スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2004年5月

装飾下

|| 目次 ||
生活■2日(日)期末テスト終了!
映評■3日(月)Main Hoon Na
生活■4日(火)EVMプロトタイプを探して・・・
分析■8日(土)インド神話と現代インド
映評■11日(火)Charas
生活■12日(水)蛇
分析■13日(木)下院総選挙開票、与野党逆転
映評■14日(金)Lakeer
映評■14日(金)Run
▼マハーラーシュトラ州旅行(5月15日〜6月7日)
旅行■15日(土)マハーラーシュトラ州旅行へ
旅行■16日(日)コンカン・コーストの漁村、ムルド
旅行■17日(月)海上の砦、ジャンジラー
旅行■18日(火)密林のリゾート、マーテーラーン
旅行■19日(水)石窟寺院カールラー&バージャー
旅行■20日(木)デカン高原を南下
旅行■21日(金)デカンの女王、ビジャープル(1)
旅行■22日(土)デカンの女王、ビジャープル(2)
旅行■23日(日)力士の町、コーラープル
旅行■24日(月)絶景の避暑地、マハーバレーシュワル
旅行■25日(火)プラタープガル&ラーイガル
旅行■26日(水)観光拠点、アウランガーバードへ
旅行■27日(木)アジャンター石窟寺院
旅行■28日(金)エローラ石窟寺院
旅行■29日(土)5万年前のクレーター、ローナール
旅行■30日(日)清浄なる町、プネー(1)
旅行■31日(月)清浄なる町、プネー(2)
映評■31日(月)Yuva
映評■31日(月)Hum Tum


5月2日(日) 期末テスト終了!

 やっと今日、期末テストが終わった。インドの大学は7月末〜8月初めに始まり、4月末〜5月初めに終わるのが一般的である。だから日本の「4月から新学期新学年新生活」という感覚とはズレがある。僕が通うジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)は、1年にモンスーン・セメスター(7月〜12月)とウインター・セメスター(1月〜5月)の2学期があり、12月〜1月初めに1ヶ月の冬休みが入るカリキュラムになっている。そのウインター・セメスターの期末テストが本日終了したのだ。

 日本は現在ゴールデン・ウィークの真っ最中だが、どうやら今年はインドでも同時期にゴールデン・ウィークになったようだ。5月3日はイードゥル・ミーラード(ムハンマドの誕生日)、5月4日はブッダ・プールニマー(ブッダの誕生日)、5月5日と10日は下院選挙の投票日(デリーは10日のみ)で休日となり、もし6日と7日に休みを取れば、1日〜10日まで10連休ということになる。この連休を使ってシムラーやナイニータールへ避暑に行くインド人家族も多いという。

 実はこの連休のおかげでテストが繰り上がってしまった。元々テストの日程は4月29日、30日、5月3日、4日という日程で、5月1日(土)と2日(日)は中休みになっていた。非常に理想的なスケジュールだったのだが、直前になって急に日程が変更され、4月29日、30日、5月1日、2日に変わってしまった。つまり4日間ぶっ続けである。3日のイードゥル・ミーラードと4日のブッダ・プールニマーは月の満ち欠けを見て占星術師が日程を決定するため、急に日付が変わったりする。ただでさえ難しいテストなのに、こんな殺人的なスケジュールになってしまって目まいがしたが、喉もと過ぎれば暑さを忘れ、今は「早くテストが終わってよかったな〜」と解放感に浸っている最中である。

 今年1年を振り返ってみると、勉強漬け、ヒンディー語漬けだったとつくづく感じる。旅行したり趣味に時間を費やすことがほとんどできなかった。インド人向けのヒンディー語文学修士コースを学ぶのはかなり大変だったが、なんとか付いて行くことができてよかった。モンスーン・セメスターには、

@ヒンディー語の言語的歴史
Aヒンディー語文学の歴史(1857年まで)
B黎明期のヒンディー語文学(チャンドバルダーイー「プリトヴィーラージ・ラーソー」、カビール「ビージャク」、ジャーイスィー「パドマーワト」)
Cヒンドゥスターンの文学と文化の伝統(ヒンディー語科とウルドゥー語科の混合コース)
Dウルドゥー語とウルドゥー文学入門

の5つの科目があった。ヒンディー語とウルドゥー語の複雑な関係を実感できたことや、ウルドゥー語とウルドゥー文学を学ぶことができたのが印象的だった。一方、ウインター・セメスターには、

@ヒンディー語文学の歴史(1857年〜)
A中世のヒンディー語文学(スールダース「ブラマルギート」、ミーラーバーイー「パダーワリー」、トゥルスィーダース「ラームチャリトマーナス」、ビハーリーラール「サトサイー」、ガナーナンド「ガナーナンド・カヴィット」)
Bヒンディー語の小説と短編(プレームチャンド「ゴーダーン」「カファン」、パニーシュワルナート・レーヌ「マイラー・アーンチャル」「ラールパーン・キ・ベーガム」、ジャイネーンドラ・クマール、モーハン・ラーケーシュ、ヤシュパール、アマルカーント、シェーカル・ジョーシーなど)
Cサンスクリト詩論学(バラト「ナーティヤシャーストラ」〜ラージ・ジャガンナート「ラスガンガーダル」まで)

の4科目があった。特にサンスクリト詩論学は、おそらく日本語で読んでも難解なことをヒンディー語で読まなければならないため、ほとんどチンプンカンプンだったが、チンプンカンプンなりになんとか理解し、なんとか答案用紙を埋めることができた。カビールから始まりトゥルスィーダースまでのヒンディー語文学は、黄金期と言われるだけあって、読んでるとのめり込んで来るものが多い。ビハーリーラールの言葉の魔術を駆使した詩の数々にも感動した。また、ヒンディー語の小説や短編を読めば読むほど、もっと多くのヒンディー語文学を日本語に訳して、一般の日本人が簡単に読める状態にしないといけないと感じた。日本人がインドをあまり理解していない、または凝り固まった偏見を持っているのは、インドの文学があまり日本で紹介されていないことも一因だと思われる。また、日本人がインドよりも中国に親近感を覚える理由の一因も、インド文学よりも中国文学が日本人にとって圧倒的に身近なものだったからだと思う。詩の翻訳は難しいし、「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」の完訳は途方もない仕事になるが(未だにこのインドニ大叙事詩は日本語に完訳されていない。完訳に着手すると必ず志半ばで倒れるというジンクスがあるようだ・・・)、小説や短編だったら不可能じゃないし、訳しても原本の雰囲気が壊れることは少ない。ただ、インド関係の本は出版してもすぐに絶版になって入手困難になる傾向にあるのが不安なところだ・・・。おそらく日本は将来インドと真剣に関係を築かなければならなくなるだろう。そのときに、インド文学の翻訳が揃っていると、インドのことを理解するのに非常に役立つのではないかと考えている。

 ところで、インドの大学のテストが真面目に行われているかというと・・・形式的には厳格に行われているが、管理が行き届いていないというか、学生の人格に問題があるというか・・・ちょっとひどい。まず、期末テストの重要性は非常に高い。僕のコースでは、期末テストだけで成績の50%が決まる。一昔前のデリー大学では、期末テストだけで成績が決まっていたので、全く授業に出ず期末テストだけ受けて単位を取るという学生もいた(現在では出席率や中間テストが成績に反映されるように変更されたそうだ)。どちらにしろ、期末テストは非常に重要である。インドの大学のテストは、日本の試験で言う小論文形式で、設問に対して一般論や自分の意見を書き連ねなければならない。一問一答とか、択一問題のようなものは、未だに見たことがない。インド人学生はとにかく書く。書いて書いて書きまくる。とにかく長く書けば点数が多くもらえると思っているようだ。どうも本当に長く書けば書くほど点数がもらえるシステムの大学や学部もあるようだが、JNUのヒンディー語科では内容重視で、蛇足な事項を書くと点数が下がる。正当に評価してもらえるだけありがたい。JNUでは、答案用紙は学部の印鑑と監視員の署名がされており、シリアルナンバーも割り振ってある。これはおそらく、外部から偽の答案用紙を持ち込む行為を防止するためだと思われる。また、受験者は受験票を持参しなければならない。しかし、いかんせん教室が狭く、机も狭いため、受験者はほとんど肩を寄せ合って試験を受けることになる。そうすると、インド人の学生たちはテスト中にも関わらずお互いにこそこそ相談し合ったりする。監視している教授たちはもちろん注意するのだが、テスト中話をしている受験生たちを処罰することまではしない。しかも彼らは頻繁にトイレへ行く。トイレが近いためではない。トイレでカンニングするためだ。あらかじめ重要事項をメモしておいた紙を身体のどこかに隠し持っており、トイレでこっそり読んで、また教室に戻ってくる。卑怯すぎる・・・。ちなみに「カンニング」はヒンディー語では「チーティング・マールナー」という。

 テストが終わり、夏季休暇となったわけだが、下院選挙が一段落つくまではデリーを動かないつもりである。インドの選挙は何があるか分からないので、安全策をとってデリーで羽を伸ばすのが賢いだろう。最近、この時期には珍しく大雨や雹が何度か降り、デリーは俄かに涼しくなった。だから実は現在非常に快適な気候である。あまり涼しくなり過ぎると、インドの基盤である農業に影響が出て、最近好調のインド経済にも響くので、心からこの異常気象を歓迎しているわけではないが・・・。

5月3日(月) Main Hoon Na

 テストが終わって夏期休暇が始まり、鳥かごから解き放たれた鳥のように自由になって、直行した場所はもちろん映画館。現在大ヒット中の新作ヒンディー語映画「Main Hoon Na」を見たくてテスト中はかなりうずうずしていた。チケットは予約完売するほどの売れ行きで、それを見越して予め予約をしておいたため、めでたく今日見ることができた。PVRプリヤーで鑑賞。

 「Main Hoon Na」とは「僕がいるよ」という意味。監督は、ヒンディー語映画のミュージカルに革新を起こした女流コレオグラファー(振付師)、ファラハ・カーン。監督第1作目で、脚本と振り付けも担当している。音楽監督はアヌ・マリク。キャストは、シャールク・カーン、スシュミター・セーン、スニール・シェッティー、ナスィールッディーン・シャー、カビール・ベーディー、ザイド・カーン、アムリター・ラーオ、ボーマン・イーラーニー、キラン・ケール、サティーシュ・シャー、ビンドゥー、ムルリー・シャルマーなどである。

 結論から先に言うと、今年上半期最大のヒット作と言っても過言ではないほど面白い。以下、かなり詳細なあらすじを結末まで書くが、もし映画を一から楽しみたかったら読まない方が賢明である。




左からアムリター・ラーオ、シャールク・カーン、ザイド・カーン


Main Hoon Na
 インド軍のアマルジート・バクシー将軍(カビール・ベーディー)は、パーキスターンとの関係改善を図るミッション・ミラープを発案し、国会の承認も得ることができた。ミッション・ミラープとは、印パが分離独立した8月15日に、パーキスターン人の捕虜を国境で解放するというものだった。ところが彼のプロジェクト・ミラープに反対していたのが、元軍人のラーグヴァン(スニール・シェッティー)だった。ラーグヴァンは息子をパーキスターン人に殺されたことから、パーキスターンに異常な敵意を燃やしており、軍隊を解雇された後はテロリストとなって印パの関係改善を妨害することに命を燃やしてきた。ラーグヴァンはTV局でインタビューに答えていたアマルジート将軍を襲撃するが、将軍を身を張って助けたのは、コマンドー部隊隊長で彼の親友でもあったシェーカル・シャルマー(ナスィールッディーン・シャー)准将だった。同じ部隊に所属していたシェーカルの息子のラーム・プラサード・シャルマー少佐(シャールク・カーン)は逃げるラーグヴァンを追いかけるが、父親が重傷であったため、深追いすることができなかった。父親は死ぬ間際にラームに、今まで隠してきた真実を語る。ラームは実はシェーカルの愛人の息子だったのだが、彼女が死んでしまったため、シェーカルが引き取ったのだった。しかしそれが原因でシェーカルの妻マドゥ(キラン・ケール)は息子のラクシュマンを連れて家を出てしまい、それから20年間ずっと別居生活をしていた。シェーカルは遺言としてラームに、もう一度家族をひとつに戻すよう言い残して息を引き取った。

 一方、ラーグヴァンはアマルジート将軍のミッション・ミラープを止めさせるため、娘のサンジャナー(アムリター・ラーオ)を狙っていた。それを知ったアマルジート将軍は、ラームにサンジャナーの護衛を頼む。しかし彼女には問題があった。アマルジート将軍は自分のような軍人になるべき息子を望んでいたのだが、生まれてきたのが娘だったため、サンジャナーに愛情を注ぐことができなかった。それが原因でサンジャナーは父親嫌い、軍人嫌いの性格になってしまい、家を出てダージリンの大学で寮生活をしていた。アマルジート将軍はラームに、学生になりすましてサンジャナーに近づき、彼女を護衛するように命令する。父親の遺言を優先させたかったラームは最初辞退するが、アマルジートは彼に有力な情報を与える。マドゥとラクシュマンも現在ダージリンに住んでいるとのことだった。ダージリンに行けば、ミッション・ミラープの遂行と父親の遺言の遂行を同時に行えることを理解したラームは、二つ返事でその任務を受ける。未だ見ぬ弟の姿を思い浮かべながら・・・。

 ダージリンに到着したラームは、早速学生っぽい格好をして大学を訪れるが、そこは軍隊生活を送ってきたラームにとって全くの別世界だった。ラームは「おじさん」と呼ばれ、時代遅れのファッションをからかわれ、3年間留年し続けている大学の人気者ラッキー(ザイド・カーン)と小競り合いを繰り広げ、学長(ボーマン・イーラーニー)のぶっ飛んだキャラクターに翻弄され、最初は全く溶け込めなかった。サンジャナーにも迷惑がられた。ラームは早速ラクシュマンを探すが、簡単には見つからなかった。そこで大学のコンピューターをハッキングして学生名簿を閲覧したところ、ラクシュマンは実はラッキーだったことが判明した。一方、ラッキーはつまらぬ揉め事に巻き込まれて、屋根から滑り落ちそうになっていた。全校生徒が見守る中、ラームはラッキーを助け出す。この事件をきっかけにラームとラッキーは親友になり、ラッキーを密かに恋していたサンジャナーもラームに心を開くようになる。だがラームは自分の素性は明かさなかった。

 ラームはラッキーの家にペイング・ゲストとして住むようになる。ラッキーの母親(つまりラームの義理の母親)のマドゥもラームを歓迎する。だが、既にラーグヴァンはダージリンに到着しており、着々とミッション・ミラープ妨害作戦を進行させていた。ラーグヴァンは部下のカーン(ムルリー・シャルマー)にサンジャナーの友人の暗殺を命令するが、ラームの活躍によって阻止され、カーンは捕らえられてしまう。ラーグヴァンはラームがダージリンにいることを知り、自ら作戦実行に乗り出す。一方、ラームは化学の教師チャーンドニー(スシュミター・セーン)に恋する。サンジャナーは、父親が息子を欲しがっていたことに影響され、ボーイッシュな服を好んで着ていたのだが、ラッキーが自分を女として扱ってくれないことに失望し、落ち込む。ラームはチャーンドニー先生に指南を依頼し、おかげでサンジャナーは女の子らしい女の子に変身する。するとラッキーのサンジャナーを見る目はコロリと変わるのだった。また、サンジャナーはラームの勧めで父親に電話をし、和解をするのだった。

 ラーム、ラッキー、サンジャナーらのクラスの物理は今までラサーイー(サティーシュ・シャー)先生が担当していたのだが、ある日突然ラサーイー先生は辞表を出し、新しい先生がやって来た。それがラーガヴ先生(=ラーグヴァン:スニール・シェッティー)だった。ラーガヴ先生はプロムパーティーでうまくラームとチャーンドニーを外に出し、サンジャナーを車に乗せて連れ去ろうとするが、そのときラームが戻ってきたため、ラーグヴァンは何もすることができなかった。ちょうどその日、アマルジート将軍はダージリンに到着しており、娘と再会を果たす。ミッション・ミラープもうまくいき、パーキスターン側も同日にインド人捕虜の解放することを発表した。

 ラーガヴ先生はラームとラッキーがシェーカル准将の息子であることを突き止め、そのことをマドゥとラッキーに伝えてしまう。マドゥとラッキーはシェーカルとその息子のことを毛嫌いしていたため、その事実を知って愕然とする。ラームはラッキーの家を追い出され、大学も去ることになった。

 ところがラームが大学を去った後、ラーグヴァンは遂に作戦を実行に移し、大学の生徒を人質にとってミッション・ミラープの中止を求めた。ラームは引き返し、ラーグヴァンの隙を狙って生徒たちを逃がす。後に残ったラームとラーグヴァンは決闘を繰り広げ、最後にラームは勝利を収める。また、ミッション・ミラープも成功裡に終わり、印パは関係改善のための小さな、しかし偉大なる一歩を踏み出したのだった。

 まさにこれぞインド映画!古今東西の映画の要素がたっぷり詰め込まれたマサーラー・ムービー!笑い、涙、恋愛、アクション、カーチェイス、兄弟愛、家族愛、青春、音楽、踊り、パロディー、愛国心などなどの要素の他、インドとパーキスターンの関係改善やテロの本質についても提言がなされており、よくぞここまでいろんなものをひとつにまとめたな、と感心してしまった。軍隊のプロモーション映画のようにも思える。女流監督ということで、もっと女性的視点から繊細な映画を作るのかと思っていたが、蓋を開けてみたら他の男性商業映画監督に負けないほどの典型的なインド娯楽映画だった。おそらく女性監督でここまで商業的映画を作る人は珍しいのではないかと思う。

 はっきり言ってストーリーにあまりオリジナリティーはない。「失われた家族の絆をひとつに」というテーマや、自分の血縁者の家に正体を明かさずホームステイするシーンは、「Kabhi Khushi Kabhie Gham」(2002年)そのままだし、ボーイッシュな女の子が乙女に変身、というプロットは「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)を想起させる。シャールク・カーンが大学にやってきて恋のキューピッド役を務めるのは「Mohabbatein」(2000年)そのままだし、愛人の子供が家庭崩壊の原因となる筋は「Kal Ho Na Ho」(2003年)でもあった。また、「マトリックス」や「ミッション・インポッシブル」などのパロディーもいくつかあった。とは言え、ファラハ・カーン監督はこれら使い古されたネタの数々を新鮮な調理法で仕上げることに成功している。

 特に印象的だったシーンは3つあった。1つは中盤のカーチェイス・シーン。ラーグヴァンの部下カーンらが自動車で逃走するのを、ラーム(シャールク・カーン)がなんとサイクルリクシャーで追いかけるのだ。ダージリンの坂道を下っていくので、サイクルリクシャーでも自動車並みの速度は出ると考えられ、それほど非現実的ではない(ただ、ダージリンにはサイクルリクシャーはなかったと記憶しているが)。途中、インドならではの障害物がいくつかラームの前に立ちはだかるが、それらを超人的なフットワークでかわし、遂にカーンを仕留める。2つめは、ラームがラーグヴァンの人質になったラッキー、サンジャナーやその他の学生たちを救出しに行くシーン。人質というと・・・最近起こったあの事件が連想されてタイムリーだ(ビデオカメラで人質を撮影したりもしている)。ラームは心配するマドゥに対し「必ずあなたの息子を助け出します」と約束する。このときマドゥは既にラームがシェーカルの息子、つまり別居の元凶となった存在であることを知っており、怒ってラームを一度は追い出していたのだが、しかし彼女はラームに言う。「私には両方の息子の命が必要です。」このとき初めてラームは、義理の母親に、息子と認めてもらえたのだった。3つめはミッション・ミラープが成功し、印パの捕虜交換がなされたシーン。場所はどうもラージャスターンだった。パーキスターンから解放された捕虜たちが、自分の家族と再会して涙を流すのだが、その中には、インドの砂を額に塗ったり、地面に頭をつけて喜んでいるラージャスターニーのお爺さんの姿があった。母なるインドの大地に再会の喜びを表現しているのだろう、何だかいかにもインドっぽかった。

 シャールク・カーンはアクションに、踊りに、ロマンスに、八面六臂の大活躍だった。シャールクの演技力を疑う余地はないが、しかし彼のキャラクターの内部矛盾は皮肉にもこの映画の最大の欠点になっていた。軍人としての行動、慣れない大学への戸惑い、家族との感動の再会、ラッキーやサンジャナーへの温かい眼差しなどは、ラームのキャラクターを非常によく表していたが、スシュミター・セーン演じるチャーンドニー先生の前での彼は、全く別のキャラクターになってしまっていた。これはちょっと誤ったスパイスを入れてしまったように思えた。

 ザイド・カーンは「Chura Liya Hai Tumne」(2003年)でデビューした若手男優。彼はリティク・ローシャンの妻スザンヌ・カーンの兄弟であるため、つまりリティクと義理の兄弟ということになる。インド人離れした細面でチャラチャラした外見なのだが、今回はまさにそういう役柄だったので、ピッタリはまった。ヒロインのアムリター・ラーオはそこら辺にいるインド人の女の子と大差ないのだが、間違いなくこの映画のヒットで今後キャリアアップするだろう。スシュミター・セーンは色っぽい女教師役を演じたが、何だか彼女はサーリーが似合ってないように思える。ちなみにインドの女性教師は必ずサーリーを着用している。アムリターとスシュミターが並ぶと、身長差があり過ぎてまるで大人と子供みたいだ。スニール・シェッティーは「Rudraksh」(2004年)に引き続きマッドな悪役を演じていた。テロリストが物理の教師になって大学にやって来るという設定には無理を感じたが、悪役としての憎々しい演技は素晴らしかった。

 学長役を演じたボーマン・イーラーニーは、「Everybody Says I'm Fine!.」(2002年)でデビューした遅咲きのコメディアン。「Munna Bhai M.B.B.S.」(2003年)の1本で、彼は現在のインド映画界で最もホットなコメディアンとして注目を浴びるようになった。元々写真家や舞台俳優をしていたようだ。僕も当然のことながら彼に注目している。この映画でも暴走気味の演技で爆笑を誘っていた。この強引な笑いはジョニー・リーヴァル以来ではないだろうか?




「Munna Bhai M.B.B.S.」での
ボーマン・イーラーニー


 カビール・ベーディー、ナスィールッディーン・シャーなどのベテラン俳優も出番は少ないながら存在感のある演技をしていた。ラッキーの母親マドゥ役のキラン・ケールは、「Devdas」(2002年)でパーローの母親役を演じた女優。シャールク演じるラームがマドゥと初めて会うシーンを見ると、ついつい「Devdas」でのデーヴダースの印象的なセリフ、「カーキー・マー、パーロー・ハェ?(叔母さん、パーローはいる?)」が頭をよぎってしまう。

 音楽監督はアヌ・マリク。「Main Hoon Na」のCDは、飛びぬけて明るいアップテンポの曲が多く、好みが分かれると思うが、客観的に見たら買って損はしないだろう。テーマソングの「Main Hoon Na」は秀逸。コレオグラファーが監督を務めただけあって、ミュージカル・シーンはどれも絶品。特に一番最初のミュージカル「Chale Jaise Hawaien」は、おそらくインド映画史上に残る傑作ミュージカルかもしれない。なにがすごいかというと、ロングテイク(長回し)でミュージカルが撮影されていたことである。つまり、ワンカットで数分間撮影されているのだ。厳密に数えたわけではないが、曲の間奏部にあたるラッキーの登場シーンを除けば、前半と後半の2カットだけでミュージカルが撮られていたと記憶している。多くのダンサーが複雑に入り乱れて踊る立体的な群舞シーンであり、この振り付けを行うのは相当難しいことが想像に難くない上に、編集でごまかしが効かないため、俳優やダンサーの踊りの技能も必要になる。この曲で踊っていた俳優はザイド・カーンとアムリター・ラーオだったが、2人とも踊りはド下手ではないので、この類稀なロングテイク・ミュージカルの撮影に成功したのだろう。「シカゴ」(2002年)程度の平面的で無味乾燥なミュージカルしか作る才能が残されていないハリウッド映画では、綿々とミュージカル映画の伝統を受け継いできたインド映画ミュージカルの結晶「Chale Jaise Hawaien」のような傑作ミュージカルを作ることは不可能と思われる。この1曲だけで僕はファラハ・カーン監督は賞賛に値すると思う。ちなみにファラハ・カーンは、「Dilwale Dulhaniya Le Jayenge」(1995年)、「Dil To Pagal Hai」(1997年)、「Dil Se」(1998年)、「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)、「Kaho Na... Pyar Hai」(2000年)、「Dil Chahta Hai」(2001年)、「Asoka」(2001年)、「Kabhi Khushi Kabhie Gham」(2002年)、「Koi... Mil Gaya」(2003年)、「Kal Ho Naa Ho」(2003年)など、ここ10年間のヒット作のダンスの数々を振り付けしてきた、インドで最も才能のあるコレオグラファーの1人である。

 ダージリンが舞台だけあって、美しいヒマーラヤ山脈が度々背景に映し出されていてよかった。ロケが行われていた学校は、ダージリンを旅行したときに見たような気がする。ダージリン名物のトイ・トレインもちゃんと登場していた。

 気になったのは、後半途中でタッブーらしき人影が一瞬だけ見られたこと。特別出演にしては不自然な映り方で、まるで亡霊のようだった。インド人観客も「タッブーだ!」と反応していたので、タッブーに間違いないと思うのだが・・・全く脈絡のない登場の仕方だった。この映画の大きな謎だ。パーキスターンのパルヴェーズ・ムシャッラフ大統領のそっくりさんにも注目(そこまでそっくりではないが・・・)。

 そういえば、映画中、ザイド・カーン演じるラクシュマンが、自分の古臭い名前を嫌がって本名を明かさず、「ラッキー」と名乗っているという筋があるが、実は僕の友人にも同じような人がいた。彼の本名ラクシュマンというのだが、スニールと名乗っていた。どうも最近のインド人の若者にとって、神様の名前と同じ名前というのは相当ださいようだ。ちなみにラクシュマンとは、「ラーマーヤナ」に登場するラーム王子の弟の名前である。また、悪役のラーグヴァンという名前も、実はラームの別名である。ラーム王子はラグ家の家系と言われており、ラーグヴァンとは「ラグ家の者」という意味である。物語のクライマックスで、ラーグヴァンがラームに「お前のラーマーヤナは終わりだ」と言うと、ラームはラーグヴァンに「自分のラーマーヤナのことを忘れてないか?ラーマーヤナはいつも、ラームの死で終わるんだ」と答える。この映画は、善のラームと悪のラーム(ラーグヴァン)の戦いと取ることも可能である。

 芸術映画しか興味のない人にとっては「Main Hoon Na」は非現実的で馬鹿馬鹿しい全くの駄作だろうが、娯楽映画を楽しむ度量を持っている人なら、この映画はかなりオススメである。2004年度の最重要ヒンディー語映画のひとつになることは確実。「Main Hoon Na(僕がいるよ)」というセリフも今年の流行語になりそうだ。

5月4日(火) EVMプロトタイプを探して・・・

 5月3日付けのザ・ヒンドゥー紙に、サダル・バーザールで選挙関連商品が売られているという記事が載っていた。今年の一番人気は国民会議派ソニア・ガーンディー党首の娘、プリヤンカー・ヴァドラーのグッズらしい。プリヤンカーは今回選挙に出馬せず、代わりに弟のラーフル・ガーンディーがウッタル・プラデーシュ州アメーティー選挙区から立候補した。しかし可哀想なことに、ラーフルのグッズは姉と一緒に映っていないと売上が伸びないという。プリヤンカーの人気、恐るべしである。もしプリヤンカーが本格的に政治に参加したら、プリヤンカー人気だけで国民会議派が与党になってしまうかもしれない。ちなみに売上No.2は順当にインド人民党(BJP)のアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー首相のグッズだそうだ。




プリヤンカー・ヴァドラー


 その記事で気になったのが、サダル・バーザールで電子投票器(EVM)のプロトタイプを売っている、という一文だった。政治家たちが有権者たちに、EVMの使い方を教えるために買っていくらしい。これがどうしても欲しくて、今日はサダル・バーザールまで足を伸ばした。

 サダル・バーザールはアジア最大の市場と言われている。敷地面積だけを見たらもしかして最大かもしれない。しかし大きさよりも、その混雑ぶりはおそらく世界でも有数の市場であることは確かだ。ウィンドウ・ショッピングなんて優雅な行為は全くできないほど人通りが激しく、大量の荷物を押し車や頭に乗せて運ぶ人が行きかうため、立ち止まることもままならない。それでも立ち止まる人がいるから、ますます混雑する。

 サダル・バーザールと一口に言っても本当に広いのだが、中心部にバラートゥティー・チャウクという大きな交差点があり、そこを中心にマーケットを散策すると何とか全体像を掴める。件の選挙関連商品を売る店がたくさん立ち並んでいる部分は、そのバラートゥティー・チャウクから東のチャーンドニー・チャウク方面へ向かう、マハーラージャー・アッガルサイン・マールグだった。ただ、もともと生活用品などを売る店が固まっている地域であり、全部の店が選挙グッズを売っているわけではなかった。新聞で読んだほどプリヤンカー関連のグッズが売られているようには感じなかったが、あちこちにインドの国旗色である緑とオレンジが溢れ、国民会議派のガーンディー党首、BJPのヴァージペーイー首相などのポスターや、各政党のシンボルマークが入ったバッジ、傘、シール、旗などなどが売られていた。ただ、このマーケットは卸売り専用なので、ばら売りで売ってくれるところはほとんどなかった。




選挙グッズを売る店


 とりあえず、そこら辺をうろちょろしている客引きに「EVMはどこに売ってる?」と聞くと、「そんなもん買って何に使うんだ?」と怪しまれて避けられてしまった。選挙グッズを売っている店の人にも聞いてみたが、不審な目で見られて「あっち」とか適当にしか返答してもらえなかった。確かにEVMを買い求めている外国人というのは傍目から見たら甚だ怪しい。店先に並んでもいなかった。もしかしたら違法で売っているのかもしれない。いや、しかし違法だったら新聞で紹介されたりはしないだろう。どうも要領よくEVMを拝むことができなかったので、作戦を変えて、今度は選挙関連商品を売っている店に何気なく立ち寄って、自己紹介や世間話をしながら親密になり、何気なくEVMのことについて聞いてみた。すると、「売っている」とのことだったので、内心「やった!」と思いつつも冷静に、「ちょっと見せてくれない?」と言ってみた。すると出てきたのは・・・




これがEVMプロトタイプ・・・!


 写真だと分かりにくいが、なんとこれは厚紙でできている。上部にはちゃんと「Electoric Voting Machine」と書かれており、その下に1番から16番のリストがある。本物は、ここに政党名、政党のシンボルマーク、または候補者名が書かれ、有権者は自分の支持する政党または候補者の右側にあるボタンを押して投票する。しかしこれはダミーのため、一番上にしかボタンが設置されていない。ただ、そのボタンを押すと「ピー」という電子音が鳴り、赤いランプがピカピカ光る。上述したが、これを使って政治家たちは有権者にEVMの使い方を教えるのだ。だが、どうも彼らは普通に「EVMの投票の仕方」を教えるのではなく、例えば「蓮のあるマークの隣のボタンを押してくださ〜い。それ以外のボタンを押すと機械が故障してしまいますよ〜」みたいに教えるらしい(蓮のマークはBJPのシンボル)。そういう逸話を聞く限り、EVMを使って以前よりも公正な選挙ができるようになったとは思えない。

 しかしそんなことはこの際どうでもいい。僕は「EVMプロトタイプ」と聞いて、てっきりEVMの試作品が市場に出回っているのだと思ってわざわざやって来たのだった。だが出てきたのは、厚紙で作った安っぽい偽EVM・・・。これには唖然としてしまった。卒倒しそうになりながら「もっといいのはないのか?」と聞いてみると、今度は木製のが出てきた。これもボタンを押すとピーと鳴ってランプが光るって・・・お前ら、夏休みの自由工作やってんじゃないぞ!と一喝したくなったが、インド爆笑グッズとしてその木製EVMを購入することに決定した。100ルピーだった(高い・・・)。







購入した木製ダミーEVM
上部に赤いボタンと赤いランプ
開くと中はこんな感じ
まさに夏休みの自由工作


 だが、インドのことだ、本物のEVMが市場に流れていてもおかしくない。僕はこのダミーEVMを買っただけで満足して(打ちひしがれて)帰ってしまったが、もしかしたらもっと巧みに探せば、闇から本物が出てくるかもしれない。「EVMはないか?」と聞いたときの店の人々の反応を見る限り、その可能性を排除することはできないと感じた。

5月8日(土) インド神話と現代インド

 インド神話を読んでいると、いくつかの法則というか、決まりが暗黙の了解としてあることに気付く。その内のいくつかは、現代のインドに通じるものがあったりして、けっこう面白い(注:インド神話の固有名詞はサンスクリト語読みで一般的に表記されるが、僕は基本的にヒンディー語読みにしている)。

 例えば、「口に出したことは必ず実行される、または実行されなければならない」という決まりがある。日本にも「言霊」という考え方があり、言葉には一種の霊性が宿ると考えられていた。インドでも口から発する言葉には特別な力があると考えられていたようで、インド神話の中では、誰かが発してしまった言葉によって事件が巻き起こることが多い。自分で自分に関する言葉を発してしまうこともあれば、他人に関することを発することもある。他人に対して発した言葉は、一種の呪いとなる。例えば「マハーバーラタ」集会編において、パーンダヴ5王子の次男ビームは、自分の妻ドラウパディーに対し破廉恥な行動をとった宿敵ドゥリヨーダンに対し、「ドゥリヨーダンの太ももを棍棒で粉砕しないならば、私の魂は報われないであろう」と宣言した。その宣言は、マハーバーラタ戦争の末期、シャリヤ編におけるビームとドゥリヨーダンの一騎打ちで実現する。また、同じく「マハーバーラタ」初編では、聖仙キンダムがパーンドゥ王に対して発した呪いの話がある。キンダムが鹿に変身して妻と交わっていたところ、狩りに来たパーンドゥ王が彼を射殺してしまった。その際、キンダムはパーンドゥ王に対し、「汝は妻の身体に触れたらたちどころに死ぬであろう」と呪いをかけた。その後、パーンドゥ王はその呪いに悩まされ、妻の身体に触れることができなかったのだが、遂に妻の1人マードリーの魅力に耐えかねて触ってしまい、呪い通り即死してしまった。もうひとつ「マハーバーラタ」から例を挙げると、パーンダヴの5王子の共通の妻ドラウパディーの話など最適である。不思議なことに、「マハーバーラタ」の中の主人公である5兄弟は、1人の共通の女性と結婚した。つまり一妻多夫制である。その理由として、こういう話が伝わっている。5王子が追放されて母親クンティーと共に隠遁生活を送っていたとき、三男のアルジュンはドルパド王の娘ドラウパディーを自選式(花嫁が自ら夫を選ぶインド古代の儀式)で勝ち取り、家に連れて帰って来た。アルジュンが「母上、いいものをお見せします」と言うと、母親はアルジュンが何かを拾ってきたのだと勘違いし、「兄弟で仲良く分けなさい」と言ってしまった。母親の言葉は絶対かつ真実であるため、5兄弟は1人の女性と結婚することになったという。これらの話から、おそらくインド人は「軽々しく物事を口に出してはいけない」という教訓を得るのだろう。ということは裏を返せば、当時から軽々しくあることないこと口に出す連中がインドにはたくさんいた、ということになるのではなかろうか・・・。

 現代のインドでも、この言霊信仰はまだ生きていると思う。例えば、昔ケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンでヒンディー語を習っていたとき、ヒンディー語の例文を作るように言われたことがあった。どういう脈絡だったか忘れたが、僕は「私の息子は死んでしまった」という文章を作った。そうしたら先生に、「それはよくない文章だ」と言われた。文法的に間違っているのではなく、内容がいけないらしい。どうもインドでは、年下の人の生命や健康に関して悪いことを言うのはいけないことと考えられているようだ。例え例文でも、実際に息子がいなくても、言葉にしてはいけないらしい。その割には、年上の人にならそういうことを言うのはまだ許されるらしい。確かにインド人は、事あるごとに子供などの年下の人に「長生きするように」と言っている。日本の場合を考えてみると、多分正反対だと思う。他人に対して「死ね」などと言うのは絶対によくないことだが、どちらかというと年上の人に対してそういうことを言う方がタブー視されているように思える。そうでなくても、年上の人に対して「長生きしてください」という言うことはあるが、年下の人にそんなことあまり言わないのは確実だ。よって、この点に関して日本とインドは逆だといっていいだろう。多分インドでは、年上の人が年下の人に対して発した言葉は効力を持つと考えられていると思われる。先程の文を、「私の父親は死んでしまった」に直したら、「それならまだいい」と言われた。

 一度発してしまった言葉に振り回される話はインド神話の中に数多くあるが、最も多いのが、神様が人間や悪魔などに発してしまった言葉による騒動である。神様が発した言葉は恩恵と言ってもいいが、一番困るのが悪魔に対して与えてしまった恩恵である。インド神話のルールとして、まず「苦行をした者は誰でも神様から恩恵を与えられる」というものがあり、悪魔でも何万年も苦行することにより、神様から恩恵を授かることができる。一方、第2のルールとして、「不死身の恩恵は不可能」というものがある。いくら苦行しても、不死身の身体という恩恵を得ることはできない。多分この理由は、インド神話では神様自身も元々不死身ではなく、アムリタという霊水を飲むことによって不老不死の状態を維持しているだけだからだと思われる。不死身でない者が、他人を不死身にすることはできないというわけだ。苦行に苦行を重ねて恩恵を受けれることになった悪魔は皆、神様から不死身の身体を得ようとするが、それはできないことになっているため、代わりに別の言い方で不死身に近い力を獲得する。例えば、「ラーマーヤナ」に出てくる羅刹王ラーヴァンは、ブラフマー神から「神様にも悪魔にも殺されない」という恩恵を授かった。それに対し、インド神話に登場する神様や英雄たちは、悪魔が授かった恩恵の抜け穴を探し出して何とか退治するのだ。ラーヴァンは、人間の王ラームと、彼の率いる動物の軍勢によって退治された。また、シュンブとニシュンブという兄弟の悪魔がいたが、2人は苦行によってシヴァ神から「いかなる神の攻撃も受けない」という恩恵を得た。だが、彼らは「女神」を恩恵の条件に入れ忘れていた。結局、シュンブとニシュンブは、ドゥルガー女神によって殺されてしまった。

 神様から悪魔が授かった恩恵の抜け道を探すという行為は、まさに現代のインド人が法律の抜け道を探そうと躍起になっている姿を想起させる(まあインド人だけではないが)。その一方で悪魔側も必死である。ヒラニヤカシプという悪魔に至っては、シヴァ神から「人間にも獣にも神様にも悪魔にも殺されず、昼にも夜にも殺されず、家の中でも外でも殺されず、いかなる武器でも殺されることがない」という恩恵を得た。おそらくヒラニヤカシプは、上記の悪魔たちの失敗を見て、より完全に不死身に等しい身体を得る工夫をしたのだろう。こちらは、法律の網をかいぐぐる国民たちを漏れなく網にかけようと努力する政府の姿を想起させる。しかし、ほぼ完璧に近い恩恵を得たヒラニヤカシプも結局殺されてしまう。しかし誰がいったいどうやって?無敵のヒラニヤカシプを殺したのは、ヌリスィンハという人獅子(ライオンの顔をした人)であった。つまり、人でも獣でもないという訳だ。そしてヌリスィンハは、日没時の、昼でも夜でもないときに、家の玄関、つまり家の中でも外でもない場所で、自身の爪と牙で、つまり武器ではない武器で、ヒラニヤカシプを退治したのだった。神様と悪魔の騙しあいというか、知恵比べというか、いたちごっこというか、そういうのを読むと、なぜか現代のインドの様子が浮かんでくるから不思議だ。

 以上、言霊に関して述べてきたが、マハーバーラタ戦争の展開を見ても面白い。マハーバーラタ戦争は、クル族のカウラヴ兄弟とパーンダヴ兄弟という肉親同士で起こった戦争であり、「マハーバーラタ」では、パーンダヴの5王子の方に同情的に書かれている。インドで最も人気のある神様であるクリシュナが味方するのもパーンダヴ側であるし、最後に勝つのもパーンダヴ側である。しかし、よく読んでみると、正々堂々と戦争を行っているのはどちらかというとカウラヴ側であり、パーンダヴ側は次々とルール違反やずるい手段を使って戦争を有利に進めていく。例えばパーンダヴ5兄弟の長男ユディシュティルは、カウラヴ軍の最高司令官ドローンが死んだという嘘をついて、敵の武将や兵士たちの戦意を消失させた。この他にもパーンダヴ側は数々の汚ない手を使って勝利をもぎ取った。伝説の王バラトを祖とするクル族はインド人の祖先とも言われている。もしカウラヴ側がマハーバーラタ戦争に勝利していたら、インド人は正直な国民になっていたかもしれない(?)。

 ところで、現在インドの首相を務めるアタル・ビハーリー・ヴァージペーイーは、カリスマ政治家としてインド人民党(BJP)の顔となっているが、彼の人気が僕にはどうしても「マハーバーラタ」に登場する長老ビーシュムと重なる。ヴァージペーイー首相の人気の要因のひとつに、「独身」という要素があると言う。インド人はどうも、独身の男性というのは聖人に等しいと考えている節がある。ここで言う独身というのはつまり、童貞というか、女性を知らない男性ということだろう。実はヴァージペーイー首相にも愛人がいるようだが、公式には独身ということになっている。インド神話の中で、童貞を通した有名な人物がビーシュムである。ビーシュムは、カウラヴとパンダヴの祖先シャーンタヌ王の息子で、皇太子だった。ところがある日、シャーンタヌ王はある漁師の娘サティヤヴァティーに一目惚れしてしまい、結婚を申し込んだ。漁師はその条件として、サティヤヴァティーから生まれた子供を王位継承者にすることを主張した。シャーンタヌ王はビーシュムを愛しており、彼を後継者にすると決めていた。しかしサティヤヴァティーのことも諦めることができなかった。父王の苦悩を知ったビーシュムは、自ら王位継承権を放棄し、自らの子孫が増えないように一生独身で過ごす誓いを立てた。こうしてシャーンタヌ王はサティヤヴァティーと結婚することができ、ビーシュムは一族の長老として尊敬を受けて長生きし、マハーバーラタ戦争にも参加した。また、「ラーマーヤナ」に登場するハヌマーンもブラフマチャリヤ(独身)だと言われている。だから、女性はハヌマーンの像などに触れてはいけないとされているし、ハヌマーンの日である火曜日は、男性だけが断食をしたりハヌマーン寺院を参拝したりする。インドにはクシュティーという一種の相撲があるが、その力士も独身というか童貞でなければいけないそうだ。結婚後は土俵に上がれなくなるという。このように、インドにはどうも、独身と童貞に重きを置く文化がある。ヴァージペーイー首相の人気を見ても、それは現代まで生きていると言っていいだろう。首相に加え、アブドゥル・カラーム大統領も独身である。つまり、現在のインドは独身男2人に支配されていることになる。とは言え、ヴァージペーイー総理の秘密の愛人の話を聞く限り、ビーシュムにももしかしたら愛人がいたかも、と思ってしまう。

5月11日(火) Charas

 昨日、下院選挙の最終投票が終わり、あとは13日の一斉開票を待つだけとなった。唯一ビハール州チャプラー選挙区で揉めており、5月31日に再選挙が行われるようだ。インドの出口調査の結果はあまり信用していないのだが、インド人民党(BJP)率いる連立与党の国民民主連盟(NDA)が苦戦し、最大野党の国民会議派が再び勢力を拡大している模様である。ただ、どちらも過半数に届かない可能性が高く、こうなると両党は中立政党との連携に腐心することは火を見るより明らかで、開票後もしばらくインドの政界と経済界はごたごたすると思われる。僕としては順当にNDAが政権を維持してもらいたかったのだが、インド国民はNDAが政権を握った5年間のインドの急速な発展をあまり高く評価していなかったようだ。確かにインドの全人口の8割以上は、発展とはあまり関係ない農村部や僻地に住んでいるのだ。その上、ヴァージペーイー首相の健康問題も争点となっている。多分NDAが再び政権につき、ヴァージペーイー首相が再び首相となっても、任期の途中でポックリいくか、健康悪化のため引退せざるをえないだろう。そうなると後継者争いが起こるのは必至である。とは言え、国民会議派がもし与党となったら、どうもソニア・ガーンディーがそのまま首相となる可能性が高いようで、そうなるとイタリア出身の女性がインドの首相となるという、なんだかへんてこな事態になってしまう。いったいどうなることやら・・・。

 今日は新作ヒンディー語映画「Charas」を見に、PVRナーラーヤナーへ行った。監督は「Haasil」のティグマンシュ・ドゥリヤー、音楽はラージュー・スィン。キャストはジミー・シェールギル、ウダイ・チョープラー、ナムラター・シロードカル、リシター・バット、イルファーン・カーンなど。ちなみに「Charas」とは「大麻」のこと。




左からウダイ・チョープラー、リシター・バット、
ナムラター・シロードカル、ジミー・シェールギル


Charas
 インドにアーユルヴェーダを学びに来た、植物学専攻のイギリス人留学生サムは、インドの山奥を歩いている内に行方不明になってしまう。サムを探すため、ロンドン市警でインド系移民3世のデーヴ・アーナンド(ジミー・シェールギル)がインドに派遣される。

 デリーのパハール・ガンジに着いたデーヴは、ガイドのアシュラフ(ウダイ・チョープラー)を雇い、彼と共にバイクに乗ってヒマーラヤの方角へ北上する。その途中、ナイナー(リシター・バット)という女性をヒッチハイクするが、彼女はいつの間にかどこかへ消えてしまった。山奥の村に着くと、そこには西欧から来たヒッピーたちがたくさん滞在していた。2人はピヤー(ナムラター・シロードカル)というチンピラみたいな女とも出会う。

 デーヴはサムを探し回る内に、この密林のどこかに大麻栽培の一大基地があることを突き止める。そこでとれる大麻は世界一の品質と裏世界では評判で、「ポリスマン」(イルファーン・カーン)と呼ばれる謎の男によって運営されていた。デーヴはそこにサムがいることを直感したが、政府からパーキスターンのスパイの容疑をかけられる。実はアシュラフは覆面警官で、デーヴを見張るために彼のガイドをしていたのだった。アシュラフはデーヴを捕らえるが、アシュラフも大麻基地のことを知り、そこのボスがかつて上司だったラトゥール警部だと直感する。デーヴとアシュラフは、大麻基地を探すためにジャングルに入る。

 一方、ピヤーは実は週刊誌アウトルックの記者で、大麻栽培に関する取材をするために来ていたのだった。ピヤーはデーヴが集めた情報を全て盗み、それを記事にしてしまった。この大麻栽培と大麻密貿易は、インド、イギリス、イタリア、アフガニスタンなどの政治家、警察、マフィアなどが関わっており、それが暴露されたために各国で大慌てとなる。ピヤーは追われる身となるが、より決定的な証拠を掴むために彼女も密林の中に入る。また、世界最高品質の大麻を求め、アフガニスタン人のマフィアも潜入して来る。

 デーヴとアシュラフは、途中でナイナーにばったり出くわす。ナイナーがポリスマンの手下であることを既に知っていた2人は、彼女をガイドにして基地へ向かう。しかしそこに一足先にアフガニスタン人のマフィアが襲撃をかけていた。デーヴとアシュラフは協力してアフガニスタン人を一掃するが、ポリスマンも自決してしまう。デーヴは、そこで無理矢理大麻の栽培を研究させられていたサムを発見する。また、そこへ辿り着いたピヤーは、大麻組織の全てを暴き、国際的麻薬密貿易網を一網打尽にするのだった。

 ヒマーラヤの奥地の大麻栽培基地の秘密を暴くというテーマは目新しかったが、主演男優2人、女優2人の演技力とカリスマ性の無さからか、監督の技量不足からか、全体的に退屈な映画だった。

 舞台である「インドの山奥のどこか」は、具体的には示されていなかったが、おそらくモデルとなっているのはヒマーチャル・プラデーシュ州マナーリーだろう。マナーリーはインド人の間では避暑地として有名だが、外国人バックパッカーやヒッピーたちの間では、ドラッグ天国としても非常に有名である。実はマナーリーはインドで最も外国人旅行者が何らかの事件に巻き込まれる数の多い場所で、この映画のストーリーもまんざらフィクションではない。事実、この映画の冒頭では「この映画は事実に基づいたフィクションです」と注記されている。ロケ地はクル〜マナーリー辺りと、ラダックのレーかスピティー地方辺りだと思われる。デリーの大統領官邸付近や、パハール・ガンジ、ラージパト・ナガルもチラッと登場する。

 山奥で大麻の栽培を行う「ポリスマン」は、名前の通り昔は優秀な警察官だった。しかし部下を2人も失いながら必死の思いで捕まえたイタリア人武器商人が、「上からの命令で」あっけなく釈放されたのを見て激怒し、警察を辞める。その後、彼は山奥で大麻栽培を始め、政治家や警察とも癒着した国際的麻薬密輸組織のボスとなる。そのポリスマンのかつての部下の1人だったのがアシュラフで、デーヴの監視を続ける内にポリスマンの正体を知る。また、デーヴもサムの捜索を続ける内にポリスマンに行き着く。

 デーヴを演じたジミー・シェールギルと、アシュラフを演じたウダイ・チョープラーは、「Mohabattein」(2000年)や「Mere Yaar Ki Shaadi Hai」(2002年)で共演した仲だが、どちらもまだスターとしてのオーラが出ておらず、黄金コンビとは言い難い。真鍮コンビ止まりか。ウダイは顔が変だが踊りがなかなかうまいのでまだ救いようがあるが、この映画でのジミーは魅力に欠けた。ゲッソリと痩せてしまって見えるのは気のせいだろうか。ジミーが演じたデーヴ・アーナンドは、往年の名優デーヴ・アーナンド(1923〜)から名付けられたという設定だったが、それが何らかの伏線になったりしておらず、全く意味のない設定だった。

 配役上では悪役ということになるが、ポリスマンを演じたイルファーン・カーンは真の主役であり、この映画の唯一の救いと言っていいだろう。今年初めに公開された「Maqbool」で好演していたイルファーンは、この映画でも渋くて味のある演技を見せた。現在のボリウッドでもっとも演技力のある男優に間違いない。怒りと絶望をミックスさせた表情がうまいと思う。

 一方、デーヴとアシュラフがバイクで走行中にヒッチハイクしたナイナーは、実はポリスマンの手下だった。また、アイスクリームをきっかけにデーヴと出会うピヤーは、実は麻薬密貿易の取材をするジャーナリストだった。映画中、デーヴとピヤー、アシュラフとナイナーの恋愛が少しだけ描かれる。

 ナイナーを演じたリシター・バットは、どちらかというとTVドラマ向けの顔に思えてならない。映画に出てきても、観客の視線をグッと引きつける吸収力があまりない。ピヤーを演じたナムラター・シロードカルもなかなかブレイクしない可哀想なニ流女優の1人だ。この2人のヒロインは、はっきり言って邪魔か障害物と思えてしまうほど映画を貶める存在となってしまっていた。もちろん脚本や監督の責任もあるわけだが、やはり2人共女優としての素質に欠けている。ヒーロー2人とヒロイン2人の恋愛描写がオマケ程度で中途半端だったし、最後のまとめ方も最悪だった。

 デーヴとアシュラフがヤマハのアメリカン、Enticerに乗ってインド山岳部の荒野を走る姿はなかなか壮観で、「Easy Rider」(1969年)を思わせた。インド映画でヒーローがバイクに乗って疾走するシーンがあるのは、他に「Dil Chahta Hai」(2001年)や「Sssshhhh...」(2003年)ぐらいしか思いつかない。「Kaho Naa... Pyaar Hai」(2000年)ではリティク・ローシャンがバイクに乗っていたように記憶しているし、ファルディーン・カーン主演の「Janasheen」(2003年)ではバイクのレーサーが主人公だった。だが、大抵の場合、インド映画の主人公は四輪車を乗りこなすことが多い。つまり、これほどバイク社会なのにも関わらず、男優がバイクに乗る姿はあまり描かれないのだ。多分、「バイク=庶民の乗り物」というイメージが定着しているためだと思うが、次第に映画界で「バイク=かっこいい」という価値の転換が起こりつつあるのも確かである。普通、インドでアメリカンと言ったら、エンフィールドを置いて他にないのだが、この映画ではヤマハのEnticerが使用されていた。しかし125ccのバイクなので、これでラダックをツーリングしたりするのは大変だと思うのだが・・・。




ヤマハのEnticerに乗る2人


 映画の内容は下らなかったが、インドにドラッグ目当てでやって来る外国人旅行者の実態が描いたインド映画は今まであまりなく、新鮮だったのはよかった。ヒッピー風の格好をした白人がたくさんエキストラ出演していたが、あまり好意的な描写の仕方ではなかった。映画中、あるイタリア人ヒッピーにおいては、インド人から「イタリア人は英語がしゃべれねぇ」と馬鹿にまでされていた。日本人旅行者が馬鹿にされなくてよかった・・・というか日本人は全く出てこなかった。ブラブラとインドに長期滞在する外国人旅行者に対する、インド人の正直な視線が反映されていたように思えた。

 視点を変えれば興味深い映画になりうるかもしれないが、普通に見たら多分つまらない映画のひとつにカウントされるであろう。イルファーン・カーンの演技だけは自信を持って推すことができる。

5月12日(水) 蛇

 5月初旬のデリーは異常に涼しくて神様に感謝していたのだが、たちまちの内に元の酷暑に戻り、最近は非常に暑い日が続いている。昨日は1、2時間ほどバイクで外を走ったのだが、うかつにも半袖で出掛けてしまったため、両腕がまるで海水浴にでも行ったかのように真っ黒に焼けてしまった。酷暑期のインドの日光をなめてはいけない。これは殺人光線である。

 今日は朝から用事があってグルガーオンへ向かっていた。昨日の反省を活かし、今日は長袖で外出していた。しかし幸いにも今日は曇っていたため、昨日ほどクソ暑くはなかった。アフリカ・アヴェニューからヴァサント・クンジ方面へ抜けるアルナー・アサフ・アリー・マールグを通って南下していた。この辺りはサンジャイ・ヴァンと呼ばれ、広大な森林が手付かずで残っている。この道はまだ道路の拡張工事が行われておらず、細くて街灯もない道路なのだが、アウター・リング・ロードからヴァサント・クンジやグルガーオンへ抜ける近道となっているので、よく利用している。

 そのアルナー・アサフ・アリー・マールグを通行中、前方で人垣が出来ているのが見えた。交通事故でも起こったのだろうと思い、ゆっくりと走行しながら人々の視線の先をチラリと見てみると、そこには不思議な光景があった。2匹の蛇がクネクネとくんずほぐれつもつれ合っていたのだ。そして、インド人たちはわざわざ車やバイクを停めて、それを見ていたのだった。




蛇の交尾


 僕ももちろんバイクを停めて2匹の蛇の不思議な行動をしばらく見ていた。後で調べてみた結果、それは交尾だということが分かった。どうやら蛇の交尾はかなり長時間に渡って行われるようだ。インド人の中には「ケンカしてるんだろう」と言っている人もいたので、インド人もあまり知らないのだろう。というより、デリー生まれデリー育ちのインド人は、動物の生態についてあまり詳しくないと思われる。田舎に住んでいたらこんなことは日常茶飯事だろう。

 蛇というと、インドでは神様に等しい扱いを受けている神聖な動物のひとつである。危険な動物であることから、人間に危害を加えないようお願いする目的で祀られるようになったのが発端だと思われる。蛇神崇拝は全インドで見受けられ、インド神話中でもヴィシュヌ神のベッドになったり、乳海攪拌のための綱になったり、シヴァ神の首飾りになったりと、けっこう活躍している。また、子宝に恵まれないのは、前世または現世で蛇に対して何か悪い行いをしたからだと考えられており、子供が生まれるように蛇に祈ることがあると聞く。2匹の蛇がもつれ合った様子が描かれた石碑が寺院などに立っているのを見かけることがあるが、あれは子宝成就のためのものらしい。蛇の交尾を見ていたら、蛇が子宝と結び付けられた理由が何となく理解できた。インド北東部にナガランドという州があり、ナガ族という民族がいるが、この「ナガ」という言葉は、蛇を意味するサンスクリト語の「ナーガ」に由来するとナガ族の友人が言っていた。

 僕がその蛇の交尾を見ている間は、野次馬がただじっと2匹の蛇を見守っていただけで、1人のインド人がカメラ付き携帯電話で撮影していたくらいだったが、インドではこういう現象が起こると必ず手を合わせて拝んだり、お賽銭を投げたりする人が出てくるものだ。

 蛇というと、今年2月のマハーシヴァラートリーの出来事が思い起こされる。僕の直接の体験ではなく、伝聞だが、非常に印象深い出来事だった。マハーシヴァラートリーと言えば文字通りシヴァ神を祀る祭りである。その日、JNUのヤムナー・ホステル(女子寮)に突然蛇が現れたという。蛇と言えば前述の通りシヴァ神と関係深い動物である。もし日本で女子寮に蛇が現れたとしたら、それはそれで大事件になると思うが、多分その蛇はあえなく退治されてしまうだろう。しかしインドでは全く違った。マハーシヴァラートリーの日、シヴァ神の祭りの日に、女子寮にシヴァ神の化身とも言うべき蛇が現れたのだ。こんなめでたいことはない。インドの未婚の女性は、いい夫に巡り合えるように、幸せな結婚ができるように、シヴァ神に祈るのが普通である。シヴァとその妻パールヴァティーの結婚の神話を読めば、その理由が分かる。だから、マハーシヴァラートリーの日に女子寮に蛇が現れたのは、インド人女性にとっては神様の降臨に等しい大事件であり、自分の幸せな結婚が約束されたも同然の大吉兆である。聞くところによると、寮中のインド人の女の子たちが急いでミルクを持って駆けつけ、我も我もと蛇にお供えしたらしい。それに驚いて蛇は一目散に逃げてしまったようだが、それでもインド人女性にとってこれほどめでたいことはないのだ。ヤムナー・ホステルはJNUで最も高級な寮であり、住んでいるインド人は裕福な家庭の娘ばかりで、日常会話は常に英語というタカビーぶりなのだが、そんなミーハーな彼女たちでさえ簡単に迷信を信じてしまうのだからインドは面白い。

 インドはなぜか奇跡が起こりやすい土地のような気がする。いや、それとも奇跡を奇跡と受け止める土壌ができているのか。例えば、1995年9月21日にデリーで起こった「ガネーシャ像がミルクを飲んだ」事件は有名である。デリー郊外の寺院で参拝者がガネーシャの像にミルクを捧げたところ、そのミルクをガネーシャが飲むという奇跡が起こった。その噂はたちまちインド中に広まり、奇跡を目の当たりにするためその寺院に多くの人々が詰め掛けた他、各家庭の神棚に飾られている神様の像までミルクを飲んだという報告がインド全国から寄せられたという。この噂はインド国内に留まらず、世界中のインド系移民たちにも広まり、例えばイギリスでは多くのインド系移民たちが寺院や家庭の神像にミルクを捧げたため、店のミルクが品切れになったと言われている。普段は近代的生活を送っている先進諸国在住のインド系移民たちでさえ、いざとなったら迷信に走るのだ。しかも、インドの科学者たちの多くは、この事件に関してコメントを出すのを控えたという。理由は「宗教的事柄なので」とのことらしい。科学的根拠の追及よりも神への冒涜を恐れているのだろう。インド人というのは本当に不思議な民族である。

5月13日(木) 下院総選挙開票、与野党逆転

 4月20日から始まったインド下院総選挙。当初は4期に分けて行われる予定だったが、トリプラー州の祭日と投票日が重なったため、トリプラー州の投票日だけ変更され、結果的に5期に分けて投票が行われた。ただ、トリプラー州の投票日を数えずに4期とされることが多い。分割されて投票される理由は、国土が広いこともあるが、治安部隊の数を間に合わせるのが一番の理由らしい。有権者の数は世界最大の6億7500万人。投票率は55%ほどだったようだ。その下院総選挙の開票日が今日だった。下院の総議席は545議席あるが、その内2議席は大統領が指名するため、選挙で選ばれるのは残りの543議席。その内、4議席が再投票されるため、本日開票されたのは539議席だった。今回の選挙では全国で文明の利器である電子投票器(EVM)が使用されたため、集計は迅速に行われた。午前8時から開票が始まり、正午前後には大局が明らかになった。

 僕の事前の予想では、与党インド人民党(BJP)が苦戦しながらも、またBJP率いる連立与党の国民民主同盟(NDA)が過半数割れしながらも、第1党の地位を手堅くキープすると考えていた。10日に発表された各メディアの出口調査の結果を見ても、どこもBJPとNDAの苦戦は予想していたが、第1党から転落することは誰も予想していなかった。しかしそれが起こってしまった。NDAは前回298議席を確保していたものの、今回の獲得議席は186議席に留まった一方で、国民会議派が主導する「政教分離同盟」は前回の135議席に対し、今回は216議席と大幅に議席を伸ばした。どちらの連合も過半数(273議席)を達成していないが、国民会議派は左翼政党(62議席)と連携して、合計278議席を獲得する見込みだ。(各政党の獲得議席数は、なぜか新聞ごとに数字が違う。僕はザ・ヒンドゥー紙をもとにした。)

 既にアタル・ビハーリー・ヴァージペーイーはアブドゥル・カラーム大統領に辞表を提出しており(政権の完全交代までは首相を務めるようだが)、現在争点は誰が首相になるかという点に移行している。もし国民会議派がこのまま与党となるなら、首相は同党内の指導者から出るのが順当なところだろう。だが、国民会議派のソニア・ガーンディー党首は、元々イタリア人でインドに帰化した女性なので、首相に就任することを問題視する意見は党内にも少なくない。もしソニア党首が首相になったら、ペルーのフジモリ元大統領みたいな感じになるだろう。ソニア・ガーンディーは、はっきり言って普通の人だったのだが、インディラー・ガーンディー元首相の息子ラージーヴ・ガーンディー元首相と結婚したがために数奇な人生を送ることになってしまった。実は彼女は僕が通っていたケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンでヒンディー語を学んでおり、僕の先輩にあたる存在である。彼女のヒンディー語はなかなかうまいのだが、欧米人がしゃべるヒンディー語の特徴として短母音と長母音の区別に無頓着なので、やはりインド人の耳には「ちょっと変なヒンディー語」に聞こえるらしい。例えば「政治」という意味の「ラージニーティ」という単語を、正確に発音できない。「ラジニティ」になってしまう。どうもソニア党首が首相に就任する可能性が濃厚のようだが、インド国民そして世界の人々はいったいこのイタリア出身のインド首相をどう思うだろうか?・・・かと言ってソニアの息子のラーフル・ガーンディー(当選)はまだひよっ子だ。娘のプリヤンカー・ヴァドラーはカリスマ的人気を誇るが、今回は選挙に出馬しなかった。

 下院総選挙と同時に選挙が行われ、制度上の問題から11日に一足早く開票が行われたアーンドラ・プラデーシュ州の州議会選挙で、BJPの苦戦の前兆が既に見えていた。同州ではBJPの同盟政党であるテルグ・デサム党(TDP)のチャンドラバーブー・ナーイドゥ党首が2期(8年8ヶ月)に渡って州首相を務め、「黄金のアーンドラ・プラデーシュ州計画」を打ち出して世界的に有名になりつつあった。ところが開けてビックリ玉手箱、選挙前、TDPは294議席中180議席を獲得していたが、今回の選挙ではわずか47議席しか確保できなかった。BJPに至っては、27人の候補を立てたにも関わらず、当選したのはたった2人だった。一方、国民会議派は同州にて単独で185議席を獲得し、また同盟政党と合わせて全議席の4分の3にあたる226議席を獲得し、絶対優位に立った。ナーイドゥ党首は州首相を辞任し、国民会議派のラージャシェーカラ・レッディーが州首相に就任した。アーンドラ・プラデーシュ州でのTDPとBJPの敗因は、そのハイテク重視と農民無視の政策にあったと見られている。ナーイドゥは州都ハイダラーバードをバンガロールやチェンナイに負けないIT都市にする計画を実施していたが、それは結局同州の人口の大半を占める農民を無視する結果となった。それだけでなく、彼の政策は都市部でも受け容れられず、州都の13議席の内、TDPは2議席、BJPは1議席しか確保できなかった。ナーイドゥはマスコミにちやほやされ過ぎて、夢ばかりを膨らませ、地に足の付いた政治をすることができなくなってしまっていたのだろう。逆に、国民会議派は農民に対し、無料の電力供給を公約として掲げ、選挙を有利に進めた。農民をないがしろにした政治家と政党が、インドでどういう目に遭うか、アーンドラ・プラデーシュ州はその好例となった。インドはまだまだ農業大国である。IT大国ではない。

 アーンドラ・プラデーシュ州でのTDPとBJPの失敗は、そのまま全インドの政局にも当てはめられるだろう。BJPは過去5年間の急速な経済発展や、印パ関係改善などを強みとして選挙に臨んだが、やはり彼らも農民のことをあまり考慮に入れていなかったと思われる。いくら経済が発展しても、それを享受するのは都市部の中産階級以上の人々だけで、インドの大半を占める貧困層はインフレによってますます生活が苦しくなるだけだ。印パ関係が改善しようが、クリケットでインド代表がパーキスターン代表を打ち負かそうが、目の前の生活が困窮していては、BJPの掲げる「フィールグッド」を感じることは不可能だ。この選挙結果から察するに、IT大国として有名になったのはいいが、まだまだインドにITは早すぎたということか。人口の大半を占める農民、後進階級、貧困層、部族たちの地位向上と、基本的インフラの整備、そして何より衣食住の安定こそが、インド国民の総意だったと言っていいだろう。インドの政治は、宗教で説明されることが多いが、今回の選挙は都市と田舎の対立、または富者と貧者の対立で見るべきだと思う。インドと中国が違う点は、中国は人口の大多数を占める貧困層に発言力がないが、インドは少数の富者に一矢を報いるだけの力を貧者が持っていることだ。NDAの敗北によって貧富の差と都市農村の差が縮まるとは思えないが、インドの庶民は自分の意思を堂々と世界に示したと言っていいだろう。デリーに住んでいると、インドの急速な発展ばかりに目が行き、しかもそれを賞賛する気分になってしまうが、デリーは本当のインドではない。マハートマー・ガーンディーは「インドを知りたかったら農村へ行け」と言った。NDAの勝利を信じて疑わなかった僕も、またNDAの政治家たちも、そして各メディアも、結局は都市部の人間であり、農村の現状に疎かったということだろう。果たして発展が万人のためになるのか、今回の選挙は多くの教訓を残してくれたように思う。

 インドは世界最大の民主主義国と言われるが、今回の下院選挙での与党の敗北は、世界最大というその肩書きに恥じることなく、民意が正確に反映された選挙が行われたことを意味する。インドは、世界最大でしかも真の意味での選挙が行われる立派な民主主義国だと誇っていい。これは、国民会議派の勝利と言うよりも、民主主義の勝利と言って過言ではなかろう。ヴァージペーイー氏の最後のセリフは、「我々の政党と連合は敗北したが、インドは勝利した」だった。まさにその通りだと思う。

5月14日(金) Lakeer

 明日から旅行へ行くため、今日は今週から公開のヒンディー語映画2作をまとめて鑑賞した。どちらも一級品には思えなかったが、気になる映画ではあったので、2作とも見てみようと思っていた。

 まず最初に見たのは「Lakeer」。映画館はDTシネマ。監督はアハマド・カーン、音楽はARレヘマーン、キャストはサニー・デーオール、スニール・シェッティー、ソハイル・カーン、ジョン・アブラハム、ナウヒール・キルシ。ちなみに「Lakeer」とは「線」という意味。




左からサニー・デーオール、ジョン・アブラハム、
スニール・シェッティー、ソハイル・カーン


Lakeer
 アルジュン・ラーナー(サニー・デーオール)は地元の人々から畏怖されているマフィアのボスだった。アルジュンには弟のカラン(ソハイル・カーン)と妹のビンディヤー(ナウヒール・キルシ)がいた。3人とも元々孤児で、今は亡き父親が養子にしたのだった。アルジュンは特に、何不自由ない生活を送るカランを溺愛していた。

 一方、アルジュンの支配下にあるスーラジ・ナガルには、サンジュー(スニール・シェッティー)とその弟サーヒル(ジョン・アブラハム)が住んでいた。サンジューはメカニックの仕事をしており、アルジュンを非常に尊敬していた。サーヒルは、カラン、ビンディヤーと同じ大学に通っていた。

 しかし、サーヒルがビンディヤーに恋してしまったことから事件が巻き起こる。実はカランはビンディヤーのことを密かに恋しており、ビンディヤーに付きまとうサーヒルに対して暴行を加える。大怪我を負ったサーヒルを見たサンジューは、カランに対して復讐して瀕死の重傷を負わせる。しかしサンジューはカランがアルジュン・ラーナーの弟だとは知らなかった。カランを半殺しにされて怒ったアルジュンの部下たちは、サンジューの住むスーラジ・ナガルを焼き討ちにする。また、サンジューは自らアルジュンのもとを訪れ、リンチを受ける。

 それから1ヶ月が過ぎた。サーヒルは大学を辞め、レストランで働いていた。アルジュンはスーラジ・ナガルをすぐに復興させ、サンジューは以前の通りメカニックの仕事をしていた。ところがサーヒルとビンディヤーの恋愛は終わっておらず、遂にサーヒルは兄のサンジューにビンディヤーを引き合わせる。サンジューも2人を祝福する。

 しかし退院したカランは黙っていなかった。カランは自分の退院パーティーを口実にビンディヤーを人気のない教会に呼び出し、プロポーズする。ビンディヤーが断ると、カランは怒って無理矢理彼女に結婚をOKさせようとする。そこへサーヒルが現れ、2人は殴り合いのケンカをするが、カランがサーヒルを血まみれにする。だが、カランの強引なやり方をアルジュンはよく思っていなかった。サンジューと共に教会に駆けつけたアルジュンたちだったが、カランはそれを見るとまるで狂人のようになり、ビンディヤーを盾に、尊敬する兄アルジュンにすら銃口を向ける。アルジュンは仕方なくカランを撃ち殺す。

 心優しいが怒ると怖いマフィアと、チンピラのボスみたいな庶民との間のケンカが描かれた暴力映画の割には、恋の三角関係を軸とした人間関係の絡み合いが最大のテーマとなっている、ちょっと変わった映画だった。主演男優の4人は皆、血の似合う武闘派男優。しかし殴り合いのシーンでごり押しする映画ではなく、あくまで人間のドラマを俳優の演技力で魅せていく映画だった。

 まずキーポイントとなるのは、アルジュン、カラン、ビンディヤーの兄弟が、お互いに血のつながりのないこと。これにより、カランとビンディヤーの恋愛が正当化される。また、アルジュンもサンジューも、兄弟を何より大切にする性格であることも重要である。サンジューはアルジュンを尊敬していたが、サーヒルとビンディヤーの恋愛を成就させるため、アルジュンとの決闘も辞さない構えを取る。そして後半で急にクローズ・アップされるのが、カランのプッツンぶり。ビンディヤーへの恋は、サーヒルに対する殺意に変わり、最終的にはアルジュンに対してすら銃を向けるまでプッツンしてしまう。その他、脇役になるが、カランの親友ロニー(アプールヴァ)と、サーヒルの親友ビルジュ(ヴラジェーシュ・ヒルジー)も人間関係の潤滑油として無視できない役割を果たす。

 この映画をただの暴力映画に貶めなかった要因のひとつは、暴力と忍耐の葛藤があったことだ。ビンディヤーは常に暴力を恐れていたが、アルジュンも自分を自制しようと努力し、サーヒルも、公衆の面前で自分を侮辱したカランに対して怒りを抑えていたし、サンジューもすぐには腕力に訴えなかった。これら主人公の自制心が、復讐が復讐を呼ぶマフィア同士の抗争という陳腐な筋に陥るのを防いでいた。唯一、カランだけが次第に暴力に訴えるようになり、自滅していく。暴力と非暴力の葛藤を象徴するシーンは、映画の冒頭で見られる。アルジュンの誕生日に、カランとビンディヤーはそれぞれプレゼントを用意する。カランは銃を、ビンディヤーは花を、兄に贈る。「どちらのプレゼントが気に入ったか?」という質問に答えて、アルジュンは、ビンディヤーのプレゼントをカランのプレゼントよりも優れていると言う。なぜなら銃は人を殺すことしかできないが、花は周囲を幸せにするからだ。また、題名の「Lakeer(線)」も、人間と人間の間の、越えてはいけない「線」という意味があるみたいだ。

 サニー・デーオール、スニール・シェッティー、ソハイル・カーン、ジョン・アブラハムは、4人とも素晴らしい演技をしていたと思う。特にジョン・アブラハムは、まだデビューして1年ほどなのに、サニーやスニールといったベテラン筋肉男優に負けず劣らずマッチョな活躍をしていた。ヒロインのナウヒール・キルシ(Cyrusi:何て読むのか分からず)は、最初イーシャー・デーオールが痩せたのかと思ってしまった。目の辺りがイーシャーと似ている。イーシャーと同じく、コギャル女優という感じがしたのだが・・・。

 音楽監督はARレヘマーンで、印象的な曲がいくつかあった。ディレール・メヘンディーの歌う「Nachley」、VIVAの歌う「Rozana」、シャーンとカヴィター・クリシュナムールティの歌う「Paighaam」、クナル・ガンジャーワーラーの歌う「Shehzade」などがよかった。踊りも悪くなかった。

 なかなか変わったストーリーの映画で、見て損はないだろうが、必見映画というわけでもない。

5月14日(金) Run

 「Lakeer」を見た後、サハーラー・モールにあるメキシコ料理レストラン、サルサ・サルサーに行って昼食を食べた。インドでメキシコ料理というのは珍しい上に、なかなかおいしくて掘り出し物だった。昼食後は今度はメトロポリタン・モールに取って返して、PVRメトロポリタンで「Run」を見た。

 「Run」の監督はジーヴァ、音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、アビシェーク・バッチャン、ブーミカー・チャーウラー、マヘーシュ・マーンジュレーカル、ヴィジャイ・ラーズ、アーイシャー・ジュルカー、ムケーシュ・リシなど。




ブーミカー・チャーウラー(左)と
アビシェーク・バッチャン(右)


Run
 イラーハーバード出身のスィッダールト(アビシェーク・バッチャン)は、大学に通うためデリーにやって来た。スィッダールトは、姉のシヴァーニー(アーイシャー・ジュルカー)の家に住むことになったが、スィッダールトと姉の夫、ラージーヴ(ムケーシュ・リシ)は仲が悪く、無視し合っていた。

 スィッダールトはバスの中で、ある女性(ブーミカー・チャーウラー)に一目ぼれしてしまう。スィッダールトはその娘に話しかけるが、最初は無視される。名前を聞くと「ステラ」と答えたが、それは口からでまかせで、本当の名前はジャーンヴィーといった。スィッダールトとジャーンヴィーは何度か偶然の出会いを繰り返すが、ジャーンヴィーは彼に対して冷たい態度を取っていた。

 実はジャーンヴィーの兄のガンパト(マヘーシュ・マーンジュレーカル)は、マフィアのボスだった。ガンパトは妹に付きまとっていた男を半殺しにしたことがあった。スィッダールトもマフィアたちに襲撃されるが、返り討ちにする。しかしスィッダールトはますますガンパトから狙われることになった。一方、ジャーンヴィーもスィッダールトのことを恋するようになり、2人は秘密でデートを重ねる。ジャーンヴィーをきっかけに、スィッダールトとラージーヴの仲も幾分改善される。

 ガンパトは、スィッダールトを直接狙うことをやめ、彼の家族を狙い始める。役所に勤めていたラージーヴは汚職の濡れ衣を着せられて失業し、シヴァーニーは交通事故に遭う。それを見たスィッダールトは意気消沈するが、ラージーヴは彼を励まし、一度足を踏み入れてしまったら、行けるところまで突っ走るように助言する。

 勇気付けられたスィッダールトは、ガンパトのアジトに単身乗り込み、「明日の9時にジャーンヴィーを連れに来る!」と宣言して帰っていく。ガンパトは眠れぬ夜を過ごす。次の日、8時50分にスィッダールトから電話がかかってくる。彼は、「もう既にジャーンヴィーを連れ出しており、今から結婚式を挙げるところだ」と言う。怒り狂ったガンパトは部下を引き連れてスィッダールトを探しに行くが、実はまだジャーンヴィーはアジトにいた。スィッダールトは悠々とアジトに入り込み、ジャーンヴィーを連れて行く。

 罠に気付いたガンパトと部下たちは、2人を追いかける。とうとう追いつかれてしまい、スィッダールトは絶体絶命の危機の陥るが、ジャーンヴィーが兄に「勇気があるなら、一対一で対決しなさい」と言い、スィッダールトとガンパトはタイマンで殴りあう。遂にスィッダールトが勝利し、ジャーンヴィーの手を取って去っていく。

 実はこの映画は、同名のタミル語映画のリメイクである。原作の方は大ヒットしたらしいが、残念ながらこの映画はそうはいかないだろう。非常に古風な作りで、ストーリーに捻りがなく、タミル語映画特有の、脈絡のないコメディー・シーンやミュージカル・シーンは、ヒンディー語映画に適用すると、映画全体が非常にアンバランスになってしまう。どうもタミル人の趣向と北インド人の趣向は、少し違うように思われる。

 ヒンディー語映画の観点から見て奇妙に思えたシーンをいくつか挙げていく。まず、スィッダールトがジャーンヴィーに一目惚れするシーンは、ヒンディー語映画の技法と違って非常にストレートかつシンプルだった。そういえばマニ・ラトナム監督のタミル語映画「Kannathil Muthamittal」を翻案したヒンディー語映画「Sathiya」の男女の出会いのシーンも、ヒンディー語映画とは異質のものだった。一目惚れしたスィッダールトが強引にジャーンヴィーに言い寄るシーンも、ヒンディー語映画のそれを越えた強引さがあった。タミル人の方が押しが強いということか?地下道でマフィアがスィッダールトを襲撃するシーンがあったが、十人ほどの悪党を1人で、しかも全く無傷で退治してしまう圧倒的な強さも、ヒンディー語映画にはあまり見られない特徴である。ヒンディー語映画だと、血まみれになりつつも何とか撃退する、という方が好まれるように思う。ガンパトがラージーヴの家を襲撃するシーンがあったが、そのとき同時になぜかスィッダールトはガンパトのアジトに侵入しており、ガンパトの妻と娘を人質にとって、逆にガンパトを脅迫していた。この非現実的なご都合主義も、ヒンディー語映画よりさらに強い。上のあらすじには書かなかったが、イラーハーバードからスィッダールトの友人のガネーシュ(ヴィジャイ・ラーズ)がやって来るが、彼がコメディー役を務めていた。しかしガネーシュとスィッダールトのストーリーはほとんど交差せず、ガネーシュのコメディー・シーンは全くのオマケだった。こういう構成もタミル語映画の特徴なのかもしれない。ミュージカル・シーンもヒンディー語映画より脈絡がなく、夢や妄想の中で繰り広げられる踊りがほとんどだった。クライマックスでは、スィッダールトとガンパトが死闘を繰り広げるが、スィッダールトが勝った途端、映画は終わってしまった。インド人は映画が終わる直前に席を立って帰り始める習慣があるが、そのインド人に席を立つ暇を与えないほどあっさりとした終わり方だった。もしかしてこれが、インド人の趣向に合致した正統派インド映画の終わり方なのだろうか・・・。

 ロケはイラーハーバード、デリー、アーグラーなどで行われており、イラーハーバードのサンガム(ヤムナー河とガンガー河の交差点)も映っていたし、デリーの各地の風景、例えば大統領官邸、コンノート・プレイス、プラガティ・マイダーンなども出ていたし、アーグラーのタージ・マハル(対岸から)も使われていた。

 ガネーシュのコメディー・シーンは映画をアンバランスにしていたものの、映画中一番面白いシーンもやっぱりガネーシュのシーンであった。デリーに来るはいいが、スーツケースをなくし、財布を盗まれ、時計を取られ、衣服まで持っていかれ、病院からは追い出され、AV映画に出演させられそうになり、散々な目に遭って笑わせてくれた。最後には頭が狂って、ペチコートを着てゴーバル(牛糞)を投げ散らしていたところ、人々から「ゴーバル・バーバー(牛糞和尚)」「ペチコート・バーバー(ペチコート和尚)」と呼ばれて尊敬を集めるというオチだった。ガネーシュを演じたヴィジャイ・ラーズは、今まで悪役を演じていたところをよく見てきたが、コメディーをやらせてもかなりうまいということが分かった。ガネーシュのコメディー・シーンは、多少デリー市民への批判が含まれていたように感じる。これもタミル語映画のエッセンスのひとつかもしれない。

 アミターブ・バッチャンはだいぶ落ち着いた俳優に成長してきて嬉しい限りだ。踊りも一昔前に比べたらだいぶマシになったが、まだ固い動きをしている踊りもあった。ブーミカー・チャーウラーは「Tere Naam」(2003年)に出ていたが、僕の好みの顔ではなく、しかも果たしてインド人の好みの顔なのかもはなはだ怪しい。演技力はなかなかだと思う。ムケーシュ・リシは、典型的な公務員といった感じのラージーヴを演じていた。彼は普段は軍隊、警察、マフィアなど、もっと男らしい役を演じていたため、新鮮だった。

 「Run」は、言わばタミル語映画をそのままヒンディー語映画に当てはめて失敗した映画だ。無理して見る必要はないだろう。

5月15日(土) マハーラーシュトラ州旅行へ



 国民会議派が勝利を収めるという大番狂わせの結果に終わったものの、下院総選挙が無事終了し、安心して旅行できる状況になった。今夏の旅行先はけっこう迷った。この季節に最適な旅行場所は、ヒマーラヤ方面だが、ヒマーチャル・プラデーシュ州もダージリン周辺も主要観光地はほぼ行き尽くしてしまった感があり、まだ行ったことがないウッタルカーンドやネパールも、とりあえずあまり魅力を感じなかった。季節抜きにして現在一番旅行してみたかった場所は、マハーラーシュトラ州だった。海上の砦ジャンジラーや、隕石落下跡ローナールなどに非常に興味をそそられていた。マハーラーシュトラ州の気候を調べてみたら、デリーよりはマシのように思えたので、酷暑期ながらマハーラーシュトラ州旅行を強行することに決定した。

 ムンバイー行きの列車のチケット入手に動き始めたのは、旅行開始の1週間前だった。しかしデリー〜ムンバイー間の列車のチケットは非常に入手困難なようで(少なくとも1ヶ月前に予約しないと取れないそうだ)、普通に予約しようとしたら、ウェイティング・ナンバー200番〜300番ほどだった。ただ、各主要列車には、外国人旅行者用に予め確保されている席が数席あるため、観光ヴィザでインドに来ている外国人旅行者は、比較的簡単にどの列車のチケットでも入手可能である。しかし学生ヴィザではその恩恵にあずかれない。駄目元でニューデリー駅の外国人専用チケット売り場へ行ってみたが、やっぱり学生ヴィザであることがばれて、チケットを売ってもらえなかった。これでおめおめと引き下がるわけにはいかないので、責任者と思われる人物に、ボリウッド映画でよく出てくるセリフ「私は両手をあなたの前で合わせて頼んでいます」を使ったり、もっとケンカ腰に挑んでいったり、いろいろ試してみたが、状況はますます悪化したので諦めた。次にパハール・ガンジへ行って、旅行代理店をあたってみたが、やはりデリー〜ムンバイー間の列車は例外的に入手困難なようで、学生ヴィザでは打つ手なしと言われてしまった。もはや最後の手段を使うしかない。最後の手段とは、観光ヴィザで観光に来ている、同じ性で同じ年齢くらいの日本人旅行者をパハール・ガンジで捕まえて、代わりにチケットを取ってもらう方法である(チケットには性別と年齢が記される。国籍もごまかせないと思われる)。しかし、見知らぬ旅行者をこういうグレイな道に連れ込んだりしていると、その内某ガイドブックに何か書かれそうなので、どうしようかしばらく考えていた。考えている内に、友達の友達がちょうど観光ヴィザでインドに来て、デリーに滞在していることを思い出したので、彼に頼むことにした。この方法はうまくいき、無事デリー〜ムンバイーの往復チケットを手に入れることができた。

 2952ムンバイー・ラージダーニー・エクスプレス。「ラージダーニー」と付く列車は、言わばインドの新幹線で、最も速く、最も快適に目的地に到着することができる。全車両エアコン完備、食事や毛布なども付いて、しかもサービスがよい。しかし料金も最も高い。デリーからムンバイーまで、3等席で1485ルピーだった。別の特急列車の、エアコンの付かない寝台席で同じ距離(デリー〜ムンバイー間の1389km)を走行したら365ルピーで済むことを考えると、非常に高いことがわかる。最近、長距離移動は専らラージダーニーを愛用している。まだ若く、インド初心者だった頃は、安い列車、安い席で貧しい庶民と共に旅行することに生き甲斐を感じていたが、現在の僕にとって移動は移動に過ぎず、また年齢の衰えを金でカバーしないといけなくなっているため、次第にラージダーニー派へと移行してきた。しかも、いろいろな体験談を聞くにつれ、強盗やトラブルに遭いやすいのは断然安い列車、安い席であることが明らかになってきた。ラージダーニーのような高級列車に乗る人は皆リッチな人が多く、盗難の心配が少ないし、銃を持った護衛がつくので、盗賊もラージダーニーは襲わないと言われてる。

 列車は、午後4時の発車予定時刻から8分遅れでニューデリー駅を出発した。噂には聞いていたが、デリー〜ムンバイー間を走るラージダーニーは最新車両であり、車内は非常にきれいだった。しかもトイレが飛行機のトイレと同じような感じなっていたのは驚いた(少し誇張表現あり)。サービスもさすがラージダーニー。ミネラルウォーター、ジュース、軽食、スープ、夕食、朝食などが付く上に、ベッドシーツ、タオル、毛布、枕なども各乗客に配られる。しかも売り子や乞食などが車内に入ってこない。まさに特権階級の乗り物である。

 同じコンパートメントになったのは、やはり外国人旅行者だった。外国人旅行者用のチケットを買うと、外国人旅行者同士で固められる。僕の他には、韓国人の女の子2人、ブラジル人の男1人、イスラエル人の女の子1人、エチオピア人のおじさん1人だった。特にブラジル人の男は、ムンバイーに既に2年半以上住み、過去にはコールカーターやヴァーラーナスィーにも住んでいたことがあるらしく、かなりのインド通だった。タブラーを習っている、というか既にプロのミュージシャンのようだ。エチオピア人のおじさんも変わったキャラクターで、楽しく過ごすことができた。

5月16日(日) コンカン・コーストの漁村、ムルド

 予定より約45分遅れで9時40分頃にムンバイー・セントラル駅に到着した。ブラジル人以外の5人は皆、安宿が集まるコラバへ行く予定だったので、タクシーをシェアすることにした。しかしタクシーに大きな荷物を持った5人が乗るのは難しかったため、僕はエチオピア人のおじさんと2人でシェアすることにした。駅のタクシー・スタンドにいたタクシーを使い、メーターで走らせた・・・が、やはり駅前のタクシーは悪質な輩が多いみたいで、料金をごまかそうとして来た。多分メーターが改造してあったのだろう、それとも料金表が間違っているのか、320ルピーを請求された。しかしエチオピア人のおじさんが既に以前、同じ距離をタクシーで50ルピーで走っていたため、すぐにぼったくっていることがばれた。僕は、どうせぼったくって来るだろう、と予想していたので、ぼったくってくれた方が驚かなくていいのだが、エチオピア人のおじさんはそれを真剣に受け止めてかなり怒っていた。結局100ルピーを払っておいた。2人でシェアすれば別に損した気分にもならない。




ムンバイー


 今日はムンバイーに滞在せず、そのまま素通りする。コラバのインド門にあるフェリー乗り場から、11時発マーンドワー行きのフェリーに乗った(55ルピー)。ここからは、ムンバイー郊外の主要観光地のひとつ、エレファンタ島へのフェリーも出ている。フェリーは揺れに揺れたが、うまく中央の席に座ることができたので、楽に移動することができた。マーンドワーには1時間後に到着し、そこから無料のシャトルバスでアリバーグへ向かった。アリバーグから今度は1時発ムルド行きのバスに乗った。アリバーグからムルドまでは1時間半ほどだった。

 マーンドワーからムルドまでは、コンカン・コーストの北部にあたる部分で、アラビア海に面してずっとビーチが続いており、ムンバイー市民のリゾート地となっている。このビーチはずっとゴアまで続いている。景色は亜熱帯雨林という感じで、ココナッツやヤシの木が立ち並んでおり、南インドに来た気分になる。まぶしいくらいに緑が色鮮やかで、風は柔らかくてヒンヤリした肌触り。デリーよりも湿気があるが、外を出歩けないくらい暑いわけではないのでひとまず安心した。

 ムルドも他のコンカン・コーストの町や村と同じくビーチ・リゾートの町となっており、ビーチに面してリゾート・ホテルが立ち並んでいる。ビーチは閑散としており、手付かずのビーチと言ったら聞こえはいいが、ただの海岸と言ってしまっても差し支えないだろう。波も荒く、泳ぐ気にはなれない。インドのビーチにはなぜかラクダや馬車などがいる、というかいないといけないと考えられている節があるが、ここにもやっぱり馬車がいて、観光客を乗せて走っていた。




ムルド


 ムルドでは、ミラージュ・ホテルという新しくできたばかりのホテルに宿泊した。せっかく宿代の高いムンバイーで泊まるのを避けて来たのだが、ビーチ・リゾートだけあって宿泊料は全体的に高かった。ダブル・ルーム、バス・トイレ付きで700ルピーだった。他にもいくつかホテルを見てみたが、さらに高いか設備が貧弱だった。700ルピーという値段はその妥協点だった。

 今日の行動予定はこれで終わりなので、あとはビーチを散策したり、町から離れた場所にある宮殿まで散歩したりした。

5月17日(月) 海上の砦、ジャンジラー

 ムルドは、アラビア海沿岸に点在するビーチ・リゾートのひとつとして、細々と開発されているようだが、この寂れた漁村には他の大同小異のビーチ・リゾートとは一線を画した遺跡がある。ムルドの南、約5kmのラージプリーという港の沖に、海に囲まれた難攻不落の砦、ジャンジラーがあるのだ。

 ジャンジラーは1140年にスィッディー・ジャホールによって建造された砦で、16世紀にスィッディー王国の首都となった。ちなみにスィッディーとはアフリカ大陸からインドに渡ってきた黒人のことである。今でもグジャラート州からマハーラーシュトラ州にかけての沿岸地域には、黒人の顔をしたインド人を見かけることがある。

 今日はジャンジラーへ行く予定だった。しかし朝から雨が降っており、8時頃になってようやく止んだ。ジャンジラーへ行くには、まずはラージプリーへ行く。ムルドからオート・リクシャーを拾って、40ルピーでラージプリーまで行った。オートに乗っている内に再び雨が降り出し、だんだん不安になって来た。ラージプリー港のボート乗り場には既に十数人の人が集まっていた。しかし、船乗りたちは海が荒れているため、舟を出すのを渋っていた。もちろん渋っているのは、高い料金をせしめるための演技である。小降りになってきたところで、「舟は出すが、往復20ルピー出してもらう」と言い出した。往復12ルピーが普通の料金である。どうでもいいから、とにかく行ってもらわないと困るので、僕は20ルピーで行ってもらうことにした。他のインド人たちも、背に腹は代えられぬということで、20ルピーでOKした。

 フェリーが停泊していたので、てっきりフェリーで行くのかと思ったが、それは湾の対岸に渡るためのもので、ジャンジラーへ行くのは今にも転覆しそうな小さな帆船だった。幸い、雨は既に止んでいたのだが、がは強くて方向が頻繁に変わり、波も荒いので、百戦錬磨の船乗りたちもだいぶ舵取りに苦労しているようだった。途中、港に停泊していたフェリーがやって来たので、それに途中まで引っ張ってもらい、何とかジャンジラー近くまで辿り着くことができた。約1時間かかっただろう。ジャンジラーの周囲には12mの高さの壁が直立しており、所々に大砲が覗いていた。マラーターの英雄シヴァージーも陥落できなかったというが、それは嘘ではなさそうだ。




海上の砦、ジャンジラー


 ジャンジラーの入り口には桟橋など付いておらず、階段が海の底まで続いているだけだった。乗客は、舟からジャンプしてその階段に着地しなければならない。もちろん、膝から下はびしょ濡れになった。ジャンジラーを訪れるときは、濡れてもいい格好で来なければならないだろう。いっそのこと水着で来るといいかもしれない。




ジャンジラーの入り口


 これだけ苦労して辿り着いたジャンジラーだったが、外観は相当立派だったものの、内部は無残なまでに荒れ果てていた。もう少し整備すれば何とかなりそうなものだが、これだけ不便な場所にあっては整備するのも一苦労だろう。船乗りの1人が案内してくれたが、マラーティー語(マハーラーシュトラ州の公用語)で話していたため、あまり理解できなかった。置いていかれると困るので、1人でゆっくり中を巡ることもできなかった。45分ほど主要なポイントを巡って、再び舟に乗り込んだ。




ジャンジラーの内部


 帰りは追い風だったので、10分ほどで港まで戻ることができた。ジャンジラーにはけっこう期待していたのだが、辿り着くまでの苦労に見合うだけの価値はない遺跡だった。外から眺めると壮観なのだが・・・。ジャンジラーの他、ムルドにはもうひとつパドマドゥーリーという砦が沖合いにあるが、そこには行けないらしい。

 ジャンジラーがあっけなく終わってしまったので、もうムルドを後にすることにした。ホテルを12時にチェック・アウトして、テンポ(乗り合いタクシー)に乗ってアリバーグへ向かった。テンポはレーヴダンダーで乗り換えで、ムルドからレーヴダンダーまで20ルピー、レーヴダンダーからアリバーグまで10ルピーだった。途中のレーヴダンダーは古い砦+ジャングルと一体化している不思議な雰囲気の町で、少し見て回ったらポルトガル語らしき印章が砦の壁に刻んであったので、ポルトガル人が造った砦なのではないかと思う。

 実は次の目的地を決めかねていた。ムンバイーまで戻ろうか、それともマーテーラーンに行こうか、考えていた。ムルドからさらに南へ下ろうかとも考えていたが、それは早い段階で止めにした。交通が不便だったからだ。列車の中で出会ったブラジル人が、「絶対にマーテーラーンへ行け」と言っていたので、マーテーラーンへ行くことは決めていたのだが、ロンリープラネット(英語の旅行ガイド)にはムンバイーから列車で行く方法しか記載されていなかったので、ムンバイーまで戻らなければならないのだろうか、と思っていた。しかしアリバーグのバス停で聞いてみたら、そこからマーテーラーンまでバスで行く方法を教えてくれた。アリバーグからカルジャトへ行き、そこからネーラルへ行けば、マーテーラーンへ行けるようだ。早速そのルートを通ることにした。

 アリバーグから午後3時15分発のカルジャト行きバスに乗った(40ルピー)。やはり途中で雨が降ったりしたが、午後5時45分頃にはカルジャトに到着した。しかしカルジャトからネーラルまで行くバス、テンポ、ジープなどが見当たらなかったため、オートを100ルピーでチャーターして、そこから15km離れたネーラルまで行った(後日分かったことだが、カルジャト〜ネーラル間は頻繁にムンバイー郊外列車が往復しているため、列車を使用するのがよい)。

 マーテーラーンは標高800mの山の上にある避暑地で、ネーラルからトイ・トレインが出ているとのことだったので、今日はネーラルに宿泊して、明日の朝トイ・トレインでマーテーラーン入りしようと考えていた。ところがネーラルは思ったよりも小さな町で、ろくなホテルがなかったことから、このままマーテーラーンまで行ってしまうことに決めた。タクシー乗り場でマーテーラーン行きの乗り合いタクシーに乗り(50ルピー)、山道をぐんぐん登って行った。30分ほどでマーテーラーンの駐車場に到着した。

 マーテーラーンは環境保全のため町中まで自動車などの乗り入れを許していないと聞いていた。だが、同じことはシムラーでも行われていたため、僕はてっきりシムラーみたいな雰囲気の町を想像していた。しかし、マーテーラーンは今まで訪れたインドのどの町とも違っていた。はっきり言って、ジャングルである。ジャングルの中にある町である。駐車場から町の中心までは2.5kmも離れており、マーテーラーンを自動車で訪れた人はそこまで歩かなければならない。もしトイ・トレインで来れば、町の中心部までそのまま来ることができる。マーテーラーンの交通機関は、人力車か馬である。自転車すら町の中では使用を許されていない。人力車か馬を使わないならば、徒歩しかない。町の入り口でマーテーラーンへの入場料25ルピーを払うと、そこには人力車と馬が客待ちをしているが、僕は敢えて徒歩を選んだ。しかし歩けど歩けど町らしきものは現れない。次第に辺りは暗くなってきて、人影もまばらになってきて、相当焦ってきた。「このまま森の中で野宿か・・・」と思っている内、30分ほど歩いただろうか、やっと駅とバーザールらしきものが見えてきた。今まで閑散としていた林道が幻であるかのように、大勢のインド人でごった返していた。ホテルを探すのも苦労しそうだったが、2軒目で安いホテルを見つけることができ、そこに落ち着くことにした。

 僕が泊まったホテルは、カーンズ・ロッジング。ダブル・ルーム、バス・トイレ付きで300ルピーだった。見たところ、どうもマーテーラーンのホテルのマネージャーが最も恐れているのは、宿泊客に金・土・日まで延泊されることのようだ。マーテーラーンのホテルはこの時期、週末はどこも予約でいっぱいである。マーテーラーンには2泊する予定だったが、絶対に2泊で出て行くように言われた。今日はかなり疲れたので、夕食を食べた後そのまま寝た。

5月18日(火) 密林のリゾート、マーテーラーン

 マーテーラーンとは、「マーテー(額)」+「ラーン(森林)」で、つまりジャングルの上という意味のようだ。標高は803mあるため、酷暑期でも涼しく、パンカー(天井のファン)が要らないくらいだ。その代わり水シャワーだと少し冷える。湿気があるためジメジメしており、洗濯物がなかなか乾かない。既にモンスーン入りしているのか、雨が頻繁に降る。ムンバイーとプネーの中間点にあるため、それらの都市からのリゾート客が多いのかと思いきや、町を歩いているとグジャラーティー語が目立った。聞いてみると、やはりグジャラート人の観光客が最も多いという。もちろんムンバイーやプネーなどからもリゾート客は来るが、土日を利用した短期滞在がほとんどであり、長期滞在するのはグジャラート人がほとんどだそうだ。元々マハーラーシュトラ州とグジャラート州はボンベイ州というひとつの州で、1960年に分割されたばかりなので、マハーラーシュトラ州にグジャラート文化が移植されていてもおかしくないのだが。

 まず、朝から駅へ行って、明日の帰りのトイ・トレインの座席を予約した。早朝5時45分発の列車しか席が空いていなかったので、それを予約した。1等席が欲しかったのだが、最近は1等車両が連結されていないようで、全席2等席とのことだった。運賃は39ルピーだった。

 マーテーラーンでやるべきことと言ったら、とにかく森林の中を歩くことぐらいしかない。マーテーラーンはテーブル状の台地になっており、遊歩道が縦横に張り巡らされている。その中で見晴らしのいい場所や何か特徴のある場所は「ポイント」と呼ばれている。マーテーラーンには全部で38ポイントあり、それらを制覇するのが一応の目的になりうる。しかしあいにく今日は曇っており、景色は期待できなかった。それでも何かしなければならないので、とりあえずマーテーラーン南部のポイントを徒歩で巡ることにした。





マーテーラーンのバーザール


マーテーラーンの道はこんな感じ


 午前中に巡ったのは、カンダーラー・ポイント、アレキサンダー・ポイント、ラーム・バーグ・ポイント、リトル・チャウク・ポイント、チャウク・ポイント、ワン・ツリー・ヒル、ベルヴェドル・ポイント、シャルロット・レイク、エコー・ポイントなどである。およそ4時間の道程だった。一時的に雲が晴れた部分もあったが、ほとんど雲の中で景色はロクに見えなかった。残念・・・。





ワン・ツリー・ヒル
1本だけしか木が生えていない丘
とのことだが、2本ある?



エコー・ポイント
ここで叫ぶと声がコダマする
ここだけじゃないと思うが


 昼食はエコー・ポイントからバーザールに向かう途中にあるグジャラート・バヴァンでグジャラーティー・ターリーを食べた。グジャラート人が多いということは、きっとおいしいグジャラーティー料理にありつけるだろうと考えていた。グジャラート州を旅行して以来、好物になったグジャラーティー・ターリーを久しぶりに食べた。グジャラート・バヴァンのグジャラーティー・ターリーは110ルピーと高かったが、お代わり自由で味も悪くなく、腹いっぱい食べることができた。

 4時から馬でマーテーラーン西部のポイントを、サンセットと併せて巡る予定だったが、あいにく3時頃から雨が降り出してしまった。ホテルのレセプションに馬を頼んでおいたので、4時前にゴーラーワーラー(馬引き)が来てしまった。最初はキャンセルするつもりだったが、4時になると幾分小降りになったため、即座に決断して馬に乗って出掛けた。馬に乗るのは初めてではないし、今までラクダや象に乗ってきたが、動物に乗ると必ず身体のあちこちが痛くなるからあまり好きではない。しかし一応マーテーラーンに来たからには、お約束の娯楽を少しは体験しておかなければならないだろうと思って、馬での観光を選んだ。馬1頭に乗って、ゴーラーワーラーが歩いて引っ張るタイプだと200ルピー、ゴーラーワーラーも馬に乗って、馬2頭で行くと300ルピーとのことだった。後者だと、駆けたり走ったりできるので楽しい、と言われたので、そうすることにした。

 雨は降ったり止んだりで、濡れるのは覚悟の上だったが、道の上まで覆いかぶさった木々のおかげでそれほどびしょ濡れにはならなかった。マーテーラーンは雲の中にすっぽり覆われており、前方がほとんど見えないほどの濃霧だった。その中を馬で駆けていると、何となくシャーロック・ホームズの時代のロンドンという感じがしてくる。ルイサ・ポイント、コロネーション・ポイント、サンセット・ポイントなどの主要なポイントを巡って戻った。当然、どこもほとんど景色は見えなかったし、サンセット・ポイントで日没を見ることも不可能だった。ただ馬に乗ってグルッと回っただけだったが、乗馬ができてよかったということにしておこう。




お約束の写真
相当な濃霧である


 マーテーラーンの夜は騒々しい。僕が泊まっているホテルはバーザールの中にあるので、人通りが激しいのもその一因だが、不幸なことにちょうど目の前にあるナウロージー・ロード・ガーデンという広場で、毎晩毎晩ライブ・コンサートが行われるのだ。どこぞの素人バンドがボリウッドのヒット曲を大音響で演奏するのだが、これがド下手クソで、ただの騒音になってしまっている。マーテーラーンで静かに過ごしたかったら、バーザールからなるべく離れた場所にあるホテルに宿泊すべきである。

5月19日(水) 石窟寺院カールラー&バージャー

 早朝5時45分のトイ・トレインに乗るために早起きして、ホテルをチェック・アウトした。やはり今日も霧が出ていた。例年は6月中旬からモンスーン入りし、モンスーン入りと同時にマーテーラーンのシーズンも終わるらしいのだが、今年はモンスーンが1ヶ月早く到来してしまったようで、最近の天候は始終こんな感じみたいだ。マーテーラーンは他では見られない独特の避暑地だったが、天候と景色に恵まれなかったのが残念である。ただ、霧が出ているといっても半袖で十分なくらいの気候であり、避暑を目的とするだけだったら、マーテーラーンはいい場所である。

 トイ・トレインはほぼ時間通りに出発した。出発時に駅員が鐘をカンカンと鳴らしたり、手旗で合図したりするのが味があってよかった。まるで高倉健主演の映画「鉄道員(ぽっぽや)」の世界である。マーテーラーンと麓の町ネーラルの間には、アマン・ロッジ、ウォーター・パイプ、ジュンマー・パッティーの、3つの駅がある。全長21kmで、マーテーラーンからネーラルまで約1時間半かかった。マーテーラーンを少し離れるとすぐに辺りの景色は晴れ渡り、青々とした手付かずのジャングルや、広大なデカン高原の景色を見渡せた。トイ・トレインは地元の人々の交通機関にもなっており、途中、駅でもないところで飛び乗ってくる人々がたくさんいた。狭軌なので車両内は非常に狭い。いろは坂のように、列車がジグザグに山を下っていくのは、新鮮だった。途中、1つトンネルをくぐる。7時半頃にネーラル駅に到着した。





ネーラルとマーテーラーンを結ぶ
トイ・トレイン

トイ・トレイン内部


 ネーラル駅で朝食を済ませ、プラットフォームでプネー方面に向かうデカン・エクスプレスが来るのを待った。もしムンバイーからマーテーラーンへ来ようと思ったら、このデカン・エクスプレスでネーラル駅まで来るのがひとつの方法である。しかし、デカン・エクスプレスが到着する頃には、「マーテーラーン行きのトイ・トレインの座席は満席になりました」とアナウンスが流れていたので、シーズン中はこの方法だとトイ・トレインに乗れないかもしれない。

 8時半頃、デカン・エクスプレスがやって来たのでそれに乗り込む。今日はローナーヴァラーへ向かう。ローナーヴァラーもムンバイー近郊の避暑地のひとつで、標高は625mある。ムンバイーとプネーのちょうど中間点にあるため、アクセスは非常によい。しかし、マーテーラーンやマハーバレーシュワルに比べたら避暑地としてのランクは落ちる。その代わり、ローナーヴァラーの近くには、紀元前の仏教石窟寺院が2ヶ所あるため、観光地としての価値はある。

 ネーラル駅を出たデカン・エクスプレスは、カルジャト駅、カンダーラー駅で停車し、1時間ちょっとでローナーヴァラー駅に到着した(ネーラル駅から25ルピー)。この辺りの駅はどれも日本の田舎の駅と非常に雰囲気が似ており、懐かしい感じがする。ムンバイーに通じるローカル列車は、通勤通学時間に非常に混雑するのも日本と同じである。

 ローナーヴァラーではホテル・チャンドラロークに宿泊した。ローナーヴァラーもリゾート地であるので、安いホテルはあまりないようだ。ダブル・ルームで500ルピーだった。だがTVなども付いて設備はよかった。レストランではグジャラーティー・ターリーが食べれる。

 ホテルにチェック・インした後、すぐさまオート・リクシャーをチャーターして(250ルピー)、カールラーとバージャーを観光しに出掛けた。まずはローナーヴァラーから12km離れたカールラーへ向かった。カールラーの石窟寺院は仏教遺跡で、20分ほど石段を登って行った場所にあるのだが、なぜか麓からヒンドゥー教の巡礼地の雰囲気になっていた。供え物や神様グッズを売る店が立ち並び、乞食が道端に座っている。その答えは石窟寺院まで辿り着いたら分かった。仏教の石窟寺院の真ん前に、ヒンドゥー教の寺院ができていたのだった。インド人たちの多くは、この寺院を参拝しに来ているのだった。それほど古い寺院に見えなかったので、多分以前は石窟寺院をそのままヒンドゥー寺院にしてしまっていたのではないだろうか?

 ヒンドゥー寺院は入場料など必要ないが、石窟寺院に入るにはインド人5ルピー、外国人100ルピーのチケットが必要である。いつもの通り、インドに住んでいるからインド人料金にしてくれ、と頼んでみたが、やはり外国人の多いムンバイーやプネーに近い遺跡だけあって、インド人料金にはしてくれなかった。「ソニア・ガーンディーが来ても外国人料金を取るのか?」とか「マネージャーはどこだ?」とか粘ってみたが、ソニア・ガーンディーでも外国人料金を取るし、マネージャーはアウランガーバードに行ってしまっていて留守だ、とつれない答えを返されるだけで効果は無かった。仕方なく100ルピーのチケットを買った。外国人が多く来る観光地と、現場の最高責任者がその場にいない観光地では、インド人料金で外国人が遺跡に入場できる可能性は低くなる。

 カールラー石窟寺院は前80年に造られた石窟寺院で、巨大なチャイティヤ窟(礼拝堂)と、複数のヴィハーラ窟(僧の居住地)で成っている。チャイティヤ窟は相当な規模で、天井には木の骨組みが残っている。インド各地に残る石窟寺院の多くは、当時一般に造られていた木造寺院の建築様式を模倣して彫られたと言われている。カールラーの石窟寺院を見ると、それだけでなく石窟寺院には石を彫るだけでなく、木も使用されていたらしいことが分かる。この木は伝えられるところによるとオリジナルとのことだ。チャイティヤ窟の奥にはストゥーパが鎮座しており、それを取り囲む柱の上には象や人の彫刻があった。入り口側面などの彫刻も大したものだった。







カールラー石窟寺院
チャイティヤ窟


 次にカールラー石窟寺院から5km離れたバージャー石窟寺院に行った。こちらも石段を10分ほど登って行った場所にあるが、カールラーと違ってヒンドゥーの寺院にはなっていないため、静かである。ここも入場料が必要で、インド人5ルピー、外国人100ルピーである。

 バージャー石窟寺院はカールラー石窟寺院よりもさらに古く、前200年頃に造られたと考えられている。チャイティヤ窟の規模はカールラーに劣るが、ヴィハーラ窟の数はこちらの方が多い。興味深いのは、ストゥーパが14個並んでいる部分。ストゥーパを彫る練習でもしたのだろうか?バージャー石窟寺院にもやはり木造建築を思わせるような彫刻が随所に見られ、チャイティヤ窟の天井には木が残っている。




バージャー石窟寺院


 ところで、ローナーヴァラーは、チッキーというお菓子で有名である。ネーラル駅からローナーヴァラー駅へ向かう列車の中でも、売り子が「ローナーヴァラーのチッキーだよ〜」と言って売っていた。マーテーラーンにもチッキーを売る店がたくさんあり、この近辺はチッキーの名産地のようだ。チッキーはグル(サトウキビから取れる未精製の砂糖)とナッツを固めて作られた固くて甘いお菓子である。日本でも同じようなお菓子があったような気がするが、何というのか知らない。日本人にとって、初めて食べる味ではなく、いつか食べたことのある味だと思う。




ローナーヴァラー名物チッキー


5月20日(木) デカン高原を南下

 今日は1日中バスの中だった。

 まずは午前8時半頃、ローナーヴァラーのバススタンドでプネー行きのバスに乗った(42ルピー)。バスはムンバイー〜プネー・エクスプレス・ハイウェイを通った。2001年に完成したエクスプレス・ハイウェイは、ムンバイーとプネーを結ぶ有料高速道路で、おそらくインドで最も近代的な道路である。片側3車線のきれいに舗装された道路で、日本の高速道路と比べても遜色ない。ムンバイーのバイク野郎たちは、この道路で自慢のバイクをかっ飛ばして楽しむそうだ。デリー周辺には、まだこのような安心してスピードを出せる道路はない。

 エクスプレス・ハイウェイを下りると、次第に辺りは大都市の周辺部といった感じの風景になってきた。インド屈指の快適都市と言われるプネーが次第に近づいてきたのだ。南デリーと比べると多少ごちゃごちゃしてはいるが、普通のインドの都市に比べたらだいぶすっきりとした都市である。気候も、ローナーヴァラーよりさらに過ごしやすいように思えた。繁華街らしき場所も通ったが、まだほとんどの店が開店前だったものの、けっこう栄えていそうな感じだった。ローナーヴァラーから1時間半ほどでスワールゲート・バススタンドに到着した。

 今日はこのままプネーを素通りして、デカン高原を南下する。同じバススタンドでコーラープル行きのバスに乗った(109ルピー)。途中ひとつふたつ山を越えた他はずっと平原であり、バスはひたすらバンガロール方面へ直進した。サーターラー、カラードなどのバススタンドでしばらく停車しつつ、コーラープルには午後5時頃に到着した。プネーから6時間半ほどかかったことになる。この辺りは、暑くもなく、寒くもなくの理想的な気候で、わざわざデリーの酷暑から逃れてきた甲斐があったというものだ。聞くところによるとここ数日間、デリーは猛暑に襲われているらしい。北インドの酷暑期にマハーラーシュトラ州旅行を選んだのは正解だったようだ。

 このままバスの接続がよければ、真の目的地、カルナータカ州ビジャープルまで一気に行ってしまうつもりだったが、次の便まで2時間ほど待たなければならず、その便を使ったらビジャープルに着くのは真夜中になってしまうので、今日はコーラープルに宿泊することにした。バススタンド近くにあるホテル・ツーリストに宿泊した。ツイン・ルーム(バス、トイレ、TVなど完備)をシングル料金にしてもらって390ルピーだった。

 コーラープルはマハーラーシュトラ州の最南部にある町で、チャッパル(サンダル)と力士で有名だそうだ。ちょっと散歩してみたが、コーラープルは典型的中規模都市の様相を呈していながら、何となく他の町よりもいろいろな点で整っている感じがして好感が持てた。例えば、小さな交差点でも人々は信号をよく守っているし、オート・ワーラーもメーターを必ず使用して走行してくれる。町にはなぜかアイスクリームの店が多く、スクーターに乗っている若い女性が目立つように思えた。

 散歩から帰るとちょっとした事件があった。警察からホテルに電話があったようで、僕が警察署に呼ばれたのだ。インドでは、外国人旅行者がホテルに宿泊する際、宿帳の他、フォームCという政府に提出するための用紙に氏名やパスポート番号などを記入させられる。そのフォームCに書いた僕の情報で何か問題があったみたいで、すぐに警察から呼び出しがあったというわけだ。別にやましいことはしていないので、面白いことになったと思いつつ、ホテルの警備員と共に警察署へオートで行った。警察署は町の郊外にあり、かなり広大な敷地に警察署や警察関係者の住宅街などが固まっていた。警察に呼ばれた理由は、外国人登録のことだった。観光ヴィザ以外でインドを訪問する外国人、またはインドに6ヶ月以上滞在する外国人は、入国から14日以内に外国人登録局または警察署で外国人登録を行わなければならない。外国人登録を行うと登録番号が記入された手帳を手渡される。もちろん、僕はちゃんと外国人登録を行っているので、登録番号も持っている。その登録番号をフォームCに書かなければならなかったのだが、ホテルのレセプションがそれを知らずに勝手に省略してしまったため、問題になったようだ。僕は外国人登録手帳もパスポートと一緒に念のために常に携帯しているので、警察署でそれを見せたら「オー、ソーリー」ということで一件落着となった。しかし、今まで旅行中に警察に呼び出しをくらったことなどなかったので幾分驚いた。という訳で、上記の条件に当てはまる外国人は、ちゃんと外国人登録を行っておかないと、思わぬところでトラブルに巻き込まれることになるから要注意である。それにしてもコーラープルはいろんなことがきちんとしている。逆に感心してしまった。

5月21日(金) デカンの女王、ビジャープル(1)

 コーラープルのバススタンドで、早朝5時45分発ビジャープル行きのバスに乗った(79ルピー)。今回はマハーラーシュトラ州旅行ということだったが、少し寄り道してカルナータカ州北部の町ビジャープルを訪れる。ビジャープルはコーラープルから東に130kmほどの地点にある。一般的には、マハーラーシュトラ州は北インド、カルナータカ州は南インドとして分類される。よって、北インドから南インドへ移動することにより、どういう変化が見られるか楽しみだった。

 まず、道路はマハーラーシュトラ州からカルナータカ州に入ると急に悪くなった。マハーラーシュトラ州は道路の整備が急ピッチで進んでおり、有料の広くきれいな道路が所々にあったり、道路工事などがあちこちで行われていたりするが、カルナータカ州に入った途端、ガタガタ道が多くなった。また、民家の建築も州を越えたら急に変わった。マハーラーシュトラ州の民家はレンガやコンクリート造りだが、カルナータカ州の民家は岩や石を積み上げて造られているものが多い。風景も、マハーラーシュトラ州では木々の緑が目立ったが、カルナータカ州に入ると荒涼とした大地が目立つようになった。もちろん、看板の文字はデーヴナーグリー文字からカンナダ文字に変わった。人々の風俗は、カルナータカ州に入るとターバンを巻いている人が多くなったように思われた。

 4時間半ほどでビジャープルに到着した。ビジャープルはビジャープル王国(アーディル・シャーヒー王国)の首都だった町で、町は城壁で囲まれ、あちこちにモスクや廟が残っている。かつてジャワーハルラール・ネルーは、自著「インドの発見」において、ビジャープルを「デカンの女王」と表現した。デカン地方最大規模のイスラーム都市で、人口の40%はイスラーム教徒だという。ヴィッジャナハリ、ヴィディヤプル、ムハンマドプルなど、時代によっていろいろな名前で呼ばれてきた。

 ビジャープルでは、ホテル・パールに宿泊した。ダブルルームで500ルピー。バスルーム、TV、タオル、石鹸、新聞など完備の清潔なホテルである。

 ビジャープルには多くの遺跡が散在しているが、今日はホテル近辺にある、ゴール・グンバズとジャーミ・マスジドを見た。ゴール・グンバズはビジャープルの2つある主要観光地の1つで、町の東端にある(インド人料金5ルピー、外国人料金100ルピー)。ゴール・グンバズはビジャープル王国第7代皇帝ムハンマド・アーディル・シャー(在位1626-1656年)によって造られた廟で、彼が王位に就いた年から建造が開始され、死後の1659年に完成したという。廟の地下にはムハンマド・アーディル・シャーとその妻や娘たちが埋葬されている。何と言っても目を引くのはその巨大なドーム。世界で2番目に大きなドームと言われている(ちなみに世界最大のドームはローマのサン・ピエトロ大聖堂らしい)。直径38mもあり、内部は柱などで支えられていない。廟の四方には7階建てのミナレットが隣接しており、階段が付いていて屋上まで登ることができる。屋上からはビジャープルの町並みを一望できる。また、屋上からドームの内側に入ると、そこは「ささやきのギャラリー」と呼ばれる場所になっている。しかし、そこから聞こえてくるのはささやき声ではなく、子供たちの叫び声である。このドーム内ではどんなささやき声でもエコーすると言われ、大声を上げれば10回コダマするそうだ。また、1点の壁に向かって何か話すと、その声は180度向こうの壁まで伝わって、まるで糸電話のように聞こえてくる。よって、ここが子供たちの遊び場になるのも無理はないというわけだ。建築はヒンドゥー建築とイスラーム建築がミックスした、インド・イスラーム様式。仏教のシンボルであるストゥーパもシンボライズされているというが、それはどうも疑わしい。スルターンの死後、細かい彫刻が施されるのが放棄されてしまったと言われており、外壁の彫刻や装飾は中途半端である。ゴール・グンバズは地元の人々のピクニック・スポットになっており、多くの家族連れが日陰でくつろいでいた。




ゴール・グンバズ


 なかなか力強い建築だったので、久しぶりにスケッチをすることにした。前回スケッチしたのは2003年12月のソームナートだったので、半年振りになる。全体を見渡せる日陰を見つけてスケッチを始め、3時間ほどで完成させた。子供たちに囲まれながら描いていたので、あまり集中できず、中の下くらいの出来だ。

 次はゴール・グンバズの屋上から見えたジャーミ・マスジドへ行った。ジャーミ・マスジドはアリー・アーディル・シャー1世(在位1557-1580年)によって造られた「インド最大規模のモスク」である。インドには各地に「インド最大規模のモスク」があるため、いったいどれが本当に最大なのか知らないが、このモスクはそれほど大きいとは思えなかった。おそらくデリーのジャーマー・マスジドの方が大きいだろう。外部の建築より、メッカ方向を示した部分を覆っている、金で彩られた絵が素晴らしかった。ちょうど金曜日だったため、周辺のイスラーム教徒たちが続々とモスクに集まって来ているところだった。




ジャーミ・マスジド内部


5月22日(土) デカンの女王、ビジャープル(2)

 今日はビジャープルの西端から観光を始めた。まず最初に見たのは、ビジャープルの2大観光地のひとつ、イブラーヒーム・ラウザーである(インド人料金5ルピー、外国人料金100ルピー)。正面から見ると、2つのドーム型建築物が対称的に並んでおり、独特の景観となっている。この内、左側(東側)が廟、右側(西側)がモスクで、形もよく見ると違う。これらはイブラーヒーム・アーディル・シャー2世(在位1580-1626年)によって建造され、廟には彼自身と彼の妻、息子、娘たちが埋葬されている。ゴール・グンバズと同じく、このイブラーヒーム・ラウザーにも音のマジックが施されている。モスクで西を向いて声を出すと、東にある廟にまでその声が届くようになっている。つまり、モスクで唱えたナマーズ(イスラーム教のお経)が、常に廟の自身の墓まで聞こえるように設計されているのだ。また、イブラーヒームは道楽好きのスルターンだったようで、それを象徴しているのが廟の入り口にある模様。いわゆる一筆書きになっており、スタート地点からゴール地点まで1本の線になっている。廟の外壁には今でも果物などの絵がかすかに残っている。左側の建物は、アーグラーのタージ・マハルのモデルになったと言われている(デリーのフマーユーン廟や、マーンダヴのホーシャン廟も、タージ・マハルのモデルになったと伝えられている)。





イブラーヒーム・ラウザー


一筆書きの彫刻


 いい日陰が見つかったので、イブラーヒーム・ラウザーもスケッチすることにした。2つの建物を入れて描くのは難しかったので、モスク側を主に描くことにした。2時間半ほどで完成した。

 ビジャープルの主要観光地はゴール・グンバズとイブラーヒーム・ラウザーの2つで、入場料を取られるのもこの2つだが、この他にも町を歩いているといろいろな遺跡に巡り合う。イブラーヒーム・ラウザーの次に訪れたのは、マーリケ・マイダーン(戦場の王)と呼ばれる見所。ビジャープルを囲む城壁の上にあり、巨大な大砲が転がっている。長さ4.4m、直径1.25m、重さは55トンもあるという。1549年に製造され、1565年に実際に使用されたらしい。マーリケ・マイダーンの近くには、高さ24mのウパリー・ブルジという塔がある。1584年にイブラーヒーム・アーディル・シャー2世の命令によって建造されたそうで、上部には2基の細長い大砲が転がっている。上からはゴール・グンバズやイブラーヒーム・ラウザーなど、ビジャープルの各遺跡を見渡すことができる。この他、アリー・アーディル・シャー2世によって建てられた未完の廟バーラー・カマーン、ムハンマド・アーディル・シャーによって1646年に建てられた裁判所跡アサル・マハル、アリー・アーディル・シャー1世によって1561年に建てられた舞踊や演劇用の舞台跡ガガン・マハル、宮廷の玄関ホール跡メヘタール・マハルなどなどを見て回った。





マーリケ・マイダーン(戦場の王)



バーラー・カマーン
未完成の廟で、アーチだけが残る




舞台跡のガガン・マハル(空の宮殿)


メヘタール・マハル


 インドの町には、歩いて楽しい町と楽しくない町の2種類がある。前者は得てして歴史のある古い町や、伝統的な習慣の残っている町、またはインド最先端を行く近代的都市の繁華街などであり、後者はそれ以外と言える。ビジャープルは前者に当たる。遺跡があちこちに散在しているだけでなく、民家の建築もかなり古そうなものがたくさんあり、路地裏の人々の生活も昔とあまり変わっていないように思える。また、ターンガー(馬車)の客車や屋台などに、ちょっとした彫刻や装飾が施されているが多く、何となく文化を感じさせる。かつての王宮部には、いくつかの建築物が残っているが、それらのいくつかはそのままカルナータカ州政府の機関として使用されているようだ。バーザールも活気があって、歩き回ると面白い。外国人観光客はちょくちょく訪れているようだが、人々はまだ外国人には慣れていないようで、町を歩くと非常に注目される。子供たちは必ず「What's your name?」と質問して来るのがおかしかった。ミラーワークを施した部族的衣装を着た女性がちらほらいたのが気になった。周辺地域のトライブだろうか?(バンジャーラーという名前の部族らしい)昼過ぎになると、日向を歩くのが辛いくらい暑くなった。それでもデリーやムンバイーよりはマシである。




バンジャーラーの女性


 ビジャープルはカルナータカ州の町であり、カンナダ語が主に話されているが、ヒンディー語もよく通じるし、人々の間の会話を聞いてみるとヒンディー語で話していることもある。これは、ビジャープル王国時の公用語がヒンディー語であったことと関係していると思われる。この辺りの人々が話すヒンディー語はダッキニー語と呼ばれ、北インドで話されているヒンディー語とは異なる独特の特徴を持っている。ムスリムが多いため、ヒンディー語と言うよりウルドゥー語を話していると認識している住民たちも多い。アーンドラ・プラデーシュ州の州都ハイダラーバードもそうだが、ビジャープルも南インド的要素と北インド的要素がミックスされている場所である。マハーラーシュトラ州からカルナータカ州に入ると突然何もかもが南インドになるわけではない。

5月23日(日) 力士の町、コーラープル

 せっかくカルナータカ州に来たのだが、すぐに再びマハーラーシュトラ州に戻る。ビジャープルのバススタンドで、早朝6時45分発のコーラープル行きのバスに乗った(78ルピー)。一昨日来た道をそのまま戻っただけなので、特に新しい発見はなかった。4時間半ほどでマハーラーシュトラ州コーラープルに到着した。コーラープルでは同じくホテル・ツーリストに宿泊した。

 前回コーラープルに来たときはろくに観光しなかったが、今回は主な観光地を見て回った。まず訪れたのはマハーラージャーの宮殿。コーラープルには旧宮殿と新宮殿があり、旧宮殿はヒンドゥー寺院(バヴァーニー・マンダプ)に、新宮殿は博物館(シュリー・チャトラパティ・シャーフー博物館)になっている。旧宮殿は旧市街の中心に位置し、周りにはバーザールが広がっている。しかし残念ながら日曜日は休日のようで、町のほとんどの店は閉まっていた。新宮殿は町の外れにあり、多くのインド人観光客が訪れていた。入場料は13ルピー。展示物は、宮殿博物館によくある品々――マハーラージャーの所有物、家具、武器、肖像画、写真、動物の剥製、その他のコレクションなどなど――で、はっきり言って大したことなかったが、ダルバール・ホールの豪華さはなかなかのものだった。コーラープルはクシュティー(インド相撲)の有能な力士を輩出する町として有名らしいが、それはどうもマハーラージャーが積極的に保護奨励したためだと思われる。博物館には、グジャラート州バーヴナガルの力士とコーラープルの力士が対決している写真などが飾られていた。新宮殿の近くにはモーティーバーグ・ターリムという力士の道場や、カースバーグ・マイダーンという相撲用のグラウンドもあり、運がいいと力士たちの練習風景や試合が見られるようだが、日曜日は特に何も行われていないそうで、訪れなかった。また、旧宮殿には記念碑が立っており、そこにはオリンピックに出場したレスラーたちの名前が刻まれていた。





バヴァーニー・マンダプ


新宮殿


 その後、シティーホール博物館にも行ったが(入場料3ルピー)、展示物は非常にしょぼかった。コーラープルはなぜか非常に過ごしやすい町に思えたが、見所はそれほど多くないようだ。もしかしたら何か他にも見所があるかもしれないが、日曜日だったためツーリスト・オフィスも休みで、観光情報を得ることができなかった。シティーホール博物館は地元の人々に見所を聞いた結果、訪れることができたが、見ても見なくてもいいような内容だったのでがっかりした。どちらにしろ今日は基本的に休息日に当てようと思っていたので、結果的に精力的に観光はしないで済んだ。ホテル近くのインターネット・カフェでメールをチェックしたり、偶然発見したカフェ・コーヒーデイで久しぶりにおいしいコーヒーを飲んだりして時間を潰した。

5月24日(月) 絶景の避暑地、マハーバレーシュワル

 1週間前にマハーラーシュトラ州の代表的な避暑地、マーテーラーンを訪れたが、今日はもうひとつの有名なヒル・ステーションであるマハーバレーシュワルを訪れる。4〜6月はハイシーズンらしいので、その中でも最も混雑すると思われる週末を避け、週末リゾート客が帰る月曜日に現地に到着するように、巧妙に旅程を立てた。

 コーラープルのバススタンドで早朝6時発ローハー行き(途中マハーバレーシュワルを経由)のバスに乗った(89ルピー)。プネーに通じる国道4号線を北上し、サーターラーで西に折れて山道に入る。グングン標高は上昇し、辺り一面ジャングルとなる。マハーバレーシュワルはマーテーラーンと違って町の中心部まで舗装された道路が続いており、バス、タクシー、自家用車などの車両が入ることができる。コーラープルから約5時間でマハーバレーシュワルに到着した。マハーバレーシュワルの標高は1372mである。空気は非常に冷たいが、日差しは強いという気候。日中、日向では汗ばむほど暑いが、日陰に入ったり、夜になったりするとけっこう冷える。

 バススタンドのすぐ近くはバーザールとなっており、安いホテルもそこに集中している。見たところホテルは乱立しており、土日に来ても簡単にホテルは見つかりそうだった。しかし値段を見て驚いた。どこもエアコンなしのダブル・ルームで1000ルピー以上は当たり前なのである。ハイシーズンになると、マハーバレーシュワルのホテルの宿泊料は2〜3倍に跳ね上がる。例え週末でなくてもシーズン料金は変わらず、このような馬鹿げた値段となっている。僕が泊まったホテルはサーイー・リージェンシーという、バーザールの真っ只中にあるホテル。ダブル・ルームで800ルピーだった。バスルーム、トイレ、石鹸、TV、ホット・シャワーなどはついているが、トイレは不潔で部屋にも清潔感がなく、こんな部屋に1泊800ルピーを出すのは許せなかった。なるべく迅速に観光を終えて、マハーバレーシュワルを去ることを決意する。やはり何日宿泊するのかをチェックイン前に聞かれたが、こんなホテルでもマーテーラーンと同じく週末は既に予約でいっぱいになるようだ。この時期に週末予約なしで避暑地に飛び込むと、泊まるホテルがないという悲惨な状況になりそうだ。

 マハーバレーシュワルでは、マハーラーシュトラ州観光局が毎日マハーバレーシュワル・ダルシャンという観光バスを運営している(1人48ルピー)。それを利用してマハーバレーシュワルの観光を安く手っ取り早く済まそうと考えていたのだが、バススタンドの予約カウンターで聞いてみると、既に本日分は売り切れとのことだった。マハーバレーシュワルでは観光タクシーが非常にシステマティックに運営されており、いくつかの観光コースがそれぞれ定価で販売されている。タクシーを利用してマハーバレーシュワル観光をすると、1台につき280ルピーかかる。マーテーラーンとは違って、マハーバレーシュワルの観光ポイントは広範な地域に散らばっており、徒歩ではとてもじゃないが回れそうにない。仕方がないのでタクシーをチャーターして観光することにした。タクシー・ドライバーの勧めに従って、ルート1とルート3を併せて観光してもらうことにした(合計560ルピー)。マーテーラーンとは違い、本日のマハーバレーシュワルの天候は快晴であった。

 まず向かったのはマハーバレーシュワルの北東部にあるケイツ・ポイント。ここにはニードル・ホール・ポイントとエコー・ポイントもあり、3つのポイントが集中している。クリシュナー河が眼下に流れており、ダムらしきものも見えた。ニードル・ホール・ポイントというのは、まるで象の頭部のように崖の中に穴が開いている部分だった。次に来たのはオールド・マハーバレーシュワル。ここにはいくつかの古い寺院があり、特にパンチガンガー寺院では、クリシュナー河、ヴェーンナー河、コーイナー河、サーヴィトリー河、ガーヤトリー河の5つの河の水がミックスされた水にインド人が群がっていた。地名の元になったマハーバレーシュワル寺院というシヴァ寺院もある。次に訪れたのは、マハーバレーシュワル北部にあるエルフィン・ストーン・ポイント。その後、そこからさらに北部にあるアーサーズ・シート・ポイントへ行った。ここも複数のポイントが密集しているところで、最も観光客の混雑がひどかった。エコー・ポイント、タイガース・スプリング・ポイント、アーサーズ・シート・ポイント、ウィンドウ・ポイントなどなどがある。ここからは、シヴァージーによって建造された2つの要塞、プラタープガルとラーイガルの両方を見渡すことができ、絶景。マハーバレーシュワルの数あるポイントの中でも最も美しい景色を見ることができた。アーサーズ・ポイントとエルフィン・ストーン・ポイントの間には、サーヴィトリー・ポイント、キャッスル・ロック・ポイント、モンキー・ポイント、マージョリー・ポイントなどがある。モンスーン時にはサーヴィトリー・ポイントからサーヴィトリー河が流れ出る滝を見ることができるようなのだが、まだモンスーンになっていないため、水も滝もなかった。モンキー・ポイントには猿がいるわけではなく、そこから遠くの崖に「ガーンディーの三猿」に似た石を見ることができる。つまり、日光東照宮にある例の「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿のことである。最後に訪れたのは、マハーバレーシュワル西部のロドウィック・ポイントとエレファント・ヘッド・ポイント。ここの景色も非常に美しい。4時間のツアーで、合計16〜17ほどのポイントを見て回ることができた。





ニードル・ホール・ポイント



タイガース・スプリング・ポイントから
プラタープガルを臨む



アーサーズ・シート・ポイント


 単なる景色を見ても別に何の感慨も沸かないし、1人できれいな景色を見るのも虚しいが(新婚らしきカップルも多かった)、客観的に評価してみると、景色に関してはマーテーラーンよりもマハーバレーシュワルの方が一段上かもしれない。不幸にもマーテーラーンでは天候に恵まれず、あまり景色を楽しむことができなかったものの、マハーバレーシュワルの方がパワフルな景色が多かったように思われた。しかし、マーテーラーンの持つ独特の雰囲気には、マハーバレーシュワルがいくら頑張っても打ち勝つことはできないだろう。また、マハーバレーシュワルは、北インドの避暑地――シムラー、ダラムシャーラー、マナーリー、ムスーリー、ナイニータール、ダージリンなどなど――から、チベット色を抜き去ったような場所に思えた。北インドの避暑地には必ずチベット人が住んでおり、チベット仏教寺院があったり、チベット料理レストランがあったりするのだが、マハーラーシュトラ州の避暑地にはなぜかチベット色は皆無で、その代わりグジャラート色が強かった(マハーバレーシュワルにもグジャラート人避暑客が多いようだ)。また、どうもここの人々はパーンが好きなようで、至る所でパーンのにおいがプンプンしていた。そのにおいは、1年前に訪れたメーガーラヤ州やブータンを思い起こさせた。ノース・イーストの山間部と、このマハーラーシュトラ州の避暑地に、奇妙なリンクを見出した。

 マハーバレーシュワルはイチゴ、ラズベリー、クワの実、スグリの実などの木の実で有名のようだ。バーザールではそれらの木の実を売っている他、ジュース、アイスクリーム、ジャム、ファッジなども手に入る。しかし、それらよりも目を引いたのが炭火焼トウモロコシ(インドでは炭火焼が当たり前だが・・・)。バーザールや各ポイントで売られており、1本5〜10ルピーする。インド人がおいしそうに頬張っていたのに耐えかねて、僕も1本買って食べてみたが、塩とレモンで味付けがしてあってすごいおいしかった。

5月25日(火) プラタープガル&ラーイガル

 マハーラーシュトラ州では、至る所でチャトラパティ・シヴァージー(1630-1680年)の名を耳にし、彼の像を目にする。例えばムンバイーの国際空港の名前はチャトラパティ・シヴァージー空港だし、ヴィクトリア・ターミナスと呼ばれていた駅は現在ではチャトラパティ・シヴァージー・ターミナスに改名された。また、ムンバイーのインド門の前には、シヴァージーの像が立っている。シヴァージーは17世紀に勃興したマラーター王国の祖で、アウラングゼーブ率いるムガル朝やビジャープル王国のイスラーム勢力、インドに商館を建造し始めていたイギリス、ポルトガルなどと徹底抗戦した、マラーターの英雄かつインド独立の象徴的存在である。マハーバレーシュワルからは、シヴァージーに縁の深い要塞、プラタープガルとラーイガルを訪れることができる。

 プラタープガルはマハーバレーシュワルから24kmほどの地点にあり、マハーバレーシュワル観光のひとつの目玉である。プラタープガルまでは、マハーラーシュトラ州観光局が運営する観光バスが毎朝出ている(53ルピー)。一方、ラーイガルはマハーバレーシュワルから80km以上離れた場所にあり、ローカルバスを乗り継いで行くか、タクシーで行くしかない。この2つの要塞を1日で回るため、僕はタクシーをチャーターすることにし、1300ルピーで話をつけた。ちなみに、マハーバレーシュワルからプラタープガルまでタクシーで往復すると、定価は450ルピーとなっている。

 朝8時半頃にマハーバレーシュワルを出発し、まずは遠くにあるラーイガルへ向かった。マハーバレーシュワルからムンバイー方面へ向かう道を下り、山の麓にあるポーラードプルで、ムンバイーとゴアを結ぶ国道17号線に出る。国道17号線をムンバイー方面に向かい、途中マハードを経由してさらに北上すると分かれ道がある。岩に「ラーイガル・ロープウェーはこちら」とデーヴナーグリー文字で書かれているので、そこから幹線を外れる。その分かれ道からさらに22kmほど進むと、ラーイガルに到着する。マハーバレーシュワルから約2時間かかった。

 ラーイガルは断崖絶壁の山の上にあり、そこまで登るには2つの方法がある。ひとつは1460段の階段を登って行く方法、もうひとつはロープウェーを利用する方法である。階段を登って行くと往復5〜6時間はかかり、日帰りが難しくなるので、無難にロープウェーを利用することにした。往復110ルピー。このロープウェーは、おそらく僕が今まで利用したロープウェーの中で最も急角度の傾斜を登って行く。地上から頂上まで数分で着いてしまった。ラーイガルの入場料はインド人5ルピー、外国人100ルピー。ヒンディー語で「チケット1枚くれ」と言ったら、何の質問もなくインド人用チケットをくれた。ここにはあまり外国人は訪れないのかもしれない。

 ラーイガルはシヴァージーが興したマラーター王国の首都だった場所である。元々アハマドナガル王国(後にビジャープル王国)の一領主の息子だった彼が1674年に戴冠式を行って独立したのも、1680年に没したのも、この地であった。だが、19世紀にマラーター王国がイギリスによって滅ぼされると、ラーイガルはイギリス人によって破壊されてしまった。よって、ラーイガルの遺跡はほとんど廃墟となってしまっている。

 ラーイガルには、シヴァージーの王座、ディーワーネ・アーム(一般謁見の間)、ディーワーネ・カース(貴賓謁見の間)、後宮、インド門に似た門、ジャグディーシュワル寺院(シヴァ寺院)、シヴァージーの墓、バーザール跡、ガンガーサーガル(貯水池)などなどが残っている。面白かったのはトイレである。シヴァージーの王宮や、6人の后の部屋それぞれに下水道付きのトイレが付いていた。インドの宮殿や住居の遺跡で、各部屋にトイレが付いているものは、インダス文明の遺跡を除けば初めて見たかもしれない。特に王妃の部屋に付いていたトイレは今でも使えそうだった(というか、こっそり使わせてもらった)。バーザール跡も興味深い。ラーイガルのバーザール跡には、通りを挟んでずらりと店の跡が立ち並んでいるのだが、それらの床は全て非常に高いのである。なぜかというと、シヴァージーやその兵卒たちは馬に乗ったままショッピングしたからである。数十軒の店が並んでいるが、その中でひとつだけ壁に蛇の彫刻が刻まれたものがある。店主の名前が「ナーグ(蛇)某」と言ったため、それを示すために蛇の彫刻を刻んだそうだ。一種の看板ということだろう。王宮から離れた地点にはジャグディーシュワル寺院があり、シヴァリンガが祀られている。また、寺院のそばにはシヴァージーの墓があるが、これは20世紀に造られたもので、古いものではない。シヴァージーの墓のそばには、彼の愛犬の墓まである。また、王宮からも寺院からも離れた崖の縁は、パニッシュメント・ポイントと呼ばれる場所になっており、罪人がここから突き落とされたりしたそうだ。王宮跡とバーザール跡の間にはシヴァージーの像とヘリポートがある。このヘリポートは、故インディラー・ガーンディー元首相がラーイガルを訪れたときに整備されたそうだ。





ラーイガルはこの山の上にそびえる



王宮入り口



王宮の一部



後宮のトイレ



バーザール跡



ジャグディーシュワル寺院


シヴァージーの愛犬の墓


 ラーイガルのロープウェー乗り場では、ちょうどTVドラマの撮影を行っており、映画俳優スディール・ダールヴィーがいた(「Kyunki... Saas Bhi Kabhi Bahu Thi...」などに出演)。しかしそのおかげで帰りのロープウェーになかなか乗れず、30分くらい待たされることになった。

 ラーイガルから来た道を戻り、マハーバレーシュワルから24kmの地点にあるプラタープガルを訪れた。プラタープガルは1656年にシヴァージーによって建造された要塞で、シヴァージーの氏神であるバヴァーニー女神を祀る寺院がある。シヴァージーの母親もここに住んでいたそうだ。ただ、ラーイガルと同じくイギリス人によって徹底的に破壊しつくされている上に、マハーバレーシュワルから近いこともあって、ラーイガルよりも重度に観光地化されていた。ただ、ここはマラーター王国のペーシュワー(宰相:マラーター王国は18世紀以降、宰相が統治の実権を握った)の末裔の私有地で、入場料は無料である。砦の中にも民家があるが、彼らもマラーター王国の兵卒の末裔という話である。ちなみにペーシュワーの末裔のボーンスレー家は、現在サーターラーに住んでいるそうだ。

 プラタープガルも石段を登って行かなくてはならないが、要塞の入り口のすぐ近くに駐車場があるため、苦にはならない。故ジャワーハルラール・ネルー元首相が訪れたときに、きれいな石段が整備されたという。その代わり、元々あった階段のほとんどは埋もれてしまった。プラタープガルでは、城壁、城門、見張り塔などは残っているものの、宮殿跡などは全く残っておらず、現在城の内部は公園になってしまっている。また、頂上へ続く階段の脇には、ジュースやお土産を売る店が並んでいて、俗っぽい雰囲気になってしまっているのも残念である。唯一面白かったのは、城の隅の方に逃げ道が用意されていたことである。プラタープガルでは、シヴァージーがビジャープル王国の将軍アフザル・カーンを殺害した伝説が有名で、アフザル・カーンの墓がプラタープガルの近くにあるが、現在そこには行けないようになっている。





プラタープガル遠景



第一城門


第二城門付近から
見張り塔跡を臨む


 この他にもマハーバレーシュワルの近くにはもうひとつ要塞があるようだが、そこへ行く道路は用意されておらず、トレッキングしながら登って行くしかないという。

 遠くまで行った甲斐があり、プラタープガルよりも断然ラーイガルの方が見て面白かった。時間があれば石段を登ってラーイガルを訪れたかったのだが、辺鄙な場所にあるため、公共交通機関でマハーバレーシュワルから日帰りで行くのは難しいかもしれない。一応ラーイガルの頂上には、マハーラーシュトラ州観光局が経営するゲストハウスがあるので、そこで一泊するつもりなら楽だろう。

5月26日(水) 観光拠点、アウランガーバードへ

 酷暑期(4月〜6月)のマハーラーシュトラ州がいったいどのくらいの暑さなのか、よく分からないまま行き当たりばったりで飛び出した今回の旅行だったが、今までは比較的過ごしやすい地域が多く、自分の選択の正しさに密かにほくそ笑んでいた。しかし、マハーラーシュトラ州といってもムンバイーなどのあるアラビア海沿いから、インド一暑いと言われる内陸部のナーグプルまで、気候は様々である。今日は同州随一の避暑地マハーバレーシュワルから、同州有数の観光拠点アウランガーバードまで一気に移動した。

 マハーバレーシュワルのバススタンドを早朝6時半に出発するプネー行き始発バスに乗り込んだ(60ルピー)。バスは山道を下って行き、ワーイーなどを経由して、やがてカンダーラー(ローナーヴァラー近くにあるカンダーラーとは別)でプネーとバンガロールを結ぶ国道4号線に合流した。幹線に出てからバスは猛スピードで北上し、午前10時頃にはプネーのトレイン・ステーション・バススタンドに到着した。予想よりも早く着いてくれたのでありがたかった。

 プネーには3つの長距離バススタンド(シヴァージーナガル・バススタンド、トレイン・ステーション・バススタンド、スワールゲート・バススタンド)があるが、アウランガーバード行きのバスが発着するバススタンドはシヴァージーナガル・バススタンドだったので、オート・リクシャーに乗ってそこへ向かった。ちょうど午前10時半発アウランガーバード行きのバスがあったので、それに乗り込んだ(112ルピー)。

 プネーはまだそれほど暑くなかったが、プネーを出て北東の方向へ走り出すと、みるみるうちにバスの窓から入ってくる風が熱風に変わってきた。しばらく涼しいところにいて忘れかけていたインドの酷暑を否応なく思い出さされた。すぐにプネーに取って返そうかと考えたほどだ。プネーからアウランガーバードまで約220km。途中、アウラングゼーブが没した地、アハマドナガルを経由し、約5時間半でアウランガーバードに到着した。

 アウランガーバードを拠点にバスでアジャンター、エローラ、ローナールなどを巡る予定なので、ホテルはバススタンドの真ん前にあるホテル・アジンキャーにした。ダブル・ルームをシングル料金で220ルピー。バスルーム、タオル、石鹸、TVなど完備である。マハーラーシュトラ州に来て以来、やっとまともな料金のホテルに泊まることができたような気がする。基本的に僕は、いろいろな経験から、外国人旅行者の多い町では安いホテルに、外国人旅行者の少ない町では高いホテルに泊まるようにしている。その一番の理由は、外国人旅行者がインドのホテルに宿泊する際に記入を義務付けられているフォームCという書類が、外国人に慣れていないホテルには置いていないことが多いためだ。そのフォームCがホテルに用意されていないために宿泊を拒否される場合も多い。

5月27日(木) アジャンター石窟寺院

 アーグラーのタージ・マハルに並ぶインド最大の観光地はどこかと聞かれたら、おそらくアジャンターの石窟寺院群を挙げる人は少なくないだろう。紀元前2世紀〜紀元後7世紀までの仏教の石窟寺院が30窟も密集しており、その内壁に残っている壁画は、当時の最高水準のものと言われている。ユネスコの世界遺産にも登録されており、日本人観光客も多く訪れる、インドを代表する遺跡である。ちなみに「アジャンター(ajantaa)」とはサンスクリト語で「無人の地」という意味である。アジャンターの近くには「アジンター(ajinThaa)」または「アジャンター(ajanThaa)」という村がある。

 1999年春、インドを初めて旅行したときに僕はアジャンターを訪れた。もう5年以上前のことになる。おそらくその時期は、インドの遺跡を外国人料金を気にせずに気軽に回ることができた最後の期間だったのではないかと思う。インド人観光客も今ほど多くなく、ほとんどの遺跡は閑散としていたのを覚えている。アジャンターもあの頃は非常に平和だった。外国人料金などなかったし、警備も無いに等しかった。だが、翌年、2000年春にインドを再度旅行したときには、既にタージ・マハルなどで外国人料金が適用されていたし、いつの間にかインド人観光客が大挙してインドの遺跡に押しかけるようになっていた。今思えば、ギリギリセーフというかラッキーだったというか、本当にあのときにインドを旅行しておいてよかったと思っている。

 アジャンターもあれからだいぶ変わってしまったと聞いていた。最も大きな変化は、日本のJBIC(国際協力銀行)がアジャンターの遺跡保護を請け負ったことだろう。アジャンターは既に見た遺跡だったが、せっかくアウランガーバードまで来たことだし、いったい5年の間にアジャンターがどう変貌したのか見てみたくて、壁画で彩られた石窟寺院群を再訪することに決めた。アジャンター石窟寺院の壁画、彫刻、建築については非常に情報が豊富なため、ここでは5年前に訪れたアジャンターとの違いになるべく焦点を絞って感想を述べる。

 アウランガーバードのバススタンドで、早朝6時発ジャルガーオン方面行きのバスに乗り込んだ(55ルピー)。アウランガーバードからアジャンターまでは約110kmある。約2時間の道のりである。アウランガーバードから北に向かったバスは、途中いくつかのバススタンドで停車しつつデカン高原の荒野を突っ走った。途中ひとつの山を越え、向こうに何やら田舎らしからぬ施設が見えるな、と思っていたら、そこがアジャンターの入り口であるTジャンクションだった。

 5年前は、バスはアジャンター石窟寺院の入り口の真下まで行っていたのだが、現在では石窟寺院から4km離れた幹線沿いのT字路で通行止めになっている。そこからはみんなシャトルバスに乗って石窟寺院まで行かなくてはならない。石窟寺院の麓を埋めていたお土産屋の数々も撤去され、Tジャンクションにディッリー・ハート風の近代的市場ができていた。全て日本政府の援助により造られたものである。まずはそのTジャンクションに入るところで、アメニティー・フィーなるものを払わされる。1人5ルピーである。Tジャンクションの市場には、アジャンター付近で取れる鉱石などのお土産物を売る店や、安食堂などがある。朝食を食べずに来たので、とりあえずそこでプーリー・バジーを食べてペート・プージャー(腹ごしらえ)した。市場を抜けるとシャトルバス乗り場がある。シャトルバスには、エアコン付きのバスと普通のバスの2種類があり、値段が違う(前者が10ルピー、後者が6ルピー)。シャトルバスは時間で運行されているのか、満員になったら出発するシステムを取っているのか曖昧だったが、僕が乗ったらちょうど出発した。





Tジャンクションのバーザール


シャトルバス


 数分でアジャンター石窟寺院の真下まで到着した。この辺りはまだ工事中で、整備されていなかった。開場時間は午前9時。チケット・オフィスが開くのを10分ほど待った。チケットはインド人10ルピー、外国人250ルピーである。外国人は例えソニア・ガーンディーでも外国人チケットを買わされる。この他、壁画がよく残っている第1窟、第2窟、第16窟、第17窟に入るためのライト・チケットなるものも買わなければならない。これは1グループ(1〜20人)5ルピーという料金設定である。チケットを買った後、階段を上って、昔のチケット売り場の前を通ってアジャンター石窟寺院の第1窟付近でチケットを見せ、入場となる。

 つまり、アジャンター石窟寺院に入場するまでに、アメニティー・フィー5ルピー、シャトルバスの運賃6ルピーまたは10ルピー、入場料10ルピーまたは250ルピー、ライト・チケット5ルピーと、小刻みにチケットを買わされることになる。これにはインド人観光客も、「どうしてチケットをひとつにまとめないんだ」と文句を言っていた。特に外国人観光客は250ルピーもの大金を払うのだから、それで全部まとめてしまってもいいだろう。非常に不満が募った。この他、アジャンターの公式ガイドの定価は280ルピーらしい。何から何まで高い。日本が関ってしまったからこうなってしまったのだろうか?

 第1窟から順番に観光を開始した。第1窟は世界史の教科書などに必ず出てくるパドマパーニ・ボーディサッタヴァ(蓮華手菩薩)で有名である。壁と天井を埋め尽くす壁画の数々はやはり素晴らしく、この場に再び戻って来れた幸せを急に実感してしまった。しかし、昔は壁画のそばまで行って鑑賞することができたのに、今では柵ができてしまって、離れた位置から見なければならなくなってしまっていたのが残念だった。しかも照明は薄暗く、絵をはっきりと見ることができない。これは第2窟、第16窟、第17窟でも同じであった。写真は、フラッシュなしなら撮影してもいいということになっているが、フラッシュなしでこれらの壁画の写真を撮ろうと思ったら、一般の観光客が持っているようなカメラは全く役不足であろう。また、壁画の保護のためか、絵の周囲が何かで固められており、非常に不恰好になってしまったように感じた。





第1窟の蓮華手菩薩
僕のデジカメではこれが精一杯



第16窟の壁画
不自然な保護の仕方に思えた


 アジャンター石窟寺院は、おそらくガイドがいるといないとでは理解の度合いが天と地ほど違うだろう。しかし1人で見て回っているのにガイドを雇うのに280ルピーも払うのは馬鹿馬鹿しい。過去に旅行したときには一応ガイドに案内してもらったので、今回はガイドを頼まなかった。というか、朝一番でアジャンターへ行ったため、まだほとんどガイドは到着していなかった。だが、それでもやっぱりガイドがいた方がいいと思った。ガイドがいないと、アジャンター観光は洞窟探検で終わってしまうだろう。ただ、各遺跡の管理人や掃除人(!)が小遣い稼ぎにガイドをしてくれるところがあった。ここの人々は掃除人まで英語をしゃべれるのでビックリした。

 アジャンターの石窟寺院は30窟あるそうだが、観光客に開かれているのはその内の3分の2ほどで、見所のある石窟となると第1窟、第2窟、第9窟、第10窟、第16窟、第17窟、第24窟、第26窟くらいである。全てをゆっくり見て回ると、おそらく2時間ほどかかるだろう。石窟寺院の他、アジャンターの馬蹄型峡谷を一望の下にできる展望台がある。全ての石窟寺院を見終わったときには11時頃になっており、もうだいぶ暑くなっていたが、頑張って展望台まで登って行った。もちろん汗びっしょりになったが、風があったのでそれほど辛くはなかった。展望台付近はほとんど整備されておらず、食堂らしきものが建設中だった。




展望台から見たアジャンター


 アジャンター内部、つまりチケットが必要な区域には飲み物などを売る店が一切ない。ただ、途中に冷水器が置いてあるため、冷たい生水ならただで飲むことができる。また、展望台まで行けば地元の人がコカコーラなどを売っている。

 アジャンターからTジャンクションに戻るのにもまたシャトルバスの運賃が必要で、これでアジャンター観光での出費は一応終了する。Tジャンクションではお土産屋たちが親切かつ強引に観光客に何かを買わせようとしてくる。昔から観光客の多い場所なので、こういう場所でお土産を買おうと思ったら相当身構えてかからないと、かなり高額な買い物となってしまうだろう。気になったのは、Tジャンクションの市場には120軒の店舗が建てられているにも関わらず、開店していたのは十数軒ほどだったことだ。現在は酷暑期でオフ・シーズンであることもその理由かもしれないが、シャッターが閉められた店舗が多いと閑散とした印象になってしまう。聞いてみると、1店舗の家賃は一月2000ルピーだそうだ。それが彼らにとって高いか安いかは分からないが、もしこの家賃がネックとなってこんなに閑散としているのなら、日本政府は何とかしなければならないと思った。また、食堂はほとんど露店になっており、ビニール・シートなどでこしらえた日陰にテーブルや椅子を置いて商売をしていた。ちゃんとした食堂はTジャンクションにはまだないようだ。せめてパンカー(天井のファン)くらいは欲しい。また、市場にはほとんど屋根がないのも問題に思えた。いっそのことモールのように市場全体を屋根で覆って、全館エアコン完備などにしまった方がいいと思うのだが・・・。Tジャンクションで店を持っている人に、「アジャンターでの商売は昔と今とどっちがよかったか?」と聞いてみたら、「昔と比べていいところもあるし、悪いところもある」と答えた。日本政府が整備している割には、いろいろな問題点が目立ったアジャンター観光であった。

 再び2時間かけてアウランガーバードに戻った後は、簡単にアウランガーバード観光をした。アウランガーバード最大の見所は、アウラングゼーブが建造した王妃ラビアッダウラーニーの廟、ビービー・カ・マクバラーである。「貧乏人のタージ・マハル」という呼称の通り、アーグラーのタージ・マハルをスケール・ダウンして造られた廟である。入場料はインド人5ルピー、外国人100ルピー。ここも外国人がインド人料金で入場するのは難しい。チケット売り場は門の中にあるため、門まで入ってそこから廟を眺めて写真を撮るだけでも十分である。




ビービー・カ・マクバラー


 ビービー・カ・マクバラーの後方には、アウランガーバード石窟寺院群がある(インド人5ルピー外国人100ルピー)。アウランガーバードは以前来たときも観光したが、ここは初めて来た。アウランガーバード石窟寺院群には、6世紀〜7世紀の仏教石窟寺院が10窟残っている。第7窟の彫刻が一番の見所だろう。仏教寺院にも関わらず、第6窟にはガネーシュが祀られているのも興味深かった。

 パーンチャッキーもアウランガーバードの観光地のひとつである(一律5ルピー)。パーンチャッキーには6km離れた河から水が引かれた池があり、隅では水車(パーンチャッキー)が動いている。モスクとダルガーも併設されており、アウラングゼーブのグルだったバーバー・シャー・ムザッファルが埋葬されている。池と木陰のおかげで涼しいので、暑さから逃れてくつろぐにはもってこいの場所である。

5月28日(金) エローラ石窟寺院

 アジャンター石窟寺院と並び称されるインド最大級の観光地がエローラ石窟寺院である。アウランガーバードから約30kmほどの地点にあり、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の3つの宗教の石窟寺院が一箇所に固まっている珍しい場所でもある。「エローラ(Ellora)」とは、地元の村の名前「ヴェールル(Verul)」を英国人が聞き取って表記したものだそうだ。そのデーヴナーグリー文字表記を読むと「エーローラー」または「エーッローラー」になるが、これは英語名ということでカタカナ表記の例外扱いし、「エローラ」としておく。

 エローラ石窟寺院も、1999年春にインドを旅行した際にアジャンターと併せて訪れた。エローラの最大の目玉である第16窟カイラーシュ寺院(別名ラング・マハル=色の宮殿)に度肝を抜かれたのを鮮明に覚えている。何しろ岩山を上から削って行って造った、全長50m、幅55m、高さ30mの世界最大の彫刻作品なのである。岩山の上に登って、興奮冷めやらないままスケッチをしたものだった。多分、カイラーシュ寺院はインドの遺跡の中で僕の最も好きな建築物のひとつである。そのカイラーシュ寺院に再びあいまみえるため、エローラを再訪した。5年前に訪れたときはエローラの石窟寺院を見て回るだけで精一杯だったのだが、今回はアウランガーバードとエローラの間にある、クルターバードとダウラターバードも訪れることに決めていた。

 エローラ石窟寺院は早朝6時から開いているが、僕はアウランガーバードのバススタンドを朝6時45分に出発するスーラト行きのバスに乗ってエローラに向かった。30分強でエローラの遺跡の入り口にあるT字路に到着した。アジャンターと違ってあまりこのT字路付近の風景を覚えていないのだが、食堂や売店の数が増えたような気がした。遺跡の前にも立派な駐車場ができ、公園のようになっていた。まずはT字路の食堂で軽く朝食を食べた。

 アジャンター石窟寺院は入り口から順番に第1窟、第2窟、第3窟・・・と続いていくが、エローラ石窟寺院は遺跡の敷地内に入ると突然メインの第16窟が目に飛び込んでくるようになっている。なるべく朝の空いている時間にカイラーシュ寺院を見ておきたかったので、いきなり第16窟に向かった。エローラには合計34窟の石窟寺院があるが、その中で入場料が必要なのはこの第16窟だけである。アジャンターと同じく世界遺産に登録されているため、料金はインド人10ルピー、外国人250ルピーと高い。潔く外国人チケットを買った。

 5年前に来たときはほとんどインド神話に無知だったため、純粋に壮大な建築を見ていたのだが、あれからヒンドゥー教の神話については相当知識が蓄積されたため、今回は主に寺院を彩る彫刻に目が行った。西向きの入り口を入るとまずはガジャ・ラクシュミー(象と一緒のラクシュミー女神)に歓迎される。そこから左に向かうと巨大な象の石像があり、柱が立っている。象の裏側には、河の三女神、ガンガー、ヤムナー、サラスヴァティーの立像があり、それぞれワニ(カワイルカ)、亀、象に乗っている。そのまま本殿の周りを囲む壁に沿った回廊を時計回りに回っていくと、インド神話を題材としたいろいろな彫刻が並んでいる(ランケーシュワルと呼ばれているそうだ)。ここは光があまり入っていなくてよく見えないのが残念だが、保存状態は非常にいい。北面から東面、そして南面の彫刻を見て、一旦その回廊から下り、その隣の階段を登っていくと、そこは女神の集会場のようになっている。13体ほどの女神の坐像に加え、ガネーシュの像がぐるりと三方を取り囲んでいる。今回、何となくこのスペースが一番気に入った。本殿の方を見てみると、本殿の下部では象や奇怪な動物たちが寺院を支えている。壁面の神話絡みの彫刻も素晴らしく、南面のラーマーヤナと、北面のマハーバーラタの彫刻や、カイラーシュ山を揺さぶるラーヴァンの彫刻などが目を引く。壁の所々には色が残っており、装飾模様や絵が見られる。完成時は寺院全体がカラフルな色で彩られていたのだろう。本殿の階段を登り、2階へ行くと、そこがメインホールのガルバグリハとなっている。シヴァ神の住むカイラース山を主題にした寺院だけあって、メインホールにはシヴァリンガが祀られている。





カイラーシュ寺院


女神の集会場


 カイラーシュ寺院の彫刻を見ていて思ったのは、これは当時のインド映画ではないか、ということだ。カイラーシュ寺院はラーシュトラクータ朝のクリシュナ1世が7世紀に造営を始め、完成には150〜200年の歳月がかかったと言われている。もちろんその時代に映画などはないが、インド人の趣向にそれほど変化はないはずで、当時の人々にとってこの寺院はまるでオールスターキャストの一大娯楽映画のような存在だったのではないか。壁面を飾る神様たちの彫刻は、信仰心というより、来た人を楽しませよう、ビックリさせよう、爽快感を胸に帰ってもらおう、と意図して造られているように思えた。きっと当時も現在と同じく、寺院にはパンディト・ジー(僧侶)の唱えるマントラ(お経)よりも、人々の喧騒や子供たちのはしゃぎ声が響いていたのではないだろうか。

 カイラーシュ寺院に比べたら他の石窟寺院はどれも見劣りしてしまうものばかりだが、いくつかはそれでも見る価値がある。仏教の石窟寺院は第1窟〜第12窟で南に固まっており、ヒンドゥー教の石窟寺院は第13窟〜第29窟で中間に位置し、ジャイナ教の石窟寺院は第30窟〜第34窟で、北の端にある。仏教窟では第5窟、第10窟、第12窟辺りが重要で、ヒンドゥー教窟では第14窟、第15窟、第16窟、第21窟、第29窟が素晴らしく、ジャイナ教窟では第31窟、第32窟あたりがよくできている。ヒンドゥー教窟の第17窟〜第29窟と、ジャイナ教窟は、カイラース寺院から離れた場所にあるため、そこから歩いていくとかなり疲れる。ただ、第27窟から第29窟までは崖に沿った細い道(おそらく当時のままだろう)を歩いていかなければならくて、なかなかスリリングである。全ての石窟寺院を見て回ると3時間はかかるだろう。僕は11時頃にエローラ観光を終えた。

 その後、エローラから3km離れたクルターバード(またはクルダーバード)へ行った。ここにはアウラングゼーブの墓があるのだが、皇帝の墓にしては非常にシンプルである。アウラングゼーブ自身の要望に従って、質素に埋葬されたそうだ。だが、そのおかげで見ても何も面白くない。アウラングゼーブには悪いが、別にわざわざ訪れる必要もない場所だと思った。

 クルターバードから乗り合いオートを拾って、そこから約10kmの地点にあるダウラターバードへ行った。ダウラターバードは元々デーヴギリ(神の山)と呼ばれており、ヒンドゥーのヤーダヴ朝が建造した難攻不落の要塞だったが、1294年にキルジー朝のアラーウッディーン・キルジーの侵略を受け、1296年に陥落した。以後、デーヴギリは北インドのムスリム王朝のデカン支配の拠点となった。1327年にはトゥグルク朝のムハンマド・トゥグルクがデリーからこの地に遷都を企て、デリーの全市民を40日間で1100km離れたデーヴギリまで徒歩で強制的に連れて来させた。その際、デーヴギリはダウラターバード(富の町)に改名された。当然のことながらデリーからダウラターバードまで移動してくる際、多くの人々が死亡し、ここまで辿り着いた人々も狂王ムハンマド・トゥグルクの政策に不満を募らせていた。結局トゥグルク朝の首都は1334年に再びデリーに戻された。その後もダウラターバードはバフマニー王国、アハマドナガル王国、ムガル朝と支配者を変えて来た。よって、ダウラターバードには各時代の遺構が混在している。




ダウラターバード


 ダウラターバードは200mの高さの山の上にある要塞であり、つまりは山登りをしなければならない。まずは要塞の入り口にある食堂で昼食を食べて腹ごしらえをし、ゆっくりと歩き出した。時計は1時頃になっており、一番暑いときだ。しかし進み続けなければならない。入場料はインド人5ルピー、外国人100ルピー。まずは山の麓まで、日陰のほとんどない道を歩いていかなければならない。堅固な門をいくつかくぐっていくと、前方に赤い塔が見える。チャーンド・ミーナール(月の塔)という名の塔で、高さは60m、インドで2番目に高い塔らしい。ちなみに1番はデリーのクトゥブ・ミーナールである。チャーンド・ミーナールの向かい側にはジャーミ・マスジドというモスクがある。しかしここは実はヒンドゥー寺院となっており、バーラト・マーター(インドの守護女神)が祀られている。元々ヒンドゥー教寺院とジャイナ教寺院を破壊して造られたモスクだったらしいが、それがヒンドゥー教寺院にそのまま転用されているのは面白い例である。また、寺院のそばには巨大な貯水池がある。篭城戦になった際、兵士たちを6ヶ月養うことができるだけの水が貯まっていたという。







バーラト・マーター寺院
チャーンド・ミーナール


 そのまま本道に沿って進んでいくと、やがて山の麓まで着き、階段が始まる。いろいろな建築物の残骸が残っているが、多くは閉ざされていて入れないようになっている。そのまま道なりに進んでいくと、ガイドらしき男が話しかけてきた。ダーク・システムを見せてやる、と言う。「何だそのダーク・システムは?」ということで、彼に案内してもらうことにした。ダーク・システムとは、デーヴギリ時代に造られた侵入者撃退用の一種の罠だった。山の頂上まで登っていくためには、光の一切ない暗闇の中を進んでいかなければならないようになっている。そして各所には敵を殲滅させる各種の罠が用意され、容易には落城しないようになっている。ガイドはその罠の仕組みを松明で照らしながら案内してくれた。そのおかげでデーヴギリが難攻不落と言われた理由が分かった。現在では、そのダーク・システムの部分を通らずに頂上まで行く道があるが、ダウラターバードに来たらダーク・システムの道を通って登っていくと面白い。

 頂上まで登るのは相当疲れたが、汗びっしょりになりながらも30分ちょっとで到着した。一番上には、アウラングゼーブの名前が刻まれた大砲が置かれており、それを見ると一応ダウラターバードを制覇したことになる。頂上付近にある宮殿は風通しがよく、休息するのに持って来いだった。全てを見て回ると2時間はかかるだろう。

 ダウラターバードでアウランガーバード行きのバスを拾って帰った(13ルピー)。アウランガーバードに戻ってから、すぐにオートでシヴァージー博物館へ向かった。その名の通り、マラーターの英雄、チャトラパティ・シヴァージーに関する博物館である。入場料は一律5ルピー。インドの博物館にしては展示の仕方がきちんとしており、それぞれの展示物に現地語と英語で簡単な説明がしてある(この「当たり前」が出来ていない博物館はインドに多い)。照明もちゃんと展示物を引き立たせるように考えられてあった。小さいが、非常に好感が持てた博物館だった。展示物は、シヴァージーの時代の武器類、防具類、生活用品などや、コイン、絵、彫刻などである。特にシヴァージーがマラーター王国の独立を宣言したときに発行された金貨は非常に価値があると思われる。マハーラーシュトラ州各地の砦の写真も展示されており、既に訪れたプラタープガルやラーイガルの、また観光地として手付かずの状態の頃の写真も見ることができる。見ると当時の砦は、ほとんど緑に埋もれている状態である。それらの砦の写真を見ていると、マハーラーシュトラ州には本当に多くの砦があることを実感させられる。コーンカン・コーストではジャンジラー砦を見たが、あれはスィッディーの王朝が造ったもので別である。だが、その他にもアラビア海沿岸にはマラーター王国絡みの海の砦があるようで、例えばラトナギリ南方には、ヴィジャイドゥルグという、なかなか面白そうな砦があるようだ。マラーター王国は密林のゲリラ戦だけに長けていたわけではなく、海軍も擁していて、ポルトガル、イギリス、スィッディーらと海の支配権を争ったようだ。シヴァージー博物館は、マハーラーシュトラ州旅行をする際に立ち寄っておくと、なぜここまでこの州の人々にシヴァージーが敬愛されているのかを理解するのに役立つと思った。




マラーター王国独立記念の金貨


 ダウラターバードのところで少し触れたが、アウランガーバード周辺には、トゥグルク朝時代にデリー周辺部から移住して来た人々の末裔たちが多く住んでいる。また、ヒンディー語が公用語となっていたムスリム5王国の支配下にあったこともあった。よって、ここの人々はマラーティー語地域にありながら、今でもヒンディー語を非常によく理解し、日常会話でもさりげなくヒンディー語の変形であるダッキニー語を話しているように感じた。言語学的に非常に面白い現象である。

5月29日(土) 5万年前のクレーター、ローナール

 僕がマハーラーシュトラ州旅行を思い立った最大の原因は、同州に隕石落下跡(クレーター)があるのを知ったからである。アウランガーバードから東に約170kmの地点にあるローナールの郊外にあるのがそれで、今から5万年前にその地に隕石が落下したという。現在発見されている中では、ローナールのクレーターは地球上で3番目に大きいクレーターで、玄武岩上に出来たクレーターとしては世界最大らしい。

 170kmという距離は、日帰りには微妙な遠さである。タクシーをハイヤーすれば十分日帰り可能な距離だが、そろそろ予算が尽きかけているのでなるべく安く行きたい。だが、バスで行こうと思ったら、その日の内に帰って来られる可能性は100%ではない。何しろ田舎の町なのだ。交通の便がどうなっているか全く分からない。「行きはよいよい帰りは怖い」という状態は容易に推測できる。ロンリープラネット(英語の有名な旅行ガイド)には「アウランガーバードからバスで5時間、アウランガーバード行きの最終バスは午後5時」と書かれていた。また、ローナールの情報は少なく、いい宿があるかどうか、また週末に部屋は空いているかどうか、全く分からなかった。だが、アウランガーバードのバススタンドの質問カウンターで聞いてみたら、早朝4時半にローナールにダイレクトで行くバスがあるとのことだったので(その他には午前5時、7時45分にダイレクトのバスがあるようだ)、バスで日帰り可能と考え、早朝4時半発ワーシム行きのバスに乗り込んだ。

 こんな早朝だというのにバスはほぼ満席状態で、真っ暗闇のアウランガーバード市街を東に抜けて、ジャールナー方面に向けて突っ走った。次第に夜が明けてきて、辺りが青色に染まり始めた。日が昇ると気温はグングン上昇して来た。マハーラーシュトラ州は、プネーを越えると内陸部へ行けば行くほど暑くなるように感じる。バスの中では、隣の席に座っていたおじいさんがちょうどハイダラーバードのオスマニア大学ヒンディー文学修士卒の人で、ヒンディー文学話に花が咲いた。ジャールナーからデーウーランガーオン・ラージャー、スルターンプルなどを経由して、予定よりも1時間早く、午前8時半頃にはローナールのバススタンドに到着した。

 ローナールは非常に小さな村だろうと想像していたのだが、なかなかどうして、活気のある市場を中心とした割と大きな村、言うなれば小さな町となっていた。バススタンドもちゃんと立派なのが存在した。バススタンド周辺には、安宿がいくつかあるようだった。

 ローナールのクレーター近くには、マハーラーシュトラ州観光局が経営するMTDCリゾートというホテルがあることを知っていたので、朝食を取るため、またローナールの情報を集めるため、そのホテルへオートで向かった。地元の人々には料金は10ルピーだと言われたが、15ルピー払った。バススタンドから2kmほどの地点だった。

 MTDCリゾートは、まさにクレーターの真ん前にあった。目の前に突然ポッカリと円形の盆地があり、底にはエメラルドグリーンの湖が見えた。確かにこの世のものとは思えない風景である。宇宙からの来訪者が造ったとしか考えられない。とりあえずMTDCリゾートで朝食をとった。このホテルのレストランからはクレーターを眺めることができ、夕方にはクレーターの向こう側に沈む夕日を眺めることができそうだった。ダブルルームで400ルピーから部屋があり、僕が到着したときには宿泊客はちょうどインド人家族の2グループがチェックアウトして去っていくところだった。今はシーズンでないためか、彼らが去った後には宿泊客はゼロだった。宿はそれほど心配する必要もなかったようだ。MTDCリゾートでは、ホテルのパンフレットをもらうことができ、そこにローナールの一通りの説明がしてあった。

 朝食を終えた後、早速クレーターの方へ向かった。今回の旅行で一番訪れたかった場所であり、感動もひとしおだ。全体をカメラのフレームに収めることは難しいほど巨大で(直径1.8km、深さ132m)、パノラマ機能のあるデジカメなどが活躍しそうだった。ホテルから200mほど北東に行った場所に、インド地理調査局が立てたローナールのクレーターの石碑があり、その辺りから下へ降りる階段があった。階段に沿って降りて行くと、その麓にはヒンドゥー教寺院があった。ローナールのクレーターの底に出来ている湖の周囲は森林となっており、湖畔には12〜13世紀に建てられたヒンドゥー教寺院がポツリポツリと残っている(ダルガーも1つあった)。それらの寺院の名前などは、前述のインド地理調査局の石碑近くの看板にデーヴナーグリー文字で一応説明がしてあった。階段の先にある寺院は、ラームガヤー寺院というラームを祀った寺院だった。ラームガヤー寺院の辺りだけ真っ赤なブーゲンビリアが咲き誇っており、帰りの道を示す目印となった。そこから湖を時計回りに回る遊歩道があったので、その道に沿って歩き出した。




ローナールのクレーターと湖
無理矢理2枚の写真を合成した


 ローナールは典型的なステップ気候の風景で、ポツリポツリと木々が立っている他は広大な荒野である。しかしクレーターの底は緑豊かな森林となっており、その対比が興味深かった。まるで砂漠の地中から生じた蓮の花のようだった。森林は動物たちの住処となっており、森の中でガサゴソっと音がすると、それは猿か孔雀かどちらかである。地元の人々も燃料の木を切るために来ていた。

 湖の周囲には十数軒の寺院が散在しているが、ほぼ全ての寺院は廃墟となっている。唯一、ラームガヤー寺院とカマルジャー女神寺院(ドゥルガー女神の寺院)だけは機能していて、他はコウモリの住処となっていたり、湖に水没したりしていた。ラームガヤー寺院からカマルジャー寺院まで至る道は、獣道に毛が生えた程度の、楽に歩ける道になっているのだが、カマルジャー女神寺院から先に行こうとすると、そこからは本当の獣道となる。湖を一周したかったので、その獣道を進んで行った。猿の家の中を通り抜けたり、トゲのある木をよけつつ歩いていかなければならないので非常に疲れた。気付いたら靴の底には無数の木のトゲが刺さっていた。所々にある崩れかけた寺院をまるでチェックポイントのように数えながら、湖の周囲を歩いて行った。クレーターの東側の斜面には何やら大きな建物が見え、盛んに人々が行き交っていた。また、湖畔の一部にはバナナ畑などがあった。





半分水没したマハーデーヴ寺院


カマルジャー女神寺院の前のガートで
沐浴する少年


 湖を一周することを割と簡単に考えていたのだが、獣道をかき分けつつ歩いていくのは思ったよりも大変で、クレーターの上から下に降り、1周して再びラームガヤー寺院から上に登るのに、2時間以上かかった。既に気温は相当上昇しており、特にクレーターの上に戻る階段を登るのは大変な負担だった。

 MTDCリゾートに戻って一休みし、ランチを食べた後、今度は隕石のかけらが造ったという、もうひとつのクレーター、アーンバル湖を見に行くことにした。ホテルを出てローナール村へ向かう道を進んでいくと、心なしか同じ方向へ歩く人々がたくさんいることに気が付いた。そのまま人の流れに沿っていくと、クレーターの斜面にある大きな寺院に出た。そこには異常なほど大勢の人々が集まっていた。なんだなんだと思って寺院の境内に入ってみると、沐浴池に人々が押しかけて、上部の水路から流れ落ちる水を我も我もとかぶっていた。聞いてみると、今日はガンガー・ダシャヘラーという祭りらしい。ガンガー女神とシヴァ神の結婚を祝う祭りだという。この祭りから17日後にモンスーンが到来するということを言う人もいた。ちょうど祭りの日にローナールに来てしまったみたいだ。ちなみにその寺院の名前はダーラー寺院という。




ダーラー寺院の
ガンガー・ダシャヘラー


 ダーラー寺院からアーンバル湖に向かって歩いて行った。アーンバル湖はあまり地元の人々に知られていなかったが、その湖のそばにハヌマーン寺院があるようなので、そのハヌマーン寺院を頼りに道を尋ねて行った。途中で道を聞きつつ歩いている内に、1人の若者が僕を導き出した。ウッ、ウッ、と行ってジェスチャーで何かを伝えようとするので、てっきり英語がしゃべれないからそうしているのだと思っていたら、どうも唖で言葉がしゃべれないようだった。とにかく彼について行くことにした。全く日陰のない道が続き、時間はちょうど1時頃の一番暑い時期。炎天下も炎天下。歩いている内にだんだん頭がクラクラしてきた。多分これは暑いインドでも最高潮に暑い中を直射日光を浴びて歩いているのではなかろうか・・・。この炎天下の中、無事でいられる自分はいったい何者だろう・・・本当に日本人か?今突然倒れても、自分に文句は言えないな・・・むしろ当然と受け止めるだろう・・・などと変な思考がどんどん浮かんで来る内に、何とか無事にハヌマーン寺院に到着した。このハヌマーン寺院のご神体は、何と隕石のかけらだと伝えられている。山を運ぶハヌマーンの形に見えなくもないその巨大なご神体は真っ赤に塗られていてよく分からなかったが、磁気を帯びているのだという。ちなみにこのハヌマーン寺院は個人の所有物らしく、この隕石も私有物だと思われる。




ご神体? 隕石のかけら?


 そこからアーンバル湖は遠くないはずだったが、見渡したところ湖らしきものはなかった。例の唖のガイドが「こっちだ、こっちだ」というジェスチャーをするので、それに従って行った。またも日陰が全くない道で、ぶっ倒れそうになりながら彼についていくと、連れて行かれた場所はさっきのローナールのクレーターだった。元の場所に戻って来てしまったのだ。違う、僕が見たいのはローナール湖じゃなくて、アーンバル湖だ!発狂しそうになりながらその頼りないガイドを後に残して来た道を戻り、ハヌマーン寺院で改めて人に尋ねてみると、アーンバル湖はすぐ目の前だった。しかし湖とは名ばかりで、水は既に干上がってしまっており、ただの巨大な窪みとなっている。それを見て、またダーラー寺院の方へ戻った。

 ダーラー寺院の前でオートを拾って、ローナールのもうひとつの観光地である、ダイティヤスダン寺院へ向かった。10世紀に建てられた寺院らしく、地元の人々からはスワーミー寺院と言われている。ローナール村のバーザールの中心にあり、寺院の壁面はミトゥナ像などで覆われていた。また、入り口の門はイスラーム建築風のアーチになっていた。それ以上の詳しいことは分からなかった。その寺院を見た後、バススタンドへ向かった。ローナール観光を終えたのは1時半頃だった。

 バススタンドに着いてみて驚いたのは、プラットフォームを埋め尽くすほど多くの人々がいたことだ。田舎に来ると交通手段はバスしかないため、ローカルバスは屋根の上まで人が乗るほど混む。しかも今日は例のガンガー・ダシャヘラー祭だったため、いつもに増して混雑していたのだ。しかも外国人はあまり訪れない場所なので、その群集の視線は一気に僕に向けられることになった。僕の周囲には人垣ができ、中でもお調子者みたいな役どころの人たちが適当に話しかけてくる。ただでさえ疲れていたので、あれやこれや質問されてさらに疲れ切ってしまった。




バススタンドを埋め尽くす群集


 アウランガーバード直通の最終バスは午後5時と聞いていたのだが、バススタンドの時刻表では午後2時半が最終バスで、地元の人々の話を聞いてもそれは本当らしかった。もう少し遅れたら、今日中にアウランガーバードに戻ることは非常に困難になっていたかもしれない。ただ、「バスが必ず来るとは限らない。明日になることもある」と不吉なことを言う人もいて、だんだん不安になった。バスが到着するたびにプラットフォームを埋め尽くす群集がワッと詰め掛け、壮絶で醜い席取り合戦が繰り広げられていた。アウランガーバード行きのバスもかなり混雑するという。もはや恥も外聞も捨てて、バスに突撃せねばなるまい・・・と決意を固める。

 バススタンドには、デーヴナーグリー文字で書かれたローナールの簡単な地図が壁にかかれていた。ローナール観光を始める前に、その地図を見ておくといいかもしれない。その地図を見ると、ローナールにはローナール湖、アーンバル湖の他に、レーンディー湖やもうひとつ名のない湖があり、これらも隕石落下時に出来た可能性がある。また、人々の話によると、ローナール村の市場のどこかの店で、ローナールについて書かれた本が75ルピーで売られているらしい。この本は是非欲しかったのだが、状況が状況なだけにバススタンドを離れることができず、買うことはできなかった。

 2時半になってもバスはやって来ず、次第に焦ってきた。最終手段としては、隣町のスルターンプルまで行って、そこでアウランガーバード行きのバスを捕まえるという方法があった。スルターンプルは幹線沿いにある町で、アウランガーバード行きのバスはたくさん見つかるという話だが、どれほど信憑性のある情報かは分からない。

 暑いのでコールドドリンクでも飲むか、と思ってバススタンドの売店でファンタを飲んでいたところ、だんだん胸騒ぎがしてきたので急いで飲み干してプラットフォームに戻った。するとちょうどそこへアウランガーバード行きのバスがやって来た。すかさずダッシュ!プラットフォームに座り込んでいた人々は、立ち上がるまでにタイムロスがあったと見えて、僕はバスの入り口の近くに陣取ることができた。バスからは、これだけ多くの人がよく入っていたなぁと思うほど多くの人が降りてきた。最後の人が降りるや否や、一斉にバスの入り口に群がった人々が入り口に押しかけた。こういう状況はデリーの公共バスでも経験済みだが、人々の強引さは田舎の方が数倍強力であるように思えた。僕は何とかバスに乗り込むことには成功したが、席は確保できなかった。バスはすぐに満員となり、車掌は入りきらなかった人々を振り落とし、蹴散らして、バスを発車させた。これが最終バスなのに、乗れなかった人々はどうするのだろう・・・。見ると1人のおじいさんが必死でバスの後を追いかけてくる。家族がバスの中にいて、離れ離れになってしまったらしい。さすがに車掌はバスを止めさせ、彼を中に入れさせた。それに乗じてまた多くの人々が無理矢理バス内に入って来ようとするが、車掌はそれを許さなかった。とんでもない帰り道となってしまった。

 隣町のスルターンプルで多くの人が降りたが、それでも席は確保できなかった。しかし何気なく日本人であることをアピールしていたら、次のバス停で、降りる人が、「君、ここに座りなさい」と言ってくれたため、めでたく席に座ることができた。よかったよかった・・・。

 行きよりも当然時間は弱冠かかり、4時間半ほどでアウランガーバードに到着した。この通り、アウランガーバードから日帰りでローナールを訪れるのは大変疲れる1日になる。ローナールのMTDCリゾートは、荒野のど真ん中に立っているようなホテルだが、設備はきちんとしているし、クレーターを眼前に眺めながら食事をすることができるので、ローナールに1泊してゆっくり観光するのが正解だろう。

 聞くところによると、少し前にNASAの調査団がローナールを調査しに来たそうだ。ローナールのクレーターの土には、隕石の成分が含まれている可能性が高いという(眉唾の情報だが、「Lonar」という地名は「Luna(月)」と関係あるという)。また、湖についても謎が多く、どこから水が沸いているのか分からない上に、塩水で非常に塩辛く、pH10.7の強度のアルカリ性だそうだ。政府はローナールを国際的観光地にすべく巨額の予算を投じたという話もあり、5つ星ホテルや空港なども建築される予定らしい。それが実現したら、ローナールは一変してしまうことだろう。湖畔で酪農業をしている人々や、焚き木を集めている人々は、残念ながら追い出されてしまうだろう。観光地化される前のローナールを訪れることができて本当によかった。ローナールを旅行して、あるといいなぁと思ったのが、クレーターを上から見渡すことができる展望台。景観が壊れるかもしれないが、是非上空からクレーターを見てみたいと思った。もしかして10年後には、ローナールはアジャンターやエローラーとセットで観光コースに入っているかもしれない。

5月30日(日) 清浄なる町、プネー(1)

 アウランガーバードを拠点とした観光も無事終了し、今日はプネーに引き返す。プネーよりさらに東側の、マハーラーシュトラ州最東部には、ナーグプルという面白い町があるが、アウランガーバードからナーグプルまではバスで12時間もかかるほど遠距離であり、今回は諦めることにした(以前、列車で通過したことはある)。何より、インドで一番暑い時期に、インドで一番暑いと言われる都市へ行くのは賢明ではない。

 アウランガーバードのバススタンドでは、30分に1便以上のペースでプネー行きのバスが出ている。午前7時15分発のバスに乗り、プネーを目指した。やはり西に向かうにつれて、次第に気候は涼しくなってきた。バスの窓から車内に入ってくる風が、昼になってもこんなに涼しいとは・・・驚きである。エローラ、アジャンター、ローナール付近では熱風であった。

 アウランガーバードから約5時間でプネーのトレイン・ステーション・バススタンドに到着した。今までプネーは2回スキップしたが、今回は滞在してじっくりプネー観光をする。プネーでは、コーレーガーオンにあるハッピー・ホームに宿泊することにした。ダブルルームが300ルピー。バスルーム付きで部屋は清潔だが、タオル、石鹸、TVなどはない。コーレーガーオンはセックス・グルとして有名なオショー(ラジニーシ)のアーシュラムに近く、そこで修行をするヒッピー風外国人旅行者が多く滞在している。よって、外国人向けの設備もわずかながら整っており、安食堂、ネット・カフェ、シティーバンク、売店などがちらほら並んでいる。

 プネーの古名はプンニャナガリー(清浄なる町)という。英語ではPuneまたはPoona、デーヴナーグリー文字ではプネー(puNe)またはプーナー(puuNa)という表記が見られるが、口頭ではプーナーと言っている人が多い。だが、僕は英語表記に近いプネーで統一することにする。

 プネーではある人と会う約束をしていた。AskSiddhi.comのウェブマスターのスィッドゥー氏である。スィッドゥー氏の奥さんは日本人で、彼女は日本語版のAskSiddhi.comを運営しているが、現在彼女は日本におり、スィッドゥー氏がプネーを案内してくれることになった。スィッドゥー氏のバイクに連れられて、プネーのシネマ・コンプレックスであるInox、E-squareや、繁華街であるJMロード、MGロード、キャンプ、またプネー大学や旧市街などを案内してもらった。

 プネーは非常に美しい街で、若者のファッションはデリーよりも最先端を行っており、何より気候が穏やかなのがうらやましい。宗教ではヒンドゥー、ムスリム、ジャイナ、スィク、クリスチャンの他、パールスィー(拝火教徒)やユダヤ人も多いようだ。JMロードにあるクロスワードという本屋は、デリーのどの店よりもヒンディー語映画のDVDの品揃えがよくて驚いた。「Kal Ho Naa Ho」のDVDが発売されていたので、売り切れない内に買っておいた。MGロード付近にはプラネットMやミュージック・ワールドなどがあり、街のあちこちにはマクドナルド、バリスタ、カフェ・コーヒーデイなどがあった。

 今日はとりあえず一通り簡単にプネーを走り回ってもらっただけだった。夕方ホテルに戻ったら、そのままバッタリとベッドに倒れこんでしまい、12時間眠った。アウランガーバードでは毎朝早朝に起きて活動していたので、相当疲労がたまっていたと思われる。

5月31日(月) 清浄なる町、プネー(2)

 プネーでは一般的な観光地巡りの他、当地の最高級映画館で映画を見ることも目的のひとつだった。今日は主に公開中の新作ヒンディー語映画「Yuva」と「Hum Tum」を、プネーで最もホットなシネマ・コンプレックスだとされるInox(アイノックス)で2本続けて見た。どちらも今年のボリウッド界の話題作で、予想通り非常に面白く、続けて見るのも苦にならなかった(約3時間あるヒンディー語映画を2本続けて見るのは、洋画を3本続けて見るのと同じである)。それぞれの映画の批評は別のトピックに譲るとして、ここでは映画館の雰囲気などについて述べる。

 Inoxはプネーの街の中心部からそれほど遠くない場所にあり、土日はチケットを買うのが不可能と思われるほど混雑する。プネーの人々は非常に映画好きのようだ。4スクリーンあり、主にヒンディー語映画と洋画を上映している。チケットの料金システムはよく分からなかったのだが、先週公開の「Yuva」が80ルピー、今週公開の「Hum Tum」が110ルピーだったのを見ると、新しい映画ほど高くなっている可能性がある。ちなみに席はどちらも後ろの方だった(いわゆるリア・シート)。

 まず驚いたのは、映画館に入場する際に身体検査をされないことだ。デリーでは映画館入場前に必ず身体検査をされ、手荷物も開けられてチェックされる。カメラなどの電子機器は、携帯電話を除き館内に持ち込めない。これは、ひとつはテロ予防のため、もうひとつは映画の録画録音を防止するためだろう。だが、プネーではチケットを見せるだけで入場できてしまったので、非常に驚いた。わざわざカメラをホテルに置いてきたというのに・・・。もちろん田舎の映画館でもわざわざ身体検査は行われないが、僕はてっきり、それは規則が徹底されていないだけで、大都市の高級映画館では必ず行われているものだと考えていた。プネーは大都市ながらデリーに比べて平和な街だと感じた。

 ところが映画が始まってさらに驚くことがあった。インドでも日本と同じく、映画本編が始まる前にCMや予告編が流れるが、そのときに「国歌が流れますので皆さんご起立願います」と書かれたスライドが映し出され、観客は全員立ち上がって国歌を聞くのだ。国歌が流れている間、入り口は閉じられて、外にいる観客は入って来れなくなっているほど徹底されていた。聞くところによると、これはプネーだけで行われている習慣であり、それほど古いものでなく、せいぜい半年前ぐらいから始まったらしい。近代化しすぎた若者たちに愛国心を思い出させるための措置だとか・・・。(その後の情報によると、国歌放送と観客起立が行われているのはプネーではInoxだけだそうだ)

 「Yuva」を見ている間、途中で映画が2回中断された。おそらく停電のためだと思われる。デリーの高級映画館でも時々あることなので、Inoxだけを責めることはしないが、しかしあまりいい気分はしなかった。僕はプネーで2回しか映画を見てないので何も言えないが、もし映画の中断が頻繁に起こるようだったら、それは大きなインフラの欠陥だと言える。また、例えばデリーのPVRのような映画館では、映画が中断されると即座にスクリーンに「停電のため映画が中断してしまいました。すぐに復旧いたします」とスライドが映し出され、一応観客に対して配慮が見られるが、Inoxではそういうこともなかった。

 映画館の設備はデリーと比べても遜色なかった。音響、映像、椅子など、どれもインド最高級と言っていいだろう。おまけに観客のマナーも、インド最高級にいいように思えた。

 映画館に来ているインド人を見ていて、改めてプネーはファッションでインド最先端を行っていると感じた。特に女の子の服装は、デリーと同じか、おそらくそれ以上だった。一番感動したのは、スカートをはきこなしている女の子が多かったこと。インド人の女の子は基本的にスカートをはかない。はくとしても、学生服だけである。しかし大都市を中心に、スカートをはく女の子は増えつつある。デリーでも同じだし、デリーの中でもファッション先進地域であると言われる(?)JNUでもそうである。ところが、スカートをはくのはいいが、残念なことに、スカートをはきこなしている女の子はまだまだ少ない。なんちゅうださいスカートはいてるねん!と関西弁で突っ込みを入れたくなる女の子がJNUに数多く徘徊している。それに比べたら、プネーの女の子のファッション・センスはなかなかのものだった。かわいいインド人の女の子も多いように見えた(隣の芝生が青く見えているだけかもしれないが・・・)。

 午前11時50分の回の「Yuva」と午後3時30分の回の「Hum Tum」の合間に、Inoxの1階にあるマクドナルドで昼食を食べた。マクドナルドのシステムにもデリーと少し違いが見られた。プネーのマクドナルドでは、混雑時には1人の店員が一列に並んでいる客から予めオーダーを取って紙に記入し、客はカウンターでその紙を見せてオーダーの確認をするだけでいいようになっていた。紙に記入している時点でオーダーは「チキンマックセット一丁!」みたいな感じで行われているため、カウンターに着いたときには注文の品が出来上がっていることが多く、非常に合理的だと感じた。店員の対応も非常にスマートだった。

 時間が前後するが、映画を見る前に今日はプネーの観光地のひとつである、部族文化博物館を訪れた。その後そのまま映画館に行く予定でカメラを持参しなかったため、写真は撮れなかったが、いくつか写真に収める価値のあるものがあった(写真撮影可かどうかは分からなかったが)。マハーラーシュトラ州にも多くの部族(トライブ)が住んでおり、独自の文化を維持している部族もあれば、一般的なインド人に積極的に同化している部族もある。主にそれら同州の部族たちの風俗をまとめたのがその博物館で、入場料は外国人10ルピーだった。多少、展示物の質に疑問が浮かんだり、解説に問題があったりしたが、10ルピー分の価値は十分ある博物館だと感じた。特に興味深かったのは、ヌードル・メイカーなる木製の器具が展示されていたこと。インドでは手で食べる習慣があったためか、麺類の食文化が最近まで根付かなかったのだが、ヌードル・メイカーなる器具があるとすると、インドの部族の中には昔から麺類を食べている人々がいるということだろうか。また、解説文によると、マハーラーシュトラ州の部族たちの風俗は、アジャンターやエローラの壁画や彫刻で見られる風俗と非常に似ているものがあるらしい。写真で見たところ、確かにアジャンターの壁画とそっくりな部族の衣装などがいくつかあった。非常に興味深い。それと、部族たちのバーザールの記述も面白かった。部族たちは定期市などは滅多に開かないが、それでもたまにはみんなで集まって品物を交換したり売買したりするそうだ。部族の市場では今でも物々交換が行われているところがあり、特に非部族のインド人商人と取引する際は、塩が貨幣の代わりをするらしい。聞くところによるとかつてローマ帝国でも塩が貨幣の代わりになっていた時代があり、それが「salary(給料)」の語源になったそうだが、インドでは今でも塩で商品の売買が行われているところがあるとは驚きである。確かに、ナガランドやブータンなど、山間部の料理は、塩を使っていないと感じた。多くの場合、彼らはチリのみで料理の味付けをするため、非常に辛い料理になる。近代的生活をする我々には想像も付かないが、山間部に住む部族にとって、塩は貴重品なのであろう。それは上杉謙信と武田信玄の「敵に塩を送る」の故事から、日本の山間部でも昔は同じ状況であったと推測できる。

5月31日(月) Yuva

 先週から公開のヒンディー語映画「Yuva」を、プネーの高級シネマ・コンプレックス、Inoxで見た。監督は「ボンベイ」や「ディル・セ」などのマニ・ラトナム、音楽はARレヘマーンの黄金コンビ。キャストはアジャイ・デーヴガン、アビシェーク・バッチャン、ヴィヴェーク・オーベローイ、ラーニー・ムカルジー、カリーナー・カプール、イーシャー・デーオール、オーム・プリー、アナント・ナーグ、ヴィジャイ・ラーズなど。「Yuva」とは「青春」という意味である。舞台はコールカーター(カルカッタ)。題名の通り、ハーウラー橋上で出会った、青春を燃やす3人の若者の物語である。




左からアジャイ・デーヴガン、イーシャー・デーオール、
アビシェーク・バッチャン、ラーニー・ムカルジー、
ヴィヴェーク・オーベローイ、カリーナー・カプール


Yuva
 ラッラン(アビシェーク・バッチャン)は街のゴロツキで、刑務所から出てきたばかりだった。ラッランは駆け落ち同然に結婚したシャシ(ラーニー・ムカルジー)と共に住み始めるが、シャシが止めるのも聞かずに再び暴力の道を歩み始める。ラッランは表向きはガスの販売員をしていたが、裏ではシャシに黙って、親友のゴーパールと共に悪徳政治家(オーム・プリー)を陰で支える用心棒となり、彼に敵対する学生運動を暴力と脅迫で潰しにかかる仕事を請け負っていた。やがてシャシは妊娠するが、ラッランは学生運動の指導者であるマイケル(アビシェーク・バッチャン)にハーウラー橋上で3発の弾丸を撃ち込む。

 マイケルは大学の学生運動の指導者だった。腐敗しきった政治を、学生の力で変えることに青春を燃やしていた。しかし悪徳政治家に目を付けられ、数々の嫌がらせを受ける。しかし彼はじっと耐え忍んでいた。マイケルにはラーディカー(イーシャー・デーオール)という恋人がいた。マイケルはラーディカーをバイクで大学まで送り、その後、途中で偶然であったアルジュン(ヴィヴェーク・オーベローイ)を裏に乗せて走っていた。アルジュンをハーウラー橋の上で下ろしたマイケルはUターンするが、そこで彼はラッランに銃撃されてハーウラー河に落下してしまう。

 アルジュンは人生ただ楽しければいいという性格で、父親には公務員試験を受験すると言いながら、実際はアメリカへ高飛びして一攫千金しようと計画していた。アルジュンは、ディスコで偶然ミーラー(カリーナー・カプール)という女の子と出会い、その後デートを重ねるようになる。ミーラーは既に婚約者がおり、カーンプルへ嫁いでいく直前だった。アルジュンもアメリカのヴィザが下り、アメリカ行きの前に束の間の火遊びのつもりだったが、だんだんミーラーにのめり込んで来る。最後のデートの日、ミーラーはタクシーの乗って逃げるように去って行ってしまうが、それを追いかけるためにアルジュンは偶然通りかかったマイケルのバイクをヒッチハイクし、ミーラーの乗ったタクシーを追いかけてもらう。アルジュンはハーウラー橋の上でミーラーを捕まえ、プロポーズするが、その瞬間目の前でマイケルがラッランに撃たれ、ハーウラー河に落下してしまう。

 アルジュンは河に飛び込んでマイケルを助け、マイケルは一命を取り留める。マイケルのカリスマ性に惹かれたアルジュンも学生運動に関わるようになり、アメリカ行きを取りやめる。やがてマイケルとアルジュンは州議会選挙に立候補する。アルジュンが立候補したニュースをTVで見たミーラーは、彼がアメリカへ行っていないことを知って彼を訪ねてくる。実はミーラーもアルジュンのことを愛しており、婚約者との結婚は取りやめてコールカーターにいたのだった。一方、ラッランが暴力の道から足を洗っていないことを知ったシャシは、お腹の子供を堕胎してしまう。それを知ったラッランは絶望し、シャシを村に帰して、ますます暴力の道にのめり込むことになる。悪徳政治家は、ラッランが逮捕されることによって自分の名前が出ることを恐れ、ゴーパールにラッラン抹殺を指示する。しかしゴーパールは逆にラッランに殺されてしまう。ラッランは学生運動を分解させる最後の手段として、アルジュンを含む4人の学生を誘拐し、マイケルを脅迫する。しかしアルジュンらは監禁場所から脱走し、必死に逃走する。ラッランはアルジュンを追いかけ、ハーウラー橋の上で追い詰めるが、そこにはマイケルが駆けつけていた。マイケルとアルジュンはラッランを殴り倒す。やがて選挙は行われ、マイケル、アルジュンら4人の若者は見事当選を果たす。一方、ラッランは刑務所に逆戻りし、公判が行われようとしていた。

 昔、「Howrah Bridge」(1958年)というヒンディー語映画があったが、この映画の題名もそれにしていいぐらい、ハーウラー橋が重要な舞台となっていた。ハーウラー橋上で3人の若者の運命が交差するシーンがまず冒頭で描かれ、その後3人のそれぞれのストーリーが時間を遡って語られ、それからハーウラー橋上での出会いから起こる3人の若者を巻き込んだ1本のストーリーとなり、最後に再びハーウラー橋上でクライマックスを迎える。まず時間軸の中間部が描かれ、過去に話が遡り、そして中間部以降の話が語られるという手法は、マニ・ラトナム監督自身のタミル語映画「Kannathil Muthamittal」、またはそれのヒンディー語映画リメイクである「Saathiya」(2002年)でも取られていたが、今回はそれをさらに発展させたオムニバス風の手法であった。

 「青春」という題名通り、主人公の3人の若者はそれぞれの道で青春の熱い魂を燃やしていた。ラッランは暴力に、マイケルは政治活動に、アルジュンは道楽に、である。それぞれには恋人や妻がいたが、ラッランとシャシの狂おしい愛、アルジュンとミーラーの束の間のつもりの恋愛はよく描写されていたものの、マイケルとラーディカーの恋愛は多少希薄だったように思われる。

 ラッラン、マイケル、アルジュンの3人がハーウラー橋上で取っ組み合うシーンは、おそらくこの映画の一番の見所だろう。車が行き交う中での3人の戦いはいいアイデアだったが、合成映像であることは明らかであり、迫力に欠けた。聞くところによると、このシーンの撮影中にヴィヴェーク・オーベローイが足を怪我してしまったそうだ。

 アジャイ・デーヴガンは既に演技派男優と呼んでも差し支えないほど、落ち着いた演技のできるいい男優になった。学生役を演じるには少し年を取りすぎているようにも思えたが、いい演技をしていた。しかしこの映画の中で一番頑張っていたのはアビシェーク・バッチャンだろう。デビュー当初は演技力ゼロ、ダンス力ゼロと酷評されていたものの、彼も次第に落ち着いた演技の出来る男優になって来たと思う。アジャイ・デーヴガンに何かを学んだのかもしれない。アビシェークは、インド映画界全体によって大事に育てられているように思える。ヴィヴェーク・オーベローイはこの映画も含めて最近、小心者のお調子者キャラクターを演じることが多くなってきているので、そろそろもう一段ステップアップしてもらいたい。女優陣を見てみると、ラーニー・ムカルジーは既に半分ベテラン女優なので文句の付けようはないとして、カリーナー・カプールの演技が光っていた。イーシャー・デーオールだけが全く駄目だった。いつになったら演技をし始めるのだろう?

 ARレヘマーンの音楽も、映画をさらに引き立たせていた。ただ、ミュージカル・シーンは極力抑えられており、写実的な踊りが多かった。それぞれの主人公にテーマソングが用意されていた。

 「Yuva」は、マニ・ラトナム監督らしい、映画の味を知り尽くした映画であった。ただ、監督がこの映画でいったいどんなメッセージを伝えたいのかは、いまいちはっきり伝わって来なかったように思えた。純粋な政治批判でもあるまいし、青春賛歌でもないし、単純な娯楽映画でもないし、ましてや3人の若者の恋愛模様を描いたロマンス映画でもない。あえて言うならば、「映画」または「手法」を見せたかったのだと言えるのかもしれない。

5月31日(月) Hum Tum

 今週から公開の最新ヒンディー語映画「Hum Tum」を、プネーの高級シネマ・コンプレックス、Inoxで見た。「Hum Tum」の主人公は漫画家であり、映画中でタイムズ・オブ・インディア紙に彼の漫画「Hum Tum」が掲載されていることになっているが、現実世界でも現在その「Hum Tum」の漫画が同紙に掲載されており、好評を博している。これは一種のメディア・ミックスであり、この種の映画プロモーションはインド初なのではないだろうか?「Hum Tum」の漫画は同映画のウェブサイトでも見ることが可能だが、マルチリンガル文化を反映して英語とヒンディー語の両言語がごちゃ混ぜになったものが多い。そこで、僕がそれらを日本語に翻訳して掲載している。■「Hum Tum」の漫画

 「Hum Tum」とは上述の通り、主人公の漫画家が創作した漫画の題名だが、直訳すると「僕と君」になる。漫画中では、ハム(僕)という名の男の子と、トゥム(君)という名の女の子の小競り合いが描かれている。監督はクナル・コーホリー。音楽はジャティン・ラリト。キャストはサイフ・アリー・カーン、ラーニー・ムカルジー、キラン・ケールなど。特別出演として、リシ・カプール、アビシェーク・バッチャン、ジミー・シェールギル、イーシャー・コーッピカルなども登場する。




サイフ・アリー・カーン(左)と
ラーニー・ムカルジー(右)


Hum Tum
 カラン(サイフ・アリー・カーン)は女の子に関する冗談を口走る癖のあるお調子者の男だった。彼は留学のためニューヨークへ向かう飛行機に乗っていたが、そこでリヤー(ラーニー・ムカルジー)という女の子と同席になる。乗り継ぎ地のアムステルダムでカランとリヤーは一緒に観光するが、カランが突然リヤーにキスしたことにより2人の仲は最悪の状態になる。そのまま2人はニューヨークの空港で別れる。

 それから3ヵ月後、カランがインド人のガールフレンドと一緒にニューヨークの公園でデートしていると、そこを偶然リヤーが通りがかる。カランのガールフレンドとリヤーは実は高校時代のクラスメイトで、カランがアムステルダムでリヤーにした行為がばれてしまい、カランは恋人に振られてしまう。一方、カランの漫画がタイムズ・オブ・インディアに掲載されることになり、彼は漫画家として人生を歩み始めていた。

 それから3年後、カランはデリーで母親の結婚式業者の仕事を手伝っていた。既に彼の漫画「Hum Tum」は大人気となっていた。ところが、その結婚式の花嫁がたまたまリヤーで、2人はまた偶然出会う。リヤーはサミール(アビシェーク・バッチャン)と結婚し、ニューヨークへ去って行く。また、この結婚式のとき2人の家族が抱える問題も明らかになる。カランの両親は別居状態にあり、リヤーの父親は既に他界していた。

 それから3年後、カランはパリに住む父親を訪ねた。そのときユーロスターの中でまたも偶然リヤーと再会する。しかしリヤーは以前とは雰囲気が変わっていた。サミールは結婚から1年後に事故で死亡し、その後リヤーはアメリカもインドも捨て去って母親と共にフランスに住んでいたのだった。彼女は小さなブティックを経営して細々と暮らしていた。カランは一転してリヤーに優しく接し、カランとリヤーの仲はフランスにおいて家族ぐるみのものとなる。リヤーの母親はカランに、リヤーの再婚ためにいい相手を探すように頼む。それを承諾したカランはインドに去って行った。

 それから1年後、リヤーがムンバイーに一時帰って来ることになった。カランは親友のミール(ジミー・シェールギル)をリヤーに引き合わせるが、2人はあまり馬が合わなかった。ミールの誕生日にカランとリヤーは一緒に彼の誕生日を祝うが、その場に居合わせたカランの友人ダイナー(イーシャー・コーッピカル)がミールと妙に気が合ってしまい、そのまま結婚が決まってしまった。ミールをリヤーと結婚させようと考えていたカランは頭を抱える。また、カランが自分を再婚させようと考えていたことを知ったリヤーは激怒するが、ミールはリヤーに、カランは本当はリヤーのことを愛していることを伝える。リヤーも実はカランのことを愛していたのだった。お互いの心を知った2人は、カランとリヤーはそのまま一夜を共にする。

 ところが恋が芽生えてしまったことを認めた途端、カランはリヤーを避けるようになる。ミールとダイナーの結婚式の日、カランはリヤーに一夜の過ちを謝る。その謝罪を聞いたリヤーは泣いて去って行ってしまう。そのままリヤーはパリへ戻る。

 リヤーがパリに戻ったことを知ったカランの父親は、カランとリヤーの間に起こったことを理解し、カランの元を訪れる。父親はカランに、自分のように愛した女性を不幸にさせるな、と激励する。カランはすぐにパリに飛ぶが、リヤーは既にブティックをたたみ、家も空けて、どこかへ行ってしまった後だった。

 それから1年後、カランは「Hum Tum」に関する一冊の本を出版する。その本の中でカランはリヤーとの恋愛のことを書き、世界のどこかでリヤーがそれを読んでくれることを願っていた。その願い通り、リヤーはカランの本を読み、彼の前に現れる。2人の新しいストーリーが始まったのだった。

 合計約10年間に及ぶ、インド、アメリカ、ヨーロッパを舞台とした、正反対の性格の2人、カランとリヤーの恋愛が描かれた、典型的なインド恋愛映画だった。前述の通り、タイムズ・オブ・インディア紙とタイアップしたプロモーション展開も目新しく、シンプルなラブコメながら斬新でオシャレな雰囲気に満ち溢れていた。2004年のインド映画界の傑作に数えられるだろう。当然のことながら、カップルで見るべき映画である。

 カランはその場限りの恋愛ばかりに熱中し、結婚など全く眼中にないような道楽者の若者だった。彼は女性全体を馬鹿にしており、その哲学は彼の漫画「Hum Tum」にも如実に表れていた。一方、リヤーは神経質なまでの潔癖症で、教養はあるが多少大人げのない女の子だった。カランとリヤーは出会ったときから犬猿の仲で、2人が再開すると必ず何かハプニングが起きた。突然飛行機が揺れだしたり、結婚式場のテントが倒れたり、列車の車内販売員がトレイを落としたり・・・。その2人が9年の歳月の中、世界中で再開を繰り返すことによって次第に心を開いて行くのだが、2人の間に恋が芽生えていることに2人自身が気付くのは、かなり後になってからのことだった。その2人の恋愛に、カランの両親が犯した過ちがオーバーラップし、最後にカランはリヤーに愛を打ち明ける決心をするのだが、そのときにはリヤーは行方不明になってしまっていた。最後、「Hum Tum」の本を出版することにより、カランはリヤーに自分の愛を打ち明ける。1月、ムンバイーの街を歩くカランを、突然雨が襲う。「1月に雨?」と空を見上げるカランの後ろから「降ってもおかしくないわ。私たちが出会ったときには何かしら間違いが起こってきたでしょ?」と声がする。リヤーだった。このとき2人はやっと結ばれるのだった。最後にオマケがあって、リヤーは女の子を出産するのだが、病院においてその隣には男の子の赤ん坊が置かれる。男の子の赤ん坊はカランとリヤーの子供の方をじっと見つめる。こうして男と女の物語、つまり「Hum Tum」の物語は、延々と続いていくことになるのだった。

 映画中、非常にいいセリフが何度か登場した。カラン曰く「世界中のラブストーリーは結婚直前で終わってしまう。なぜか知ってるかい?結婚してしまうと恋愛は終わってしまうからさ。恋愛し続けたかったら、結婚はするべきじゃない。」リヤー曰く「1回の出会いで恋が成就してしまうこともあれば、何回も出会わないと恋が成就しないこともあるんだわ。」カランの父親曰く「多くの男は、自分みたいな駄目男をあんな素晴らしい女性が愛してくれるはずがない、と考えてしまう。でもそれは間違いだ。男から愛を表現することが大事で、愛することから逃げてはいけない」などなど。

 漫画家が主人公なだけあって、所々「Hum Tum」のアニメーションが挿入される。ただ、主人公が漫画家であることを最大限上手に映画の展開に活かしていたかというと、そういうわけでもなかった。カランが漫画を描いているシーンはほとんどなく、カランとリヤーの恋愛をタイムリーに漫画で表現するというようなことも、あまりなされていなかった。アニメーションの質も、日本のアニメと比べてしまうとまだまだだな、と感じずにはいられない。

 サイフ・アリー・カーンは「Kal Ho Naa Ho」(2003年)の成功により、だいぶスターとしての覇気が出てきた。この映画でも彼にピッタリの役柄を演じきっており、これからますます大きくなるだろう。大器晩成タイプの男優だったみたいだ。ラーニー・ムカルジーもタカビーな女の子と、不幸な境遇に身を置きながらも正々堂々と生きていこうとする女性を演じ分けており、素晴らしかった。特別出演のジミー・シェールギルは、何だか見るたびにやつれているのだが大丈夫だろうか?

 「Hum Tum」は夏休みをエンジョイする若いカップル向けの、安心して楽しめるラブコメである。2004年のインド映画の中で、必見の映画のひとつだ。



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