スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2004年6月

装飾下

|| 目次 ||
▼マハーラーシュトラ州旅行(5月15日〜6月7日)
旅行■1日(火)清浄なる町、プネー(3)
旅行■2日(水)四大聖地のひとつ、ナーシク
旅行■3日(木)サーイーバーバーの町、シルディー
旅行■4日(金)連邦直轄地、スィルヴァーサー&ダマン
旅行■5日(土)旅の終着点、ムンバイー
旅行■6日(日)バイバイ・ムンバイー
旅行■7日(月)マハーラーシュトラ州旅行のまとめ
分析■8日(火)「これでインディア」を振り返る
分析■9日(水)韓国に嫁いだインドの姫の話
競技■10日(木)サッカーW杯予選 インド×日本
競技■11日(金)デリー五輪聖火リレー
映評■11日(金)Dev
映評■13日(日)Girlfriend


6月1日(火) 清浄なる町、プネー(3)



 今日はプネーの主な観光地を巡ることにした。とは言っても、プネーに着いた途端リラックス・ムードになってしまったので、あまり精力的な観光はしなかった。

 まず訪れたのは、旧市街にあるラージャー・ディンカル・ケールカル博物館。ディンカル・ガンガーダルが70年の歳月をかけて集めた2万点以上のコレクションの内、スペースの都合から2500点だけが展示されている。入場料はインド人12ルピー、外国人150ルピー。主に目を引いたのは、木製の門のコレクション、ヴァジュリーという足の裏をきれいにする器具のコレクション、ヌードル・メイカーのコレクション、楽器のコレクションなどなどである。普通の博物館ではあまり見られないようなものがいくつかあり、インド中の博物館を巡った後に来ても十分面白かった。多くは18世紀〜20世紀初頭に作られたものだが、その時代にもインドの伝統技術はまだ残存していたことを実感させられた。どうやらディンカルの全てのコレクションを展示する博物館が建造中らしい。





ヌードル・メーカー(19世紀)


変わった形の太鼓


 そのまま旧市街を散歩しながら、プネーのシンボルであるシャニワール・ワーダー(土曜宮殿)へ向かった。途中、本屋街を見つけたのでヒンディー語の書籍を探してみたが、マラーティー語の書籍を扱っている書店は見つかったものの、ヒンディー語の書籍を中心に取り揃えている店はプネーにはないようだった。

 シャニワール・ワーダーについて説明する前に、マラーター王国とペーシュワー(宰相)について、もう一度説明しなければならない。マラーター王国の創始者は、5月25日の日記にも書いた通り、チャトラパティ・シヴァージー(1630-1680年)である。シヴァージーはムガル帝国など近隣の諸勢力にゲリラ戦で立ち向かい、マラーター王国の基礎を築き上げた。1680年にシヴァージーが病没すると、息子のサンバージーが後を継いだが、ムガル皇帝のアウラングゼーブはシヴァージーの死に乗じてマラーター王国を攻撃し、サンバージーは捕まってしまった。サンバージーは殺害され、その後マラーター王国では後継者争いの内紛が起こった。その内紛を収め、マラーター王国の実権を握ったのが、ペーシュワーと呼ばれる宰相職のブラーフマンだった。第1代ペーシュワー、バーラージーはマラーター王国の領土を大幅に拡張し、第2代ペーシュワー、バージーラーオの時代にマラーター王国は最盛期を迎える。バージーラーオはマラーター王国の首都をプネーに定め、1730年1月10日土曜日に宮殿の建造を開始し、1732年1月22日土曜日に宮殿は完成した。よって、プネーのこのペーシュワーの宮殿の名前は、土曜宮殿と呼ばれるようになった。宮殿は堅固な城壁に囲まれており、7階建ての壮麗な建築だったと言われている。ところが残念なことに1828年に宮殿は火事で焼失してしまった。イギリスとの戦争に敗れた当時のマラーター王国に、宮殿を再建する財力はなく、現在では城壁と門のみが残っている。




シャニワール・ワーダー


 シャニワール・ワーダーの入場料はインド人5ルピー、外国人100ルピーである。内部は建物の基部がわずかに残っているだけで、後は公園のようになっている。一応所々には「ここには何があってどんな建物だったか」などの解説が書いてあるが、当時の面影を偲ばせるようなものはほとんど残っていない。城壁の周りをグルッと回ることもでき、旧市街を見渡すことができるが、特に面白い風景でもない。門だけは立派で、ラーハウル(ラホール)のアラームギリ門に似た建築である。100ルピー払って中に入る価値はほとんどないので、門だけ見れば十分だろう。かつてプネーを支配したペーシュワーの宮殿は、現在では地元の人々の憩いの場かつ心の拠り所となっている。




シャニワール・ワーダー内部


 シャニワール・ワーダーからさらに北へ行くと、パターレーシュワル寺院という石窟寺院がある。ラーシュトラクータ朝時代の8〜9世紀に建造されたシヴァ寺院で、現在でも生きた寺院として機能している。特徴的なのは、寺院の前にナンディー・マンダプと呼ばれる円形の前殿があることだ。しかしそれ以外は特に見所はない。やはりここも地元の人々の憩いの場となっている。入場料は無料である。

 この他、プネーから南西に24kmの地点にはスィンハーガル(獅子の砦)という要塞があるが、遺構はほとんど残っておらず、遺跡というよりピクニック・スポットになっていると聞いたので、わざわざ訪れなかった。また、プネーの北東には、ガーンディー国立記念館がある。マハートマー・ガーンディーら独立運動の指導者たちが1942年から軟禁されていたアガ・カーン宮殿が、現在ガーンディーの業績を記念した博物館になっている。しかしここも訪れなかった。今日はプネーを観光した他は、ネット・カフェでネットをしたりして、シティーライフをエンジョイしていた。何だかすっかりプネーが気に入ってしまった。

6月2日(水) 四大聖地のひとつ、ナーシク

 インドにはいろいろな宗教があり、いろいろな聖地があるが、クンブ・メーラー(壺祭)が行われる4都市をヒンドゥー教の四大聖地と呼ぶことが多い。すなわち、ウッタラーンチャル州のハリドワール、ウッタル・プラデーシュ州のイラーハーバード、マディヤ・プラデーシュ州のウッジャイン、そしてマハーラーシュトラ州のナーシクである。今日はプネーからナーシクへ移動した。

 プネーのシヴァージーナガル・バススタンドで、朝8時発スーラト行きのバスに乗った。僕が乗ったのはおそらく急行バスで、プネーからナーシクまで123ルピーだった。バスの中では居眠りをしていたので、あまり途中の風景を覚えていないが、プネーからひとつふたつ山を越えて、丘陵地帯をバスが進んで行ったように思う。プネーから約5時間でナーシクに到着した。

 ナーシクでは2003年にクンブ・メーラーが行われたばかりである。クンブ・メーラーは3年ごとに上記の四大聖地のどれかで順番に行われる、地球最大の祭りだ。その昔、神と悪魔が不老不死の霊薬アムリタの入った壺を巡って争った際、アムリタのしずくが落ちた場所が、ハリドワール、イラーハーバード、ウッジャイン、そしてナーシクだと言われている。各聖地で12年に1回の周期でクンブ・メーラーが行われるのは、神と悪魔のアムリタを巡る争いが12日間続いたことに基づいていると言われている(神様の1日は人間の1年だと言う)。ただ、これら4ヶ所にはどれもヒンドゥー教徒にとって重要な河が流れており、元々豊穣を祈る川祭りだったと考えられている。ちなみにナーシクには聖なるゴーダーヴァリー河が流れている。クンブ・メーラー時にはインド中から多くの巡礼者が聖地に駆けつけ、聖なる河の水で沐浴を行う。

 また、ナーシクは、「ラーマーヤナ」の主人公、ラームとその妻スィーター、そしてその弟のラクシュマンがヴァンワース(森林で隠遁生活を行うこと)を行っていた場所としても知られている。ラームたちが亡命中に住んでいたという場所もインドにはたくさんあるが、ナーシクはその中でもある有名な逸話で有名である。それは、ラクシュマンが、ラームを誘惑しようとしたラーヴァンの妹シュールパンカーの鼻を切り落とした場所であるからだ。鼻を切り落とされたシュールパンカーは、ラーヴァンにスィーターを誘拐するようそそのかした。これがラームとラーヴァンの争いのそもそものきっかけとなる。ナーシクとはサンスクリト語で「鼻」という意味である。

 ナーシクの表記に関しては、英語ではNasikとNashik、デーヴナーグリー文字ではnaasikとnaashikの二種類が見られる。どちらでもよさそうなので、カタカナとしてより通りのよい「ナーシク」と表記することにする。

 ナーシクの街は、想像していたよりも非常に大きく、ヒンドゥー教の聖地らしからぬ近代的でいそいそとした街だった。ナーシクでは、寺院が密集しているパンチワティー・カーランジャー地区にあるホテル・アビシェークに宿泊することにした。ダブル・ルームをシングル料金で275ルピー。バスルーム、タオル、石鹸、TVなど完備である。

 マハーラーシュトラ州には多くの石窟寺院が残っているが、ナーシク郊外にも前1世紀〜後2世紀に造られた仏教石窟寺院がいくつか残っている。パーンダヴ・レーニー石窟寺院群と呼ばれており、ナーシク中心部から約8kmの地点にある。今日はとりあえずパーンダヴ・レーニー石窟寺院群を訪れた。

 パーンダヴ・レーニーは丘の中腹部にあり、24窟の石窟寺院が残っている。麓にある駐車場から10分ほど階段を登って行ったところにあり、インド人料金5ルピー、外国人料金100ルピーである。しかしここのチケット売り場では不正が行われており、チケットセラーはチケットを切らずに、訪れた人々からもらったお金をそのまま自分のポケットに収めていた。こんな状態だったから、交渉したら50ルピーにまけてくれた。

 パーンダヴ・レーニーの石窟寺院群の多くは、未完成か崩壊しており、見るべきものは少なかった。また、観光地としての整備もずさんで、どれが第何窟なのか標示がないため、非常に分かりにくかった。解説によると、第18窟がチャイティヤ窟である他は、全てヴィハーラ窟とのことである。残念ながら心無い人々の落書きも目立った。いくつかまあまあの彫刻が残っていたり、うっすらと色彩が残っている部分もあったりしたが、アジャンターやエローラとは全く比較にならない。




パーンダヴ・レーニー石窟寺院群


 ナーシクには2000以上の寺院があると言われるが、最も重要な寺院はゴーダーヴァリー河河岸に集中している。まず目を引くのがラームクンド。ゴーダーヴァリー河流域にある沐浴池であり、多くの人々が沐浴を行っていた。1696年に造られたと言われている。かつてこの地では亡命中のラームとスィーターが沐浴をしていたという。ラームクンドの周辺にはスンダル・ナーラーヤン寺院、ラーメーシュワル寺院、カーラーラーム寺院など、古い寺院が並んでいる。




ラームクンド


 僕の宿泊しているパンチワティー・カーランジャー地区はナーシクの旧市街にあたり、聖地の中心部であることから、ヴェジタリアン・レストランがほとんどである。ホテルの近くのレストランで昼食と夕食を食べたが、ここの人々は皆、右手のみで食事をしていることに気付いた。一般にインド人は右手を聖なる手、左手を不浄の手と考えており、食事に使用するのは右手のみ、排泄行為などに使用するのは左手のみだとされている(立ち小便をしているインド人をよく見てみると、左手しか添えてない)。だが、デリーのインド人はけっこう両手を使って食事をしている人が多い。僕は既に右手のみでインド料理を食べる習慣を身に付けているので、ほとんどの場合右手しか使わないが、当のインド人が食事中左手を使うのを見るのは、あまりいい心地がしない。しかし、ナーシクのインド人は子供まできちんと右手のみで食事をしていて感動した。やはり聖地のインド人はマナーもいいみたいだ。

6月3日(木) サーイーバーバーの町、シルディー

 サーイーバーバーと書くとあまり通りがよくないかもしれない。日本ではサイババと縮めて読まれるのが一般的だ。だが、現地語ではサーイーバーバーとなるので、僕はそちらに従う。インドのことをあまり知らない日本人にもサーイーバーバーは割と有名である。ただ、アフロで小太りのおじさんをイメージする人がほとんどだろう。しかしインドには主に2人サーイーバーバーがおり、日本人が一般的に知っているアフロのサーイーバーバーの方は、言うなれば紛い物である。全インドで広く厚く信仰されているサーイーバーバーは、シルディーに住んでいた痩せたサーイーバーバーの方である。プッタパルティーに住んでいる太ったサーイーバーバーはサティヤ・サーイーバーバーと呼ばれ、まだ存命中であるが、シルディーに住んでいたシルディー・サーイーバーバーは1918年に死去している。サーイーバーバーの死後、シルディーは聖地・巡礼地として急速な発展を遂げた。

 シルディーはナーシクから122kmほどの地点にあり、十分日帰りが可能である。今日はナーシクのマハーマールグ・バススタンド(ナーシクには複数のバススタンドがある)で朝7時半発シルディー行きのバスに乗って、シルディーを目指した(50ルピー)。ナーシクからシルディーまでは2時間半ほどだった。

 シルディーに近づくにつれて、道の脇にはホテルの看板が目立つようになる。何もない田舎道に忽然と看板の群れが出現するので、異様な光景である。おそらくサーイーバーバーが生きていた頃のシルディーは、田舎の寒村だっただろう。しかし現在のシルディーは、インド中から巡礼者が集まる一大巡礼地となってしまっており、巡礼宿から高級ホテルまで、ありとあらゆるレベルのホテルが乱立状態となっていた。遊園地まであったのには驚いた。拡張中なのか道路工事が行われており、あちこちではさらにホテルが建設中のようで、非常に落ち着きのない印象を受けた。自動車の交通量も人の量も都会並みで、ゴミゴミした汚ない町だった。インド随一の巡礼地とは言え、もう少し静かな場所を想像していた僕は全く絶望してしまった。

 バスがバススタンドに着くや否や、客引きがバスに群がってきた。ホテルや供え物の店の客引きのようだ。バススタンドの周辺には私営バスのカウンターが並んでおり、ムンバイー、プネー、ナーシクなどへ行くバスの乗客を集めていた。下らない品物を売る売り子も辺りをうろうろしている。本当に騒々しい町である。

 シルディーではサーイーバーバー寺院ぐらいしか見るものがない。早速寺院へ直行した。聞くところによると、木曜日はサーイーバーバーの日とされているらしく、1週間の中で最もシルディーが混雑する日のようだ。寺院の境内には大勢の巡礼客が詰め掛けており、しかも境内にはいろいろな施設があるため、何が何だか全く訳が分からない状態だった。とりあえず僕が一番見たかったのは、サーイーバーバーがいつも座っていたという石である。一通りグルッと寺院を見て回って見たが、それらしきものはなかった。サーイーバーバーの墓や礼拝所などがあったが、どこも長蛇の列が出来ていて、物見遊山の外国人は入り込めない状態だった。サーイーバーバー博物館もあり、ここは無料で入ることができた。




サーイーバーバー寺院境内


 石が見つからなかったため、今度はサーイーバーバーが寝泊りしていたというドワールカーマーイーというモスクを探してみた。これはすぐに見つかった。中に入ってみると、例のサーイーバーバーが座っていた石もあった。また、サーイーバーバーが灯したという火も中にあった。

 シルディーに来たのははっきり言って間違いだった。いったいどんなところなのか見てみたかっただけだが、馬鹿馬鹿しいほど商業的巡礼地と化してしまっており、全く落ち着ける場所ではなかった。サーイーバーバー寺院を見た後、すぐにナーシクへ舞い戻った。

 ナーシクの町の所々には、シネマックスという名前のシネマ・コンプレックスの看板が立っていたのに気付いた。シルディーから帰った後、ナーシクのシネコンがどんなものか確認するため、シネマックスを訪れてみた。シネマックスはカレッジ・ロードにあり、3スクリーンのシネコンだった。ショッピング・モールも併設されているとのことだったが、まだ映画館しか完成しておらず、ビッグ・バザールが入店する模様である。シネマックス周辺部は新市街だろうが、あまり発展しておらず、面白そうなものはなかった。その後、旧市街のバーザールを散策してみたが、やはり古い街だけあって活気がある。おいしそうなマンゴーがたくさん市場に並んでいた。ナーシクはまだまだ古い顔の方が強い街という印象を受けた。

6月4日(金) 連邦直轄地、スィルヴァーサー&ダマン

 インドは連邦制をとっており、28の州(State)から成っている。しかしインドを構成するのは州だけでなく、中央政府が直接統治を行う6つの連邦直轄地(Union Territory)もある。連邦直轄地は概して州よりも領土が小さく、また歴史的、政治的、社会的、地理的に何らかの問題を抱えている場所が多い。デリーは、かつては連邦直轄地だったが、最近州に格上げされるとかどうとかでもめており、正確な状況は不明である。ここでは便宜的に連邦直轄地のことを準州と呼ぶことにしている。

 連邦直轄地の中でも、おそらく最も知名度の低い場所が、グジャラート州とマハーラーシュトラ州の狭間にあるダードラー&ナガル・ハヴェーリー準州であろう。「ロンリー・プラネット」や「地球の歩き方」など、旅行ガイドの地図にもその名はほとんど載っておらず、外国人旅行者はほとんど訪れない場所だ。しかし聞くところによると自然の美しい場所らしい。昨冬にグジャラート州を旅行したときに、時間があったら行ってみようと思っていた場所だったが、残念ながら余裕がなくて行けなかった。地図で見るとナーシクからすぐ近くにあるので、いったいそこには何があるのか、今度こそ訪れることにした。

 ナーシクのバススタンドで聞いてみたところ、ダードラー&ナガル・ハヴェーリー準州の中心地スィルヴァーサーへ行くには、まずナーシクからグジャラート州ヴァーピーへ行かなければならないようだ。ナーシクのニュー・セントラル・バススタンド(ニューCBS)から朝8時に出発するヴァーピー行きのバスがあった。いつものように朝から空いたバスに乗って悠々と移動しようと思っていたのだが、なぜかヴァーピーへ行く人は異常に多く、バススタンドにヴァーピー行きのバスが来るや否や、バスの入り口に人々が殺到した。ローナールと同じパターンである。こうなると経験豊かなインド人に席取り合戦でかなうはずがなく、座席は獲得できなかった。よって、立ってヴァーピーまで行くことになった。ナーシクからヴァーピーまで66ルピー。

 大体バスの運賃で、目的地までどれくらいの時間で着くか大まかに計算できる。66ルピーということは、おそらく3時間前後だろうと考えていた。しかしバスは丘陵地帯を進んでおり、あまりスピードが出ない。途中ペートという山間の町を経由し、軽食のために途中のダーバーで20分ほど停車しつつ、ヴァーピーに到着したのは4時間後だった。乗客はほぼ全員ヴァーピーへ行く人だったため、この間哀れなことに僕はほとんどずっと立ちっぱなしだった。ただ、幸いそれほど疲れなかった。

 ヴァーピーに着くと、車掌が「スィルヴァーサーへ行く奴はここで降りろ!」と叫んだので、急いでバスを降りた。他にもけっこうスィルヴァーサー行きの乗客はいた。バスから降りると、そこには見計らったかのように数台のオート・リクシャーが待っていた。何が何だか分からないが、とにかくその乗り合いオートに乗ればスィルヴァーサーに行けるようだ。迷わずオートに乗り込む。乗客がいっぱいになるとオートは出発した。

 ヴァーピーからスィルヴァーサーまではほぼ一直線の道になっていた。途中事故があって道が混んでいたが、ヴァーピーからスィルヴァーサーまでオートで約30分〜40分ほどだった(約17km)。途中、ダードラー&ナガル・ハヴェーリー準州に入ったことを示す門があり、それをくぐると次第に風景はトロピカルになって来る。スィルヴァーサーの町の中心部には交差点があり、そこで下ろされた。ヴァーピーからスィルヴァーサーまで乗り合いオートで15ルピーだった。

 とりあえず宿を探さなければならない。全く情報がないので、その交差点近くにあった、よさそうなホテルを当たってみた。難なく泊めてくれるということだったので、そこに泊まることにした。ホテル・ナトラージというホテルで、ダブルルームで500ルピー。バスルーム、タオル、石鹸、TVなど完備で、バスタブまであるが、バスルームは小汚ない印象を受けた。

 スィルヴァーサーの気候は蒸し暑く、歩いていると汗ばんでくる。スィルヴァーサーの見所といったら、やはり自然しかないようだ。自然が見所ということは、つまり大した見所がないということに等しい。だがそれは想像していた通りなので、とりあえず謎のダードラー&ナガル・ハヴェーリー準州へ足を踏み入れることができた幸せを噛みしめた。

 ダードラー&ナガル・ハヴェーリーの各地には、公園や庭園がいくつか散在している。その中でも特に美しいと言われる、ダードラー(ダードラー地区だけグジャラート州の中にある飛び地となっている)にあるヴァンガンガーという公園に行ってみた(入場料5ルピー)。だが、湖をボートで巡ることができる他は特に面白いものはなかった。ここでは25本以上のヒンディー語映画のロケが行われたそうだ。他に、スィルヴァーサーの交差点近くには部族文化博物館と古い教会が残っている。ダードラー&ナガル・ハヴェーリーは元々ポルトガル領だった場所であり、また部族が人口の大半を占めているところでもある。ポルトガル人が去った後、しばらく部族の王の統治が行われていたそうだ。だから、ポルトガル人が造った教会と部族文化博物館は、ダードラー&ナガル・ハヴェーリーの歴史や文化を偲ばせてくれる。部族文化博物館は無料で入ることができ、ダードラー&ナガル・ハヴェーリーに住むワールリー、コークナー、ドーディヤーなどの部族の風俗を知ることができた。ちゃんと英語での解説もあり、無料の割にはきちんとしていた。また、ここでダードラー&ナガル・ハヴェーリーの観光案内を買うことができた。教会は閉まっていて入ることができなかった。




ヴァンガンガー


 部族文化博物館などの情報によると、ダードラー&ナガル・ハヴェーリーは三日月形をしており、72の村から成っている。面積は491平方kmである。人口の80%は部族(トライブ)で、62.92%がワールリー、16.91%がドーディヤー、16.85%がコークナーである。その他、コーリー、カトーディー、ナーイカー、ドゥブラーなどの少数部族が住んでいる。スィルヴァーサー(Silvassa)の「Silva」はポルトガル語で「森林」という意味らしい。

 スィルヴァーサーに来るときに経由したヴァーピーは、これまた連邦直轄地ダマン&ディーウ準州のダマンへ行く拠点ともなる町である。スィルヴァーサーは予想通りあまり何もない場所だったので、余った時間を使ってついでにダマンも訪れてみることにした。ヴァーピーまで戻り、ヴァーピー駅を越えて反対側(西側)へ行くと、ダマン行きの乗り合いタクシーが待っている(15ルピー)。ヴァーピーからダマンまで、約20分ほどだった。

 ダマンは2つの地区に分かれている。すなわち、北部のナーニー・ダマン(小ダマン)と南部のモーティー・ダマン(大ダマン)である。バススタンドなどはナーニー・ダマンにあるため、まずはナーニー・ダマンに到着する。ディーウ&ダマン準州も元々ポルトガル領だった場所で、多少町にはインドっぽくない味わいが残っているものの、昨冬訪れたディーウに比べたらインド色が強くなっている。人々にはポルトガル人の血が混じっているのか、少し普通のインド人とは違う顔つきをしている人がちらほらいる。また、ヨーロッパ風の洋服を着ているインド人女性もちらほらいて、なかなか面白い場所である。




ナーニー・ダマンの海岸


 ナーニー・ダマンとモーティー・ダマンの間には橋があるが、現在は補修中なのか通行止めになっている。その代わり、ナーニー・ダマンとモーティー・ダマンを結ぶ無料のバスが運行されており、それに乗ると、ナーニー・ダマンから一度グジャラート州まで戻って、そこから再びモーティー・ダマンへ入ることができる。その無料バスに乗ってモーティー・ダマンも訪れてみた。ナーニー・ダマンからモーティー・ダマンまで約40分かかった。

 ナーニー・ダマンに比べたらモーティー・ダマンは美しい自然とポルトガルの空気が残っていた。モーティー・ダマン・フォートというポルトガル人の造った要塞も残っており、その中には政府機関などが入っていた。適当に歩き回って再び無料バスに乗り、ナーニー・ダマンに戻ったが、余裕があれば1泊くらいはしてみたい場所だと思った。ディーウでは外国人旅行者が多かったが、ダマンでは全く外国人を見かけなかった。





モーティー・ダマン・フォートの入り口


フォート内


 しょうもない話になるが、ダマン、ヴァーピー、スィルヴァーサーを結ぶ道路では、ダマン&ディーウ準州のナンバーのDDと、ダードラー&ナガル・ハヴェーリー準州のナンバーであるDNが付いた車両が多く行き交っている。この2つは相当レアなナンバーであり、それらが一堂に会しているのを見るのはレアな体験だった。

6月5日(土) 旅の終着点、ムンバイー

 6月6日午後の列車でデリーへ戻るので、余裕を持って1日前の今日、ムンバイーへ戻ることにした。スィルヴァーサーから直接ムンバイーへ行くバスはなく、やはりヴァーピーが交通の拠点となる。ヴァーピー駅でムンバイー行きの列車を調べてみたところ、ヴァーピー駅を午前8時45分に出発する9032カッチ・エクスプレスがちょうどよさそうだったので、それに乗ってムンバイーへ戻ることにした。カッチ・エクスプレスはその名の通り、ムンバイーとグジャラート州西部のカッチを結ぶ列車である。カッチはインドの中でも僕のお気に入りの場所のひとつであり、列車の名前からも「これで帰ろう」と思った。ちなみに、ヴァーピー駅は重要な駅のようで、ムンバイーとアハマダーバードを結ぶ主要列車は、シャターブディーやラージダーニーを含め、ほぼ全て停車する。ヴァーピーからムンバイーまで普通切符で53ルピー。

 列車は予定より約20分遅れでヴァーピー駅に到着した。カッチからここまで来るのに20分しか遅れていないのは、インドでは「時間通り」の範疇に収まるだろう。二等席は混んでいた上に待っていた場所から遠かったので、目の前に停まった寝台車に乗り込んだ。噂では、寝台車は昼間の内は二等席と同じ扱いになり、普通切符でも乗り込むことが出来ると聞いていたが、寝台車の空いた座席に座った途端、車掌がやって来て、「ここは寝台車だ。普通切符の者は二等車両へ行け」と言ってきた。こういうときは右も左も分からない外国人旅行者の振りをするに限る。片言の英語で「アイ・ハヴ・チケット。アイ・ペイ・マニー」などと言っていたら、100ルピーの追加料金を払えば寝台車両に乗っていいことになった。100ルピーという値段は純粋に追加料金なのか、罰金も含まれているのか知らないが・・・。とにかく、100ルピーを払ってムンバイーまで座って行くことにした。

 カッチ・エクスプレスはヴァーピー駅を出るとノンストップでムンバイーまで直行した。列車から見える風景は非常に印象的だった。西側はどこまでも続く平野、東側はテーブル状の台地が続く丘陵地帯で、全く対照的だった。この丘陵地帯は西ガート山脈と呼ばれており、アラビア海とデカン高原を隔てている。マーテーラーン、マハーバレーシュワルなどの避暑地などはこの西ガート山脈上に位置している。

 ムンバイーに近づくにつれて、次第に蒸し暑さが増してきた。自然の蒸し暑さに加えて、都会特有の人ごみと建物の熱気が暑さを倍増させているように思えた。座っているだけで汗ばんでくるような蒸し暑さである。思うに、インドの四大都市と呼ばれるデリー、コールカーター、ムンバイー、チェンナイは、どれもわざわざ特に暑い場所にあるような気がする。いったいどうしてだろう?もしかしたら、都会の人口をなるべく増やさないようにするための秘策なのかもしれない。

 ヴァーピー駅から2時間ほどでグレーター・ムンバイーの入り口に当たるボーリーヴァリー駅に到着。そこからダーダル駅を経由して、ムンバイー・セントラル駅にはさらに1時間後の正午頃到着した。非常に理想的な時間にムンバイーに到着してくれてありがたかった。

 ムンバイーでは、ムンバイー・セントラル駅近く、マラーター・マンディル(映画館)の裏にあるYMCAに宿泊しようと考えていた。昔、ムンバイーに来たときも泊まったことがあり、勝手が分かっていたからである。また、明日のデリー行きの列車はムンバイー・セントラル駅から発車するので、ムンバイーの安宿街であるコラバ付近に宿泊するよりは、この辺りに泊まっておいた方が便利だろうと考えたからだ。ただ、ここは常に混んでいるため、できればチェックアウト・タイムの正午頃に到着したかった。インドを旅行する際のちょっとしたテクニックだが、次の街へ行くときはなるべく正午頃に着くように調整して旅をすると、ホテル探しが少しだけスムーズに行く。特にムンバイーはどこの宿も常に混んでいるので、このテクニックを駆使すると吉である。だからちょうどこの時間に到着してくれたカッチ・エクスプレスは本当にありがたかったのだ。おかげでYMCAで無事に部屋をとることができた。ここはシングル560ルピー、ダブル900ルピー(+税10%)だが、YMCAの非会員は入会金120ルピー(半年有効)を払わなければならない。バス・トイレは共同だが全体的に清潔でサービスもよく、夕食と朝食が付いている。タオルと石鹸もあり、部屋にはTVがある。

 ムンバイーは何度も来ているので、特に見て回りたい観光地はなかった。唯一、ハジ・アリー・モスクだけはまだ行ったことがなかったので、行ってみようかと思っていた。マハーラクシュミー地区の沖の、海の中にあるハジ・アリー・モスクはボリウッド映画にもよく登場し、「Fiza」という映画では「Piya Haji Ali」という歌にもなっている。ハジ・アリー・モスクの近くには、ショッピング・モールのクロスロードがあり、そこも併せて見てみることにした。

 実はクロスロードには3年前にも来たことがあった。しかしそのときはまだ完成したばかりで、店舗も全て埋まっておらず、活気もそれほどなかった。ところが、今回行ってみると、当然のことながらすっかりムンバイーの一大ショッピング・スポットとなっており、大変な盛況振りだった。1階のマクドナルドは3年前からあったが、1階の吹き抜け部分がフードコートになっており、サブウェイやジュース・バーなどが入っていたのは新しかった。1階には、デリーのGKIIのMブロック・マーケットにもある中華料理レストラン、少林村があって驚いた。2階から上は、スーパーマーケットやデパートなどが入っており、モール部分は高級な品物を売る店舗ばかりだった。ただ、未だにエスカレーターに乗るのを怖がっているインド人のおばさんがいて、微笑ましかった。




クロスロード


 ハジ・アリー・モスクにも行こうとしたが、ちょうど満ち潮でモスクまで行く道が水没しており、モスクまで渡ることはできなかった。潮が引くまで2〜3時間待たないといけないと言われたので、岸から写真を撮っただけだった。その後、マハーラクシュミー寺院周辺を散歩したが、暑くて歩く気力が急速に減少していったので、もうホテルに戻ることにした。




ハジ・アリー・モスク


 夕方、涼しくなってから再び行動を開始した。急にムンバイーのシネマ・コンプレックスを見てみたくなり、ホテルのフロントに置いてあった新聞で映画館をチェックしたところ、ワダーラーにあるアイマックス・シアターが面白そうだったので、そこへ行ってみることにした。ところがムンバイー・セントラル駅付近からワダーラーまでは案外遠く、タクシーで30分ほどかかった。この辺りはムンバイー郊外に当たり、ゴミの埋立地みたいな場所になっていた。建物はほとんど立っておらず、巨大なドームを持つ映画館がポツンと立っていた。ただ、ボリウッドのお膝元に住む人々が映画嫌いなはずがなく、しかも週末だったので映画館は非常に混んでいた。それに加えて「ハリーポッター3」が公開されたばかりだったため、おそらくこの混雑は通常以上だっただろう。時間が合えば何か映画でも見ようかと思っていたが、あいにくいいタイミングの映画がなかったため、映画館を外から眺めただけで帰ることにした。シネマ・コンプレックスとショッピング・モールが併設されていることを期待していたが、アイマックスは純粋な映画館だった。4スクリーン+「ドーム」と呼ばれる世界最大規模のスクリーンの、合計5スクリーンがあるようだ。映画館の前には軽食屋が数軒並んでいた。




アイマックス・シアター


6月6日(日) グッバイ、ムンバイー

 今日は午後4時55分、ムンバイー・セントラル駅を発車するムンバイー・ラージダーニー・エクスプレスに乗ってデリーへ戻る。それまで時間が少しだけあったので、フォート地区でショッピングでもすることにした。

 チェックアウト・タイムの12時頃までホテルで休養し、荷物をレセプションに預けて、まずはボンベイ・ストアへ向かった。ボンベイ・ストアはいわゆる土産物デパートだが、他よりも高品質なものを取り揃えた高級土産物店である。プネーでもボンベイ・ストアを見たが、まだデリーにはない。ボンベイ・ストアで買い物をした後、周辺のフォート地区を散歩したが、日曜日はムンバイーの店はほとんど休みで、開店していたのは路上の露店のみという状態だった。露店では主に海賊版のCD、VCD、DVDなどを売っていた。こんな状態だったので、ショッピングどころではなかった。

 リズム・ハウスという音楽店が営業していたので、そこに入ってみた。現在インド中でチェーン展開している大手音楽店といったらプラネットMとミュージック・ワールドである。大都市には必ずこれらのチェーン店があり、街の若者の憩いの場となっている。プラネットMとミュージック・ワールドを巡れば、ヒットチャートを賑わせているCDなどはインド、洋楽問わずもれなく手に入るが、一方で、小規模ながらも頑張っている小さな音楽店もけっこうある。ムンバイーのリズム・ハウスはそのひとつだ。ここのDVDの品揃えはおそらくインド随一で、古いインド映画音楽のCDの品揃えもよかった。デリーのプラネットMやミュージック・ワールドは、実はDVDの品揃えがあまりよくない。最新のDVDは手に入るが、少し前に発売されたDVDとなると、デリーでは入手困難となる場合が多い。しかしこのリズム・ハウスでは、今まで発売されたインド映画のDVDがほぼ全て揃っていた。また、地方へ行くと地方言語の音楽CDを買うことができるのも面白い。マハーラーシュトラ州ではマラーティー語音楽のCDが手に入る。

 その後、チャトラパティ・シヴァージー・マハーラージ博物館(旧プリンス・オブ・チャールズ博物館)へ行ってみたが、インド人観光客で大変な混雑振りだった。ちょうどムンバイー観光のバスが到着したからだと思うが、それにしても博物館がこんなに混雑するとは、インドもだいぶ変わったものである。入館料はインド人10ルピー、外国人300ルピーだが、英語で書かれた学生証があれば6ルピーで入ることができる。ムンバイーにある博物館だけあって、展示物には一級品が多い。特にアクバルの盾と鎧がよかった。細密画も詳しく解説がしてあってよい。日本の美術品コレクションもなかなかのものだった。しかし、館内の冷房装置はパンカー(天井のファン)だけなので、酷暑期の博物館はかなりつらい・・・。ゆっくり見ていられなかった。ちなみに、この博物館の建築は、ビジャープルのゴール・グンバズをモデルにして造られたらしい。

 博物館を見終わったところでタイムアップだったので、そこからホテルに戻って預けていた荷物を受け取り、ムンバイー・セントラル駅まで歩いて行った。デリーからムンバイーに来るときのラージダーニーの車両は最新設備が整っていたのだが、今回乗ったラージダーニーは旧式でがっかりした。全ての車両が最新車両というわけではないようだ。ラージダーニーに乗ってしまえば一安心。冷房も効いているし、全て至れり尽くせりなので、ボケッとしていても無事にデリーまで到着することができる。ただ、車内放送で「車内で携帯電話を無くした乗客がいます。もし見知らぬ携帯電話を見つけた方がいましたら、乗務員までお知らせ下さい」と流れていたので、最高級列車ラージダーニーにも泥棒は潜んでいるのかもしれない。

 翌日午後10時20分頃、列車はニューデリー駅に到着した。緑色のオート・リクシャーが走っているのを見ると、「デリーに帰って来たな」と思う。インドの他の地域は、黄色と黒のツートン・カラーのオートがほとんどだ。これにて、3週間に渡るマハーラーシュトラ旅行は幕を閉じた。

6月7日(月) マハーラーシュトラ州旅行のまとめ

 インドは、旅行をすればするほど、歴史や文化をさらに学びたくなり、歴史や文化を学べば学ぶほど、さらに旅行をしたくなる国である。インドの歴史は古く、インドの文化は深い。ゆえに学んでも学んでもなかなか全体像が見えない。インドの国土は広く、インドの民族は多様だ。ゆえに旅行しても旅行しても、まだ他に何かあるような気がしてならない。TVゲーム世代の僕にとって、インドを学び、インドを旅行していると、まるで終わりのないRPG(ロールプレイングゲーム)をしているような気分になって来る。

 マハーラーシュトラ州は、まさにそんなインドの特徴を凝縮したような地域だった。マハーラーシュトラ州を旅行することは、紀元前後から造営され続けた石窟寺院を巡ることであり、17世紀〜19世紀に繁栄したマラーター王国の歴史を辿ることであり、19世紀〜20世紀のインド独立運動の面影を偲ぶことであり、そして現代のボリウッド映画界の繁栄を実感することである。

 マハーラーシュトラ州には、3つの世界遺産がある。アジャンター石窟寺院群、エローラ石窟寺院群、そしてエレファンタ島石窟寺院群である。見ての通り、これら全て石窟寺院であり、他にも同州には多くの石窟寺院が残っている。これは、マハーラーシュトラ州が良質の玄武岩に恵まれ、石窟寺院の掘削に適していたからであり、また当時この辺りは重要な通商路となっており、富が集中しやすかった地域だからである。今回の旅行では、アジャンターとエローラを巡ったが、ムンバイーの沖合いにあるエレファンタ島は行かなかった。6月のムンバイーの気候は、エレファンタ島の石窟寺院に到達するまでの石段を登るのには全く適していなかったからだ。もちろん、エレファンタ島は以前インドを旅行したときに訪れている。

 マハーラーシュトラ州には、城壁で囲まれた堅固な要塞も多く残っている。ほとんどはマラーター王国時代にシヴァージーらによって造営されたものであるが、他にもスィッディーやイスラーム王朝などが造った要塞も残されている。西ガート山脈あたりへ行ってみれば分かるが、マハーラーシュトラ州西部にはテーブル状の台地が多く、その上部を城壁で覆ってしまえば、簡単に要塞とすることができた。だから、他の地域に比べて、要塞の数がこれほど多いのだと思われる。マハーラーシュトラ州を旅行すると、どこの町でもシヴァージーの像が立っており、シヴァージーの名前を冠した町、道路、施設などなどを見かける。シヴァージーはマラーターの英雄であり、マラーター王国の繁栄は今でもマハーラーシュトラの人々の誇りとなって生きていることをまざまざと実感することができる。

 ムンバイーやプネーは、インド独立運動の中心となった都市であり、今でも独立運動家の足跡を垣間見ることができる。ナーグプルにもガーンディーが作ったアーシュラムがある。特にプネーは今でも学園都市としての性格を有しており、若いエネルギーに満ち溢れていた。また、マハーラーシュトラ州の人々は、ネルーやアーンベードカルがよくかぶっているような、給食当番みたいな帽子をかぶっている人が多く、みんな一端の政治家に見えたりもした。また、虎のマークのシヴ・セーナー(阪神タイガースではない。ヒンドゥー原理主義の団体)の看板も多く見かけた。

 おそらくムンバイーやプネーの人々は、インドの中でも最も映画好きだと思われる。街には映画館が多く、週末の映画館は常にフルハウス状態だ。今回僕もTVドラマの撮影に遭遇したが、マハーラーシュトラ州を旅行していると、映画のロケに巡り合う機会も他の州より多いだろう。DVDの品揃えがデリーよりも遥かによかったのも、これらの都市の人々の映画好きぶりを示していると思われる。また、ムンバイーやプネーの人々は、外食も大好きだと見える。街にはレストランの数が非常に多く、夕方はどこのレストランも多くの人々で賑わう。

 今回の旅行でオススメの観光地をひとつ挙げるとするならば、断然ローナールである。旅行ガイド「ロンリープラネット」にも案内が出ているし、僕の日記を参考にしてもらえば、簡単に旅行できるだろう。アジャンター、エローラへの観光拠点となるアウランガーバードから近いので、時間のある人には、世界遺産の旅に加えて、是非「将来の世界遺産」を先取りしてもらいたい。5万年前に隕石が落下した場所のすぐそばで一夜を明かすのは、何となく神秘的な体験になるような気がする(僕はその機会を逃したが・・・)。

 終わってみれば、マハーラーシュトラ州に加えて、カルナータカ州、グジャラート州、ダードラー&ナガル・ハヴェーリー準州、ダマン&ディーウ準州にも足を伸ばした大旅行となった。だが、結局州を越えても、突然全てが何もかも変わってしまうだけではない。ビジャープルはどちらかというと北インドの影響を受けてきた都市だし、マハーラーシュトラ州全体にはグジャラート文化の影響が色濃かった。ダードラー&ナガル・ハヴェーリーには多くの部族が住んでいるが、マハーラーシュトラ州にもワールリーをはじめとする多くの部族が住んでいる。ダマンはその中でも特別な地域だった。

 マハーラーシュトラ州は、バス、鉄道共に使い勝手がよかった。道路の舗装、整備が進んでおり、多くの場合バスの旅はそれほど苦痛ではない。交通機関は時間通りに運行されており、質問カウンターの人々も概して親切に質問に答えてくれた。また、マハーラーシュトラ州観光局もなかなか頑張っており、各観光地では安く手っ取り早く観光地を巡ることができる観光バスが運行されていた。気候は酷暑期でも過ごしやすい西ガート山脈東部の高原部、湿気のある海岸部、乾燥して非常に暑い内陸部の3つに分かれていたように感じた。4月〜6月でもプネー周辺なら観光には差し支えないと感じた。また、マーテーラーンやマハーバレーシュワルなどの避暑地へ避暑旅行するのもいい。

 マハーラーシュトラ州を旅行していて、すっかりはまってしまったのがサトウキビ・ジュース(ガンネー・カ・ラスまたはラス)。同州のラス売り場からは、必ずカランカランと鈴の音が聞こえてくる。サトウキビを搾る機械に鈴が付いていて、機械が動く度にその鈴が鳴るのだ。バススタンドなどには必ずラス売り場があり、「ラス、ラス、ラス、甘くて冷たいラスだよ〜」と売り子がサトウキビ・ジュースを売って歩いている。デリーでもラスは飲んだことがあるが、マハーラーシュトラ州に来てからというものの、狂ったようにラスを飲むようになった。気候が暑いこともあるが、どうやらこの辺りで取れるサトウキビは特別おいしいらしい。あの鈴の音が聞こえてくると、ついついラスを飲みたくなってしまう。通常、大グラス1杯4ルピー、小グラス1杯3ルピーである。ちなみに、ラスは基本的にあまり衛生的ではないので、腹の弱い人はラスを飲むと下痢になる可能性もあるので要注意である。

 もしマハーラーシュトラ州を旅行するなら、なるべく強い光を発する懐中電灯を持っていくと役に立つと思った。石窟寺院の隅々まで照らして鑑賞することができるし、要塞などでも暗い場所などがけっこうあった。

6月8日(火) 「これでインディア」を振り返る

 もうすぐ当ウェブサイト「これでインディア」を始めて3年になる。別に3周年記念とかを祝うつもりはないし、これにてこのサイトの更新を止めるつもりもないが、何となくこの3年間を振り返ってみたい気分になった。

 「これでインディア」は当初、ごく個人的な日記として始めた。僕は元々「神聖インド帝国」というヒンドゥー教の神様で遊んだホームページを作っていたが、だんだん自分が罰当たりなことをしているように思えてきたので、次第に行き詰ってきた。そんなとき、インドに留学することが決まった。インドに留学するに際して、日記をhtml形式にしてインターネットに載せれれば、より個性的なHPができるだろうと考えた。ただ、インドでインターネットに接続できるかどうか全く分からなかった。当時の僕はかなりインドをなめていたのだ。だが、とりあえず日々の日記をhtml形式にして保存しておくことにした。

 その後、インド留学開始から2ヶ月ほどで自宅にインターネット常時接続環境を構築することに成功した。当然、喜び勇んで今まで書き溜めていた日記もインターネットにアップした。だが、本当に個人的な日記だったので、個人名などやかなりプライベートなことも記載されており、次第にそれが問題となってきた。当時の僕はかなりインターネットをなめていたのだ。デリーの日本人社会は思ったよりも非常に狭いことも分かってきたし、インターネット日記のマナーにもだんだんと慣れてきて、ネットで公開するに適した形が自ずと完成してきた。個人名はなるべく外し、他人の、特に日本人のプライベートは極力尊重し、自分のプライベートに関する記述も、自分に損にならない程度に抑えるようになった。ちなみに2001年〜2002年中期までの日記を全て公開していないのは、上記の理由による。

 当初は毎日日記を書いてアップデートしていたのだが、だんだんとそれが負担となってきた。いくらインドと言えど、毎日みんなに公開するに値ような事件が起こるわけでもなく、日記を書く気力のない日もある。多分、当時の僕は「日記は毎日書くもの」という小学校で先生に教えられた決まりを必死に遵守していたのだと思う。しかし、インターネット日記は特に義務でもなく、趣味の範囲内なので、苦痛を感じてまで毎日書くまでもないと気付くようになった。そう考えたある日、勇気を持って書きたいことがある日に書くスタイルに変更した。これは賢明な判断だった。

 僕の日記のスタイルを自分で分析してみると、主観的主題の日記にはなるべく客観的視点を、客観的主題の日記にはなるべく主観的主題を盛り込む努力をしていることだと思う。自分の体験や感想だけ書いていると、だんだん本当の日記のような恥ずかしい文章になってしまうし、客観的な事象だけを書いていると、論文のような小難しい文章になってしまう。多分、僕のサイトを見てくれている人は、インド好きの日本人が大半だと思うので、インドを少し知っている人にも、深く知っている人にも受け容れられるような、主観と客観の中間を行く文章を書くように、かなり意図的に努力している。ただ、不幸なことに、その日記の語り口がどうも普段の生活にも反映されてしまっているようで、あるとき友人から「どうして君の発言は全部コメントなんだ。コメンテーターみたいだ」と言われてしまったことがあった。確かに僕の日記の文章はコメントっぽく(特に映画の批評)、それが日常会話に出てしまうと、変な印象を与えてしまうだろう。ちょっと自分に危機感を覚えている。

 3年も続けているので、「これでインディア」の更新は既に僕の生活の一部となってしまっている。多分、このサイトを読んでいる人の中には、僕がかなりの寂しがり屋だと思っている人もいるだろう。誰かに聞いてもらいたい話があって、このサイトはそのはけ口となっていると思われているかもしれない。確かにストレス解消となっている部分はあるだろう。ただ、インドやインド人の愚痴や悪口だらけにならないようには気を付けている、というより、僕ほどインド人に好意的に物事を見ている日本人はあまりいないのではないかと自負してしまうくらい、インドに対して思いやりと愛情を持って日記を書いている。ちなみに現在、僕の友人が「これでインディア」に対抗して、インドの悪口だけを書き殴ったサイトの作成を計画中である。

 昔は半月の日記を1ページにまとめていたのだが、2003年からは1ヶ月の日記を1ページにまとめるようになった。これには諸事情があるのだが、一番大きいのは僕が使っているホームページ・ビルダーのバグが改善されたことによる。以前は、htmlファイルが150kbくらいになると、なぜか画面がおかしくなることが多かったので、なるべく各ファイルをそれ以下のサイズに抑えるため、半月の日記をひとまとめにしていたのだった。だが、新しいバージョンのホームページ・ビルダーにしたらそのバグが改善されていたので、大きいサイズのファイルを作れるようになった。そのため、半月ごとではなく1ヶ月ごとに日記をまとめるようにした。そのせいで、内容の多い月のページは200kbを越える重いファイルになってしまっている。日本は最近ブロードバンド環境が普及しているらしいので、それほど心配しなくていいと楽観視しているが、インドから電話線接続で見てくれている人にとっては、このサイトは開くのに非常に時間がかかる不親切なホームページになってしまっているだろう。しかし、管理を簡易化するため、なるべくファイルの数を少なく抑えたいので、いくらサイズが大きくなろうと、1ヶ月の日記は1つにまとめるようにしている。どうかナローバンド環境の人々には、のんびりと楽しんでもらいたいと思っている。

 多分、僕の日記で一般に利用価値が高いのは、映画の批評と旅行記だと思う。インド映画のファンが日本に果たしてどれだけいるか知らないが、ゼロでないことは明らかだし、減少傾向にあるわけでもないと信じてるので、地道にインド映画の批評を続けていくことは多分意味のあることだと思う。また、特にインドに住んでいて生でインド映画を見る機会のある、ヒンディー語の分からない日本人のために、映画のあらすじを書いている。旅行記については、自分自身が旅行した所感に加えて、特に観光情報を詳しく記載することに力を注いでいる。実は僕はあまり他人の旅行記を読まないのだが、世の中には他人の旅行記を参考にして旅程を立てる人もいるし、旅行記を読んで旅行したくなる人も必ずいるだろう。やはりマイナーな観光地に関する旅行記があると非常に参考になる。別に旅行ガイドを作っているわけではないので、自分の旅行の道筋や交通手段から外れた情報まで手を回すことはしないが、自分が通った道に関しては出来る限り詳しい記述をするようにしている。これらの試みによって、インド映画を見る人や、インドを旅行する人が1人でも多く増えてくれたら、それは僕にとってこの上ない幸せである。

 最近、ブログという形態の日記サイトが流行しているようだ。僕ははっきり言ってその潮流からは完全に取り残されている。もしかして僕の日記は、ブログにするともっとすっきりするかもしれない。しかし、今のデザインはかなり気に入っているので、あまり大幅な変化を加えたくない。今のところこのスタイルを続けていく方針である。

 今さら説明するのも恥ずかしいが、「これでインディア」とは、バカボンのパパの「これでいいのだ」という口癖と、「インディア」をかけた造語である。何かの名前を考えるのは苦手なので、適当に命名してしまった。インドで生活するコツは、いちいち細かいことを気にしないことである。何が起こっても、「これでいいのだ」と思うことが、最も精神衛生上よい。だから、毎日の日記の最後に必ず「これでインディア!」と決め台詞を置くといいかな・・・とも考えていたが、「これでいいのだ」では済まされない事態もインドでは多く発生し、その計画はお流れになってしまった。実は「これでインディア」というサイト名は気に入っていなかったので、とりあえずの命名以来ずっと他に何かいい名前はないか考えていたのだが、やたらかっこいい名前にするのもまた恥ずかしいし、分かりやすくて親しみのある名前を考えるというのは非常に難しいかった。結局、「これでインディア」が定着してしまって動かせなくなってしまった。しかし、いい名前だと言ってくれる人もいたので、「これでいいのだ」ということでもうあまり改名は考えないことにしている。また、ちなみにアルカカットというハンドル・ネームは、ヒンディー語でもどこかの訳の分からない部族語でもなく、ある日本語の固有名詞にある操作を加えて作り出した半日本語である。

 「これでインディア」を置いているサーバースペースは無料であり、「これでインディア」から得られる収入もゼロなので、基本的にNo Loss No Profitの精神でサイト更新を行っている。しかし、このサイトをやっているおかげで無形の恩恵を多く享受していることは、神様に感謝したいくらいである。以前にも書いたが、バクティ(信愛)の精神で僕は「これでインディア」を更新していきたいと考えている。

6月9日(水) 韓国に嫁いだインドの姫の話

 第14回下院選挙の結果、インド人民党(BJP)率いる国民民主連合(NDA)が敗北し、国民会議派率いる統一進歩連合(UPA)が政権の座に就いた。当初は国民会議派のソニア・ガーンディー党首が首相に就任するかと思われていたが、イタリア生まれでインドに帰化した経歴を持つソニア党首の首相就任は大きな波紋を呼び、結局彼女自身の英断によって、スィク教徒で元財務省大臣のマンモーハン・スィンがインドの第14代首相に就任した。いかにも日本人がイメージするインド人という風貌で、しかも似顔絵が非常に描きやすい顔なのだが、果たしてどれほどの実力を持った人なのだろうか。

 まだソニア・ガーンディーの首相就任が取り沙汰されていた5月21日のタイムズ・オブ・インディア紙(バンガロール版)に、「ソニア以前にもインドには外国人の嫁がたくさんいた」と題して、インド史の中でインドに嫁いだ外国人の嫁に関しての記事が載っていた。その記事によると――今から2000年以上前、マウリヤ朝のチャンドラグプタ(在位前317〜前293)はセレウコス朝の将軍セレウコス・ニカトルの娘(ギリシア人)と結婚した。「マハーバーラタ」の中では、クル族の盲目の王ドゥリヨーダンの母親ガンダーリーが、ガンダーラ地方(現在のアフガニスタン)の王スバラの娘とされている(もっとも、当時のアフガニスタンはインド圏内だったが)。近代では、現タミル・ナードゥ州のプドゥコッタイ藩王国のマハーラージャーが、オーストラリア人女性と結婚した。ハイダラーバード藩王国では、王子たちの嫁はトルコからもらうことが慣例となっていた。パーランプル藩王国のナワーブ(藩主)も、オーストラリア人女性を第二の后とした。グジャラート州カーティヤーワール半島の藩王国のひとつでは、マハーラージャーが英国人女性を妻とした――などなど。

 昔から近隣諸国との交流があった国なので、探せばまだ他にも多くの外国人女性がインドに嫁いで来ているだろう。だが、おそらく古代から現代まで、インド史上最も有名な外国人妻は、ソニア・ガーンディーをおいて他にいないだろう。これほどインドに影響を及ぼしている外国人の嫁は、今までいなかった。

 それはそれでいいとして、同じ記事には、インドから外国に嫁いだインド人女性のことも一例だけ載っていた。それが、1世紀にインドのアヨーディヤー王国から古代朝鮮の一王国、伽耶(Kaya/Gaya)に嫁いだ姫のことであった。この部分が一番目を引いた。そういえば昔、韓国人の友人からその姫の話をチラリと聞いたことがあったが、どうせ眉唾ものだろうと思ってあまり信じていなかった。しかしインドの新聞にも載るくらいだから、やはり何らかの根拠があると思われた。ネットで調べてみたら、その伝説は、一然(Iryon:1206〜1289年)という韓国人の僧侶が記した三国遺事(Samguk Yusa)という書物に載っていることが分かった。以下、韓国人の友人の助けも借りて、三国遺事の記事をまとめてみた。

 その書物によると、当時の朝鮮半島南部地域には王がおらず、9人の長老によって治められていたという。ある日、亀旨(Kuji)という地において、天から声が聞こえてきた。多くの人々が集まり、その場には3人の長老もいた。天の声は人々に対し、山の上まで行き、そこの土を掘って、踊りを踊り、以下のような歌を歌うよう指示した。「亀、亀、亀よ、お亀さん、首を出さねば焼いて食っちまうぞ」人々がその通りにすると、天から梅色の綱が下りてきた。その綱の先には、赤い布に包まれた金の箱がぶら下がっていた。彼らがその箱を開けると、中には6つの金の卵が入っていた。長老たちはその卵を家に持って帰って部屋に置いておいた。12日後、部屋を開けてみると、そこには卵はなく、代わりに男の赤ん坊がいた。その男の子はみるみる内に成長し、280cm以上の大男となった。彼は金首露(Kim Suro)と呼ばれるようになり、出現から10日後の満月の日に金首露は王に即位した。そしてその国の名前は伽耶または駕洛(Karak/Garak)と呼ばれるようになった。即位から2年後に金首露は宮殿を造営し、そこで統治を行うようになった。9人の長老たちが王に結婚を促したが、彼は「私は天から送られてきたから、結婚も天の意志に従う」と言って拒否した。

 一方、阿踰陀(Ayuta)国には(これがインドのアヨーディヤーと考えられている)、許黄玉(Huh Hwang-ok)という姫がいた。許黄玉の両親はある晩夢を見た。夢の中で神様が現れて、彼らに言った。「私は金首露を伽耶の王とすべく送り込んだ。金首露は立派な男だが、まだ独身である。よって、お前たちの娘を彼の嫁として送りなさい。」許黄玉の両親は神様の指示に従って娘を伽耶国に送った(別の伝説では、許黄玉自身が夢の中で神様に会ったとされているらしい)。許黄玉は数人の侍従や召使いと共に赤い帆と赤い旗の立った船に乗って、伽耶国を目指した。許黄玉が伽耶に到着したとき、彼女は16歳だった。まずは9人の長老が許黄玉を迎え、次に金首露が出迎えた。金首露は許黄玉から夢の話を聞いて、即座に彼女こそが天の選んだ花嫁であることを理解した。金首露と許黄玉は西暦49年に結婚した。許黄玉は王に寵愛され、156歳まで生き、10人の息子と2人の娘を産んだ。その内の2人は許姓を名乗り、残りは金姓を名乗ったという。許黄玉の墓は今でも韓国の慶尚南道(Gyeongsangnam-do)に残っている。

 許黄玉に関する伝説は多くある。現在許黄玉の墓には婆娑石塔(Pisa Stone Pagoda)と呼ばれる石塔があるが、これは許黄玉と共にインドからもたらされたものだという。これは風や波を鎮める力があるため、鎮風塔とも呼ばれているそうだ。伽耶国の紋章は二匹の魚をあしらったもののようだが、それはまさにアワド地方(アヨーディヤー地方)の紋章と同じである。また、許黄玉の乗ってきた船には数多くの財宝が積まれていたのだが、その内のひとつが茶の木であった。つまり、許黄玉の到来によって、茶が韓国に伝わったという。仏教も、許黄玉の到来と共に朝鮮半島に伝わったとの説もある。また、金首露と許黄玉の子孫たちは、7世紀に百済、新羅、高句麗を建国して覇を争った。

 金首露と許黄玉の結婚の伝説は、現代の韓国にも生きており、例えば金大順(Kim Dae Jun)元大統領や金鍾泌(Kim Yon Pil)元首相などは、この金首露と許黄玉の子孫の末裔だという。また、韓国には今でも少数ながら許という姓の人がいるが、その人たちは自分たちの祖先をインド人だと自認しているそうだ。僕の韓国人の友人にも昔、許姓の友人がいたそうだが、その人の顔は他の韓国人とは違って、インド人風の鼻筋が通ったエキゾチックな顔をしていたらしい。2002年に釜山で行われたアジアン・ゲームスの主題歌になった「Beautiful Union」は、金首露と許黄玉の結婚、つまりアジアの融合を歌った歌だそうだ。また、インドのアヨーディヤー市と韓国の金海(Kimhae)市(伽耶国のあった街)は姉妹都市提携を結び、アヨーディヤーのサラユー河河岸には最近、「許黄玉生誕地」という記念碑が立ったという。アヨーディヤーと聞くとやはりラーム生誕寺院の問題が頭をよぎるが、どうやら韓国政府は、アヨーディヤーの姫との関係から、ラーム生誕寺院建立に賛成寄りの立場らしい。ただ、2000年前のインドでは仏教が栄えていたので、アヨーディヤーの姫は仏教徒だった可能性があるし、そもそも「阿踰陀=アヨーディヤー」というのも、果たしてどれだけ信頼を置くことができるのか・・・。何より、あまり許黄玉の伝説とラーム寺院は関係ないと思うのだが・・・。

 はっきり言って許黄玉の嫁入りの話は伝説の域は出ないと思うのだが、インド人も韓国人もこういう話は好きなので、「インドと韓国の関係は2000年前から存在した」ということになっている。と言うわけで、半信半疑ながらも、韓国に初めて来たインド人はこの許黄玉ということになる。

 ちなみに、日本に初めて訪れたインド人はもっと歴史的な裏づけがある。東大寺の盧舎那仏(いわゆる奈良の大仏)が752年に完成した際に、大仏の開眼を執り行ったボーディセーナ(菩提僊那)という人物がインド人なのだ。調べてみると、ボーディセーナは704年に南インドでブラーフマン階級の子として生まれた。中国に滞在中、遣唐使の多治比広成の要請に従う形で、736年に遣唐使に同行して日本に渡った。行基と親しく、750年には僧正に命ぜられ、752年には勅命により大仏の開眼を行った。760年に日本で没したという。ただ、彼の経歴を見ると、ボーディセーナは仏教徒ではなかったのではないかと思われる。また、ボーディセーナと同時代の実忠和尚(東大寺のお水取りを始めた人)という人物もインドから来たと伝えられているようだが、こちらはより伝説の性格が強そうだ。

 もちろん、彼らの他にも日本や朝鮮まではるばるインドからやって来ながら、歴史に残らなかったインド人もいたことだろう。また、当時インドに渡った日本人がいた可能性もゼロではない。法顕(337〜422)、玄奘(602〜664年)、義浄(635〜713年)ら中国人僧がインドに来ることができたなら、日本人僧にも不可能ではなかっただろう。それにしても、1000年前、2000年前の、動力船や飛行機などのない時代でも、その気さえあれば南アジア〜東アジアを旅行することができたのは、今から考えると驚きである。

 現在、インドではSamsung、LG、Hyundaiなどの韓国企業が隆盛を誇っている。デリーに住む韓国人の数は、日本人よりも圧倒的に多いだろう。もちろんインドは中国に次ぐ巨大な市場なので、外国企業にとって見逃せない存在となって来ている。だが、韓国人の中には、許黄玉の伝説から、上記のように自分がインド人の血を引いていると考えている人もいるし、印韓の国交は2000年の歴史を持つことになってしまっているため、インドと韓国の関係はもしかして日本人が考えている以上に親密なものとなっているのかもしれない。例え伝説であっても、こういう逸話があるとないとでは、国家間、国民間の親しみの度合いは明らかに異なるだろう。インドと韓国の意外なつながりを見た気がした。日本にも「卑弥呼は実はインドから来た」とかいう説があれば、もう少し日印の関係は進展するのかもしれない・・・。

6月10日(木) サッカーW杯予選 インド×日本

 6月9日、サッカー・ワールドカップのアジア一次予選の試合が行われ、日本代表がインド代表と埼玉スタジアムにて対戦した。日本代表とインド代表がサッカーの試合を行うのは1970年以来らしく、日本においてインドの認知度が少しアップするチャンスかと期待していた。

 インド時間では午後4時頃からキックオフだった。いくらサッカーが人気のないインドでも、ワールドカップの試合なのだからTVで中継されるだろうと期待して、その時間にTVをつけてみた。確かにその時間にサッカーの試合中継はあった。だが、なぜか6月6日に行われたブラジル対チリのW杯予選試合のビデオと、インド国内リーグの試合中継だけが行われていた。・・・つまり、インドにいながら僕はインド代表が日本代表と戦う試合の中継を見ることはできなかった。仕方なくネット中継で試合の行方を見守っていた。

 一応日本人なので、日本代表が負けては困ると思っていたが、インドにも思い入れがあるので、拮抗したいい試合をしてくれれば、と願っていた。特に「インドの中田」とも「インドのベッカム」とも呼ばれる、スィッキム人ストライカー、バイチャン・ブーティヤーの活躍に期待していた。日本代表には中田、稲本、高原、楢崎などの主力選手がおらず、もしかしたらインドはちょっとは踏ん張ってくれるのではないかと考えていた。ちなみに、いくらサッカーに興味がないとは言っても、インド人の多くは中田の名前を知っている。

 ところが試合早々インドは点を入れられると、その後はまるでやる気でも失ったかのようにどんどん失点して行き、挙句の果てには7−0という赤っ恥ものの結果となってしまった。ここまで実力の差があったとは・・・。日本人は大喜びだったようだが、僕は複雑な気分になってしまった。またインドが笑いのネタにされなければいいが・・・。

 当初期待していた、「日本においてインドの認知度が少しアップするかも」という考えを確かめるため、試合後、ニュースサイトや某掲示板などで日本人の感想をチェックしてみた。だが、多くの人々は、日本代表に対する感想、批評、賞賛、批判だけを書いており、インドはまるで無視されているかのようだった。唯一、インド代表のコンスタンチン監督のコメントだけは積極的に取り上げられていた。ブーティヤーを評した「インドのベッカムと言っても差し支えないのですが、ベッカムほどたくさんタトゥーはしていません」というコメントは笑えた。しかしながら、例の某掲示板の中で、ひとつだけ目を引く書き込みを見つけた。それは、「インド代表の主将はどうして東アジア系の顔をしているんだ」という主旨のものだった。日本人は、インド人というと、悪くて「ターバンにヒゲ」、良くて「肌が黒くて眼がキョロリ」ぐらいのイメージ、つまり、スィク教徒か非部族系インド人の容貌を思い浮かべるだろう。マハートマー・ガーンディーのイメージも強いかもしれない。しかし、インドには日本人とほとんど同じ顔をした民族もおり、特にスィッキム州あたりの人々は、日本人と全く変わらないと言っても過言ではない。たまたまインド代表のキャプテンがスィッキム州出身の人だったため、「インドにはいろいろな顔の人がいる」ということだけでも分かってもらえたかもしれない。

 TV中継こそされなかったが、翌日10日の新聞には、インド×日本の試合の記事が掲載されていた。多くの新聞は日本代表の活躍を中心に、ただ結果だけを記述していたが、その中でインディアン・エクスプレス紙だけは、インドが大差で敗北した原因を分析していた。同紙によると、7点差をつけられて負けたのには4つの理由が考えられるという。

理由1.ディフェンスの不備。新星ハビーブル・レヘマーン(DF2)のデビュー戦に日本戦を選んだのは賢明ではなかった。

理由2.中盤での独創性のなさ。トーンバー・スィン、アルヴィト・デ・チュンハ、ジェイムス・スィンの不在が響いた。

理由3.自信の喪失。特にホームで行われたオマーン戦での大敗により、インド代表は自信を失っていた。恥をかくのを恐れ、インド代表は戦う前から負けていた。

理由4.準備不足。日本は欧州の強豪と試合を重ねて準備をして来たのに対し、インド代表はインドネシアと試合をしただけだった。

 負けた理由ははっきり言って実力不足の一言に尽きるだろうが、7点差もつけられる必要があったのか、その原因を探るのは、次にインドのコールカーターで行われるインド×日本戦に役立つだろう。ただ、すっかり日本のメディアには、インド代表サッカーチームはなめられてしまったようだ・・・。

 上記の通り、W杯アジア一次予選の第2回インド×日本戦は9月8日にコールカーターのソルトレイク・スタジアムで行われる予定のようだ。噂によると、インド在住日本人が応援にかけつけられるように、チャーター便が出るとのこと。僕ももしかしたら見に行けるかもしれない。

6月11日(金) デリー五輪聖火リレー

 インドでは「スポーツ=クリケット」という図式があまりに強烈で、他のスポーツの振興が阻害されるほどである。「肉体を動かす行為=下賎な者のする行為」という観念も根強い。しかし最近は欧米文化の影響からか、クリケット以外の分野のスポーツに挑戦するインド人が徐々に増えてきて、国際舞台で活躍するインド人選手も増えてきた。都市部の上流階級層では既にジョギングなどの健康スポーツが大流行している。人口の多い国なので、全国民が本格的にスポーツに取り組むようになったら、相当スポーツの強い国になるのではないかと思う。インドの学校では運動会すら行われていないらしいのだが、学校の授業でいろいろなスポーツを教えるようになれば、きっとさらに裾野が広がるだろう。スポーツが貧困対策になる可能性もある。

 徐々に徐々に加熱しつつあるインドのスポーツ熱を一気に爆発させようという試みなのか、アテネ五輪の聖火が10日、北京からデリーに到着した。インドで聖火リレーが行われるのは、1964年の東京オリンピック以来、実に40年振りのことらしい。もちろん、インドはオリンピック開催地を狙っているので、その布石の意味合いも強いだろう。10日の午後2時半から聖火リレーは開始され、クトゥブ・ミーナールから国立競技場まで、33.2kmの道のりを105人の聖火ランナーが聖火をバトンタッチしながら、5時間半をかけて走った。聖火ランナーは、スポーツ選手、クリケット選手、映画スター、五輪関係者、スポンサー企業の重役、身体障害者などから選ばれた。

 スポーツ選手では、テニスのマヘーシュ・ブーパティ、射撃のアンジャリー・バーグワトなど、クリケット選手では、カピル・デーヴ、アニル・クンブレー、ヴィーレーンドラ・セヘワーグ、ラーフル・ドラヴィルなど、映画スターでは、アーミル・カーン、アイシュワリヤー・ラーイ、ヴィヴェーク・オーベローイ、ビパーシャー・バス、ラーニー・ムカルジー、ラーフル・ボースなどが参加した。個人的には、アイシュワリヤー・ラーイが走るのが最も見所であった。女神に等しいアイシュワリヤーが、いったいどんな走りをするのか・・・?

 聖火リレーのルートを見てみると、古都デリーを象徴するような歴史的遺産、そして現代インドの首都デリーを象徴するような施設をほぼ全て網羅していた。世界遺産のクトゥブ・ミーナールから始まり、インド随一の工科系大学IITのそばを通りながら北上していき、スィーリー・フォートやローディー・ガーデンをかすめて、世界遺産フマーユーン廟へ着く。その後さらに北上し、動物園、オールド・フォート、プラガティ・マイダーン、ラージ・ガートを通過して、世界遺産ラール・キラーをグルリと回ってオールド・デリー内に入り、ジャーマー・マスジドの前を通ってコンノート・プレイスへ向かう。ジャンタル・マンタルをかすめて大統領官邸へ行き、そこからインド門まで一直線に続くラージ・パトを象が行進する。最後に聖火は国立競技場に運ばれ、グランド・フィナーレとなる。残念ながら、僕の家の近辺はルートから外れていた。

 何人かの映画スターが出場するので、このクソ暑い中見に行こうかと考えたが、誰がどこを走るかは全く情報がなく、骨折り損になる可能性大だったので、無難に家でライブ中継を見ていた。僕がTVをつけたときは、ちょうど35人目のヴィヴェーク・オーベローイが走り終わったところで、ホッケーのインド代表の元主将ザファル・イクバールがフマーユーン廟に到着したところだった。だが、なぜか聖火リレーはフマーユーン廟で30分くらい動かなかった。また、ライブ中継の方法が何だかおかしかった。普通、日本で聖火リレーのTV中継が行われたら、走っている人を中心に映すだろう。しかしインドのTV中継は、なぜか走り終わった人へのインタビューが中心で、走っているシーンが映し出されることが少なかった。見ていて疲れたので、僕の好きなラーフル・ボースが走っているのを見て満足してTVを見るのをやめてしまった。夜は外出していたので、ビデオ映像も見逃したのだが、聞くところによるとアイシュワリヤー・ラーイの走りはかなり華麗なものだったらしい。

 翌日の新聞によると、やはり聖火リレー中にいくつかトラブルがあったようだ。まず、一番信じられなかったニュースは、聖火ランナーの1人が当日無断欠席をしたことである。そんなことしてると、聖火がインドに再びやって来るのはまた40年後になってしまうぞ・・・。また、僕がちょうどTVで見ていたフマーユーン廟での停滞の理由も分かった。どうやら全インド貿易連合会議とインド労働者会議に所属する活動家たちがフマーユーン廟の前で、スポーツ用品業界で働く労働者の待遇向上を訴えてデモ行進を行っていたらしい。そのため、聖火が一時フマーユーン廟内でストップしてしまったようだ。デモを行った約50人の活動家が逮捕されたという。また、大統領官邸からインド門まで、アーミル・カーンが聖火ランナーを務めたのだが、それを見ようと集まっていた2万人の群集が、アーミル・カーンに押し寄せようと試みたらしい。2万人の群集・・・!警察が何とか押し返したとのことだが、いったいどうやって2万人の群集を押し返したのだろうか・・・。ちなみにアーミル・カーンは、現在製作中の「1857:Rising」の格好をしており、長髪にヒゲをたくわえていた。どうもどっちも本物のようだ。

 オリンピックというスポーツの祭典に、ボリウッドのスターが多数参加することへの疑問の声もあがっていた。これは非常に難しい問題だ。もしスポーツ選手だけが聖火リレーに参加するならば、確かに「スポーツの祭典」という尊厳は保持されるだろう。しかし代わりに、一般人からの注目度は下がってしまうだろう。クリケット選手は映画スターと同等以上の人気を誇っているので、彼らを聖火リレーに参加させることは、注目度をアップさせる手段となる。だが、クリケットはオリンピック種目になっていないので、これまた変な話になってしまう。まだインドのスポーツ界にはスター選手と言えるほどの選手が育っておらず、映画界やクリケットの人気に頼るしか方法がないのが現状と言える。

 多くのデリー市民が聖火リレーを一目見るために40度を越える酷暑の中詰め掛けたらしい。しかし聖火リレーに興奮していたのは、子供よりもむしろ大人の方だったそうだ。例えば、クトゥブ・ミーナールまで聖火リレーを見るために駆けつけたマースカル氏(35歳)は、「私たちはパスを持っていかなったが、それでも何とか聖火リレーを見ることができた。感無量だよ」と興奮冷めやらない様子で語ったのに対し、一緒に来ていた彼の息子のラリト君(9歳)は、「何がすごかった?」との問いに対し、しばらく考え込んで、「僕はクトゥブ・ミーナールを見に来たんだと思ってた」と困惑気味だったそうだ。お母さんと一緒に聖火リレーを見に来たアンウェーシャーちゃん(8歳)は「暑くてたまらないわ。私はこんなの見たくなかったんだけど、お母さんが無理矢理私を連れて来たの」とご機嫌斜めの様子。大人は子供のように大はしゃぎしていたが、子供は興奮する親を尻目に退屈そうにしていた、というのが実態だったらしい。

 もうすぐオリンピックが始まるが、聖火リレーの状況を見ると、インドでは多分この聖火リレーが一番の盛り上がりで、当日はそれほど盛り上がらないと思われる。

6月11日(金) Dev

 本日から公開の新作ヒンディー語映画「Dev」を、PVRアヌパムで鑑賞した。監督はゴーヴィンド・ニハーラーニー、音楽はアーデーシュ・シュリーワースタヴ、キャストはアミターブ・バッチャン、オーム・プリー、アムリーシュ・プリー、ファルディーン・カーン、カリーナー・カプール、エヘサーン・カーン、ミリンド・グナージー、ラティ・アグニホートリーなど。




カリーナー・カプール(左)と
アミターブ・バッチャン(右)


Dev
 ムンバイー在住のデーヴ・プラターブ・スィン警視監(アミターブ・バッチャン)は、法と秩序の遵守を絶対とする真面目な警察官であった。デーヴの親友、テージンダル・コースラー警視監(オーム・プリー)はそれとは対照的に、悪への過度な憎悪と、権力への従順さを持った警察官であった。ムンバイーにはヒンドゥーとムスリムのコミュナルな対立が深まりつつあり、テージはテロ対策本部の長に任命される。

 一方、イスラーム教徒のファルハーン(ファルディーン・カーン)はヴァローダラーで法学部を卒業して、父親アリー・サーハブの待つムンバイーのヌール・マンズィル(ムスリムが集住するアパート)へ戻ってきた。ヌール・マンズィルでは、ファルハーンの恋人アーリヤー(カリーナー・カプール)も彼の帰りを待っていた。ヌール・マンズィルは、イスラーム教を巧みに政治に利用するラティーフ(エヘサーン・カーン)に支配されていた。アリー・サーハブはガーンディー信奉者で非暴力主義だったのだが、ラティーフによって反対運動の指導者に担ぎ出され、デモ行進中に警察官に射殺されてしまう。それを指揮していたのがデーヴであった。ファルハーンはデーヴに対して復讐を誓い、テロリストとしての訓練を受ける。ある日、ファルハーンはデーヴ暗殺を実行するが、失敗してしまう。

 ファルハーンは警察に捕らえられるが、デーヴは彼を見て、死んだ息子のアルマーンをなぜか思い出した。アルマーンはテロリストによって殺されたのだった。デーヴはファルハーンを釈放する。しかしラティーフはファルハーンがすんなり釈放されたことを疑い、彼を殺害しようとする。ファルハーンの乗ったバイクがガンパティ寺院(ガネーシュ寺院)に着いたときに大爆発するが、ちょうどバイクから離れていたファルハーンは一命を取り留める。ファルハーンはラティーフに裏切られたことを知る。

 ガネーシュ寺院での爆発は、ヒンドゥー教徒に多数の死者を出した。これに怒ったヒンドゥー教徒のマンガルラーウ大臣(ミリンド・グナージー)は、イスラーム教徒への復讐を指示する。ラティーフもそれに反撃し、街はヒンドゥーとムスリムのコミュナル暴動で滅茶苦茶となる。ちょうどそのとき外出していたアーリヤーは逃げ惑い、何とかヌール・マンズィルまで辿り着くが、追って来た暴徒によって友達や家族は惨殺される。アーリヤーは包丁を持って暴徒に立ち向かい、何とか助かった。駆けつけたファルハーンは、アーリヤーを病院へ運ぶ。

 暴動は収まったが、被害者からの被害報告書が提出されないため、警察は暴動に加わった者を逮捕できないでいた。ラティーフはマンガルラーウと影で交渉しており、誰も被害報告書を出さない、出させないことで合意していた。デーヴはヌール・マンズィルへ出向いて被害報告書の提出を求めたが、ラティーフに脅されていた住民たちは、誰も提出しようとしなかった。しかし、そこへ1人だけ前へ進み出る者がいた。アーリヤーだった。アーリヤーは勇気を持って被害報告書を提出し、マンガルラーウ大臣が暴徒を率いていたことを報告する。デーヴは即座にマンガルラーウを逮捕する。

 しかしマンガルラーウをかわいがっていたバンダルカル州首相(アムリーシュ・プリー)は、彼を釈放させてしまう。アーリヤーとファルハーンはデーヴの家に匿われるが、マンガルラーウはすぐさまヌール・マンズィルを焼き討ちする。テージはその焼き討ちを黙って見守っていただけだった。現場へ駆けつけたデーヴは、テージの制止を振り払って住民を助ける。事件後、デーヴは事件の報告書を州首相に提出し、事件を静観した親友のテージを訴えた。ところが、裁判所へ向かうデーヴを、テージは暗殺する。その後、テージ自身も自殺してしまう。

 ヒンドゥーとムスリムの対立を扱った暗い映画。ヒンドゥーとムスリムのコミュナル暴動、ヒンドゥー寺院での爆発、ムスリムの住むアパートの焼き討ちなどのプロットは、実際にインドで起こった出来事を連想させる。また、政治家が宗教を利用する様子や、インドのムスリムが置かれている現状なども深くえぐっていた。

 一昔前までのインド映画は、娯楽・商業主義映画と社会派・芸術映画の2つに分かれていたが、ここ数年、この2つの流れの中間を行く映画も多くなってきた。「Dev」はまさにその中間点にある。アミターブ・バッチャンやカリーナー・カプールなどのキャストや、ミュージカルを挿入する手法などは娯楽映画のものだが、主題はインドが抱える最も深刻な社会問題である。

 物語の中核となるのは、アリー・サーハブとファルハーン、そしてデーヴとテージの関係である。アリー・サーハブは血気盛んな息子のファルハーンに、マハートマー・ガーンディーやガファール・カーンを引き合いに出して非暴力の道を説くが、ファルハーンは「そんなの時代遅れだ」と相手にしなかった。ファルハーンは父親の死後、復讐のためにテロリストの道を歩み始めるが、デーヴとの出会いが彼を変え、そして暴力が暴力を生む現状を目の当たりにして、遂に父親の言葉が正しかったことを悟る。また、テージは正義感が強すぎるあまり、「ムスリム=テロリスト=悪」と決めつけていた、強硬派の警察官だった。全ての国民の平等を謳った憲法を遵守するデーヴとは意見が合わなかったが、30年来の親友であった。テージは、デーヴがムスリムのファルハーンらを家に匿っていることを面白く思わず、最後には自分を訴えたデーヴを殺してしまう。しかし、デーヴがファルハーンを息子同然に思っていたことを知り、デーヴを殺したことを悔いて自殺してしまう。

 あまりにテーマが深刻すぎて、現実に起こった事件に近すぎて、この映画はインド人にとって非常につらいものとなっている。ヒットする可能性は低いのだが、もしもっと積極的な見所を挙げるとするならば、俳優陣の演技である。演技派俳優が多数出演していたこともさることながら、ファルディーン・カーンやカリーナー・カプールなどがベストの演技をしていたのが印象的だった。特に最近のカリーナー・カプールの成長振りには目を見張るものがある。チャラチャラしたイマドキの女の子役を演じさせたら彼女の右に出る者はいないのだが、それに加えて「Chameli」(2004年)での売春婦役や、この映画での落ち着いた演技を見ると、彼女の才能の幅は急速に拡大しているように思える。さらには、この映画中では「Jab Nahin Aaye The Tum」を自身の声で歌っている。つまり歌手にも挑戦している。さすが映画カースト出身だ。ラティーフを演じたエヘサーン・カーンもすさまじい熱演をしていた。舞台劇っぽい話し方が多少気に障るのだが、しかし彼がヌール・マンズィルの住民に向けて話す演説は、観客をしびれさせるくらいのエネルギーがある。「Devdas」(2002年)でカーリーバーブー(チャンドラムキーに言い寄っていた男)を演じたミリンド・グナージーは、あの顔あの髭あの雰囲気のまま、悪徳政治家役で出演していた。彼もいい演技をする俳優である。おかげで、主人公のアミターブ・バッチャンは少しだけ影が薄くなってしまっていたような気がする。

 ヒンドゥー教徒の政治家などは、サンスクリト起源の単語を多様し、ムスリムはペルシア・アラビア語起源の単語を多様するので、映画中のセリフを十分理解するには、ヒンディー語とウルドゥー語の知識が必要となる。ムスリムの話す言語は僕にとっても難しかった。

 気晴らしに見るような映画ではないが、インドの社会問題を垣間見るにはいい映画だろう。カリーナー・カプールのファンにも、彼女の一味違った演技を見ることができるため、オススメである。

6月13日(日) Girlfriend

 今日はPVRメトロポリタンで、レズビアンを主題に扱った話題の新作ヒンディー語映画「Girlfriend」を見た。監督はカラン・ラーズダーン、音楽はダッブー・I・マリク。キャストはイーシャー・コッピカル、アムリター・アローラー、アーシーシュ・チャウドリーなど。




アムリター・アローラー(左)と
イーシャー・コッピカル(右)


Girlfriend
 タニヤ(イーシャー・コッピカル)とサプナー(アムリター・アローラー)は大学時代からの親友で、5年間一緒に生活していた。タニヤは気が強くてスポーティーな性格なのに対し、サプナーは女の子らしい性格だった。実は、タニヤはレズビアンで、サプナーのことを一方的に愛していたが、サプナーはタニヤのことをただの親友と考えていた。大学時代、2人は酔っ払って一度だけレズ行為をしてしまったが、その後は何事もなかったかのように平穏に暮らしていた。

 ある日、タニヤが仕事で15日間外出していた間、サプナーはラーフル(アーシーシュ・チャウドリー)と出会い、恋に落ちる。サプナーを取られたタニヤは、執拗に2人の仲を裂こうとする。タニヤがレズであることに勘付いたラーフルは、サプナーとの恋を成就させるためにタニヤに立ち向かう。サプナーを巡る、タニヤとラーフルの争いは、最終的に2人の決闘に行き着く。夜な夜なストリート・ファイトをして金を稼いでいたタニヤは、男にも負けないほどの戦闘力を持っていたが、ラーフルは彼女を何とか倒し、サプナーと結婚するのだった。

 おそらく言葉が分からなくても100%筋を理解できる分かりやすい映画である。ただ、1人の女を巡る2人の男の争いというありきたりのストーリーではなく、1人の男と1人のレズビアンの戦いという点がヒンディー語映画には斬新であるため、特異な映画となっている。

 同性愛をテーマにした映画というと、2003年の「Mango Souffle」が思い起こされる。また、最近のインド映画にはなぜかホモっぽいキャラが多く登場する。例えば、「Tum?」(2004年)や「Muskaan」(2004年)では、脇役かつ道化役として登場したホモキャラが、最後の最後でどんでん返し的に重要な役割を演じていた。基本的にインド映画では同性愛は好意的に描かれていないが、この「Girlfriend」もレズビアンは最終的に悪役となっていた。

 性描写もなかなか激しく、特にタニヤとサプナーのレズ・シーンは、インド映画の倫理に果敢に挑戦していた。今まで女と女の絡みを描いたインド映画は、もしかしてなかったかもしれない。今年は「Tum?」「Hawas」「Murder」と過激な性描写の映画が続いたが、この映画もその列に加わるだろう。

 ただ、レズビアンを恋のトライアングルに入れるという試みは目新しいものの、ストーリー、演技、映像、音楽など、他の点で優れた部分は見当たらなかった。終わり方も強引であっけない。映画としての完成度は非常に低い。全編モーリシャスでロケが行われ、きれいなビーチが映画の背景を飾るが、映画の中ではあくまで舞台はインドということになっているため、トンチンカンな舞台設定になってしまっているのも残念だ。

 最初はサプナーをラーフルに奪われて一人ぼっちになってしまったタニヤに観客は何となく同情してしまうのだが、タニヤの嫌がらせがエスカレートしていくにつれて、だんだんラーフルとサプナーの結婚を支持するようになる。タニヤとサプナーが大学時代に一回関係を持ったという事実が発覚するのは物語中盤で、それはけっこう衝撃的なのだが、しかし2人ともレズビアンなのではなく、タニヤが一方的にサプナーを「レイプ」したので、ますますタニヤが悪役に転落していく。タニヤがレズビアンになった理由は、幼少時代に男から受けたセクハラだと語られるのだが、果たしてセクハラを受けるとレズビアンになってしまうものなのだろうか・・・。やはりタニヤには同情できない。遂にタニヤは暴力に訴えるようになり、破滅の道を突き進んでいくことになる。本物のレズビアンから「レズを馬鹿にするな」と批判が来そうなストーリーだった。

 レズビアンのタニヤを演じたイーシャー・コッピカルは、最近変な役ばかり演じている。「Rudraksh」(2004年)では悪の大王の妾みたいな役だったし、「Krishna Cottage」(2004年)では嫉妬深い幽霊の役だった。「Girlfriend」ではレズばかりでなく、ストリート・ファイターとして格闘シーンも披露しており、インドの女優の常識を打ち破り続けている。格闘シーンのためにエキササイズでもしたのだろうか、やたらと二の腕が太くなっていたように思えた。ちょっと暴走気味の女優に思えるのだが、個性があるので少し期待している。イーシャー・コッピカルがあまりに異彩を放っていたため、他の主演俳優であるアムリター・アローラーとアーシーシュ・チョウドリーは影が薄かった。

 結局のところ、「Girlfriend」は同性愛やレズビアンを主題にした映画とは言えない。ただ「レズビアン」というスパイスを気分転換のために映画に振りかけただけの、味に深みのない無国籍料理のような映画となってしまっている。「インド映画のレズ・シーンを見る」という目的のみ、金を出す価値のある映画である。



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