・チェンは香港人であること」「我々は日本人であること」「ブルース・リーとジャッキー・チェンの拳法は空手ではないこと」などを説明しておいた。

 もしかしたら僕はブルース・リーに似ているから、他の日本人よりもさらに注目されるのだろうか?そういえば通りすがりざまに「ヘイ、ジャッキー・チェン!」とか笑われることもある。あれもブルース・リーの間違いなのかもしれない。今、テレビでジャッキー・チェンのアニメをやっているのも関係している可能性がある。他に、僕は身長が182、3cmあるため、人種関係なく道を歩いていると比較的目立つということも考えられる。だが、ジャッキー・チェンはともかく、ブルース・リーに似ていると思われることは悪くない。僕もブルース・リーは好きである。これからその特権をうまく使うことを考えようと思っている。アチョー!

12月2日(月) 日本人留学生パーティー計画中

 現在デリーには1200人の日本人が住んでいると言われている。今年の6月、印パ核戦争危機が叫ばれたときに、インド在住の日本人が半ば強制的に帰国させられたのは記憶に新しいが、そのときに在インド日本大使館はデリー中のあらゆる機関に連絡を取り、日本人が残っていないか確かめた。そのおかげで、現在デリーに何人の日本人が住んでいるのか把握できたらしい。逆に言えば、それまで日本大使館はデリーに住んでいる日本人を把握できていなかったことになる。また、留学生や駐在員は比較的連絡を取りやすいのだが、インド人と結婚してインドに住んでいる人や、観光ヴィザでインドに来て住んでる人などは発見するのが難しい。1200人という数字がどれだけ信憑性のあるものか分からないが、少なくとも1200人と考えればいいだろう。

 その1200人の日本人の中で、留学生の占める割合はどのくらいだろうか?デリーには何人日本人留学生が住んでいるのだろうか?実はよく分かっていない。不思議なことに今までデリーでは、日本人留学生が集まる機会があまりなかった。それに準じるような会合は開かれていたが、デリー全土をカバーするほどまで勢力を拡大することはできなかった。僕も交流があるのはJNUとデリー大の限られた学生ぐらいで、あまり実態を把握できていなかった。

 そんな中、日本人留学生を中心とした忘年会が着々と計画されている。僕はその中心人物に据えられてしまったので、最近その準備で忙しい。チラシを作ったり、みんなに呼びかけている内に、けっこう人数が集まってきた。デリーにおける日本人留学生の分布は南デリーに偏っており、人数の多い順に挙げていくとJNU(約20人)、サンスターン(10人)、デリー大学(約5人?)である。その他、音楽系や芸術系の学校へ通っている人が数人いる。よって、現在デリーに留学している日本人留学生は、おそらく40人ほどだということが分かってきた。他の国に比べたら極端に少ないのではないだろうか?しかし逆に言えば、それは非常に集まりやすい人数と言うこともできる。せっかくインドに来ているのに、どうしてわざわざまた日本人と付き合わなければならないんだ、という意見もあると思うが、せっかくインドに勉強に来た同国人同士、交流を深めてもいいだろう、という考え方もできる。実は僕はインド留学当初、前者の考え方だったが、最近は後者に傾きつつある。

 インド好きの日本人というのは、昔からたくさんいたと思うし、今もたくさんいると思う。そういえばこの前韓国人から、「日本は世界で最もインドの影響を受けた国だ」ともっともらしく言われた。世界一ではないにしても、東アジアの中では一番インドのエッセンスが大事に保存されている国だとは思う。それと関係しているかどうか分からないが、日本人でインド好きの人の人口は少なくない。ところが、残念なことにインド好きの日本人というのは、えてしてどうも求道的というか、マニアックというか、自分の世界に没頭して、あまり縦横のつながりを持って来なかったと思う。それゆえ、インド好きな人間同士のネットワークが形成されず、インドの魅力と重要性を他の人々に分かってもらえなかったばかりか、誤解されるような事件も起き、いつまで経っても「インド好き=怪しい人」のイメージが一般の日本人の固定観念としてこびりついてしまっている。そういう「インドは怪しい」というイメージを未だに流布し続ける個人、団体は、僕から見れば犯罪者に近い。確かにインドには不思議なことがたくさんあるが、インドに来て、「日本人の常識」を1cmでも動かして見れみれば、「インド=普通の国」という感想を抱くだろう。そして日本人の考える「当たり前」がいかに「当たり前」でなく、インドで発見する「非常識」がいかに「人間としてあるべき姿」かを理解するだろう。インドを好きになることは別に特別なことではない。そしてインド好きな人同士が交流を深めることに、何の後ろめたさも感じなくていいはずだ。特にインドに留学して勉強している人は、大概インドが好きでインドに来ている人である。そういう人たちこそ、同時代のインドを共有する者同士として、積極的に交流を深めていくべきだと思う。

 日本人留学生忘年会は12月7日(土)、ヴァサント・ヴィハールの日本料理店「たむら」で行われる。時間は4:00pm〜7:00pm。食事は日本食ビュッフェ。参加費は驚きの100ルピー、ビール飲み放題で160ルピー。たむらさんには赤字覚悟の料金を設定していただいた。ただ、その穴を埋めるため、社会人、駐在員で参加したい人は600ルピーである。

12月3日(火) 津軽三味線

 今年も年末に差し掛かってきた。今年日本で、そしてインドで何があったかと言えば、まあいろいろあったと思うが、日本とインドの間で何があったかといえば、今年は日印国交樹立50周年記念の年だった。僕はインドに住んでいるので、日本でインド関係のイヴェントが活発に行われたかどうか知らない。しかしここデリーでは、2ヶ月に1回くらいのペースで日本とインドの文化交流イヴェントが開催されていた。そして今日もその一貫として、シュリー・ラーム・センターで津軽三味線と武蔵野太鼓のコンサートがあった。今年は太鼓絡みのイヴェントが多すぎて食傷気味になっていたし、三味線と言われてもピンと来なかったので、行く気はあまりなかったのだが、結局行くことになった。

 会場はマンディー・ハウス近く、サフダル・ハシュミー・マールグのシュリー・ラーム・センターの中の、シャンカル・ラール・ムルリー・ダル・オーディトリアム。ややこしい住所だったので、辿り着くのに少々苦労した。今回のコンサートのタイトルは「Tsugaru-Shamisen Three-string Ecstasy of Japan」。三味線とエクスタシー・・・三味線ってエクスタシーな楽器だっただろうか・・・。誰もが一度は思うだろう疑問を抱きつつも中へ。

 インドで行われる、こういう日本文化関連のイヴェントというのは、結局インド人よりもインドに住んでいる日本人が一番楽しめるイヴェントになってしまうことが多い。今回の津軽三味線だって、日本に住んでいたら絶対にわざわざ足を運ぶようなことはなかっただろう。今回も観客は日本人ばかりかな、と思ったが、案外インド人が多かった。客の入りもちょうどいいくらい。若者からインテリまで、いろんな層のインド人が見に来ていたのも好感が持てた。

 出演者は、三味線奏者のおじさんが2人、太鼓奏者の若者が2人。基本的に三味線と太鼓は代わる代わる演奏をしていたが、最後は三味線と太鼓の共演があった。太鼓はまあ食傷気味ながらも迫力があってかっこよかったが、三味線は失敗だったと思う。あのしょうもない音は何だ・・・。僕が子供の頃、ティッシュの空き箱と輪ゴムで作ったギターと同じ音ではないか。先日見たアムジャード・アリー・カーンのサロードに比べたら、子供だましもいいところである。この音でエクスタシーを感じろと言うのか・・・。やはりインド人も同じことを思ったようで、早々と席を立ってしまう人もいた。ああ、日本文化の恥をさらしてしまったか・・・。何か用事があったかもしれないけど。もちろん、三味線を理解する人が聞けば彼らの演奏は素晴らしかったのかもしれないけど、国内で愛好者対象に演奏するのと、海外で文化紹介の一貫として演奏するのでは意味が違う。前知識なしに楽しめるステージにするよう努力すべきだ。三味線はインドでもう二度と見せてはいけないと思った。

 やはりインドで公演する以上、インドで見せて恥ずかしくないものを見せないといけない。芸能においてインドは他に並ぶものがないくらい優れた文化を持っている国なので、東洋の小国日本が俄仕込みで芸を持ち込んでも、笑いの種になるだけだ。それでは日本の文化でインド人をギャフンと言わせるようなものは何か?それは相撲だ。相撲しかない。相撲をインドでやるべきだ。そうすればインド人の関心は一気に日本に向くはずである。ペプシかコカ・コーラのTVCMで、力士がサッカーをするというものが昔放映されたことがあり、案外インド人は相撲のことを知っている。空手や少林寺拳法もいいのだが、相撲のインパクトに勝る日本文化を僕は知らない。ちびちび小規模な日本文化紹介行事を開催するよりも、1年に1回、ドカ〜ンと一発でっかいイヴェントを催した方が絶対にインド人に衝撃を与えることができると思うのだが・・・。

12月4日(水) チャーイ・バーバー

 最近チャーイ・バーバーが学校を休んでいる。

 チャーイ・バーバーとは、サンスターン・デリー校で25年間働き続けているおじいさんである。デリー校で最も勤務歴の長い人物は、このチャーイ・バーバーをおいて他にいないだろう。もちろんチャーイ・バーバーとはニックネームで、本名はハリ・スィンという。ニックネームから容易に推測できるように、彼の仕事はチャーイを作ることである。ただひたすらチャーイだけを作り続けている。既に齢は80を数え、歩くのもおぼつかないぐらいのおじいさんなのだが、毎日毎日カーンプルからバスで通勤し、サンスターンの学生、職員、使用人のためにチャーイを作り続けている。チャーイ・バーバーのチャーイは1杯3ルピー。年老いている割にチャーイの計算だけはしっかりしており、誰がチャーイの金を払っていないか、全て記憶している。チャーイ・バーバーのチャーイは味が薄いのだが、砂糖の量をオーダー・メイドできて、言えばトゥルスィー・チャーイやジンジャー・チャーイなどのスペシャル・チャーイも作ってくれる。毎日同じチャーイを注文していると、チャーイ・バーバーも覚えてくれて、何も言わなくても好みのチャーイを出してくれるようになる。

 おそらく多くの人が、チャーイ・バーバーは1杯3ルピーのチャーイで生計を立てている貧乏なインド人、という印象を持つだろう。僕も以前までそう思っていた。ところが、実際はチャーイ・バーバーは金持ちなのである。彼の息子はどこかの大使館で働いており、自家用車も持っている。はっきり言ってチャーイ・バーバーは、サンスターンで1杯3ルピーのチャーイを売らなくても、十分生活していけるだけの金を持ったおじいさんなのだ。ではなぜサンスターンでチャーイを作り続けているのか?それは社会福祉のため、という目的もあるかもしれないが、実際はどうもボケ防止のためらしい。チャーイ・バーバーに言わせれば、家で何もせずにいるとすぐに年老いてしまうから、チャーイを作って手を動かしていたいらしい。もっともな話である。

 一方、サンスターン移転時にもこの話が持ち上がったのだが、学校内に食堂を作る計画が進行している。現在学校内には食堂がなく、チャーイ・バーバーの作るチャーイだけが唯一手に入る飲食物である。ランチのときには僕はカイラーシュ・コロニー・マーケットのアヌパムというレストランでいつも食べている。なかなかおいしいが、値段は高めで1人30〜50ルピーはかかる。だから、学校内に安くておいしい食堂ができれば、それほどいいことはない。しかし、学校内に食堂を作ることは、チャーイ・バーバーを解雇することを意味する。やはり、サンスターンと半生を共にしてきた年老いたチャーイ・バーバーを追い出すことは相当残酷なことだ。学校内には同情のこもった反対論も多い。

 チャーイ・バーバーが2日続けて学校を休んだので、少し心配である。チャーイ・バーバーの中に、サンスターン・デリー校の学生たちは、変わりゆくインドのひとかけらを見ているように思える。

12月5日(木) Makdee

 インド映画には珍しいのだが、「Makdee」という子供向けヒンディー語映画が先週から上映されていた。僕の友達が見に行ったのだが、客に子供が多すぎて入るのを躊躇したらしい(彼はその代わりに「The Guru」を見たそうだ)。そこで今日はその友達と一緒に、PVRアヌパム4へ「Makdee」を見に行った。

 「Makdee」とは「蜘蛛」という意味。ポスターを見てみると、子供が主演のホラー映画っぽかった。キョンシーのパクリというところか。シカゴ国際子供映画祭で準優勝したそうだ。監督はヴィシャール・バールドワージ、主演はマクランド・デーシュパンデーイ、シャーバナ・アズミー、シュヴェータ・プラサード。




Makdee


Makdee
 チュンニー(シュヴェータ・プラサード)は平和な村に住むお転婆で勉強嫌いな女の子だった。一方、双子の妹ムンニー(シュヴェータ・プラサード)は内気で優等生タイプの女の子だった。チュンニーとムンニーの顔は瓜二つだったが、ムンニーの鼻の下にはホクロがあり、それで見分けが付いた。チュンニーはホクロを付けてムンニーに化け、いたずらをしたりしていた。チュンニーの天敵は鶏屋のカッルー(マクランド・デーシュパンデーイ)だったが、その息子のムガル・アザームとは仲良しだった。

 チュンニーの村にはマクディーと呼ばれる魔女が住んでいた。村外れにマクディーの家があり、その中に入った者は魔法で動物に変身させられて出てくるのだった。村人たちはマクディーを恐れて中に入ろうともしなかった。マクディーの被害に遭う子供たちが続発するにも関わらず、村の警察も村長もブラーフマンも、何もしようとしなかった。

 ある日、チュンニーの悪戯からムンニーは間違ってマクディーの家へ入り込んでしまった。例によって村人たちは口では「何とかしよう」といいながら、あれこれ言い訳をしてムンニーを助けに行こうとしなかった。そこでチュンニーはムンニーを探しに恐る恐るマクディーの家の中に入った。

 マクディーの家の中に入ったチュンニーは、遂にマクディーと対面する。マクディーは髪の毛ボサボサ、ガサガサの肌、奇妙な形の指をした恐ろしい容姿をしていた。ムンニーは鶏に変身させられていた。ムンニーを元に戻してくれ、と頼むチュンニーを見て、マクディーは条件を与える。

 「100匹の鶏を夜明け前に持ってくること、これからチュンニーはチュンニーとムンニーの1人2役を演じなければならないこと、そしてムンニーがいなくなったことが村人にばれてはいけないこと。これが満たされれば、ムンニーを元に戻す」

 チュンニーは泣く泣く鶏になったムンニーを抱えてマクディーの家を出てくる。それからチュンニーはムンニーの分まで生きなければならず、また夜な夜なカッルーの家から鶏を盗んでは、マクディーの家に届けていた。

 ところが、そんな生活を続けられるはずがなく、とうとうチュンニーは起こった出来事をムガル・アザームと先生に話す。先生はその話を聞いて単身マクディーの家に入る。ところが先生は犬になって帰って来た。・・・が、その犬はよく見ると、ムガル・アザームが飼っていた犬だった。それを見て二人はマクディーが魔女ではないことに気付く。

 チュンニーとムガル・アザームはマクディーの家に忍び込むが、やはりマクディーが現れると恐怖に震える。そして二人は落とし穴にはまってしまう。しかし落ちた先にはムンニー、先生や、その他の動物に変身させられたはずの子供たちがいた。実はマクディーは、屋敷の地下に埋まっているという伝説の宝を探していたのだった。マクディーは捕らえた子供たちに地下を掘らせていた。チュンニーが怒り任せに地面に突き刺したスコップが、カチリという鈍い音を発した。そこから金の仮面が出て来た。

 マクディーが魔女ではないことに気が付いた男がもう1人いた。カッルーである。カッルーもあの犬を見て全てを悟ったのだった。カッルーは包丁を手にマクディーの家に乱入し、金の仮面を手に入れて狂喜乱舞していたマクディーと格闘を繰り広げる。穴から抜け出したチュンニーはマクディーを落とし穴に落とすことに成功する。こうして、村は迷信と不正を暴いたのだった。

 子供向け映画ということで、なるべくお手柔らかに批評しようと思う。まず、雰囲気は「ズッコケ三人組」シリーズに似ていた。スリルとサスペンスがありながらギャグもあり、最終的に子供の知恵が大人の悪巧みに打ち克つというストーリー・ラインは、まさに僕が子供の頃に好きだった「ズッコケ三人組」である。そしてインドの豊かな自然の中で――おそらくケーララ州の熱帯雨林と河の織り成す自然の中で――のびのびと生きる子供たちの姿が生き生きと描かれており、僕も幼少時代をインドの田舎で過ごしたかったな・・・と思った。登場人物もまさに絵に描いたようだったが、それもこの映画なら許される。厳しい先生、マッドな鶏屋、役立たずの警官、金の亡者のブラーフマン、優柔不断な村長などなど・・・。まるでお伽話のような、何か懐かしいような、極端だが魅力的な登場人物設定だった。

 そして村外れに住む魔女マクディー。そういえば僕も昔、家の近くにあった廃屋に、オバケを探しに友達と潜入したことがあった。子供というのは、毎日何か謎の種を探しているものだ。そんな思い出とオーバーラップさせながら見ると、少しは楽しめる映画かもしれない。

 決して発想は悪くなかったと思う。一部は非常にうまく行っていたと思う。特に村から子供たちが次々と失踪する前半は、ハラハラドキドキしてよかった。だが、惜しいかな全体としてお粗末な印象を受けた。特に最後の部分はやたらと急ぎ過ぎていて、あっという間に事件が解決してしまった。こんなのでいいのか、と言うくらいである。レアな映画だったことは確かだが、見終わった後の気分は、まるで値段だけ高くて量が少ないフランス料理を食べ終わった気分だった。

 映画全体の出来は納得できなかったが、キャストの演技はなかなかだったと思う。やはり主演のシュヴェータ・プラサードがよかった。まだ10歳くらいなのに、既にダブル・ロールを立派に演じていた。「Deewangee」のアジャイ・デーヴガンと同じくらいの演技力だった。この子はテレビドラマでけっこう出演しているみたいで、もしかして将来子役から大女優へ成長を遂げるかもしれない。ま、インド人の女の子は15歳くらいが一番かわいいので、どうなるか分からないが・・・。

12月6日(金) Yamato−ya革命

 デリーに革命が起きつつある。いや、正確に言えばデリーの日本人社会に革命が起きつつある。もうすぐサフダルジャング・エンクレイヴにできる日本食材屋Yamato−yaがその革命の旗頭である。既にYamato−yaの噂はデリー在住はおろか、インドに住む日本人コネクションを駆け巡り、韓国人ワールドにもその噂が届き、駐印日本大使もその開店を心待ちにしている状態である(?)。当初の予定ではもう開店していなければならないのだが、ここはインド。何事も予定通り進まないので、開店日を正確に設定できない。何が起こるか分からないからだ。だが、12月中にオープンする可能性が強い。

 現在デリーに本格的な日本料理レストランは3、4軒くらいしかない。日本料理の食材を売る店など今までほぼ存在しないに等しかった。留学生は日本料理を食べることなんてあまり考えずに生きざるをえず、駐在員の家庭は買出し旅行でバンコクやシンガポールから山ほど食材を買い込んで来なければならなかった。しかし、日本食材屋がとうとうデリーに登場するのだ。それができることは何を意味するか。それは日本人が住むための環境が何とか整い始めたことを意味する。日本人が住む環境が整えば、インドに進出する企業も自ずと増えてくる。現在インドでは韓国企業がわが世を謳歌しているが、もし日本企業の攻勢が始まったら、彼らの駆逐は火を見るより明らかである。そしてインドで日本企業の天下が始まるだろう。現在のデリーは東南アジアの30年前とよく似ていると言われる。もしかしたらこのYamato−ya革命は、デリーの日本人社会だけでなく、本当にデリー全体、ひいてはインド全体の革命につながる第一歩になるかもしれない。

 今日は急ピッチで工事中のYamato−ya店内を見せてもらった。少し前に見たことがあったのだが、そのときに比べて見違えるほどキレイになっていた。とりあえずYamato−yaの一階は、喫茶店というか、くつろぎの場となっており、買い物に来た奥様方がコーヒーを飲みながら四方山話をすることができるようになっている。地下がメインの売り場で、インド製ながら清潔感ある棚がズラッと並べられており、まさにコンビニエンス・ストアのようだった。スペースも余裕があり、これは期待ができる。僕までワクワクしてきた。

 前々から書いているが、時々デリーがバンコク化していくことに一抹の悲しさを感じることがある。だが、一方でその発展を一日一日眺める幸運に恵まれたことを嬉しく思っている。バンコクは現在世界でもっとも日本人が住みやすい街となったが、代わりに既に飽和状態にあり、これから何か面白いことが起こりそうな予感があまりしない。しかしデリーはここ最近毎日と言っていいほど発見がある。こんなところに新しいイタリア料理レストランが!あんなところにタイ料理レストランが!そんなところに新しいショッピング・コンプレックスが!そういう発見を友達と情報交換したりして、実際に訪れてみたりして、もう毎日が冒険のようだ。また、どんなに気合の入ったレストランや店でも、どこかインドらしい肩の抜けたところがあるのが、どことなくホッとしたりする。しかし、明らかに最近、超インド的空間がデリーのあちこちに形成されつつあり、デリーがバンコクになるのはそう遠くないような気がする。それでいて、僕はインドがインドを捨てる日はまだまだ来ないと言い切る自信も持っている。そういうところがデリーの、そしてインドの好きなところだ。インドは世界に呑み込まれることなく、世界を逆に呑み込みながら、まだ自分を「インドだ」と言い張るだけのヴァイタリティーを持っている。

12月7日(土) デリー日本人留学生忘年会

 デリー日本人留学生忘年会がヴァサント・ヴィハールの日本料理レストラン「たむら」の地階にて行われた。たむらさんの営業時間を外す関係で、4:00pm〜7:00pmという中途半端な時間だが、料金は出血大サービスの1人100ルピー。ビール飲み放題で1人160ルピー。料理は日本食ビュッフェ。デリー初の試みだったので、どうなることか・・・。

 僕は一応幹事のような感じだったので、いろいろパーティーの細部を考えなければならなかった。なるべくなら開始1時間前から、たむらへ行って準備をしたかったのだが、別の仕事が入って朝からファリーダーバードへ行っていた。朝から何も飲まず食わずで、ほとんど砂漠のような場所で埃と砂まみれになっていた。パーティーの主催者がどうしてこんなところでこんなことをしているのか・・・、非常に理不尽な気持ちでいっぱいだった。

 ファリーダーバードの仕事が一段落したので、そこからたむらに直行し、3時半には到着した。それから急いで忘年会の準備をした。いろいろ不手際があって焦りまくっていたが、まあなんとか4時には参加者を迎え入れれる体勢が整った。ところが、4時になってもほとんど人が来ない!なぜだ!日本人は4時と言ったら4時に来るはず・・・。そう、インドに住む日本人は時間感覚もインド人化してしまう傾向にあるのだ。これをヒンディー語の慣用句で「インドの風に吹かれた」と言う。その土地の風習にすっかり溶け込んでしまった様を言う。僕もある程度インドの風に吹かれたが、時間感覚だけは何とか日本人のそれを保っていると自負している。だが、思ったよりもインド時間を守るようになってしまった日本人は多いみたいだ。結局、4時半くらいまで待って、なんとか20人ぐらい集まった。最終的に49人の人が来てくれた。

 1人100ルピーということで、それ程高級な料理は出ないだろうと当初は思っていた。ところが、たむらさんの粋な計らいにより、なんと刺身の盛り合わせが出るという情報をキャッチした。しかし、今度は、いくら刺身が出るとしても、最初の1、2皿だけで、遅れて来た人に刺身は残っていないだろうと思っていた。しかし、たむらさんの太っ腹は本物で、4、5皿は刺身が出てきて、遅れて来た人も十分刺身を食べる幸運にありつけた。最後には刺身が余っていたくらいだ。その他、天ぷら、散らし寿司、太巻きなどなど、いろいろな日本食が出て来た。まさに出血多量大サービス、少なくとも食の部分で、参加者には楽しんでもらえたと思う。

 初の留学生パーティーということで、やはり問題点も多くあった。まず、49人という人数を収容するには、たむらさんの地階は狭かった。窮屈な感じがしたのは否めなかった。また、7時までだったのに、満腹になったら早々と帰ってしまう人もいたりして、6時半には自動的にパーティー終幕となってしまった。盛り上がりに欠けていたと思われる。もともと僕はパーティー主催者に向いた人間ではないので、これは全て僕の責任である。もっとお祭り男に幹事になってもらうべきだった。あと、北デリーに住んでいる、デリー大学の留学生たちをたくさん呼ぶことに失敗したことも残念だった。どうもまだデリーの日本人留学生はひとつになりきれていないところがある。

12月8日(日) インターナショナル・バザール/Rishtey

 アショーカ・ホテルでインターナショナル・バザールなるイヴェントがあった。毎年恒例のイヴェントで、世界各国の店が出店するらしく、ある人の話では「金がいくらあっても足りないくらいすごい」らしいので、どんなものか確かめに行ってみた。入場料は大人50ルピー。アショーカ・ホテルの玄関前の庭で行われていた。僕は開始時刻の11時に合わせて訪れたのだが、既にアショーカ・ホテル周辺の道路が全て駐車場と化すほど多くの人が押しかけていた。

 インターナショナル・バザールは大まかに分けて二つのセクションに分かれていた。1つは特定の個人・団体の店がかたまっているセクションで、もう1つは各国大使館関係のセクションである。前者の方では、インテリア、小物、アクセサリー、衣服などの店が目立った一方で、後者の方は世界各国の名産品、名物料理を売っていたりした。どうも後者の方が断然目玉のようで、多くの人がいろんな国のブースを訪れていた。一番人気はフランスのワイン販売だった。一本400ルピー前後でフランスのワインが売られており、フランスのブースの前には一際目立つ人だかりができていた。ある人はここでワインを20本以上買い占めたりしたらしい。

 やはり面白いのは、あまりメジャーではない国のブースである。カザフスタンとか、トリニダッド・トバゴとか、アフガニスタンとか・・・。パーキスターンのブースまであったので驚いた。売られていたものは大したことなかったが。日本、韓国、中国などのブースもあった。

 僕は特に大きな買い物をするでもなく、ただブラついて、変わった食べ物を買って食べただけだった。シリア、フィリピン、中国などの食べ物を食べた。こういうところで売られている食べ物は衛生的ではないことが多いので、すぐに下痢になることが多いのだが、今回は大丈夫だった。



 午後からチャーナキャー・シネマで新作映画「Rishtey(関係)」を見た。監督はインドラ・クマール。アニル・カプール、カリシュマー・カプール、シルパー・シェッティー主演の映画である。




左からアニル・カプール、
シルパー・シェッティー、
カリシュマー・カプール


Rishtey
 ある港で働く労働者スーラジュ(アニル・カプール)にはカランという1人の息子がいた。スーラジュとカランは父子二人で協力し合い、深く愛し合いながら幸せに暮らしていた。同じ港で魚を売るヴィヤジャンティー(シルパー・シェッティー)は、スーラジュに惹かれていたが、おっちょこちょいな性格からスーラジュを困らせていた。

 スーラジュには実は妻がおり、今も生きていた。妻の名前はコーマル。大富豪ヤシュパール・チャウドリー(アムリッシュ・プリー)の娘だった。昔、スーラジュは場末の格闘家で、夜な夜な賭博場のリングに上がって殴り合いをしていた。そんなスーラジュの心の支えになっていたのがコーマルだった。しかし父親のヤシュパールは娘の結婚を拒絶する。スーラジュとコーマルは駆け落ちするが、ヤシュパールの策略によってコーマルはスーラジュが不倫をしたと思い込み、スーラジュの元を離れる。しかしそのときコーマルのお腹には命が宿っていた。コーマルはカランを産むが、ヤシュパールの部下がその子を殺そうとするのを見てスーラジュが駆けつけ、カランを助け出し、そのまま姿をくらましたのだった。それから7年の歳月が過ぎていた。

 スーラジュに裏切られ、息子を失ったコーマルは、毎日絶望のどん底で生きていた。ヤシュパールは娘の心を癒すには息子を取り戻すしかないと医者から言われ、息子を探させていた。やがてカランとスーラジュはヤシュパールに発見され、カランは誘拐される。そのときはスーラジュが間一髪駆けつけて取り戻すものの、今度は法的な策略によって、カランはコーマルの元へ連れて行かれてしまう。

 カランを失い、同時に職も失い、落ち込むスーラジュを支えたのはヴィヤジャンティーだった。良心的な裁判官の助けにより、スーラジュはもう一度カランを取り戻すために裁判を行う機会を得る。そこで、スーラジュはヤシュパールと契約を交わす。カランを養育していけるだけの能力があることを示すため、もしスーラジュが3ヶ月以内に1000万ルピーの金を稼ぐことができたら、カランはスーラジュの元へ返される、という契約だった。

 コーマルとの結婚を機にリングに上がるのを止めていたスーラジュだったが、1000万ルピーを手に入れるためにもう一度戦うことを決意する。そのスーラジュを迎え撃つのは、ヤシュパールの息のかかった怪力大男スコーピオンである。スーラジュは7年間のブランクを埋めるべく猛特訓をする。

 一方、ヴィヤジャンティーはスーラジュとコーマルの間に起こった出来事を知り、またスーラジュの不倫はヤシュパールの策略であり、真実ではないことを突き止める。ヴィヤジャンティーはコーマルの家に押しかけ、その真実を明らかにする。そのときちょうど、スーラジュとスコーピオンの戦いのゴングが鳴り響いていた。

 スコーピオンの力は圧倒的で、スーラジュは一方的に殴りこまれていた。スコーピオンはヤシュパールから、ただ勝つだけでなく、スーラジュを殺すよう指示されていた。スーラジュは何もすることができず、リングに身を埋める。ところが、そこへ現れたのはコーマルだった。コーマルは今までのことをスーラジュに謝る。力を得たスーラジュは、一気にスコーピオンに反撃し、逆転KOを奪う。こうしてスーラジュはカランを取り戻しただけでなく、コーマルの心も取り戻すことができたのだった。また、ヤシュパールもその場に現れ、スーラジュに謝罪した。

 久々に典型的かつ古典的なインド映画を見た気分だった。9月の「Shakti」以来である。マサーラー・ムーヴィーの名に恥じない、いろんな要素が盛りだくさんの映画だった。

 いろんな要素の中でも、まずやってくれたのはボリウッドお得意の「パクリ」。カランは最初足が不自由な子で、歩くのに補強器を付けなければならなかった。しかし父親のスーラジュは何とかカランを走らせようと、学校の運動会の徒競走に参加させる。カランも大好きな父親の期待に答えようと、一生懸命補強器を付けながら走る。しかし、やはり他の健康な子供にかないっこない。どんどんカランは遅れて行ってしまう。遂にカランの足も止まる。スーラジュも「やっぱり駄目だったか」と頭を抱える。その様子を見たカランはもう一度奮起し、走り出す。すると、補強器が壊れ、なんとカランは自分の足で走り出した。しかもすごいスピードで。カランはそのまま他の子供たちを追い抜き、1等賞になる。これはまるで「フォレスト・ガンプ」じゃないか!!あ〜、「フォレスト・ガンプ」になっちゃうよ〜と思いながら指をくわえて見ていたが、やっぱり「フォレスト・ガンプ」になってしまったのでちょっと拍子抜け。でも感動した!

 全体としてシリアスなストーリーだったが、コメディーも上々、アクション・シーンもまあまあで、バランスのとれた映画だったと言える。唯一音楽だけは不合格。音楽が悪いのでダンスも印象に残らない。しかし歌とダンスで売る映画ではないと感じたので、あまり深く突っ込むことはしない。いい映画だとは思ったが、ヒットするにはまだ個性が足りない。残念ながら、2002年フロップ映画リストに名を連ねることになってしまうだろう。

 アニル・カプールの演技はさすが。非の付け所がない。カリシュマー・カプールは、本当に悲劇の女を演じさせたら右に出る者はいない。いや、いるとしたらタッブーぐらいだろうか。だが、シルパー・シェッティーはミス・キャストの匂いがプンプンした。今回、能天気な田舎娘を演じたシルパーだったが、全然似合っていなかった。この役は誰に演じさせるべきだったか・・・。プリーティ・ズィンターあたりがよかったかもしれない。

12月9日(月) Tokyo Contemporary Dance 2002

 日印国交樹立50周年記念行事の一環で、今日、シュリー・ラーム・センターでプログラムが催された。今回は「Tokyo Contemporary Dance 2002」と題され、日本のコンテンポラリー・ダンスが披露される。だが、いったいどんなダンスが繰り広げられるのか全く予想が付かない。これは行ってみるしかない、ということで、開演時間の7時に合わせてマンディー・ハウス近くのシュリー・ラーム・センターを訪れた。先週津軽三味線のコンサートがあった会場と同じところだ。

 やはり嬉しいことにインド人の観客が多く来ていた。日本人ももちろんいたが、思ったほど多くない。外国人の姿もチラホラ見かけた。会場はほぼ満席になっており、まず集客は成功と言えるだろう。

 今日のプログラムでは、3つのダンス・グループが順番にパフォーマンスをした。まず一番手はタンノ・ケンイチという個人の「Numbering Machine」とい演目だった。ソロダンス、派手でおどろおどろしい服、機械的なダンス、斬新な映像の混沌としたミクスチャーで、最初はその異様さに驚いたものの、何か懸命に訴えかけてくるものがあってよかった。ソロであることを感じさせない秀作だったと思う。

 2番手はNibrollというグループの「Coffee」という演目。男女合わせて8人ほどで、都会の人間模様というか、なんか雑多な踊りを踊っていた。このグループも映像をうまく使っていてよかったのだが、どちらかというと映像の方に目が行ってしまいがちで、あまり人間の踊りを見ることができなかった。だからあまり印象に残っていない。

 3番手はStrange Kinoko Dance Companyという団体の「Frill(Mini)」という演目。ダンサーは5人、全員女性だった。舞台の装飾もなかなかセンスがあってよかった。そして衣装がかなりきわどかったので、3つのグループの中で一番目を引いたのではなかろうか。特に太ももの露出度がインド離れしていた。観客の中には上流階級のマダムもいたはずで、「まあ、女の子があんなに太ももを露出して、はしたない」と顔をしかめていた人もいたと推測される。だが、個人的にはここのグループが一番テーマ感に乏しく、なんか5人で勝手に楽しんで踊っていたような印象を受けた。

 まあ三者三様のダンスが見れて、なかなか楽しかった。先週の津軽三味線よりはよっぽどインド人にも楽しんでもらえたのではなかろうか?それにしても日本のコンテンポラリー・ダンスというものを初めて見た。インドに住んでいなかったら、一生見る機会がなかったかもしれない。

12月10日(火) オートリクシャー・ストライキ

 昨日から今日にかけて、オートリクシャーがストライキを行っている。今年から導入された電動メーターに対するストライキである。今までデリーのオートリクシャーにはアナログ・メーターが装着されていたが、それが廃止され、電動メーターに移行しつつある。

 何が問題かというと、電動メーターで設定された料金が非常に安いということである。どうせオートに乗るときはメーターなんて使用せず、事前に料金交渉しているので、あまり関係ないような気もするが、オート・ワーラーにとっては死活問題なのだろう。聞くところのよると、今まで50ルピーだったところが、電動メーターでは35ルピーになってしまうそうだ。

 ストライキは民主主義国家に住む国民に平等に与えられた権利である。ストライキを行使することに制約がある民主主義国家の方がどうかしている。だが、やはり交通機関のストライキというのは非常に困る。バスのストライキも困るのだが、オート・リクシャーのストライキがもっともデリー市民にとってダメージが大きいのではなかろうか?

 僕も今日はオートのストライキのせいで学校へ行くことができなかった。バスを使えば行けるには行けるのだが、今日はオートで行こうと決めて家を出たので、自宅近辺でオートを探し回った。しかしオート乗り場にオートの姿は全く見当たらない・・・。ストライキは昨日だけだと思っていたので、今日もストライキであることを知って、だんだん学校へ行くのが面倒になって来た。その内学校の始まる時間になってしまい、もう今日は学校行くのは諦めて家に帰ることにしたのだった。

 それにしても、割と個人で好き勝手に商売しているように見えるオート・リクシャーも、案外団結力があることに驚いた。もちろん、オート・ワーラーのオートは個人の所有物ではなく、ボスから借りて商売をしていることがほとんどだ。だからオート・リクシャーは個人の商売ではない。だが、デリー中のオート・リクシャーが一斉にストライキをするには、オート・ワーラー同士の横のつながりが必要不可欠である。そんなものがあったことに驚きである。ただ、おそらくサイクル・リクシャーのストライキはデリーでは無理なんじゃないかと思う。サイクル・リクシャーはかなりローカルな乗り物なので、あまり横のつながりがなさそうだからだ。そもそも、サイクル・リクシャーがストライキしたところで、困る人はほとんどいなさそうだ。サイクル・リクシャーというのはデリーでは基本的に歩くのが面倒なときに乗る乗り物だと思う。

12月11日(水) デリーの電話番号変更

 突然だが先週からデリーの電話番号が変更になった。東京03の次に3が付け加えられたときのような感じの変更である。しかし、その変更の法則がややこしい。

 デリーの市外局番は011で変わりないが、その次の番号が3〜7のときは、その前に2が加わる。例えば、アショーカ・ホテルの電話番号は011−6110101だったが、変更後は011−6110101となる。ただし、011の後の数字が3〜7以外の場合は、電話番号に変更はない。

 デリーの衛星都市であるグルガーオン、ノイダ、ファリーダーバードの電話番号も同時に変更となった。ノイダとファリーダーバードの電話番号は、市外局番の91が取れて、代わりにそれぞれノイダは95120、ファリーダーバードは95129が付く。例えばノイダのショッピング・コンプレクス、サブ・モールの電話番号は91−4538345だったが、変更後は95120−4538345となる。

 もっともややこしいのはグルガーオンの変更である。やはり市外局番の91が取れて、代わりに95124が付くのだが、その後の数字が6の場合は、それが2に変わる。例えば、グルガーオンのホームセンター、Arcusの電話番号は91−6314884だったが、変更後は95124−314884となる。

 あともうひとつ法則があるのだが、普通あまり関係ないし、例が見つからないので省略しておく。これらをまとめると以下の表のようになる。

デリー
011の後、3〜7が来る場合は、その前に2を加える。
例:011−6110101―→011−26110101(アショーカ・ホテル)
011の後、1、8、9が来る場合、変更なし。
例:011−8650165―→011−8650165(Yamato-ya)
ノイダ
91を取り除き、95120を加える。
例:91−4538345―→95120−4538345(サブ・モール)
ファリーダーバード
91を取り除き、95129を加える。
例:91−5274602―→95129−5274602(Destination Point)
グルガーオン
91を取り除き、95124を加える。
例:91−8941854―→95124−8941854(Needs)
ただし、91の次に6が来る場合は、6を2に変える。
例:91−6314884―→95124−2314884(Aucus)

 現在僕は、日本人会婦人部が2年に一度発行している「ニューデリー 生活の手引き・医療案内」のネット版を作成中なのだが、タイミング悪いことにこの電話番号の変更前に発行されてしまったため、冊子中の電話番号のほとんどは旧情報と化してしまった。ネット版はもちろん最新の電話番号を載せなければならないので、上の表の法則に従って頭をひねりながら、ひとつひとつ電話番号を吟味しているところである。だんだん数字を見るのが嫌になって来た・・・。

12月12日(木) 窓ガラス装着

 明後日からテストが始まるため、今日は1日学校が休みだった。テスト勉強の他にもいろいろやらなければならないことがあったので、今日はその休日を有効利用することに決めた。

 そのやらなければならないことの中でも、今日は大きな前進があった。それは、バスルームの窓のガラスを付けることに成功したことである。この窓ガラスは長年の懸念だった。

 事の顛末はこのガウタム・ナガルの部屋に住み始めたときから始まる。最初からバスルームの窓にガラスが付いていなかったのだ。バスルームの窓は、両開きの窓2つと、その上の天窓ひとつがあるのだが、それらにガラスが全くはまっていなかった。そのときはまだ夏だったので、風通しをよくするためにもガラスはまだ必要ないと判断し、そのまま放って置いた。ただ、バスルームが向かいの部屋から丸見えになってしまうので、新聞紙を下の窓に貼って視界を遮断しておいた。

 それからやがて冬が来た。バスルームが外気と通じているとシャワーを浴びるときに寒い。寒すぎる。何とかしなければならないと切実に感じた。しかしそのときの僕はやたらと貧乏性だったので、天窓に新聞紙を貼って応急処置をしておいた。新聞紙を布団にすると意外と温かいという話を聞いたことがある。新聞紙を窓全体に貼っただけでバスルームが温かくなったことに気をよくして、そのまま新聞紙を貼り続けておいた。

 そしてホーリーが過ぎ、やがて灼熱の酷暑期がやって来た。5月に僕は日本に帰り、6月末にはインドに戻ってきた。2ヶ月ぶりに自分の部屋に入ってみると部屋は埃まるけ。住み主のいない部屋は、両親の愛なしに育った子供のように荒れまくってしまう。そんなことを考えながらバスルームを見てみると、窓に貼っておいた新聞紙が剥がれ落ちていた。ますます虚しい気分になった。しかし既にデリーは相当暑かったので、そのまま天窓は開けっ放しで放置しておくことにした。

 それから酷暑期が過ぎ、遅いモンスーンが過ぎ、秋とかろうじて呼べる季節が来て、やがて冬の足音が聞こえ始めた。そしてディーワーリーの季節が到来した。ちょうど旅行に適した季節なので、僕は2週間に一度旅行を繰り返していたのだが、そんな中、10月の末にアジメールへ旅行へ行っていた隙に、僕の部屋は空き巣に入られてしまった。空き巣が入ってこれるポイントは、僕の部屋にはひとつしかない。バスルームの天窓である。空き巣の被害は大したことなかったので、くよくよするのは止めて、とにかく二度目の空き巣に入られないよう、一刻も早くその天窓をふさぐことを決めた。空き巣に入られた日に早速大家さんの家に行って、天窓にガラスを付けさせるよう頼んだ。

 それから2ヶ月が過ぎ去った。その間、大家さんは何もしてくれなかった。というか、ガラスを付けさせるには、僕が1日中部屋にいなければならないので、その暇が見つからなかったのである。毎日どこかへ出掛けていた。よって、早く天窓にガラスを付けさせねば・・・と焦りつつも時間だけが過ぎて行って、気温がどんどん下がってきた。12月に入り、外気直通のバスルームでシャワーを浴びることが困難になって来た。そしてやっと今日、テスト勉強のために1日部屋にいる時間ができたので、ついでに窓のガラスも付けてもらうと思い、大家さんに頼んでおいた。

 何事も遅々として進まないインドだが、今日のガラス・ワーラーはちゃんと来てくれた。1時頃、ガラス・ワーラーは僕のバスルームの窓枠の計測にやって来た。メジャーで縦横の寸法を測り、それをメモして帰って行った。そしてガラス・ワーラーが来ることなどほとんど忘れかけていた6時頃、再び彼は僕の部屋を訪ねてきた。手には3枚のガラスを持っていた。彼は窓のガラス枠を強引にはがし、そこにガラスをはめこみ、またガラス枠を接着させて帰って行った。代金は大家さん払いなので、いくらかかったか知らない。

 とにかく、去年からの懸念だったバスルームの窓ガラスが、今日解決した。他の人にはこの喜びは分からないだろうが、僕にとって記念すべき日となった。しかしまだ懸念事項はいくつか残っているのだが・・・。

12月13日(金) ウッドランド

 昨日の窓ガラス装着に引き続き、もうひとつ去年からの因縁というか、懸念というか、とにかく問題があった。それは靴である。

 去年、僕は1足の靴と共にデリーの降り立った。その靴は半年くらい日本で履いていた、いわゆる「履きなれた靴」というやつだ。旅行の持ち物の鉄則として、その言葉は必ず出てくる。正確にいうと旅行ではなかったが、僕もそれに従って「履きなれた靴」と共にインド留学の第一歩を踏み出したのだった。

 それから僕は1年間浮気することなく、その靴をひたすら履き続けた。「履きなれた靴」は次第に「履き古した靴」へと変わって行った。今年の5月、日本に帰ったときには、その靴は既にオンボロ靴となっていた。その靴への愛着はあったが、再びその靴を履いてインドへ行く勇気はなかった。僕は日本で新しい靴を買った。しかし、その新しい靴はインドへ出発するときに初めて履こうと決めていた。新たな気持ちで出発したかったからだ。渡印前夜、僕は玄関に新旧2足の靴を並べて置いておいた。まるでこの2足の間で、その夜、任務継承の儀式が行われるかのように・・・。

 次の朝、インドへ再出発するとき、僕は少し急いでいた。しかも外では大雨が降っていたため、荷物の多かった僕は成田エクスプレスの出る新宿駅までタクシーで行かざるをえず、思わぬ出費に焦っていた。全ての荷物をパッキングし終え、チェックし終え、さあいざ出陣!というときに、半ば放心状態だった僕はついつい履き慣れたオンボロ靴を足にはめ込んでしまい、そのまま外に出てしまった。僕が古い靴を履いていることに初めて気が付いたのは、スリランカへ向かう飛行機の中だった。「またお前かよ」という気分である。こうして、1年以上履き続けた靴を、もう1年履き続けなければならないことになってしまったのだった。

 日本製の靴だったので、もう1年ぐらいはもつだろうと楽観視していたのだが、やはり毎日履いていたので、駄目になるスピードは速かった。今日道を歩いていて、何気なく水溜りの中に足を踏み入れたところ、靴の中に水が入ってくることに気が付いた。どうも底が磨り減って、穴が開いてしまったらしい。実は靴磨き屋に頼めば、新しい靴底を取り付けてくれて、簡単に直してもらえるのだが、もうこの死にかけの老人に無理に延命措置をする気になれず、とうとうインドで新しい靴を買うことに決めたのだった。結局その靴はまるまる2年もったことになる。

 インドの靴メーカーの中で、もっとも高い評価を得ているのはウッドランドというメーカーである。バタも有名だが、品質やデザインからいえばウッドランドに軍配が上がる。予めウッドランドで靴を買うことを考えつつも、今日はテストが終わった後、コンノート・プレイスの靴屋全てを廻るつもりで靴ショッピングに出掛けた。

 靴を買おうと思ってコンノートをブラブラ歩くと、本当にたくさんの靴屋があることに驚く。ウッドランド、バタ、リバティー、リー・コッパーズなどのチェーン店から、個人経営の靴屋まで、インド人はこんなに靴好きだったか!と改めて実感するほど多くの靴屋があった。それらをひとつひとつ訪ねながら、結局ウッドランドへ戻ってきた。僕の好みに合う靴が多いし、ネーム・ヴァリューもあるし、安心感もある。安物買いの銭失いが一番嫌いなので、この際インド製ながら高級品を買おうと思い、1795ルピーのカジュアルな革靴を買った。さあ、この靴がどれだけもつか、これから「Made in India」の本領をとくと見せてもらおうではないか。




ウッドランドでインド製靴を購入。
1795ルピーなり。


12月14日(土) Yamato−ya一部開店

 今日は、デリーの日本人の生活を根本から変えるきっかけになるであろう記念すべき日である。本日午前11時より、サフダルジャング・エンクレイヴにて日本食材屋Yamato−yaがオープンした。もともと11月オープンを予定していたそうなのだが、インド事情によって遅れに遅れてしまった。しかし僕は年内開店は無理だと踏んでいたので、今日オープンすると聞いたときには正直驚いた。まだ試運転の段階で、「一部開店」と銘打ってオープンした。商品も半分くらいしか売り出していない。

 僕もYamato−ya発足には当初から片足の指先くらいを突っ込んでいたので、11時開店の前に何か手伝いにYamato−yaを訪れた。店内は日本人的センスできれいに飾り付けられており、非常に清潔感があった。確かに今まで、ここまで日本人を安心させるような雰囲気を持つ店はデリーには存在しなかった。日本なら当たり前の配慮が、インドではほとんど存在せず、そういう中で暮らしている内に僕自身もそれに慣れてきてしまっていた。Yamato−yaに入った瞬間、なんか遠いところにポツンと立っていた「日本人の僕」が僕のところに走って戻ってきたような気分になった。とりあえず店内は日本人に満足してもらえるだろう。数人の日本人と数人のインド人が開店スタッフとして働いていた。

 今日明日は開店記念ということで、紅茶とコーヒーがサービスだった。そのサービスする役を僕は突然仰せつかってしまった。ちょうど余っていたエプロンを身に付け、すっかりコンビニのお兄さんみたくなってしまった。

 あまりまだ大々的に開店の告知が行き渡っていなかったため、来客数はそんなに多くなかった。しかし11時に開店した後もいろいろ準備に手間取っていたので、ちょうどいいくらいだった。今日は日本米、キムチ、冷凍食肉、冷凍魚類などが売り出されていた。僕は売り上げに微力ながら貢献するため、キムチを購入した。後で、この前のインターナショナル・バザールで買った辛ラーメンと一緒に食べてみたらけっこうおいしかった。値段は白菜キムチで開店価格140ルピーなり。

 僕は1時頃まで手伝って、後は帰らせてもらったが、その後もパラパラと客が来たのではなかろうか。これから完全開店に向けて、Yamato−yaの邁進は続くだろう。

12月15日(日) 16のサンスカール

 迷信だと思われていた伝統的習慣が、実は何かしら科学的根拠を持つものであることが最近改めて発見されることがたまにある。インドの習慣にもそういう科学と一致する迷信が少なくない。16のサンスカールがそれである。

 「サンスカール」の意味はいろいろあるが、ここでの「サンスカール」とは、日本語で「通過儀礼」と訳せば都合がいいと思う。人間が生まれてから死ぬまでに経験する通過儀礼が、インドでは16ある。いや、実際は生まれる前からサンスカールは始まっている。そして死んだ後は別に何もない。日本のように死んだ後もネチネチと儀礼を続けることはしない。16のサンスカールとは以下の通りである。

ガルバーダーン 妊娠
プンスワン
スィーマンターンナヤン
ジャートカルム(ジャナム) 誕生 0歳
ナームカラン 命名
ニシュクラマン 初外出
アンナプラーシャン 離乳食 6ヶ月
チューラーカルム(ムンダン) 剃髪 1歳または3歳
カルンワド 耳に穴を開ける 3歳または5歳
10 ウプナヤン 学業開始 6歳
11 サマーワルタン 学業終了 25歳
12 ヴィヴァーハ 結婚
13 グリハスターシュラム 家住期 25歳〜50歳
14 ワーンプラスターシュラム 林住期 50歳〜75歳
15 サンニャーサーシュラム 遊行期 75歳〜100歳
16 アンティエーシュティ

 1番から3番までは、まだ母親の胎内にいる間に行われる。具体的に何が行われるのかは詳しく知らないが、これは現代の胎教にあたる儀式と考えればいいと思う。胎内にいる内から子供の成長は始まっていることが、昔のインド人にも分かっていたのだ。赤ん坊の誕生は世界中どこでも祝われるからいいとして、その後子供が結婚するまでは、インド独自の思想に基づいたサンスカールが行われる。まずナームカラン(命名式)。ブラーフマンによって新生児にとって吉祥な頭文字が選ばれ、家族はその頭文字に従って名前を決定する。ニシュクラマンで、赤ん坊は初めて外に出される。それまでは定められた一室で育てられる。これは衛生上の配慮だと思われる。赤ん坊の誕生から6ヶ月後、アンナプラーシャンでは初めて固形物が与えられる。日本では離乳食と言っているものだ。次の2つはインド特有のものだろう。ムンダンのときに初めて幼児の頭髪は切られ、このとき丸坊主になる。生まれたときに生えている頭髪は身体に悪いのか、または縁起が悪いそうだ。そしてカルンワドのとき、幼児の耳にピアス用の穴が開けられる。本当かどうか知らないが、耳たぶは免疫機構と直結しており、耳に穴を開けると免疫が強まるらしい。

 ここまでは子供の身体の発育に沿った通過儀礼が続くが、この後は子供の知能の発達に沿ったサンスカールとなる。インドの伝統的な学校は「グルクル」と呼ばれ、グルの元に住み込んで寮生活をしながら学問を習得する。ウプナヤンはグルクルへの入学、サマーワルタンは学業を完了し、グルクルから自宅へ戻る儀式である。この生まれてから25歳までの期間はブラフマチャルヤ(学童期)と呼ばれる。

 その後、人生で最大のイヴェント、ヴィヴァーハ(結婚)となる。結婚後はグリハスターシュラム(家住期)となり、子供を作り、お金を稼ぎ、家族を養う期間となる。50歳を過ぎると仕事から引退し、ご隠居生活をするように定められている。ワーンプラスターシュラム(林住期)である。75歳を過ぎた後は来世のことを考え、宗教中心の生活をすることが求められる。サンニャーサーシュラム(遊行期)の名の通り、この時期にインド各地の聖地を巡礼する老人は今でも少なくない。そして人間はアンティエーシュティ(死)を迎えることになる。

 16のサンスカールを見ると、これは全くの迷信ではないことが分かる。ちゃんとした科学的根拠に基づいて、どの時期に何をすべきかが定められている。そして胎児教育のような、現代になって思い出したように行われ始めたことまで盛り込まれている。結局、科学というのは、今まで迷信だと思われてきた事柄が、決して根拠のない迷信ではないことを明らかにするだけのものかもしれないと時々思う。



―宴旬編 終了―

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