スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2004年11月

装飾下

|| 目次 ||
分析■1日(月)シャブナム・マウスィー
政治■4日(木)ガーンディー家vsバッチャン家
生活■5日(金)外人問題、JNUへ
競技■7日(日)必殺!ヒンドゥー・プレス!
映評■12日(金)Naach
映評■12日(金)Veer-Zaara
映評■13日(土)Mughal-e-Azam
分析■16日(火)日本人、逮捕者続出!
分析■17日(水)日本人麻薬密輸組織?
分析■17日(水)「Mughal-e-Azam」カラー化の秘密
分析■18日(木)タージの斜塔?クトゥブの斜塔?
分析■21日(日)あの寺院の収入はハウマッチ?
映評■22日(月)Aitraaz
分析■27日(土)インド人はB型人間か


11月1日(月) シャブナム・マウスィー

 本日付けのインディアン・エクスプレス紙に、伝説の大盗賊ヴィーラッパンを題材にした映画に関しての記事が掲載されていた。10年以上インド政府の最重要指名手配犯でありながら、「絶対に捕まえることは不可能」と言われていたジャングルの覇者ヴィーラッパンが殺害されたことは、10月24日の日記で書いた。その死には未だに謎が多く、本当にタミル・ナードゥ特捜部が作戦によりヴィーラッパンを殺害したのか、疑問を呈する声も多い。だが、少なくともその死の影響は、ボリウッド界にまで波及していることは確かである。

 ヴィーラッパンの死により現在笑いが止まらないのは、スニール・ディープ・コースラー氏である。なぜなら、コースラー氏は1995年にカンナダ語で作られたヴィーラッパンの伝記映画「Veerappan」のヒンディー語版配給権を持っているからだ。コースラー氏は2001年に配給権を買い、2003年に映倫の認可を得たが、配給会社は全く興味を示さず、この映画はお蔵入りしかけていた。ところがヴィーラッパンの死により配給会社の目の色は変わり、コースラー氏のもとにはひっきりなしにオファーが来るようになったという。この「Veerappan」はもうすぐヒンディー語圏で公開される予定だ。

 ヴィーラッパンをモデルにした映画は今までたくさん撮影されてきた。有名なところでは、ラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督のヒンディー語映画「Jungle」(2000年)。ヴィーラッパンの名前は出てこないが、ジャングルを支配するテロリストと警察官との間の戦いを描いた映画であり、ヴィーラッパンがモデルになっている。1999年のヒンディー語映画「Sarfarosh」では、ヴィーランという名前の、ジャングルに住むテロリストが出てきた。

 警察がヴィーラッパンを捕まえることがなかなかできなかった一方で、新聞記者やドキュメンタリー映画監督は比較的容易にヴィーラッパンと接触しており、ドキュメンタリー映画も今までけっこう作られている。1996年にはタミル語TV局のサンTVが、9時間に及ぶヴィーラッパンのインタビュー番組を放送している他、2002年には「Veerappan:The Last Bandit」というドキュメンタリー番組がTVで放映された。

 そして現在、ラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督は、3人の村人がヴィーラッパンを殺す計画を立てるという筋書きの新作ヒンディー語映画を制作中である(監督はシミト・アミーン)。この映画は半年前に撮影が開始され、題名は「Let's Catch Veerappan」だったが、10月にヴィーラッパンが殺害されてからは「Let's Kill Veerappan」に変更された。また、ヴィーラッパンの死により脚本にも変更が加えられたという。「Let's Kill Veerappan」は来年3月に公開予定。ラーム・ゴーパール・ヴァルマーもヴィーラッパンの死で笑った人間の1人だろう。

 この他、現在ボリウッドでは実在の人物を題材とした映画が3本制作中だという。1本は、カールギル紛争時に兵隊だった夫を失い、再婚した後に、死んだと思っていた夫がパーキスターンから帰って来たというグディヤーの悲劇を描いた作品(9月28日の日記で紹介)、1本は偽造印紙で巨額の金を稼いだギャング、アブドゥル・カリーム・テールギーを題材とした映画、そしてもう1本は、ヒジュラーから州議会議員となったシャブナム・マウスィーの映画である。この最後のシャブナム・マウスィーが目に留まった。

 シャブナム・マウスィーは1955年にチャンドラ・プラカーシュという名前でブラーフマンの家系に生まれた。ところが両性具有者だったため、ヒジュラーに引き渡され、それ以来シャブナムと呼ばれるようになった。マウスィーとは元々母方の叔母のことで、日本語の「おばさん」ぐらいの意味で使われる。シャブナムは生活費を稼ぐために映画界で働き、「Amar Akbar Anthony」(1977年)、「Kunwara Baap」(1974年)、「Janata Havaldar」(1979年)などに出演した。その後シャブナム・マウスィーはマディヤ・プラデーシュ州に移住し、ソーシャルワークに従事するようになった。1999年に州議会選挙に出馬し見事当選、ヒジュラー初の州議会議員となった。




シャブナム・マウスィー


 シャブナムは8学年までしか教育を受けなかったが、インドで話されている14言語を流暢に話すことができるという。また、古典舞踊の踊り手でもあり、州議会議員に当選してからもステージで踊ったことがあるそうだ。

 ヒジュラーには多少縁があるため、非常に気になる映画である。映画の製作者はスデーシュ・ボースレーとマノージ・ジャイスワール、監督はヨーゲーシュ・バールドワージ。シャブナム・マウスィーの役は、アシュトーシュ・ラーナー。映画中の楽曲にはヒジュラーの伝統歌も含まれているという。ちなみに、ヒジュラーを題材とした映画は、マヘーシュ・バット監督の「Tamanna」(1997年)がある。この映画ではヒジュラー役をパレーシュ・ラーワルが演じた。

 現在インドには330万人のヒジュラーが住んでいると言われている。マディヤ・プラデーシュ州にはシャブナム・マウスィーの他、2人のヒジュラー市長と3人の実業家がおり、ウッタル・プラデーシュ州にもアーシャー・デーヴィーというヒジュラーの市長がいるという。また、シャブナム・マウスィーはヒジュラー党結成を目指しているらしい。




ヒジュラー党結成?


 ちなみに、「ヒジュラーって何?」という人は、2002年10月下旬の24日から28日までの日記を参照にしてもらいたい。ヒジュラー調査旅行についての旅行記が載っている。

11月4日(木) ガーンディー家vsバッチャン家

 インドには絶大な影響力を持つ2つの家系がある。ひとつはガーンディー家、もうひとつはバッチャン家である。

 英領時代は独立運動の功労者を輩出し、独立後はインドを代表する政治家を輩出してきたネルー・ガーンディー家。インド独立運動の先駆者モーティーラール・ネルー、その息子でインド初代首相のジャワーハルラール・ネルー、その娘で女性首相となったインディラー・ガーンディー、その息子でやはり首相に就任したラージーヴ・ガーンディー、その妻で現在国民会議派の総裁ソニア・ガーンディー、その息子で下院議員のラーフル・ガーンディーなどなど枚挙に暇がない。ガーンディー一族の名前を順に列挙していくと、そのまま国民会議派の歴史、ひいては20世紀のインドの政治史になってしまう。ガーンディー家に関しては、8月25日の日記で詳しく書いた。何度も繰り返すが、インド独立の父マハートマー・ガーンディーと現在のガーンディー家との間に直接の血縁関係はない。

 インド映画界最大のカリスマと言えば、アミターブ・バッチャンの名前を挙げずにはいられないだろう。しかしバッチャン家の栄光は、アミターブから始まったものではなかった。アミターブ・バッチャンの父親、ハリヴァンシュラーイ・バッチャンは高名なヒンディー文学者であり、ガーンディー家とも親交があった。アミターブ・バッチャンの息子、アビシェークも最近は次第に魅力ある演技ができるようになって来ており、しかもアミターブ自身も輝きを失っていないため、しばらくバッチャン家は安泰だと言える。アミターブの妻、ジャヤー・バッチャンもまだまだ現役だ。一時はインド映画界のもうひとつの映画カースト、カプール一族との婚姻が成立するかと思われていた。アビシェークとカリシュマー・カプールの結婚が噂されていたのだ。だが結局、この縁談は破局し、カリシュマーはデリー在住の実業家と結婚してしまった。しかしながら、バッチャン家の栄光は少しも陰っていない。

 ところが、最近この二大家系の仲がよくないようだ。全ての原因は、インディラー・ガーンディーが暗殺された1984年に、後任のラージーヴ・ガーンディーの要請でアミターブ・バッチャンが国民会議派の公認候補としてイラーハーバード選挙区から立候補したときから始まった。しかしその前に、ハリヴァンシュラーイ・バッチャンから始まるバッチャン家の歴史と、ネルー・ガーンディー家との交流史から見てみよう。

 ハリヴァンシュラーイ・シュリーヴァースタヴは1907年11月27日にイラーハーバードの近くの町で生まれた。シュリーヴァースタヴという名字から分かるように、彼はカーヤスト・カースト(書記を司るカーストで、よく役人などに登用された)だった。彼は家族から「子供」を意味する「バッチャン」と呼ばれていた。家のしきたりに従ってウルドゥー語を習い(ムガル朝末期以来の伝統で役人を志す者はウルドゥー語を習った)、イラーハーバード大学とバナーラス・ヒンドゥー大学を卒業した。1930年にはインド独立運動に関わったり、大学で英語を教えたりしていたが、1953年から英国ケンブリッジ大学に留学して英文学博士号を取得した。留学時代にシュリーワースタヴの代わりにバッチャンを名乗るようになったという。1955年、インドに戻って来た彼はデリーに移住して外務省で働く傍ら、公用語としてのヒンディー語の発展と普及に寄与した。オマル・ハイヤームの「ルバーイヤト」、シェークスピアの「マクベス」「オセロ」、またヒンドゥー教の聖典バグヴァド・ギーターなどをヒンディー語に翻訳した。ハリヴァンシュラーイは1926年に一度結婚しているが、最初の妻を病気で亡くし、1942年にテージー・スーリーと再婚した。ハリヴァンシュラーイとテージーの間に生まれたのが、アミターブとアジターブである(それぞれ愛称はアミトとバンティー)。

 ハリヴァンシュラーイがネルーらと初めて出会ったのは1942年のことだった。ネルーの自宅アーナンド・バヴァンに滞在していた女流文学者サロージニー・ナーイドゥがハリヴァンシュとテージーをネルー一家に引き合わせたのだ。このときからインディラーとテージーは急速に親密になったという。その1ヵ月後、フィローズ・ガーンディーとインディラーの結婚式が行われ、ハリヴァンシュらも招待された。やがてハリヴァンシュラーイがデリーに移住すると、ネルー一家と頻繁に交流するようになった。

 ハリヴァンシュラーイの2人の息子、アミターブ、アジターブと、インディラー・ガーンディーの2人の息子、ラージーヴ、サンジャイは大の仲良しだった。ラージーヴとサンジャイはデヘラードゥーンの全寮制学校に通っていた一方で、アミターブとアジターブはナイニータールの学校に通っていた(共に現在のウッタラーンチャル州の町)。長期休暇のタイミングが同じだったため、休み中4人は一緒にデリーに戻って、大統領官邸のプールで一緒に遊んだという。高校卒業後、ラージーヴはケンブリッジ大学に留学し、アミターブはデリー大学に進学した。だが、ラージーヴはインドに戻ってくると必ずアミターブを訪れた。ラージーヴは飛行機が大好きで、アミターブとラージーヴはデリーフライングクラブで共に遊覧飛行を楽しんだという。やがてラージーヴはインディアン・エアラインズのパイロットとなり、アミターブは映画スターの道を歩み、サンジャイは政治家に、そしてアジターブは実業家となったが、4人の友情は変わらなかった。1968年、ラージーヴとイタリア人のソニアは結婚し、結婚式の一部はバッチャン家でも行われた。その他、両家族に関わる事件としては、ジャワーハルラール・ネルーの死去(1964年)、インディラー・ガーンディーの首相就任(1966年)、アミターブ・バッチャンとジャヤー・バドゥリーの結婚(1973年)などがあった。ところが、サンジャイが飛行機事故で死亡した1980年あたりから、運命の悪戯がガーンディー家とバッチャン家を襲うこととなる。

 1984年、アムリトサルの黄金寺院に立てこもったスィク教徒過激派たちを攻撃したことが原因で、インディラー・ガーンディーが暗殺されるという大事件が発生する。インディラーの後を継いで首相に就任したラージーヴは、国民会議派起死回生のため、同年に行われた下院総選挙で、親友のアミターブ・バッチャンに出馬を要請する。アミターブは最初、「Politics(政治)のPの字も知らない」と難色を示したが、母親を殺されたラージーヴの無念を思うと断りきれなかったという。何よりラージーヴが国民会議派の全面的援助を約束したため、アミターブは映画界から思い切って政界へ飛び込むこととなった。既に大スターの地位を獲得していたアミターブは、有権者の圧倒的支持を受けて当選を果たす。

 ラージーヴは「ミスター・クリーン」と呼ばれ、汚職とは縁のない首相という触れ込みで国民の支持を集めた。ところがスウェーデンの兵器会社ボフォース社からの兵器購入の際の贈収賄疑惑が野党により提起され苦境に立つ。これはボフォース事件と呼ばれ、アミターブ・バッチャンもこの贈収賄に関わったとされた。政界に嫌気が差したアミターブは、ラージーヴの制止を振り切って議員を辞職してしまう。その後、1989年に行われた下院総選挙で国民会議派は大敗し、ラージーヴは失脚する。ラージーヴは1991年、遊説中に訪れたタミル・ナードゥ州で爆弾テロにより死亡する。それら一連の事件以来、アミターブ・バッチャンは政界ともガーンディー家とも距離を置くようになったが、ガーンディー家の批判を表立って行うようなことはなかった。

 2003年1月18日、ハリヴァンシュラーイ・バッチャンが死去した。おそらくこれによりガーンディー家とバッチャン家の間の亀裂に歯止めがかからなくなったのだろう。2004年6月28日にウッタル・プラデーシュ州で行われた上院議員選挙において、アミターブ・バッチャンの妻、ジャヤー・バッチャンは国民会議派のライバル政党である社会主義党(SP)から立候補し、バッチャン家はガーンディー家に反旗を翻した。これは、アミターブ・バッチャンの設立した会社ABCLが破産してバッチャン家が財政的に困っていた1996年に、社会主義党のアマル・スィン書記長が救済の手を差し伸べたことへの恩返しだと言われている。国民会議派はジャヤーの立候補を取り下げようと工作したが果たせず、彼女は当選する。だが、ガーンディー家とバッチャン家の間の対立を決定的にしたのは、10月13日のウッタル・プラデーシュ州の補欠選挙のためにジャヤー・バッチャン議員が行った応援演説だった。ジャヤー・バッチャンは、具体的な名前こそ出さなかったものの、バッチャン一族として初めて公にガーンディー家に対して、「私たちを政界に勧誘した人々は、最も苦しい時期に私たちを見放した」と痛烈に批判した。この発言を受けてラーフル・ガーンディー議員は、「バッチャン家は嘘つきだ」と切り返し、さらに波紋が広がった。肝心のアミターブ・バッチャンは、ラーフルの発言に不快感を示しながらも、「ガーンディー家はラージャー(王様)、バッチャン家はランク(貧乏人)だ」、「バッチャン家とガーンディー家の交流はラーフルが生まれるずっと前からずっと前から続いていたものだ」、「ガーンディー家に対する友好と尊敬の念に変わりはない」などと述べている。

 アミターブとラージーヴの友情の話は多く語り継がれている。例えばムンバイーで「Coolie」(1983年)の撮影を行っていたときにアミターブ・バッチャンが事故に見舞われて怪我をしたことがあった。そのとき米国に家族と滞在していたラージーヴは、新聞でアミターブの事故のことを知り、すぐさまムンバイーに戻って、空港から直接病院に駆けつけたという。このときインディラー・ガーンディー首相(当時)も病院に駆けつけたため、アミターブの事故は必要以上に大袈裟に報道されることとなってしまったが、ハリヴァンシュラーイ・バッチャンは自伝の中で、「アミターブにとって彼ら以上に力強い心の支えはありえなかっただろう」と回想しており、2人の間の友情の深さが推し量られる。一方、ジャヤー・バッチャンとソニア・ガーンディーは犬猿の仲とも言われており、また両家の抗争の手綱を引いているのは、社会主義党のアマル・スィンだとも噂されている。結局、現在のお家間騒動の原因となっているのは、両家の新参者、新世代、またそれを政治に使おうとする政治家たちであり、それに巻き込まれる形になっているアミターブ・バッチャンが気の毒に思えてくる。

11月5日(金) 外人問題、JNUへ

 今年の4月〜5月に行われた下院総選挙で、当時の与党インド人民党(BJP)が、ライバルの国民会議派を攻撃するための武器としたのが、「外人問題」だった。これはつまり、イタリア生まれの国民会議派ソニア・ガーンディー党首を狙い撃ちするものだった。インド憲法では外国人が選挙に出ることが禁止されている。ソニア・ガーンディーは1983年にインド国籍を取得しているため、インド人と言えばインド人だが、外人と言えば外人という微妙な立場にある。焦点は外国出身のインド国籍者をどうみなすか、だったが、下院総選挙での国民会議派の勝利、そしてソニア党首の首相就任拒否により、外人問題は一応の収束を迎えた。

 ところが外人問題は思わぬところで再燃した。4日に行われたジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)の学生自治会選挙おいて、言語文学文化学部(SLL&CS)の評議委員に立候補した米国出身の学生、タイラー・ウォーカー・ウィリアムの国籍が問題となったのだ。

 タイラーはヒンディー語修士課程におり、実は僕のクラスメイトである。3日付けのインディアン・エクスプレス紙には、タイラーのことが写真付きで報道されていた。JNUの選挙に外国人が出馬することは初めてではないようだが、アメリカ人が立候補したのは史上初のことであり、内外から関心を集めたようだ。タイラーはカリフォルニア大学バークレー校のヒンディー語学科で学士を取り、デリー大学やラクナウー大学などを経た後、JNUのヒンディー語修士課程に入学した。アメリカ人らしからぬ(?)腰の低い態度とインドへの深い愛情のおかげでJNUの人気者となっており、それが今回の出馬にもつながったようだ。ただ、面白いのは彼の属している団体である。全インド学生協会(AISA)と言えば、共産党系の学生団体だ。アメリカ人が共産党系団体から立候補するのはものすごい矛盾を感じる。ただ、タイラーの思想が左寄りということではなく、たまたまタイラーの親しかった友人がAISAの人だったということだろう。そのことを彼に聞いてみたら、自分で「ハーン、アジーブ・スィ・バート・ヘェ(そうだね、変な話だ)」と笑っていた。JNUでは選挙のときに、各立候補者が授業中の教室を廻って自己紹介と簡単な演説を行う伝統がある。こういう民主主義的な伝統は、インドではもう既にJNUにしか残っていないという。確かにデリー大学の選挙はもっと俗っぽいし学生の参加度も低い。タイラーも他のAISAの学生たちと共に選挙運動をし、各教室でヒンディー語を披露して、学生たちや教授たちから賞賛を浴びたという。タイラーのヒンディー語は、「Lagaan」(2001年)のキャプテン・ラッセルをさらに上手くしたような感じである。




インディアン・エクスプレス紙に載った
タイラーらAISAの立候補者たち


 ところが、BJPよろしくタイラーが外国人留学生であることを糾弾し始めた学生団体があった。それが全インド学生会議(ABVP)である。ABVPはBJP系の学生団体であり、戦略は親政党と変わっていないところが面白い。ABVPは、国内の選挙で外国人が立候補することはできない、というインド憲法の規定を引き合いに出し、AISAを攻撃し始めた。ABVPは外国人登録局(FRRO)や米国大使館にもこの問題を訴えると脅しをかけたようで、タイラーにとって危険な状態に置かれた。しかし、JNUの規定では外国人が選挙に立候補してはならないという記述はなく、また、ABVP以外の団体が特に外人問題を論点としなかったため、選挙結果にそれほど影響を与えることはできなかったと思われる。何より、ABVP自身が、タジキスタン人とインド人のハーフでロシア国籍NRI(在外インド人)の女の子を候補者として擁立しており、墓穴を掘っているところがあるから誰も相手にしなかったのだろう。ただ、タイラーの出馬は新聞やTVで大々的に報道されてしまったため、もし彼がこれからインドで学業を続けようと思ったときに、ヴィザなどの面で何らかの障害が出る恐れがある。まさか今の時代に赤狩りは行われないと思うが・・・。(この段落の情報は5日付けのザ・ヒンドゥー紙より)

 投票は4日に行われ、僕も朝早くから投票へ行った。もちろんタイラーにも一票を投じた。僕は基本的に政党や思想は関係なく、友人、知り合い、変わった名前の人、かわいい女の子に入れることにしている。だが、今年のJNUの選挙は、選挙管理委員会の不手際と乱闘騒ぎから後味の悪いものとなってしまったようだ。集計が始まったのは深夜で、そのまま翌日の夜まで集計は続けられた。SLL&CS学部の評議委員選挙の結果は5日の10時頃になってやっと発表された。残念ながらタイラーは落選してしまったが、ABVPのNRI候補者、カルナーちゃん(けっこう美人)は当選した。全てのポストの結果が出るのはさらにまた翌日となるかもしれない。

 たかが選挙と思うことなかれ。さすがJNUの二大祭典のひとつに数えられるだけあって、JNUの選挙は非常に面白い。立候補した者にとっては顔を売るチャンスであり、当選しても落選してもJNU内で一気に友人の数が増えることになる。また、積極的にいろいろな人と話し合う機会ができるので、学生同士の交流も活発になる。JNUは休日が少なく、ダシャヘラーでもディーワーリーでも1日しか休みにならないが、選挙のためには多くの日が休日となる。今年は、記憶が正しければ、演説会で3日、投票日で1日、集計日で1日が終日休講となった。半年前に行われた下院総選挙は、「民主主義の祭典」と形容されたが、このJNUの選挙も正に「民主主義の祭典」だと思った。

 ところで、各学生団体にはお決まりの掛け声がある。「Lal Salaam(赤い平安)」は左翼団体(共産主義派)、「Vande Mataram(母への祈り)」はABVP(ヒンドゥー至上主義派)、「Zindabad(万歳)」はNSUI(国民会議派系)が好んで使う掛け声のようだ。

11月7日(日) 必殺!ヒンドゥー・プレス!

 本日付けのサンデー・タイムズ・オブ・インディア紙に、インド系アメリカ人プロレスラーについての記事があった。

 彼の本名はリテーシュ・バッラー、22歳。昼はヴァージニア州のジョージ・メイソン大学に通う普通の大学生だが、夜になると「ソンジャイ・ダット」と名乗るプロレスラーに変身するという、まるでスパイダーマンみたいな生活をしている。リテーシュはワシントンDCに生まれ、パンジャービー語とヒンディー語を母語に育った普通のNRI2世。多くのアメリカ人の子供と同様に、WWFのチャンピオンになることを夢見て育った。ただひとつ彼が違ったのは、その夢を諦めなかったことだ。リテーシュはワシントンDCにあるジム、モンスター・ファクトリーに入門し、プロレス技を磨いた。しばらくはくすぶっていたソンジャイ・ダットだが、2年前に新設されたプロレス団体TNA(Total Nostop Action)に参加してからようやく活躍の場を見出した。




ソンジャイ・ダット


 ソンジャイ・ダットの必殺技は「ヒンドゥー・プレス」。文章で読んだだけではよく分からないが、とにかくロープの上に客席向きに立ち、そこから反転して敵の上にのしかかる攻撃のようだ。愛称は「ヒマーラヤから来たプラヤ」。プラヤとはどうも米国にあるプラヤ湖のことのようだ。日本にもツアーで来たことがあるというから、日本のプロレス・ファンには既に名を知られているのかもしれない(僕はあまりプロレスには興味がない)。

 同記事には、日本でも有名なプロレスラー、ダーラー・スィンやジート・スィン(タイガー・ジェット・シン)などについても触れられていた。インドでスポーツと言えばクリケットだが、実はプロレスもけっこう人気があり、スポーツ番組でよくプロレスが放映されている。ソンジョイ・ダットの所属しているTNAもスター系のTVチャンネルで放映されており、つい最近偶然見たことがある。僕は普段あまりTVを見ないし、見たとしてもニュース番組、音楽番組、アニメぐらいしか見ないが、なぜか旅行中は部屋にTVがあるとよくプロレスを見ている。特にブータンに行ったときに、暇潰しによくテン・スポーツで放映されていたWWEを見ていた記憶がある。

 それにしても彼のリングネーム、「ソンジャイ・ダット(Sonjay Dutt)」というのは、十中八九、あの有名な映画スター「サンジャイ・ダット(Sanjay Dutt)」から来ていると思われる。確かに彼のイメージはプロレスラーにピッタリである。だがなぜサンジャイをソンジャイに変えたのかはよく理由が分からない。おそらく英語話者にとって、「Sonjay」と書いた方が、「息子」という意味の英単語「サン(son)」を連想させて、ヒンディー語のサンジャイの発音に近くなるからだろう(「san」だと英語話者の発音はサェンになってしまう)。とすると、カタカナでも「サンジャイ」と表記した方がいいかもしれない。だが、ただ単に全くスペルが一緒だとやばいから、ということだけかもしれない。

 ソンジャイ・ダットのヒンドゥー・プレスという名前の必殺技は何だか泣けてくるほど単純明快だ。日本の体育の授業でよく「ヒンズー・スクワット」というのをやらされたが、あれとよく似た運動を、サティヤジト・ラーイ(サタジット・レイ)監督の「大河のうた」(1970年)で見たときは感動したものだった。しかしこのソンジャイ・ダットはスィク教徒であり、ヒンドゥー教徒ではない。かなり強引な名付け方をしてしまっているように思える。

 ・・・と、インド系プロレスラーについての記事を読んで思いを巡らせていたところ、僕の脳裏を突如フラッシュバックが襲った。確か何かの映画で、強烈なキャラクターのインド人プロレスラーが出てきたはず!名前は・・・名前は・・・そう!キラー・カールサー!早速検索してみると、一発でヒットした。奴は実在した。キラー・カールサー・スィン(Killer Khalsa Singh)。彼が登場した映画は、2002年の「Bollywood/Hollywood」だった。確かヒロインのお見合い相手としてかなり無理矢理な登場の仕方していた。そういうキャラクターだと思っていたが、どうも彼は実在のプロレスラーのようで、リングネームもそのままキラー・カールサー・スィンのようだ。WWFのチャンピオンになったこともあるようなので、かなり有名なプロレスラーなのかもしれない。




キラー・カールサー・スィン


 どうも彼は現在米国籍を取得しているようだが、写真を見れば一目瞭然のように、インドへの愛国心は本国のインド人よりも強そうだ。彼の必殺技の名前を是非知りたい気がする・・・。

11月12日(金) Naach

 今日はインド三大祭のひとつ、ディーワーリー(ディーパーワリーとも言う)だ。家々は灯火と電飾できらびやかに飾り立てられ、街中が花火と爆竹の轟音と硝煙で満たされる。しかしインド映画ファンにとって、今年のディーワーリーは特別な日となった。インドの映画の封切日は毎週金曜日なのだが、今年はちょうど金曜日とディーワーリーが重なった。しかも次週の月曜日はイスラーム教の祭日イードゥル・フィトル(断食月明けの祭り)で、土日が休みの人にとってはディーワーリーから4連休となった。このチャンスを見逃さない手はない。と言う訳で今年のディーワーリーにはヒンディー語映画が一気に4本同時公開されることとなった――「Veer-Zaara」「Naach」「Aitraaz」「Mughal-e-Azam」である。僕は個人的に「ディーワーリー4」と読んでいる。まだどれがどれだけの成功を収めるか分からないが、4本とも全く違った特徴を持った映画で、それぞれに期待作であり、非常に面白い顔ぶれとなっている。ヒンディー語映画ファンにとっては嬉しくも忙しいディーワーリーとなった。

 今日はPVRプリヤーで続けて2本の映画を見た。まず見たのはラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督の「Naach」。「ダンス」という意味である。キャストはアビシェーク・バッチャン、アンタラー・マーリー、リテーシュ・デーシュムク。




アビシェーク・バッチャン(左)と
アンタラー・マーリー(右)


Naach
 アビー(アビシェーク・バッチャン)はムンバイーに住む俳優志望の若者。レーヴァー(アンタラー・マーリー)は独自のスタイルを持つコレオグラファー(振付師)志望の女の子だった。2人は偶然出会い、少し会話を交わす。踊りが踊れなかったアビーが俳優になるためにレーヴァーからダンスを習ったことをきっかけに2人はすぐに惹かれあうようになり、やがて恋仲となる。

 アビーは富と名声を求める血気盛んな若者だった。その目的のためなら映画業界の曲がった仕来りにも従う覚悟ができていた。しかしレーヴァーの目的は富や名声ではなかった。自分のスタイルを貫き通すことに固執していた。アビーは成功を掴み、一気にスターダムにのし上がっていくが、レーヴァーはくすぶったままだった。このスタンスの違いがやがて2人の仲を裂いてしまう。

 アビーは何本か映画主演をこなし、すでに大スターになっていた。レーヴァーにもやがてオファーが来る。新進気鋭の音楽監督ディワーカル(リテーシュ・デーシュムク)が彼女の踊りを気に入り、音楽のプロモーション・ビデオに彼女の踊りと彼女自身を採用した。そのダンスはすぐに話題を呼び、レーヴァーも有名人となる。やがてディワーカルの監督で、アビーとレーヴァーの共演も実現する。

 アビーは未だにレーヴァーのことを愛していた。しかしレーヴァーはディワーカルと急接近しており、それが彼には気に食わなかった。撮影途中でアビーは自宅に戻ってしまう。それを追って来たレーヴァーとディワーカルに、アビーはレーヴァーを今でも愛していることを打ち明け、それゆえにこの仕事に参加できないと言う。しかしレーヴァーも実はアビーのことを愛しており、ディワーカルとの間には仕事の関係しかないと答える。それを聞いたディワーカルは、実はレーヴァーのことを愛していたことを打ち明けるものの、2人の幸せを祈って姿を消す。

 全く新しいタイプのヒンディー語映画。ラーム・ゴーパール・ヴァルマーのプロダクションはヒンディー語映画の常識を打ち破る作品を次々に送り出しているが、今回はヴァルマー監督自らがメガホンを取った作品で、プロモーションにも気合が入っていた。斬新な映像、俳優の高度な演技、そしてヨーガと西洋のダンスを組み合わせた独特な踊りにより、素晴らしい作品に仕上がっていた。

 「Naach」は、ヴァルマー監督自身の作品「Rangeela」(1995年)「Main Madhuri Dixit Banna Chahti Hoon」(2003年)や、香港のウォン・カーワイ監督の「花様年華(In The Mood For Love)」(2000年)などがモデルになっていると言われているが、オリジナルと言っていい強烈な印象を持つ映画だ。ただ、この映画の優れた部分は前半に集中しており、後半になるとガラッと雰囲気が変わってしまう。しかも終わり方は拍子抜けするほどあっけなく、非常に残念だった。だが、映像の力はストーリーのシンプルさやエンディングのあっけなさを差し引いても評価に値するものだった。

 登場人物は主に2人だけ。アビーとレーヴァーである。後半からディワーカルが登場するが、全然アピールに欠けており、ゲスト出演程度の印象しかない。アビーを演じたアビシェーク・バッチャンと、レーヴァーを演じたアンタラー・マーリーが唯一の重要なキャラクターである。

 この映画は何と言ってもアンタラー・マーリーのためにある。「Main Madhuri Dixit Banna Chahti Hoon」で圧倒的ダンスのセンスを披露したアンタラーは、「Naach」においてさらにその踊りに磨きをかけてスクリーンに戻って来た。彼女の顔は決して美人ではないし、女優にしては小柄な体型をしているが、その踊りの才能は現代のインド映画女優の中でもダントツのトップだ。それに加えて演技力も文句なく素晴らしい。彼女の踊りと演技を見るためだけでも、この映画は見る価値がある。彼女の出演している映画を見るにつれて、僕の心の中で彼女の存在が大きくなっているように思える。残念ながらインドで彼女の評価はまだまだ低く、ヒット作にも恵まれていない。

 ボリウッドの帝王、アミターブ・バッチャンの息子として華々しいデビューを飾りながらも、演技やダンスのセンスのなさのためになかなかヒット作や評価に恵まれなかったアビシェーク・バッチャンは、ここ最近急激に男優としての存在感を強めている。彼の魅力が最大限に発揮されたのは、マニ・ラトナム監督の「Yuva」(2004年)だったと思うが、この「Naach」でも「Yuva」と同じ路線の男らしい役を演じ、成功を収めている。ダンスがテーマの映画にダンスの下手なアビシェークをキャスティングしたところにラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督のすごさを感じる。確かに体操みたいな踊りをしてしまっている部分もあったが、基本的にアビシェークの踊りの下手さをうまくカバーしつつストーリーを展開していた。

 全編を通し、特に前半、映像が非常に美しかった。ゆっくり、堅実に、アビーとレーヴァーの出会いと接近を描写していた。映像でモノを語ることが映画にとって一番重要なことであり、そういう意味で「Naach」は踊り以上に映像に力が入っていたと言える。それと同時に最大限にセリフが凝縮されており、ひとつひとつのセリフに意味があった。一番感動したのは、前半の青い海をバックにした意味不明の踊り。突然、意味不明の衣装を着けて、どこかの景勝地の砂浜でアンタラーがエロチックな踊りを踊り出したので何かと思っていたが、その踊りのシーンの後にアビーとレーヴァーが一緒にベッドで寝ているシーンになり、それがベッドシーンの比喩であったことが分かるという仕組みになっていた。インド映画では性描写が厳しく制限されているため、ミュージカル・シーンでは男女の性的コミュニケーションを婉曲的に表現するテクニックを磨き上げてきた。「Naach」のこのシーンは、その完成形だと言える。

 しかし、アンタラーが身に付けている衣装が奇想天外過ぎたのは多少気になった。特にダンスシーンではやたら露出度の高い奇抜なコスチュームを身に付けており、観客を完全に取り残してしまっていた。




この衣装は・・・


 前半のペースを後半でも維持できれば最高の作品だったのだが、残念ながら後半は失速してしまっており、最後のまとめ方も観客の理解の範囲を越えたものとなっていた。そのおかげでストーリーの観点から最高評価を出すことはできないが、少なくとも映像の力とダンスの独創性の観点から言えば、この映画は期待を裏切らない作品だったと言える。

11月12日(金) Veer-Zaara

 ヤシュ・チョープラー。ロマンスの帝王と呼ばれ、「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)のカラン・ジャウハル監督をはじめ、若い世代の才能ある映画監督からも最大限の賛辞を送られる、ボリウッド映画界最高峰のフィルムメーカーである。そのヤシュ・チョープラー監督が、「Dil To Pagal Hai」(1997年)以来7年振りにメガホンを取った新作映画「Veer-Zaara」が本日から封切られた。ディーワーリー4の内で最も注目を集め、最も成功を収めると見られている映画もこの「Veer-Zaara」である。予算は3億ルピー。今年の映画の中では最大級の予算の映画である。

 「Veer-Zaara」とは主人公2人の名前。監督はヤシュ・チョープラー、音楽はマダン・モーハン。キャストは、シャールク・カーン、プリーティ・ズィンター、ラーニー・ムカルジー、キラン・ケール、ディヴィヤー・ダッター、ボーマン・イーラーニー、アヌパム・ケール、アミターブ・バッチャン、ヘーマー・マーリニー、マノージ・バージペーイー、ゾホラー・セーガルなど。

 最初に忠告しておくが、この映画を見ようと思っている人は下のあらすじや解説を読まない方がいい。なぜなら100%涙を流すに違いない映画であり、あらかじめあらすじを知って映画を見てしまうと楽しさが半減以下になってしまうからだ。ただし、この映画は「パンジャービー語映画」と言ってもいいほど、セリフの大部分がパンジャービー語であり、ヒンディー語だけの知識では半分くらいしか理解できないと思われる。僕も完全に理解できたわけではないが、何とかあらすじが書けるくらい筋を追うことはできた。完全理解のためにはヒンディー語、ウルドゥー語、パンジャービー語の知識が必要なので、一般の日本人(ヒンディー語が分かる時点で普通の日本人ではないが・・・)でこの映画を字幕なしで理解できる人はほとんどいないのではなかろうか。そういう意味で、下の詳細ネタばれのあらすじは多くの人の役に立つのではないかと思う。本編では時間軸が前後するが、あらすじは時間軸に沿って書いた。




シャールク・カーン(左)と
プリーティ・ズィンター(右)


Veer-Zaara
 22年前・・・ヴィール・プラタープ・スィン(シャールク・カーン)はインド空軍のパイロットで、ヘリコプターで雪山などで遭難した人々を命懸けで救出する仕事に生き甲斐を感じていた。ある日ヴィールは、パーキスターンからやって来た女の子、ザーラー・ハヤート・カーン(プリーティ・ズィンター)をバス事故から救出する。ザーラーは、印パ分離独立時にインドから移民してきた祖母(ゾホラー・セーガル)の遺灰を、遺言通り故郷の河に流すためにインドにやって来ていた。ちょうどローリー祭のため休暇をもらっていたヴィールはザーラーの手助けをし、彼女を自分の村に招待する。

 ヴィールは幼い頃に父母を亡くし、叔父(アミターブ・バッチャン)と叔母(ヘーマー・マーリニー)の手で育てられた。叔父は村の顔役で、学校や病院を建てて村の発展に寄与していた。叔父と叔母はザーラーを温かく迎え、一緒にローリー祭を祝う。だが、ザーラーは村に男の子のための学校しかないのが不満だった。ザーラーは叔父に、最近は女の子も男の子に負けないくらい社会に貢献していることを力説し、女の子のための学校を作ることを提案する。叔父はすぐにその意見を取り入れ、ザーラーにシラーンニャース(礎石を置く儀式)をさせる。

 ヴィールの休暇も終わり、ザーラーも故郷に帰らなければならなかった。ザーラーは叔父と叔母に、再び帰って来ることを約束し、村を後にする。ヴィールはアターリーまでザーラーを送るが、彼にはひとつの決意があった。ヴィールはいつの間にかザーラーに恋しており、彼女に結婚を申し込もうと考えていたのだった。ところがアターリー駅で彼女を待っていたのは、婚約者のラザー(マノージ・バージペーイー)だった。ザーラーは父親の留守中に内緒でインドに来ていたのだが、その父親が帰って来てしまっており、ザーラーを探すためにラザーをインドに送ったのだった。婚約者がいることを知らなかったヴィールはショックを受けながらも、ラザーの前でザーラーに愛の告白とも取れる言葉を口にする。「君のためなら命でも投げ出すよ。」だが、ザーラーは列車に乗って去って行ってしまった。ヴィールの手元には、ザーラーから預かっていた足飾りが残った・・・。

 ザーラーの父親(ボーマン・イーラーニー)はラーハウル(ラーホール)の有名な政治家だった。父親はザーラーが無断でインドに行ったことを怒っており、1ヶ月間口を利こうとしなかった。やがてザーラーの結婚式の日が近付いてきた。ザーラーはヴィールの言った言葉が忘れられなかった。ザーラーは母親(キラン・ケール)に質問する。「お父さんはお母さんのために命を投げ出すかしら?」母親は結婚前の娘のこの質問を理解し、優しく諭す。「男と女の恋愛は違うのよ。女は全てを投げ出して愛することができるけど、男にはそんな勇気はないの。いい、花婿にそんなこと聞くんじゃないわよ。」しかしザーラーは言う。「私は、私のために命を投げ出す男の人を知っているわ!」母親はそれを聞いてショックを受け、しかもそれがインド人であることに絶望的気分になるが、結婚は既に決まっており、誰にも変えることができないことを言い聞かせる。

 ザーラーには、シャボー(ディヴィヤ・ダッター)という親友同然の使用人がいた。シャッボーはザーラーの恋愛を知り、内緒でインドにいるヴィールに電話を掛ける。シャッボーはヴィールに、ザーラーが彼のことを愛していることを伝え、「あなたはお嬢様をどれだけ愛していますか?」と質問する。ヴィールはそのときその質問に答えることができなかったが、すぐにインド空軍を除隊し、ヴィールに会いにパーキスターンへ向かった(軍関係者はパーキスターンへ行くことはできない)。パーキスターンでは、シャッボーが彼の面倒を見た。

 ザーラーの結婚式は着々と進められていた。新郎新婦とその家族がダルガー(聖者廟)を参拝していたとき、ヴィールはザーラーの目の前に現れる。ザーラーは思わずヴィールに抱きつく。それを見たザーラーの父親は失神して倒れ、危篤状態に陥る。

 ザーラーの母親は、ヴィールの元を訪れる。母親は、父親が危篤状態であることを明かし、涙ながらに彼を説得する。ヴィールも、「愛よりも命の方が重い」と言って、ザーラーと結婚することは諦める。その言葉に安心した母親は、「お前の国の若者はみんなお前みたいに素直なのかい?」と聞くと、ヴィールは答える。「それは分かりません。でも、私の国の母親は皆あなたのように優しいですよ。」

 ヴィールはザーラーと最後に会い、自分たちの結婚が不可能であることを伝える。ヴィールは母親やシャッボーに見送られながらインド行きのバスに乗り込む。ところが、母親とシャッボーが去った後に警察がやって来て、ヴィールをスパイ容疑で逮捕してしまう。警察は彼のことをラージェーシュ・ラトールと呼び、パーキスターンのスパイをしていたことを認める書類にサインさせようとする。ヴィールは拒否するが、そこへラザーが現れる。ラザーは、自分の結婚式に泥を塗ったヴィールに復讐するために全てを行ったのだった。ラザーはヴィールに言う。「お前が牢屋の中にいる限り、俺はザーラーを幸せにする。そうでなかったら、ザーラーは地獄を見るだろう。」ヴィールはザーラーの幸せのため、書類にサインする。ヴィールは刑務所に入れられ、そのまま22年の歳月が過ぎ去った・・・。ラージェーシュ・ラトールとなったヴィールは、刑務所では囚人番号786と呼ばれていた。ヴィールは刑務所に来てから一度も口を開いたことがなかった。また、ヴィールが乗ろうとしていたインド行きのバスは、その後事故に遭って乗客全員死亡してしまっていた。乗客名簿にはヴィールの名前もあったため、インドにいる祖父母も、ザーラーも、ヴィールは死んだものと考えられており、ヴィールもそれの方がいいと思っていた。

 ようやくヴィールの裁判が始まることになった。ヴィールの弁護士となったのは、女性新人弁護士のサーミヤー・スィッディキー(ラーニー・ムカルジー)だった。サーミヤーは囚人の名前がヴィール・プラタープ・スィンであることを突き止めており、彼のことをその名前で呼ぶ。22年間無口を通してきたヴィールも、自分の本当の名前を知る人が来てくれたことにより、言葉を発するようになった。ヴィールはサーミヤーに、インド人の自分がなぜパーキスターンの刑務所にいるのか、全てを明かす。しかし、ラザーとの約束により、ヴィールはサーミヤーに、決して裁判所でザーラーの名前を出さないよう頼む。

 裁判が始まった。サーミヤーの相手の弁護士は、無敗のベテラン弁護士(アヌパム・ケール)で、元々サーミヤーの師匠だった人である。サーミヤーは、彼の勝つためなら手段を選ばない哲学を嫌い、彼と対立して、彼のもとを去った経緯があった。初公判では圧倒的に押され気味だった。囚人番号786は、ラージェーシュ・ラトールではなく、ヴィール・プラタープ・スィンであることを証明するのは難しかった。1週間後の公判が最後のチャンスで、その後はもう判決だった。彼のような囚人のために裁判所は時間を取っていられなかったのだ。

―――これより下は極度にネタばれです―――

 サーミヤーは、どうしてもザーラーの名前を出す必要を感じる。しかしヴィールと約束していたため、それは禁じ手だった。そこで彼女は、インドへ行ってヴィールの叔父と叔母に会うことを思い付く。すぐさまサーミヤーはインドへ向かい、ヴィールの故郷を訪ねる。ところが既に叔父と叔母は死んでいることが分かる。ヴィールの家は、今では女の子のための学校となっていた。全ての望みが立たれ、失望のまま帰ろうとしたサーミヤーの耳に突然、「ザーラー!」という声が聞こえてくる。なんとその学校からザーラーが現れたのだった。シャッボーもそこにいた。

 実はザーラーはラザーとは結婚していなかった。ヴィールが去った後、すぐに父親が死亡し、後を追うように母親も亡くなった。元々政略結婚だったラザーとザーラーの結婚は、父親の死により中止となった。ザーラーは、ヴィールはバス事故で既に死んだと思っていた。父親の遺産を受け継いだザーラーは、シャッボーと共にインドへ移住してヴィールの祖父母と共に暮らし、彼らの死後も女の子のための学校を経営していたのだった。サーミヤーはザーラーを証人としてパーキスターンに連れ帰る。ザーラーの登場により裁判はサーミヤー側の勝利となり、ヴィールとザーラーはインドへ帰って行った。

 ヤシュ・チョープラーは再びインド映画に金字塔を打ち立てた。インド人とパーキスタン人の禁断の恋を描いた3時間半に及ぶこの超大作は、おそらく今年最大のヒット作となるだろう。これを見て泣かない人は人間ではない。ただ、前述の通り、言語が難しいため、普通の日本人にはチンプンカンプンな部分が多いと思う。

 これだけ絶賛を送っておきながらも、実は僕には前半が退屈で仕方ないように思えた。「Naach」を見た直後に「Veer-Zaara」を見たのがいけなかったのか、単純なカメラワークやボーイ・ミーツ・ガール的ありきたりなストーリーがとても時代遅れに感じた。音楽も古風だし、ミュージカル・シーンにも新鮮さがなかった。デリーで最も大きくモダンな映画館PVRプリヤーの944座席は全て埋まっていたが、観客の反応もそれほどよくなかった。みんな基本的にシ〜ンと見ていた。観客から拍手が沸き起こったのは、最初のシャールク・カーンの登場シーン、途中のアミターブ・バッチャンとヘーマー・マーリニーの登場シーンくらいだ。インターミッションの時点で僕は「実は今年最大の駄作では・・・」と不安になっていたのだが、後半になって映画は突然の急展開を迎え、涙が止まらなくなる。よって、この映画の最大の欠点を挙げるならば、前半が冗漫すぎることだ。

 細かいことはあらすじで書いてしまったのであまり解説することもないが、ひとつだけ囚人番号786のことについて書くべきだろう。初公判においてサーミヤーは、相手弁護士の名前をわざと何度も間違えて言う。弁護士は怒ってそれを何度も直す。するとサーミヤーは言う。「名前を間違えられてそんなにお怒りになるなら、22年間ラージェーシュ・ラトールや囚人番号786という誤った名前で呼ばれ続けたヴィール・プラタープ・スィンの気持ちがお分かりでしょう!」見事な論法だった。

 主演はシャールク・カーン、プリーティ・ズィンター、ラーニー・ムカルジーの3人である。だが、演技という観点から見たら、3人ともさすがの演技はしていたもののベストの演技はしていなかったのではないかと思う。逆に言えば、いかに今や押しも押されぬ大スターになったこの3人でも、ヤシュ・チョープラーの前では個人技があまり許されなかったということだろう。自分のなすべき演技を忠実に行っていた感じで、それは映画のバランスを安定させていた。逆に、脇役陣は個人技が目立った。アミターブ・バッチャン、ヘーマー・マーリニーは、一瞬だけの出演ながら観客の脳裏に鮮明に残る活躍をしていた。シャッボー役のディヴィヤー・ダッターも、使用人のくせにやたらかわいらしくて、彼女の放すパンジャービー語の方言は強烈に印象に残った。脇役陣はヤシュ・チョープラー映画だからということで張り切りすぎていたかもしれない。アヌパム・ケール、キラン・ケール、ボーマン・イーラーニーなどは適切な演技をしていた。

 音楽は故マダン・モーハンによるもの。マダン・モーハンは1950年代〜70年代に活躍した映画音楽家で、1975年に死去している。今回ヤシュ・チョープラーは彼の未発表曲を現代風にアレンジして映画中で使用した。また、歌はラター・マンゲーシュカルをはじめ、ウディト・ナーラーヤン、ソーヌー・ニガム、ジャグジート・スィンなどが歌っている。このヤシュ・チョープラー、マダン・モーハン、ラター・マンゲーシュカルの3人がひとつの映画に揃ったことは初めてだという。そういうこともあって「Veer-Zaara」の音楽は現在大ヒットしており、映画公開前に既に100万枚を売り上げたという。ただ、音楽は古風な印象を否めず、もし現代の若い音楽家にやらせていたら、もっとよくなったかもしれないと思ってしまった。

 ロケ地で特定できた場所がいくつかあった。ヴィールとザーラーが最後にインドへ帰っていくシーンは、当然のことながら印パ国境のワーガー。ヴィールとザーラーがラーハウルで最後に出会ったモスクは、デリーのオールド・フォートにあるキラーエ・クフナー・マスジドだと思う。ラーハウルの裁判所の外見に使われていた建物は・・・一瞬マイソールのマハーラージャーの宮殿ではないかと思ったが、勘違いかもしれない。

 言語のことをもう一度説明すると、この映画で話されている言葉は半分以上パンジャービー語である。前半、ヴィールとザーラーがパンジャーブの村へ行くシーンでは、ほとんどのセリフがパンジャービー語となる。アミターブ・バッチャンとシャールク・カーンはパンジャービー語で会話を交わす。一方、ラーハウルのザーラーの家では、ディヴィヤ・ダッターがコテコテのパンジャービー語を話す。特にディヴィヤ・ダッターの演じるシャッボーはストーリー上重要な情報を話すため、パンジャービー語が分からないとあらすじを理解することが困難になるだろう。ザーラーやシャッボー以外の家族、牢屋の看守、サーミヤーを含む弁護士、裁判官などは、アラビア語・ペルシア語を多用したウルドゥー語を話す。よって、生粋のヒンディー語はあまり出てこない。

 ヤシュ・チョープラー自身ラーハウル(現パーキスターンのパンジャーブ州)生まれで、印パ独立と共にインドに移住してきた経歴を持つ。「Veer-Zaara」はヤシュ監督自身の思い出が何らかのベースになっている映画なのではないかと思う。パンジャービー語が多用されるのも、監督の望郷心の表れかもしれない。

 インド映画にまた新しいカップルが誕生した――ヴィールとザーラー。今年最大のヒット作となることは確実。2004年必見の映画の1本である。

11月13日(土) Mughal-e-Azam

 ディーワーリーに同時公開された4本のヒンディー語映画の内、最も異彩を放っているのは何と言っても「Mughal-e-Azam」である。「Mughal-e-Azam」は1960年に公開されたインド映画史上最大の歴史スペクタクル映画で、数々の記録と伝説を生み出した傑作中の傑作だ。15年の歳月、そして1本平均100万ルピーで映画が作られていた時代に、その15倍にあたる1500万ルピーの予算を費やして制作されたという事実だけでも驚嘆に値する。もっとも、時間と金だけ費やせばいいというものではない。しかし、これだけ多大な時間がかかってしまったのは、「Mughal-e-Azam」制作にいくつか不測のトラブルが付きまとったからだ。最も大きかったのは、1947年の印パ独立である。スポンサーやスタッフの多くがパーキスターンに移住してしまったため、映画制作は中断を余儀なくされた。その1年前の1946年にはサリーム王子を演じる予定だったチャンドラモーハンが病死するという不幸もあった。映画撮影が再開されたのは1951年になってからである。もうひとつインド映画界にとって大きな転機だったのは、1957年にインドにカラー映画の技術が上陸したことだ。カリームッディーン・アースィフ監督は実験的にいくつかのシーンをカラーで撮影した。よって、「Mughal-e-Azam」は基本的に白黒映画でありながら、一部だけカラーになっている(85%白黒、15%カラー)。見ていると突然カラーになるのでけっこうビックリする。カラー部分の出来があまりによかったため、アースィフ監督は全編カラーで撮影しなおそうとしたらしいが、アースィフ監督の夢はスポンサーによって制止され、部分カラーの白黒映画という、今から見るとかなり変則的な構成で公開された。

 まずは映画プロフィールを紹介しておく。「Mughal-e-Azam」とは「偉大なるムガル帝国」という意味。監督はカリームッディーン・アースィフ、音楽はナウシャード。キャストは、プリトヴィーラージ・カプール(カリシュマー&カリーナー・カプールの祖先)、ディリープ・クマール(当時の大人気スター)、マドゥバーラー(インド映画史上最高の美人と言われる)、ドゥルガー・コーテー、ニガール・スルターナーなど。

 そして、「Mughal-e-Azam」公開から44年の歳月が過ぎ去った。この間に、「Mughal-e-Azam」に関わった人々は次々に死去していった。1969年にはマドゥバーラーが、1971年にはアースィフ監督が、1972年にはプリトヴィーラージ・カプールが、1991年にはドゥルガー・コーテーが、2000年にはニガール・スルターナーが死去した。後に残った主要メンバーは、主演のディリープ・クマールと音楽監督のナウシャードの2人くらいだ。しかし、人は死ねども作品は残るものだ。そしてときに、時間の経過と共にますます作品は輝きを増すものだ。2004年10月12日、「Mughal-e-Azam」はまたひとつ新たな伝説をこのヒンドゥスターンの地に刻み込むためにスクリーンに舞い戻ってきた。文字通り、輝きを増して・・・。全編カラーの「Mughal-e-Azam」!故アースィフ監督が遂げることのできなかった夢が、技術の進歩により可能となったのだ。白黒の長編映画をカラー化する技術はハリウッドでもまだ例がないという。ハリウッドはTV公開に足りるだけのカラー化ぐらいしか今までやっていなかった。だが、ボリウッドは前代未聞の偉業に挑戦し、それを実現させてしまった。ボリウッドが技術的にハリウッドに勝った最初の例だと言える。

 カラー版「Mughal-e-Azam」の予算は5000万ルピー。カラー化はインド芸術アニメ学院が請負い、2002年から始められた。まずはカラー化のソフトウェアを制作するのに18ヶ月の時間が費やされ、実際の着色作業にはさらに10ヶ月が費やされた。着色だけでなく、音楽もオリジナルの音楽監督ナウシャードの監督の下、再録音とデジタル・リマスタリングされた。改めて発売されたサントラCDを買って聴いた限りではそれほど音がよくなっているように思えなかったが、映画館で聞いたらその音のきれいさに驚いた。カラー版は白黒版に比べて27分短くなっており、2曲がカットされた。

 今日はその全編カラーの「Mughal-e-Azam」をPVRアヌパムで神妙に鑑賞した。以前僕はDVDで白黒版の同映画を見ており、その質の高さと独特の雰囲気に感動していた。つまり、この映画を見るのは2回目ということになる。しかし、今日のこの体験は、その初見の感動を遥かに越えた。まさに歴史的体験。そして映画館でクラシックの名作を鑑賞することができるこの幸せ。映画館は満席となっており、いつもに比べて年配の人が多かった。おそらく44年前に映画館で「Mugahl-e-Azam」を見た世代だろう。隣に座っていたおじさんは、最初のミュージカル・シーン「Mohe Panghat Pe」が始まった辺りから目をこすり始め、その後何度も何度も涙をぬぐっていた。僕もついついつられて目頭が熱くなった。きっとこの映画に対して何か思い出があるのだろう。ディリープ・クマール自身も、試写会でこの映画を見終わった後に涙を流し、「夢だった・・・」と語ったという。同じように涙を流した年配の映画ファンは少なくないと思う。

 是非見てもらいたい映画ではあるが、実は話されている言語が難解な演劇調のウルドゥー語なので、ヒンディー語の知識だけでは全く太刀打ちできない。古典映画が好きな人向け、ということにしておく。一応簡単にあらすじだけを載せる。いつもやっているナヴァラサ評は、この古典的名作には失礼に思えるのでやめておいた。




ディリープ・クマール(左上)、マドゥバーラー(左下)、
プリトヴィーラージ・カプール(右)


Mughal-e-Azam
 ムガル朝第3代皇帝ジャラールッディーン・ムハンマド・アクバル(プリトヴィーラージ・カプール)は、長年待ち望んだ息子を聖者シェーク・サリーム・チシュティーの恩恵により授かった。息子はヌールッディーン・ムハンマド・サリーム(ディリープ・クマール)と名付けられ、大切に育てられた。だが、軟弱な男に育つことを危惧したアクバルはサリームを宮廷の豪奢な生活から追い出して辺境地帯へ送り込んだ。サリームは勇ましい戦士に成長し、敵を次々と撃破して、ムガル王朝の領土を広げた。

 サリームは約20年振りに王宮へ戻って来ることになった。サリームの母親ジョーダー(ドゥルガー・コーテー)はずっと息子の帰りを待ちわびていた。サリームは王宮で盛大に迎えられる。侍女のバハール(ニガール・スルターナー)は、サリームの気を惹いて何とか将来の皇帝の后になろうと野心を燃やすが、サリームが恋に落ちたのは、ジャナマーシュトミー(クリシュナの誕生日)に踊りを踊った踊り子のアナールカリー(マドゥバーラー)だった。サリームとアナールカリーは身分の差を越えた禁断の恋へ足を踏み入れるが、バハールはそれを邪魔する。サリームとアナールカリーの恋愛は遂にアクバルの知るところとなり、アナールカリーは捕えられて牢屋に入れられてしまう。アクバルはアナールカリーにサリームを忘れるよう、またサリームに彼女のことを忘れさせるように命令する。

 アナールカリーが解放されると、バハールはサリームに告げ口をする。アナールカリーは黄金と引き換えに牢屋を出て、最後に踊りを踊って宮廷を去る、と。サリームはその告げ口を信じ込んで激怒し、アナールカリーをぶつ。アナールカリーはサリームに対する愛を明らかにするため、アクバル、サリーム、ジョーダーの前で「恋をしたなら何を恐れることがあろうか」という内容の歌を歌って踊りを踊る。激怒したアクバルはアナールカリーを再び捕える。サリームはアナールカリーを連れて宮廷を脱出しようとするが果たせなかった。アナールカリーはまたも捕えられ、サリームはデカン高原の戦場に送られる。

 アクバルはアナールカリーを年老いた石工と結婚させようとするが、一計を案じた石工はそれをサリームに密告する。サリームは怒ってアクバルに反旗を翻す。アクバルは出陣前にアナールカリーを死刑にしようとするが、サリームの忠実な部下、ラージプートのドゥルジャンは彼女を救い出してサリームの元へ駆けつける。アクバルとサリームの戦争は避けられない状態となった。アクバルは1人息子と戦わなくてはならないことに心を痛めるが、ヒンドゥスターンの運命を第一に考えなくてはならない皇帝の威厳に賭けて、謀反人を撃破せねばならなかった。戦争はアクバルの勝利に終わったが、サリームは殺されず生け捕りにされた。アナールカリーはドゥルジャンに連れられてカーンプルに匿われていた。

 宮廷ではサリームの裁判が行われた。アクバルはアナールカリーを引き渡すことを求めるが、サリームは拒否する。それにより、アクバルはサリームに死刑を宣告せねばならなかった。死刑執行の日、サリームは「今日、私が死ぬ日、それは愛の勝利の日だ!」と宣言し、意気揚々と死刑台へ上る。サリームが死刑になる瞬間、その場にアナールカリーが現れ、サリームの死刑は中止となる。アナールカリーは生きたままレンガの中に閉じ込められる刑を言い渡される。死ぬ前にアナールカリーは、最期の願いとして、一瞬だけ女王になることを訴える。サリームは以前アナールカリーに、彼女を女王にさせると約束したのだった。その約束をサリームに破らせないため、アナールカリーはその要望を出したのだった。アクバルはそれを受け容れ、サリームとアナールカリーは束の間の幸せを楽しむ。そしてそれが終わると、アナールカリーはサリームに睡眠薬を嗅がせ意識を失わせる。

 アナールカリーの死刑執行のときがきた。そのとき、彼女の母親は昔アクバルが彼女に交わした約束を思い出す。「何かひとつ何でも望みを叶えてやろう。」そう言ってアクバルは彼女に指輪を与えた。母親は指輪を見せてその約束をアクバルに思い出させ、娘の命を助けてくれるよう頼む。最初アクバルは拒否するものの、初代皇帝バーバルから伝わるムガル王朝の正義の象徴、天秤が小さな指輪によって傾いたことにより思いなおす。

 アナールカリーはレンガの奥に閉じ込められた。しかし床には仕掛けがあり、彼女は地下の秘密トンネルに降りていた。アクバルは彼女の母親を地下に連れてきて、アナールカリーと引き合わせる。ヒンドゥスターンの皇帝アクバルは、絶大な権力と責任ゆえに、アナールカリーの命を助けることだけしかなかった。アクバルはアナールカリーと母親に、このまま秘密トンネルを通って国外へ出るよう指示する。サリームには彼女の生存は明かされることはなかった。その後、サリームはムガル朝第4皇帝ジャハーンギールとなったが、アナールカリーがどうなったかは・・・知る者はいない。ただ、ヒンドゥスターンの地のみが、アクバルの苦悩と偉業を記憶していた。

 白黒映画をカラー化することには少なからず批判がある。古典的名作のカラー化は、クラシック作品に対する冒涜だと主張する意見も聞かれた。しかしおそらく、そういう批判をする人はカラー版を見ていないのだと思う。一度でもカラー版「Mughal-e-Azam」を見れば、その批判が正鵠を射たものでないことが明らかになるだろう。白黒映画をここまで自然な発色に変えることができるのは魔法としか言いようがない。感動的な体験だった。

 そして何よりも嬉しかったのは、古典的名作を映画館で、大きなスクリーンで、インド人観客と共に見ることができたことである。僕はインド映画ファンとして、なるべく古典的名作も見たいと思っているが、同時に「映画は映画館で見るべし」という自身の美学に縛られており、あまり進んで昔の傑作を見ていない。インド映画のタイトルがDVDで出揃ってくれたおかげで、映像や音声の質は格段に進歩したが、それでもTV画面で見るのとスクリーンで見るのとでは天と地の違いがある。だが、「Mughal-e-Azam」のカラー化の成功は、そんな僕の弱点を解消してくれる予感を沸き起こさせてくれた。これから過去の傑作のカラー化が進み、コンスタントに映画館で公開されるようになるかもしれない。今年8月には、ムンバイーで「Sholey」(1975年)が再公開されて話題になった。こういうリバイバルの風潮は僕は個人的に歓迎したい。

 見所だらけの映画ではあるが、僕が一番好きなのは「Teri Mehfil Main Kismat Aazmakar(君の宴でわたしもわが運命を試してみましょう)」のミュージカルと、「Pyar Kiya To Darna Kya(恋をしたら何を恐れようか)」のミュージカルである。前者は、アナールカリーとバハールがサリームの前でカッワーリー(イスラーム宗教歌の一種)の喉自慢対決をするシーンである。バハールはアナールカリーとサリームの恋愛を皮肉って、「恋に狂った男女の結末は死、その無様な最期をじっくりと見てやりましょう」と歌うのに対し、アナールカリーは「涙なくして人生何が楽しいものか、恋に死んでも世界は恋人たちをいつまでも記憶するだろう」と切り返す。2人の恋の哲学を聞き終わったサリームは、1本のバラを折り、バハールにはバラの花の部分を、アナールカリーにはバラの茎の部分を渡す。バハールの無難な恋の結末は花、アナールカリーの一途な恋の結末は棘。見事なシーンだと思う。後者のミュージカルは、アクバルにサリームを忘れるように強要されたアナールカリーが、アクバルやサリームの前で、声高々に「恋をしたんだ、泥棒をしたわけじゃない、何も恐れることはない、殺すなら殺してみろ」と宣言した歌である。白黒版では、このミュージカルのときに突然カラーになる。シーシュ・マハル(鏡の間)を再現したセットは鏡や宝石で飾り立てられ、観客の目を圧倒する。カラー版でもその美しさは健在で、元々カラーだっただけあって他の部分よりも色は天然に近かった。ひとつひとつのミュージカルには重要な意味が含まれており、インド映画ではセリフと同時に歌詞にも注意を払わなければならない。ストーリーと挿入歌の歌詞の関連性は、インド映画の良し悪しを見極める重要な要素である。

 最後に、「Mughal-e-Azam」に関する伝説をいくつかピックアップして掲載しておく。

●映画公開1週間前、ムンバイーの映画館マラーター・マンディルの予約が開始されたとき、窓口には10万人の人が詰め掛けた。1.5ルピーのチケットを買うために2kmの列ができ、ブラックマーケットではチケットの値段は100ルピーまで跳ね上がった。

●1960年、マラーター・マンディルでプレミア上映されたとき、中に入れたのはシャーヒー・ファルマーン、つまり皇帝からの招待状が届いた者のみだった。シャーヒー・ファルマーンは赤いベルベットにウルドゥー語で書かれ、アクバルナーマー(アクバルの名の入った印章)の封印がしてあった。

●1960年、マラーター・マンディルで公開されたとき、封切前に7週間先まで席は完売していた。映画は3年間連続で公開され続けるという前代未聞のロングヒットを記録し、この記録は44年間破られていない。

●映画公開時、マラーター・マンディルには12mの高さのプリトヴィーラージ・カプール(アクバル)の立て看板が立てられた。

●映画公開時、マラーター・マンディルの隣では映画撮影で使われた小道具が展示された。その後、展示物はムンバイーのジャハーンギール美術館に移された。

●公開当時の興行収入は3000万ルピーで、現在までの歳入額は30〜50億ルピーにのぼる。

●当初、アナールカリー役はナルギス(サンジャイ・ダットの母親)、サリーム役はチャンドラモーハン、アクバル役はサプルーが演じることになっていた。

●当時、ディリープ・クマールとマドゥバーラーは本当の恋人同士だった。

●映画の台本はウルドゥー語で書かれていた。

●戦争シーンでは、インド陸軍ジャイプル連隊の2000頭のラクダ、4000頭の馬、8000人の兵士が、国防省からの特別許可の下に集められた。

●ムガル朝の王宮のセットは、150人の大工、装飾師、画家たちにより10ヶ月以上の歳月を費やされて完成した。

●「Mughal-e-Azam」のセットや衣装を作るため、インド各地から職人たちが集められた。アクバルとサリームの衣装を仕立てるため、デリーからは仕立て屋が、アナールカリーの装飾品を作るためにハイダラーバードから金細工師が、王冠を作るためにコーラープルから銀細工職人が、剣、盾、槍、ダガー、鎧などの武器を作るためにラージャスターンから鉄細工師が、衣装に刺繍を入れるためにスーラトからデザイナーが、足具を作るためにアーグラーから足具職人が呼ばれた。

●マドゥバーラーが身に付けた鉄の鎖は本物で、おかげで彼女は迫真の演技をすることができたが、その代わり彼女は本物の鉄の鎖によってできた擦り傷を治療するため数日間入院しなければならなかった。

●映画中使われた金のクリシュナ像は本当の純金でできていた。

●ジョーダーが着ていたサーリーは、ハイダラーバードのサーラールジャング博物館から借りたものだった。

●信じられないことに、「Mughal-e-Azam」はその年のフィルムフェア賞を逃した。そのとき映画賞に輝いたのは、シャンカル・ジャイキシャン監督の「Dil Apna Aur Preet Parayee」(1960年)だった。

●シーシュ・マハル(鏡の間)でアナールカリーが踊るミュージカル「Pyar Kiya To Darna Kya」だけに150万ルピーが費やされた。当時は100万ルピー以下で1本の映画ができていた。この「Pyar Kiya To Darn a Kya」は、インド映画史上最高のミュージカルのひとつとされている。当時は録音技術が発達しておらず、ラター・マンゲーシュカルはエコー効果を出すために風呂場で歌った。また、音楽監督のナウシャードは、作詞家のシャキールに105回も歌詞を書き直させた。

●ミュージカル「Ae Mohabbat Zindabad...」では、100人のコーラスが使われた。

●1976年、ドゥールダルシャンがアムリトサルで初めて「Mughal-e-Azam」をTV放送したことがあった。パーキスターンのラーハウルには、アムリトサルからのTV電波が届いたため、パーキスターン人たちはこぞってラーハウルに駆けつけた。カラーチーからラーハウルへ行く飛行機は15日間予約でいっぱいになり、ラーハウル中のTV屋は全て品切れとなった。ラーハウルでは250万人の人々が「Mughal-e-Azam」をTVで見た。

11月16日(火) 日本人、逮捕者続出!

 最近立て続けに、インドの新聞の紙面を実名入りの日本人が騒がせているので、警告の意味合いも含めて紹介しようと思う。新聞では実名が載っていたが、ここでは一応プライバシーを配慮してイニシャルにする。それ以外は原文に忠実に訳した。

 まずは11月11日(木)のタイムズ・オブ・インディア紙から。

日本人、空港で麻薬と共に捕まる
 インディラー・ガーンディー国際空港にて9日夜、1.2kgのハッシッシを所持していた日本人男性が、中央産業警備隊(CISF)により逮捕された。容疑者の名前はS.Y.(25歳)で、タイ航空で東京へ向かおうとしていた。

 警察によると、S.Y.容疑者はハッシッシをカプセル状にしており、下着の中に隠していた。警察は、「彼はハッシッシの臭いを抑えるためにカプセルをビニール袋で包んでいた」と述べている。容疑者は、麻薬・向精神性物質法違反で書類送検された。

 S.Y.容疑者が警察に語ったところによると、同容疑者は福岡県出身で、今年11月2日に初めてインドに来た。デリーに着いた後はヒマーチャル・プラデーシュ州へ向かい、7日にデリーに戻って来た。

 S.Y.容疑者は東京で働いていると主張しているが、警察と諜報機関は、同容疑者が国際的麻薬カルテルの一味だと信じている。

 警察は、「容疑者はまだどこから密輸品を手に入れたか自供していない。彼は過去に多くの国を旅行している」と語っている。

 警察は、S.Y.容疑者が、大麻の自生しているヒマーチャル・プラデーシュ州クッルー谷を訪れたのではないかと疑っている。

 仕事をしていながら、この時期にインドを旅行できるというのはあまりありえないので、おそらくフリーターなのではないかと思う。おそらく軽い気持ちでハッシッシに手を出して、記念に日本に持って帰ろうとしたのではないだろうか・・・。だが、インドの警察や諜報機関は彼を「国際的麻薬カルテルの一味」だと信じているという・・・。不謹慎だが吹き出してしまった。それにしても1.2kgも持って帰ろうとするとは・・・しかもインドで見つからなくても、成田空港で見つかる可能性大だろう。

 次は11月15日(月)のタイムズ・オブ・インディア紙から。上のと比べると非常に小さく書かれていた。

麻薬所持で逮捕
 13日昼、135gの高品質なハッシッシを所持していた日本人が逮捕された。容疑者の名前は名前はT.H.(47歳)で、午後3時45分頃にセントラル・コート・ホテルの第35号室にて逮捕された。警察によると、T.H.容疑者は妻と共にインドを訪れており、今年3度目のインド旅行中だった。

 なぜこの人がハッシッシを持っていたことが警察に分かったかは書かれていなかった。インドでよくあるのが、ホテルに泊まっていると突然警察が入ってきて部屋の捜索を始め、予め警察が持っていた麻薬を、いかにも探し出して発見したかのように取り出し、宿泊者に賄賂を要求するというトラブルである。こういう話は聞くだけで、実際に自分の身に起こったことがないので、本当にある話なのか分からないが、この記事はどうもその詐欺が大袈裟になってしまった可能性がある。もちろん、本当にハッシッシを持っていて、その情報が何らかのルートで警察またはホテルのオーナーに伝わって逮捕、という可能性も十分にある。セントラル・コート・ホテルとは、コンノート・プレイスにある中級ホテルである。

 最後の記事は、多少不可思議な事件である。11月16日(火)のエクスプレス・ニュースライン紙(インディアン・エクスプレス紙の折込版)から。

日本人が空港で裸に、困った警察、病院に搬送
 15日、東京行き航空機への搭乗を拒否した日本人が、空港の外で裸になるという事件が発生した。男は日本語しかしゃべらず、日本人にしか従わなかったため、空港警備隊は何が起こっているのか分からなかった。男はヴィームハンス病院へ運ばれた。

 M.S.は、午前8時45分発東京行きの航空機に搭乗するためにインディラー・ガーンディー国際空港に到着した。登場前のセキュリティーチェックの後、突然騒ぎ出して搭乗を拒否した。M.S.は逃げ出そうとしたが警備員に阻止された。男は航空会社スタッフや警備員に、飛行機に搭乗したくないと主張した。

 「彼はその後また、非搭乗手続きをせずに出発ラウンジから逃げ出そうとした。手続きを完了してから、彼は解放された。」

 1時間後、男はプリペイド・タクシー・スタンド近くの空港建物の外で裸になっているところを発見された。

 警察と中央産業警備隊は彼を連れて空港管制室の室長のところへ行った。インド空港局の医者が呼ばれた。これらの間、M.S.は話し続けたが、ほとんど理解できなかった。

 医者は彼をサフダルジャング病院へ搬送した一方で、警察は彼の持ち物を検査した。バッグの中からは米国、インド、日本の通貨が出てきた。

 その後M.S.はヴィームハンス精神病院に送られ、日本大使館にも連絡された。

 なんとなく「犬のお巡りさん」の歌を思い出してしまった。よっぽど日本に帰るのが嫌だったのか、それともよっぽどインドが好きだったのか。だが、空港で裸になるのは異常としか言いようがない。どれくらい裸か知らないが、おそらくすっぽんぽんだろう。挙句の果てには精神病院に送られてしまったか・・・。この人ももしかしたら麻薬か何かをやっていたのではないかと思う。だが、インドに来て精神に異常をきたす人というのは少なくないので、麻薬とは関係ないかもしれない。インドは何事も極端な国なので、精神に極端に負担がかかることがある。それに打ち克てないと、精神的にバランスを崩してしまう。インドに長くいる日本人を見ていると、やたら極端な人が多いように思える(僕もその1人か)。インドでは極端に生きていかないと、周囲の極端さに押し潰されてしまう。つまり、自分の確固たるスタンスがない人は、あまりインドには向かないかもしれない。とにかく、M.S.氏がどうなっているのか心配である。

 これら3つの記事から言えることは、安易に麻薬などに手を出して日本人の評判を落とさないでください、ということだ。今日のインディアン・エクスプレス紙の折込では日本の大特集がしてあって、在印日本大使館の榎大使や在日インド大使館のトリパーティー大使などのインタビューが載っていた。日本もようやくインドに対して関心を示しつつあることがひしひしと感じられ、インドも日本の態度の変化を敏感に感じ取っている。「いつかインドの時代が来る!」そう信じて多くの人々がインドに関わりながら何十年もの時間を耐え忍んできた。「いつか!」「いつか!」日本人がインドについて書いた昔の記事を読むと、既にそのときからそういう根拠のない夢と自信が多く見受けられる。だが、インドの発展は長い間思うように行かなかった。それが変わってきたのはここ数年である。遂に「いつかインドの時代が来る」という予想が現実となりつつある。そんなときに日本のイメージに泥を塗るようなことをするのは好ましくない。インドが日本を必要とする以上に、日本がインドを必要とする時代はすぐにやって来る。幸い、今のところ多くのインド人は日本に対して好意的な感情を持っている。我々は、その親日感情をうまく育んでいかなければならない。また、それと同時になるべく日本人のインドに対するイメージを悪くしないように努めてなければならない(もちろん事実を隠す必要はないが・・・)。確かにケシや大麻はそこら辺に自生しているし、インドの文化は麻薬を許容している部分があるが、法律で禁止されていることをすると罰せられるのは当然のことだ。「麻薬をやらなきゃインドは分からない」などとうそぶく人の中に、僕は本当のインド愛好者はいないと信じる。

11月17日(水) 日本人麻薬密輸組織?

 昨日は日本人が麻薬所持の疑いで連続して逮捕されたことについて書いたが、その関連で新たな記事が飛び込んできた。17日付けのザ・ヒンドゥー紙より。

日本人麻薬密輸組織、摘発
 過去数年間、デリーは国内外の、特にナイジェリアの麻薬密輸業者の中継点となってきた。ところが、ここ数日間ハッシッシを所持していた日本人の逮捕が相次ぎ、新たな麻薬密輸の実態が明るみに出ている。

 最初にインディラー・ガーンディー国際空港で逮捕された日本人は、11月9日、1.2kgのハッシッシを下着に隠し、バンコク行きの航空機に搭乗しようとしていた。その4日後、別の日本人T.H.が、135gの高品質ハッシッシを所持していたことで、コンノート・プレイスのホテルで逮捕された。

 麻薬局のDLカシヤプ警視副総監は、これらの逮捕に驚きと不安を露にしながら、「我々はナイジェリア人、イスラエル人やヨーロッパの国々から来た外国人を麻薬密輸の罪で逮捕してきた。しかし日本人麻薬密輸組織の存在は初耳だった」と語っている。

 麻薬密輸の横行の大きな理由は、国際市場の中で莫大な利益を得ることができることだ。日本人をはじめとする他の国々の人が、阿片、ヘロイン、ハッシッシなどが比較的安く手に入るインドに惹き付けられ、密輸に関わるようになるのは不思議ではない。

 ジャンムー&カシュミール州やヒマーチャル・プラデーシュ州では大麻が自生しており、簡単にハッシッシが手に入る。だが、高品質のヘロインは初摘みのポピーのさやから製造され、マディヤ・プラデーシュ州のマンドサウルやラージャスターン州のビワーニー・マンディーなどで作られている。取調べによると、T.H.容疑者はヒマーチャル・プラデーシュ州のマナーリーからハッシッシを持って来ており、当地では簡単に手に入ると自供している。T.H.容疑者が逮捕されたときには、彼の妻はまだマナーリーに滞在していた。

 警察は麻薬密輸に関わる日本人の増加についてまだ調査を進めていないが、これまでの取調べにより、麻薬密輸業者は警察の目を避けるために運び屋から麻薬を受け取り、それを小包や飛行機で国外に密輸することが明らかになっている。彼らは通常、学生や旅行者と偽っており、麻薬が簡単に手に入る場所に定住することもある。

 9日と13日に逮捕された日本人に関連があったのかどうかは分からないが、とにかくデリー警察は日本人麻薬密輸組織なるものがあると信じており、そろそろその一斉摘発に動き始める気配を見せている。本当にそういうものがあるかもしれないが、僕の直感では、逮捕された2人の日本人はただ単に個人的に麻薬を買っていただけだと思う。

 一番気になるのは最後の一文だ。僕もインドに住み始めて3年以上が経過しているので、警察がもしまず長期滞在の日本人に疑いの目を向けるとしたら、僕にも向く可能性がある(もっと長く住んでいる人もゴロゴロいるが・・・)。しかも僕はヒンディー語を勉強しているので、警察から「お前、現地の麻薬業者と取引するためにヒンディー語勉強してんだろ!」と尋問されたら何と答えればいいのか・・・。もちろん、これからインドに来る日本人旅行者も、以前よりも警察のチェックが厳しくなることはありうる。

 今、一番警戒の目が光っている時期なので、現在インドにいて、これを読んでいる人は、絶対に麻薬を買ったり国外に持ち出したりしないよう気を付けてもらいたい。

11月17日(水) 「Mughal-e-Azam」カラー化の秘密

 16日付けのヒンドゥスターン・タイムス紙の折込版HTシティー紙に、「Mughal-e-Azam」のカラー化の秘密に関する記事があった。同映画のウェブサイトや他の新聞記事なども参考にして、カラー化の秘密の迫ってみた。なお、同映画のレビューは11月13日の日記で書いたのでそちらを参考にしていただきたい。

 インド史上最大の歴史スペクタクル映画「Mughal-e-Azam」の着色は、ムンバイーにあるインド芸術アニメ学院(IAAA)が行った。当初は米国フロリダ州にあるウェストレイク社が着色を請け負う予定だったらしいのだが、予算の関係で国内で行われることになったらしい。映画には数々の宝石とカラフルな衣服が使用されたため、着色は困難を極めた。IAAAはいきなり最も着色の困難な映画から着手したといっていいだろう。着色には3年の歳月と1億ルピーの費用がかかったという(カラー化の予算は3000万ルピーとも5000万ルピーとも言われている。正確な数字は発表されていないかも)。このクラシックの名作のカラー化は、いったいどのようなプロセスで行われたのだろうか?

1.修復作業

 まずはウェットゲート・スキャナーと呼ばれるスキャナーでオリジナルのネガをスキャンした。ネガの数は30万フレーム、データサイズは合計3000GB。最初の仕事は、それぞれのフレームのガンマ補正、コントラスト補正、スクラッチや染みの除去、破れたフレームの縫合などを行うことだった。例えば染みの除去は以下のように行われた。



埃や細菌のせいで歪んでしまったフレームも正しい状態に補正された。例えば以下のように。



また、古い映画は画面がグラグラ揺れるのだが、その揺れも修正されてちゃんと揺れずに再生できるようになった。焦点が合っておらずぼやけたフレームはピントを合わせた。

2.着色

 フレームの修復が完了した後は、IAAAにより開発されたソフトウェア、エフェクト・プラスとプロジェクト・マネージャーを使って各フレームを着色した。インドで開発されたこの自然着色ソフトウェアの正確性はすさまじい。ディリープ・クマールの着ているコートの着色をソフトウェアが行ったところ、その数日後に実際に映画中に使用されたコートが発見された。その色は、着色ソフトウェアによって指定された色と全く同じだったという。いったいどういう仕組みになっているのか想像も付かない。また、ムガル朝時代の色彩を忠実に再現するため、歴史学者たちの助言を受けたり、歴史書などが参考にされた。



 オリジナルでは、シーシュ・マハル(鏡の間)のシーンなどがカラーで撮影されていた。しかし当時はテクニカラーという旧式のカラー方式で、自然な発色ではなかった(サリーム王子の髪の色が茶髪になっていたのはそのためだと思われる)。今回のカラー化では、元々カラーだったフレームも自然な発色に補正された。

3.カラーバランス

 着色作業が終わったフレームは、ラージタル・スタジオ社に送られた。フレームはひとつひとつ着色されたため、明るさが一定していない。よって同社がカラーバランスを行った。

4.リフォーマット

 その後、フレームはOnyx3200スーパーコンピューターとインフェルノというソフトウェアを使って、1.85アメリカン・シネマスコープというサイズにリフォーマットされた。その後、映画はネガに落とされた。

5.音声

 音声のアップグレードは米国のチャンス・プロダクションが行い、元々モノだった音声はドルビー5.1ミックスのステレオサラウンドとなった。挿入歌の歌声は抽出され、オリジナル版の音楽監督ラージュー・ナウシャードがウッタム・スィンやグルミート・スィンと共に伴奏を再録音した。その際、120人のミュージシャンの演奏と60人のコーラスが追加された。

 着色の予算が一定していないのは、おそらくこれがビジネスになると考えているからではないかと思われる。新しい記事になればなるほど、着色にかかった予算の額が増えているような気がする。白黒映画を、映画館のスクリーンで上映するに足りるだけの品質でカラー化する技術はまだハリウッドも確立しておらず、今のところインドの独占状態だ。当然、ハリウッドも多大な関心を示しているという。着色のプロセスを見ると、IT大国の名に恥じないソフトウェアの技術と、人海戦術の両方が必要となるみたいだ。「Mughal-e-Azam」の着色は、50人の技術者が8時間交代24時間体制で行ったという。白黒映画のカラー化は、IT技術と安い人件費の両方が揃った、インドならではのビジネスになっていくかもれしない。

 ところで、同HTシティー紙には、映画監督のマヘーシュ・バットによる、「カラー化すべき映画トップ5」も掲載されていた。

1.グル・ダット監督「Pyaasa」(1957年)出演:グル・ダット、ワヒーダー・レヘマーンなど
2.ビマル・ローイ監督「Devdas」(1955年)出演:ディリープ・クマール、ヴィジャヤンティーマーラー、スチトラー・セーンなど
3.ビマル・ローイ監督「Sujata」(1959年)出演:ヌータン、スニール・ダット、シャシカラーなど
4.ラージ・カプール監督「Shree 420」(1955年)出演:ラージ・カプール、ナルギス、ナディーラーなど
5.アミト&ソーンブー・ミトラ監督「Jagte Raho」(1956年)出演:プラディープ・クマール、スミリティー・ビシュワースなど

 クラシック映画に疎い僕はこの内ディリープ・クマール主演の「Devdas」しか見たことがない。ただ単にマヘーシュ・バット監督が自身の希望を述べているだけで、これらの映画のカラー化が決まったわけでもないし、他にもカラー化すべき映画はたくさんあるだろう。だが、「Mughal-e-Azam」を越える規模の映画はないだろうから、たとえカラー化されたとしても、インパクトは同映画ほどないだろう。逆に言えば、「Mughal-e-Azam」のカラー化が実現したのだから、他の白黒映画の着色はたやすいと言うこともできる。とにかく、昔のいい映画の多くがカラーとなって再び映画館に戻って来る日が待ち遠しい。



 11月24日付けのデリー・タイムズ・オブ・インディア紙に、「Mughal-e-Azam」以外に実際にカラー化が進んでいる映画のリストが載っていた。

1.BRチョープラー監督「Naya Daur」(1957年)出演:ディリープ・クマール、ヴィジャヤンティマーラーなど
2.ビマル・ローイ監督「Madhumati」(1958年)出演:ディリープ・クマール、ヴィジャヤンティマーラーなど
3.グル・ダット監督「Pyaasa」(1957年)出演:グル・ダット、ワヒーダー・レヘマーンなど
4.ビマル・ローイ監督「Devdas」(1955年)出演:ディリープ・クマール、ヴィジャヤンティーマーラー、スチトラー・セーンなど
5.グル・ダット監督「Chaudhvin Ka Chand」(1960年)出演:グル・ダット、ワヒーダー・レヘマーンなど
6.アブラール・アルヴィー監督「Sahib Bibi aur Ghulam」(1962年)出演:グル・ダット、ワヒーダー・レヘマーン、ミーナー・クマーリーなど
7.ヴィジャイ・バット監督「Baiju Bawra」(1952年)出演:バラト・ブーシャン、ミーナー・クマーリー、スレーンドラなど
8.BRチョープラー監督「Gumraah」(1963年)出演:スニール・ダット、マーラー・スィンハーなど
9.ヤシュ・チョープラー監督「Dhool Ka Phool」(1959年)出演:マーラー・スィンハー、アショーク・クマール、ラージェーンドラ・クマールなど

 どうやら次は「Naya Daur」のリバイバル版が映画館で公開されるようだが、この映画の着色は「Mughal-e-Azam」よりも難航しているようだ。「Mughal-e-Azam」の着色作業は1年で終わったのだが、「Naya Daur」は2年かかるという。また、この記事では「Mughal-e-Azam」のカラー化にかかった費用は2000万ルピーと書かれていた。

11月18日(木) タージの斜塔?クトゥブの斜塔?

 日本では、インドの世界的に有名な遺跡タージ・マハルが傾いているという報道がけっこう流れたらしい。それに関して情報を整理してみようと思う。

 まず、どうもタージ・マハル全体が倒壊の危機にあると思っている人がいるかもしれないので、その点を正しておかなければならない。倒れるかもしれないと言われているのは、タージ・マハルの4隅にある塔である。ヒンディー語などの現地語ではミーナール、英語では「ミナレット(minaret)」と呼ばれている塔で、頂上からアザーン(礼拝への呼びかけ)を流したり、灯台みたいな役割を果たしたりする機能がある。ただ、タージ・マハルのミーナールはそういう実用的な目的よりも、もっと装飾的な意味合いの方が強いように思われる。

 僕が初めて「タージ・マハルの塔が傾いている」というニュースを見たのは、10月20日付けの各紙だった。ラージャスターン大学の歴史学者が警鐘を鳴らし、それに従ってウッタル・プラデーシュ州のムラーヤム・スィン・ヤーダヴ州首相が調査団の結成を指示した、という内容の報道だった。

 日本で報道されたのは、11月15日の朝日新聞が第一報なのではないかと思う。ネット版から抜粋してみると、「傾いているとされるのは、タージマハルの四隅に立つ高さ約40メートルの尖塔(せんとう)。インド独立前の1942年、英国による調査でそれぞれ約5〜21センチ外向きに傾いていることが判明した。65年の調査でも、さらに最大1.3センチ傾斜。00年までの3〜4年ごとの政府測量で、2〜3ミリ程度の傾斜拡大が検知されたが、『測定誤差の範囲にとどまる。60年代以降、傾きは止まった』(考古局アグラ事務所のダヤラン所長)としていた。」「傾斜の原因として指摘されるのが、ヤムナ川の水量減少だ。川べりのタージマハルは、建立当時の豊富な水量が構造的安定の前提とされる。上流に人口約1400万人のデリー首都圏を抱える同川は、汚濁と流量減が問題になっている。」

 だが、本当にタージ・マハルの塔は傾きつつあるのだろうか?10月29日付けのザ・ヒンドゥー紙にはそれに関して興味深い記事があった。ウッタル・プラデーシュ州政府がタージ・マハルの斜塔に関して調査を始めたのに対し、ユネスコは「4隅の塔が外側に傾いているのは『建築学的特徴』であり、1983年にタージ・マハルが世界遺産に登録されたときに既にその特徴について記述がされている」としている。1984年にインド考古調査局(ASI)が調査したときにも、塔の傾斜については記述がされており、「何も心配する必要はない」としている。つまり、タージ・マハルの4隅のミーナールの傾斜はオリジナルのデザインであり、塔が倒れることはない、ということだ。「危機に瀕する世界遺産」のリストにもタージ・マハルは載っていない。確かに、某ガイドブックか何かの本に、「タージ・マハルの4本の塔は外側に傾いている。これは、地震などが起こったときに塔が廟に倒れないようにと配慮したためだ」みたいなことが書かれていたように記憶している。

 果たしてどちらの言うことが正しいか分からないが、それほど心配する必要はないかもしれない。だが、タージ・マハル以上に気になるのは、デリーのランドマーク、クトゥブ・ミーナールが傾いているかもしれない、という記事だった。11月16日付けのデリー・タイムズ・オブ・インディアに載っていた。

 記事によると、クトゥブ・ミーナールは、12世紀にクトゥブッディーン・アイバクによって建造されたときにはなかったはずの傾斜が出てきているという。その原因は、後世に2階増築されたことと、その後に発生した地震だとか。

 歴史学者のイルファーン・ハビーブ教授は、「クトゥブ・ミーナールの上部2階は、オリジナルが建造されてから150年後の14世紀後半に付け足された。その後、地震が発生した。これらにより、塔の構造に影響が出た」と述べている。補足すると、クトゥブ・ミーナールの建造が開始されたのは1193年で、完成したのはその後継者の代である。その後クトゥブ・ミーナールは少なくとも2回、1326年と1368年に落雷によって被害を受けたことが記録に残っている。1368年にフィーローズ・シャー・トゥグラクが2階を付け足し、頂上にドームを置いた。1503年にはスィカンダル・ローディーが上階部を修復した。ところが1803年に地震があって頂上のドームは落ちてしまった。1829年には英国人スミス少佐が新しいドームを頂上に乗せたそうだが、似合っていないということで、1848年に除去されてしまった(このドームは今でも塔の南東部に残っている)。確証はないが、クトゥブ・ミーナールは元々高さ100mあったが、頂上に飛行機が衝突したことにより、現在の72.5mになってしまったという話もある。

 クトゥブ・ミーナールが傾いているという説を唱える学者がいる一方で、デリー大学で中世史を教えるスニール・クマール教授は、「クトゥブ・ミーナールの傾きは自然のもので、緯度から7度傾いている。太陽がかに座回帰線に重なり、クトゥブ・ミーナールの真上に来る6月21日に、塔の地面には影がなくなることから、この傾斜は証明できる」と反論している(僕には意味不明)。

 同じくクトゥブ・ミーナールの傾斜について反論するムガル建築専門家のナディーム・リズヴィー氏によると、「ASIの1950年代の報告書に既に傾斜についての記述があり、1960年代にはユネスコの援助により日本人学者(Yama、Moto and Ara)のチームが傾斜について3巻に及ぶ報告書をまとめている」そうだ。

 建築物の傾斜は、土地の土壌の質と、保存の質に依るところが大きいという。タージ・マハルは岩盤と沖積土の上に建っており、クトゥブ・ミーナールは岩盤の上に建っている。果たして本当に傾きつつあるのか、それとも元々傾いていたのかを見極めるためには、継続的な計測が必須だ。デリーからもしクトゥブ・ミーナールがなくなってしまったら・・・何だか寂しいな・・・。

11月21日(日) あの寺院の収入はハウマッチ?

 本日付けのサンデー・タイムズ・オブ・インディア紙に、インド各地の有名寺院の収入について特集がしてあった。その中から、日本人にもけっこう名が知れていると思われる巡礼地を、簡単な解説を添えてピックアップしてみた。

■ティルマラー・ティルパティ(アーンドラ・プラデーシュ州)

 ティルマラー・ティルパティ寺院はインドはおろか世界で最大の巡礼者と寄付金を集めるヒンドゥー教の一大宗教拠点である。ご本尊ヴェーンカテーシュワラ神のご利益は計り知れないと言われ、パッラヴァ朝、チョーラ朝、ヴィジャヤナガル朝など歴代の南インドの王朝からも手厚い保護と寄進を受けた。ヴェーンカテーシュワラ神はバーラージーとも呼ばれ、両目が覆われた奇妙な形をしている。バーラージーの信者はデリーでも多く、この神様の名前がついた商店などよく見かける。同寺院の1日の巡礼者数は、日にも依るが、5000人を下回ることはなく、祭りの日などは10万人を越えると言われている。年間の巡礼者数は1千万人を越えるとか。寺のスタッフだけでも1万8千人いるというから驚きだ。ティルパティ寺院の2003〜2004年の収入は61億4990万ルピー。この内21億5920万ルピーはフンディー(インド古来の為替手形)で、他に定期預金、金貯蓄や、ラッドゥー(お菓子)や散髪の収入があるという。散髪というのは、ヴェーンカテーシュワラ寺院を参拝した巡礼者の多くは頭を丸めて頭髪を寺院に寄進する習慣があるからだ。一方、収入の使い道として、2003〜2004年には、3億2千万ルピーを教育に、2億9340万ルピーを医療に、1億2千万ルピーをヒンドゥー教普及のために使用し、1億ルピーを他の寺院の改修のため州政府に寄付したという。この他、ティルマラー・ティルパティ寺院の経営団体は、病院、貧困者のための家、ハンセン病病院、ヴェーダ遺産保護センターなどを経営しており、植林計画や貯水池建造なども行っている。

■アジメール・シャリーフ(ラージャスターン州)

 アジメールにあるカージャー・モイーヌディーン・チシュティー廟は、インド亜大陸で最も重要なスーフィズム(イスラーム教の一派)の巡礼地であり、インド国内はおろか近隣諸国からも巡礼者を集めている。聖者チシュティーは1192年にムハンマド・ゴーリーの軍隊と共にペルシアからインドにやって来て、アジメールの地で独自のスーフィズム教義「チシュティヤー・スィルスィラ」を説いた。チシュティーの墓の上に廟(ダルガー)を建設したのはマーンダウ王国のスルターンだが、それを完成させたのはムガル朝第2代皇帝フマーユーンである。第3代皇帝アクバルは毎年チシュティー廟を巡礼したとされている。その後、ハイダラーバード藩王国の二ザームにより増築された。非公式の推定では、チシュティー廟の年間の収入は5億ルピーだとされているが、ダルガー経営団体は年間1500万ルピーだと発表している。

■アムリトサル黄金寺院(パンジャーブ州)

 スィク教最大の聖地、アムリトサルの黄金寺院は1577年に第4代グル、ラームダースによって建設された。ダルバール・サーヒブ、ハルマンディルなどとも呼ばれる。黄金寺院はインド史の中でも度々重要な役割を果たして来たが、最も重要な事件となったのは、1984年のインディラー・ガーンディー首相(当時)による黄金寺院襲撃事件だろう。そのときパンジャーブ地方の独立を唱えるスィク教過激派が黄金寺院に立てこもっていたのだが、同首相は宗教的配慮を後回しにして黄金寺院に軍隊を投入した。これが原因となって、インディラー・ガーンディー首相はスィク教徒の護衛に暗殺されてしまい、それがさらにインド全土でスィク教徒に対する暴力事件を引き起こした。2004年〜2005年の黄金寺院の収入は4億7500万ルピー。その内、巡礼者からの現金による寄付金は合計1億5500万ルピー、物品による寄付は1250万ルピー、不動産の賃貸料が330万ルピー、ランガルと呼ばれる公衆給食のための寄付は2400万ルピー、プラサードと呼ばれる供え物のお下がり販売から来る収入は1億ルピーだという。黄金寺院を含む、47ヶ所のグルドワーラー(スィク教寺院)を統括するシローマニ・グルドワーラー管理委員会(SGPC)は、教育機関や病院を経営している。

■ヴァイシュノー・デーヴィー(ジャンムー&カシュミール州)

 ジャンムー近く、ウダムプル地方の標高1700mにあるヴァイシュノー・デーヴィー寺院は、ヒンドゥー教の最も有名な寺院のひとつだ。同名の女神が祀られている。だが、この近辺では度々テロ事件も発生しており、巡礼には命の危険が伴う。それでも巡礼者は後を絶たず、2004年には既に540万人が訪れており、年内に600万人に達すると見られている。年間の平均収入は8〜9億ルピー。現金や物品による寄進の他、金、銀、アクセサリーなどが女神に捧げられる。多くの収入は巡礼者や地元の人のためのインフラ整備などに使われる。これまでに40〜50億ルピーが、巡礼宿建設、食堂への助成金、13kmに及ぶ通路建設、水道設備や下水設備の整備、宿泊地予約のコンピューター化などに費やされた。

■マハーボーディ寺院(ビハール州)

 ボードガヤー(ブッダガヤー)にあるマハーボーディ寺院は、インドを旅行する日本人にとって最も身近な観光地だろう。仏教の開祖である仏陀が悟りを開いた菩提樹の横に建てられた寺院である。と言ってもオリジナルの菩提樹は既に枯れてしまっている。現在マハーボーディ寺院の裏にある菩提樹は、スリランカのアヌラーダプラにある、オリジナルの菩提樹から植樹されて成長した菩提樹から再び植樹されたものだ。マハーボーディ寺院は元々、紀元前3世紀にマウリヤ朝のアショーカ王によって建立されたが、現存しているものは1882年に再建されたものだ。マハーボーディ寺院経営委員会によると、同寺院の年間の平均収入は350〜400万ルピーだそうだ。

■ヴィシュワナート寺院(ウッタル・プラデーシュ州)

 ヴァーラーナスィーにあるヴィシュワナート寺院は、黄金の屋根を持つことから黄金寺院とも呼ばれており、ヴァーラーナスィーの中心的寺院となっている。これは、シヴァ神に捧げられた寺院である。ムスリムによって度々破壊されており、オリジナルがいつ建立されたのかは定かではないが、現存しているのは1776年にインダウルの王女アハリヤー・バーイーによって建造されたものだ。屋根は800kgの黄金で覆われているが、これはそれから約50年後にパンジャーブ王国のマハーラージャー・ランジート・スィンによって寄進されたものである。同寺院の2003〜2004年の収入は1640万ルピーとされている。

 ところで、タイムズ・オブ・インディア紙で各寺院の収入が特集されたのはただの思い付きではない。最近、「カーンチーのシャンカラーチャーリヤ」と呼ばれるジャエーンドラ・サラスワティーがタミルナードゥに逮捕されたことをきっかけに、政治と宗教の関わりが再びクローズアップされているからだ。シャンカラーチャーリヤとは、ヒンドゥー教ブラーフマン社会の最高峰に位置する法主であり、インド全国の聖地に5人いる。すなわち、北インドのバドリーナート(ウッタラーンチャル州)、西インドのドワールカー(グジャラート州)、東インドのプリー(オリッサ州)、南インドのカーンチープラム(タミル・ナードゥ州)、シュリーンゲーリー(カルナータカ州)である。この中でもカーンチープラームを本拠地とする「カーンチーのシャンカラーチャーリヤ」は最高権力を持っており、ヒンドゥー社会や政界に大きな影響力を持っている。その「カーンチーのシャンカラーチャーリヤ」を務める71歳のジャエーンドラ・サラスワティーを、タミル・ナードゥ州ジャヤラリター政権がディーワーリーの日に突然逮捕したのだ。容疑は2ヶ月前の殺人事件への関与。今年9月、莫大な資金力を持つカーンチーの教団が不正な資金運用をしている疑いがあることを指摘した人物が殺害され、その殺人事件の容疑者として既に逮捕されていた14人が、ジャエーンドラ・サラスワティーの関与を認めたのだ。この逮捕劇に真っ先に反対の声を上げたのは、当然ヒンドゥー至上主義を掲げ、ジャエーンドラ・サラスワティーとも親交のあったインド人民党(BJP)。「聖者への不敬を許すまじ!」と徹底的にタミル・ナードゥ州政府を攻撃している。ジャエーンドラ・サラスワティーは、2003年にアヨーディヤー事件解決のため、世界ヒンドゥー協会(VHP)とムスリム団体の協議の仲介もしていた。

 インドの政治の裏には必ず占い師や宗教指導者の影がちらついていると言われている。その伝統は既にネルー政権時代から始まっている。ジャワーハルラール・ネルー自身は占いなどを信じていなかったようだが、彼の内閣で議会省大臣を務めていたサティヤナーラーヤン・スィンは大の占い好きだったという。あるとき、予言者がサルダール・パテール内相の死を予言したことがあった。スィン大臣は慌ててパテール内相に電話をしたが、内相はそれを無視した。果たして占いは現実のものとなり、9ヵ月後の1950年12月15日、占い師が予言した日にパテール内相は死亡した。さらに、別の予言者がスィン大臣に、「TTクリシュナマーチャーリー財相が辞表を提出する日、マウラナー・アーザード教育相が風呂場で転んで4日後に死亡する」と予言した。この予言も的中し、クリシュナマーチャーリー財相が辞表を提出した日、アーザード教育相は自宅の風呂場で転んで意識を失った。スィン大臣がネルー首相に予言のことを伝えたが、ネルー首相は彼を一喝し、すぐにアーザード大臣を医者に診せた。医者はすぐに回復すると診断したが、4日後の1958年2月22日、占い通りアーザード大臣は死亡した。

 ネルーが占いを信じなかったのに対し、娘のインディラー・ガーンディーは迷信深かったことで知られている。インディラーは母親のカムラー・ネルーがベンガル人予言者アーナンダモイー・マーから授かったルドラークシュ(インドジュズノキの実)をお守りとして常に身に付けていたという。晩年にはヨーガ行者のディーレーンドラ・ブラフマーチャーリーがガーンディー家の居候者となり、インディラー首相と夕食を共にするほどだったらしい。彼は大変な食いしん坊として知られていた。ラージーヴ・ガーンディー政権時代はそれほど占い師が政治に関わることはなかったようだが、ナラスィンハ・ラーオ政権時代や国民民主連合(NDA)政権時代には、再び政治と宗教の癒着が激しくなった。

 現在の統一進歩連合(UPA)政権はどうだろうか?聞くところによると、国民会議派のソニア・ガーンディー党首は全ての宗教の指導者にあまねく尊敬を払っているそうだ。彼女は孫の名前をライハーン(Rehan)と名付けたが、これはインディラー・ガーンディーの夫がパールスィー教徒であったことを考慮したペルシア風の名前だという。だが、ソニア党首が特定の人物の信者であることは報告されていない。

11月22日(月) Aitraaz

 今年のディーワーリーは映画祭となった。インドの一般的な映画公開日となっている金曜日にディーワーリーが重なり、しかも次週の月曜日がイードとなったため、野心的な映画制作者たちがこの日に自信作をぶつけてきたのだ。ロマンスの帝王ヤシュ・チョープラーは「Veer-Zaara」を、ボリウッドの暴れん坊ラーム・ゴーパール・ヴァルマーは「Naach」を、スター発掘家スバーシュ・ガイーは「Aitraaz」を11月12日に公開し、そしてそれに古典的傑作「Mughal-e-Azam」のリバイバル版の公開が重なった。公開から既に10日が過ぎているので、これらディーワーリー・カルテットの勝敗もだいぶ明らかになってきた。興行収入で独走態勢を取っているのは大方の予想通り「Veer-Zaara」。それを追うのは「Aitraaz」で、特にムンバイーで高い集客力を見せた。3位は「Mughal-e-Azam」だが、各地で満席御礼が続出しており、ロングランしそうな雰囲気。残念ながら「Naach」は最下位となり、失敗作の烙印を押されてしまった。だが、批評家の間でも評価が分かれており、決してつまらない映画ではない。

 今日はディーワーリー・カルテットの中で唯一まだ見ていなかった「Aitraaz」をPVRアヌパムで見た。4本の映画の内、一番普通のインド映画っぽかったので後回しにしたのだが、案外ヒットしているので見る気になった。女性によるセクシャル・ハラスメントがテーマの大人の映画である。

 「Aitraaz」とは「反対」という意味。プロデューサーはスバーシュ・ガイー、監督はアッバース・マスターン、音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、アクシャイ・クマール、カリーナー・カプール、プリヤンカー・チョープラー、アムリーシュ・プリー、アンヌー・カプール、パレーシュ・ラーワルなど。




アクシャイ・クマール(左)、
プリヤンカー・チョープラー(中)、
カリーナー・カプール(右)


Aitraaz
 携帯電話会社に勤めるラージ・マルホートラー(アクシャイ・クマール)は、住所を間違えて家にやって来たプリヤー(カリーナー・カプール)に一目惚れし、結婚する。やがてプリヤーは妊娠し、ラージは家を購入する。

 会社では創立5周年を記念する式典が行われた。会社の発展に貢献したラージはCEOへの昇進を期待していた。式典にはランジート・ラーイ会長(アムリーシュ・プリー)が出席し、彼の新しい若妻ソニア(プリヤンカー・チョープラー)が新たなMD(専務取締役)に就任したことが発表される。ソニアMDは社員の昇進を発表し、ラージはCEOを飛び越してBD(専務取締役補佐)に昇進する。

 だが、ソニアがラージを特進させたのには訳があった。実は5年前、南アフリカ共和国でラージとソニアは出会っていた。2人は恋に落ち、肉体関係となるが、自身の成功のためなら何でもするソニアの態度にラージは疑問を持ち始めていた。ある日ソニアは妊娠するが、彼女は何のためらいもなしに胎内の子供を中絶しようとする。ラージは怒って彼女と絶好する。だが、ソニアはまだラージのことを愛していた。ランジート会長の妻となって金と権力を手に入れた後、ラージの誘惑を開始したのだった。

 そのとき会社が生産を開始していた携帯電話に不具合があることが分かっていた。その携帯から電話をかけると、電話帳に登録されている別の番号にも同時に電話がかかってしまうという不思議なトラブルだった。ラージはソニアにそのことを伝え、即刻生産を中止するように訴える。しかしソニアはその件の協議のためラージを自宅に呼び、彼を誘惑する。ラージはそれを必死に拒否し逃げ出す。

 次の日ラージが会社に出勤すると、ランジート会長から突然辞表の提出を命令される。ソニアは、ラージにレイプされそうになったと夫に知らせたのだ。ラージは必死に弁護するが、会長からも同僚からも信じてもらえなかった。ラージは親友の弁護士ラーム・チョートラーニー(アンヌー・カプール)に相談するが、彼はラージに、黙って辞表を提出するか、それとも世間のゴシップのネタとなりながらも法廷で徹底的に戦うしか道はないことをアドバイスする。ラージは妻のプリヤーに会社で起こっていることを打ち明ける。プリヤーはラージのことを信じてくれて、一緒に会長を名誉毀損で訴えることに決める。

 有名携帯電話会社の内紛に加え、女性によるセクハラ疑惑事件とあって、メディアは大きくラージとソニアの争いを取り上げた。ラージの弁護士はチョートラーニー、ランジート会長ソニアの弁護士はパテール(パレーシュ・ラーワル)。だが、ラージの身体にソニアの爪の後がいくつも残っていたことから、裁判はラージに不利となる。もしこの裁判に負けたら、ラージは逆にソニアらからレイプ未遂で訴えられ、懲役7年の刑が待っていた。1週間後に判決が言い渡されることになった。

 ところが、ラージの元に有力な証拠が入ってくる。それは、ラージとソニアの間でセクハラ疑惑があったときに、ラージがかけていた電話の記録である。ラージとソニアが床でもつれ合っている間の声の記録が全て記録されていた。これによりプリヤーは全面的にラージを信じることになり、チョートラーニーも裁判での勝利を確信する。ところがチョートラーニーの弟子の弁護士はランジート会長と内通しており、チョートラーニーは交通事故に遭って入院し、そのテープは破壊されてしまう。プリヤーは単身ソニアの元を訪れるが、ソニアは「ラージを私の愛人と認めれば許してあげるわ」と言う。怒ったプリヤーは、弁護士資格を持っていたので、自分でラージの弁護士を務めることに決め、法律の猛勉強をする。

 1週間後、法廷でプリヤーはランジートが不能であることを明らかにし、ソニアが性的に欲求不満だったことを暴露する。また、ラージとソニアが5年前に肉体関係を持っていたこと、そしてソニアがラージの子を身ごもりながらも中絶したことなどの証拠を出す。パテール弁護士はソニアがラージを誘惑した確固たる証拠を求める。そこでプリヤーは、ラージの会社の同僚を証人として呼ぶ。実はラージがソニアに誘惑されたときに電話をかけたのはその同僚だったが、携帯電話の不具合のせいで別の人のところにも電話がかかっており、そのテープがソニアによって破壊されたのだった。同僚もラージの電話は受け取っておらず、留守電センターに音声が記録していた。その音声の記録を呼び出すと、ソニアがラージを誘惑した一部始終が録音されていた。この動かぬ証拠により、ラージは裁判に勝つ。一方、全てを失ったソニアはそれから間もなく飛び降り自殺をしてしまう。

 今年は性をテーマにしたボリウッド映画が多数公開されて話題になったが、この映画もその1本として数えられることになるだろう。しかし、ただ単に過激な性描写で話題を呼んだ他の映画とは違い、この映画のテーマは非常に考えさせられるものであり、映画的にも完成度が高かった。携帯電話の不具合がレイプ疑惑事件解決の最終的な手掛かりにつながる筋はお見事。よって、ディーワーリーに公開された4本の映画は、どれも何かしら見る価値がある映画であると自信を持って断言できることとなった。

 普通、レイプが映画のテーマになると、加害者は男性で、被害者は女性であることがほとんどだ。これは実世界でも変わらず、男女の間で何かしらいざかいがあると、まず疑いの目は男性に向けられる。特に性的なトラブルが発生した場合、事件の背景の精査なしに男性が犯人と決め付けられる。日本でも痴漢の冤罪がけっこう大きな問題となっていると聞く。女性の地位が改善されつつあることはいいことだが、その代わりに男性の肩身が狭くなっていくのは、過渡期だからなのか、それとも社会の何かが歪んでいるのか。「Aitraaz」はまさにその痴漢冤罪がテーマとなっていた。この問題に付随して、中絶、不能、女性の性欲などに関しても触れられていた。ストーリーの導入部分はハリウッドの「ディスクロージャー」(1994年)と似ているが、結末はこちらの方がさらに深められていると言える。また、同じアッバース・マスターン監督の「Ajnabee」(2001年)とも途中まで似通っていたが、やはりこちらの方が完成度が高い。

 「Ajnabee」でもそうだったが、アッバース・マスターン監督の映画は出だしがB級映画っぽい。「Aitraaz」の冒頭のシーン、つまりラージとプリヤーの出会いも、下手なTVドラマよりもさらにしょうもない筋書きだった。だが、ソニアの登場あたりから物語は一気に面白くなり、後は時間が過ぎ去るのも忘れて映画に集中できる。ちなみにアッバース・マスターンとは、2人の兄弟の連名である。アッバース・アリーバーイー・ブルマーワーラーと、マスターン・アリーバーイー・ブルマーワーラーが共同で映画監督をしている。

 主演3人ははまり役。アクシャイ・クマールはプレイボーイの役も純朴な青年の役も似合うが、今回は後者の方。筋肉だけでなく、演技力もある男優であることが最近知れ渡ってきた。カリーナー・カプールも貫禄の演技。カリーナーもイケイケギャルの役と清純な乙女の役を演じ分けることができるが、今回は後者の方。映画カーストの血は伊達じゃない。落ち着きのある大人の演技をしていた。ソニア役、つまり男を誘惑する魔性の女役として、現在のボリウッドでは3人の女優の名前を挙げることが可能だ。すなわち、ビパーシャー・バス、マッリカー・シェーラーワト、そしてプリヤンカー・チョープラーである。この3人の内、誰がソニアを演じてもはまったとは思うが、特に知的かつ情熱的なイメージのあるプリヤンカー・チョープラーはピッタリだった。脇役陣にも隙がなく、アムリーシュ・プリーやアンヌー・カプール、そして後半だけの登場だがパレーシュ・ラーワルらはさすがの演技をしていた。

 法廷のシーンで、弁護士のパテールが面白いことを言っていた。ラージがオフィスの女性の尻を毎回新聞などで叩いていたことについて言及するのだが、そのときヒンディー語の「尻」という単語について話していた。証人として呼ばれたOLは、「尻」と言うのが恥ずかしくて、英語の「bum(尻)」という単語を使っていた。それを聞いたパテール弁護士は、「私のヒンディー語の知識が確かなら、bumとはプッター(puTThaa)、プリシュト(pRiShTh)、またはニタンブ(nitamb)のことのはずだ」と臆面なく発言した。実は、ヒンディー語では「尻」という単語は性器と並ぶくらいの禁句の一種であり、一般的インド人がこの単語を口にすることはほとんどないと言っていいい。僕が昔、フィジーで話されているヒンディー語の語彙調査をしていたときも、調査協力者から「尻」という単語を聞き出すことはできなかった。代わりに「ターング(Taang)」という単語が出てきたが、これは「脚」という意味で、つまり体よくはぐらかされてしまった。日本でも「尻」という単語はあまりいい言葉ではないが、それでも状況が許せば口にすることはけっこうあるだろう。だが、インドでは禁句中の禁句扱いを受けている。映画の中で「ラージ氏は女性のプッターを叩いていた」というセリフが出たときは、映画館は爆笑で包まれた。

 ラージの身体にソニアの爪跡が無数に残っているという場面があった。この爪跡が、ラージがソニアをレイプしようとした動かぬ証拠となってしまい、ラージは窮地に陥る。しかし、チョートラーニーの後を継いでラージの弁護をしたプリヤーは、女性の立場からその爪跡に対して鋭い分析をする。「もし無理矢理押し倒されそうになったら、女性は男性の顔をひっかくものだ。しかしラージの身体に残っている爪跡の多くは、背中にある。女性が男性の背中に爪跡をつけるときは、悦楽にあるときだ。」また、プリヤーはランジート会長が不能であり、そのために過去に2回離婚していることを指摘し、ソニアも性的欲求不満にあったことを明らかにする。男性の不能と女性の性欲について堂々と語るボリウッド映画は珍しい。いろいろなタブーに挑戦した映画だと言える。

 あと、気付いたことを数点。南アフリカ共和国のシーンで登場したラージの家(ガラス張りの透明な家)は、「Fida」(2004年)でも使われていた。「I Want To Make Love To You」のミュージカル・シーンはロングテイク(長回し)の1シーンで撮られていた。なぜか韓国企業サムスンの製品が映画中たくさん出てきた・・・。

 ただの男女の三角関係だと思いきや、今までにない際どいテーマを扱った良作映画である。ディーワーリーに公開された4本のヒンディー語映画は、どれも今年を代表する映画である。この質の映画が毎週公開されるようになったら、僕も枕を高くして眠れるのだが・・・。

11月27日(土) インド人はB型人間か

 どうも日本人の間で、「インド人はB型が多い」という説が出回っているようだ――インド人はB型人間が多いからみんな自分勝手で、それぞれ思い思いのことをやっている、人のやっていることをあまり気にしない、自分さえよければいい、他人のことはどうでもいい・・・などなど。だがそろそろその通説も崩される必要があるだろう。

 インド人の血液型に関して論じる前に、まず血液型とは何なのか、血液型と人間の性格に何らかの関連性があるのか、ということを考えなければならないだろう。血液型にはいろいろあるが、日本でいわゆる「血液型」と呼ばれているものはABO式血液型と呼ばれるものだ。ABO式血液型は1901年にオーストリアのラインシュタイナーによって発見された。ABO式血液型は赤血球の表面にある抗原(突起のようなもの)の形の違いから来ている。A抗原は△形、B抗原は△△形をしており、それらの形から抗原の名前が付けられたとか。つまり、△形の抗原を持つ赤血球が血液中にある人はA型、△△形の人はB型、△形と△△形の両方の抗原を持つ赤血球がある人はAB型、抗原が全くない人はO型になる。元々は輸血時に血液が凝固したりしなかったりする原因をつきとめる必要があったから発見されたものだが、日本では性格判断や占いに応用されることが多い。その元祖が誰なのかは諸説があるようだが、どうも1970年代に能見正比古という人物が現在の血液型診断の礎を築いたようだ。当初は恋愛占い的要素は皆無で、男性ビジネスマンを対象としたビジネス相手の人格判断参考書みたいな性格が強かったらしい。同氏著の「血液型人間学」は30万部を越えるベストセラーとなった。だが、70年代後半から次第に女性誌が中心となって血液型を恋愛占いに応用する動きが強まった。それと同時に血液型と性格や相性の間の相関関係に対する批判も増え、それ以来日本は血液型による診断や占いを信じる人と信じない人に2分されてしまったといっていい。海外では、日本の影響なのか、東アジアや東南アジアでは血液型占いは一般に流布しているようだが、欧米などでは懐疑的な意見が大部分を占めるという。

 僕自身は血液型占いの類をあまり信じない方だ。人間を4つのタイプのみで考えるのはどう見てもおかしい。インドに住んでいる日本人は迷信深い、または迷信深くなる傾向が強いように思えるが、僕はあまり占いは信じていない。例えばインドの星占いは数学的緻密さを持っており、生まれた日だけでなく時間や場所まで細かく見るので、何となく信憑性が高いようにも思えるが、インドに正確な時刻を示している時計は皆無であることを考え合わせると、やはり迷信の域を出ないのではないかと思えてくる。手相にしても僕にはこじつけとしか思えないし、もし何らかの有用性があるとしたら、それはインド人の女の子のナンパに使えることだけぐらいだろう。ただ、アガスティヤの葉に関してはいつか自分自身で調べに行きたいと思っている。人の生まれてから死ぬまでの全ての人生が書かれた1冊の本がもらえるらしいので、それを読み進みながら生きていくのも楽しいかもしれない。

 ところで自他共に認める「世界一占い好き」なインド人は、果たして血液型占いを信じているのだろうか?僕の個人的な意見を述べさせてもらえば、インド人は血液型を全く重視していない。自分の血液型すら知らない人が多いし、インド人との会話の中で相手の血液型を聞くような質問をされたことは一度もない。試しにサンデー・タイムズ・オブ・インディア紙の「Matrimonials(お見合い情報)」を見てみるといい。そこには結婚適齢期の男女の簡単なプロフィールが掲載されているが、出身地、出身カースト、宗教、年齢、身長、職業、学歴、菜食主義か否か、初婚か否かなどは詳細に書かれているものの、アルファベット一文字で済むはずの血液型は全く書かれていない。インド人は血液型占いを信じていないと言っていいと思う。ちなみに最近、マクドナルドや中華料理レストランで、干支占いの普及も密かに進んでいる。生まれた年と、その年が象徴する動物のリストがランチョマット・ペーパーの代わりになっており、客が自分の干支、性格、同じ干支の有名人などを見て楽しむことができる。だが、これも余興に過ぎず、インド人には全く影響を与えないだろう。

 結局、血液型と人間の性格や相性に何らかの関係があるのかどうかははっきり分からないが、血液型で付き合う人を選んだり、初対面から拒否反応を示したりすることは愚かなことだということは確かだと思う。

 さて、次にインド人には果たしてB型が多いのか、ということを論じる。まず念頭に置かなければならないのは、インド人と一口に言ってもいろいろな民族がいることだ。北インドと南インドで大きな違いがあるし、各地には各種の部族が住んでいる。それらをひっくるめて「インド人はB型人間」と言ってしまうのは非常に乱暴である。その一方で、日本人が一般に「インド人」と言ってイメージするのは、日本人がよく訪れるデリー、ジャイプル、アーグラー、ヴァーラーナスィー、ボードガヤー、コールカーターあたりの北インド観光コース沿いに住む人々ではないかと思う。それか、インドに来たことがなくて、日本にいるインド人との交流の中で「インド人」をイメージしている人は、南インド人のことを指していることが多いかもしれない。なぜなら最近日本に来ているインド人はITエンジニアが多く、バンガロール、チェンナイ、ハイダラーバードなどITに力を入れている南インド出身の人の割合が高いからだ。おそらく民族、部族、地域、カーストなどによって血液型の分布は違うだろうし、血液型とは全く関係ない要素でそのコミュニティーの特徴的性格が形成されている可能性は限りなく高い。どちらにしろ、「インド人は・・・だ」と言えるほどインドを包括的に語れる日本人はほとんどいないと言っていいだろう。僕もそんな大それたことを言う自信はない(時々言ってしまうが・・・)。また、戸籍もない国に血液型のちゃんとした統計があるとは思えない。あったとしても、インド全体を網羅しているはずはなく、一部地域の代表から抽出した部分的平均だろう。

 それでも、インターネットで検索してみたら、インドの血液型分布が出てきた。Racical & Ethnic Distribution of ABO Blood Typesというサイトによると、インド人の血液型の分布はO型37%、A型22%、B型33%、AB型7%らしい。ちなみに日本人はO型30%、A型38%、B型22%、AB型10%。いったいどういうデータを根拠にしているのかは分からないが、ひとまずこれで「インド人はB型が多い」という通説を打ち破る有力な証拠が手に入ったことになる。日本人はA型が多いが、世界的にはO型が最も多いといわれている。その点を踏まえると、O型が最も多いインド人の血液型分布は「国際標準的」であり、しかもバランスが取れている。逆に言えばA型が多い日本人の方が特殊で、もし血液型と性格に何らかの関連性があるならば、日本の方が異常な社会を形成している可能性が高いことになる。また、インド人と合わせてB型が多いとされている中国も参考にする価値はある。中国は全体の統計が出ておらず、北京と広東に分かれている。北京の中国人は、O型29%、A型27%、B型32%、AB型13%。広東の中国人は、O型46%、A型23%、B型25%、AB型6%。少なくとも北京の中国人はB型が多いことが分かるが、それでもわずかな差であり、中国も比較的バランスが取れた血液型分布をしていると思う。

 同サイトにはなぜかムンバイーのヒンドゥー教徒の血液型分布の載っていた。宗教と民族はあまり関係ないので、それほど参考にはならないが、それによると、O型32%、A型29%、B型28%、AB型11%だった。やはりO型が一番多い。

 面白かったのは、アンダマン&ニコバル諸島の部族の血液型分布も載っていたことだ。ニコバル人はO型74%、A型9%、B型15%、AB型1%。アンダマン人はO型9%、A型60%、B型23%、AB型9%。どちらもかなり偏っている。また、ションペン族という絶滅の危機に瀕した部族(人口25人程度らしい)は、O型100%、A型0%、B型0%、AB型0%と、完全にO型オンリーの部族となっている。他にペルーのインディアンも、同じようにO型100%の超偏向的な血液型分布となっている。外界との交流が少なかった部族は血液型分布も偏重気味になると仮定すれば、インド社会は絶え間ない民族交流のおかげで平均的な血液型分布を持っていると言えるのではないだろうか。

 別のサイトでは、ベンガル人の血液型分布が載っていた。そのサイトによると、ベンガル人はO型32%、A型20%、B型40%、AB型8%とのこと。これもどれだけ信憑性があるか分からないが、ベンガル人はB型の人が多いということになっている。多分、カルカッタが首都だった英領インド時代に採取されたデータだと思われる。ABO血液型が発見されたのは1901年、デリー遷都が宣言されたのは1911年なので、この辺りのデータなのではなかろうか?「インド人はB型が多い」という通説は、もしかしたらベンガル人のことを言っているのかもしれない。

 結論として、インド人にB型が多いという通説はかなりの可能性で間違っている。だが、もしB型人間というのがあり、それが自分勝手な人間のことを指すならば、実際の血液型とは関係なしに「インド人はB型人間」と言うことも可能だろう。



 上で紹介したサイトからリンクされていた、Distribution of Blood Typesというサイトに、世界の血液型別マップが載っていた。その中でもB型マップは非常に興味深いものとなっている。B型血液というのはAB型に次いで珍しい血液型のようで、全人口の内30%以上がB型であるインドは、やっぱりB型の人が他の地域に比べて異常に多い地域のようだ。下の地図で水色に塗られている地域がB型の多い地域だが、見事に北インドの大部分がそのB型多発地帯に含まれていた。よく見ると北京の辺りにも小さく水色の点がある。あとは東南アジア、中央アジアからロシアにかけての地域にB型が多い。



 再びRacical & Ethnic Distribution of ABO Blood Typesに戻って、改めてB型が25%以上の国や民族を調べてみると、エチオピアのアビシニア人、アラブ人、シベリアのブリヤート人とチュヴァシュ人、ハンガリーのジプシー、中央アジアのカルムク人とタタール人、インド人、中国人、韓国人、日本のアイヌ人、フィリピン人、ビルマ人、タイ人、ベトナム人などである。なんとなくB型が比較的多い民族の特徴が絞れてきたような気もしないではないが・・・しかしこれら全ての民族が全く同じ性格だとは言えないだろう。血液型と人間や民族の性格に関連性があるかどうかは分からないが、こうやって世界地図にして見てみると、血液型は我々に何らかのヒントを与えてくれるように思えてならない。例えば、B型の分布図は、アーリヤ人の大移動を想起させる。だが、一時話題になった「血液型健康ダイエット」のようなところまで行ってしまうと、極論としか言いようがないだろう。

 インド全体の平均ではO型が一番多いことになっているが、世界的な平均値から見たら、インドはB型が比較的多いことになる。さらに、北インドだけで統計を取ったら、もしかしたらベンガル地方のようにB型が一番になるかもしれない。これで、インドとB型の関係はさらにこんがらがってしまったと言っても過言ではないだろう・・・。



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