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旅郷編

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【5月11日〜6月30日】

日本の感想

●日本人は顔を見ただけでは、何を考えているかよく分からないし、いい人なのか悪い人なのかも分からないし、金持ちなのか貧乏なのかもよく分からない。インド人は感情、性格、社会的地位などがモロに顔や服装に出てるので、インドにいたときは外見で勝手に判断がしやすかった(そして往々にしてその予想は外れていなかった)。

●街往く人々を見るとみんな知り合いのように思える。デリーに日本人は比較的多いとはいえ、街で見かけることは稀だったため、逆に街で日本人を見かけたら、どこかで会った人なのではないかと記憶を探ってしまう癖がいつの間にかついていた。

●牛肉と豚肉が食べれなくなった。おいしさよりも生臭さがまず口の中に広がるようになった。「焼肉」という看板を見ると気分が悪くなる。ヒンドゥー教徒になってしまったのだろうか?かろうじて鶏肉や魚だけは食べようと思えば食べれる。

●Indo.toの矢萩多聞さんや、「インドを食べる」の浅野哲哉さんに会えたので嬉しかった。

●1ヶ月以上日本に滞在すると、やはりインドへ行く腰が重くなる。

6月27日(木) スリランカへ

 雨だ・・・。梅雨入りしてからというものの、ずっと雨が降り続いている。今日はいよいよ日本を発つという日なのに、やはり今日も雨が朝から降っていた。しかも今までは降ったとしてもパラパラ程度だったのだが、今日のはやけに本格的だ。荷物が多いため、傘をさして歩けないし、だいいち飛行機の中まで傘を持って行くのは嫌だ。だが濡れるのも嫌だ。駅まで歩いて5分以上はある。駅に着いたとしても、荷物を持って長い階段を降りなくてはならない。朝の通勤ラッシュの時間だから、大きな荷物を持ったまま満員電車の中に入らなくてはならない。昨日までは全然空港まで行く際の問題を考えていなくて、いざ出発というときになっていろいろな障害が眼前に控えていることに気付きはじめた。おそらく祈ってても止まないだろう雨を眺めながら、どうしようか考える。結局家の近くでタクシーを拾って新宿駅まで行って、そこから成田エクスプレスで空港まで行く手段を選んだ。最後に無駄な出費をしてしまった。

 成田空港第2ターミナルに着く。キャリアは日本に帰ってきたときと同じスリランカン・エアラインズ。昔はエア・ランカと呼ばれていたらしいが、名称が変更して今ではこのように言うようだ。13:20発のUL461に乗るので、原則としては離陸の2時間前である11:20にチェック・インするのが望ましい。僕は律儀なので、既に11:00にはチェック・インを済ませた。機内預け荷物は21.5キロあったが、別に何も言われなかった。

 この成田空港で食べる食事が、日本での最後の食事となる。慎重に選ばなくてはならない。僕は昨日ぐらいからカレーうどんを食べたい衝動に駆られていた。カレーといえばインドだが、カレーうどんは日本食だ。食べたいと思ったら、もうそれしか受け付けない。出発ロビーにいくつかあるレストランを廻って、カレーうどんを探した。しかし、よりによってカレーうどんだけがないのだ。うどん屋や和食レストランはあったのだが、カレーうどんはなかった。確かにカレーそばはあったのだ。しかし僕はカレーうどんが食べたいのだ。カレーそばでは妥協になる。日本で最後の食事なのだ。一歩も妥協を許したくない。僕は血眼になって探した。機内預け荷物として最も重い荷物は預けたものの、まだ機内持ち込み荷物として、十分に重いバッグを提げていたので、非常に疲労困憊した。結局カレーうどんは見つからず、エビフライを食べて我慢しておいた。

 スリランカ・エアラインズの飛行機は前回と同じくエアバスで、機内はちょっと狭いものの、エコノミー・クラスにも各座席にモニターが設置されており、自分で映画を選んで見ることができる。このUL461は偶然モルディヴの首都マーレ経由でコロンボへ行く便だったので、僕は念願だったモルディヴへトランジットながら降り立つことができることとなった。なにしろモルディヴは地球温暖化による海面上昇で、近いうちに水没してしまう恐れのある国だ。早いうちに行っておかないと、バーミヤンの大仏のように二度と見れなくなってしまうと思っていた。その分時間はかかるものの、この便を選んだことを1人で喜んでいた。

 さすがにモルディヴへ行く飛行機だけあって、乗客はハネムーンっぽい若い男女のカップルが多かった。そういえば今は6月、ジューン・ブライドの時期だ。しかし、機内の座席の70%以上は空席だった・・・。僕の隣には、サッカーのユニフォームを着たイギリス人が来たが、彼は体調が悪いようでガラガラの座席に移って4座席1人で占領してずっと寝込んでいた。そもそもこんなに冷房の効いている機内に半袖半ズボンで乗り込んでくる方が悪いと思うのだが・・・。

 成田からマーレまでは約9時間ほどだった。マーレに着いたときはあいにく既に夜だったので、上空から美しい(だろう)海を眺めることはできなかった。だが、案外都市っぽい光が無数に地上に貼り付いていて、割と大きい街なのではないかと思った。飛行機の中で再離陸を待つように指示されたため、モルディヴの空気を吸うことも叶わなかった。マーレでは予想に反して大量の乗客が乗り込んできたため、機内は俄かにほぼ満席状態となった。

 マーレからコロンボまでは1時間半ほど。あっという間だった。前回スリランカに着いたときは初めての訪問だったのでけっこう緊張したものだったが、今回はもう余裕だった。やはり飛行機の外に出てみると、まとわりつくような湿気が襲ってきた。しかし出発時の日本が寒いくらいだったので、この暑さには温かいぬくもりを感じた。

 明日の夕方の便でデリーへ向かうので、今夜はスリランカン・エアラインズが用意してくれたホテルに泊まれることになっていた。前回と同じく、ニゴンボにあるブルー・オーシャニック・ビーチ・ホテルという高級ホテルだった。トランジット客は僕を含めて4人で、全員デリー行きだった。例の僕の隣に座っていたイギリス人は明日のロンドン行きの飛行機に乗るらしかったのだが、彼だけは航空会社からホテルを用意してもらってなくて、「安いホテルはねぇのか」と空港で暴れまわって苦笑を買っていた。

 ブルー・オーシャニック・ホテルまで用意されたタクシーに乗って行った。ホテルに着いてレセプションへ行ってみると、突然そこの人に「あなたは2回目ですね」と言われた。「覚えてるの?」と聞いたら「あなたの髪型を覚えてました」と言われてしまった。ベッカム・ヘアとかロナウド・ヘアとか、そんなに特徴的な髪型をしているわけでもないのだが・・・。でも高級ホテルのフロントに顔を覚えてもらえるというのは悪い気はしなかった。というか、こういうのに実は弱い。リピーターになってしまいそうな予感である。偶然かどうかは知らないが、部屋も前回泊まったときと同じ1005号室を宛がわれた。これが意識的に行われていたとしたら、驚くほどのサービス精神である。

 空港から一緒に来た3人と一緒に夕食(というか夜食)を食べた。話を聞いてみると、3人の内2人はモルディヴ人で、もう1人はインド人だがマーレで働いている人らしい。これはチャンスということで、モルディヴのことをいろいろ質問した。モルディヴは古くからアラビア海やインド洋を行き来する交易商人たちの中継基地となったため、いろんな文化がミックスしている。宗教はほとんどイスラーム教、言語はディヴェヒ語が公用語、文字はターナと呼ばれ、パッと見、アラビア語に似てるが、割とオリジナルなものを使っている。僕が「モルディヴの文字はアラビア語と似てますよね」と知ったかぶったら「オリジナルだよ」とちょっと語気が荒くなったので、モルディヴ人としたらけっこう誇りを持っているのかもしれない。首都マーレは2平方キロメートルしかないそうだ。空港も別の島にあって、首都まではボートで移動するらしい。ワールド・カップを見ていて気になったのだが、審判としてモルディヴ人が参加していた試合がいくつかあった。そのことを聞いてみたらやはり予想通りモルディヴではサッカーが最も人気のあるスポーツらしく、その審判も有名だった。ちなみにモルディヴではクリケットは全然盛んではないそうだ。また、モルディヴでもヒンディー語映画は大人気らしい。親しくなったそのモルディヴ人はアミターブ・バッチャンの大ファンだそうだ。映画の影響から、モルディヴでもヒンディー語が少しは通じると思われる。僕もモルディヴにはいつかちゃんとした形で行きたいと思っているので、「モルディヴに安いホテルはある?」と質問してみたら「少なくともインドの3倍はホテル代を払わなければいけないだろう」と言われた。確かホテルの予約をしないとヴィザがおりないというような話を聞いたことがあったような気がする。モルディヴはバックパッカーはお呼び出ない国みたいだ。モルディヴでは常に食料難のようで、インドやスリランカからの輸入に頼っているようだ。小さな群島でできた国なので、農業ができないらしい。モルディヴには「自然と魚しかない」と言っていた。ただ最近は観光業がかなりいい調子のようなので、それだけが救いのようだ。

 今日の時点で忘れ物が2つ発覚した。けっこう朝ドタバタと出立したため、いくつか忘れ物をするのは仕方がない。まずはクシを忘れた。現地調達可能なので特に残念ではない。だが、靴を間違えて履いてきてしまったのは痛かった。新しい靴を用意して玄関に待機させておいたのに、いざ出発するときになって無意識に履きなれた靴を履いて出てきてしまった。履きなれた靴というのはつまり1年ほどインドでの生活を共にした靴だ。ということはこの靴とさらに1年ぐらい付き合わなければいけないということか・・・。もうけっこうボロボロなのだが・・・。

6月28日(金) デリーへ

 朝食はいつもと同じくビュッフェ形式。スリランカでひとつ気に入った果物がある。英語だとパッション・フルーツというもので、柑橘類みたいな感じでユズほどの大きさの実の中に、カエルの卵のようなジュルジュルした物体が入っている。スプーンですくって食べてみると舌がよじれるほど酸っぱい。でも風土とよく合っていて飽きない味だ。もちろん今日の朝食のビュッフェでもそのパッション・フルーツが出ていて食べ放題だった。インドにもパッション・フルーツは昔あったらしいが、少なくとも北インドでは現在はほとんど見られなくjなったらしい。

 今日は午後3:45にレセプションに集合することになっていた。僕はちょっとコロンボへ行きたいと思っていた。ニゴンボからコロンボまでは約1時間半。朝食を食べ終わって準備ができた時点で9:00。多分コロンボで迅速に用事を済ませれば余裕で時間内に帰ってこれるだろう。レセプションには「ちょっと散歩に行ってくる」と言って、ホテルの前でリクシャーを拾ってニゴンボのバス・スタンドまで行った。100ルピーだった。

 ニゴンボのバス停でコロンボ行きのインターシティー・バスに乗った。27ルピーだった。ニゴンボからずっと南下して、空港の前を通り過ぎてコロンボまで行く。コロンボに近付くにつれて交通渋滞が激しくなったが、1時間半以内に到着することができた。もうコロンボは地図なしで歩けるぐらいの余裕綽綽ムードだ。実際、ガイドブックも荷物になるのでホテルに置いてきた。

 コロンボでの用事は、実はDVDを買うことにあった。デリーのパーリカー・バーザールで買うDVDはどうも品質の面で100%信頼できないのだが、スリランカのDVDは非常にきれいで安心できた。だからデリーではもうDVDにはあまり手を出さないことに決めた。代わりにスリランカで買おうと思っていた。前回も行ったCD屋に行き、早速DVDを品定めした。「Hum Tumhare Hain Sanam」「Hum Kisi Se Kam Nahin」「Na Tum Jaano Na Hum」など、新しい映画のDVDもちゃっかり売られていた。とりあえず欲しいDVDをササッとチョイスして、店に置いてあるDVDデッキでチェックさせてもらった。シネスコ・サイズじゃなかったり、英語字幕が入っていなかったりして落選したものもあり、結局「Dil Se」「Taal」「Rangeela」「Dilwale Dulhaniya Le Jayenge」「Monsoon Wedding」の5枚を買った。「Kabhi Khushi Kabhie Gham」のDVDもあり、是非購入したかったのだが、画質があまりよくなかった。今年の初めくらいからこの映画の良質なDVDを探し求めているのだが、なかなか手に入らないのはなぜだろうか・・・。

 前回行き逃した博物館も行ってみたい気がしたが、DVDを買っただけでコロンボを去ることにした。バス停まで戻ってニゴンボ行きのインターシティー・バスに乗り、ニゴンボへ戻った。1時過ぎにホテルに戻ることができたので、昼食にありつくことすらできた。

 午後4時頃ホテルに泊まっているトランジット客が集合し、1台のバンに乗って空港に向かった。このバンから荷物を降ろすときにカバンの取っ手が壊れてしまった。ショック〜。その取っ手がないと転がして持ち運ぶときに苦労するのだ・・・。これからの先行きに不安の雲が立ち込めた。

 スリランカにはやたらとインド人の家族連れが多く来ていて、デリー行きの飛行機は超満員状態だった。今ちょうどインドの学校の夏休みで、7月1日から学校が始まるところが多いため、6月末の今はちょうど帰省ラッシュのような状態だったのだ。僕の座席の前に座っていた子供が後ろを向いて僕にちょっかいを出してくるので困った。僕は「モンスターズ・インク」を見ていたのだが、子供が画面に手を触れて画面をオフにしてしまうのだ。オフにされると僕はすぐにオンにするのだが、また子供が後ろを向いてきてオフにしてしまう。その繰り返しだった。まあ子供だから許す。

 コロンボからデリーまでは4時間ほどだっただろうか。あまり覚えていない。学生ヴィザでの入国だったが、イミグレーションはすんなりパスできた。しかし機内預け荷物がなかなか出てこなくて焦った。30分くらいは待ったような気がする。遂にデリーに戻ってくることができた。早速怪しいインド人たちに取り囲まれたが、友達が迎えに来てくれたので彼らのカモにはならなかった。今回の飛行機の中に日本人は僕しかいなかった。

6月29日(土) 部屋の掃除

 昨夜は友達の家に滞在したので、今日始めてガウタム・ナガルの自宅に戻ることになった。まずは大家さんの家で歓迎される。いろいろ頼まれていたお土産があったので、それらを渡したら非常に喜ばれた。「いくら払えばいい?」と言われたので、来月の家賃をチャラにするということで交渉がまとまった。

 さあ、大家さんのところに預けてあった鍵を返してもらって、いよいよ自分の部屋の扉を恐る恐る開けた。すると・・・ウギャー!なんだこりゃ〜!2ヶ月間空けただけなのに、20年ぐらい人が住んでいなかった部屋のごとく、一面砂埃まみれだった。今日は1日中掃除に費やさねばならない・・・。特に盗まれた物などはなかった。

 とりあえずバス・ルームを掃除した後、シャワーを浴びて身体を冷やした。デリーの今の暑さを形容すると、まるでフライパンの上に乗っているかのようだ。湿気はスリランカに比べたら無いに等しいのだが、太陽の光だけで地面と空気が熱を帯びて、かなりの暑さになっているのだ。しかし温度計を見てみたら今日の昼間の温度は37度。一時期45度ぐらいまで気温が上昇したらしいから、この酷暑期はもう峠を越したと言っていいだろう。

 部屋の掃除をしていたら停電になった。天井のパンカーも停止する。急にやる気減退。まあどうせパンカーが回っていたとしても心地よい風が来るわけでもなかったので、諦めはつきやすい。どうやら水も止まったらしい。隣の部屋のウガンダ人、モーゼズが「水が来ないぞ!」とシャームーを怒鳴っていた。僕がいない間にモーゼズとシャームーの仲が険悪になってしまったみたいだ。モージズは「早く水を来させないと殴るぞ」と脅していた。アフリカ人が怒ると怖い・・・。シャームーはモーゼズの言うことを無視してるみたいだった。

 日本のマンションは大体上の階に行くほど家賃が高くなるが、インドでは下の階に行くほど高くなる。つまり1階が1番高いことになる。その理由のひとつをこの酷暑期に味わうことができる。僕の部屋は5階建ての建物の5階にあたる。屋上にもう1軒家があるので、正確には一番上ではないのだが、僕の部屋の上はちょうど洗濯物の干し場のような感じになっていて何も建っていないので、同じようなものだ。屋上には太陽から容赦なく降り注がれた光が槍のように突き刺さる。その槍はすぐに屋根を突き抜け、まずは一番上の階の部屋の温度が上昇する。僕の部屋はまさにその状態である。夕方、外から帰ってきて自分の部屋のドアを開けると・・・昼間に極限まで上昇した部屋の中の空気が、ドアが開くと同時に、まるでバック・ドラフトのように一気に入り口に押し寄せて僕に襲い掛かるのだ。まさにサウナ状態である。こんな生活は辛すぎる・・・。早くデリーを去って、北の方へ行きたくなった。今夜は部屋の中では暑くて眠れないので外で寝た。

6月30日(日) デリー帰還祝賀会

 どうやら夢を見ていたのだが、どんな夢だったかは覚えていない。その夢の最後で突然雨が降ってきた。と思って目が覚めたら、現実世界でも雨が降り始めていた。急いで部屋の中に入ってまた眠る。

 10時頃目が覚めた。今日も朝から停電だ。パンカーが止まると同時に部屋の気温も上昇し始める。水もすぐに底を突きそうだ。部屋にいても百害あって一利なし。昼間に外へフラフラと繰り出した。しかし外も暑い。砂漠を歩いているかのようだ。この時期日中に外を出歩くのは賢明ではないことに気が付く。サウス・エクステンションやアンサル・プラザをブラブラする。冷房の効いた店で身体を冷やしてまた出陣、という感じで放浪した。日本から持ってきたゾウリが足に合わなくて靴擦れが始まった。歩くたびに足の指が痛む。だんだんこの状態が心地よく思えてくるときが来るような気がしつつも歩き続ける。アンサル・プラザのミュージック・ワールドでCDを1枚購入。A.R.ラフマーンが音楽監督をしている「The Legend of Bhagat Singh」。A.R.ラフマーンのCDは無条件で購入すると決めているのだ。

 今日はインド時間で午後5時からワールド・カップ決勝戦ドイツ対ブラジル戦が行われることになっていた。友達の家で、デリーにいる人々でインド帰還を祝いつつサッカーの試合を見ようということになっていたので、僕もそれに参加した。日本に避難していた駐在員たちも次第にインドに帰ってきており、割と多くの人が集まった。試合はブラジルの圧勝。刺身や最中を食べつつ、ああだこうだ言いながら観戦した。今日はまた新たな人々とも会うことができた。デリーは日本人の数が少ない分、狭い社会なのだが、集まるにはちょうどいいぐらいなので、駐在員、NGO、留学生などが身分の差(?)を越えて集まって交流することができる。それは多分、他の国にはない、いいところだと思われる。




―旅郷編 終了―

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