スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2001年ダイジェスト

装飾下



10月19日(金) 松岡環さんの講演会

 今日はカジュアル・フライデーということでジーンズにTシャツといういでたちで出掛けた。学校が終わった後、日本人数人で松岡環さんの講演会に出席するため、ジャパン・ファウンデーションへ向かった。

 3時から始まるとのことだったが、そこに着いたのは3時20分頃だった。やはり日本人が主催し、日本人が集まる会なので、時間通りに始まっていたようだ。既に会場には松岡環さんがいて、何か話をしていた。いそいで後ろの方の席についた。

 松岡環さんは大阪外国語大学インド・パキスタン語科の卒業生で、インド映画のみならず、アジア映画全般の研究者である。今回はインド映画に限って話を聞かせてもらったが、インド映画の簡単な歴史から始まり、インド映画の特徴や問題点などの話に加え、最後には実際に古今東西のインド映画の上映会があった。

 インド映画が最初に作れられたのは1912年、ボンベイにてである。1931年にトーキー映画が始まり、それと同時にインド映画の最大の特徴であるミュージカルや多言語製作も始まった。それまでは俳優自身がミュージカル・シーンで歌を歌っていたのだが、インド独立の1947年、歌と演技をこなせる俳優が揃ってパーキスターンへ行ってしまい、それからプレイバック・シンガーが歌を担当することになる。それから徐々にインド映画は発展していき、1980年代にはテレビの普及で一時落ち込むものの90年代にはまた盛り返し現在にいたるようだ。

 インド映画のユニークなところはいくつかあるのだが、その中でも松岡さんが挙げておられたのは、
1.今でもシネスコ・サイズを守り続けている。
2.ハリウッドでは死んでしまったミュージカル映画という形態が残っている。
3.古典演劇に則った娯楽要素が守られている。<ナヴァ・ラサ=9つの情感・・・色気(ロマンス)、笑い(コメディー)、哀れ(悲劇)、怒り(勧善懲悪)、勇猛さ(アクション)、恐怖(スリル)、憎悪(復讐)、驚き(どんでん返し)、平安(ハッピー・エンド)>
4.上映時間が2時間半から3時間近くある。中にはそれ以上のものもある。
5.年間製作本数が世界一である。(2000年は855本)
6.世界でも類を見ない多言語製作である。
7.国内市場において自国映画の占有率がアメリカと肩を並べるほど高い。

 しかし問題点としては、ストーリーや音楽など、ハリウッドからのパクリが多くて版権の心配があり、他国での上映ができないことや、映画制作の効率化(普通インド映画は完成するまでに2年かかる)、プロモーションへの意識改革などなど他にもいろいろ挙げておられた。また、ハリウッドの映画が浸透していないのはインドと中国のみであることから、ハリウッド業界がインド市場を虎視眈々と狙っているらしく、それに何らかの対策を立てるべきだ、とインド映画の将来を憂いてもおられた。確かにハリウッド映画の新作の上映時期はアジアの国の中でもかなり早いと思われる。

 上映された映画は「クリシュナの水蛇退治」「不可触民の娘」「灼熱の決闘」「ハウラー橋」「ラブ・イン・トーキョー」「芽生え」「炎」「劇薬」「ロージャー」「俺が相手だ」「ボンベイ」「ムトゥ 踊るマハラジャ」「インドの仕置き人」「愛と憎しみのデカン高原」「ジーンズ 世界は2人のために」の15本である。もちろんどれもダイジェスト版であるが。特に最初の方の映画は貴重な作品が多く、ついつい興奮してしまった。

10月20日(土) マトゥラー旅行

 今日から来週の日曜日まで、ダシャヘラー祭の関係で学校は9連休である。このチャンスを見逃す訳にはいかない。近場ではあるが、マトゥラーへ小旅行へ行くことにした。といっても列車やバスのチケットなどは全く手配していない。バスならバス停へ行けば何の予約をしなくても簡単に乗ることができるからだ。

 朝起きてから旅行の準備などをしていたので、家を出たのは10時過ぎだった。パソコンを持って行くべきかどうか迷ったが、結局持って行くことにした。一応大家さんにちょっと旅行へ行くことを伝え、リクシャーでバス停へ向かった。フマユーン廟の近くにあるサラーイ・カーレー・カーン長距離バスターミナルからマトゥラー行きのバスが出ていた。マトゥラーはデリーからバスで南へ3時間くらいのところにある。アーグラーのすぐ近くである。

 案の定バスは簡単に見つかり、運賃は65ルピーだった。しかし座った座席の下がちょうどエンジンだったみたいで、床や椅子がブルブル振動で震えっぱなしだった。マッサージ付きの座席に座れて光栄だった。途中いくつかの町を通り、いくつかの事故現場を目撃した後、やはり3時間くらいでマトゥラーへ到着した。




バスの運転席


 バスを降りると早速サイクル・リクシャー・ワーラーが話しかけてきた。「地球の歩き方」に載っていた一番安そうな宿インターナショナル・レストハウスの名を告げ、そこまでの料金を聞いてみると「5ルピー」と言われた。「え、5ルピー?そんなに安くていいの?」と思いつつも「どうせ後で50ルピー、とか5ドル、とか言われるんだろう」と疑いながら、そのリクシャーに乗ってみた。確かにそこからあまり遠いところではなかったが、5ルピーを渡してみたら本当に5ルピーで済んだ。う〜む、マトゥラーはもっと観光客ずれしていると思っていたのだが、案外真面目なところなのかもしれない。

 インターナショナル・レストハウスは寺院の経営で、1部屋50ルピーと格安だった。ところが部屋にコンセントがなかったので他のホテルも見てみることにした。パソコンなどの電子機器を持っていると、どうしてもコンセントの有無に縛られてしまう。そこら辺をうろついていた客引きの人にこっちから話しかけて連れて行ってもらったホテルはGiriraj Guest Houseというところだった。シングルルームがなく、ダブルルーム&バスルームで一泊200ルピーと言われたが、150ルピーに値下げさせた。ちゃんと部屋にコンセントもあった。

 早速マトゥラー観光に繰り出す。マトゥラーはヤムナー河河畔の古い街で、クリシュナ生誕の地であり、ヒンドゥー教の7大聖地のひとつである。クリシュナが誕生した正にその場所には、当然のことながら寺院ができている。それがクリシュナ・ジャナムブーミである。とりあえず寺院の前の安食堂で食事をした後、寺院の境内の中に入ろうとした・・・ところがこの寺院はなぜかセキュリティー・チェックが厳しく、入り口のところで数人の警備員に止められ、カメラだけでなく電子辞書まで、とにかく電子機器は何でも「not allowed」と言われた。仕方ないのでカメラと電子辞書を外で預け中に入ろうとした・・・ら、またウェストバッグの中を隅々まで調べられて、しかも中に入っていたペンを取り出されて売ってくれと言われたり、財布の中まで見られたり、非常に気分を悪くした。しかし無事に中に入ることを許された。




ジャナムブーミの入り口


 寺院の境内には入れたのだが、本殿であるバガヴァッド・バヴァン寺院には閉まっていた。4時から開くらしい。まだあと30分くらいあったので、境内の他のところも見てみることにした。ちょっと寺院の先の方まで行ってみると、クリシュナが誕生したまさにその場所があった。クリシュナの父ヴァスデーヴァと母デーヴァキーは悪王カンサによって牢獄に閉じ込められており、クリシュナはそのときに生まれた。その牢獄がそこにあり、クリシュナが生まれた寝台もあり、今はクリシュナを祀る神棚になっていたのだが・・・本当にそこにヴァスデーヴァが閉じ込められていたのか甚だ怪しいし、そもそもクリシュナは半分神話上の登場人物である。どういう経緯でここがクリシュナ生誕の地と特定されたか、詳しい説明を聞いてみたくなった。

 そうこうしているうちにバガヴァッド・バヴァン寺院が開いたので中に入ってみた。この寺院にはクリシュナとラーダーを主神として安置してあったが、他にもジャガンナート、ドゥルガー、ラーマの眷属などヒンドゥー教のあらゆる神様が祀られていた。特に天井に描かれたクリシュナの一生の絵はけっこうすごかった。インド人たちは皆真剣にお祈りをしており、バラモンたちは神像の前にドカッと腰を下ろして何かをしていた。

 寺院を見終わった後、急いで考古学博物館まで急いだ。リクシャー・ワーラーの話では5時に閉まってしまうらしい。そのときには既に4時10分ほどだった。行ってみると実際には4時半までだった。しかしここはインド。融通が利くので僕が見終わるまで待ってもらうことにしてくれた。入場料には外国人料金があり、インド人5ルピー、外国人25ルピー、カメラ持ち込み料20ルピーという料金体系だった。しかし「僕はインドに住んでいるからインド人だ」という合理的かつ強引な論理展開を繰り広げ、なんとかインド人入場料金5ルピー+カメラ料20ルピーの25ルピーで入ることに成功した。

 マトゥラーはクリシュナ生誕の地として有名であるが、もうひとつ、仏教美術でも有名な場所である。この博物館にはガンダーラ様式とは一味違う、グプタ様式の仏像が多数展示されていた。しかし展示というよりは、ガラクタを並べてあるような雑多な印象が拭えない。中庭を巡る回廊には、けっこう貴重そうな仏像や彫刻の数々がほぼ野ざらし状態になっていた。




考古学博物館
床に転がっている美しい彫刻


 まだホテルに戻る気分ではなかったので、博物館からヤムナー河までほぼ2Kmの道のりを歩くことにした。マトゥラーのランドマークであるホーリー・ゲートからヤムナー河までの道は小さな店舗がぎっしりとひしめいており、歩くだけでとても楽しかった。しかしマトゥラーのインド人から見ても僕の格好はおかしいらしく、デリー以上に注目された。ただ、非常に好意的な笑顔で迎えてくれるので気持ちがいい。やはり聖地だけあって、サードゥー(苦行者)の姿も多く見受けられる。ただ、なぜか砂埃がモウモウと舞い上がっていて、息が吸えないほど空気が汚れていた。それだけが気に入らなかった。




ホーリー・ゲート


 やがてヤムナー河のヴィシュラム・ガートに辿り着いた。ガートとはヒンドゥー教徒が沐浴するための施設で、河の底まで階段が続いており、適当な深さのところで沐浴をする。やはりインド最大の聖地ヴァーラーナーシーのガートに比べるとこじんまりとしていたが、ガートの端に腰を下ろして河をボーッと眺めていると気持ちがいい。向こう岸では人だかりができていて何かをしているようだった。水面にはところどころにボートが浮かんでいる。だんだんと日が暮れていき、その空の色が川の色を刻一刻と変えていく。肩までつかって沐浴をしている人はおらず、足を河に入れる程度だった。




ヴィシュラム・ガートとヤムナー河


 ヤムナー河からはサイクル・リクシャーでホテルまで戻った。デリーではサイクル・リクシャーを使う機会がほとんどないのだが、ここマトゥラーではサイクル・リクシャーがもっとも便利な乗り物である。わずか15ルピーでジャナムブーミまで戻れた。途中、踏み切りがあって遮断機が下りているのに、やはりインド人は待てないらしく、歩行者やサイクル・リクシャーは遮断機の下をくぐり抜けて通っていた。オート・リクシャーはさすがに通れなくて立ち往生していたが。しかも線路を潜り抜けてみると今度は二頭の雄牛が角をからませて戦っていた。インド人たちは周りを取り囲んでやんややんやと騒ぎ立てたり、牛の喧嘩を止めようとしたりしていた。この線路の混雑と牛の喧嘩、両方とも写真に収めたのだが、砂埃がフラッシュに反射して全く何も写っていなかった。それ程その辺りはモウモウとした砂埃に覆われていた。

10月21日(日) ヴリンダーバン

 マトゥラー近郊にはクリシュナ伝説にまつわる聖地が点在している。ヴリンダーバンもその内のひとつ。クリシュナが一時期住んでいたところで、ヤムナー河に住みついた毒蛇カールヤを退治したり、ラーダーや牧女たちと踊りを踊った場所である。今日の目的地はこのヴリンダーバンだった。

 朝は割とゆっくりしていて、9時半ころホテルを出た。ヴリンダーバン行きの乗り合いタクシーに乗り、マトゥラーからヴリンダーバンまでの1本道を進んでいった。車内には太鼓売りの人や物売りの人も乗っていて、これから商売に出掛けるところらしかった。せっかくだからマトゥラー近郊の見所の写真が載っている小冊子を10ルピーで買ってあげた。何しろ「地球の歩き方」に地図が載っていない場所なので、何が見所なのか全然分からない。マトゥラーは一応載ってはいるのだが、全然情報が足らない。という訳でこれはけっこう後から役に立った。




乗り合いタクシー


 ヴリンダーバンに着くと早速ガイドが寄ってきた。小冊子を買った理由と同じで、地図も見所も何も分からないので、彼にヴリンダーバンのガイドを頼むことにした。51ルピーだった。キリの悪い数字だが、縁起担ぎのひとつみたいだ。普通、観光地にいるガイドには悪質な人が多いのだが、さすがにヴリンダーバンまで来る外国人は少ないみたいで、人もそんなに悪くない。僕の着ている白いクルター・パージャーマーも、ヴリンダーバンの町には結構しっくり馴染んでいるように思えた。

 ヴリンダーバンは小さな町なのだが、なんと寺院が5000個もあるそうだ。もちろんその全てを廻ることは不可能である。まず連れて行ってもらったのはゴーヴィンド・デーヴ・ジー寺院。ジャイプルのジャンタル・マンタルを作ったサワーイ・ジャイ・スィン2世が作った寺院で、ラージャスターン様式の彫刻が寺院の壁面を埋め尽くしていた。その次はラングジー寺院。南インド様式の寺院で、5つのゴープラムが目を引いた。しかし外国人は中に入れなかった。




ゴーヴィンド・デーヴ・ジー寺院
ラングジー寺院


 それにしてもヴリンダーバンはやたらと猿と乞食が多い町だ。町の至る所に猿と乞食が溢れており、特に寺院の周辺にどちらも密集している。サードゥーも町に溶け込んでいる。まさにヒンドゥーの聖地そのものであり、道を歩くだけでシャッターチャンスがゴロゴロ転がっている面白い場所だった。そのヴリンダーバンの中でももっともショックを受けたのが次に行ったアーシュラムである。




道の片側には乞食の行列


 そのアーシュラムにはなんと2000人の未亡人たちが住んでいた。全員ベンガル地方から来た人たちなのがちょっと不思議だったが、僕が行った時ちょうどバジャンが行われており、何百人ものお婆さんたちが床に座っていた。要するに老人介護施設である。おそらくヒンドゥー教には高齢者のための社会福祉という考え方がずっと前からあったのだろう。そうでなければこんなことはできない。ヒンドゥー教というとどうしてもカースト制度の理不尽な身分差別のみが有名であるが、実際にはどんな境遇の人でも生きていける非常に懐の深い社会である。インドのすごさを改めて思い知った場所だった。

 そのアーシュラムを経営している寺院に連れて行かれた。寺院の名前は忘れてしまった。その寺院の床や壁には名前を刻んだタイルがビッシリとはめ込まれていた。一室に案内され、パンディット・ジー(僧侶)と話をした。その部屋にはクリシュナの像が安置されていた。嫌な予感がしたが、やはり最後には寄付を要求された。135ルピーの寄付から受け付ける、と強気である。僕は35ルピーなら寄付してやる、と交渉したが、どうしても135ルピーらしい。話を聞くとその135ルピーは、これから家族が1年間無事息災で生きていくためのものらしい。そんなものヒンドゥー教徒ではない僕には関係がないが、もし神様の写真を撮らせてくれるなら135ルピーを寄付するがどうだ、という提案をしたらOKだった。という訳で撮らせてもらったのが下の写真である。高くついたが・・・。一応プラサード(供養物のお下がり)と花輪をもらった。




135ルピーの写真


 今度はヤムナー河に行った。なかなか年季の入った古い建物が立ち並ぶ路地をサルの攻撃におびえながら歩いていくとその先にヤムナー河が広がっていた。ここでクリシュナはカールヤ竜を退治したそうだ。僕はヴリンダーバンというと森なのかと思っていたが、今は人間の生活の臭いしかしない町になってしまっていた。ただ、ヤムナー河の辺りはガートになっておらず、砂浜になっていたのがちょっと良かった。クリシュナが牧女たちの水浴びを覗き見した木らしきものがあった。




ヴリンダーバンのヤムナー河


 最後に連れて行ってもらったのが、クリシュナと牧女たちが踊りを踊った庭である。そこだけは今でも森になっており、・・・というか整備されていたので後から作ったのかもしれないが・・・やはり猿の生活の場となっていた。




クリシュナの踊り場


 それにしてもこれだけクリシュナゆかりの地を紹介されると、クリシュナは本当に実在した人物のように思えてくる。もちろんそういう説はあり、何らかの歴史上の人物をモチーフに伝説が出来上がっていたことは十分考えられるのだが、その伝説の全てが実際の出来事を基にしているとは思えない。しかし実際こうやってそのクリシュナゆかりの地がちゃんと用意されている。一番もっともらしい説明は、伝説の方が先にあり、それを基に後からでっち上げられた「巡礼地」ということだろう。しかしもしそうだとしても、いったいいつ誰がでっち上げたのかは誰にも分からないだろう。もしかしたら本当にクリシュナのモデルになった人物が住んでいて、これらの土地でいろんなことを行ったのかもしれない、と考えるのが一番いいのかもしれない。

 ガイドの人には特別に55ルピー渡して、ヴリンダーバンを後にした。マトゥラーに帰る前にヴリンダーバンとマトゥラーを結ぶ道の途中にあるパーガル・バーバー寺院へ行ってみた。パーガル・バーバーを日本語に訳すと「気違い和尚」ということになるだろうか。つまり「気違い和尚の寺」へ赴いた。もちろんそこへ行った動機は、名前が面白すぎたので、というのが一番だが、写真で見たら、建物自体も地元の人が「ヴリンダーバンのタージ・マハル」と胸を張るくらい立派なものだったからだ。

 実際に行ってみるとやはりパーガル・バーバー寺院は素晴らしい建物だった。9階建ての白亜の建物で、まるでディズニーランドのシンデレラ城のようだった。早速アングルを決めてスケッチの準備を始めた。ヴリンダーバンの寺院をスケッチしなかったのは、猿と乞食があまりにも多すぎて落ち着いて描けそうになかったからだ。パーガル・バーバー寺院は人通りも少なく、割と涼しかったので描きやすそうだった。それにしても普通こんなマイナー中のマイナーなところに外国人が来るだけでも珍しいのに、白いクルター・パージャーマーにウェストバッグをつけたおかしな格好をした東洋人が急に絵を描き始めたものだから、寺院の従業員、バラモンたちやインド人観光客たちにかなり注目されて大人気(?)だった。オマケにヒンディー語まである程度分かってしまうのだから大変だ。何だ何だと僕の周りを取り囲むのだが、そんなことをしたら建物が見えなくなって絵が描けなくなってしまう。誰かが気付いて空けてくれるのだが、その空いたスペースに別のところからまた野次馬が入り込んでくる、という按配だった。時々ギャラリーと話をしながら、3時間かけて完成させたパーガル・バーバー寺院の絵はこれまでの作品の中でも屈指の傑作となった。楽しい気分で絵を描くことができたのが大きいと思う。




パーガル・バーバー寺院


 ギャラリーたちに聞いた話を総合させてみると、パーガル・バーバー(気違い和尚)という人は、あまりにも神様を信愛しすぎて気違いになってしまった人で、アサムから来た人だそうだ。パーガル・バーバー寺院はカトリックの教会様式とイスラーム教のモスク様式とヒンドゥー教の寺院様式を融合させた形をしているのだが、教会様式を土台にし、モスク様式の上にヒンドゥー様式が乗っかってるところを見てみると、融合と言うよりはヒンドゥー教の優位性を表しているようにも見え、苦笑してしまった。中に入って9階まで登ることもできたので行ってみた。フロアごとに別々のヒンドゥー教の神様の像が安置されており、言わば寺院コンプレックスとでも呼ぶべき造りになっていた。一番上の9階にはヒンドゥー教のシンボルマーク「オーム」が祀られていた。それぞれの階の神像の前にはバラモンがいたのだが、特に9階にいたバラモンとは絵を描いているときに仲良くなっていたので、ヴリンダーバンの雄大な景色を眺めながらクリシュナのことを話してもらった。クリシュナはマトゥラーで生まれ、悪王カンサから逃れてゴークルへ行き、次にナンダガーオンへ行き、ヴリンダーバンへ来たそうだ。その他にもマトゥラー周辺にはクリシュナが持ち上げて大雨から住民を守ったとされるゴーバルダナ山、クリシュナの恋人ラーダーの生まれたバルサーナーなどがあるそうだ。

 パーガル・バーバー寺院からマトゥラーへ帰ったのは4時半頃だった。これからもうひとつくらい何か見てもよかったのだが、なんとなく疲れてしまったので今日はもうホテルに戻って休むことにした。部屋に戻り、ベッドに横になると自然に眠ってしまった。

 8時過ぎに目が覚めたがあまりお腹が空いていなかった。絵を描き終わった3時頃に、パーガル・バーバー寺院の前の露店でターリーを食べていたからだろう。しかしラッシーを飲みたくなったので外へ出た。噂によるとマトゥラーのラッシーは特別においしいらしい。クリシュナは元々牛飼いであったこともあり、この周辺で昔から牧畜が盛んに行われていたことは想像に難くない。その関係で良質で新鮮な牛乳がとれ、おいしいラッシーが作れるのだろうか。とにかくホテルの近くに何軒かラッシー&チャーイ屋が並んでいる一角があったのでそこの中の適当な店でラッシーを飲んでみた。僕はあまりインドに来てラッシーを飲んでいなかったので、他の地域と味を比べることはできないが、確かにここのラッシーはおいしい。他のインド人たちもラッシーを好んで飲んでいるように見えた。

10月22日(月) ゴーヴァルダン山

 クリシュナの住んでいた村ではインドラ神が信仰されていた。しかしクリシュナは高慢なインドラ神よりもゴーヴァルダン山を信仰すべきだと提案し、村人たちはその通りにした。それを見たインドラ神は怒り、クリシュナの村に大雨を降らした。そこでクリシュナはゴーヴァルダン山を持ち上げて傘の代わりにし、村人と牛たちを守った。遂にインドラ神もクリシュナの力を認め、クリシュナに謝罪した。これがクリシュナ神話の中でも特に有名なゴーヴァルダンダラである。

 そのゴーヴァルダン山は実在する。本物かどうかを詮索するのはさておくことにして、行ってみることにした。マトゥラーからバスに乗って30分くらいのところである。やはり道の途中にある農村はいかにもインドという感じで、頭に大きな壺を乗せ、原色のサリーを着た女性が3人等間隔で並んで歩いている姿が見えたりすると涙が出てきてしまう。おそらくクリシュナが生きた時代からほとんど変わらない光景なのだろう。

 ゴーヴァルダンに着いたのはいいが、今回はさすがにガイドのような人が早速寄ってくることもなく、どこへ行ったらいいのか途方に暮れた。とにかく腹ごしらえをすることにして、適当な露店で軽食を食べた。ゴーヴァルダンも聖地なので寺院がたくさんありそうだったが、僕はゴーヴァルダン山が見れればそれで良かったので人に道を聞いて適当に歩き始めた。教えられた道を5分ほど歩くとゴーヴァルダン山はすぐに見つかったが、山というよりは丘に近い感じで、しかもカマボコのように前後に細長〜い山だった。上に登ることはできず、山に沿って道がずっと続いていた。インド人が山の周りをグルッと周ってみろ、と言うので、そのままその道をずっと歩いて進んでいった。その道の所々にはサードゥーが居を構えていて、通りすがりの人の喜捨を適当に待っていた。途中いくつか農村を通り、子供たちから好奇の視線を浴びながらもずっと歩いていった。




ゴーヴァルダン山
細長い峰がず〜っと続く


 気付いたときにはもう大分来ていた。いったいこの道はどこまで続くのか疑問に思えてきた。どうもゴーヴァルダン山の周りを巡る行為は苦行のひとつで「パリクラマー」と呼ばれており、本当の苦行者は五体投地しながら一歩一歩進んでいくものらしかった。一般人でも裸足で歩かなければならないらしい。僕はそんなことお構いなしに土足で聖地を蹂躙していたが。僕は農村の様子をキョロキョロ見渡しながら写真を撮ったり人と二言三言会話を交わしたりして歩いていたので、途中一緒になったインド人の親子に「そんなペースで歩いていたら夜になっちゃうよ。少なくとも4時には戻れるようにしないと。」と言われた。「え、そんなにかかるの?」と思ったときには11時半。既に炎天下。かなりの道のりを歩いてきてしまっていた。もう引き返すことはできない。ひたすら前に進むしかなくなってしまった。とんだパリクラマーになってしまった。




一歩一歩五体投地して進む苦行者


 道の途中には寺院が所々にあり、猿がたくさんいるところがあり、村の中を通り抜けるところがあり、と割とバラエティに富んでいる上に、基本的に道は舗装されているので歩くのは楽だ。日差しが強いのだけが非常に身体にこたえる。途中コカコーラを飲んだら汗が一気に噴き出してきて、しかも片腹が痛くなってきた。飲まなければよかった。一体全体どこまで歩けばいいんだ、と泣きそうになっていると、ジャーティプラーという村に辿り着いた。その村の名前は見覚えがあった。確か昨日買ったマトゥラー周辺の見所小冊子に載っていた。そこには寺院があり、一応行ってみたのだが、1000ルピーの布施を要求されたりミルク臭かったりと何がなんだか分からなかったので逃げてきた。その寺院の近くでタンガー(馬車)を拾ってゴーヴァルダンの村まで連れて行ってもらうことにした。もう憔悴しきっていて、パリクラマーはどうでも良くなっていた。ジャーティプラーからゴーヴァルダンまでは約2Kmの道のりだった。案外もう近いところまで来ていたみたいだ。タンガーに揺られながら安堵のため息をついていた・・・。




タンガー


 ゴーヴァルダンから乗り合いジープでマトゥラーまで戻った。マトゥラーの雑貨屋で冷えたミリンダ・オレンジを飲んだときは本当に生き返った気持ちがした。しかしどうもマトゥラーではコールド・ドリンクは11〜12ルピーくらいとられる。デリーでは絶対に10ルピーで飲めるのに。パリクラマーの途中で飲んだコカコーラは15ルピーだった。

 リフレッシュした後、マトゥラーで唯一行き残していたカンサ・キラーへオート・リクシャーで行くことにした。クリシュナの宿敵カンサ王が住んでいた城である。しかしあまり有名な観光地ではないらしく、道を知っている人が少なかった。連れて行ってくれたリクシャー・ワーラーも「オレもここに来るのは初めてだ」と言って僕と一緒に観光したほどだった。

 カンサ・キラーはヤムナー河のすぐそばの小高い丘の上にあり、ほとんど廃墟に近かった。やはり猿の棲家となっていて、猿の攻撃におびえながら道を歩いていかなければならなかった。しかし景色は非常によく、けっこうな穴場だと思った。カンサ王も本当に実在したのだろうか・・・。




カンサ・キラー
カンサ・キラーからの眺め
ヤムナー河の雄大な景色も見えた


 カンサ・キラーの後はもう疲れ切っていたのでホテルに戻り、シャワーを浴び、マトゥラーのおいしいラッシーを飲んで一眠りした。やはり昔よりも疲れやすくなっているのだろうか。これが「年齢には勝てない」という現象だろうか。しかし今日は日中3〜4時間歩きっぱなしだったので仕方ないかもしれない。

 8時頃にフラッと外へ出て近くの食堂で夕食を食べた。明日の朝アーグラーへ発ってしまうので、今夜がマトゥラー最後の夜になる。このまま寝てしまっては何となくもったいないような名残惜しい気持ちがしたのでジャナムブーミー前に広がっている繁華街をブラブラ歩いたが、特にすることもなかった。途中の屋台で神様ポスターを見てみたら割と珍しいデザインのものが見つかったので、55枚もまた購入してしまった。あまりディスカウントしてもらえなくて、1枚10ルピー、全部で520ルピーだった。

10月23日(火) アーグラー

 もう何度目のアーグラーだろうか。実はアーグラーは諸々の理由からインドの街の中でも嫌いな街のひとつなのだが、タージ・マハルがあるがゆえに何度も足を運ぶことになってしまう。それほどタージ・マハルは人を惹きつけてやまない魅力を持っているのだろう。人類が造り出した建築物の中でももっとも美しく、もっとも哀しい建物と言っても過言ではない。今回の主な訪問の目的はタージ・マハルをヤムナー河の向こうから眺める、というちょっとした冒険にチャレンジすることだ。

 朝9時頃、マトゥラーのニュー・バス・スタンドを出たバスは、アーグラーまでの50Kmあまりの道のりを順調に進み、アーグラーの街の中に入って行った。途中、適当なところでバスを降りると早速リクシャー・ワーラーが寄って来た。アーグラーのリクシャー・ワーラーは非常に悪質なことで有名なのだが、もう僕もアーグラーは何度も来ているし、ヒンディー語も上達して来ていたので何も怖がる必要はなかった。リクシャー・ワーラーに「アーグラー・フォート駅まで」と言ってみた。今回の目的に一番適したロケーションのホテルがアーグラー・フォート駅の近くにあるのだが、ホテルの名前を告げてしまうと違うところへ連れて行かれてしまうので、さもこれから他の街へ行くかのように装って駅を行き先として告げたのだ。「25ルピー」とリクシャー・ワーラーは言った。やたらと大人しい値段である。こういうときがもっとも怪しい。しかし25ルピーで交渉がまとまったのだから、意地でもその値段でアーグラー・フォート駅に連れて行ってもらうことを決意し、そのリクシャーに乗り込んだ。リクシャーは「予想通り」旅行代理店の前で止まった。ボスみたいな人が出てきて「うちで列車のチケットをとっていけ」と言ってきた。しかしそんなことは一言も頼んでいない。そのボスの言うことには全然耳を貸さず、とにかく「アーグラー・フォート駅まで行け!」と命令した。ボスはリクシャー・ワーラーに「何ルピーにしたんだ?」とヒンディー語で聞いたので、代わりに僕は「25ルピー」と言ってやった。ボスは僕がヒンディー語を理解するのに少しギョッとしながらも「25ルピーなんていう少ない値段でそんなところまで行けるわけがない」と愚痴をこぼしたが、僕は「さぁ、行くぞ」とリクシャー・ワーラーを促して出発させた。それからのリクシャー・ワーラーは大人しいもので、ちゃんと僕をアーグラー・フォート駅まで連れて行ってくれた。10ルピー札を3枚渡すと、最後のあがきか「お釣りがない」とごねてきた。それならピッタリ渡してやろう、ということで破れかけた5ルピー札を代わりに渡した。アーグラーのリクシャー・ワーラーをとりあえず手玉に取ることができてストレス解消になった。

 今回泊まったホテルはアジャイ・インターナショナル。アーグラー・フォート駅のすぐ北にある。シングル・ルーム(バス・トイレ共同)が80ルピーだった。部屋にコンセントがあったので助かった。

 ホテルのレストランで朝食を食べた後、早速ヤムナー河を渡ってタージ・マハルを裏から見る作戦を始動させた。タージ・マハルの横辺りから小船に乗れば簡単に向こう岸まで行けるのだが、それでは面白くないしいくらか金を取られる。とりあえずヤムナー河まで出てみて様子を伺ってみた。するとアーグラー・フォート駅からずっと続いている線路が鉄橋になって河の上を渡っており、人が行き来しているのが見えた。これこそ我が求めし道なり、ということでアーグラー・フォート駅まで戻って線路の上をずっと歩いていった。日本ではこんなこと許されないが、インドではみんな当たり前のようにやっている行為である。どこからかスタンド・バイ・ミーのイントロが流れて来るかのようだった。




鉄橋を渡る


 スタンド・バイ・ミーでは鉄橋の上を渡っているときにお約束のように列車が来て大慌てするシーンがあった。僕が渡っているときにもやはり列車はお約束をわきまえていた。足の下が何か揺れるな、と思い後ろを見てみると列車が汽笛を鳴らしながら迫ってきていた。ウワ〜、轢かれる〜!・・・ということはなく、実際は線路の横に歩行者用の道が用意されていたので、列車は僕の横を通り過ぎて行っただけだった。でも、ちゃんと渡河中に列車が来てくれたので嬉しかった。

 ヤムナー河の向こう岸に辿り着き、河に沿って南下していった。向こう岸にはアーグラー・フォートがどっしりと横たわっている。道はちゃんと獣道のようになっていたので歩くのは楽だった。やがてタージ・マハルの対岸にあたる河畔まで辿り着いた。後ろから見るタージ・マハルは・・・逆光気味でまぶしかった・・・!でも、ヤムナー河で沐浴する牛のバックにタージ・マハルが浮かび上がっている、なんていう写真が撮れるのは対岸ならではだった。早朝や夕方に来るとちょうどキレイなタージ・マハルが見れると思う。




ヤムナー河とタージ・マハル
逆タージ・マハル


 タージ・マハル対岸の問題は、全然日陰がないこと。直射日光の中、タージ・マハルを眺めなければならない。ヤギを放牧していた少年が話し掛けてきたので、どこか日陰はないかと聞いてみたら、ちょうどタージ・マハルを眺めるのにいいところにダルガー(イスラーム教の聖者の廟)があり、そこに連れて行ってくれた。ダルガーの中に入ることはできなかったが、建物の庇のおかげで日陰ができていたのでゆっくりとタージ・マハルを眺めることができた。もちろんスケッチをしようと思い立った。時計を見てみると11時半。もうすぐ太陽が真上に来て、さらに西の方へ傾いていく境目の時間である。なぜそんなことを気にするかと言うと、スケッチは何時間かに渡って行われるので、その間に影の位置も変わってしまい、スケッチし始めたときには日陰だったのにいつの間にか日向になっている、ということがよくあるからだ。日向で絵を描くのは思いのほか体力を使い、絵の質も低下してしまうので、なるべく初めから終わりまでずっと日陰であるだろう場所を優先的に探すようにしている。そのとき僕がいた日陰はまさに正午以降は日向になってしまう運命の場所だったので、ちょっとどうしようか迷ったのだ。他にはちょうど良さそうな日陰はなかった。

 迷っているとどんどん日向が迫ってきてしまうので、意を決して描き始めることにした。タージ・マハルの絵を描くのは既に4回目になる。何度も何度もその姿を白い紙に写し取っているのだが、未だにこの建物だけは征服した気分になれない。絵を描き始めるとどんどん子供たちが寄ってきた。ここの子供たちは「Give me one pen」とか「5 Rupees please」とか言って来るが、基本的に素朴な子供たちだった。最後に写真を撮ってあげた。「1週間後に送るよ」と言っておいたが、それは当然嘘である。すまん、子供たち・・・。

 絵は2時間半で完成した。案の定途中から僕が絵を描いていた場所は日向になってしまったが、額に汗を浮かべつつもなんとか完成させた。最高傑作とまではいかないが、タージ・マハルの寂しさを表現することができたと思う。

 タージ・マハルの対岸からまた鉄橋を渡って戻り、今度はアーグラー・フォートまで歩いていった。と言うか、アーグラー・フォートの周りをグルッと周って南の方にあるアマル・スィン門まで行った。途中、もうひとつの入り口であるデリー門があり、そこからも中に入れそうだったのでちょっと行ってみたら、警備員に止められた。ここは軍関係者専用の入り口だと言われて追い返された。アーグラー・フォートは今でも軍の基地になっているそうだ。




アーグラー・フォートのデリー門


 アーグラー・フォートも今回は中に入らず、外からスケッチをするのが目的だった。アマル・スィン門の前の橋を渡らずに左に入ったところにある広場にちょうどいい日陰があったので、そこに腰を下ろしてスケッチを始めた。やはり場所が場所だけに物売りの人々が代わる代わる見物にやって来た。ポストカード売り、小物売りからなぜかムチを売ってる人まで、普通に観光しに来るとこういう物売りはうざったいだけなのだが、改めて話をしてみると彼らも普通のインド人であり、商売時以外はとても気のいい奴らばかりだった。当然と言えば当然なのだが。絵は2時間ほどで完成した。まあまあの出来だろう。

 今日は一日に2つもスケッチをしてしまった。ひとつ絵を描くだけでもけっこう体力を消耗するのだが、今日はアーグラー・フォートを描き終わって本当に憔悴し切ってしまった。石の上にずっと座っていたので尻も痛くなったし、肩もこった。あと、やはりアーグラーの空気はデリーよりも汚ないみたいで、ただ座って絵を描いていただけなのに喉が痛くなった。よって一度ホテルに戻って英気を養うことにした。とは言いつつもまた歩いて戻ったのだが・・・。

 夕食はゾルバ・ザ・ブッダというレストランでとることにした。1年前に1度このレストランには行ったことがあるのだが、非常に怪しい雰囲気で印象に残りまくっており、また行ってみたくなったのだ。OSHOという宗教指導者が経営しているレストランで、身体にいい素材しか使っていないという触れ込みである。6時半頃に着いたのだが、けっこう客が入っており、しかも白人ばかりだった。なぜかみんなOSHOの信者に見えた。もっとも、白いクルター・パージャーマーを着た怪しい東洋人である僕がもっともOSHO信者に近く見えたのかもしれないが・・・。リンゴ・ジュース、野菜のカレー、ナーン、それにデザートのコーヒー・フロートなど、お腹いっぱい食事を楽しんで184ルピーだった。ちょっと贅沢な夕食だった。

10月24日(水) スィカンドラー

 昨日は順調にタージ・マハルとアーグラー・フォートを見て廻れたので、今日はスィカンドラーを見てそのままデリーへ帰ることにした。スィカンドラーはデリーへ向かう道の途中にあるのでちょうどよい。ホテルをチェック・アウトし、荷物を背負ってリクシャーに乗り込んでスィカンドラーまで向かった。

 スィカンドラーはムガル朝を帝国にまで成長させた偉大な皇帝アクバルの墓である。アーグラーの見所の筆頭はタージ・マハルで、その次にアーグラー・フォートが来るが、さらにその次にはこのスィカンドラーか、ファテープル・スィークリーが主な観光地ということになる。しかし今まで僕はこのスィカンドラーだけには来たことがなかった。今回初めてスィカンドラーを訪れることになる。

 当然のように入場料は2本立てになっており、インド人は15ルピー、外国人は100ルピーだった。チケット売り場で僕は外国人登録手帳を見せて「Citizens of Indiaだよ」と言ってみたら、やはりインド人料金で入場することができた。この調子ならタージ・マハルもインド人料金で入れたかもしれない。

 スィカンドラーは今まで無視し続けてきたことを謝りたくなるくらい壮大な建築物だった。4本のミナレットを天に突き出しているゲートをくぐると、遥か向こうに巨大な墓廟が見えた。庭には鹿や孔雀は放し飼いされており、まさにこの世の天国を髣髴とさせるぐらいきれいだった。しばらく庭を巡って建物を眺めたり、孔雀を追いかけたりしていた。スケッチをしようと思ったが、スィカンドラーはどちらかというと墓廟よりもメイン・ゲートの方が格好よかったので、そちらを描くことにした。




スィカンドラーのメイン・ゲート
アクバル帝の墓


 あまり目立たないところで描いていたのだが、すぐに4人のインド人の少年がやって来て僕にいろいろ話しかけて来た。最初は好意的に話し返していたのだが、だんだん「10ルピーくれ」とか言い出して来たので、これはやっかいなことになったと思い、適当にあしらうことにした。「僕たちは少しもお金を持ってないんだ」と言うから「そんなら財布を見せてみろ」と言ったら本当にお金がなかった。「ポケットを見せてみろ」と言ったら、一人の少年のポケットから10パイサのコインが二つ出て来た。「ほれ見ろ、お金持ってるじゃないか」と言ってやった。また「お金がないなら15ルピーの入場料払ってまでこの中に来るんじゃない」とも言ってやった。その内彼らは諦めてどこかへ行ってしまった。

 やれやれと思いつつ絵を描き進めていると、今度は僕の隣に猿がやって来た。別に僕を恐れるような素振りも見せず、ただ「こいつ何やってんだろ」という顔つきでじっと僕の方を見たりしていた。気付くと遠くの方にも猿の群れがいて、僕の方を不思議そうな顔で眺めていた。特に害もなさそうだったので、気にせず絵を描き続けた。今まで猿に対してはあまりいい感情を抱いていなかったのだが、ここスィカンドラーの猿は礼儀正しくて好感を持てた。




僕の絵をずっと見ていた猿


 1時頃にスィカンドラーを出て、すぐ近くにあるレストランで昼食を食べ、そのままそこでデリー行きのバスを待った。バスは5分くらいですぐに来て、これでめでたくデリーへ帰れることになった。

 デリーに着いたのは5時半頃だった。ローカル・バスに乗って家の方へ戻った。やはりデリーに帰ってくると落ち着く。家に戻って大家さんに「ただいま」と言ってみると、みんな歓迎してくれた。なんか嬉しかった。けっこうヘトヘトになっていたので、シャワーを浴びてゆっくり休んだ。

12月29日(土) ティルヴァナンタプラムへ

 午前7時出発の便に乗るので、律儀に離陸時間の2時間前までには空港に着けるよう、朝4時に起きて準備をして5時には家を出た。ありがたいことに、冬のこんな朝早い寒いときでもリクシャー・ワーラーは仕事をしていた。インディラー・ガーンディー国内線空港まで150ルピーだった。本当は100ルピーぐらいが相場だと前もって聞いていたのだが、朝早かったこともあるし、相手の言い値を素直に承諾した。

 国内線空港は国際線空港よりもデリー市街に近いところにあり、ガウタム・ナガルからは30分足らずで着いてしまった。さすがにこの寒い中リクシャーに乗るのはシベリア状態だったが何とか耐え抜いた。空港に着いてチェック・インをしたのだが、なんと飛行機は2時間15分遅れの9時15分発に変更されていた。やはり霧が深くて飛行機が飛び立てない状態らしい。他の飛行機も軒並み出発時間が遅れていた。チェック・イン・カウンターの前の広間では、遅れた飛行機を待つ人々でいっぱいになっていた。待っている間、インディアン・エアラインズからはサービスとして朝食がただでもらえた。

 8時にようやくセキュリティー・チェックが始まり、ゲートの手前まで行くことができるようになった。今回インドの国内線飛行機を初めて使ったのだが、出国審査や税関がない他はほとんど国際線と同じくらい警備が厳重だった。まずチェック・インする前に機内預け荷物のX線検査があり、検査済みのシールを貼ってもらう。チェック・インのときにその荷物は預けるが、もし手荷物がある場合にはチェック・タグをもらって、ひとつひとつの荷物にタグを付けなければならない。セキュリティー・チェックのときに手荷物はX線にかけられて、チェック済みであるスタンプをそのタグに押してもらう。そして搭乗者は金属探知機にかけられて身体検査をされる。肩から足までほぼ全身触って調べられる。女性はさすがにパスみたいなので、あまり効果的とは言えないのだが。そして今度は「Baggage Identification」のために搭乗券を持って外に出る。そこには機内預け荷物として預けた荷物が地面に並べられている。自分で自分の荷物を見つけて「これは自分のだ」と係員に知らせなければならない。その後ゲートが開くのを待ち、いざ搭乗となるのだが、その前にもう一度手荷物検査と身体検査がある。これほど厳重にしているのも、やはりアメリカ同時テロの影響なのだろう。

 ゲートが開くのを待っていたら、さらに僕の乗るIC167の出発時間が遅れ、10時発になってしまった。それでもさらに待っていたのだが、10時にやっと搭乗が始まり、結局離陸したのは11時過ぎだった。結局4時間遅れたことになる。そのときもまだ霧は晴れていなかった。

 IC167はムンバイー経由ティルヴァナンタプラム行きだったので、途中でムンバイーの空港に寄ることになった。デリーからムンバイーまでは断続的に居眠りをしていたので割と早かった。途中1回食事が出た。朝食扱いだったので軽食だった。それにしてもムンバイーに着いたときのアナウンスにぶっ飛んだ。なんと気温が34度あるらしい。さっきまでデリーの極寒の中でセーターを着てジャンパーを着てそれでも震えていたのに、飛行機の中から外を見てみると、ムンバイーの空港の従業員は半袖で仕事をしていた。全く別の国に来たみたいだ。僕も早速ジャンパーを脱いだ。ムンバイーからティルヴァナンタプラムまでの間にも1回食事が出た。今度はランチだったのでけっこう豪華だった。タンドゥーリー・チキンやアイスクリームなどが付いた。インディアン・エアラインズもなかなか機内食はいいかもしれない。

 ケーララ州のティルヴァナンタプラムに着いたときにはもう4時になっていた。飛行機の窓から見える景色は一面の椰子の木のジャングル。そのジャングルの中に点々と建物が頭を出している。まさに南国の雰囲気。気温は30度で、ムンバイーよりは低かった。もちろんセーターなんて着てられないので即行で脱いだ。ティルヴァナンタプラムはケーララ州の州都。昔はトリヴァンドラムと呼ばれていた。言葉はマラヤーラム語で、文字もヒンディー語とは違う。空港を出てみると人々の服装も違うし、何をしゃべっているか全く理解できない。全く別の国に来たみたいだった。しかしタクシーはアンバサダーだし、ルピーも当然通用するし、時差もないし、インド人はインド人だし、さすがに僕が降り立った地はインドに変わりなかった。

 インドを理解するには、ヨーロッパと比べてみると分かりやすいと思う。面積もちょうど同じくらいだし、人種の幅も似ている。現在ヨーロッパは複数の国に分かれており、インドはひとつの国にまとまっているのだが、インドの「州」をヨーロッパの「国」と同列に考えればいろんなことが納得できる。インドは言語ごとに州が分かれているので、州が違えば言葉も違うし文字も違う。文化も違うし、生活水準も違う。それでいてインドはインドという不思議な統一性でひとつの国になっている。まさにヨーロッパがEUというまとまりで達成しようとしている理想の姿がインドにある。例えばインド全土になかなかヒンディー語が普及しないのも、ヨーロッパ全土で英語を公用語にすることの困難さを考えれば理解しやすい。今日、デリーからティルヴァナンタプラムまで一気に来てみて、そのインドの多様性、そして多様性の集合体たる統一性をまざまざと見せつけられた気がした。

 とりあえずタクシーで空港からティルヴァナンタプラム市内のメイン・バス・スタンドまで移動した。150ルピーもかかったが、どうやら正規の料金らしい。そして地球の歩き方に載っていた手頃そうな宿Hotel Sukhvasに宿泊先を決めた。シングル・ルーム、バスルーム付きで150ルピー。パソコンをやるのにちょうどいい机と椅子があり、コンセントもあったので迷わずここに決めた。ホテルに着いたときには既に汗ダクの状態だった。全くデリーの夏と同じくらいの暑さだ。冬でこれだけ暑いとすると、夏の暑さは想像もつかない・・・。

 今日は本当はティルヴァナンタプラムを観光する予定だったのだが、飛行機が4時間も遅れてしまって予定が狂ってしまった。でも今日中に両替をしておこうと思ったので、ティルヴァナンタプラムのメイン・ロードであるマハートマー・ガーンディー・ロードを歩いてトーマス・クックを探した。今日は土曜日なので銀行は午前中で閉まってしまっている。だから両替専門のトーマス・クックでしか両替できなかった。散歩がてらトーマス・クックを探していたのでけっこう迷ってしまったが、なんとか発見して2万円を両替した。円安の影響で円レートがガタ落ちしており、100円=約34ルピー、つまり1ルピー=3円になってしまっていた。こんな損な時期に円を両替するのは馬鹿らしいが、あまりドルを持って来なかったので背に腹は変えられない。




ティルヴァナンタプラムの街の一角


 ティルヴァナンタプラムは州都といっても田舎の雰囲気を残しており、大通りから外れるとそこにはインドの田舎町があった。家の軒並みはどこかしら懐かしい、そう、日本の田舎町を彷彿とさせた。田舎町でも海岸の田舎町、という感じだ。もちろん日本に普通椰子の木は生えてないが、それを抜かせばけっこう日本と似ている。あとこの暑さだけは何とかしてもらいたい。なんにしろ、デリーより南インドの方が日本に近いものを感じたので、まるで日本に帰ったかのような錯覚に陥った。




三角屋根が日本の家屋と似てる


 道端でインドの神様のポスターを売っている人がいた。南インド人もヒンドゥー教なので、シヴァやガネーシャなどの神様を信仰しているのだが、それとは別に南インド特有の神様も存在し、そういう神様のポスターも売られていた。神様ポスターのコレクターとしては買わない手はない。小さめのサイズのポスターで、南インドの神様が描かれているものをいくつか購入した。

 一旦ホテルに帰って水シャワーを浴び服を着替えた後、魚料理を食べるために外に出掛けた。ティルヴァナンタプラムは海に近いので、新鮮な魚が入ってくる。フィッシュ・カレーを食べない訳にはいかない。ヴェジ・レストランが多かったが、ホテルの近くにフィッシュ・カレーを出す安食堂を見つけたのでそこに入りフィッシュ・カレー・ミールスを注文した。しかし残念ながらそこの食事は辛すぎておいしくなかった。素直にドーサーか何かのヴェジタリアン料理を食べておけばよかった、と思った。

12月30日(日) コヴァーラム・ビーチ

 全くデリーの生活が馬鹿馬鹿しくなるくらいの暑さである。一応念のためにと寝袋や掛け布団などを持って来ていたのだが、それがいかに愚かな行為だったかを思い知った。この寝袋と掛け布団、そしてデリーに着くまで着ないであろうジャンパーやセーターでカバンの半分以上は占めている。南インドにいる限りこれらの荷物はまさしく「お荷物」だろう。

 今日はまずティルヴァナンタプラムで最も有名なパドマナーバスワミー寺院へ行ってみた。ホテルから歩いて10分程度のところにある。ところが歩いている途中で怪しいインド人が話し掛けてきた。彼は自分のことを「マイソールの大学の教授」と紹介し、僕が日本人だと知ると「私の叔父が日本に住んでいる」と嘘とも本当ともつかない話をし、僕にいろいろヒンドゥー教のことについて講釈し始めた。マリファナの話なども始めて、僕が「マリファナや麻薬は絶対にしない。頭がおかしくなるから」と言ったら「どうしてしない?チャクラのためにいいぞ」と訳の分からないことを言っていた。大体ドラッグをやる人間というのは心にコンプレックスがあるか、暇人か、不幸な人だろう。また、顔や話し方から最終的にその人を危険人物と判断し、隙を見て逃げ出した。どうせ寺院の中にはヒンドゥー教徒以外は入れないし、寺院の前にある博物館もまだ開いていなかった。




パドマナーバスワミー寺院


 ティルヴァナンタプラムの旧市街から新市街を南北に貫くメイン・ロードであるマハートマー・ガーンディー・ロードを歩いて北上した。道はゆるやかな登り道で、政庁を過ぎると下り坂になる。だんだん日が昇ってきて暑くなってきた。歩いている間はいいのだが、立ち止まると一気に汗が噴き出してTシャツが濡れそぼる。

 昨日今日とティルヴァナンタプラムの街を散策してみていくつか気付いたことがある。まずキリスト教の教会が多いこと。ケーララ州は3世紀頃からキリスト教が根付いていた土地なので、インドの他の地域よりキリスト教徒の数が多い。今日は日曜日だったので、教会には多くのキリスト教徒のインド人が来て礼拝をしていた。次にアーユルヴェーダの医院が多いこと。ケーララ州はアーユルヴェーダの故郷と言われている。また、大学・学校の数も小都市にしては多い。ケーララ州の識字率は脅威の97%で、インド中で最も教育レベルの高い州である。

 マハートマー・ガーンディー・ロードの突き当たりには公園があり、美術館や動物園がある。僕は美術館に是非行ってみたくてわざわざパドマナーバスワミー寺院から3Km程の道のりを歩いてきたのだった。美術館は3館あり、3館共通の入場券が5ルピーと格安だった。まずはネイピア美術館へ。そこにはヒンドゥー教の彫像が主に展示されていた。南インドで出土した彫像なので、北インドとはちょっと表情などが違うように感じた。次に行ったのは自然史博物館。動物の骨格や標本などが置いてあるだけであまり楽しくなかった。




ネイピア博物館


 そして最後に行ったのがお目当てだったシュリー・チットラ美術館。ここにはラージャー・ラヴィ・ヴァルマーの絵が展示されている。ラヴィ・ヴァルマーは19世紀後期に活躍したインド人画家で、西洋画の影響を受けつつもインド神話を題材に油絵を描いた人だ。一説によると道端で売られている神様ポスターはラヴィ・ヴァルマーの絵が起源らしい。という訳で今回そのラヴィ・ヴァルマーの絵を見る機会に恵まれた訳だが、やはり彼の絵は素晴らしかった。彼の代表作「シャクンタラー」も置いてあって感動した。西洋の神話画というとやたら荘厳で大げさな構図の絵が思い浮かぶが、ラヴィ・ヴァルマーの絵は神話の中のほんの1ページを切り取って、素朴なタッチで写実的に描かれている。ラヴィ・ヴァルマーの絵の他にも、彼の叔父でラヴィ・ヴァルマーに絵の技術を教えたラージャー・ラージャー・ヴァルマーの絵や、その他のインド人画家の絵が展示されていて、わざわざ見に来た甲斐があった。




シャクンタラー


 またもや美術館からホテルまでマハートマー・ガーンディー・ロードを歩いて帰った。その途中、洋服屋に入ってバックパッカーっぽい上着を買った。なぜなら今回持ってきたTシャツは下着みたいな生地で、汗をよく吸収するのはいいのだが、汗で濡れた部分が目立ってしまうので、あまりそういうむさ苦しい格好で歩きたくなかったからだ。通りすがるインド人たちも、まず僕の顔を見て、次に視線が胸の辺りの汗で濡れたTシャツの部分に行ったりするし、他人の汗はインド人にとって「不浄」のカテゴリーに入るので、あまり汗ダクぶりを示しつつ外を歩くのは気が引けた。そのTシャツの上にバックパッカー・シャツを着れば汗はあまり外に見えないだろう。余計暑くなるが・・・。これも南インドの暑さを誤算していたことが原因だ。来る前はセーターぐらいは必要だろうと思っていたため、ちゃんとしたTシャツを用意して来なかった。

 一旦ホテルに戻って涼んだ。ここで僕には2つの選択肢から今からの行動を決めなければならなくなっていた。このまま荷物をまとめてホテルをチェック・アウトし、次の目的地カンニャークマーリーへ行くか、それとも今夜もう1泊ティルヴァナンタプラムに泊まって、今からコヴァーラム・ビーチへ行くか、である。コヴァーラム・ビーチはインドでも随一の美しさを誇るビーチらしく、一度どんなところか見るだけでも見ておきたかった。カンニャークマーリーは1度行ったことがあり、今回の目的は12月31日のサン・セットと1月1日のサン・ライズを見ることだけだったので、そんなに急いで行く必要はない、と判断し、今日はコヴァーラム・ビーチへ行くことにした。

 コヴァーラム・ビーチ行きのバスはパドマナーバスワミー寺院前の9番スタンドから出ていた。バスは非常に混み合っていたが、僕は車掌席に座らせてもらったので別に大したことはなかった。バス停からビーチまで12Km、料金はたったの7ルピーだった。

 バスという半ば密閉された空間に入って改めて思ったのだが、南インド人からは特有のにおいがする。特に女性からはそのにおいが激しくする。汗のにおいとかパーンのにおいとかではなく、敢えて表現するとココナッツのにおいだろうか。多分予想そのままで、ココナッツ・オイルを身体に塗っているからそういうにおいがするのだろうが、このにおいを嗅ぐと何となくフィジーを思い出してしまう。フィジーでは2週間、タミル人の家にホームステイさせてもらったのだが、そこの家の人たちからも同じにおいがしたからだ。においから突然遠い記憶が呼び起こされることはけっこうあるものだ。

 コヴァーラム・ビーチに着いたときはちょうど昼時の午後1時。まさにそこはビーチ!北半球の12月なのにビーチ!しかも南海の島のような美しいビーチ!インド人や白人たちが波と戯れ、椰子の木やココナッツの木が潮風と戯れていた。砂浜を歩くとキュッ、キュッと音がした。僕はジーンズに靴に長袖のバックパッカー・シャツというビーチには異形な出で立ちだったので浮いていた。でも水着があれば余裕で泳げるくらいのキレイな海で感動した。




コヴァーラム・ビーチ


 ハッキリ言って、今回コヴァーラム・ビーチに来たのは新鮮なシーフードを食べるのが主な目的だった。昨日はティルヴァナンタプラムの安食堂でまずいフィッシュ・カレーを食べさせられてしまい後悔したので、今日は海のすぐ近くまで来て魚を食べてやろうと意気込んでいた。「地球の歩き方」に「シーフードがおいしい」と載っていたSea View Restaurantが砂浜に下りたすぐ傍にあったので、迷わずそこに入った。レストランには活きのいい魚やロブスターが置いてあった。魚マニアの友人が見たら飛び上がって喜びそうだ。しかし値段を聞いたらけっこう高め・・・。外国人だからぼられてるのだろうか?でもせっかく魚を食べに来たので、650ルピーのクルマエビ・セットを食べることにした。注文してから来るまで約1時間くらい待たされたが、さすがに値段も高くて待たされただけあって、ここ最近でもっともおいしい料理にありつけた。店の人に「魚を食べるためだけにティルヴァナンタプラムからここに来たんだよ」とヒンディー語で言ったら「我々のレストランがナンバル・ワンだ」と喜んでいた。




クルマエビの料理


 コヴァーラム・ビーチから再びティルヴァナンタプラムに戻った。まだ時間があったので、パドマナーバスワミー寺院の傍にあるプーテン・マリガ宮殿博物館に行った。そうしたらまた今朝会った自称大学教授の男と会ってしまった。しかしそそくさと博物館に入ったので追いかけられなかった。

 宮殿博物館はその名の通り、マハーラージャの宮殿を公開した博物館である。木造の建物で、日本の建築様式にけっこう似ていた。中にはマハーラージャの持ち物である武器、大理石の彫刻、絵画、家具などが展示されていた。入場料20ルピーはちょっと高く感じたが、団体客に付いて行ってガイドの説明を盗み聞きしていたのでよく理解できてよかった。




プーテン・マリガ宮殿博物館


 今日はケーララの人々に試しにヒンディー語で話しかけてみるという実験をちょっとしてみた。そうしたら割と彼らはヒンディー語を話せた。なんだ、話せるじゃん、という感じだ。ケーララ人は普段はマラヤーラム語を話しており、僕にはハエの羽音、あるいはバイクのエンジンをふかしているように聞こえなくて全く理解できなかったのだが、実はヒンディー語をしゃべれる人は多いのかもしれない。

12月31日(月) カンニャークマーリー

 宿の人から「明日のカンニャークマーリー行きのバスは混むぞ」と脅されたので、朝6時にはチェック・アウトしてバス停へ向かった。どういう訳かそのときカンニャークマーリー行きの直通バスはなかったので、途中のナーガル・コイルまで行くバスに乗った。

 椰子の木、ココナッツの木、そしてバナナの木が織り成す田園風景を眺めつつ、気付いたらいつの間にかケーララ州を出て隣のタミル・ナードゥ州に来ていた。タミル語は日本で1年間だけ習ったことがあったので、文字ぐらいは読むことができる。なんか文字が読めるとホッとする。ケーララ州ではほとんど解読不明の文字と言葉に囲まれて寂しい思いをしていたが、タミル・ナードゥ州ではそんなことはない。ただ、タミル・ナードゥ州はインドで最もヒンディー語への反発が強い州なので、ヒンディー語話者がぐっと減る可能性がある。

 ナーガル・コイルでカンニャークマーリー行きのバスに乗り換え、午前9時頃には目的地に着いた。2年前に一度来たことがあったので、大体町の概観は覚えている。しかし前に来たときよりも発展していたように思えた。そして人の数も多い。ほとんどインド人だったが、おそらく僕と同じように初日の出を見にきた人々だろう。カンニャークマーリーはヒンドゥー教の聖地でもあるので、巡礼者も多い。噂によると大晦日のカンニャークマーリーは野宿覚悟ぐらい大勢の旅行者が詰め掛けると聞いていたのだが、それは本当みたいだ。宿の確保に対する不安がちょっと頭をよぎった。

 バス停に着いたら早速明日のバスのチケットを予約した。カンニャークマーリーは日の入りと日の出を見てしまえばもう用はないので、すぐに次の目的地であるマドゥライへ行きたかった。バスまで予約でいっぱいだったらどうしようかと思っていたが、簡単にチケットは取れた。しかし104ルピーとけっこう高かった。

 とりあえずカンニャークマーリー脱出の目途はついたので、今度は宿である。やはり宿はどこも満室っぽかったが、客引きの人に連れて行ってもらったマイナーな宿は空いていた。一応ダブル・ルームでバスルーム・コンセント付きの部屋だったが、汚ない上にコンセントに電源が来ていなかった。こんな部屋で350ルピーも要求された。やっぱりカンニャークマーリーは今ピーク・シーズンなので、どこの宿も軒並み料金が上がっているらしい。300ルピーまで値下げさせた上で泊まることにした。ホテルの名前はヤムナー・ロッジと言う。

 朝食は海岸の傍の交差点にある食堂で食べた。プーリーを注文したら南インドの伝統的な食事スタイルで食事が出て来た。すなわち、バナナの葉を皿にして食べるのだ。本当は床に座ってバナナの葉も床の上に置いて食べるのだが、さすがにその食堂では机と椅子で食事をした。




バナナの葉を皿にして食べる


 カンニャークマーリーはインド洋に突き出た岬で、アラビア海、インド洋、ベンガル湾の3つの海に囲まれている。早速海の方へ出かけてみると、インド人たちが沐浴がてら海水浴をしていた。なぜかやたらと風が強かった。ベンガル湾の方にはヴィヴェーカーナンダ岩という岩が海の中にあり、その上にはヴィヴェーカーナンダ記念堂と、タミルの聖人ティルバッルバルの巨大な像が、ニューヨークの自由の女神よろしく建っていた。アラビア海の方には、昔来たときにはなかった灯台または見晴台みたいな建築物ができていた。




コモリン岬(カンニャークマーリー)


ヴィヴェーカーナンダ記念館とティルバッルバル像


 風が強かったせいか、カンニャークマーリーはティルヴァナンタプラムに比べて涼しかった。海の傍でボーッとしていたら、インド人たちに話しかけられた。カンニャークマーリーへ来るときに経由したナーガル・コイルから来た人たちだった。10人ぐらいいたのだが、ヒンディー語はしゃべれるか聞いてみたら、その中の一人しかしゃべれなかった。やっぱりタミル人はヒンディー語をあまり使えないかもしれない。

 ヴィヴェーカーナンダ岩までボートで行けるのだが、風が強くて船の運行が難しかったのと、ボート乗り場に長蛇の列ができていたことから諦めた。宿に帰って昼間の暑い時間は昼寝をして過ごすことにした。

 午後2時頃、再び活動を開始して外に出た。まずはボート乗り場に行ってみたら、すっかり空いていたので乗ることにした。往復20ルピー。ボートに乗って5分ほどでヴィヴェーカーナンダ岩へ着いた。ヴィヴェーカーナンダとは19世紀の宗教改革者で、彼は3日間カンニャークマーリーのこの岩の上で瞑想をしたため、現在はその場所に記念堂が建ってしまっているという訳だ。しかしヴィヴェーカーナンダ記念堂は大して見るべきものもなく、割と行って損した気分になった。




ヴィヴェーカーナンダ記念館


 陸地に戻ってきたら3時過ぎになっていた。空腹だったので食堂でドーサを食べた。そうしたらお釣りで25パイサコインをたくさんもらってしまったので、それを乞食にあげていこうと思い立ち、クマーリー・アンマン寺院の方へ行った。ところがもう寺院は閉まっており、午前中はたくさんいた乞食たちもほとんどどこかへ行ってしまっていた。お金をあげたいときに乞食はいないものだ。

 4時頃からサン・セットに備えて適当な場所を海岸の近くに確保し、海をボーッと眺めていた。それではなんだか時間の無駄に思えたので、ヴィヴェーカーナンダ岩とティルバッルバル像をスケッチすることにした。そんなに大した絵ではなかったので1時間ぐらいで完成し、いい暇つぶしになった。

 次第に海岸にはインド人が集まりだした。けっこうすごい数の観光客である。みんな同じことを考えて今日カンニャークマーリーに来たのだろう。僕もミーハーなことをしてしまった。サン・セットは大体6時半頃で、予定通り2001年の日の入りを見送ることができた。この1年はいろいろなことがあった。沈んでいく太陽を眺めつつ1年の出来事を振り返っていた。




2001年最後の夕日inカンニャークマーリー


 太陽が沈みきってから、クマーリー・アンマン寺院の周りのバーザールを見てまわった。なにかお土産になる品物はないかと思ったが、特に興をそそるようなものはなかった。でもカンニャークマーリーの人々は、こんなに多くの観光客が訪れるというのにみんな観光客ずれしてなくて好感が持てる。売店の店員も僕を見ると一応声を掛けてくるのだが、押しが激しくないばかりかあまりものを売る気がないみたいで、ただ日本人と会話がしたいだけという感じだった。日本語を少し教えてあげる代わりにタミル語を教えてもらった。「こんにちは」は「ヴァナッカム」、「OK」は「サリ」、「さようなら」は「ポーイットゥ・ヴァーヒレーン」。失われていたタミル語の知識が蘇ってきた。「知らない=テリヤードゥ」という単語だけは覚えていたので、タミル人から「タミル語をしゃべれるか?」と聞かれて「テリヤードゥ」と答えると爆笑を誘った。

 夜11時頃、海岸で何か行われてないかと外に出てみた。海岸で一人佇んでいると、陽気なタミル人の集団が話し掛けてきた。既にハッピー・ニューイヤー気分になっていて異常なハイテンションだった。タミル映画のスーパースター、ラジニカーントとカマラ・ハーサンの話で盛り上がり、アカペラで踊ったりした。

 カウントダウンのようなものはなかったが、日付が変わる辺りで花火が上がり、それが年明けの合図となった。するとタミル人たちが大挙として海岸に集まってきて即興のダンス大会が始まった。そのハチャメチャなエネルギーには全然付いていけなかった。「ハッピーニューイヤーは日本語で何て言う?」と聞かれたので、「明けましておめでとうございます」と答えたら、タミル人たちは「テマシテメデトウ」と連呼しながら踊り始めた。もう無茶苦茶状態だった。このカオス状態が僕の2002年の幕開けか・・・と苦笑した。

 海岸で数人の日本人・韓国人と会い、これからホテルの1室で飲まないかと誘われたので行くことにした。タミルナードゥー・ホテルの一角にユース・ホステルがあり、その一室の床に座って飲んだり話したりした。既に他の人たちはさっき一度飲んだみたいで、残っていた酒は少なかった。こういう場にはありがちなのだが、日本人旅行者たちがハッシッシを吸いだした。僕は吸わなかったが、他の人にけっこう驚かれた。「絶対やる人だと思ってました」とか言われてしまった。今まで一度もハッシッシや麻薬類はやったことないのだが・・・。

 女の子も2人いて、その内の1人がなんとデリーのJNU(ジャワハルラール・ネルー大学)の留学生で、留学生話で盛り上がった。けっこう共通の知り合いも何人か挙がって、世の中の狭さを思い知った。また、韓国人のミンさんとキムさんはなぜか僕のことを気に入ってくれたみたいで、また再会を約束した。最近韓国人にけっこう好かれることが多いような気がするのだが気のせいだろうか?




NEXT▼2002年前半ダイジェスト1

*** Copyright (C) Arukakat All Rights Reserved ***