スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

再会編

装飾下

【7月1日〜7月15日】

7月1日(月) 新サンスターン

 かなり重要なことなのだが、なんと今年からケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンが移転することになった。新住所はE-12, Kailash Colonyである(2004年3月に再び移転。新住所はR-12, Nehru Enclave。要注意)。カイラーシュ・コロニーの位置を地図で調べてみると、グレーター・カイラーシュ1の東、イースト・オブ・カイラーシュの南、ネルー・プレイスの西に位置していた。地図で見る限りは、住宅地のど真ん中である。

 今日はまず、以前までサンスターンがあったサルヴォーダヤ・エンクレイヴへ行ってみた。既にサンスターンの旧校舎は取り壊しが始まっており、事務室は荷物が全て運び去られてガランドウになっていた。ジャイソワール校長を始め、事務員の人がいたので、「今日学費を受け取ってもらえますか?」と聞いてみたら、「2日後に来てください」と言われた。

 午後から今度はカイラーシュ・コロニーにあるサンスターンの新校舎を見に行った。やはりこの辺りは高級住宅地で、安そうな物件などなさそうだった。新校舎はすぐに見つかった。こ、これは・・・!前の校舎は年季の入ったオンボロ校舎で、かつアルヴィンド・アーシュラムの建物を間借りするような形だったのだが、今回は独立した建物で、かなり立派だったので驚いた。中に入ってみると、奥行きもけっこうあって広々としていた。まだ工事中かつ引越し中で中はゴタゴタとしていたが、片付いたらかなり見栄えのいい学校になることは容易に想像できた。

 サンスターンが移転するという話は、実は前々からまことしやかに言い伝えられてきた。ところが、政府から予算が下りずに、移転先は決定しているものの引越しできずにいたのだった。ところが、そんなサンスターンに転機が訪れた。昨年度の卒業式の日に、人材開発省(日本の文部省にあたる)の副大臣が出席してくれたのだ。しかも彼女の前で、サンスターンのある生徒が、サンスターンの老朽化した設備の窮状を訴えた。そして副大臣はその席で、「必ず予算を通して、サンスターンの学生が快適に学べる環境を提供します」と約束した。その副大臣の言葉は、いかにも政治家的な、その場限りの社交辞令だとばかり思っていた。ところがその言葉はどうやら真実だったようだ。急転直下、政府からサンスターンに予算が下り、念願だった引越しが成就したのだ。以上のストーリーは僕の予想を交えたものだが、大体の筋は当たっていると思う。そして何を隠そう、卒業式で窮状を訴えた生徒というのは、この僕である。だから我ながらとんでもないことをしてしまったと責任を感じていた。なぜなら今年に入ってから、さらにサンスターンで学ぶことを前提にして家を引っ越した人が数人いるからだ。もちろん彼らはサンスターンがよりによって今年移転するなど夢にも思っていなかっただろう。もしかしたら彼らはまた引越ししなければならなくなるかもしれない。また、サンスターンの教師や事務員の中には、通いなれた旧校舎に愛着を持っていた人も少なからずいただろう。今回の引越しは、あまり皆から望まれていないものだったかもしれない。だから非常に責任を感じていたのだ。しかし、僕の一言がそこまで力を持ったとは半ば信じられなかったので、何食わぬ顔をしてサンスターンの新校舎の中に入っていった。

 1階は広々とした玄関になっていて、入ってすぐ右の部屋は校長室になりそうな感じだった。そして入って直進すると、事務室になりそうな感じの広い空間になっていた。その事務室予定地には、事務員の人が椅子に座ってだべっていた。僕を見ると開口一発、「おぉ〜、君が副大臣にサンスターンの窮状を訴えてくれたから、引越しすることになったよ〜」と言われた。どひゃ〜〜、やっぱり僕のせいか・・・!かなりずっこけそうになってしまった。インドという国は本当によく分からない。何年も何年も棚上げされ続けるような事柄があると思ったら、ひょんなことから一気に事が進展することもあるのだ。やはり僕はとんでもないことをしてしまったようだ・・・。一応事務員の人たちは嬉しそうな感じだったが・・・。

 とりあえず僕にとってもサンスターンの移転は大きな問題となった。ガウタム・ナガルから通うには少し不便な地域になってしまったからだ。というか、カイラーシュ・コロニーは交通の便があまりよくないので、近くに住まない限り、バスではどこからでも通いにくそうな場所になってしまった。かといって、新サンスターンの周辺は高級住宅街なので、安い物件を見つけることは容易ではなさそうだ。これからじっくり考えなければならない。

7月2日(火) 外国人登録

 インドに6ヶ月以上滞在する外国人は、入国後2週間以内に外国人登録局(FRRO)で外国人登録を行わなくてはならない。僕は既に去年登録しているので、今回は延長手続きということになる。延長手続きの場合、何が必要なのかわからなかったので、とりあえず今日、FRROへ行ってみることにした。

 FRROは去年の夏まではITOの近くにあったのだが、今はハイアット・リージェンシーのそばに移った。新しいFRROへ行くのは初めてだ。FRROの移転先にはパスポート・オフィスやその他の省庁の役所が密集していた。FRROはブロック8の1階にあった。

 僕は受付の人に「登録を更新したいのですが、何が必要ですか?」と言った。受付の人は僕の外国人登録手帳とパスポートを見て、「在住証明(Proof of Residence)と学校の在学証明と写真1枚が必要」と答えて、アプリケーション・フォームをくれた。やはり学校で在学証明をもらわなければならないようだ。しかも大家さんに在住証明を作ってもらわなければならない。けっこう面倒臭そうだ。FRROを出て、日陰に腰を下ろしてしばらく考え込む。もらったアプリケーション・フォームをよく見てみると、どうもこれはヴィザの延長用のものみたいだった。僕は既に日本でヴィザを延長して来たので、これは必要ないはずだ。多分こちらの言いたいことがあまり伝わらなかったのだろう。どっちにしろ、学校の在学証明は必要そうなので、明日サンスターンのオフィスが業務を始めたら在学証明を早速もらってまたここに来ようと思った。

 家に帰ってとりあえず大家さんに「在住証明が欲しいんですけど」と言ってみたら、「まずこれを理解してほしい」と前置きして「本当は外国人を家賃をとって住まわせるには警察に届け出なければならない。でも私はそういうことはしていない。だから、家族の一員としてホームステイしていることにしてくれ」と言った。つまり違法なのだ。それはそれでいいとする。そして、「君のことだから在住証明ぐらいは出してやれるが、どういう文面で書けばいいのかオフィサーに聞いてきてくれ」と言われた。やはりまた面倒なことになりつつある。

 この話と同時に、僕は大家さんにもしかしたら引越しするかもしれないということを話してみた。学校が移転してしまい、ガウタム・ナガルから通いにくくなってしまったから、学校の近くに引っ越そうかどうしようか迷っている、と言った。ちょうど部屋のソファーでは学校から帰ってきたスラブが、疲れていたのかバッタリと倒れこんで昼寝をしていたのだが、僕がこの話をし出したら、急に意識を取り戻して耳を傾け始めたのが分かった。スラブは僕のことを気に入ってくれてるため、僕が引っ越すと寂しくなってしまうだろう。大家さんは、ガウタム・ナガルからバスでカイラーシュ・コロニーまで行ける、と言っていた。とにかく一度実際バスに乗って確かめてみなければならないだろう。

7月3日(水) 外国人登録2

 今日はケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンに学費を払いに行った。一昨日下見に行ったときよりも大分片付いていて、建物の前にはサンスターンの大きな看板が立っていたが、まだまだ時間がかかりそうな雰囲気だった。外国人登録のために学校の在学証明が必要だし、よく見たら外国人登録延長の期限が今日までと書かれていたので、なんとしてでも今日、お金を払って在学証明を発行してもらわなければならなかった。ところが事務員に聞いてみると、入学手続きに今年から大使館の推薦状が必要になったらしい。そういうことは早く言ってくれ!一昨日も来たじゃないか!!と思いつつもサンスターンの新校舎を出て、チャーナキャプリーにある日本大使館へ向かった。




新サンスターン


 なぜ急に大使館の推薦状が必要になったかというと、どうやら5月末のインド在留日本人一斉退避が関係しているらしい。そういえばあのとき、なぜか僕の実家にインドの日本大使館から電話がかかってきたことがあった。僕は大使館に在留届を出していなかったのに、どうして実家の電話番号が分かったのか不思議だったが、やはり日本大使館がサンスターンに名簿を提供させたらしい。そしてこれから入学する日本人についても把握しておきたいらしく、一度大使館を通して入学手続きを行わなければならないことになったようだ。なんか自分の行動を監視されているようで甚だ気分が悪い。

 日本大使館の場所は大体知っていたが、行くのは初めてだった。チャーナキャープリーは各国の大使館が集中している場所である。日本大使館へ到着し、警備員のチェックを受けた後、中に入った。しかし係員が言うには、大使館の推薦状はフィローズ・シャー・ロードにあるJapan Caltural & Information Centre(JCIC)で発行しているらしい。もう文句を言っていても仕方がない。オート・リクシャーを拾って今度はコンノート・プレイスの近くのJCICまで移動した。

 JCICの中に入るのも初めてだった。いろいろ巡ってみた結果、図書館で推薦状を発行してもらえることが分かった。しかし、推薦状発行には1日かかるみたいで、明日の3時以降に来てくれ、と言われてしまった。・・・もう駄目だ・・・間に合わない・・・。実は大家さんの在住証明もまだもらっていない。結局今日は何も書類が揃わなかったことになる・・・。この時点で午後3時になっていた。

 でもとりあえず仕方ない理由によって書類が間に合わなかった旨を説明してみようと思い、FRROへ向かった。FRROの職員は相変わらず無愛想でダラダラと仕事をしており、かなりの時間待たされた。今日は朝からほとんど食べ物を食べていない。イライラしながら待っている時間というのは、急に空腹に気付くことが多い。腹減ったなぁと思いつつ、じっと待ち続けた。FRROに来ている外国人というのは、ヴィザの延長手続きの人が圧倒的に多い。しかも偏見かもしれないが、ヴィザの延長手続きをしている外国人を見てみると、ヒッピー風の汚らしい外見の人が多い。こういう連中を毎日相手にしているから、FRROの職員は無愛想になってしまうのだろうかと漠然と考えていた。

 何とか僕の順番が来た。やはり延長手続きの期限は今日までだったみたいだ。在学証明の提出を求められたが、「学校が移転してオフィスが閉まっていてまだ手に入らない」と嘘を言ったら見逃してくれた。在住証明の方は、実は去年外国人登録をした後、30日以内にFRROに提出しなければならないことになっていたようだ。そういえば5月にインドを出国する際も出国審査で同じことを言われた。FRROの人は無表情で僕に、手帳に書かれていた「30日以内に在住証明をオフィスに提出すること」という文を読み上げさせた。しかしその記述はプリントされた文字ではなく、走り書きで書かれていたので、僕は「字が汚くて読めなかった」と言い訳を言ったら(実際読めなかった・・・)、これも見逃してもらえた。書類が揃っていなかったものの、なんとかかんとか外国人登録の延長手続きは完了した。その代わりに「7日以内に在学証明と在住証明をFRROに提出すること」という注意書きを手帳に書かれた。もちろんこれもまた走り書きだ。

7月4日(木) 推薦状

 最近のデリーは本当に暮らしにくい。暑くて仕方ないことに加え、停電、断水も多く、電気が来たとしても電圧が低く、水が来たとしても水圧が弱い。夜は暑さで何度も目が覚めるため、慢性的な寝不足状態にある。早く手続きを終えて北の方へ行きたい。しかも最近バスの運賃が値上がりした。前までは距離に応じて2、4、6、10ルピーだったのだが、今は2、5、7、10ルピーとなった。聞くところによるとケーブル・テレビの料金も値上がりし、前まで1月70ルピーだったのが今は360ルピーになったらしい。他にも値上がりしたものはありそうだ。

 今日は3時頃にJCICへ行って推薦状をもらった。何の問題もなくもらえた。JCICの図書館では、日本語を学ぶインド人たちが勉強していた。昨日も知り合いのインド人に出会ったが、今日も別の知り合いに出会った。JCICは7月1日から始まったようだ。でも日本人の教師がまだインドに戻ってきていないため、いくつかのクラスはまだ始まらないらしい。

 在住証明のための書類も今日用意した。ワードで文章を作ってプリント・アウトしたので、あとは大家さんのサインをもらえばいい。ところが今日の夕方の大家さんは酔っ払っていて使いものにならなかったので、明日の朝サインしてもらうことにした。

 実はうちの大家さんは酒好きである。大酒飲みというわけでもないのだが、酔いやすい体質らしく、少量飲んで激しく酔っ払い、訳の分からないことをうめき始める。こうなると家族も手が付けられないみたいで、放っておいている。大家さんは厳格なジャイナ教徒で、普段は割と禁欲的な生活を送っており、僕にもときどき説教をしてくるのだが、なぜか酒だけは飲む。そして酒を飲むと禁欲的生活の鬱憤が一気に噴出したかのように人格が変わり、怒ったり泣いたり感情の起伏が激しくなって、家族に暴力を振るったりするようになる。それを見るといつもインドの神様の二面性が思い出されてくる。破壊の神シヴァは一方で恩恵の神でもあり、慈悲深い女神パールヴァティーは悪魔を退治する恐ろしい女神ドゥルガーと表裏一体である。1人の人格に秘められた二面性、矛盾性みたいなものが、堂々と神様の形となって人々に示されているのだからインドはすごい。また、インドで飲酒が疎まれているのは、やはりインド人は日本人よりも遥かに激しく酔っ払いやすい人種であることが原因のように思われる。

 夕方に大家さんの家のお手伝いボーイ、シャームーと一緒に、ビール・バーザールへ買い物に行った。ビール・バーザールはガウタム・ナガルのすぐそばで毎週木曜日に開かれる定期市である。ちょうど僕が家に帰ったときにシャームーが買い物に出掛けるところだったので、僕もついていくことにしたのだ。

 インドの食料品市場というのは客も売り手も本当にエネルギッシュだが、特に定期市となると週に1回なので輪をかけてすさまじい。ビール・バーザールで売られている食料品は毎日出ている市場よりも安いみたいで、各家庭から1週間分の食料を買い込むために派遣されてきた人々でごった返している。インドでは女性があまり外を出歩く習慣がないので男が買い物をする、という話は割と有名だが、デリーではその習慣も廃れてしまったみたいで、買い物客は女半分、男半分ぐらいである。でも日本に比べたら男の買い物客の割合は圧倒的に高いかもしれない。僕は野菜や果物を買うときは、ユスフ・サラーイにある毎日出ている屋台で買っているので、こんな混雑している市場で買い物をする自信がない。ビール・バーザールの道の両側にはビッシリと屋台や露店が立ち並び、それぞれ1品目から数品目の野菜・果物を扱っている。シャームーは人ごみを掻き分け、どんどん目的の野菜を買い込んでいく。大根、ニンニク、トマト、オクラなどなど・・・見ただけじゃあ何だか分からないような野菜も多い。店の人からカゴをもらって、無造作に積み上げられている野菜の山の中から、自分で選別して欲しい分だけそのカゴに入れ、秤で計ってもらう。さすがにシャームーは買い物慣れしているだけあって、1キロ欲しかったら大体1キロ分くらいの量を選ぶことができる。店の人は秤で計って品物を減らしたり増やしたりしながら微調整する。インドでは1キロ何ルピーという料金設定で売られていることがほとんどだ。物にもよるが、野菜ならどれでも1キロ10ルピー前後である。僕はビール・バーザール名物のチョーレー・バトーレーを2皿分買って帰った。1皿5ルピー。今日の夕食だ。

7月5日(金) 在学証明/The Legend of Bhagat Singh

 インドに来てから1週間が過ぎようとしている。外国人登録の手続きを今日こそ終わらせたいと思っていた。学費の15500ルピーを持ってまずはカイラーシュ・コロニーのサンスターンへ行く。今回はガウタム・ナガル近辺からサンスターンまでバスで行けるか試してみたが、やはりGK1辺りまでダイレクトに行くバスはなさそうだ。大家さんから544番のバスが近くまで行くと教えてくれもらったのだが、そのバスは違う方向へ行ってしまった。結局リクシャーでサンスターンまで行った。

 サンスターンは着々と引越し作業と工事が進んでおり、日に日にきれいになっている。事務員の人に、大使館の推薦状、パスポートのコピー、ヴィザのコピー、そして1年間の学費15500ルピーを払った。ところがあいにくそのときは停電で、在学証明を発行してもらえなかった。仕方ないので昼食を食べて電気が来るのを待つことにした。

 新サンスターンはカイラーシュ・コロニーのマーケットのすぐ近くにある。だから食事は便利だ。サンスターンのすぐ裏にあるアヌパマというレストランが事務員たちのオススメだったので、そこに入ってみた。僕が行ったときは停電だったのだが、普段はA/Cが効いているみたいだ。中級レストランのカテゴリーに入ると思う。僕はとりあえず小手調べということで50ルピーのターリーを食べてみたが・・・時間がかかった上にあまりおいしくなかった。

 昼食から帰っても電気は来てなかった。仕方ないので午後に来ることにして時間を潰すことにした。カイラーシュ・コロニーの周辺を探検してみた。多分新サンスターンの最寄りのバス停は、カイラーシュ・コロニーの東側にある大通り、ラーラー・ラージパト・ラーイ・パト沿いのバス停だろう。そこでどんなバスが来るか見ていた。ネルー・プレイスやカルカージーからのバスが多かった。僕は試しにネルー・プレイス発、ニュー・デリー駅行きのM−13番のバスに乗ってどういうルートを通るか見てみた。ラーラー・ラージパト・ラーイ・パトを北上し、ディフェンス・コロニーの西側を通り、ローディー・コロニー、カーン・マーケット、インド門、コンノート・プレイスなどを通ってそのままパハール・ガンジまで行ってしまった。バスの便を考えると、多分新サンスターンの生徒に人気が出るのはカルカージー近辺だと思われる。

 さて、パハール・ガンジに久しぶりに来てしまった。せっかくだからパハール・ガンジのメイン・ロードを歩いてみた。印パ緊張の影響か、まだ旅行シーズンじゃないだけなのか、パハール・ガンジの繁華街は以前と比べてやたらと暗い雰囲気だった。活気がないのだ。せっかく来たのでパハール・ガンジの両替屋で1万円を両替しておいた。最近日本円のレートがよくて、1万円が3890ルピーになった。1ルピー=2.57円の計算になる。1万円が4000ルピーになったら、夢の1ルピー=2.5円生活が始まる。両替屋も今は日本円が欲しい時期みたいで、「もっと日本円ないか?5万円両替してくれたらもっと高率で両替してやるよ」と言っていた。

 またM−13のバスに乗ってカイラーシュ・コロニーまで戻った。再びサンスターンへ行ってみると、僕の在学証明が既に発行されていた。やっと進展があった!今日は半ば諦めていたのだが、一気に今日中に外国人登録が終わりそうな気分になってきた。一目散にガウタム・ナガルに戻った。

 外国人登録に必要なのは、あとは大家さんから出してもらう在住証明だけである。昨夜は大家さんは酔っ払っていてもらうことができなかった。今朝も二日酔いで突っ伏して寝ていたのでもらうことができなかった。ガウタム・ナガルに戻ってみると、大家さんは外出中だった。でもスラブが電話をしてくれて、大家さんに家に帰ってきてもらった。在住証明の書類はあらかじめワードで作ってプリントアウトしておいたので、そこにサインをしてもらうだけだったが、あと電気代か電話代の請求書のコピーが必要である。でも大家さんはなぜか請求書のコピーは好まないらしく(多分何かやましいことがあるのだと思う)、有権者証明のようなカードのコピーをしてもらうことにした。ところが・・・よりによってそのときはガウタム・ナガル一帯が停電になっており、どこのコピー屋もコピーができない状態になっていた・・・。なんという不運・・・。時間は既に4時をまわっていた。多分FRROは5時までだろう。

 しばらく電気が来るのを待っていたが、全く来る気配がないので、サインしてもらった在住証明だけ持ってFRROへ急いだ。ところが行ってみるとFRROの営業時間は4時までで、今日は結局タイム・アップとなってしまった・・・。残念ながら月曜日まで持ち越しということになった。

 でもなんとか月曜日にFRROの登録が完了しそうな目途が立ったので少し安心した。そこで夕方から映画を見ることにして、PVRアヌパムへ行った。インドに来てからというものの、外国人登録のための書類集めで忙しくて映画を見る暇すらなかった。今日は「The Legend of Bhagat Singh」という映画を見ることにした。チケット売り場で「バガット・スィンのチケット1枚下さい」と言ったら、突然横からおじさんが「もしよかったら私のチケットを買わないか?」と言ってきた。どうやら買ってしまったチケットをキャンセルしたかったらしい。別に窓口で買っても、このおじさんから買っても大した差はないと思ったので、彼からチケットを買ってあげた。しかしそのチケットの値段を見てみたら170ルピーだった。PVRの映画館の料金まで値上がりしたのかと思って映画館の中に入ったが、そのチケットは実は高級ボックス席(Premium Lounge)のチケットだった。でもリッチな気分で映画を見ることができた。




The Legend of Bhagat Singhの
アジャイ・デーヴガン


 「The Legend of Bhagat Singh」は実話を基にした20世紀初頭のインド独立運動をテーマにした映画で、マハートマー・ガーンディーやジャワハルラール・ネルー、ラーラー・ラージパトなどのフリーダム・ファイターたちが登場する。主演はアジャイ・デーヴガン。「Company」に続きダンディーな役柄で、まさにはまり役。最近急速に評価を高めている俳優である。主人公のバガット・スィンは子供の頃からガーンディーの信奉者だったのだが、ガーンディーが非暴力不服従の運動を取りやめたことに失望し、次第にイギリスの人権を無視した支配に対して武力で抵抗する運動を開始する。国会議事堂に爆弾を投げ込んだことで逮捕されるが、法廷をプロパガンダの宣伝場としてうまく利用し、インド中に独立闘争の呼びかけを行った。バガット・スィンの絶大な人気を恐れたイギリス政府は、バガットたちを死刑にしたのだった。

 なんとなくマハートマー・ガーンディーに対する批判めいた部分も多く、政治的な映画だった。それにしてもインド独立闘争の時期は、日本の幕末に似ていろんな思想家が自分の命を懸けて熱く生きていた時代なので楽しい。音楽はA.R.ラフマーン。「Lagaan」と共通する、国威発揚的音楽が多かった。普通のインド映画ではないので、一般大衆受けはあまりしなかったと思うが、だんだんインド映画も冒険をするようになってきたことが感じられ、たのもしかった。

 映画館を出て見るとやたらと激しい風が吹いていた。火照った身体に気持ちいい涼しい風である。もうすぐモンスーンが来るのだ。最近のテレビの天気予報はモンスーンの話題で持ちきりである。もう既にマハーラーシュトラ州やヒマーチャル・プラデーシュ州など、デリーの北と南にはモンスーンが来ている。デリーはインドの中でもモンスーンが来るのが一番遅い地域みたいだ。今日の夜は一際涼しくて、ガウタム・ナガルに戻ってみると、心なしかインド人たちも真夜中なのにも関わらず表を意味もなく歩き回っており、モンスーンの到来を今か今かと待ちわびているみたいだ。僕はインドの一番暑い時期を日本で過ごしてしまったので、このモンスーンを待ちわびる気持ちを共有するのは図々しい限りなのだが、それでもモンスーンが来る喜びが分かる。モンスーンが来れば酷暑期が終わり、この耐えられないほどの暑さも幾分和らぐのだ。

7月6日(土) マンゴー・フェスティバル

 インドのマンゴーは世界一である。生産量も圧倒的に世界一ながら、その味と種類の豊富さも世界一だ。特に最近のマンゴーはおいしいのなんのって・・・。多分果物の中で一番おいしいのはマンゴーだと思う。インドに早く帰ってきた理由のひとつも、実にマンゴーを食べることにあった。マンゴーのシーズンは5月〜7月。もたもたしていると旬のマンゴーを食べれなくなってしまうところだった。今、僕の部屋の冷蔵庫には必ずマンゴーが入っている状態だ。マンゴーの相場は、1キロ15ルピー〜30ルピーほど。種類によって大分開きがある。

 この前大家さんから毎年恒例「マンゴー・フェスティバル」なるイベントを耳にした。マンゴーの祭り、聞いただけでもヨダレが出てくる。インド各地、いやもしかしたら世界各地のマンゴーが一堂に会し、参加客はそれらのマンゴーを思う存分味わうことができる・・・そんなフェスティバルを勝手に想像していた。聞くところによるとマンゴーの早食い大会などもあるらしい。これは行くしかないと思い、ネットで情報収集してみた。どうやら今年のマンゴー・フェスティバルは7月6日〜7日、アショーカ・ホテルのコンベンション・ホールで行われているらしかった。

 意気揚々とアショーカ・ホテルに行ってみると、本当にマンゴー・フェスティバルが開催されていた。入り口でチケットを購入。1人10ルピー。門をくぐるとまずは出店が並んでいた。マンゴー販売はもちろん、マンゴー・チャトニー(ソース)、マンゴー・アチャール(ピクルス)、マンゴー・ジュースなどが売られていた。とりあえず一通り出店を見て廻った後でホテルの中へ。順路に従って進んでいくと、マンゴー・フェスティバルの本会場に辿り着いた。

 ホールの4辺の壁際にはいろんな種類のマンゴーが並べられていた。大きいマンゴー、小さいマンゴー、黄色いマンゴー、緑色のマンゴー、赤色のマンゴー、変わった形のマンゴー・・・マンゴーと一口に言ってもいろんな種類があることに驚かされた。また、マンゴーを使ったデザートもたくさん並べられていた。しかし!しかし!悲しいことに全て「Don't Touch」・・・。そう、マンゴー・フェスティバルはどうやら展示会&即売会のようなもので、食べ放題とか試食コーナーとか、そういうものは全くなかったのだ。そしてホールの中心ではなぜかインド古典音楽の演奏会が行われていた。そもそも高級ホテルであるアショーカ・ホテルのホールで行われているため、客はほぼ100%上流階級インド人であり、早食い競争のようなお下品なイベントが行われそうな雰囲気じゃなかった。時間帯によっていろいろイベントが行われているみたいだったので、もしかしたら早食い競争や食べ放題タイムもいつか行われていたかもしれないが、僕は30分ほどで出てきてしまった。あれだけ多くのマンゴーに取り囲まれながら、ひとつも口に出来ないとは、蛇の生殺しである。悔し紛れに、帰りがけにガウタム・ナガルの市場でマンゴーを買って帰ったのはもちろんのことである。

7月7日(日) GK2

 今日は友達と久しぶりに再会し、彼の自転車に二人乗りして南デリーをあちこちさまよった。サウス・エクステンションからカイラーシュ・コロニー、そしてグレーター・カイラーシュ2、サーヴィトリー・ナガルなどである。僕も自転車を買ってガウタム・ナガルから新サンスターンへ通うという計画もあるので、自転車でインドの街を走るのはどんな具合か確かめることができた。

 南デリーの街には大きく分けて2種類ある。ひとつは高級住宅地、ひとつは低級住宅地である。高級住宅地の道路はきちんと舗装されており、自転車で通るのに何の問題もない。ところが低級住宅地は道路がガタガタ道なので、けっこう苦労する。ガウタム・ナガルからカイラーシュ・コロニーまでの道を見てみると、ガウタム・ナガルだけ低級住宅地にあたるのでガタガタ道、ガウタム・ナガルを出てしまえば後はずっときれいな舗装道路となっている。自転車で通えることには通えるが、どうせならバイクが欲しくなるような距離だ。

 今日は友達に連れられて初めてGK2のMブロック・マーケットへ行った。南デリーには「カイラーシュ」の名のつく、かなり広大な地域がある。いくつかモダンなマーケットを持つグレーター・カイラーシュ1(GK1)、新サンスターンのできたカイラーシュ・コロニー、日本山妙法寺のあるイースト・オブ・カイラーシュ、グレーター・カイラーシュ・エンクレイヴ1、2、そしてグレーター・カイラーシュ2である。「カイラーシュ」の付く地域はどこも高級住宅地になっている。

 GK2の中心的なマーケットはMブロック・マーケットである。GK1にもMブロック・マーケットがあり紛らわしい。実は今日はマーケットの定休日で、閉まっている店も多くあまり行った甲斐がなかったが、見たところGK1のマーケットに比べて寂寥感があり、少し格が落ちるように感じた。チェーン店としてはバリスタ、ニルラーズなどがあった。ちょうど昼時だったので、僕たちは1軒の中級中華料理屋に入った。ランチ・セットが一律150ルピーだった。だが、中華料理と呼ぶにはかなり抵抗のある味だった。インドで本格的な外国料理を食べようと思ったら、相当高級なところへ行かないといけない。そもそも中華料理はノン・ヴェジであることが多いため、あまりインドにそのままの形で浸透するのは難しいように思える。

7月8日(月) 避暑旅行へ

 今日の今日こそは外国人登録を済ませなければならない。在住証明と在学証明を手に、FRROの開業時間である9時半に乗り込んだ。朝早かったこともあってかなり空いており、難航した今までの過程が嘘のようにスムーズに手続きも済んだ。結局FRROには4回足を運んだことになる。

 とりあえずインド入国後最大の難関だった外国人登録を済ませ、ホッとした。これが終わればもうデリーになんか用はない。避暑旅行へ出発だ。あらかじめ今日の午後4時半発のアムリトサル行きの列車を予約していた。今日外国人登録が終わらなかったらやばかったのだが、日頃の行いがよかったせいで予定通り出発することができる。家に帰って荷造りをした。

 今回の旅行の主な訪問都市は、パンジャーブ州のアムリトサル、ヒマーチャル・プラデーシュ州のダラムシャーラーとマナーリー、そしてジャンムー&カシュミール州のレーである。いずれも初めて行く。既にモンスーンに入っている地域もあるので雨には降られるかもしれないが、デリーより涼しいことは確実だろう。特にレーは寒いぐらいだろう。だが、どのくらい寒いかはやはり行ってみないと分からない。荷物は最小限に抑えたかったので、基本的に防寒具は現地調達ということにして、小さなリュックとウエスト・バッグだけの装備で行くことにした。

 今回利用する列車は2013アムリトサル・シャタブディー・エクスプレス。「シャタブディー」の名を冠する列車はインドの新幹線と例えるべき高級特急列車だ。思い起こしてみると、もしかしてシャタブディーを使ったのは初めてかもしれない。ラージダニー・エクスプレスなら数回使ったことはあるのだが。ちなみにシャタブディー・エクスプレスは近郊を結ぶ特急列車で全部座席車、ラージダニーは遠隔地を結ぶ特急列車で全部寝台車である。どちらも全車両エアコンが効いている。

 ニューデリー駅へ着くと相変わらず怪しい連中から声を掛けられる。全部無視してプラット・フォーム1へ。出発より20分前に駅に着いたのだが、列車は既に駅にあった。自分の予約した車両を探して乗り込む。さすがにパンジャーブ州へ向かう列車だけあって、車内はスィク教徒で溢れかえっていた。僕の隣の席の人もスィク教徒。ルディアナーへ行く予定らしい。

 列車は時間通りに出発。早速全乗客にミネラル・ウォーターが配られる。次にマンゴー・ジュース、そして軽食、チャーイと至れり尽くせりだ。これらの食事は全て運賃に含まれている。今回のアムリトサル行きの列車の運賃は630ルピーだったのだが、これらのサービスを考えれば決して高くないと思う。夕方には夕食も出る。ヴェジとノン・ヴェジが選べるが、やはりスィク教徒が多いのでノン・ヴェジの方が人気がある。僕もノン・ヴェジを食べた。チキン・カレー、ラージュマー、ライス、チャパーティー、ダヒーなどのセットだ。

 デリーからアムリトサルまで452Km、シャタブディーで6時間かかった。アムリトサルに到着したときには既に10時40分頃。案外途中駅で降りる人が多く、アムリトサルに着いたときには車内にはほとんど乗客がいなかった。

 駅に構内に降りると早速客引きの連中に声を掛けられる。しかし全部無視して駅を出た。アムリトサルには無料で宿泊できる巡礼宿があるのだが、もう夜遅かったし、駅から離れていたので、駅近くのホテル、パレス&ペガサスに泊まることにした。シングル・ルームで1泊200ルピー。

7月9日(火) アムリトサル

 避暑旅行のはずだったが、少なくともここアムリトサルでは全然避暑になっていない。デリーと同じくらい暑い・・・!よって自然と行動時間は朝か夕方に限られる。パンジャーブ州の公用語はパンジャービー語。ヒンディー語と似た語彙が多いし、文字も何となく似ているので割と安心。そもそもパンジャーブ人はパンジャービー語に加えてヒンディー語もしゃべれる人が多いみたいだ。

 アムリトサルはパーキスターンとの国境近くに位置しており、パーキスターンに陸路で行くときの拠点となる街だ。それ以上に重要なのが、アムリトサルはスィク教徒の最大の聖地であること。旧市街には黄金寺院と呼ばれるスィク教総本山の寺院がある。今日は朝から早速黄金寺院に向かった。

 実はスィク教の寺院に入るには、ひとつ変わったマナーがある。それは頭を何かの布で覆うことだ。でもここはインド、多分必要なところに必要なものを売る人がいると思い、何の準備もせずに黄金寺院へ辿り着いた。すると予想通り、サイクル・リクシャーを降りた途端に売り子が寄ってきて、「寺院に入るには頭に布を巻かなきゃ駄目だよ〜」と布を売りつけてきた。ひとつ心配だったのは、インド人に比べて僕の頭はでかいので、布が届かなくて頭に巻けなかったらどうしようということだった。なんとか布は巻けたが、鏡で見てみたらちょっと変な外見だ。インド人はターバンでもバンダナでも、頭に布を巻くとすごい似合うのに、なんで僕は似合わないんだろう・・・?やはり頭がでかいからだろう・・・。

 とにかく無料の靴預け所に靴を預け、足を洗って寺院に入る。すると、四角形の池(不死の池=アムリトサル)の中心に浮かぶ黄金寺院がすぐに見えてきた。スィク教徒たちは地面に頭を付けて黄金寺院に対して礼拝をしており、池で沐浴をしたり隅の方の日陰でくつろいだりしていた。もともとスィク教というのは、16世紀にグル・ナーナクがイスラーム教とヒンドゥー教の教義を融合させて創始した宗教である。この黄金寺院の建築様式もどことなくイスラーム建築の影響とヒンドゥー建築の影響双方を感じた。




黄金寺院
インド版金閣寺?


 池の中央に浮かぶ黄金寺院には北側から一本の橋が架かっている。僕も他のスィク教徒たちと共に橋を渡り、黄金寺院の中へ入ってみた。寺院の至るところにスピーカーが設置されており、そこから宗教歌が流れていたのだが、黄金寺院内部に入ってみたらそこで楽師たちが生演奏をしていることが分かった。確か黄金寺院の中にはグル・グラント・サーヒブと呼ばれるスィク教の聖典が安置されているはずだが、花の花弁やお賽銭が散乱していてどれだか分からなかった。黄金寺院を取り巻く回廊から池の中を覗き見てみたら、大きな魚が口をパクパクしてこちらを見ていた。あまりに多くの魚が一斉に水上に顔を出していたので、最初見たときはギョッとしたが、一生懸命パクパクしているのでかわいく思えてきた。今はエサになるようなものを持っていないんだよ、ごめんな。それにしてもさすが不死の池に住む魚たち、どいつもこいつもマルマルと肥え太っている。




不死の池に住む魚たち


 さて、スケッチをするのにこれほど好条件な建物はない。スィク教の聖地だし、日陰も十分ある。早速場所を決めて座り込み、スケッチを始めた。やはり自分の宗教の聖地を絵に描いてもらうのは嬉しいみたいで、通りすがりのスィク教徒の人々から褒められたり励まされたり、しかも拝まれたりもした。聖地を訪れる人々の顔はみな朗らかだ。実はスィク教徒は僕の知り合いの日本人の中ではすこぶる評判が悪い。しかしここアムリトサルのスィク教徒たちは、節度のある奥ゆかしい人々ばかりだった。話しかけてみると、割と近所に住んでて毎日来ているような人が多かった。

 絵は1時間半ほどで完成した。日陰といっても正午に近付くにつれて気温が一気に上昇していたので、暑さに耐えながらのスケッチとなった。しかもインド人の野郎どもが僕の両脇に座って絵の進行を見たり質問したりして来るし、彼らの熱とすっぱい汗の臭いも加わって、少し苦戦した場面もあった。それらをひっくるめれば上出来といえるだろう。

 スケッチを描き終わった後は黄金寺院の境内をグルッと一周してみた。寺院の四隅には無料の飲料水配給所があったり、奥の方には無料の食堂があったり、社会福祉施設とも呼べるものがたくさんあった。池の南側は沐浴ポイントとなっており、太ったサルダールのおっさんたちが自慢のデブ腹を見せびらかしながら沐浴していた。女性のためにはちゃんと女性用の沐浴ポイントがあり、そこだけは壁で覆われていて男子禁制、僕は見ることができなかった。

 黄金寺院は、ずっとそのままくつろいでいたいような、和やかな雰囲気の寺院だった。その後、寺院のそばにあるジャリアーンワーラー庭園を訪れた。ここは1919年アムリトサル大虐殺の舞台となった悲劇の地だ。ちょうどこの前見た「The Legend of Bhagat Singh」にもその大虐殺のシーンがあり、その映像の通りかと思って行ってみたら現在はきれいな公園になっていた。昔はただの空き地というか広場だったみたいだ。国民会議派が大虐殺の犠牲者を追悼するために土地を買い、整備したそうだ。公園の隅には井戸があった。ローラット法(逮捕令状なしの逮捕、裁判抜きの投獄を認める法律)に反対する市民1万人がこの広場に集まったとき、イギリスのダイアー将軍は「土民に思い知らせるため」、非武装の市民たちに一斉射撃を行った。銃弾から逃げ惑う人々は一斉に広場の中央にあった井戸に飛び込み溺死し、死者400人、負傷者1000人の大惨事となった。まさにその井戸だった。イギリスの圧政とインド独立運動の犠牲者となった人々を目蓋の裏に思い浮かべながら、すっと井戸を覗き込んでみる。不思議と冷たい風が井戸の奥から吹き上がっていた。井戸の近くには当時の壁が残っており、銃弾の跡が生々しく残っていた。しかし、そんな悲劇の過去も既に過去のものとなったのか、現在はこの公園も地元の人にとっては憩いの場となっているみたいだった。




ジャリアーンワーラー庭園

 一旦宿に戻って昼寝をした後、日が沈んでから再び行動を開始した。黄金寺院の雰囲気が気に入ったので、もう一度行ってみたくなった。というか、アムリトサルにははっきり言って黄金寺院以外あまり見るべきものがない。パンジャーブ州最大の都市とされながら、やはりデリーの大都会を見慣れてしまった僕にはどうしても田舎町に見える。パンジャーブ州はインドでも最大のアルコール消費量を誇る州だけあって、酒屋やバーが目立ったが、それ以外は特に特徴のない街だ。

 夜の黄金寺院はまた一味違った。池に浮かぶ黄金寺院はライトアップされ、この世のものとは思えない幻想感が漂っていた。そして巡礼者の数も昼間とは比べ物にならないくらい多かった。寺院まで続く橋の上には、本堂への参拝を待つスィク教徒たちの長蛇の列ができていた。僕は池のそばに腰を下ろし、他のインド人たちと同様、夕涼みをした。聖なる不死の池に冷やされた風と寺院内に響き渡る聖歌が心地よい。途中停電があって寺院内の電気が一気に全て消えてしまったこともあったが、それもまた一興だった。




夜の黄金寺院


7月10日(水) ダラムシャーラーへ

 朝7時半、僕はパターンコート行きのバスに乗り込んでいた。これからダライ・ラマの住むダラムシャーラーへ向かう。アムリトサルからダラムシャーラーへ直行で行くバスは1日に1本しかないそうなので、そのバスを待つよりか途中でバスを乗り換えて行く方が早いと判断し、パターンコート行きのバスを選んだのだ。

 パターンコートはパンジャーブ州の最北部にある街で、パーキスターンとの国境がすぐそこまで迫っているし、ジャンムー&カシュミール州もすぐそこだ。アムリトサルからパターンコートまでは大体3時間半。ローカルバスで行ったのでかなり時間がかかった印象がある。途中の道の風景はほとんど田園風景。パンジャーブ州の豊かな穀倉地帯を見ることができた。

 パターンコートで今度はダラムシャーラー行きのバスに乗り込んだ・・・はずだが、そのバスはダラムシャーラーの近くまで行くものの、また途中で乗り換えなければいけなかった。パンジャーブ州を出てヒマーチャル・プラデーシュ州に入ると、途端に平野だった風景が山がちな風景に変わる。道も舗装道路から砂利石だらけの山道に。急カーブに続く急カーブでバスは右に左に大いに揺れた。ヒマーチャル・プラデーシュ州の公用語はヒンディー語。ただ、バスの中の会話を聞いていると、かなり訛りのあるヒンディー語に思えた。途中でちょうど学校が終わる時間になり、学生たちも乗り込んできたのだが、彼らのヒンディー語は容易に聞き取れた。学校教育の賜物か、だんだん標準ヒンディー語が若い世代から浸透しつつあるのだろうか・・・?

 ガッガルという山村でバスを降りた。そこでダラムシャーラー行きのミニバスに乗る。ガッガルからダラムシャーラーまでの道はさらにひどい山道で、しかも車内は満員状態。かなりダメージを喰らった。ダラムシャーラーに着いたのはいいのだが、ダラムシャーラーには実は低ダラムシャーラーと高ダラムシャーラー(マクロード・ガンジと呼ばれている)の2つがあり、バススタンドがあるのは低ダラムシャーラー、旅行者が行くのは高ダラムシャーラーである。さらにバスを乗り継いでマクロード・ガンジへ行かなければならなかった。結局アムリトサルから4本のバスを乗り継ぎ、やっとのことでダラムシャーラーへ到着することができた。既に時計は4時近くになっていた。アムリトサルからダラムシャーラーまで9時間ぐらいかかったことになる。某ガイドブックには6時間と書いてあったのだが・・・。

 さすがに高地にあるだけあって、ダラムシャーラーは長袖が必要なくらい涼しかった。やっと避暑旅行らしくなってきた。バスの中では汗ビッショリになっていたし、途中から頭痛もしてきたので辛かった。早速宿を決めるため歩き始める。さすがにダラムシャーラーはチベット難民の町だけあって、チベット人が多い。彼らは日本人とほとんど同じ顔なので、僕は全然目立たない。全く客引きに勧誘されない。その他、ダラムシャーラーには僕と同じく避暑に来たと思われるヒッピー系の白人旅行者も多かった。

 カング・ゲストハウスという宿に泊まることに決めた。1泊200ルピー。部屋はけっこう清潔で嬉しい。もちろんこのくらい出せば部屋にはちゃんと電気の来るコンセントも付いている。パソコンやデジカメの電源確保も問題なかった。

 チェック・インしたと同時に食事を食べ、部屋で爆睡した。頭が痛かったので何をする気にもなれなかったのだ。これからレーに向かうときに高度5000メートルの山を越える。僕には全く未知の領域だ。自分がいったいどうなってしまうのか予想が付かない。なるべく体調を万全に整えて臨みたいので、健康管理は十分にしておかなければならない。今回の旅行の第一目的は避暑であることもあるし、焦らずゆっくりと旅行したい。




ダラムシャーラー


7月11日(木) ダラムシャーラー

 やることがない・・・!ダラムシャーラー滞在の苦悩が始まった。僕はどうも1箇所に長期滞在するのは苦手な体質みたいで、テンポよく移動して旅行してないと気分が悪い。特にダラムシャーラーのような何もやることないところでは、やることがなくてストレスが溜まってしまう。

 とりあえず早朝に、歩いて30分ほどのところにある滝まで行ってみた。ダラムシャーラーの標高は1750メートル、けっこう息が切れる。空気が澄んでいて気持ちいい。こういうところに生まれたら、デリーなんかには住めないだろう。滝はまあ滝だな、というぐらいの印象で、しばらく座って滝を眺めてから再び帰った。

 朝食を食べた後、次はダライ・ラマの家に行ってみた。ダライ・ラマはあいにく今は外遊中でダラムシャーラーにいないらしい。情報によると7月14日頃帰ってきて、15日から説法を行うらしい。でもそれまでダラムシャーラーに留まっていたら退屈で死んでしまいそうなので、僕は多分それには参加しない。ダライ・ラマに会ったところで別に大して嬉しくもないし。ダライ・ラマの家の前にはチベット仏教寺院があり、中では僧侶たちが低音を響かせて読経をしていた。その寺院の周りにやたらと乞食が多かったので、やはりここはインドであることを実感させられた。




ダライ・ラマ法主公邸


 ダラムシャーラーは小さな町ながら、外国人旅行者が多いこともあってネット・カフェが乱立している。インターネットは格好の暇潰しだ。10分10ルピーとけっこう高かったので、そんなに長い時間できなかったが、メール・チェックをしたりした。

 その後暇潰しにスケッチをすることにした。朝、滝へ行く途中で、ダラムシャーラーの街並みがキレイに見えるところがあったので、そこまで行ってスケッチをした。途中雨が降り出して雨宿りしながら描いていたので、けっこう時間稼ぎになった。3時間ぐらいかかっただろうか。

 昼食を食べた後、昼寝をした。ダラムシャーラーにいると、食べ物を食べるか、昼寝をするか、ネットをするぐらいしかやることがない。食べ物と言えば、ダラムシャーラーに来てからいろいろチベット料理を食べたが、どうも僕はインド料理の刺激に慣れてしまったらしく、チベット料理はどうも物足りない。腹もあまり膨らまない。インド料理が恋しくなってきた。

 でも街中のチベット人を見るのは実は楽しい。彼らの顔は日本人とよく似ている。ダライ・ラマと彼を慕うチベット人たちがチベットからインドに亡命して来たのが1959年。宿のチベット人もそうだったが、ここダラムシャーラーやその他のチベット人難民キャンプには、インドで生まれたチベット人も多い。年寄りのチベット人はいかにも「チベット」という雰囲気の人が多いのだが、インドで生まれた新世代のチベット人の若者たちは、けっこう垢抜けていてパッと見、日本人っぽい人も多い。時々、広末涼子のような「高原系美少女」的なかわいいチベット人の女の子もいたりする。ちなみにダラムシャーラーのチベット人はチベット語とヒンディー語両方しゃべることができるみたいだ。もちろん英語もうまい人が多い。

 夕方から外をブラブラ散歩した。マクロード・ガンジの広場にバス・カウンターがあったので、明日のマナーリー行きのバスについて質問してみた。今朝宿の人に聞いたところでは、明日の朝6時にマナーリー行きのバスがあるらしいのだが、そのカウンターには午後5時発と書いてあった。ヒンディー語で質問してみたら、カウンターの人も僕がチベット人だと思ったのか、ヒンディー語でペラペラっと答えられた。それを聴き取ったところでは、やはり明日午後5時発らしい。ということはさらにダラムシャーラーに滞在しなければならないということか・・・?もう一度宿の人に確認をとって見なければなるまい。

7月12日(金) マナーリーへ

 早朝6時前にマクロード・ガンジのバス停に行ってみると、情報通りマナーリー行きのバスが来ていた。急いで宿に取って返し、荷物を持ってチェック・アウトをした・・・のだが、あいにく宿の人が誰もいなかったので、部屋に宿泊代200ルピーを置いて来た。大丈夫だっただろうか?

 ダラムシャーラーからマナーリーまでの道のりは、ほとんど山道と言ってよかった。道路脇には「〜まであと何キロ」みたいな道標が立っているのだが、時間がかかるわりにはキロ数を稼げていない。やはり山道なので、そんなにスピードを出すことができない、とは言ってもインド人の運転手はかなり常識外れのスピードを出しているのだが、それでも時速に換算したら30キロも出ていないだろう。道が狭いので、対向車線にバスやトラックが来たら、道幅ぎりぎりを使ってすれ違わなければならない。途中で道の真ん中で軍隊のトラックが立ち往生してしまっていたので、数分間通行がストップしてしまったこともあった。また、ローカルバスなので途中にある町で数分間から10分ぐらい止まることもあり、なかなか進まない。もう僕はこういうインドの長距離バス移動のリズムにはかなり慣れたので、首尾よく食料を手に入れたりトイレに行ったりできたが、初心者にはかなり辛いだろう。

 バスから見える景色は段々畑を眼下に望みながらの、すがすがしい山村風景だった。ラージャスターン州を「砂漠のインド」とすれば、ヒマーチャル・プラデーシュ州は「山のインド」。平野部とは違ったインドの横顔を見ることができる。家屋の様式はどことなく日本の建築に似ている。人の顔も平野部ほど彫りが深くない。女性の服装も少し違って、頭に布をハチマキのように巻いている。

 中継地のマンディーに着いたときは1時半頃。ダラムシャーラーから約7時間半かかった。マンディーは河沿いの山間地帯に広がる歴史のありそうな町で、古い寺院や年季の入った橋などが遠くから見えた。今回はバスで通りがかっただけだが、帰りに立ち寄ってみたくなった。マンディーからマナーリーまではビース河に沿った道で、道路は比較的広くてよく舗装がされており、今まで通ってきたガタガタ道よりは楽だった。カラコルム・ハイウェイに雰囲気が少し似ていた。途中でダムを渡って、まるで地の底のような谷間を北に進んでいく。上を見上げてみると、ほとんど90度に近いくらいの傾斜で、天高く山がそびえ立っている。下を流れる河に目を移してみると、これまた轟々とした激流で、一旦この河の流れに投げ込まれてしまったら、二度と浮かんで来れないのではないかと思ってしまうほどだ。陳腐な表現だが、こういう景色を見てしまうと、どうしても大自然の偉大さを感じずにはいられない。そしてその中に住まわせてもらっている人間の小さな営み・・・。しかし人間も自然に対して偉大な挑戦をしてきたのは確かだ。エジプトの砂漠に行ったとき、どこまでも続く砂漠に自然の驚異を感じたのと同時に、地平線から地平線まで延びる一本の道路を作った人間の力にも偉大さを感じたものだ。

 マンディーからマナーリーまでの道の途中にトンネルがあった。けっこうインドでトンネルというのは珍しいのではなかろうか?しかしそのトンネルは、トンネルと呼ぶよりは洞穴と呼んだ方がいいようなものだった。長さはけっこうあったのだが、側面の壁が岩石むき出しで、トンネルの中を通ると砂埃が一気にバスの中に入ってきて驚いた。日本のトンネルがいかに優秀か思い知った。

 クッルーを経由し、マナーリーには午後6時半到着。ダラムシャーラーから合計12時間半かかったことになる。アムリトサルからダラムシャーラーに移動したときは頭が痛くなったものだが、今回は健康面は全く問題なく、元気はつらつだった。ちなみにマナーリーの標高は約2000メートル。

 マナーリーではシヴァリク・ホテルというところに宿を決めた。7月はオフ・シーズンなのか、言い値350ルピーの部屋が200ルピーまで下がった。

 マナーリーはインドの避暑地のひとつである。マナーリーに着いてまず思ったのが、インド人避暑客の多さ。実はダラムシャーラーにも避暑客らしきインド人旅行者は多かったのだが、ここマナーリーはさらに多い。割と日本の避暑地と似た雰囲気で、メイン・ストリートにレストランや土産物屋、ホテルなどが密集していた。

 マナーリーの次はレーに行くことになっていたので、早速バス・スタンドで政府系のバスのタイム・テーブルやその他プライベート・バスの様子などを調べてみた。政府系のローカル・バスで行けば値段は500ルピー弱。もしTATAのSUMO(4WD車)で行けば1000ルピーかかるらしことが分かった。しかしバス・スタンドで旅行会社系の人に話しかけられ、明日の朝2時のSUMOが1席空いてて、600ルピーでレーまで行けるがどうだ、と持ちかけられた。普通、マナーリーからレーまでは1泊2日かかるのだが、朝2時半発のSUMOなら1日で走破して、レーには午後9時頃到着するらしい。このマナーリーからレーまでの道は、途中標高5000Mの峠を2つ越えるらしく、高山病の恐れが十分にある。体調は万全に整えて、無理をしないようにしなければならない。だから、今日マナーリーに着いたばかりで、明日の朝2時にレーに向かうのは体力的に問題があった。だが、自分の身体と相談してみた結果、なんとなくこのまま行けそうだったので、その話に乗ることにした。マナーリーはダラムシャーラー同様、退屈そうな町に見えたし、どうせレーから戻るときにも寄る予定なので、マナーリーに長居する必要もない。ホテル代がちょっともったいないが、今からくつろげばいいだろう。よし、このままレーに突入だ!

7月13日(土) レーへ

 朝2時に起きてホテルをチェック・アウトし、バス停へ向かった。バス停にはちゃんとSUMOが止まっており、乗客も数人集まっていた。ところがあと2人来ないらしく、ずっと彼らを待ち続ける羽目になった。その2人はアドヴァンスとして1000ルピーも払ったらしいのだが、時間を間違えたのか寝坊したのか、遂に来なかった。結局4時出発になってしまった。それでもレーには今日の午後9時に着くらしい。

 マナーリーを出発したSUMOは、坂道を一気にグングンと駆け上がっていく。それと同時に標高もグングン上がる。低い位置を流れている雲は既に眼下にある。だんだんと夜が明け、辺りが明るくなってくる。高山病を避けるため、なるべく水をコンスタントに口にするようにする。それでもまだ上がる。まるで日光のいろは坂のような道だ。朝6時頃だったろうか、ようやくロータン峠というひとつの峠を越える。まだ身体は何の問題もない。

 ロータン峠から今度は坂道を下る。河のほとりにある村で一旦休憩。ここで外国人だけパスポート・チェックがあった。その後はずっと河に沿って進んでいった。マンディーからマナーリーまでの道も十分すごかったが、このマナーリーからレーの道はもっとすごい。ヒマーチャル・プラデーシュ州の真髄というか、もう何とも形容しがたい圧倒的な光景だ。四方を何千メートルもの高さの山で囲まれ、激流が谷間を流れ、しかしそれでもそこに村があり、畑があり、人間が住んでいる。道は山の中腹部を通っているので、そこから下を眺めれば、まるで飛行機の中から地上を覗き見ているような感覚だ。まさに「風の谷のナウシカ」に出て来たあの村のようだった。外の景色を眺めていて全く退屈しなかった。ヒマーチャル・プラデーシュ州にはまってしまいそうだ。




雄大な山々


 おそらくヒマーチャル・プラデーシュ州を出て、ジャンムー&カシュミール州に入ったのだろう、急に景色が殺伐としてきて、辺りは砂利と岩の世界となった。12時頃、小さな集落で食事をとった。この辺りから次第に体調が崩れていく。いくつもいくつも峠道を越えた。多分標高5000メートルの峠も越えたのだろう、いつの間にか頭痛と寒気を感じるようになった。運転手さんは僕の体調を気遣ってか、ガムやキャンディーをくれたりした。確かに水を飲むだけでなく、甘いものを食べてカロリーを摂取した方がよさそうだ。しかしそんなことを後悔するのはもう遅い、頭がガンガン痛み出し、強い日差しに当たっていながらも寒気を感じてどうしようもなかった。

 また風景に変化が出た。峠道は終わり、今度はだだっ広い平原のど真ん中を突っ切るような道となった。標高も幾分下がったのか、体調も少しは楽になった。このまま標高をずっと下げて行ってもらいたいものだ。日は既に傾き始め、強烈な光を発し始めていた。まだレーまで150キロはあるみたいだ。早くレーに着きたい・・・、朦朧とした思考の中にあったのは、ただその一心だった。

 平原の道から今度は再び谷間の道となった。左右は切り立った絶壁となっており、いつ落石が起きてもおかしくないような威圧的な光景だった。道路は平原の道に入ってからずっと平坦なので楽だ。谷間の底を走っているので、日光が届かず、暗くなるのが早い。ところどころに白いゴンパが立っているのが見えた。チベット文化圏にやって来たことを実感した。谷間の道が終わると、もう市街地となっていた。あとはレーまで50キロほど。時刻は7時をまわり、日は完全に沈んだ。

 確かにレーには午後9時頃到着した。念願のレー到着だ!マナーリーから17時間、よく頑張った。あとはリクシャー・ワーラーを捕まえて、または捕まえられて、適当な宿に連れて行ってもらって、ベッドに横になるだけだ・・・!もう多少騙されてもいいから、どこでもベッドのあるところへ早く行きたかった。だが辺りは真っ暗。リクシャー・ワーラーらしき人影も見当たらない。運転手に聞いてみたら、レーにリクシャーはないと言われてしまった。こんな真っ暗では道も分からない。停電という訳でもなさそうだ。ただ単に電灯の数が少ないだけみたいだ。空にはやたらきれいな星が光っていたが、そんなのを見て感動している余裕は僕にはなかった。頭痛と寒気でどうにかなりそうだった。結局SUMOの運転手が親切な人で、彼がゲスト・ハウスまで連れて行ってくれることになった。彼のこの好意がなかったら、僕は明日の朝、レーの道端で変死体となって発見されていたかもしれない。一応インダス・ゲスト・ハウスというところに泊まろうと思っていたので、そこに連れて行ってもらった。

 インダス・ゲスト・ハウスはかなり奥まったところにあって、真っ暗だったので看板が見えずに通り過ぎてしまって道に迷ってしまったが、何とか辿り着くことができた。宿の主人は割と変な感じの人だったが、バス・トイレ付きの部屋を150ルピーで提供してくれた。そして一気にベッドに倒れこんだ。

7月14日(日) 高山病との闘い

 昨夜から頭痛で何度も目が覚め、しかも幻覚なのか夢なのか、やたらといろんなイメージやストーリーが頭の中をグルグルと回っている。寒気もまだ引かない。そしておまけに下痢にもなってしまった。これは感染症なのか?それともただの風邪なのか?やっぱり高山病なのか?今日は1日中ベッドに寝込んで高山病と闘っていた。

 下痢は昼頃一段落つき、ひとまず落ち着いた。昨日の昼から何も食べていなかったので、栄養を少しとろうと思い、フラフラと外に出て近くのレストランへ入った。そこでチョコ・クロワッサン、トマト・スープ、ラッスィーを口にして栄養補給。そしてまた宿に戻って寝た。

 レーへの旅というのは、かなり前から憧れとしてずっとあった。去年も一度行こうとして計画倒れになったことがあった。しかしレーに着いたはいいが、1日中寝込むことになろうとは・・・。遠くの方からアザーンが時々聞こえる。1日5回のアザーンを聞くと、時間が無為に過ぎていくのが分かる。そしてなぜか天国へ昇るような音楽まで聞こえ始めた。これはもしかして死の前兆なのか、とも思ったりした。マナーリーに着いた途端、レーへ強行スケジュールで移動したのがいけなかったのか、ただ単に実は僕の身体が病弱だったのか、とにかく高山病の怖さを思い知った。高山病は低いところへ行けばたちどころに治るらしいが、標高3500メートル、周囲をヒマーラヤ山脈とカラコルム山脈で囲まれたレーのどこに行ったら標高を下げることができるのだろうか?僕の心の中に、一般的な意味合いとは違う高所恐怖症が芽生えたのを感じた。高いところに行くのが怖くなってしまったのだ。なんかもう再びレーからマナーリーへ陸路で行きたくない。飛行機で一気にデリーに戻る手段もあるが、90ドルかかる。もうひとつの手段として、シュリーナガルへ陸路で行くという方法もある。レーからシュリーナガルまでの道はそれほど辛くないらしい。ただ、パーキスターンとの国境が近いので、けっこう危険な道である。シュリーナガルにも一度行ってみたいと思っていたが、今は時期が時期だけにけっこう危険な旅路になるだろう。シュリーナガルに着いてしまえば、後はジャンムー、パターンコート、そしてアムリトサルへ出られる。ベッドに横になりながら本当にいろんなことを考えた。身体が動かない分、思考だけが勝手にいろんな方向へ飛び散っているようだった。

7月15日(月) レー

 朝からやはり頭痛に悩まされた。寒気は大分よくなったみたいだった。しかしやはり幻覚というか、夢というか、いろんな映像と音声が脳内に浮かんでくる。そして突然その幻覚の中で僕に問題が出題された。「100人で宴会をして、99人は来なかった。しかし宴会は無事行われた。どうしてか?」僕は咄嗟に「もともと199人で宴会を行うことになっていて、その内の99人が来なかっただけだから」と答えた。すると正解だったのか、急に頭痛がスッと引いていったように感じた。嘘みたいな話だが、現実だ。それ以後、軽い頭痛はあったが、前のようなひどい頭痛は二度としなくなった。

 レーに来てみたかった理由は本当はただひとつ、レーの王宮を絵に描くことだった。レーの王宮は町を見下ろすかのように丘の上に建っており、既に廃墟となってはいるもののかっこいい建物だ。以前から写真で見ており、どうしてもスケッチしてみたかった。今日は朝からふらふらとレーの町へ出歩き、レーの王宮がよく見える場所を見定めて腰を下ろし、スケッチを描いた。2時間以上かけてじっくりと描いたので、なかなかの出来栄えになった。




レーの王宮


 レーに住んでいる人間を観察してみると、まず目に付くのはラダック人、つまりチベット人だ。ダラムシャーラーにもチベット人は多かったが、レーのラダック人の方が伝統的な生活様式を守っているような雰囲気だ。モンゴロイドなので顔は日本人に似ているのだが、レーは日光が強いためか、みんな肌が荒れているように見えた。赤くなっていたり、皮膚癌のようになっていたり・・・。差別的な表現だが、レーのラダック人は日本人を皮膚病にしたかのような顔をしている人が多いように感じた。正直言って、ダラムシャーラーの方がかわいいチベット人の女の子が多かった・・・。ラダック人の他は、カシュミール人、パンジャーブ人なども目立った。また、やはり避暑のために訪れたのか、白人観光客も多いし、日本人も多い。(ラダックはチベット文化圏だが、チベット人とラダック人は割と別らしい。)




ラダックのおばあさん


 レーの日光の強さは激しい。標高3500メートルともなると、低地とは全く違う世界だ。レーに長期滞在している人は絶対に黒く日焼けしている。ラダック人を見ても分かるように、あまりレーに長く滞在するのは、肌のためによくないだろう。日向は日光の強さによってかなり暖かいのだが、一旦日陰に入ると今度は急に寒くなる。そして乾燥も激しい。空気を吸うと必ず砂埃も一緒に吸い込んでいるようで気持ち悪い。喉も慢性的に渇くし、唇もザラザラになる。また、気圧の関係からか、炭酸飲料を飲むとやたらと腹にシュワシュワ来る。おそらく酒を飲んだらすぐに酔っ払うのではなかろうか?総じて、レーはあまり健康によくない場所のようだ。

 ダラムシャーラー、マナーリー、レーとチベット文化圏を渡り歩いて来たので、意識的に食事はチベット料理を食べるようにしている。レーは本場と言ってもいい場所なので、チベット料理を食べない手はない。ところが、なぜかチベット料理で満足できる味に今まで出会っていない。特にモモ(チベット風餃子)がいけない。トゥクパ(チベット風ヌードルスープ)はどこも当たり障りのない味なのだが、モモは机をひっくり返したくなるようなひどい味だ。これだったら、デリーのチャーナキャープリーにあるチベット料理屋で食べた方がまだマシである。

 とりあえずそろそろレー脱出を考え始めた。陸路にしろ空路にしろ、数日前からアクションを起こしておかなければならないからだ。実はかなりシュリーナガルも行ってみたいと思っており、情報を集めた。レーからシュリーナガルまではやはり1泊2日の行程で、途中4000メートルの峠を1回越えるものの、後は下り坂になるらしい。シュリーナガルはインドでもっとも風光明媚な避暑地として知られ、「この世の天国」とまで謳われた土地だ。いつか行ってみたいと思っていながら、パーキスターンとの国境紛争やテロ事件などで、年々行きづらくなっている。せっかく近くまで来ているので、今行っておこうかと思っていた。シュリーナガルの後はジャンムーへ行き、そこからデリーへ向かう予定だった。ところが偶然ニュースを耳にし、昨日ジャンムーでテロ事件が発生し28人が死亡、外出禁止状態になっていることを知った。やはりジャンムー&カシュミール州というのはテロがよく起こるところみたいだ。急にシュリーナガルに行きたくなくなった。そうするとあとは空路でデリーへ飛ぶか、マナーリーへ引き返すかしかなくなる。いろいろ考えてしまう・・・。



―再会編 終了―

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