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高山病は治ったはずだが、やはり夢をよく見る。しかも悪夢が多い。今朝は身体を炎で焼かれる夢を見た。これは高度の関係なのか、それとも部屋に霊がとりついているからなのか・・・。僕には霊感が全くないようなので、今まで幽霊らしきものを1度も見たことがない。だが、インドの幽霊ならちょっとだけ見てみたい気もする。足はあるのかないのか・・・?昔タミル映画を見ていたら、幽霊が出て来たシーンがあった。驚いたのは、その幽霊に足がなかったのだ。しかも頭に三角巾のようなものを付けており、白い服を着ていた。タミル人の抱く幽霊のイメージと日本人の抱く幽霊のイメージがかなり似ているということなのか、それとも、ただ単に一方が他方を真似しただけなのか・・・?
今日はレー名物ゴンパ巡りを行った。ゴンパというのはチベット仏教の寺院で、レーの周辺には多くのゴンパが散らばっている。それらのゴンパを訪問するのがレーの観光のひとつの楽しみとなっている。僕は別にチベット仏教に特別な思い入れはないので、とりあえず有名で簡単に行けそうな、シェー、ティクセ、ヘミスの3つのゴンパを今日一日で巡ることにした。
あらかじめジープをチャーターしておいた。朝10時出発のはずだったが、諸々の理由により10時半出発となった。まずはレーからもっとも近いシェーへ。マナーリーから来た道を東へ向かう。あいかわらずレーは今日も晴天、湿度は0%に近く、ザラザラに乾燥している。ジープの窓から入ってくる風は水の代わりに砂を含んでおり、吸い込むとラダック独特の乾いた臭いがする。僕はあまりこの臭いが好きではないのだ・・・。
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−ラダックの風景−
インダス河沿いにのみ緑が広がる
あとは砂漠か岩山 |
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シェーにはすぐに到着した。シェーはレーから東に15キロの地点にある。小高い丘の上に、長方形のゴンパが建っていた。階段を上ってゴンパの中に入る。やはり標高が高いので、少し階段を上るだけでも息が切れる。ゴンパではなぜか政府の役人が建物の寸法を測ったりしていた。ゴンパの案内人が中を案内してくれて、本堂にある巨大な仏像を見せてくれた。拝観料は20ルピー。大きな仏像には驚いたが、建物の規模はいまいち。近くに廃墟となったシェー王宮もあったが、基部だけを残してほとんど崩れ去っていた。
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シェー・ゴンパ |
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次に行ったのはティクセ・ゴンパ。僕はここが一番行ってみたかったところだ。シェーから5キロほど東の地点にあり、ジープですぐだった。やはり期待に違わずティクセは圧巻だった。ひとつの山の側面に数多くの建物が乱立し、要塞のような重量感があった。実際に要塞としても機能していたらしい。ここも拝観料は20ルピー。ティクセの絵を描くことに決め、ドライバーを待たしておいて、ティクセ・ゴンパ全体が見渡せる木陰に腰を下ろしスケッチをした。2時間ほどで描けた。ティクセ・ゴンパの周辺はほとんど砂漠地帯で、なけなしの一本の小さな木の下で描いていたので、時間が経つごとにどんどん影が移り、その度ごとに僕も移動しながら描いた。少し急ぎ気味で描いたので出来はまあまあか。ティクセ・ゴンパの近くにあるレストランで昼食を食べた。
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ティクセ・ゴンパ |
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ティクセ・ゴンパでけっこう時間を使ってしまったので、そこからさらに20キロ以上東へ行ったヘミス・ゴンパは簡単に見学を済ませた。ラダック最大のゴンパとのことだったが、あまりそうは感じなかった。しかしここに納められていた巨大な像(仏像ではなかった)と、壁画は素晴らしかった。ヘミス・ゴンパで便意を感じたので、寺の便所で用を足させてもらったが、実はこれが一番印象に残った体験となった。4畳半くらいの部屋の床には砂が敷き詰められており、部屋の中央に長方形の穴が空いている。そこで用を足せ、ということだろう。しかしなぜかその穴の周りに人糞らしきものが転がっている。そして穴の中を覗きこむと、下にもうひとつ部屋があって、そこにやはり人糞らしきものがたくさん溜まっているのが見えた。しかし極度の乾燥によりそれらは全て乾燥してカラカラになっており、便所に入ったというのに便所特有の臭いが全くしなかった。思わずトイレの写真を撮ろうかと思ったが(昔はよく異国の地のトイレをよく写真に撮っていた)、トイレの写真というのは後から見てあまり気持ちのいいものではないので止めておいた。
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ヘミス・ゴンパ |
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ゴンパ巡りから帰った後、Eメールをしようと思い、ネット・カフェを探した。さすがに辺境の地レーにもネット・カフェやネットのできる店ができていた。ところがレーは慢性的な電気不足であることと、電話線に問題があることから、いつでもネットが可能というわけではない。昨日もネットをしようとレーの町をウロウロしたが、どこも接続ができなくてネットができなかった。今日はネットができるところを見つけたのだが、なぜか日本語表示サポートがインストールされてなくて、まずはそれをダウンロードするところから始めなければならなかった。当然ネット・スピードはかなり遅い。そのダウンロードに30分以上かかってしまった。しかも日本語IMEもインストールされていない。これをもインストールする気にはなれなかったので、ローマ字で打つか英語でメールを送った。
実は7月14日はスラブの誕生日だった。インド人は割と誕生日を気にする国民である。スラブも誕生日には僕にいてほしそうだったので、なるべく14日までに帰るつもりでいたが、やはり無理だったみたいだ。代わりに14日にお祝いのメールでも送ろうと思っていたが、その日は高山病で1日寝込んでいたので無理だった。だから今日送ろうと思ったのだが・・・スラブへのメールを書いて、送ろうとしているときにちょうど停電になってしまい、全てがパーとなってしまった。なんと運の悪い・・・。実は旅行へ出掛ける前に大家さんに何も言って来なかったので心配しているかもしれない。その報告も兼ねてのメールだったのだが・・・。
一昨日、昨日とさんざん悩んだのだが、結局今日の朝6時半にはシュリーナガル行きのバスに乗っていた。マナーリーに戻りたくなかったし、シュリーナガルが本当に美しく危険な場所なのか見ておきたかったからだ。
同伴者が2人いた。1人はカシュミール人でシェフィーという。彼とは昔パハール・ガンジのソーヌーさんのオフィスで会ったことがあった。そして昨日偶然レーで再会したのだった。10億人の人口がひしめくインドにおいて、知り合いと偶然出会うというのは奇跡的なことだ。シュリーナガル行きのバス・チケットは、ナシールさんというこれまたカシュミール人の旅行代理店で手配してもらったのだが、シェフィーさんとナシールさんは従兄弟だった。そしてナシールさんの計らいでシェフィーさんも一緒にシュリーナガルへ来てくれることになったのだった。また、ナシールさんのオフィスでシュリーナガル名物ボートハウスの宿泊も予約しておいた。
もう1人は日本人で、僕と同じくこの時期にシュリーナガルへ行こうなんて考えるクレイジーな人だ。Nさんという。彼は神戸から新鑑真号に乗って上海に渡り、そこからチベットまで行き、ネパールを抜けてインドに来たそうだ。シュリーナガルとカシュミール人の悪評は耳にタコが出来るほど今まで聞いている。だから同伴者がいると心強かった。
レーを西に向けて出発したバスは、岩山と荒野の中を突っ走った。ガタガタ揺れるのは道路の砂利のせいではなく、どうやら車体がボロなだけのようだ。スピードも心なしか遅い。「つ」の字のようなカーブを大型バスが難なく曲がっていくのを見ると、インドのバス運転手の運転技術の高さを賞賛したくなる。しかし道は片側が断崖絶壁になっていることが多いので、どんなにインドの運転手がうまいとは言え、窓の下を眺めながらカーブを曲がると非常にスリルがある。遊園地のライドなんて問題じゃないくらいスリルがある。バスはやがてインダス河と合流し、その流れに沿ってさらに西に進んだ。レー〜シュリーナガル間の最高標高は4100メートル程度。このくらいの高さならもう楽勝だ。その峠を越した後は、ほぼ下り坂となる。
やはり土と砂と岩が織り成すダイナミックな景観なので、窓の外を見ていて全然飽きない。途中、ムーンランドという月面みたいな景色の場所があったり、ラマユル・ゴンパのそばを通ったりした。また、ところどころにラダック人の町があり、町の近辺は急に緑の広がる田園地帯となっていた。
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ラマユル・ゴンパ |
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途中でアクシデントがあった。自動車が1台しか通れないような道でトラックが脇の溝にタイヤをはめてしまい、動けなくなっていた。そのトラックをどけないことにはその道は通れそうになかった。早速道の両側には通行止めとなって足止めされたトラック、バス、ジープが溜まって行った。それらの乗客は野次馬となってその事故現場近くに座り込み、トラックのタイヤをなんとか溝から抜け出させようとしている人々を観察していた。あ〜でもない、こ〜でもないと試行錯誤しつつ1時間以上過ぎ去ってしまった。警察や軍隊もやって来たが、彼らはあまり役に立ってなかった。そのトラックを別のトラックで引っ張ってタイヤを抜け出させ、溝を石と砂で埋めて一気に前進させる方法でトラックの車輪は道路に戻った。こうして無事道は通れるようになった。
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アクシデント |
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レーの周辺部も軍隊の駐屯地が多かったが、レーからシュリーナガルへ向かう道のそばにも軍隊の駐屯地はかなり多かった。外国人のパスポート・チェックも何度もあったし、インド人乗客すらIDカード・チェックが行われていた。
今回乗ったバスはツーリスト・バスで、普通のローカル・バスよりも少しだけランクが高く、シートはクッションが効いていて割と快適だった。ところが乗客の質が悪かった。僕とNさん以外はインド人だったのだが、中にどう見ても乞食にしか見えないような家族が乗り込んでいた。しかも彼らは始終うるさい。一人酒飲みがいて、訳の分からないことをバスの中で喚いて乗客からヒンシュクを買っていた。
カルギルに到着した。一応レー〜シュリーナガル間の中間地点にあり、けっこう大きな町だった。なんとなく雰囲気は、「スターウォーズ」に出てくる惑星タトゥイーンという感じで、ならず者の町、といった雰囲気だった。シュリーナガル行きのバスはこの町で一泊することもあるそうなのだが、僕たちの乗ったバスは休憩しただけでさらに進むことになった。
ドラースという町に着いたときには午後8時頃になっていた。バスは一旦この町で止まり、乗客は今夜この町で一泊する。ドラースは「人間が住む町の中では、世界で2番目に寒い場所、インドではもっとも寒い場所」と言われているらしいのだが、そこまで寒いとは思えなかった。また、パーキスターンとの停戦ラインがかなり近くまで迫っている地点でもある。ここには割ときれいなホテルがあって1泊300ルピーくらいなのだが、どうせ明日の朝2時発で寝れる時間もそんなに長くないので、バスの中で眠ることにした。
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7月18日(木) 噂の真相 シュリーナガル |
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なぜこんな早く出発するのか分からないが、バスは本当に朝2時にドラースを出発した。ドラースに泊まっていた他のバスやトラックも2時になったら一斉に動き出したので、2時に出発しなければならない何か切実な理由があると思われる。
2時に威勢良く出発したものの、バスは道の途中で止まってしまった。見ると道の前の方からずっとトラックやバスやジープが並んで止まっている。しばらくそのまま止まった後、また一斉にそれらがシュリーナガル向けて動き始めたりした。多分軍隊が道を開けるのを待っていたのではないかと思う。
だんだん日が昇り始めた。ドラースを過ぎた辺りには、山のあちこちに氷河が見受けられた。確かにこの辺りは寒いところなのだろう。その氷河地点の道路は最悪に悪く、道路は砂利だらけ、片側は断崖絶壁、しかも道幅が狭いという恐怖の道だった。しかしまだ朝早く、対向車がほとんど来なかったので、大したトラブルもなく通り抜けることができた。
だんだんと緑が増えてきた。ソーナーマールグという町に辿り着いたときには、辺りの風景は岩山と砂利から、木々の生い茂る山と田畑という風景に変わっていた。ラダックからカシュミールへ、確かにカシュミールは緑豊かな美しい場所だと思った。もう標高も2000メートルぐらいまで下がったので、空気もちょうどいいぐらいの清々しさだ。
だんだんシュリーナガルに近付いてきた。今までの牧歌的な風景とは違い、次第に都市的になって来た。しかし見たところ普通のインドの町とあまり変わらない。「地上の天国」と謳われるまでに至るほどの美しさは微塵も感じない。それと同時に、「インドで最も危険な町」という感じでもない。
と、突然バスに乗り込んでくる男がいた。彼は僕の名前とパスポート番号を持った紙を持っていた。ナシールが手配してよこした人間で、多分ナシールの弟か何かだ。今夜泊まるハウスボートまでの案内人だ。僕は彼に付いて行こうと思ったら、シェフィーが止めた。シェフィーは僕らを自分のハウスボートへ連れて行くと主張した。そしてシェフィーとその男の口喧嘩が始まった。・・・どういうことだろうか?最初全然理解ができなかった。ナシールは僕らを安全にシュリーナガルに送り届けるためにシェフィーを同行させたのではないのか?そもそもナシールとシェフィーは従兄弟で、ナシールとその男が兄弟だとしたら、この2人は親戚同士ではないか?バスの乗客も当然のことながらその話に加わってくる。彼らは僕に「自分の好きな方のハウスボートに泊まりなさい」とアドバイスしてきた。Nさんは完全にシェフィーの方を信用しているので、ナシールたちのハウスボートの予約はキャンセルすべきだと言っていた。とりあえずシェフィーとその男に口喧嘩をさせたまま、僕はどうしようかと考え、バスはそのままシュリーナガルのバス停まで辿り着いた。
バス停にはナシールの手配したワゴン車が止まっており、途中でバスに乗り込んできた男の他に数人また待機していて、僕を彼らのハウスボートへ連れて行こうと待ち構えていた。シェフィーはオート・リクシャーをつかまえてそれで自分のハウスボートに向かおうとしていた。シェフィーとナシール派の男たちは激しく口論しており、バス停にいた警察がそれをフムフムと聞いていた。僕たち日本人2人はどうしたものかと荷物を背負って行動しあぐねていた。そんな喧騒の中になぜか黒いブルカを頭からスッポリかぶったムスリム女の乞食がやって来て、僕たちに無言で手を差し出していた。傍から見たら、カシュミール人同士の口論、呆然と立ち尽くす日本人2人、野次馬的な警察、とりあえず止められたがどこに行ったらいいのか分からないリクシャー・ワーラー、そして乞食が一堂に会し、全く異様な光景だっただろう。
結局は僕の決断にかかっていた。今まで培ってきた経験を総動員させて考えたが、強引にどこかへ連れて行こうとする奴らが一番怪しい。ナシール派の連中はもう何が何でも僕をハウスボートに連れ込もうとする魂胆らしく、その強引な態度が僕の信用を失わせた。よって僕はNさんと共にシェフィーに付いて行くことに決めた。リクシャーに乗って出発しようとしたのだが、ナシール派の男たちがリクシャーにしがみついてきて止めようとした。それでも振り切って走っていったら、今度は道を先回りして前方で待ち伏せしており、しかも警察も一緒だった。そこで僕たちは一旦降ろされ、またシェフィーと男たちの口喧嘩が始まった。警察はその口喧嘩に耳を傾けているだけで、何もしようとしなかった。僕もシュリーナガルに着いた途端のこの馬鹿騒ぎにかなり腹が立っていたので、「もうシュリーナガルには滞在したくない。シュリーナガルなんて嫌いだ。今からアムリトサルへ行く」と怒鳴った。結局ナシール派の男たちが諦めたようで、もう深追いしてこなかった。僕たちは再びリクシャーに乗り、シカラ(小舟)乗り場へ行った。
シュリーナガルには大きな湖があり、その湖上にいくつもの船が浮かんでいる。この船は宿泊施設を備えており、ハウスボートと呼ばれている。ハウスボートは基本的に固定式なので、このハウスボートに渡るためにシカラという小舟に乗って湖を渡る。僕たちはとりあえずシカラに腰を下ろし、一段落落ち着いた。湖を駆け抜ける風が気持ちよく、遠くに見える青い山々も涼しげだ。ハウスボートが並ぶ中をシカラで進み、シェフィーさんのカーン・パレスというハウスボートを目指した。湖の上にはいくつものハウスボートや商売ボートが行き来し、まるでヴェネツィアのようだった。タイの水上マーケットを意識しているのか、「Bangkok」などと書かれたハウスボートも浮かんでいた。さっきの市街地での喧騒が嘘に思えるほど、湖の上は平和で静かで涼しくて、「この世の天国」という意味が少し分かってきたように思えた。
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ハウスボート |
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小舟で移動 |
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シェフィーさんのハウスボートは中心部から離れたところにあった。早速上がって様子を見てみた。ハウスボートの中はアタッチド・バスのシングル・ルームとダブル・ルームがひとつずつあり、あとはダイニング・ルームとリビングルーム、それにベランダがあって、思っていたよりも豪華だった。
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カーン・パレス |
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シュリーナガルが危険だと言われる最大の理由は、あの客引きの強引さだろう。何が何でも自分のハウスボートに旅行者を連れ込もうとする。しかも1回連れ込んでしまったら、そこは湖の上。ほぼ監禁状態だ。旅行者はどこにも行くことができない。ホテル側の言いなりになるしかない。そしてインド滞在予定期間の大半をそのハウスボートで過ごす羽目になってしまう。これが一番危険である。行ってみれば、パーキスターンとの国境紛争に関しては、全く心配する必要のない街であることは一目瞭然である。しかもイメージしていたのとはちょっと違ったが、それでも十分一生に一度は行ってみたい風光明媚な場所であることは確かだ。あの強引な客引きさえいなければシュリーナガルは文句なくオススメの場所だったのだが、特にインド初心者にはカシュミールの客引きは危険過ぎる。シュリーナガルはやはりあまり外国人旅行者が気軽に訪れるような場所ではないと僕は思った。
シュリーナガルは避暑地だけあって、デリーでは40度を越すような暑さの今でも快適に過ごせる。昼間は半袖のTシャツで十分だし、夜になっても全然冷え込まない。特にハウスボートに泊まっていると、湖の上なので風も清々しく過ごしやすい。しかもハウスボートは全く揺れないので船酔いする心配もない。ただ心配なのは、船内で使われている水も湖の水だし、トイレから流れた水が行き着く先も湖であることだ。衛生的に大丈夫なのだろうか・・・?
今日は昼からシカラに乗ってシュリーナガルの湖を遊覧した。Nさんと一緒に行ければよかったのだが、Nさんは低予算バックパッカーのため、あまりこういう金のかかることはしたくないそうだ。僕は一泊食事付き480ルピーのつもりで来ていたのでよかったが、彼はシェフィーさんのハウスボートにタダで泊まれると思っていたらしく、かなりナーバスになっていた。シカラの値段は7時間遊覧して700ルピーだった。ヴァーラーナスィーのガンジス河のボートに比べたら圧倒的に高いが、もともと金持ちインド人や外国人が避暑に来るような場所なので、全体的に物価は高めである。僕と一緒に、シェフィーの弟のジョンが来てくれて案内してくれた。
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シカラ |
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僕が乗ったシカラはもっとも安いクラスのものだったが、それでも乗り心地はよい。屋根がついているので太陽の光も遮断されるし、座席にはクッションが敷いてある。漕ぎ手が後ろに1人座って、ゆっくり一本のオールで漕いでくれる。シュリーナガルの湖は概してまあまあきれいで、水中を覗き込むと海藻がいっぱい茂っているのが見える。メダカやフナのような小さめの魚が時々フラフラと漂っている。
まずはダル湖に浮かぶ小さな島に上陸した。しかし荒れ果てた花畑しかなくて荒涼とした気分になった。次に行ったムガル庭園は、タージ・マハルを造ったシャー・ジャハーンが造ったもので、こちらはかなり整備されていて、水路にちゃんと水が流れていて噴水も出ていて、非常にいい雰囲気だった。入場料無料なので、暇なインド人たちがやって来てくつろいでいた。今日は金曜日、ムスリムの休日の日、そしてシュリーナガルの大半はムスリム、というわけで、今日は1週間の中で一番混雑していたかもしれない。シュリーナガルで日本人は珍しいみたいで、かなり注目された。
次にまたシカラに乗って、ホワイト・モスクと呼ばれるモスクのそばまで行った。異教徒は中に入れないらしく、外から眺めただけだった。シュリーナガル人はホワイト・モスクを「シュリーナガルのタージ・マハル」と呼んでいるみたいだ。そこまで立派な建物ではないが、今日は礼拝の日なので信者がたくさん礼拝に来ていたのが印象的だった。
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ホワイト・モスク |
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次にナギーン湖へ行き、バタフライ・ハウスボートを見た。これも外から眺めただけだ。後ろに付いているベランダの部分の屋根が蝶々型になっているユニークなハウスボートだった。他のハウスボートはどれも似たり寄ったりの装飾や形なので、バタフライ・ハウスボートはかなり異彩を放っている。ちょうどその近くで休憩となったので、20分くらいかけて簡単にバタフライ・ハウスボートのスケッチをした。
ナギーン湖から運河に入り、シュリーナガルの旧市街へ入った。ここに入ると急に水が汚なくなり、臭いにおいがしてくる。しかし周りの景色はとても楽しかった。数十年前の建築物が並んでおり、ジャイサルメールのハヴェーリーに似た建物があったりした。また、シュリーナガルにしては珍しく、その辺りはヒンドゥー教徒の移住地域で、ヒンドゥー寺院があった。この辺りを通っていたら、ディズニーランドの「カリブの海賊」の最後の方を思い出した。あの雰囲気にけっこう似ている。途中子供に投石攻撃を受け、撃沈されそうになった。
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旧市街の運河 |
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シェフィーのハウスボートに戻ってきたのは午後7時頃。帰り着いてみると、Nさんはまだハウスボートにいた。今日チェック・アウトしようかな、と言っていたのだが、結局ずっとハウスボートにいたらしい。それだったら僕と一緒にシカラに乗った方が楽しかったのに・・・。ずっとシェフィーにトレッキングを薦められ続けて疲れたらしい。
どこから聞きつけたのか、夜、宝石商が小舟に乗ってカーン・パレスを訪ねて来た。暇だったので僕は宝石商の商売話に付き合ってあげた。特に何かを買うわけでもないが、商魂豊かなインド人商人のトークを聞いていると、インド人の言う「タイム・パス(暇潰し)」になる。それに物を見る目も付く。宝石商は布に床を敷き、舟からいくつかスーツケースを取り出してきて宝石を並べ始めた。
実はこの避暑旅行に出る直前に大家さんの家で占い師に出会った。彼とは前にも1、2度出会ったことがあった。彼は初めて会ったときに、僕に「君は過去に犬に噛まれたことがあるだろう」と言ったことがあったが、そのときもなぜか同じことを言った。よっぽど僕の顔には犬難の相が出ているらしい。その他、僕のラッキー・カラーは黄色と言っていたが、そのときもやはり黄色がいいと言った。それと同時に新しい占いも言ってくれた。まず僕は腎臓か腸か、腹部に問題があるらしい。そして芸術方面でもっとも名を成すことができるらしい。また、結婚後に大きな幸運に恵まれるらしい。どっからどうやってそういう占いを弾き出しているのかは知らないが、一応誕生日は教えたものの、これらの占いはただ僕の顔を見て目をつぶって頭の中で何やら計算して言ってくれる。そして最後に、右手の人差し指に金製のトパーズの指輪を付けるべきだ、とアドバイスしてくれた。その言葉がやけに頭に残っていた。
という訳で、宝石商が一生懸命並べてくれる宝石の中でもとりわけトパーズに目が行った。トパーズは僕の誕生石でもある。他の宝石に比べてあまり高くないので買いやすいと言えば買いやすい。指輪の他、ブレスレットやペンダント、ネックレスなど、いろいろ並べてくれたが、買う気になるようなものはなかった。しかもベランダの部分で商談をしていたため、蚊にたくさん喰われた。ダル湖の蚊は大きくて、刺されると数日間かゆみが引かないそうだ。でもいい暇潰しになった。
本当は今日ぐらいにシュリーナガルを発ちたかった。シュリーナガルで大体僕の今回の避暑旅行の旅程は終了なので、あとはデリーへ向かうだけだ。ところが、シュリーナガルから南へ向かうには、必ずジャンムーを通らなければならない。先日起こったテロ事件が一段落ついたのかは情報があまりないが、もうひとつ、今ジャンムーではヒンドゥー教の大きな祭りが行われているそうだ。ヴァイシュノー・デーヴィーという女神の祭りである。シュリーナガルからジャンムーへ向かう道はこれまた山道で、しかもあまり道がよくないらしく、一度に多くのバスやトラックが行き来するとアクシデントとなるので、政府が一方通行にしてしまったらしい。つまり、今日と明日はジャンムーからシュリーナガルへの一方通行、月曜日と火曜日はシュリーナガルからジャンムーへの一方通行ということになってるそうだ。これらの情報は全て宿の人の話で、僕は湖の真ん中にいるので実情を確かめに行くことができないので、本当かどうかは分からない。でも、とにかく僕は月曜日にならないとシュリーナガルを出れないことになってしまった。まさに監禁状態である。
今日もシェフィーは僕にいろいろツアーを勧めて来たが、もうお金が尽きようとしているし、これ以上お金を使いたくないので、今日と明日はハウスボートでゆっくりさせてもらうことにした。代わりにシェフィーといろいろ話をした。ちなみにNさんは朝早く出て行ってしまった。再びレーに戻るらしい。
実はシェフィーの奥さんは日本人である。10年前くらいに結婚したらしい。シェフィーと奥さんはハウスボートを買い、シュリーナガルでビジネスを始めた。シェフィーのカーン・パレスはかつて「地球の歩き方」に載ったほどだ。しかし、カシュミール州が置かれている政治的に微妙な立場から、シュリーナガルへ訪れる旅行者は年々減少していき、ビジネスが成り立たなくなったようだ(他にもいろいろ原因があるようだ)。彼が明かしてくれたことには、なんと僕たちは1年ぶりの宿泊客らしい。そんな状態だから、シェフィーは今非常にお金に困っているようだ。しかしそんな話は今インドでは腐るほどあるから僕は何の感慨も沸かない。驚いたのは次の話だ。シェフィーの奥さんは94年にはもうシェフィーのもとから日本に逃げてしまったらしい(離婚はしてないそうだが・・・)。シェフィーはその原因について、その時分は自分はお金を稼ぐことを知らず、全て彼女任せで、彼女にいつもお金をせびってばかりいたから、愛想を付かされて逃げられてしまったんだ、と語っていた。もともとシェフィーは旅行者相手のビジネスをしようとは思っていなかったらしい。ところが、シェフィーは奥さんに逃げられてから、人が変わったように観光ビジネスの世界に飛び込み、一生懸命経験を積み、お金を稼いだそうだ。そして、今でも彼は奥さんのことを愛している。もう一度彼女に会いたい、見るだけでもいい、それだけが夢だ、と語っていた。そして今の自分、立派に稼げるようになった自分を見てくれれば、彼女は再び自分と一緒に暮らしてくれるだろう、とも語っていた。両親はインド人と再婚することを勧めているみたいだが、シェフィーは「オレはカシュミール人の男だ、一生で愛する女性は一人だけだ」と言っていたのでかっこよかった。そして哀れだった。はっきり言ってインド人は恋愛に関しては驚くほど純粋だ。まるでインド映画音楽の歌詞のような恋愛をしている。一方で日本人の女は何なのだ?これは全て日本人女性が作り出した問題だと思う。安易な気持ちでインド人のような純粋な外国人をたぶらかし、結婚して現地に住み、旅行者相手の商売をし、都合が悪くなると日本に逃げ帰る無責任な女が多すぎる。現地人と旅行中に一時的に肉体関係を持ち、現地人を本気にさせておきながら、日本に帰って二度と彼のもとを訪れない女はもっと多い。彼らは本気で彼女たちのことを待っている。驚くほど純粋な気持ちで待っている。なぜそういう純粋な人々の心を踏みにじるようなことをするのか。シェフィーに「彼女は戻ってきてくれると思うか?」と聞かれたときに、何と答えていいのか分からなかった。日本人の彼の妻が日本に逃げてから、もう10年が経とうとしている。
今日は特に何もせずに1日が過ぎ去ってしまった。夕方から雨が降り出して、そのままずっと夜まで降り続いたので、結局今日はどこにも行かなくてよかったかな、と諦めがついた。
カシュミール人というのは、お金が絡まないと何も行動を起こさないような、根っから商売人気質の民族である。今日も暇になってしまうので、シェフィーの弟ジョン(17歳)に、シュリーナガルの町を案内してくれよ、と頼んだら、「じゃあ君の持ってる物の何かと僕の持ってる物を交換して。そしたら案内してあげるよ」と言われた。彼は僕の時計、Tシャツ、カメラなどに目をつけていたらしいが、結局Tシャツ1枚をジョンにあげることになった。最初は交換ということだったが、ジョンの持ってるTシャツはしょうもない質のものばかりだったので、もらっても仕方なかった。どうせユニクロで買った1000円のTシャツだし、あまり気に入ってなかったのがあったので、まあいいか、と思った。
ジョンと町へ行く準備をしていたら、またどこから聞きつけたのか知らないが、商人が僕の泊まってるハウスボートを訪ねて来た。彼は革製品の商人だった。なかなかどうして彼の持ってる品々は手が込んでいて感心した。もしこれが日本の輸入雑貨屋なんかに置いてあったら、絶対に売れるだろうと思うぐらい良質だった。ジャケット、バッグ、小物入れなど、丁寧に刺繍がしてあったりしてセンスもよかった。ジャケットの中で気に入ったものがあったのでキープしておいた。彼の言い値は65ドルだった。それはそのままにしておいて、他の品々を見ていた。彼が席を外している間に、僕はある小物入れを探っていた。そしてチャックを開けて中を見てみると、中から紙切れが出て来た。そこには「140ルピー」と書かれていた。インド商人にしては珍しく失態を犯したものだ、値札を入れたままにしてしまっていた。僕は何も言わずそれをしまい、彼が戻ってきたときに何気なくその小物入れの値段を聞いてみた。彼は「450ルピー」と言った。なるほど、約3倍の値段をふっかけてきているわけか。その後の値段交渉はもう赤子の手をひねるようなものだった。これから夏なのでさっきの65ドルのジャケットは必要なかったのだが、一応かっこよかったので値段交渉をしてみた。僕の言い値は「20ドル」。彼は「そんなの無理だ。」と笑い飛ばしながらも「40ドル」まで値段を下げてきた。もともと僕は必要ないので、「あ、そう、じゃあいらない」という態度に出た。もちろん彼は食い下がる。「じゃあいくらなら買う?君のラスト・プライスを聞かせてくれ」と言ってきた。僕は断固として「20ドル」。他に学校へ通うときによさそうなバッグがあった。彼の言い値は「1500ルピー」。しかし僕は断固として「500ルピー」。一旦交渉は決裂したので、そのときに種明かしをしてあげた。こんな紙切れが入っていて、あなたが約3倍の値段をふっかけてきていることが分かったんだよ、ということを教えてあげた。それまでの彼は非常に紳士的に接して来ていたのだが、その種を明かされてからはもうだだをこねる子供のようになってしまった。「うちは貧乏で、今シュリーナガルは全く外国人旅行者が来なくて商売あがったりで、なんとしてでも買ってもらわなければならない。頼むから買ってくれ」と泣きついてきた。僕だって別に慈善事業を行いにシュリーナガルに来たわけではないので断り続けたが、とうとう彼はジャケットに対して、僕の言い値の20ドルをあっさり呑み込んでしまった。こうなってしまうと買わざるをえなくなる。僕はそのジャケットを買うことになってしまった。余計な荷物が増えてしまった。これで終わりかと思ったら、彼はさらに気が触れて、もう何でもいいから、いくらでもいいからあと1つ2つ買ってくれと言い始めた。先程の言い値1500ルピーのバッグに対して、僕は適当に「5ドル(約250ルピー弱)なら買うよ」と言ったら、彼は僕に抱きついてきて「ありがとう、兄弟」ということになってしまった。だからそれも買わざるをえなくなってしまった。合計25ドルの出費である。・・・シュリーナガルの経済は今相当冷え込んでいるらしく、旅行者はまるでその救済者のような扱いになっているように思えた。このまま長居するとお金をどんどん彼らに寄付しないといけなくなってしまう。
その商人と茶番劇をしていたおかげでジョンと市内観光をする時間が減ってしまった。まずはローカル用シカラに乗って陸へ。カーン・パレスから町の入り口にあるシカラ乗り場までたったの5ルピーだった。一昨日払ったシカラ・ツアー700ルピーはいったい何だったのだ・・・これも救済か・・・?
まずは写真屋へ行った。シェフィーから、カーン・パレスを紹介する写真を撮ってほしいと頼まれたのでデジカメで撮ったのだが、シュリーナガルにデジカメの画像ファイルをすぐに現像できるところがあるそうで、そこへ行くことになったのだ。確かにその写真屋はFujiのファイン・ピックスを持っており、デジカメの現像をする設備も持っていたので驚いた。ちゃんと僕のデジカメの記憶媒体であるコンパクト・フラッシュにも対応していた。しかし8枚現像するのに500ルピーものお金をとっていたので、ジョンはやめてしまった。しかも写真屋は僕のコンパクト・フラッシュに入っていた、僕が今まで撮った写真ファイルを全部自分のPCへコピーしやがった。僕は黙って見ていたが、悪いことに使わないことを祈る。
次にネット・カフェに行った。ずっとメールをしていなかったので、僕の消息を心配している人もいるだろう。日本語が使えるところもちゃんとあり、そこでネットをした。が・・・ホットメールにサイン・インしようと思ってもサイン・インできない。どうもパスワードが違うらしい。自分で変えた覚えはない。まさか誰かが僕のパスワードを破って勝手にパスワードを変えてしまったのかもしれない。そういえば今まで何度かネット・カフェでメール・チェックをした。ダラムシャーラーとレーだ。そのときに何らかのデータがクッキーか何かに残っていて(または残るように細工されていて)、パスワードを盗まれたかもしれない。とにかくデリーの自宅に帰ってもう一度確認してみることにして、今日は納得できない気持ちのままネット・カフェを出た。
それからジョンはシュリーナガルの町を歩いて案内してくれた。ネット・カフェで会った彼の友達も一緒に付いて来た。ちょうど今日は日曜日で市場は閉まっているところが多かったので残念だったが、今までずっとハウスボートの中に閉じ篭っていたので、久しぶりの陸歩きを楽しむことができた。カシュミール人というのは、もともとペルシアから来た人が多いみたいで、背が高く、目鼻立ちがくっきりしており、瞳の色が薄く、顔つきはかなりアーリア人の面影を残している。はっきり言って美男美女揃いである。一緒に付いて来たジョンの友達も相当なハンサム・ガイで、いかにも日本人の尻軽女が好みそうな顔だった。しかも彼は女物のアクセサリーを付けるのが趣味みたいで、それがまたなぜか似合っていたりするからにくい。シュリーナガルは別の意味で危険だ・・・。日本人の女を来させてはならないかもしれない。
最後にジョンたちが通っているゲーセンに連れて行ってもらった。そこには古いゲーム機が2台。1台は故障中らしく稼動していなかった。もう1台にはなんと鉄拳3が入っていた。僕は鉄拳2までならいくらか経験がある。早速ジョンたちと対戦してみたが、彼らも相当やりこんでいるらしく、いろいろ技も知っていて勝てなかった。2回対戦して5ルピーだった。
一度ハウスボートに戻ってから、今度はシェフィーと一緒にシカラで出掛けることになった。この前宝石商がハウスボートを訪ねて来たとき、僕がトパーズの指輪を探しているのを見て、気を利かせて「オレの知り合いに100%信頼できる宝石商がいるから、そこへ連れて行ってやる」と言っていた。僕も暇だったし、シカラに乗って移動するのは気持ちいいので、暇潰しがてらそこへ行くことにした。
その宝石商はパハール・ガンジに店を持っているリッチな宝石商で、僕たちが訪れるとまずは高級なカシュミーリー・チャーイでもてなしてくれた。この前の宝石商と同様、箱の中にいろんな宝石や服飾品が雑多に詰め込まれているので、ひとつずつ紙包みを開けてひとつずつ商品を僕の目の前に置きながらひとつずつ説明してくれた。僕の目当てはトパーズだけだったので、商談はしやすかった。この前の宝石商の持っていたトパーズの指輪は、どれも装飾が激しすぎて女物っぽくて好きになれなかったのだが、彼の持っていたトパーズの指輪はシンプルでよかった。彼の言い値は「700ルピー」。僕の言い値は「200ルピー」。僕は「こんなの日本なら300ルピーで買えるよ(本当は知らない)」とか大法螺吹いたりして撹乱作戦に出た。次の僕の言い値は「10ドル(480ルピー)」。かなり譲歩した形になった。彼は「10ドル+160ルピー(640ルピー)」と、小刻みに値下げしてきた。さらに譲歩し、僕は「11ドル(528ルピー)」、彼は「10ドル+100ルピー(580ルピー)」。実際のところ、僕は宝石を身に付けたりする趣味はないので、これもジャケットと同じく滅茶苦茶欲しいものではなかったが、なぜかインドに住んでいる内に値段交渉を楽しめるようになってきて、とりあえず気に入ったものを自分で値段を見極めて口にする癖が付いてしまった。とうとう11ドルで話がまとまって、これも買うことになってしまった。今、右手の人差し指には占い師に言われた通り、トパーズの指輪がはまっている。金の指輪はけばくて好きではないので、買ったのは白金のリングだが、自分でトパーズの指輪がはまっているその右手を見てみると、インド人になったような気分がしてきて楽しい。インド人は大体自分の誕生石やその他同じように占い師にアドバイスされた宝石を指輪にして身に付けている。確かに宝石には身体に作用する何らかの力があるらしいが、僕には今のところスパシーボ効果的な幸せ感ぐらいしか感じられない。
今日は最後の夜ということで、シェフィーの家族と一緒に食事をとった。シェフィーの家族はハウスボートの裏にある家に住んでいる。お父さん、お母さん、弟のジョン、そして妹が4人いたが、3人は結婚して家を出たため、今1人家に妹が残っている。僕が今まで食事をするときは、必ず僕1人だけが食事をしていた。これはインドの習慣で、まずお客さんが食べてから、家の人が食事をするのだ。しかし今日は家族一緒で食事をした。これはつまり、僕も家族と認めてもらった証だろう。ただ、妹だけは廊下にいて、みんなが食事をとっていた部屋には入ってこなかった。シェフィーの妹も実はかなり美人で、もう結婚適齢期くらいである。だから外部の人間から隔離されているのだろう。別に完全に隔離されているわけでなく、今までも会ったときに話はしたが、やはり少し気まずい感じがする。ちなみにカシュミールの料理は実はけっこううまい。肉料理中心かと思ったが、野菜のカレーもおいしかった。
結局シェフィーのハウスボートには4日間滞在した。少なくとも最後の一泊は望んで泊まったわけではないので、シェフィーは最初3泊分しか払わなくてもいいと言っていたが、最後になってちゃっかり4泊分を要求された。シェフィーは比較的信用できる人物と思っていたが、それでもカシュミール人なので金にはうるさいし、宿泊中もかなり多めに金をとられていた、つまりぼったくられていた。はっきり言って、ハウスボートを経営している人間で、信用できる人物は1人もいないと言い切っていいだろう。湖の上に浮かぶハウスボートに泊まったが最後、何をしようにも料金は向こうの言いなりになってしまい、自分で帰りのバスの予約へ行くこともできなくなる。有り金全部使い果たすか、帰りの飛行機の期限が来るまでずっとハウスボートに宿泊させられることもあると言う。これがシュリーナガルの本当の怖さである。ただ、ハウスボート以外にも陸上に普通のホテルがあるし、陸地につながっているハウスボートもあるので、トラブルを避けたい人はそういうホテルに泊まった方が無難だろう。現にインド人旅行者は、湖上のハウスボートには滅多に泊まらず、陸上のホテルに宿泊しているらしい。ハウスボートはほぼ外国人旅行者をターゲットに経営されている。それより何より、貧乏旅行者は絶対にシュリーナガルに来てはならないと思った。
早朝、シェフィーに送ってもらって、ジャンムー行きのバスに乗り込んだ。ヴィデオ・コーチと呼ばれる高級バスだ。前方にテレビが設置されており、ずっとヒンディー映画が上映されていた。シュリーナガルからジャンムーまではひとつ山を越えていくので、当然道は山道である。この前シェフィーは、ヴァイシュノー・デーヴィー女神の祭りの関係でここ最近ジャンムー〜シュリーナガル間の道が一方通行になっている、と言っていたが、どうやらそれも嘘だったみたいだ。余裕で対向車が来ていた。僕を長く滞在させるための騙しだったようだ。途中で1回ポリス・チェックがあり、トンネルもあった。シュリーナガルからジャンムーまで10時間かかり、午後4時過ぎに到着した。
ジャンムーまで来るとさすがに暑い。もうシュリーナガルの涼しい風は届かない。ここでデリー行きの夜行バスを予約した。そのバスは午後8時発だったので、しばらく待つことになった。別にジャンムーで見るべきものもなさそうだったので、ずっとバス会社のオフィスに座っていて、そこの人々と会話を楽しんだ。シュリーナガルではカシュミーリー語が日常会話として使われていたが、ジャンムーではどうやらヒンディー語(ウルドゥー語)が一般に使われているみたいだ。僕の持っているデジカメがやたらと注目を浴びて、いろんな人から売ってくれ売ってくれと言われたが、もちろん売るはずがなかった。中には現金1万ルピーを差し出してきた人もいた。
ジャンムーからデリーへの道は平坦な道なので早い。僕はバスが動き出すと同時に眠ってしまったので、あまりどこをどう通ったのか記憶にない。
目を覚ましたらちょうどクルクシェートラの辺りをバスが走っていた。そこからデリーまではまだ2時間ほどあった。デリーに近付くにつれて、生ゴミの臭気、排気ガスの臭気、人間の臭気などが一度に鼻に入ってくるようになり、改めて僕はこんなひどいところに住んでいたのかと気付かされた。今まで空気のきれいなところにいたので、デリーの汚染が余計敏感に感じられた。
僕の乗ってきたバスはプライベート・バスだったので、多くのバスが発着するISBTには行かず、変なところで降ろされてしまった。近くにいた悪者顔のオート・ワーラーにガウタム・ナガルまでの値段を聞いてみたら250ルピーと言うのですぐに降りた。しばらくその辺りをフラフラしてみたが、一向に地理感が沸かない。バスも全部満員状態で乗る気になれない。さっきの悪者顔のリクシャーがまた寄ってきて、今度は125ルピーという運賃を提示してきた。ちょうど同じ方面に行く乗客が見つかったみたいで、その人とシェアして行くことにした。
2週間家を留守にしていたので、案の定僕の部屋は再び砂埃だらけになっていた。もう一度学校が始まる前に旅行に出掛けるつもりなので、もう掃除する気になれない。放って置くことにした。
帰ってすぐにホットメールをチェックしてみたが、やはりサイン・インできない。秘密の質問も変更されてしまったようで、全然分からない。仕方ないのでホットメールのカスタマー・サポート・センターに助けを求めるメールを送っておいた。そのホットメールのアカウントはもう4、5年使用しており、迷惑メールがやたらと届くようになっていたので、そろそろ新しいアドレスを作ろうかと思っていた。これを機に新規作成してもいいのだが、他人が自分のメール・アドレスを使用するのは気持ちいいものではない。最悪でもアカウントを消去してもらわなければならない。
午後からPVRアヌパム4に今話題の映画「Devdas」を見に行った。ところが現在この映画は大ヒット中で、封切2週間経っているというのに満席状態でチケットが手に入らなかった。今年のヒンディー映画界は駄作続きで、先行きを心配していたのだが、「Devdas」のヒットにより幾分盛り返すと思われる。ちょうど去年の今頃は、「Lagaan」と「Gadar」がWヒットしていた。きっと今ぐらいが勝負時なのだろう。
家に帰ると大家さんに呼ばれた。実はこのとき旅行から帰ってきて初めて大家さんに会った。大家さんは僕を見るなり「棒を持って来い」と怒っていた。僕がどこへ行くか告げずに2週間も留守にしていたのを怒っていた。というよりかなり心配をかけたみたいだ。なんと警察にも報告したらしい。もともともっとすぐに帰ってくる予定だったし、出掛けるときちょうど大家さんが留守にしていたので、こうなってしまったのだが、確かにどっかから電話をかけるべきだった。Eメールが使用不能になっていたのもタイミングが悪かった。すっかり大目玉を喰らってしまった・・・。
今日こそは「Devdas」を見ようと、昼頃チャーナキャー・シネマへ出掛けていった。ところがここもチケットは売り切れ状態。かろうじて、夜9時45分からの回のチケットが入手可能だった。その回を見ると終了するのは夜1時頃になってしまう。一瞬どうしようか迷ったが、善は急げということで購入しておいた。
チャーナキャー・シネマの前にはなぜかチベット料理屋が固まっている。ダラムシャーラーやラダックを旅行し、本場のチベット料理を食べてきたので、舌がその味を覚えている間にデリーのチベット料理の質を確かめておこうと思い、そこでチキン・モモ(45ルピー)を食べてみた。そしたら、本場で食べたモモよりも断然うまかった。案外本場の味はしょうもないこともあるものだ。とは言っても、僕はあまりおいしいレストランを探し当てる嗅覚に長けてないので、もしかしたらダラムシャーラーやレーにすごいおいしいチベット料理屋があるかもしれないから反論は受け付けている。
夜、再びチャーナキャー・シネマへ出掛けた。実はこの時間に映画を見るのは初めてである。映画が終わると深夜になってしまうので今まで避けていたのだが、人気作を早めに見るためだ、仕方ない。
「Devdas」はシャールク・カーン、アイシュワリヤー・ラーイ、マードゥリー・ディークシト主演というまるでヒットを約束されたかのようなキャスティングである。ゲスト出演としてジャッキー・シュロフも出ている。同名の有名な小説が原作となっており、過去に何度も映画化されている。映画館は当然満員に近かったが、やはり深夜の回だったので完全に満席ではなかった。
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アイシュワリヤー・ラーイ |
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マードゥリー・ディークシト |
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Devdas |
デーヴダース(シャールク・カーン)は大金持ちの地主の息子で、パーロー(アイシュワリヤー・ラーイ)はその隣人で貧しい生まれだった。しかし子供の頃からデーヴダースとパーローは仲がよく、いつしか相思相愛の仲になっていた。しかしデーヴダースはロンドンに留学してしまい、2人は離れ離れになってしまう。10年間の歳月が流れたが、二人の愛する気持ちは変わらなかった。物語はデーヴダースが10年間のロンドン留学から帰ってくるところから始まる。
デーヴダースはすっかり英国紳士となっており、パーローは美しい女性になっていた。2人は久しぶりの再会を照れつつも喜び、そして2人の間の愛情に変わりがないことを確かめあう。そして当然2人は結婚を考え始める。しかし、デーヴダースの親はデーヴダースが貧しいパーローと結婚することを面白く思っていなかった。パーローの母親もデーヴダースの親の本心を知って激怒し、パーローをデーヴダース一家よりもさらに金持ちの男に嫁がせることを決める。こうしてデーヴダースとパーローの仲は引き裂かれてしまう。
デーヴダースは両親の勝手な決断に怒り家を飛び出てしまう。パーローもデーヴダースが自分を残して出て行ってしまったことに傷つき、母親の決めた結婚を承諾してしまう。デーヴダースはロンドン留学時代の友人(ジャッキー・シュロフ)の家に転がり込み、酒に溺れ、やがて高級娼館へ通い始める。そこで高級娼婦チャンドラムキー(マードゥリー・ディークシト)がデーヴダースを見初め、世話をするが、デーヴダースはパーローを忘れることができない。こうして、パーローを愛するが故に苦悩するデーヴダース、デーヴダースを気遣いながらも結婚生活を余儀なくされるパーロー、別の女性を忘れることができないデーヴダースを愛してしまったチャンドラムキーの三角関係ができる。
やがてパーローはデーヴダースが娼館に通っていることを聞きつけ、チャンドラムキーを訪ねる。パーローとチャンドラムキーは同じ男を愛する者同士として最初は対立するが、やがて打ち解ける。しかしこのときデーヴダースは行方不明となっていた。
デーヴダースは急に多量の飲酒を始めたことにより、病に倒れていた。そして医者に止められていたにも関わらず、友人に無理に勧められてさらに酒を飲んでしまう。そして病は重症となり、デーヴダースは今にも死にそうになってしまう。最後にデーヴダースの脳裏に浮かんだのは、パーローの腕の中で死にたいという願望だった。デーヴダースは馬車を走らせ、一路パーローの嫁ぎ先の家へ急いだ。パーローもデーヴダースの異変を勘で察知するものの、夫から外出禁止を言い渡されていたために確かめにいけなかった。翌朝、デーヴダースはパーローの家の門の前で倒れていた。パーローはデーヴダースが門の前で倒れていることを知り、夫を振り切ってデーヴダースの元へ走った。しかし門は無常にも閉ざされ、あと一歩のところでデーヴダースのところまで届かなかった。デーヴダースも自分の元へ走ってくるパーローを朦朧とした意識の中で眺めていたものの、門が閉ざされ、パーローの姿が視界から消えると、遂に息絶えてしまった。 |
19世紀ぐらいの英領インドを舞台にしており、セットや衣装は豪華絢爛、ダンスと音楽も超美麗、幻想のようなロマンスを描いた美しい映画だった。終わり方はインド映画には珍しくアンハッピー・エンド、少し最後の展開が急ぎ気味だったのが駄目だったのか、僕は涙を流すことはなかったが、とても楽しめた作品だった。雰囲気は「Hum Dil De Chuke Sanam(邦題ミモラ)」にちょっと似ていた。アイシュワリヤー・ラーイが出ていたのと、音楽が同作品と同じイスマイル・ダルバールだったのが影響していると思う。何かひとつこの映画の特色を挙げるとしたら、ズバリ衣装だろう。もうこれでもか、これでもか、というくらいきらびやかな衣装が出てきて、ミス・ユニバースのアイシュワリヤーと、ダンスの名手マードゥリーの美を一層輝かせていた。
ゴシップ記事に書いてあったことだが、この映画には2人のスターの命運が懸かっていた。それはずばりシャールク・カーンとアイシュワリヤー・ラーイのことである。シャールク・カーンは自分の映画会社を立ち上げて奮闘していたものの、「Phir Bhi Dil Hai Hindustani」「Ashoka」と不発作を連発して後がなかった。この前公開されていた「Hum
Tumhare Hain Sanam」もあまりヒットしなかったみたいだ。アイシュワリヤー・ラーイも立場は同じで、ここのところずっと不発続きで、そろそろ「フロップ美人」のあだ名を冠せられるところだったが、「Devdas」のヒットのおかげで再びトップ・アクトレスの座に返り咲くことができるだろう。マードゥリーはもう医者と結婚してアメリカに住んでいて生活は安泰だし、そろそろ年なので、あまり興行成績を気にしなくてもいい年代に入っていると言っていいだろう。
ひとつだけ気になったのは、マードゥリー・ディークシトとアイシュワリヤー・ラーイのスクリーン上の相性があまりよくなかったことだ。やはり2人並ぶとマードゥリーの老けぶりがなんとなく分かってしまうし、並んでみて分かったことだが、アイシュワリヤーの方が背が高い上に顔が小さい。2人とも美人なのは確かなのだが、美人の種類がなんとなく違って、スクリーン上で2人並ぶとなんだか不安定な気分になる。それでいて、笑った顔は実はマードゥリーの方が気品があって美しい。アイシュワリヤーの笑い方はどうも好きになれない。アイシュワリヤーは悲しい顔か冷たい顔をしているときが一番様になっていると思う。あと、アイシュワリヤーの踊りはかなりうまくなったと思う。マードゥリーの踊りが素晴らしかったのは言うまでもない。
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マードゥリーとアイシュワリヤーの
2ショット |
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ケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンの移転に伴って、僕は引越しをするかどうかの選択を迫られていた。今日は韓国人の友達とカイラーシュ・コロニー近辺で物件を探してみることにした。
まずはメディカル辺りでバスに乗ってカイラーシュ・コロニーへ向かった。彼の話によると、724番と442番のバスがカイラーシュ・コロニーへ行くらしい。行きは724番、帰りは442番のバスに乗ったが、確かにどちらもメディカルとカイラーシュ・コロニーを結んでいた。ひとつの手段として、ガウタム・ナガルに住んでサウス・エクステンションのバス停からそれらのバスに乗ってカイラーシュ・コロニーまで通う方法が浮かんだ。ガウタム・ナガルからサウス・エクステンションまではけっこう遠いので、今までより苦労することにはなる。
カイラーシュ・コロニー近辺の不動産屋を数軒あたってみた。予算は大体3000ルピーから4000ルピーだったが、カイラーシュ・コロニーは高級住宅地なので、ガウタム・ナガルと同じようにはいかない。だいたい相場は1部屋5000ルピー、2部屋10000ルピー、3部屋15000ルピーとのことだった。3000ルピー〜4000ルピーの部屋はすぐには見つからず、今日見せてもらったのは2軒だけ、1軒は6000ルピーの物件で、屋上の部屋ながら広いテラスを独り占めできるいい部屋だ。もう1軒は家というかなぜかホテルで、1月5000ルピーで借りれるらしい。しかし長期滞在するような雰囲気の部屋ではなかった。
カイラーシュ・コロニーの隣にあるイースト・オブ・カイラーシュの不動産屋も見てみたが、どこもすぐには物件を見せてくれなかった。「また夕方来なさい」とか「あと1時間後に来なさい」とか、そういう感じだった。また、必ずどこの不動産屋でもコンタクト・ナンバーを要求されたので、携帯電話があるとスムーズに家探しができそうだった。
韓国人の友達に付いて来てもらったのは、ひとつは彼が僕の心配を真剣にしてくれることだが、もうひとつは韓国人と一緒に商談すると非常に有利になるという利点もあった。僕はやはり典型的日本人なのでどうも押しが弱いしすぐに妥協してしまう。しかし韓国人は違う。一切妥協なし、自分の主張を無理矢理押し通すので、味方につけると心強い。だが、結局今日はあまり成果なく家探しは終了した。
イースト・オブ・カイラーシュに来たついでに日本山妙法寺に立ち寄ってみた。妙法寺の中村さんならこの辺の物件について詳しいかと思ったが、あいにく中村さんは日本にいた。酷暑期が始まってからすぐに日本に帰ってしまったらしい。代わりにラダック人のお坊さんたちがいて、昔会って見覚えのある人たちもいたので、彼らとしばらく話をした。ちょうどラダックへ行って来たばかりなので、ラダック話に花が咲いた。
日本語をしゃべるインド人というのは実はデリーにけっこういる。デリー大学やJNUに日本語学科があるし、JCICという日本語専門学校のような機関もある。その他にもいくつか日本語を教えている機関が存在する。そして日本語をマスターしたインド人がする仕事は大体日本語ガイドか日本人相手の旅行代理店、つまり観光業だ。現在インドを訪れる日本人観光客は激減しているため、日本語を生活の糧にしてきたインド人たちは一様に生活に困っている状態らしい。
そんな日本語をしゃべるインド人の1人、JPグプターと知り合った。JPなんて都合のいい名前だが、本名である。ジャイ・プラカーシュ・グプターの略だ。初めて出会ったのはけっこう前だが、一昨日ぐらいにLさんの家で再会して、いろいろ話しているうちに、一度彼の家へ行くことになった。JPの家はデリーの南端、ラドー・サラーイにある。
ラドー・サラーイはクトゥブ・ミーナールのすぐそばなので、外から見たことはあったが、中に足を踏み入れるのは初めてだった。デリーほどの大都会にあって、ラドー・サラーイはインドの田舎の村の様相を呈していた。クネクネと曲がりくねる細い路地を抜けた袋小路の一角に彼の家はあった。2階で、僕の部屋と同じぐらいの大きさの部屋、キッチン、共同バスルームで家賃は1600ルピーだそうだ。
一般に日本語は話すのは簡単だが、書いたり読んだりするのは激ムズと言われている。日本語を母語とする日本人には、日本語を外国語としてとらえる感覚に欠けているが、漢字の読み書きの困難さは容易に想像できる。JPも漢字はまだ200ぐらいしか覚えていないようで、漢字が混じると日本語を読むことが困難になる。平仮名、片仮名は1週間もあればマスターできるらしいが。僕が彼の家に呼ばれたのは、日本語の本に書かれた漢字に平仮名をつけてほしいという要望のためだった。適当に彼の日本語の勉強を手伝ってあげて、適当なところで切り上げて帰った。
最近デリー近辺では雨不足である。モンスーンがなかなかやって来ないのだ。インドの人口の80%は農業従事者であり、農作物の出来不出来はインドの経済に直接影響を与える。モンスーンが早いか遅いか、雨の量が多いか少ないかで、その年のインド経済が決定されると言っても過言ではない。もともと低迷気味だったインド経済に追い討ちがかかっている状態だ。一方で、ビハール州や東北インドでは雨の量が多すぎて洪水になっている地域もあるらしい。そういえば僕が避暑旅行から帰ってから、まだ一度も雨が降っていない。
だんだん路上からマンゴーの姿が消えつつある。もうマンゴーのシーズンが終わろうとしている。代わってリンゴやナシ、それにイチヂク(?)のような果物が並び始めた。マンゴー党としては少し悲しい季節である。今日は超大粒のマンゴー(1キロ45ルピー)を2キロ買って帰った。やはりマンゴーはうまい・・・!ラダックやシュリーナガルのマンゴーは小粒でしおれていて、全然おいしそうじゃなかったのを思い出す。やはりデリーは首都なので、全インドからおいしいマンゴーが集まるところなのもかもしれない。カルカッタの近くにあるマンゴーの名産地マルダーへのマンゴー食い倒れツアーも計画していたが、このままだと果たせそうにない。
やっと誰かにハイジャックされていた自分のホットメールを取り戻すことができた。ホットメールのサポート・センターと何度かメールのやり取りをして、パスワードを再設定してもらった。何か悪戯されてないか心配だったが、なぜか小泉内閣メールマガジンだけが既読となっており、あとは誰かに勝手にメールを送信したりとかはされてなかった。ひとまず安心だ。
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7月27日(土) Om Jai Jagadish |
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今日は久しぶりにコンノート・プレイスを訪れた。スーパー・バーザールへ向かうバスの中、車内はちょっと混雑気味で立ち乗りしている人がチラホラいた。僕は幸い座ることができていた。途中で子供の芸人が乗り込んできて、ドゥルガー女神を讃える歌を歌い始めた。いたって普通の市内バス風景だった。と、途中でなんとエンジンから煙が吹き出て車内は大混乱となった。断続的にテロに見舞われているデリー市民なので反応は迅速だ。白煙が吹き上がった瞬間みんな一斉に「降りろ〜!逃げろ〜!」と出口に殺到し、バスを降り始めた。僕は反応が遅かった方で、一応インド人たちに従ってもたもたとバスを降りた。ところが、ただエンジンがオーバーヒートしただけだったみたいですぐにバスが動き始めたので、今度は「乗れ乗れ!席をとっちまえ!」という掛け声がかかり、今度は入り口に殺到して席の奪い合いとなった。僕は早く乗ったので、再び座ることができた。
今日コンノート・プレイスへ行った目的は、本当はオデオン・シネマで「Humraaz」を見るためだったのだが、昨日から上映作品が変わっていて「Om Jai Jagadish」になっていた。まあこれでもいいか、と思い、この映画を見ることにした。
上映開始時間まで少し間があったので、コンノート・プレイスをぶらついてみた。去年ぐらいからずっと行われていたデリー・メトロの工事がさらに拡大していて、工事領域は中心部のセントラル・パークのみならず、北側のラディアル・ロード5と6にまで及んでおり、高い塀で囲まれていた。パーリカー・バーザールあたりから中を覗けたので、しばらく様子を見ていたが、およそ地下鉄工事をしているとは思えないような風景だった。多分、カルカッタの地下鉄を作っているときよりかは大分マシになったのだろうと思うが、いまだに人海戦術を基本に工事しているように見えた。
ふと両替屋の換算票を見てみたら、なんと日本円のキャッシュが100円=40.05になっていた。つまり、1万円両替すれば4005ルピー、1ルピー=2.5円の時代が到来したことになる。最近の円高により、円本位生活を送っている僕には有利な状態となっている。
「Om Jai Jagadish」は、タイトルだけ見るとヒンドゥー教の宗教映画に思える。意味は「世界の主(ヴィシュヌ神)万歳」みたいな意味だ。しかし実際は、オーム、ジャイ、ジャグディーシュという3人の兄弟愛を描いたホーム・ドラマだった。主演はアニル・カプール、ファルディーン・カーン、アビシェーク・バッチャン、マヒマー・チャウドリー、ウルミラー・マートーンドカルなど。ターラー・シャルマーという新人女優や、ワヒーダー・レヘマーンというベテラン女優も出ていた。監督は名優アヌパム・ケール。
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左からアニル・カプール、ファルディーン・
カーン、アビシェーク・バッチャン |
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Om Jai Jagadish |
バトゥラー家のオーム(アニル・カプール)、ジャイ(ファルディーン・カーン)、ジャグディーシュ(アビシェーク・バッチャン)は仲良し3人兄弟だった。長男のオームは敬虔なヒンドゥー教徒で、音楽会社に勤めて若手音楽家の発掘にいそしんでいた。次男ジャイは野心的な男で、アメリカに留学し、世界一早い自動車を造ることに執念を燃やしていた。このジャイの留学のためにオームは同僚から多額の借金をしていたことが物語の伏線となる。三男のジャグディーシュは若々しい大学生で、コンピューターの天才だった。
オームはアイーシャー(マヒマー・チャウドリー)と結婚する。ジャイはアメリカの大学を首席で卒業し、アメリカの企業に就職しそうになるが、オームの言葉に従ってインドに帰ってくる。そしてアメリカで出会ったNRI(海外在住インド人)のニートゥー(ウルミラー・マートーンドカル)と結婚し、彼女もバトゥラー家の家に住むことになる。しかしニートゥーはアメリカナイズされた性格で、厳格なバトゥラー家の伝統に耐えられず、絶えず家族と衝突する。そしてジャイはアメリカで就職するためにニートゥーを連れて渡米してしまう。また、ジャグディーシュは少し前に、頭の悪い友人のために大学のコンピューターをハッキングしてテスト問題をダウンロードしたことがあった。それがばれてしまい、退学処分となってしまう。これに怒ったオームはジャグディーシュを叱責し、ジャグディーシュは家を出奔してしまう。一方、ジャイのアメリカ留学の費用を出してくれていたオームの同僚が実はとんでもない奴で、借金の抵当となっていたバトゥラー家の伝統ある家を勝手に自分の物にしてしまっていた。そしてオームたちは住みなれた我が家を立ち去らなければならなくなる。こうしてバトゥラー一家はバラバラになってしまったのだった。
パートナーの裏切りに遭い、家も失ったオームは、仕事もうまくいかなくなる。オームのおかげでスターとなったミュージシャンも、窮地に陥ったオームを助けようとはしなかった。アメリカに渡ったジャイも仕事が見つからずに仕方なく自動車の廃棄工場で働くことになる。ジャグディーシュはピザ・ハットでバイトをしながらなんとか生活をしていた。
しかし、次第に3人の運が上昇し始める。オームは自分の会社を立ち上げて、落ちぶれたミュージシャンをプロデュースしたのだが、そのCDが大ヒットし、まとまった金が手に入る。ジャイもアメリカの自動車会社に、自分が設計した世界一早い自動車の設計図を売り、大金を手に入れる。ジャグディーシュもソフトウェア会社に実力を認めてもらい、ハッキング防止のソフトウェアを開発した。そんなとき、バトゥラー家の家が競売にかけられることとなった。
オームは競売会場に駆けつけ、なんとか我が家を取り戻すためにオークションに参加する。しかし値段は釣り上がっていき、オームの手に届かない額となる。諦めかけたそのとき、ジャイが駆けつけてさらに金額を積み上げる。ジャグディーシュも駆けつけ、3兄弟が久しぶりに揃うものの、家の値段はどんどん上昇していき、遂に別の人間のものとなってしまう。打ちひしがれるオームたち一家だったが、そのとき家を手に入れたはずの人が驚くべきことを口にする。「この家はオームたちのものだ」と。実はその人物はジャグディーシュの関係者だった。ジャグディーシュは自分が開発したソフトウェアを、自分の家の値段で売るという契約を取り交わしていた。こうして競売にかかっていたバトゥラー家の家は、めでたく再び彼らのものとなり、3人兄弟も再び一緒に住むことになったのだった。 |
定石通りのストーリー展開だったが、ホロリとする良作だった。音楽とダンスにあまり気合が入っていなかったが、その分ストーリーがちょうどいいテンポで進んでいって、かなりスッキリした。なんとあのアビシェーク・バッチャンが、リティク・ローシャンばりのダンスを踊っていたのには驚いた。相当練習を積んだと思われる。これから踊れるスターに成長するだろうか?マヒマー・チャウドリーとウルミラー・マートーンドカルが共演していたが、この2人、どうも僕は見分けがつかない。どっちがどっちだったっけ・・・と常に考えながら見なければならない。新人のターラー・シャルマーは、ちょっとスターのオーラが見えなかったので、何事もなければ(大ヒット作品に恵まれなければ)すぐに消えると思われる。
インドのことについて少しでも知識のある人なら、ヒンドゥー教徒が牛を神聖視し、決して牛肉を口にしないことは知っている。牛肉ばかりか肉を絶対に食べない人も多い。カーストの高い人ほど菜食主義者である傾向が強い。身分の高い人はその身分の高さを維持するために、それなりに自分の欲望や生活習慣をきっちりとコントロールしている。また、普段肉を食べる人でも、火曜日だけは肉を食べようとしないことが多い。しかし、こういう菜食主義の習慣は案外新しいものである。少なくとも仏教やジャイナ教が誕生した後に一般のインド人の心に生じた考えだ。古代インドのバラモンは牛肉すら口にしていた。
この「昔のインド人は牛肉を食べていた」という事実を今日、ふとした拍子に友人のインド人にしてみたら、かなり驚かれ、激怒されてしまった。「そんなバカな」ということである。インド人というのは案外インドのことについて知らないことがある。まあ日本についても、一般の日本人より日本かぶれの外国人の方がよく知ってる、なんてことがあったりするので、それと同じような感じだろう。ヨーガに関する知識だって、一般のインド人よりは、インド長期在住ヒッピーの方がよく知っていたりする。
外国人の僕がいくら説明しても信じてもらえないので、ネットで検索して証拠を探した。いきなり牛肉だとショックが大きいので、まずは馬の肉から調べた。インド人の誇り「マハーバーラタ」にも「ラーマーヤナ」にも、アシュヴァメーダ(馬祀祭)に関しての記述がある。アシュヴァ=馬、メーダ=殺す、つまり馬を生贄にして捧げる祭りである。古代のクシャトリヤ階級の王が、自らの王権を天下に知らしめるために行った祭りだ。生贄を捧げるということは、つまりその肉を食べたということである。そしてそれと同時にゴーメーダ(牛祀祭)のことにも記述があった。少なくともヴェーダ時代にインド人(ある特定の階級に限定されるかもしれないが)が牛肉を食べていたのは確かだ。だが、いつの時代からインド人が牛肉をタブー視し始めたかは統一された見解はないようだ。ただ、紀元前6世紀に仏教やジャイナ教が不殺生主義を唱えたことと、12世紀頃からイスラーム教徒のインド侵入が本格化したことがきっかけとなっているようだ。
また、ヒンドゥー教徒が牛を食べない理由は農耕民的思考からするともっと実用的な部分にあると思われる。牛乳は貴重な栄養源となるし、バター、ギー、ヨーグルトなどの原料ともなる。牛糞は安価で火持ちのいい燃料となる。畑を耕すのに牛の力は必要不可欠だし、荷車を引く労働力にもなる。牛を生かして恩恵を得るより牛を殺して肉を食べる方が遥かに効率が悪い。遊牧民族だったアーリヤ人が、農耕民族だったインドの先住民に同化する過程において、牛の食用が自然とタブー視されていったのだろうか。
牛肉を食べないというのは、牛を飼って生活をしている人たちにとったら当然のことのようだ。昔、テレビ番組で北海道で牛乳を取るために牧畜をしている人のインタビューがあったが、その人も牛肉は絶対に食べないと言っていた。そもそも日本人は戦前まで牛肉なんてあまり食べていなかっただろう。牛肉を食べなければ生活していけない地域の人ならまだしも、農耕民だった日本人が牛肉を食べるのは変な話だと思わざるをえない。戦後、西洋文化を無批判に受け入れた中のひとつの事象なのだろう。
家探しを始めてから、一応ガウタム・ナガルの顔見知りの不動産屋にも声を掛けておいた。どうもカイラーシュ・コロニー附近の不動産屋はやる気がなくて頼りないように思えたのだ。大体ターゲットは絞れてきた。もしバスで通うとしたら、ガウタム・ナガルからでも通えないことはないのだが、第一候補はサウス・エクステンション近辺。ディフェンス・コロニーに安いところがあればそこでもいいのだが、高級住宅地なのであまり望めないだろう。学校から徒歩圏内なら、カイラーシュ・コロニー、イースト・オブ・カイラーシュ、グレーター・カイラーシュ1、ジャムルードプル辺りだろう。ジャムルードプル以外は高級住宅地の範疇に入る。
今日早速反応があった。ガウタム・ナガルに住み始めてから折に触れてよく話をしていたアフジャー・プロパティーズの親父が、コネを使って2つほど物件を見つけてくれていた。この親父、うさんくさい顔をしていて、実際うさんくさいのだが、儲け話には敏感なので行動が早くて助かる。グレーター・カイラーシュ1に1軒、イースト・オブ・カイラーシュに1軒、空き物件があるとのことだった。早速オートに乗って親父と一緒に現場に向かった。
まず向かった先はイースト・オブ・カイラーシュ。ちょうどISKCONの寺院のすぐそばだった。部屋は2階、ホテルみたいな感じの部屋で、ベッドや机など家具が備え付きだった。部屋はけっこう広く、バスルームもバスタブ付きで悪くない。ところが気付いてみたらキッチンがなかった。今住んでいるところもキッチンがないが、今度引っ越すところには、申し訳程度でもキッチンが付いていて欲しかった。しかもその物件の周りにはレストランみたいなものが一見したところ見当たらなかったので、食べるのに苦労しそうだった。学校からもけっこう遠い。これで家賃は一月4500ルピー、水代一律100ルピー、電気代別だった。う〜ん、まあまあか・・・。
次に行ったのはグレーター・カイラーシュ1の物件。こちらは4000ルピー、バスルーム&キッチン付きという好条件で、ロケーションもMブロック・マーケットとNブロック・マーケットの中間に位置し、学校にも近いという超好条件だったのだが、あいにく僕たちが訪れたときには入居者が既に決まっていて粉砕。釣り逃した魚は大きい・・・。昨日来てれば確実に物に出来たらしいが・・・。不動産は刻一刻と変化する。いざとなったら電撃作戦で決定しなければ、どんどん大きな魚を釣り逃してしまう。
ザムルードプルの不動産屋もあたってみたが、今日は物件がないそうだったので今日はこれで家探しを終了した。しかし、自分で現地の不動産屋をひとつひとつあたっていくより遥かに効率が良かったし、いい物件を見れた。アフジャー・プロパティーズの親父はただの胡散臭い親父だと思っていたが、ちょっと見直した1日だった。この調子でどんどんいい物件を見せてもらいたいものだ。
気付いてみたら今日でインド留学1周年だった。ちょうど去年の今日、留学するためにインドへ来たのだった。もっとも、5月、6月と日本に帰っていたので、丸1年間インドに住んだことにはならないが・・・。
今日もアフジャー・プロパティーズの親父と一緒に不動産を見て廻った。親父はアンサル・プラザの南にあるサディーク・ナガルというところに住んでいて、その入り口で朝の9時半に待ち合わせをした。時間に遅れないように待ち合わせ場所を訪れ、道を通るバスの様子を眺めながら親父の到来を待った。バスはどれもひどい満員状態で、人が入り口に鈴なりになっており、車体は片方に傾いて今にも倒れそうだった。それを見ていたら、バス通学が憂鬱になってきた。去年までガウタム・ナガルから旧サンスターンへ通うバスは何本もあり、たとえ満員のバスが来たとしても、その次のバスを待てばゆったりと乗れることが多かった。ちょうどガウタム・ナガルから旧サンスターンを結ぶ道は、南デリー有数の幹線だったため、通学には非常に便利だったのだ。ところが、サンスターンは移転してしまい、今度は一転してバス通学が困難となった。一応バスで通えないことはないが、限られたバスを待つことになり、朝は大変混雑していることが予想される。
親父は時間通りすぐにやって来た。しかしぶっきらぼうに50ルピー出せと言う。彼は自分のスクーターを持って来ていたのだが、ガソリンが空な上にパンクしているらしい。だから近くのガソリン・スタンドで修理してガソリンを補給しなければ出発できないようだ。そしてその費用を僕が払わなければならないと言う。普通不動産屋が不動産を客に見せるときは、無料で見せてくれるはずだ。少し文句を言ったが、金を払わなければ何も始まらないようなのでしぶしぶ50ルピー払った。
スクーターに乗ってまずはその親父の家の前まで行った。ヘルメットを取りに行ったのだ。サディーク・ナガルは日本の団地のような感じで、けっこう住みやすそうな雰囲気だった。親父の子供が部屋からヘルメットを持ってきたので、それをかぶって出発となった。ちなみにノーヘルを警察に見つかると罰金100ルピー。
まず訪れたのはザムルードプルの物件。ザムルードプルは低級住宅地で、狭い路地に高い建物、道には牛が行き来し、臭いもひどい。ガウタム・ナガルも一応低級住宅地に入るのだが、はっきり言ってザムルードプル、ムニルカー、キルキー・エクステンションなどの低級住宅地に比べたら数倍マシである。道は広いし、町の雰囲気も悪くない。ザムルードプルの物件は、細い路地に交差するさらに細い細い路地を抜けたところにあった。狭い道に牛が座っていたり、工事中の建物があって道が泥だらけだったりして全然期待していなかったのだが・・・。ところが、見てビックリ、外の環境は最悪だったものの、中は日本の普通のマンション並みにきれいだった。バスルーム、キッチンと2部屋で6000ルピー〜7000ルピー。交渉次第で5500ルピーまで下がったが、依然として高い。二人で住めばけっこう快適に生活できそうな感じがした。
次に見たのはグレーター・カイラーシュのWブロックにある物件。Wブロックと言えば昨日見逃した物件があったところだ。Mブロック・マーケットまで歩いて数分、Nブロック・マーケットへも徒歩圏内、そしてサンスターンも歩いて通える距離にあり、ロケーションは最高だ。今日はWブロックにある別の物件を見ることができた。ある金持ちインド人の家の敷地の隅に建っているガレージの2階で、部屋はかなり狭くて天井も低くて、あまりよくなかった。小さいながら一応キッチン付きで、シャワー・ルームは中にあり、トイレは外にあった。しかし大家さんは相当権力を持っている人らしく、自称「President of G.K.1」。彼が自慢するには、絶対に断水状態にならないらしい。彼はコネを使って3箇所から水を引いてきており、彼の家のタンクには常に水がいっぱいらしい。
聞くところによると、デリーでは高級住宅地になるほど水のトラブルが多いらしい。デリーには大きく分けて高級住宅地と低級住宅地があり、南デリーではグリーン・パーク、ディフェンス・コロニー、グレーター・カイラーシュ、カイラーシュ・コロニーなどが高級住宅地、ガウタム・ナガル、アルジュン・ナガル、ザムルードプル、キルキー・エクステンション、ムニルカーなどが低級住宅地に入る。高級住宅地にはちゃんと舗装された道路があり、建物は3階建てが限度で、それ以上高い建物がないため、整然とした雰囲気。近代的なマーケットも地域内に用意されていて、金持ちインド人たちが住んでいるため治安もよい。そして水は政府から支給されている。一方、低級住宅地は細い道、4〜6階建ての建物、牛が路地を我が物顔で闊歩し、比較的貧しいインド人たちが集住しているために治安も衛生状態もあまりよくない。そして一昔前まで政府から水を支給してもらえていなかったので、自分たちで井戸を掘って、そこから水を得ているらしい。一見すると高級住宅地の方がいい事尽くめのようだが、ただ一点、水だけは低級住宅地の方が皮肉にも上を行っている。高級住宅地では水の支給は政府が行っているのだが、政府がちゃんと仕事をしていないため、水が定期的に流れてこないことがよくあり、慢性的な断水状態になっている。だから、井戸水から水を得ている低級住宅地の方が断水状態になることが少ないらしい。
そういうわけで、高級住宅地にあって水の心配がない、というのはかなりの好条件だと説明された。最初は一月5000ルピーの家賃を提示されたのだが、交渉していたら4000ルピーまで下がった。他にいい物件がなかったら、ここでもいいか、という気持ちになった。今日はもう疲れたので、家探しはこれで終了となった。
部屋の確保と同時に考えなければならない問題は、インターネットのケーブルである。今、僕はHathwayという会社のインターネット専用ケーブルを使っているのだが、G.K.1やカイラーシュ・コロニー近辺ではその会社はサービスを行っていないらしい。だから会社を変えなければならなくなる。せっかくモデムを12000ルピーで買ったので、使い回しができないとなると非常に非経済的である。どうやらSpectranetという会社がその地域のインターネット・サービスを請け負っているらしいが、その会社のホームページには詳しい情報は載っていなかった。
デリー近辺ではここ数週間、雨が降らなくて人々は困っていた。インド経済はモンスーンの影響をモロに受けるので、雨が降らないと一気に経済が落ち込む。しかも雨が降らないと気温が下がらないので、この季節人々は今か今かと雨を待ち望んでいるのである。
7月も最後となった今日、遂にその待望の雨がデリーで降った。昼頃、西の方から黒い雲が広がってきて、雷の音がひっきりなしにゴロゴロと鳴り始めた。涼しい風も吹き始めて、とうとうポツリポツリと雨が降り始めたのだ。インド人は雨が大好きで、外を見てみるとみんな屋外に出て久しぶりの雨を全身に受けて堪能していた。まさに「Lagaan」のラスト・シーンと同じ光景が目の前に繰り広げられていた。
「恵みの雨じゃ〜!」と口々に叫び、農民たちが乾ききった田畑の上に乗っっかって天を仰ぎ見て踊り狂う、そんなシーンが自然と想像される。昔の日本にもそういう風景があったはずだ。なぜか、雨を浴びて喜ぶ江戸時代の百姓たちの姿を容易に思い浮かべることができる。時代劇か何かで見たのだろうか?しかし現代の日本ではあまりそういうシーンに実際にお目にかかることはないだろう。既に日本は農業国でなくなっているかもしれない。雨が降ったら、子供は別として、大の大人なら傘をさして雨に濡れないように外出するか、家に閉じこもっていることが多いだろう。多くの日本人にとって既に雨は鬱陶しい事象以外の何者でもなくなっているように思える。そしてその心境の変化が、日本が農業を捨て去った証拠のように思える。正真正銘の農業国インドでは、未だに雨を待ち焦がれ、雨の中で踊り喜ぶ人々の姿を目の当たりにすることが出来る。このデリーの大都会のおいてすら。そして一見農業とは関係のない生活をしているデリーのインド人の心の中のどこかに、いまだに大地と共に生きる農民の心意気をふと垣間見ることがある。大都会の中でそういう土臭い部分を発見すると、なぜか安心してしまうのは僕だけだろうか?
雨が降った後は、昼前までの暑さが嘘だったかのように涼しくなった。湿度は上昇したものの、気温は一気に下がったので、今までの「気温が高く湿気が少ない」暑さに慣れていた身体にとってみれば、不思議な感じの涼しさだ。
今日も一応アフジャー・プロパティーズへ行ってみたのだが、親父がいなかったので新たな情報を得られなかった。今日大家さんに8月分の家賃を払ってしまったので、引っ越すとしても多分9月からになるだろう。
そんなこんなしていたら、隣に住んでいたウガンダ人モーゼズが一足早く引っ越してしまっていた。偶然にも彼もちょうどグレーター・カイラーシュやカイラーシュ・コロニー辺りに家を探していた。もしかして僕が見逃したグレーター・カイラーシュ1の4000ルピーの物件は、彼が持って行ってしまったのかもしれない。家に帰ったらもう彼はいなかったので、お別れを言うことができなかった。まあ、狭いデリーのこと、またどこかで再会できるだろう。
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