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4月21日(日) 「ミモラ」試写会

 今日は午後6時からスィリー・フォート・オーディトリアム2にて「ミモラ」の試写会があった。「ミモラ」とは原題「Hum Dil De Chuke Sanam」というインド映画で、4月27日(土)から日本で一般公開される作品である。今日は一足早くデリー在住の日本人を対象に試写会が行われることになっていた。会場は僕の家から歩いてすぐのところだから行かない手はない。一応初めて行く場所だったので、1時間前に家を出た。

 スィリー・フォート・オーディトリアム2は僕の家から歩いて15分ほどの場所にあった。日本人だけでなく、インド人も多く詰め掛けていた。と言っても一般のインド人ではなく、どうも日本語を勉強している学生が多かったように思えた。日本人は駐在員の奥様系の人々が多かったが、思ったほど多くはなかった。在インド日本大使館の平林大使も来ていた。初めて見たかもしれない。この映画は日印国交樹立50周年記念の看板を背負った映画なので、この試写会も大きなイベントと受け取られていたようだ。「Aaj Tak」や「ZEE TV」などのテレビ局もいくつか来ていて大使や観客にインタビューしていた。僕は大使のすぐ裏にいたので、もしかして僕の馬鹿面がインドのブラウン管に映ってしまったかもしれない。僕は幸か不幸かインタビューされなかった。インタビュアーとなるべく目を合わせないようにしていたのだ。僕がインド映画について何か話したらオタクぶりが明らかになってしまうところだった。

 「ミモラ」日本公開の推進役であるインド・センターのインド人や大使の簡単な挨拶の後、映画が始まった。オーディトリアム2は多目的用のイベント会場で、あまり映画上映用に特化されておらず、音の質があまりよくなかった。

 「ミモラ」はサルマーン・カーン、アジャイ・デーヴガン、アイシュワリヤー・ラーイ主演のラヴ・ロマンス映画である。日本語字幕付きだったのでかなり楽に内容理解ができた。今までいくつものインド映画を字幕なしで見てきたが、やはり日本語字幕があると細かい部分までよく分かる。字幕なしで100%理解できるようになる日は来るのだろうか?以下にあらすじを書くが、これから日本公開される「ミモラ」を見る予定でストーリーを知りたくない人は飛ばしてもらいたい。ちなみに僕がこの映画を見るのは2回目である。




ミモラ


ミモラ(原題Hum Dil De Chuke Sanam)
 ナンディニー(アイシュワリヤー・ラーイ)は高名な音楽家パンディット・ダルバール(ヴィクラム・ゴーカレー)の長女として生まれ、伝統的な大家族の中で無邪気に成長した。そんなある日、ダルバールに弟子入りするためイタリアからサミール(サルマーン・カーン)という青年がやって来た。サミールはインド人の父とイタリア人の母を持ち、陽気で破天荒な性格だった。ナンディニーは最初サミールと対立するが、サミールが音楽家一家に自然に溶け込んで行く過程で次第に2人は惹かれあい、恋仲になってしまう。ところがそれは禁断の恋だった。

 実は親の間でナンディニーと青年弁護士ヴァンラージ(アジャイ・デーヴガン)の結婚の計画が進んでいたのに加え、恋愛結婚など認められるはずもない伝統的な家族だった。ナンディニーとサミールの仲は遂にダルバールの知るところとなり、サミールは破門、ナンディニーは強引にヴァンラージと結婚させられてしまう。

 ところがヴァンラージは口下手だが誠実な青年だった。結婚後も心を開かないナンディニーを見て不審に思い、その心の奥にある一人の男の存在が原因であることを突き止める。そしてヴァンラージはナンディニーをその男に引き合わせるためにイタリアへ一緒に行くことを決意する。

 舞台はイタリアへ。ヴァンラージとナンディニーはほとんどない手掛かりを元にイタリアを探し回る。その内にナンディニーはヴァンラージの自分に対する愛の大きさを知り、次第に気持ちが動き始める。遂にナンディニーはサミールと再会を果たすことができるが、そのときナンディニーはヴァンラージを一生の伴侶とすることを決意していた。そしてサミールもナンディニーをヴァンラージの元へ行かせる。こうしてヴァンラージとナンディニーは名実共に夫婦となったのだった。

 前半は見ていて恥ずかしくなるようなコテコテのインド映画的展開で、これじゃあ多くの日本人に堂々と見せるのは気が引けるなぁと思っていたのだが、確かに音楽と踊りは素晴らしいし、いかにもインドチックな装飾、衣装、セットは日本公開するのに向いているかもしれない。後半の展開は最近の恋愛ドラマを見慣れた若者たちに「こう来るか」と唸らせるものはあると思う。

 やはり恋愛結婚よりもお見合い結婚を正当妥当な結びつきとするのがインド映画の大前提みたいだ。最初はナンディニーは恋愛結婚の方向へ向かっていたのだが、急転直下、強引にお見合い結婚をさせられてしまう。しかし恋愛を忘れらず、ナンディニーは恋愛結婚を求めるようになる。ここから普通だったらヒロインは恋愛結婚を勝ち取ってハッピー・エンドという脚本が思いつくと思うのだが、それを最後の最後でやっぱりお見合い結婚でハッピー・エンドにしてしまったところがすごいと思う。この映画の最後には賛否両論があり、サミールと結びついた方がよかったという意見と、ヴァンラージと結びつく結末でよかったんだという意見がある。僕はじっくりとこの映画を見た結果、やはりヴァンラージと結びついた方がしっくり来ると思った。サミールと結びついてしまったら、インドの道徳に反するし、いかにも欧米または日本的な恋愛ドラマのこじんまりとした結末に落ち着いてしまうからだ。

 僕の予想ではこの映画は日本では大ヒットすることはないと思うが、久々のインド映画一般公開ということもあり、健闘を祈っている。いずれインド映画が1ヶ月に1本くらいのペースで日本一般公開されるようになる時代が来れば、僕も安心して日本に腰を落ち着けることができるのだが・・・(?)。

4月28日(日) SINWA&KOTO

 今日はスィリー・フォート・オーディトリアムで行われる日印国交樹立50周年記念イベントの第1日目である。まず、デリーで活躍中のインド舞踊家2人、佐藤泉さん(バラタ・ナーティヤム)&佐藤雅子さん(カタック)が、日本の神話を題材にインド舞踊を踊る。これがSINWAである。その後、Matsumura Koto Music Group(松村琴の会?英語で書かれているので日本での呼称が分からない・・・)が琴・尺八・三味線などの演奏を行う。このイベントに僕は通訳兼雑用係で雇われていたので、朝8時半にスィリー・フォートへ出向いた。朝早かったが、スィリー・フォートは自宅から歩いて15分くらいのところなので楽である。

 スィリー・フォートの門の前には既にインド側の照明業者が到着しており、トラック一杯にコードやライト類を載せて待機していた。まだ門が開かないらしい。しばらく待っていたらもう2人、僕と同じ仕事をする人たちがやって来た。1人はケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンの300クラスの女の子で、もう1人はオリッサ人彫刻家のチューヤンである。チューヤンは3年以上日本に留学していたこともあり日本語ペラペラだ。もうしばらくするとジャパン・ファウンデーションの佐藤さんもやって来た。

 9時になり門が開いたので、とりあえず楽屋口からスィリー・フォート・オーディトリアムの中に入った。楽屋口なので機材搬入用に入り口は大きく、荷物などを置けるようになっていた。入ってすぐ左に控え室があり、中を覗いてみるとけっこう広くて三面鏡張りだった。最初見たときはオオーッと思ったが、よく見てみるとやはりちょっと小汚かった。

 控え室でとりあえずチャーイをすすっていたら、YAMATOのメンバーがドカドカと入ってきた。YAMATOは明後日公演する和太鼓のグループである。なんかやたらと体育会系の男女が入ってきたので少しびっくりしてしまった。インドにあまりこういう雰囲気の人はいないのだ。久しぶりに見たような気がする。でも案外みんな若くて、大体20代。10人ぐらいのグループである。YAMATOのグループは早速太鼓などの楽器の搬入をテキパキと始めた。僕らはとりあえず出番がないので、突っ立って作業の様子を見ていただけだった。聞いてみるとYAMATOの人たちは今まで世界各国で何十回も公演をして来たそうで、準備の手際もかなりよい。各種の太鼓を取り出して縄を締めていた。圧巻だったのは3つの大太鼓。僕の背丈以上あるような巨大な太鼓まであった。こんなのを空輸してインドくんだりまで持ってきたとは驚きである。

 今日はまずYAMATOがステージでポジショニングをするところから始まった。各メンバーが太鼓を持って舞台に立ち、太鼓の置き場所にテープで印を付けるのだ。リーダーが客席の真ん中に立っていて、メンバーに「もうちょっと左」「もっと真ん中に締め太鼓を向けて」とか指示を与える。メンバーは何か指示されると元気よく「はいっ!」ときびきび答えており、体育会系な雰囲気を感じた。リーダーのOKが出るとそこにマークを付けて、次々とフォーメーションを変えてポジショニングをしていた。

 肝心の僕の仕事だが、ここまではあまり出番がなかった。まず日本側スタッフ、インド側スタッフ、双方片言ながら英語ができるので、全く意思疎通ができないということはなかった。それに専門用語になればなるほど、その用語を口にすればお互い通じていたこともある。ただ、やはり通じにくいときはあったので、そういうときにヒンディー語と日本語で手助けをしてあげた。

 YAMATOのポジショニングが終わると、プレーヤーは全員日本大使主催の昼食会に行ってしまった。もちろん僕たちアルバイトはそんな会にはお呼ばれしていない。YAMATOの舞台監督と音響の人が残っていたので、彼らの仕込みに同伴して会場に残った。

 しかし昼食は豪華にいかせてもらった。ジャパン・ファウンデーションから昼食代が出たので、スィリー・フォート内にある高級中華&タイ料理屋で昼食を食べた。ビュッフェで1人350ルピーほど。アルバイト3人とYAMATOの2人で食べた。インドの中華料理屋にしてはかなりおいしくて、たらふく食べさせてもらった。

 YAMATOの人の話に寄ると、YAMATOは奈良県の飛鳥に事務所があり、メンバーは皆プロの演奏家で、趣味でやっている人は1人もいないらしい。要するにみんな太鼓で飯を食っているのだ。普段は太鼓の練習と体力づくりをして生活している。こういうアバンギャルドな人生を送っている同世代の人たちに会えたことは密かに嬉しい。日本での公演も行ってはいるが、海外公演の方が数が多いそうで、知名度も海外の方が高いそうだ。確かに和太鼓のような日本芸能というのは案外日本人よりは外国人に受けるものだ。

 また、インドにあまり興味のない人の話というのは案外新鮮で役に立つ。YAMATOのメンバーはみんな初インドで、唯一舞台監督の人だけ下見のためにインドに来たことがあったそうだ。公演で来ているので、もちろん特にインドに興味があった訳でも何でもない。インドに住んでいると、少なくともインドに対して何らかの感情(好きor嫌い)を持っている日本人としか話せないため、ニュートラルな立場に立っているこういう人たちと話すと意外と新鮮だ。

 昼食後つい疲れてしばしの間爆睡してしまったが、目が覚めてしばらくしたらリハーサルが始まった。いわゆる逆リハというやつで、琴グループから始まった。やはり琴グループもポジショニングを行っており、客席に立っているリーダーの指示に従って楽器や椅子の置く位置を決定し、テープで印を付けていた。琴のグループは13人くらいのメンバーで、尺八2人、三味線2人、琴が9人いた。しかし全員揃って演奏するのは最後の演目だけで、あとはその中からいろいろな組み合わせで出演して演奏していた。中には尺八のソロや、シタールと琴の共演などもあった。




KOTOリハーサル


 KOTOのポジショニングが終わった後はSINWAのリハ。佐藤泉さんは赤い衣装に、佐藤雅子さんは白い衣装に身を包んで登場し、既に気合十分だった。泉さんは天照大神(アマテラスオオミカミ)、雅子さんは月読命(ツクヨミノミコト)に扮しているというわけだ。音楽はシタール奏者の岡田恵美さんが作曲したらしい。6時半開場のギリギリまでリハーサルを行っていた。




SINWAリハーサル


 果たしてどれだけ観客が来てくれるのか分からなかったが、開場と同時に多くの観客が入ってきた。客層をざっと見渡してみるとやはりインド人と日本人が多かったのだが、案外白人の観客も多かった。VIPとして平林在印日本大使夫妻、元インド大統領R.ヴェーンカターラーマン夫妻、雅子さんの師匠ビルジュー・マハーラージなどなどが来ていた。

 やはりゴタゴタしていて開演は時間通りにはいかなかったが、とにかくSINWAが始まった。天照大神演じる泉さんは小さいながら力強くダイナミックな動き、月読命演じる雅子さんは高貴で鋭く繊細な動き。僕には鑑識眼がないので、どういう動きがバラタ・ナーティヤムで、どういうのがカタックなのかはほとんど分からないのだが、うまく調和していて素晴らしかった。音楽も日本人が作曲したとは俄かには信じられないほど純インド音楽だった。日本神話を題材にストーリーを表現しつつ踊っていたのだが、なんというかもはやインド舞踊という看板にこだわらなくても、「舞踊」ということで十分通じていけると思えるほど完成されてたと思う。

 SINWAの後はKOTOである。実はKOTOのときには僕とチューヤンはある仕事をしなければならなかった。演目の間に琴の台や椅子、譜面台などをセットする仕事を仰せつかっていたのだ。まさに雑用である。という訳で僕たちはKOTOの演奏を見ることはできなかった。舞台の隅から覗き見て聞いていただけである。そして演奏が終わると同時に急いでそれらの器具を配置した。いくら雑用と言えど、舞台のセッティングは重要すぎるほど重要である。正確にかつスピーディーに暗闇の中機材をセットしなくてはならない。僕は細かい気配りと合理的な思考でスムーズにセッティングを行った。

 KOTOの舞台裏からハラハラして聞いていたのであまり正当に評価することははばかられるのだが、一応自分なりの感想を。まず出演者は男は袴、女は着物を着ており、日本を紹介するイベントの主旨に沿っていて(例え半分虚構の日本のイメージでも)よかったと思う。ただ、どうしても和風の音楽というのは迫力に欠けるため、それで幾分力不足なところはあったように思われる。インド人はとにかくエネルギッシュな出し物を好む傾向にあるので、退屈な人には退屈だったかもしれない。しかし、シタールと琴の共演は心に残った。案外これが不思議とマッチしており、日本とインドの握手のような音楽になっていた。琴の起源を辿っていけば果てはインドに辿り着く可能性も十分にある。だからシタールと琴の共演は言わば遠い親戚同士の久しぶりの出会いとも表現することができるだろう。ちなみにシタールはインド人がゲスト出演で演奏していた。また、アンコール曲として最後に「Lagaan」の「Ghanan Ghanan」を琴などで演奏してくれて、個人的に嬉しかったと同時に観客のインド人に受けていた。ジャパン・ファウンデーションのSさんがわざわざCDを送って演奏してもらうように頼んだそうだ。

 結局本日の全ての演目が終わったのは9時30分過ぎとなった。その後片付けなどを手伝っていたため、帰ったのは10時半頃だった。疲れた。

4月29日(月) YAMATOシューティング

 今日は9時に集合がかかっていた。今日は公演はないのだが、YAMATOが照明のシューティング(設置・調整)や音響の調整を行った。メンバーは来ていなかったが、舞台監督と音響係が来ており、インド人側もライト・スタッフと音響スタッフが来ていた。僕たちアルバイトは昨日と同じように、彼らの間のコミュニケーションの、細かい部分の通訳を行った。しかし昨日に比べて仕事の量が少なかったため、基本的に暇を持て余していた。

 それにしても今日つくづく思い知らされたのが、YAMATOの人たちの舞台にかける情熱である。ライトの位置にしても、細かい部分に異常にこだわる。僕にしてみれば「そんなのどうでもいいじゃん」とか「そんなことして違いが分かるの?」とか思ってしまうことを、丁寧に丁寧に調べながら調節している。ライトの種類、光の位置、向き、濃淡、シャープ度などなど、全てを厳格に定めていた。また、音響にしてもスピーカーの音質やバランスに慎重に気を配っていた。

 はっきり言ってスィリー・フォートの設備はそんなによくないみたいで、彼らはけっこう苦労しているみたいだった。設置されているライトの半分は電球切れか故障か何なのか分からないが点かないし、スピーカーも老朽化しておりビリビリしているのがあった。舞台の床が客席側に傾いているのも昨日SINWAが踊るときに問題にされていた。何よりインド人スタッフがダラダラと仕事をするのに少し困っていたみたいだったが、やはりYAMATOの人たちは場数を踏んでいるだけあって、ダラダラなスタッフなりにうまく使って仕事をしていた。

 今日も昼ごはんはジャパン・ファウンデーションからお金が出たので、近くの高級レストランで食事をすることができた。でもさすがに今日は控え気味にして、別の店の200ルピー程度のビュッフェにした。最近いいもの食べすぎかもしれない。しかも毎日肉料理を食べている。

 本当は今日の仕事は2時頃に終わる予定だったはずなのだが、YAMATOスタッフのこだわりとインドスタッフの牛歩作戦と機材の不都合により、結局10時頃までかかってしまった。本日も昨日に引き続き12時間労働だった。労働と言ってもほとんど何もしなかったが・・・。予定が狂ってしまったので、明後日本当にデリーを出発できるかどうか不安である。まだほとんど荷物のパッキングが終わっていない。

4月30日(火) YAMATO

 暖かくなるとアリは活発化するみたいで、ここ数週間アリ害に悩まされている。冬の間は平穏だったのだが、夏の到来と共に再び小さなテロリストたちとの戦いが始まった。僕は明日からしばらく部屋を空ける。言わば政権の空白状態となる。帰ってきたときに部屋がアリに支配されていたらどうしよう。

 そのアリとの戦いもままならないまま今朝も早くに家を出た。今日は和太鼓グループYAMATOの公演がある。その準備のために8時半にスィリー・フォートへ赴いた。と言っても作業が始まったのは9時頃だったが。ここ3日間、朝が早いのでけっこうつらい。

 午前中は最終セッティングだった。昨日はライトを設置しただけだったので、今日はコンピューターと同期させる作業を行っていた。もう最近では照明は全てコンピューターで管理をしている。僕も少しいじらせてもらった。ボタンひとつで舞台の照明を自由自在に操作できるので楽しかった。舞台監督は照明をグループ化して同時に操作できるようにしたり、光の加減を調節したりしていた。音響の方はもうOKだったみたいだ。昼頃YAMATOのプレーヤーが入ってきて、楽器の配置をし始めた。相変わらずテキパキしている。僕はほとんど出番がなかった。

 昼食の時間になった。YAMATOのメンバーの食事は日光ホテルの超高級日本食レストラン、サクラの弁当だった。一方、僕たちスタッフはインド料理のランチ・ボックス(ヴェジとノン・ヴェジ)だった。明らかな差別・・・。でも僕は別に何でもよかったのでまあ気にしなかった。しかし彼らはインドに来てインド料理を果たして何回ぐらい食べたのか疑問に思った。デリーで見ていると全然インド料理を食べていないように思える。さすがに1回は食べただろうが、2回以上は食べていないかもしれない。インド料理ってそんなに人気ないのかな・・・。やはりインド料理というと「辛い」というイメージが先行しているからいけないのだろうか?例えば中国とかフランスへ公演へ行って、ほとんど中華料理やフランス料理を出されなかったら多分不満が出るだろう。しかしインドにおいてほとんどインド料理を出されなくても不満を言う人はいないような気がする。僕は日本にいてもインド料理を毎日食べていたいぐらいのインド料理好き人間なので、そういう日本人のインド料理に対する態度が奇異に思える。でもそれが一般の日本人なのだろう。世界三大料理は中華料理、フランス料理、トルコ料理と言われているが、世界五大料理を挙げるとすれば、僕はタイ料理とインド料理をランクインさせたいと密かに思っている。

 昼食後はリハーサルが始まった。見ていて楽しかったのが、インドの打楽器との共演の打ち合わせ。アンコールでYAMATOの和太鼓とインドの4つの打楽器(タブラー、パカーワジ、ナカーラー、チャンドゥー)の共演が計画されていたようなのだが、今日初めて合わせていたみたいだった。最初はかなりもめていた。段取りとしては、まず緞帳の前でYAMATOが太鼓を打ち鳴らし、その後緞帳が開いてインド人奏者4人が現れる。その後和太鼓とインドの打楽器の合奏となる訳だが、インド人奏者側は登場と同時にソロをやりたいと言い出した。一昨日KOTOと一緒に出演していたインド人もそうだが、彼らはやたらと目立ちたがる。全体の調和よりも個人芸に走りたがる傾向にあるのだ。だが、この曲はアンコールだし、最後の盛り上がりである。ソロが途中で入ってしまうと音の迫力が減って盛り下がってしまう。YAMATOはソロはなしにしてもらいたいと提案していたが、インド奏者側は「インド音楽はソロから始まってだんだん盛り上がっていくんだ」と引かなかった。そこでなるべくソロの時間を短くしてもらうことにして、ソロが入ることになった。また、4人のソロを一度にやってしまうとだれてしまう可能性があったので、ふたつに分けて、ソロ→合奏→ソロ→合奏という形態にしていた。これはうまくはまった。その後、インド音楽特有の楽器同士の掛け合いが入ることになった。最初はタブラーがソロで16拍演奏し、その後和太鼓が16拍演奏、その後パカーワジが16拍演奏、その後和太鼓が16拍・・・というように16拍演奏を交互に繰り返し、一巡したら次は8拍ずつ交互に演奏、また一巡したら次は4拍ずつ演奏というようにだんだん盛り上がっていくようにした。なんかインド音楽のリズムの取り方と和太鼓のリズムの取り方にズレがあって、僕としてはそれが妙に気になったのだが、逆にそのズレが新鮮だった。何回から練習する内にこの掛け合いも形になった。そして最後は合奏で盛り上がり、最高潮でクライマックスということになった。終わり方もインド音楽っぽい味付けになっていた。つまり始終インド側のミュージシャンが主導権を握っていたわけだが、最終的には素晴らしい共演が出来上がって、見ていた僕も嬉しくなってしまった。この曲が出来上がるまでの過程がもっとも素晴らしかったと思う。スタッフならではの楽しみだった。




YAMATOリハーサル


 開場時間が迫っていた。よくよく客席を見渡してみると、やたらと「Reserved」と書かれた紙の貼ってある席が多い。真ん中は前から5列まで予約席、しかも最前列は「VVIP」つまり「Very Very Important Person」の席になっていた。右と左は前から2列目まで予約席だった。つまり一番いいところの200席以上が予め予約席に設定されてしまっていたのだ。この状態には憤慨した。昔の思い出が蘇る。数ヶ月前にザーキル・フサインのコンサートに行ったとき、気合を入れて開場前から並んで待っていたのに、いざ会場の中に入ってみると大半の前列席が予約席で、後ろの方の席に座らざるを得なくなったことがあった。今回のショーもおそらく観客にあのときの僕と同じ感情を抱かせてしまうだろう。だがアルバイトの身では何ともすることができなかった。残念だった。

 6時の開場と共に多くの人々が会場に雪崩れ込んできた。スィリー・フォートのキャパシティーは確か2000人と聞いたことがあるのだが、その席は全て埋まってしまった。そして通路に座る人も出て来た。だが、キャパシティー以上の入場は警察によって制限されたため、400人以上の人が中に入れず外で立ち往生していたらしい。これも残念なことだ。

 僕はYAMATOの演奏時はマスコミ席でマスコミの管理の仕事を任された。一昨日の公演のときは、マスコミがステージの隅にかじりついて撮影していたため、かなり邪魔だったらしい。だから今日はステージの近くにマスコミを近づけさせないようにする必要があった。マスコミ席はステージのすぐ真ん前にあったため、僕はYAMATOの演奏を間近で見ることができたのだった。

 YAMATOの演奏は・・・素晴らしいの一言に尽きる。太鼓というのはおそらく原始時代から人類に愛用され続けた楽器である。だから魂に響く。理屈抜きに身体に染み入ってくる。誰でも理解し、楽しむことができる。それに加えてYAMATOのメンバーはいろいろ魅せる工夫を随所に凝らしていた。驚いたのは所々にギャグが入っていたところだ。関西人が大半を占めるゆえにお笑いにもこだわりがあるのだろう。和太鼓とお笑いというとなんだかマッチしないイメージもあるが、YAMATOはうまくその二つを調和させていた。しかも言葉を使わないギャグだったので、どの国の人にも理解できた。そしてインドでも大いに観客に受けていた。




YAMATOステージ


 1時間半の公演はあっという間に過ぎ去った。インドの打楽器と和太鼓の共演も大受けだった。ただ、気になったのが、練習のときよりインド人奏者たちのソロが長くなっていたことだ。土壇場で無理矢理ソロを勝手に延長させるとはさすがインド人・・・恐れ入った。この共演が終わった後はもうスタンディング・オヴェーション。全観客総立ちで若い和太鼓奏者たちに限りない拍手を送っていた。大成功である。しかもアンコールが出て、もう一度そのインド打楽器と和太鼓の共演を演奏した。




大団円


 この3日間イベント運営の手助けをしていろいろ勉強になったし、いい体験になった。やはり海外で公演する人・グループというのは、ひとつのことに命を懸けて人生を生きており、細部に常軌を逸したこだわりを持っていることを実感した。残念ながらあまりヒンディー語の勉強にはならなかったが、新しい友達や関係を作ることもできた。

 そういえば暇だったときにチューヤンさんに手相を見てもらった。言うまでもなくインド人は占い大好きである。インドには各種の占いが発達しており、どんなモダンな人でもインド人の大半は占いをどこかで頑なに信じており、簡単な占いなら誰でも行うことができる。手相も恐らくインドが起源だろう。僕は占いに関してはあまり信じないタイプなのだが、チューヤンの手相占いはかなり合っていてびっくりした。僕は「哲学的」で「きれいな心」を持っており、「優柔不断」な性格、「お金を浪費するタイプだが、浪費するほどお金がさらに入ってくるタイプ」、また「かなり長生き」するらしい。つまりいい手相をしているようだ。これなら手相を信じても構わない。

 YAMATOの公演が終わり、片付けが済んだ後、これから日本料理レストラン田村で打ち上げがあるようで僕も誘われたのだが、明日スリランカへ行かなくてはならないので断って10時頃帰らせてもらった。疲れた〜。

5月2日(木) Aap Mujhe Achche Lagne Lage

 インドを去る前に是非見ておきたい映画があった。映画の名前は「Aap Mujhe Achche Lagne Lage(あなたは私を好きになり始めた)」。リティク・ローシャンとアミーシャー・パテールが主演の映画だ。公開から2週間ぐらい経っているので、僕の周りのインド人で既に見た人が多かった。評価を聞いてみると、10代の子は評価上々、それ以上の大人には不評だった。多分典型的なラブ・ロマンス・インド映画であることが容易に想像できた。今日は冒険をして、今まで一度も行ったことがなかった映画館PVRヴィカースプリーへ行くことにした。

 PVRと付く映画館はデリーに今のところ4つある。PVRプリヤー、PVRアヌパム、PVRナーラーヤナー、PVRヴィカースプリーである。もちろん全て同じ系列の映画館で、入場料は一律150ルピー、金持ちインド人御用達の高級映画館である。PVRアヌパムは自宅から近いのでよく利用しているので既にお馴染みである。PVRプリヤーで映画を見たことはないのだが、映画館の辺りには何回か行ったことがある。PVRナーヤーヤナーはちょっと離れたところにあるのだが、1度だけ行ったことがあった。残るはPVRヴィカースプリーだけだった。事前の情報により、ヴィカースプリーにマクドナルドがあることが分かっていたので、おそらくPVRヴィカースプリーの周辺はモダンな商店街になっているだろうことが予想できた。

 グリーン・パークからオート・リクシャーに乗ってPVRヴィカースプリーまで行った。ヴィカースプリーはデリーの西の方にあり、PVRナーラーヤナーよりもさらに遠い。メーターで120ルピーかかった。

 PVRヴィカースプリーはちょっとしたモールになっていて、マクドナルド、ピザ・ハット、ピザ・コーナー、コーヒー・デイ、ミュージック・ワールド、アルチーズ・ギャラリー、ベネトンなどの店舗が入っており、まだ一部工事中でさらに店舗数が増えそうだった。PVRヴィカースプリーの周辺も商店街化が進んでおり、あと1年もすれば金持ちな若者向けのマーケットが出来上がると思われる。ちょっとデリーの中心街から遠いのがネックだが、金持ちインド人なら自家用車くらいは持っているのであまり関係ないだろう。




PVRヴィカースプリー


 なぜか「Aap Mujhe Achche Lagne Lage」のチケットは130ルピーだった。PVRヴィカースプリーのチケットの値段がもともと130ルピーなのか、それともこの映画だけ安かったのかはよく分からないが、とにかく得した気分になった。3時半からの回を見た。




リティク・ローシャン(左)と
アミーシャー・パテール(右)


Aap Mujhe Achche Lagne Lage
 サプナー(アミーシャー・パテール)はマフィアのドン一家の娘だったが、父プラタープと兄ラーヴァンに大切に育てられた箱入り娘だった。いつも家の中で暮らしており、いつか白馬の王子様が自分をこの家から連れ出してくれることを夢見ていた。

 一方、ローヒト(リティク・ローシャン)は大学に通うスポーツ万能の青年だった。ある夜ローヒトは友達と一緒にバイクに乗って走っていると、たまたまサプナーの乗った自動車が隣を通りがかり、サプナーに一目惚れしてしまう。ところがその瞬間、サプナーの乗った自動車は敵マフィアの奇襲を受ける。ローヒトはサプナーを助け出すが、味方の到着と共にサプナーは彼らと共にどこかへ姿を消してしまう。

 すぐにローヒトはサプナーがマフィアの娘であることを知る。しかしサプナーに対する愛は抑えきれない。ちょうどそのときナヴラートリーの祭りで、サプナーの家で数日間祭りが催されることも分かった。ローヒトは友人と共にバンドを組んで、その祭りに潜り込んで演奏をすることになった。

 ローヒトとサプナーは再会し、すぐにお互い恋に落ちる。ナヴラートリーの祭りが続いている間、ローヒトはサプナーの家を訪れて逢引を重ねていた。ところが、ナヴラートリーの最終日になり状況が一変する。プラタープはイギリス在住の友人の息子とサプナーの結婚を勝手に決めており、みんなの前で発表したのだった。それを聞いたサプナーとローヒトは悲しみに打ちひしがれる。

 ローヒトはそれでも諦めなかった。マフィア一家を敵に回してでもサプナーを手に入れることを決意した。サプナーの結婚式にまたバンドとして潜入し、サプナーを奪って逃げ出したのだった。当然サプナーが姿を消したことを知った兄ラーヴァンは怒り狂った。敵マフィアの仕業であると勘違いし、ムンバイー中のマフィア・グループを殺して廻った。ところが誰もサプナーの居所を知らなかった。

 一方、ローヒトは自分の住んでいる男子寮にサプナーをかくまっていた。男子寮に女の子が入ってきたことで一度は大変なことになるが、みんなの協力を得ることができて、サプナーはそこで隠れ住むことができるようになった。ところが、遂にラーヴァンたちに居所がばれてしまう。ローヒトが何度もサプナーの家に電話をかけていたことから、電話番号照会で分かってしまったのだ。

 ラーヴァンは部下を引き連れてローヒトの男子寮に押しかける。ところが寮生たちは皆ローヒトとサプナーを守るために立ち上がる。そこへマフィアのドン、プラタープが登場し、ローヒトとサプナーの結婚を認めてサプナーを自宅に連れ帰った。

 ところがそれは全てサプナーを連れ戻すための嘘だった。サプナーは無理矢理イギリスに送られることになった。そしてローヒトは無人の薬品工場の連れ込まれリンチを受け、死んでしまう。それを聞いたサプナーは自殺を図り、睡眠薬を大量に呑み込む。

 ところがローヒトは生きていた。蘇生したローヒトはまるでターミネーターみたいな超人と化していた。空港へ向かうサプナーを乗せた車の前に立ちはだかり、ラーヴァンの部下たちを1人で全てなぎたおす。しかしサプナーを抱きかかえたときには既に彼女は意識が朦朧としていた。ローヒトはサプナーを病院へ連れ込む。

 サプナーは一命を取り留めた。プラタープもさすがに2度もサプナーの命を救ったローヒトを認めざるをえず、2人の結婚を許したのだった。

 やはりストーリーが現実離れした典型的なインド映画だった。細かいところを突っ込んでいったらキリがない。そもそもマフィアの娘と結婚してハッピー・エンドなわけないだろう・・・。絶対にいつか殺されるって・・・。でもまあ普通に楽しめるインド映画だと思った。こういうインド映画もなくてはならないと思う。それにしてもリティク・ローシャンのダンスは相変わらずうまかった。アミーシャー・パテールもけっこううまくなったと思う。

 音楽はラージェーシュ・ローシャン。リティク・ローシャンの父親だ。彼は結構名の売れた音楽監督なのだが、僕はあまり好きではない。なんかまとまりに欠けるのだ。この映画の音楽も、ちょっとゲテ物っぽい部分があった。やたらと転調が多くて、聞いていて目まぐるしい。タイトル音楽の「Aap Mujhe Achche Lagne Lage」だけはついつい口ずさんでしまう洗脳性の高い曲で評価できる。

 あまりあってはならないことだが、途中で停電が2回もあった。つまり映画が途中で映らなくなってしまうのだ。安映画館なら許せるが、PVRほどの高級映画館でこういうことが起こるのはよくない。しかも停電だった間のシーンは全て飛ばされてしまうのでさらに理不尽である。巻き戻して見せてもらいたい。普通インドでは映画が途中で切れたりすると、即行で観客から大量のブーイングが出るのだが、やはりPVRの客層はインテリが多いようで、そういうことはなかった。「やれやれ」という苦笑ぐらいだった。多分PVRヴィカースプリーの辺りはまだインフラがあまり整っていないのではないだろうか。

 映画が終わった後、映画館の周辺をぶらついてみた。PVRヴィカースプリーの前の道路は木曜定期市なのかどうか分からないが、多くの出店が並んでおり大混雑だった。PVRヴィカースプリーの辺りはやはりデリーの辺境地帯で、オート・リクシャーがあまり走っておらず帰るのに苦労した。バスも走っていたのだが、見たことがない番号のバスだったので乗るのはやめておいた。そうこうしている内に南の空から暗雲が立ち込めてきて、雷が鳴り始めた。今夏最初の雨だ。インドでは雨はまさに「恵みの雨」である。雨が降り終わるまで待っていようと思ったが、なかなか降り出さなかったので何とかリクシャーを捕まえて帰った。途中で雨が降り出したが、すぐにやんでしまった。昨日帰れなかったおかげで恵みの雨を体験することができた。この初雨の後はいよいよ本格的なマンゴー・シーズンらしい。楽しみだ〜。

5月3日(金) スリランカへ

 フライトは9:00PM発UL192。8時頃にインディラー・ガーンディー国際空港に着いた。離陸まであと1時間。早速チェック・インして搭乗券を受け取った。幸いLさんと隣の席になることができた。航空会社のカウンターで荷物タグと出国カードを受け取った。荷物タグは機内に持ち込む荷物ひとつひとつに付けなくてはならない。出国カードに急いで記入して出国審査へ。しかしターバンを巻いたサルダール(スィク教徒)のグループが出国審査に手間取っており、全然進まなかった。サルダールは外国へ行って不法就労する人が多いので、チェックも厳しくなるのだ。出国審査で僕は学生ヴィザということで少し止められ、外国人登録手帳を見られて大家さんの住所証明か何かが必要だと言われたが、またインドに戻ってくると言ったらすぐに通しくれた。その後、僕は税関をフリーパスし、ゲートへ。ゲートに入る前に荷物チェックと身体検査があり、飛行機に乗り込む前にも厳重な荷物検査と身体検査があった。別にやましいものは持っていないので難なくパス。そして飛行機に乗り込んだ。こんなに忙しい搭乗は初めてだった。自分の席に座って時計を見てみると8:40。思ったよりも早く乗ることができた。

 スリランカン・エアラインズの飛行機はエアー・インディアとは大違いで、こじんまりとしてはいる清潔で最新設備が整っていた。エコノミークラスにも一人一人モニターが付いており、自分で映画を選んで鑑賞することができた。こんな豪華な設備はシンガポール航空を使ったとき以来だ。映画は洋画からインド映画までいろいろやっていたのだが、僕は「バニラ・スカイ」を見た。機内食も一回出て、チキン・カレーを食べたがかなりおいしかった。ただ、乗務員の数が足りていない感じでサービスが追いついていなかった。それでもスリランカン・エアラインズ航空は今まで乗ったキャリアの中でも上位にランク・インするほどよかった。

 コロンボのバンダラナイケ国際空港には予定通り1:00AM頃到着した。飛行機の外に出てまず感じたのはネットリとした湿気、そして地面の水溜り。あまり事前に情報を集めていなかったのだが、今スリランカは雨季の真っ只中みたいだ。飛行機から降りてバスで空港の建物に入った。まずは入国審査。インドとは比べ物にならないほどのスピードで審査は進んでまずは好印象。スリランカのヴィザは1ヶ月以内の滞在なら入国時にもらえる。30日間有効の観光ヴィザをもらえた。

 手荷物は預けていなかったので、そのまま税関を通り抜けて空港の外に出た。銀行でとりあえず100ドル両替した。9472スリランカ・ルピーになった。計算してみると、1ルピー=1.37円くらいの計算である。友達から借りていた94〜95年度版の地球の歩き方スリランカには、「94年1月現在1ルピーは約2.3円」と書かれていたので、8年間の間にかなり変化したみたいだ。

 その後、出発ロビーの荷物預け所に大きな荷物を預けた。そしてホテル・バウチャーをもらってホテルへ行くことになった。しかし当てが外れたことがあった。僕はてっきりコロンボのホテルに泊まれると思っていたのだが、スリランカン・エアラインズが用意してくれたホテルはコロンボの北36Kmの地点にあるニゴンボというリゾート・タウンのホテルだった。でもどうせ日本行きの飛行機に乗るときにコロンボに寄る予定なので構わない。どうせならいろんなところに行ってみたい。ホテルの名前はブルー・オーシャニック・ビーチ・ホテル。ニゴンボでは随一の高級ホテルのようだ。さすがに部屋もきれいで、お湯も出て大満足。早速シャワーを浴びて寝た。あれこれやっていたらもう夜中の3時頃になっていた・・・。

5月4日(土) ニゴンボ

 朝、気付いてみるとどこかから激しい水の音がする。しまった、昨夜シャワーを浴びたときに水を出しっぱなしにして寝てしまったか!?と思ってバス・ルームを見てみたが違った。その音は外からだった。バケツをひっくり返したような大雨が降っていたのだ。スコールである。これがスリランカの雨季か・・・。いきなり熱烈な歓迎を受けた気分だった。

 とりあえず朝食を食べた。西洋風ビュッフェ形式だったが、あまりヴァラエティーに富んでなかった。でもパパイヤ・ジュースはおいしかった。朝食を食べているうちに雨はいつの間にか止んでいた。気付くとホテルのすぐ前には海が広がっていた。今まで雨が降っていて見えなかったのだ。

僕はホテルの周辺を歩いた。海は雨が降ったおかげで荒れており、とても泳げるような状態ではなかった。でも砂浜にはゴミひとつ落ちていなくてちゃんと管理が行き届いていることを感じた。砂浜に落ちている木の実や魚の死骸などを見ながら歩いていた。ハリセンボンの死骸もあってちょっとビックリ。砂浜に沿ってリゾート・ホテルがいくつか並んでいたが、すぐに普通の漁村になった。漁村の広場では子供たちはクリケットをして遊んでいた。ある猟師に呼ばれて彼の家に行った。猟師は僕に貝殻をいくつかくれた。しかし貝殻の代金としてお金をくれと言われた。じゃあいらない、と返したら、1つだけただでくれた。

 漁村を通り抜けて内陸部へ入るとすぐにニゴンボのメイン・ロードだった。メイン・ロードといっても未舗装の道で、雨が降ったおかげでアチコチに水溜りができていた。また、道の両側にはホテルの他、たくさんのお土産屋や旅行代理店などが並んでいた。あとはただの田舎町といったところだ。フラフラと歩いているとある旅行代理店に声を掛けられれた。「日本に送って欲しい手紙があるんだけど」と言われたので中に入ってみると、いろいろ写真や「この旅行代理店は信用できます」的な旅行者の寄せ書きノートを見せられて、キャンディーまでの日帰りツアー(4200ルピー)を売ろうとしてきた。手紙の話は客を中に連れ込むオトリだったみたいだ。僕はそんなの必要なかったのですぐに出た。観光地はどこでも一緒だなぁと思った。




ニゴンボのメイン・ロード


 今インドでも日本でもないところにいるのだ。しかしスリランカはインドの属国のような雰囲気なので、あまりそういう実感が沸かない。人はほとんど同じだし、町並みも南インドに似ている。通貨単位もルピーだ。といってもインドとは価値が違う。まだスリランカ・ルピーの感覚が掴めない。言葉はヒンディー語と同じ語族のシンハラ語、文字はタミル語と似ている。タミル人も多いので、タミル語の表記もある。オート・リクシャーも走っている。また、建物は日本の古い建物に似ているため、日本の田舎町を歩いているような気分にもなってしまう。感覚が浮遊している感じだ。

 それにしても暑い。湿気のある暑さである。日本の夏に似ている。日陰に入ってもあまり涼しくない。ジーンズを履いてきたから余計に暑く感じる。適当に歩き廻った後、冷房の効いたホテルの部屋に戻って休んだ。昼食もただで食べれた。

 昨夜は3時頃眠って朝7時頃起きたので疲れていた。トラベル・ハイ状態になると眠気を忘れるものだ。でも僕もベッドに横になるとすぐに眠気が襲ってきて3時間ほど眠ることができた。夕食の時間に目が覚めた。

 夕食はビュッフェ形式で、ファッション・ショーまで開かれた。毎晩何かイベントが組まれているみたいだ。料理は余裕で肉料理が出ており、しかも牛肉まであった。こっそり一切れ牛肉をビュッフェのところで食べた。久しぶりの牛肉だった。インドでは気が引けて食べれなかった牛肉も、スリランカならなぜか心置きなく食べれてしまう。やはりここはインドではない。海辺ということで魚料理もいくつかあった。インドに比べると肉々しい料理が多かった。ファッション・ショーはスリランカ人の女の子やマッチョ・マンなどが登場してけっこう盛り上がった。




ファッション・ショー


5月5日(日) キャンディー

 実はニゴンボはリゾート・エリアとタウン・エリアに別れている。僕が滞在していたのはリゾート・エリア。今日はキャンディーへ行こうと思っていたので、まずはニゴンボのリゾート・エリアからタウン・エリアのバス・スタンドへ行ってバスでコロンボへ行き、そこからさらにキャンディー行きのバスに乗らなくてはならなかった。ホテルの前でオート・リクシャーを捕まえて、まずはニゴンボのバス・スタンドまで行ってもらうことにした。言い値は300ルピー。相場が分からないので適当に「高いんじゃないの?」と疑ったらすぐに半額の150ルピーになった。まだ高かったかもしれないが、その値段でニゴンボのタウン・エリアにあるバス・スタンドへ行ってもらった。

 リクシャー・ワーラー(スリランカではこうは呼ばないか・・・?)は親切な人で、ニゴンボからキャンディーへ行くのだったらコロンボへ出るよりもクルネーガラへ行って、そこからキャンディーへ行った方がいいということを教えてくれた。コロンボはキャンディーから反対方向だし、ニゴンボからのバスが到着するバス停と、キャンディー行きのバスが出るバス停が別なので分かりにくいとのことだった。リクシャー・ワーラーはクルネーガラ行きのバスを探してくれて乗せてくれた。そのバスはインターシティーと呼ばれる高級バスで、エアコン付きで涼しい上に椅子も柔らかい。ニゴンボからクルネーガラまで45ルピー。A/C付きバスと考えればインドよりも交通費は安いかもしれない。

 ニゴンボからクルネーガラまでは大体2時間だった。クルネーガラのバス・スタンドでキャンディー行きのバスに乗ろうとしたが、その前にトイレに行きたかったのでバス停の公衆トイレへ行ってみた。やはり不可触民のような人がトイレの管理をしており、お世辞にも清潔とは言えなかった。インドよりも汚ないと思う。ただ、大の方は一回使うごとに子供がわざわざ水で流していたので、その点は評価できるかもしれない。僕は小の方だったので汚なくても別によかったが。ただ、トイレを出るときに入り口にいる管理人に10ルピーを要求されたのは残念だった。他のスリランカ人は50セント程度しか払っていなかったのに。「ああ?10ルピー?」とごねていたら10ルピーの次は3ルピーになった。僕は結局あまり小銭の持ち合わせがなかったので1ルピーだけ払って逃げた。

 キャンディー行きのバスもすぐに見つかった。公共バスもあったのだが、インターシティー・バスが思った以上に快適でしかも安く感じたのでまたそれに乗った。クルネーガラからキャンディーまでは40ルピーだった。距離的にはニゴンボからクルネーガラまでより遥かに短かったのにちょっと値段が高めだと思ったが、それは乗ってみてすぐに理解できた。キャンディーへ行くまでの道は山道で、ジャングルの中をくぐって行くような冒険的道だったのだ。スリランカは少し町から外れればまさに熱帯のジャングルなのだが、クルネーガラからキャンディーへ行くまでの道はそれが顕著だった。ベトナム戦争の映画を見ているかのようなイメージ通りのジャングルが道路の両脇に広がっているのだ。ジャングルの道を巨大なオオトカゲが横断しているのを見たときはちょっとビックリした。こんな風景はさすがにインドにもあまりないだろう。ただ、インドとは違ってスリランカの町には野良牛が闊歩していないのだが、ジャングルには牛がいて少し安心した。

 クルネーガラからキャンディーまでは大体1時間くらいだった。今日はキャンディーに滞在する予定だったのでホテルを探さなくてはならない。早速「地球の歩き方」を開いてどこにしようか考え、スリランカ人と結婚した日本人の女性が経営しているというレイク・マウント・ツーリスト・インに泊まることに決めた。多分日本人の旅行者が多く泊まっているだろうし、日本語の本や情報ノートも用意されていることが予想できたからだ。何しろ僕の持ってるガイドブックは約10年前のものなので、新しい情報に飢えている。「地球の歩き方」には「電話をすれば迎えに来てくれる」と書いてあったので、バス停の近くで電話屋を探して電話をかけた。既に載っていた電話番号は古くなっていたので、電話屋に電話番号を照会してもらってなんとか今の電話番号を見つけたのだった。スリランカでは1コール6ルピーだった。インドより少し高いくらいか。

 ホテルの人が迎えに来てくれることになったので、バス停に立って待った。スリランカの町には数種類の文字が溢れている。シンハラ文字がもっとも多く、英語の表記ももちろん多い。タミル文字は割と公共の看板や掲示板などにシンハラ語と共に併記されていることが多い。準公用語の扱いなのだろうか。その他、なんと日本語も町には溢れているのだ。町を走っている日本車の側面などに○○商会とか○○スイミング・スクールとか書かれているのだ。これはパーキスターンでも同じだったし、アフガニスタンでもそうらしい。おそらく日本から中古車がどういうルートか知らないがとにかく輸入されてきたときに、以前書かれていた文字が消されないまま使われているのだろう。中には僕のよく知っている地名が書かれたものもあったりして驚いた。町並みが日本にどことなく似ているし、道路の舗装方式も日本とほぼ同じなので、うっかりすると日本にいるかのような錯覚に陥る。たまたま僕はインドから日本に帰るついでにスリランカに立ち寄ったわけだが、スリランカはまさにインドと日本を強引に足して2で割ったような国のように思えてきた。

 レイク・マウント・ツーリスト・インの人が迎えに来てくれて、ホテルまで連れて行ってもらった。ホテルは市街地からけっこう遠いところにあった。というか山奥にあった。キャンディーは山に囲まれた盆地になっているので、山奥と行っても町からすぐのところに山があるわけなのだが、でもちょっと町まで行くのに不便そうだった。今のところホテルには日本人が1人泊まっているだけのようだ。シングル・ルーム、朝食代込み、税金込み、共同バスルームで800ルピーだった。けっこう高い、と思ったが、後から確認したところ、キャンディーではそのくらいするみたいだ。一応ホット・シャワーも出るし、トイレも清潔なのでいいかもしれない。ちなみに日本人の奥さんとは会えなかった。ホテルには一応日本語の本が数冊置いてあったが、あまり役に立つような代物ではなかった。

 ホテルにチェック・インした後、すぐにキャンディー観光へ出掛けた。キャンディーは人造湖のほとりにある小さな町で、15世紀末から19世紀初めまでシンハラ王朝の首都が置かれた古都である。ブッダの歯が祀られているダラダー・マーリガーワ(仏歯寺)が有名だ。とりあえず山から下りて湖沿いの道を歩いて市街地の方へと向かった。

 キャンディー湖の周辺を歩いているとなぜか同じパターンで話しかけてくるスリランカ人に数人会った。まず湖の中をのぞいており、通り過ぎようとすると僕に「湖の中に蛇がいるぞ」とか「トカゲがいるぞ」とか言って注意を引く。僕が湖の中を覗きこむと「どこの国から来た?」とか適当に質問して来て、すぐに話は夕方から行われるキャンディアン・ダンス・ショーの話になる。今日は特別だから是非見ろ、と勧めてくるのだ。チケットは250ルピー。あまりに同じパターンなので怪しくなったが、騙されたと思って1枚チケットを買っておいた。そんなに外国人にキャンディアン・ダンスを見てもらいたいのだろうか?他に、「やあ、僕のこと覚えてる?」と話しかけてくるスリランカ人もいた。「僕は君の泊まってるホテルのコックだよ」と言うのだが全然見覚えがない。僕が「どこのホテル?」と聞くと「ムニャムニャ・ホテル」と早口で言って誤魔化そうとする。相手にしないでいるとすぐにどこかへ行ってしまった。やはりスリランカにも外国人旅行者相手に商売してる怪しいスリランカ人というのはいるみたいだ。

 まずは仏歯寺へ行ってみた。黄金の屋根は日本の政府か民間団体が寄付したそうだ。靴を預けて中に入る。外国人は入場料200ルピー、カメラ持ち込み料100ルピーが必要らしかったが、仏教徒は無料という情報もあったので、「I am Buddhist」と言ってみたら無料で入れた。ようやく仏教徒として生まれて得したと実感する瞬間がやって来た気がした。そもそも日本の寄付で建てられているので、日本人は特別に優遇されている感じがした。




仏歯寺


 実は仏歯寺でプージャーが行われる時間は決まっており、次のプージャーの時間は7時頃からだった。プージャーのときにはブッダの歯が入った箱を見ることができるらしい。なぜこんなところにブッダの歯があるかというと、紀元前543年にブッダが火葬された際にブッダの遺骨を巡って争いが起き、ブッダの歯はある僧侶のものとなったのだが、それが巡り巡って後4世紀にスリランカに運ばれてきたそうだ。本当かどうかは誰にも分からないが、この仏歯はスリランカ人の誇りらしい。また7時頃来ることにして仏歯寺を出た。

 仏歯寺の近くは市街地になっているのだが、今日は日曜日だったためほとんどの店は閉まっていた。市街地の中にヒンドゥー教寺院があったので入ってみた。主神としてムルガンが祀られていたが、奥のほうに行ったら仏像もあったりしてあまりヒンドゥー教と仏教の区別がなされていないように感じた。

 怪しげなスリランカ人からキャンディアン・ダンスのチケットを買ってしまったので、本当にキャンディアン・ダンスが行われるか確認しに会場へ行ってみた。すると途中でスリランカ人の若者に話しかけられた。チケットを見せて「ここに書かれている会場はどこ?」と聞いてみたら、どうやらその若者もチケットを売る人だったみたいで、「まだ開いていない」と言われた。しかも彼はガイドもやっており、仏歯寺の近くにあったいくつかの仏教寺院を案内してくれた。横になって休むブッダの像や大きな菩提樹などがあった。

 スリランカの宗教構成を見てみると、70%は仏教徒、15%がヒンドゥー教徒、イスラム教徒が8%、キリスト教徒が7%である。宗教は大体民族構成と対応しており、仏教徒はシンハラ人、ヒンドゥー教徒はタミル人となる。ただ、ヒンドゥー寺院にブッダが祀られていたり、仏教寺院にヒンドゥーの神が祀られていたりして、両者は混交している。ブッダを頂点として4守護神(ヴィシュヌ、サマン、カールティク、パッティニ)というのがおり、それらは多分全てヒンドゥー教起源の神である。また、ニゴンボにはシンハラ人のキリスト教徒が多かったのも印象的だった。

 6時からキャンディアン・ダンスを見た。アヴァンハラというレストラン付きのホールで行われ、午後6時からだった。僕は20分前に行ったので一番前の席に座ることができた。次第に客が入ってきたが、ほとんど外国人旅行者で、白人の団体観光客が大半を占めていた。やはり観光客向けのダンス・ショーだったみたいだ。チケット売りには「今日は日曜日だからスペシャルだ」と言われたのだが、多分毎日行われているようなショーだった。

 キャンディアン・ダンスとはスリランカを代表する舞踊である。シンハラ王朝の宮廷舞踊と各地の民族舞踊を融合させたものらしい。最初はドラムの演奏から始まって、女性数人の祈りのダンス、男性数人のアクロバット、女性数人のダンス・・・などけっこう目まぐるしくいろんなタイプが次々と行われた。インド舞踊に比べると洗練されていない感じで、ダンサーたちのレベルも(素人目ながら)あまり高くなかった。多分ダンス学校の学生とかだと思う。最後には火渡りの儀式が行われた。これは「ラーマーヤナ」においてラーヴァナによってランカー島に連れされれたスィーターが、ラーマに純潔を示すために火の中に飛び込んだという話と関係あるらしい。そういえばフィジーのヒンドゥーの祭りにも火渡りの儀式はあった。




ファッション・ショー


火渡りの儀式


 キャンディアン・ダンスは1時間ほどで終了した。外に出てみると雨が降っていた。嫌な天気だ。毎日雨を降らせるつもりだろうか。その後再び仏歯寺へ行った。ちょうどご開帳の時間で、ブッダの歯が入ったストゥーパ形の箱を拝むことができた。歯を生で見る機会は滅多にないらしい。

 ホテルに帰ってみると日本人の旅行者がいた。今日はランチを食べていなかったのでとにかく空腹だった。ホテルの人に「夕食は準備できる?」と聞いてみると「予め言っておいてもらわないと作れない」と言われた。どうやらスリランカでは食事を作るのに2〜3時間かかるらしい。なんて呑気な国だ・・・。仕方なくすぐに作れるサンドイッチを食べて腹を膨らませた。その日本人は既に9日ほどスリランカに滞在していた。おかげでいろいろ有益な情報をもらった。聞いてみると彼はソウルの大学に私費留学しているらしい。ソウルの留学事情についても聞いてみたが、やはり学費はインドよりも高いようだ。また、案外韓国に留学している日本人は少ないらしい。

5月6日(月) ダンブッラ

 朝食を食べた後チェック・アウトし、バス停でアヌラーダプラ行きのインターシティー・バスに乗り込んだ。今日の目的地はキャンディーからアヌラーダプラへ向かう途中にあるダンブッラという町。この町を拠点に文化三角地帯と呼ばれるスリランカの主な観光地シーギリア、ポロンナルワ、アヌラーダプラを廻る計画を立てていた。ところがインターシティー・バスを使ったのは少し失敗だった。ちゃんとダンブッラで降ろしてもらえたのだが、料金はアヌラーダプラまで行ってもダンブッラで途中下車しても同じ90ルピーだった。インターシティーの名の通り、主要都市間を結ぶバスなので、途中下車、途中乗車は本当はあまりできないようになっているみたいだ。

 ダンブッラは文化三角地帯の中心に位置し、ダンブッラ自体にも一応遺跡があるのだが、町とは呼べないほどの小さな町だった。とりあえずホテルを探した。まず当たってみたのは国営のレストハウス。料金はダブル・ルーム1300ルピーで部屋はだだっ広い。その向かいにあったゲストハウスはダブル・ルーム400ルピーだったが汚なかった。そこからちょっと歩いてみたら、必死に僕を呼び込もうと遠くから手招きしているゲストハウスがあったので行ってみた。ヒーリー・ツーリスト・イン(Healey Tourist Inn)というところで、部屋はけっこう清潔でダブル・ルーム500ルピーだった。家族経営のこじんまりとした宿で、主人も気さくな人で安心できそうだったのでここに泊まることに決めた。

 早速シャワーを浴びてリフレッシュした。ドライ・エリアと呼ばれる地域に来ているはずだが、やはり湿気があるので一行動起こすたびにシャワーを浴びたくなる。シャワーを浴びた後は昼食としてサンドイッチを食べた。スリランカはサンドイッチしか気軽に食べれる料理がない・・・かもしれない。何を注文するにも「これは作るのに1時間かかる」とか「これは今材料がない」とか言われて結局最後に落ち着くのがサンドイッチなのだ。ニゴンボにいたときの豪華なビュッフェが懐かしい。

 今日はダンブッラの遺跡を観光することにした。ダンブッラの遺跡と言ってもホテルから歩いてすぐなので、そんなに急ぐことはない。日中は暑かったので2時頃まで部屋で昼寝をした。

 2時過ぎになり、さて出かけようと思ったら急に雨の音が・・・。まあ出かけてから降られるよりは、出かける前に降ってもらった方がありがたい。どうせ熱帯の雨である。すぐに止むだろう。とりあえず止むまで待った。もしかしたら今のところ毎日雨に降られているかもしれない。この雨は30分程降り続いた。

 雨が止んだ後、遺跡観光に出かけた。ダンブッラにはスリランカいちの石窟寺院がある。石窟寺院は山の上の方にあるので山登りをしなくてはならない。まずは麓まで行ってみたが、そこには巨大なけばけばしい黄金の仏像があった。ゴールデン・テンプルと書いてあった。仏教もここまで来るとただの成金趣味に成り下がってしまう。ちょっと嫌な気分になりつつも石窟寺院へ向かう階段を登った。




ゴールデン・テンプル


 僕の持っているガイドブックによるとチケット売り場は石窟寺院へ続く階段の途中にあることになっていたが、現在では変更されており、ゴールデン・テンプルの入り口にあった。だから山の途中まで登ってチケット売り場が下にあることを知り、また下りて一から登り直さなければならなかった。登って下りただけで既に汗ビッショリ・・・。雨が降った後で湿気が100%近くになっており、少し動いただけで汗が噴き出てくる。チケットは400ルピーもした。スリランカ人は無料なのに・・・。

 やっとのことで石窟寺院の入り口まで辿り着いた。周りに何もない岩山の上なので、見晴らしは最高。とにかく石窟寺院を見て廻ることにした。ダンブッラの石窟寺院は5つあり、中には涅槃仏や座禅仏、ストゥーパなどが置かれていた。最古のもので紀元前1世紀らしいのでアジャンターの石窟とほぼ同じ時代のものだ。スリランカも古くから文明を育んできた土地なので馬鹿にできない。だが、質の面ではやはりアジャンターに比べると見劣りがする。400ルピーも払う価値はなかったように思えた。というか、中が暗くてあまり見えなかった。しばらく涼しいところに座って汗を乾かした。




ダンブッラ最古の涅槃仏


 石窟寺院からホテルへの帰りに野菜&果物屋でマンゴーを買って食べてみた。1個10ルピー。スリランカのマンゴーは緑色で、まだシーズンではないらしく固くて酸っぱかった。やはりインドのマンゴーが一番だ。

 まだ時間があったので、ちょっとダンブッラの新市街の方へ散歩に行ってみた。遺跡やゲストハウスが固まっている方は旧市街で、新市街はそこから2Kmほど離れたところにある。しかし新市街と言ってもやはり市街地と呼ぶにはあまりにお粗末な田舎町だった。でも銀行が2つほどあったので、いざとなったら両替くらいはできるかもしれない。

 ダンブッラの町を歩いてみて、ようやくスリランカ人を好きになれるように感じた。ニゴンボはともかくとして、キャンディーのスリランカ人は観光客ずれしていて冷たい印象があったからだ。バスの中でもみんなじっと黙っていて無口だった。僕に話しかけて来ようともしない。やはり日本と同じく島国の人間というのは、シャイで無口なのかと思っていたが、ダンブッラのスリランカ人はインドの田舎と変わらないくらい好奇心旺盛で陽気だった。

 実はスリランカでもヒンディー語映画は人気らしく、バスの中のラジオや町中のスピーカーから時々聞き覚えのあるヒンディー語の曲が流れてくる。また、ヒンディー語を少し知っているスリランカ人もチラホラいた。だが今のところ僕よりヒンディー語のうまいスリランカ人には会ったことがない。

 夕食はホテルで食べた。やはり前もって夕食を食べるということと食べる時間を知らせておかなければならなかった。多分その時間に合わせて数時間かけて作ってくれるのだろう。今夜はフライド・ライスを出してもらったが、驚くほどおいしかった。もはやニゴンボの高級ビュッフェとか何とか言っている場合ではない。こんなにおいしい料理を作ってくれるなら、数時間待ってもいいと思った。ここに泊まって正解だったみたいだ。

5月7日(火) シーギリヤ/アウカナ

 朝7時半に朝食を食べたいと昨日言っておいたら、ちゃんとその時間に朝食を用意してくれた。インドではあまりこういうことはないから、ありがたく感じた。今日はいよいよスリランカ最大の見所であるシーギリヤへ行く。天気も絶好調。今日は雨も降りそうにない。新市街のバス停でシーギリヤ行きのミニバスに乗り込んだ。後ろの方には太鼓を持った兄ちゃんたちが座っており、太鼓を打ち鳴らして陽気に歌を歌っていた。ミニバスは道の途中で乗客をピックアップしつつ、ダンブッラの西20Kmの地点にあるシーギリヤへと向かった。30分ほどで着いた。




シーギリヤ・ロック


 ジャングルの中の道を抜けると、垂直に切り立った断崖絶壁を四方に持つ岩山が現れた。これがシーギリヤ・ロックである。なんとこの頂上に王宮の遺跡があるというのだ。シーギリヤにまつわる以下のような有名な話が伝わっている。

狂気の王カーシャパ
 5世紀にアヌラーダプラを統治したダートゥセーナ王には2人の息子がいた。長男はカーシャパ、次男はモッガラーナという名前だった。カーシャパの母親は平民、モッガラーナの母親は王族だったことから、カーシャパは弟が王位を継承するのではないかと恐れ、父を殺して王位を奪った。モッガラーナはインドに亡命した。

 カーシャパは弟の復讐を恐れ、狂ったようにシーギリヤの切り立った岩山の頂上に王宮を建てた。しかし11年後、モッガラーナは軍勢を引き連れてインドから戻ってきて兄弟の対決が行われた。結果としてカーシャパは自害し、モッガラーナが王位を奪い、首都を再びアヌラーダプラに戻した。こうしてわずか11年の間首都だったシーギリヤはジャングルに埋もれることになったのだった。

 とりあえず適当なところでバスを降ろしてもらって、入り口まで歩いて行った。チケット売り場でチケットを買おうと思ったらなんと入場料は驚きの1700ルピー。べらぼうに高い。アヌラーダプラとポロンナルワ共通の周遊券で3120ルピーだった。ドルで払えるかと思っていたら、ドルは受け付けてもらえなかった。一応持ち合わせはあったので、3120ルピーの周遊券を買うことにした。100ドルで1週間スリランカを旅行できるかと思っていたが、やはり遺跡巡りをするとお金がかかる。

 入り口にはたくさんのガイドがたむろっていたが、僕は1人で自由気ままに歩き廻りたかったのでパスした。入り口からシーギリヤ・ロックに至るまではシンガ・ガーデンと呼ばれる庭園となっており、遺跡の跡が残っている。庭園には貯水池がいくつかあったことから、カンボジアのアンコール・ワットなどと共通点を感じた。やはり昔からの農業国なので、都市を造るということはまず第一に灌漑設備を整えることが重要なのだ。庭園を越えるといよいよ岩山目掛けて山登りが始まる。未だ見ぬ遺跡への期待感から疲れを忘れたかのようにサッサと登った。まだ朝だったので気温もそんなに上昇していなかった上に、ちょうど岩山の影になったところに登り口があったため、ダンブッラの石窟寺院まで登ったときよりも楽に登れた。

 岩山の中腹まで登ると、今度は絶壁に沿って左へ向かう通路がある。そしてその途中に螺旋階段が置かれている。これを登ったところに、世界的に有名なシーギリヤ・レディーがあるのだ。僕は別に高所恐怖症ではないので、螺旋階段も何のその、高さに怯えることもなく、突風にひるむこともなく上まで一気に登った。そしてそこには確かに今まで何度も写真で目にしてきた、あのシーギリヤ・レディーの壁画があった。




シーギリヤ・レディー


寺院へ参拝に行くところ?


 上半身に何も纏っていない女性の絵。その絵を見た瞬間、一気に汗が出て来た気がした。ほとんど休みなしにここまで登ってきたのだ。この女性の絵は天女の絵だとか侍女の絵だとか、いろいろな説があるらしい。5世紀に描かれたものらしいが、全然色あせていなくてほぼ完全な状態で残っていた。後から補修・修正を加えているのかもしれないが・・・。さすがスリランカ随一の観光地だけあって、この絵を見たときは感動もひとしおだった。

 しかしまだこれで終わりではない。この岩山の頂上にある王宮跡も見なくてはならない。絶壁に沿った通路をズンズン進む。そして今度は岩山の山肌に弱々しく寄り添っている鉄階段を登って頂上へ行った。

 ペルーのマチュピチュには一度も行ったことがないのだが、まさにマチュピチュのスリランカ版とも言える遺跡がこの岩山の上に残されていた。王宮などの建物は土台を残して崩れ去ってしまっていたが、貯水池などが残っていた。ここに狂気の王が住んでいたのか・・・。そう思って王宮跡から辺りを眺め渡すと、まさに360度パノラマでスリランカのジャングルを眺め渡すことができた。これほど素晴らしい景色の中に住むことを考えるのは、別に狂気の沙汰でも何でもないように感じた。もし食料と水と日陰さえうまく確保できたなら、僕もここで住みたいくらいだった。空は薄っすらと雲がかかり、直射日光がちょうどいい具合に遮られていたので、非常にいい天候だった。しばらくこの王宮をブラブラして楽しんだ。




シーギリヤ王宮跡


 岩山から降りた。朝早くシーギリヤに行っておいてよかった。後から後からけっこうな数の外国人団体客がやって来ており、シーギリヤ・レディーを見るだけでも螺旋階段の途中で何分か待たなくてはならないところだった。そのまま麓へ降り、ダンブッラ行きのバスに乗った。

 ダンブッラの町の銀行で両替をしておいた。思ったよりも遺跡の入場料が高く、両替の必要が出てきてしまったからだ。1万円を両替して7340ルピーになった。1ルピー=1.36円。空港で両替をしたときとほとんど同じだった。

 日中はホテルで休んだ後、2時頃から再び活動を再開した。アヌラーダプラとポロンナルワは明日、明後日に行くとして、今日の午後に行くことになったのはアウカナである。ダンブッラから40Kmほど離れたところにあり、そこには1600年前の大仏がほぼ完全な形で残っているらしい。バスで乗り継いでいくのは困難な場所のようだったので、ダンブッラからリクシャーをチャーターして行った。往復で1300ルピー。

 まずはアヌラーダプラへ向かう道を北に進む。ダンブッラの町を離れたらもうそこは田園地帯である。多分ジャングルを切り開いて田んぼを作ったみたいで、人家の周りだけ木々が生えている。なぜかこの辺りはムスリムが多いような気がした。白いトルコ帽をかぶった人々を他の地域よりも多く見かけたからだ。ケキラワという小さな町を抜けて西へしばらく行くとアヌラーダプラへ向かう道から外れて南へ向かう。すぐに大きな湖に出る。カラ・ワワという人造の貯水池で、シーギリヤの王宮を造ったカーシャパ王の父ダートゥセーナ王が造ったらしい。その湖に沿った堤防の上の道をひたすら南下する。途中、小さな仏教寺院(でも壁にはヒンドゥーの女神であるカーリーの絵が描かれていたが)にリクシャー・ワーラーは立ち寄ってお祈りをしていた。

 アウカナの仏像のある寺院へ行くためには、そのカラ・ワワ沿いの道からさらにジャングルの中の小道を通って行かなくてはならない。さすがにこの道は団体観光客のバスでは通れないだろう。団体観光客の行けないような場所に行くことができると密かに嬉しい。寺院の前に着いたが、駐車場は大型バスが止まれるような広さではなく、もちろんバスなど駐車してなかった。ダンブッラからアウカナまで約1時間半かかった。

 アウカナ寺院のような辺境の地でもやはり外国人は高額な入場料を払わなければならなかった。入場料150ルピー。でも1枚ポストカードをくれたので、少しは良心的である。寺院の奥にすぐお目当ての仏像があった。真っ白な立像で、高さは約15メートル、確かにどこも破損していない。屋根もないようなところに立っているため、始終風雨にさらされているはずなのだが、よく1600年間壊れずに立っていられたものだ。よく見てみると衣の下の身体の線などが生々しく表現されている。けっこうな出来だと思う。左腕のひじには巨大な蜂の巣ができていたのが気になった。




アウカナの大仏


 アウカナ寺院には大仏の他にダーガバや菩提樹があったが、特に特徴もなかったので、すぐに見終わってしまった。寺院の入り口の売店で7アップを飲んで店の人と話したら「先月も日本人のカップルが来たよ」と言われた。ということはあまり日本人はここに来ないということか・・・?また1時間半かけてダンブッラまで戻った。

 アウカナ附近の道はまさにスリランカの素朴な田舎そのものだった。リクシャーの中から眺めていたのだが、あることに気が付いた。それはスリランカ人はインド人のように頭に物を乗せて運ばないことだ。北インドの田舎では、よく女性が川に行って壺に水を汲み、その壺を頭の上に何重にも乗せて運ぶ姿がよく見受けられる。ところがスリランカでは水壺を頭に乗せず、脇に抱えて持っているのだ。しかも各人ひとつずつである。南インドの田舎ではどうだったかよく覚えていないのだが、これにはいろいろ理由があると思う。まず、スリランカはジャングルなので、頭に物を乗せて歩くと木に引っ掛かってしまうということ。また、北インドよりも水は豊富にあると思われるので、わざわざ遠くまで水を汲みに行く必要がないこと。何か他に宗教的な理由もあるのかもしれない。

 今夜の夕食は焼きビーフンのようなヌードルだった。昨日のフライド・ライスがヌードルになっただけで、あとは大体一緒だった。じゃがいものカレーとトマトのサラダがセットになっており、食べるときはヌードルやライスと一緒に潰して混ぜて食べる。今日もかなりおいしかった。スリランカ料理はちょうどインド料理とタイ料理の中間のような感じに思えてきた。さすがにナンプラーのような個性的な調味料はないが・・・。

 インドネシアのバリ島やカンボジアまでヒンドゥー教が伝わっていることからも分かるように、東南アジアにまでインドの影響力は及んでいた。スリランカを旅行すると、そのインド文化の流れというのが、インドから東北インド、ミャンマー、タイ、マレーシア、インドネシアという陸路のラインを通って伝わったのではなく、南インドからスリランカ、インドネシアやタイ、カンボジアと海路によって伝わっていったことを改めて実感させられる。スリランカはインドと東南アジアを合わせたような雰囲気に満ちているからだ。海を越えて文化が伝わるというのは簡単には理解できないのだが、海のシルクロードと呼ばれる交易路が昔から発達していたのは確からしい。逆に、東北インドにはヒンドゥー文化の陸路の浸透を妨げる何らかの障害があったのかとも考えてしまう。イギリス植民地時代にはミャンマーまでイギリス領インド帝国の領土だったことから交流はあったみたいだが、ずっと昔には何かあったのかもしれない。まだ僕は東北インドに足を踏み入れていないし、その地域の歴史・社会にも詳しくないので、予想もつかない。

5月8日(水) アヌラーダプラ

 アヌラーダプラはスリランカ最古の都の跡で、紀元前5世紀〜紀元後10世紀までシンハラ王朝の首都が置かれていた場所だ。今でも多くの遺跡が残っており、スリランカ観光の目玉のひとつである。朝8時、通勤通学へ向かうスリランカ人たちに混じって公営バスに乗り込み、アヌラーダプラを目指した。

 公営バスは道で人が手を挙げていると必ずストップするし、途中の町のバス停に着くとしばらく止まっているので非常に時間がかかる。ちょうどラッシュ・アワーで車内はかなり混雑していたが、僕は幸い座ることができた。アヌラーダプラまで行くのに2時間以上かかってしまった。

 アヌラーダプラの遺跡は自転車を借りて廻ろうと思っていた。アヌラーダプラの町に着いてから、バスの中から貸し自転車屋はないかと目を凝らして見ていたのだが、それらしきものは見当たらなかった。とうとうバスは新市街から旧市街を走り抜けて終点まで来てしまった。

 しかしアヌラーダプラは観光地なので、ツーリスト相手に商売している連中が当然のごとく存在してくれた。バスを降りると早速「ゲストハウス?チケットは持ってる?自転車は必要?」と声を掛けてくる人がいた。彼に自転車を貸してもらえるところまで連れて行ってもらうことにした。本当かどうか知らないが、彼は奨学金をもらって青森の大学に留学して農業を勉強していたことがあるらしい。そのくせあまり日本語がしゃべれなかった。日本では英語で教育を受けていたらしい。本当だろうか?連れて行かれたところはレイク・ビュー・ゲストハウスというところで、1日200ルピーで自転車を貸してもらえた。パスポートを代わりに預けておいた。

 自転車に乗ってペダルをこぎ始めた。体調は絶好調、自転車で走ると風が気持ちいい。なぜか訳もなくスピードを出してアヌラーダプラの道を突っ走り、最初にイスルムニヤ精舎へ行った。アヌラーダプラの遺跡の全ては昨日買った周遊券で見れるのだが、ここだけは例外で入場料50ルピーが必要だった。50ルピー程度だったら払ってもいいかと思い、中に入った。この寺院は岩に寄り添うように建てられているため、ロック・テンプルと呼ばれているそうだ。ユニークな形の寺院で、隣接した博物館には「恋人の像」と呼ばれるきれいな彫刻があったりした。まあ50ルピー払ってもいいか、ぐらいの印象である。




イスルムニヤ精舎


 既にこのイスルムニヤ精舎に来るだけで汗ビッショリになっており、シャワー浴びたい症候群に感染していた。しかしまだアヌラーダプラ観光は始まったばかりである。気合を入れて次の場所へ。今度はスリー・マハー菩提樹というところへ行った。なんとブッダがその下で悟りを開いたというブッダガヤーの菩提樹の枝を植樹して育った菩提樹らしい。もちろん本当かどうかは誰も知らない。もし本当だとしたら、紀元前3世紀に植えられたことになるので、樹齢は2200年以上ということになる。そこまで古い木だったらもっと貫禄も出てくるだろうが、僕にはただの普通の菩提樹にしか見えなかった。この菩提樹の礼拝所で、お坊さんによって右腕に白い糸を巻いてもらった。僕の右腕には現在、ディーワーリーのときに巻いてもらった赤い糸と、この白い糸が巻かれている。他のスリランカ人の様子を見てみると、腕に巻いてもらっている人と、首にかけてもらっている人がいた。寺院に参拝して糸をもらうというのは、日本の仏教にはあまりない習慣である。額にティラクのような印も付けてもらった。やっていることはヒンドゥー教とあまり変わらない。




スリー・マハー菩提樹


 だんだん日差しも強くなってきて自転車をこぐスピードも落ちてきた。けっこう警備が厳しくて、途中いくつも検問がある。別に呼び止められてチェックされるわけではないが、のどかな田舎の風景に物々しい雰囲気を加えてしまっている。途中で考古学博物館があったので寄ってみる。しかし停電でもないのに天井のファンが回っておらず、とてもじゃないが暑くてゆっくり見れなかった。展示品も大したことなかった。サッサと通り抜けて出てきてしまった。この博物館のところでやっと周遊券チケットのチェックがあった。

 ルワンウェリ・サーヤ大塔に着いた。巨大な白亜のダーガパである。ダーガバとはインドのストゥーパの発展形で、仏像が作られる前に仏教徒の信仰対象になっていた建築物だ。このストゥーパが日本では五重の塔などの塔になる。もともとはブッダや高僧の遺骨が収められていたのだが、やがてはストゥーパだけが偶像として建てられるようになった。ルワンウェリ・サーヤ大塔は紀元前2世紀頃に造られたもので、高さは50メートル。アヌラーダプラのハイライトのひとつである。




ルワンウェリ・サーヤ大塔


 続けてダーガパをいくつか連続で見て廻った。トゥーパーラーマ・ダーガバ、ランカラーマ・ダーガバなどである。これらは特に大したことはなかった。これらのダーガバを見て、次のラトナ・プラサーダに向かっているうちにアヌラーダプラの都跡に迷い込んでしまった。看板や道標はほとんどシンハラ語で書かれており、英語があまり書かれていないため、すぐに道に迷ってしまう。せめてタミル語で書かれていれば読むことができるのだが、タミル語が書いてあれば英語も書いてあるような感じなので、スリランカではタミル語の語学力は今のところあまり役に立っていない。

 しかしその迷い込んだ都跡こそ、アヌラーダプラでもっとも素晴らしく感じた。ジャングルの中に都の建物の土台部分だけが残っており、それがかなり広大な地域に渡って広がっているのだ。土台部分だけを見れば道がどうなっていて建物がどこにあったのか大体予想がつく。この失われた都を自転車でフラフラと彷徨うのは不思議な快感があった。ここは地元のスリランカ人の憩いの場となっているみたいで、所々でくつろいでいる人たちに出会った。彼らに道を尋ねつつようやくこの廃墟の中から抜け出すことができた。

 抜け出した先にはアバヤギリ大塔がそびえ立っていた。紀元前1世紀建造、高さは75メートル。既にダーガバの半球部分は草木で覆われてしまっており、ただの丘のようにも見える。ここはスリランカの大乗仏教の総本山だったところらしい。現在のスリランカの仏教は上座部仏教オンリーである。

 もはや限界が来ていた。体力ではない。日焼けである。インドで十分日に焼けたつもりだったが、やはりスリランカの太陽も強かった。今日は半袖のシャツだったので、腕と首が真っ赤に日に焼けてしまっていた。途中の水飲み場で日焼けを冷やしたりしたが、だんだん太陽の光の下に行くことが辛くなってきた。日光が皮膚に突き刺さる・・・。ところどころにある売店でコールド・ドリンクを買って喉の渇きを癒していたが、日焼けだけはどうにもならなかった。また、昼食を食べれるようなところがなかなかなかったので空腹だった。

 アバヤギリ大塔辺りから、もう早く帰りたくなってしまって観光もいい加減になってしまった。ただ見所へ行って写真を撮って終わり、次の見所へ、という団体観光客よりもひどい観光の仕方である。義務的に観光スポットを巡っているような気になってしまった。自転車で廻るのはこの暑さの中では辛いかもしれない。クイーンズ・パビリオン、ラトバ・プラサーダ、サマーディ仏像、クッタム・ポクナ、ジェーダワナ・ラーマヤをサッサと見てアヌラーダプラの観光を切り上げた。大体ガイドブックに載っていたところは見て廻った。それだけでも満足だ。早く帰って冷たいシャワーを浴びたい・・・!その一心だった。

 自転車をホテルに返してパスポートを受け取り、バス停へ向かった。とにかく早く帰りたかったので、すぐに来たインターシティ・バスに乗り込んだ。キャンディー行きだったので90ルピー。行きは25ルピーで来たのでかなり高い。しかしやはりスピードは段違いで、行きは2時間かかった道のりを、1時間で帰ってしまった。ダンブッラの宿に辿り着いたときには6時近くになっていた。

 だんだん日を追うごとにスリランカ人が好きになって来ている。最初は割と悪い印象が多かったのだが、ダンブッラに来てから心が打ち解けてきた。やはりスリランカ人も親切で気さくな人たちだ。アヌラーダプラからダンブッラに帰るバスの中でもこういうことがあった。インターシティー・バスなので、窓は全部閉め切ってカーテンで日光が遮られており、エアコンが効いているのだが、あまり涼しくなかった。スリランカ人は「A/C全然効いてないじゃねえか」と言って(シンハラ語は知らないので、そういう風に言ったように思えた)、窓を開けてしまった。確かに天然の風を車内に入れた方が涼しい。車掌の兄ちゃんは「クーラー入れてるんだから閉めてくれよ」と言って閉めさせていたが、やはりエアコンは効かない。という訳で乗客も切れてとうとう全部の窓を開け放ってしまった。車掌も文句は言えず黙認した。このやりとりを黙って見ていたが、いかにもアジア人的な感じがして微笑ましかった。

 ただ、インド人と比べるとやはり少しシャイな部分がある。だが、男女の間の垣根はインドよりも低い。バスの中に女性専用席みたいなものはないし、若い男女のカップルをいろんなところでよく見かけた。また、仏教徒が大半を占めるにも関わらず、割と気軽に肉食をしているみたいだ。牛肉、豚肉、鶏肉、魚肉と、日本人が食べる肉をスリランカ人の仏教徒も食べている。仏教は殺生を戒める性格が強いと思うのだが、割と仏教国は肉食国家であることが多いのはなぜだろう?あと、スリランカの英語通用率はインドに比べればまだまだ低い。

 宿に帰り早速水シャワーを浴びる。火照った身体に気持ちいい。今日の夕食は僕の好きなダール・チャーワル(ダール豆のカレーとライス)だった。それにオクラやトマトなどを混ぜて食べる。昼食を食べていなかったので一気に食べた。うまかった。

 夕食後、部屋で本を読んでいると停電になってしまった。インドでは日常茶飯事なので別に気にならない。天井のファンが止まってしまって暑くなるのだけが困る。外に出て涼むことにした。ハーレイ・ツーリスト・インの前の道は幹線なのでバスやトラックが頻繁に通る。でも夜になるとその数も減り、幾分静寂である。車のヘッドライトがないときはきれいな夜空を見渡すことができる。しばらくボーッと夜空を眺めていると、流れ星発見。と思っているとその星がフラフラといろんな方向へ飛び回った。UFO?いや、違った、ホタルだった。こんなところでホタルを見ることができるとは・・・。その後、部屋に戻って真っ暗闇の中天井を眺めていると、部屋の中にもホタルが1匹迷い込んできたみたいで、時々チカチカ光っていた。停電のおかげで和やかな体験をすることができた。

5月9日(木) ポロンナルワ

 今日は文化三角地帯最後の見所、ポロンナルワへ。紀元前からアヌラーダプラにあったシンハラ王朝の首都が、南インドのタミル人の度重なる侵略によって陥落し、次に造られたのがこのポロンナルワだった。10世紀〜12世紀までこの地にシンハラ王朝の首都があった。その後もタミル人の侵略は続き、シンハラ王朝の首都はだんだんと南下を繰り返しながら15世紀にキャンディーに落ち着いたのだった。

 ダンブッラからインターシティー・バスに乗り込み、ポロンナルワを目指した。ダンブッラからポロンナルワまで60ルピー、約2時間かかった。ポロンナルワの旧市街でバスを降りると早速観光客目当ての商売人たちがやって来た。リクシャーでポロンナルワの遺跡を全部廻って700ルピーと言う。僕はもともと自転車で廻ろうと思っていたので断ると、今度は貸し自転車の置いてある倉庫に案内してくれた。しかし1日のレンタル料が300ルピーと言われた。「アヌラーダプラでは1日200ルピーだったぞ」と値段交渉したら250ルピーまで下がった。しかし連中はどうしても僕をリクシャーに乗せたいらしくて、あれこれ言い合っているうちにリクシャー代が500ルピーまで下がった。昨日は自転車でアヌラーダプラを廻ってヘトヘトになったこともあるし、ここの自転車には鍵が付いていなくて不安だったので、今日はリクシャーで廻ってもいいか、という気分になる。そこで「満足したら500ルピー、満足しなかったら400ルピー」という曖昧な料金設定でリクシャーを使って観光することに決めた。

 まず行ったのは昔の王宮跡。巨大で分厚い壁を持つ建物や、会議場の跡、沐浴場などが残っていた。しかしほとんど廃墟に近く、別にすごいとは思わなかった。次はクォードラングルと呼ばれる、複数の建物が固まっている地点に行った。ヒンドゥー寺院がひとつと、仏教関係の建物がいくつか残っていた。この辺りは割と特徴のある遺跡が固まっていてよかったと思う。円形の寺院やタイの建築家の造った寺院、大きな石の本などがあった。




王宮跡


ワタダーゲ(クォードラングル)


 その後、クォードラングルから北にちょっと離れたところにあるパバル・ヴィハーラというダーガバやシヴァ寺院を見た。ポロンナルワは仏教都市の遺跡なのだが、ヒンドゥー教のシヴァ寺院の跡も数多く残っていた。タミル人に征服された後に建てられた可能性もあるが、仏教都市として機能していたときに既に建てられていたものもあるだろう。特にそこにあったシヴァ・デーワーラヤはちゃんと屋根があって原型を留めており、本堂にはシヴァリンガが祀られていた。

 確かにポロンナルワの遺跡地区の道路は舗装されていなくて、自転車で廻るとけっこう苦労したかもしれない。しかもアヌラーダプラは遺跡と民家が混在していて自転車でフラフラ歩いていると地元の人に声を掛けられたりして楽しかった一方で、ポロンナルワは遺跡地区には遺跡しかなく、遺跡と遺跡の間の移動があまり楽しそうではなかった。だが、アヌラーダプラよりも道は分かりやすかったので、道に迷うことはあまりないだろう。

 その後ランコート・ヴィハーラ、キリ・ヴィハーラなどの巨大なダーガバを見て廻った。既にダーガバは食傷気味だ。また、ランカティランカという巨大なブッダの立像がある建物もあった。スリランカを旅行していてふと思ったが、やはり仏教遺跡が多いので、一応仏教徒である大多数の日本人にとって遺跡巡りがただの観光地巡りでなく思えてくる。例えばヒンドゥー寺院やモスクの遺跡などで現地人の仕草を真似てお祈りするのはなんとなく偽善っぽい感じがするのだが、仏教寺院の遺跡なら仏像やストゥーパの前で手を合わせても何のやましい気持ちもしない。仏教徒の1人として自分の方法でお祈りをすればいいのだ。また、スリランカ人と話をすると「君は仏教徒?僕も仏教徒だよ。」と同じ宗教同士の絆が芽生えたりするので、日本にいるときよりも仏教徒としてのアイデンティティを自覚することができたりもする。同じく仏教国であるタイを旅行したときにはあまりそういうことは感じなかったのは不思議だ。




ランコート・ヴィハーラ


 キリ・ヴィハーラの近くにはガル・ヴィハーラという中型の仏像が3つ並んでいるところがある。ひとつは座禅をして瞑想をしている仏像、ひとつは涅槃仏、その横でブッダの死を悼む高僧アーナンダの像である。どれもほぼ完全な形で残されていた。ポロンナルワ最高の傑作と称されているそうだ。




ガル・ヴィハーラ(涅槃仏とアーナンダ)


 ガル・ヴィハーラの近くの売店でファンタを飲んで休んでいると、お土産売りがやって来た。文化三角地帯の観光地によく売られているお土産を挙げてみると、まずは本型の小物入れがある。木で出来ており、ハードカバーの本のような形をしているのだが、実は小物入れで、パズルのようにして開けると中身を取り出すことができる。外側の彫刻がもっと繊細だったらよかったのだが、所詮お土産のための量産品なのでチャチである。また、ヤシの葉で出来たブッダの生涯を書いた本もよくある。やはり絵が幼稚っぽいので買う気になれない。言い値は1000ルピー以上だったが、最終的には100ルピー以下の下がると思われる。キャンディアン・ダンスに使われる魔除けのお面はスリランカを代表するお土産である。観光地で売られているものは、分解して小さくできるように工夫されているものの、やはり質が高くなさそう。その他小物類やアクセサリー類が多いが大同小異である。休んでいるときにやって来たお土産売りは、1880年のイギリス植民地時代の1ルピー銀貨を持っていたので欲しくなったが、500ルピー以下に下がらなかったので買わなかった。100ルピーだったら買ってやったんだが・・・。

 ガル・ヴィハーラからさらに北に行ったところに蓮池というのがあった。蓮の咲いた池ではなく、蓮の形をした池である。僧侶の沐浴場だったらしい。蓮池からさらに北にはポロンナルワ遺跡群の北の端であるディワンカ・ピリマゲ寺院があった。寺院は修復中なのか木の枠組みで覆われていた。この寺院の中には巨大な仏像と、壁画が残っていた。




ディワンカ・ピリマゲ寺院の壁画


 これで大体の遺跡は見て廻ったが、最後に遺跡群から少し離れたところにあるポトグル・ヴィハーラと石立像を見た。ポロンナルワはパラークラマ・サムドラという巨大な貯水池の岸に広がっている町で、ポトグル・ヴィハーラまで行く道はその貯水池の堤防を走っていくので気持ちよかった。ポトグル・ヴィハーラは図書館の跡、石立像は未だに誰の像なのか分かっていない謎の像である。

 これで全ての遺跡を見終わった。はっきり言ってポロンナルワの遺跡はコレと言った見所に乏しいような気がした。文化三角地帯の遺跡の順位をつけるとしたら、シーギリヤがダントツのトップ、アヌラーダプラが2位、そしてポロンナルワが3位である。

 遺跡を見終わった後、ポロンナルワのレストランで昼食を食べた。チャイニーズ・フードと書いてあったが、普通にカレーなどもあった。壁にはなぜか伊藤忠商事のカレンダーが貼ってあった。僕はシーフード・ライスを食べた。醤油で味付けがしてあってなかなかおいしかった。しかし皿に山盛りになっていたので全部食べるのに苦労した。スリランカの料理は量がやたらと多いような気がする。130ルピーだった。

 ポロンナルワの旧市街を少し見てみたが、ダンブッラの新市街と変わらないくらい寂れていた。歩いても楽しくなさそうだったので、すぐにバスに乗って帰った。公営バスに乗ることができたので、ダンブッラまで25ルピーで行くことができた。なぜか帰りの方が早くて1時間ちょっとで帰ることができた。

5月10日(金) コロンボ

 朝食を食べた後、ゲストハウスをチェック・アウトした。4日間の宿泊代、朝食代、夕食代など全て込みで4800ルピーぐらいになった。ここのゲストハウスは部屋も清潔で小物にセンスが感じられて、家族も温かくもてなしてくれたので、快適に滞在することができた。チップも含めて5000ルピー払っておいた。

 ダンブッラのバス停からコロンボ行きのインターシティー・バスに乗り込んだ。ダンブッラからコロンボまで120ルピー、3時間ぐらいかかった。ダンブッラを出てしばらくはジャングルの田舎町の風景が延々と続いたのだが、コロンボ周辺部に来たら急に都会になった。そのままコロンボ市内に突入。セントラル・バス・スタンドで降りた。

 ずっと田舎にいただけあって、コロンボの街並みはまさに目の玉が飛び出るくらいのギャップがあった。コロンボは港町で、どこかムンバイーと雰囲気が似ていた。高層ビルもバンバン建っており、人の往来もまさに都会そのもの。スリランカに着いたときはコロンボに行かずにニゴンボへ行ってしまったため、帰る直前になってやっとこの都会に足を踏み入れることができたのだった。




コロンボ


 コロンボの中心駅であるコロンボ・フォート駅にクローク・ルームがあるとの情報を得ていたので、早速そこへ行ってみた。情報通り荷物を預けることができて、パソコンの入ったバッグを預けた。1日20ルピーだった。




コロンボ・フォート駅


 身軽になってまずは銀行を目指した。またお金が足りなくなってしまいそうだったからだ。空港では空港使用税として1000ルピーが必要な上に、空港に預けた荷物を受け取る際に525ルピーほど払わなければならないので、その分を残しておかなければならなかった。それぐらいのお金は残っていたのだが、これだとコロンボで何も行動できなくなってしまうので、最後にお土産を買ったりコロンボを観光したりするための資金を調達したかった。セイロン銀行に行って30ドルを両替した。

 やはりダンブッラに比べるとコロンボは蒸し暑くて、ちょっと歩くだけでも汗ビショビショになってしまう。お金も手に入ったことだし、最後の散財を行うことにする。まずはちょうど食事時だったこともあり、涼みたかったこともあり、リクシャーでマクドナルドへ行った。コロンボの南の方のコッルピティヤというところにマクドナルドがあるとの情報をダンブッラの宿の親父から聞いていたのだ。僕はなんとなくどこの国でもマクドナルドに行ってしまう習性がある。

 マクドナルドは本当にあった上に、ケンタッキー・フライド・チキンの看板も見かけた。けっこうコロンボもあなどれない。早速マクドナルドの店内に入った。やはりきれいで冷房が効いていて、世界各国のマクドナルドと同じ雰囲気である。何を注文しようかと迷ったが、ダブル・ビーフ・バーガー・ウィズ・チーズのセットを頼んだ。つい牛肉への欲望につられてしまったのだ。これが195ルピー。でもあまりおいしくなかった。ちなみにビッグ・マック・セットは215ルピー。インドと大体同じくらいの値段である。

 マクドナルドで食事をした後、コッルピティヤの町をちょっと歩いてみた。新しく発展しつつある地域らしいので面白いものが見つかるかもしれないと思いつつブラブラしていたら、CDワールドというCD屋を見つけた。中に入って品揃えを見てみると、ヒンディー映画やタミル映画のカセット、CD、VCD、DVDを中心に扱っていた。DVDの値段を聞いてみると1200ルピー〜1400ルピー、日本円にすると1700円〜2000円くらい、デリーのパーリカー・バーザールより少し高いくらいだ。店にはちゃんとDVDプレーヤーが用意してあり、ひとつひとつチェックさせてもらったが、品質はパーリカー・バーザールの比でないほどよい。コロンボはもしかしてヒンディー映画やタミル映画のDVDを買うのにいいところかもしれない。僕は小1時間ほど吟味した後、「A.R.Rahman Live In Concert Tour USA 2000」、「Fiza(ヒンディー語映画)」、「Alaipayuthey(タミル語映画)」、「RHYTHM(タミル語映画)」を50ドルで買った。どれも英語字幕付き、品質も上物、いい買い物をすることができた。

 僕は博物館巡りも割と好きである。スリランカ最大の博物館がコロンボにあったので、リクシャーで行ってみた。しかし今日は金曜日で休日だった。残念。そこで一気に北上してフォート地区で買い物をすることにした。ラクサラという政府系のお土産ショッピング・センターを一通り廻ったが、何も買い物をしなかった。お土産物の買い物はけっこう苦手であまり手を出すことができない。そこで今度は本屋へ行くことにした。フォート地区の食堂でペプシを飲んで休んでいたら、日本に12年間住んでいたというスリランカ人にちょうど話しかけられたので、彼に「コロンボで一番大きな本屋はどこですか?」と質問してみたら「レイク・ハウス・ブック・ショップへ行くといいですよ」という情報をもらうことができたので、早速そこへリクシャーで向かうことにした。

 ところがレイク・ハウス・ブック・ショップは引越ししており、まずは移転前の場所に連れて来られてしまった。リクシャー・ワーラーも新しい移転先は知らないらしい。道を聞きつつ辿り着いたのは結局コッルピティヤ。そこにはリバティー・プラザというショッピング・アーケードがあり、レイク・ハウス・ブック・ショップもその中に入っていた。

 リバティー・プラザはバンコクのマーブン・クーロン・センターに似た雰囲気で、小さな店舗が2階に渡っていくつも軒を連ねている。こういう感じのショッピング・アーケードはまだデリーにはない。早速レイク・ハウス・ブック・ショップを見つけて入った。シンハラ語やタミル語のテキスト・ブックが欲しかったのだが、分かりやすそうなものがなかったし、あまり安くなかったので何も買わなかった。

 しかし代わりにここでお土産を買うことにした。グルッ廻ってみた結果、紅茶の店が何軒かあったので、適当な店に入っていくつか紅茶を買った。スリランカと言えばやはり紅茶が最初に思い浮かぶし、値段も手頃なのでいいだろう。その他、ロウケツ染めのウォール・ハンギングなどを買った。なぜかリバティー・プラザでは怪しい男がうろついていて、僕に何度もカタコトの日本語で「オンナ、カウ、マッサージ、ジギジギ」とか言って来た。そういう場所もここにはあるのかもしれない。

 既に5時半になっており、そろそろコロンボ観光を切り上げるときが来た。けっこう北に南にリクシャーで移動しまくってしまったので、移動代だけでかなり使った。フォート駅で預けた荷物を受け取った後、マクドナルドへまた行った。フライトは午後11時50分でまだ時間があるから、マクドナルドで時間を潰そうと思ったのだ。駅からリクシャーに乗ってマクドナルドへ向かった。なんとなく空模様が怪しかったのだが、マクドナルドへ向かう途中でとうとう雨が降り始めてしまった。しかも財布の中を確認してみたら、お金が足らなくなっているではないか。空港税分と、空港に預けた荷物分くらいはあるのだが、コロンボから空港へ向かう分がどう見ても足らなかった。買い物し過ぎてしまったみたいだ。リクシャーの人に聞いてみるとマクドナルドから空港まで700ルピーくらいかかるという。多少高めに言われているとしてもそのくらいはかかるだろう。リクシャーの人に「駅からマクドナルド、マクドナルドから空港全部ひっくるめて10ドルでどう?」と交渉してみたら快くOKしてくれたので、彼にはマクドナルドの外で待っていてもらうことにした。

 マクドナルドではチキン・スパイシー・バーガーのセット(195ルピー)を食べつつ、パソコンを開いてこの日記を書いた。もちろんマクドナルド来店中のリッチなスリランカ人に注目されたが、わざわざ寄ってきて見るのは子供だけで、大人は見て見ぬふりをしていた。もしインドだったら絶対に誰かが話しかけてくると思うのだが・・・。もっとも、ノート・パソコンももう既にそんなに物珍しいものではないのかもしれない。

 7時15分頃にマクドナルドを出てリクシャーで空港まで向かった。空港までの道は朝と夕方、特に混み合うらしく、かなりの交通渋滞だった。リクシャーで渋滞の中を走ると、バスやトラックなどの排気ガスをモロに吸い込むことになるので辛い。コロンボ郊外の道を走っていると、大型のスーパーマーケットをいくつも見かけた。こういう部分はインドよりもスリランカの方が進んでいる。

 コッルピティヤから空港まで大体1時間ちょっとかかった。空港に着いたときには8時半頃、まだ出発まで3時間はあった。余裕の到着である。早速空港に預けていた荷物を返してもらった。計算通り525ルピーかかった。そのバッグの中に今日買ったお土産品を詰め込み、出発ロビーの入り口へ。セキュリティー・チェックがあって、手荷物全てをX線検査されたのだが、ちょうど日本人の団体客と重なってしまい、時間がかかった。出発ロビーへ入った後もさらに荷物のチェックがあり、荷物の中を開けて検査官にチェックしてもらわなければならなかった。スリランカのくせにけっこう厳重である。全部荷物をチェックしてもらって、やっと航空会社のカウンターに辿り着ける。チェック・インして機内預け荷物を預け、航空券を発行してもらった。僕のチケットは5月5日の便から5月10の便に変更してもらったのだが、ほとんど問題なくチケットを受け取ることができた。その後、出国カードに必要事項を記入し、空港使用税1000ルピーを払って出国審査へ。出国審査も何の問題もなく通過できた。これ以上必要なお金はないので、なんとかルピーをほぼ使い切ることができた。もっとも、免税店でアッラクというスリランカ名産ココナッツ酒を2本10ドルで買ったが。アッラクは一度飲んでみたかったのだが、今まで飲む機会がなかった。日本に帰って友達と飲もうと思っている。

 待合室で座ってボーッと時間の過ぎるのを待った。日本行きの便なので、乗客は日本人ばかりである。よく見るとモルディブの買い物袋を持っている人も多かった。どうやらこれから乗り込むUL454はモルディブから来てコロンボを経由して成田へ行く便のようだ。午後11時10分頃にゲートが開き、飛行機に乗り込んだ。デリーからコロンボの便と同じエア・バスで、エコノミー・クラスでも各座席にモニターが付いていた。

 飛行機は12時頃離陸した。機内映画はいろいろ自分で選べたが、僕は「ハリー・ポッター」を見た。なかなかヒットしたみたいなので一度見てみたいと思っていた。しかしなんか展開が早すぎて案外大味な映画だった。映像の力がなかったらB級インド映画よりもお粗末な映画になっていただろう。子供向けの映画であることを差し引いても・・・。

 スリランカ旅行を振り返ってみると、やはり旅行期間が1週間と短かったので、ただ観光地巡りをしただけで終わってしまったと言える。まだ僕にはスリランカを偉そうに語る権利はない。それにシンハラ語が分からなかったのでいろいろ不便もあった。旅行中の言語についてはいろいろな意見があるが、やはり現地の言葉が分かるに越したことはない。スリランカではまだ英語があまり通じないので、特にシンハラ語が分かると快適に旅行ができると思われる。撮った写真も案外遺跡の写真ばかりで、人をあまり撮れなかった。インドでは言葉が通じるので気持ち的に人の写真を撮りやすいのだが・・・。スリランカ人がシャイであることもあるし、僕がシャイであることもある。後から旅行中の写真を見て楽しいのは、遺跡の写真などではなく、何気ない町の風景とか人の写真とかである。風景はまだしも、人の写真を撮れるようになるには、語学力と勇気が必要だ。



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