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【11月1日〜11月15日】

11月1日(金) ディーワーリー儀式/Leela

 もうすぐインド最大の祭り、ディーワーリーがやって来る。今年は11月4日(月)である。ただ、「インド最大」と冠することのできる祭りはいろいろある。ホーリー、ダシャヘラーを初めとして、ラクシャー・バンダン、ジャナマーシュトミーなどなど・・・。とにかく毎月毎月いろんな祭りが目まぐるしくあるので、何が大きな祭りで何が小さな祭りなのか分からなくなって来る。しかし、クリスマスを除けば1年の最後を締めくくる大きな祭りである点、そしてインド人の暦から行って大晦日&新年にあたる点から言って、ディーワーリーがインド最大の祭りに最もふさわしいと言えよう。

 ディーワーリーは言わば決算の日である。商店はディーワーリーまでの売り上げで帳簿を閉じ、ディーワーリー後から新しく会計を付け始める。金を借りている人は、ディーワーリーまでに返さないと利息が数倍になってしまう。使用人を雇っている人は、ディーワーリーのときにボーナスを与えなければならない。ディーワーリーのお歳暮を贈りあう習慣もあるし、ディーワーリー辺りから爆発的に結婚式の数が増えるので、1日3回結婚式に出席しなければならないなんていう日もあるくらい忙しくなる。とにかく金の動きが激しいときだ。この時期、ギャンブルも盛んに行われる。子供たちは花火や爆竹で遊ぶのに忙しい。

 金が入用になる時期なので、普段は銀行にあるお金をこの時期は家に現金の形で置いていることが多い。また、財布に多くのお金を入れて出歩く機会も多い。よって、それを狙った泥棒、スリ、空き巣なども増える時期である。戸締りには特別用心し、極力人混みを避ける努力をするべきだ。

 ・・・と思っていたら、遂に僕もやられてしまった。アルカカット一生の不覚!空き巣に入られてしまったのだ。時期は多分アジメール旅行をしていたとき。アジメール旅行から帰ってきた後、部屋の冷蔵庫の上に置いてあった50ルピーの新札の束がなくなっていたのに気付いた。インドでは少額の買い物で500ルピー札や100ルピー札を使うと、相手にお釣りがなくて困ることが多いので、一番使いやすい50ルピー札の束を常備していたのだ。出掛けるときに財布を確認して、細かいお金が少ないな、と思うと、そこから50ルピー札を抜き出して持って行ったりしていた。その50ルピー札の束がそっくりそのままなくなっていたのだった。しかしそのときは、もしかしたらアジメール旅行に行く前に使い果たしてしまったかもしれない、とか、むき出しで置いておくのは無用心だからどこかにしまっておいたのかもしれない、とか考えていた。今から考えてみれば呑気なものである。そして今日の朝初めて気が付いたのだが、ディーワーリーのために用意して、部屋の片隅に置いておいたロケット花火の束もなくなっていたのだ。その他、特になくなっている物はなかった。よって、ロケット花火と50ルピーの新札の束(おそらく1000ルピーは残っていたのではないか)が紛失したことになる。

 そのとき僕は旅行中で、ノートPC、デジカメなどの高価な品は全部旅行に持って行っていた。その他高価な品で盗まれる可能性があったものといえば、買ったばかりの携帯電話だ。しかし携帯電話は幸い無事だった。個人的に日本製のペンも盗まれると痛かったが、これも無事だった。とにかく、お金と花火だけが盗まれたということだ。犯人像は容易に想像が付く。きっと子供だろう。

 アジメール旅行中、もちろん僕は戸締りをしていた。しかし唯一抜け道があった。実は僕のバスルームの天窓にはガラスが付いていない。入居時からずっとガラスが付いていないままだ。夏の間はそこから風が入ってきて涼しかったので放置しておいたが、去年の冬には冷たい風が入ってくるため新聞紙を貼り付けて塞いでいた。今年のホーリー辺りに、その新聞紙がはがれたのか外したのか、とにかく窓ガラスがない状態に戻り、現在にいたっていた。その内ガラスを付けてもらおうと思っていたのだが、きっかけがなくて延ばし延ばしになっていた。その窓は子供なら簡単に通り抜けができる大きさだ。そしてその窓は隣の部屋の窓と、狭い吹き抜けを挟んで向かい合わせになっている。僕の隣の部屋には今現在入居者がいない。ドアも開けっ放しになっている。隣の部屋に入って、僕のバスルームの向かい側の窓を見てみると、そこから簡単によじのぼって僕の部屋に侵入できそうだ。つまり、隣の部屋が空いた今年8月から今にいたるまで、僕はずっと戸締りをせずに外出していたのと同じことになる。今から思うと、これだけの被害で済んだのは奇跡かもしれない。泥棒に入られたことをネガティブに考えるよりも、ポジティブに考えた方がいいだろう。

 一応大家さんにそのことを報告した。大家さんは「きっとどこかに置き忘れたのだろう」「泥棒が入ってくることは有り得ない」とあまり真剣に相手にしてくれなかったが、とにかくすぐに窓ガラスを付けさせるように頼んでおいた。ディーワーリーの後になってしまうようだが。



 今日はPVRアヌパム4で「Leela」という映画を見た。インド人監督、アメリカ在住インド人が主人公、言語はほとんど英語で、少しヒンディー語が混じる、というヒングリッシュ映画だった。出演はディンプル・カパディヤー、アモール・マトール、ディープティー・ナヴァル、ヴィノード・カンナー、グルシャン・グローヴァー。この中で僕が知っているのはディンプル・カパディヤーぐらいだ。「Dil Chahta Hai」でアクシャイ・カンナーの恋人役を務めたおばさんで、トゥインクル・カンナーのお母さんである。




ディンプル・カパディヤー(左)と
アモール・マトール(右)


Leela
 クリス(本名クリシュナ、アモール・マトール)はアメリカ生まれのインド人。インド人としてのアイデンティティーは全くゼロで、アメリカ人として生まれ育っていた。両親は離婚しており、クリスは母親チャイタリー(ディープティー・ナヴァル)と共に暮らしていた。父親のジャイ(グルシャン・グローヴァー)は時々クリスに会いにやって来るだけだった。

 クリスの通っている大学に、ムンバイー大学からリーラー(ディンプル・カパディヤー)という講師がやって来る。リーラーの授業を受講している内にクリスはリーラーに惹かれるようになり、インド文化にも興味を示し出す。実はリーラーの夫は有名な歌手ナシャード(ヴィノード・カンナー)だった。

 リーラーは夫をインドに残してアメリカに来ていた。毎日夫に手紙を書いて送っていたが、次第に夫との間に溝を感じるようになって来る。また、クリスとは親しい仲になっていく。そしてある夜夫の家に電話したときに知らない女が電話に出たことをきっかけに、リーラーはクリスとベッドを共にする。

 次の朝、家に帰ったクリスが見たものは、母親のボーイフレンドだった。クリスは自分に隠れてボーイフレンドを作っていた母親を嫌悪し、家を出る。父親の元に身を寄せたクリスだったが、父親もアメリカ人のガールフレンドを作っていた。

 そんなとき、リーラーの夫ナシャードがアメリカにやって来る。ナシャードはクリスとリーラーが一夜を共にしたことを知るが、怒りもせずにそれを受け入れる。ニシャードが身内で小さなコンサートを開いたとき、クリスはギターで演奏に参加する。

 リーラー教授の授業も終わり、リーラーは夫とインドへ帰った。クリスは最後にリーラーに「I Love You」と打ち明けるが、所詮適わない恋だった。その後、クリスと母親のチャイタリーもインドへ行くことになり、空港のカウンターで名前を聞かれたクリスは答える。「僕の名前はクリシュナです。」

 アメリカ生まれのインド人、俗に言うABCD(American Born Coufused Desi)の若者クリスと、インドからアメリカにやって来た崇高な雰囲気の女教授リーラーが主人公の物語だった。クリシュナという名前の少年が、いかにもインドっぽい名前を嫌って自分のことをクリスと名乗るのは、先に公開された「American Desi」と全く同じだった。偶然にしてはできすぎだ。おそらくアメリカではよくあることなのだろう。最初クリスはインドの文化に全く共感を覚えていなかった。セリフ中には、以前クリスがインドに行ったときのことが語られる。曰く「最悪だった」と。でもその一方でクリスはサロードを習っており、けっこううまかったりする。

 クリスのインドに対する見方が180度転換するきっかけとなったのが、リーラーとの出会いである。クリスはリーラーからインドの昔話を聞いたり、ヨーガの呼吸法を教えてもらったりしている内に、リーラーに恋するようになる。そしてリーラーが自宅を訪れるときに、無理してクルターを着たりする。

 だが、クリスは18、9の少年、リーラーはもう40過ぎのおばさんである。まさかこの2人の間で恋愛まで発展するとは思ってもみなかった。そういえば「Dil Chahta Hai」でもリーラーを演じたディンプルは、年下の男(アクシャイ・カンナー)と禁断の恋愛をする役だった。僕はてっきりこの映画は、他のヒングリッシュ映画と同じく、在外インド人2世の、インド人としてのアイデンティティーの葛藤がテーマになると思っていたのだが、その部分は序盤ですぐに解決されてしまい、あとは少年とおばさんの恋愛が主軸となる。だから、主人公をインド人にする必然性が、他のヒングリッシュ映画に比べて少なかったようにも思えるが、やはり主人公がインド人だったから、安易な映画にならずに済んだかもしれない。特にリーラーと夫のナシャードの存在が映画を際立たせていた。

 シーンとシーンのつなぎ目がラフで、ストーリーを追うのに想像力を働かさなければならなかったのは少しマイナス部分。難解な文学作品を読んでいる気分だった。だが、その独特の語り口に慣れてしまえば、あとはグッと惹き付けるものがある映画だ。

 音楽はジャグジート・スィン。有名なガザルの歌い手である。彼の音楽も映画をいかにもインドの深遠に誘うのに一役かっていた。見終わった後の気分は映画「カーマ・スートラ」に似ていた。割とタブーに触れるような筋で、ひとつ間違えばドロドロとした映画になってしまうところだったが、なぜか心がすっきりしていた。

 客の入りは50%程度。「American Desi」は今のところまだ上映され続けているが、この「Leela」もロング・ランになる力は持っていると思われる。

11月2日(土) マジック・カードの料金考

 携帯電話を買って約2ヶ月が過ぎた。特に故障もなく、順調に動いている。カロール・バーグの怪しいマーケットで買ったとはいえ、腐ってもパナソニック製、やはり信頼の置ける日本企業の製品を買ってよかった。

 しかし携帯電話を買ったおかげで世知辛い計算が常に頭を支配するようになった。いったいプリペイド・カードはいくらのを買った方がいいのか、ということだ。2002年11月現在、エアテルのプリペイド・カード(インド人はキャッシュ・カードと呼ぶことが多い)であるマジック・カードの料金体系は以下の通りだ。

カードの種類 通話可能料金 基本料 有効期間
315 193.80 106.20 30日
525 393.80 106.20 30日
1050 893.80 106.20 60日
2100 1893.80 106.20 120日
3150 2893.80 106.20 180日

 よく表を見てみると、本当によ〜く考えられて料金体系が作られていることが分かる。

 カードには有効期限が決められている。例えば315ルピーのカードを買ったとする。315ルピーのカードの内、106ルピーはいわゆる基本料金として引かれ、5%分は税金であり、結局193.80ルピー分の通話をすることができる。しかしこのカードの有効期限は1ヶ月で、カードを登録してから1ヶ月が経つと、残高は自動的にゼロとなる。だから1ヶ月で193.80ルピーを使い切る努力をしないといけない。また、カードの有効期限が切れるまでに新しいプリペイド・カードを購入しないと、登録が抹消されてしまう。あと、残高が50ルピーを切ると、送信ができなくなり、受信のみとなってしまう。

 有効期限と基本料があるおかげで、ユーザーは会社との壮絶な駆け引きをしなければならなくなる。315ルピーのカードをちびちび買っていくのが、残高を無駄にしない方法のように思われるが、カードを買うたびに106.20ルピーの基本料を取られているので、実は頻繁にカードを買うほど損をしていることになる。かといって高価なカードを買ってしまうと、今度はその通話料を有効期限内に使い切る努力をしなければならなくなる。電話しないと無駄になるから電話する、と言って電話するのは全く馬鹿げた話だ。企業の戦略に踊らされている。必要だから電話し、必要ないときは電話しない、という態度で臨んでいきたいものだ。

 ちなみにプリペイド・カード登録の方法はこうである。プリペイド・カードの表には、カリーナー・カプールやシャールク・カーンの絵がかいてあり、その裏に銀のスクラッチが付いている。購入後、そのスクラッチを削ると、下から11ケタの数列が出てくる。123に電話して、機械の音声に従ってその11ケタの数列を登録すると、購入したカード分の通話料が加算される。

 僕は初め携帯電話を買ったとき、315ルピーのカードを買った。9月29日のことである。193.80ルピーの通話が1ヶ月有効だった。だが、残高が50ルピーを切った時点で、また新しい315ルピーのカードを購入した。それが10月20日だった。つまり、約150ルピーを21日で使ったことになる。また、その間、ウッタル・プラデーシュ州旅行へ合計5日間行っていたので(デリー以外では僕の携帯は使えない)、実質的には16日間で150ルピーを使ったことになる。つまり、今の僕の携帯電話送受信頻度では、1ヶ月で300ルピーほど通話するという計算になる。

 来年の4月まで、半年のスパンで考えてみる。1ヶ月で300ルピー通話するということは、6ヶ月で1800ルピーということになる。どのカードがもっとも僕に適しているかと考えた際、まず315ルピーのカードは候補から消える。なぜなら、ほぼ半月に1回のペースでカードを買っていかねばならず、半年で3780ルピーほどかかる計算になる。1月ずつ525ルピーのカードを買っていくと、合計3150ルピー(この内、通話料金は2362.80ルピー、1月393.80ルピー分通話可能)。2ヶ月に1回、1050ルピーのカードを買っていくと、合計3150ルピー(通話料金は2681.40ルピー、1月446.90ルピー分通話可能)。2100ルピーのカードと1050ルピーのカードを組み合わせて買うと3150ルピー(通話料金は2787.60ルピー、1月464.60ルピー分通話可能)、半年有効の3150ルピーのカードを買うと2893.80ルピー分通話可能で、1月482.30ルピー分通話できる。こうして見てみると、結局3150ルピーのカードを一度に買ってしまうのが通話料金的に一番お得だということが分かる一方、1ヶ月300ルピーというペースに合ったカードは存在しないということも分かる。つまり、1ヶ月150ルピー前後の通話しかしない人は、1ヶ月ずつ315ルピーのカードを買っていくとちょうどいいが、1月300ルピー以上電話を使うのだったら、最初から3150ルピーのカードを買ってしまった方がいいということだ。そして1度3150ルピーのカードを買ってしまったら、1ヶ月に482.30ルピー分の会話をしなければならないということだ。

カードの種類 半年で使うお金 通話可能料金 1月換算
525 3150 2362.80 393.80
1050 3150 2681.40 446.90
2100 3150(2100+1050) 2787.60 464.40
3150 3150 2893.80 482.30


 そろそろ残高が50ルピーを切るので、またマジック・カードを買わなければならない時期になっている。今度は3150ルピーのカードを買おうかな・・・。なんか企業に踊らされている気分だ・・・。

11月3日(日) アンサル・プラザ危機一髪

 ディーワーリー・イヴ。街を歩いていると「ハッピー・ディーワーリー」と声を掛けられる。マーケットへ行くと、まるでお伽の国の市場のように美しく飾り付けられており、客がひっきりなしにやって来ては、金ぴかの包装紙に包まれたお土産を抱えて出て行く。夕方になると、町のあちこちから爆竹や花火の音が聞こえてくる。家々は競うように色とりどりの電球を軒先に取り付けており、どこを歩いても光と音の洪水である。

 ディーワーリーはもう2回目なので、去年よりは驚きは少ないはずなのだが、やはりインドの花火の火薬の多さには時々びっくりすることがある。こんなのが町のあちこちから聞こえてくるので、もう戦争状態である。まるで爆撃を受けているかの気分になる。もし今、パーキスターンがいきなり攻め込んできて、デリーを空襲し始めたとしても、僕は気付かず家でのんびりしていると思う。テロリストが今テロを起こしても、人々はあまり気が付かないのではなかろうか。

 そんなことを思いつつ、今日はやらなくてはならない仕事があったので、ほとんど家にいた。そうしたら、本当にデリーでテロ事件が起こってしまった。場所は僕の家から徒歩15分のアンサル・プラザ。以下、rediff.comからの翻訳である。

南デリーでテロリスト2人殺害される
 警察の発表によると、日曜日の午後、南デリーのラシュカレ・タイバのテロリストと思われる二人が南デリーの高級マーケットで殺害された。

 事件は南デリーのショッピング・モール、アンサル・プラザの地下で午後7時31分に起こった。

 「一般市民に負傷者はいません」と警視総監補佐のアショーク・チャンドは語った。

 事件後、現場の警備を強化したものの、業務はテロリスト殺害後数分で正常に戻った。

 「我々は、ディーワーリー・イヴに、どこかの混みあったマーケットでテロが起こるという情報を得た。また、それがサウス・エクステンションかアンサル・プラザであるという具体的な情報もあった。警察は事件を未然に防止するために、20〜25人の私服のコマンドー部隊を配置した。」

 「午後7時過ぎ、2人の男が乗った白いマルチ800が地下駐車場に入ってきた。警察が彼らを行く手を遮ってチェックをしようとしたところ、彼らは多くの店がある上の階へ続く道へ走り出した。」

 「その後武装した男たちが警察に向かって発砲してきた。」クマール氏は言う。

 1人の警官がこの事件で負傷した。

 「我々の情報によると、その犯人は20〜25歳のラクシャレ・タイバのメンバーのようだ。彼らの所持品の照会が済めば、さらに詳細が分かるだろう。」

 「1丁のロシア製AK−56ライフル、2丁の拳銃、2丁の装填済みライフル、中国製の拳銃用弾倉、マーケットの位置がマークされたデリーの地図が死体から発見された。」

 死体は全インド医科大学(AIIMS)に送られた、とクマール氏は言う。

 事件が起こったとき、アンサル・プラザはディーワーリー・イヴのショッピングを楽しむ人々で溢れかえっていた。

 証人によると、事件の間、各地に配置された警備員は「姿を消した」という。


 記事によると、未然に警察が防いだということで、正確にはテロ未遂事件ということになるだろう。デリー警察天晴れなり!発生場所も地下駐車場なので、どうもアンサル・プラザに来ていた客は、事件が起こっていることに気が付かなかったかもしれない。

 それにしても、家の近くでテロ事件が起こってビックリ。アンサル・プラザもサウス・エクステンションも、僕の縄張りじゃないか!ほとんど庭みたいなもんだ。そんなところでテロ事件が起ころうとしていたなんて、なかなかスリルがある。しかも昨日アンサル・プラザに行ったし、地下駐車場も行った。今日も昼頃、サウス・エクステンションに行った。今までデリーに住んでいてもテロが身近に思えて来なかったのだが、さすがに今回の事件は実感が沸いた。

11月4日(月) 火薬霧ディーワーリー

 待ちに待ったわけでもないが、ディーワーリーがやって来た。

 ディーワーリーの日が祝われる理由はいろいろある。ダシャヘラーの日にラーヴァナを倒したラーマ王子が、故郷のアヨーディヤーへスィーターと共に戻ってきたのがこの日である、というのが通説だ。他に、この日に乳海攪拌が行われ、海の中からラクシュミーが生まれたとも言われている。つまりラクシュミー女神の誕生日である。この神話はあまり一般的ではないが、裏話はどうあれ、とにかくラクシュミーに関連した祭りである。インドの暦もディーワーリーから始まる。インドの正月と言ってもいい。

 故郷に帰ってきたラーマ王子を町に迎え入れるため、そして富の女神ラクシュミーを家に迎え入れるため、夕方になるとヒンドゥー教徒は家の軒先に灯火を灯し、家中のドアや窓を開けっぱなしにする。そして日本では考えられない量の火薬が詰まった爆竹や花火を打ち鳴らす。

 ディーワーリーは「家族の祭り」として、他のヒンドゥー教の大きな祭りと一線を画している。ホーリーもダシャヘラーも、地域社会で祝う祭りである一方で、ディーワーリーは家族が一箇所に集まって全員で祝う祭りである。通りを歩いているだけでは、ホーリーと同じく爆竹を鳴らすだけの祭りに思えてしまうが、一度インド人の家庭でディーワーリーを共に祝えば、それが家族単位で個々に祝われる祭りであることが一目瞭然となる。

 去年のディーワーリーは大家さんの家族と共に迎えたが、今年はサンスターンの教師であるP先生の家へ行くことになった。P先生の家はデリー西部、ジャナクプリーにある。友人たちと5人でタクシーをチャーターして、夕方ジャナクプリーへ向かった。タクシーをチャーターしたのは、ディーワーリーのため、帰りの足がなくなるのを怖れてのこと。

 ディーワーリーの日は道が混んでいるかと思ったが、全く逆だった。道はガラガラ。ディーワーリー前の土日はもうどこへ行っても大混雑だったが、当日はみんなあまり移動しないようだ。やはり家族の祭りの性格が強いようだ。ちなみにドライバーはムスリムなので、ディーワーリーにはあまり関係がない。

 ジャナクプリーは広大で整然とした住宅街だった。住所を尋ねつつ何とか先生の家に辿り着いた。着くと同時に先生がいつもと変わらない格好で出てきて迎えてくれた。やはり教師ともなるといい生活をしているようで、ちょうどいいくらいの大きさの3階建て1軒家に両親と共に住み、3階を家賃で貸し出している。奥さんはなんかやたらと若く見えて、息子もなかなかハンサムだ。ブラーフマン一家で、社会的な地位も高く、いかにも幸せな一家という感じがした。

 奥さんもデリー大学でヒンディー語(文学?)を教えているので、夫婦共にかなりのインテリである。かえって奥さんの方が、普段インド人を相手に教えているので、語彙がハイレベルだった。ヒンディー語教育に関わる者として、2人は現在のインドの言語状況を憂いていた。昨今のインド人は母国語に誇りを持たず、他国の言語である英語を中心的に学んでいるのだ。デリーの一般的な私立学校では、ヒンディー語はサンスクリト語との選択科目に成り下がってしまっている。そういえば、僕の大家の息子のスラブは、ヒンディー語の辞書の使い方を知らなかった。これでいいのか、インド人!

 チャーイやミターイー、ナムキーンを出してもらった後、家族と一緒にディーワーリー・プージャーを行った。家の一間が日本で言う仏壇のようになっており、ヒンドゥーの神様の絵がたくさん飾ってあった。まず、ディーワーリーの縁起話(?)を説明された。これはたまたま僕たち外国人が来ていたからしてくれたのかもしれないが、どうも雰囲気からすると、正式には必ずプージャーの前にその祭りに関する話を聞かせるのかもしれない。その後、一人一人神様の絵の額に赤いティラクを右手の薬指で付け、花や供え物を与える。そしてみんなで楽器を演奏しながらアールティーを歌う。「オーム・ジャイ・ラクシュミー・マーター・・・」という歌だ。歌い終わると、また一人一人神様の前に立って、お盆の上に火を灯して、そのお盆を神様に向けてゆっくりと回す。それが終わると今度は一人一人額に赤いティラクと米粒を付けてもらい、プラサードをもらってプージャーは終わりとなる。

 こういう家庭的なプージャーは本当に心が温まる。特にみんなでハルモニウム、両面太鼓(ドーラク)やら小型のシンバル(マジーラー)やらウンコバサミにシンバルを付けたような楽器(名称分からず)を打ち鳴らし、ラクシュミー女神を讃えるアールティーを歌うところなんか、すごいよかった。P先生のお父さんはハルモニウムをお母さんはドーラクを上手に演奏していて驚いた。

 プージャーの後は夕食。祝い事のある日の料理は純ヴェジタリアン料理。油で揚げて浄性の高いプーリー、カチョーリーや、ジャガイモ、カボチャ、サツマイモのカレー、ダヒー(ヨーグルト)、キール(乳粥)などが出た。インドでは客を先に食べさせる習慣があるため、僕たちが食べているときは家族の人たちは誰も食事をせず、僕たちの給仕をしてくれた。インド人の家に招かれたときによくあることだが、インド人はこれでもか、これでもか、というほど食べ物を食べさせようとしてくる。「バス、バス(十分、十分)」と言って断っても、ああだこうだ言ってかなり強引に皿に盛ってくる。腹がパンク寸前になるまで詰め込まれるので、食べ終わったときは何か重い荷を降ろしたかのようにホッとする。

 夜になるにつれ、外から聞こえてくる爆竹や花火の音が激しくなって来た。ジャナクプリーの住む人のレベルは高そうなのだが、それなりに派手に祝っていた。太鼓を叩きながら門付けを求めてやって来る人もいれば、噂のヒジュラーもやって来てディーワーリーのバクシーシを要求したりする。日本の正月の獅子舞に似た光景である(僕はあまり獅子舞を体験したことはない世代だが・・・)。

 9時半頃、先生の家から帰った。やはり道はガラガラで、ジャナクプリーからガウタム・ナガルまで30分もかからなかった。あちこちで花火をしているせいで、デリー中はもうもうとした火薬の煙が立ち込めており、まるで霧のように視界が悪くなっていた。火薬霧と名付けよう。ガウタム・ナガルもやはり盛大にディーワーリーを祝っており、タクシーから降りて家まで帰る間の道はまるで戦場を歩いているかのようだった。

11月5日(火) オールチャーへ

 実は先週の土曜日から今週の水曜日まで、学校は5連休である。土、日は定期的な休みで、4日はディーワーリー休み、5、6日はバイヤー・ドゥージュという祭りがまたあって休みだ。いつもなら5連休があれば喜び勇んで休日をフルに活用して旅行へ出掛けてしまうところだが、ディーワーリーとホーリーのときの旅行は困難が多いことは重々承知しているし、やらなければいけないことが溜まっていたので、ディーワーリーまでは大人しくデリーにいることにしたのだった。しかしディーワーリーが終わったらもう遠慮なしに旅行に出発。今回の第一目的地はマディヤ・プラデーシュ州のグワーリヤル。併せてオールチャーにも行くことにした。旅程はデリー→ジャーンスィー→オールチャー→グワーリヤル→デリーに決定。

 予約した電車は2002ニューデリー・ボーパール・シャターブディー・エクスプレス。朝6時発である。朝4時起きで、5時前には家を出た。ところが、やはり昨日のディーワーリーの影響からか、オート・リクシャーの数が少ない!というか、いるべきところにいない!大通りに出て、やっと流しのリクシャーを捕まえた。だが、足元見られてニューデリー駅まで100ルピー。普通なら60〜70ルピーで行けるはずだ・・・。他にリクシャーもいないし、泣く泣くその値段で行くことにした。

 列車はガラガラで、なぜか白人旅行者の乗客(ほとんどフランス人)が多かった。よく考えてみたら、この列車は途中タージ・マハルのあるアーグラーを通る。デリーから日帰りでアーグラー観光をするのにちょうどいい列車なのだろう。アーグラーには8時頃到着した。だが、白人旅行者が全員アーグラーで降りるかと思ったらそうでもなく、途中のグワーリヤルや、僕と同じジャーンスィーで降りた人もいたし、ボーパールまで行く人もいた。彼らもなかなかマニアックな旅を楽しんでいるではないか・・・。

 ところが、昨日のP先生宅訪問が裏目に出てしまった。夕食を無理矢理たくさん詰め込まれたおかげで、すぐに下痢。列車の中で何度もトイレに行く羽目になってしまった・・・。本当に列車が空いててよかったと思う。インド人はトイレが長いから、したいと思ったときにトイレがなかなか空かないことが多いのだ。でも、インドに住む限り下痢はお友達なので、もう下痢ごときで僕は慌てない。今日は絶食をして、バナナを一本食べればたちまち治るだろう。

 11時頃ジャーンスィー駅に到着した。ジャーンスィーはマディヤ・プラデーシュ州の有名な観光地であるカジュラーホーとオールチャーへの中継地点となる土地だが、なぜかウッタル・プラデーシュ州に入っている。ジャーンスィーはラクシュミーバーイーという、対英戦線時代のヒロインで有名なのだが、特に見所もなく、今回は多分観光しない。駅から直接バス・スタンドへ向かい、そこでテンポ(小型の乗り合いタクシー)に乗ってオールチャーへ。ジャーンスィーからオールチャーまではわずか18Kmである。

 デリーからジャーンスィーへ向かう列車の中で、窓から外の景色をボーッと眺めていたときに、遠くに巨大な宮殿らしきものがチラッと見えた。だが、列車の角度が変わってしまい、すぐに見えなくなってしまった。あれは何だったんだろう、と思っていたのだが、オールチャーに近付くにつれて、そのとき見た宮殿の影が、オールチャーのものであることが分かってきた。なんと巨大で壮麗な宮殿!しかも、他にも立派な建物があちこちに立ち並んでいた。オールチャー自体はほとんど村と呼ぶべき規模の小さな町なのだが、その小さなバーザールを中心に、東西南北至るところに遺跡が点在していた。その中でも圧倒的に目を引くのが、ベートワー河の川中島に建っている要塞兼宮殿である。見た瞬間、僕はラーマ王子の住むアヨーディヤー城を連想した。




宮殿


 興奮冷めやらないまま、まずは荷物を置くために宿探し。田舎町なのでホテルの数はそんなに多くない。僕はバーザールに面したシュリー・マハーント・ゲストハウスに泊まることにした。一番上の階の、宮殿が見えるベランダがある部屋にした。1泊250ルピーと高めだが、部屋は申し分ない。

 早速宮殿を見に出掛けた。橋を渡り、門をくぐる。入場料はインド人5ルピー、外国人30ルピー。僕は簡単にインド人料金で入れさせてもらえた。そこには主に3つの宮殿があった。ジャハーンギール・マハル、ラージ・マハル、そしてラーイ・プラヴィーン・マハルである。その中でもジャハーンギール・マハルがもっとも壮麗で完成度が高い。壁一面に彫刻が施され、塗料もところどころ残っており、保存状態がとてもよい。17世紀の建築で、ラージャスターン様式だった。中空になっている中庭に立ったとき、アンコール・ワットを思い出した。




ジャハーンギール・マハル


 この宮殿の楽しいところは、けっこう自由に中を歩きまわれることだ。極度に観光地化されてしまった遺跡(例えばアーグラー城やアンベール城)などは、至るところに鉄格子が設置されて、観光客があまり自由に動き回れないようになっている。しかしオールチャーの遺跡は、ほとんどありのままの姿で公開されており、道や階段が崩れていない限り、基本的にどこでも自由に見て回れる。気分はまるでドラクエだ。迷宮を探検しているみたいで楽しい。僕はなるべく観光客があまり行かないような場所を探したりして、あちこち見て回った。その結果、お宝ではないが、いいものを発見した。宮殿の外壁に沿って突き出しているヘリの部分を歩いて行ったら、コンドルと、コンドルの巣を見つけた。




コンドル?
とにかく大型の鳥


 また、ラージ・マハルでは素晴らしい壁画を見せてもらった。普段は施錠された扉の奥にあるのだが、ちょうど団体客が来ており、その扉を開けるところだったので、どさくさに紛れて僕も見せてもらえた。そこはラーニーのプージャー室で、壁から天井まで、びっしりとヒンドゥー教の神様の絵が描かれていた。これもまた保存状態がよく、驚いた。

 オールチャーは宮殿だけではない。宮殿から河を挟んで反対側、つまりバーザールのすぐそばに、これまた立派で古そうな寺院が建っている。チャトゥルブジ寺院である。チャトゥルブジ寺院のすぐ横には、ラーム・ラージャー寺院という比較的新しい寺院も建っていた。




チャトゥルブジ寺院


 僕はオールチャーに来るまで全く知らなかったのだが、なんとオールチャーにはアヨーディヤーから運ばれてきたラーマの神像が祀られている。団体客のガイドの話を盗み聞きしている内に発覚し、自分で現地人に聞いて調べてみたら、どうも本当らしい。思わぬところでこの前訪れたアヨーディヤーの名前が出てきて驚いた。おそらく、アヨーディヤーにあったラーマ寺院がイスラーム教徒によって破壊の危機にさらされたとき、密かにご本尊であるラーマの神像を避難させ、ヒンドゥー教の王国ブンデール・カンドの領土だったオールチャーに隠したのだろう。「オールチャー」とは「隠された場所」という意味らしい。

 以前、ラーマの像はチャトゥルブジ寺院に安置されていた。もともと宮殿として造られた建物だが、アヨーディヤーから持って来たラーマの像を一時的に置いたら、像が不思議とそこから動かなくなってしまったらしい。そこでここをラーマの神像の安置場所にすることにしたそうだ。ところが、その後、隣に新しいラーム・ラージャー寺院が建設されると、ラーマの像はそちらへ移されたらしい。・・・それじゃあ動いてるじゃないか!と突っ込みを入れたくなった。

 とにかく、そのおかげでオールチャーはラーマ信仰の聖地となった。そして昨日はちょうどラーマがアヨーディヤーに帰還したことを祝う祭り、ディーワーリーだった。ということで、実はオールチャーはインド人巡礼者で溢れ返っていた。オールチャーの町には、孔雀の羽を持ったインド人の集団があちこちをうろついており、至るところで仮装した人々が輪になって踊っていた。ディーワーリーは昨日で終わったが、ディーワーリーを祝う祭りはあと数日続くらしい。ラーマとオールチャーの関係が分かるまでは、なぜこんな田舎町にこれほど多くの人々がいるのか全く理解できなかったほどだ。でも、そのことが分かってからは、この時期に偶然にもオールチャーに来ることができたことを感謝した。「ラーマーヤナ」」ではラーマは昨日アヨーディヤーに帰還したが、現実のインドでは、ラーマは未だにオールチャーという森林に囲まれた町に隠れ住んでいたのだ。ラーム・ラージャー寺院は僕も入ることができたので、遠慮なく入ってラーマの神像を参拝しておいた。・・・でも、もしアヨーディヤーにラーム・ジャナムブーミ寺院ができたら、ここの神像を持って行ってしまうのだろうか?もうこのラーマ像はオールチャーに根付いてしまったため、それは難しいと思うが・・・。




ラーム・ラージャー寺院


輪になって踊る人々


 当初、オールチャーはグワーリヤル観光のついでぐらいに考えていたのだが、なかなかどうして今まで訪れたインドの観光地の中でもトップ・クラスで印象がよい。田舎で、あまり観光地化が激しく進んでおらず、人々も素朴で、何より第一級の遺跡がゴロゴロしている。それに加えてヒンドゥー教の隠れた聖地でもある。本当に来てよかった。

11月6日(水) オールチャー→グワーリヤル

 インドの遺跡の開門時間は「日の出から日没まで」であることが多い。非常に分かりやすくて理に適った時間感覚だと思う。オールチャーでもそうかと思って、日の出を見るためにチャトゥルブジ寺院へ行ってみた。チャトゥルブジ寺院の屋上からはオールチャーを一望できて、ちょうど太陽の昇る方向に宮殿を見ることができる。絶好のサンライズ・ポイントだと思って行ってみたのだが、門は閉まっていた。そこで今度はラージ・マハルの方へ行ってみたのだが、そこも閉まっていた。よく見てみたら、オールチャーの遺跡の開門時間は9:00am〜5:00pmだった。

 そうこうしている内に日は昇ってしまった。特に日の出を絶対に見たかったわけでもないので、別に気にしない。僕はスケッチをしに早朝から宮殿に来ていたのだ。数ある遺跡の中でも、やはり第一のターゲットはジャハーンギール・マハルである。昨日一通り廻った中では、チャトゥルブジ寺院の屋上からか、ラージ・マハルの屋上から眺めるといいと思った。しかし、どちらも閉まっていたので、ジャハーンギール・マハルの東側にあるハマーム・カーナー(沐浴場)の屋上に上ってスケッチをすることにした。3時間ほどで絵は完成。なかなかの傑作に仕上がった。

 既に10時になっていた。朝食を食べた後、オールチャー郊外の遺跡を少し見て廻ろうと、まずはチャトリーへ行った。オールチャーの歴代のマハーラージャの記念碑である。ヒンドゥー教徒は一般に墓を作る習慣はないが、ラージプート族は墓の代わりに記念碑を建てる習慣がある。ラージャスターンでよくその手の記念碑を見かける。チャトリーはオールチャーの南の離れたところにある。わざわざ歩いて行ったのだが、残念ながら門が閉まっていて中に入れなかった(怒)。




チャトリー


 チャトリーからさらに歩いて、今度はオールチャーの西の方にあるラクシュミー寺院へ行った。この寺院は変わった建築で、正方形の敷地の中心に5階建ての灯台のような塔が建っている。要塞のような壁で四方が覆われており、玄関は角にある。建築だけでなく、中も面白い。壁や天井にヒンドゥーの神話、オルチャーやジャーンスィーの風景などが生き生きと描かれており、これがまた保存状態が非常によい。この寺院をガイドしてくれた人は、「インドの壁画の中で、このラクシュミー寺院の壁画が一番保存状態がよくて素晴らしい」と胸を張っていた。修正や修復は一切していないらしく、全てオリジナルの塗料の色らしい。ラクシュミー寺院だけでなく、オールチャーの遺跡は本当にまるでタイムカプセルに入っていたかのようだ。




ラクシュミー寺院


ラクシュミー寺院内の天井画
ラーマ軍とラーヴァナ軍の戦闘


 ジャハーンギール・マハルの他に、チャトゥルブジ寺院やラクシュミー寺院のスケッチも描きたかったが、時間制限のある旅行のため、泣く泣く次の機会に描くことにして、昼頃にはオールチャーを去った。オールチャーは個人的に再訪する可能性が高い場所だ。

 ジャーンスィーでグワーリヤル行きのバスに乗り込んだ。僕は幸い座ることができたが、車内は超満員状態で非常に窮屈だった。窓際の席だったので、景色を見ながらバス移動することができ、おかげで途中通ったダティヤーという町でけっこう立派な宮殿を発見した。また、ところどころに古そうなヒンドゥー寺院を見かけた。マディヤ・プラデーシュ州はけっこうヒンドゥー教の古い寺院が保存されている場所かもしれない。ヒンドゥー色の強い地域であることは確かだ。

 バスでも列車でも、移動中、窓から風景を眺めるのは僕の楽しみのひとつだ。しかし、どうもインドでバス移動中に窓際の席に座るのは、あるリスクを伴う。ウッタル・プラデーシュ州を旅行していたときにも僕はその被害を被った。今回はさらにひどい被害を被った。何のリスクかと言うと・・・ゲロ被弾率が圧倒的に高くなることだ。インド人もやはり車酔いする人はするらしく、酔うと走行中でも窓からゲロを外に向けて吐く。ローカル・バスは自然のA/Cを活用すべく、全ての窓が全開なので、そのゲロの飛沫は風に乗って後ろの席まで届く。なぜか僕の前に座っている人が車酔いする傾向にあり、僕は困っている。今回も突然前の席の人が外に向かってゲロを吐き始め、その飛沫が大量に僕に降りかかってきた。「ちゃんと言ってから吐け!」とは言ったが、かかってしまったものは仕方ない。泣き寝入りするしかない・・・。

 グワーリヤルには5時過ぎに到着した。ジャーンスィーから100Km程度なのだが、途中停まり停まり進んで行ったので、結局4時間ほどかかった。インドのローカル・バスの時速は大体30Kmと考えた方がいいだろう。

 ところで、グワーリヤルは英語で「Gwalior」と書く。だから普通に日本人が発音したら、「グワリオール」くらいになるのではなかろうか。僕も「グワーリオール」と読んでいた。だが、ヒンディー語ではよく見たら「Gwaliyar」、つまり「グワーリヤル」と表記されていた。実際、「グワーリオール」と発音してもなかなか現地人に通じない。よって、ここではグワーリヤルと表記することにした。

 グワーリヤルには巨大な砦があるという話だったが、グワーリヤル市内に入って、バス・スタンドでバスから降りて、オート・リクシャーに乗ってホテルへ向かっても、砦らしきものは全く見えなかった。グワーリヤルの第一印象は、だだっ広くて内容があまりない街、という感じだった。今日はまだ新市街しか行っていないのでそう感じるのかもしれないが、なんか西デリーをさらに寂れさせたような雰囲気の街に思えた。ホテルDMという何の変哲もないホテルに宿泊することにして、今日はそのまま部屋でゆっくり休んだ。

11月7日(木) グワーリヤル

 朝7時頃、ホテルを出て砦へ向かった。ガイドブックには、砦は朝8時からオープンすると書いてあったので、それに合わせて行った。砦の入り口はグワーリヤルの旧市街の中にあり、急な坂をずーっと登っていかなければならなかった。朝の内に来ておいてよかった。もし日中この坂を登ったら2、3倍の労力が要っただろう。砦の上にはいくつかの宮殿・寺院跡と、小さな町、そしてグワーリヤルのマハーラージャーであるスィンディヤー王家が経営する学校がある。




グワーリヤル砦


 今まで僕はインドの巨大な砦をいくつか見てきた。ジャイプルのアンベール城、アーグラーのアーグラー城、ジャイサルメールの砦、ジョードプルのメヘラーンガル城、ハイダラーバードのゴールコンダ城などなど。グワーリヤルの砦はその中でもトップ・クラスの巨大さだ。

 砦の中に住んでる人もいることから、砦の門は24時間開きっ放しのようだった。ところが、宮殿、寺院、博物館などは10時オープンだった。それまで暇だったので、砦の門をスケッチして時間を潰した。2時間半ほどで完成。これもなかなかの傑作。今回の旅行では傑作を2つ描くことができた。描き終わったときには11時頃になっていた。

 グワーリヤル砦の宮殿・寺院の入場料は共通で外国人100ルピー、インド人5ルピーである。僕は問題なく5ルピーで入場できた。まずはグワーリヤル砦の一番の見所であるマン・スィン・パレスへ。外見は青いタイルが所々に残っており、非常に壮麗な雰囲気なのだが、内部はちょっと期待はずれだった。だが、この宮殿には拷問部屋があって、いかにも映画に出てくる拷問部屋のイメージにピッタリだったので楽しかった。別に拷問器具などは置いてなかったが・・・。




マン・スィン・パレス


 その他、砦にはいくつかの宮殿跡、寺院などの遺構や2つの博物館があったが、取り立てて目を見張るようなものはなかった。唯一、サース・バフー寺院は細かい彫刻が外壁から内壁まで施されていてよかった。とにかく砦内部は広いので、歩くのに疲れてしまった。

 グワーリヤル砦の歴史はそのまま激戦の歴史だ。神話では、5世紀に丘の上に住んでいたグワーリパーという隠者が、ラージプートの王スーラジ・セーンの病気を治したことから、王は感謝してその丘に砦を築き、隠者の名を取って新しい街を作った。その後、度重なるトルコ人の侵入を経験し、遂に砦は陥落し、ラージプートの習慣に従って、男も女も皆玉砕するジャウハルを行った。ラージプートのトーマル王家が砦を再び奪回してからは安定し、マン・スィン・トーマル(1486−1516)のときに王国は絶頂期を迎えた。しかしマン・スィンの息子の時代にローディー朝の侵略を受け、ムガル朝にはグワーリヤル砦は監獄として使用された。マン・スィン・パレスの中にあった拷問室はこのときのものだと思われる。ムガル朝の力が衰えるに従ってグワーリヤル砦は紛争地域となり、18世紀にマラーター族のスィンディヤーがグワーリヤル砦を手に入れた。しかしイギリスの侵略の手も伸びてきており、ジャンスィーの姫ラクシュミーバーイーがジャンヌ・ダルクよろしくイギリス軍に立ち向かい、勇敢な死を遂げたのもこの砦である(1858年)。その後砦はイギリスの手に渡ったが、インド独立後、スィンディヤー王家のもの(というか政府の管轄か)となっている。

 砦から降りて、昼食を食べた後、今度はスィンディヤー王家の宮殿へ行くことにした。グワーリヤルのマハーラージャーであるスィンディヤーが住むジャイ・ヴィラース・パレスは砦の外、グワーリヤル市街にある。その宮殿の一部が博物館となっており、一般に公開されている。オート・リクシャーに「パレス・ミュージアムに行け」と言ったら、「パレスかミュージアムか?」と聞かれたので、「ミュージアム」と答えた。そうしたら、ジャイ・ヴィラース・パレスの博物館ではなく、別の博物館に連れて行かれてしまった。最初はそこがジャイ・ヴィラース・パレスの博物館だと思っていたので、そのオンボロな建物を見て「え、これがマハーラージャの住む宮殿・・・?」と目を疑ってしまった。チケット売り場の人に、「ここがスィンディヤー王家の博物館ですか?」と聞いたら、「そうだ」と答えた。どうも本当にここにもスィンディヤー王家関連の品物が展示されているみたいだ。入場料は5ルピー。中を見てみたが、あまりに寂れていて、遂にここがジャイ・ヴィラース・パレスの博物館ではないことに気付くにいたった。

 ジャイ・ヴィラース・パレスは、その偽博物館から少し離れた場所にあった。さすがに現在インドでもっとも裕福なマハーラージャーの住む宮殿だ。期待を裏切らない広大な敷地、白亜の壮麗な建築、玄関から一直線に続く並木道・・・そこをトボトボ歩く自分の存在が申し訳なくなってくるほどだ。博物館の入場料は外国人175ルピー、インド人25ルピー、カメラ代25ルピー。ここでも僕はインド人料金で入場。インドに住んでインドを観光するとかなりお得だ。




ジャイ・ヴィラース・パレス


 博物館は、はっきり言ってスィンディヤー王家万歳三唱的雰囲気だった。歴代のマハーラージャーの肖像があるのはいいが、今の王族のスナップ写真が至るところに飾ってあり、スィンディヤー王朝を讃える歌が壁に楽譜付きで書いてあったり、「買いすぎて余ってるから飾ってるんじゃないの?」と突っ込みたくなるほど多くの贅沢な調度品が展示してあったり、女性の裸体画や裸体像を集めた部屋があったり、天井から壁から家具から、扇風機まで金でできた部屋があったり、超巨大なシャンディアがあったり、もうなんかセンスがおかしかった。94年に行われたスィンディヤー王家の息子とヴァローダラー王家の娘の結婚式の写真を見ると、コングレス党総裁ソニア・ガーンディーやらブータン国王やらが出席していた。ここまで来ると、もう「あっ、そう」と軽く聞き流すしかない・・・。




黄金の部屋


 しかし中でもダイニング・ホールの中央に置かれていた小型の線路はよかった。線路の上を酒瓶の入った模型列車が走り、パーティーのときに広大な会場の人全てに酒が行き渡るように工夫されていた。だが、全体として、「ふっふっふ、どうだ、まいったか」という自慢げな含み笑いをする、マハーラージャーの顔が浮かんでくる博物館だった。この勢いなら絶対「スィンディヤー王家のホームページ」みたいなウェブサイトもあるはずだ、と思って後で調べてみたら、やっぱり「The Scindia Family」(www.scindiafamily.org)というのがあった。だが、現在製作中のようで、ページは開けない。




ダイニング・ホールの線路
酒瓶を積んだ模型列車が
グルグル回る仕掛け


 4時頃、ホテルをチェック・アウトして駅へ向かった。4:45発2179タージ・エクスプレスに乗ってデリーに戻った。10時前にはニザームッディーン駅に着き、こうして今回の2泊3日オルチャー・グワーリヤル旅行は終わった。オールチャーもグワーリヤルもいいところだった。いい絵も描くことができて、非常に実りの多い小旅行だった。

11月8日(金) Jeena Sirf Merre Liye

 昨夜旅行から帰ってきたばかりで今日は朝から学校へ行き、その後映画を見に行くという、ハードなスケジュールだ。ハードと言っても旅行も映画もヒンディー語の勉強も僕の趣味に等しいので、楽しい毎日である。今日は「Jeena Sirf Merre Liye(私のために生きて)」を見に行った。

 この映画は先週の金曜日から封切られた。主演はカリーナー・カプールとトゥシャール・カプール。「見に行こうかな〜、どうしようかな〜」と迷っていたが、旅行している内に封切から1週間が経ち、まだ公開されているところを見ると、少なくとも超駄作でないことが予想できた。インド映画界は、駄作は封切1週間で姿を消すという厳しい市場なのだ。カリーナー・カプールが出ていたことも、多少後押しになった。もっとも、今週は新しいインド映画が公開されなかったので、そのおかげで生き残っているのかもしれないが・・・。




トゥシャール・カプール(左)と
カリーナー・カプール(右)


Jeena Sirf Merre Liye
 主人公は、カラン(トゥシャール・カプール)とプージャー(カリーナー・カプール)。物語は2人が子供だった時代から始まる。カランはとある避暑地に住む孤児だった。プージャーの家はムンバイーに住む大金持ちで、毎年夏になると避暑にそこへやって来ていた。カランとプージャーは毎年会えるのを楽しみにしており、子供ながらお互いに愛情を抱いていた。ところがプージャーの父親は娘がカランのような下賤な子供と会うのを嫌がっていた。

 ある年からプージャーは避暑地に来なくなった。プージャーはイギリスへ渡り、オックスフォード大学に留学していた。一方でカランはムンバイーの富豪に養子にされており、義理の父母や妹と共に、まるで本当の血縁のように幸せに暮らしていた。プージャーもカランも、ずっと会えなくても、連絡もとれなくても、お互いのことを愛し合っていた。やがてプージャーは留学を終えてインドへ帰ってくる。

 プージャーがインドに帰ってきたのは、ただカランを探すためだった。プージャーはかつて毎年訪れていた避暑地へ行ったが、そこにカランの姿はなかった。そこでプージャーは自分の幼少時代からの思い出を小説にして雑誌に投稿し、掲載してもらった。しかしその小説はカランの目に触れることがなかった。だが、偶然にもカランとプージャーは顔を合わせていた。ただ、ずっと会っていなかったため、お互いに気が付かなかった。

 最初にそれに気が付いたのはプージャーだった。しかしプージャーはわざとそれを内緒にしてカランに接近する。カランはプージャー本人の目の前で、自分の幼馴染みのプージャーへの愛情を語る。それを聞いてプージャーは喜びを噛み潰していたのだった。

 カランがプージャーのことに気が付いたのと時を同じくして、プージャーの父親も娘の恋人があのカランであることに気が付く。ちょうど部下の娘がカランの妹と縁談をまとめているところだった。プージャーの父親はその結婚を無理矢理破談にさせる。そしてカランに言う。「もし妹の結婚を成就させたいのだったら、今後一切プージャーには会ってはならない」と。悩んだカランはプージャーを呼び出し、プージャーの心をわざと傷つけ、自分を嫌いにさせる。こうしてカランの妹は結婚することができるようになった。

 しかし、カランが自分に冷たく当たったのは父親の仕業であることを知ったプージャーは、家を飛び出してカランの元へ駆け込んだ。そこではちょうど妹の結婚式が行われていた。そこへプージャーの父親も駆けつける。父親はカランに向けて銃を放つ。その銃弾はカランの胸に命中し、カランは瀕死状態となる。病院に運び込まれたカランはすぐに手術を受けるが、衰弱し、遂に息を引き取ってしまう。そこへプージャーが来て、神様に祈る。するとカランは息を吹き返し、ハッピー・エンドとなる。

 お粗末な映画だった。神様に祈ると病気が治ってしまうわ、孤児の少年が養子にもらわれてムンバイーに行けてしまうわ、果ては死んだ人間が生き返ってしまうわ、とやりたい放題。でもこれはインド映画だから、ということで笑って許そう。ストーリーに山場がなかったことも、まあいいとする。プージャーが、カランに自分の正体を隠して接近するところなんかは、こっちが赤面してしまうくらいしょうもなかったが、目をつむろう。だが、決定的に許せなかったのは結末。カランがプージャーの祈りによって生き返るのはいいのだが、カランを撃った父親はどうなったのか、全く描かれずにエンディングになってしまった。彼は逮捕されたのか?カランとプージャーの結婚は了承されたのか?こんな中途半端で終わってしまっては、むずがゆい気分がして気持ちが悪かった。

 カランを演じた男優トゥシャール・カプールと、カランに恋しながらも、途中からはプージャーとカランの恋を応援する役マリカーを演じたリーマー・ランバーという新人女優の演技力は酷かった。トゥシャールのあの棒読みのセリフはどうにかしてもらいたい。リーマーにしても、全く個性を感じない。脇役のまま一生を終える女優に思える。

 これらの大根役者に囲まれたおかげか、カリーナー・カプールがやたらと輝いて見えた。踊りもうまくなったし、演技力もなかなか身に付いている。ボリウッド随一の映画家系であるカプール一家に生まれ、姉カリシュマー・カプールに続いて大々的にデビューしながら、人気先行で今まであまりヒット作と評論家の評価に恵まれていないカリーナーだが、いつの間にか密かに大成長を遂げたように思えるのは気のせいか。カリーナーのいいところは、どんな役でも気兼ねなく演じれそうなところだ。イケイケでタカビーなセクシー・ガールがもっとも彼女の得意とする役だが、「Jeena Sirf Merre Liye」では一途な恋に走る良家の令嬢を絶妙に演じており、「Asoka」のような歴史大作にもピタッとはまるオーラを持っている。それでいて何を演じても「カリーナー・カプール」としての個性を失わず、映画の中で観客の目をグッと惹き付ける不思議な才能がある。これこそが映画カースト生まれの天賦の才能なのかもしれない。あと、カリーナーの肌の色は、インド人レベルから見てかなり白いというのも特徴的である。顔が角ばっていて少し大きめなので、時々日本人に見える。

 カリーナー・カプールの登場シーンには、あるジンクスがボリウッドで出来上がりつつあるように思える。絶対にいきなり登場するようなことはなく、体の一部がまず映し出されて、じれったいカメラ・ワークの末にバーンと顔が出て、「カリーナー・カプール登場!」のようになることが多い。それと同時に必ずアップ・テンポの音楽と共に踊って登場し、そのままミュージカル・シーンになることも多い。この映画でのカリーナーの登場シーンもやたらと予算がかかっていて、パリのエッフェル塔の前で、「インドよいとこ一度はおいで」的な歌と共にインド人白人混じって踊りを繰り広げるミュージカル・シーンだった。こういう面白い登場シーンが続く限り、僕はカリーナーの登場する映画を全部見てみたくなっている。もしや僕はカリーナーのファンなのか・・・?

11月9日(土) 3C’S

 ラージパト・ナガルに新しくできたショッピング・モール、3C’S(Competent Cine Court)の広告がデリーのあちこちに登場し始めた。前回行ったときはまだ一部工事中だったのだが、どうやら完成したみたいだ。どんな風になったか、見に行ってみた。

 セントラル・マーケットの南、ラージパト・ナガルの警察署のすぐ隣に完成した3C’Sは、デパートメント・ストアのウエストサイド、マクドナルド、映画館、フード・モールを併設し、さらに2、3軒の店が工事中だった。規模はアンサル・プラザに劣るし、駐車場への配慮も足らなかったが、おかげでラージパト・ナガルは南デリーのモダン・スポットとして名乗りを上げたことになる。もともとセントラル・マーケットという南デリー随一の庶民マーケットが広がっていた地域だけに、これから相乗効果で発展が見込まれる。

 ウエストサイド・モールは以前にも紹介したが、1階は化粧品、婦人服、喫茶店などの売り場、2階は紳士服、子供服、玩具、小物や家具の売り場があり、店内は非常に清潔。日本のデパートに比べたらまだまだ全然で、別にここで買い物したいとも思わないが、デリーのバンコク化を加速させる第一歩になるデパートだと言える。

 映画館は、ウエストサイド・モールの裏に入り口があって少し分かりにくい。現在「Jeena Sirf Merre Liye」や「Leela」などを上映していた。チャーナキャー・シネマと同じくらいのレベルの映画館と思われる。チケットがいくらかは知らない。

 映画館の横には、フード・コートという、よくバンコクやシンガポールにあるようなレストラン街ができていた。中華料理屋、ドーサ専門店、マクドナルドなど、いくつかの小店舗が並んでおり、そこで注文して料理を受け取って、広場の椅子に座って食べるシステムだ。考えてみれば、今までこういうシステムのレストランはデリーには存在しなかった。3C’Sのフード・コートはまだ規模が小さいが、絶対にこれはインドでも受けると思われる。狙いはローカルな料理だ。ファスト・フードならインドには昔から存在している。ゴーレー・ガッペーやサモーサー、ドーサやイドリー、ティッカーやカバーブなど、気軽に食べれる料理は豊富だ。それに加えてチョウメン、モモ、トゥクパなどの中華・チベット料理や、タイ料理などの店舗を並べれば、体裁は簡単に整う。

 先程も書いたが、この3C’Sの一番の弱点は駐車場だ。今日も土曜日で多くのインド人が3C’Sやセントラル・マーケットを訪れており、近辺は慢性的な大渋滞だった。現在デリーでは自家用車を所有する人の数が急増しており、渋滞が頻発している。これからは、立体駐車場でも地下駐車場でも、自動車を置くスペースを考慮に入れながら、近代的なショッピング・センターの建設を計画していかなければならないだろう。

11月10日(日) Yeh Kya Ho Raha Hai

 半月以上前に公開され始めた映画だが、「Yeh Kya Ho Raha Hai(これはいったいどうしたことか)」を見に行った。場所はチャーナキャー・シネマ、モーニング・ショーだったため、入場料は60ルピーで済んだ。

 キャストは皆新人。全く面識のない若者ばかりだった。この中から将来のスターが生まれるかもしれないので、一応全員の名前を書いておく。男優がプラシャーント・チアナーニー、ヤーシュ・パンディット、アーミル・アリー・マリク、ヴァイバウ・ジャラーニー、女優がサミター・バンガルギー、プナルナヴァ・メーヘター、ディープティー、パーヤル・ローハトギー(ヒンディー語の綴りが見つからなかったので、カタカナ表記は暫定的)。2枚目半の仲良し4人組と、彼らを巡る4人の女の子の物語。「Dil Chahta Hai」と「Style」を足して2で割ったような雰囲気の青春群像映画だった。




Yeh Kya Ho Raha Hai


Yeh Kya Ho Raha Hai
 大学最後の年。ビーチ・バレー部のキャプテン、ランジート(プラシャーント・チアナーニー)、ギターの名手ジョニー(ヤーシュ・パンディット)、ジョーク好きで陽気なラーフル(アーミル・アリー・マリク)、性科学研究者の父を持つお調子者ブンティー(ヴァイバウ・ジャラーニー)の仲良し4人組は共通の悩みを抱えていた。それは、ガール・フレンドがいないことだった。大晦日の年越しパーティーで「Couple Only」と入場拒否されたことにより、4人は卒業までに絶対恋人を作ることを決意する。

 ランジートにはアンヌー(サミター・バンガルギー)という女友達がおり、アンヌーはランジートに思いを寄せていたが、ランジートは気が付いていなかった。ランジートを敵視するキザ男サリールは、幼馴染みの悪女イーシャー(パーヤル・ローハトギー)にランジートを誘惑させる。ランジートがその気になったところで、ひどい振り方をさせて心を傷つけさせる作戦だった。ランジートは彼らの思う壺にはまり、イーシャーにメロメロになる。それを見てアンヌーは悲しい気持ちになるのだった。

 ジョニーは英語クラスの美人教師ステラー(プナルナヴァ・メーヘター)に恋をしていた。29歳のステラーはフィアンセを戦争で失うという悲しい過去を持っていた。ジョニーにとって、相手が年上でも恋してしまったからには突き進むしかなかった。ステラーはジョニーと友達として親しく接していくが、次第に心を通わせていく。

 ラーフルには実はプリーティ(ディープティー)という彼女がいた。しかし彼女の家は伝統的かつ厳格で、6時以降は外出を禁じられていた。ラーフルはプリーティと映画館でデートを重ねながら、なんとか思いを伝えようと努力する。ある日運悪く彼女の家を訪ねたときに両親とばったり出くわしてしまうが、幸い両親に気に入られ、なんとか丸く収まる。しかし、プリーティから結婚の話を持ち出され、まだ結婚のことまで考えていなかったラーフルは急に顔をこわばらせてしまう。

 ブンティーは売春婦のところへ行って「Experience」を手に入れようとしたり、惚れ薬を飲んで女の子にもてようとして失敗したり、アメリカ人の女の子を何とか物にしようとして酒を飲ませるが、自分が酔いつぶれてダウンしたりと、終始訳の分からない行動ばかりしていた。

 期末テストが終わり、楽しかった大学生活も終わるときがきた。4人は最後に開かれたお別れパーティーに出席する。そこでランジートはイーシャーが自分を騙すために今まで誘惑していたことを知り、アンヌーの純粋な愛情に気が付く。ランジートは自宅で泣いていたアンヌーの元へ駆け寄り、2人はこうして結ばれる。ジョニーもステラーと、ラーフルもプリーティと結ばれ、お調子者のブンティーはパーティーで踊っていたダンサーたちとなぜか戯れてオシマイとなる。

 はっきり言ってしまえば、4人の若者たちの童貞喪失物語、とでも言おうか、テーマは本当にくだらないのだが、いかにも今時のインド人若者の思考様式、行動様式が如実に反映されているようで楽しい映画だった。まさに脳みそを置いて見に行くお気楽映画。だからストーリーについてあれこれ突っ込むような野暮なことはしない。

 全員新人ということで、この中から将来有望な人材を個人的にピックアップしてみる。まず注目は、ビーチ・バレー部キャプテンのランジートを演じ、筋肉ムキムキの体を存分に披露していたプラシャーント。顔はブルース・リー似のシャープなライン(「少林サッカー」の主人公にも似てるかも)。「Yeh Kya Ho Raha Hai」では、バレーやボディ・ビルデンィングのシーンでしかその筋肉の使いどころがなかったが、カンフー・アクションをさせれば絶対に「インドのブルース・リー」の異名をゲットできると思われる。




プラシャーント・チアナーニー


 次に注目は、「Dil Chahta Hai」のアクシャイ・カンナーよろしく年上の女性に恋するジョニーを演じたヤーシュ・パンディット。彼に似た顔のアイドルが日本にいたような気がするのだが、思い出せない。ジャニーズ系のキュートな顔をしており、そちら系が好きな女性に人気が出そうだ。だが、インドではいかにも男らしい男がもてる傾向にあるので、そんなに人気が出ないかもしれない。東アジア向けのハンサム顔と言っていいだろう。あと10年したら、インドでもこの手の顔の男がもてるようになるかも。




ヤーシュ・パンディット


 女優の中ではアンヌーを演じたサミター・バンガルギーがよかった。特にこれといって強烈な個性があるわけでもないが、この映画中でもっともバランスのいい顔立ち、体型、演技力だった。この映画中からスターになっていく女優がいるとしたら、この娘ぐらいしかいないと思う。ラーニー・ムカルジー的な女優が似合っていそう。




サミター・バンガルギー


 音楽はシャンカル・エヘサーン・ロイ。「Dil Chahta Hai」の音楽も担当した、3人組のグループだ。彼らの音楽はいつも斬新で、個人的にもっとも注目している。「Yeh Kya Ho Raha Hai」の音楽も、映画館を出た後まで脳内に残る印象的なメロディーが多かった。残念ながらこの映画のサントラはあまり市場に出回っておらず、僕は持っていない。

 映画中、4人組がディスコに入ろうとして「Couple Only」と断られるシーンがあった。「Couple」とはつまり男女のカップルのことだ。これは僕にも思い当たる節がある。インドのディスコはなぜか男女のカップルでないと入場できないことがほとんどである。つまり、インドのディスコは、男女のカップルが純粋に2人で踊りに来る場所ということになっている。なぜこういう制度があるのか知らないが、一説によるとこういう制度を設けないと、ディスコに男ばかりが来てしまってむさ苦しくなってしまうかららしい。

 インド映画界で、「年上の大人の女性に恋する若者」というモチーフが最近増えてきたのが気になる。ハリウッド映画で有名なところでは、ダスティン・ホフマン主演の1967年の映画「卒業」で、それ以後その種の筋は別に珍しくも何ともなくなっている。しかしインド映画では2001年の「Dil Chahta Hai」で初めて(多分)採り上げられた。「Dil Chahta Hai」自体が特異な雰囲気の映画だったし、3人いる主人公の内の1人の恋だったので、割と何の物議も醸さず自然に受け入れられたように思える。しかしこの前見たヒングリッシュ映画「Leela」では、まさに「大人の女性(しかも人妻)に恋する少年」の構図が映画の中心的テーマに据えられていた。この映画はインテリ層を中心にけっこう高評価を得ているみたいだ。マニーシャー・コーイラーラー主演の「Ek Chhotisi Love Story」もその流れだろう。「Yeh Kya Ho Raha Hai」では、ステラーに恋してしまったジョニーを友達が「おいおい、それじゃあ『Dil Chahta Hai』のストーリー・ラインじゃないか」とからかうシーンがあるが、もしかしてだんだんとこういう恋愛の形もあるということが認められて行くのかもしれない。ちなみに、年上の女性と結婚したインド人というのは、とりあえず今のところ知らない。

11月11日(月) インドで嫌いなこと

 僕はインド好きである。インドが好きだからインドに留学している。インドの旅行記を読むと「インドは好きな人と嫌いな人がはっきり分かれる国だと言う。私はインドにはまってしまった方だ」みたいな文章が出てくる(三島由紀夫が言いだしっぺか)が、これはインドに1年住んで、インドに住んでいる日本人を見てきた僕の目からは少し正確ではない。やはりインドが好きな人にも、インドが嫌いな人にもいろんなレベルがあって、「インドは好きだけど、汚ないのは嫌」とか、「ヒンドゥーは好きだけどムスリムは嫌」とか、「インドは嫌いだけど、インド料理だけは好き」とか、「インド好き」と公言しながらハイソな生活・旅行ばかりしている人とか、「インドってあまり好きじゃないんですよ」と言いながらも何度もインドに来ている人とか、インド好きとインド嫌いの中間層にあたる人々も多くいる。十人十色、各人各様の受け取り方をするのは自然なことである。

 僕のインド好きの内容を自分で考えてみると、それはインドに対する尊敬に近い。もっと言えばコンプレックスである。インド人の方が商売にしても学問にしても、頭の回転が早いから、という理由もあるが、このコンプレックスは多分デリーの特殊事情から来ていると思う。デリーにはネパール、チベット、東北インドなどからやって来た、モンゴロイド系の顔をした人々が多く住んでいる。だから僕も道を歩いていると、それ系の人に思われていることがほとんどだ。ネパール人は出稼ぎに来ているので、大体食堂やホテルなどで下働きをしていることが多い。チベット人は難民だから、あまり大っぴらなことはできない。東北インドの人々は比較的リッチだが、他のインド人たちからは一段下に見られている。というわけで、デリーはモンゴロイドの肩身が狭い地域なのだ。それを見ているうちに、僕までインド人に劣等感を抱くようになってしまった。・・・というのは半ば冗談で、日本人のカーストはインドでけっこう高いから、例え彼らと同レベルに見られようとあまり気にしていないのだが、僕のアイデンティティーの中で、「モンゴロイドである」という部分はあまりなく、「アジア人である」か「日本人である」が非常に強くなっているのは確かだ。インド人に対する尊敬は、同じアジア人としての仲間意識と、少なくとも日本文化の2〜3倍は深みがあるインド文化への賞賛の気持ちが強い。

 インドの文化といってもいろいろあり、素晴らしいと思うものもあれば、嫌悪感を感じるものもある。後者の中で、僕が今もっとも疑問に思っているのが寡婦の問題である。これは身近な体験から来ているものである。

 僕の大家さんに家に、去年の暮れあたりから大家さんのお母さんが住み始めた。もう旦那さんは亡くなり、もともとクルクシェートラに1人で住んでいたのだが、体調が悪くなったので、大家さんと共にデリーで住むようになったようだ。もうヨボヨボのお婆さんである。僕もかわいがってもらっていて、数日間顔を合わせないと「どこへ行っていたんだ、息子よ」と心配してくれる。最初は気付かなかったのだが、大家さんの家を時々訪れる内にだんだんある事実が分かってきた。大家さんの家族と、そのお婆さんは、ひとつ屋根の下に住んでいるにも関わらず、別々の部屋に住んで、交流もあまりないのだ。食事も別々にとっている。今年に入り、1階で昔開業していた仕立て屋が夜逃げすると、その部屋が今度はお婆さんの住処となった。大家さんの家は2階だから、ますます別居状態になってしまった。お婆さんはいつも1階からボーッと外を眺めており、僕は出掛けるときに手を合わせて挨拶をしている。お婆さんの様子を見ると、まるで死期が来るのを今か今かと待っているかのようだ。

 これは全て、寡婦を不吉とするインドの習慣が原因であろう。夫を亡くした女性は、急に肩身が狭くなる。白いサーリーしか着ることができなくなり、装飾品も付けてはならない。寡婦を家庭内に置くことは不幸の元であると考えられている。大家さん一家も、そのインドの習慣に素直に従っただけだと思う。インドでの女性の地位は極端である。結婚前に子供を産んだ女性は軽蔑され、結婚後に子供(特に男児)を産んだ女性は女神扱い。夫より早く死んだ女性は丁重に供養されるが、夫より長生きした女性は疫病神扱いである。

 僕は日頃からインドが好きだが、やはりこういうインド文化の負の面を見てしまうと、手放しでインド好きを表明することができなくなる。だが、何事にも表と裏があるものだし、僕はどうすることもできない問題だ。ありのままに受け入れていくしかないのかもしれない。

 蛇足になるが、最近ある衝撃的な事実を知るに至った。1997年のデータだが、インドで税金を納めているのは、130万人しかいないらしい。え、130万人?人口10億人の国で130万人?1%にも満たない数である。こんな状態で今までよく政府は国を運営してきたものだ。税金の負担があまりに高いらしく、税金を払うよりは脱税した方がマシ、という風潮がインドにあるそうだ。政府はだんだん一人一人の税金負担額を減らし、広く浅く徴収するようにしていくみたいだが、人口10億の国で130万人しか税金を払っていないというのは、あまりに衝撃的すぎる。いったいインド人は何を考えているのか・・・?

11月12日(火) プロを尋ねて三千里

 ユースフ・サラーイからサロージニー・ナガルへ行く536番のバスに乗った。車内はほどほどに混んでいたが、僕は座ることができた。デリーのバスは左側が女性専用席と決まっているで、僕はいつも右側に座る。両側とも2人掛けの椅子であることがほとんどである。そのとき隣に座っていた人が「このバスはまっすぐ行くか?」と僕に質問してきた。バスはもうすぐメディカルの交差点に差し掛かるところだった。512番のバスだったらこのまままっすぐ行くが、536番のバスは左折してしまう。「メディカルで左折するよ」と教えてあげた。そもそもその人はインド門へ行くところだった。このバスはインド門へは行かない。メディカルで降りて、他のバスを待った方がいい、とアドバイスしておいた。

 隣に座っていた人がメディカルで降り、代わりに別の男が僕の左隣に座ってきた。彼は僕にもっと詰めるように言い、そばに立っていた人を無理矢理椅子の隅に座らせた。2人掛けの椅子に3人の男が座るのだから窮屈である。しかしインドでこういうミクロな助け合いはよくあることなので、僕は気にせず窮屈なのを我慢していた。

 すると、突然僕の左胸のポケットで変な感触を感じた。見てみると、左隣に座っている男の左手が、右腕の下を通って僕の左胸をまさぐっているのだった。スリである。その男は、スリをしやすくするために、こんな窮屈な座り方をさせたのだった。

 とっさに僕は「何やってるんだ」と厳しい口調で言った。男は「何でもない」ととぼけた顔をして、僕のポケットをまさぐっていた手を素早く引っ込め、そのまま同じ手で自分の右の脇腹や背中をポリポリと掻き始めた。あからさま過ぎる・・・あからさま過ぎて怒る気もしない・・・。別に何も盗られてなかったし・・・。

 普通の人だったら、そこで席を変えてスリから逃げたりするだろうし、問題をさらに大きくするのが好きな人だったら、「スリだ〜!スリだ〜!」とおもむろに叫んだりするだろうし、自分を正義の使者だと思っている人は、その男に説教を始めたりするだろう。しかし、僕にはある期待があったため、そのままそのスリ未遂犯のそばに座り続けた。どんな期待かというと、もしかしたらこのスリは、プロのスリかもしれない、という期待だ。

 インドのカースト制度は厳密な職業分担制度であり、それゆえ各伝統的職業のプロ意識は強い。代々伝わる優れた技術を受け継いでいる人も多い。スリにも必ず「親子三代で築き上げた妙技を駆使するプロのスリ」みたいなのが存在するはずだ。そのスリのテクニックは、すられている人が全く気が付かないほど見事なものだろう。人の懐から財布を取って、お金だけ失敬して、また元の懐へ戻す、という魔法のような技術を持ったスリもいると聞く。もしかしたら僕の隣に座っているこの男こそがプロのスリなのではないか、僕の胸は期待に膨らんだ。初戦は見事僕に打ち負かされてしまったが、僕が注意深く様子を伺っているにも関わらず、一瞬の隙を突いて、見事なテクニックで僕からお金をするのではないか。胸ポケットの中には200ルピー足らずの紙幣とモバイルが入っていた。モバイルを盗まれたらたまらないが、もし相手が魔法使いのようなスリだったら、その体験料として、僕は彼に200ルピーを献上する用意があった。だから僕は黙ってその男のそばに座り続けた。

 しかしやはりその男はただの小物だった。一度失敗してしまってからは、もうチャンスはないと見たのか、彼の手は二度と僕の方へ伸びては来なかった。サロージニー・ナガルのマーケットに着いたので僕はバスを降りた。僕はバスに乗り続ける・・・未だ見ぬプロのスリに出会う日まで・・・。

 ていうか、今までデリーで何度もスリに遭って来たが、一度としてスリらしいスリに出会ったことがない。みんなあからさま過ぎて、すぐにばれてしまう。友人や先生の中にはバスなどで金を見事にすられた人もいるが、僕は幸か不幸か1ルピーも被害に遭ったことがない。僕の注意力がスリに勝っているのか、それともまだプロのスリに出会っていないからなのだろうか?

 ところで、僕がそのスリを見逃してやったのは、そいつがプロのスリか見極めたかったという理由も本当にあるが、実際はそのとき僕自身が無賃乗車をしていて後ろめたかったので、あまり目立ちたくなかったのである。そうでなかったら、「今スリしようとしたな、ん?そんなつまらないことして一生生きてくつもりか?」と、いっぱしのヒンディー語で糾弾してやるところだった。まあ、お互い助かったということだろう。ふぅ。

11月13日(水) 留学生の旅行

 最近2週間に一度のペースで小旅行を繰り返しているが、今週の金曜日からまた旅行に出掛ける。今回の目的地はマディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパール。1999年のホーリーの日に一度、サーンチーからアジャンターへ向かうルートの途中でボーパールには立ち寄ったことがある。ボーパールの近郊にビームベートカーというところがあり、そこには1万2千年前に描かれたインド原人たちの壁画が残されていると聞く。それを見るのが一番の目的だ。ついでにサーンチーも寄ろうかと思っている。

 昨日はバスでスリに遭ったことを書いたが、そのときは列車のチケットを予約するためにサロージニー・ナガルの鉄道予約オフィスへ行くところだった。予約オフィスのオフィス・アワーは8時までで、僕が着いたのは7時50分だったので、本当はかなりやばかった。予約フォームに必要事項を記入し、数ある窓口の中から一番空いている列に並んで、順番が来るのを待っていた。しかし時間は刻一刻と過ぎて行き、列は一向に進まなかった。

 どうしようかと思っていると、窓口の裏の方から僕を呼ぶ人がいた。こっち側に回れ、と指示していた。何かと思ってその人に従って、一番隅の特別窓口へ行くと、その人は「何をやってるんだ、8時に窓口は閉まってしまうぞ。」と言って、僕の予約フォームを受け取り、ササッと予約をしてくれた。なんでこんなに親切にしてくれるんだろう、と思っていると、なんとその人はガウタム・ナガルの近所に住んでいる人だった。僕を何度も見たことがあるらしい。そして、「これから列車の予約をするときは、オレに頼むんだぞ」と言ってくれた。鉄道予約オフィスに知り合いができると心強い。

 ちなみに、8時になると全ての窓口は無情にも一斉に閉じてしまった。それまで並んでいた人は怒り心頭に達して、窓口の人に罵声を浴びせかけていたが、係員は慣れたもので、「また明日の朝一番に来い」と相手にしてなかった。毎日こういうやり取りが繰り返されているのだろうか?

 それから今日、大家さんに「今週の金曜日からボーパールへ行きます」と言ったら、今度は「どうしてもっと早く言わなかったんだ」と言われた。なんと、大家さんのお兄さんがボーパールの鉄道局のトップで、彼に頼めばボーパールまでの往復チケットがただになるらしい。彼が大家さん一家の中でもっとも出世した人物だそうだ。実際、大家さんの家族はただでボーパールまで往復したことがあるらしい。それはいくらなんでも職権の乱用では・・・と思ったが、インドでは権力は乱用するためにあるようなものなので、笑って聞き流しておいた。

 また、僕の知り合いには、「マディヤ・プラデーシュ州のツーリスト・オフィスに知り合いがいるから、連れて行ってあげよう」とも言われた。時間がなくて、ボーパール旅行前に会うことは困難かもしれないが、もし会えたら、旅行を有利に進めることができるかもしれない。

 これらのことを考え合わせた結果思ったが、デリーに住む者として、僕はもっと賢くインドを旅行をすることができるのではないか。今まで普通のバックパッカーとあまり変わらない旅行をしてきたが、少し情報を集めれば、次々と人脈が掘り出されてきて、コネからコネへ渡り歩く旅行をすることができるかもしれない。安く、効率的に、しかも地元の人々の温かみに触れる旅行ができるかもしれない。今のところ、観光地の入場料がインド人料金になることぐらいしか、僕は留学生としての特権を利用していない。

11月14日(木) SPICY

 パッパルさんは、僕が去年の8月に家探しをしていたときに、僕の今住んでいる部屋を紹介してくれた人だ。近所に住んでいるので、ガウタム・ナガル入居以来お世話になっている。もともとプライベート・バスの運転手だったらしいのだが、不動産屋をやったり写真屋を経営したりしており、その内近所に食堂を開いて、現在では朝から晩までその店番をしている。自炊能力に欠ける僕は、パッパルさんの食堂を愛用している。

 パッパルさんの食堂の名前は、以前まで「Laxmi Fastfood Stall」だった。その頃の食堂はお世辞にも清潔とはいえず、機能的ともいえず、キッチンからマサーラーの混じった煙が客席の方へモウモウと流れ込んでくるような、はっきり言ってしまえばひどい食堂だった。味にもムラがあり、おいしいときもあればまずいときもあるという、典型的なインドの安食堂だった。ところが、9月頃から突然タンドゥール釜が設置されたり、店内の工事が始まったりして、だんだんと改善されていった。そして10月末、久しぶりにパッパルさんの食堂へ行ってみると、あっと驚くほど店が変わっていた。

 まず、店名が「SPICY」に変更されていた。店名が変更されただけでなく、一応ちゃんとしたロゴ・マークのようなものまでできていた。店内も驚くほど小ぎれいになっており、「食堂」から「レストラン」へ見事な脱皮を遂げたと言っても過言ではないほどだ。メニューもすっきりとしたデザインだ。以前はメニューなんてないに等しかったのだが、大した進歩である。しかし見てみると、ちょっと値段が上がっているのに気付いた。まあ、店がきれいになったので、少しぐらい値上がりしても僕は目をつぶる。味もよくなったのではなかろうか。

 メニューが多くなり、選択の幅も増えた。ダール、サブジー、ビリヤーニーなどの北インド料理、ドーサなどの南インド料理、チョウメンなどの中華料理、ターリーに加えて、もうすぐモモも始めるらしい。モモは僕の大好物なので、非常に楽しみである。

 相変わらず変わらないのは、店員の格好。ネパール人が多く働いているのだが、彼らの服装は依然として薄汚ないままだ。毎回同じ服を着ている人もおり、もしかして1枚しか服を持っていないのか、と可哀想になる。ここは改善すべきだろう。

 興味深かったのは、店名を改名した理由である。特に理由なく変更したのかと思っていたら、ちゃんと深い理由があった。パッパルさんの説明によると、肉料理を出すレストランは、神様の名前を付けてはいけないそうだ。「Laxmi Fastfood Stall」の「Laxmi(ラクシュミー)」は富の女神である。パッパルさん関連の店は「Laxmi Photo Stadio」や「Laxmi Property Dealer」のように必ず「ラクシュミー」が付いたのだが、さすがにノン・ヴェジのレストランには付けるのは後ろめたかったみたいだ。とは言え、「Laxmi Fastfood Stall」時代でも肉料理は出していたが・・・。誰かに指摘されたのだろうか?

 それを聞いて改めて考えてみると、本当に肉料理を出すレストランには神様の名前が付いていないかもしれない。よくあるノン・ヴェジ食堂の名前は、「ラージェーンドラ・ダ・ダーバー」のような「人名(+ダ)+ダーバー」である。ダーバーはパンジャーブ州発祥の食堂だ。「ダ」はパンジャービー語で、ヒンディー語の「ka」にあたり、「〜の」という意味。もともとインドに外食の習慣はなく、つまり食堂やレストランの習慣はなく、みんな家で毎日食事を食べていた。旅行するときはどうするかというと、自炊用具一式を持って移動するのだ。これもヒンドゥー教の浄・不浄の観念に基づいている。家の外で食べる食事はほとんどの場合「不浄」なのだ。ただ、インド人の人名は神様に関係ある場合が多いので、「人名(+ダ)+ダーバー」は「神名(+ダ)+ダーバー」に等しい、という反論も可能かもしれない。しかし、あからさまに神様の名前を使ったダーバーはないと思う。

 その他、ノン・ヴェジ・レストランの名前でよくあるのは、ウルドゥー語の単語を使ったものである。大体ムガル料理レストランに多い。「カリーム」「ミーナール」「モーティー・マハル」などなど。あとはデリーで肉料理レストランと言ったら、中華料理屋や西洋料理屋になってしまうから、店名もヒンドゥー教の神様とは無縁である。となってくると、やはりノン・ヴェジのレストランの店名にヒンドゥー教の神様の名前は付けてはいけないという習慣は、いよいよ本当に思われてくる。とても興味深い。これから少しレストランの店名に気をつけて見てみようと思う。

11月15日(金) インドの冬の足音

 今日の夜10時55分発の夜行列車に乗って、マディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパールへ向かう。

 10月〜11月の北インドは非常に過ごしやすい気候なので、旅行に適している。朝と夜はもう既に肌寒いくらいだが、日中は、日向に出ればポカポカ陽気、日陰にいればヒンヤリ涼しい、という理想的な気候。自然と心も外へ向かう。僕の場合はデリーの外まで心が旅立ってしまう。思えば、暑いときは心はひたすら映画館に向かっていた。特に停電になったときなど、家にはいられないので、避暑するために映画館へ行っていたことが多かった。最近はよく旅行へ行くので、映画をあまり見ていない。とは言え、普通の人に比べたらけっこう見に行っているのだが・・・。

 気候がよくなったことも旅行をする大きな動機だが、僕はインドの冬が好きじゃないので、迫り来る冬から逃げている側面もある。デリーの冬は寒い。気温を見ただけなら、日本の冬の方が寒い。デリーの冬はいくらひどくても0度以下になることはない。しかし体感温度は絶対にデリーの方が寒い。まず、家の建て付けが悪くて必ず隙間風が入ってくし、石造りなので、部屋の中にいても凍て付くような寒さを感じる。また、デリーの冬は幸か不幸か暖房がなくてもギリギリやっていけるくらいの寒さなので、そもそも暖房という考え方がない。ドライヤーを大きくしたような、「ヒーター」と呼ばれる器具はあるが、電力だけ消耗してあまり使い物にならないし、ストーブもないし、エアコンにも暖房機能は滅多についていない。もちろん風呂なんてない。というわけで、気温は日本より下がらないにも関わらず、体感温度は低くなる。そういう季節がとうとう今年もやって来つつあるのだ。だから暖かい南の方へ行きたい気持ちが強い。

 僕も寒がりだが、インド人はもっと寒がりみたいだ。僕はまだ薄着でいられるのだが、インド人は既に朝と夕方、冬服を着始めている。そんなに寒くないだろ、というぐらい着込んでいる人もいる。インドは1年のほとんどが灼熱の季節なので、インド人が寒さに弱いのは理解できる。しかし、矛盾することもある。インド人は冬でも水シャワーを浴びているのだ。インド人全員が水シャワーを浴びているかといえば、そういうわけでもないが、大部分の人が冬でも水シャワーを平然と浴びることができるといえる。ガンジス河やヤムナー河のガートへ行けば、冬の早朝でも素っ裸で沐浴をしているインド人を見ることができる。冬でも冷たい水で身体を洗うことができるというのは、インド人が神様から与えられた特殊能力のように思えてならない。

 僕はもうお湯で身体を洗っている。しかし少なくとも10月いっぱいは水シャワーで我慢した。つい最近、ギザル(お湯を作る器械)を作動させ始めた。去年は10月の半ばからお湯シャワーにシフトした記憶がある。去年よりインド人化が進んだかもしれない。寒いときに浴びる水シャワーのいいところは、まず精神が鍛えられるような気持ちになること。あの水シャワーの中に身体を入れるときに要する勇気の積み重ねは、これからの人生の中で役に立っていくのではないかと思われるほどだ。そして一回身体を水につけてしまえば、身体の中からポカポカしてくる。お湯シャワーを浴びた後は、外気に触れると非常に寒く感じるものだ。何より、水シャワーを浴びた後は、何か困難に打ち克った喜びに満ちている。だから水シャワーを頑張って浴び続けており、このまま真冬も水だけで過ごせるかと思っていたが、とうとうお湯に屈してしまった。しかし僕の部屋のギザルは小さいので、お湯シャワーを長時間浴び続けることはできない。バケツにお湯を汲んで、そこから容器ですくって浴びている。だからお湯シャワーとは言えない。お湯で身体を洗っている、と表現している。

 旅行中の密かな楽しみは、実はこのお湯シャワーでもある。自宅では思う存分お湯シャワーを浴びることができないので、旅行中泊まったホテルでお湯シャワーを浴びまくるのだ。だから基本的に僕はお湯シャワーが出るホテルに泊まることにしている。ホテルには大型のギザルが置いてあることがほとんどなので、無尽蔵にお湯が出てくる。お湯の出るホテルをインドで求めると、少し高くなってしまうことが多いのだが、僕の密かな楽しみなのだから仕方ない。



―灯列編 終了―

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