スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2004年7月

装飾下

|| 目次 ||
分析■9日(金)「Hum Tum」漫画について一考
文学■10日(土)ヒンディー文学の翻訳
生活■16日(金)デリーに帰還
映評■16日(金)Lakshya
分析■17日(土)残酷写真でおはよう2
分析■18日(日)中央分離帯考
分析■19日(月)タージ・マハルに残されたサイン
映評■19日(月)Gayab
分析■21日(水)進むインド映画スターの国際化
映評■23日(金)Hyderabad Blues 2
映評■25日(日)Julie
分析■26日(月)インド人のコイン収集にご用心
分析■27日(火)清掃観
映評■27日(火)Asambhav
競技■29日(木)アテネ五輪出場のインド人選手
映評■30日(金)Mujhse Shaadi Karogi
競技■31日(土)インドの五輪の歴史


7月9日(金) 「Hum Tum」漫画について一考

 今現在、まだ日本に滞在しているが、考えてみたら日本にいてもインドに関する記事を書くことは可能なので、ちょっと更新しようと思う。

 日本滞在中にこのウェブサイトで更新したのは、主に「Hum Tum」の漫画と、ヒンディー語の短編小説「Teesri Kasam」の日本語訳「第三の誓い」だった。これらについて思ったことを述べたい。

 まず「Hum Tum」の漫画である。「Hum Tum」とは、2004年5月28日に公開されたヒンディー語映画であり、都市部の中産階級を中心にヒットしたようだ。「Hum Tum」は、ストーリーはありきたりだったものの魅せ方がオシャレかつ斬新で、映画の出来不出来を評価する個人的な基準である「DVDを買いたいかどうか」で「DVDを買ってもいい」ぐらいのレベルに達する作品だった。しかしそれ以上に、4月19日〜6月18日までの2ヶ月間、毎週月曜日〜金曜日にタイムズ・オブ・インディア紙に掲載された同名の漫画が面白かった。映画「Hum Tum」の主人公カラン・カプール(サイフ・アリー・カーン)は漫画家という設定であり、映画中でもタイムズ・オブ・インディア紙に漫画を掲載していることになっている。言わば映画と新聞がタイアップしたメディア戦略である。元々映画業界と新聞業界は非常に密接なつながりがあるが、このような形で映画のプロモーションをしたことは過去に例がないと思われる。ゆえに僕はこれを「インド初のメディア・ミックス」と呼んだ。

 どうも経済用語では、メディア・ミックスの定義は「テレビ、ラジオ、新聞、インターネットなど、各メディアをそれぞれの欠点を補い、長所を助長させるように組み合わせることで、商品販売などで最適かつ相乗的な効果を出すこと」のようだが、僕が念頭に置いているのは、昨今の日本のオタク業界を席捲する「漫画+映画+アニメ+ゲーム+音楽+関連商品=大儲け」の方程式である。

 メディア・ミックスという言葉を広義で使うと、インドの映画業界は昔からメディア・ミックスを行っていたと言える。インドでは、音楽界と映画界は密接な関係を持っている。映画音楽を収録したカセットやCDは、映画公開の数週間前に発売される。最新の映画音楽は街角で大音量で流されるため、映画の絶好のプロモーションとなる。また、映画がヒットすれば音楽もヒットすることが多いし、逆に音楽がヒットすれば、どんなつまらない映画であっても歴史に名を残すということがある。インドにおいて、映画業界と音楽業界の連携は、百利あって一害なしの関係に思えるほど強固である。その他、封切られた映画の広告が新聞に載るのは当然だし、街角に映画の派手なポスターがペタペタと貼られているのも、インドでは昔からあった光景だ。「10億総映画評論家」の国のインドでは、口コミの威力もあなどれない。映画を中心として、昔から自然にインドはメディア・ミックス的な複合体を構成していたと言える。最近の傾向として、急速に普及したケーブルTVも頻繁に映画の宣伝を流しているが、公開中または公開前の映画を違法で流すことも多いので、こちらはインド映画界にとって諸刃の剣のような存在だと言える。最近では、大手TV局が映画を制作したり、全面的に支援したりすることも多くなった。海賊版VCD、DVDもインド映画業界にとっては頭の痛い問題だが、これらはメディア・ミックスというよりも寄生虫と言った方がいいだろう。映画俳優のポスターやブロマイドを売る人々もインドには多いが、彼らもメディア・ミックスの範疇には入れられないだろう。

 映画関連商品についても、最近ではポスター以外にもいろいろ売られるようになった。その旗手は、インド全国でチェーン展開するギフトショップのアルチーズ・ギャラリーである。アルチーズ・ギャラリーでは、ヒットした映画のポスターの他、映画をモチーフとしたノート、アルバム、住所録などの文房具を公式に販売している。最近目を引いたのは、大ヒット映画「Koi... Mil Gaya」(2003年)に出てくる宇宙人ジャードゥーの人形が玩具店などで売り出されたことである。また、少し前には、アカデミー賞ノミネート作品「Lagaan」(2001年)の英語版とヒンディー語版の漫画が発売された。

 また、インドでも最近では映画のウェブサイトが作られるのはもはや当たり前のこととなっている。とは言え、全ての映画が公式ウェブサイトを持っているわけではない。よって、公式サイトの有無が、製作者の映画に対する意気込みの表れだと個人的には考えている。公式サイトのない映画は、駄作である可能性が高い。ただ、せっかく公式サイトがあっても、映画公開日直前にならないと内容が充実しないものが多く、まだ映画とインターネットを連動させてプロモーションするという考えはあまり浸透していないように思われる。

 しかし、それらのことを念頭に置いても、タイムズ・オブ・インディア紙に載った「Hum Tum」の漫画は衝撃的だった。今までのインド映画界のメディア・ミックスは、寄生虫メディアも含め、上で指摘した通り、映画というメディアを頂点としたヒエラルキーのような状態だったと言える。映画業界と音楽業界の相互関係はあるものの、基本的に映画の興行成績を上げることを目的とした複合体であった。しかし、「Hum Tum」の漫画は、映画の中の主人公が描いたという設定の漫画が、現実世界の新聞に掲載されるという方式であり、映画のプロモーション以上に、映画の登場人物やストーリーをより観客の身近な存在とするための巧妙な仕掛けだった。映画が、新聞をただの広告媒体ではなく、映画の一部として有効活用した初めての例だったと言える。今思うと、これにメディア・ミックスという言葉を当てはめるのは間違っていたかもしれない。また、「Hum Tum」の漫画は突然変異的に登場しただけであり、これからインド映画界に変革の波が押し寄せる訳でもないだろう。ただ、過去3年間に渡って見守って来たインド映画の中に新しい潮流を見出したので、それを表現する言葉を模索した結果、「インド初のメディア・ミックス」という呼称で落ち着いただけである。

 「Hum Tum」の内容も特筆すべきである。漫画は本当にカラン・カプールまたはサイフ・アリー・カーンが描いているわけではなく、ヴィジャイ・ラーイボーレーとサティーシュ・ターコーデーという2人のチームが、新聞の漫画と映画中のアニメーションを担当したようだ。彼らはケロッグのTVCMなどのアニメを描いていたようだが、今回の「Hum Tum」の成功により、かつてないほど仕事が舞い込んで来ていると言う。将来の「インドのジブリ」になるだろうか?漫画のネタは、映画「Hum Tum」の監督であるクナル・コーホリーなどが考えたようだが、読者から漫画のネタを公募するキャンペーンが行われ、読者案を元に描かれたものもある。基本的に登場人物は2人だけで、ハムという男の子と、トゥムという女の子が、男と女の対立をミニチュア化したような小競り合いを繰り広げる。全体的によく出来ていて、笑いのセンスも日本人のそれからそんなに外れておらず、誰でも楽しめる。日本の新聞に載っている漫画よりも面白い、と言ってしまってもいい。

 僕が一番注目したのは、その言語である。タイムズ・オブ・インディア紙は英字新聞ながら、ヒンディー語の単語が断りなしにあちこちに登場する面白い新聞だが、それに掲載された「Hum Tum」の漫画も、英語とヒンディー語のチャンポンで成り立っている。あるときは英語オンリー、あるときはヒンディー語のアルファベット表記オンリー、そしてまたあるときは英語とヒンディー語がミックスされたセリフを、登場人物たちはしゃべっている。それは現代インドの生きた言語がそのまま反映された姿だ。この「Hum Tum」の漫画は、生のインドの言語を理解する教材として非常に理想的だし、何もしないとこのまま消えて行ってしまう恐れがあるため、後世に残すために僕のウェブサイトに無断で載せている。

 僕がもっとも現実に近いと思った言語は、4月30日(金)の漫画である。第1コマ目では、トゥムが「Hum, batao na... Who's your best friend?」と問いかける。直訳すると、「ハム、教えてよ、あなたの一番の友人って誰?」という意味だ。ここで、「Hum」は固有名詞だからいいとして、「batao na」はヒンディー語であり、「Who's your best friend?」は英語である。トゥムは、ハムが自分ことを一番の友人だと思ってくれていることを期待しながらこの問いかけをしており、ヒンディー語で言った「batao na」というセリフには、女の子らしい恥じらいが感じられる。インド人がヒンディー語で話すときは、心身ともにリラックスしたときが多く、感情が極度に込められていることが多い。その次の英語のセリフは、その恥じらいを覆い隠すかのように、英語で話している。インド人が英語を使うときは、見栄を張ったときが多く、感情をなるべく抑えようとするときが多い。第2コマ目では、ハムが「My friend is... my dog!(僕の友達は・・・犬!)」と英語で答えている。英語で質問されたから英語で答えていると考えることもできるし、トゥムの質問を真剣に受け止めていないから英語で話しているとも考えられる。オチの第3コマ目では、怒ったハムが「Uff! Now I know why they say men are known by the friends they keep(フン!今分かったわ、なぜ彼らが男は付き合う友人で計られると言っているか)」と英語で言っている。「uff」はヒンディー語と言えばヒンディー語だが、不快感を表す感動詞なのであまり意味がない。この怒ったセリフを英語でベラベラっと話すところがまた生のインド人っぽい。ある程度教養のあるインド人は、植民地時代のイギリス人たちの高圧的な態度を真似しているのだろうか、怒ると急に英語になることがある。多分相手を圧倒するために早口英語になるのだと思う。同じように、英語とヒンディー語の使い分けが登場人物の感情と密接にリンクしている漫画が他にもいくつかある。これはヒンディー語映画を見る際にもけっこう重要な切り口だと思う。

 他に特徴的なのは、日本の川柳みたいな笑いのオチのある詩がそのまま漫画になったものがいくつかあることである。これらは訳すのが非常に難しいことがあるが、基本は三段落ちである。どこの国でも、詩で笑いを取るという行為は変わらないようだ。また、こういう川柳ネタの漫画は、やはり英語よりもヒンディー語のものが圧倒的に多い。インド人にとって詩を作るのに適した言語は、いくら英語を流暢に話すことができようとも、やはりヒンディー語(または現地語)であることが伺える。

7月10日(土) ヒンディー文学の翻訳

 2002年に公開されて大ヒットとなった映画「Devdas」の原作のヒンディー語訳版を手に入れたのを契機に、ヒンディー語文学を中心にインドの文学を翻訳してウェブサイトに掲載するようになった。「Devdas」は、ベンガル人作家のシャラトチャンドラ・チャットーパディヤーイが書いたベンガル文学の不朽の名作であり、今まで何度も映画化されてきた。ヒンディー語映画だけでも3回映画になっている。少し前には、「3人のデーヴダース」というパロディー番組が放映されており、1936年版「Devdas」でデーヴダースを演じたKLサイガル、1955年にデーヴダースを演じたディリープ・クマール、そして2002年のデーヴダース、シャールク・カーン、3人のそっくりさんが出てきて、一人のパーローを巡る喜劇なんかを繰り広げていて面白かった。実は「Devdas」の翻訳は意外と反響があった。ハーレー・クイーン的なロマンス小説なので、女性受けがよかったようだ。翻訳は2冊のヒンディー語翻訳版を原本にして行った。なぜならどちらも訳の質がよくなかったからだ。相互に補完しながら訳して行ったため、正確な訳ではない部分がいくつかあると思われる。ベンガリー語から直接日本語にできればもっと良かったのだが・・・。

 「Devdas」翻訳の成功に気を良くして、さらにいろいろ翻訳してみたくなった。ヒンディー語の勉強になるし、インドの文学を一人でも多くの日本人に紹介しなければいけないという使命感もあった。その後、当時通っていたケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンの教材になっていた「ビンダー」(マハーデーヴィー・ヴァルマー作)、「帰宅」(ウシャー・プリヤンバダー作)の2作を翻訳した。どちらもヒンディー語の作品で、作者は両方とも女性である。これらはテスト勉強のついでに行ったと記憶している。2003年に「Pinjar」が公開され、その原作(アムリター・プリータム作)が手に入ると、これも翻訳した。アムリター・プリータムはパンジャーブの文学者であり、元々はパンジャービー語の小説だったようだが、本人によるヒンディー語訳も発売されていた。だが、途中に挿入されるヒンディー語の詩を訳すのに手間取った、というか、まだ未完のままである。僕の周りにパンジャービー語の正確な知識のある人がいないためである。実は「Pinjar」の前には、同年に公開された「Escape From Taliban」の原作も手に入れて、少し翻訳に取り掛かったのだが、あまり楽しくなかったので辞めた。作者は文学者ではなく一般人であり、タリバーン政権時代のアフガニスタンでの体験談のような小説だったので、文学として質の高い作品ではなかったからだ。

 JNUに入学してからは、急速にヒンディー文学を見るの幅が広がり、その中で日本語に訳すに値する作品を選べるようになった。次に翻訳したのは、ジャイネーンドラ・クマールの「赤い湖」。授業の中でジャイネーンドラ・クマールの短編小説についてレポートを書かなければならず、彼の短編小説を読み漁った結果、彼の作品の中で一番気に入ったものを選んで翻訳しようという気になった。彼の短編小説には、お伽話のような現実離れしたストーリーのものが多いのが特徴である。「赤い湖」も、まるで昔話か民話のような、ちょっと不思議な物語である。物語中、サードゥが登場する。僕は一律「サードゥ」と訳してしまったが、原作では「サードゥ」という表記の他、「ヴァイシュナヴィー」、つまりヴィシュヌ派の行者とも表現されている。日本人の間では「サードゥ=ドラッグ」というイメージが強いが、それはかなり偏ったイメージであるということを伝えたかった。個人的にはサードゥは中国の仙人に近いと思うのだが・・・。

 そして日本にいる間に集中的に翻訳したのが、パニーシュワルナート・レーヌの「第三の誓い」である。元々「Mare Gaye Gulfam(殺されてしまったグルファーム)」という題名だったが、1966年に「Teesri Kasam(第三の誓い)」という題名で映画化された。後者の題名の方が力があると思ったので、こちらを元に邦題にした。映画化された作品だと、映画を見れば筋が分かるので、翻訳もしやすい。パニーシュワルナート・レーヌはビハール州北部出身の文学者・活動家で、彼の作品の中には現地の方言が多く混入する。文には独特のリズム感があり、まるで語り部の語りのようだ。彼の代表作「Maila Anchar(汚れた村)」は、プレームチャンドの「Godan(牛供養)」と並んで20世紀のヒンディー文学を代表する作品である。

 翻訳を完了した小説の数がだんだん揃ってきたので、身毒企画から独立させて、印度文学館という独立したコンテンツに昇格させた。長編小説を翻訳するのはけっこう骨が折れるが、短編小説ならけっこう気軽に訳せるので、もう少し数を増やしたいと考えている。

 ヒンディー文学の修士課程にいることもあって、ヒンディー文学がほとんど日本人に認知されていないという現状を打破したいという気持ちはあるのだが、ヒンディー文学を読んで、翻訳する過程で、いろいろ問題点も浮かんで来た。まず、ヒンディー文学をどう定義するか、という根本的な問題がある。具体的には、ヒンディー文学の始まりをいつに設定するのか、どこからどこまでの地域の文学をヒンディー文学に含めるか、姉妹語であるウルドゥー語の文学をどう扱うか、などの問題である。日本の文学ではあまりこういう議論はなされないのだが、ヒンディー文学にとっては死活問題である。ヒンディー文学の範囲を最小に限ってしまうと、ヒンディー文学の歴史は150年〜200年ぐらいしかないことになるし、一般的にヒンディー文学の傑作とされているトゥルシーダースの「ラームチャリト・マーナス」や、カビールの「ビージャク」などが、ヒンディー文学から外されてしまう。また、20世紀前半、特に1917年のロシア革命後のヒンディー文学には、「文学で社会を変える」という熱狂があった。社会のいろいろな問題の解決策を提案する、または問題を大衆の前にさらけ出すという使命感を持って作家たちは文学を書いていた。そのためか、その時期のヒンディー文学からはあまり普遍性を感じず、特に現代の日本人が読んでも直接心に響かないものが多いように思える。インドでヒンディー文学の著作数、読者数が減少傾向にあるのにも、一抹の不安を感じる。

 これらはどちらかというとヒンディー文学内部の問題だが、日本語に訳す際にもいくつか問題がある。まず、インドを知らない人がヒンディー文学を理解できるのか、という大きな問題がある。ヒンディー文学を読んでいると、インドに住む僕の琴線にビビッと触れる表現がいくつかあったりするのだが、それは多分普通の日本人には分からない。例えば、女性がショール(またはサーリーの端)を頭にかける行為がある。古い習慣だが、インド人女性は年上の男性には、たとえ家族であっても顔を見せてはいけないことになっており、マナーとしてサーリーの端で顔を覆ったりする。また、寺院などの神聖な場所では女性は必ずサーリーの端やショールなどで頭を覆う。警戒したり恥じらいを表現するときにも同じ行動をとる。田舎の村などを歩いていると、通りすがる女性たちは僕の顔を見ると皆、顔を覆って目だけ僕の方を見たりする。これらの行為はラッジャーと総称されており、日本語に訳すと「恥じらい」「奥ゆかしさ」あたりが一番妥当だろう。そしてインドに住んでいると、若い女性がこの行為をするのが色っぽいことのように思えてくる。

 「第三の誓い」に以下のような部分がある。

 ヒラーマンは白人のマダムのしゃべり方を面白おかしく真似た。ヒーラーバーイーは身をよじらせて大笑いした。

 ヒーラーバーイーはショールを直した。そのとき、ヒラーマンは思った・・・思った・・・

 僕からすると、この部分のヒーラーバーイーの色香はまさに眼前に浮かんで来るかのようで、その仕草にメロメロになるヒラーマンの気持ちがよく分かるのだが・・・一般の日本人にはこの色気が何のことか分からないだろう。そこがヒンディー文学日本語訳の限界点のように思えた。もうひとつおまけに例を出しておこう。僕の友人のインド人が、自身の初恋のことを語ってくれたことがあった。彼は女の子に当時最新機器であったウォークマンを貸してあげたという。女の子は彼の寮の部屋まで来てウォークマンを返してくれたのだが、そのとき彼女が着ていたドゥパッター(パンジャービー・ドレスとセットになっているショール)でウォークマンをキュッキュと磨いて渡してくれたらしい。そのとき彼は一瞬で恋に落ちたという・・・。僕にはその理由が何となく分かるのだが、一般の日本人にはもしかしたら分からないかもしれない。肩からずり落ちたドゥパッターを直す仕草もけっこう色っぽく見えるときがある。ショール、ドゥパッター、サーリーの端などに関する仕草は、インド人女性特有のチャームポイントだと思うのだが、それはインドを知らない人には全く理解できないだろうと推測できる。

 また、プレームチャンドの小説など、農村を描いた小説を読むと、インドの農民たちがいかに牛と土地に対して愛着を持っているか分かる。「牛供養」の主人公である貧しい農民ホーリーは、立派な牛を飼うことが生涯のたったひとつの夢であり、わずかな土地を守るために命を投げ出してしまう。こういうインドの農民の誇りや執着心を、農業にとんと疎くなってしまった多くの日本人が簡単に理解できるはずがないだろう。インドの文学を理解するには、農業や農民の心をある程度理解していなければならないという障害もあるように思える。その他、インド特有の文化、宗教、社会、政治などの知識も必須となる場合が多い。

 また、用語の問題はいつも付いて回る。例えば上記の文で「ドゥパッター」という言葉を使った。インドに一度でも来たことがある人なら、インド人の女性がよく首から後ろにかけている独特の形態をしたショールを簡単に思い浮かべることができるだろう。しかし、インドのことを知らない日本人にドゥパッターのイメージを想起させることは不可能である。あんな服装は日本にはなく、説明のしようがないからだ。他にも日本語にはしにくい用語がたくさんある。

 これらの問題は、他の外国文学の翻訳をする際にも障害となる問題だと思うが、インドの場合はただでさえ複雑な上に、日本人に認知度が低いため、いろいろ不便な点が多い。

 ヒンディー語は日本語とほぼ同じ語順なので、単語をそのまま翻訳していけば一応直訳にはなるという利点もあるにはある。だが、多くの場合、やはり日本語として適切な文に置き換える必要がある。翻訳とは、「美しい顔の人は心が醜く、美しい心の人は顔が醜い」というものだ。つまり、翻訳後に読みやすい日本語になっている場合は、原文に即していないことが多く、原文に即して直訳すると、日本語として拙い文章になってしまうということだ。僕は翻訳の際、顔の美しさを優先しつつ、何とか心も醜くならないように努力しているが、なかなか難しい。

7月16日(金) デリーに帰還

 1ヶ月に渡る一時帰国を終え、昨日デリーに戻ってきた。日本も暑かったが、デリーも同じくらい暑い。到着時の気温は37度。気温だけ見れば酷暑期の5月前後の方が暑かったが、雨季前の6月に比べて湿気が出ている上に、モンスーンが途中で止まってしまったため、熱帯のような暑さとなっているようだ。とにかく気候は最悪の状態である。

 今回の日本滞在は有意義に過ごせたと言っていいだろう。東京と実家のある豊橋を往復しただけだったが、会いたかった人の半分くらいには会うことができ、また新たに知り合いになれた人も何人かいた。1年振りの日本で印象的だったのは、営団地下鉄が東京メトロと名を変えていたこと(デリー・メトロを真似たのか?)、韓国がやたらとブームになっていたこと、本当に吉野家で牛丼が食べられなかったこと、六本木ヒルズは案外楽しくなかったこと、東京の参議院議員選挙で又吉イエスという変な立候補者がいたことなどである。

 インド関連では、日本出発1日前に矢萩多聞展(14日〜19日まで開催)を見ることができ、また同展において、一度聞いてみたいと思っていた多聞氏の口琴の演奏も聞くことが出来た。口琴はアジアの民族を中心に広く流布している小型の楽器で、口腔に音を共鳴させて音を出す仕組みとなっている。正直言って「あんな小さな楽器で何ができる」と少し小馬鹿にしていたところもあるのだが、口琴の音色を生で聞いて目が覚めた。広大な草原の中に響き渡る郷愁溢れる音色でありながら、テクノ音楽を彷彿とさせるサイバーな響きを持つ、摩訶不思議な魅力溢れる楽器だと思った。

 いつもは駐在員のように日本から大量に必要物資をインドに持ち込むようなことはしないのだが、今回はインドに持って行くと面白そうなものをいくつか買ったため、荷物が多くなってしまった。帰りの飛行機はJALで、機内預け荷物の重量上限は通常20kgに設定されている。それを超過すると1kgにつき1000円の罰金を取られるそうだ。僕の荷物は23.8kgだったが、満席でなかったためか幸いにも何も言われなかった。今回のJALの飛行機は豪華で、エコノミー席にも個人用のTVが備わっていた。好きなときに好きな映画を観ることができたり、ゲームをすることができた。「真珠の耳飾りの女」、「チャーリーズ・エンジェル」、「50ファーストデート」の3本をぶっ続けで観た後、「上海」というゲームにはまっていた。おかげで退屈せずに日本からデリーへ移動することができた。

 今日は早速愛機のカリズマ君の様子を見に行った。カリズマ君は僕の一時帰国中、比較的安全と思われる場所に保管されていた。だが、カバーは破れており、誰かがガソリンタンクをこじ開けようとした痕跡があり、カバーをかけておいたにも関わらずかなり汚れていた。そのまま今日はバイクをメンテナンスに出し、メンテナンス終了後は久し振りにデリーを走り回った。日本では足がなかったので不便な生活を余儀なくされていたが、カリズマ君のいるデリーでは僕はまさに水を得た魚・・・。メンテナンスのおかげでカリズマ君は絶好調、しかもピカピカに磨いてもらった。

 ただ、少々トラブルがあった。カリズマ君をメンテナンスに出す前、鍵をなくしてしまったのだ。部屋で鍵を手に取ったことは鮮明に覚えているのだが、その後の記憶がはっきりしない。どこかに置き忘れたのか、はたまたどこかに落としたのか・・・暑さで頭が弱っているようだ。スペアキーがあったので、それを使ってバイクを動かしてヒーロー・ホンダのサービスショップまで行った。その後よく探してみたら、カリズマ君を止めていた場所の近くに落ちていた。誰かに拾われなくてよかった・・・。また、昼食はパニールのカレーとオクラのカレーを食べたのだが、オクラと間違えてチリを思いっ切り食べてしまい、数分間舌が麻痺した。1ヶ月の軟弱な食生活により、今まで培ってきたチリ耐性が低下してしまったようだ。バイクをメンテナンスに出したサービスショップでは、インド人の仕事の緩慢さとサービス精神の希薄さにものすごいイライラした。1ヶ月間日本にいたおかげで、少しインドのペースに付いていけていない。なんだかまだデリーの生活が軌道に乗っていない感じである。

7月16日(金) Laksya

 僕がデリーを去ったのは6月15日だった。その3日後の18日は、期待の映画「Lakshya」の公開日だった。この映画を見るために帰国を遅らせようかとも考えていたが、期待通りの名作ならば1ヶ月後、デリーに帰って来たときまで上映されているだろうと考え、デリーを去った。その予想は的中し、7月16日になった今日でも「Lakshya」はまだ上映されていた。しかもヒット映画の印であるタックス・フリーとなっていた。インドではロングランしている映画はタックス・フリーとなり、チケットが安くなる。バイクをメンテナンスに出した後、真っ先にしたことは、この「Lakshya」をPVRアヌパムで鑑賞したことだった。

 「Lakshya」とは「目的」という意味。「ラクシェ」と発音するのが一番近いだろう。監督は「Dil Chahta Hai」(2001年)で衝撃のデビューを果たしたファルハーン・アクタル。音楽は、近年のヒンディー映画界の音楽をリードするシャンカル・エヘサーン・ロイ。キャストは、アミターブ・バッチャン、リティク・ローシャン、オーム・プリー、アムリーシュ・プリー、ボーマン・イーラーニー、プリーティ・ズィンターなど。




プリーティ・ズィンター(左)と
リティク・ローシャン(右)


Lakshya
 デリー在住のカラン(リティク・ローシャン)は、仕事も勉強もせずに毎日仲間たちとブラブラとして遊び暮らしている若者だった。一方、カランのガールフレンドのローミー(プリーティ・ズィンター)は、デリー大学の学生で、ジャーナリスト志望かつ政治運動を指揮する男顔負けの女の子だった。彼の両親は遊びほうけているカランを毎日のように叱るが、人生の目的を見出せないでいるカランには馬耳東風だった。

 しかし、仲間たちが徐々に将来のことを考え、未来に向けて一歩を踏み出していくのを見て、カランも自分の人生の今後を考えるようになる。ある日カランは、アーノルド・シュワルツネッガー主演の映画「コマンドー」を見ている内に、軍隊に入隊することを決意する。ローミーに自分の決意を打ち明けたカランは、両親の反対を押し切り、軍隊学校へ入学する。

 ところが、カランは厳しい訓練に耐えられず、4日で脱走して家に戻ってきてしまう。カランが逃げ帰ってきたことを知ったローミーは、カランに絶交を言い渡す。それに触発されたカランは厳罰覚悟で再び軍隊学校へ戻り、人が変わったように訓練に打ち込む。やがてカランは無事学校を卒業し、一人前の兵隊となる。一方、ローミーは大手TV局の人気アナウンサーになっていた。

 1999年、カランはパーキスターンとの停戦ライン近く、カシュミール州カールギル地区の駐屯地にいた。そのときパーキスターン軍の兵隊が停戦ラインを越えてインド領の高地を占領する事件が発生し、カールギル紛争が勃発する。カランはオペレーション・ヴィジャイに小隊長として部隊を率いて参加する。

 そのとき、カールギルにはカールギル紛争を取材するためローミーが来ていた。ローミーはすっかりたくましくなったカランに驚くが、カランはローミーに昔のような笑顔は見せなかった。

 紛争を一気に収束させるため、インド軍はパーキスターン軍の占領下にあるポイント5353と呼ばれる高所の陣地を急襲する作戦を立てる。急襲部隊の指揮を任されたカランは、断崖絶壁をロッククライミングして登り、背後から敵の陣地を急襲、ポイント5353の頂上にインドの国旗を立てることに成功する。

 今年のボリウッド界は立て続けに中規模の名作を連発しているが、この「Lakshya」も中程度の名作に数えられることになるだろう。ファルハーン・アクタル監督は、前作の「Dil Chahta Hai」とは全く違ったタッチで再び優れた映画を世の中に送り出した。「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)のカラン・ジャウハル監督といい、このファルハーン・アクタル監督といい、最近のボリウッド界は若手監督が元気である。

 まずは軍隊学校を卒業してカシュミール州カールギル地区に所属することになったカランが描かれる。その後、カランの回想シーンで彼が入隊することになったいきさつが説明され、カールギル紛争の勃発により一気に戦争映画になる。カールギル紛争を題材とした映画というと、JPダッター監督の「LoC」(2003年)が有名だが、あの映画よりも戦争場面はよく撮られていたと思う。だが、物語の本編は何と言ってもカランとルーミーの恋愛だった。

 カランは毎日無為に遊び暮らす若者だった。いわゆるニートというやつだろう。カランは恋人のルーミーから「あなたには『Lakshya(人生の目的)』がない」と言われていた。「何の仕事をするにも、一生懸命やらなければ意味がない。科学者になったとしても、駄目な科学者じゃあ仕方がない。庭師になったとしても、優れた庭師になったら意味がある」とカランは受け売りのセリフを父親に嘯くものの、彼は今まで将来のことを真剣に考えずに大きくなってしまった。日本にはこういう若者が急増しており、僕自身もその一種かもしれないが、インドでも都市部を中心にそういう若者が増えているということだろう。実際、監督自身もニートな生活をしていたことがあるらしく、その体験が映画に活かされているとインタビューで語っていた。

 カランが将来のことを考え出すきっかけとなったのは、遊び仲間たちが次第に将来に向けて歩き出したことだった。自分一人だけが取り残された感覚に陥ったカランは、軍隊に入隊すると決意した親友の真似をして、自分も入隊することに決めた。結局その友人は入隊せずにアメリカ留学してしまい、カランは一人で軍隊に入隊することになってしまう。カランの父親は「どうせ4日で逃げ帰って来るだろう」と言うが、実際にその通りになってしまった。一番失望したのはルーミーだった。ルーミーは、カランの純朴で真摯な性格を愛していた。カランは一度ルーミーに、結婚をしようと切り出したことがあった。しかし、一度自分で決意したことを曲げて逃げ帰ってきたカランを見て、ルーミーは「私との結婚もそうやって途中で投げ出すんでしょう。もう2度と会いたくないわ」と絶交を言い渡す。それにショックを受けたカランは、軍隊学校に戻って過酷な訓練に人一倍打ち込むことになる。

 カランとルーミーが再会したのは、1999年に実際に起こったカールギル紛争の舞台、カシュミール州カールギルだった。カランと別れたルーミーは、TV局に就職して人気アナウンサーになっており、実業家の青年と婚約していた。一方、ルーミーが婚約したことを知ったカランは、ルーミーへの想いを胸に押さえ込みながら一人前の軍人となっていた。久し振りに再会した2人の間に以前のような打ち解けた笑顔はなかった。カランはルーミーに言う。「君は、僕に『Lakshya』がないと言っていたね。でも今の僕にはそれがある。あれだ。」カランが指差したのは、パーキスターン軍が占領したポイント5353の山頂だった。実はルーミーもカランのことを想い続けて来たのだが、今のカランには彼女との恋愛を成就させる余裕がなかった。実はルーミーは婚約を破棄してカールギルに来ていたのだが、それをカランが知ったのは、断崖絶壁を登って敵を背後から急襲するという任務を任された日だった。生きて帰って来る可能性は限りなくゼロに近かった。まさにミッション・インポッシブル。作戦決行前日、カランはルーミーに会い、「オレは生きて帰って来ないだろう」と言う。ルーミーはカランに言う。「あなたを一生涯待ち続けるわ。」何も言わず、カランは立ち去る。その夜、カランは父親に電話をする。「父さん、オレは今まで父さんを悲しませることしかできなかった。今まで言うことがでいなかったけど・・・オレは父さんを愛しているよ。」これらのシーンが、映画中一番泣けるシーンである。

 カランたちが断崖絶壁を登るシーンは、「ミッション・インポッシブル2」顔負けの迫力である。おそらく合成だろうが、うまく撮れていた。少々緊張感に欠けたが、映画のハイライトのひとつと言っていいだろう。その後の奇襲シーンは、それに比べたら迫力に欠けた。作戦を成功させたカランは、ルーミーと第2の「Lakshya」、つまり彼女に結婚のプロポーズをする。

 2003年度のフィルムフェア映画賞において、「Koi... Mil Gaya」で最優秀男優賞に輝いたリティク・ローシャンは、今年もこの映画でさらに成長した姿を見せた。デビュー作の「Kaho Naa... Pyaar Hai」(2000年)以降、少し低迷していた時代もあったが、「Koi... Mil Gaya」と「Lakshya」の作品の成功によって彼は押しも押されぬ大スターとなったと言ってよい。ニート時代と軍隊時代のカランを見事に演じ分けており、さらに自慢のダンスの切れも衰えていない。彼には絶賛を送ることしかできない。

 ヒロインのプリーティ・ズィンターは、髪型のせいかちょっとおばさんっぽくなってしまっていたのが残念だが、無難に役をこなしていた。プリーティも「Koi... Mil Gaya」や「Kal Ho Naa Ho」(2003年)の成功により、近年急速に大スターへの階段を駆け上がっている。

 リティクやプリーティの他にも、アミターブ・バッチャン、オーム・プリー、アムリーシュ・プリー、ボーマン・イーラーニーなどなどの名優が出演していたが、リティクの名演を食うほどの存在感は示していない。脇役なのでそれでいいのだが。

 最近のボリウッド音楽界では、ARレヘマーンよりもシャンカル・エヘサーン・ロイの活躍が著しい。「Dil Chahta Hai」のヒット以来、彼らの音楽は評価が高まり、新感覚の音楽を送り出し続けている。「Lakshya」の中でも最高傑作は1曲目の「Main Aisa Kyon Hoon」だ。ミディアム・テンポのダンスナンバーだが、ミュージカル・シーンのダンスも素晴らしい。このリティクの踊りを真似しようとして身体を痛める人が続出したとかしなかったとか(僕だけか?)。リティクのダンスは本当に素晴らしい。2曲目の「Agar Main Kahoon」は歌詞がすごくいい。

 主な舞台はカシュミールだが、デリーも舞台となっていたため、いくつか見慣れた場所が映画中に出てきた。特に「Agar Main Kahoon」のミュージカル・シーンでは、デリーのマイナーな遺跡がいくつか出てきた。特定できたものは、ハウズ・カースのフィローズ・シャー・トゥグラク廟とトゥグラカーバードぐらいだ(その筋の情報によると、ホテル・グランドの焼き鳥屋「えのき」やローディー・ガーデン隣の地中海レストラン「Lodhi」などがロケ地となった疑いが高いそうだ)。また、カシュミールの雄大な光景は、いつ見ても心を奪われる。

 一般に、カールギル紛争中に停戦ラインを越えてインド領に侵入したのは、正規のパーキスターン軍の兵士と言われている。だが、未だに不明な点が非常に多い事件である。この映画ではパーキスターンをあからさまに敵として一方的に描いていた。この映画の欠点を挙げるとすればそこであるが、インド人が見る限り、特に問題はないだろう。

 カールギル紛争について全く知識がないと多少ついていけないかもしれないが、あくまで物語の中心はカランとルーミーの恋愛であり、カールギル紛争中のオペレーション・ヴィジャイも理解できないことはないだろう。見て損はない映画である。

7月17日(土) 残酷写真でおはよう2

 2004年3月12日(金)の日記で、インドの新聞には残酷な写真が平気で掲載されることを写真付きで紹介した。あれから状況は全く変わっておらず、あいもかわらずインドの新聞やTVニュースでは、事故現場などの残酷で無残な映像が報道され続けている。今日付けのザ・ヒンドゥー紙にも、残酷な写真が一面と背面にカラーで堂々と掲載されていた。以下、その簡単な訳。

学校火災で87人の児童死亡
 タミル・ナードゥ州タンジャーヴル地区クンバコーナム市のシュリー・クリシュナ助成学校において16日、火災が発生し、87人の児童が焼死、23人が重傷。

 午前10時40分頃、昼食の準備中だった萱葺き屋根の2階調理場で出火し、1時間に渡って燃え続けた。火は同じく萱葺きだった2階の教室に燃え広がったが、1階にいた高校生たちの多くは逃げ出すことができた。2階にいた小学校の児童たちは、教師に教室に留まるよう指示を受け、そのまま全滅してしまった。一度逃げ出したものの、教科書や水筒を持ちに戻った学生たちも犠牲となった。火災発生時、193人の学生が同建物内にいたと考えられているが、その内87人が焼死した。出入り口と階段がひとつしかなかったこと、消防隊の装備欠乏により3階建ての建物に対応できなかったことなどにより救出活動は困難を極めた。

 焼死した学生の内、27人は男子、33人は女子とのことだが、残りの遺体は性別の判別が不可能なほど焼け焦げていた。同学校はタミル・ナードゥ州の援助によって創建されたものの、防災基準を全く満たしていない建築物の中で運営されていた。校長は逮捕された。

 インドの学校で学ぶ僕にとって、背筋が凍るような恐ろしい事件である。JNUの建物も確かに出入り口はひとつしかなく、窓は鉄格子がはまっていて窓から逃げ出すことは不可能だが、煉瓦造りのしっかりした構造で、出入り口は広く、火事や地震には強いと思われる。この学校は屋根が萱葺きだったことが致命的だったようだ。調理場で出火した火が瞬く間に屋根に燃え広がり、その萱が子供たちの上に落ちてきたらしい。

 さて、いよいよその写真である。紙面では事件の惨状をまざまざと伝えるグロテスクな写真が数枚掲載され、インターネット版では1枚だけ犠牲者の遺体の写真が載っていた。他の新聞も見てみたが、ザ・ヒンドゥー紙ほど残酷な写真を掲載していた新聞はなかった。





紙面第1面の写真
焼死した子供たちの遺体が散乱



インターネット版の写真(紙面でも掲載)
黒焦げの遺体の中から
我が子を必死に探す親たちの表情が悲痛


 ただ、意外と嫌悪感はなく、人間が焼死するとこんな風になるんだ・・・としみじみ実感してしまった。多分現場には、すごい悪臭が漂っていることだろう。その臭いを嗅いだら、おそらく吐き気を催すのだろうが、写真ではそこまで嫌な気分にはならなかった。

 目を引いたのは、写真と一緒に注記があったことである。以下、その注記を全文訳した。

写真に関して
 本日のタミル・ナードゥ州クンバコーナム市における火災の写真のいくつかは、読者に不快感を催させる可能性があります。テレビ局も既に多くの映像を流しています。しかしながら、惨事の非道性と本質を報道するために、このような視覚的情報は不可避です。

―編集長


 2004年3月12日(金)の日記で僕が「いくらなんでも朝からこんな残酷な写真を見せなくてもいいだろう・・・。」「どんな悲痛な事件が起きたにしろ、朝から読者を不快な気分にさせるような写真の掲載は控えるべきだ。」と書いたことに触発されたのだろうか(?)、こういう断りがあったことは、インドでもメディアが報道の在り方について認識を新たにしていることを表していると思う。今回は「真実をありのまま報道する」という方針を曲げず、残酷な写真をいくつも掲載したザ・ヒンドゥー紙だが、何らかの変化が自浄作用的に起こっていることを感じさせてくれた。ただ、日本のように死や汚物を覆い隠すようなやり方が正しいとは限らない。インドは太古の昔から死に関する認識では他国の人々より進んだ考え方を持っている。日本のメディアがインドから学ぶことは多いはずである。これからインドの報道はどう変化していくのだろうか?

7月18日(日) 中央分離帯考

 1ヶ月振りにデリーに戻り、バイクで道路を走っていると、道路の整備がますます進んだことを実感する。インドの道というと、かつては「道の中に穴があるのか、穴の中に道があるのか」と当の首相が苦言を呈するほどひどい状態だったが、デリーでは最近、幹線を中心として道路の整備が急ピッチで進んでおり、整備が終わった道路は非常に快適に走行できるようになっている。ルティエンス・デリーと呼ばれるデリー中央部官庁街の道はイギリス人の置き土産であるためか、インドの首都とは思えないほど美しいが(ルティエンス・デリーは近々ユネスコ世界遺産候補として申請されるそうだ)、ルティエンス・デリー以南の、いわゆる南デリーの道路も、最近ではいい感じになって来ている。僕のお気に入りの道路は、家の近くのアフリカ・アベニューと、メディカルの交差点付近である。

 道路の整備とは、具体的にはフライオーバーと呼ばれる高架陸橋の架橋、道路の舗装や拡張、信号設置、歩行者横断用地下道の設置、道標や標識の設置などが挙げられるが、中でも一番ありがたいのが、中央分離帯の設置である。

 中央分離帯のない道がどれだけ危険か、インドの道路を自動車で走ってみればすぐに分かる。対向車線にはみ出すことを何とも思っていない人々が多すぎるのだ。対向車線の車だけではない、同じ方向に進んでいる車の無謀な運転も、車線はみ出しの恐怖を増大させる。右折しようとして少し右に寄ったその右側から追い越しをかけてくる信じられないほど危険な輩もいる。だから右折するときは後方も確認しなければならない。

 夜の道も、中央分離帯のない道は危険である。対向車線にはみ出して走ってくる対向車の危険は上記の通りだが、一番嫌なのは、対向車のハイビームである。インドにはずっとハイビームのまま走っている車が全体の9割以上あり、中央分離帯のない道路では、もろに対向車のハイビームが目に入ってくることになる。そうなると交通用語でいう眩惑の状態になり、まさに目隠し状態、何も見えなくなる。眩惑時、僕は怖くてスピードを落とすのだが、他のインド人はそんなことお構いなしにスピードを出しているので、もしかしたらインド人の目には先天的に眩惑耐性があるのではなかろうか、と密かに思っている・・・が、そんなことはないだろう。インド人はハイビームにより、お互いにお互いを殺し合っていると言っても過言ではない。これは気のせいかもしれないが、心なしかテールランプすらハイビームになっている車も多いような気がする。なぜか後部のライトが異常に眩しい車があるのだ・・・。

 このように、中央分離帯の設置は、対向車線はみ出し防止や、ハイビームの危険性軽減につながる。また、デリーの中央分離帯には柵が立てられており、歩行者が安易に横断できないようになっている。そのおかげで、突然道路を横断する歩行者も減り、道路の安全性が高まる(柵を乗り越えたり、わずかな隙間を必死にくぐり抜けたりして道路を横断する歩行者もいるが・・・)。

 中央分離帯を見ると、僕はふとカースト制度を思い出す。道路を越えられない壁で「分ける」ことが相互の車線を走る自動車にとって有益であるのと同じく、身分や職業も、越えられない壁で「分ける」ことがこの国では、身分の上下を問わず、どのコミュニティーの人々にも有益なことだと思えてくる。中央分離帯がなければ、どこまでもはみ出して来る人々、相手の迷惑を全く気にかけない人々・・・それと同じく、身分や職業の間に壁がないと、この国の人々はどこまでもどこまでも他人の領域に侵入し、どこまでもどこまでも相手の迷惑を気にかけない性質になってしまう人々だと思う。中央分離帯があって初めて、最低限の道路の安全が確保されるのと同様に、カースト制度があって初めて、インドの社会は成り立つのではなかろうか。

 実は、中央分離帯の恩恵を受けている人々は自動車の運転手だけではない。路上生活者たちも中央分離帯を巧みに利用して生活向上を図っているのだ。よく見ると中央分離帯は周囲の世界から隔絶された場所になっている。排気ガスは来るが、それでも最近のデリーは公共車両のCNG(圧縮天然ガス)化が進み、空気は数年前に比べて格段にきれいになった。中央分離帯上には草木などが植えられていることが多いため、日陰もできる。よって、それらの利点に目を付け、中央分離帯上で生活をしている人々がいるのだ。フライオーバーの下も、路上生活者にとって絶好の生活場所となっている。

 道路の整備の一環だろうが、デリーの道路ではスピードブレーカーの設置も進んでいる。スピードブレーカーとは、道路の一部がもっこりと隆起しているもので、スピードを出したままその上を通過すると「ガタン!」と激しい衝撃が来るため、自ずと運転手はスピードブレーカーを見るとスピードを落とすという仕組みになっている。横断歩道の近く、施設の出入り口付近、住宅街の路地、交差点の入り口などによく設置されている。スピードブレーカー自体が横断歩道になっていることもある。僕は日本では、通っていた大学構内でスピードブレーカーを見たことがあったが、それ以外では全く見たことがない。だから日本人には少しイメージしにくいかもしれない。日本人は、道路に「止まれ」とあれば、少なくともスピードぐらいは落とすだけの律儀さを持ち合わせている。しかしインド人は「止まれ」と書いてあっても気にもかけない人々がほとんどである。そこで物理的に無理矢理スピードを落とさせるスピードブレーカーがここまで普及しているのだろうことは、想像に難くない。

 しかし、このスピードブレーカーの設置は、道路の安全を改善するものでは必ずしもないと思う。なぜなら、スピードブレーカーがスピードブレーカーの役割を果たしていないことが時々あるからだ。スピードブレーカーには普通、白などのペンキで「ここにスピードブレーカーがありますよ」と分かるように印が付けられている。標識もあるが、インドの標識は全然目立たないので、この際無視する。運転手は、その白い印を見ると、「あそこにスピードブレーカーがあるな」と思ってスピードを落とす。ところが、時々全く印のないスピードブレーカーがあり、道路と同化してしまっているため、スピードブレーカーがあることに気が付かずにそのままのスピードで通過してしまうことがある。もちろん、自動車には「ガタン!」と激しい衝撃が走る。同じ道を何度も走っていると、「あそこにスピードブレーカーがあるな」と学習するので、対応することも可能となるが、初めて走っている人には恐怖の障害物である。スピードブレーカーならぬ、ビックリメーカーになってしまっている。

 インドの道路はまさにインドの縮図。他にもインドの道路からいろいろなことを語ることが可能だが、今回はこのくらいに留めておく。とりあえず、僕の通学路の途中にあった、危険極まりない道路に中央分離帯ができていたので、ちょっと嬉しかった。

7月19日(月) タージ・マハルに残されたサイン

 18日付けのサンデー・エクスプレス紙に、タージ・マハルに残された石工たちのサインに関する興味深い記事があった。以下、全文を翻訳。

Taj Signatures
 ウッタル・プラデーシュ州アーグラー市の世界的に有名な観光地タージ・マハルの南門入り口では、真夏にも関わらず観光客の長蛇の列ができている。その喧騒から離れた、ヤムナー河に面した北壁には、タージ・マハルを造った名もなき石工たちの名前が刻まれている。名前だけではない。文字を書けない石工たちによって刻まれた、卍、星、魚などのシンボルもある。石工たちの名前の多くは、デーヴナーグリー文字またはペルシア文字で刻まれている。

 皇帝の愛の結晶が多大な注目を集めている一方で、皇帝の夢を実現化した石工たちの名前が刻まれた壁に注意を払う者は、濁った河と野良犬ぐらいしかいない。

 しかしそれももはや過去のこととなった。インド考古調査局(ASI)が、初めてそのような石工たちの刻んだ文字やシンボルについての調査を開始したのだ。

 タージ・マハルは1632〜48年まで、17年の歳月をかけ、2万人の労働者によって造られた。設計者の多くはペルシア人やトルコ人だったが、実際に建造を行ったのはインドの職人だった。

 タージ・マハル建造は多くの逸話を生み、その伝説は数世紀の間、語り継がれてきた。タージ・マハルを建造したシャージャハーンは、自身の最高傑作を越える建築物が後世二度と現れないよう、熟練した職人たちの手を切断し、目を潰してしまったという。これは多かれ少なかれ歴史的真実だと考えられている。

 これまでの調査によると、ごく少数の石工たちしかタージ・マハルに自身のマークを残していないことが分かった。ASIの調査は6〜7ヶ月前から開始され、北壁に刻まれた石工たちの印に関する報告書がまとめられた。北壁には合計671個の名前やシンボルが刻まれており、他の部分の調査もこれから続けられる予定である。調査が完了するには、さらに4ヶ月かかると見られている。

 調査はこれだけに留まらない。ASIアーグラー支部の考古学者D.ダヤーラン氏は、「我々はおそらく、同じような調査をアーグラー城やファテープル・スィークリーでも行うだろう。タージ・マハルで見つかった名前やシンボルと同じものが、アーグラー城やファテープル・スィークリーで見つかる可能性がある。また、現代の石工たちとの関係も調査する予定だ」と述べている。

 本廟に名前が刻まれている書道家主幹のアマナト・カーン・シラーズィーや、建築家主幹のイラン人、ウスタード・イーサー・アファンディーの名前は後世まで残っているが、今回の調査はタージ・マハル建造に真の意味で貢献した、忘れ去られた職人たちの名前を歴史の表舞台に引き戻すことになるだろう。

 また、この調査は職人たちの起源を知る手掛かりとなることも期待されている。ダヤーラン氏は、「これらの石工たちは、イラン、中央アジア、インド各地から集められた。文字が書けない人々は、自分のアイデンティティーを示すためのシンボルを残した。これらのシンボルの調査が進めば、職人たちの旅を追跡することが可能となるだろう。バスタル(チャッティースガル州南部)を旅行した際、部族民の腕に、タージ・マハルの壁に刻まれたマークと同じデザインの刺青を発見した。」

 インド全土の寺院や遺跡には、石工たちのマークが残っている。マディヤ・プラデーシュ州ボージプルの寺院には暗号がのようなものが刻まれており、カルナータカ州ハレービードには、「これより優れた彫刻ができるものならやってみろ」という、彫刻家による未来の職人たちへの挑戦状が刻まれている。

 不滅の建築物に自分のアイデンティティーを残しておきたいという欲求は時空を越える。タージ・マハル修復作業に当たっている石工のカプタン・スィンは、その気持ちが理解できると言う。「建物を建てたとき、我々は自分の名前を刻んでおくことがある。ちょうどこのタージ・マハルの壁に刻まれた名前やシンボルのように。」

 インドの遺跡の多くを好んで巡っていた僕にとっても、この石工たちのサインの話は新鮮だった。遺跡の解説には、いつ、誰が、何のために建てたか、どんな特徴があるか、などぐらいしか記載されないが、本当にその遺跡を汗水垂らして建てたのは、大工や石工などの職人たちである。彼らの名前が歴史に残ることはまずありえないが、彼らも彼らで、粋な方法で自分のアイデンティティーをそっと遺跡に刻んでいたというのは、何だか痛快な話だ。しかも、インドのことだから、タージ・マハルなどに刻まれたマークが、その末裔の現代の職工にリンクしていることがあってもおかしくはない。こういうミクロな視点からも、インドの遺跡を見ることができるのだということが分かって興味深かった。

 ちなみに、新聞の記事に書かれているタージ・マハルの北壁のサインは、多分ヤムナー河に面した外壁に刻まれていると思われる。よって、入場料を払わなくても見ることができるだろう。ただ、壁に刻まれた名前やサインが、必ずしも職工たちのものだとは限らないと思うのだが・・・。遺跡を訪れた人が、記念に名前などを書いて行くのは、世界中どこにでもある現象である。ASIの調査に問題点があるとしたら、職工のサインと観光客などのサインを選別することができるかどうか、ということだろう。どちらにしろ、調査結果が楽しみである。

7月19日(月) Gayab

 今日はJNUに登録手続きに行ったのだが、学生団体がストライキを呼びかけており、僕の所属する言語学科の建物の前を封鎖していて手続きがストップしてしまっていた。それでも、どうも建物の中に入ることができれば手続きを行えるような雰囲気だったため、僕は「オレは外国人だ!ストライキやお前らとは何の関係ねぇ!ヒンディー語で話せ!英語はしゃべるな!」と訳の分からないことを怒鳴って威嚇しながら、まるで神風特攻隊のようにそのバリケードを強行突破して中に入り、何とか登録に必要なフォームだけは手に入れることに成功した。よって、今日は僕の仕事はフォームを入手して終了ということになった。インドでは万事この調子である。

 その後、新作ヒンディー語映画の「Gayab」を見に、チャーナキャー・シネマへ行った。「Gayab」とは「ガーヤブ」と読み、「不在」みたいな意味。一言で言ってしまえば、インド版「透明人間」である。ボリウッドは最近、ラーム・ゴーパール・ヴァルマーを中心として、ハリウッド的題材や手法の映画を連発しているが、この「Gayab」もその一環と言える。製作はラーム・ゴーパール・ヴァルマーのプロダクションで、監督は「Darna Mana Hai」(2003年)のプラワール・ラマン。音楽はアジャイ・アトゥル。キャストはトゥシャール・カプール、アンタラー・マーリー、ラグヴィール・ヤーダヴ、ラマン・トリカー、プラシカー・ジョーシー、ゴーヴィンド・ナームデーヴなど。




トゥシャール・カプール(左)と
アンタラー・マーリー(中央)


Gayab
 ヴィシュヌ(トゥシャール・カプール)は素直だが内気で臆病者の男だった。セールスマンの仕事をしていたが、口下手なヴィシュヌはなかなか売上を伸ばすことができず、家に帰れば鬼婆のような母親(プラシカー・ジョーシー)から罵声を浴びせかけられ、友人たちからはからかわれ、密かに思いを寄せる隣人のモーヒニー(アンタラー・マーリー)にも相手にされなかった。大学教授の父親(ラグヴィール・ヤーダヴ)は優しい性格だったが、母親の暴君振りを止めることができなかった。また、モーヒニーにはサミール(ラマン・トリカー)という恋人がおり、ヴィシュヌは毎日のように彼女の家にやって来るサミールを、うらめしそうに見ていたのだった。

 そんなある日、ヴィシュヌは海岸で気味の悪い神様の像を拾う。ヴィシュヌは「どうして僕を創ったんだ!僕は誰からも必要とされてない、みんなの笑い者でしかない!僕を消してくれ!」と叫ぶ。その瞬間から、ヴィシュヌは透明人間になってしまう。

 透明人間となったヴィシュヌは、今まで自分を馬鹿にして来た人々への復讐を始めると同時に、モーヒニーの部屋に侵入して彼女を観察し、挙句の果てには口説き始める。モーヒニーは拒絶するが、ますます悪戯をエスカレートさせたヴィシュヌは、銀行から大金を盗み、モーヒニーにプレゼントしようとする。これを機に今まで透明人間のことなど信じなかった警察も動き始め、透明人間捕獲作戦が開始される。モーヒニーと恋人のサミールは、国外に脱出しようと試みるが、ヴィシュヌは「24時間以内にモーヒニーを連れて来ないと、ムンバイー中を滅茶苦茶にしてやる」と宣言する。そのため、警察はモーヒニーを使ってヴィシュヌを射殺しようと計画するが、ヴィシュヌの純真さを感じ取っていたモーヒニーは、彼を助ける。

 モーヒニーに説得されたヴィシュヌは心を入れ替え、警察に自首し、6ヶ月の禁固刑を受ける。出所後、ヴィシュヌは透明人間という力を利用して警察に協力し、一躍スーパーヒーローとなった。

 インド版「透明人間」と聞いた途端、大体ストーリーは想像がついたが、僕が期待していたのは「どのようにして透明になるか」という起の部分と「エンディングをどのようにまとめるか」という結の部分だった。起の部分は、やはりインドらしく、神様が主人公を透明にするという設定となっていた。そういえば「Darna Mana Hai」にも、同じようなストーリーがあった。結の部分は、僕は悲しいエンディングを想像していたのだが、やはりこれもインド映画の方程式に従って、どちらかというとハッピーエンドで終わっていた。

 弱虫の主人公が透明人間になった途端、今まで自分をいじめて来た人々に仕返しをするシーンは、最初はヴィシュヌに対して同情心があるため、痛快な気持ちになるが、悪戯がエスカレートするに従って、次第にヴィシュヌへの嫌悪感が高まって来る。中盤を越え、モーヒニーを執拗にストーカーしたり、サミールを一方的に殴打したり、銀行強盗したりするようになると、ヴィシュヌは悪役と変わらぬ存在となってしまう。唯一、息子がいなくなって悲しむ父親を見て、ヴィシュヌが「父さん、僕はここにいるよ」と話しかけるシーンは、観客の涙を誘う。このまま最後はヴィシュヌが死んで終わりになるかと思ったが、急転直下、モーヒニーに「あなたが私のことを忘れることができないのと同じように、私もサミールのことを忘れることはできないのよ。」「あなたはその力をいいことに使うべきだわ。きっとスーパーヒーローになれるわ。」という説得に応じる形で自首し、物語はハッピーエンド寄りの終わり方となる。

 主役はトゥシャール・カプール。僕は彼に「のび太君俳優」というレッテルを貼ったのだが、そのレッテルに恥じぬ役を「Gayab」で演じてくれた。弱々しい男を演じさせたら、現在のボリウッド俳優の中で、彼の右に出る者はいないだろう。元々いじめられっ子みたいな顔をしているので、今回ははまり役だった。

 ヒロインのアンタラー・マーリーは、異色の女優と言っていいだろう。痩せているのになぜかパワフルであり、セクシー・ダイナマイトでありながらなぜか親しみのある顔をしている。ダンスもうまいし、お色気シーンも難なくこなしている。「Gayab」でますますアンタラーのファンになってしまった。

 透明人間映画というと、特撮技術の見せ所である。「Gayab」にも多くのシーンで特撮が使われていたが、部分的にはよく撮れていたものの、部分的には幼稚であった。だが、服を着た透明人間が踊るミュージカル・シーン「Gayab Hoke Sab Dikhta Hai」などは、インド映画ならではの面白い試みと言えるだろう。音楽には特筆すべき点はなかった。

 蛇足ながら、あらすじの上に映画のポスターを載せたが、そこには、モーヒニーのスカートをめくる透明人間ヴィシュヌの姿が描かれている。それを見て、スカートめくりという考え方は、万国共通のものだったんだな・・・と改めて実感した。ヴィシュヌが透明人間になった後にすることも、おそらく日本人の(男の?)想像の範囲内だと思われる。

 「Gayab」は、映画としての完成度はそれほど高くなく、ギャグの切れもありきたりでよくなかったが、冷房の効いた映画館で2〜3時間まったりと涼むのにはちょうどいい作品である。

7月21日(水) 進むインド映画スターの国際化

 トム・クルーズ主演のハリウッド映画「ラスト・サムライ」(2003年)で熱演した渡辺謙がアカデミー賞助演男優賞にノミネートされたことは記憶に新しい。「ラスト・サムライ」はインドでも公開され、デリーではけっこうヒットしていた。僕もインドの映画館で見たが、チャンバラ・シーンの「カン、カン、キン、キン」という音がインド人の壺にはまっていたように思えた。日本の俳優がハリウッドなどの国際舞台で活躍するのは今に始まったことではなく、調べてみると上山草人、早川雪洲、岩松信、三船敏郎などから石橋貴明、岡村孝史、藤原紀香まで、けっこう多くの日本人が海外の映画に出演している。

 それに比べると、インド人俳優は日本人俳優に比べて一般に英語を得意とするにも関わらず、今までそれほど他国の映画に出演して来なかったように思える。僕の少ない知識では、アムリーシュ・プリーが「インディー・ジョーンズ魔宮の伝説」(1984年)に出演したこと、またナスィールッディーン・シャーが「ザ・リーグ」(2003年)に出演したことが思い浮かぶくらいだ。そんな中、最近になって2人のインド人女優が国際派スターとして羽ばたこうとしている。

 1人は、言わずと知れたインドの女神、アイシュワリヤー・ラーイである。英米映画の「Bride And Prejudice」、米映画の「Chaos」、英映画の「Singularity」「Mistress Of Spices」などへの出演が決まっており、30歳になったインドの女神は遂に世界の女神へと進化を遂げるときが来た。アイシュワリヤーはカンヌ国際映画祭の審査員を務めたり、ジュリア・ロバーツに「世界で最も美しい女性」と絶賛されたりもしている。一時はボンド・ガールの候補にも挙がっていた。アイシュワリヤーの国際舞台での成功は、彼女の美貌、才能、実績を鑑みれば、改めて驚く必要もないだろう。しかもアイシュワリヤーはインド人俳優の中でも特に英語がうまい。それらの映画がある程度の成功を収めれば、ますます海外の映画制作者から声がかかることだろうと思う。

 意外なのは、2003年の「Khwahish」で本格デビューを果たし、2004年の「Murder」で一気にセックス・シンボルとしての名声を勝ち取ったマッリカー・シェーラーワトである。1976年生まれ、デリー大学卒のマッリカーは、まだ3本の映画にしか出演していないが(2002年の「Jeena Sirf Merre Liye」にも端役で出演)、他の女優にはないオーラがあったため、個人的にも注目していた。しかしまさか、彼女がジャッキー・チェンと共演するとは想像だにしていなかった。そう、マッリカー・シェーラーワトは、インド人俳優で初めて、中国の映画に出演することになる。しかもお相手は、インドでも人気の高い、あのジャッキー・チェンである。

 映画のタイトルは、以前は「Time Breaker」だったのだが変更され、「The Myth」に落ち着いたようだ。監督は「プロジェクトS」(1993年)や「レッド・ブロンクス」(1995年)のスタンリー・トン。ジャッキー・チェンとマッリカー以外のキャストは、「マトリックス」シリーズであのエージェント・スミスを演じたヒューゴ・ウエーヴィング、「韓国随一の美女」と称され、「アウトライブ―飛天舞」(2000年)などに出演している韓国女優の金喜善(キム・ヒソン)、インド人若手男優で「Khiladi420」(2000年)に端役出演のスダーンシュ・パーンデーイなどらしく、かなり国際色が強い。映画は韓国の伝説「千年の恋」を基にしているようで、金喜善は韓国の姫を、マッリカーはインドの姫を演じるそうだ。

 マッリカーのジャッキー・チェン共演のニュースは、インド国内であらぬ方向に向かってしまった。マッリカーがジャッキー・チェンとの共演にゴーサインを出したのは、ヌード・シーンを演じることができるからだ、という変な噂が流れ、スキャンダルにまで発展してしまった。確かに彼女は「Murder」でインドの常識を遥かに越えるベッド・シーンに挑戦していた。インド人は本音ではみんな女優のヌードを見たいくせに、好んで肌を露出させたりする女優には手厳しい評価をすることが多い。特に女性の間では、セックス・シンボルとして知られる女優を嫌悪する傾向が強いように思える。僕は一度、インド人の女の子に「君はビパーシャー・バスに似てるね」と言ったことがあった。ビパーシャー・バスこそ現代のボリウッドのセックス・シンボルの代表であり、けっこう僕のお気に入りの女優である。だから褒め言葉のつもりだったのだが、その女の子はかな〜り顔をしかめていた。もっと清純派の女優と比べるべきだったと後悔している。そういうことを考え合わせると、マッリカーにどこからともなく世間の逆風が吹くのは想像に難くない。だが、ジャッキー・チェンの映画は基本的に家族向けのアクション・コメディーであり、「The Myth」にはマッリカーのヌードはおろか、キス・シーンすらないとされている。そもそも、ジャッキー・チェンと共演できるなら、どんな男優でも女優でも、一発でOKすると思うのだが・・・。「The Myth」の撮影は現在上海で行われており、今年の10月にはカルナータカ州ハンピーでもロケが行われるそうだ。マッリカーはジャッキー映画特有のカンフー・シーンなどにも挑戦するとのこと、どうも彼女が演じる「インドの姫」は、ヨーガ武術の使い手のようだ(ダルシムか?)。




スタンリー・トン監督(左)、
マッリカー・シェーラーワト(中)
ジャッキー・チェン(右)


 現在、インドと中国は政治的にも急速に接近しつつあり、間もなくスィッキム州のナトゥラ峠が通商のため開通する予定である。インドと中国は1962年に領土問題から戦争を行っており、それ以来険悪な仲が続いてきた。今のところ両国間の国境は開いておらず、インドから中国に抜けるには、ネパールまたはパーキスターンを経由するぐらいしか方法がない。しかし、2003年にヴァージペーイー首相(当時)が中国を訪問したことを皮切りに両国の仲は改善の方向に向かい、今までスィッキムをインドの領土として認めていなかった中国が、年鑑に掲載されている自国の領土からスィッキムを削除するという進展を見せた。ナトゥラ峠の開通は多少難航しているようだが、おそらく中止になることはないだろう。その内、旅行者も通れるようになるかもしれない。中国の安価な製品がさらに大量にインドに流入して来るようになるのは、インド国内の産業にとって打撃となるかもしれない。しかし、ジャッキー・チェンとマッリカーの共演のような、印中合作または印中スター共演の映画がさらに作られるようになるのは非常に楽しみである。そういえば、ARレヘマーンも最近、中国映画「ヘブン・アンド・アース天地英雄」(2003年)で音楽を担当した。今度は是非、インド映画にジャッキー・チェンを招いて、インド映画的ジャッキー映画を作ってもらいたい。また、インドの映画スターの認知度が、アイシュワリヤーやマッリカーの活躍を機に、国際的により高まることにも期待している。

7月23日(金) Hyderabad Blues 2

 インド映画界の新しい潮流に、ヒングリッシュ映画なるものがある。ヒングリッシュとは「ヒンディー+イングリッシュ」の造語で、一般に英語の混じったヒンディー語や、インド訛りの英語のことを指すが、ヒングリッシュ映画と言った場合は、インド製英語映画のことだと思ってもらってよい。その走りとなったのが、デーヴ・ベネガル監督の「English, August」(1994年)と、ナーゲーシュ・ククヌール監督の「Hyderabad Blues」(1998年)である。僕は両方とも見たことがないのだが、ヒングリッシュ映画を知る上では欠かせない2本だと言える。その内の1本、「Hyderabad Blues」の続編が現在映画館で上映されている。今日はPVRアヌパムで「Hyderabad Blues 2」を見た。

 ハイダラーバードとはアーンドラ・プラデーシュ州の州都となっている街のことで、18世紀初め〜20世紀半ばにはハイダラーバード藩王国の王都として栄えた。テルグ語圏のアーンドラ・プラデーシュ州の州都でありながら、住民の多くはヒンディー語の方言であるダッキニー語を話す。よって、ハイダラーバードを舞台とする「Hyderabad Blues」シリーズの言語は、英語、ヒンディー語、テルグ語の3言語混交となっている。ちなみにテルグ語には字幕が付く。

 「Hyderabad Blues 2」の監督と主演はナーゲーシュ・ククヌール。キャストはヴィクラム・イナームダル、エーラーハニー・ヒプトゥーラー、ジョーティ・ドーグラー、ティスカー・チョープラーなど。前作では、アメリカで12年間の歳月を過ごし、すっかりアメリカ人気取りになってしまったインド人ヴァルンが、故郷ハイダラーバードに戻り、インド人女性アシュヴィニーと恋に落ちて結婚するまでが描かれた。続編では、結婚から6年が経った後のヴァルンとアシュヴィニーの結婚生活が主題となっている。副題は「Rearranged Marrage(再お見合い結婚)」。




ジョーティ・ドーグラー(左)と
ナーゲーシュ・ククヌール(右)


Hyderabad Blues 2
 ヴァルン(ナーゲーシュ・ククヌール)はコールセンターを経営し、美しい妻を持ち、裕福な生活をしていた。しかし子供がいなかった。妻のアシュヴィニー(ジョーティ・ドーグラー)は子供を熱望していたが、ヴァルンは「まだ責任が持てない」と言ってなかなか子供を作ろうとしなかった。一方、友人のサンジーヴ(ヴィクラム・イナームダル)とスィーマー(エーラーハニー・ヒプトゥーラー)夫婦には2人の子供がおり、子育てに奮闘しながらも幸せそうな生活を送っていた。また、スィーマーは結婚斡旋業を始めた。

 ある日、ヴァルンの会社にメーナカー(ティスカー・チョープラー)というやり手の女性が入社する。メーナカーは会社に競争の原理を持ち込んで売上アップを目指すと共に、ヴァルンを誘惑する。ヴァルンは何とかそれを拒否するが、その様子をセクハラ容疑で首にした部下に見られてしまう。部下はアシュヴィニーにそのことを告げ口し、夫婦仲は一気に険悪になってしまう。

 ヴァルンとアシュヴィニーのケンカは、彼の両親の古風な考えのおかげでさらにこじれ、とうとう離婚にまで発展してしまう。アシュヴィニーと離婚したヴァルンは、失意のままアメリカに帰ることを決意する。サンジーヴとスィーマーは必死に2人を説得するが効き目はなく、とうとうヴァルンは空港へ去って行ってしまう。

 スィーマーの斡旋によりゴールインしたカップルたちの結婚式の日、アシュヴィニーは自分の過ちを悟り、ヴァルンを連れ戻しにアメリカへ発つことを決意する。しかしスィーマーは彼女を制止する。「そんな遠くへ行く必要はないわ。」振り返ると、そこにはヴァルンがいた。実はサンジーヴのドジのおかげでヴァルンはアメリカへ行けなかったのだ。アシュヴィニーはヴァルンに謝り、改めて「私と結婚して下さい」とプロポーズをする。

 非常にピュアな映画だと感じた。前半では、子供が欲しくない夫と子供が欲しい妻の葛藤が描かれ、後半では夫婦喧嘩から離婚へ、また再婚へ、の過程が描かれる。登場人物の感情表現に一切ひねりはなく、韓国映画のようにストレートな映画だった。テーマは少し重いが、ユーモアを交えて描写されていた。

 この映画でユニークかつ重要な部分は、離婚が主題となった後半よりもむしろ前半で、「結婚したらどうして子供を作らなければならないのか」というヴァルンの問いかけが全てを物語っているだろう。友人のサンジーヴは「祖父がして、親父がした通り、オレも子供を作っただけさ」と答えるが、ヴァルンには納得できない。遂には赤ん坊の大群に埋もれる悪夢にうなされるまでになってしまう。その後、不倫問題や離婚騒動などでその問いかけは埋もれてしまい、とうとう映画中でその答えが提示される機会はなくなってしまう。結局、「そうなっているから、そうするしかない」というサンジーヴの場当たり的な考えが一番正しいことになってしまう。だが、今まで結婚後に子供を作ることの必然性をテーマにした映画はあまりない。ヴァルンの態度は、男の本音がものすごく正直に出されていたように思われる。もう少しこの部分を突き詰めて行けば、もっとユニークな映画になっただろう。

 さらに映画の問題点を挙げるとすれば、セリフ回しが不自然で、ストーリー展開がスローテンポなことである。登場人物の英語はどれもインド訛りで、不必要なまでに英語で会話がなされていたので、僕にはものすごい不自然に思えた。また、特に前半の展開は遅すぎる上に、山場がない。ストーリーのキーパーソンとなるメーナカーの性格が曖昧だったのも残念だ。これらのことを考え合わせたら、この映画は絶対に一般受けしないことは明らかで、しかもヒングリッシュ映画のターゲットであるアッパーミドル〜上流層にも受け容れられる可能性は低いと思われる。ただ、案外中年の女性あたりの共感を呼ぶテーマの映画かもしれないと感じた。

 俳優はどれも素人っぽかった。監督兼主役のナーゲーシュはまだいいとしても、他のキャストはまず顔が一般人であり、演技も演劇クラブ程度のものだった。特にアシュヴィニーを演じたジョーティ・ドーグラーは、あまりスクリーン向けの顔ではないと思うのだが・・・。かえって脇役を演じたエーラーハニー・ヒプトゥーラーやヴィクラム・イナームダルの方が生き生きとした演技をしていた。

 言語は上記の通り、英語、ヒンディー語、テルグ語の3言語混交体制。とは言っても、これらの言語が文字通りごちゃ混ぜになっているわけではなく、主な会話は英語で、ちょっとしたフレーズはヒンディー語(ダッキニー語)で、そしてヴァルンの両親との会話はテルグ語で、という風に使い分けがなされていた。

 映画中、ハイダラーバード名物チャール・ミーナールやビリヤーニーなどを歌った歌が挿入されていたが、映画の背景からはそこがハイダラーバードであるという印象はあまり受けなかった。ハイダラーバードとスィカンダラーバードの間にある人造湖フサイン・サーガルは出ていたかもしれない。

 前作を見ていないので何とも言えないのだが、名作と言われる「Hyderabad Blues」に比べたら、どうしても完成度は低くなってしまっていると思われる。しかし、インド映画で続編物というのは実は珍しいので、それだけで希少価値のある映画かもしれない。

7月25日(日) Julie

 2004年のボリウッド界は今のところ概して順調だと言える。ヒットすべき映画がヒットしているし、低予算ながら高品質の映画もいくつかリリースされた。まだ2004年は半分を過ぎたところだが、早急ながら今までの2004年のボリウッド映画の特徴を一言で表現するなら、「性描写の露骨化」だと思う。大胆な性描写の映画、または性をテーマに扱った映画――例えば「Tum?」「Murder」「Girlfriend」など――が連続しており、いったいインド映画界はこの先どうなっていくのか、期待と困惑の混じった視線を送っているところである。

 そんな中、現在世間を騒がしている話題のヒンディー語映画が「Julie」である。同名のコールガールが主人公の映画で、ポスターも主演女優の大胆なセミヌード。監督はディーパク・シヴダーサニー、音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは「Qayamat」(2003年)のネーハー・ドゥーピヤー、サンジャイ・カプール、プリヤーンシュ・チャタルジー、ヤシュ・トーンク、アチント・カウルなど。今日は「Julie」をPVRアヌパムで見た。今週は「スパイダーマン2」が封切られたため、群集はそちらへ流れるかと予想していたが、意外や意外、「Julie」も大ヒット中で、朝11時の回にも関わらず映画館は満席だった。




ネーハー・ドゥーピヤー


Julie
 ゴアで生まれ育ったジュリー(ネーハー・ドゥーピヤー)は、恋人のニール(ヤシュ・トーンク)と結婚するのを夢見る純粋な少女だった。大金持ちになる野望を抱いていたニールはある日、「結婚するには金が必要だ」と言って、一攫千金を夢見てマンガロールへ旅立った。ニールは野望通り大物になって帰って来るが、そのそばには別の婚約者がいた。

 絶望したジュリーはゴアを去ってムンバイーへ行き、親友のディンキーのアパートに住み始める。ジュリーはインテリア・デザイナーの職に就くことができ、同じくインテリア・デザイナーのローハン(サンジャイ・カプール)と親しくなる。やがて2人は婚約を交わすが、ローハンは仕事のことしか考えていない男で、ジュリーに依頼主と一晩寝るよう求める。ジュリーはまたも男に裏切られる。打ちひしがれたジュリーはコールガールとなってしまう。

 そんなある日、ジュリーは偶然、大物若手実業家のミヒル・シャーンディリヤー(プリヤーンシュ・チャタルジー)と出会う。ミヒルはジュリーの職業を知らなかったが、彼女に恋してしまい、遂にはプロポーズをする。ミヒルは彼女を自分の家族にも引き合わせるが、ジュリーは自分の正体を明かせずにいた。

 ミヒルはTVのインタビュー番組でもジュリーについて語っていた。それを見て耐え切れなくなったジュリーは、単身TV局に乗り込む。ジュリーは自分がミヒルの恋人であり、実はコールガールであることを明かし、生放送でインタビューに答えることになる。ジュリーのインタビューは世間の話題を呼び、シャーンディリヤー財閥を巻き込んだスキャンダルとなる。ジュリーはインタビューにおいて、自分がコールガールになった顛末を話し、ミヒルに対して謝る。が、そこへミヒルが駆けつけ、「君がコールガールであろうと何であろうと、君への愛は変わらない」と言って、改めてプロポーズをする。

 話題の方が先行し過ぎていて、実際には駄作に近い映画だった。期待していたほど性描写も激しくなく、ストーリーもどちらかというと純粋だった。同じようなテーマの「Chameli」(2004年)と比べたら、断然「Chameli」の方に軍配が上がる。

 上のあらすじは時間軸に沿って書いたが、映画ではジュリーがミヒルのインタビュー番組を見るところから始まる。ジュリーはTV局へ行き、「私はコールガール、売春婦よ!」と宣言する。そこから過去に話は戻り、ジュリーがコールガールになった顛末が描かれる。そこで一度時間は現在に戻り、もう一度ジュリーとミヒルの出会いが過去に戻って語られ、最後はジュリーのインタビュー生放送とミヒルの乱入でハッピーエンドとなる。

 いろいろ突っ込み所はあるのだが、ジュリーはTVに出てまでミヒルに正体を明かす必要が果たしてあったのか、というのが最大の謎である。その後、ミヒルがTV局に駆けつけてくる辺りは、インド映画的大袈裟さというか、まさに劇的な幕切れだった。ただ、そこでミヒルが語った内容はよかった。「シャーンディリヤー財閥は今まで、売春婦を救済したり、無料のコンドームを配ったりして社会に貢献してきたし、人々はそれに対して賞賛を送って来た。今、自分の愛する人がコールガールであると知って、求婚を取り消すのは我が家の信条に反する。私がコールガールと結婚することは、シャーンディリヤー家の家名を汚さないばかりか、さらに家名を上げることになるだろう」みたいなことを言っていた。

 際どいシーンは、ジュリーとニールのベッドシーン、ジュリーとローハンのベッドシーンくらいだ。身体中に「I Love You」とペンで書かれてジュリーがベッドに横たわるシーンは気持ち悪かった。あとは、途中に挿入されるミュージカル「Ishq Tezaab Hai Rabba」の中、女性ダンサーたちがいやらしい踊りを踊っていたのが印象に残っただけだ。




身体中に「I Love You」・・・


 ジュリーを演じたネーハー・ドゥーピヤーは、1980年カルナータカ州コーチン生まれ。2002年のミス・インディアで、「Qayamat」(2003年)などに出演していた。実は「Devdas」(2002年)のチャンドラムキー役は当初彼女にオファーされたというが、「Julie」にて晴れて(?)売春婦役をゲットすることになった。今まで大した活躍ができなかった彼女は、この映画で女優としての将来を賭けたといっていいだろう。果たしてそれが吉と出るか凶と出るか、まだ分からない。一応「Julie」はヒットしているが、インドでは容易に肌をさらした女優に明るい未来を用意しない風潮があるので、よっぽど大ブレイクしない限り大成功は難しいだろう。個人的には、汚れ役よりも純粋な役が似合う顔をしているので、アミーシャー・パテールみたいにお嬢様路線で売り出した方がよかったのではないかと思っている。

 舞台はムンバイーだったはずだが、途中から急にデリーに移り、インディラー・ガーンディー国際空港やらプラガティ・マイダーンなどが登場した。ミヒルの自宅として使われていた「ホワイト・ハウス」も、ヴァサント・クンジ南部にあるファーム・ハウスだと思われる。ゴアのシーンはおそらく本当にゴアで撮影されていただろう。

 売春婦の問題を問う社会派映画でもないし、「Pretty Woman」(1990年)のようなロマンチック・ラヴ・コメディーでもないし、「Chameli」のようなビターな大人の映画でもなかった。基本は、昔のハリウッド映画やインド映画で使い古された「普通の女の子が大金持ちの独身男性と結婚する」というプロットからそう外れていない。見るべきところは、「Murder」に氷を入れて薄めた程度の性描写、ということに落ち着くだろうか・・・。

7月26日(月) インド人のコイン収集にご用心

 僕の周りの日本人の間では密かに珍コイン収集が流行っている。インドのコインには、確認されているだけでもかなりの数の記念コインがあるのだが、インド人にコイン収集という観念が希薄なため、記念コインも普通のコインと同様に市場に出回っており、時々僕たちの手元にも巡ってくる。それを僕たちはレアコインとか珍コインなどと呼び、大事に保護しておくのだ。ほとんどお金のかからない、それでいてなかなかスリリングな趣味である。

 インド人にコイン収集という観念が希薄だと書いたが、それでも意外とインド人には外国のコインや紙幣を集めている人が多い。日本でも一時期流行したし、今でも収集している人は少なくないかもしれない。だが、昔の日本ではコイン収集とか切手収集とか言った場合、子供の趣味みたいなものだったと思うのだが、いつの間にかマニアとかプレミアとか変な言葉のオンパレードになってしまい、実態とはかけ離れた法外な値段がつくようになってしまった。インドにも、クラシック・カーやら美術品などのコレクションで世界有数の収集家(マニア)に数えられるインド人がけっこういる。だが、それらと比べると、多くのインド人のコイン収集は、一昔の日本と同じような、子供の趣味程度のものである。外国人に会った記念に何か外国のものをもらっておこう、ぐらいの気まぐれなものであることがほとんどだ。

 というわけで、インドを旅行していると、「日本のコインはないか」と聞いてくる人はかなり多い。その質問から始まる一定の会話パターンがあり、「ある」と答えると、「見せてくれ」と言い、見せると「俺にくれ」とか「売ってくれ」と要求がエスカレートしていく。日本人にとって何でもないコインが、インド人にとって貴重な宝物になる可能性は十分にある。もしお世話になったりしたインド人で、日本のコインに興味を示したなら、あげても悪くはないだろう。

 だが、僕にはひとつ気に食わないことがある。それは日本の貨幣に責任がある。ご存知の通り、現在日本の通常貨幣には1円、5円、10円、50円、100円、500円の6種類がある。その素材を見ると、1円貨幣は純アルミニウム製、5円貨幣は黄銅製(銅+亜鉛)、10円貨幣は青銅製(銅+亜鉛+すず)、50円貨幣、100円貨幣、旧500円貨幣は白銅製(銅+ニッケル)、新500円貨幣はニッケル黄銅(銅+亜鉛+ニッケル)である。一方、インドの貨幣で一般的に流通していると言えるのは、25パイサー、50パイサー、1ルピー、2ルピー、5ルピーの5種類である。既に25パイサー貨幣は流通頻度が極度に減少しているように思われる。10パイサー貨幣もあるにはあるが、巡礼地などの乞食集合地帯近くにある喜捨銭両替屋で目にするぐらいだ。素材は、10パイサー、25パイサー、50パイサー、1ルピーの貨幣が鋼鉄製、2ルピー貨幣と5ルピー貨幣は白銅製である。また、今は使われなくなったが、昔のインドの貨幣には、アルミニウム製のものや、青銅製のものがあった。

 こうして見ると分かるように、貨幣だけを見た場合、実は日本よりもインドの方が相対的にいい素材を使っている。つまり、日本の1円玉、5円玉、10円玉の素材は、インドでは時代遅れも甚だしいものなのだ。これが災いすることがある。

 旅行中、列車やバスで同席になっただけの人や、観光地で一瞬だけ出会った人たちなどから、前述の通り「日本のコインをくれないか」と頼まれる。たくさんあるし、小額のコインならいいか、と考えて、1円玉、5円玉、10円玉などを渡そうとする。すると突然、「こんなベーカール(役立たず)のコインなんていらねぇよ!」と怒られることがある。怒り出す人は稀だとしても、「こんなコインならいらない」と急に日本のコインに興味をなくす人は多い。「日本ではまだこんな幼稚なコインを使ってるのか」と、技術大国&経済大国として知られている日本の実態に失望する人もいる。「何でもいいからもらえるものはもらっておこう」と黙って受け取ってくれる人がいたらそれは幸いである。インド人は、アルミニウム製や黄銅製のコインを見るとイギリス植民地時代を思い出すのか知らないが、それらのコインを非常に軽視しているところがある。かといって、インド人にも何とか受けの良さそうな50円玉、100円玉、500円玉などをほとんど見知らぬ人にあげるのも、猫に小判、気が引ける。特にインドにいると、たとえ50円でも大金に思えてくるから尚更だ。ルピーと交換ならまだいいが、ただであげるとなると、やはり10円玉が上限か。賢い方法は、5円玉を見せて「ほ〜ら、穴が開いてて珍しいでしょ〜」と言って無理矢理あげてしまうことだが、そんな卑屈なことまでして自国のコインを何も知らないインド人に嫁入りさせてしまうのは虚しい。よって、僕は「日本のコインを持っているか」と聞かれた時点で、持っていようと持っていまいと、可哀想だが「持っていない」と会話をシャットダウンすることにしている。

 ただ、インド人の為替相場の無知さを利用して、円を使って一儲けすることもできると思われる。詳しくはちょうど1年前の、2003年7月26日(土)円とルピーの親善大使の日記に書いたが、インド人はルピーと外貨の換算相場について勘違いしていることが多い。ある国の貨幣がインドルピーでいくらになるかで、その国の経済力を測れると思っている。例えば現在1米ドルは46ルピーくらい、1ユーロは56ルピーくらい、英国の1ポンドは85ルピーくらいである。つまり、インド人からしたら、米国よりも欧州、欧州よりも英国の方が経済力があることになり、もっと言えば、米国よりも欧州、欧州よりも英国で働く方が、本国への仕送りは多くなると考える。全く間違った考えだが、インド人が多くイギリスへ移民したのは、もしかしたらこの勘違いがあったからなのではないかと密かに邪推している。逆に、同じ計算法で日本円をインド人的に考えると、1円は0.42ルピーにしかならず、日本はインド人にとって全く魅力のない出稼ぎ場所になってしまう。しかし、多くの場合、インド人は円の換算相場を知らない。相場を知らないまま彼らは日本人観光客に「日本のコインを売ってくれ」と言ってきているのだ。彼らは日本を金持ちな国だと思っているので、1円の価値は少なくとも10〜20ルピーはあると思っている。それを逆手に取ると、0.3ルピーぐらいしか価値のない1円玉を、数十ルピーでインド人に売りつけることも可能だと思われる。僕はそんなあくどいことはしたことがないが、今までの経験から、そういうことができそうな雰囲気だと感じた。上記の理由で1円玉、5円玉、10円玉を売りつけるのは難しいにしても、50円以上の貨幣なら何とかなるだろう。ただ、観光業などに従事しているインド人は、そういうことは全て知っているので、騙すことは難しいだろう。

 コインの話をしていたつもりが、なぜかインド人を騙す方法になってしまった・・・。とにかく、インド人の気まぐれなコイン収集に協力して、日本の貨幣を渡そうとすると、時々不快な気分になることがあるので気をつけましょう、という話。

7月27日(火) 清掃観

 27日付のタイムズ・オブ・インディア紙に以下のような記事が載っていた。全文和訳した。

公立高校の女学生たちが床掃除
 一見したところ、普通の公立高校のようである。女学生たちが中庭に整列して朝の礼拝を行っており、遅刻した者は隅で立っている。しかしながら、その裏では異常なことが行われている。北デリー、グル・テーグ・バハードゥル(GTB)ナガルの公立サルボーダヤ女学校では、毎日女学生に床掃除を行わせているのだ。

 床掃除の義務は出席番号順の持ち回りで学生に課せられている。他の学生たちが朝礼を行っている間、当番の学生は廊下や教室の床掃除をするのだ。

 同校の副校長、R.ミニ女史は、この決まりを学生の利己的利用のひとつとは考えていない。「人は清潔でいなければなりません。その上、我々は十分な数の床掃除人を雇っていません。そこで私たちは、学生たちに床掃除をさせ、自分たちの環境をきれいにさせようと考えたのです。」

 しかしながら、学生たちは彼女の考えに賛同していない。ある学生は、「私は当番の日が嫌で嫌で仕方ない。私たちは勉強しに学校に来ているのに、無理矢理掃除をさせられる。校長は、私たちの成績を下げたり、退学させたり、何でもすることができるから、反対することもできない」と語っている。

 学校は本当に学生たちに労働の重要さを教えようとしているのだろうか。床掃除はしばしば学生たちの懲罰にも使われているという。「よく遅刻する学生は、副校長室や、汚れたトイレの掃除をさせられる」とある学生は語る。

 教育指導役のラージェーンドラ・プラサード氏はこの問題についてこう語っている。「市内には930校の学校があり、私はその全てを見て回ることはできない。この問題についても私は初耳だったが、非常に不適切なことだと感じた。これは衛生事業の民営化に伴う掃除人の不足から起こった問題だ。既に100校でそれが始まっている。とにかく、この問題について調査してみる。」

 つまるところ、学校側が学生に掃除を強要したことにより、問題が発生している。・・・おそらく日本人には全く理解できない現象だろう。上の記事では、学生に掃除をさせようとするミニ副校長先生の発言が、日本人には一番正論に思えるのだが、記事全体を見ると、ミニ副校長先生を糾弾するような論調となっている。日本の小学校、中学校、高校などでは、生徒が学校の掃除をするのは当たり前であり、誰もそれに疑問を呈する者はいない。しかし、インドではそれが大問題に発展しうる。清掃は清掃を生業とするカーストが行う行為であり、もし上位カーストの者が清掃をしたなら、それは清掃カーストの仕事を奪う行為であるばかりか、自らを低カーストに貶める自殺行為になるのだ。よって、インドの一般の学校では、日本の学校のように清掃の時間などはない。過言かもしれないが、子供たちは教室を散らかせば散らかすほど、清掃人たちに仕事を与えることになり、つまりは善行を積んだことになるのだ。また、上の記事では、副校長先生が生徒に便所掃除をさせているという一節があるが、これは一番の大問題となる可能性もある。なぜなら、掃除人カーストの中でも便所掃除をする人々は最も低い身分の者であり、例えばスイーパー(掃き掃除をする人)は決して便所掃除をしようとしない。せっかくスイーパーを雇ったのに便所掃除をしてもらえず、結局自分で便所の掃除をする羽目になった日本人を僕は知っている。このように掃除人の中にも細分化されたカーストがあるが、これは日本人には到底理解できない習慣だ。だから、生徒に掃き掃除をさせた上に、便所掃除までさせたミニ副校長先生は、かなりの暴挙に出たと言っても過言ではない(もしかしたら彼女はキリスト教徒かもしれない)。・・・このように、インド人の衛生観念の低さは、上記のような独特のカースト思想によるところが大きい。この辺りのエピソードは、最近出版された山田和氏の著書「21世紀のインド人」(平凡社)に詳しい。

 一方で、僕個人の体験から、このようなインド人の清掃観は必ずしもインド人全体を支配しているものではないかもしれないと考えている。昔住んでいたガウタム・ナガルの家では、僕は掃除も洗濯も全て自分でこなしていた(現在は使用人を雇って、インド的善行を積んでいる)。当時は掃除をすることがインドでそんなに悪いこととは知らなかったし、何より節約して生きていたので、大家さんが「掃除人を手配してやろうか?」と言ってきても、「自分でするからいい」と断っていた。だんだんと自分で掃除することがインドではイメージの悪いことであると理解してきたが、それでも他人に掃除を任せると、物を盗まれたり、いろいろトラブルがありそうなので、ずっと1人でこなしていた。そんなある日、大家さんの家にハリヤーナー州の田舎から、大家さんのお母さんがやって来た。病気になったらしく、近くにあった全インド医科大学(AIIMS)で治療を受けに来ていたのだ。村の方言そのままでまくしたててくるお婆さんのヒンディー語は、まだインドに住み始めて間もなかった僕にはほとんど理解できないものだったが、それでも何となくコミュニケーションが取れていた。お婆さんは、僕の持っていた日本語の本を見て「これはウルドゥーかぇ?全く見たことない文字だねぇ」と言ったり、「日本ってのはバスで何時間くらいのところだい?」と聞いてきたり、数日間大家さんの家に顔を見せないと「どこいってたんだい、ずっと探してたんだよ」と変な心配をかけてくれたり、いきなりインドの田舎に迷い込んだようで楽しかったのだが、あるときお婆さんは僕が掃除や洗濯を自分でしていることを知って「偉いねぇ、1人で何でもやるなんて。私も村じゃあ何でも1人でやってるよ」と言っていた。・・・1人で何でもやることは偉いこと・・・この感覚は日本と全く同じである。インドの田舎からデリーにやって来たお婆さんにとって、身体を使う仕事を使用人にさせるデリーの生活は、やっぱり異質なものだったのかもしれない。確かに田舎では大家族制が当たり前であり、掃除も家の誰か(多くの場合女性だが)がやることがほとんどだろう。掃除を自分ですることが悪いことという、いかにも前時代的な考え方は、実はインドでも特に都市部で異常に発達したものではないかと思っている。

 ただ、やはりその都市部において、最近また清掃に関する概念は少しだけ変わってきているように思える。それは、マクドナルドなどのセルフ・サービスのファストフード店の普及と関係がある。上記で述べてきたカースト思想によれば、セルフ・サービスというのは全く考えられないものである。そもそも外食すること自体がインドでは新しい習慣なのだが、とにかくインドで食事をするということは、誰か給仕する人がいることが前提で行われるものである。自分で食べ物を取りに行ったり、後片付けを自分でしたりすることは、上流階級のインド人にとっては屈辱に近い行為のはず。しかし、マクドナルドなどのセルフ・サービスは欧米の文化と密接に結びついているため、逆にそれが「かっこいい」「オシャレ」と思われ、上流層のインド人にも容易に受け容れられているのだと思われる。日本のマクドナルドだと、食べ終わったら自分でトレイなどを片付けなければならないが、インドではまだまだトレイをそのままテーブルに残して去って行ってしまう人も多い。だから後片付けをする店員がフロアに待機しているのだが、それでも自分で後片付けをするインド人は少なからずいる。「自分で何でもする」という行為が、古い因習のタブーから、欧米のオシャレな文化として完全に価値転換される日が、インドでもやがて来るのではないかと思っている。そうなった場合、日曜大工などの独創分野や、ガーデニングなどの趣味分野が、有望なマーケットに急成長する可能性は高い。・・・だが、最後までタブーとして残るのは、やはり清掃に関する分野だと思われる。食後の後片付けくらいならまだ清掃の一番初歩的な段階だが、床掃除や便所掃除は、インド人から最も忌み嫌われる仕事である。現に、インドでは日本のように掃除機や清掃用品があまり普及していないし、TVコマーシャルでもその種の宣伝は少ないように思われる。清掃は清掃カーストのすることであり、そんなものに金をかける必要はないと考えられているのだろう。

 果たして、生徒に掃除をさせた学校がいけないのか、掃除もしようとしない学生がいけないのか、それともそのような人々を大量生産してしまったインドの文化がいけないのか・・・僕は問題提起だけして、これ以上の内政干渉・教育干渉・文化干渉には足を踏み入れないことにする。日本人の視点、世界の視点が全ての場合で正しいとは限らないからだ。あとはインド人が自分で決めることだろう。

7月27日(火) Asambhav

 今日はPVRアヌパムで新作ヒンディー語映画「Asambhav」を見た。題名の意味は「不可能」。監督はラージーヴ・ラーイ、音楽はヴィジュ・シャー。主演はアルジュン・ラームパールとプリヤンカー・チョープラーだが、脇役が非常に多く出演し、脇役俳優のオールスターキャストと言ってよい。ナスィールッディーン・シャー、シャラト・サクセーナー、ヤシュパール・シャルマー、ラージェーシュ・ヴィヴェーク、ムケーシュ・リシ、ミリンド・グナージー、モーハン・アガーシェーなどなど、個性的な脇役がたくさん登場する。登場人物が多いだけあって、ストーリーを追うのがけっこう難しい映画である。




アルジュン・ラームパール


Asambhav
 インド大統領(モーハン・アガーシェー)は、娘のキンジャル(ディッパーニター・シャルマー)と共に、余暇を過ごしにスイスのロカルノへやって来た。ところが大統領はマブロース(シャーワル・アリー)率いる庸兵団に拉致され、湖の中にあるブリッサーゴ島に娘と共に軟禁されてしまう。大統領は連絡手段を奪われて外部と連絡することができなかったが、キンジャルは何とかインド政府に一瞬だけ電話をすることに成功し、大統領拉致の報は政府上層部だけに知られることとなった。

 大統領拉致には多くの団体が関わっていた。主導していたのは、パーキスターンの諜報機関ISIのアンサーリー(ミリンド・グナージー)将軍であり、カシュミール独立を目指すパシュトゥーン人、ユザーン(ムケーシュ・リシ)の率いるテロ集団アル・ハマスが実行部隊だった。アル・ハマスはマブロース庸兵団を使って大統領を拉致するが、その見返りとしてマブロースは5千万ドルを要求していた。その金を工面するため、麻薬密輸組織を率いるダブラル(アリフ・ザカリヤー)と、スイスに住むインド人億万長者、サミール(ナスィールッディーン・シャー)が利用された。まず、ダブラルはサミールの経営するバーで踊る踊り子をインドでスカウトした。それがアリーシャー(プリヤンカー・チョープラー)だった。アリーシャーは音楽器材と共にスイスへ渡ったが、その器材の中には大量のドラッグが隠されていた。アンサーリーらは、そのドラッグをスイスのマフィアに売り、5千万ドルの現金を手にした。あとは、その現金をマブロース庸兵団に渡し、大統領の身柄を引き受ければ、カシュミール独立計画が実現するはずだった。

 ところが、インド政府は特殊部隊のアーディト・アーリヤ(アルジュン・ラームパール)をスイスに送り込んでいた。アーディトは表向きはインディア・タイムズ誌の記者として、相棒のバトナガル(ジャミール・カーン)と共にインド大使館、大統領、サミールらと接触した。その過程でアーディトはアリーシャーとも出会う。アリーシャーと共にスイスに来た友人のシルパーは、音楽器材の中のドラッグなどに気付いてしまったため、アンサーリーに殺されてしまっていた。それを目撃したアリーシャーはインドに逃げ帰ろうとしていたのだが、偶然アーディトと出会い、彼に助けてもらうことになる。

 アーディトは単身ブリッサーゴ島に忍び込み、大統領の娘キンジャルを救出する。ところが同時に、アンサーリーの本当の計画を知ったサミールもブリッサーゴ島に潜入していた。サミールは大統領を誘拐し、アンサーリーらに5千万ドルを要求する。アンサーリーは仕方なくサミールに5千万ドルを払い、大統領を取り戻す。

 一方、スイスのインド大使館の内部にテロリストと密通している者がいることが明らかになった。サミールと裏でつながっていた大使館員のランジート(ヤシュパール・シャルマー)は、自分の首が飛ぶことを恐れたが、実はテロリストと内通していたのは、サリーン大使(シャラト・サクセーナー)と秘書のブラール(トーラー・カスギル)だった。それを突き止めたアーディトは2人を追うが、その過程で罠にはまり、アンサーリーに捕まってしまう。それでもアーディトは窮地を脱し、アンサーリーやユザーンらを始末して大統領を救出する。また、5千万ドルを手に入れたサミールは、サリーン大使やマブロースたちの襲撃を受けるが、何とか彼らを一掃する。こうして、国際的テロ網が絡んだ大統領誘拐事件は解決したのだった。

 複雑に絡み合ったストーリー、ほぼ全編スイス・ロケ、個性的俳優陣、豪華なミュージカル・シーンと、野心的なアクション大作ではあったが、あまりに登場人物が多すぎて、しかも展開がめまぐるしいため、消化不良気味。敢えて見所を挙げるならば、アルジュン・ラームパールとナスィールッディーン・シャー、そしてプリヤンカー・チョープラーだろう。

 アルジュン・ラームパールはモデル出身のハンサム男優だが、いい作品に恵まれなかったためか、2001年のデビュー以来しばらくくすぶっていた。日本人受けする二枚目な顔やスラッとした体格はいいとしても、声が太すぎて何をしゃべってもセリフ棒読みっぽく、身体の動きが硬くてダンスが得意ではない印象が強かった。よって、モデルとしては成功しているとしても、俳優としては扱い所が難しいキャラクターだった。デビュー作からアクション、ロマンス、コメディーなど各分野に挑戦したが、どれもイマイチしっくりこなかった。ところが、「Tehzeeb」(2003年)で演じた文学者役はなかなか彼に似合っており、ダンディーな役で攻めていくといいことが分かった。「Asambhav」では、007シリーズのジェームズ・ボンドのような、ダンディーで女に優しい頼れる男、という感じの役で、アルジュンの個性をさらに磨き上げることに成功していた。アルジュンのファンは必見の映画だと言えるだろう。

 アルジュンの演技もよかったが、やはりインド随一の演技派男優、ナスィールッディーン・シャーは別格だ。成り行きでインドを救う億万長者という憎い役を演じていた。アンサーリーたちから5千万ドルを奪うと決めたときの表情がすごいよかった。

 元ミス・インド&ミス・ワールドのプリヤンカー・チョープラーも以前にも増して大女優の卵のオーラが出てきた。今回はボンド・ガールみたいな役柄で、いくつかのミュージカル・シーンでゴージャスな踊りを披露していた。ただ、まだ高度な演技を要求される役はあまりこなしていない。見た目の華やかさと踊りのうまさがセールス・ポイントになっているだけ、つまり映画の飾りに近い役柄が多いので、もっと演技を磨いて、真の大女優に躍進してもらいたいと思う。

 実は上記の3人はどれも僕の好きな俳優なので、個人的に俳優の演技やダンスを楽しむことができた。

 あらすじの上には脇役陣の名前をズラッと並べたが、その内特筆すべき俳優を挙げていく。サリーン大使を演じたシャラト・サクセーナーは、お父さん役、悪役、警察官役など、マッチョで威厳のある役を演じることが多い。最近の映画では、「Tumko Na Bhool Paayenge」(2002年)で演じたお父さん役が名演だった。大使館員ランジートを演じたヤシュパール・シャルマーは、「Lagaan」(2001年)で裏切り者ラーカーを演じた男優である。悪役、というより、裏切り者役を演じることが非常に多く、彼が出てくるだけで、「あ、こいつが裏切り者だな」と分かってしまうほどだ。「Asambhav」でも彼は裏切り者役だったが、本当の裏切り者は別にいたので、そういう観客の心理を逆手に利用したと思われる。パンディト・ジーを演じたラージェーシュ・ヴィヴェークも「Lagaan」に出演していた。一度見たら忘れない、ヒゲもじゃのサードゥ、グランを演じた男優である。アル・ハマスの指導者、ユザーンを演じたムケーシュ・リシも、シャラト・サクセーナーと同じく、善玉悪玉問わず、マッチョで威厳のある役を演じることが多い。「Indian」(2001年)ではテロリスト役で出演し、主役のサニー・デーオールと死闘を繰り広げた。ISIのアンサーリー将軍を演じたミリンド・グナージーは、何と言っても「Devdas」(2002年)のにっくきカーリーバーブー役が有名だ。チャンドラムキーに求婚し、断られると彼女の邪魔をするという、男の風上にも置けない行為をしていた。彼の独特の含み笑いは、いやらしい男役にピッタリである。大統領を演じたモーハン・アガーシェーは、役者の他に、精神病医かつプネーのインド映画学校の校長でもある。1970年代から多くの映画に出演しており、「Gandhi」(1982年)にも出ている。個人的には「Paap」(2003年)のお父さん役が一番印象に残っている。こうして見てみると、インド映画を脇から支える俳優大集合の「Asambhav」は、脇役俳優図鑑みたいな映画である。

 監督の趣味なのか何なのか知らないが、映像の特殊効果がよく入っていた。例えば画面が頻繁に分割されたり、人物の動きに残像が入ったりしていた。しかし、それらの効果は効果的に用いられているとは思えなかった。目障りだったと言ってもいい。

 言語的に面白かったのは、ユザーンやアル・ハマスのグループが話していたヒンディー語である。彼らは、アフガニスタンやパーキスターンに多く住むパシュトゥーン人とのこと。よってパシュトゥーン語訛りのヒンディー語を話すのだが・・・例えば「〜です」という意味のヒンディー語のコピュラ動詞「ハェ」を、彼らは「ホイ」としゃべっていた。パシュトゥーン人がヒンディー語を話すと本当にそうなるのかは知らないが、癖になりそうな響きだった。しかし、パシュトゥーン人の集団がなぜカシュミール独立を夢見るのだろうか・・・。

 俳優を見るためなら、「Asambhav」は十分見る価値のある映画である。しかし、ストーリーやアクションを楽しもうと思ったら・・・あまり期待しない方がいいかもしれない。特にこの複雑なストーリーは、言葉が分からないと理解は「Asambhav(不可能)」だと思われる。

7月29日(木) アテネ五輪出場のインド人選手

 8月13日から開催されるアテネ・オリンピックが、果たしてインドでどれくらい盛り上がるか分からない。一応、TV、新聞などでオリンピックに関する特集が組まれており、インド人たちを盛り上げようとしているが、やはり一般のインド人が一番気になるスポーツはクリケットであり、現在スリランカで開催中のアジア杯が連日関心を集めている。6月10日にはデリーで聖火リレーが行われたが、あれもオリンピックの前哨戦だったから盛り上がったと言うよりは、映画スターなどのセレブリティーたちが走ったから盛り上がったと言える。クリケットがオリンピック競技にあれば話は別なのだが・・・。唯一、インドでクリケットに次いで人気のあるホッケーだけは注目を集めると思われる。過去、インド人個人選手がオリンピックで獲得したメダルの数はたったの3つ。ホッケーは過去に8回金メダルを獲得しているが、最後の金メダルは1980年のモスクワ五輪(多くの国が参加ボイコットしたことで有名)である。

 先日、アテネ五輪に出場する76人のインド人選手が発表された。29日付けのタイムズ・オブ・インディア紙に掲載されていたインド人選手最終選考名簿は以下の通りである。カタカナ表記には、メーナカー・ガーンディー著の「Book of Hindu Names」(Penguin Books India 1992)などを参考に細心の注意を払ったが、いくつか曖昧なものもある。

アーチェリー男子
マージー・サワーイヤーン
サティヤデーヴ・プラサード
タルンディープ・ラーイ
アーチェリー女子
ドーラー・バナルジー
スマンガラー・シャルマー
リーナー・クマーリー
陸上男子
アムリトパール・スィン(走り幅跳び)
ビーヌー・マシュー(400m走)
バハードゥル・スィン(砲丸投げ)
ヴィカース・ゴーウダー(円盤投げ)
アニル・クマール(円盤投げ)
陸上女子
アンジュ・ボビー・ジョージ(走り幅跳び)
JJショーバー(七種競技)
マンジート・カウル(400m走&4×400mリレー)
チトラ・K・ソーマン(400m走&4×400mリレー)
ニーラム・J・スィン(円盤投げ)
スィーマー・アンティル(円盤投げ)
ハルワント・カウル(円盤投げ)
ボビー・アロイシス(走り高跳び)
ソーマー・ビスワース(七種競技)
サラスワティー・セーハー(200m走)
ラージウィンダル・カウル(4×400mリレー)
KMビーナーモール(4×400mリレー)
Sギーター(4×400mリレー)
サーガルディープ・カウル(4×400mリレー)
バドミントン男子
アビン・シャーム・グプター
ニキル・カネートカル
バドミントン女子
アパルナー・ポーパト
ボクシング男子
アキル・クマール(51kg)
Dプラサード(54kg)
ヴィジェーンダル(64kg)
ジテーンダル・クマール(81kg)
ホッケー男子
デーヴェーシュ・チャウハーン
アドリアン・デ・ソウザ
ディリープ・ティルキー
ウィリアム・ザルコ
ハルパール・スィン
イグナース・ティルキー
アルジュン・ハラッパー
ヴィレーン・ラズキンハ
ヴィクラム・ピッレー
サンディープ・スィン
ガガン・アジト・スィン
プラブジョート・スィン
ディーパク・ソーンクラー
ダンラージ・ピッレー
バールジート・スィン
アダム・シンクレア
柔道男子
アクラム・シャー(60kg)
漕艇男子
PTパウローズ(シングル・スカル&混合)
射撃男子
アビナヴ・ビンドラー(10mAR)
マンシェール・スィン(トラップ)
マーナヴジート・スィン・サンドゥー(トラップ)
ラージヤヴァルダン・スィン・ラトール(ダブル・トラップ)
ガガン・ナーラング(10mAR)
射撃女子
アンジャリー・バーグワト(10mAR&50mライフル3ポジション)
スマー・シルール(10mAR)
ディーパーリー・デーシュパーンデーイ(50mライフル3ポジション)
競泳女子
シカー・タンダン(50m/100m自由形)
テニス男子
リーンダー・パエス(ダブルス)
マヘーシュ・ブーパティ(ダブルス)
卓球男子
アチャンタ・シャラト・カマル
卓球女子
マウマー・ダース
重量挙げ女子
Nクンジャラーニー・デーヴィー(48kg)
Tサナマチャ・チャヌ(53kg)
プラティマー・クマーリー(63kg)
カルナム・マッレーシュワリー(63kg)
レスリング:自由形男子
ヨーゲーシュワル・ダット(55kg)
スシール・クマール(60kg)
ラメーシュ・クマール(66kg)
スジート・マン(74kg)
アヌージ・クマール(84kg)
パルウィーンダル・スィン・チーマー(120kg)
レスリング:グレコ・ローマン・スタイル男子
ムケーシュ・カトリー(55kg)
ヨット男子
マーラヴ・シュロフ(二人乗りディンギー49er)
スミート・パテール(二人乗りディンギー49er)

 上の表を見てみるといくつか面白いことに気付く。まず、出場選手76人中、女子選手の占める割合がけっこう高いことだ。男子選手は49人、女子選手は27人だが、ホッケー男子の選手が16人含まれていることを考えれば、女子選手の数は割合からして少なくない。スポーツに対して意識が低いインドにおいて、女性のスポーツ選手がけっこういることは驚きである。また、インド人の名前からはその人の宗教を大体推し測ることが可能だが、その観点から上記のスポーツ選手を見てみると、スィク教徒が多いことが分かる。名前に「スィン」「カウル」が入ったりした場合、スィク教徒であることが多い。スィク教徒の人口はインドの全人口の2%ほどだが、スポーツ選手の中にはスィク教徒の占める割合が非常に多い。これは、スィク教の職業選択の自由さと、勤労を重視する宗教的戒律と無縁ではないだろう。また、同じような理由から、キリスト教徒だと思われる名前も多く見受けられる。ヒンドゥー教徒も少なくないが、イスラーム教徒のスポーツ選手らしき名前がほとんど見当たらないのは気になるところだ。

 競技別に見てみると、アーチェリー、陸上、射撃、重量挙げ、レスリングなどが目立つ。日本人としては、柔道に出場するインド人選手がいることに注目したい。

 クリケット以外、インドのスポーツ界にはあまり詳しくないのだが、この中でメダルに最も近い、注目の女子選手を2人ピックアップする。まずは、陸上女子走り幅跳びのアンジュ・ボビー・ジョージ。アンジュは1977年ケーララ州の片田舎生まれのキリスト教徒(ジャコバン派)で、幼少の頃からスポーツが得意な少女だった。姉や父の理解のおかげで地道に才能を伸ばし、地元のスポーツ大会で活躍していたアンジュは、13歳から本格的に陸上選手として訓練を始め、大学時代に走り幅跳びを専門とするようになった。大学では経済学を学び、首席で卒業、税務局に就職した。また、1996年に三段跳び選手のロバート・ボビー・ジョージと出会い、4年後に結婚、同時にカトリックに改宗する。ボビーはアンジュのコーチともなり、公私共に夫婦二人三脚の生活が始まるかと思いきや、結婚式直前にアンジュは負傷。2000年のシドニー五輪は出場を諦める。そのまま引退も考えたアンジュだったが、夫の励ましもあってスポーツを続ける決意をし、見事復活。2002年のマンチェスター英連邦大会で銅メダル、同年の釜山アジア大会で金メダルを獲得する。2003年のパリ世界陸上大会でも銅メダルを獲得し、国際的な陸上競技会でメダルを獲得した初めてのインド人選手となった。現在のアンジュの自己最高記録は、金メダル射程圏内の6.82m(インド最高記録であると同時に、女子日本記録と同じ)。まだ2人の間に子供はいないようだが、アンジュは「アテネ五輪の後かな」と言っているらしい。彼女のエピソードを読んでいると、彼女のスポーツ人生は、先天的な才能に加え、家族の温かい支援、自身の絶え間ない努力、夫婦二人三脚の取り組みなどに支えられており、古き良き純粋なスポーツ選手という感じがして、無性に声援を送りたくなる。




アンジュ・ボビー・ジョージ
よく見るとトヨタがスポンサー


 射撃のアンジャリー・バーグワトもメダル獲得を期待されている女子選手の1人だ。1970年ムンバイー生まれ、現在34歳のアンジャリー・ヴェードパータク・バーグワトは、「マハーバーラタ」に登場する弓の名手アルジュンになぞらえられ、「インドのアルジュン」と呼ばれている射撃選手だ。アンジャリーが射撃を始めたきっかけは偶然である。陸軍士官学校の生徒だったアンジャリーは、1988年に行われた大学対抗の射撃大会に、病気になった友人の代わりに出場して、初めて射撃を体験した。その大会の結果は当然のことながら散々だったものの、すっかり射撃の装備やスタイルに惚れ込んでしまった彼女は、元々柔道や空手などのマーシャル・アーツに興味があったにも関わらず、コーチについて本格的に射撃の練習を始めた。彼女は急速に才能を開花させ、同年の国内大会で銀メダル、1990年の国内大会で金メダルを獲得するまでとなった。やがてアンジャリーは国際大会にも出場するようになり、1998年のクアラルンプール英連邦大会の10mエアーライフルでは金メダルを獲得した。アンジャリーは2000年のシドニー五輪に出場したが、当時はまだ国際的にはノーマークの選手だった。ところが彼女は初めて出場したオリンピックで決勝戦まで勝ち残り、インドは俄かにメダル獲得への期待に沸いた。結局彼女はプレッシャーに負けて7位に終わったが、その後の2002年のマンチェスター英連邦大会で4つの金メダル、同年のワールド・カップと釜山アジア大会でも銀メダルを獲得し、また同年ミュンヘンで行われた男女混合「チャンピオンの中のチャンピオン」射撃大会でも優勝を果たした。それらの輝かしい功績を讃えられ、アンジャリーはインド人スポーツ選手にとって最大の栄誉である、ラージーヴ・ガーンディー・スポーツ賞を授与された。2000年に彼女は結婚をしており、やはり夫からの厚い支援を受けているようだ。今までのメダル獲得数は、金メダル23個、銀メダル18個、銅メダル4個とインド人スポーツ選手の中でも飛び抜けており、今や世界一の射撃選手とも言われるアンジャリーは、アテネ五輪の射撃女子10mエアーライフルで、インド人射撃選手初の五輪メダルを狙う。射撃は高度な精神力が要求されるが、アンジャリーはその精神力をインドのお家芸であるヨーガで鍛えているようで、インド代表のスポーツ選手としてイメージ通りなのが面白い。現在、アンジャリーは中央産業治安部隊(CISF)所属。射撃はインドではマイナーな競技で、伝統的に男のスポーツであり、射撃選手は王族や軍人によって占められていた。ところが一般的な家庭に生まれたアンジャリーの活躍により、インド人射撃選手に俄然注目が集まるようになり、今回のアテネ五輪には男子5人女子3人の合計8人が出場する。




アンジャリー・バーグワト


 人口10億の国が過去に五輪でメダル3個というのは寂しい。何かとインドと比較される中国がオリンピックで多くのメダルを獲得していることや、インドよりも貧しい国のスポーツ選手でもオリンピックでメダルを獲得している事実から、先進国より設備が悪いという言い訳はもはや通用しない。上で紹介した2人のインド人スポーツ選手の例を見ていると、彼女たちは持って生まれた才能に加え、それを育て伸ばしてくれる環境に恵まれていたことが分かる。この広大なインド亜大陸には、まだまだ多くの天才的スポーツ選手が埋もれているように思えてならない。クリケットだけでなく、他の多くのスポーツを満遍なく振興してやれば、インドは瞬く間にスポーツ大国になれる気がする。とりあえず今のインドにとって、アテネ・オリンピックでひとつでもメダル獲得をすることが、今後のスポーツ振興のためにも最重要だ。

7月30日(金) Mujhse Shaadi Karogi

 今日から公開の新作ヒンディー語映画「Mujhse Shaadi Karogi」をPVRアヌパムで鑑賞した。「Mujhse Shaadi Karogi」とは、「僕と結婚してくれないかい」という意味。監督は、「Biwi No.1」(1999年)「Kyo Ki... Main Jhuth Nahin Bolta」(2001年)などのコメディー映画で有名な「コメディーの帝王」デーヴィッド・ダワン。音楽はサージド・ワージド。キャストは、サルマーン・カーン、アクシャイ・クマール、プリヤンカー・チョープラー、アムリーシュ・プリー、サティーシュ・シャー、ラージパール・ヤーダヴなど。アムリター・アローラーや、「Kaanta Laga」のミュージック・ビデオで一躍有名となったシェファーリー・ジャリーワーラーなどが特別出演。この他、あっと驚く人物も登場するが、それは後述。




アクシャイ・クマール(左)
プリヤンカー・チョープラー(中)
サルマーン・カーン(右)


Mujhse Shaadi Karogi
 長年好きだった女の子(アムリター・アローラー)にふられたサミール(サルマーン・カーン)は、心機一転するため、ムンバイーからゴアにやって来た。ゴアのビーチでライフガードの仕事に就いたサミールは、ファッション・デザイナーのラーニー(プリヤンカー・チョープラー)と出会って一目惚れする。仲良くなった占い師のラージ(ラージパール・ヤーダヴ)の助けを得てラーニーにお近づきになるサミールだったが、間違いから彼女の父親で退役軍人の大佐(アムリーシュ・プリー)を思いっきり殴ってしまう。何とか許してもらったサミールだが、その後もやることなすこと全てが裏目に出てしまい、大佐に目を付けられるようになる。

 一方、サミールが住んでいた家に同居人が入ってくる。彼の名前はサニー(アクシャイ・クマール)。サニーもラーニーに一目惚れしてしまったため、サミールとサニーは彼女を巡って激しいバトルを繰り広げることになる。特にサニーはサミールの足を引っ張ると同時に、大佐に気に入られて、サミールを一歩も二歩もリードする。

 サミールの祖母がゴアにやって来たことにより、さらに話はこんがらがる。サミールが大佐の妻を誘惑しようとしていると勘違いされ、ラーニーも遂に愛想を尽かす。また失恋してしまったサミールはゴアを去ることを決意するが、サニーがラーニーと結婚することを知って、やけくそになる。そのときちょうど、ゴアではインド対パーキスターンのクリケット親善試合が行われており、大佐の家族も観戦に来ていた。サミールはクリケットのフィールドに乱入し、多くの観衆の前で、ラーニーに「オレと結婚してくれ!」と叫ぶ。

 実は、サニーはサミールの幼馴染みアルンだった。少年時代にアメリカへ移住したアルンは、インドに戻って来ると同時にサミールの家を訪れたが、彼はゴアに去って行ってしまった後だった。アルンはサミールの恋を成就させるためにサニーと名を偽ってサミールの同居人となって、いろいろ工作をして来たのだった。アルンはラーニーに、サミールが今まで彼女のためにして来た隠れた努力を明かす。

 大佐の了承も得たラーニーは、そのままフィールドに駆け出し、サミールと抱き合う。インド対パーキスターンの試合を見に来ていた観衆の拍手喝采を浴びたサミールは、喜びと共にマイクを放り投げる。しかし、そのマイクは大佐の頭に命中するのだった・・・。

 間違いなく今年最高のコメディー映画のひとつになるだろう。恋の三角関係という主題は陳腐だし、ストーリーの整合性は少なかったが、監督の才能なのだろうか、随所で爽快に爆笑させてもらった。アクション男優というイメージの強いアクシャイ・クマールが、本格的にコメディー映画に挑戦したのも目新しかった。

 まずは主人公サミールの少年時代が描かれ、親友アルンも登場するが、そこから話はすぐにサミールの青年時代へと以降する。サミールは信心深くて素直な性格なのだが、怒りに任せて暴力を振るう癖があり、そのせいで長年恋焦がれてきた女の子にもふられてしまう。人生をやり直すため、サミールは住み慣れたムンバイーを離れて、ゴアのライフガード会社の経営者となる。サミールが借りた部屋の大家は、頭に受けた傷が元で、日によって盲目になったりオシになったりツンボになったりする爆笑キャラだった(大家を演じたのは、デーヴィッド・ダワン監督自身だと思われる)。サミールは向かいの家に住むファッション・デザイナーのラーニーに一目惚れするが、その父親の大佐とはどうも馬が合わなかった。道で子供をはねた車の運転手を殴ったら、不幸にもそれがラーニーの父親だったのがその発端で、ボールを蹴り上げたら大佐に当たり、シャンペンの栓を開けたら、その栓が大佐の母親の遺骨が入った壺にヒットして割れてしまったり、バイクで大佐をはねてしまったり・・・。ミスを犯すごとに、サミールの元からラーニーが遠のいていくかのようだった。決定的だったのはサニーの登場である。友人の占い師ラージは、サミールの部屋にシャニ(土星を象徴する神様で、不吉とされる)が現れると予言するが、その予言通り、サニー(シャニとサニーの音の類似に注目)がサミールの同居人となる。サニーもラーニーに一目惚れしてしまい、事あるごとにサミールの恋を邪魔する。特に、大佐のかわいがっていた犬、トミーを誘拐して、その犯人をサミールにしてしまうところなんかは爆笑ものだ。しかし実はサニーはサミールの幼馴染みのアルンで、サミールの恋を助けるために、また彼の恋を試すために、全てのことをしていたのだった。最後、クリケットの印パ親善試合という大舞台で、サミールは公衆の面前でラーニーにプロポーズをする。

 いくつか突っ込みどころがあった。サニーに誘拐されたトミーはどうなったのか?サミールに「半径500m以内に近づかないで」と言うまで彼のことを嫌っていたラーニーが、手品師の魔術にかかってサミールのことを惚れるようになるというシーンがあったが、一応の恋愛映画でそんな反則技を使っていいのか?サニーはサミールの恋のキューピッドになるためにやって来たというのに、邪魔しすぎではないのか?ラージの双子の兄の率いる暴走族が突然サミールを「ボス」と呼び出すのは唐突すぎでは?・・・などなど。

 近年スキャンダルの渦中にいたサルマーン・カーンは、心なしかスクリーン上でますます「腕っ節は強いが根はいい人」を演じることが多くなったような気がする。自慢の二枚目顔と筋肉は衰えておらず、危機的だった前髪の生え際もいくらか回復したように思えた(カツラか?)。踊りもうまい。しかし、助演のアクシャイ・クマールの好演に終始押され気味だったことは否めない。今回のアクシャイは、登場シーンでヘリコプターにぶらさがって登場したり、モーターボートの舳先に座って踊ったりと、自慢のスタントなしのアクションも魅せ、主役を食っていた。助演男優賞を狙えるかもしれない。

 最近注目のプリヤンカー・チョープラーは、2人の男から結婚を迫られる美女の役を魅力的に演じ、ますます大女優のオーラが湧き出てきた。敢えて大女優と言わないのは、彼女に任されるのはあまり演技力を要しない役ばかりだからだ。果たして演技力がないからそうなのか、それとも監督が彼女に多くのことを要求していないからそうなのか、今のところ分からない。このままだと初期のアイシュワリヤー・ラーイのように、「そこにいるだけでOK」という客寄せパンダ的女優になってしまう恐れがある。だが、若手女優の中では頭ひとつ抜きん出たと言っていいだろう。

 脇役陣では、アムリーシュ・プリーがよかった。「Dilwale Dulhania Le Jayenge」(1995年)で演じたような超恐いお父さん役だが、それにうまくコメディー色を混ぜ、映画を面白おかしくしていた。アムリーシュが演じた大佐は、1961年のゴア戦争で活躍した退役軍人。ゴア、ダマン、ディーウなどはインド独立時まだポルトガル領だったが、インド政府が武力で併合した。

 映画中、いくつか面白い仕掛けがあった。例えば、大ヒット曲「Kaanta Laga」のパロディー。「Kaanta Laga」は元々ラター・マンゲーシュカルが歌ったオールディーズだが、「DJ Doll Remix」というアルバムに入っている「Kaanta Laga」はそのリミックスである。リミックス版の「Kaanta Laga」のプロモーション・ビデオは非常にエロチックで、一時期「音楽ビデオの性描写も映倫のような機関で規制すべき」という議論が巻き起こったほどだ。そのビデオの中でセクシーな踊りを踊って一躍時の人となったのがシェファーリー・ジャーリーワーラーだ。特に、シェファーリーが左胸のかなり際どい場所に、ディスコの入場スタンプを押させるところがエロチックだった。「Mujhse Shaadi Karogi」の中で、そのプロモーション・ビデオのパロディー・ダンスシーンがあり、シェファーリー自身がアクシャイ・クマールらと踊りを踊っている。

 しかし一番のサプライズは、最後のクリケット印パ戦シーンだ。インド・クリケット界の大御所カピル・デーヴを筆頭として、ハルバジャン・スィン、ムハンマド・カイフ、イルファーン・パターンなど、実物のクリケット選手が登場していて驚いた。インド映画にクリケット選手が出演したのは、これが初めてではないだろうか?

 ミュージカル・シーンの踊り振り付けは全てファラハ・カーンが担当し、どれも出色の出来。サージド・ワージドの音楽も軽快で心地よく、「Mujhse Shaadi Karogi」のミュージカル・シーンは見ても聞いても楽しい。「Jeene Ke Hain Chaar Din」の踊りで、股の間にタオルを通してゴシゴシするところが面白かった。他にパンジャービー風の「Aaja Soniya」、歌詞がいい「Laal Dupatta」などが印象に残った。「Laal Dupatta」で出てきた四角形の池とガートは、「Main Hoon Na」(2004年)の「Tumese Milke Dil Ka Jo Haal」のミュージカル・シーンにも出てきたような気がする。

 「Mujhse Shaadi Karogi」は公式通りの典型的インド映画で、「マサラ・ムービーとは何ぞや」と思っている人には最適の映画だろう。

7月31日(土) インドの五輪の歴史

 7月29日(木)の日記で、インドは過去に3つのメダルを取ったことがあると書いたが、その3つのメダルとインドの五輪の歴史について、もう少し詳しく調べてみた。

 インドがオリンピックに公式に参加したのは1928年アムステルダム大会だが、その前にインド国籍としてオリンピックに参加してメダルを獲得した人物がいた。ノーマン・プリッチャードという名前で、1900年のパリ大会において、200m走と200mハードル(現在廃止)で銀メダルを獲得した。当然のことながら、1900年にはインドはまだイギリス領であり、ノーマンはインド生まれのイギリス人だった。ノーマンはどうも本業は役者であり、メダル獲得後はハリウッドへ渡ったらしいがその後の詳細は分からない。イギリスは、ノーマンの獲得した2枚の銀メダルを、インドのものではなく、イギリスのものとして認めるよう訴えたことがあるらしい(その前に大英博物館所蔵の盗品を旧植民地に返せ!)。

 ノーマン以後、インドは五輪の歴史からしばらく消えるが、1920年アントワープ大会において、実業家のドーラブジー・ターターが4人の陸上競技選手と2人のレスリング選手を私費でオリンピックに送り込んだ。彼らの結果がどうだったのかは不明で、1万メートル走に出場したPFチャウグレーが19位だったことが分かっただけだ。1924年パリ大会にもインド人選手は8人参加したようだが、こちらの詳細も不明である。1927年にはインド五輪協会が発足した。

 1928年アムステルダム大会で、インドは初めて公式に五輪に選手を送り込む。このとき、インドのホッケーチームは金メダルを獲得し、以後インドには「五輪=ホッケー」という図式が成り立つようになる。金メダルを獲得したホッケーチームだったが、まだ植民地だったこともあり、資金調達には苦労することが多かった。1932年ロサンゼルス大会への出場資金も揃わず、藁にもすがる思いでインド・ホッケー協会はマハートマー・ガーンディーに援助を求めたという。ところが、ガーンディーの答えはそっけなかった。「ホッケー?何だそれは?」ガーンディーはあんまりスポーツに興味がなかったのだろうか・・・。ガーンディーに見放されたホッケーチームだったが、何とか資金を調達することができ、ロサンゼルス五輪でも見事金メダルを獲得した。その4年後の1936年ベルリン大会でもインドは金メダルを獲得。当時のインドのホッケーは世界最強だった。第二次世界大戦のせいでオリンピックは2回中止されるが、独立後すぐの1948年ロンドン大会では、インド代表はイギリス代表を決勝戦で撃破し、国中が狂喜したという。その後、1952年ヘルシンキ大会、1956年メルボルン大会でもインドは金メダルを獲得したが、1960年ローマ大会では決勝戦でパーキスターンに破れ、銀メダルに終わった。インドは1964年東京大会の決勝戦でパーキスターンにリベンジを果たし、再び金メダルを獲得するも、1968年メキシコ大会、1972年ミュンヘン大会では銅メダルと低迷した。多くの強豪がボイコットした1980年モスクワ大会でインドは再度金メダルを手にするものの、これを最後にインドのホッケーは暗黒時代に入り、メダルからすっかり遠ざかってしまった。また、ホッケーの低迷と共に国内のホッケー人気も急速に後退し、代わりに1960年代頃からクリケットが国民的スポーツに急浮上したという。2004年アテネ大会では、「黄金時代よ、もう一度」ということで、ホッケーの金メダルが熱望されている。

 ざっとホッケーの歴史だけを見てしまったが、ホッケー以外の種目などについてもう一度インド独立時まで時を遡って見てみる。インド独立後初めての五輪となった1948年ロンドン大会は、インドの国歌が初めて国際的な場で流された、記念すべき大会となった。言わば、この五輪から真の意味でのインドの五輪への挑戦が始まるわけだが、ロンドン五輪ではホッケーが金メダルを獲得したものの、それだけが明るい話題だった。当時、実はインドにはホッケーの他に金メダルを有望視されていた選手がいた。インド出身、当時19歳の天才的陸上選手、ヘンリー・リベロは、3段跳びで金メダル確実と評判だった。ところがウォーミング・アップ不足により、ヘンリーは決勝戦で肉離れを起こしてしまい、そのまま担架で運び出されて独立インド初の個人種目金メダルの夢は水の泡となってしまった。

 インドが独立後初めて個人種目で金メダルを獲得したのは、1952年のヘルシンキ大会だった。競技はレスリング・フリースタイルのバンタム級57kg。インドには元々クシュティーという相撲があり、その関係でレスリングが独立インド初の個人種目メダル獲得競技となったのだろう。力士の名前はカーシャバ・ジャーダヴ。マハーラーシュトラ州サーターラー近くのゴーレーシュワル村で生まれたカーシャバ・ジャーダヴは、レスラーの父を持ち、幼い頃からレスリングに親しんできた。10歳の頃にアカーラー(道場)に入門し、すぐに道場一の力士に成長した。コーラープルのマハーラージャーの後援を得たカーシャバは、1948年ロンドン五輪に出場したが結果は残せなかった。再度1952年ヘルシンキ五輪にも出場したが、このときのカーシャバは、家族総出で近隣の村々を回って集めた寄付金で渡航したという。この五輪においてカーシャバは、独立インド初の個人種目のメダルとなる銅メダルを獲得する(このとき、日本の石井庄八が金メダルを取っている)。ところがカーシャバの銅メダルは当時のインドで全く注目されず、ヘルシンキから帰って来た彼の人生は何の変化もなかった。1955年、カーシャバは警察官に就職するものの、22年間昇進なしという日陰の生活を送る。彼は1982年に引退するが、1984年にはバイク事故であっけなく死亡してしまう。近年インドで「インド人初のメダリスト」カーシャバの再評価が行われ、2002年にインド政府は彼にスポーツ選手の名誉賞であるアルジュナ賞を授与した。今年の5月にマハーラーシュトラ州コーラープルに行ったとき、五輪マークの入った記念碑を見たが、今思えばあれは、このカーシャバ・ジャーダヴの銅メダルを記念したものだったのだろう。






カーシャバ・ジャーダヴ
コーラープルで見た記念碑


 カーシャバの後、インドには不幸にも、ミルカー・スィン(1960年ローマ大会400m走4位)、グルバチャン・スィン・ラーンダワー(1964年東京大会110mハードル5位)、シュリーラーム・スィン(1976年モントリオール大会ハーフマイル7位)、PTウシャー(1984年ロサンゼルス大会400mハードル4位)など、あと一歩のところでメダルを逃す、本番に弱いまたは運の悪いアスリートたちしか現れなかった。

 インドに待望の2つめのメダルがもたらされたのは、カーシャバが銅メダルを獲得してから44年後の1996年アトランタ大会だった。1973年ゴア生まれ、コールカーター育ちのテニス選手、リーンダー・アドリアン・パエスが、アトランタ五輪のテニス・シングルで銅メダルを獲得したのだ。リーンダーの父親ヴェーチェ・パエスは1972年ミュンヘン大会ホッケーに出場して銅メダルを獲得したホッケー選手で、母親ジェニファー・パエスも有名なバスケットボールの選手だった。このように、インド的に言えばスポーツ選手カースト生まれのリーンダーは、5歳の頃からテニスを始め、小学校の時にチェンナイのテニス・アカデミーで英才教育を受けた。1990年、ジュニア・ウィンブルドンのタイトルを獲得し、ジュニア部門で世界ランク1位となったパエスは、1991年からプロに転向した。パエスは同じくインド人テニス選手のマヘーシュ・ブーパティとの黄金コンビで知られ、ダブルス世界ランク1位に輝いたこともある。パエス=ブーパティのコンビは、2004年アテネ大会でもメダルを目指す。




リーンダー・パエス


 3つめのメダルもすぐにインドに舞い込むことになった。しかも、そのメダルは記念すべきことに、インド人女子選手が獲得した初めてのメダルとなった。2000年シドニー大会において、1975年アーンドラ・プラデーシュ州生まれのカルナム・マッレーシュワリーは、重量挙げ69kg級にて総重量240kgを記録し、銅メダルを獲得した。アーンドラ・プラデーシュ州の片田舎の貧しい家に生まれたカルナムは、貧困から抜け出す道として重量挙げを選んだ(すごい発想だ)。1990年からカルナムはインド重量挙げ界の頂点に君臨し続け、国際大会でも活躍するが、1997年に同じく重量挙げ選手のラージェーシュ・テヤーギーと結婚し、しばらく休養する。シドニー五輪に向けて再び動き出したカルナムは見事銅メダルを獲得するが、2001年に息子を産んで以来、体重との過酷な戦いを強いられているようだ。2004年アテネ大会では、他の3人の女子重量挙げ選手たちと共にメダルを目指す。




カルナム・マッレーシュワリー


 というわけで、インドの通算五輪成績を表にまとめてみた。

開催地 メダル獲得者 種目
1900
2 パリ ノーマン・プリッチャード 200m走
200mハードル

1928 9 アムステルダム ホッケーチーム ホッケー
1932 10 ロサンゼルス ホッケーチーム ホッケー
1936 11 ベルリン ホッケーチーム ホッケー
【1947年インド独立】
1948 14 ロンドン ホッケーチーム ホッケー
1952 15 ヘルシンキ ホッケーチーム
カーシャバ・ジャーダヴ
ホッケー
レスリング57kg

1956 16 メルボルン ホッケーチーム ホッケー
1960 17 ローマ ホッケーチーム ホッケー
1964 18 東京 ホッケーチーム ホッケー
1968 19 メキシコ ホッケーチーム ホッケー
1972 20 ミュンヘン ホッケーチーム ホッケー
1980 22 モスクワ ホッケーチーム ホッケー
1996 26 アトランタ リーンダー・パエス テニスシングル
2000 27 シドニー カルナム・マッレーシュワリー 重量挙げ69kg

 近代オリンピック始まって以来、インドは金メダル8枚、銀メダル3枚、銅メダル5枚を獲得している。しかしその大部分は1928年〜1980年の間のホッケーの活躍によるもので、個人種目に限ると金メダル0枚、銀メダル2枚、銅メダル3枚となる。また、1900年パリ大会で銀メダル2枚を獲得したノーマン・プリッチャードをインド人と呼ぶには多少無理があるため、彼を除外すると、結局インドが個人種目で獲得したメダルは、銅メダル3枚のみということになる。金が大好きなインド人のこと、ここらで個人種目金メダルが欲しいところだ。果たしてアテネ五輪でインド人選手のブレイクはなるだろうか?



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