スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2008年5月

装飾下

|| 目次 ||
言語■6日(火)Google翻訳 ヒンディー語⇔英語
映評■9日(金)Bhoothnath
言語■11日(日)Googleインド言語音訳
映評■16日(金)Jannat
分析■19日(月)ジュガール文化


5月6日(火) Google翻訳 ヒンディー語⇔英語

 Google翻訳というサービスがある。世界各国の言語で書かれたテキストやウェブページを英語にオンライン翻訳したり、逆に英語のテキストやウェブページを世界各国の言語にオンライン翻訳したりできる。嬉しいことに、ヒンディー語→英語翻訳、英語→ヒンディー語翻訳のサービスもある。2008年5月現在、インドの言語の中ではヒンディー語のみが対応しているが、周知の通り、ITエンジニアにはインド人が多いので、近い将来、インドの他の諸言語もサービスに入って来るのではないかと思う。それにしても、Windows上でヒンディー語を入力することすら大変だった時代を思うと、ヒンディー語を取り巻くネット環境は、WindowsXPの登場以来、飛躍的に改善されて来ていると感慨深い思いがする。神聖インド帝国というウェブサイトを作っていた頃は、ブラウザ上でヒンディー語を表示するため、一文字一文字、一記号一記号、画像ファイルを作成し、それらをつなげて単語にしたり文章にしたりしていたものであった。大変な作業だった・・・。

 おそらく一般の日本人にとって、Google翻訳のヒンディー語関連サービスの内でより有用なのは、ヒンディー語→英語の翻訳であろう。普通に考えたら、ヒンディー語でのみ書かれたテキストの意味を知りたいという人の方が、英語のテキストをわざわざヒンディー語に訳したいという人よりも多い。ただ、インドでは逆に、英語を読めない人が英語→ヒンディー語翻訳を利用する機会の方が多そうだ。

 早速Google翻訳のヒンディー語→英語の翻訳の精度を試してみた。

 サンプルに使ったのは、BBC Hindiから無作為に抽出した記事。題名は「महिला आरक्षण बिल पर भारी हंगामा」(参照)。題名を自分なりに翻訳すると、「女性留保法案を巡り大騒動」になる。まず、テキスト翻訳とウェブページ翻訳を比べてみたが、翻訳の精度に変わりはなかった。よって、これ以降、これらの翻訳を区別せずに話を進めて行くことにする。

 とりあえずGoogle翻訳で翻訳された題名は、「Women's reservation bill on the huge furore」。直訳すると「大騒動の上に女性留保法案」になり、意味的に正確ではないが、何とか許せるレベルか。以下、本文を見ていくと、やはり機械翻訳には無理があることが分かって来る。例えば題名の後の見出し文は以下のようになっている。
原文
राज्यसभा में महिला आरक्षण विधेयक को पेश करते वक्त जमकर हंगामा हुआ और समाजवादी पार्टी के कुछ नेताओं ने क़ानून मंत्री के हाथ से इसकी प्रति छीनने की कोशिश की.

アルカカット翻訳
上院において女性留保法案が提出されると、大きな騒ぎが起こった。社会党の政治家たちは法務大臣の手から法案のコピーを奪おうとした。

Google翻訳
Women's Reservation Bill in the Rajya Sabha submitted to the furore was set while the Samajwadi Party and some leaders of the Minister of the hand of the law per dispossessor tried.

Google翻訳を敢えて日本語訳
大騒動に提出された上院の女性留保法案は固定された一方、社会党と、地上げ屋ごとに法律の手の大臣の政治家たちは努力した。
 単語を拾って行って想像を膨らませば何とか分かる部分もあるのだが、「प्रति」という単語の翻訳において致命的な翻訳ミスがあり、それが文章を分かりにくくしている。「प्रति」には複数の意味や同音異義語があるが、ここでは「コピー」の意味で理解しなければ文脈が通じない。だが、Google翻訳は「~につき」「~ごとに」という意味で翻訳してしまっており、全体の理解を困難にしている。語順の違いの問題も明白である。英語は基本的にSVO(主語・動詞・目的語)型の言語であり、ヒンディー語はSOV(主語・目的語・動詞)型の言語である。つまりこれらの言語の語順は全く異なり、それが機械翻訳の大きな障害となっている。

 本文中の一段落を見てみよう。
原文
राज्यसभा में समाजवादी पार्टी के अबू आज़मी और उनकी पार्टी के अन्य सदस्य राज ठाकरे के उत्तर भारतीयों के ख़िलाफ़ बयान पर विरोध जता रहे थे और स्पीकर के आसन के पास नारेबाज़ी कर रहे थे.

アルカカット翻訳
上院において社会党のアブー・アーズミーや同党の他の政治家たちは、ラージ・タークレーが北インド人に対して行った発言の抗議をし、議長席のそばでスローガンを連呼していた。

Google翻訳
Abu Azmi in the Rajya Sabha, the Samajwadi Party and the other members of his party Raj Thackeray's statement on the protest against the North Indians were making and the speaker has a seat नारेबाज़ी were.

Google翻訳を敢えて日本語訳
上院のアブー・アーズミー、社会党、そして彼の政党の他のメンバーたち、ラージ・タークレーの北インド人に対する抗議の発言を作っており、議長は「नारेबाज़ी」のある席を持っている。
 Google翻訳で翻訳した結果出て来た英文の中にヒンディー語の単語が混じっている。「スローガンを叫ぶこと」という意味の「नारेबाज़ी」という単語である。どうやら翻訳できなかった単語はそのまま放置されてしまうようである。ちなみになぜ「नारेबाज़ी」が翻訳されなかったのかは容易に想像が付く。これは「z」の文字の問題である。ヒンディー語では、「z」の音を表記するために「ज़」という文字が用意されている。だが、「z」の音は外来のものであり、ヒンディー語の文字の中にも元々「z」の音を表す文字はなかった。現代ヒンディー語が形成される中で、ヒンディー語の文字に改良を加え、外来の音をなるべく正確に表記できるようにしようとする動きが出て来た。その中で、「z」の音を書き表すため、「j」の音を表す文字「ज」の下に点を付けて新しい文字「ज़」が作成されたわけである。だが、元来インド人は「j」と「z」の音の区別を苦手としており、筆記においても全員が厳密に「ज」と「ज़」を使い分けてはいない。多くの場合、「j」も「z」も「ज」で書き表してしまう。さて、「नारेबाज़ी」という単語には「ज़」という文字が使われている。この記事を書いた記者は「ज」と「ज़」を使い分ける方針を採っていることが分かる。しかし、Google翻訳の辞書はどうも「ज़」に正確に対応していないようである。よって、「नारेबाज़ी」は翻訳されずに残ってしまった。試しに「नारेबाजी」で翻訳してみたら、今度はちゃんと「Sloganeering」と翻訳された。

 同記事の翻訳では他にも「ग़ौरतलब」と「फाड़ी」が翻訳されずに残ってしまっていた。これらも全く同様の問題である。だが、この問題はシステムを改善すればすぐに対応できるもので、深刻な欠陥ではない。

 むしろ感心したのは、個人名がかなり正確にアルファベット化されていることである。上の例では「अबू आज़मी」と「राज ठाकरे」という個人名が出て来たが、それぞれ「Abu Azmi」、「Raj Thackeray」と正確にアルファベット化されている。記事の他の部分でも、「हंसराज भारद्वाज→Hansraj Bhardwaj」、「शरद यादव→Sharad Yadav」、「मुलायम सिंह→Mulayam Singh」、「नीरजा चौधरी→Neerja Chowdhury」など、軒並み正確に人名がアルファベット化されている。かなり巨大な人名データベースがあることが予想される。これは地名でも同様で、大抵の地名だったら正確にアルファベット化される。逆もまた然りで、アルファベットでインドの固有名詞を入力すれば、かなり正確なヒンディー語表記が返って来る。もしかしたらGoogle翻訳は英語テキスト中のインドの固有名詞のヒンディー語表記を調べるのに有用なツールとなるかもしれない。

 また、テキスト翻訳をすると、翻訳されたテキストの下に「翻訳を改善する」というリンクがあり、間違った翻訳を修正してGoogleに送ることができるようになっている。果たしていちいち翻訳を修正してくれる奇特な人がこの世界にいるのかどうか分からないが(そこまでできる人はこんなサービスなんて使わないだろう)、もしこの試みが成功し、しかもユーザーから送られて来たデータを有効に利用することができれば、Google翻訳の精度は上昇するだろう。

 総じて、Google翻訳の英語⇔ヒンディー語翻訳は、現時点では、テキストやウェブページを翻訳するには力不足だ。実用ツールとは言いがたい。固有名詞の綴りを調べるのにかろうじて使える程度である。英語とヒンディー語は語順が違うので、正確な機械翻訳の実現は難しい。だが、もし同じシステムを使って日本語⇔ヒンディー語の自動翻訳を開発しようと思ったら、どちらも基本的にはSOV型言語なので、語順の問題はそれほど大きくならないはず。もっとマシな翻訳になるのではないかと思う。

 以下、Google翻訳で遊んでみて他に気付いた点をまとめてみた。

■英語→ヒンディー語翻訳で、「bush」と入力したら「झाड़ी(茂み)」と返って来て、「Bush」と入力したら「बुश(ブッシュ)」と出て来た。後者は言わずと知れた、米国の大統領の名前である。世界中どこでも共通した事柄だと思うが、人名は独立した単語として意味があることがある。Google翻訳の英語→ヒンディー語翻訳は、英語テキストの中のそのような単語を翻訳する際、頭文字が大文字か小文字かで、固有名詞か一般名詞かを区別しているようである。当然の機能と言えば当然の機能であるが、試しに英語→日本語翻訳で「bush」と「Bush」を翻訳してみたら、どちらも「ブッシュ」になってしまった。文章にしても同じである。例えば「I will hide in the bush.」を翻訳すると、「私はブッシュ大統領に潜んでいる。」になってしまう・・・なんじゃそりゃ!それを見ると、少なくともこの点では、日本語翻訳よりもヒンディー語翻訳の方が精度が高そうである。開発者のスキルの違いであろうか?

■英語→ヒンディー語翻訳で、入力された単語が固有名詞か一般名詞かが区別されていることは分かったが、個人名はどこまで識別されているのだろうか?個人名を個別に認識しているかどうかを確認するため、「वाजपेयी(ヴァージペーイー)」という名字をサンプルにヒンディー語→英語翻訳で実験してみた。この名字は北インドのブラーフマン特有のものであるが、英語で綴る際、人によって「Vajpayee」だったり、「Bajpai」だったりマチマチである。ヴァージペーイー(またはワージペーイー)と読むのが正統なのだが、地域や出自によっては「ヴァ」が「バ」に鈍って、「バージペーイー」になってしまうこともある。その際、ヒンディー語の綴りも「बाजपेयी(バージペーイー)」になることがあるし、「वाजपेयी(ヴァージペーイー)」のままのときもある。「Vajpayee」のもっとも有名な例は、アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー(Atal Bihari Vajpayee)元首相である。「Bajpai」のもっとも有名な例は、映画男優マノージ・バージペーイー(Manoj Bajpai)である。彼らの名字の英語アルファベット綴りは決してぶれることはない。つまり、「Atal Bihari Bajpai」になったり、「Manoj Vajpayee」になったりすることはない。よって、実験サンプルとして最適である。まずはそれらの名字を単独で翻訳してみた。そうしたら、「वाजपेयी(ヴァージペーイー)」は「Vajpayee」に、「बाजपेयी(バージペーイー)」は「Bajpai」になった。順当な結果である。次に、「अटल बिहारी वाजपेयी(アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー)」を翻訳してみたら、その英語綴りは「Atal Bihari Vajpayee」になった。これも極めて正しい綴りである。今度は「अटल बिहारी बाजपेयी(アタル・ビハーリー・バージペーイー)」を翻訳してみたら、「Atal Bihari Bajpai」になってしまった。前述の通り、元首相の名前は普通ヒンディー語でこのようには書かれない。一方、「मनोज वाजपेयी(マノージ・ヴァージペーイー)」を翻訳してみたら、「Manoj Bajpai」になった。「मनोज बाजपेयी(マノージ・バージペーイー)」はそのまま「Manoj Bajpai」であった。マノージ・バージペーイーのヒンディー語表記は、「वाजपेयी(ヴァージペーイー)」の場合と「बाजपेयी(バージペーイー)」の場合がある。あまり統一されていない。だが、英語表記は「Bajpai」のみである。Google翻訳の翻訳結果から、以下のプロセスで処理が行われたことが予想される。
1.「मनोज वाजपेयी(マノージ・ヴァージペーイー)」が入力される。
2.特定の個人名と認識される。
3.名字部分が自動的に「बाजपेयी(バージペーイー)」扱いとなる。
4.翻訳結果として「Manoj Bajpai」が返される。
ということはつまり、Google翻訳のデータベースにマノージ・バージペーイーという個人名が登録されているということである。一方、アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー首相の場合、ヒンディー語では「अटल बिहारी वाजपेयी(アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー)」としか綴られることがないので、「अटल बिहारी बाजपेयी(アタル・ビハーリー・バージペーイー)」で翻訳した場合、別人扱いとなって、「Atal Bihari Bajpai」になるのだと思う。つまり、有名人の名前でヒンディー語表記にブレがある場合、ヒンディー語→英語翻訳では自動的に翻訳結果が統一されるようになっている可能性が高い。ちなみに元首相の名字の日本語カタカナ表記は一般に「バジパイ」になってしまっているが、これは間違いの部類に入る。「ヴァージペーイー」か、それに準じた表記にすべきである。

■しつこいが、ヒンディー語→英語翻訳で個人名が認識されているかどうかもうひとつ実験してみた。今回サンプルにしたのはアクシャイ・クマール(अक्षय कुमार)とアクシャイ・カンナー(अक्षय खन्ना)。2人とも映画男優で、同じアクシャイ(अक्षय)という名前だが、英語の綴りが違う。前者は「Akshay Kumar」、後者は「Akshaye Khanna」であり、決してぶれることはない。アクシャイ・クマールの方はオーソドックスな綴りだが、アクシャイ・カンナーの方は「e」が変な位置に付いており、特殊である。もしこれらが翻訳時に区別されれば、個人名が認識されているという強力な証拠になる。まず、「अक्षय कुमार(アクシャイ・クマール)」を翻訳してみたら、「Akshay Kumar」と出て来た。次に「अक्षय खन्ना(アクシャイ・カンナー)」を翻訳すると・・・見事に「Akshaye Khanna」となった。どうもボリウッド・スターたちは完全にデータベースに登録されているようである。

■いろいろ試していたら、ボリウッド・スターの個人名に関し、面白いバグを発見した。もしかしたらすぐに修正されるかもしれないが、一応ここに記しておく。現在インドでもっともホットな女優と言ったら、ディーピカー・パードゥコーン(Deepika Padukone)だ。彼女の名前を翻訳すると、英語→ヒンディー語翻訳、ヒンディー語→英語翻訳共に正確に出て来る。彼女のヒンディー語綴りはメディアによってブレがあるのだが、Google翻訳では「दीपिका पादुकोण(ディーピカー・パードゥコーン)」が採用されている。ふと「padukone」とだけ入力して英語→ヒンディー語翻訳してみたら・・・なんと「दीपिका(ディーピカー)」と出て来た。パードゥコーン姓の有名人は、バドミントン選手である彼女の父親や、有名な映画監督グル・ダットなど、他にもいるのだが、どうやらGoogleによるとパードゥコーン姓はディーピカーの専売特許となってしまったようだ!


証拠画像
「padukone」を翻訳したら、「ディーピカー」に!
明らかに開発者がディーピカー・パードゥコーンを
翻訳データベースに登録しようとした形跡が見受けられる!

■若者言葉「बिंदास(ビンダース)」をヒンディー語→英語翻訳したら、「cool」と出て来た。完全に正しい翻訳である。「かっこいい」「素敵な」という意味の「cool」だ。一方、現時点で日本でもっとも優れたヒンディー語・日本語辞書と誉れ高い大修館「ヒンディー語=日本語辞典」で「बिंदास」を引くと、「のんびりした;暢気な;おっとりした;くよくよしない」という的外れな訳しか載っていない。それと比べると、Google翻訳は現代流行語辞書として使えそうな気がする。ただし、他に同様の例は探せなかった。

■英語→ヒンディー語翻訳、ヒンディー語→英語翻訳共に、卑猥な言葉は一切翻訳されない。例は省略。

■「I love you.」を英語→ヒンディー語翻訳すると、かなり正確に「मैं आपसे प्यार करता / करती हूँ .」と翻訳される。主語が男性の場合と女性の場合での使い分けまで記されている。ここまで詳細な翻訳が出て来ることは他にない。例えば「I love apples.」とちょっと文章を変えてみると、翻訳結果は「मैं प्रेम सेब .」になり、途端に文法的に正しくなくなる。「I love you.」の翻訳は特別扱いされているのだろう。

■ヒンディー語の慣用句や諺類で、正確に英語に翻訳されるものがある。例えば「अंगूर खट्टा है」。直訳すると「ブドウは酸っぱい」だが、これは「負け惜しみ」という意味になる。英語でも「sour grapes」という故事成語がある。全く同じ意味だが、こちらは直訳すると「酸っぱいブドウ」であり、文章にはなっていない。「अंगूर खट्टा है」をヒンディー語→英語翻訳すると、見事に「Sour grapes」と出て来る。もし「Grape is sour」だったら直訳だが、「Sour grapes」なら故事成語と認識されていることが分かる。だが、正確に翻訳されないものもある。例えば「श्रीगणेश करना」という慣用句がある。直訳すると「ガネーシュ神をする」という意味だが、インドでは物事を始める際にガネーシュ神にお祈りをする習慣があることから、「開始する」という意味になる。いかにもインドらしいためか、ヒンディー語初級者でも知っているかなり有名な慣用句である。だが、Google翻訳では正確に翻訳されない。そもそも「「श्रीगणेश」の翻訳自体が不安定だ。「श्रीगणेश」で翻訳すると「era(時代)」と完全な誤訳になるし、「श्री गणेश」で翻訳すると「Mr. Ganesh」になってしまう。こちらは別に間違いではないのだが・・・。そこでひらめいたのだが、インド英語の一環として、「~を始める」という意味で「Mr. Ganesh」という動詞を造ったら割と受けるかもしれない。例えば、「We Mr. Ganeshed drinking beer.(我々はビールを飲み始めた)」とか・・・。

■英語の慣用句の中にも、かなり的確にヒンディー語に翻訳がなされるものがある。例えば「It is no use crying over spilt milk.(後悔先に立たず)」を英語→ヒンディー語翻訳すると、「बीती ताहि बिसार दे , आगे की सुधि लेहु .(過ぎ去ったことは忘れなさい、これからのことを考えなさい)」というヒンディー語(ブラジ方言)の有名な格言となる。他に、「Barking dogs seldom bite.(吠える犬は噛み付かぬ)」→「गरजते बादल बरसते नहीं .(鳴る雲は雨を降らさず)」、「Blood is thicker than water.(血は水よりも濃し)」→「अपना सो अपना पराया सो पराया .(身内は身内、他人は他人)」など、明らかに直訳ではない翻訳が他にも見つかった。

■インドの大企業やインドに進出している国際的企業の名前は大半が、英語→ヒンディー語翻訳することで、そのまま企業名としてヒンディー語化される。ざっと調べてみただけでも、ターター、マールティ・スズキ、ソニー、トヨタ、ヒーロー・ホンダ、コカ・コーラ、マクドナルド、マイクロソフトなど、企業名として翻訳された。面白いのはリライアンス(Reliance)である。「Reliance」または「rreliance」を単独で英語→ヒンディー語翻訳すると「रिलायंस(リライアンス)」となって、企業名扱いされるが、「I put reliance on him.(私は彼を信用した)」と文中に使うと、そのヒンディー語訳は「मैं उस पर भरोसा रखा है .」になる。多少文法的な間違いはあるが、原文の意味を正確に読み取っている。つまり、「reliance」はここでは「信頼」という普通名詞として翻訳された。また、「reliance」の頭文字を大文字にして同じ文を翻訳すると、「मैं रिलायंस ने उस पर है .」という全く意味のない文章になる。その単語が企業名として認識されてしまっているからだ。文中では特に大文字小文字の区別がされているようである。ただ、不思議なことに、「Google」または「google」はヒンディー語に翻訳されなかった。「Yahoo!」はちゃんと「याहू!」とヒンディー語になるのだが・・・。

■ボリウッド映画のヒンディー語の題名をGoogle翻訳で英語に翻訳してみたら面白い発見があった。まず、2001年のヒット映画の題名「कभी खुशी कभी ग़म」を翻訳したら、「Kabhi Khushi Kabhie Gham」と表示された。つまり、この文字列が映画の題名だと認識されているということだ。だが、同じカラン・ジャウハル監督の出世作「कुछ कुछ होता है」(1998年)を翻訳したら、「Some is」というそっけない答えが返って来た。う~む、「Kabhi Khushi Kabhie Gham」よりも「Kuch Kuch Hota Hai」の方がどちらかというとインド映画史に与えたインパクトは大きいのだが・・・。また、同監督が2003年にプロデュースし、大ヒットを飛ばした「कल हो न हो(Kal Ho Naa Ho)」は、「Tomorrow may not be」と表示された。調べてみたところ、これは米国で販売された同映画のDVDの英語タイトルと同じである。ただ単に翻訳されただけか、それとも米国販売用DVDの英語タイトルに合わせたのか?さらに詳しく調べるため、同じくジャウハル監督の2006年作品「कभी अलविदा न कहना(Kabhi Alvida Naa Kehna)」を翻訳したら、「Do not ever say goodbye」と出て来た。この映画の英語タイトルは「Never say goodbye」なので、意味はほぼ同じながら、微妙な違いがある。どうもこれらは映画のタイトルと認識されていなさそうだ。どちらにしろ、最近の映画の方が正答率が高そうなので、去年ヒットした「चक दे इंडिया」を翻訳してみたら、ほぼ正確に「Chak de India」と出て来た。「रंग दे बसंती」(2006年)も同様に「Rang De Basanti」で、映画の題名と認識されている。では、ということで、1960年公開の古典的名作「मुगले आजम」を翻訳してみたら、出て来たのは正確な題名である「Mughal-e-Azam」。昔の映画でも有名なものは割と正確に映画の題名だと認識してくれそうだ。どの映画の題名が正確に翻訳されるかで、開発者の映画の趣味が分かりそうな予感・・・。

■有名な映画音楽になると、歌詞を正確に(というより開発者がデータベースに打ち込んだ通り)入力してヒンディー語→英語翻訳すると、かなり正確な英語訳が返って来ることを発見した。例えば伝説的映画「Sholay」(1975年)の中の有名な曲「Yeh Dosti Hum Nahin Todenge」。この曲の最初の数小節をヒンディー語で入力し、英語翻訳してみた。普通に入力しただけでは、トンチンカンな訳になってしまう。例えば以下のようになる。
原文
यह दोस्ती हम नहीं तोड़ेंगे, तोड़ेंगे दम मगर तेरा साथ न छोड़ेंगे।
मेरी जीत तेरी जीत, तेरी हार मेरी हार, सुन ले मेरे यार।

Google翻訳
We do not breaking the friendship, but breaking your own with no surrender.
My victory will win, you lost my necklace, listen to me yaar.
 だが、単語の形を微妙に変え、コンマの位置を工夫し、以下のように入力すると、明らかに機械ではなく人間が訳したと思われる詩的な英語訳が出て来る。
原文
ये दोस्ती हम नहीं तोड़ेंगे, तोड़ेंगे दम, मगर तेरा साथ न छोड़ेंगे।
मेरी जीत, तेरी जीत, तेरी हार, मेरी हार, सुन ले मेरे यार।

Google翻訳
We are not breaking the friendship, breaking own, but will not leave.
I win, you win, you lose, I lose, listen to me yaar.
 この先の歌詞についてもいろいろ試してみたが、残念ながらドンピシャの英語訳は出て来なかった。歌詞訳はこれで終わっているのかもしれないし、たまたま見つけられなかっただけかもしれない。だが、他にも同じように歌詞訳が隠された映画音楽があるはずである。それを見つけ出す遊びが確立できそうだ。

■さらに突っ込んで、インド映画の名台詞にも、機械翻訳ではなく開発者が特別に仕込んだ翻訳がないか探してみた。やはり一番有望なのは「Sholay」。インド人なら誰でも暗記している、ガッバル・スィン登場シーンの超有名な台詞(参照)のいくつかをヒンディー語→英語翻訳してみた。すると・・・
原文
1.कितने आदमी थे?
2.वे दो थे, और तुम थे तीन। फिर भी वापस आ गए, खाली हाथ!
3.अरे ओ, सांबा, कितना इनाम रखा है सरकार हम पर?
4.यहाँ से पचास पचास कोस दूर गाँव में जब बच्चा रात को रोता है, तो माँ कहती है, बेटे, सो जा, सो जा। नहीं तो गब्बर सिंह आ जाएगा।
5.इस पिस्टल में तीन ज़िन्दगी, तीन मौत बंद हैं। देखें, किसे क्या मिलता है।
6.तेरा क्या होगा, कालिया?
7.जो डर गया, समझो, मर गया!

Google翻訳
1.How many people?
2.They were two, and you were three. Yet returned, empty-handed!
3.Hey, O, Samba, how much the government placed the reward on us?
4.From here, fifties mile away in the village at night when the baby cries, the mother says, son, then go to sleep. Gabbar Singh will come if not.
5.The pistol, three life, three deaths are closed. See, Who Is to come by.
6.What will happen to you, Kalia?
7.The fear, understand, was dead!
 やはりコンマやプールンヴィラーム(またはピリオド)の位置をいろいろ試したり、各単語の語形をあれこれ試行錯誤しないと正確な訳にはならないが、ひとたび鍵が鍵穴に合うと、上記にようにかなり練り込まれた英語訳が出て来る。絶対に開発者は「Sholay」のこのシーンの全台詞をGoogle翻訳に意図的に仕込んでいる。Google翻訳の英語⇔ヒンディー語翻訳の開発者はインド映画マニアに違いない。そしてそれを発見する僕もマニアに違いない・・・。

5月9日(金) Bhoothnath

 現在インドではクリケット・リーグのIPL(インディアン・プレミア・リーグ)が開催中である。クリケットの大きな試合がある期間は伝統的に駄作映画のダンピング期間となり、良作のインド映画は公開されにくい。現在あまりいい映画が公開されていないのはそのためである。一応先月末に期待作「Tashan」が公開されたが、これは興行的に沈没してしまった。本日から公開の「Bhoothnath」は、一見すると安っぽい子供向けのホラー映画で、やはりダンピング期間だからこそ封切られた映画だと思われた。だが、アミターブ・バッチャン、シャールク・カーン、ジューヒー・チャーウラーなど、俳優陣はとても豪華であり、一定の期待が持てたために映画館に足を運んだ。



題名:Bhoothnath
読み:ブートナート
意味:お化けのナート
邦題:ブートナート

監督:ヴィヴェーク・シャルマー
制作:ラヴィ・チョープラー
音楽:ヴィシャール・シェーカル
歌詞:ジャーヴェード・アクタル
振付:レモ、ヴァイバヴィー・マーチャント
出演:アミターブ・バッチャン、ジューヒー・チャーウラー、サティーシュ・シャー、ラージパール・ヤーダヴ、アマン・スィッディーキー、テージャス、アーシーシュ・チャウドリー、プリヤーンシュ・チャタルジー、シャールク・カーン(特別出演)
備考:PVRプリヤーで鑑賞。

左から、ラージパール・ヤーダヴ、サティーシュ・シャー、
ジューヒー・チャーウラー、アマン・スィッディーキー、アミターブ・バッチャン

あらすじ
 7歳のやんちゃな男の子アマン・シャルマー(アマン・スィッディーキー)、通称バンクーは、両親(シャールク・カーンとジューヒー・チャーウラー)と共にゴアの古い屋敷ナート・ヴィラへ引っ越して来た。クルーズ船で働く父親は、すぐに仕事へ行ってしまい、バンクーと母親は2人で住み始める。だが、地元の人々の話では、この屋敷にはお化けが住んでいると言う話であった。バンクーは最初怖がるが、母親は「お化けなんていないのよ。でも天使はいるのよ」と教える。また、母親は屋敷に住み着いていた酔っ払いのアントニー(ラージパール・ヤーダヴ)を見つけ、お化けの正体を見破ったと得意気になる。また、バンクーは地元の小学校に通い出すが、クラスメイトのジョジョ(テージャス)とすぐにライバル関係となり、校長(サティーシュ・シャー)から睨まれる存在となる。

 ある晩、バンクーがアイスクリームを食べに台所へ行くと、ボロボロの衣服を身にまとった長身の男(アミターブ・バッチャン)が現れる。男は最初自分のことを「ブート(お化け)」と名乗り、後で本名を「ナート」と名乗ったので、バンクーは彼をブートナートと呼ぶようになる。バンクーは母親からお化けなんていないと聞いていたので、ブートナートのことを天使だと思い、親しげに語りかける。ブートナートは自分を怖がらない少年を見て驚き、お化けとして自信を失う。

 その夜からバンクーとブートナートのおかしな関係が始まった。ブートナートは何とかバンクーを怖がらせようとするが、バンクーはブートナートに家の掃除をさせたりしてからかう。バンクーが階段から落ちて怪我を負ったことをきっかけにブートナートはバンクーと友情を交わすようになり、よき遊び相手かつよき相談役になる。最初はバンクーの行動は周囲の人々から奇行と見られていたが、やがてバンクーの両親もブートナートの存在を信じるようになる。

 あるときブートナートは身の上話を始める。ブートナートの本名はカイラーシュ・ナートであった。カイラーシュ・ナートはこのナート・ヴィラに妻と一人息子(プリヤーンシュ・チャタルジー)と共に住んでいた。彼は息子を米国に留学させるが、息子はそこに住み着いてしまい、帰って来なかった。妻は息子の帰りをずっと待ち侘びていたが、遂に死んでしまった。妻の葬式に息子は帰って来るが、そのとき息子はナート・ヴィラを売り払ってカイラーシュ・ナートを米国へ連れて行こうとする。カイラーシュ・ナートはそれを拒否し、息子も米国へ去って行ってしまう。だが、そのときカイラーシュ・ナートは階段から足を滑らせて頭を打ち、死んでしまう。そのときから彼は幽霊となってこの屋敷に住み着いていた。

 だが、その息子が再びゴアに来ていた。ナート・ヴィラを売却するためだった。父親は、ブートナートを成仏させる儀式を行うため、息子に会いに行く。インドでは父親の葬式は息子が行う習慣になっていた。だが、息子はそれを拒否する。また、息子を決して許そうとしないブートナートを見て、バンクーは「僕には許すことが大事だと言っていたのに、なんで自分の息子のことは許さないの?」と問い掛ける。ブートナートは空を見上げる。だが、バンクーには成仏がどういうことかよく分かっていなかった。

 ブートナート成仏の儀式が始まった。最初はバンクーがその儀式を行ったが、途中で息子がやって来たため、彼に代わる。その儀式を経てブートナートは成仏してしまう。バンクーはブートナートが消えてしまったことを悲しむが、次の日、ブートナートはひょっこり姿を現す。一旦は成仏したブートナートだったが、バンクーのために戻って来たのだった。

 子供向け映画は現在のボリウッドのトレンドのひとつである。子供向けアニメ映画「Hanuman」(2005年)の成功を受け、数々の子供向け映画が、実写・アニメ共に作られるようになった。おそらく制作者や映画館にとって子供向け映画はおいしい商品なのだろう。子供は経済の原動力のひとつである。子供のためにいくらでも金を使う親はインドにも少なくない。さらに、子供単体で映画館に来ることはなく、家族揃っての鑑賞が主となるため、通常の映画に比べて動員数が数割増しになることが期待される。ちなみにインドの映画館に子供料金はない。また、特にシネコンでは館内のスナックバーで儲けを出しているものだが、食欲と好奇心が旺盛な子供が多ければ多いほど飲食物の売上アップも期待できる。さらに、子供向け映画の上映時間は一般に2時間ぐらいであり、上映時間3時間の一般のインド映画に比べて回転がよく、映画館にとってチケットを多くさばける都合のいいコンテンツになる。

 一方、ホラー映画はボリウッドの中ですっかり定着したジャンルとなった。現在のボリウッドのホラー映画トレンドの直接の発端は「Raaz」(2002年)の大ヒットだった。だが、インド映画の特徴であるミュージカルや、ラス(情感)の多様性と、ホラー映画の本質である「恐怖」の折り合いが難しく、しばらく試行錯誤の時代が続いた。数々のホラー映画が作られ、その多くは失敗作に終わった。だが、インド映画とホラー映画の融合は2007年に入って遂に「Bhool Bhulaiyaa」や「Om Shanti Om」において一定の完成を見た。インド映画的ホラー映画は、今もっとも旬なジャンルである。

 「Bhoothnath」も、てっきりそれらのトレンドに乗っかった作品だと考えていた。だが、実際には子供だけでなく全年齢の人々が楽しめる優れた娯楽映画になっていたし、お化けの映画なのでホラー映画だと思いきや、むしろ笑いと感動に重点を置いた作品となっていたのも驚きだった。しかも、子供の情操教育に役立つような道徳映画としても十分完成されていた。インド映画の特徴を保持しながら、子供向け映画とホラー映画を上手に融合し、しかも万人が楽しめる笑いと感動に溢れた作品にまとめたことが、「Bhoothnath」の最大の美点である。

 ただ、ヴィヴェーク・シャルマー監督は新人監督であるためか、所々で未熟さも見られた。特にブートナート登場シーンは、もう少し溜めが欲しかった。幽霊映画で初めて幽霊が姿を現すシーンは、監督の腕の見せ所である。なるべく溜めて溜めてこれ以上にないほど溜めたところでグァッと行かないと、ホラー映画としては失格だ。子供向け映画ということで、意図的にあまり怖くしなかったのかもしれないが、あまりにスムーズにブートナートが登場してしまったので、多少拍子抜けであった。

 カイラーシュ・ナートとその息子の関係は、映画の感動ポイントのひとつである。良かれと思って米国へ留学させたが、そのままそこに住み着いてしまって全く帰って来ない息子を思う両親の姿は、もしかしたら現代のインドでよくある光景なのかもしれない。カイラーシュ・ナートは、最後で成仏の儀式によって天に召されて行くが、儀式を通してではなくむしろ、息子の涙ながらの「お父さん、許して下さい!」という言葉によって成仏したように見えた。映画の大きなテーマは「許し」であった。人を許すことの大きさが訴えられていた。

 最後で一度成仏したブートナートが再び帰って来るのは、ハッピーエンドを基本とするインド映画の習慣に合わせたのだろうか?インド初SF映画「Koi... Mil Gaya」(2003年)の終わりとも似ていた。映画の終わらせ方に、日本人とインド人の美意識の極端な違いを感じる。また、「To be continued...」と書かれていたので、続編の予定もあるのだろう。

 アミターブ・バッチャンは今までのキャリアの中で初めて幽霊役に挑戦したと言う。お化けにしては無力で感情的で悪戯好きだったが、バンクーと心を通わせて行く中で次第に柔らかくなって行く姿をよく表現できていた。ジューヒー・チャーウラーは近年の演技の中ではベストである。復帰後の彼女の演技はドン臭いものが多かったのだが、「Bhoothnath」で本来の良さが出せていた。シャールク・カーンは特別出演扱いだが、登場時間は長く、重要なキャストの一人であった。他の映画に比べて老けて見えたが、貫禄の演技であった。

 主人公バンクーを演じた子役俳優アマン・スィッディーキーはとても良かった。最近のボリウッド映画では、いい子役がたくさん登場しており、安心できる。ただ、バンクーのライバル、ジョジョを演じたテージャスと顔が似ており、区別するのが難しかった。

 音楽はヴィシャール・シェーカル。子供たちがギャングのような格好をして踊る「Hum To Hain Andhi」、アミターブ・バッチャンとジューヒー・チャーウラーのデュエット「Chalo Jaane Do」などが面白かったが、サントラCDを買うほどのものではない。

 ゴアが舞台になっていただけあり、ゴアのいろいろな名所でロケが行われていた。フォート・アグアダ、チャポラ・フォートなどが特定できた。

 「Bhoothnath」は、ただの子供向け映画ではなく、笑いあり、涙ありの典型的なインド娯楽映画となっており、全ての人々にオススメできる良質の作品である。何気に豪華なスターが出演しているのも見所だ。

5月11日(日) Googleインド言語音訳

 Googleから、インド言語ファンにとって嬉しいサービスがどんどん出て来ている。5月6日の日記で紹介したGoogle翻訳の他に、Gooleインド言語音訳(Goole Indic Transliteration)というサービスも試験的に開始されていた。

 Googleインド言語音訳は、アルファベットで入力した文字列を、ヒンディー語、タミル語、テルグ語、カンナダ語、マラヤーラム語の文字に変換するサービスである。翻訳ではなく、文字の変換を行うだけだ。スペース・キーを押すごとに、直前に入力した文字列が変換される。ここではヒンディー語のみを取り上げる。

 例えば、「mera bharat mahaan」と打ち込むと、「मेरा भारत महान」とちゃんと変換された。ヒンディー語には短母音・長母音の区別がある。それをどのように処理しているか気になったのだが、打ち込んだ通り機械的に変換されて行くのではなく、どうもデータベースにかなりの数の単語が登録されており、それを参照しながら変換が行われているようである。例えば「bharat」と打ち込んでも、「bhaarat」と打ち込んでも、どちらも「भारत」と変換される。それは、データベースに「भारत」という単語が登録されているからに他ならない。しかし、「bharat」と打ち込むと常に「भारत」と変換されるのでは困る。なぜなら「भरत」という人名もあるからだ。そんなときは、変換された単語をクリックすると、別の候補が出て来る。その中に希望の単語があればそれをクリックすればいいし、もしなくても自分でエディットして単語登録をすることができる。

 「ड़」や「ढ़」は、それぞれ「d」、「dh」で対応しているようだ。「लड़का」は「ladka」、「बढ़िया」は「badhiya」と入力すれば変換される。他はヒンディー語ができる人なら迷わず入力可能であろう。

 では、このサービスは一体何の役に立つのか?まず考えたのは、ワープロソフトの感覚で文章を打ち込むことだが、勝手に変換されるのがネックとなり、かなり使いにくかった。ひとつの文章を打ち込むごとに見直して、間違った変換を見つけて直さなければならず、手間が掛かる。自分で思った通りの単語を打ち込めないのでは、ワープロソフトとしては失格である。

 やはりもっとも現実的なのは、ヒンディー語などでGoogle検索したいときに、このサービスを利用することだろう。既にIndic IME(参照)がインストールされている環境なら、わざわざこのサービスを使う必要性を感じないかもしれない。だが、ヒンディー語を簡単に入力できる環境にないPCからも、このサービスを使えばヒンディー語などの単語のGoogle検索が行えることを考えると、とても便利である。しかも、iGoogleガジェットにGoogleインド言語音訳の技術を使ったガジェットがリリースされており、それを使えば、既にIndic IMEがインストールされていたとしても、スムーズなGoogle検索ができそうだ。

 さらに、Google傘下のBloggerやOrkutなどのサービスでも、Googleインド言語音訳技術を使って、ヒンディー語などを入力できるようになっている。僕はBloggerは利用していないのだが、Orkutで試してみたら、本当にヒンディー語でスクラップブックに入力できるようになっていた。ただし、少し設定をいじる必要がある。プロフィールの「使用する言語」に、ヒンディー語など、利用したい言語を追加しなければならない。そして、スクラップブック入力時に、左上にある「Type in」のチェックボックスをオンにすれば、Googleインド言語音訳の要領でヒンディー語などの言語を入力することが可能になる。

 やはりGoogleの中に相当数のインド人エンジニアがいるのだろう、最近のGoogleはインド人向け言語サービスを積極的に打ち出している。IT産業は南インドが中心地であるため、やはり南インドの4言語がネット・サービス上でも異常なまでに強大な勢力を誇っているが、そのおかげで逆にヒンディー語は北インドの諸言語をまとめる盟主的な役割を果たすようになって来ており、もしかしたらこれはヒンディー語にとってプラスに働くかもしれない。少なくとも技術的な面では、ヒンディー語を巡る環境は劇的に改善されているといっていい。

5月16日(金) Jannat

 インド映画は伝統的に必ずハッピーエンドで終わると言われているが、それは100%正解とは言えない。元々アンハッピーエンドの映画は作られて来たし、最近は特に、悲しさ、狂おしさ、どうしようもなさをエンディングに持って来た、胸を締め付けられるような映画も十分観客に受け入れられるようになって来た。それはただのアンハッピーエンドではない。アンハッピーエンドの映画なら、「Devdas」(2002年)など、ちょっと古風な悲劇を挙げることができるが、それとは全く違った狂おしさのある映画がボリウッドの一種のトレンドになりつつある。近年では「Gangster」(2006年)がその代表例である。そして本日公開の「Jannat」も、狂おし系映画の一種であった。表向きのテーマはクリケットの八百長。だが、真のテーマは、命を懸けた狂おしい恋愛である。



題名:Jannat
読み:ジャンナト
意味:天国
邦題:天国を求めて

監督:クナール・デーシュムク
制作:ムケーシュ・バット
音楽:プリータム
歌詞:サイード・カードリー
出演:イムラーン・ハーシュミー、ソーナル・チャウハーン(新人)、ジャーヴェード・シェークなど
備考:PVRアヌパムで鑑賞。満席。

イムラーン・ハーシュミー(左)とソーナル・チャウハーン(右)

あらすじ
 アルジュン(イムラーン・ハーシュミー)は、嘘とはったりと度胸だけ人一倍ある男で、トランプ賭博で一獲千金を狙うが、最後で失敗し、多額の借金を抱えてしまう。その金は、パテールというマフィアのもので、アルジュンは親友のヴィシャールと共に命の危険にさらされていた。だが、アルジュンは2つの理由から自信を持っていた。

 ひとつは自分の「姫」を見つけたこと。アルジュンはある日偶然、ゾーヤー(ソーナル・チャウハーン)という女の子と出会い、一目惚れしていた。コールセンターで働くゾーヤーは、アルジュンに冷淡な態度を取るが、それでもアルジュンは諦めなかった。アルジュンは、パテールに返すはずの金を使って、ゾーヤーが欲しがっていたダイヤモンドの指輪を購入し、彼女にプレゼントしようとする。だが、ゾーヤーはそれを受け取ろうとしなかった。アルジュンは、いつか彼女が受け取ってくれるときが来ると思い、以後その指輪を持ち歩いていた。

 もうひとつは、自分の隠れた才能に気付いたこと。アルジュンはクリケットの試合の動向を読む能力に優れており、それを使って一儲けできそうな気分になっていた。金を取り立てに来たパテールに対し、アルジュンは死ぬ前の最後の望みと称して、クリケット賭博をする。見事百発百中の勘を発揮し、パテールに借りた額の金を一瞬にして手にしただけでなく、ゾーヤーを口説くため、自動車を購入する金まで稼いだ。これを機に、アルジュンはクリケット賭博師に転向する。

 ゾーヤーは、必死に愛を表現するアルジュンに次第に心を許すようになり、やがて2人は相思相愛の仲になる。だが、ゾーヤーはアルジュンがどんな仕事をしているのか詳しく知らなかった。アルジュンの父親は、アルジュンが子供の頃から嘘を付くことに長けていたとゾーヤーに話し、注意を喚起する。ゾーヤーは不安になりながらも、アルジュンを信じることにする。

 クリケット賭博師アルジュンの噂は南アフリカ共和国まで届いていた。南アを拠点として世界の武器密輸を牛耳るアブー・イブラーヒーム(ジャーヴェード・シェーク)はアルジュンを南アに呼び寄せ、マッチ・フィクサー(八百長試合調停者)として採用する。アルジュンは選手を買収し、アブーが最大限利益を上げられるように自在に試合を操った。また、アルジュンはゾーヤーを南アに呼び寄せ、一緒に生活し始める。

 だが、2人の生活は幸せなものではなかった。アルジュンは家にほとんど帰って来ず、ゾーヤーは孤独な毎日を過ごした。また、ある日ヴィシャール・マロートラー警視監がゾーヤーを訪ねて来た。マロートラー警視監はアルジュンを昔から知っており、マッチ・フィクサーとして暗躍していることを突き止めていた。マロートラー警視監からアルジュンの本当の仕事を知ったゾーヤーは、アルジュンをわざとおびき出して警察に逮捕させる。ゾーヤーに裏切られたアルジュンはショックを受ける。

 アブーの力によってアルジュンはすぐに刑務所から出て来たが、彼はアブーの仕事そっちのけでゾーヤーを探し始める。しばらくアルジュンはゾーヤーを見つけられないでいたが、たまたま立ち寄ったダンスバーでゾーヤーはダンサーをして生活費を稼いでいた。アルジュンはゾーヤーの裏切りを責めるが、ゾーヤーはアルジュンに、彼を愛しているからこそ、彼に真っ当な道を歩んで欲しかったからこそ、逮捕に協力したのだと説明する。ゾーヤーのことを愛していたアルジュンは、彼女の言葉に従ってマッチ・フィクサーの仕事を辞め、堅気の仕事を始める。だが、一度一獲千金の味を知ってしまったアルジュンは、クリケットの試合を見るたびにうずうずしていた。一方、ゾーヤーは妊娠していた。

 その頃、南アではクリケットのワールド・カップが開催されようとしていた。アブーにとって大金を手にするチャンスであった。アブーはアルジュンに接近し、最後に一仕事をするように説得する。アルジュンもそれを受け入れる。だが、それを知ったゾーヤーはアルジュンを突き放してしまう。

 試合の日。アルジュンは某国代表の主将と密談し、マッチ・フィックスを行う。だが、現場を監督に見られてしまう。もみ合いの末、監督は暴発した銃によって死んでしまう。すぐにマロートラー警視監率いる警察が駆けつけるが、アルジュンは隙を見て逃げ出す。

 親友ヴィシャールの助けを得て何とか警察を振り切ったアルジュンは、ゾーラーを呼び出す。ゾーラーはテレビで監督が殺されたことを知り、アルジュンがやったのではないかと恐れる。だが、アルジュンはそれを否定し、一緒に逃げようと言う。ところが2人は警察に囲まれてしまう。アルジュンは投降することを決め、持っていた銃を捨てるが、そのときポケットに入れておいた指輪を落としてしまう。指輪を拾おうとしたところ、銃を拾おうとしたと勘違いされ、警察から集中射撃を受け、絶命してしまう。だが、そのときやっとゾーヤーはアルジュンから指輪を受け取ったのだった。

 狂おし系のインド映画を理解するには、インド人の恋愛観を理解しなければならない。大半のインド人にとって、恋愛は一生に一度の出来事である。「失恋の数だけ強くなれる」とか「また新たな春が来る」とか、そういう考えはない。一度恋に落ちたら、それを何とか成就させるか、一生引きずって生きるか、それとも死を選ぶしかない。生きるか死ぬかの恋愛を理解しなければ、「Jannat」の狂おしさはもしかしたら理解できないかもしれない。だが、それを理解する人は、この映画を低く評価することはできないだろう。きっと大半のインド人観客にも受け入れられる作品となると思う。ちょうどクリケットが盛り上がっている時期に公開されたのも好材料となりそうだ。

 「Jannat」で扱われていたのは、クリケットのマッチ・フィックシング。裏社会ではクリケットの試合や各選手の成績をネタに賭博が行われており、賭博を牛耳るマフィアは儲けを最大にするために試合操作も行おうとする。俗に「紳士のスポーツ」と言われるクリケットだが、昔から選手の買収や八百長試合が度々問題になる。買収疑惑によって永久追放された選手もいる。だが、それが映画で本格的に描かれたのはおそらく初めてであろう。

 クリケット・チームの監督が死んでしまう下りは、2008年に西インド諸島で開催されたクリケット・ワールドカップにおける、パーキスターン代表ボブ・ウーマー監督の変死がモデルになっている。ボブ・ウーマー監督はクリケットのマッチ・フィックス撲滅に尽力していた人物で、それに関連した事件に巻き込まれて殺されたのではないかと噂されていた(真相は不明)。クリケットのマッチ・フィクサーを主人公に据えた「Jannat」の着想は、この事件にあったようである。

 だが、それらは映画の外装に過ぎない。中身はやっぱり男女の恋愛がメインであった。そして特に「Jannat」で強調されていたのは、金と愛に対する男女の考え方の違いだった。主人公のアルジュンは、まずはとことんヒロインのゾーラーにアタックする。だが、ゾーラーは貧乏なアルジュンに見向きもしない。この時点で金にこだわっていたのはむしろゾーラーの方だった。例えそれが冗談であったとしても、「車を持っていなければデートしてあげない」というニュアンスの言い方をされたら、男は何が何でも車を手に入れようとする。元々賭博癖のあったアルジュンだったが、愛しい人の愛を手に入れるためにますますギャンブルに精を出す。結局その中で、アルジュンはマッチ・フィクサーとしての才能を開花させる。ゾーラーもやっとアルジュンに心を開く。だが、一度相思相愛になってからは、2人の間ですれ違いが生まれる。ゾーラーはまず、自分をほったらかしにして仕事に没頭するアルジュンの姿に不満を持つ。そして、アルジュンの本当の仕事を知ってからは、いくら大金が手に入っても、悪いことに手を染めて得た金は使えないと主張し、彼にマッチ・フィックシングの仕事を辞めさせようとする。一方、アルジュンは、欲しいものを買ってもらえなかった自分の幼年時代のトラウマから、ゾーラーや生まれてくる子供に、お金の不足をひと時も感じさせたくなかった。ゾーラーも子供も、何でも欲しいものを買えるような強靭な経済力を築き上げたかった。それがアルジュンの夢であり、愛であった。また、例え自分の仕事が法律に触れていようと、死の商人の手助けをしていようと、自分がもっとも得意なことをして金を稼ぐことの方が彼にとって重要だった。結局アルジュンは一度足を洗ったマッチ・フィックスに戻ってトラブルに巻き込まれ、命を落としてしまう。結局ゾーラーの愛はアルジュンを救うことはできなかったし、アルジュンの愛はゾーラーと生まれてくる子供を幸せにすることはできなかった。題名の「Jannat(天国)」を使って表現するならば、男と女の思い描く「天国」の違いが生んだ悲劇と言えるだろう。

 だが、映画の最後に、アルジュンの死から数年後のシーンが出て来た。それは、ゾーラーと子供がスーパーで買い物をするシーンだった。子供は我がままを言って玩具を買ってもらおうとするが、レジでゾーラーの所持金が足りないことが分かる。そのとき子供は、自ら玩具を諦め、母親に配慮する。アルジュンが願ったように、お金に困ることのない家庭は築けなかったが、子供は我慢を知る立派な子に育っていたのだった。主人公の死によるアンハッピーエンディングだったものの、この最後の1シーンのおかげで、悲しみの中にも救いのある余韻が生まれていた。

 アルジュンのポケットにずっと入ったままになっていた指輪も、映画のひとつの重要なキーとなっていた。アルジュンが初めてゾーラーに出会ったとき、彼女はショッピングモールのショーウィンドウで指輪を物欲しげに眺めていた。アルジュンはその指輪を何とか手に入れ、彼女に渡そうとするが、ゾーラーは受け取ろうとしない。その後も何度か指輪を渡そうとしたシーンがあったが、その都度指輪はアルジュンの手元に残ってしまう。だが、最後、アルジュンが警察から集中砲火を浴びて絶命するとき、ゾーラーは初めて彼の手から指輪を受け取る。命を懸けた愛がダイヤモンドの指輪に象徴されていた。

 現代のボリウッドにおいて、狂おしき恋愛の主、破滅的恋愛の主を演じさせたら、イムラーン・ハーシュミーの右に出る者はいない。イムラーンは愛のために笑って死を受け入れるタイプの男を演じるのに長けており、それがインド人のハートをガッチリと掴んでいるようである。90年代にシャールク・カーンは恋に狂った気味の悪いストーカー男を演じて一躍有名になったが、イムラーンは、それとはまた違った21世紀のストーカーである。一途だがスマートで、強引だが母性本能をくすぐる不思議な魅力に溢れた男として、ボリウッドの中で異色の存在感を放っている。「Jannat」のイムラーンは今までで彼の演じて来たキャラクターの集大成であり、ベストの演技だと言っていいだろう。

 ヒロインのゾーラーを演じたソーナル・チャウハーンは、本作がデビュー作。ミス・インディアの候補者であり、2005年にはミス・ワールド・ツーリズムの栄冠に輝いた。モデルとして活躍していたが、「Jannat」で映画デビュー。「連続キス魔」イムラーンと共演したため、キスシーンも披露している。女優のオーラは感じないが、悪くない演技をしていた。

 イムラーン・ハーシュミーの映画は、映画音楽がヒットするというジンクスがある。「Jannat」の音楽も現在ヒットチャートの上位にある。音楽監督はプリータム。映画の雰囲気に合わせて狂おしさを前面に押し出した音作りで、特に「Zara Sa」や「Jannat Jahan」が素晴らしい。

 最近、インドとパーキスターンの間で映画を通した信頼醸成措置が進んでいるが、その一環として「Jannat」のプレミア上映がパーキスターンで行われた。プロデューサーのムケーシュ・バットや、その兄弟のマヘーシュ・バットは昔からパーキスターンの映画界や音楽界と太いパイプを持っており、ボリウッドの中で印パ映画・音楽交流にもっとも積極的である。そのひとつの理由は彼らの家庭環境にありそうだ。ムケーシュ&マヘーシュの父親はヒンドゥー教徒、母親はイスラーム教徒である。

 「Jannat」は、インド人の恋愛の究極の形をよく表現した映画になっており、胸を締め付けられるような余韻が得られる傑作になっている。インド映画の新しい潮流を体験したかったらお勧めだ。クリケットのマッチ・フィックシングという問題にも踏み込んでおり、それだけでも興味深い。折りしも、新発足のクリケット・リーグ、インディアン・プレミア・リーグ(IPL)が開催中であり、インド人の間でクリケット熱が高まっているときなので、タイミングもいい。今年3月に公開された「Race」以来のヒット作になりそうな予感である。

5月19日(月) ジュガール文化

 書名は忘れてしまったのだが、昔、各国の言語か文化をひとまとめにして紹介するようなコンセプトの本で、「その国の言語の中からもし一言を選ぶなら」みたいなコーナーがあった。つまり、その国の文化をもっとも端的に表した単語は何かということだ。インドまたはヒンディー語からは、「ゼロ」という意味の「シューンニャ(शून्य)」という言葉が選ばれていた。インドは「ゼロ」という概念が発見された場所であり、また、その単語には「空虚」という意味も含まれていて、どこか仏教の生誕地としてのイメージも彷彿とさせるからというような理由が解説されていたのではなかっただろうか。

 確かにインドは「ゼロの生まれた国」「仏教の生まれた国」というイメージが強く、「シューンニャ」が選ばれたことに異論はない。だが、今となっては少し違和感も感じる。なぜなら日常会話の中で「シューンニャ」という言葉は全く使われないからである。むしろ英語の「ゼロ」の方がよく使われる。「zero」はインドでは「ズィーロー」と発音されるが、ボリウッドの映画音楽では、「ヒーロー(hero)」と「ズィーロー(zero)」をかけた韻がよく登場する。英雄と能無しのコントラストが面白おかしく対比されることが多い。

 では、他に何かインドを一言で表すためのいい言葉があるだろうか?僕だったら、迷わず「ジュガール(जुगाड़)」という言葉を選ぶだろう。

 大修館の「ヒンディー語=日本語辞典」によれば、「ジュガール」という単語は「(1)工面;やりくり手配;準備;段取り(2)手立て」と説明されている。この言葉が持つ大体の意味は網羅されているが、正確なニュアンスはこれでは伝わらないかもしれない。「ジュガール」とは、とにかくそのときその場で手に入るものを寄せ集めて組み合わせて、何とか当面の必要な用事を済ますことができるようにすること、またはそれによって出来上がったもののことを指す。よく言えば最大限の応用力と想像力を使った行動であり、悪く言えば間に合わせのやっつけ仕事である。

 この「ジュガール」こそが、インドの文化の二面性をうまく表現しているような気がする。

 記憶を辿っていくと、僕が始めてインドの「ジュガール」を感じたのは、インド留学前、日本でたしなみ程度にスィタールを習っているときであった。ある日本人のスィタール奏者にスィタールを習っていたのだが、その人がスィタールを弾く前に弦の滑りをよくするために指に油のようなものを付けているのを見て、「その油は何ですか?」と聞いた。その頃まだ「神秘のインド」に魅せられていた僕は、何かスィタール専用の特別な油があるのだろうと推測したのである。だが、答えは「え、これ?ただのサラダ油」であった。スィタールのような高尚な古典楽器の演奏に、台所のサラダ油が大活躍するその姿を見て、何か滑稽な、かつダイナミックなものを感じたのであった。

 インド留学1年目、初めて「ジュガール」という言葉を知ったのは、インド人の友人と自動車に乗ってラージャスターン州とウッタル・プラデーシュ州の州境辺りの田舎道を走っていたときである。踏み切り待ちをしていると、後ろに変てこな自動車が止まった。ジープやらトラクターやらいろいろな部品を組み合わせて作られた「ジュガール・カー」であった。結婚式のための調理器具を運搬中だった。インドの田舎では、「動けばいい」というコンセプトの下に、独創的な自動車が走行しているのである。ターター自動車のナノどころではない。


ジュガール・カー

 キングフィッシャー航空では、搭乗するとイヤホンのセットがもらえる。だが、安物だからすぐに壊れてしまう。キングフィッシャー航空を愛用しているため、僕の部屋にはこのたまっているのだが、その内のいくつかは片方が聞こえなくなったりしていて壊れていた。ある日それをまとめて捨てようとしたら、インド人の友人が「待て」と止めた。そしてイヤホンの耳の部分を分解し、マグネットを取り出した。「これだけでも使える。」現在そのマグネットは冷蔵庫の扉にくっつけてあり、紙や写真などを挟む用途に使用している。

 現代の日本はジュガール文化の対極に位置しているかもしれない。日本に行くと、どんな商品でも用途が決まっており、詳細に使い方が解説され、本来の用途や使用法以外を禁じる注意書きが見られる。だから一般の日本人は、それはそういうものだと思って、他の用途に使ったり、他の使い方をしようとは思わない。日本は「専用文化」と言っていいだろう。だがインドは違う。インドでも市場へ行けばいろいろなものが手に入るが、それらはインド人の目にはどんな完成品でも材料に過ぎず、家に持ち帰ってどのように使用してもいいのである。そして修理してももう使えないほど壊れてしまったものは、インド人の目には一瞬の内に部品と材料の宝庫に映る。そしてそれらを組み合わせて何か新しいものを作ってしまう。インドではガラクタばかりを売っている市場や店があるが、それらもきっと誰かの役に立つときが来るのだろう。もしかしたらジュガールは、日本語の「もったいない」に近い言葉なのかもしれない。

 専用文化とジュガール文化の違いは、完成品PCと自作PCの違いに例えられるかもしれない。だが、一般的な自作PCはジュガールには入らない。なぜならPCの自作は大体の場合、用途や機能の決まったパーツを組み合わせて作っているだけだからだ。どちらかというと準完成品の範疇に入る。ジュガールは、ある部品や器具を全く別の用途に使ったり、壊れた機械から使える部品だけを抜き出して応用したり、それらを組み合わせて何かを作ってしまうことを言う。例えば東急ハンズで売られている商品を利用して何かを作ろうとするのは、本質的にはジュガールとは言えない。ジュガールには、全く別の創造性が要求される。

 日本からラジコン飛行機を持って来ていた。ずっと飛ばす機会がなかったのだが、先日寮の友人たちと共にジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)のグラウンドで初飛行をさせた。初飛行で見事に森林の中に落下し、その衝撃からか、左翼のモーターがスムーズに回らなくなってしまった。両翼のモーターが等しく回らなければ空は飛べない。僕なんかは壊れたらもう終わりだと思ってしまうのだが、インド人は壊れてからの方がテンションが高い。何とか再生させようと躍起になっていた。とにかくモーターを修理するか変えれば何とかなるという話になった。インドで代替の部品が手に入らないなんてことは気にしない。とにかく何のモーターが使えるかという話になる。最後の手段として挙がったのは、安いCDウォークマンを2つ買って、CDを回転させるモーターをプロペラにして飛行機に装着するという妙案であった。そんな発想一体どこから出て来るのか・・・。インド人は毎日こんなことばかり考えているのかと驚いたものであった。しかし、その試行錯誤の中から本当に飛行機が飛び出て来そうだった。

 インドの文化の多様性は間違いなくインド人のジュガール気質の賜物であろう。例えばヒンドゥー教寺院ひとつを取っても、北から南まで様々な様式が見られる。その多様な様式の中で一貫しているのは、その場で採れるものを材料に建設するという原則である。無理に遠くから材料を取り寄せたりはしない。だから、気候風土ごとに様々なヒンドゥー教寺院が発展した。かつてガーンディーは、「その場から半径5マイル(約8km)以内で手に入る材料を使って建てられた家こそが理想的な家である」と述べたが、ジュガールもここまで来るとそれはただの間に合わせではなく、ひとつの哲学と言える。そういえば、アーユルヴェーダのもっとも基本的なコンセプトも、「病気は、病気になった地域で手に入る薬草で治る」というものだ。そのときその場にあるものがとても重視される。酷暑期に身体を冷やす作用のある果物がたくさん採れるが、その事実も「自然は必要なものを必要なときに我々に与えてくれる」というアーユルヴェーダ的な考え方を支えている。だから、アーユルヴェーダを無闇に製品化したり、アーユルヴェーダ製品の国際的貿易をすることは、本当はアーユルヴェーダの本質に反している。日本においては、日本で手に入る薬草で病気を治療することが、アーユルヴェーダの理念に叶った方法である。そういう意味では、最近流行のアーユルヴェーダ製品は全てまやかしだ。

 しかし、ジュガールの考え方は時にいい加減さの原因にもなってしまう。間に合わせでも何とかすれば何とかなると知っているので、間に合わせで何でも何とかしてしまおうとしてしまう傾向にあるのである。例えば、インドではいろいろなものが次から次へと壊れるため、修理屋を呼んだり、修理に出す機会が多いのだが、その場限りの修理をされてしまうことが多くある。そのとき直ればいい、そのとき動けばいい、という考え方があるため、将来同じような故障を予防しようという長期的な視野を持てないのではないかと思う。だからまた壊れてしまうのである。僕の電話線は今まで何度も切断され、その都度エンジニアを呼んで直してもらっていたのだが、ある日どのように接続しているのか気になって調べてみたら、単に切れた線と線をより合わせて結んであるだけだった。接続部の導線は完全にむき出しで、絶縁テープすらも巻かれていなかった・・・。

 インドは製造業が弱いと言われるが、そのひとつの原因もジュガール的思考にありそうだ。例えばの話であるが、日本人は100円の製品を作って売るのに1億円の設備投資をするだけの先見性を持っている一方、普通のインド人は10ルピーの製品を作って売ろうとしたときに工場に対してわざわざ数千万ルピーの投資はしない。とりあえず形になればいいので、製造過程で高い質やこだわりは求められない。製造過程を節約して、あれこれジュガール的に何とか安く済ませようとする。高価な品物を作って売るならまだしも、一般的に、回収に長い時間がかかるような多額の金を初期投資に費やすことは愚かで下手な商売だと考えられている。その点、IT産業は第二次産業に比べて立ち上げに金がかからない。そのためにインド人の気性に合ったのだろう。第二次産業では工場の質が商品の質に直結するが、IT産業では「工場」である開発用PCの質と「商品」であるITサービスの質に、直接的な関係はない。よく言われているように、国際的な視点から見れば、ハードよりもソフトの方が強い国民性なのである。ただし、インド人の視点から見れば、ハードの面はあれこれ工夫したり間に合わせで何とかしているので、どうでもいいといったところであろう。

 以上のように、「ジュガール」という言葉は、インドの文化の二面性や、インド人のいい所と悪い所を一度に言い表せるため、インドを代表する言葉として是非推薦したい。



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