スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2004年3月

装飾下

|| 目次 ||
生活■1日(月)受難のカリズマ君
祝祭■2日(火)ISHW寮祭
映評■5日(金)Green Card Fever
演評■5日(金)カラーシュラムのホーリー劇
祝祭■7日(日)ホーリー・ハェ!
分析■9日(火)デリー考
分析■12日(金)残酷写真でおはよう
競技■13日(土)パーキスターン遠征ツアー開始
分析■16日(火)無駄のない国かつ無駄のある国、インド
分析■19日(金)インドとウクライナの共通性
祝祭■21日(日)ヤムナー・ホステルナイト
競技■24日(水)インド代表、歴史的勝利
競技■26日(金)セクシーなクリケット選手トップ10
映評■26日(金)Muskaan
分析■27日(土)インド人の「ありがとう」「ごめんなさい」


3月1日(月) 受難のカリズマ君

 ヒーロー・ホンダ社のスポーツバイク、カリズマを買って5ヶ月が過ぎた。既に走行距離は5500kmほど。今でも買った当時と変わらぬ姿で元気に走り回っている・・・と言いたいところだが、やはりここはインド、次第に世間の荒波に揉まれて、たくましい体つきになって来ている。この5ヶ月間に起った、カリズマにまつわる小話をまとめてみた。

●9月26日

 ナヴラートリー初日、赤カリズマ購入。8万ルピー現金一括払い。インド人は月賦でバイクを買う人がほとんどなので、現金一括払いというのは狂気の沙汰に近い。周囲の羨望の眼差しを受けながらルピーの札束を店員に渡す。迷わずリティク・ローシャンがCMで乗っている赤色のカリズマを選択。しかしエンジンがかからずいきなりトラブル。バッテリーを交換したら直った。

●9月某日

 早速カリズマは近所の子供の遊び道具になる。

●10月某日

 大学の構内にカリズマを停めておいたら、後輪に釘が刺さってパンクしていた。断定は出来ないが、何者かによる故意の犯行である可能性が非常に高い。近くのパンク修理屋へ持って行って修理してもらう。その後、カリズマの駐輪場所をもっと安全な場所へ移した。以後、嫌がらせなどは受けていない。陰険なことすんな!

●11月某日

 走行後、突然エンジンがかからなくなる。バッテリーに何らかの問題が発生したようだ。多分接触が悪くてダイナモからバッテリーに電気が充電されていなかったのだと思う。バイク屋に持って行って修理してもらった。

●11月8日

 カリズマのツーリング・デビュー。デリーの北、約170kmの地点にあるヒンドゥー教の聖地クルクシェートラまで日帰りする。インドの道は想像していたよりもきれいで、交通量も少なく、カリズマも時速80kmの巡行速度で余裕の走行。カリズマを買ってよかったなぁと思った1日だった。

●12月17日

 カリズマを霧のデリーに置き去りにしてグジャラート州へ旅行に行く。

●1月5日

 グジャラート州旅行から帰還。カリズマを駐輪しておいた場所で工事が行われており、カリズマはチャウキーダール(守衛)によって別の場所に無理矢理持ち上げて運ばれていた。だいぶ埃まみれになっていたので、早速洗車をしてやる。しかし、置き去りにされたことに怒ったのか、突然カリズマが自然に倒れる。そのとき、泥状になっている場所にカリズマを停めて洗車をしていたため、次第にスタンドがズブズブと沈んで行き、最終的にバランスを失って倒れてしまったようだ。カリズマにはレッグ・ガードが装備されていないので、転倒即破損を意味する。幸い、というかそもそもこれが原因なのだが、地面は泥になっていたので大破は免れた。ハンドルが微妙に曲がり、右側面後部に傷がつく。ショックで夜も眠れない泥沼の日が続く。

●1月22日

 ラージャスターン州ニームラーナーへツーリングへ行く。デリーから約100km。カリズマは問題なかったが、寒くて凍えそうになった。

●2月某日

 前回は右側に転倒したのだが、今回は左側に転倒。原因はスタンドがちゃんと立っていなかったこと。バイクから降りた途端にスタンドが任務を放棄し、カリズマは倒れてしまった。何とか体を張って最悪の事態を防いだが、カウルの左側にフランケンシュタインみたいな傷跡がついてしまった。スタンド、廊下に立ってろ!

●2月某日

 いつも走る道を走行中、突然目の前の道が通行止めになっていたため、急ブレーキ。そうしたら後方を走っていた、いかにもブレーキが故障していそうなオンボロ自転車に追突される。そのときは特に問題ないと思ったが、後からじっくり調べてみたら、しっかり傷が残っていた。ブレーキ修理してから自転車乗れ!

●2月某日

 気付くとガソリンタンクに見覚えのない傷が。円形をしており、クリケットか何かのボールが当たった跡だと思われる。カリズマのあるとこでクリケットすんな!

●2月29日

 カリズマと共にサロージニー・ナガルのマーケットへ行く。長居するつもりはなかったので、駐車場代をけちって路上に駐車しておいた。買い物から帰ってきたら、ガソリンタンクの給油口に異変が。給油口を無理矢理何かでこじ開けようとした跡が残っていた。ガソリン泥棒だ。しかし試みは失敗したようで、ガソリンは盗まれていなかった。駐車場代5ルピーをけちったことを後悔した。泥棒よ、ガソリンなんてケチケチせず、もっと野望を持て!

 というわけで、今年に入って僕のカリズマは急速に傷だらけになりつつある。最初大きな傷がついたときにはショックだったが、2回目からはもう慣れてしまった。インドの道は、走行中も駐車中も、何があるか分からない摩訶不思議ワールドなので、全く気が抜けない。ガソリン泥棒には驚いた・・・。

3月2日(火) ISHW寮祭

 デリーの男子大学生共通の夢というものがあるとしたら、それは女子寮の寮祭に招待されることである。インドは男女の間の垣根が高い国で、女子寮は完全なる男子禁制となっていることが多い。ジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)の女子寮も、デリー大学の女子寮も、現在では男子は全く中に入れない(昔は自由に入れたという話だが)。守衛は銃を持っており、もし女子寮に侵入しようとしたら、本気で撃たれるという。もし寮の中にいる誰かに面会したいのなら、守衛に言って、門の外まで呼んで来てもらわなければならない。しかし面会するか否かはその本人の意思次第なので、女子寮の門の外ではよく、面会謝絶された哀れな男子学生が涙を流している光景を見ることができる。男子大学生にとって、女子寮というのは、まるで難攻不落の要塞のような存在である。しかし、その要塞の門がたった1日だけ男子に開かれる日がある。それが寮祭である。普段は女子寮の中に入ることすらできない男子学生が、堂々と中に入って女の花園の中ではしゃぎまわれる日が、女子寮の寮祭なのだ。しかし寮祭の入場券は発行部数が限定されている場合がほとんどで、誰でも手に入るわけではなく、寮生と仲のいい人しか招待されない。だから、女子寮の寮祭に参加できることは、デリーの男子学生にとってはこの上ない名誉なのである。

 現在デリーの大学では寮祭シーズンで、男子寮女子寮問わず、各地の寮で寮祭が行われている。今日はデリー大学の外国人留学生女子寮(ISHW)の寮祭だった。僕はJNUの寮に住んでいないので、JNUの寮祭にはあまり招待されないという悲しい境遇にあるのだが(それでも男子寮の寮祭にだけは招待されるが)、デリー大学の学生ともコネクションを保っているおかげで、デリー大学の女子寮の寮祭には招待されることができた。

 ISHW寮祭は午後6時からだった。どうせインドのことなので時間通りに行っても待たされるだけなので、6時半頃に家を出た。しかし今日はイスラーム教の祭りムハッラムで、サフダルジャング廟からローディー・ガーデン、ニザームッディーン辺りは祭りに参加したイスラーム教徒たちで溢れ返っており、交通規制がされていて迂回せざるをえなかった。インド最大最悪の祭りのひとつ、ホーリーが今週末にあるが、イスラーム教徒も祭りの派手さでは負けていない。本当にこいつらはマイノリティーなのか、と疑うくらい大勢の群衆がぞろぞろと道を歩いていた。

 ISHWは北デリーのインディラー・ヴィハールにある。南デリーからバイクで1時間弱の場所である。道が混雑していたので、7時45分頃に到着した。同じ敷地内にデリー大学の女子寮は3つあり、1つはこの外国人留学生女子寮、1つはノースイーストのインド人のための女子寮、そしてもう1つは指定カーストや指定部族のための女子寮である。外から眺めた限りでは、インドで最も整備に行き渡った女子寮に思えた。今日は偶然、インド工科大学(IIT)の女子寮も用事があって訪れたのだが、そこの女子寮も外から見る限りでは快適そうだった。要するにJNUの女子寮のレベルが低いだけなのだが・・・。

 ISHWの寮祭は大きく分けて3段階に分かれていた。まず6時から行われていたのは、寮生らによる学芸会みたいなショーで、ステージで女の子たちが踊りを踊っていた。ISHWなので寮生は全て外国人だが、モーリシャスやフィジーなどの国から来ているインド系移民が多く、雰囲気はインドであった。あとはここでも韓国人が寮祭を支配していた。スポンサーもサムスン(三星)とLGであった。もしこれが男子寮の寮祭で、女の子がステージで踊りを踊り出したら、それはもう大変な騒ぎになるが、ここは女子寮。ステージにかぶりついて見るような人はおらず、平和裏にショーは進展していった。

 ショーが終わると今度はビュッフェ形式の夕食となる。ノンヴェジ料理も出るところはさすが、と思った。普通はヴェジタリアン料理しか出ないが、やはり外国人留学生の寮祭なので、ノンヴェジ料理は必須なのだろう。最初の内は空腹だったので何でもうまく感じたが、腹が膨れてくるにつれて次第に味覚が鋭敏になって来て、だんだんまずく思えてきた。インドの野外ビュッフェ特有の味、つまるところ、下痢になる味がしたので、そう思えた時点でもう食べるのを止めた。

 夕食が終わると今度はISHWの寮の庭に設置されたダンスフロアでダンスパーティーとなる。最近流行のダンスナンバーといったら、「Koi... Mil Gaya」の「It's Magic」や、「Kal Ho Naa Ho」の「It's Time To Disco」、アースマーの「Chandu Ke Chacha」などである。未だに「Dil Chahta Hai」の「Koi Kahe Kehta Rahe」や「Woh Ladki Hai Kahan」やラス・ケチャップの「The Ketchup Song」などでも盛り上がる。デリーの定番、パンジャービー・ソングも僕は好きだが、外国人の中にはパンジャービー特有のあの音がし出すと顔ををしかめる人がいたりする。映画スターなみの踊りを披露する男女がいたりして、楽しかった。去年の11月、ICCRの外国人留学生文化祭で会って仲良くなって以来それっきりになっていたブータン人などとも再会することができた。




ダンスパーティーの様子


 デリー大学の外国人女子留学生は、ISHWに住む限りけっこう快適な生活ができそうだ。現在日本人はいないようだった。




関係ないが、「Koi... Mil Gaya」で出てきた
ジャードゥーの人形が発売中。
大500ルピー、小350ルピー。これは小。


3月5日(金) Green Card Fever

 2002年に公開されて好評を博したヒングリッシュ映画「American Desi」の第二弾とも言うべき映画が公開され始めた。「Green Card Fever」である。「American Desi」と同じスタッフが結集して、米国に住むインド人たちの現状を浮き彫りにした作品だ。PVRアヌパムで鑑賞した。

 監督はバーラー・ラージャシェーカラニー。キャストはヴィクラム・ダース、ディープ・カートダール、プールヴァー・ベーディー、カーイザード・コートワールなど。




プールヴァー・ベーディー(左)と
ヴィクラム・ダース(右)


Green Card Fever
 ムルリー(ヴィクラム・ダース)は米国に不法滞在するインド人だった。ムルリーはグリーンカード(永住権)を取得しようと弁護士オーム(ディープ・カートダール)に相談するのだが、相手にしてもらえない。そこでグリーンカードのブローカー、パルヴェーシュ(カーイザード・コートワール)にパスポートと書類を預けることにした。しかしパルヴェーシュは、不法滞在者にグリーンカードを提供すると言っておきながら強制労働をさせて金を儲けている男だった。ムルリーはいつまで経っても泥沼から抜け出せなかった。

 一方、ムルリーは在米インド人コミュニティーの会でバーラティー(プールヴァー・ベーディー)というNRI(在外インド人)2世のインド人女性と出会う。アメリカで生まれ育ったバーラティーは最初、典型的インド人のムルリーを馬鹿にするが、自分が米国人から馬鹿にされたことにより、次第にムルリーと心を通わせるようになる。ムルリーはバーラティーには不法滞在者であることを黙っていた。しかしある日、ムルリーは入国管理局に不法滞在の罪で逮捕されてしまう。真実を知ったバーラティーは、ムルリーを「嘘つき」と呼んで突き放す。

 パルヴェーシュは中国系弁護士チャン(ロバート・リン)と共謀して、オームを貶めようと計画していた。法廷ではムルリーのパスポートの所在が問題になるが、ムルリーはパルヴェーシュらに言われた通り、オームのところにある、と答える。だが、根が正直だったムルリーは、パルヴェーシュの悪事を全て暴露する。おかげでムルリーは、パルヴェーシュとチャンの裁判が終わるまで米国で働く許可を得ることができ、バーラティーともよりを戻すことができた。

 「American Desi」では、インド文化を毛嫌いしていたNRI2世の主人公がインド人としての誇りを取り戻すまでの過程をコメディータッチで描写していたが、第二弾「Green Card Fever」では、米国の不法滞在インド人が直面する問題を描いており、より社会派映画に仕上がっていた。ただ、純粋に映画の楽しさから見ると、「American Desi」の方が上である。

 「Green Card Fever」の主人公は新人ヴィクラム・ダース演じる不法滞在インド人ムラリーであり、彼が米国で労働許可をもらうまでの過程がストーリーの本流となっている。しかし、NRI2世で、インド文化に反発した人生を送ってきたオームやバーラティーが、自分のオリジンに目覚める過程がサブストーリーとなっており、やはり前作と同じくNRIのインド郷愁主義が強い映画である。しかしその描写の仕方は雑で、不協和音となっているように感じる。

 前作で主人公を演じたディープ・カートダールは今回は助演男優として出演しており、不法滞在者や不法移民を徹底的に取り締まる弁護士オームを演じた。オームの祖父は、米国の法律よりも、インド人コミュニティーの結束を重視し、息子の情け容赦ないやり方に反発していたのだが、オームは聞く耳を持たなかった。だが、祖父の突然の死により、オームはインドに目覚めることになる。一方、バーラティーを演じていたプールヴァー・ベーディーは前作でもヒロインを務めていた。バーラティーは両親に無理矢理見合いをさせられてうんざりしており、ムルリーにも冷たい態度を取っていた。しかし米国人ボーイフレンド、パトリックの誕生日パーティーで、米国人たちからインドを題材にからかわれたことをきっかけにムルリーと親交を深めるようになる。

 ヴィクラム・ダースは典型的なインド人役を演じていたが、多分本人は本当に生粋のインド人で素人俳優なのだろう。顔も平均的なインド人の顔、英語の発音も典型的なインド人の発音、演技をしているというよりは、本人の性格がそのまま投影された役だった。

 言語は95%以上が英語。ヒンディー語の含有率はヒングリッシュ映画の中では限りなく低い。だが、NRIや米国人のしゃべる英語は正統派の米国英語、インドからやって来たばかりのインド人のしゃべる英語は典型的なインド鈍りの英語と、2種類の英語が役柄によって使い分けられていた。

 米国に住むインド人や、米国移住を夢見るインド人には興味深い映画だったと思うが、部外者が見るとイマイチ感情移入しにくいところがある映画だった。米国では2003年8月に公開されたようで、あまりヒットしなかったようだ。インドでも「American Desi」ほどヒットはしないと思われる。

3月5日(金) カラーシュラムのホーリー劇

 カタックの巨匠ビルジュ・マハーラージが理事長を務める芸術学校カラーシュラム主催の毎年恒例ホーリー劇が、昨日今日と2日連続で公開された。その筋の情報によると、2日目の方が完成度が高いとのことだったので、今日、ホーリー劇を見ることにした。ジョール・バーグの野外特設会場にて7時から始まった。

 ステージには、ガネーシャ神や、ラージャスターン州っぽい絵の描かれた小屋が中央に置かれており、両脇にはゴーバル(牛糞)がくっついたつい立などがあった。都会の住宅地の中にありながら、会場は田舎の村のホーリーという雰囲気。ビルジュ・マハーラージは踊らず、ステージの隅で音楽担当。カラーシュラムでは多くの子供たちがカタックを学んでいるようで、半分は子供たちの発表会みたいな感じだった。よって、子供たちの親がたくさん詰め掛けていた。だが、やはりメインは大人のダンスで、マハーラージの弟子たちの、普段見ることができないようなリラックスした踊りが見れた。

 基本的にコメディー劇で、クリシュナ、ラーダー、ゴーピー(牧女)などのホーリー遊びを中心に、バーング(大麻の葉から作る飲み物)を飲んで酔っ払った男や、ヒジュラー(要するにオカマ)などが登場し、ドタバタ劇さながらの楽しいステージだった。音楽も劇を盛り上げており、弦楽器や打楽器で上手に効果音を作っていた。インドの舞踊はナータク(舞踊劇)、ヌリティヤ(ストーリー性のある舞踊)、ヌリット(ストーリー性のない舞踊)の3種類に分類され、カタック・ダンスはヌリットの傾向が強い踊りだと思っていたが、今回のホーリー劇は完全にナータクだった。カタックの新しい側面を見た気分だ。監督はもちろん、ビルジュ・マハーラージである。

 ビルジュ・マハーラージの弟子で日本人カタック・ダンサーの佐藤雅子さんも何度かステージに現れて、ゴーピーを演じて踊った。表情豊かに演技をし、ホーリーを楽しむゴーピーになり切っていた。




ホーリー劇


 カタック・ダンスは宮廷で洗練された舞踊のひとつで、ちょっと表現は悪いが、「マハーラージャーの貧乏ゆすり」と呼ばれている(タップ・ダンスみたいに足を踏み鳴らすので・・・)。カタック・ダンスで最も見所のは、タブラー奏者との即興リズム合戦だが、初めて見る人には少し敷居の高い踊りだと感じる。しかし一方で、今日見たホーリー劇のような、演劇性の強い踊りもありなんだな、と思った。おそらくこういう庶民受けしそうな踊りこそが、カタック・ダンスの原初的姿なのだろう。

3月7日(日) ホーリー・ハェ!

 今日は夏の到来を告げる祭りホーリーだった。ホーリーの日にはインド人たちは互いに色水をかけあったり、色粉を顔に塗りあったりして、ホーリーを祝う。人々はバーング(大麻)を飲んで酔っ払い、無礼講のドンチャン騒ぎをする。受け身になるとホーリーは迷惑な祭りだが、祝う側になるとこれほど楽しい祭りはない。だが、外国人にはすこぶる評判の悪い祭りであることは確かだ。

 今年のホーリーにおいて最大の懸念は、カリズマの避難場所だった。僕の家は大通りに面しており、その道端にカリズマを停めているので、あまり安全とはいえなかった。高級住宅地の一角なので、節度を持ってホーリーが祝われることが期待されていたが、何しろホーリーは無礼講の祭りなので何があるか分からない。ホーリーの1週間前ぐらいから、カリズマの避難場所確保について思案を巡らせた――ホーリーが祝われない場所にカリズマと共に避難しようか、ホーリーはヒンドゥーの祭りなので、ムスリムの居住地域ならホーリーは祝われないだろう、ニザームッディーン辺りはどうだろうか、あの辺りはイスラーム諸国の外交官などが住むムスリム専用高級住宅地になっているので、もしかしたらホーリーでも平和に過ごせるかもしれない、しかしそこへ辿り着くまでは決して安全とは言えない・・・。いろいろ考えたが、結局余計な小細工をすると深みにはまるので、いつもの場所にそのまま置いておくことにした。

 当日朝、真っ先にベランダに出て、カリズマの置かれている下の方向を見てみる。すると、僕のカリズマだけがポツンと立っていた。他の車は?いつもは自動車やバイクが数台駐車しているのに、今日はカリズマだけが静かに佇んでいた。他の車は避難してしまったのか、それともどこかへ旅行へ出掛けたのか?さらに悪いことに、カリズマの近くには近所の子供や大人たちが水鉄砲や水風船を構えており、通りすがる車に水をかけていた。幸い、カリズマを覆っているカバーに色水をかけられた痕跡はない。おそらくチャウキーダール(守衛)が子供たちに厳重に注意してくれたのだろう、カリズマには水がかからないように節度を守ってホーリーを遊んでいるようだった。チャウキーダールにはディーワーリーのときにチップをあげたっきりだったが、これはホーリーの小遣いも渡さねばなるまい。

 ホーリーだというのに、実は僕の気分は優れなかった。まず第一に、ホーリーの2日前、5日の金曜日にヘルメットを盗まれたことが原因だった。その日、カラーシュラム主催のホーリー劇を見た後、JNUで行われていた外国人留学生協会の催し物に参加した。ダンスパーティーとなっており、友達と踊って疲れて帰ろうとしたら、バイクのヘルメット・フォルダーに引っ掛けておいたヘルメットが消えてなくなっていた。僕のヘルメットは普通のヘルメットではない。インドでは35ルピーの「事故っても何の助けにもならない」プラスチック製ヘルメットから始まり、「1回事故ったら真っ二つに割れる」使い捨てヘルメットで100〜200ルピーほどである。しかし僕のヘルメットはヴェガというメーカーもので、頑丈かつデザインもかっこいいので、1000ルピーもする。そのヘルメットを盗まれたのだった。昨日は友達のバイクの後ろに乗せてもらって、一日かけて代わりのヘルメットを探した。グリーン・パークにいいヘルメットを取り揃えている店があるが、店主はヴリンダーヴァンにホーリーを祝いに行っていて休みだった。そこでカーン・マーケットやダリヤー・ガンジなどを巡った挙句、カロール・バーグでやっと同じメーカー、同じデザイン、同じ色のヘルメットを見つけたのだった。あまり市場に出回っていない、貴重なヘルメットだったことを改めて痛感した。ほとんど同じだったが、唯一サイズだけは違い、昔持っていたのより1サイズ小さかった。しかし店の人に「サイズは1つしかない。かぶってる内に広がってくる」と説得されて買った。だが、どう見ても昔のヘルメットの方が大きかった。というわけで、ホーリーの日だというのに何だか気が滅入っていた。

 第二に、体調がよくなかった。季節の変わり目なので、ちょっと体調を崩したかもしれない。食欲がなく、体がだるく、軽い頭痛がする。JNUの友人たちから「ホーリーの日には絶対にJNUに来い」と誘われていたのだが、どうも行けそうにない。JNUでは寮の食堂でバーングを配布するらしい。この状態でバーングを飲まされたら、死んでしまうかもしれない(僕は今までバーングを飲んだことがない)。家で一日中寝ていることにした。

 第三に、ホーリーの日当日に、身内に不幸があったため、追い討ちをかけて気が沈んでしまった。昔の大家さんの家にも行こうと思っていたのだが、今年のホーリーは祝わないことにした。昼頃突然近所に住む韓国人の友人が、体をホーリー色に染めて家に乱入してきて僕に色を塗りたくろうとしたが、僕は「やめろ!」と言って追い出してしまった。彼は悲しそうにすごすごと帰って行った。

 第四に、宿題が出ているので、それをなるべく早く終わらせなければならない。パニーシュワルナート・レーヌの「マイラー・アーンチャル(汚れた村)」を読まなければならない。ビハール北部のマイティリー語の語彙や村の俗語がたくさん入った小説なので、読解が難しい。まるで宮沢賢治の「あめゆじゅとてちてけんじゃ(永訣の朝)」を読んでいるみたいな感覚だ。だが、だんだんそれらの俗語にも慣れてきたし、なかなか面白い小説なのでさくさく読み進むことができた。

 「マイラー・アーンチャル」の中にちょうどホーリーの描写があった。インドの農村を描いた小説には、必ずと言っていいほどホーリーを祝うシーンがあると言って過言ではないだろう。それほどホーリーはインド人の心と密接に結びついている祭りである。「マイラー・アーンチャル」は、インド独立前後のビハール北部プールニヤー地方の田舎の村メーリーガンジ全体を舞台にしたオムニバス的小説である。独立運動など全く関係なかったド田舎の村にマラリア・センターが設立されることになり、若い医者が村にやって来るところから話は始まる。ホーリーの日、村人たちは大変な熱気と共にホーリーを祝うが、誰も医者に色水をかけようとしない。なぜなら医者は部外者だからであり、また公務員だからである。しかし医者は自分も一緒にホーリーを祝いたいと思っていた。そこへ一人の血気盛んな男が遠慮なく医者に色水をかける。医者の白衣は真っ赤に染まる。「悪く思いなさんな!ホーリーだから!」それをきっかけに他の村人たちも医者に色水をかけ始める。誰かが両手で後ろから医者の目を覆う。しかし医者はその感触だけで、それが誰なのか悟る。地主の娘のカムラーである。医者とカムラーの間には淡い恋心が芽生えつつあった。部外者の医者が村に溶け込む瞬間、そして地主の娘との恋の芽生えを、ホーリーを通して見事に描いていた。

 ところで、ホーリーの日の合言葉は「ホーリー・ハェ!(Holi Hai!)」である。「ハェ(hai)」とは日本語の「です」、英語の「is」みたいなコピュラ動詞で、直訳すると「ホーリーです」みたいな意味になる。ホーリーになると、新聞やテレビなどには「ホーリー・ハェ!」という文字や言葉が頻出する。しかしなぜ「ホーリーです」なのか、ずっと不思議に思っていた。ダシャヘラーのときに「ダシャヘラー・ハェ!」とは言わないし、ディーワーリーのときにも「ディーワーリー・ハェ!」とは言わない。ただホーリーのときだけ、「ホーリー・ハェ!」「ホーリーです!」と言って祝っている。これはなぜだろうか・・・?ずっと疑問に思っていた。

 日本で同じような例を考えてみると、「お正月だよドラえもんスペシャル」とか「8時だよ全員集合」みたいなニュアンスに近いのだろうか。「ホーリーだよ!」とみんなに言い聞かせているのだろうか。しかしそんなこと喧伝しなくても、ホーリーになったことくらいインド人だったら誰でも知ってるだろう。なかなか答えが見つからなかった。

 しかし、今日「マイラー・アーンチャル」を呼んでいて、ホーリーのシーンでふとヒントを見つけた。先にも挙げたが、「悪く思いなさんな!ホーリーだから!」と訳した部分「bulaa mat maaniye DaakTar saahab, holii hai!」を読んで、何となく「ホーリー・ハェ!」の意味合いが掴めたような気がした。ホーリーになると、無礼講になって、身分の上下や日頃の摩擦などが一切リセットされ、互い平等に色水を掛け合ったり、色粉を顔に塗りたくったりしてホーリーを祝う。ホーリーの日だけは何をやっても許され、何をされても怒ることはご法度。「ホーリーだから無礼講だよ!」と言う意味合いを込めて、インド人たちは「ホーリー・ハェ!」と言っているのだなぁと思った。たしかにダシャヘラーやディーワーリーのときは、ホーリーほど無礼講になったりはしない。「ダシャヘラー・ハェ!」「ディーワーリー・ハェ!」という言葉がないのも、その関係だろう。

3月9日(火) デリー考

 1995年にボンベイがムンバイーに、1997年にマドラースがチェンナイに、2001年にカルカッタがコールカーター(コルカタ)に改称された。英領時代にイギリス人によって名付けられた都市名が、元々の地元の呼称に変更されつつある。この動きはナショナリズムの高揚と密接な関係がある。

 そこで問題になるのがインドの首都デリーである。インド4大都市の中の他の3つの都市は全て改称されてしまった。ではデリーは?という問いかけがなされるのは自然の流れである。

 デリー、英語では「Delhi」。ヒンディー語ではディッリー(Dilli)と言う。どうも僕は「L」の発音が下手なので、「L」が2つ重なるディッリーという発音がインド人に通じないことが多い。そんなことはいいとして、もしデリーの名称を地元の呼称に直すなら、おそらくディッリーが第一候補に挙がるだろう。

 しかしデリーにはもうひとつ由緒ある古い呼称がある。それがインドラプラスタ(Indraprastha)である。「インドラ神の住居」という意味で、「マハーバーラタ」にも記述されている都市名である。紀元前15世紀ぐらいに実際にデリーの辺りにはインドラプラスタと呼ばれる都市があったとされ、現在のプラーナー・キラー辺りだと比定されている。響きがかっこいいので、デリーが数千年の時を越えて再びインドラプラスタになるのもいいかもしれない。あまり現実的ではないが。

 デリーまたはディッリーの名前の由来には諸説があって定説はない。紀元前1世紀にデリー近辺を支配した王ディッルーまたはディルー(Dillu/Dilu)の名前からディッリーになったと言われたり、「敷居」を意味するペルシア語デヘリーまたはデヘリーズ(dehlii/dehliiz)がデリーになったと言われたりしている。もしかしたらデリーとディッリーの間には、音は似ているものの、直接的な関係はないかもしれない。つまり、元々ディッリー(Dilli)と呼ばれており、ムスリムの侵入によってデヘリー(Dehli)と呼ばれるようになり、イギリス人の侵略によってデリー(Delhi)になったと考えると、割としっくりくるような気がする。デリーがなぜ「敷居」なのかは、インドの地勢地図を見てみるとよく分かる。デリーは西から南をタル砂漠とアラーヴァリー山脈、北から東をヤムナー河に囲まれた狭い平地に位置しており、インド亜大陸中央部とユーラシア大陸本体を結ぶ交通と軍事の要所となっている。インド亜大陸を一戸の家に例えるなら、まさにデリーは玄関の敷居のような存在である。

 ヒンディー語で「心、心臓」を「ディル(dil)」と言う。このディルとディッリーをかけた言葉遊びがよく新聞やキャッチフレーズなどで使われる。映画「Dil Chahta Hai(心が求めている)」を文字って「Dilli Chahta Hai(デリーが求めている)」にしたり、「Dil Ki Dhadkan(心臓の鼓動)」を「Dilli ki Dhadkan(デリーの鼓動)」にしてみたり。しょうもないといえばしょうもないのだが、デリー市民にはハート温まるダジャレである。

 ところでデリー市民の愛称としてよく「Delhite(s)」という言葉が新聞で使われる。デリート・・・って何だろう・・・と思っていたが、最近になって「Delhi」と「elite」を掛け合わせた造語なのではないかと気付いた。デリーは政治の街、官僚の街、よってエリートの住む街。だからでデリーに住む者はデリートというわけだ。これもしょうもないといえばしょうもないのだが、デリー市民には自尊心をくすぐるダジャレである(「-ite」は英語の接尾辞で「〜の人」を表すため、Delhiteはれっきとした英語だそうだ)。

 この他、デリー市民に対して「Dilliwala」という呼称もよく使われるが、「〜wala」は「〜の人」みたいな意味の接尾語なので、特別な単語ではない。日本語ではデリーっ子とか、デリーレーヌ(これはナマステ・ムンバイのユッケさんが命名か?)と呼ぶのが一般的になっている。僕は一般的に「デリー市民」と書いているが、「デリー都民」と書くべきか少し悩んだりする。一応首都の民だから・・・。しかし「都民」と書くと、無条件で東京都民を連想してしまうから使わない方がいいのかもしれない。そういえば、なぜかロンドン都民とか、北京都民とか言わない。

 デリーがディッリーになる日が来るのか、それは分からない。しかし2002年に東南アジアに東ティモールという新しい国ができ、首都名がディリ(Dili)になってしまったため、もしデリーがディッリーになったら、ちょっとややこしいことになってしまう。インド4大都市の他の3都市が改名されたのに、デリーだけ改名されないのは、もしかしたら東ティモールの独立が関係しているのではないかと思う今日この頃である。

3月12日(金) 残酷写真でおはよう

 デリーの新聞配達の仕組みは、日本とは違う。日本の場合は新聞社ごとに配達員がいて、自社の新聞のみを毎朝各家庭に届ける。一方、デリーの場合は新聞配達を専門にする仕事があり、その新聞配達屋が、客の必要とする新聞全てを各家庭に毎朝届けてくれる。つまり、複数の新聞社の新聞をまとめて配達してくれる。どこまで柔軟に対応してくれるかは分からないが、おそらく英語紙、ヒンディー語紙の他にも、各地方の言語の新聞もある程度はカバーしてくれるのではないかと思う。もちろん日本語の新聞は手に入らない。配達員は自転車で住宅地を回っており、大体朝6時半〜7時半くらいに新聞を届けてくれる。「届けてくれる」と書けば聞こえはいいが、大方の場合、家のベランダなどに新聞をポイポイ放り込んで行く。たとえ3階、4階であっても、地上から丸めた新聞を力いっぱい放り込んでくる。

 この他、各マーケットには新聞屋があり、やはり各新聞社の新聞を取り扱っている。露店本屋と兼業して新聞を売っていることが多い。1日だけ特定の新聞が欲しいときなどは、こういうところで買わなければならない。また、バス停や駅などでは、各新聞を売り歩く売り子もいる。

 僕が毎朝一通り目を通す新聞は、ザ・ヒンドゥー、タイムズ・オブ・インディアとインディアン・エクスプレスである。ザ・ヒンドゥーは南インドを拠点とする英字新聞で、文章は難解だが、最もまともな記事を載せる新聞である。タイムズ・オブ・インディアは、世界最大の発行部数を誇る英字新聞と言われており、娯楽性に満ちた新聞で読んでいて楽しい。インディアン・エクスプレスは、独自の情報網に基づく記事が多く、他の新聞とは一線を画した記事が載ることが時々ある。

 特定の国の発展度や成熟度を計るには、その国の新聞を見るのが一番いいと言われている。公平な立場から書かれた優れた新聞が発行されている国は先進国と言ってよく、言論の自由がなかったり、文章や記事選択が未熟な新聞が発行されている国は、後進国と言える。インドはどうかというと・・・インドの新聞を見ると、まだまだ後進国と言わざるを得ない。記事に誤りが多かったり、文章の筋が通っていなかったり、全く内容のない記事が堂々と一面に載っていたり、意味もなくセクシーな写真が挿入されていたりと、無茶苦茶と言っていい。「インドで最もまともな新聞」と上で紹介したザ・ヒンドゥーにしても、その例外ではない。タイムズ・オブ・インディアやヒンドゥスターン・タイムズほど無茶苦茶ではないが、経済記事の数字が間違っていたり、記者の文章能力を疑うような支離滅裂の文章構成の記事が多かったりする。ただ、それでも、まともなインドの最新ニュースが毎朝欲しかったら、ザ・ヒンドゥーは外せない。

 しかし、今日のザ・ヒンドゥーは酷かった。酷い、酷すぎる、あんまりだ・・・。「インドで最もまともな新聞」と賞賛することがはばかれるぐらいに酷かった。何が酷かったかというと、一面記事にデカデカと載っていた写真である。実はインドの新聞は、日本の新聞では考えられないくらい残酷な写真が堂々と掲載されることで有名である。ジャンムー&カシュミール州のテロで犠牲になって血まみれになった人の死体の写真とか、交通事故で瀕死の状態になった患者の写真などが、生々しく掲載される。確かにインドに住んでいると、実生活でも死体に接する機会は多い。しかし新聞やTVなどのメディアで生々しい残酷な映像を無理矢理見せられるのはやりすぎだと思う。

 さて、今日、12日付けのザ・ヒンドゥーの一面に何の写真が載っていたかというと、昨日3月11日にスペインのマドリードで発生した列車同時爆破テロである。下がその問題の写真である。あまり大きく掲載すると、僕と同じく不快な気分になる人が多いと思うので、何となく何が写っているか分かる程度の大きさにした。




3月11日、スペインのマドリードで同時テロ発生


 爆発した列車の横で横たわる犠牲者たち・・・。多くの人々は血まみれであり、生存者もいれば、死んでしまった人もいる。そして生きている人の顔には一様に絶望感が浮かんでいる。まさに現場はこの世のものとは思えないほどの地獄絵図・・・。これだけでも不快な写真なのだが、この写真のある部分(どことは言わないが)には、何やらおかしな物体が・・・肉片・・・?と思いじっと見ていると、だんだん人間の頭部に見えてくる。口らしきものや、歯らしきものも見える・・・間違いない、これは人間の頭部だ。人間の生首がゴロリと転がっているのだ。首から下は延髄か何かの線が伸びており、皮膚や頭髪は全て剥がれ落ちてしまっている。ギョエ〜!

 というわけで、朝からこんな残酷な写真を無理矢理見せられてしまって、気分はかなりブルーになった。これも現実と言えば現実であり、この地球上で起った出来事なので、我々は直視しなければならないのかもしれない。人間が人間を殺戮するというこの現実をしっかりと受け止めなければならないのかもしれない。確かに日本は「臭いものに蓋」の習慣が強すぎ、それが日本人の性質を歪めているように思える。だが、いくらなんでも朝からこんな残酷な写真を見せなくてもいいだろう・・・。

 ちなみに、ザ・ヒンドゥーにはウェブ版があるのだが、それに掲載されている同じ記事の写真は、下のような無難な写真になっていた。普通は新聞とウェブ版の写真は同じである。おそらく、新聞を発行してから、「これはやばいだろう」と気付き、写真を差し替えたのだと思う。




ウェブ版ザ・ヒンドゥー掲載の写真


 また、写真提供はロイター通信と書かれていたが、ロイター通信のウェブサイトなどからは、上の残酷写真は見つからなかった。

 911事件の衝撃があまりに大きすぎたことや、インドに住んでいるとテロや暴動などは割と身近な事件であることなどから、だんだんこういう残酷な写真に対する感覚が麻痺してきているのだが、今回は犠牲者の多くが白人だったこともあり、視覚的にショックは大きかった。どんな悲痛な事件が起きたにしろ、朝から読者を不快な気分にさせるような写真の掲載は控えるべきだ。

3月13日(土) パーキスターン遠征ツアー開始

 昨年の10月あたりから、犬猿の仲だったインドとパーキスターンの関係が急速に改善され始めた。事の発端は、インド政府がパーキスターン政府に12項目の信頼醸成措置(Confidence Building Measure:CBM)案を一方的に突きつけたことである。これは強制的な平和プロセスとでもいうべきもので、現在の印パ関係では到底無理と思われる一足飛びの平和促進条項が多く含まれており、言わばインドはパーキスターンに「我々は元から平和を求めており、これだけの信頼醸成措置を行う準備がある。もしこれを断ったら、我々の間に険悪な雰囲気を作っているのは君たちということになるね」と、不仲の原因を相手に押し付けているようなものだった。言い換えるなら、「平和」という名のミサイルをパーキスターン領内に撃ち込んだようなものだった。インドの外交手腕のすごさを思い知った一件だった。

 その12項目の信頼醸成措置の中で、比較的容易に実現可能だとされていたのが、両国間のスポーツ交流であった。もちろん、インドとパーキスターンで「スポーツ」と言ったら、クリケットを置いて他にない。信頼醸成措置12項目がパーキスターンで物議を醸しながらも部分的に受け容れられた当初から、「印パのクリケット・マッチは来年(2004年)の3月に開催されるべし」と決定されていた。おそらく当時はお互い半信半疑かつ駄目元で決定したと思われるが、あれから月日は流れ、本当にインドのクリケット・チームがパーキスターンに遠征する日が来てしまった。遠征に参加するクリケット選手の家族からセキュリティーに関して不安の声が挙がったり、「もし遠征中何か不幸な事件が起ったり、パーキスターン・チームにボロ負けするようなことがあったら選挙に影響が出る」と不平を言う政治家がいたりしたものの、3月10日にサウラヴ・ガーングリー主将率いるインド・チームは、予定通りラーホールに到着した。40日間に渡ってパーキスターン各地で試合が繰り広げられる予定で、3月13日の今日、カラーチーにおいて第一戦となるワンデイ国際マッチ(ODI)が行われた。

 関係改善を図る二国がスポーツを通して親善を深めるというと、我々日本人は日韓共同で開催された2002年のFIFAワールドカップを思い浮かべるだろう。しかしあれはワールドカップを招致する日本と韓国の妥協案で開催されたものであり、今回のインドとパーキスターンのクリケット・マッチとは意味合いが異なる。現にあのワールドカップで日本と韓国は一戦も交えなかった。そればかりでなく、多くの国々の罪のない人々に、「日本と韓国は同じ国である」という間違った認識を植えつけてしまった。あれはあれで日韓の友好関係改善に何らかの寄与はあったと言うことは可能だが、目に見える効果はあまりなかったと思っている。だが、今回のインド・チームのパーキスターン遠征は、政治的な意図が見え隠れするものの、必ず両国の国民の仲を改善させるきっかけになると断言できる。

 インドとパーキスターンの不仲は南アジアの最大の不安定要因となっているが、クリケット国際試合におけるインドとパーキスターンのライバル意識も相当根強いものがあり、2003年のクリケット・ワールドカップにおいても、「ワールドカップで優勝することよりも印パ戦で勝つことの方が重要」と言われたほどだった。何が彼らをそこまでクリケット熱に駆り立てるのかは分からないが、とにかくインド人にとってクリケットの試合でパーキスターンに勝つことは、上流階級から不可触民まで共通の願いなのだ。言わばインド・チームの勝利は、カースト制度を越えた汎インド主義の象徴である。それはパーキスターンでも同じことだろう。

 今回のインド・チームのパーキスターン遠征は、実に14〜15年ぶりのことになるという。ということは、15年に渡ってインド人クリケット選手はパーキスターンの土を公式に踏んでいなかったことになる。それだけでなく、インドの若い世代、少なくとも現在20歳以下の人々は、パーキスターンが一体どういう国なのか、あまり理解しないままパーキスターンにライバル意識を燃やしていたことになる。公式発表によると、在インド・パーキスターン大使館は、インド人クリケット・ファンのために、クリケット試合観戦用のパーキスターン特別ヴィザを8250人分発行するそうだ。インドのメディア関係者たちも続々とパーキスターンに入国しており、試合だけでなくパーキスターンの様子をインド国民に伝えている。また、アルン・ジェートリー法務省大臣、国民会議派のプリヤンカー・ヴァドラーやラーフル・ガーンディーなどもカラーチー入りした。多くの人々は、パーキスターンを初めて訪れることになったはずだ。そしてそれらパーキスターンに試合観戦に入国したインド人が、当然の帰結として持つであろう感想は「な〜んだ、パーキスターンもインドと一緒じゃん」というものだろうし、そう期待している。その率直な感想が、両国の関係改善において、一番重要なことだと思う。ある新聞記者は、ラーホールの様子を「広い道、多くの緑、魅力的な建築物に溢れ、デリーのように美しい都市」と絶賛していた。大体、ある二者の間で険悪な関係が生じた場合、その原因は2つ考えられると思う。ひとつはお互いにお互いのことをよく知りすぎていること、もうひとつは、お互いのことをよく知らないことである。印パが分離独立した当時は、おそらく印パの関係は前者だったと思う。しかし、あれから50年以上が過ぎ去った今、印パ両国の若い世代の国民は後者の状態になっており、お互いにお互いのことをよく知らないままケンカをしているように思える。僕は幸運にもインドとパーキスターン両国を見ているが、相違点はいくつかあるものの、やはり結論としては「インドもパーキスターンも本質は同じ」と言わざるをえない。インド・チームのパーキスターン遠征は、インド国民にパーキスターンの実情を伝える絶好のきっかけになると思う。

 ところで、気になる試合だが、これがまた大変白熱した試合だった。15年ぶりにパーキスターンで行われた印パ国際マッチというだけで歴史に名を残す試合だったが、試合の内容も両者一歩も譲らずで、最後の一球までどちらが勝つか分からないハラハラドキドキの大興奮試合だった。先にバッティングを行ったのはインド・チームで、サチン・テーンドゥルカルが28ランで早々とショエーブ・マリクにアウトを取られたものの、ヴィーレーンダル・セヘワーグ(79ラン)やラーフル・ドラヴィル(99ラン)らが頑張り、合計349ランという高得点を上げた。現在のインド・チームの強さは、サチン一人頼みでないことにある。一方、パーキスターンは滑り出しでつまづいたものの、ユースフ・ユハンナー(73ラン)とインザマームル・ハク(122ラン)のコンビが、インド人を絶望のどん底に突き落とすくらいの好プレイを見せた。しかしインザマームをアウトにしてからインド・チームは勢いを取り戻し、徐々にパーキスターンのバッツマンをアウトにして追い詰めて行った。そして運命の最後の一球。パーキスターンの得点は344ラン。つまり、ホームラン(6ラン)が出ればパーキスターンの勝ち、それ以外だったらインドの勝ちという状態だった。こ、これは・・・「ラガーン」の最後のシーンと同じだ!真実はインド映画よりも奇なり、こういうドラマチックな試合を見ると、クリケットの面白さが分かる。ボウラーはアーシーシュ・ネヘラー、バッツマンはモイーン・カーン。ネヘラーが投げたボールをモーインが打つ!打ち上がったボールを・・・ザヒール・カーンがキャッチ!アウト!こうして、349対344で、インドが僅差で勝利を収めたのだった。

 以前ワールドカップで印パが対戦したときは、最後の方はインドが楽勝ムードだったので、試合が終わる前からあちこちで花火が上がり始めていた。しかし今回の試合は最後の一球まで試合の行方が分からなかったため、辺りはし〜んと静まり返っていた。インド亜大陸中の時間が一瞬止まったことだろう。そして試合が決まった瞬間、あちこちで雄叫びが上がり、その数分後、盛大に花火が上がり始めた。今まで家でテレビの前に張り付いていたインド人たちは一斉にゾロゾロと外に出始め、なぜか僕の家の近くの道では、思い出したかのように警察が検問を始めた。

 まだパーキスターン遠征は始まったばかりであり、この後ワンデイ国際マッチ4試合、テストマッチ3試合がパーキスターン各都市で行われる。この1ヶ月は下院選挙とクリケットで、話題が尽きない1ヶ月になりそうだ。

3月16日(火) 無駄のない国かつ無駄のある国、インド

 インド人は無駄なことをしない民族だと思う。1ルピーでも損になることはしない。それに比べたら日本人は対極的に無駄遣いをする民族だと思う。

 例えば日本には悪戯電話というものがある。インドでは考えられないことだ。わざわざ電話代を浪費して、自分の役に立たないことをするとは。そんなことをするくらいだったら、チャーイ屋でチャーイでも飲んでまったりとくつろぐだろう。落書きというのもインドには少ない。確かに政治のプロパガンダが壁に書かれることはあるが、日本の暴走族の落書きのような、書く方にも見る方にも特に得にならないものはほとんど見かけない。

 無駄を出さないという考え方は、そのままエコロジーになり、インド人の習慣には感心するものも多い。例えば新聞紙の再利用。小さな店で買い物をすると、新聞紙で作った紙袋に商品を入れて渡されることが多い。金がもったいないからやっていることだろうが、先進国から来た人は感心するだろう。ただ、サモーサーなどの食べ物まで新聞紙に包んで渡されるので、新聞紙を汚ないものと考えている人には受け容れられないときもあるだろう。

 インドは物価に比べてガソリンが高い国なので、ガソリンに対するケチケチ度は度を越している。まず、インド人が自動車やバイクなどを購入する際、一番気にするのが燃費である。もちろん車両本体の値段も重要だが、最も大事なのは、いかに高燃費か、いかに少ないガソリンで多く走るか、である。また、ガソリンを入れる際も、日本のように「ガソリン満タンでよろしいですね?」というわけにはいかない。ガソリンスタンドで「フル・カル・ドー(ガソリン満タンで)」と言うと、店員に「エッ?」と不審な顔をされる。インドでは、ガソリンを満タンに入れるという行為は狂気の沙汰であり、一般的なインド人は「300ルピー分」とか値段を言ってガソリンを入れてもらう。店員も慣れたもので、ちょうど言われた額だけのガソリンを入れる。これはなぜかというと、まず第一に、インド人は複数の人で車を共有することが多いからだと思われる。つまり自分が走る分だけガソリンを入れる、というわけだ。第二の理由として、「宵越しのガソリンは持たず」理論がある。ガソリンは自然に蒸発してしまうとでも思っているのだろうか、ただ目先のことしか考えていないだけだろうか、1日ずつガソリンを入れる習慣がついている人がけっこう多いのではないかと思う。オート・ワーラーなども、客を拾ってある程度収入の目処がついてからガソリンスタンドへ行く、という人が少なくない。よって、日本のように暴走族というものが暗躍するはずがない。あんなガソリンの無駄遣いはインド人には考えられないことだ。ただ、せっかく燃費のいいバイクに乗っているのに、やたらスピードを出してかえって燃費を悪くしている大馬鹿者も多い。燃費のいいバイクというのは、大抵時速40〜60km前後のときに理想的な燃費になるように出来ているものだ。

 無駄をしない、という考え方は、インドの伝統文化を考える際に役に立つ。インド文化の様々な事象には、必ず意味がある。無駄がない、ということはつまり意味があるのだ。日常生活でふと垣間見るインドの習慣には、裏に驚くべき科学的根拠が潜んでいることが非常に多い。

 インドは無駄がない国だ、と述べたが、しかしそれと同じくらい無駄のある国でもある。インド人は金に対して無駄がないのに対し、時間と労働力には非常に無駄が多い。日本のように時間通りに物事が動いていない国なので、時間を無駄にすることが多い。コンサートの開演時間は6時から、しかし行ってみたら実際に始まったのは7時半だった、とか、修理屋が家に来るから今日は家にずっといないといけない、と思ってずっと家で待っていても、待てど暮らせど修理屋は来ず、結局1日無駄にした、とかの経験はザラである。インド人は時間の無駄を全く気にかけていないように見える。例えばデリー在住の大学生は、たとえ2時間、3時間、どんなに時間がかかっても、自宅からバスで通ってくるという執念を持っている。時間を無駄にするということは、人生を無駄にしているということに等しいと思うのだが、彼らにとって人生は1回きりではなく、何度も巡ってくるものだから、ちょっとやそっとの無駄は気にしないのかもしれない。

 労働力の無駄も見ていて腹が立ってくることが多い。例えばレストランに入るとする。するとまず目に入ってくるのはやたら大勢いるウェイター。これがみんな女の子だったらまだ許せるのだが、デリーでは女性がウェイター(飲食物をサーブする仕事)をすることは法律で禁じられているので、全員男である。その全てのウェイターたちの大きな目玉が、一斉にギョロリとこちらの方を向くのだ。こんなにたくさんいても仕事ないだろ、とこちらもにらみ返しながら席につかなければならない。そこからレストランでの食事が始まる。昔在学していたケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンの職員にも無駄が多かった。聞くところによると、後進カーストなどの優遇制度のために大量の下層民が雇用された結果、これだけ多くの職員が働くことになったそうだが、それを差し引いても無駄が多かった。例えば「コピー機担当」という人がいた。つまり、サンスターンの事務所に置いてある2台のコピー機の全責任を負う人である。何かをコピーしたいときは、彼に頼んでコピーしてもらわなければならない。しかし、彼にコピー機に関する特別な知識があるわけでもなく、コピー機が壊れても彼は修理することはできない。また、コピー機の鍵は彼が常に携帯しているため、彼が学校に来ないとその日は外の市場に行かない限りコピーすることはできない。2台コピー機があるのだから、日本人なら1台をメインで使用、もう1台はもしものときの予備用、メインの故障時、予備用を使っている間にメインを修理、とか考えると思うのだが、インド人は違う。1台が壊れても修理屋を呼ぼうともせず、2台とも故障して初めて修理に動き出すのだ。1度に2台修理してもらった方が手間が省けていいだろう、とか言い訳が聞こえてきそうだ。書いているそばから腹が立って来るくらいの無駄である。

 インドの工場でも、オートメーション化という言葉はない。人力でできることは何でも人力で、という国だ。どうも機械を使って製品を製造すると、機械税なる税金がかかるようで、工場はなるべく機械よりも人力に頼るように推奨されている。インドの人力の極めつけとして有名なのが、グジャラート州アラングにある古船解体所である。2万人の労働者たちが、昼夜を徹して手で船を解体するという。いったいどんな光景なのか興味があるのだが、外国人の立入は厳しく規制されており、その様子を目の当たりにすることは難しいと言われている。ところで、なるべく人力で、という考え方は決して間違っていないと思う。インドはただでさえ人口が多い国なので、なるべくみんなに職が行き渡るようにしなければならない。日本の就職問題の原因のひとつは、何でも機械化してしまって、機械に人間が職を奪われたことにあると思われる。

 また、エコロジーという観点に立ち返ってみても、人力は最もエコロジカルなエネルギーだと言える。オート・リクシャーよりもサイクル・リクシャーの方が、地球に優しいのは明らかだ。最近インドはやたらIT大国として有名になってしまったが、インドで本当にすごいものは人力にある。人力こそインドがこれから世界に向けて発信していかなければならないもののひとつだと思う。とりあえず、インドの移動遊園地に必ずある人力観覧車はすごい。見てみないとそのすごさは分からないが、数人の人間の手と足だけで巨大な観覧車を回す姿は圧巻。しかも観覧車の骨組みの中をサーカスのようにヒョイヒョイと移動して上に上ったり下に下りたりするので、さらにすごい。エジプトに行ったとき、砂漠の真ん中に立って、「自然はすごいなぁ」と思ったのと同時に、砂漠の地平線から地平線に一直線の道路を敷いた人間の力にも驚嘆したものだった。それと同じ驚きを、インドの人力から感じる。こんなエコロジカルなアトラクションは、ディズニーランドにもユニバーサル・スタジオ・ハリウッドにも真似できないだろう。労働力に関しては、無駄があるというよりも無駄がないと言い直した方がいいかもしれない。




人力観覧車
円の中心にいる3人が動力源


3月19日(金) インドとウクライナの共通性

 日本ではどうも「世界」という言葉を「欧米」と同義で使っているようなところがある。欧米でヒットしたものを「世界中でヒット!」と表現したり、「世界の人と交流しよう!」という呼びかけの真の意味は「欧米人と交流しよう!」だったりすることが時々あるような気がする。ただ、最近はアジアの隣人である中国、韓国、台湾などにも目が向いてきたし、東南アジアもだいぶ認知度が高まってきた。もっとも、「アジア」という言葉は日本ではなぜか中国から東南アジアまでに限定されており、インドなどの南アジア諸国は、日本人の言う「アジア」から時々抜け落ちていることが少し気に懸かる。どちらかというと現在で言う東アジア地域は、伝統的には「オリエント」と呼ばれていたはずだ。他にもアフリカや中南米など、次第に日本人の関心は世界中に広がりつつある。その中で、日本人にとって最も疎い地域のひとつが中央アジアなどの旧ソ連領だった国々だと思う。

 実はインドにいると、日本にいるときより圧倒的に中央アジアの人々と接する機会が多くなる。中央アジア諸国は「〜スタン」という名称が多いので非常にややこしいが、彼らの顔は日本人とよく似ているので、中央アジア人との出会いは日本人にとって新鮮な驚きがある。地理的にインドに近いこと、留学費用が安く済むこともあるが、インドと旧ソ連の外交的結びつきが非常に強かったため、これだけ多くの中央アジア人が引き続きインドに来ているのだと思う。現在インドに来ている外国人留学生を見てみると、前述の中央アジア諸国、ウクライナ人、リトアニア人、ロシア人などの東欧諸国、日本人、韓国人、中国人、タイ人、インドネシア人などの東方アジア諸国、ネパール人、ブータン人、バングラデシュ人、スリランカ人などの南アジア諸国、イラン人、イスラエル人などの西アジア諸国、そしてアフリカ諸国などが中心である。ふと考えると、この5000年の間にインドに来ていた民族と、現在の外国人留学生の構成にあんまり違いがないことに気付く。唯一違うのは、フィジー、モーリシャス、トリニダード・トバゴなど、19世紀末〜20世紀初めにかけて移民したインド人の子孫が、自身のルーツを探りにインドへ留学しに来ていることくらいだ。インドはユーラシア大陸の南端に取り付けられた「じょうご」のようなもので、大陸の隅々からいろんな人が集まって来ている。インドにいると日本とは違った「世界」が見え、インド留学の貴重な体験のひとつになる。

 黒海の北にウクライナという国がある。ウクライナを中央アジアに入れるべきか、東欧に入れるべきかはよく分からないが、旧ソ連領のひとつであるウクライナからもやはり多くの留学生がインドに来ている。先日部屋を掃除していたら、昔通っていたケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンの卒業文集(2002年と2003年)が出来てた。もらったときはほとんど目を通していなかったのだが、懐かしかったのでパラパラと適当に読んでいたら、ウクライナから留学生のエッセイが目に留まった。題名は「インドとウクライナの共通性」。読んでみたらなかなか面白かった。

 エッセイは、「アーリヤ人がいったいどこから来たのか?」という問いかけから始まっていた。中央アジアで遊牧生活を送っていたアーリヤ人がインド亜大陸に侵入して、現在のインド文化の基礎が作られたことは通説となっているが、それが本当なのかどうかはよく分からない。しかし彼女は、一説として、アーリヤ人の故郷はウクライナである、という説を紹介していた。

 インドにはヴァルナという身分制度がある。一般にカースト制度と呼ばれているもので、知識階級のブラーフマン、統治階級のクシャトリヤ、商工業階級のヴァイシャ、労働階級のシュードラの4階級である。それと同じような身分制度はウクライナにもあったという。その身分制度の名称はバールヴァーという。ヴァルナもバールヴァーも共に「色」という意味で、発音も非常に似ている。各階級のウクライナ語での名称は明記されていなかったが、ウクライナにおいてブラーフマン階級は色白かつ白髪、クシャトリヤ階級は赤い肌、ヴァイシャ階級は黒い肌だそうだ。シュードラ階級についても明記がなかったが、現在ウクライナで「シュードラ」(現地語でもシュードラという発音なのか?)と言うと、「売奴」みたいな意味の悪口になるという。ウクライナの身分制度は元々年齢によるもので、若者は戦争に行き、中年は畑仕事をし、老人は祭儀や教育を司ったらしい。色による身分制度も、各年齢の特徴から来ていると説明されていた。この身分制度が、ウクライナとインドの共通点のひとつである。しかし「人間の考えることはどこでも一緒」理論を当てはめると、いまいち説得力にかける。

 次に共通点として挙げられていたのは、トリシュール(三叉の槍)のシンボルである。インドではトリシュールはシヴァ神のシンボルとなっているが、ウクライナでも同じように重要な意味を持っており、国章にもなっているそうだ。ウクライナでは、トリシュールは神、火、水の一体性を表すシンボルらしい。トリシュールには槍の他にもいろいろな形があり、例えば3本の花だったり、3つの炎だったり、3本の木だったりする。

ウクライナの国章

 また、ヒンドゥー教には三神一体という考え方があり、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァという主要な3人の神様がいる。ウクライナにも同じようにラフマー、ヴィーシュニーヤ、スィーヴァーという3人の神様がいるそうだ。また、その他にもラーダーという創造の女神がおり、やはりトリシュールを持っており、その姿はインドの女神ドゥルガーとそっくりだそうだ。

 ヒンドゥー教の三神一体が比較的新しいコンセプトであるように、ウクライナにもそれ以前にさらに古い神様がいた。火の神オーグニ、太陽の神ウールまたはスルなどである。インドの火の神アグニや、太陽の神スーリヤと非常によく発音が似ている。

 この他にもウクライナの言語とインドの言語には非常に共通点がある、と締めくくられていた。

 これらがどこまで本当なのかは意見できるはずもないが、非常に興味深い話ではある。インドにロシア人や中央アジア人が多いのも、もしかしたら地理的、政治的、経済的要因だけでなく、もっと深い文化的共通点が原因になっているのかもしれない、と思った。ウクライナ人の外見は完全なる白人だが、そういえばそのウクライナ人は、「ヨーロッパよりもインドに親近感を覚える」と言っていたように記憶している。

3月21日(日) ヤムナー・ホステルナイト

 ジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)の広大なキャンパスにはいくつもの寮があり、JNUの学生の大半はそのキャンパス内の寮に住んでいる。学生ばかりか、教師や職員のほとんどもJNUキャンパス内に住んでいるので、JNUは一種の共同体のようになっている。よってJNU内の学生の結束は固く、所属する寮が一種のアイデンティティーとなる。JNUの学生生活を楽しもうと思ったら、寮に住むことは絶対条件のように思われる。外に居を構えても、一応寮の部屋をキープしておくという人も多い。僕は諸事情があって寮に住んでおらず、寮に自室を持っていないので、はっきり言ってJNUにそれほど溶け込んでいない。ただ「カリズマに乗ってる日本人」ということで無意味に有名になっているだけだ。

 JNUに合計いくつの寮があるのか正確にはわからないが、おそらく15個の寮があると思われる。男子寮があれば女子寮もあり、男女共同の寮もある(ただし棟は別)。博士課程専用の寮や、既婚者専用の寮もある。寮の名前は全てインドを流れる河の名前が付けられており、ガンガー・ホステル、ヤムナー・ホステル、ブラフマプトラ・ホステルなどなどがある。寮の他、外部の人が短期間宿泊するためのゲストハウスもJNU内外に存在するが、宿泊するにはJNUの学生の助けと予約が必要となる。

 各寮は年に1回、ホステルナイト(寮祭)を催す。以前にも3月2日の日記で寮祭について書いたが、女子寮の寮祭に参加できることは、男子学生にとって大変名誉なことである。女子寮に男子が入れるのは1年に1回の寮祭のときしかない上に、その女子寮に住む友人から寮祭に招待してもらわなければならないからだ。逆に男子寮の寮祭は、いかに女の子を呼び込むかが力の見せ所となる。

 JNUの女子寮の中でも、ヤムナー・ホステルは1ランク上の高級ホステルであり、料金が高い代わりに外国人や裕福なインド人が多く住んでいる。外国人は千差万別だが、裕福なインド人の女性となると、統計的に美人で聡明な人が多い。よってヤムナー・ホステルの寮祭は、男子学生の弁によると、最も「マスティー・マスティー(乗り乗り)」ということになる。それを象徴するかのように、ヤムナー・ホステルの寮祭は最も遅い時期で行われ、JNUの寮祭のトリを務める。

 ヤムナー・ホステルには友人が多いので、僕もヤムナーのホステル・ナイトに招待された。今までヤムナー・ホステルは外観からしか眺めたことがなかったが、やっと中庭まで入る機会を得ることができた。開始時間は午後8時半。しかしあいにく今日はインド対パーキスターンのクリケット・ワンデイ国際マッチ第4試合目が行われていたため、おそらく例年に比べて参加者は少なかったのではないかと思う。僕が家を出るときはパーキスターンが293ランなのに対し、インドは13オーバーで94ラン/4ウィケットという絶望的な成績だったので、インドの負けを確信していた。多分ヤムナーの寮祭に開始時間に来ていた人々も、インド代表を見限って来ていたのだと思う。しかし寮祭が行われている間に試合はひっくり返り、結局インドが勝ってしまった。ラーフル・ドラヴィル、ユヴラージ・スィン、ムハンマド・カイフの下位打線3人が健闘したようだ。もちろん勝利の瞬間は歓声が上がった。これでワンデイ国際マッチ全5試合中4試合の対戦成績は歴史的親善試合にピッタリの2対2。24日の最終試合までもつれこむことになった。・・・しかしあまりに劇的かつ理想的な試合運びなので、密かに八百長の可能性を疑っている。試合終了後、寮祭の参加者はさらに増えた。

 ヤムナー・ホステルの警備は、デリー大学の留学生女子寮(ISHW)と比べて甘く、入場券を持っていない人でも入れそうな雰囲気だった。ISHWでは文化祭のような舞台公演があったが、ヤムナー・ホステルの寮祭は夕食+ダンスパーティーのみだった。インド人女性たちはサーリーを来ている人が多く、ダンスパーティーからは動きやすい服装に着替えて踊っていた。さすがにJNU一の高級女子寮の寮祭だけあって、かわいい女の子も多く、また盛り上がりも相当なものだった。

 個人的に収穫だったのは、カシュミール人の女の子と知り合えたことだ。シュリーナガルを旅行したときは、カシュミール人は美男美女揃いだと感嘆したものだったが、やはりその子も美人だった。ただし前から見たときのみ・・・横から見ると鼻が目立ちすぎる・・・。インド人の顔は立体的なので、正面顔と横顔の印象がかなり変わる。また、以前から友人だったコールカーター生まれのムスリムの女の子に長年の疑問だったことを質問することもできた。その子はコールカーター生まれコールカーター育ちなのにも関わらず、母語がウルドゥー語だった。言語は地理に起因するという大原則を当てはめるなら、ベンガル地方のムスリムはウルドゥー語ではなくベンガリー語を母語としていないといけないはずだったので、ずっと疑問に思っていた。もしかしたら厳格なイスラーム教徒の家庭に育ち、マドラサー(イスラーム教徒のための教育機関)で子供の頃から教育を受けたのか、と思っていた。しかし彼女に思い切って聞いてみたら、彼女の家族はウッタル・プラデーシュ州から移住して来ており、家庭ではウルドゥー語で会話をしていることが分かった。言語は地理だけでなく、家族にも起因するのよ、と言われてしまった。

 インド人の他にも外国人留学生が多く参加しており、ヤムナー・ホステルの寮祭は一種のJNU社交界だった。

3月24日(水) インド代表、歴史的勝利

 14〜15年振りに行われたクリケット、インド代表のパーキスターン遠征ツアー。インドとパーキスターンの試合はこの15年間何度も行われていたが、パーキスターンにインド代表が訪れた最後の年は1989年であった。印パ関係改善を受け、今年の3月13日からワンデイ国際マッチ(ODI)5試合がパーキスターン各地で行われた。その試合結果は以下の通りである。

日付 場所 前半 後半 勝利
3月13日 カラーチー 印349/7(50.0) パ344/8(50.0)
3月16日 ラーワルピンディー パ329/6(50.0) 印317/10(48.4)
3月19日 ペシャーワル 印244/9(50.0) パ247/6(47.2)
3月21日 ラーホール パ293/9(50.0) 印294/5(45.0)

 クリケットの試合には、5日間行われるテストマッチと、1日で決着がつくワンデイマッチがある。今回パーキスターン遠征の前半に行われたODI5試合では、ワンデイマッチを5試合やって、総合的な成績で勝敗が決まる。21日までの試合結果は2−2で、印パどちらも譲らない展開で、24日の最終試合まで勝敗は持ち越されていた。親善マッチとしてこれ以上の形はない。最終試合の場所は第4試合目と同じラーホールのガッダフィー・スタジアム。歴史あるスタジアムのようだ。

 午後2時から始まった試合は、まずはパーキスターン代表先攻。クリケットではボールを投げる方が先攻になるので、日本の野球とは逆である。つまり、インドのバッティングから試合が開始された。インドのみならず、既にパーキスターンを含むインド亜大陸中のヒーローとなっているサチン・テーンドゥルカルは、37ランで早々にアウトとなってしまったが、今日のヒーローはVVSラクシュマンだった。ハイダラーバード生まれの29歳のフルネームは、ヴァンギプラップ・ヴェーンカター・サーイー・ラクシュマンらしいが、誰もそんな長ったらしい名前は知らない。インド人は今日から彼をヴェリー・ヴェリー・スペシャル・ラクシュマンと呼ぶだろう。ラクシュマンは自身6度目のセンチュリー、107ランを稼ぎ、インド・チームを勢いに乗せた。50オーバーが終わり、インド代表は7ウィケットで293ランという微妙な数字。第1試合、第2試合においてパーキスターン代表は300ラン以上の高得点を上げており、まだパーキスターン代表が勝つ可能性は十分ある。

 6時半頃に試合後半、つまりパーキスターン代表のバッティングが始まった。しかし試合は早々にインド代表に傾いた。ラクシュミーパティー・バーラージーが先頭打者Y.ハミードをアウトに取った後、弱冠19歳の新星イルファーン・パターン投手が続けざまに3人の打者をアウトにし、一気にインド有利の試合となった。まだパーキスターン・チームのキャプテンかつ今回のODIシリーズ中2回のセンチュリーを出した恐怖のインザマームル・ハクが控えていたが、彼が打ち上げたボールをサチン・テーンドゥルカルがナイスキャッチし、38ランに抑えた。インザマームが沈んだ今、インドの勝利を阻む者はいないかに見えたが、ショエーブ・マリクとモーイン・カーンのコンビが頑張り、それぞれ65ラン、72ランを稼いだ。インド代表のサウラヴ・ガーングリー主将が怪我で退場したのも大きな痛手だった。しかしインド代表の優位は変わらず、結局10ウィケットを取ってパーキスターン代表を253ランに押さえ込んだ。よって、インドは40ランの大差でパーキスターンに勝利した。

 どうもパーキスターンで行われたODIシリーズにおいてインド代表がパーキスターン代表に総合的勝利を収めたのは、クリケット史上これが初めてのようだ。確かに最近のインド代表は強い。2003年のワールドカップでは運が味方して準優勝できた印象を受けたが、その後インド代表は強敵オーストラリアに歴史的勝利を収めたりして着実に力を伸ばしてきた。そして今日、終生の宿敵であるパーキスターンをも下してしまった。過去のインド・チームはサチン・テーンドゥルカルの調子が悪いと勝てないチームだったが、現在は打者、投手共に選手層が充実しており、おそらくインド・チーム始まって以来の戦力を誇っているのではないかと思う。

 僕はたまたまナガランド人の友人の家で試合を観戦していたのだが、勝利の瞬間はナガランド人も嬉しそうだった。普段の生活ではノースイーストの人々は、アーリヤ系インド人と一線を引いていることが多いのだが、やはりインド代表がパーキスターン代表に勝つと嬉しいようだ。もちろん試合終了後は街中がお祭りムードとなり、あちこちで祝福の花火が上がっていた。というより、既に試合終了前から散発的に祝福が始まっており、パーキスターン代表の打者がアウトになる度に打ち上げ花火が上がっていた。ただでさえクリケット狂のインド人だが、印パ戦となるとまた特別だ。しかも今日はODIシリーズ最終戦。今日の試合中継を見てないインド人はインド人じゃない、と言っても過言ではない。インドでは日本のようにあまり視聴率が問題にならないが、おそらく統計を取ったらクリケットの試合は100%近くの数字になるんじゃないかと思う。

 16日にラーワルピンディーで行われた試合に引き続き、パーキスターンのパルヴェーズ・ムシャッラフ大統領が1時間ほどスタジアムを訪れて軍服姿でVVIP席から試合を観戦した。驚くべきことに彼の隣には、パーキスターン建国の父、ムハンマド・アリー・ジンナーの娘ディーナと、その息子ナスリー・ワーディヤーが座っていた。詳しい事情はよく分からないのだが、ジンナーはパールスィーと結婚した娘のディーナを勘当し、印パが分離独立したときにもディーナはインドに残ったようだ。ただ、ジンナー自身もラッティーという名のパールスィーと結婚しており、ちょっと事情が呑み込めない。ディーナは1948年にジンナーが死んだときもパーキスターンを訪れなかったという。現在ディーナはニューヨークに住んでおり、ディーナの息子かつジンナーの孫にあたるナスリーはボンベイ・ダイング社の社長としてムンバイーに住んでいる。2人ともパーキスターンを訪れるのは初めてのことで、パーキスターン政府が特別に試合観戦に招待した。しかもジンナーがパーキスターン建国を宣言したラーホールに。何とも歴史というのは皮肉なものであるが、両人とも国を挙げての歓迎を受けたそうだ。その他、ジャイプルの王族ガーヤトリー・デーヴィー、ポップ歌手ディレール・メヘンディー、インド中央政府の大臣などが観戦に来ていた。

 ODI第5試合のマン・オブ・ザ・マッチには、センチュリーを出したVVSラクシュマンが選ばれた。ただ、どう見てもインドの勝利に最大の貢献をしたのは、イルファーン・パターンだろう。また、全5試合を通してのMVPにあたるマン・オブ・ザ・シリーズには、5試合合計340ランというぶっちぎりの活躍をしたインザマームル・ハク主将が選ばれた。合計得点数第2位がラーフル・ドラヴィルの248ランなのを見ると、インザマームのすごさが分かる。サチン・テーンドゥルカルは合計213ランで第4位。ただ、サチンは1試合の最高得点数141ランを取っている。まだ印パの試合は続き、今後テストマッチ3試合が続けて行われる。

3月26日(金) セクシーなクリケット選手トップ10

 下院選挙を控えたインドの政治家たちを巻き込んで現在インド亜大陸中で盛り上がっているインド対パーキスターンのクリケット・マッチだが、今日のデリー・タイムズ・オブ・インディアで、印パのクリケット選手の「セクシーな男」トップ10が発表されていた。投票対象は今回のインド代表パーキスターン遠征に出場した印パのクリケット選手で、調査対象はアハマダーバード、ムンバイー、バンガロール、ラクナウー、チャンディーガル、コールカーター、ハイダラーバード、デリー在住の合計200人のインド人女性である。ボリウッドなどの有名人女性のコメントなども同時に掲載されていた。毎度のことながら、デリー・タイムズの記事に信憑性は全くないので、本当に投票がなされたのか、本当にインド人女性全員の意思が反映されているのか、その保証はない。だが、結果はなかなか面白かった。

 見事1番に輝いたのは、インド代表のラーフル・ドラヴィル。36%の得票率である。都市別の集計でも、ラクナウー以外の都市でラーフルは1位を獲得している。選出の理由を見てみると、ラーフルは「Mr. Dependable(頼りがいのある男)」で、「Main Hoon Naa(僕がいるから大丈夫)」といつも言ってくれそうで、かわいくて、かっこよくて、チョコレーティーで(何だそれは)、静かで、純粋で、鋼鉄の意志を持っているからだそうだ。インド人女性が男性に求めるのは、都会的かっこよさではなく、やはり伝統的な「頼りがいのある男らしい男」のようだ。ラーフル・ドラヴィルは今回のODIシリーズでも大活躍した。




ラーフル・ドラヴィル


 第2位はパーキスターンの速球投手、ショエーブ・アクタル。パーキスターン代表のスター選手でありながら、インド人女性から32%の支持を受けている。彼が球を投げるときの顔は獣か殺人鬼のように怖いのだが、どうもそれが女の子にはたまらないらしい。選出の理由として、ロックスターのような長髪と鍛え上げられた長身の肉体のブレンドなどが挙がっていた。敵側のエースに恋してしまうというちょっとした罪悪感も、インド人女性にスリルを与えるようだ。ショエーブの別名は「ラーワルピンディー・エクスプレス」。




ショエーブ・アクタル


 第3位はインド代表のユヴラージ・スィン。総合では3位だが、ラクナウーではユヴラージが1位を獲得している。ナワーブの城下町として有名なラクナウーの市民は、他とはちょっと違ったものを好むようだ。ユヴラージは、長身で色白でハンサムで若々しくて血統がいいところが受けているとのこと。




ユヴラージ・スィン


 4位以下は乱文ではっきり記述されていないのだが、パーキスターン代表からは他にシャーヒド・アーフリーディー、ムハンマド・サミー、インザマームル・ハク主将がランクインしたようだ。特に巨漢インザマームの支持者はボリウッド女優に多く、プリヤンカー・チョープラーやビパーシャー・バスなどが彼に一票を投じている。インザマームもラーフル・ドラヴィルと同じく、頼りがいがあって、かつ落ち着きのある男性像であることから人気を集めているようだ。インド人女性の筋肉マン志向は強い。インザマームはODIシリーズ5試合合計340ランもの得点を稼ぎ、しかも2回のセンチュリーと試合平均68.0ランという圧倒的打率を誇っている。愛称はインズィーである。




インザマームル・ハク(インズィー)


 ただ、都会的洗練さを持つ男性の人気もないことはない。今回のODIシリーズで大活躍したインド代表期待の若手イルファーン・パターンが、スマートな男性を理想とするインド人女性の心を射止めたようだ。女優のキム・シャルマーは、「イルファーンは場をわきまえた態度でホントにセクシー!」と絶賛している。イルファーンはODIシリーズ3試合に出場して8ウィケットを取るという大活躍。防御率は印パ投手中1位である。




イルファーン・パターン


 もちろん、インドの大スター、サチン・テーンドゥルカルと、キャプテン、サウラヴ・ガーングリーもインド人女性の羨望の的である。マスターブラスターという称号を持つ世界的打者のサチンは、インドの若者の英雄であるだけでなく、女性たちからも「別格」とされており、「セクシー」などと軽々しく呼ぶのはかえって失礼だと考えられているようだ。知的な顔立ちをしたガーングリー主将は、地元コールカーターの女性たちの間で特に熱烈な支持を受けている。




サチン・テーンドゥルカル


サウラヴ・ガーングリー


 クリケット選手は映画俳優以上にインド人に人気がある。これは日本のJリーグのサッカー選手の人気と似ている。ただ、映画俳優と違ってスポーツ選手は、かっこいいだけでなく実力も伴わないと人気は出ないから大変だ。ただ、インド人の言う「セクシー」というのは、上の写真から判断すると少し日本人とズレがあるかな、と思う。インドではどうも「男臭い」男がセクシーのようだ。

3月26日(金) Muskaan

 インド対パーキスターンのクリケット・マッチの影響でここ2週間新作ヒンディー語映画が封切られない状態だったが、ODIシリーズが終わって一段落したためか、今日から再び新作映画が公開され始めた。一気に3本のヒンディー語映画、そして1本のテルグ語映画が封切られたのだが、その中でまずは主演俳優に比較的花のある「Muskaan」を見にチャーナキャー・シネマへ行った。

 「Muskaan」とは「微笑み」という意味。ヒロインの名前である。監督はローヒト・マニーシュ。主演はアーフターブ・シヴダーサーニー、グレイシー・スィン、グルシャン・グローヴァー、ネーハー、パルヴィーン・ダバス、ヴラジェーシュ・ヒルジー、アンジャラー・ザヴェーリーなど。




グレイシー・スィン(左)と
アーフターブ・シヴダーサーニー(右)


Muskaan
 若手ファッション・デザイナーのサミール(アーフターブ・シヴダーサーニー)と女子大生のムスカーン(グレイシー・スィン)は、間違い電話をきっかけに出会い、お互い未だ見ぬ相手に恋していた。2人とも名前を名乗らず、匿名で電話をして毎日話をしていた。

 ある日ムスカーンは15日の旅程でロンドンへ行くことになった。ちょうど同じに日程でサミールも仕事で仲間のシャラード(パルヴィーン・ダバス)、サティーン(ヴラジェーシュ・ヒルジー)、シカー(アンジャラー・ザヴェーリー)と共にシムラーへ行くことになり、15日後の1月1日にムスカーンとムンバイーのインド門で会うことを約束した。ところが、ムスカーンのロンドン行きは急にキャンセルになり、ムスカーンも友人と共にシムラーへ行くことになった。サミールもムスカーンも、間違い電話の相手が同じ場所にいることは知らなかった。

 たまたまバスで同席となった2人は最悪の相性で、ケンカばかりしていた。宿泊するホテルも同じだった上に、向かい合わせの部屋に泊まることになった。しかし余命幾ばくない子供に対するサミールの温かい眼差しを見て、ムスカーンはサミールを見直した。サミールもファッション・ショーのモデルとしてムスカーンを採用したいと思っており、ムスカーンと友達になろうと思っているところだった。2人の間のわだかまりは急に溶ける。

 その頃、同じ事務所で働くジャンヴィー(ネーハー)もシムラーに来た。ジャンヴィーはサミールのことを愛していたが、サミールは彼女のことをただの友達だと認識していた。サミールとムスカーンの仲がいいのを見て、ジャンヴィーは嫉妬する。

 ところがある日、ジャンヴィーが部屋で殺されているのが見つかった。ジャンヴィーは死の間際に「S」というダイング・メッセージを残した。犯人の名前の頭文字だと思われたが、事務所仲間の4人の名前の頭文字は全てSだった。刑事(グルシャン・グローヴァー)はサミールを犯人だと疑ったが、ジャンヴィーが死ぬ直前に自宅に電話したときに残した留守録が見つかった。それにより、犯人はサティーンであることが分かった。サティーンは逮捕された。

 15日間のシムラーでの滞在が終わり、サミールとムスカーンはムンバイーへ帰ることになった。2人はお互いに恋していたが、間違い電話の相手と交わした約束を忘れることができなかった。2人はそのまま別れる。しかし、ふとした拍子にサミールの口ずさんだ歌がムスカーンの耳に入った。それは間違い電話の相手が書いた詩だった。サミールとムスカーンはお互いを間違い電話の相手だと気付き、抱擁を交わす。

 即ゴミ箱行きの映画。筋は悪くなかったのだが、監督の腕が悪いのか、ひどく時代遅れな映画に思えた。

 間違い電話から始まる恋、顔も知らない相手に恋する男女、そして実際に出会うことを恐れる気持ち、しかし間違い電話の相手だとは知らずに出会ってみると、ケンカばかり、序盤の筋はいささか使い古されたものではあったが、悪くなかった。ただ、音楽やミュージカル・シーンに気合が入っていないことや、ストーリーテーリングのまずさから、退屈な印象を受けた。

 シムラーに到着し、ジャンヴィーが殺害されてからは、一転してサスペンス映画となる。元々サミールは何者かに命を狙われていたが、犯人がドジなためいつも暗殺計画は失敗していた。しかしシムラーでは標的は急にジャンヴィーとなった。一応ジャンヴィーを密かに恋していたシャラードが、一番怪しい人物という風に観客に訴えかけられていた。ただ、実際の犯人はお調子者のサティーンだった。サティーンはサミールの成功に嫉妬していたのだった。だが、この辺りのどんでん返しも十分予想可能だった。いまいちひねりが足らない。「S」というダイング・メッセージというのもしょぼすぎる。

 サミールが歌った歌によって、ムスカーンが間違い電話の相手をサミールだと気付くシーンは、いかにもミュージカル重視のインド映画という感じだったが、これも特に新しい手法ではない。しかも、仕事仲間のジャンヴィーが殺害され、サティーンが逮捕されたというのに、他の仲間たちにあまり悲しみの感情がなかったのが気になった。

 一応主人公はファッション・デザイナーなのだから、映画中のファッションにくらいは凝ってもらいたかったのだが・・・全く駄目な衣装だった。これもマイナス要因。

 アフターヴ・シヴダーサニーはだんだんいい男優に成長しつつあるように思った。アーミル・カーンを長身にしたような雰囲気で、ふてぶてしい表情がかっこいい。一方、グレイシー・スィンはだんだん気味の悪い女優に転落しつつあるように思えてならない。「ラガーン」の頃に比べて急に老けたように見えるし、不機嫌な表情の彼女の顔はすごい怖い。「ラガーン」でのサーリー姿が強く印象に残っているため、グレイシーの洋服姿がどうも不恰好に見えてしまう。

 もう少し丁寧に作ればいい映画になったと思うが、残念ながら鑑賞に値する映画ではない。

3月27日(土) インド人の「ありがとう」「ごめんなさい」

 インド人は「ありがとう」「ごめんなさい」を言わない民族である。インド人の頼みごとを聞いてあげても滅多に「ありがとう」と言われないし、インド人は何か失敗しても「ごめんなさい」とは滅多に言わない。そもそもヒンディー語に「ありがとう」という言葉はなかったと言われている。「ダンニャワード」が一応「ありがとう」という意味になるが、これは英語の「Thank you」の訳語として作られた造語だと言われている。「シュクリヤー」という言葉も「ありがとう」の意味でよく使われるが、これもアラビア・ペルシア語からの借用語である。「ごめんなさい」に当たる言葉は「クシャマー・キージエー」「マーフ・キージエー」などがあるが、これも昔から使われていたとは思えない。最近では英語の「Thank you」や「I'm sorry」を欧米人と同じ感覚で使うインド人もいる。ちょっとしたことに「Thank you」「Thanks」と答えたり、子供に「ソーリー・ボール!(ソーリーって言いなさい)」と叱っている母親を見たりする。だが、基本的にインド人は「ありがとう」「ごめんなさい」を言わない民族である。

 しかしだからといって、「なんて失礼な民族だ!」と憤慨するのは筋違いだ。これはただの文化の違いであり、逆にインド人は「ありがとう」「ごめんなさい」を無意味に連発する欧米人の習慣を好ましく思っていない。それとは対照的に、インドには両親や師匠など目上の人々に対し、事あるごとに「アーシールワード・ディージエー(祝福を下さい)」と言って相手の足を触れる美しい習慣があるが、このような習慣は欧米にも日本にもない。だからといってインド人は我々を「なんて失礼な民族だ!」とは言わない。

 ただ、「ありがとう」を言われないことには慣れるが、やはり「ごめんなさい」を言わないインド人には時々腹が立つ。「ごめんなさい」という言葉を発すると、自分の非を認めたことになり、自分に不利になると思っているのかもしれない。何か失敗したインド人は、あれこれ言い訳を並べることが多い。「昨夜はあまり寝てなくて・・・」「あいつがこう言ったから・・・」「いつもはこれでよかったんだが・・・」「家には女房と5人の子供が腹を空かせて待っていて・・・」素直に謝っておけばまだ怒りは軽減されるのに、こういう苦し紛れの言い訳が、特に外国人の怒りを増大させる。ただ、インド人の側に立って弁護すると、「ごめんなさい」という言葉はインド人にとって「無罪放免してください」ぐらいに重い言葉なのかもしれない。例えば大家さんが借家人に「お前3ヶ月も家賃滞納してるぞ、今日こそ払ってもらうからな」と怒鳴り込んできたときに、借家人が「ごめんなさい」「お許しください」と言った場合、「今日は見逃してください」とか「「家賃を帳消しにしてください」と同じ意味になると思われる。そもそも「ごめんなさい」という言葉はヒンディー語では命令形であり、立場の強い相手に対して容赦を命令するのは、たとえ謝罪でも失礼だと考えているのかもしれない。かといって「I'm sorry」は「残念に思っている」という意味で、やはり尊大な表現に取ることができてしまう。

 今でもインド人に初めて「ありがとう」と言われたときのことを覚えている。あれは初めてインドを旅行した1999年春、マハーラーシュトラ州の有名な観光地エローラーに行ったときのことだった。そのとき持っていたバッグが破れてしまったので、道端に座っていた靴磨き屋の人に縫ってもらった。その経費として5ルピーを払ったように記憶しているのだが、そのときその靴磨き屋に「ダンニャワード」と言われた。今から考えても5ルピーという値段は妥当な値段だったと思うが、多くあげ過ぎて感謝されているのかと思った。でも記憶に残るほど嬉しかった。

 こんなこともあった。昔の僕はヒンドゥー教の神様のポスターを精力的に集めていたのだが、チェンナイに行ったときに古いポスターがけっこう残っている店を見つけて、そこで大量の買い物をした。その店はどこにでもあるようなただの露店だったが、日記によると2500ルピーほどの金を費やした。もちろん、ただの露店がそんな大量の金を一気に手にすることなんて、一生のうちにもそうしばしば起こることではないだろう。そうしたら、僕を神様の化身だとでも思ったのか、店の主人は僕に対し手を合わせて拝んでいた。逆に相当な無駄遣いをした気分になったものだが、やはりインド人に感謝してもらうと記憶に残る。

 同じく神様ポスターを集めていた頃、デリーのサーケートの露店で神様ポスターをいくつか購入した。そのときの店主は、僕にではなく、神様に感謝の祈りを捧げていた。それを見たとき、インド人の感謝も謝罪も、神様を対象にしているのであり、人間はあまり関係ないのかな、と新たな考えが浮かんだ。

 つい昨日も、インド人に感謝の言葉を投げかけられて、それが今日の日記の題材のきっかけとなった。昨夜はチャーナキャー・シネマに「Muskaan」という映画を見に行った。夜9時45分からの回だったので、終わったのは深夜12時半頃になった。バイクで来ていたので、そのまま駐車場へ向かった。デリーの駐車場には必ず駐車代を徴収する係りの人がいて、二輪車5ルピー、四輪車10ルピーが一般的な値段となっている。駐車代を払うと、ナンバーを記入した紙切れをくれる。その紙切れで車両の持ち主を確認している。映画が終わった後、駐車場へ行ってその紙切れを係りの人に渡し、バイクにまたがろうとした。すると、その男が僕を見て「Thank you, Sir!」と威勢良く叫んだ。そういえば約1ヶ月前、同じくチャーナキャー・シネマの深夜の回の映画を見に来たことがあった。確か「Tum」という映画だったと思う。映画館を出て駐車場へ行くと、僕のバイクがポツンと停めてあった。他の人はもう帰ってしまって、僕が最後だったようだ。係りの人に紙切れを渡すと、その男が「リングロードまで行くか?」と聞いて来た。僕は帰路の途中にリングロードを横切る。チャーナキャー・シネマからリングロードまで2kmほどの道のりである。僕が「ハーン(Yes)」と答えると、「リングロードまで乗せて行ってくれないか?」と言ってきた。彼は仕事が終わり、もう家に帰らなければならないのだろう。リングロードはデリーを一周する環状線で、そこまで行けばこの時間でもバスがまだ見つかる。だが、チャーナキャー・シネマからリングロードまで行くには、もうバスもなく、オート・リクシャーを使うか、歩くかしか方法がない。特に断る理由もなかったので、「OK」と答えて彼を後ろに乗せてあげた。リングロードで彼を下ろすと、彼は「Thank you, Sir!」と言って去って行った。この感謝の言葉は、上記の「欧米人的ありがとう」に分類されるだろうだから、特に記憶には残らなかった。しかし今日、僕に「Thank you, Sir!」と叫んだ男を見てみると、あのときリングロードまで乗せて行ってあげた男だった。1ヶ月前のことを覚えていて、改めて僕に「ありがとう」と言ってくれたのだった。インド人に「ありがとう」と言ってもらうことですら困難なことなのに、1ヶ月もの時を越えて「ありがとう」を言ってもらったので、何だか無性に感動した。今日も彼をリングロードまで乗せて行ってやろうかと、ふと考えたが、あのときとは違ってまだ駐車場にバイクがたくさん停まっていたので、僕はそのまま帰ることにした。インドにいると腹が立つことも多いが、それゆえにちょっとしたことで嬉しくなってしまうことがある。

 ちなみに、インド人に自発的に「ごめんなさい」と言われた記憶は・・・未だにない・・・。



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