スワスティカ これでインディア スワスティカ
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3月22日(金) いざラージャスターンへ

 今日からラージャスターンへ旅立つ。列車の発車時刻が午後5時だったため、午前中は授業に出た。チャンドラプラバー先生は「200クラスの生徒は来週の火曜日も学校に来て国歌の練習をしなさい」と言っていたが、そのとき僕はまだラージャスターンにいる。僕がデリーを離れている間に、アメリカのアカデミー賞授賞式(「Lagaan」が外国語映画賞を獲得できるか気掛かり)や、デリーの州議会の選挙などもあるのだが、僕はリアルタイムに体験することはできない。代わりにホーリー前のラージャスターンを体験するのだ。

 昼食を食べた後、学校を早退して家に帰った。最近このホームページを置いているサーバーが移転し、そのせいでトップ・ページのカウンターが表示されなくなっていた。ラージャスターン出発前に改善しておきたかったが、どうもサーバー側の問題のようなので放置しておくことに決めた。カウンターの数はまわっているみたいだから、まぁ問題ないか。

 デリーに住み始めてから、旅行へ行くときの装備にけっこういつも頭を悩ます。旅行でインドに来たのなら、どこへ行くにも日本から持ってきた荷物をそのまま運ばなければならないが、僕は仮初めとは言えインドに家を持っているので、旅行へ行くときの荷物を取捨選択できる。また、パソコンを持って行くかどうかも選択しなければならない。僕の手元には大きめの3wayバッグと、小さめのショルダー・バッグがある。年末年始に行った南インド旅行の際は、旅行期間が2週間ほどだったこともあり、3wayバッグを持って行った。もちろんパソコンも持って行って、随時日記を書いていた。10月のマトゥラー旅行の際は3泊4日の旅程で、ショルダー・バッグにパソコンと着替え一式のみを持って行った。2週間前に行ったクルクシェートラ旅行のときは、1泊2日の小旅行だったので、パソコンも持たず着替えも持たず、ほぼ手ぶらで行った。手ぶらの旅行は楽なのだが、あまり旅行者に見えないのが利点でもあり欠点でもある。今回の旅行は5泊6日。今までの経験からすると、ショルダー・バッグで十分だと判断し、最小限の装備で行くことにした。

 3時過ぎに家を出てバス停へ向かった。DTCのバスを使ってタダでオールド・デリー駅まで行こうと思っていたのだが、なかなかバスが来ない。10分待っても来ない、20分待っても来ない、30分待っても・・・。実はオールド・デリー駅へ行くのは今回が初めてで、少し時間に余裕を持って行かなければならないと思っていたので、だんだん焦ってきた。3時45分になった時点でもう諦めて、STAのバスに乗って運賃8ルピーを支払った。幸先の悪い出来事である。

 オールド・デリー駅には列車の発車時刻の15分程前に到着した。ちょうどいいぐらいの時間だ。駅の前はすさまじい喧騒で、バスと自動車とオート&サイクル・リクシャーと人と動物たちが織り成す一大スペクタクルとなっていた。もう旅行は始まっているという気にさせられた。信号待ちで止まっているサイクル・リクシャーの座席を乗り越えたりしながらびっしりと埋め尽くされた大渋滞の道路を横断し、駅の構内へ入ったが・・・こちらもすさまじい喧騒だった。まさに人・人・人・・・。人の波、人の海、さすが人口10億人・・・。と書いているとインドに初めて来た旅行者の旅行記のようだが、インド3回目、滞在歴1年ほどの僕でもそう思わざるをえなかった。この喧騒の中からプラット・ホーム18を探し出さなければならない・・・!既に列車発車時刻は10分後に迫っていた。

 最初に入った入り口にはプラット・ホーム番号が1〜15番しか見当たらなかった。しかし入り口の掲示板には、僕の乗るジョードプル・エクスプレスの出発ホームは18番だと書かれている。いったい18番はどこなんだ〜、と一瞬インド初心者のごとく焦ったが、入り口辺りにたむろしていた人に質問してみたら「Next Building」と言われたので早速隣の建物へ行った。こちらは先ほどの入り口よりもずっと空いていて幾分希望が持てそうだった。入り口にいた警備員の人に「18番はどこですか?」と聞いてみたら「あっちだよ」と教えてくれたので、なんとか落ち着きを取り戻すことができた。教えられたとおりに行ってみたら実際にプラット・ホーム18が存在し、ジョードプル・エクスプレスらしき列車も止まっていた。僕の乗るSL3(寝台3号車)も難なく見つかり、入り口に張り出されていた乗客名簿にも僕の名前があった。これにて一件落着である・・・。

 座席に座ってふ〜っと一息ついていたら列車が動き出した。結局ピッタリのタイミングで来ることができたみたいだ。初め車内はやたらと混雑していた。聞こえてくる話し声の方言からなんとなくハリヤーナー州出身者が多いと推測していたが、それは正しかった。その列車はグルガーオンなどデリー近郊のハリヤーナーの街を通るため、近距離の交通手段として乗っている人が大半を占めていた。それらの街を過ぎると車内はガランとしてしまった。

 ひとつ小さなトラブルが起こった。インドの夜行列車などでは車内食が出て、あらかじめ食事係の人が注文をとりに来る。僕は夕食を注文しておいたのだが、いつまで経っても来なかった。廻りのインド人は自分で弁当を持って来ており、さっさと食事を食べてもう就寝準備に入ってしまっていた。9時を過ぎても来なかったので、近くにいたインド人に「夕食待ってるんだけどまだ来なくてさぁ・・・」と愚痴をこぼしてみたら、その人が食事係の人を呼んでくれて話をしてくれた。食事係の話によると既に夕食は終わってしまったらしい。そんな馬鹿な、ちゃんと注文したのに・・・と落ち込んでいると、そのインド人が「どうしてそういういい加減な仕事をしてるんだ。彼は日本から来たゲストだぞ」と叱責してくれて、ジャイプル駅に着いたら食べ物を買って持ってくるように手配してくれた。

 ジャイプルには11時過ぎに到着した。今までガランとしていた車内にドバッと乗客が入り込んできた。同じコンパートメントにはオランダ人カップルと韓国人もやって来た。どうも外国人乗客は一箇所にまとめられる傾向にあるみたいだ。僕はインド人用の切符売り場でチケットを買ったはずなのだが・・・。しかし僕はインド人とヒンディー語で会話をしていたので、彼ら外国人たちから日本人とは見られなかったみたいだ。どうせ一期一会なので、僕も日本人であることを明かさなかった。

 食事係の人はちゃんと親切に駅で食べ物(ダール、ライス、チャパーティー、野菜など)とミネラル・ウォーターを買って来てくれた。しかし全部ビニール袋詰めだったため、ちょっと食べるのに苦労した。スプーンを付けてくれるとかいうところまでは気が回らなかったみたいで、ライスは仕方なしにインド式に手で食べた。その様子も外国人たちから僕が日本人旅行者と思われなかった一因だろう。

3月23日(土) ジョードプル

 ジョードプル駅には朝6時前に到着した。まだ辺りは暗かったが、列車から降りると空気が生暖かかった。日中はかなり暑くなりそうな予感だ。今夜の11時半の列車に乗ってジャイサルメールへ向かうので、宿は必要ないと言えば必要ないのだが、休息のためにも日記記入のためにも部屋を借りることにした。駅の近くのバブート・ゲストハウスに泊まった。シングル・ルーム、バス・トイレ付きで125ルピー。

 その街が気に入るか気に入らないかの基準において、滞在したホテルの居心地のよさが占める割合はかなり大きい。そういう意味で言えば、このホテルはかなり成功だった。マネージャーが親切で物腰が柔らかく、非常に好感が持てる人物だった。ウェルカム・ティーを出してくれた上に、軽食も作ってくれた。しかもこのホテルの屋上から、ジョードプルのシンボルであるメヘラーンガル砦を見ることができた。ただ、マネージャー一家は巨大な犬を飼っており、屋上に上る階段をその犬が守っているので非常に怖い思いをした。なにしろ警察犬の訓練を受けている。だから噛み付く技術は折り紙付きだ。飛び掛られたらひとたまりもない。だから屋上へ行くためにはいちいち誰か家族の人を呼んで犬を抑えておいてもらわなければならなかった。




メヘラーンガル砦


 ジョードプルは思った以上にいい街だった。朝、チャーイを飲んだ後に早速メヘラーンガル砦へ向けて歩いて行った。砦は旧市街の中にあり、古い街並みをのんびりと見つつ歩くことになった。旧市街の道はリクシャーがやっと2台すれ違えるくらいの幅のメインの道路と、人間しか通ることのできないような細い路地の2種類があり、僕は基本的にメインの道路に沿って砦を目指したのだが、横目で見る路地裏の風景は何百年も前にタイムスリップしたかのような味のあるものだった。路地裏の誘惑とでも言えばいいのだろうか、ふと足を止めて、その路地裏の中に迷い込んでしまいたい欲求に駆られた。ジョードプルの人々も人懐っこくて、多くの通りすがりの人たちにいろいろ声を掛けられつつ、楽しく歩くことができた。写真もバシバシ写しまくった。




ジョードプル旧市街


 旧市街の建物はみんな高いので、街中を歩いているときはときどき建物と建物の切れ間から高台にそびえるメヘラーンガル砦の威容を覗き見ることぐらいしかなかった。しかしだんだん砦の門に近付くにつれてその全貌が明らかになっていった。絶壁の上にそびえたつ巨大な要塞、それでいて繊細な彫刻が随所に見られ、武骨な砦と雅な宮殿の融合体のようだった。門をくぐってからはクネクネと曲がりくねる急な坂道を上って行く。門の内側からは砦の敷地だと思うのだが、その途中に民家があって今でも数家族が生活している様子が見て取れた。ちなみにメヘラーンガル砦の入り口はふたつあり、北から入る方法が一般的らしいのだが、僕は西側から上って行った。




メヘラーンガル砦入り口


 メヘラーンガル砦の入場料は学生8ルピー(インド人料金)、カメラ持ち込み料50ルピーだった。宮殿の内部が博物館になっており、宮殿の内装と展示物を同時に見ることができるような仕組みになっていた。展示物は象の鞍や輿、武器、細密画などが中心だった。部屋はものすごく豪華で、天井から壁から全てが鏡細工を施してある部屋もあった。こんな宮殿に住めたらさぞや極楽気分だろう。砦の上から眺めるジョードプルの街並みも素晴らしかった。ジョードプルの旧市街は青色で統一されており、ブルー・シティーとも呼ばれているのだが、砦の上から眺め渡す街並みは本当にブルー!まるで海の中に浮かぶ島のような感じである。また砦の一番奥にはチャームンディー女神の寺院もあった。




繊細な彫刻
宮殿の内部
ブルー・シティーの街並み


 メヘラーンガル砦から降りる途中で、ちょっと寄り道していたら、砦の絶壁の下にポツンと存在するさびれたヒンドゥー寺院を発見した。一人の若者がプージャーしたり掃除をしたりと管理をしていた。寺院の中に入るとシヴァ・リンガがいくつか祀ってあった。寺院のそばには藻でビッシリと埋まった古池があり、寂れた雰囲気を醸し出していた。このこじんまりとした寺院の発見によって、よく分からないがなんだかちょっと得した気分になった。

 来た道をそのまま戻り、メヘラーンガル砦から一旦ホテルに帰った。やはりラージャスターンの太陽の日差しは強くて、日中フラフラと歩くのは体力を使う。30分ほど部屋で休んでから、再び外に出た。そのときちょうど正午頃だった。

 次の目的地は遺跡公園マンドール。ジョードプルの郊外、北8Kmくらいのところにある。うまくバスを拾うことができて、5ルピーで行けた。マンドールはもともとマールワール王国の首都があったところらしいのだが、今は遺跡の点在する公園となっていた。入場料はなし。中に入ってみて思ったのだが、ここにある遺跡は確かに入場料を取るには力不足だが、そのまま捨て置くのはもったいない、ぐらいのレベルのものだった。公園という形で一般に公開しているのにはしごく納得した。




マンドール公園


 マンドール公園で音楽師に出会った。サーランギーのようなバイオリン系の楽器を弾く人々だ。その楽器の名前はナヴァラタンと言うらしい。僕も試しに弾かせてもらったが、情けない音しか出なかった。道往くインド人たちも僕の奏でる不協和音に苦笑いしていた。どうも弓で音を出す系の楽器は苦手だ。彼らの弾き方を精一杯真似したつもりだが、いつまで経っても一人前の音は出なかった。音楽師のボスみたいな人の持っていた弓には鈴が付いており、弓で弦を擦って音を出すと同時に絶妙なタイミングで弓を揺らして鈴によってリズム音を出しており、その技術の高さに驚いた。聞いてみると父から習ったらしい。おそらくその父もまた父から習い、その父もそのまた上の父から習い・・・という綿々とした系譜があるのだろう。敬意を表して10ルピー渡しておいた。




流浪の音楽師


 マンドール公園からジョードプルに戻り、今度はウンメード・バヴァン・ホテルへリクシャーで行った。そこはマハーラージャの宮殿で、今もマハーラージャが住んでいるのだが、一部をホテルとして、一部を博物館として一般に開放している。1929年に出来た新しい宮殿で、インドで一番新しいマハーラージャの宮殿であると同時に最後の宮殿でもあるらしい。全体はジャイプルから運んできたという黄色っぽい石で出来ており、イギリス人建築家の設計によって造られたそうだ。博物館の入場料は40ルピー(外国人料金なし)。博物館には豪華な調度品、武器、アンティーク時計コレクションなどの他にホテルの部屋の写真も展示されており、その写真で判断するに、超が付くほど豪華絢爛だった。




ウンメード・バヴァン・ホテル


 大体ジョードプルで観光したかったスポットは見尽くしたので、ホテルに戻って屋上に昇り、メヘラーンガル砦のスケッチをした。日陰がなかったので直射日光の中の過酷なスケッチとなったが、2時間足らずで絵は完成した。隣の家の屋上で遊んでいた子供たちが僕に興味津々で、「どこから来たの〜?」「名前は〜?」「何してるの〜?」「絵を描いてるの〜?」「見せて〜!」と度々叫んで来ており、僕の絵が完成するまでずっと待っていたので、その苦労に免じて絵を見せてあげた。

 ホテルのマネージャーは本当に親切な人で、僕のために夕食を用意してくれた。ホテルとして代金を取る形の食事ではなく、家に招待してくれて食べさせてくれたのだ。ホテルの上にある応接室はマハーラージャの宮殿のように豪華で、天井に神様の絵が描いてあったりした。おじいさんが作らせたらしい。夕食は、チャパーティーやアールー・ゴービー、ダール、ライタの他、ジョードプル特有の食事も出してくれた。一介の旅行者のためにここまでしてくれるなんて感激である。食事の後は妹の結婚式の写真を見せてくれた。僕もスケッチ・ブックを見せてあげた。そして、これはかなりの冒険だったが、パソコンも見せてあげた。マネージャーはもうすぐパソコンを買う予定で、家族にパソコンとはこういうものだ、ということを見せたかったらしい。僕は音楽を鳴らしたり写真を見せたりした。パーキスターンの写真をインド人に見せて、インドもパーキスターンもそう変わらないんだよ、ということを教えてあげた。大きなお世話か・・・。

 11時前にホテルをチェック・アウトした。マネージャーには僕のEメール・アドレスを教えておいた。また結婚式か何かがあったときは誘ってくれるそうだ。ジョードプルではいい出会いができて本当によかった。

 ジョードプル駅へ行ってみると、既にジャイサルメール行きの列車はスタンバイ状態になっていた。早速自分の車両を探し乗り込む。まず気が付いたのは軍人の乗客の多さ。乗客の半分近くは軍人だった。ジャイサルメールはパーキスターンの国境のすぐ近くに位置しているので、国境警備のため多くの軍隊が駐屯している。最近印パ関係が悪化していることもあり、軍隊の数が増えていたとしても不思議ではない。また、ジャイサルメールはインドでも有数の悪質観光業者がたむろする土地である。既にジョードプル駅でジャイサルメール行きの列車に乗り込んだときから、ジャイサルメールのホテルの客引きがやって来ていた。こんな気の早い客引きを体験したのは初めてだ。一応パンフレットだけはもらっておいた。

3月24日(日) ジャイサルメール

 予定では朝7時頃ジャイサルメールに到着することになっていたと思うのだが、インドにしては珍しく6時半頃到着した。インド人たちも不意を突かれたみたいで、「なんだもう着いたのか?」と飛び起きていた。

 やって来るは、やって来るは、ホテルの客引きたち。ジャイサルメールの悪質観光業者の手口はこうである。まず安い交通費、部屋代で旅行者をホテルに連れ込む。そして半ば強引にキャメル・サファリ・ツアーを組ませる。ジャイサルメールは砂漠の真ん中にある街なので、砂漠をラクダで巡るのが一種の目玉となっているのだが、多くの場合外国人旅行者は法外な値段でツアーを組まされることになる。そしてもしキャメル・サファリを断ったら、ホテルから容赦なく追い出されることもあるらしい。

 という訳で僕は話し掛けてくる客引きたちとは一切会話をせずに駅を出た。駅の外にはホテルの名前が書かれた大きな看板を上に掲げて待っている人たちもいた。そういう怪しい人々を全て振り切って、無難そうなリクシャー・ワーラーと交渉して20ルピーで旧市街の入り口であるハヌマーン・チョークまで行ってもらった。そこまで辿り着けばあとは自分の足でホテルを探すことができる。そのリクシャー・ワーラーも「このホテルはどうだ?」と言ってきたが、僕は相手にしなかった。

 ハヌマーン・チョークから徒歩で旧市街の中に入った。まだ朝だったので街はひっそりと静まり返っていた。近代化から取り残された街ジャイサルメールの旧市街はまさに中世を思わせる街並みだった。「地球の歩き方」に載っていたホテルの中から僕はジャイサル・パレスというホテルに泊まることに決めた。あまり安いホテルに泊まるとトラブルの元だし、ジャイサルメールではのんびりする予定だったので、中級レベルのホテルに泊まりたかった。ジャイサル・パレスは期待していた通り落ち着いた雰囲気のホテルで、シングル・ルーム、バス・トイレ付き、ホット・シャワー、石鹸、タオル付きで1泊300ルピーだった。まさに理想的なホテルだった。

 ところで、ジャイサルメールの次の目的地はビーカーネールなのだが、事前の情報では、ジャイサルメールからビーカーネルまで直接行けるかどうか分からなかった。道路があることは分かっていたのだが、国境沿いの道路のため、一般旅行客が利用できるバスが走っていなくても不思議ではない。そのため、ジャイサルメールから一旦バスでジョードプルまで戻り、そこからさらにバスでビーカーネールまで行く計画を立てていた。しかしジャイサルメールに着いて情報を集めてみたら、簡単にバスでビーカーネールまで行けることが分かったので、日程に余裕ができた。という訳で、噂のキャメル・サファリを僕も体験してみることにした。ジャイサル・パレス・ホテルでも当然のことながらキャメル・サファリのアレンジをしており、ジープ&キャメルのツアーで800ルピーだった。その値段が適正なものかどうかは分からなかったが、一応信用して明日のツアーを頼んでおいた。

 ジャイサルメールもジョードプルと同じく城塞都市で、旧市街の中心に巨大な砦がそびえ立っている。早速そこへ行ってみることにした。ジョードプルの砦は基本的にマハーラージャの住居だったのに対し、ジャイサルメールの砦の中は町になっており、マハーラージャの館などの他に一般人の民家もたくさんあって、今でも普通に人々が生活していた。観光客を相手にした店舗が増えてしまったものの、基本的に住宅の造りは12世紀にこの町が出来たときからほとんど変わっていないだろうと容易に推測できた。細い道路はクネクネと曲がりくねり、大小のヒンドゥー教寺院が各地に点在し、道路の脇には下水溝があった。やはり思い出されるのはモヘンジョ・ダーロの遺跡である。インダス文明時代と基本的に変わっていない都市造りをインド人はずっとして来たということか。




ジャイサルメール砦


 こういう場所では、路地を隈なく歩いて廻るのが楽しいのだが、ひとつ大きな大きな障害があった。ホーリーである。ジャイサルメールの砦内では既に子供たちがホーリーを開始しており、ペットボトルの中に色の付いた水を入れて観光客を所々で待ち構えていた。観光客が通りがかるとまず「10ルピーちょうだい」と言ってきて、もし渡さないと色水を掛けようとして来るのだ。僕は1回目は逃げ切ったのだが、2回目は子供たちに囲まれて危機的な状況に陥ってしまった。そのときの服装は、上はティルヴァナンタプラムで買ったお気に入りのシャツ、下は日本から持ってきた一張羅のジーンズで、絶対に色水を掛けられたくなかった。子供たちは「10ルピーちょうだい、なんなら5ルピーでもいいよ。お金くれないと色水かけるよ」と図々しく言ってきた。僕は「ホーリーは28、29日だろ」とか「警察呼ぶぞ」とか「カメラが壊れたら20000ルピー弁償させるぞ」とかいろいろ口で説得しようとしたが、どうも状況は打開されそうになかった。ここでお金を渡しても、城内を歩き回っている内に別の子供たちの集団に取り囲まれて同じような状況になる可能性があり、面白くない。そこで少し知恵を働かせて妙案を考え付いた。「お金は払うから、僕と一緒に来て城内を案内してくれ。そして他の子供たちから守ってくれ」と頼んだ。「泥棒を捕まえるには泥棒を雇え」という諺の通り(そんなのあったか?)、ホーリー狂の子供たちから身を守るためにはホーリー狂の子供たちを雇うしかない。しかも城内を案内してもらえば一石二鳥である。交渉はうまくまとまり、子供たちに連れられて砦の中を廻ることになった。




ホーリー気分の子供たち


 城内の主な見所としては、4つある大砲、マハーラージャーの宮殿、ジャイナ教の寺院、マハーラクシュミー寺院などである。しかしやはりそういうスポットを見て廻るよりも、古い町並みの中を歩いて廻るのが楽しかった。牛や犬もちゃんとその風景の中に溶け込んでいた。砦から眺めるジャイサルメール旧市街の街並みも素晴らしかった。ジャイサルメールの旧市街は黄色い建物で統一されているのでゴールデン・シティーと呼ばれている。ホーリーさえなければ、もっと自由自在に見て廻れたのだが・・・!




マハーラージャーの宮殿


砦内の町並み


ゴールデン・シティー


 子供たちに約束通りお金を渡した後、砦を出た。旧市街にはハヴェーリーと呼ばれる貴族や大臣たちの私宅が残っており、それらを見て廻るのもジャイサルメールの楽しみである。今日はその中でもサリム・スィンのハヴェーリーへ行ってみた。このハヴェーリーは特徴的な形をしているため、砦の上から見たときに旧市街の街の中で一際目立っていた。サリム・スィンは18世紀から19世紀にかけてジャイサルメール王国の宰相だった人物である。彼は相当な権力を持っていたみたいで、当時のマハーラージャの邸宅よりも大きな家を建てていたそうだ。もともと11階建てだったようだが、宰相の死後マハーラージャによって上の2階が破壊され、現在は屋上含めて10階建てになっている。男性の居住区と女性の居住区は別々になっており、60人いたと言われる警備兵たちの部屋が下の階に割り当てられている。上の階は見晴らしがよく、ダンスの間があったり、繊細な彫刻があったりするのだが、実際はかなり軍事的な目的のために随所に工夫が施され、いざとなったら少ない兵力で大軍と戦えるように設計されていた。屋上からはジャイサルメールの砦の姿を見上げることができた。絶大な権力を手にしてしまった宰相の華やかな邸宅を砦の中から見やるマハーラージャ。マハーラージャの砦を見据えつつ自らの権力を示すために夜な夜な豪華なダンスホールで宴を催す宰相。そういうドラマが自然と頭に浮かんでくるようだった。




サリム・スィンのハヴェーリー


 サリム・スィンのハヴェーリーから旧市街を南東へ抜けて、ジャイサルメール市の南に広がるガディサール湖へ行った。人工的に造られた貯水池だそうだ。砂漠の真ん中に位置するジャイサルメールにとって、水の確保は最重要課題だったようだ。水は貴重で、第一に飲み水として利用されるため、先程のサリム・スィンのハヴェーリーの建築には一切水(つまりセメント)が使われていないそうだ。レンガとレンガは凸凹式に組み合わされている上に、鉄の固定具でしっかり固定されている。また、入浴の回数も夏は3日に1回、冬は7日に1回と決まっていたようで、入浴の際に使われた水はちゃんと回収されるようにできていた。入浴に使った水は、今度は洗濯に再利用され、最後に掃除のために再々利用されたそうだ。今はさすがにそういうことはない。貯水池として築かれたガディサール湖も、今ではヒンドゥー教徒の沐浴池になっていた。なぜか湖面にはメダカのような小さい魚とカエルが大発生していた。




ガディサール湖


 ガディサール湖でインド人の若者と話したり、くつろいだりした後、ホテルに戻った。ホテルの屋上からはジャイサルメールの砦が見渡せた。というか、ジャイサルメールの旧市街にあるホテルの屋上からは大体砦が見えるのだが・・・。それでもジャイサル・パレス・ホテルの屋上は他のホテルより一回り高かった。3時頃から屋上へ行ってスケッチをした。ジョードプルのメヘラーンガル砦の絵は遠景になったが、ジャイサルメールの砦はかなり至近距離のアングルで描いた。ホテルの前の道では子供たちがやはりホーリーの色水掛けをしていた。今日はちょうどホーリー前の日曜日のため、子供たちも浮かれてホーリーを始めていたのかもしれない。一瞬、ホーリー対策用に安いクルター・パジャーマーでも買おうかと考えたが、やはり今日はあまり外を出歩かないに限るみたいだ。こうして屋上にいてスケッチをしていれば誰にも色水を掛けられる心配はないだろう。2時間半かけて絵を完成させた。

 ちょうど夕暮れ時だったので、旧市街の西にあるサンセット・ポイントへ出向いた。サンセット・ポイントと名前が付けられているからには綺麗な夕日が見れるのだろうと期待して行ったのだが、そこにはヴャース・チャットリーというヒンドゥー寺院があるだけで、西の風景は殺風景であまり感傷的ではなかった。ただ、サンセット・ポイントには1人の音楽師のおじいさんが変わった弦楽器を奏でて素朴な歌を歌っていたのには心を動かされた。彼のおかげで日の入りはフロップに終わらずに済んだ。写真も撮らせてもらったので、当然お礼に少しお金をあげておいた。




音楽師と夕日

 ラージャスターンほど水がおいしいところはないだろう。別に水が特別なわけではない。やたらと喉が渇くから、水をググッと飲むのが爽快なのだ。今日は1日で3リットル以上水を飲んだ。

3月25日(月) キャメル・サファリ

 ホテルの部屋にはテレビがあった。だからアメリカで開催されているアカデミー賞授賞式のニュースを見ることができた。昨夜から外国語映画賞にノミネートされているインド映画「Lagaan」の話題で持ちきりで、もう取れたも同然のような雰囲気だった。僕はインド映画がアカデミー賞にノミネートされたのは「Lagaan」が最初だと思っていたのだが、過去にもう2作品ノミネートされたことがあったらしい。「Mother India」と「Salaam Bombay」である。しかしどちらも賞を勝ち取ることは出来なかった。だから「Lagaan」はインド映画が世界に挑戦する3度目の機会ということになる。アカデミー賞授賞式はインド時間でちょうど今日の朝から始まった。「Lagaan」の主演男優アーミル・カーンと監督のアシュトーシュ・シヴァンがアカデミー賞授賞式に出席していた。しかし9時頃まで粘ったが外国語映画賞の授賞式は来なかったので、このまま部屋でテレビを見続けるのは止めて外に出た。

 今日はムハッラムというムスリムの祭日だった。子供たちも学校は休みみたいで、昨日と同じく色水掛けが行われていた。今日は砦には入らなかったが、旧市街をブラブラと歩いた。そして子供たちの集団を見つけると道を変えたりして、うまく避けつつ路地を歩き廻った。まるでパックマンみたいなゲームをしてるみたいだった。

 今日はパトワー家のハヴェーリーを訪れた。このハヴェーリーはジャイサルメール最大のハヴェーリーで、大富豪が金の力に任せて造ったものらしい。壁面を覆う装飾がすさまじく、その財力を見せ付けられた。18世紀の建造だそうだ。




パトワー家のハヴェーリー


 旧市街の外れにあるバーダル・ヴィラースへも行った。ここはマハーラージャーの住宅だそうだ。最初マハーラージャは砦の中に住んでいたが、後に城外に引越しをしたらしい。おそらくいちいち丘の上にある砦に行くのが面倒だったのだろう。今もマハーラージャが住んでいるようだ。




バーダル・ヴィラース


 12時頃ホテルに戻ってテレビを見てみると既にアカデミー賞授賞式は終わっていた。気になる外国語映画賞の結果だが、残念ながら「Lagaan」は受賞を逃したみたいだ。「No man's Land」という訳の分からない映画が外国語映画賞を受賞していた。アーミル・カーンなどのコメントは発表されていなかったが、他の「Lagaan」チームの人々のインタビューがあり、「ノミネートされただけでも大した功績」「『Lagaan』は歴史の一部になった」「もっと優れた映画を作って次こそ賞を取ってやる」というポジティブな意見もあった中、「『Lagaan』が一番よかったんだ。何で受賞できなかったんだ」と泣き出す人もいたり、不機嫌な顔をしている人もいたりと、表情はいろいろだった。僕もてっきり「Lagaan」が受賞すると思っていたので、かなりショックだった。これでインド人の反米感情がさらに高まることになるだろう・・・?

 午後2時からサファリに出掛けた。まずはジープでジャイサルメール郊外の見所を巡る。最初に行ったのはバラー・バーグ。ここはジャイサルメールを造った王ジャイサルの他、歴代のマハーラージャーの墓がある場所だ。ただし墓と言っても遺骨は納められていない。ヒンドゥー教徒は遺骨を河に流す習慣があるからだ。だから、墓というより記念碑が立ち並ぶ場所だった。その記念碑には馬にまたがった王の姿と、后らしき女性の姿が刻まれていた。必ず東向きになっていた。

 次に行ったのはラーム・クンダーというヒンドゥー寺院。200年くらい古い寺院らしい。老夫婦が細々と管理をしており、なんか寂れた寺院だった。あんまり見る価値のない場所だと思う。

 途中で村があったので、そこでジープを止めてもらって村を歩き回ってみた。まずは子供たちがやって来て、僕に色のついた粉を付けようとして来たが、おじさんがやって来て子供たちを追い払ってくれた。それでも子供たちは「お金ちょうだい」「ペンちょうだい」「チョコレートちょうだい」と口々に言って来た。観光客が訪れる場所というのはどうしてこういう風になってしまうのだろう。いろいろと物をあげる旅行者が悪いのか、旅行者にたかる地元の人間が悪いのか・・・。悲しい気分になった。そのおじさんに村の家を3軒ほど案内してもらった。僕はその人に「この村には観光客がいっぱい来るから、みんな彼らにお金を乞うようになってしまったんだねぇ。悲しい話だ」と話し、そのおじさんも頷いていたのだが、彼も最後にはちゃっかり「お金くれ」と言ってきたのには呆れた。

 次にルドラヴァーというジャイナ教の寺院へ行った。この寺院はけっこう見る価値があった。まず目立ったのは寺院の横に立つ金属製の巨大な樹。ジャイナ教にとって大切な聖なる樹をかたどったものらしい。これは今まで見たことがなかったのでビックリした。また、寺院の横にはひとつの穴があり、そこにはコブラが住んでいるそうだ。そして毎朝ミルクを飲みに外に出てくるらしい。寺院の住職の話によると450歳の歳なるコブラらしい。そんな馬鹿な・・・と思いつつも頷いておいた。寺院の壁面を覆う透かし彫りや、門の彫刻なども優れていた。昔はこの辺りにジャイサルメールの首都があったらしい。今ではただの村になっていたが。




金属製の巨大樹


 ジャイサルメール砦の中にもジャイナ教寺院が3つあり、旧市街にもいくつかジャイナ教寺院があった。そしてルドラヴァーのジャイナ教寺院。ラージャスターンには案外ジャイナ教徒が多いのだろうか?ジープの運転手に質問してみると、昔はたくさん住んでいたが、今はどこかへ去って行ってしまい、後にはジャイナ教寺院と寺を管理する住職だけが残ったそうだ。聞くところによると時のマハーラージャの娘がジャイナ教徒の男と禁断の恋をしてしまい、マハーラージャの怒りを買ってジャイナ教徒全員が出て行かざるをえなくなったそうだ。ちなみに隣のグジャラート州にはジャイナ教徒が今でもいっぱい住んでいる。

 ジャイサルメール旧首都を離れたジープは荒野の中の一本道をひたすら進んだ。今までは岩石砂漠っぽい風景だったのだが、だんだんと砂砂漠っぽくなって来た。そして道の途中で待っていたラクダ乗りのところで止まり、僕はそのラクダに乗ることになった。ジープはその先にあるサム砂丘に先に行ってもらった。

 多分ラクダに乗るのはこれで3回目くらいである。確かエジプトのギザのピラミッドのところで一回乗り、もう1回は昨年の8月に開催された住友商事パーティーのときに乗ったような気がする。あともう1回くらいどこかで乗ったかもしれない。しかしこれほど長時間乗ったのは初めてだった。そしてラクダがこれほど恐怖の乗り物だと初めて思い知らされた。三角形に盛り上がった鞍の上にまたがるのだが、ラクダが歩くたびに上下に激しく揺れるため、尾てい骨が打ち付けられて痛い。まるで拷問器具の上に座っているみたいだった。しかも座り方によっては睾丸を打ち付けられるため、ダブル・ショック。当初の予定ではキャメル・サファリは2時間と言われていたので、こんなのに2時間も乗り続けなければならないのか・・・と本気でブルーになった。キャメル・ドライバーは呑気に歌を歌っていた。




お約束の写真


 苦難の時を克服しつつもサム砂丘に到着した。ジャイサルメール周辺では最大級の砂丘で、パーキスターン国境まであと55Kmという微妙な国境地帯でもある。ラクダに乗り始めてから1時間で到着した。「もっと乗るか?」と言われたが僕は丁重に断っておいた。既に尾てい骨がヒリヒリと痛み、座るのに苦労するぐらいまでになっていた。これ以上ラクダに乗り続けるのは自殺行為を意味する。キャメル・ドライバーには帰ってもらって、僕はここで夕日を見ることになった。

 僕がサム砂丘に到着したのは割と早かったため、まだ砂丘の風紋はほとんど荒らされずに残っていた。しかししばらくすると多くの観光客がサンセットを見にぞろぞろとやって来て、砂丘は足跡だらけになってしまった。せっかくできた風紋に自分の足跡をつけて汚すのは忍びなかったので、僕はなるべくラクダの足跡を辿って歩き廻った。

 サンセットは午後6時50分頃だった。砂漠に沈む夕日、というのも初めて見たわけではなかったので、思ったほど感動はしなかった。というか、サンセットというのは苦労して見に来ることに価値があるのであって、サンセットの美しさはいくらサンセット・ポイントだからと言っても、その美しさが絶対に保証されているものではないと思う。かえって、ふと列車の車窓などから外を見たときに偶然見えた夕日の方が妙に感動するものがある。カンニャークマーリーで見た2001年最後の夕日は美しかったが・・・!




砂漠に沈む夕日


 夕日を見た後は一目散にジャイサルメールまで戻った。今夜の9時半の夜行バスに乗ってビーカーネールへ行くため、ちょっと急がなければならなかった。今回のジープ&キャメル・サファリについての感想を書くと、800ルピー払っただけの価値があるものとは思えなかった。砂漠の村を訪ねるのは僕の楽しみのひとつだったのだが、やはり旅行者が行く場所というのは旅行者向けに変貌してしまい、どうしても人工的な雰囲気になってしまう。本当に純粋な田舎の村へ行くのはかなり困難なことだろうし、僕が行ってしまったことによって、その純粋さが失われてしまったら残念なことだ。もっとも、僕はデリーに住んで旅行者向けではない環境に囲まれて暮らしている人間なので、たまにはこういう人工的なツアーを体験してみるのもいいかもしれない。

 ホテルに戻ったのは8時前。身体中砂まみれになってしまったので、シャワーを浴びて、夕食を食べ、ホテルをチェック・アウトした。今回ジャイサルメールで泊まったジャイサル・パレスは、結局2日間僕しか客が来なかったが、それが何より強引な客引きをしていない証拠であり、雰囲気もよかった。屋上のレストランをよく利用したので、コックの人とも仲良くなり、最後の夕食は豪華なターリーを作ってくれた。最後はバス停まで送ってくれたりもした。ビーカーネール行きの夜行バスに乗り、一路最後の目的地に向けて出発したのだった。

3月26日(火) ビーカーネール

 バスは朝の4時半頃ビーカーネールに到着した。思ったよりもかなり早かった。今夜の午後7時45分の夜行列車に乗ってデリーへ向かうので、それまで休息できるようにホテルで部屋を借りた。駅前の中級ホテル、ジョーシーに泊まることにした。シングル・ルーム、バス・トイレ付き、石鹸・タオル・テレビ付きで1泊350ルピー。

 バスの中では寝足りなかったので、ホテルで少し眠った後、町へ出た。ビーカーネールも城塞都市で、街中にジュナーガル砦という砦がある。しかしジョードプルやジャイサルメールとは違って砦は高台に建っていなかったので、探すのにちょっと苦労した。

 ジュナーガル砦は16世紀に建てられたマハーラージャの居城で、やはり巨大で豪華な建物だった。中は一般に開放されているものの、ガイドと一緒に廻らないといけないようになっている。ガイドの説明があるため、いろいろとよく分かるのだが、自分の好きなペースで廻ることができないのでちょっとストレスが溜まる。今回の旅行ではマハーラージャたちの豪華絢爛たる建物と部屋をたくさん見てきたので、すでに少し食傷気味である。ジュナーガル砦の内部装飾もすさまじく手が込んでいたのだが、豪華すぎて感覚が麻痺してしまったような気分だ。しかしマハーラージャ所有の複葉飛行機が置いてあったのにはさすがに驚いた。敷地内には博物館もあり、マハーラージャの所有物や写真などが展示してあった。




ジュナーガル砦


 偶然その博物館でガイドをしてくれた人から、ネズミ寺院のことについて聞いた。そういえばラージャスターンのどこかに、ネズミが祀られている世界でも珍しい寺院があるという話をどこかで聞いたり読んだりしたことがあった。その寺院が実はビーカーネール郊外にあるというのだ。ジュナーガル砦の後は特に目的地がなかったので、そこへ行ってみることにした。砦の外で客待ちをしていたリクシャー・ワーラーに「ネズミ寺院知ってる?」と聞いたらやはり有名らしく知っており、連れて行ってもらうことになった。

 ネズミ寺院の正式名称はカルニー・マーター寺院。ビーカーネールから約25Km、ジョードプルへ向かう道の途中にあった。観光客がたくさん来るのかどうかは分からないが、「世界的に有名な寺院」とか「世界第8番目の不思議」」とか書かれた看板があったりした。寺院の中に入ってみると・・・ネズミ、ネズミ、ネズミ・・・。目を疑うほど多くのネズミが我が物顔で床を闊歩していた。これほど多くのネズミを見たのは生まれて初めてかもしれない。寺院の壁には無数の穴が開いていて、そこがネズミの巣になっているみたいだ。ちょうど「トムとジェリー」のジェリーの巣のような感じだ。床をチョロチョロ歩いているので、うっかりネズミを踏み潰しそうになることもしばしば。ネズミのためのエサが供えられているのだが、鳩までやって来てるので、寺院内はお世辞にも清潔とは言えない。ネズミと言えばガネーシャと関係が深いが、この寺院の本尊のカルニー女神はドゥルガーと同一視されているみたいだ。しかし、もともとは土着の女神だろう。どうしてこの寺院にネズミがこれほどたくさんいるのか?寺院にいた人数人に質問してみたが、誰も明確な答えをくれなかった。多分この寺院はネズミが祀られているというよりも、カルニー女神の寺院にネズミがたくさん住み着いてしまったような感じではなかろうか?そしていつしかネズミが信仰対象となってしまったのだろう。ちなみに寺院は600年以上古いそうだ。これは本当に一度見るべき価値のある寺院だと思った。もしかして今回のラージャスターン旅行のハイライトだったかもしれない。インドはやっぱり不思議なところだ・・・!




お供え物にネズミが・・・


黒いの全部ネズミです
ハトもいます


 ビーカーネール市街まで戻る道中にあるジャイナ教寺院にも立ち寄った。バンダサル寺院というその寺院は、ビーカーネール旧市街を囲む城壁の外に位置しており、15〜16世紀の建造らしい。裕福な商人によって造られたそうで、言い伝えでは水の代わりにギーを使って造ったセメントで建てられたそうだ。ギーとはバターを精製して作る油で、高級品である。寺院の壁を覆う彫刻や壁画も素晴らしかった。今回の旅行では予想外にジャイナ教寺院もよく見て廻った。旧市街のハヴェーリーなどを見つつ、ビーカーネール市街のホテルまで戻った。




バンダサル寺院の壁画


 実はカルニー・マーター寺院の外にあった売店で、カルニー女神のことについて書かれた本(ヒンディー語)やポストカードなどを買ったのだが、リクシャーの中に忘れてしまうというドジを犯してしまった。もしあの本があったら、もっとカルニー女神のことについて詳しく知ることができたと思うのだが・・・。リクシャー・ワーラーが気付いてホテルまで届けてくれないかと密かに期待していたのだが、遂に忘れ物は僕の手元まで届かなかった。後でネットで調べてみたところ、カルニー女神について以下のようなことが分かった。

カルニー・マーター寺院について
●カルニーとは15世紀に実在した人物らしい。
●一生を貧しい人々の救済に費やした優れた人物だったらしい。
●伝説ではカルニーには不思議な力があり、死んだ人間をも生き返らすことができたそうだ。しかしその蘇生術を死者の国の王ヤマによって邪魔されたことから怒り、自分の村に住む人々は死後ヤマの元へは行かず、生まれ変わるまでネズミの姿でいるようにしてしまったらしい。
●だからカルニー寺院を徘徊しているネズミたちには、カルニーの信者たちの魂が入っていると信じられている。
●カルニー寺院で白いネズミを発見したら幸運がもたらされるらしい。
●カルニー・マーター寺院のネズミが原因で伝染病などが蔓延したことは今まで一度もなく、逆に信者たちはネズミの食べかけの供え物を食べるらしい。


 ホテルをチェック・アウトし、午後7時45分発の列車に乗りこんだ。ビーカーネール〜デリー間の列車はメーター・ゲージで列車の横幅が狭く、普通より寝台が2席少なかった。また、天井も低かった。もうすぐ満月が近い。ホーリーは満月の日に行われるので、満月が近いことが自然と分かる。その月の光により、外は夜なのに風景が薄っすらと見えた。

3月27日(水) ホーリー文化祭

 朝6時半ころデリーに到着した。到着駅はサラーイ・ローヒッラーというマイナーな駅だった。カロール・バーグの北に位置している。おそらくデリー〜ビーカーネール間の列車がメーター・ゲージのため、オールド・デリー駅やニュー・デリー駅に列車が入ることができないのだろう。でもたまにはマイナーな駅に降り立つのもいいものだ。駅前でリクシャーを拾い、ガウタム・ナガルへ戻った。ラクダに乗ったときの後遺症で尾てい骨と腰がまだ痛いことを除けば、いたって健康に旅行を終えることが出来てよかった。

 今日は11時から学校でカルチュラル・プログラムがあり、生徒は何か出し物をしなければならない。僕はギターで語り弾きをする予定だった。列車が遅れたら出席できない可能性があったが、列車は驚くほど正確にデリーに到着し、僕もその文化祭に参加できることになってしまった。旅行に出る前に大体完璧に暗記しておいたが、一応家に帰ってから急いでちょっと練習しておいた。服装はちょっと前に買ったデニム・クルターに決めた。ホーリーが間近に迫っているため、色水や色粉で汚されるのが心配だったが、勇気を持って外に出た。

 やはり真っ青なクルターを着てギターを持って道を歩くと目立ちまくる。多分インド人から見れば、僕の周りには只者ではないオーラが漂っていただろう。そんなインド人たちの熱い視線を軽く受け流しつつ、いつもの通りバスで登校した。

 今朝ラージャスターンから帰ったばかりだというのに僕は11時には学校に着いていた。しかし11時にホールにいたのは2人だけ・・・。いったい僕の苦労はなんだったというのだ・・・?未だに日本人時間が身体と精神から抜けない自分が哀れに思えてきた。結局文化祭は約1時間遅れて始まったのだった。

 割と甘く考えていたのだが、今回のカルチュラル・プログラムはみんなかなり気合が入っていた。トップ・バッターはインドネシアのバリ島から来た女の子ラクシュミーによるバリ・ダンス。ラクシュミーはバリの伝統衣装らしき露出度の高い服を着て、かわいらしくも妖艶な踊りを披露してくれた。タンプーラと共にインド声楽を歌ったり、インド映画の音楽をバーンスリーで吹いたりと、みんななかなか趣向を凝らした出し物を用意していた。僕も予定通り「上を向いて歩こう」のヒンディー語ヴァージョン「Shabu Shabu」と、映画「Company」の中の「Tum Se Kitna」を語り弾きした。失敗したところもあるが、どうせ綿密な練習を重ねても必ず失敗するので結果オーライである。中でも一番気合が入っていたのが、ウクライナの美女3人組である。フィルミー・ダンスを踊ったり、ウクライナの歌を歌ったりと大活躍だった。はっきり言って、こんなに盛り上がるとは思っていなかった。出し物を何かやらないと申し訳なくなるぐらいだ。僕は一応一矢を報いておけて安心した。




バリ・ダンス


ギターを弾いて歌った


ウクライナ3人組の華麗なダンス


 昼食にサモーサー、チャーイと、ホーリーの時に特別に食べるミターイーが出された。その後、悲劇が起こった。チャンドラプラバー先生がおもむろに生徒に向かって赤い粉をばら撒き始めたのだ!やはりホーリーだった。幸い、その赤い粉の第一撃は僕の座っていた方向には向けられなかったので、とっさに席を立ってホールの外へ逃げ出した。それでも僕の服や身体の数箇所には赤い粉が付いてしまった。ホールの中では先生たちが報復合戦をしていて、お互いに色粉を付け合っていた。やはりインド人は大人も子供もホーリーが大好きのようだ・・・。生徒たちの大半は、文化祭のためにせっかくきれいな服を着て来ていたこともあり、かなり嫌がっていたのだが・・・。

3月28日(木) 小ホーリー

 今日はホーリー前日の小ホーリーである。ホーリーが新年の始まりだとしたら、小ホーリーは大晦日にあたる。もう既にホーリーは盛り上がっており、道を歩いていると子供たちから水を掛けられそうになる。道を歩く人の中には、既に全身真っ赤に染まった人がいたりもした。外を出歩くときは、僕も色を付けられてもいいように、手持ちのクルター・パージャーマーの中から一番気に入っていないものを取り出して着ている。ジャイサルメールでは危うく色水を掛けられそうになったが、ガウタム・ナガルではホーリー当日までは色は一応禁止されているみたいで、今日は水中心だった。

 デリーの州議会選挙の結果が今日の新聞に出ていた。予想通りBJPは大敗。コングレス(国民会議派)が大幅に議席を増やし、134議席中107議席も獲得した。一方、連邦政府与党のBJPはたったの17議席しか獲得できなかった。アヨーディヤーのラーマ寺院の建設を巡ってBJPとヴァージペーイー首相は非常に苦境に立たされており、このままだと政権交代もあり得るかもしれない。そうすると、コングレス総裁のソニア・ガーンディーが首相に就任することになる。ソニア・ガーンディーはインディラー・ガーンディー元首相の長男ラジーヴ・ガーンディー元首相の妻で、ジャワハルラール・ネルー元首相から綿々と続く政治家一家の一端にあたる。もしソニア・ガーンディーが首相になれば、インド2番目の女性首相誕生ということになる。しかもこのソニア・ガーンディー、実はイタリア人である。外国人が首相になるなんてことが起こりうるのだろうか?ちなみにネルー&ガーンディー一家は、マハートマー・ガーンディーとは直接血筋的に関係はない。インディラーがフェローズ・ガーンディーというガーンディー姓の人と結婚したため、名字がたまたまガーンディーになっただけだ。もっとも、ガーンディーという名字がマハートマー・ガーンディーを連想させて、無教育な人々が勘違いして好感を持つという政治的な計算は働いたと思われるが。

 午後からスラブと一緒にホーリー遊びをすることになった。5階の僕の家のベランダから、下を通りすがる人々に水風船をぶつけるのだ。今までホーリーは受け身の体験しかしたことがなかったので、ただ逃げるだけで嫌なイメージしかなかったのだが、自分でやってみるとこれほど楽しい祭りはこの世に存在しないことに気付いた。無礼講なので、水風船をぶつけられてもインド人は誰も怒らない。やったもん勝ちである。しかも水風船を投げた瞬間にベランダの奥に身を隠すので、誰がやったのか分からない。最初はやはり遠慮があったのだが、だんだん慣れてくると何の良心の呵責もなしにぶつけれるようになった。しかしだんだんエスカレートして来て、シャームー(お手伝いの少年)やその他の子供たちも一緒になって僕の部屋に上がりこんで水風船遊びを始め、挙句の果てに下の階に住んでる人と報復合戦となって、僕の部屋まで戦場になってしまった。部屋の中で水を撒くなと言ってるのにインド人は一度ホーリーを始めてしまったら止まらない。水風船だけでなく、ペットボトルやバケツまで取り出して水を掛け始め、みんな全身びしょ濡れになってしまった。もはやこれ以上水を掛けられても何の違いもないぐらいびしょ濡れになってやっと一段落した。僕の部屋は全体ではないものの、一部に水溜りができ、床は足跡だらけになってしまった。ショック・・・。でもパソコンその他の電子器具が壊れなかっただけで一安心と言っていいだろう。明日は遂にホーリー当日、無事に済むとは考えられない。

 夜にはホーリー関連の儀式が公園で行われていた。儀式と言ってもキャンプ・ファイヤーのように大きな火を燃やして、チャンナ豆や小麦を火の中に入れて燃やすだけだ。もともとホーリーは収穫祭の意味合いが強いので、ちょうどホーリーの時期に収穫を迎えるチャンナ豆や小麦をまず燃やし、神様へ捧げるのだ。また、火と一緒に一年の間起こった悪い出来事を燃やして、新しい気持ちで新年を迎えようという意味合いも込められているそうだ。

3月29日(金) ハッピー・ホーリー

 好奇心半分、恐怖半分の気持ちでホーリーの朝を迎えた。ホーリーは今までもこの日記の中で何度か説明してきた通り、誰にでも色水や色粉を掛けていい祭りである。今日一日だけは貧富の差、身分の差、年齢の差が消滅し、無礼講となる。ホーリーに関して以下のような有名な逸話がある。

ホーリカーとプラフラーダ
 昔、プラフラーダという信心深い男がいた。ところがプラフラーダの父は自らを神と考えている傲慢な男で、息子の信仰を止めさせようといつも邪魔ばかりしていた。プラフラーダにはホーリカーという叔母がおり、火の中でも燃えないという特技があった。あるときホーリカーはプラフラーダを連れて火の中に飛び込んだ。ところがプラフラーダは髪の毛一本燃えなかったのに対し、ホーリカーは燃えてしまった。この出来事を記念するためにホーリーが祝われるようになったという。

 上の逸話はなんかちょっと脈絡のない話なのだが、つまり信仰は無信仰に勝ち、正義は悪に勝つということを表している。一説によるとプラフラーダの父やホーリカーはラークシャサ(羅刹)だったらしい。ホーリーのときに、特に赤い色を掛け合うのは、火の色を表しているようだ。

 朝7時、ベランダから恐る恐る外を覗き込んでみる。まだ人通りは少なく、色掛けも始まっていなかった。本日がホーリーであることが信じられないくらいの静けさである。8時になった。また外を覗き込んでみる。やはりまだ静かだ。本当に今日はホーリーなのか・・・?聞くところによるとホーリーは7時頃から始まるとのことだったが・・・。

 部屋にスラブがやって来たので、水風船を用意してベランダのところで一緒に人が通るのを待った。やはりまだ人通りが少なくて、なかなか水風船投下のチャンスが訪れない。スラブの話ではここ数年、次第にホーリーやディーワーリーの規模が小さくなっているらしい。この前のディーワーリーでも例年と比べて爆竹や花火の数が少なかったらしい。そういえば日本もだんだんと祭りが形骸化していって、いつしか人々にとって迷惑なものへと成り下がっている。僕自身もあまり祭りに参加した経験がない。祭りが次第に縮小するというのは、人々の心に何かが欠けて行っているように思えてならない。

 昨日はスラブやシャームーに水風船を結んでもらっていたものの、今日練習していたら、自分でも結べるようになった。時々水を入れているときに破裂して自爆してしまうこともあるのだが、それもまた一興。真下の道路を歩いている人を狙うよりも、遠くを歩いている人を狙うスナイパー的なぶつけ方の方が僕は気に入った。命中させるのは非常に難しいのだが。

 水風船に飽きたスラブは遂に色粉を取り出してきた。そしてバケツに水を溜めてその中に色粉を混ぜ、真っ赤な色水にしてしまった。いよいよ色掛けが始まるのか・・・。その他、スラブは水鉄砲や色スプレーなどの装備も持っていた。最初水鉄砲で色水を噴出しようとしていたのだが、どうもその水鉄砲はあまり品質がよくなくて、自分の方向に水が出てしまったりしていた。そこでバケツから小バケツで水をすくって、通行人の上にドバッと一気に水を掛け始めた。

 だんだんと通行人が多くなって来た。だいたいホーリーのときに外を歩いているのは、色水を掛けてもらいたい若者の集団である。彼らは既に全身真っ赤に染まっており、「おらおら、もっと掛けろ!」みたいな感じだ。ホーリーの日は酒を飲んだりドラッグをやったりしてラリッてる連中も多いので、特にこういう集団にはなるべく色水を掛けたりしないように心掛けた。最初から染まっている人に色水を掛けても楽しくないし。その他、寺院へ供え物を持って参拝へ行く年配の人々も時々通りがかる。しかし礼儀としてそういう人々に色水を掛けるのはよくないようだ。現に彼らにまで水を掛けたりする人はいなかった。バイクやスクーターで、サッと通り抜ける人もいる。上から彼らに水を掛けたり水風船をぶつけたりするのは難しい。しかし彼らにホーリーの洗礼を与えるのは、前述した全身真っ赤の若者集団である。彼らは道を遮ってバイクを止め、手や服にべっとりと付いた色水を擦り付けてホーリー色に染め上げる。警察もバイクに乗ってときどき通りがかるのだが、やはり警察に手を出す人はいないようで、彼らは不思議なほど無傷だった。

 通行人に水を掛けたりするのはむしろホーリーの前哨戦で、本当の戦いは家屋の中や家屋同士で繰り広げられる。同じように屋上や上の階から下を通りがかる通行人目掛けて色水や水風船をぶつけている人々が横並びになっているため、通行人をターゲットにするのに飽きてくると今度は隣同士で水を掛け合う。だから僕のベランダにも容赦なく水が放り込まれてきて大変だった。幸い、僕の部屋は5階で、周りにそれ以上高い建物があまりないので、優位な位置に立っているのだが。その後、だんだんと同じ建物に住んでる住人同士が戦い始める。こうなって来ると手が付けられない。シャームーが僕に水鉄砲で大量の赤い水を浴びせて来たので、僕も報復としてバケツに赤い水を目一杯入れてシャームーに一気に浴びせた。

 また、ホーリーのときは友人知人同士で、お互いの顔に色粉を付け合って「ハッピー・ホーリー」と祝い合う習慣がある。そして男同士だったらお互いに抱き合ったりする。こうしてホーリーが佳境を迎える頃には、どんな人でも顔や服がカラフルになってしまうのだ。最終的に僕は下の写真のような姿になってしまった。芸術的!




ホーリー後・・・


 インド人たちは大体昼頃までホーリーの水掛け遊びを楽しんだ後、シャワーを浴びて色を落とし、新しい服に着替えて親戚巡りに出掛けたりする。僕も昼頃には家に帰ってシャワーを浴びた。服に付いてしまった色素は二度ととれないことは分かっていたが、身体に付いた色素もなかなかとれない。石鹸でゴシゴシ洗ってもなかなか落ちてくれない。また、この色素は肌や髪に悪いらしく、ところどころ皮が剥けてきたりしていた。でも、冬の間に溜まった垢なども一緒にゴシゴシと洗って落とすことができるので、割と合理的な祭りなのかもしれない。色水で汚れた家具、壁、床なども同じようにゴシゴシ洗うので、かえってきれいになる。

 さすがに今日はかなりはしゃぎまくったので疲労困憊してしまった。ホーリーに参加するころが出来ていい思い出になった。今日はもう寝る・・・。

4月1日(月) エイプリル・フール

 最近実は床の上に直接寝ている。一昨日はたまたま夜、パンカーが急に大きな音を立てて回転を停止してしまい(多分オーバーヒートか?)、扇風機なしで寝なければならなくなってしまった。最近は気温がかなり上昇し、部屋にいるときはパンカーなしでは過ごせない。そこで、部屋の中より外の方が若干涼しいため、ベランダにシーツを敷いて屋外で寝てみた。インド人はよくこうして道端などに寝ている。初めて試してみたがけっこう涼しくて気持ちいいものだと思った。ただ、蚊には刺されるのだが、暑くて寝れないよりは蚊に血を吸われながらも外で寝た方がましだ。また、床の上に直接寝るというのも初めての体験だった。絨毯の上などには寝たことがあるが、石畳の上に寝るのは初めてだった。布団やクッションの上で眠るよりは断然寝心地が悪いのだが、なんとなく苦行者になったような気分がして徳を積んでるような錯覚に陥ったりして気分よく眠れる。それ以来、ここのところ床の上に眠るのが癖になっている。最近ほとんど肉も食べていないし、サードゥーになりつつあるような気がする。ちなみにパンカーは次の朝には何事もなく動いた。いったいなぜ突然停止してしまったのだろうか・・・?

 僕の部屋の隣には2人のインド人の若者が住んでいたのだが、急にどこかへ引っ越してしまった。ホーリーのときにはまだいて、お互い顔に色粉を付け合ったのだが、あれが最後の出会いだった。特に彼らと親交はなかったのだが、ときどき会うと挨拶を交わしていた。で、もうその次にその部屋に入る人が決まったらしい。次はなんとアフリカ人だそうだ。ガウタム・ナガルには割とアフリカ人が多く住んでいるのだが、僕の隣人がアフリカ人になろうとは想像だにしていなかった。急になんだか根拠のない不安を感じてしまうのは僕の心に人種差別意識があるからだろうか・・・?遅くまで太鼓を叩き鳴らしたりしてドンチャン騒ぎしたり、僕の部屋のドアをぶち破って侵入してきたりしなければいいのだが・・・(←人種差別)。

 という訳で、隣のインド人たちはいなくなってしまったのだが、新聞の契約は打ち切っていなかったみたいで、今朝も彼らの部屋の玄関に新聞が届けられていた。受取人がいなかったので、僕がこっそりもらっておいた。その新聞を読んでみると・・・なんと驚きのニュース満載だった!以下、気になったニュースを挙げて行く。日本語訳は適当。

サルマーン・カーンとアイシュワリヤー・ラーイが結婚
 アイシュワリヤー・ラーイとサルマーン・カーン(共に映画スター)が結婚した。「ラガーン」がアカデミー賞にてオスカーを逃し、インド中が絶望に浸っているときに、サルマーンとアイシュワリヤーはスコット・ランドのスキボ教会にて極秘に結婚式を挙げていた。同教会はマドンナとガイ・リッチーが以前結婚した場所として知られている。

 「これは勝利の結婚だ」とサルマーンの親友は言う。「アイシュはいつも彼のことを愛していた。でも自分の両親のことを気遣っていたんだ。サリーム・カーンがアイシュの両親の元へ行って、息子の結婚を頼んだときに氷は溶けたんだ」

 花嫁と花婿がまだ帰国しない内に、両者に近いある情報筋が「極度に個人的な事柄」が「午後6時に開始された」ことを暴露した。結婚式はイスラーム式とヒンドゥー式にて2回行われた。サルマーン・カーンの父のサリーム・カーンが全ての儀式を監督した。

 詳細はまだ明らかではないが、例の情報筋によると、出席者は新郎新婦の家族とごく親しい友人だけで、金曜日の午後に現地に到着した。主な出席者は以下の通りである。

 ポップスターでサルマーン・カーンの親友のカマル・カーン、デザイナーのタルン・タヒリアーニー、サルマーン・カーンの兄弟のソーハリー&アルバーズ・カーン、マライカー・アローラー、アムリター・アローラー、アンジャリー(アイシュワリヤーの親友)、ロンドンにて禁煙トレーニング中のシャールク・カーン、A.R.ラフマーン、シェーカール・カプール、アンドリュー・ウェッバー・ロイドなどが出席した。

 サルマーン・カーンとアイシュワリヤー・ラーイは現在ハネムーン中で、イギリスのウィルスフォード・カム湖の近くの村に滞在している。
リティクが新ジェームズ・ボンドに大抜擢!
 ハリウッドの情報誌「True Lies」によると、インド映画界のスーパー・スター、リティク・ローシャンが次期ジェームズ・ボンドに決定した。同記事からの引用によると、リティクは既に「007」6作品に出演する契約書にサインをした。これで、間もなく公開される「Die Another Day」がピアース・ブロスナンの最後の「007」主演作となる。

 同雑誌はまだ発売されていないが、ロンドンで土曜日に印刷された。「今までの陳腐なジェームズ・ボンド像を払拭しようと思い立ったんだ」とハリウッド関係者は漏らす。「リティクが選ばれる前に、世界中から12人の男優がリストアップされた。ブラッド・ピット、イーサン・ホーク、オーストラリアの新星ピーター・ルークスなどだ。リティクのイタリア人的ルックスとゴツゴツした顔が決定打だった。」

 今のところ、6作品のためにリティクがいくらのギャラをもらうかは明らかになっていないが、推定では1億〜1億1千USドルと見られている。
オサマ・ビン・ラディン、遂に逮捕される
 国際的テロ組織アル・カーイダのリーダーで、昨年の9月11日に米国で起こった同時テロの首謀者とされるオサマ・ビン・ラディンが、日曜日の夕方、ニューデリー駅にてデリー警察により逮捕された。FBI(連邦捜査局)の最重要指名手配犯で、米国の徹底的な捜索網を掻い潜って来たビン・ラディンは、POTO(テロ防止法案)を適用され、午後5:42に逮捕された。

 これは我が国始まって以来の大捕り物だろう。ビン・ラディンはジョージ・W・ブッシュという偽名を使って列車の切符を予約をし、第9番プラットフォームにてアリーガル行きの列車に乗り込もうとしていたところを逮捕された。

 犯罪局によると、匿名の情報が今回のビン・ラディンの逮捕に結びついたという。ニューデリー駅にて緊急かつ徹底した捜索の結果、警察は遂にビン・ラディンを見つけ出した。7人の警官と4人の私服警官が9番フォームへ駆け込み、逃走路を全て遮断した。「突然我々がやって来たことにより、ビン・ラディンは驚いたようだった。彼は全く抵抗しようとしなかった」と劇的な逮捕に関わった警官が述べた。

 ビン・ラディンは集中的な尋問の後に全てを暴露し、アル・カーイダは「国内でもっともデリケートな建物」を破壊する秘密の計画を練っていたことを明かした。現在「極秘の場所」にてさらに厳しい尋問が続いており、警察によるとビン・ラディンはジャンムー・カシュミール州の武装組織が彼の同胞であることを認めた。POTOが国会を通過した数日後にビン・ラディンの逮捕が実現したことになる。

 25日金曜日にビン・ラディンがガジアーバードにいたという「確かな情報」を捜査局が得ていた、とCBIの上官は主張する。「しかしながら、オサマはおそらく我々が捜索中であることを警戒しただろうし、なんとか逃げ出そうとしたはずだ。」

 ビン・ラディンがデリーで逮捕されたとの情報を受け取った後、FBIはデリー警察や外務省と積極的にコンタクトを取ろうと試みている。FBIがビン・ラディンの米国への速やかな送還を要求して来るのは明らかであるが、インド政府の公式解答はまだ発表されていない。一方、FBIはビン・ラディンの米国への移送を交渉するために国際警察にもコンタクトを取っていると思われる。
政府が学校の試験を禁止
 生徒たちがCBSEによって行われたクラスX試験の結果を待っているときに、当局は学校の試験を禁止することを決定した。日曜日デリーにて行われた記者会見によると、文部省の広報官ジョーシー・Mは「国家レベルであれ州レベルであれ、全ての試験を廃止する」と語った。試験が学生に与える精神的な影響力に関する長年の研究の結果に基づき、今回の政府の決定は「正しい方向へのステップ」と表現されている。

 著名な精神病学者や教育者から成る専門家委員会によって行われたその研究報告によると、試験は「今日の加熱した受験戦争の閉塞感がなければ安楽に暮らしていける子供たちに逆効果をもたらす努力である。」

 報告をまとめる前に教師、生徒、その親に対して広範に話す機会を持った委員会のメンバーの一人はこう語る。「政府が専門家委員会の提案を受け入れたことは全く正しい。数字によって生徒たちを評価する試験は若い精神に不要な圧力を与えることになる。国中の生徒たちにインタビューを行った結果、15歳以下の少年少女にとって精神的成長が促されるような環境がさらに必要であるという結論に達した。」

 デリー政府による突然の決定は、おそらくCBSEのクラスXの結果の発表にも不確かながら関係がある。CBSEの役員は「教育の方針は全て中央の決定に依る。我々はもはや問題用紙を作ることも、答案用紙を採点する教師を雇うこともないだろう。しかも、全国の学校で一斉にテストを行うことは、我々の財政に負担だった」と語った。

 一方、デリーの学校の生徒たちは政府の新しい決定に大喜びだ。「試験は教科書の隅から隅まで暗記するだけで何の意味もないよ。今から僕たちは好きなときに好きなことを勉強できるんだ。ほんの少しでもいいんだし。」と市内の名門公立学校のクラスIXの生徒ヴィシュヴァナタン・アーナンド君は語る。

 しかしながら、両親は予期せぬ出来事に戸惑いの表情を隠せない。「子供たちは今日から遊びばかりして勉強なんて全くしないに決まってるわ。私の息子は全く勉強しない子だったけど、これで勉強しない公式な言い訳を手に入れたことになるわ。政府の今回の決定は絶対に百害あって一利なしに決まってるわ。」と11歳の息子を持つ母親アイーシャー・ブローアチャーさんは語っている。

 とにかく、文部省の役人は政府の決定を守っている。「決定は広範な研究に裏付けられている。しかも、試験が禁止になったことにより、点数によって評価されない職業訓練コースへの進学者の増加をもたらすだろう。そうなったらきっと国が直面してる失業率増加問題も解決するだろう。」

 賢明な読者ならもう気付いたと思うが、これらの記事は全くのデタラメ、そうエイプリル・フールのジョーク記事なのだ。日本の新聞では考えられないほどの際どいジョーク記事がインドでは新聞に載ってしまうようだ。一瞬ビックリしたよ・・・。オサマ・ビン・ラディンがジョージ・ブッシュの偽名を使って列車のチケットを予約する、というところでは大爆笑してしまった。また、ちゃんと子供の喜ぶようなジョーク記事も載っているところがにくい。ちょうど今、インドの学校では試験シーズンなのだ。他にもまだいろいろジョーク記事はあったが、楽しかったのを載せた。

4月8日(月) Aankhen

 やはり今日もバスの問題が続いており、ディーゼル・バスは全く走っていなかった。聞くところによると、バスが走らなくなったせいで今日と明日の2日間学校が休日になってしまったらしい。ディーゼル・バスが禁止されたのは公害対策なのだが、都市生活の必需品をいきなり取り去ってしまった代償は大きい。僕もデリー在住者&公営バス愛用者としてその被害を被っている。ところが、我らがケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンは余裕で学校があった。登校のときは運良く(まさに運良く)空いた公営バスが来たので無料で移動できた。

 昨日見逃してしまった「Aankhen」を見るため、授業後PVRアヌパムへ向かった。今度は私営バスを利用したため、2ルピーの出費。なんだかケチ臭いが、先週までデリー市内をお金の心配をすることなく自由自在に移動していたので、この出費が大きく思える。

 今日も「Aankhen」は満員状態だった。学校が休みだったこともあってか、家族連れが多かった。学校が終わってから直接来たので、僕は教科書や辞書を入れた手提げ袋を持っていた。インドの映画館は入場制限が厳しくて、カメラ、ハンドバッグ、電気製品、携帯電話などは持ち込み禁止となっている。僕ももちろん止められたが、「この前来たときは持って入れたぞ」とごねてみたら通してくれた。

 「Aankhen」は「目」という意味。「Kabhi Khushi Kabhie Gham」に匹敵するほどのマルチ・スター映画である。出演者はアミターブ・バッチャン、アクシャイ・クマール、スシュミター・セーン、アルジュン・ラームパール、パレーシュ・ラワール、ビパーシャー・バスなどなど。見るのにちょっと苦労したので、かなり期待しての鑑賞となった。




Aankhen


Aankhen
 ヴィジャイ・シン・ラージプート(アミターブ・バッチャン)はVJ銀行のマネージャーで、人生を銀行のために捧げたような人間だった。銀行の対する情熱はときには冷酷な態度となって表れ、お金をネコババしようとした銀行員を公衆の面前で滅多打ちにするという暴挙にまで及んだ。そしてこれが原因となってラージプートは25年間手塩にかけて育ててきた銀行から追い出されることになった。

 ラージプートは銀行に復讐するために策をめぐらした。ある日、盲学校の前を通りかかったラージプートは名案を思いつく。盲人に銀行強盗をさせるというとんでもない作戦である。もし警察に捕まりそうになっても、盲人が銀行強盗をするとは誰も思わない。そのうえ、万が一捕まったとしても、盲人に自分の顔を見られる心配はない。ラージプートは早速3人の優秀な盲人を選出する。ヴィシュヴァース(アクシャイ・クマール)、アルジュン(アルジュン・ラームパール)、イリアス(パレーシュ・ラワール)である。ヴィシュヴァースは元カヌー選手、アルジュンは元サッカー選手、イリアスは乞食に近いハルモニウム演奏家である。また、盲学校の先生だったネーハー(スシュミター・セーン)の弟を誘拐・幽閉し、ネーハーを3人の盲人の教育係にしてしまう。

 ラージプートは自宅にVJ銀行とそっくりのセットを造り、そこでネーハーに盲人を訓練させた。ラージプートはその訓練をただ見守っているだけで、盲人たちには存在すら知られないようにしていたが、勘の鋭いヴィシュヴァースはネーハーを操っている陰の人物の存在を敏感に感じ取っていた。1ヶ月以上に渡る訓練の中で、3人の盲人は銀行の内部の様子を全て把握し、目の見える人と同じように動くことができるようになった。また、3人とネーハーの間にも信頼感が芽生えていった。

 ついに決行の日が来た。ヴィシュヴァース、アルジュン、イリアスは変装してVJ銀行に入り、ラージプートも当日偶然を装って銀行のロビーに座って密かに指令を出していた。途中までは作戦通りに動いたのだが、思わぬハプニングが起きて計画が狂ってしまう。しかしその混乱の中から3人は銀行から大量の財宝を奪って逃走することに成功した。計画が狂ったのはラージプートだった。実際は盲人3人に人質に取られる形で銀行を出る予定だったのだが、3人は別の人間を間違って人質に取って逃げてしまったのだ。

 まんまと逃走したヴィシュヴァースたちはイリアスに全ての財宝を預けて姿をくらまさせた。ラージプートはネーハーと共に待ち合わせ場所であるラージプートの家へ行き、自分の正体を明かして財宝がどこに行ったのかを問い詰めるが、2人は口を割ろうとしなかった。それと同時に刑事がイリアスの似顔絵を貼り出して徹底的に捜査を開始する。イリアスはみんなの元に帰ってきたものの、酔っ払っており、財宝の入った袋をどこかへ置き忘れてしまっていた。ヴィシュヴァースとアルジュンは、財宝を探しに出掛けるが、その間にイリアスは2階から転げ落ち、ネーハーは自殺してしまう。直感により危険を察知したヴィシュヴァースとアルジュンはすぐにラージプートの家に引き返すが、既に2人は死んだ後だった。ヴィシュヴァースとアルジュンは怒り、ラージプートと取っ組み合いになる。しかし盲人と目の見える人間との争いでは勝敗は目に見えている。2人はラージプートに殺されそうになる。

 ところがそのとき、ラージプートの家に刑事が尋ねてくる。床に死体が転がっている状況を見て尋常ではない状況を察知した刑事は、ラージプートに何が起こっているのか問い詰める。ラージプートは「銀行強盗の犯人を見つけて射殺した。まだ2人残っている」と言い訳をする。ヴィシュヴァースとアルジュンはピンチに陥るが、土壇場でいかにも盲人のような仕草で登場する。警察たちは盲人が銀行強盗をしたとは全然信じない(←ここがミソ)。ラージプートは彼らが犯人だと言い張るが、誰も信じなかった。焦ったラージプートはとうとう自分で「オレがこいつらに銀行強盗をさせたんだ」と暴露してしまい、警察に捕まってしまう。ヴィシュヴァースとアルジュンは始終とぼけた盲人を演じて、全く警察には相手にされなかった。

 ラージプートが逮捕された後、ネーハーの弟を助け出したヴィシュヴァースとアルジュンだが、今回のことで失ったものは多かった。絶望に打ちひしがれているとき、ヴィシュヴァースはイリアスが持っていたハルモニウムの中に何かがあることに気付く。開けてみると、中には銀行から盗み出した財宝がそのまま入っていた。それはイリアスの知恵だった。こうして、多大な犠牲を払ったものの、盲人のヴィシュヴァースとアルジュンは財宝を手に入れることができたのだった。

 先が予想できない飽きさせない展開で、オチもちゃんとついており、なかなかよく出来た映画だった。3人の盲人が銀行強盗をするというストーリーも、突拍子が無くて新鮮だった。また、パレーシュ・ラワールのコメディアン振りがはまっていて、場内からは笑い声が絶えなかった。やはり荒を探せば突っ込みどころは多いのだが、単純に楽しめた娯楽作品だった。僕の好きなビパーシャー・バスはアクシャイ・クマールの死んだ恋人役でゲスト出演しただけだったのはちょっと残念か。「Ajnabee」で初出演して以来、ビパーシャー・バスはどうもアクシャイ・クマールとのペアが定着してしまっているような印象を受ける。音楽もいい。踊りは少しハチャメチャな感じがした。盲人が見ればきっと勇気付けられる映画なのだろうが、残念ながら盲人は映画を見ることはできない・・・。

 映画が終わった後のバスは、ちゃんと公営バスを捕まえることができ、タダで帰ることができた。部屋でネットをしているとスラブがやって来たので、「隣に引っ越してきたアフリカ人とは話した?」と聞いてみたら、まだ話したことがないとのことだった。スラブは黒人を「ニグロ」呼ばわりするので、こっちがハラハラしてしまう。「その言葉は悪い言葉だから使っちゃいけないよ」と注意したのだが、スラブは「学校じゃみんなニグロって呼んでるよ」と言って改めようとしない。どうもインド人は黒人に対して差別感情を持っているようだ。

4月15日(月) アーミル・カーンに会う

 アーミル・カーン。今年度のアカデミー賞にて外国語映画部門にノミネートされた「Lagaan」の主演男優である。インド人に「今人気の俳優は?」と聞くと必ずアーミル・カーンがトップに躍り出る。彼のことをアミール・カーンと間違って呼んでいるインド人や日本人もいるが、実際はアーミル・カーンである。昨年は「Lagaan」の他にも「Dil Chahta Hai」に出演し、こちらの映画もスマッシュ・ヒット。インドの若者の憧れの塊のような存在、それがアーミル・カーンである。




アーミル・カーン


 そのアーミル・カーンがなんと僕の家から徒歩15分ほどのところにやって来るというのだ!なんという驚き!なんでこんなところにわざわざ来てくれるの?という感じだ。でも噂によるとアミターブ・バッチャンも昔ガウタム・ナガルの辺りに住んでいたらしいし、シャールク・カーンの生家もそう遠くないらしい。案外隠れボリウッド・ゾーンなのだろうか、この辺りは。

 情報によると今日のアーミル・カーンの予定はこうである。午前11時30分にグリーン・パークの書店The Knowledghe Storeにやって来てサイン会を行い、昼食を食べ、午後2時からディッリー・ハートにて再度サイン会を行うというのだ。どうも「The Spirit of Lagaan」(Satyajit Bhatkal著)という「Lagaan」のメイキング&裏話本のプロモーションが主な目的のようだった。ディッリー・ハートのサイン会の方はデリーダイアリーにも載っているほど大々的に宣伝されていたし、その時間は学校が終わった後なので、子供たちも大勢駆けつけることだろう。だから家に近くにあるグリーン・パークでアーミル・カーンに会うのが当然のことながら最良の選択だ。実は今日が最後の授業の日なのだが、アーミル・カーンのためなら全てを投げ出す覚悟は既に金曜日の時点で固まっていた。

 午前11時30分とのことだったが、気合を入れて10時30分にグリーン・パークへ向かった。ガウタム・ナガルからユスフ・サラーイへ、アルビンド・マールグを渡ってグリーン・パークへ。あまりいつもと変わらない風景である。みんな今日グリーン・パークにアーミル・カーンが来るなんて夢にも思っていないのだろう。大声で「アーミル・カーンが来るぞ〜」と叫びたくなったが、そんなことをしたら大混雑してしまうので、情報戦を制した喜びを噛み締めつつグリーン・パークのマーケットに辿り着いた。The Knowledge Storeの玄関は花できれいに飾りつけがしてあって、表には赤絨毯が敷かれており、アーミル・カーンを迎える態勢が整っていた。店の前は一般人立ち入り禁止状態になっており、マスコミ関係者や招待客らしき人のみが入れていた。その周りにはロープが貼られ、しかも机でバリケードまで作られていた。しかしまだ観衆はそんなに訪れておらず、警備員や警察が暇そうに立ち話をしていたぐらいだった。彼らに「アーミル・カーンは今日来るの?」と質問したら「来るけど遅れてる」と言われた。しかも「ここでは一般人はアーミル・カーンに会うことができない」という気になることを言われた。「会いたかったらディッリー・ハートへ行け、あそこなら誰でもアーミル・カーンに会うことができるぞ」とも言われた。しかしせっかくここまで来たのだから待たない手はない。しばらく様子を見てみることにした。店の近くにある木陰で警察の話を盗み聞きしながら待った。

 午前11時30分になった。だんだんと野次馬の数が増えてきた。しかし一向にアーミル・カーンが訪れる様子がない。本当に来るのかと心配になって来たところで急に警備員やマスコミが慌しく動き始めた。その反応を見て今まで遠巻きに様子を伺っていた野次馬たちも一気に店の方に押し寄せてきた。僕もその流れに負けないようにダッシュして、一番前の方に陣取った。ところがそこは直射日光地帯。今まで日陰にいたので気付かなかったが、日差しはかなり強い。しかも周りはぎゅうぎゅう詰めである。暑くて暑くて汗がダラダラと流れてきた。それなのにアーミル・カーンは来ない。

 後から考えてみると、あのとき急に警備員やマスコミに緊張感が走ったのは、ただ単にアーミル・カーンが空港に到着したとの知らせが入ったからだと思う。直射日光の中に立つようになってからさらに1時間も待った。インド人たちは後ろから容赦なく押してくるので踏ん張っていないといけない。最初は一番前に陣取っていたものの、押し合いへし合いの結果いつの間にか最前列を他のインド人に奪われ僕は2番目から3番目ぐらいの位置になった。おもむろに音楽が鳴り始めた。もちろん「Lagaan」の曲である。1曲目の「Ghanan Ghanan」には「黒い雲よ黒い雲よ、水を降らせてくれよ」という歌詞が出てくる。その歌詞が流れたときにひょうきんなインド人がその部分を「水を飲ませてくれよ」と替えて歌ったのでちょっと笑ってしまった。本当に水が欲しい〜!脱水症状になるぐらい汗がどんどん出た。

 突然歓声が沸き起こった。アーミル・カーンの登場である。早速カメラを構える。時計を見てみるともう12時30分になろうとしていた。マスコミと警備員の人垣ができ、その人垣が書店の玄関まで動いていった。その中心にアーミル・カーンがいるのだが、彼は実はあまり背が高くないため、人垣に囲まれると周りからは見えなくなってしまうのだ。僕は適当にカメラのシャッターを切ったが、彼の姿は全く写っていなかった。でも肉眼でチラッチラッと生のアーミル・カーンを目にすることができた。アーミル・カーンはすぐに店の中に入ってしまった。




この人混みの中にアーミルが!


 ここからがまたさらに大変だった。まず、250ルピーの「The Spirit of Lagaan」を買う意思のない者は中に入れてもらえなかった。買う意思のある者は表に設置されたカウンターで本の伝票をもらわないといけない。そのうえ、一般人はそのカウンターにすら行くことができないような雰囲気だった。見たところ招待客しかその本を買う権利を与えられていないようだった。ところが僕はなんとか警備員をうまく誤魔化しながらカウンターのところまで行くことに成功し、本の伝票をゲットすることに成功した。この伝票さえあれば中に入れてもらえる。店の玄関の前に出来ている列に並んだ。




店の玄関


 入り口で手荷物を預け、キャッシャーで伝票を渡して250ルピーを払う。そして本を受け取り、2階に上がる。そこにはアーミル・カーンと本の著者が座っており、彼らからサインをしてもらえると同時に一言二言会話ができるようになっていた。ところが写真撮影は厳禁で、もっとも価値のあると思われるアーミル・カーンとの2ショットは夢のまた夢だった。

 アーミル・カーンの座る机までにも列が出来ていて、かなり待たされた。だんだんと列が消化されるに従ってアーミル・カーン視認可能地域に入ってきた。取り巻きの人々の間からチラッとアーミル・カーンが見えて、こちらを見て視線が合ったとき、ドキッとしびれてしまった。おいおい僕は男だろう、と思いつつ苦笑いした。店内は冷房が効いていたにも関わらず汗が止まらない。アーミル・カーンと何をしゃべろうかと頭の中でシュミレーションしていた。

 遂に僕の番が来て、アーミル・カーンと1対1の距離となった。僕はわざと初々しいヒンディー語で「ナマステー。僕は日本から来ました。あなたに会えてとても嬉しいです」と言った。アーミル・カーンは「あ、日本から」と気軽に答えてその本に僕の名前と「Happy Reading Love Aamir」と書いてくれた。また著者のサインもしてもらった。間近で見たアーミル・カーンはスクリーンで見るよりも著しく老けて見えたが、肌の色は白く、瞳の色も薄かった。もっと話そうと思ったのだが、それ以上言葉が出ずに終わってしまった。あまりこういうミーハーな行動は今までしたことがなかったので不慣れだった。結局相手がどんなに有名人だろうとすごい人間だろうと、その人のサインをもらったり一緒に写真に写ったりする行為はあまり高尚とはいえない。自己満足のためならそれでいいのだが、絶対にその他に「他人に自慢したい」という欲望も出てきてしまうからだ。相手がどんな偉人だろうと有名人だろうと、同じ人間同士なのだから人間として話をするのが一番だろう。でも今回は徒歩圏内に僕の大好きなインド映画の俳優が来るということもあり、ミーハーな行動に身を委ねてしまった。




アーミル・カーンのサイン(上)
著者のサイン(下)


 アーミル・カーンのサインをもらった後はほとんど追い出される形で店を出た。それほど警備は厳重だった。時計を見てみるともう1時半頃になっていた。とりあえず水分補給のためにペプシを買って飲んだ。危うく日射病か熱射病になるところだった。ミーハー行為というのは体力が要るものだと実感した。4時間目の授業は1時45分からで、今からならなんとか間に合いそうだったので、そのまま学校へ向かった。

 学校では早速自慢。インドに住んでいればアーミル・カーンの名前を知らない人はいないから、みんなに羨ましがられた。この優越感がミーハーな行動に走る人々が病み付きになる快感なのだろう。一応老婆心ながら「2時からディッリー・ハートで同じようなイベントがあるから行って見れば?」とみんなに教えておいたがが、本当に行った人はいるだろうか?

 今日はマンジュ先生にスケッチ・ブックを渡す約束をしていた。今までインドに滞在して来た9ヶ月間描き溜めたインド各地の史跡のスケッチである。マンジュ先生も実は昔絵を描くのが好きだったらしく、絵には興味があるみたいだ。僕の絵を褒めてくれた。どういう使い方をされるか分からないが、多分コピーして例のマガジンに載せるのだろう。日本に帰ったらスキャナーで取り込んでこのホームページにも掲載しようと思っている(スケッチ広場に展示してあります)。

4月16日(火) Company

 暑くなって来た。まだ耐えれるレベルだが、いつの間にかかなり気温が上がったのに驚く。ここ数日の最高気温は大体37〜38度。気温と体温がほぼ同じである。パンカーから送られてくる風がもはや風ではなく、ただの空気の流れと化している。ぬるま湯に浸かっているような気分だ。これから体温よりも気温が上になるだろう。そうなったらパンカーはドライヤーと化すのだろうか・・・?僕の部屋は西日がもろに当たるので、夜はかなり暑くなる。一応窓には新聞紙を貼って、日光が直接部屋の中に入らないようにはしたのだが、日光の熱は壁を伝って部屋の空気にちゃっかり到達しているみたいだ。

 デリーのバス事情がまた少し変わったようだ。なんと先週はほとんど目にすることのなかった緑色のディーゼル・バスが走り始めた。それなら大歓迎なのだが、よく見たらバスの側面に書かれていた「Under DTC Operation」という文字が消されており、「DTCのバスパスが利用できます」という文字が「DTCのバスパスは利用できません」に変わっていた。つまり今までDTCのバスパスが利用できていた緑色ディーゼル・バスは、バスパスの利用できない私営バスとなってしまったのだ。おそらくCNGバスしか走ることができなくなってお払い箱になったディーゼル・バスをDTCが民間に払い下げたのだろう。そしてそのバスを買った民間の人は、罰金500ルピー(毎月?毎日?よく分からない)を払ってバスの運営をしているのだろう。だからデリー市内を走るバスの数が極端に少なかった先週に比べ、バスは拾いやすくなったが、バスパスの利用価値は依然として低くなったままだ。DTCがCNGバスをもっと増やしてくれない限り、デリー市内の交通事情は悪くなったと言うしかない。

 今日は本当は授業のない日だったのだが、チャンドラプラバー先生が何か特別に授業をするということなので行くことにした。200クラスの生徒も僕を含め3人来たのだが、チャンドラプラバー先生は100クラスの授業をしていて僕たちの授業はしてくれなかった。僕たちは何をさせられたかというと、ラジカセとテープを渡されて国家の練習を自習させられたのだった。テストが終了した次の日に最後の文化祭が予定されており、そこで歌わなくてはいけないことになっている。当日は偉い政治家も来るという話である。ホーリーのときにやったことと同じことをやるように言われているのだが・・・。ちなみに先生から渡された「Jana Gana Mana」のテープはかなり豪華なスタッフで、音楽はA.R.ラフマーン、歌手はラター・マンゲーシュカールやアーシャー・ボースレーなどなどインド中の有名な音楽家が結集してレコーディングされていた。

 今日は結局授業はなかったが、自分たちで勝手に勉強していたので割と有意義だった。先生たちは校長室でミーティングを始めてしまってずっと外に出てこなかったので、これ以上待っても仕方ないと思い帰った。

 家に一度帰って荷物を置いた後、PVRアヌパム4へ向かった。「Company」を見るためだ。4時15分からの回を狙っていて、サーケートに着いたのは3時45分頃だったので、もしかしてもうチケットはないかと思ったが、何とか手に入れることができた。何とかというのは、僕が確保した席はかなり隅の方だったため、売り切れ間近であることが分かったのだ。インドの映画館は全指定席制で、いい席から売っていくので、隅の方の席になるということは売り切れ寸前に買ったということである。平日にも関わらず僕が見た回は満席状態になっていた。「Company」は批評家の評価も高く、興行的にも成功している。

 「Company」はアジャイ・デーヴガン、ヴィヴェーク・オーベローイ、マニーシャー・コーイラーラー、モーハンラール、アンタラー・マーリー、シーマー・ビスワースなどが出演しており、イーシャー・コーッピカルとウルミラー・マートーンドカルがゲスト出演をしている。




Company


Company
 ムンバイーのスラム街をたむろするチンピラだったチャンドゥー(ヴィヴェーク・オーベローイ)は、マフィアのボス、マリク(アジャイ・デーヴガン)に見出されてパートナーとなった。敵を殺せば殺すほどマーリクたちの組織は強大となっていき、やがてムンバイー一のマフィアとなる。チャンドゥーは唯一の家族である母(シーマー・ビスワース)のことをとても大事にしており、それまでスラム街に住んでいたのだが、マフィアの仲間となってからは高級マンションに引っ越したりして母に楽をさせてあげたりした。チャンドゥーは昔からの知り合いだったカンヌー(アンタラー・マーリー)と結婚し、絶頂期を迎える。マリクにもサロージャー(マニーシャー・コーイラーラー)という恋人がおり、心の支えとなっていた。

 しかしマリクたちにも天敵がいた。ムンバイー警察のシュリーニヴァサン(モーハンラール)である。シュリーニヴァサンはマリクの動向に常に目を光らせており、遂にチャンドゥー逮捕に踏み切るが一足遅く、マリクとチャンドゥーは家族や仲間を連れて香港に高飛びした後だった。

 香港から電話を使ってムンバイーの地下組織を牛耳るマリクとチャンドゥーのグループはいつしか「カンパニー」と呼ばれ恐れられるようになった。マリクとチャンドゥーは些細な行き違いから仲違いをしてしまう。チャンドゥーはカンヌーを連れてナイロビに身を隠し、そこからマリクと全面対決の姿勢をとる。ムンバイーはマリク、チャンドゥーの殺し合いの場となり、多くの死人が出る。ところが遂にマリクはチャンドゥーの居所を突き止め、刺客をナイロビに送る。チャンドゥーは銃弾を受けつつも逃げ切り、ナイロビの警察に保護されて入院することになった。マリクもさすがに手を出せない状況となった。

 ナイロビの病院に入院していたチャンドゥーを訪れたのは意外にもシュリーニヴァサンだった。シュリーニヴァサンはチャンドゥーにひとつの提案を持ちかける。それは、インドに戻って警察に協力し、地下組織に関する情報を提供することだった。

 一方、ムンバイーに帰っていたカンヌーは、チャンドゥー負傷の訪を聞き、単身香港に渡ってマリクに会う。そしてチャンドゥーはもう何もしないから許してやってくれと頼む。しかしマリクは口を開こうとしない。遂に彼の口から出た言葉は「出来ないことを口にすることはできない」だった。ヒステリー状態に陥ったカンヌーは銃を取り出し、近寄ってきたサロージャーに発砲すると同時に撃たれ、死んでしまう。カンヌー死亡の報を聞いたチャンドゥーは、シュリーニヴァサンの提案を受け入れることを決意する。サロージャーは幸い命に別状はなかった。

 チャンドゥーのムンバイー帰還に驚いたのは他でもないムンバイー知事だった。彼はカンパニーを使って前任者を殺させ、現在の職を手に入れたのだった。もしチャンドゥーが全てをしゃべってしまったら自分の立場は絶体絶命の危機に陥る。そこで、表向きは警察に協力することを決めたお礼を言いにチャンドゥーのもとを訪れ、口止めを計る。ところがチャンドゥーはその態度に腹を立て、知事を殺してしまう。こうしてチャンドゥーは現行犯逮捕となってしまう。

 シュリーニヴァサンの助けでチャンドゥーは獄中からマリクと電話で話すことができ、仲直りのきっかけを掴めそうになった。ところが香港にてマリクはチャンドゥーの仲間に殺されてしまう。マリク死亡の報を聞いたチャンドゥーは、牢獄の中でうなだれる・・・。

 「Company」は大衆娯楽映画と社会派映画の間に位置する意欲的な作品だった。最近こういう質の高い娯楽映画がインドでもよく作られるようになってきて嬉しい。しかし逆に言えば、質の高い映画になればなるほど、ヒンディー語を聞き取って理解しなければいけなくなるため、語学力が必要になる。ただの娯楽映画だったら、はっきり言ってヒンディー語が分からなくても大体内容は理解できるのだが・・・。

 主役だったアジャイ・デーヴガンがはまり役で、ニヒルでクールなマフィアのドンをかっこよく演じていた。もう一人の主演、ヴィヴェーク・オーベローイはこの作品がデビュー作らしいのだが、堂々たる演技をしていた。マニーシャー・コーイラーラーは、マフィアのボスの愛人というすれた女の役柄がこれまたはまり役だった。確か「Bombay」とかに出ていた頃のマニーシャーは清純派女優という感じだったのだが、「Abhay」あたりから悪女が似合うようになってきてしまった。

 全体として非常によくできた映画だった。下手なハリウッド映画よりもよっぽど面白い。インド映画の変革の波を十分感じさせてくれる傑作だった。海外ロケ地も香港、ナイロビというインド映画が今まであまりロケ地に選ばなかった場所が使われており、目新しかった。3時間映画なのにも関わらず展開が早過ぎたようにも思えたが。



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