スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2004年12月

装飾下

|| 目次 ||
分析■1日(水)日本人ボリウッドスター誕生?
言語■5日(日)ヒンディー語講座マフィア用語編
映評■5日(日)ハリ・オム上映会
分析■6日(月)インド製ブッダ映画、オスカーへ
演評■7日(火)ICCR留学生祭
映評■8日(水)Hulchul
映評■9日(木)Khamosh Pani
映評■10日(金)Musafir
▼ラージャスターン州南部旅行(12月11日〜20日)
旅行■11日(土)チェータク・エクスプレス
旅行■12日(日)湖と宮殿の街、ウダイプル
旅行■13日(月)クンバルガルとラーナクプル
旅行■14日(火)プチ宮殿ホテル、ビジャイプル
旅行■15日(水)誇り高き要塞、チッタウルガル
旅行■16日(木)壁画の宝庫、ブーンディー
旅行■17日(金)ランタンボール国立公園
旅行■18日(土)細密画の宮殿、コーター
旅行■19日(日)ハーラウティー地方観光
旅行■20日(月)旅行戦利品
生活■22日(水)カリズマ盗難事件
映評■23日(木)Swades
映評■24日(金)Raincort
映評■25日(土)Ab Tumhare Hawale Watan Sathiyo
生活■26日(日)カリズマ盗難事件続報
▼ナガランド旅行(12月29日〜1月5日)
旅行■29日(水)大河の恵み、グワーハーティー
旅行■30日(木)ディマープルで軟禁
旅行■31日(金)退屈都市、コヒマ


12月1日(水) 日本人ボリウッドスター誕生?

 本日付けのエクスプレス・ニュースライン紙(インディアン・エクスプレス紙の折込版)に気になる記事が掲載されていた。題名は「SUMO in Capital」。その記事によると、現役を引退した2人の日本人力士、タチバナとモトハシが、広告キャンペーンのためにデリーに来ているとのことだった。その他、相撲のルールや用語について詳細に解説がしてあった。

 この記事を読んですぐにピンときたのは、インドの携帯電話通信会社アイデア社が最近放送しているTVCM。いくつかパターンがあるが、基本路線は以下の通りである。1人の力士が出てきて、インドのローカルな食べ物やダンスを楽しみ、「ローカル・フード!」「ローカル・ダンス!」などと言う。そしていざSTD(電話屋)でローカル・コール(市内電話)をしようとするが、電話ボックスが小さすぎて身体が入らない。「STDからのローカル・コールは駄目だな!」というわけで携帯電話の宣伝となっている。このTVCMはありがたいことにアイデア社のウェブサイトで見ることができる。日本の人たちは是非鑑賞してもらいたい。TVCMの他、力士たちは広告用ポスターなどにも出ており、現在デリーのあちこちで彼らの姿を見ることができる。TVCMに出ているのは基本的に1人だが、ポスターでは2人いる。




アイデア社の広告に登場する2人の力士


 やはり日本人としてこのTVCMや広告ポスターは非常に気になっていた。インドのTVCMに力士が登場するのはこれが初めてではない。一昔前にはコカコーラのTVCMか何かで、力士たちがサッカーをするというものが流れていたという(僕は見たことがない)。また、インドを代表する自動車会社ターター社は「SUMO」という名前のRV車を販売しており、インド人の相撲に対する関心は低くないことを感じていた。日本人としては嬉しい話だ。しかし、アイデア社の広告に出演している力士が本当に日本人なのかは識別しかねていた。韓国人や中国人のようにも見えるし、もしかしたらスィッキムあたりから太った人を連れてきたのかもしれないと思っていた。だが、どうやらこの記事を読む限り、アイデア社のTVCMや広告に出ていたのは本当の日本人で、しかも本当の力士だった人のようだ。タチバナは12年間力士をしており、モトハシは彼の3年後輩らしい。僕はあまり相撲には詳しくないが、日本ではそれほど有名な力士ではないと思う。だが、インドではすっかり有名人になってしまったようだ。彼らがインドを再訪したということは、彼らの出演したCMがけっこう好評だったということだろう。新聞には「no less than Bollywood Stars in Japan(日本のボリウッドスターと言っても過言ではない)」と書かれており、注目を集めていることが伺われる。もしかしたら本当にインド映画界からオファーが来るかもしれない。TVCMに出ているのが2人の内どちらかは分からないが、愛嬌のある笑顔がなかなかよく、コメディアンとして十分やっていけそうな気がする。問題なのは言語だが、吹き替えすれば当面はOKだろう。TVCMでは一応セリフをしゃべっており、ヒンディー語もしゃべっている(一部聞き取れないのだが・・・)。これはもしかしたら吹き替えではないかもしれない。

 ところで、検索サイトで調べていたら、日本の相撲関連の掲示板で、どうもこのアイデア社のTVCMと関連していると思われる書き込みを見つけた。

募集中!相撲力士をインドのテレビCM撮影のため(3日間位)募集しております。インドまでの航空券(往復)と高ギャラも供給いたします。

日付は去年の12月6日。・・・そういえば、去年の9月に僕がTVCMに出演したときにお世話になったエージェントに、「デリーに日本人力士はいないか」みたいなことを質問された覚えがある。僕は「力士が何でデリーにいるんだ。日本に行かなきゃいないよ」みたいなことを答えたような気がするのだが、もしかしてそれとつながっていたかもしれない。

 残念ながら僕にはあれ以来何のオファーもないが、もしかしたらアイデア社の広告に出演した力士たちなら、身体的特徴をフルに活かして、日本人初のボリウッドスターを目指せるかもしれない。僕の記憶が正しければ、今までインド映画にエキストラや端役として出演した日本人はいるが、本格的俳優として出演した人は皆無だ。インド映画で今までもっとも大きな役を与えられた日本人は、ラジニーカーント主演のタミル語映画「Baba」(2002年)に出演した「Gaiko Mayata」さんだ・・・え、日本人の名前じゃない?本当は「Keiko Yamada」だろうが、タミル文字には有声音と無声音の区別がないため(つまりカとガ、タとダの区別がない)、またそもそも日本語の表記を間違えているため、日本人とは思えない名前になってしまっている・・・。とは言え、「Gaiko Mayata」さんも一回限りの出演であり、本格的俳優デビューとは言いがたい。だが、太った体を活かした力士コメディアンなら、けっこう長続きするキャラクターになるような気がする。おそらく2人とも相撲界ではあまり実績を残せずに現役を引退したと思われるので、第二の人生をインドの映画界で始めてみるのもいいのではないだろうか?2人のボリウッド・デビューが成功すれば、大相撲天竺場所も夢の夢ではなくなる。



 12月2日付けのザ・ヒンドゥー紙に、インド訪問中の元力士、タチバナ氏とモトハシ氏の続報が載っていた。やはり両氏はアイデア社のTVCMに出演していた力士で、今回も同社のキャンペーンに参加するために訪印したとのこと。報道陣の前で相撲のデモンストレーションを行ったり、インタビューに答えたりして、なかなか活躍したようだ。




モトハシ(左)とタチバナ(右)


 上の写真の裏にある力士のアニメ絵が気になる。スローガンは「Sumo ke saath Jhumo(相撲と共に楽しもう)」のようだ。以下、力士と記者のやりとりを紹介。

記者「体重145kgもあって、結婚することはできるのか?」
力士「もちろん結婚できる。そこの女の子を紹介してくれませんか?」
記者「力士は日本で神様のように扱われていると聞きましたが、インドでどう扱われていますか?」
力士「我々はここでも温かく迎えられている。しかしインドで相撲を普及させるために頑張らなければならない。もうすぐ他の日本人力士たちもインドに来る予定だ。もし一度相撲が人気になれば、我々も日本と同じように王者のような扱いを受けるだろう」
記者「身体を鍛えるためにウエイト・トレーニングやウエイト・リフティングをするのか?」
力士「5歳の痩せた少年でも5年以内に力士になることができる。練習に加え、多くのご飯を食べ、よく眠ることが大事だ」

 インド人記者の質問が素朴なのと、力士の答え方にユーモアがあるのが楽しかった。彼らはこれから20日間に渡って、アーグラー、ハリヤーナー、アハマダーバード、プネー、ハイダラーバード、コーチン、インダウルなどを回り、アイデア社の広告キャンペーンと同時に相撲の普及活動を行う予定だそうだ。

12月5日(日) ヒンディー語講座マフィア用語編

 本日付のサンデー・タイムズ・オブ・インディア紙に、ムンバイーのマフィアが使う新しい隠語が特集されていた。マフィアたちは警察の盗聴などを恐れているため、身内だけに通じる隠語(Mafiosi)を使う。その隠語は3〜4年ごとに変わってきたのだが、最近になってまた新しい隠語が出始めたようだ。というか、新聞に載るくらいだから、もうこれらのマフィア用語は使われなくなっている可能性が高いが、ヒンディー語映画に出てくるマフィアたちの言語を理解するのに役立つため、新聞に載っていた単語や例文をピックアップしてみた。ヒンディー語のアルファベット表記は新聞のものを忠実に載せた。

■HaathとKaan

 マフィアにとっても先立つものは不可欠である。上記の言葉はどちらもお金の単位を表す隠語で、ハート(Haath)は現金10万ルピー(1ラーク)、カーン(Kaan)は現金1000万ルピー(1クロール)を指す。ハートの元々の意味は「手」、カーンは「耳」である。マフィアの会話では、「手1本と耳1個を揃えて持って来い(1010万ルピー持って来い)」という風に使われる。マフィアはお金に関する言葉を決して電話などで使わないらしく、これらの単語は常に変えられてきた。昔は10万ルピーはペーティー(Peti)、1000万ルピーはコーカー(Khokha)と呼ばれていたという。お金自体は、昔はカーガジ(Kagaj=紙)と呼ばれていたが、最近では「Lottery(くじ)」と呼ばれているとか。

■BidiとGuldasta

 マフィアにとって、「警察」という言葉も重要だ。日本語でも警察に対するいろいろな隠語がある。インドでは元々警察はパーンドゥ(Pandu)とかトゥッラー(Thulla)と呼ばれていたという。前者は警察の制服の色を暗示したカーキー色のことだが、後者は語源不明。だが、現在ではビーリー(Bidi)と呼ばれているという。ビーリーはインドの街角でよく売られている格安の煙草で、これも多分色が警察の制服と似ているから付けられたのではないかと思う。また、インドではマフィアと警察の癒着も公然の秘密となっている。マフィアが警察に渡す賄賂は、グルダスター(Guldasta=花束)と呼ばれているらしい。買収したい警察がいたら、「Guldasta de do usko(あいつに花束を渡せ)」みたいに指示するそうだ。

■Guitar、Ma、Bacche

 銃火器はマフィアの命。しかしこれらも隠語にしないとすぐに警察にばれてしまう。日本語でも「ハジキ」などと呼ばれている。インドのマフィア御用達のライフル銃はソ連製AK−47。昔はジャールー(Jhadoo=ほうき)と呼ばれていたが、今ではギター(Guitar)と呼ばれているそうだ。外見から付けられた隠語だろう。リボルバー銃とピストル銃は、昔はそれぞれチャクリー(Chakri=車輪)とカセット(Cassette)と呼ばれていた。しかし最近ではマー(Ma=母親)とバッチェー(Bacche=子供)と呼ばれているらしい。よって、仕事の前にマフィア同士では、「Ma Bachche hain na saath mein?(母子一緒か?=リボルバー銃とピストル銃は揃ってるか?)」などと確認し合うそうだ。また、最新の隠語では、リボルバー銃とピストル銃はそれぞれチャッパル(Chappal=ぞうり)とファイル(File)と呼ばれている。例えば「File se marna(ファイルでやれ=ピストルで撃て)」などと使う。

■Puttha、Chidiya、De、Patient

 インドのマフィアはいろんな犯罪に手を染めているが、パスポート偽造もそのひとつ。偽造パスポートは、パッター(Puttha=葉)とかチリヤー(Chidiya=鳥)と呼ばれている。前者はやや古い隠語で、現在ではポケベルの意味で使われているとか。また、マフィアの仕事の花形は何と言っても殺人。昔は人を殺すことをゲーム(Game)と読んでいたらしいが、現在ではただ単にデー(De=与える)とだけ言うらしい。例えば、「De de usko(直訳:あいつに与えろ)」と言った場合は、「あいつを殺せ」という意味になる。殺人についでマフィアがよく行うのが誘拐。誘拐のターゲットは患者(Patient)と呼ばれ、例えば「Patient ko hospital mein rakha hain(患者を病院に入院させた)」と言った場合は、「ターゲットを誘拐して閉じ込めておいた」という意味になるそうだ。この隠語は、大ヒットしたヒンディー語映画「Munnabhai MBBS」(2003年)から来ているという。

 その他にもいろいろあるので列挙しておく。

■ピーラー(Pila)=元々「黄色」という意味。マフィア語では「金」という意味になる。
■バルフ(Barf)=元々「雪」という意味。マフィア語では「銀」という意味になる。
■ハートワーラー(Hathwala)=元々「手の中のもの」という意味。マフィア語では「携帯電話」になる。携帯電話は昔はカウワー(Kauva=カラス)と呼ばれていたという。ピーピーうるさいからだろうか。昔の方が隠語っぽかったような気がするが・・・。
■アイテム(Item)=英語。マフィア語では「美人」「べっぴんさん」「かわいい女の子」という意味で使われる。この単語のニュアンスは既に広く普及しており、映画中、挿入歌だけに特別出演する女優のことを「アイテムガール」と呼ぶようになっている。「Company」(2002年)のミュージカル「Khallas」に特別出演してエロチックなダンスを踊り話題になったイーシャー・コーッピカルあたりから使われるようになった言葉だと記憶している。
■アクト・スマート(Act Smart)=英語。「スマートな行動をする」みたいな意味になるだろうが、マフィア語では、生意気な行動のことを言い、特にマフィアにたてつくような行動のことを指すようだ。同じ意味で、アースマーニー・カブータル(Aasmani Kabutar=空の鳩)という言葉も使われる。
■カルチャー・パーニー(Kharcha Pani)=元々「給料」という意味。マフィア語では「リンチする」みたいな意味になる。「あいつに高い水を飲ませてやろう」みたいに使うのだろう。ここで言う「水」とは「血」のことだろうか。
■スパーリー(Supari)=この単語はマフィア映画によく出てくるが、よく意味が分からなかった言葉のひとつだった。辞書には、「ビンロウの実」という原義と、「男性器の亀頭」というスラング的意味しか載っていなかった。実はマフィア用語では「殺しの契約」とか「殺しの許可」みたいな意味で使われているらしい。マフィアの子分は、バーイー(ボス)のスパーリーを得るまでは殺人をすることができないそうだ。

 さあ、これで君もインド・マフィアの仲間入りだ!・・・ではなくて、これらの知識があれば、インド映画に出てくるマフィアのセリフを理解するのに少しは役に立つだろう。

12月5日(日) ハリ・オム上映会

 今日はスィーリー・フォート・オーディトリアムでヒングリッシュ映画「Hari Om(邦題:ハリ・オム」の上映会があった。一応インド映画評論家として僕も出席を頼まれていたため、テスト期間の最中だったにも関わらず見に行った。この「ハリ・オム」は先日行われた東京国際映画祭で上映された印仏合作の映画で、日本語字幕が付いたフィルムが出来上がっていたため、これをインド・センターという団体がうまく利用して、デリーに住む日本人とフランス人を対象に「インド・日本・フランスの三カ国友好のため」と多少無理のある理由付けをして公開したといういきさつがある。本当は「ハリ・オーム」と表記してもらいたかったが、例の教団の事件が後を引いており、「ハリ・オム」となったとか。「ハリ・オーム」とは「ヴィシュヌ神のご加護を」みたいな意味の挨拶言葉で、マディヤ・プラデーシュ州オームカレーシュワルでよく使われていたのを覚えている。この映画の中では主人公の名前になっている。

 「ハリ・オム」の監督はバーラトバーラー(別名ガナパティ・バーラト)。彼はARレヘマーンとコラボレーションをして「Vande Mataram」のプロモーション・ビデオを撮影した監督だ。この映像はマニ・ラトナム監督「Bombay」(1995年)のDVD(日本版)に収録されており、昔はその映像の美しさに何度も見返していた覚えがある。「ハリ・オム」は、バーラトバーラー監督の本格的な映画監督デビュー作となる。キャストは、インド人俳優がヴィジャイ・ラーズ、AKハンガル、アヌパム・シャームなど。ヴィジャイ・ラーズは「モンスーン・ウェディング」(2001年)などに出演の細身の才能ある男優。後者2人は「Lagaan」(2001年)に出演していた。一方、フランス人俳優は、カミーユ・ナッタ(今年公開の「クリムゾン・リバー2」に出演)とジャン・マリー・ラムール(2003年の「スイミング・プール」に出演)。ラージャスターンの風景、雰囲気、文化などが非常によく映像に捉えられており良作だったため、日本で一般公開される可能性も高い。日本語字幕のある映画に最初から最後まであらすじを書く必要もないので、導入部分だけを掲載しておく。




ジェーン・マリア・ラモール(左)、
ヴィジャイ・ラーズ(中)、カミーユ・ナッタ(右)


ハリ・オム
 ラージャスターン州ジャイプルでオートリクシャーの運転手を営むハリオーム(ヴィジャイ・ラーズ)は、ラージャスターン中のオート運転手を統括するマフィアのドン、ラールチャンド直属の部下バグワーン・ダーダー(アヌマプ・シャーム)との賭けに負け、2万5千ルピーの借りを作ってしまった。明日の夕方までに金を払わなかったら、ハリオームの愛機「マードゥリー」はマフィアに取られてしまうことになってしまった。何の方法も浮かばずただ無為に時間は流れた。そのときハリオームはジャイプル宮殿の前でフランス人女性の旅行者、イザ(カミーユ・ナッタ)を拾い、彼女にジャイプルを案内する。イザは恋人のブノア(ジョン・マリー・ラムール)と共に宮殿列車に乗ってインドを観光していたが、このときブノアはマハーラージャーとの商談に忙しく、彼女をかまってやれなかった。そこでイザは1人でジャイプル観光に乗り出したのだった。ところが、時間の過ぎるのを忘れて観光を楽しんでいたイザは、列車に乗り遅れてしまう。イザは、自分を置いて1人だけ列車に乗ってしまったブノアに失望しながらも、バスでビーカーネールに向かおうとするが、そのバスもパンクしてしまい立ち往生してしまう。

 そのとき、ハリオームはマフィアから逃げるためジャイプル郊外の道を走っていた。そこで偶然イザを見かけ、彼女をビーカーネールまで連れて行くことにする。果たして2人の運命やいかに・・・。

 少しストーリー展開に謎な部分があったものの、フランス人女優のインドを楽しむ姿と、オートワーラーの素朴なセリフ、そしてラージャスターン州の美しい景色と独特の文化のおかげで、インドの魅力を存分に満載した傑作ロードムービーになっていた。インドを旅行した人には、特にジャイプルやジャイサルメールなどを旅行したことがある人には強力オススメ作。インドに来たことがない人が見たらどういう反応をするかは多少自信がない。インドのいい面もよく描かれていたが、悪い面もけっこうあからさまに映像になっていたので、それが印象に残ってしまうと「インドはやっぱり駄目・・・」となってしまうかもしれない。

 ヴィジャイ・ラーズは以前から注目していた男優である。「Run」(2004年)のコメディー役が一番印象に残っているが、一般には「モンスーン・ウェディング」のウェディング・プランナー役が出世作として知られている。そこら辺にいるインド人とあまり変わらない貧相な顔をしており、病的に痩せているが、なぜか愛嬌のある男優である。「ハリ・オム」でもオートの運転手がものすごく似合っていた。こういう庶民役を演じさせたらヴィジャイ・ラーズの右に出る者はいないだろう。ヒロインのフランス人女優カミーユ・ナッタは2002年にデビューしたばかり。インドを心底楽しんでいる表情が非常によかった。ブノアを演じたジャン・マリー・ラムールもまだキャリアの浅い男優であるが、神経質で自分勝手そうな顔が役にピッタリだった。

 ロケ地になったのは主にジャイプル、ナワルガル、ビーカーネール、ジャイサルメールの4ヶ所だと思われる。ジャイプルのシティー・パレス、ジャンタル・マンタル、風の宮殿、ナハールガル、ジャイサルメールのフォート、ナワルガルのハヴェーリー(邸宅)などが映っており、これらの都市を旅行した人は必ず「おぉ!」と思うだろう。特にジャイプルのシティーパレスにいる小人が出演していたのには驚いた。あの小人はいつもシティパレスにいて、写真を撮ると必ず金を要求してくることで旅行者に有名である。ジャイプルのマハーラージャー、サワーイー・マドー・スィン1世が英国を旅行したときにガンジス河の水を入れて持って行ったという巨大な銀の壺(世界最大の銀製品らしい)も映っていた。これらはジャイプルを観光したことがある人なら誰でも見たことがあるだろう。ナハールガルはジャイプルの北にある城砦跡で、レストランにもなっている。2001年に行ったことがあり、い〜んディア写真館2001年の作品No.17と18はそこで撮影したものだ。ナワルガルには行ったことがないが、緻密な彫刻と壁画の残るシェーカーワーティー地方の一都市で、やはりハヴェーリーで有名である。デリーからもそれほど遠くないので、いつか暇ができたらシェーカーワーティー地方の都市をバイクで巡ってみたいと密かな野望を持っている。ビーカーネールには行ったことがある。高級ホテルが映っていたが、僕は見たことがない。ビーカーネールの有名なハヴェーリーのいくつかが映っているのは分かった。中世の街並みがそのまま残る砂漠の都市ジャイサルメールは何度見てもやはり素晴らしい。最近の映画では「Meenaxi : Tale of 3 Cities」(2004年)でロケ地となっていた。ジャイサルメールの砦内の狭い路地をオートリクシャーでカーチェイスするので迫力がある。い〜んディア写真館2002年の作品No.44で映っているハヌマーンの壁画が映っていたので感激。

 これらの都市の風景の他、道を歩く象の間をオートリクシャーで通り抜けたり、砂漠をラクダで渡ったり、バスの屋根の上に乗って移動したりと、インドの旅の醍醐味が存分に再現されていた。特に、ハリオームとイザがオートリクシャーでビーカーネールに向かっているときに途中で新郎新婦をピックアップするシーンはよかった。インドでは花嫁はベールで顔を隠しており、その顔を見たい人は花嫁に何かプレゼントしなければならないらしい(知らなかった!)。イザが花嫁に口紅(?)をあげると、花嫁はベールを外して顔を見せてくれる。「まあ、きれい!」それを聞いてハリオームはつぶやく。「マダム、結婚式の日の花嫁はみんなきれいなんすよ。」新郎新婦と一緒に乗ってきたハルモニウム奏者は、イザの名前と出身国を聞く。イザが答えると、ハルモニウム奏者は即興でイザの歌を歌いだす。「フランスからやって来たイザ〜!」またある日、ハリオームはイザに宗教を聞く。イザは「私はカトリックよ」と答える。するとハリオームはしばらく考え込んだ後、イザに言う。「マダムの神様は1人だけなんすよね。1人で忙しくないですかね。私たちの神様は五万といるから、みんなで仕事を分担してるんすよ。」またまたあるとき、イザはハリオームに聞く。「ここはどこ?」ハリオームは答える。「ビーカーネールに続く高速道路ですよ」イザは驚いて笑う。「これが高速道路?」その横をラクダが通り過ぎる。「ラクダも歩く高速道路なのね。」ハリオームは答える。「ラクダはラージャスターンじゃあ2番目にいい乗り物でっせ!」イザは聞く。「じゃあ一番は何?」ハリオームは得意げにリクシャーのクラクションをパフパフ鳴らす。・・・ひとつひとつがインドによくある風景で、よくある出来事で、インドを旅行し、インドに住む僕の心の琴線に触れた。なんとインドはラス(情感)に溢れた国なのか!と、インドに住む僕自身がインドの良さを再発見した映画だった。ナワルガルのハヴェーリーにいた老人の話もよかった。

 プロットには多少不満が残った。ハリオーム、イザ、ブノアの三角関係が中途半端な描写しかされておらず、最後でもそれが解決されたとは言えなかった。ハリオームとイザの恋愛は、さらにもっと淡白に、それでいて無言の中で語り合うように描いた方がさらに深みのある映画となっただろう(例えば2002年のヒングリッシュ映画の傑作「Mr. & Mrs. Iyer」のように)。

 フランスと共同制作だけあって、ちょっとしたお色気シーンも用意されているのが何とも憎かった。カミーユ・ナッタは事あるごとに無意味に裸になったり色っぽい格好になっており、道中で偶然見つけたバーウリー(階段井戸)では、いきなり裸になって水浴びを始める(胸などは見えていないが・・・)。インド映画にも最近際どいシーンが多くなって来ているが、大体どれもねっとりとしており、また絶対に局部は映されないという変な安心感がある。しかしこの映画のはやたら爽やかなヌードで、しかももしかしたらフランス人の趣向が出て乳首くらいは見えてしまうかもしれない・・・とやたらとドキドキしていたのだが、そういうことはやっぱりなかった。もしかしたらインド公開版は文化的背景を配慮して際どいシーンがカットされているかもしれない。

 言語は英語、フランス語、ヒンディー語の三ヶ国語混合。日本語字幕は右端に、フランス語とヒンディー語が話されるときは下端に英語字幕が出ていた。インド人が英語を話すときにも英語字幕が出ていたのは、インド英語は英語と認められていないということだろうか・・・。途中、ヒンディー語の四文字言葉にあたる「ベヘンチョー!」という言葉がそのまま出てきたのには驚いた(日本語字幕では変な表記になっていたが・・・)。

 会場にはバーラト・バーラー監督とヴィジャイ・ラーズが来ていて、上映後、簡単なスピーチをしてくれた。在印日本大使夫妻と在印フランス大使夫妻も出席しており、両大使も映画前にスピーチをした。フランス大使はやたらとキザな格好をしており、「フランス大使なのに英語で話すのは変な話ですが・・・」みたいな前置きをして英語でスピーチを始めていた。やはりフランス人は英語に対して対抗意識を持っているのだろうか?バーラト・バーラー監督やヴィジャイ・ラーズと是非話をしてみたかったのだが、この映画鑑賞のせいでテストの準備がかなり危機的な状況に陥っており、徹夜は必至の状態だったため、映画終了後はすぐに帰ってしまった。

 「ハリ・オム」はインドの魅力、敢えて言うならラージャスターン州の魅力が存分に詰め込まれた傑作。日本で公開されたら是非見ていただきたい。

12月6日(月) インド製ブッダ映画、オスカーへ

 第77回アカデミー賞の外国語映画賞にマラーティー語映画「Shwaas」(2004年)がノミネートされており、現在インドの映画界は「Lagaan」(2001年)が果たせなかった念願のオスカー獲得をこの映画に期待している。「Shwaas」はまだデリーで公開されておらず、僕は見ていないのだが、眼球癌になった少年を描いた社会派映画のようだ。現在ゴアで開催されているインド国際映画祭でも、この映画が上映され、大いに注目を集めたという(インド国際映画祭は毎年デリーで行われていたのだが、諸所の事情により今年はゴアが開催地となった)。

 ところが、「Shwaas」の他にアカデミー賞の予備選考候補となっているインド製映画がある。しかもアニメである。タミル・ナードゥ州チェンナイを拠点とする3DCG会社ペンタメディア社が制作した「The Legend of Buddha」(2004年)が、第77回アカデミー賞アニメ部門のノミネート候補11作品に選出されたのだ。他のノミネート作品は、ハリウッドの大手制作会社による「Shrek2」、「Shark Tale」、「Incredibles」など大物揃いで、インド製アニメがオスカーを手にする可能性は限りなくゼロに近い。よって、ノミネート5作品に選ばれることが大きな目標となるだろう。




The Legend of Buddha


 「The Legend of Buddha」は、これまで数本の3Dアニメを制作していたペンタメディア社が初めて取り組んだ2Dアニメ(正確に言えば2Dのキャラ+3Dの背景)であり、インド、シンガポール、フィリピンのアニメーターが参加している。シンガポール政府からの資金援助も得たそうだ。キャラクター・デザインは全てフィリピンで行われたという。題名の通り、仏教の始祖、ガウタム・スィッダールトの生涯を描いた作品で、予算は630万ドル。画風を見てみると、ディズニーのアニメに多大な影響を受けていることは否めない。もっと独自のインドっぽい画風だったらよかったと思うのだが・・・。ただ、ペンタメディア社の関係者によると、国際市場に売り込むためには「国際的な顔」にしなければならないらしい。インド人デザイナーにキャラクター・デザインを依頼するとインド人っぽい顔になってしまうため、敢えてフィリピンのデザイナーに任せたという。現在インドのアニメ産業は急成長をしており、安い人件費と高い技術の強みによりインドは近い将来世界のアニメ産業のハブとなると見られているが、まだ今のところ世界的な基準は多くの意味で満たせていないようだ。既にこの映画は米国では9月に公開されているが、インドではまだ公開されていない。ブッダのアニメということで、日本人にも興味深い映画である。やはり手塚治の名作漫画「ブッダ」と比較せずにはいられないが・・・。

 ところで、このペンタメディア社と聞いて、ふと、何か忘れていたものを思い出したような不思議な感覚に陥った。その瞬間、ペンタメディア社が過去に制作した3Dアニメの話が頭をよぎり、フラッシュ・バックの如く過去の忘れかけていた記憶が僕の脳裏に舞い戻ってきた。「Pandavas」!昔、音楽店の店頭で思わずジャケット買いしてしまったVCD!「パーンダヴァ」とは、インド二大叙事詩のひとつ「マハーバーラタ」に出てくる主人公格の5兄弟のことである。そのパーンダヴァ5兄弟の活躍を3Dで再現してしまったのが「Pandavas」であった。ジャケットには、気味の悪い表情をした3Dキャラがこちらを虚ろな目と共に睨みつけており、インド製3D映画ということでこれは面白そうだと思って買ったのだが、家に帰った途端に急に見る気が失せて、そのまま長い間倉庫入りしていた伝説のVCDだった。早速クローゼットの中を見回してみたら、すぐに「Pandavas」のVCDが見つかった。やはり予想した通り、ペンタメディア社のものだった。まだ包装のビニールさえもはがしていなかった。恐る恐るVCDをPCにセットし、鑑賞してみた・・・やはり期待した通りのゲテモノ作品だった。古代インドの服装などが3Dで立体的に再現されているのは面白かったが、建築物のデザインは明らかに西洋的だった。これは何と表現すればいいのだろうか・・・。だが、決して目新しいものではなかった。PS2などで発売されているTVゲームはほとんど3Dもので、ゲームの途中で突然3Dムービーになったりするが、その途中に挿入される3Dムービーにそっくりだった。はっきり言って、賞賛すべきか失笑すべきか、その微妙なラインに位置する出来栄え。少なくともPIA(パーキスターン国際航空)の機内で流れる、緊急脱出などを説明した3Dムービー(2001年時に拝見)よりはよくできているのではなかろうか?僕の手元にあるのは2枚組のVCDだったのだが、全てのストーリーが入っておらず、2枚目のVCDは途中で終わってしまった(ドゥルヨーダンとビームの決闘あたり)。おそらく容量が足らなくて入りきらなかったのだろう。これだからVCDはいかん!今はDVDも発売されているらしいが。どうやら英語版とヒンディー語版があるようだが、僕が持っていたのはヒンディー語版。サンスクリト語語彙を多用した難解なセリフ、ナレーションが多いが、声優の発音がきれいなため、お手本にしたい発音だと思った。「Pandavas」のウェブサイトはコチラ





Pandavas


サイコロ賭博のシーン
まるで最近のTVゲームの1シーンのようだ


 この「Pandavas」を作った会社が、2Dアニメに挑戦し、それがアカデミー賞の予備候補に選ばれるとは・・・信じられない・・・。インドのアニメ産業の発展の著しさを感じる・・・。

12月7日(火) ICCR留学生祭

 インド文化関係評議会(ICCR)はインド政府の自治組織で、インドと外国の文化交流を促進する活動を行っている。我々外国人には、インドに留学する外国人学生に奨学金を供与している団体として有名だ。ICCRは年に1回、ICCR奨学金で留学している外国人学生を集めて文化祭のようなものを催している。僕は特にICCRから奨学金などをもらっていないが、去年もその文化祭に盆踊りで参加し、今年も日本代表として出場することになった。今回の演目は「鬼太鼓」。参加人数は6人(この内1人なぜかルーマニア人が友情出演)。盆踊りではなく、ほとんど創作ダンスだった。バラタナーティヤムを習っている日本人女性が去年に引き続きリーダーをしたが、日本のダンスというよりは何となくバラタナーティヤムに近い踊りになっており、ダンス素人の我々にとっては非常に難しいダンスとなってしまっていた。だが練習に練習を重ね、何とか人様に見せれるぐらいの完成度には達した。

 本当は11月11日に行われる予定で、9月くらいから練習を重ねていたのだが、当日、パレスチナ自治政府のアラファート議長がパリの病院で死去したことにより突然中止となってしまった(去年も突然予定変更された)。10日に行われた直前リハーサルでは相当テンションが上がっていて、このまま本番に持っていこうと気合を入れていたのだが、突然のキャンセルにより一気に意気消沈。そのまま僕は学期末のレポート地獄と期末テスト期間に突入したため、ICCRとは一切関係ない生活を送ってきた。その後、留学生祭が12月7日に行われることが発表された。僕の期末テストが終わるのが12月6日。ギリギリセーフで出演が可能となった。他のメンバーも何とか予定を合わせることができた。会場は、元々タールカトーラー・スタジアムだったのだが、今回はカマニ・オーディトリアムになった。

 朝からリハーサルが行われ、6時半から開始だった。参加国と演目を順番に挙げていくと・・・

1.フランス、ルーマニア、ベラルーシ、バングラデシュ
 スィタール、タブラー、バーンスリー、キーボードのコラボレーション。
2.カザフスタン
 カザック・ダンス
3.スーダン
 ラオ・ダンス(スーダン南部の伝統舞踊)
4.ポーランド
 喜びのダンス
5.フィジー諸島
 メケ・ダンス
6.ウガンダ
 ウガンダ・ダンス
7.ネパール
 カウダ・ダンス(ネパール西部の伝統舞踊)
8.モンゴル
 モンゴル伝統舞踊
9.日本
 鬼太鼓
10.モーリシャス
 セガ・ダンス(アフリカ起源の喜びのダンス)
11.リトアニア
 母なる大地への伝統歌と恋人を待つ少女の踊り
12.西インド諸島
 ギアナとトリニダード&トバゴの民俗舞踊
13.キルギスタン
 キルギス・ダンス
14.ガーナ
 伝統舞踊
15.スリランカ
 キャンディアン・ダンス「マハボ・ワンナマ」(菩提樹を賞賛する踊り)
16.ケニア
 ケニア・ダンス
17.ブータン
 喜びと平和のダンス「タシ・デレ・プンスム・ツォン」
18.タンザニア
 タンザニア・ダンス
19.ウズベキスタン
 結婚式の伝統舞踊
20.バングラデシュ
 村人のダンス
21.カーテンコール
 全出場国による「文化を通した友好」の宣言(ARレヘマーンの「Vande Mataram」に合わせ)

 ざっと出場国を見ればすぐに分かるように、やはり去年と同じく出場国の中で押しも押されぬ先進国は日本だけである。どうもICCRとしても日本のような先進国に出場してもらうことは名誉なことのようだ。もっとも、この留学生祭を取り仕切っているジャヤラクシュミーというバラタナーティヤムの舞踊家が、我ら日本のリーダーのグルなので、その関係で出場を半ば義務付けられているところがあるのだが・・・。

 果たして日本の踊りがどれだけ観客を感動させたかは分からないが、個人的には特に失敗もせず、満足のいく踊りをすることができたと思う。僕はひょっとこのお面をつけた変な役で、顔に変なペイントをさせられており、その時点で相当ブルーな気持ちになっていたので、かえって全然緊張しなかった。女性たちは、サーリーの生地を元にインドの仕立て屋に無理矢理作らせた着物を着用。でもなかなか見栄えよくできていた。




日本の踊り


 他国の批評をちょっとしておくと、僕の中で一番ヒットだったのがウズベキスタン。男女1組が踊る踊りで、男が女に言い寄るが、女はそれをうまくかわす、みたいな踊りだった。最後には女も男のプロポーズを受け容れる、みたいなストーリーだと思う。どちらも役になりきって踊っており、しかもバングラー・ダンスみたいなノリの踊りだったので、楽しめた。フィジーの部族っぽい踊りやコスチュームもよかった。ブータンの「♪タシデレ、タシデレ、プンスムツォ〜ン♪」という歌はやたらと耳に残る名曲であった。ネパールやバングラデシュの踊りや音楽も、いかにも平和な村という感じでよかった。西インド諸島は屈強な肉体を持ったプロのチョウ・ダンサーたちが踊っていたので迫力満点。だが、それにトリニダード・トバゴ出身の女性とロシア人の女性(どちらもジャヤラクシュミーの弟子)が途中から加わってしまったため、観客の視線はどうしても女性たちの踊りに行ってしまい、男たちはただのバックダンサーに成り下がってしまっていた。モンゴルは伝統舞踊ということだったが、全く伝統舞踊に見えない、奇妙にモダンな踊りを踊っていた。




フィジーの女性陣


 練習のときから思っていたのだが、インドの外国人留学生には旧ソ連圏から来ている人が多いため、この留学生祭に参加した学生たちの間では英語の次にロシア語が公用語となっている。急に「ロシア語を少しでも習っておけばよかったな」と思ってしまった。英領インド時代にサトウキビ・プランテーションの労働者として移民したインド人が多く住む国々(フィジー、モーリシャス、西インド諸島など)を除けば、インドに来ている留学生はほとんどユーラシア大陸かアフリカ大陸の人々であり、数百年、数千年の昔からインド亜大陸を訪れていた民族とそう変わりはないと言える。




トリニダード・トバゴ、カザフスタンの
ダンサーたちと共に


 最後にICCRの会長が、「私はあなたたちにムンバイーでもう一度公演してもらいたい!」と言っており、それを本気にした留学生たちは「ムンバイーで会おう!」と言って別れていた。・・・そんな時間ないんだが・・・。

12月8日(水) Hulchul

 今日は先々週から公開のヒンディー語映画「Hulchul」をPVRアヌパムで見た。「Hulchul」は「ハルチャル」と読み、「混乱」みたいな意味だ。監督は、去年公開されてヒットしたコメディー映画「Hungama」のプリヤダルシャン監督、音楽はヴィディヤサーガル。前作と同じく多くの人物が複雑に絡み合うため、キャストの数が多い。主演はアクシャイ・カンナーとカリーナー・カプールで、他にアムリーシュ・プリー、パレーシュ・ラーワル、ジャッキー・シュロフ、スニール・シェッティー、ラクシュミー、アルシャド・ワールスィー、シャクティ・カプール、アルバーズ・カーン、アキレーンドラ・ミシュラー、ディープ・ディロン、マノージ・ジョーシー、ファルハーなどが脇役を務めていた。


上から
パレーシュ・ラーワル
ジャッキー・シュロフ
アムリーシュ・プリー
スニール・シェッティー
ラクシュミー
アルシャド・ワールスィー
シャクティ・カプール
アルバーズ・カーン
マノージ・ジョーシー

カリーナー・カプールとアクシャイ・カンナー


Hulchul
 地元の名士アンガールチャンド(アムリーシュ・プリー)家には4人の息子がいた。上から順にバルラーム(ジャッキー・シュロフ)、キシャン(パレーシュ・ラーワル)、シャクティ(アルバーズ・カーン)そしてジャイ(アクシャイ・カンナー)である。アンガールチャンドの妻はバルラームの結婚を巡る不幸な事件により死去しており、以後、4兄弟は一生独身を通すことが決められ、アンガールチャンド家の門の前には「女人禁制」の札が掲げられることになった。

 一方、隣村に住むラクシュミーデーヴィー(ラクシュミー)の家は、過去の遺恨からアンガールチャンド家を敵視しており、ラクシュミーデーヴィーは何とかアンガールチャンドに復讐する機会を伺っていた。ラクシュミーデーヴィーの家には、義理の息子のカーシーナート(シャクティ・カプール)、その娘のアンジャリー(カリーナー・カプール)、ラクシュミーデーヴィーの3人の息子、スーリヤ(アキレーンドラ・ミシュラー)、プラタープ(ディープ・ディロン)、ヴィール(スニール・シェッティー)がいた。

 アンガールチャンド家の末っ子ジャイと、ラクシュミーデーヴィーの孫娘アンジャリーは同じ大学の法学部に通っていた。アンジャリーは結婚が決まって一度退学したのだが、その結婚はアンガールチャンドの妨害により中止となってしまった。再びアンジャリーは大学に戻って来た。ジャイとアンジャリーは、お互いの家に復讐をするため、恋に落ちた振りをして接近する。相手を恋に狂わして苦しめてやろうという魂胆だった。ところが2人は本当に恋してしまう。

 ジャイは自身の結婚を実現させるため、まずは3人の兄たちを結婚させようとするが、3人とも結婚には全く興味がなかった。そのとき、ジャイの親友のラッキー(アルシャド・ワールスィー)が大ニュースを持って来た。なんとジャイの兄のキシャンが実は内緒で結婚しており、子供もいるというのだ。早速ジャイとラッキーはキシャンの妻ゴーピー(ファルハー)の元を訪れる。そこへキシャンもやって来て大変なことに。もしこの結婚がばれたらキシャンは父親に殺されてしまう。キシャンはジャイとアンジャリーの結婚を助けることを約束させられるが、キシャンの結婚はアンガールチャンドの耳にも入ってしまった。おまけにジャイとアンジャリーが恋仲にあることもばれてしまう。アンガールチャンドは激怒してジャイとキシャンを家から追い出す。

 アンガールチャンド家の仲間割れに高笑いをするラクシュミーデーヴィーは、さらに敵の内部分裂を誘うため一計を案じる。ラクシュミーデーヴィーはアンジャリーの結婚を強引に決め、その結婚式にアンガールチャンドを招待した。アンガールチャンド、バルラーム、シャクティはその結婚式に出席する一方、ジャイはキシャン、ラッキーらと共に結婚式場に忍び込み、花婿と摩り替わってアンジャリーと結婚の儀式を行う。儀式の最後を飾る、マンガルスートラ(既婚の印の首飾り)の着装の段になり、ラクシュミーデーヴィーは花婿がジャイであることを見抜く。マンガルスートラは結婚の証であるため、何としてでもジャイの手からマンガルスートラを奪わなければならなかった。マンガルスートラを巡ってアンガールチャンド家とラクシュミーデーヴィー家の間で大混乱が起きるが、最後にはジャイはアンジャリーの首にマンガルスートラをかけることに成功し、2人の結婚は成立した。アンガールチャンドも遂にジャイとキシャンの結婚を認め、家の門から「女人禁制」の札を外した。

 「Hungama」に引き続き、無数の登場人物が最後で大混乱を起こすコメディー映画。これがプリヤダルシャン監督の独特の手法なのだろうか?細かいところでチョコチョコと笑わせてくれる映画だったが、展開があまりにハチャメチャすぎて、一本の映画を見ているというよりは、コント集を見ているようだった。まずはコメディーありきで、その笑いを味付けするためにストーリーらしきものをくっ付けているように思える。だが、最後にジャイとアンジャリーが結婚を認められるときには観客から拍手が沸き起こるほど、2人の結婚を応援したくなる映画だった。

 何しろ登場人物が多いので、ヒンディー語映画初心者には顔と名前を一致させるのが大変だろう。だが、出演している俳優のほとんどはけっこう名の知れた人たちなので、普通のインド人には全く問題ない。

 主演はアクシャイ・カンナーとカリーナー・カプールだったが、脇役陣の方が元気がよかった。アムリーシュ・プリー、ラクシュミー、アルシャド・ワールスィー、パレーシュ・ラーワル、スニール・シェッティー、ジャッキー・シュロフ、シャクティ・カプールなどなど好演が目立った。悪役ではアムリーシュ・プリーとラクシュミーが観客を恐怖のどん底に突き落とし、アルシャド・ワールスィーやパレーシュ・ラーワルが観客の腹を爆笑でよじらせた。余計なお世話だが、前々から前髪が危機的な状況に陥っていたアクシャイ・カンナーの髪の毛が増えたような気がする。

 ジャイとラッキーが牛の剥製を獅子舞のようにかぶってラクシュミーデーヴィーの屋敷に侵入するシーンがあった。酔っ払った牛飼いが牛の乳を搾ろうとすると、ジャイは手袋を膨らませて乳のようにし、それを牛飼いに絞らせた。これら一連のギャグはどこかで見たことがある。多分昔のインドのコメディー映画にあったように思う。

 インド人庶民はこういうお気楽なコメディー映画が好きなので、現在「Hulchul」はけっこうヒットしている。だが、日本人の鑑賞に耐えうる作品ではないように思う。細かい笑いはけっこういいセンスしていると思うのだが、全体的なまとめ方は雑としか言いようがない。

12月9日(木) Khamosh Pani

 今日はPVRアヌパムでパンジャービー語映画「Khamosh Pani : Silent Waters」を見た。この映画はパーキスターン、フランス、ドイツが共同制作したもので、去年のロカルノ国際映画祭で金豹賞を獲得して話題になった。監督はザービハ・スマルというパーキスターン人女性監督。しかしながら、主演はインドの俳優である。言語は9割以上パンジャービー語で、時々ウルドゥー語が入る。英語字幕入りなので理解に支障はなかった。

 「Khamosh Pani」とは英語の副題通り、「静かなる水」という意味である。監督はザービハ・スマル、キャストは、キラン・ケール、アーミル・マリク、シルパー・シュクラ、ナヴテージ・ジャウハルなど。




キラン・ケール


Khamosh Pani
 1979年、パーキスターン、パンジャーブ州チャルキー村。アーイシャ(キラン・ケール)は、1人息子のサリーム(アーミル・マリク)が仕事もせずにブラブラしているのを心配していた。アーイシャは決して村外れにある井戸には行かず、友人に水を届けてもらっていた。

 ある日、村に2人の若者がやって来て、イスラーム原理主義を説き始める。それに共感したサリームと親友のアミンは、次第に排他的な原理主義に染まっていく。サリームの恋人だったズバイダー(シルパー・シュクラ)は、彼の行動に不安を感じながらも何もすることができなかった。政界ではズールフィカール・アリー・ブットー前首相は処刑され、ズィヤーウル・ハク首相のイスラーム化政策が進行していた。

 そんなとき、印パ間の協定に基づき、チャルキー村にインドからスィク教徒の巡礼者がやって来た。巡礼者の中に混じってやって来たジャスワント(ナヴテージ・ジャウハル)は、1947年印パ分離独立時に生き別れとなった姉ヴィーローを探しに来ていた。印パ分離時、インドへ移住せざるをえなくなったチャルキー村のスィク教徒たちは、女性たちの貞操を暴徒化したムスリムから守るため、自分の妻や娘を井戸に落として殺したのだった。しかしヴィーローだけはそれから逃れ、そのままどこかに隠れ住んでいたのだった。ヴィーローの存在は村のタブーだったが、やがてジャスワントはアーイシャが姉ヴィーローであることを突き止める。

 アーイシャが実はスィク教徒であることを知って一番ショックを受けたのは、イスラーム原理主義に染まっていた息子のサリームだった。サリームは仲間たちから糾弾され、アーイシャは村人たちから白い目で見られるようになる。それに耐え切れなくなったアーイシャは、井戸に身を投げて自殺してしまう。

 2002年、ラーハウルで働いていたズバイダーは、イスラーム原理主義の政治家となったサリームをTVで見かける。

 1947年の印パ分離独立の悲劇を描いた映画は数多くあり、それに伴う女性の悲劇も、アムリター・プリータム原作の映画「Pinjar」(2002年)などで描かれているが、この映画ほど心に重くのしかかるタッチの映画は今までなかったのではないかと思う。分離独立の悲劇に加え、イスラーム原理主義に染まっていく農村の若者たちの現状も、当時の政治情勢と絡めながら語られており、非常に見る価値のある映画となっていた。

 題名の「静かなる水」とは、村の郊外にある井戸のことだ。度々井戸の映像が映し出され、井戸に決して行かないアーイシャの謎が観客を不思議がらせ、またアーイシャの記憶が白画面のフラッシュバックとなって挿入されるが、終盤までその意味は明かされない。全てが明らかになるのは、スィク教徒の巡礼者が村にやって来てからで、事実は恐るべきものであった。印パ分離独立時、パーキスターン側にいたヒンドゥー教徒とスィク教徒はインドへ、インド側にいたイスラーム教徒はパーキスターンへ移住したが、この移動は大量殺戮の悲劇を生み、印パ双方に多大な犠牲と悲劇をもたらしてしまった。その中で、立場の弱かった女性はさらに弱い立場に追い込まれ、殺される者、レイプされる者の他、家族と離れ離れになって置き去りにされてしまったり、自殺を強要されたりする者も少なくなかった。「Pinjar」では、ムスリムに誘拐されて無理矢理結婚させられ、分離独立後はパーキスターン側に残ってしまったヒンドゥー教徒の女性が主人公だった。「Khamosh Pani」では、自殺を強要されながらも逃れ、ムスリムの若者に救われて結婚し、そのままイスラーム教徒としてパーキスターン側に住み続けたスィク教徒の女性が描かれていた。この女性の悲劇に、イスラーム原理主義に傾倒する息子の姿が重ねあわされていた。

 ヒンドゥトヴァ(ヒンドゥー原理主義)でもイスラーム原理主義でも、その根幹にあるのは宗教問題でも何でもなく、はっきり言って就職問題と貧困問題である。行き場のない若者たち、将来に希望を持てない若者たちが、宗教を政治に利用しようとする政治家に利用されて排他的な思想を植えつけられ、やがて暴力事件を引き起こすようになる。この状況は日本でもそう変わりはないだろう。封建制社会では、生まれながらに職業や身分の制約を課せられながらも、親の仕事をそのままやっていれば失業することはないという保証があった。しかし封建制度が崩れ、民主主義的また資本主義的社会になってからは、職業選択の自由やある程度の平等は保証されながらも、上記のようなまた別の問題が発生するようになってしまった。宗教の原理主義化も、それらの問題と無関係ではない。「Khamosh Pani」でも、昔ながらの生活を送っていた一般的な村人たちは非常に宗教に寛容であり、政治にも冷めた考えを持っていたが、都会からやって来たイスラーム原理主義者たちの説得と脅迫により、またそれに感化された村の若者たちの影響により、次第に排他的な行動を取るようになってしまう。

 俳優陣は皆、素晴らしい演技をしていた。特に主演のキラン・ケールは貫禄の演技。キラン・ケールは「Devdas」(2002年)や「Veer-Zaara」(2004年)などの大作に出演しており、最近さらに存在感を増しているように感じる。サリーム役のアーミル・マリクは「Yeh Kya Ho Raha Hai」(2002年)でデビューした若手だが、大人の演技をしていた。ズバイダー役のシルパー・シュクラはどうやら新人のようだが、あまり映画向きの顔ではないように思える。

 言語はほとんどパンジャービー語。ヒンディー語と似ているので何となく分かる部分もあるが、英語字幕があるので何とか付いていけた(字幕、特に英語字幕を見ながら映画を鑑賞するのは苦手だ)。パーキスターンの国語はウルドゥー語だが、最大の母語話者を誇る言語はパンジャービー語である。映画中、演説やTV放送などの言語はウルドゥー語だった。

 映画賞を受賞したほどの映画なので、僕が薦めるまでもなくオススメの映画である。

12月10日(金) Musafir

 本日から公開の新作ヒンディー語映画「Musafir」をPVRアヌパムで見た。明日から旅行へ行くので、それに備えて目ぼしい映画は見ておこうと三日連続で映画館に通っている。同時に年賀状の作成もやっているのでここのところ忙しい。来週からは今年最後の期待作と言ってもいい「Swades」が始まるから楽しみだ。

 「Musafir」は「ムサーフィル」と読み、「旅人」という意味。サンジャイ・ダットのホワイト・フェザー・プロダクションが制作、監督は「Kaante」(2002年)のサンジャイ・グプター、音楽はヴィシャール&シェーカル。キャストはサンジャイ・ダット、アニル・カプール、マヘーシュ・マーンジュレーカル、サミーラー・レッディー、アディティヤ・パンチョーリー、コーイナー・ミトラ(新人)など。




サンジャイ・ダット


Musafir
 ムンバイーで冴えないチンピラ生活を送っていたラッキー(アニル・カプール)は一発逆転を狙って仲間と共にマフィアから金を騙し取るが、その金は泣く子も黙る大マフィア、ビッラー(サンジャイ・ダット)のものだった。しかも金は恋人(コーイナー・ミトラ)に奪われてしまう。ラッキーはビッラーに追われ捕まるが、一度だけチャンスをもらう。それは、ゴアへ麻薬の入ったバッグを持って行って金と交換して持ち帰る仕事だった。

 ラッキーは自動車で一路ゴアを目指すが、その途中で悪徳警官タイガー(アディティヤ・パンチョーリー)がビッラーの手下を殺したところを目撃する。ゴアを取り仕切っているタイガーはラッキーに目を付けるようになる。

 ゴアに着いたラッキーは、道端で偶然サム(サミーラー・レッディー)という美女と出会い、彼女を家まで送り届ける。そのまま家に入っておもむろに2人はキスを始めるが、そのとき家に夫のルカ(マヘーシュ・マーンジュレーカル)が入ってくる。ラッキーはそのまま立ち去る。

 ラッキーはビッラーから受け取った麻薬を現金と交換するが、手違いからその現金を失ってしまう。そのときルカがラッキーに、サムの殺人を持ち掛ける。ルカの話によると、サムは事あるごとに男を家に連れ込む淫乱な女で、いっそのこと殺してしまいたいとのことだった。サムは多額の報酬を約束する。その一方でサムもラッキーに、ルカの殺人を持ち掛ける。サムの話によると、彼女はルカに無理矢理妻にされており、その復讐をしたいとのことだった。ラッキーは2人からそれぞれ家の鍵を預かる。

 夜10時、ラッキーがルカとサムの家に侵入すると、既にサムがルカを殺した後だった。ラッキーはルカの家にあった金を持ち、サムを連れて逃げ出す。ところがルカは悪徳警官タイガーの兄弟で、しかもその金はタイガーのものだった。ラッキーはタイガーに追われるようになる。一方、ビッラーもゴアまで来ており、ラッキーを追う。

 結局タイガーとラッキーはビッラーに捕まり、金とサムはラッキーの手中に収まる。ビッラーは2人に命を懸けたギャンブルをするように強要する。サムの助けもあり、ラッキーはその賭けで生き残った。ビッラーはその場に2人と金を残して立ち去って行った・・・。

 サンジャイ・ダットの漢っぷり爆発の映画。サンジャイ・ダットの登場シーンは案外少ないものの、そのインパクトは他のどの登場人物をも凌駕する。まさに彼のためにあるような映画だった。インド人の若者の間でサンジャイ・ダットの人気は絶大なものがあり、この映画も彼らに熱狂的に支持されるのではないかと思う。

 マフィア役をやらせたら、サンジャイ・ダットの右に出る者はいない。マフィアを演じるというよりも、マフィアそのものなのではないかと思えて来てしまうほどだ(一応父親はのスニール・ダットは政治家)。この映画でもカリスマ的マフィアをまがまがしく演じており、そのかっこよさにしびれた。太葉巻をくわえ、バタフライ・ナイフをカシャカシャと回しながら銃をぶっ放すという、まるでアメコミのキャラクターのようなマフィアをいとも簡単にこなしてしまっていた。しかもセリフがかっこいい。「全く皮肉なもんだぜ。ガーンディー・ジーは一生涯を非暴力のために捧げた。だが、事もあろうに政府はガーンディー・ジーの顔を暴力の元凶に印刷しやがった・・・金さ!」インドの全ての紙幣には確かにマハートマー・ガーンディーの肖像が印刷されている。・・・このセリフはギャグか、それともかっこつけか?こんなにまがまがしいセリフは今まで聞いたことがない。ラストで、苦労して奪った金をラッキーとサムに残して、アメリカン・バイクで颯爽と去っていく姿もかっこよすぎる。・・・なぜ金を彼らに残したのかはいまいち理解できないが・・・。

 久し振りにアニル・カプールをスクリーンで見た。いい演技をしていたが、サンジャイ・ダットの前ではただのおっさんに見えてしまう。「ラッキー」という名前ながら、ひたすらアンラッキーなのが笑えた。サムを演じたサミーラー・レッディーは、「Darna Mana Hai」(2003年)や「Plan」(2004年)に出ていた若手女優だ。何か物言いたげな目と口が魅力的だと感じた。マヘーシュ・マーンジュレーカルもマフィア映画には欠かせない人物である。憎々しい笑みがいい味を出している。彼は俳優の他、監督業もやっており、「Rakht」(2004年)などを監督している。

 いくつかのミュージカル・シーンも印象的だった。一番よかったのは「Tez Dhaar」。ただサンジャイ・ダットがリムジンの中で白人の美女に囲まれて体を揺らしているだけの踊りだが、なぜか無性にかっこよかった。「Ishq Kabhi Kario Na」や「Saaki」などもよかった。ほぼ全てのミュージカルは、露出度の高い「アイテムガール」が色っぽい踊りを踊るものだった。

 日本人にとって、おそらくサンジャイ・ダットはインド映画ハマリ度のリトマス試験紙ではないかと思う。インド映画を全く知らない人がサンジャイ・ダットの出ている映画を見たら、「なにこの濃いおっさん?」という感じだろう。何を隠そう、僕が初めてインドで見たインド映画もサンジャイ・ダットの映画だった。そのときは全然好きになれなかったのだが、インド映画の魅力が分かってくる内に、次第にサンジャイ・ダットの魅力も分かってきたように思える。しかし、いたいけな女性がインドで「私はサンジャイ・ダットが好き」などと公言してしまうと、周囲のインド人を引かせてしまうから気を付けなければならない。サンジャイ・ダットは女人禁制的魅力があると思う。

 サンジャイ・ダットのファンならば絶対に見るべき映画。サンジャイ・ダット抜きにしても割と凝ったストーリーだったが、インド映画初心者にはインパクトが強すぎる映画ではないかと思う。

12月11日(土) チェータク・エクスプレス



 インドに住んでいるとインドのことがよく分かると思われがちだが、インドに住んでいるからといってインドのことがよく分かるわけでもない。特にデリーのような大都会に住んでいると、デリーでの体験や見聞だけで「インドは〜〜だ」とさもインド全体のことが分かったような口調で物事を語ってしまいがちになり、本当のインドの状態を見失ってしまうことがよくある。だから時々デリーの外を旅行をすることは非常に大事だ。JNUに入ってから旅行する時間があまり取れなくなったが、長期休暇には必ずどこかを旅行するようにしている。

 今冬、旅行先に選んだのはラージャスターン州南部。ラージャスターン州と一口に言っても実はそれぞれ地域ごとに文化的差異がある。話は飛ぶが、僕は愛知県豊橋市出身である。豊橋は愛知県の東部、静岡県の近くにある。愛知県というと名古屋が非常に有名でインド人でも知っている人がいるくらいだが、実は豊橋の人間は名古屋と一緒にされるのを非常に嫌がる。なぜなら豊橋は三河の都市であり、名古屋は尾張の都市であるからだ。これら両地域は全く違った文化圏に属しており、方言も全然違う。ちょうどそれと同じく、ラージャスターン州もいくつかの地域に分割して考えることができる。主な地域は、北東部のジャイプルを中心とするアンべール(アーメール)地方、西部のジョードプルを中心とするマールワール地方、そして南部のウダイプルを中心とするメーワール地方である。これらの地域がどれだけ違うかを示す好例が僕のヒンディー文学科のクラスにある。クラスにラージャスターン出身の学生はけっこういるのだが、1人はジョードプル近くのマールワール地方出身、残りはジャイプルやアルワルなどのアンベール地方出身である。アンベール地方の学生たちは派閥と言えるくらいお互い仲がいいが、マールワール地方出身の彼はそのグループとちょっと距離を置いている。同じ州出身と言えど、同郷という感覚はあまりないようだ。今回旅行するのは、ラージャスターン州の中でもメーワール地方を中心とした地域ということになる。ウダイプル、チッタウルガル、ブーンディー、コーターの4都市を中心に観光する予定だ。ウダイプルは2000年に一度訪れたことがあるが、他の都市は初めての訪問となる。安めの宮殿ホテルやハヴェーリー(邸宅)・ホテルに宿泊することが、今回の旅行の密かな目的である。

 デリーのサラーイ・ローヒッラー駅で午後2時10分発ウダイプル行きの9615チェータク・エクスプレスに乗り込んだ。サラーイ・ローヒッラー駅はラージャスターン方面へ行く列車が主に発着する駅で、特にメーターゲージ(狭軌)の列車用となっている。ウダイプル行きの列車もメーターゲージである。ただ、現在ブロードゲージ(広軌)の線路が建設中のようだ。メーターゲージの列車は車両の横幅が狭くて天井も低く、ベッドの数が少なくなっている。チェータクとは、メーワール王国の英雄マハーラーナー・プラタープ・スィンの愛馬の名前である。




サラーイ・ローヒッラー駅
デリーの駅の中では小さい駅である


 チェータク・エクスプレスには3等AC寝台席(もっともリーズナブル)がなかったので、2等AC寝台席で行くことにした。ドアもある完全なコンパートメントになっており、1つのコンパートメントに4人が寝れるようになっていた。同室になったのは、パンジャーブ人、ウダイプル在住の人、そしてなんとJNUでアフリカ学を教えている南アフリカ人(白人)の教授だった。

 ラージダーニー・エクスプレスとは違うので、食べ物などは出てこない。しかも等級が高い列車なので、車内に物売りが全然やって来ない。よって、非常に退屈かつ不便な移動となってしまった。インドの列車の旅は、等級が上がるほど快適になるが、インドならではの面白さからは遠ざかってしまう。それでも、荷物の心配をする必要がないというのは何物にも変えがたい。ACなしの寝台クラスで行くと、靴まで枕元に置いて寝ないといけないから大変だ。また、AC以上の等級で行くと毛布などの寝具を支給してくれるので、荷物の節約をすることもできる。一応、夕食と朝食は沿線上の村人らしき人が注文を取りに来たので、彼らに頼めば持って来てくれた。夕食は9時半頃、朝食は8時頃だった。







2等AC
枕、毛布、シーツなどは
支給してもらえる


12月12日(日) 湖と宮殿の街、ウダイプル

 列車のウダイプル到着予定時間は9時5分。時間通りとは行かなかったが、それに近い時間でウダイプル・シティー駅に到着した。駅からオート・リクシャーで旧市街の中心部まで行く。旧市街の要地に近く、湖に面しているジール・ゲストハウスに宿泊することにした。ダブルルームで300ルピー。バス・トイレ、ホット・シャワー付きで、しかもバスタブまで付いているという豪華さだが、タオルや石鹸などはもらえなかった。ジール・ゲストハウスはウダイプルのホテルの中でも老舗で、オーナーは相当金を稼いでリッチな老後を送っているそうだ。だが、現在いる従業員は、見かけは親切だが影で宿泊客の悪口を言い合っており、あまり信用が置けない人物だった。

 ウダイプルは、何と言っても人造湖ピチョーラー湖の中に浮かぶ宮殿、レイク・パレスで世界的に有名である。レイク・パレスはマハーラーナー・ジャガト・スィン2世によって1754年に建造され、メーワール王国の夏の宮殿だったが、現在ではインドを代表する宮殿ホテルとなっており、一般に開放されている。レイク・パレス・ホテルは「007/オクトパシー」(1983年)のロケ地となったことで映画ファンにも有名である。ウダイプルに乱立する屋上レストランでは夜な夜な同映画の上映会が行われているとか。ところが、近年ウダイプル周辺は深刻な干ばつに見舞われており、ピチョーラー湖も大半が干上がってしまっている。2000年に訪れたときは満々と水を湛えていたのだが、もはやピチョーラー湖東岸のシティー・パレスとレイク・パレスの間にしか水がない状態となってしまっていた。僕が泊まったジール・ゲストハウスの前も、本当だったら湖なのだが、今では干上がって下に降りれるようになっており、そのまま歩いてレイク・パレスまで行けてしまう。干上がった湖は広大な草原となっており、牛たちが草を食んでいた。夕方には、干上がった湖で子供たちがクリケットをして遊んでいたのが印象的だった。





大半が干上がったピチョーラー湖


レイク・パレスまで歩いて行ける
ただ、陸路からは宿泊客以外立入禁止


 レイク・パレスは1泊300〜1000ドルくらいする超高級ホテルだが、レストランで食事をするだけなら貧乏人でも入ることができる。前回来たときはレイク・パレスの中を見ることができなかったので、今回はまずレイク・パレスでランチを食べることから挑戦してみた。レイク・パレス・ホテルのレストランは完全予約制で、予約なしではレイク・パレス行きのボートに乗ることすらできない。レイク・パレスへ通じる道の入り口にあるカウンターで予約をし、12時半にボート乗り場からボートに乗ってレイク・パレスへ足を踏み入れた。・・・四方が水で囲まれていたらどんなに感動的な一歩だったことだろうか・・・だが、湖の大半が干上がってしまった現在では、レイク・パレスの片側にしか水がなく、歩いていけるのにわざわざボートで入場するというのは何だか間抜けな気がした。




シティ・パレスからボートに乗って
レイク・パレスへ


 レイク・パレス内部は思っていたほど広い空間ではなかったが、よく整備されていた。概して、宮殿ホテルは元々宮殿だっただけあって、あまりホテルとしての利便性を考慮して設計されていない。よって、大体においてちょっと変な構造になっているのだが、このホテルはなかなかどうしてホテルっぽくなっていた。ランチはビュッフェで、1人1000ルピー+税金。ノン・ヴェジとヴェジのカレーが用意され、ノン・ヴェジではフィッシュ・カレー、チキン・カレー、マトン・カレーに加えて、ポーク・カレーがあった。インドでポーク・カレーというのは珍しい。さすがに1000ルピー取っているだけあって味は絶品。夕食が要らないくらい腹いっぱい食べた。





レイク・パレスの一角
向こうに見えるはシティ・パレス



ランチ・ビュッフェ


 レイク・パレスの南には、もうひとつ湖に浮かぶ宮殿がある。ジャグマンディル島と呼ばれており、マハーラーナー・カラン・スィンによって建造されたものだ。この島には、父ジャハーンギールに謀反を起こして隠れていたシャー・ジャハーンが滞在していたことがあり(1623〜24年)、タージ・マハルのモデルとなったと言い伝えられている。インド各地には「タージ・マハルのモデル」と言われる建築物がいくつもあり、タージ・マハル好きな僕はそういう遺跡があると絶対に見てみたくなるのだが、残念ながら現在ジャグマンディル島は開いていなかった。なぜなら水不足で湖が浅すぎてボートが行けないからだ。ジャグマンディル島はリティク・ローシャンとカリーナー・カプールが主演の映画「Yaadein」(2001年)の中の、「Jab Dil Mile」というミュージカルのロケ地になっている。

 レイク・パレスから戻った後は、シティ・パレスの博物館へ行った。入場料は大人50ルピー。カメラ持込料があり、どんなカメラでも200ルピーも取られるとのことなので、カメラはホテルに置いて来た。シティ・パレスは複数の宮殿の集合体になっており、ラージャスターンで最も巨大な宮殿を形成している。1571年から建造が始まり、歴代のマハーラーナーによって増築され続けて来た。現在のマハーラーナー、アルヴィンド・スィンも増築を行ったとのこと。内部はいくつもの部屋に分かれており、それぞれに特徴がある。例えば王妃の部屋シーシュ・マハルは四方が鏡で装飾されており、クリシュナ・ヴィラースは四方に細密画が飾られ、チーニー・マハルは中国から取り寄せたタイルが敷き詰められ、モール・チャウクには鏡で作られた孔雀が飾られている。マハーラーナーの豪奢な生活を偲ぶことができる。一番最後には、メーワール王国の歴史とマハーラーナーの家系を紹介した展示があった。現マハーラーナーの1人の息子と2人の娘の写真もあった。娘の1人はコギャルっぽかったのだが・・・。

 ところで、ウダイプルの王は皆、マハーラーナーと呼ばれている。日本ではマハラジャ(マハーラージャー)という呼称が有名だが、ウダイプルの王だけはマハーラーナーであり、ウダイプルの人々もこの特別な呼称に誇りを持っている。メーワール王国はラージャスターン州の藩王国中唯一ムガル王朝に屈しなかった誇り高い王国であり、マハーラーナーとは敢えて訳せば「偉大なる戦争の王」というニュアンスがあると思う。それに比べると、マハーラージャーという呼称は「政治的な王」という意味合いが強いかもしれない。

 夕方には、「バーゴールのハヴェーリー」と呼ばれる旧大臣邸の、ダローハルと呼ばれる広場で7時から行われる舞踊ショーを見た。ラージャスターン州の伝統舞踊を分かりやすく簡潔に紹介する1時間のショーで、よく考えられたプログラムとある程度のレベルのダンサーのおかげで非常に楽しむことができた。ラージャスターンの伝統歌「ケーサリヤー・バーダム」から始まり、体中に付けたベルを打ち鳴らすテーラータール・ダンス、女性たちの踊りガヴァリー、ラージャスターン名物パペット・ダンスや、壺を次々と頭に乗せていく大道芸的踊りなど、充実した内容だった。





ガヴァリー


9段積み!


 今日は旅行第1日目だったが、1日中フルでウダイプルをエンジョイできた気がする。ウダイプルには来たことがあったので勝手が分かっていたことも大きいが、有数のツーリスト・スポットなので住民が旅行者に慣れており、観光業が程よく発達していることが一番の要因だろう。できれば長く滞在したい、過ごしやすい街である。

12月13日(月) クンバルガルとラーナクプル

 今日は早朝からタクシーを1日チャーターして、ウダイプル北部にある観光地を巡った。チャーター代は特に下調べもなしに交渉して1400ルピー。ナートドワーラー、ハルディーガーティー、クンバルガルそしてラーナクプルの4ヶ所を主に見て回った。普通の旅行者はクンバルガルとラーナクプルだけを回るようで、こちらのタクシー・チャーター料金は1000ルピー前後。実際に行ってみたらナートドワーラーはそれらと大して別方向にある訳でもなく、その2ヶ所にナートドワーラーなどを加えたら、多分妥当な値段は1100ルピーくらいだと思った。現在のところ、タクシー料金は4ルピー/kmの計算が妥当である。

 早朝6時の出発だったが、やはりインドなので時間通りに事が進むはずがなく、結局6時半頃ウダイプルを出発した。ドライバーの名前はカールー、28歳。突然、聞いてもないのに「実は人妻と横恋慕しててね・・・オレも既婚で子供もいるけど」と、かなりプライベートな話から始まったので驚いた。ウダイプル近郊の村出身で、言葉がかなり訛っていたが、聞いている内にだんだん慣れてきた。おしゃべりなドライバーというのは、退屈しなくていいが、調子のいい奴が多いので多少注意せねばならない。

 まず向かったのはナートドワーラー。と、その前にウダイプルからナートドワーラーへ行く途中に、メーワール王国のマハーラーナーの氏神であるエークリングジー寺院があるが、朝早すぎたために閉まっていた。歴代のマハーラーナーは、祭りのときにウダイプルから約25km離れたこのエークリングジー寺院まで徒歩で通っていたという。

 ナートドワーラーはシュリーナートジーと呼ばれるクリシュナ神の寺院かつ門前町である。聞くところによると、ナートドワーラー寺院の賽銭収入は、アーンドラ・プラデーシュ州のティルパティ寺院に次いでインド第2位だとか。特にグジャラート人が多額の金銭を寄進して行くらしい。確かにナートドワーラーではグジャラーティー文字を多く見かけた。ナートドワーラー寺院に祀られている神像は、元々マトゥラーのクリシュナ生誕寺院にあったものだと言われている。敬虔なイスラーム教徒だったムガル朝第6代皇帝アウラングゼーブがインド中のヒンドゥー寺院の破壊を始めたとき、マトゥラーの寺院に安置されていたクリシュナの神像は信者によって安全な場所に避難された。1671年、メーワール王国のマハーラーナー・ラージ・スィン1世がクリシュナの像をウダイプルに保護安置することを提案し、像は荷車に載せられて運ばれた。ところがスィハール村でクリシュナ像を載せた荷車は泥沼にはまりこんでしまい、そこでにっちもさっちもいかなくなってしまった。それを見たある聖者が、この出来事は神様がこの地を住居と定めたことを示すと語ったため、ラージ・スィンの許可によってその村に寺院が建造され、クリシュナ像が安置された。以後、この村はナートドワーラーと呼ばれるようになり、多くの巡礼者を集めるようになったという。また、アウラングゼーブはナートドワーラーまで侵入して来たが、なぜか寺院は破壊しなかったという。ナートドワーラー寺院は、神のお告げにより民家と同じ掘っ立て小屋になっており、そのおかげでアウラングゼーブはそれが寺院だとは気付かずに通り過ぎてしまって難を免れたと聞くが、神の威光によりアウラングゼーブはナートドワーラー寺院を破壊できなかったと説明する人もいた。現在ではナートドワーラー寺院は立派な寺院となっているが、本殿だけは上から見ると今でも民家のようなシンプルな構造をしていることが分かる。




ナートドワーラー寺院入り口
中は写真撮影禁止


 ナートドワーラー寺院のご本尊シュリーナートジーは日に5回だけご開帳される。午前中は5時、7時、9時の3回らしい。だが、僕が行ったときはちょうど7時のご開帳が済んだところで、9時まで待つことはスケジュール上不可能だったため、残念ながらご神体を拝まずに立ち去ることになった。こういう寺院に必ずいる、チップ目当てのガイドの話によると、ご開帳ごとにシュリーナートジーは服を変えるようだ。その様子は絵で見ることができた。どちらにしろ、ヒンドゥー教徒以外は本殿に入ることはできないらしい。

 ナートドワーラーの門前町では、なぜか日本語を少しだけしゃべれる女乞食がいた。こんなガイドブックにも載っていない場所を訪れる日本人は稀だと思うが、彼女の話によると「たくさん日本人が来る。日本人から日本語を習った」とのことだった。いったい誰が日本語を教えたのだろう・・・?

 ナートドワーラーから今度はクンバルガルへ向かったが、その途中にハルディーガーティーと呼ばれる古戦場を通った。ハルディーガーティーは、1576年、アクバル直属の将軍アーサフ・カーンとアンベール王国のマハーラージャー・マーン・スィン率いるムガル・ラージプート連合軍と、マハーラーナー・プラタープ・スィン1世率いるメーワール軍とビール族の連合軍の戦争が行われた場所として有名である。「ハルディー」とはターメリック(ウコン)のことで、「ガーティー」は谷とか坂という意味だから、日本語に無理矢理訳すとウコン坂またはウコン谷になるだろうか。ここの土壌は黄色がかった赤土であり、それからこの名前が付いたらしい。だが地元の人々は、ハルディーガーティーの戦いで戦死した兵士たちの血が地面に染み込んだため、ここら辺の土は赤い色をしていると信じている。16世紀、ラージプートの王国のほとんどはムガル王朝に恭順を示し、誇り高きメーワール王国だけがムガル王朝に頑強に対抗していた。ムガル朝第3代皇帝アクバルは当初メーワール王国に再三和平の使者を送ったが、プラタープ・スィンは承諾しなかった。とうとう両軍は激突することとなり、ハルディーガーティーで戦争が起こった。戦争は10時間だけだったが、ラージプートの勇猛果敢な歴史に残るほどの激戦となり、マハーラーナー・プラタープ・スィンは7ヶ所に重傷を負って意識を失いそうになりながらも何とかムガル軍からの逃走に成功した。ハルディーガーティーには、マハーラーナー・プラタープ・スィンの愛馬チェータクの記念碑があった。チェータクとは、プラタープ・スィンと共に数々の戦場を駆け巡った名馬である。ハルディーガーティーの戦いのとき、チェータクは脚を負傷しながらも3本足で戦場を駆け回っていた。敗色が濃厚となり、逃亡するプラタープ・スィンがバナース河を渡っていたところ、ムガル軍の急襲があり、矢がチェータクに命中した。ところが、そこで倒れたら重傷を負っていたプラタープ・スィンは河の中に落ちて死んでしまう。そこでチェータクは最後の力を振り絞って一飛びし、河を渡りきったところで息絶えたという。その場所に記念碑が立っているという訳だ。武将の名馬・愛馬の話は日本にも中国にも事欠かないが、インドを代表する名馬と言えばこのチェータクだろう。メーワール王国のマハーラーナーに関する詳細な解説は、この後のチッタウルの日記を参照にされたい。




チェータク記念碑


 クンバルガルには11時前に到着した。クンバルガルはウダイプルの北84kmの地点にある要塞で、元々2世紀にジャイナ教徒の王子によって建造されたと言われているが、現存している要塞はマハーラーナー・クンバーによって1458年に建造された。アラーヴァリー山脈の山頂、標高1100mの地点にそびえ立っており、周囲は万里の長城を思わせる堅固な壁で覆われている。城壁の全長は36kmで、これはインドで最長、世界的にも万里の長城に次いで2番目に長い城壁だとか。これは、メーワールの王が外敵の侵入により危機に陥ったときに篭城するための要塞で、マハーラーナー・プラタープ・スィンの時代に一度しか陥落したことがない。しかもそのときは、ムガル軍、アンベール軍、マールワール軍の連合軍による総攻撃だったという。そこまでしないと落城させられなかった理由は、要塞を一目見れば納得がいく。厚い城壁と7つの堅固な門に守られた要塞。今までインド各地の要塞を巡ってきたが、そのどれに勝るとも劣らない威容があった。城壁内には365軒の寺院があり、特にニールカント寺院はマハーラーナー・クンバーによって毎日の礼拝のために建造された。最近集中的に整備されたようで、山頂の宮殿、バーダル・マハル(マハーラーナー・ファテー・スィンが建造)に続く道などきれいな石畳になっていた。入場料はインド人5ルピー、外国人100ルピーだが、「デリーに住んでる」と言ったら簡単にインド人料金にしてくれた。





クンバルガル


頂上から下を眺める


 クンバルガルの麓にあるホテルで軽く昼食を取った後、次に目指したのはラーナクプル。ラーナクプルにはジャイナ教の巨大な白亜の寺院がある。遺跡観光目的でインドを旅行する者のバイブルとも言える「インド建築案内」の著者、神谷武夫氏が「インド建築の最高傑作」と呼ぶほどの寺院であり、今回の旅行で最も訪れてみたかった場所だった。クンバルガルから1時間半ほどでラーナクプルに到着した。山と森だけの僻地に忽然と白い建造物群が遠くに見えてくるから異様だった。ちなみにラーナクプルは現在ではメーワール地方ではなくマールワール地方に立地しているが、寺院が建造された15世紀にはメーワール王国領内で、マハーラーナー・クンバーによって寄進された土地に建っている。

 ラーナクプルは駐車場やダラムシャーラー(巡礼宿)など完備の一大宗教施設となっていた。ジャイナ教の寺院なので、靴やベルトを初めとする革製品は一切身から外して行かなければならない。入場料などはなかったが、カメラ料として50ルピーを取られた(ビデオカメラは150ルピー)。こんな僻地にあるくせに、チケット・カウンターの人は僕の持っているカメラを見て、「それはデジカメか?ビデオ撮影機能付きのデジカメじゃないのか?」と疑っていた。確かに僕のデジカメはビデオを撮ることができたが(全然使ってないが)、その場はそれとなく否定しておき、カメラ料金だけで入ることができた。ウダイプルのシティーパレス博物館でも、「いかなるカメラでも200ルピー」、つまり「カメラでもビデオカメラでも200ルピー」となっていたが、あれは多分ビデオ撮影機能付きのデジカメを意識しての料金設定だと思う。デジカメの余分な機能が次第にインドの入場料に悪影響を与えつつある・・・。

 ラーナクプルにはいくつかの寺院があるが、その最大のものがジャイナ教の始祖の始祖アーディナートに捧げられたチャウムク(四面)寺院。1439年建造。外見はまるで要塞のような堂々たる威容を誇っている。インド建築の権威、神谷武夫氏が「インド建築の最高傑作」と太鼓判を押す建築物だけあって、多大な期待と緊張と共に寺院内に足を踏み入れた。内部は彫刻でビッシリと装飾された白大理石の柱が林立し(合計1444本あるという)、天井にまで細かな彫刻が施されていた。全てが白い・・・そして全てが細かい・・・。寺院は合計29のホールの集合体となっており、それぞれ微妙に床や天井の高さが違う。神谷武夫氏の言葉を借りると、「この寺院は内部空間の変化に富んだ構成に最大の魅力がある」。同著に掲載されている写真を見ると、2階から撮影したらしきものもあったが、現在では2階に上ることはできなくなっていた。





アーディナート寺院


内部は白亜の空間


 ・・・これがインド建築最高傑作か・・・そう自分に言い聞かせながら、何度も何度も回廊状になっている寺院をグルグル回ってあちこちを観察した。しかし、あまりに期待が大きすぎたためか、僕に建築の十分な知識がないためか、何となくピンと来なかった。今までインド各地の建築物を見てきたが、その中でジャイナ教の寺院はなぜか性に合わないと前々から感じていた。グジャラート州のシャトルンジャヤ寺院には感動したが、それ以外のジャイナ教寺院で僕を唸らせたものはなかった。繊細すぎるというか、味がないというか、何だか来た人を圧倒するダイナミックな魅力に欠けるように感じる。ラーナクプルの寺院にピンと来なかったのは、ジャイナ教寺院と気が合わないことが一番の大きな原因だと思った。また、全てが大理石できれいに磨かれており、あまり古い印象を受けないのもマイナスポイントだ。石造りの、いかにも廃墟といった感じの、灰と黒の混ざったような寺院の方が味があるように思える。一面真っ白というのも何だか魅力に欠ける。ヒンドゥー寺院のように色彩豊かな建物の方が僕には魅力的に感じる。色彩的にはシンプルだが、それでいて日本的侘び寂びを感じないのも残念だ。・・・などなど、いろいろ自分の期待外れ感を理屈で説明しようと考えながら寺院をじっくりと見たが、いい説明は思い浮かばなかった。ただ、ひとつだけものすごい残念で、しかもはっきりと説明できるのは、この人里離れた寺院が完全なる観光地となってしまっていたことだ。白人の観光客や、巡礼者とは思えないインド人旅行者がカメラを持ってウロウロしており、それがこの寺院の魅力を台無しにしていた。もっとも、僕自身もカメラを持ってウロウロしていた観光客の1人だが・・・。

 ラーナクプルからウダイプルまでは約60km。3時頃にラーナクプルを出て、途中チャーイ休憩を挟んで6時前にはウダイプルに到着した。

 今日はウダイプルの北部を巡ったわけだが、ほとんど農村のど真ん中を通り抜けていくような道で、途中の風景も楽しめた。特に興味深かったのは、畑への灌漑用水を井戸から汲み上げる装置。水車のようになっており、井戸の水を箱で汲み上げて、地上へ上げるのだが、その動力源が2頭の牛。棒に括りつけられた牛がグルグルと円を描いて回り、その力で水車を動かしていた。牛の後ろには操縦者がチョコンと乗って牛たちの動きを監督していた。この灌漑設備もそうだが、この辺りは河、池、水が豊富で非常に豊かな農園が至る所に広がっていた。メーワール王国が強靭な軍事力を誇れたのも、この豊かな農業力があったからこそではないかと思った。また、ラージャスターンと言っても全てが砂漠ではないことが分かった。アラーヴァリー山脈に位置するメーワール地方はどちらかというと山岳地帯となっている。




灌漑用水車


 僕は今までインド最高の建築物について特に考えたことがなかった。なぜなら神谷武夫氏がラーナクプル寺院を最高傑作に挙げており、それを見るまでは何も言うことができないと思っていたからだ。しかし、ラーナクプル寺院を自らの目で見た今、僕の中で「インド建築の最高峰は何か?」という問題が急に大きくなってしまった。残念ながら僕は神谷武夫氏の考えには同意できない。ではいったい何か?やはりタージ・マハルを外して考えることはできないだろう。その他、今まで見てきた遺跡の中で素直な感動を与えてくれた遺跡は何だっただろうか?エローラのカイラースナート寺院も大好きな遺跡だし、ジャイサルメールの城砦や旧市街も全部ひっくるめてお気に入りの遺跡だ。マドゥライのミーナークシー寺院も捨てがたいし、オールチャーのジャハーンギール・マハルも楽しかった。だが、素直に考えて、やはりタージ・マハルを最高傑作とするのが一番無難なのではないかと思う。

12月14日(火) プチ宮殿ホテル、ビジャイプル

 今日は朝からトラブルに見舞われた。今日は朝7時からウダイプル南部のドゥーンガルプルとジャイサムンドをタクシーで回ろうと考えていたが、7時になっても8時になってもドライバーが来なかった。別のドライバーを呼んでもらったものの、そのドライバーもなかなか来ず、結局8時半頃に2人のドライバーがほぼ同時に来た。ドゥーンガルプルとジャイサムンドは心から訪れてみたい場所ではなかったし、もう面倒だったので、そこへ行くのはやめて、朝から次の目的地チッタウルへ向かうことにした。これだけ外国人相手においしい観光業をしているにも関わらず時間厳守の観念が全くないインド人に、「本当に観光をやる気があるのか、外国人相手にこんないい加減な仕事していて観光業が発展するはずがない、時間を守れない人間は人生で何事も成すことはできない」などとじっくり説教をした後、バス停へ向かった。・・・後から思えば、このときチッタウルへ行っておいて正解だった。

 8時50分発のバスに乗り、ウダイプルから約115km東にあるチッタウルを目指した(48ルピー)。昨日タクシーで巡った辺りは緑が豊かな土地だと感じたが、チッタウル周辺はステップ気候のような半砂漠半草原地帯となっていた。バスは3時間足らずでチッタウルのバス停に到着した。

 チッタウルではホテル・プラタープ・パレスに宿泊した。このホテルは小さな宮殿ホテルみたいな外観と内装をしており、なかなか独特な魅力があった(外見がラブホテルっぽいのは否めないが)。だが、僕が着いたときには750ルピーのデラックス・ダブル・ルームしか空いておらず、しかも明日には予約が入っており延泊することが不可能だった。部屋を見せてもらったら、テラス付きのけっこう趣のある部屋だったので、1泊だけ泊まることにした。





ホテル・プラタープ・パレス


デラックス・ダブル・ルーム


 チッタウルはメーワール王国の牙城チッタウルガルで有名であり、この要塞を見るのが長年の夢だったが、チッタウルガル観光は明日1日を費やすことにして、今日はチッタウル近郊にある宮殿ホテル、キャッスル・ビジャイプルを訪れることにした。実はプラタープ・パレスとキャッスル・ビジャイプルのオーナーは同じである。ホテルでタクシーとビジャイプルでのランチをアレンジしてもらった。タクシーは往復350ルピー、ランチは250ルピーだった。

 ビジャイプルはチッタウルからブーンディーへ向かう道の途中、チッタウルから約40kmの地点にある。チッタウルからタクシーで1時間足らずだ。キャッスル・ビジャイプルは16世紀に建造された城を改造したホテルで、あまり清潔とはいえない村の中心にあった。敷地はそれほど大きくなく、建物もそれほど魅力的ではなかった。それぞれの部屋を見せてもらったが、アンティークの家具が使われていてまあまあのセンスではあったが、ちょっと物足りないという印象の方が強かった。庭にはプールもあった。現在改築中で、完成したらもうちょっとマシになるかもしれない。宿泊費は1400ルピー前後のようだ。過去に訪れたことがあるラージャスターン州ニームラーナーの宮殿ホテルと比べてしまうが、はっきり言って全ての点においてニームラーナーの方が上だった。特に部屋の家具や装飾のセンスはニームラーナーの足元にも及ばないと感じた。





キャッスル・ビジャイプル


デラックス・ツイン・ルーム


 とは言え、食事は非常においしかった。ノン・ヴェジのターリーを注文したら、3人分くらいはある量のカレーを出されて驚いた。内訳はチキン・カレーの他、ラージャスターンの郷土料理(ヴェジ)4種、ラージャスターン風のローティーやミターイーなど。野菜も肉も全て新鮮な味がしたことがおいしさの秘訣だったと思う。特にチキンは、今殺したばかりの鶏の肉の味がした。もちろん1人で全てたいらげることはできなかった。

12月15日(水) 誇り高き要塞、チッタウルガル

 チッタウルガル・・・メーワール王国の中心地であり、標高590m、面積28平方km、南北に細長いテーブル状台地に浮かぶ難攻不落の要塞。チッタウルガルほど多くの武勇伝と悲劇を生んだ要塞はインドには他にないだろう。歴史的にも建築的にもチッタウルガルは特別な意味を持っているが、ヒンディー文学の分野でもチッタウルガルは非常に重要である。いろいろな意味で、間違いなく今回の旅行のハイライトだ。ちなみに、日本ではチットールガルと表記されることが多いが、自分自身の原則に従い、チッタウルガルと表記している。

 チッタウルガルを巡る手段としてはタクシー、オートリクシャー、自転車がポピュラーなようだ。僕は自由気ままに自転車で巡ろうと思っていたが、昨日ビジャイプルへ行く途中にチッタウルガルへつながる険しいジグザグの坂道(高低差150m)をチラリと見た瞬間、自転車はやめようと即決した。そこでホテルでバイクをレンタルできるか聞いてみたら、できるとのことだったので頼むことにした。レンタル料200ルピーでガソリンは50ルピー分入れた。バイクはヒーロー・ホンダのCD100。実は遺跡が散在する街をバイクで回るのが一種の趣味になっている。1998年にはエジプトの王家の谷をバイクで回ったことがあるし、2003年にはディーウをバイクで何周もした。デリー各地に残る遺跡を横目にバイクを走らせるのも密かな楽しみとなっている。自転車もいいのだが、絶対に後で後悔するような印象が強い。ハンピーを自転車で巡ったときは相当疲れた。




ヒーロー・ホンダ CD100
ラタン・スィン・パレス前にて


 チッタウルガルの観光を書く前に、チッタウルガルの歴史を整理しておく必要がある。その歴史は、ラージャスターン州を中心にインドの中世を彩ったラージプート(インドの武士と言っていいだろう)の男たちの死をも恐れない勇猛果敢さと、女性たちの不名誉の生より名誉の死を選ぶジャウハルに象徴されている。ジャウハルとは、特にラージプートの女性たちが外敵との戦争に敗北したときに行う集団自殺のことである。戦争に負けると、後に残された女性たちはレイプされ、殺害されるか奴隷にされるのが中世の慣わしだった。よって、誇り高いラージプートの女性たちは自ら火の中に飛び込み、生き恥をさらすより死を選んだのだった。ラージプートだけでなく、王族から庶民まで全ての女性が一斉にジャウハルを行うこともあったという。チッタウルガルは歴史上3回、外敵により陥落させられており、その度にジャウハルが行われた。

 チッタウルガルは、神話では「マハーバーラタ」のパーンダヴァ5兄弟の1人ビームが建造したと言われているが、誰が最初に要塞を建造したのかは定かではない。メーワールのマハーラーナー(スィソーディヤー家)の所有となったのは、バッパー・ラーワルの頃の8世紀である。歴史上、チッタウルが最初に陥落したのはデリーのアラーウッディーン・キルジーによる総攻撃があった1303年である。このときの王はラタン・スィン1世だった。このアラーウッディーン・キルジーによるチッタウルガル侵略は民話となっており、それを基にジャーイスィーという詩人が「パドマーワト」という叙事詩を著した。伝承によると、アラーウッディーン・キルジーとラタン・スィンの戦争は、ラタン・スィンの王妃パドミニーの絶世の美貌により起こったという。パドミニーの美しさを伝え聞いたアラーウッディーン・キルジーは、彼女を奪うためチッタウルガルを攻撃した。ところがチッタウルガルがあまりに堅固だったために彼は落城させることができなかった。そこでキルジーはラタン・スィンに使者を送り、「もしパドミニーの顔を一目でも見せれくれたらデリーに帰る」と約束した。ラタン・スィンは戦争よりも和平を重視し、キルジーをチッタウルガルに招き、鏡に映したパドミニーの姿を見せた。ラタン・スィンはキルジーを城門まで見送ったが、パドミニーへの思いをますます募らせたキルジーは、ラタン・スィンを捕えて軍営に連れ帰ってしまった。キルジーはチッタウルガルに使者を送り、「もしラタン・スィンを返してほしかったら、パドミニーをオレによこせ」と脅迫した。しかしパドミニーも負けていなかった。パドミニーはキルジーに、「もし私のメイド700人のために700個の輿を用意してくれたらあなたと共にデリーへ行きます」と返答した。キルジーは快諾し、パドミニーに700の輿を送った。パドミニーはメイドの代わりに女装した兵士たち700人を輿に乗せ、輿担ぎに変装させた4200人の兵士に輿を運ばせた。パドミニーはキルジーの軍営へ到着すると、「最後に夫に会わせてください」と頼んだ。キルジーは承諾した。パドミニーと700の輿がラタン・スィンの囚われている軍営に辿り着くと、兵士たちは正体を現し、キルジーの軍勢に奇襲をかけた。この奇襲によりキルジー軍は総崩れとなってデリーへ逃げ帰ることとなった。怒り狂ったキルジーはすぐに軍勢を建て直し、チッタウルガルを再度攻撃した。今度はさすがのチッタウルガルも持ちこたえられず、メーワール王国の兵士たちは勇敢に戦った後に玉砕し、女性たちはジャウハルを行った。これがパドマーワトのあらすじであり、メーワール地方を中心にあたかも史実のように語り継がれているが、歴史的な実証はない。チッタウルガルは地理的に要衝にあり、キルジーによるチッタウルガル攻撃は、パドミニーに横恋慕したというよりも戦略的目的によるところが大きかったと考える方が自然である。それでも、1303年のキルジーによるチッタウルガル攻撃、つまりチッタウルガルが陥落したときの戦争は史実である。ラタン・スィンらメーワールの勇敢な戦士たちは死装束をまとい、城門から打って出てキルジー軍に立ち向かい、息絶えるまで戦ったという。また、敗北が決定的になると、城内の女性たちは次々と火の中に飛び込んで自らの貞操を守った。キルジー軍に従軍した有名な詩人アミール・クスローは、チッタウルガル攻略の様子を「ターリーケ・イラーヒー」という本に記録している。その本によると、アラーウッディーン・キルジーは1303年1月23日にデリーを出発し、同年8月25日にチッタウルガルを陥落させた。3万人のヒンドゥー教徒が虐殺されたという。だが、チッタウルガルは間もなくメーワール王家の末裔によって取り戻された。

 2度目にチッタウルガルが陥落したのは1535年だが、その間に少なくとも2人、歴史に名を残す偉大な王がメーワール王国に誕生した。マハーラーナー・クンバー(在位1433〜1468)とマハーラーナー・サーンガー(在位1509〜1527)である。マハーラーナー・クンバーはマールワー王国(現在のマディヤ・プラデーシュ州西部)のスルターンを戦争で打ち破って捕虜にするという戦績を上げただけでなく、芸術と建築を愛した王としても有名であり、彼の在位中に多くの建築物が建造された。クンバルガルはそのひとつである。一方、マハーラーナー・サーンガーはデリーのスィカンダル・ローディー、グジャラートのマフムード・シャー・バイカラ、マールワーのナスィールッディーン・キルジーなどの強敵を次々に打ち破った戦争の天才だった。彼は人生のほとんどを戦場で過ごし、身体中に80個以上の傷跡があった他、片目を幼少の頃に兄弟喧嘩で失い、イブラーヒーム・ローディーとの戦争で片手片足を失っていた。それでも彼は軍を率いて勇敢に戦ったという。

 マハーラーナー・サーンガーの死後、息子のラタン・スィン2世が後を継いだが、すぐに死去してしまった。この混乱に乗じ、1535年、グジャラートのスルターン、バハードゥル・シャーがチッタウルガルを攻撃した。このときの様子も民謡となって語り継がれている。伝承によると、故マハーラーナー・サーンガーの王妃カラムワティーは、チッタウルガルが陥落の危機を迎えたとき、ムガル朝第2代皇帝フマーユーンにラクシャー・バンダンのラーキーを送ったという。ラクシャー・バンダンとはヒンドゥーの祭りで、妹が兄(または兄同然の男性)の右手首にラーキーと呼ばれる紐を巻いて、自分のことを守ってくれるように頼む行事である。ラージプートの伝統では、ラーキーを巻かれた男性は、その女性を命懸けで守らなくてはならない。イスラーム教徒のフマーユーンにラーキーを送るという行為は一見狂気の沙汰なのだが、フマーユーンも面白い性格の皇帝だったようで、イスラーム教徒のバハードゥル・シャーではなく、ヒンドゥー教徒のカラムワティーに加勢した。ただ、フマーユーンの軍勢がチッタウルガルに到着したときには刻や既に遅く、要塞はバハードゥル・シャーによって占領されていた。言い伝えによると、やはりラージプートたちは勇敢に戦い、その結果1万3千人の戦士たちが戦死し、3万2千人の女性たちがジャウハルを行ったという。ただし、カラムワティーは2人の息子を予めブーンディーに逃がしており、メーワール王家の血が途絶えることはなかった。チッタウルガルに到着したフマーユーンは早速バハードゥル・シャーを攻撃して追い払った。ムガル朝が全盛期を迎えるのはヒンドゥーとムスリムの融合政策を行った第3代皇帝アクバルのときからだと言われることが多いが、イスラーム教徒でありながらヒンドゥー教徒の味方をしたフマーユーンの行動が、インドのヒンドゥー教徒に与えた影響は計り知れなかったとされており、ヒンドゥーとムスリムの融合は既にフマーユーンの頃に準備が始まっていたと考えることができる。ただ、フマーユーンがバハードゥル・シャーを攻撃した本当の理由は、ただ単にバハードゥル・シャーの方がインド支配のために邪魔だったからだろう。当時は、ヒンドゥーのラージプート同士、またイスラームの王朝同士で戦争が繰り返されており、宗教はそれほど重要な問題ではなかったかもしれない。

 バハードゥル・シャーによる侵略の後、チッタウルガルはカラムワティーの息子ヴィクラマーディティヤが統治することになった。しかし彼は、マハーラーナー・サーンガーの兄弟、プリトヴィーラージとメイドの間の子供バンビールによって1536年に暗殺されてしまう。バンビールはメーワール王国を乗っ取ろうと計画しており、ヴィクラマーディティヤを殺害した後、その弟ウダイ・スィン2世も殺害すべく彼の住む宮殿へ向かった。ウダイ・スィンの女家庭教師だったパンナー・ダーイーは異変に気付き、ウダイ・スィンを逃がして、自分の息子にウダイ・スィンの衣服を着せた。そこへ現れたバンビールはウダイ・スィンと勘違いしてパンナー・ダーイーの息子を殺した。パンナー・ダーイーはメーワール王家の血統を守るため、自らの息子を犠牲にしたのだった。このときウダイ・スィンは15歳で、1年後に彼はバンビールを打ち破ってチッタウルガルを取り戻した。時を同じくして、デリーではアクバルが皇帝の座に就いており、ラージプートの各王国に恭順するよう呼びかけていた。他の王国はムガル王朝の強大な力の前に屈し恭順を受け容れたが、メーワール王国だけは頑強にムガル王朝に対抗した。そこで1567年10月20日、アクバルは自ら軍勢を率いてチッタウルガルを攻撃した。メーワールのラージプートたちはアクバルを何度も死に追い詰めるほど徹底的に抗戦し、再三に渡る降伏の勧告にも屈しなかった。落城が決定的になると、8千人の死装束をまとった戦士たちが城門を開いて打って出ると同時に、城内では女性たちがジャウハルを行った。こうしてチッタウルガルは3度目の陥落を迎えた。一方、落ち延びたウダイ・スィンは、チッタウルガルから115km離れた土地に新しいメーワール王国の都を築いた。これが現在のウダイプルである。

 ウダイ・スィンの死後、その息子マハーラーナー・プラタープ・スィンが後を継ぎ、引き続きムガル王朝に抵抗し続けた。プラタープ・スィンはハルディーガーティーの戦いでアクバル軍と激突するが敗北し、大半のメーワールの土地をムガル王朝に奪われる。しかしプラタープ・スィンは「チッタウルガルを取り戻すまでは、贅沢もせず、金銀の食器も使わず、草の上で眠り、髭の先を上に曲げることもしない」と復讐の誓いを立て、ゲリラ戦に戦法を変えてムガル軍に抵抗し、遂にチッタウルガルとマンダルガル以外のメーワールの土地を取り戻すことに成功する。チッタウルガルは1616年にムガル朝第4代皇帝ジャハーンギールによってラージプートに返還されるものの、要塞は廃墟のままで、再建が始まったのは1905年になってからである。以上がチッタウルガルにまつわる歴史と伝承の簡潔なまとめである。

 朝8時頃にバイクの鍵を受け取ってホテルを出発した。チッタウルの街は3つの部分に分かれていると言っていい。一番東には要塞チッタウルガル。チッタウルガル上には住民も住んでおり(人口4000人)、学校などもある。チッタウルガルの西側には旧市街があるが、これは1568年から築かれたものらしい。それまではチッタウルの街は全て丘の上の城壁内にあった。旧市街の西にはガンベーリー河が流れており、その西に新市街が広がっている。僕が泊まったホテル・プラタープ・パレスも新市街にある。よって、新市街を抜けてガンベーリー河を渡り、旧市街を通り抜けて要塞の麓まで辿り着いた。そこからは丘の上まで続くジグザグの坂道となっており、途中に7つの門が残っている。対向車に注意しつつ坂道を上っていくと、チケット・オフィスがあった。インド人5ルピー、外国人100ルピーだが、「デリーに住んでいる」と言ったらインド人料金にしてくれた。




遠くに見えるのがチッタウルガル
手前はガンベーリー河


 まずいきなりそびえ立っているのが、クンバー・パレス。マハーラーナー・クンバーが改築したことから名前が付いたという。大部分が崩れてしまっているが、所々に残っている部分から、壮麗な建物であったことが伺われた。クンバー・パレスから北へ向かい、時計回りに遺跡を見て回った。ラタン・スィン・パレス、キールティ・ストゥンブ(名誉の塔)、博物館、ビーム・ラト、パドミニー・パレス、ヴィジャイ・ストゥンブ(勝利の塔)、ミーラー寺院など。全てを挙げていったら切りがないので、この中から印象に残った主なものをピックアップして紹介する。




チッタウルガル
塔はヴィジャイ・ストゥンブ


 パドミニー・パレスは、上で紹介したパドミニーにまつわる伝承の舞台となった宮殿だ。湖の中に浮かぶ3階建ての建物があり、そこにパドミニーが住んでいたという。その隣の湖畔にも建物があり、その一室からアラーウッディーン・キルジーは鏡に映ったパドミニーの姿を見たとされている。ちゃんとその部屋も残っており、鏡もかけられている。だが、アラーウッディーン・キルジーとパドミニーのこの話は史実とは認めがたく、この宮殿も伝承に基づいて後世に造られたものである可能性が高い。または、ただ単にパドミニーの夏の宮殿だった可能性がある。普段パドミニーはクンバー・パレスに住んでいたようだ。




パドミニー・パレス


 ヴィジャイ・ストゥンブは、チッタウルガルを代表する建築物である。高さ37m、9階建ての塔で、外壁と内壁には無数の彫刻が刻まれている。この塔は、ヒンドゥー様式の塔建築の中で唯一現存しているものであり、建築学的に非常に貴重な資料となっている。イスラーム教徒は、アザーン(礼拝の呼びかけ)のために塔をよく建てていたが、ヒンドゥー教徒にも塔を建てる習慣があったと考えられている。だが、そのほとんどは崩れたか破壊されたかして現存しておらず、唯一チッタウルガルの塔だけがほぼ完全な状態で残っている。9階建てなのは、ナヴグラハ(九曜)と関係しているらしく、シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマー、ラクシュミー、ヴィシュヌの化身、「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」の場面などの彫刻が施されている。デリーのクトゥブ・ミーナールと比べてみるのも面白い。クトゥブ・ミーナールは上に行くほど細くなっているが、ヴィジャイ・ストゥンブは基本的に同じ太さであり、下の階と上の階が一番広くなっている。内部には階段があり(157段あるとか)、8階までは簡単に上っていくことができる。9階へ続く階段はないが、肩車か何かをすれば一応上れるようになっている。8階まで上ってみたが、窓が小さくて狭いため、あまり景色を楽しんだりくつろいだりすることができなかった。ヴィジャイ・ストゥンブの建立理由には諸説があるが、マハーラーナー・クンバーが1437年にマールワーのメヘムード・キルジーを打ち破ったことを記念して建てたというのが定説のようだ。ヴィジャイ・ストゥンブのスケッチを1時間半かけて描いた。チッタウルガルにはもう1つ塔があり、それがキールティ・ストゥンブだが、こちらはジャイナ教徒の商人によって建てられたもので、ヴィジャイ・ストゥンブよりも古い代わりに小さい(高さ22m、12世紀に建立)。




ヴィジャイ・ストゥンブ


 ヴィジャイ・ストゥンブとクンバー・パレスの間には、大小2つの寺院がある。その内、小さい寺院はミーラー寺院と呼ばれている。ミーラーとは、ヒンディー文学史の中で数少ない女性詩人として知られる16世紀の実在の人物である。一般に、女性に対する尊称「バーイー」と共にミーラーバーイーと呼ばれる(「兄弟」という意味の「バーイー」とは微妙に発音が違う)。だが、本当の発音はミーラーンバーイーだったようだ。ただ、ここではミーラーバーイーと表記しておく。ミーラーバーイーは1503年、メールターのラーオ・ドゥーダージーの息子ラタン・スィンの娘として生まれ、1515年にメーワール王国のマハーラーナー・サーンガーの息子ボージラージと結婚した。つまり、彼女はラージプートの女性だった。ミーラーバーイーは幼少の頃からクリシュナの熱狂的な信者であり、結婚してチッタウルガルに住むようになってからも宗教的活動に専念した。ミーラーの行動はマハーラーナーの家族を困らせ、妨害も受けたが、ミーラーの信念は変わらなかった。1527年までにミーラーの父親、夫、そして義理の父であるマハーラーナー・サーンガーが相次いで死去し、親しい身内を失ったミーラーはますますクリシュナ信仰にのめり込むことになった。マハーラーナー・ヴィクラマーディティヤの代になるとミーラーへの嫌がらせはエスカレートし、とうとう彼はミーラーに毒を飲むよう強要した。ミーラーは毒を飲んだが、クリシュナの加護により生きながらえたと伝えられている。やがてミーラーバーイーはチッタウルガルを去り、各地を巡礼した後、グジャラート州ドワールカーにて1546年に死去した。ミーラーバーイーの詩は民謡となってラージャスターンの人々に歌い継がれており、ヒンディー文学の中でも中世バクティ時代の4詩人の1人として重要な位置を占めている。ミーラー寺院は、そのミーラーバーイーによって建立された寺院だと言われている。ただ、歴史学者によるとこの寺院はマハーラーナー・クンバーによって建てられたものであり、ミーラーとは関係ないという。だが現在ミーラー寺院のご神体はクリシュナとなっており、ミーラーの像がかたわらに添えられている。

 他にも大小様々な遺跡が残っており、遺跡好きにはたまらない場所となっている。眼下にはメーワールの雄大な平原が広がり、その中をバイクで走るのはこの上ない快感だった。2時頃には下界に下りてホテルに戻った。

 予めチェックアウトしてあり、荷物をレセプションに預けていたので、それを受け取って次なる目的地ブーンディーを目指すことにした。ブーンディーまでバスで行こうと思っていたが、バススタンドで確認したところ、2時45分発の列車を利用した方が便利とのことだったので、駅まで行ってデヘラードゥーン・エクスプレスに乗ることにした(45ルピー)。デヘラードゥーン・エクスプレスは2時50分頃に駅に着き、3時頃に発車した。まあまあ時間通りだと言える。しかしエクスプレスのくせにこの列車は田舎の小さな駅によく停まっていた。この辺りは本当に砂漠地帯で、途中に見える村々も非常に貧しいように見えた。ブーンディーには2時間半ほどで到着した。

 ブーンディー駅と市街地はけっこう離れており、オートリクシャーで行かなければならない。しかし郊外の道からブーンディーの旧市街へ入っていく道はダイナミックだった。駅周辺には何もなく、駅からしばらくは国道を通っていく。国道の周辺は何の色気もない建物が立ち並ぶ普通のインドの町となっており、古都ブーンディーに対してちょっと不安がよぎった。そこから上り坂となり、山の中腹を巡っていくと、次第に向かい側の山に巨大な城が見えてくる。そしてその城下には古風な街並みが広がっていた。なんと美しい町だろう!早速オートリクシャーに停まってもらって写真を撮った。ブーンディーは、ジャイプル、ジョードプル、ジャイサルメールにも劣らない中世の街並みを残した小さな町だった。




ブーンディーの街並み


 ブーンディーでは、ハヴェーリー・ブラジ・ブーシャンジーという古いハヴェーリー(邸宅)を改造したホテルに宿泊した。このホテルは建物の内面や部屋の壁一面に細密画風の絵が描かれており、貴重なアンティークのコレクションが至る所に飾られていた。部屋は400ルピーからあるが、一番安い部屋は既に埋まっていたため、750ルピーのスタンダード・ルームに宿泊した。部屋はそれほど広くないが、部屋の装飾は絶品。1階にお土産屋兼骨董品屋があり、なかなか貴重な品物を売っていた。何より、このホテルの従業員は、インドでは珍しく接客業の何たるかを心得ており、非常に親切かつ紳士だった。夕食はラージャスターンの純菜食家庭料理ターリーで300ルピー。ブーンディーには他にもハヴェーリーを改造したホテルが多くある。




ハヴェーリー・ブラジ・ブーシャンジー2階


12月16日(木) 壁画の宝庫、ブーンディー

 山間の小国ブーンディーはラージャスターンの他の都市と比べたらメジャーなツーリスト・スポットではない。しかしながらその魅力は他の古都と比べて見劣りせず、メジャーな観光地ではないがゆえにこの街は大いなる魅力を秘めている。人々は親切かつ好奇心旺盛で、街並みや市場は中世の趣きを残していて歩くのが楽しい。間違いなくブーンディーはラージャスターン州の穴場的観光地である。

 今日は朝からブーンディーの街を見下ろす宮殿を訪れた。この宮殿は1580年に建造が開始されたとされている。入場料は外国人50ルピー、インド人10ルピー、カメラ料20ルピー。例によってインド人料金で入ることができた。宮殿の門をくぐるとすぐそばにロイヤル・リトリートというホテルがあり、そこからあまり整備されていない石畳の坂を上って行った。宮殿には2ヶ所入り口があり、まず見えてくるのは二頭の象が上部で来客を迎えるハーティー・ポール(象の門)。そこにいた両手の指がないおじさんが中を案内してくれた。宮殿は空っぽで、保存状態も最良ではないが、この宮殿の大きな見所は、各所に残っている細密画風壁画の数々。これほどのレベルの壁画が残っているとは思っても見なかったので驚いた。シュリーナートジーやクリシュナに関する絵が多かったが、ラーム、シヴァ、ヴィシュヌ、ティルパティなどヒンドゥー教の神様や、マハーラージャーの肖像画などがあった。上の階にあるバーダル・マハル(雲の宮殿)にはジャーンスィーのラーニーの絵もあったので、これらの壁画は19世紀中頃以降に描かれたものが多いのではないかと思う。奥にはザナーナー(女性用の居住区)もあり、大きなブランコの支柱が残っていた。





ホテルから眺めた宮殿



ハーティー・ポール(象の門)



壁一面に細密画の壁画



バーダル・マハルの天井


ザナーナーのブランコ


 ハーティー・ポールからさらに坂道を上っていくと、今度はチットラシャーラー(絵画の間)に通じる入り口がある。チットラシャーラーはその名の通り壁画で彩られた区画で、やはり質の高い絵が多く残っていた。クリシュナの神話を題材にした絵が多く、ゴーピーたちとリーラーを踊るクリシュナ、ゴーヴァルダン山を持ち上げるクリシュナ、ゴーピーたちの衣服を奪うクリシュナなどの絵の他、マハーラージャーの肖像画などが描かれていた。




チットラシャーラー


 宮殿からさらに坂道を上っていくと、ターラーガル(星の要塞)と呼ばれる城砦跡がある。ターラーガルは1354年に建造されたらしいが、現在では廃墟となり、荒れるに任せた状態となっていた。

 ターラーガルを見終わった後は市街地まで下りてきて、今度は市場を抜けてラーニージーのバーウリー(王妃様の階段井戸)を目指した。ブーンディーは人口約9万人ほどの小さな町だが、市場は非常に活気があり、宮殿からバススタンド辺りまで約1.5kmにわたって小さな商店がビッシリと並んでいる。それぞれの商店を覗き見ながら歩いていくと非常に面白い。中世そのままというのは言いすぎかもしれないが、英領インド時代くらいから全く変わらず営業しているような店が多く、店そのものがアンティークのような店がいくつもあって飽きない。中にはバーング(大麻)屋もあり、大通りで堂々と営業していた。店の正面に掲げてあった看板によると、250グラム125ルピー、500グラム200ルピー、1kg300ルピーとのこと。バーング・クッキーなどのバーング製品も売られていた。ブーンディー旧市街を取り囲む城壁の外に出ても市場は続いており、野菜市場などがある。

 ラーニージーのバーウリーはラージャスターン州で最大の階段井戸と言われている。ブーンディーには「井戸の街」と呼ばれるほど多くの階段井戸が残っており、旧市街を少しぶらついただけでいくつもの古い階段井戸を発見することができる。ラーニージーのバーウリーは野菜市場を抜けたところに位置していた。入場料は無料だが、管理人に錠を開けてもらわなければならない。階段井戸と言えばグジャラート州のものが有名であり、今までいくつもの階段井戸を見てきた。その経験から言わせてもらうと、ブーンディーの階段井戸は規模的にも彫刻的にもそれほどすごいものではなかった。ラージャスターン州最大というのも多少誇張があるように思える。ラージャスターン州北部の宮殿ホテル、ニームラーナーのそばにあった階段井戸の方が大きかったと記憶している。とは言え、入り口部分のアーチの繊細な彫刻はほぼ完全な状態で残っており、ブーンディーに来たからには見る価値がある遺跡だろう。1699年にラーニー・ナーターヴァトによって建造されたそうだ。




ラーニージーのバーウリー


 ブーンディーには他にもいくつか遺跡や見所があるが、大して魅力を感じなかったため無理して回らなかった。代わりに是非とも訪れてみたかったのが、ブーンディーから32kmの地点にあるガラルダー村のロック・ペインティングだった。川沿いの岩肌に1万5千年前の先住民による壁画が残っているという。先住民の壁画で有名なのはマディヤ・プラデーシュ州ビームベートカーのものであり、現在では世界遺産にも指定されているが、それと同じ種類の壁画がブーンディー近くにあるというのだ。ただ、立地上、川が増水すると見られないらしい。川の水量は上流にあるダムの放水量に依っており、事前のチェックが不可欠である。また、かなりの僻地にあり、壁画もかなり広大な地域に散在しているため、地理に詳しいガイドの同行も不可欠である。というわけで昨夜ホテルの従業員にガラルダーの様子を調べるよう頼んでおいたのだが、その人は別の観光客とツアーに出かけてしまって、昼頃ホテルに戻って来たときには既にいなかった。どうやら通常は宮殿の入り口近くにガイドがたむろっているようなので、そこへ行ってみると、親しげに声を掛けてくる若者がいた。彼に「ガイドはいないか」と聞いてみると、そこら辺を探し回ってくれたが、残念ながらいなかった。彼が「どこへ行くのか?」と聞いてきたので、「ガラルダー村のロック・ペインティングを見たい」と言うと、「よし、オレがバイクで連れて行ってやる」と頼もしい返事をしてくれた。料金は200ルピー+ガソリン代ということになった。普通にガイドを雇ってタクシーで行くと、合計1000ルピーくらいにはなるらしいので、かなり安上がりでガラルダーまで行くことが可能となった。

 彼の名前はプリトヴィーラージ。名前が示すとおりラージプートであり、自分がラージプートであることを誇りにしていた。年齢は偶然にも僕と同じだった。プリトヴィーラージ所有、ヒーロー・ホンダのパッション・プラスにタンデムし、ブーンディーの狭い路地を抜けて一路ガラルダー村を目指した。

 ブーンディーの市街地からして既に時間から取り残されたような街並みだったので、郊外の農村部へ行ったらそこは完全なる田舎であっても何の不思議もない。所々にある村には、まるで大地震後の瓦礫の山みたいな家が立ち並び、子供たちは皆砂埃だらけになって遊んでいた。村以外は一面にマスタード畑が広がっているのが印象的だった。しかし、まだ舗装された道があるだけ「都会」であり、ガラルダー村では道とは言えぬ道があるのみとなっていた。ほとんど岩石砂漠である。こんなところにも人が住んでいるのか、と思えるほどのド田舎だった。バイクがパンクしそうになりそうなガタガタ道をひたすら進み、ガラルダー村を通り抜けた。ブーンディーからガラルダーまではバイクで約1時間半かかった。

 自信満々に僕をガラルダー村まで連れて来たプリトヴィーラージだったが、実は彼もここに来たのは初めてだった。インド人は時々根拠のない自信のみで安請け合いすることがあるので失笑してしまう。ただ、プリトヴィーラージは非常に純朴で誠実な青年であり、金儲けのために僕をここまで連れて来たわけではないことは明らかだった。ただ単に僕と仲良くなりたかっただけだろう。また、彼のバイクの走行距離はまだ3000kmくらいであり、買ったばかりであることが伺われた。きっと遠出をしたかったのだろう。ホテルの人から聞いた話と地元の人々の誘導を基に、ガラルダー村の郊外にあるマハーデーヴ寺院(祠に近い)辺りから河畔へ下りて行った。河の両側は低めの崖となっており、河には多くの巨大な岩石が転がっていた。この崖の部分に壁画が残っているという。プリトヴィーラージと一緒に探し回ったが、なかなか見つからない。そこで、河を埋め尽くしている岩石の上を飛び飛び、別の岸へ渡ってみた。するとやっとのことで壁画を見つけることができた。再びマハーデーヴ寺院側の岸まで戻ってもう一度探してみると、もう1ヶ所壁画が集中している岩を見つけた。後からホテルの人に聞いた話によると、この川沿いには合計7ヶ所、壁画が集中している場所があるという。それら全てを見て回るには、全てを知り尽くしたガイドの同行がなければ不可能だ。僕もプリトヴィーラージと一緒にけっこう広い範囲を探してみたが、見つかったのはこの2ヶ所だけだった。




壁画がある河の様子
左隅に見えるような天井のある崖に
壁画があることが多い


 ビームベートカーの壁画と比べると、特別素晴らしい壁画が残っているわけではなかった。また、地元の人々か観光客による落書きがひどく、貴重な考古学的資料が台無しになっている有様に心が痛んだ。壁画の多くは動物、人、手形、そして幾何学的模様だった。ビームベートカーの壁画はいろいろな色が使われていたが、ガラルダーの壁画は赤一色だった。





動物や人の絵



狩りをする人の絵


馬に乗って獲物を追いかける


 帰りは僕がバイクを運転してブーンディーまで帰った。ブーンディーに着いた後はプリトヴィーラージの家に招かれてチャーイを飲ませてもらった。また、「明日バスでサワーイー・マードープルへ行く」と話すと、「明日の早朝、バススタンドまで連れて行ってあげよう」と約束してくれた。インド人にこれほど親切にしてもらったことは久し振りだったので感動した。

 プリトヴィーラージのおかげで非常に充実した1日になったわけだが、実は朝から僕の心は晴れなかった。チットラシャーラーを見終わったときに、旅行に持って来ていた携帯電話にデリーの友人から電話があり(ローミングにより受信だけはできる)、僕のバイクが盗まれたという凶報が伝えられた。僕のバイクは自宅の前にに停めてあったのだが、今朝見たらなくなっていたという。最初は悪い冗談かと思ったが、残念ながら本当の話だった。デリーにいて盗難に遭ったらものすごいショックを受けただろうが、旅行先だったのでちょっと実感が沸かなかった。友人にはすぐにデリーに戻って来ることを勧められたが、本当に盗まれたならどうせすぐに帰っても戻って来ないだろうと思い、僕は旅程通りに旅行して帰ることに決めた。一応友人に盗難届けなどの事務処理を頼んでおいた。・・・カリズマは大のお気に入りのバイクであり、インドにいる間、精一杯乗ってやろうと考えていたのだが、それがかなわないと思うと非常に残念だった。形あるものがやがて消滅するのはこの世の習わしであり、盗人の仕事は盗みであり、なくなってしまったものは仕方ない。だが、カリズマがひどい扱いを受けているのではないかと思うと心が痛んだ。いや、きっとカリズマはラージプートのように、生き恥をさらすよりも名誉の死を、ジャウハルを選んだのではないか。盗まれた瞬間、自爆して盗人もろともデリーの粉塵と化したのではないか。それとも、もしかしたら旅行から帰った後に僕はバイクで交通事故に遭って死ぬ運命にあったかもしれない。僕の命を救うため、カリズマは僕のもとを去って行ったかもしれない。まるでマハーラーナー・プラタープ・スィンの愛馬チェータクのように、自らの命と引き換えに僕を守ってくれたのかもしれない。そういえば昨日、僕はバイクをレンタルしてチッタウルガルを巡っていた。僕の浮気にカリズマはへそを曲げてしまったのだろうか。・・・などなど、いろいろなことを考えつつ、少なくとも旅行中はカリズマ盗難のことは考えないことに決めた。それにしても携帯電話というのは便利である一方で不便な品物である。携帯電話さえなければ、何の心配事もなくこの旅行を続けることができたのだが・・・。

12月17日(金) ランタンボール国立公園

 当初はウダイプル、チッタウル、ブーンディー、コーターの4ヶ所を訪れる予定だったが、いつものように旅行中に行きたい場所が増えてしまい、少し急いで旅行をしてきた。今回予定外の目的地となったのは、ランタンボール国立公園。ブーンディーの北東方面にあり、ちょうどデリー、ジャイプル、アーグラーと四角形を形作る地理関係にある。名前の通り、現在ではインド有数の鳥獣保護区域となっているが、歴史的には北インドの戦略的要衝として有名であり、今でも断崖絶壁の上に城砦が残っている。今でこそデリー、ジャイプル、アーグラーを結ぶ三角形は、インド観光のゴールデン・トライアングルと呼ばれているが、ランタンボールを加えた四角形は、北インド支配の重要なゴールデン・スクエアだった。ランタンボールの元々の名前はランスタンブプル(戦場の柱の都市)だったという。

 ランタンボール国立公園を訪れる観光客の目的は十中八九サファリである。しかも、この国立公園には約40頭の虎が生息しており、虎目当てでサファリしに来る観光客がほとんどである。しかし僕の主要な目的は、ランタンボール城塞を見ることだった。サファリはついでにできればと思っていた。今までインド各地を旅行して来たがサファリをしたことはなかった。特に動物を見て喜ぶ趣味はないので、国立公園があってもいつも素通りしていた。だが、サファリはインド観光の目玉のひとつでもあるので、ここらで一度体験しておこうかと思い立った。

 ランタンボール国立公園のアクセス拠点となるのは、サワーイー・マードープル。ブーンディーから早朝6時にサワーイー・マードープル行きのバスが出ていた。昨日会ったプリトヴィーラージが、約束通り朝5時半にホテルに僕を迎えに来てくれたので、ホテルからバススタンドまで楽に行くことができた。彼の律儀さと親切さには本当に驚かされてしまった。昨日バススタンドにバスの発車時刻を確認しに来たときに、乗車券売り場の人とも仲良くなり、今朝もいろいろ親切にしてくれた。僕が出会ったブーンディーの人々は本当に親切で人当たりがよかった。また来てみたい街のひとつである。

 ブーンディーからサワーイー・マードープルまではバスで約3時間ほどだった。途中通った村々の風景は非常に興味深かった。家々の赤い壁に白い絵の具で孔雀やマンゴーなどいろいろな絵が描かれていたのだ。チョールーという村からサワーイー・マードープルまで、同じような絵が描かれた家が続いていた。これらの絵は村の女性が毎年ディーワーリーに描くものだと聞いた。非常に美しい風景だった。

 サワーイー・マードープルに着いたはいいが、何の変哲もない小さな町で、オートリクシャーやタクシーが見当たらなかった。とりあえず道を尋ねつつ駅に向かったら、やっとオートリクシャーを見つけることができた。サワーイー・マードープルからランタンボールへ向かうランタンボール・ロードに観光客用のホテルが並んでいるので、そこへオートリクシャーで向かった。オートワーラーの勧めに素直に従って、アンクル・リゾートというホテルに宿泊した。ダブルルーム、バス・トイレ付きで400ルピー。共産主義国のホテルを思わせる、無意味にだだっ広い空間のあるホテルだったが、部屋はまあまあだった。だが、フロントの対応は冷たい印象を受けた。

 ランタンボール国立公園のサファリは全てツアーとなっており、ホテルなどで申し込まなければならない。午前は6時半から、午後は2時から開始され、全行程3時間半である。早速午後のサファリをホテルで申し込み(400ルピー)、それまでランタンボール城塞を見ることにした。・・・ところが、ランタンボール・ロードは交通機関が乏しく、乗り合いジープらしきものは時々見かけるが、オートリクシャーやタクシーのようなものは見当たらなかった。聞くところによるとジャングルの中を通っていくので、オートリクシャーでは行けず、ジープをチャーターしなければならないらしい。ホテルのフロントの対応はあっけなく、全然助けてくれない。困りながらもホテルの隣にあったお土産屋に相談してみると、そこにたむろっていたインド人の間で相談が始まり、「よし、オレが行ってやる」というおじさんが現れた。彼はキャンターと呼ばれるサファリ用バスの運転手で、そのキャンターでランタンボール城塞まで行ってくれるという。このとき既に11時を回っており、2時までに帰って来なければならないので時間がそれほどなく、藁にもすがる思いでその人に頼むことにした。料金は往復400ルピー。ランタンボール城塞までは10kmほどで、はっきり言って相当足元を見られた値段だったが、そのときは地図も何もなく、どこに何があるか全く分からない状態だったので仕方なかった。

 キャンターをチャーターし、ランタンボール国立公園の門をくぐって、そのままジャングルの中を突っ切った。約20分ほどで城塞の麓まで到着した。今まで多くの城塞を訪れており、その度に必死になって階段を上っていたが、ランタンボール城塞の階段は比較的短くて楽だった。標高は481mで、10分ほどで頂上まで辿り着けた。城門などはよく残っているが、上部の建造物の多くは崩れかかっており、あまり保存状態はよくなかった。面白かったのは、ヒンドゥー教やジャイナ教の寺院とイスラーム教のモスクやダルガーが混在していたことだ。城壁は7kmあり、城塞内の遺構を全て見て回るには半日必要らしいが、急いで主要な建築物を見て回った。インド人の多くは、城塞内にあるガネーシュ寺院を参拝しに来るようだ。ランタンボール城塞が築かれたのは10世紀であり、ラージプートのチャウハーン家によって奪われて以来、この城塞はラージプートの牙城として重要な地位を占めていた。ところが1194年に奴隷王朝のクトゥブッディーン・アイバクに奪われ、その後キルジー朝のアラーウッディーン・キルジー、ムガル朝のアクバルと所有者が変わっていった。アクバルが、盟友だったジャイプル王家にランタンボールの統治を委ねてから、この地は王族の狩猟場となった。1970年までランタンボールでは狩猟が行われていたというが、1985年には国立公園に指定された。




ランタンボール城塞


 2時からはサファリに出かけた。車両は10人乗りの小型キャンター。白人のツアー客と同乗だった。ランタンボール国立公園をサファリするのには3種類の乗り物がある。ひとつはジープ、ひとつは20人乗りのキャンター、もうひとつは10人乗りのキャンターである。ジープが一番理想的な乗り物だが、もっとも高価である上に2ヶ月前から予約しないと席が手に入らないと言われている。20人乗りのキャンターはどうもインド人観光客用、10人乗りキャンターは外国人用のようだ。どの乗り物も天井のないオープンカーである。ランタンボール国立公園には虎や豹などの危険動物がおり、よくこんな無防備な乗り物でサファリをすることができるものだと思うが、この方が見やすいのは確かだ。




10人乗りキャンター


 ランタンボール国立公園は1334平方kmという広大な敷地面積を誇っている。東京都の区部と市部を合わせた面積に等しいといえば分かりやすいだろう。ランタンボールを訪れる観光客の話題はひとつ。虎を見れるかどうか、虎を見たかどうか、とにかく虎虎虎である。だが、密猟により虎の数は激減してしまい、現在約40頭の虎がこの国立公園内に生息しているだけらしい。これほど広大な面積の中でわずか40頭の虎を探すのは、干草の中の針を探すようなものだ。最初から虎は諦めていたが、やはり僕たちの前に虎は現れなかった。ただ、鹿、豚、孔雀、猿、ワニ、マングース、ニールガーイ(青牛)や各種の鳥類などは豊富に見ることができた。ここの動物たちは驚くほど人間に慣れており、キャンターで近くまで近寄っても逃げようとしない。道は舗装されておらず、自動車はかなり揺れる。しかも砂埃がすごいので、サファリが終わった後は体中砂埃だらけとなっていた。もし写真を撮ろうと思ったら望遠レンズは必須であるが、砂埃がすごいのでカメラが壊れてしまう可能性もあるのではなかろうか。僕のカメラは3倍ズームしかなかったので、全然いい写真が撮れなかった。





草を食む鹿たち


ワニ発見


 正直な感想、インドは街自体がサファリパークみたいなものなのに、わざわざこんなところまで動物を見に来るのは馬鹿馬鹿しいと思った。牛、豚、犬はそこら辺をうろついているし、僕の家の前にはディア・パークという鹿や孔雀などの動物が放牧されている公園があるため、普段の生活がサファリみたいなものだ。とは言え、密林の中をあちこち見渡しながら虎探しをするという行為自体は面白かった。

12月18日(土) 細密画の宮殿、コーター

 今日は最終目的地コーターへ向かった。コーターはブーンディーから約40kmの地点にある街であり、ブーンディーからランタンボールへ行って再びコーターに戻って来るのは実はあまり賢いルートではなかった。だが、ランタンボールに寄ったのは全くの予定外であり、デリーへ帰る列車のチケットはコーターから取っていたので、仕方がなかった。

 サワーイー・マードープルからコーターまでは断然列車の方が便利だ。サワーイー・マードープル駅を朝9時45分に発車するアワド・エクスプレスでコーターへ向かおうと思っていた。ところが、駅に着いてみるとアワド・エクスプレスは3時間遅れとアナウンスされていた。つまり12時45分発ということになる。予定通りなら11時半にコーター到着だったのだが、これではコーターに着くのがだいぶ遅れてしまう。だが、10時半発の鈍行列車があるということが分かったので、それで行くことに決めた。サワーイー・マードープルからコーターまで鈍行列車で21ルピーだった。

 鈍行列車は、英語で「パセンジャー」、ヒンディー語で「サワーリー」と名前が付いている、2等座席のみの列車である。プラットフォームのベンチに座って待っていると、駅で営業している靴磨きの子供が話しかけてきたので、「コーター行きの鈍行列車はどんな感じ?」と聞いてみると、「鈍行列車はギュウギュウ詰めになって行かないといけないよ」と脅されたので多少怖気づいてしまった。それでもとりあえず様子を伺ってみようと思い、列車が来るのを待っていた。鈍行列車はほぼ時間通りに駅にやって来た。確かに多くの乗客が乗っていたが、ほとんどはサワーイー・マードープル駅で降りる客だった。列車が駅に到着した途端に車両の入り口には一斉に多くの人々が群がった。僕は窓から中に座っている人に自分の荷物を渡し、空いた座席に荷物を置いて席を「予約」しておいてくれるよう頼んだ。インド特有の席取り法である。中には自分の赤ん坊を「予約」用荷物の代わりに使う人もいたりするから恐れ入る。「予約」のおかげでめでたく座席は手に入った。車内は言われていたほど混んでおらず、少なくとも僕が見たところ、全員座ることができていた。インドの列車の座席は基本的に長椅子タイプなので、詰めれば詰めるほど座ることができる。

 さすがに鈍行列車だけあって、途中にある全ての駅にいちいち停まって進んで行った。何もない荒野にほとんどプラットフォームしかないような駅がポツンと佇んでいたりして、しかもそういう駅に降りる人がいて、不思議な光景だった。

 鈍行列車は1時過ぎにコーター駅に到着した。案外早く着いてくれてありがたかった。コーターではホテル・ナヴラングに宿泊した。シングルルーム、バストイレ付き、タオル・石鹸付きで1泊400ルピー。ホテル自体は装飾がけっこう凝っているものの、部屋の雰囲気は普通の味気のない中級ホテル風だった。本当はスクダム・コーティーというハヴェーリーを改造したホテルに泊まりたかったのだが、あいにく満室だった。

 コーターは歴史上、ブーンディーと姉妹都市関係にあった小王国であり、ブーンディーと同じような街並みを想像していたのだが、旧市街は発展しすぎており、新市街は南デリーのように整然とした街並みで、ちょっと期待外れだった。また、あまり旅行者が訪れるような都市ではないと思うのだが、なぜかオートワーラーは高めの料金を吹っかけて来ることが多かったように思う。よって、ブーンディーのように長く滞在しやすい雰囲気のある街ではないという印象を受けた。

 まずはガル・パレスと呼ばれるコーターの宮殿へ行ってみた。ガル・パレスはラージャスターン州有数の規模を誇っており、一部がラーオ・マードー・スィン博物館となって公開されている。入場料はインド人10ルピー、外国人50ルピー、学生5ルピー、カメラ料50ルピーなどである。また、博物館の他に宮殿の一部を見学することができ、それは別料金50ルピーとなっている。学生証を見せたら学生料金で入ることができた。




ガル・パレス


 博物館の展示物は、マハーラージャーの持ち物などを展示した他の博物館と品揃えは特に変わらなかった。輿、家具、楽器、コイン、写本などのコレクションや、コーターのマハーラージャーとイギリス人将校たちが親しげに肩を並べる写真、狩猟で獲た動物の剥製などがあった。しかし、ここの博物館の目玉は宮殿の壁を彩る細密画である。ブーンディーの宮殿もすごかったが、ここの宮殿はちゃんと博物館となって保護されているおかげで、かなり保存状態がよかった。50ルピーの追加料金を支払わなくても、1階部分の見事な細密画の間を見ることができるが、2階以上の細密画の壁画はさらに圧巻である。特にマハーラージャーの寝室バラー・マハルはすさまじかった。バラー・マハルの入り口には、紙に描かれ額に入った細密画が壁一面に埋め込まれており、扉をくぐると壁に直接細密画が描かれていた。壁の足元の部分にも細かい彫刻が施されていた。ブーンディーとコーターは細密画が栄えた地域として特に有名のようだが、それもマハーラージャーの保護育成と寵愛があったおかげであることが感じられた。1階部分の細密画の中には、ラージャー・ラヴィ・ヴァルマーのポスターと同じデザインの神様の絵がいくつか見受けられた。





宮殿1階



塔の設計図だろうか



ラージャー・ラヴィ・ヴァルマーの
神様ポスターと酷似している
サラスワティー女神の絵




バラー・マハルの入り口部分
壁一面を細密画が埋める




バラー・マハル内部
マハーラージャーの寝室



沐浴する女性たちを描いた細密画


 コーターにはもうひとつ博物館がある。ブリジ・ヴィラース・パレス博物館である。入場料3ルピー。こちらはコーター周辺の遺跡から発見された彫刻と細密画が主な展示物である。個人的に興味を引かれたのは、トイレで用を足している女性の細密画と彫刻がひとつずつあったことだ。細密画の方は女性が便器に腰掛けていて分かりやすかったのだが、彫刻の方はそういうキャプションがあっただけで、部分的に欠けていて何をしているのかよく理解できない立像だった。排便行為をわざわざ絵にしたり彫刻にしたりする感覚は明らかに日本人と違う。この博物館は写真撮影禁止だった。

 ブリジ・ヴィラース・パレス博物館には古い女性の裸像が数多く陳列されていた。それらは全てヴィラースという土地から出土したものだと説明されており、その地に急に興味が沸いてきた。近くに州観光局経営の観光案内所があったので、そこへ行って尋ねてみた。観光案内所ではコーターとその周辺地域(ハーラウティー地方と呼ばれている)の観光名所を網羅したパンフレットが無料でもらえた。そのパンフレットにより、けっこうこの周辺にもあまり知られていない遺跡や見所がたくさんあることが分かった。古い寺院、城塞、鳥獣保護区域の他、ガラルダーの壁画のような先住民による壁画がいろいろ残っているようだ。ガラルダーは1万5千年前のものと言われているが、コーターの南25kmの地点にあるアラニヤーの壁画は3万年前のものとされている。ただ、例によって壁画を見るには詳しいガイドが不可欠であり、現在ガイドは手に入らないとのことだった。また、コーターから南に180kmの地点にあるコールヴィーやヴィナーヤカーには石窟寺院や僧院などの仏教遺跡もあるという。それらの中から面白そうな遺跡をピックアップし、現実的なルートを組んでもらい、明日1日かけて観光することにした。タクシー代は1kmにつき5ルピーで、しかも最低料金が300km、1500ルピーとかなり高い値段を吹っかけられたが、料金を定価にしてもらって1500ルピーで行くことにした。

12月19日(日) ハーラウティー地方観光

 今日は旅行最後の日。早朝からタクシーでハーラウティーと呼ばれるコーターやブーンディーを中心とした地域の観光地を巡った。この辺りの観光地はつい最近になってクローズアップされるようになったばかりで、ほとんど観光情報がない。よって、けっこうパイオニア的な旅行になった。今日の夜10時の列車に乗ってデリーへ向かうので、それまでコーターに戻って来るようにフルに1日を利用した日帰り旅行となった。

 朝8時にホテルをチェックアウトし、荷物を持って出発。ターター社のRV車「スモー」で行くことになっていたはずだが、昨夜何者かにドアが破壊されたとのことで、急遽同じくターター社の軽自動車「インディカ」で行くことになった。

 まず向かったのは、コーターから南に約90kmの地点にあるジャーラーワール。ジャーラーワールはそれほど見所のある街ではないと思うが、城壁内にバヴァーニー劇場という1921年建造の古い劇場が残っている。劇場の前に立っていた記念碑によると、ジャーラーワールのマハーラージャー、バヴァーニー・スィンによって建造され、第一回公演はカーリダースの戯曲「シャクンタラー」が演じられたという。現在では使われていないらしく、扉が閉まっていて中を見ることはできなかった。また、ジャーラーワールの宮殿、ガル・パレスにも壁画があるらしいが、運転手が観光に疎い人間で、見逃してしまった。




バヴァーニー劇場


 ジャーラーワールからさらに数km南下すると、小高い丘の上にジャールラーパータンという城壁で囲まれた古い街がある。この街の中心部にあるスーリヤ寺院は一見の価値あり。11〜12世紀に建造された寺院で、保存状態が非常によく、特にガルバグリハ(本殿)の塔(シカル)の規模と壁面の彫刻は圧巻である。シヴァ、ヴィシュヌ、ガネーシュ、ラーム、クリシュナなどの神々の彫刻の他、隅に必ず猿の彫像が置かれていた。また、マンダプ(会堂)の上部にはラージャスターン風のチャトリー(小屋)が乗っていた。このタイプの寺院は、ブーンディー近くのビジョーリヤーにもあり(今回は訪れず)、それと関係があると思われる。また、同じくマンダプ上部には愛嬌のある顔をした聖者の像が6体置かれていた。こんな石像は初めて見たので、けっこう貴重かもしれない。屋根の上のチャトリーと聖者の像は19世紀に追加されたものとされている。スーリヤ寺院というくらいだから元々は太陽神スーリヤが祀られていたのだろうが、現在寺院内にはパドマナーブ(ヴィシュヌ神と同一視されている)という神様が祀られている。





スーリヤ寺院



シカル


マンダプ上部に置かれた
愛嬌のあるサント(聖者)の像


 ジャールラーパータン郊外にはチャンドラバーガー寺院群がある。チャンドラバーガー河の河畔に、ほとんど崩れかけた寺院がいくつか残っており、一番大きなものはシヴァ寺院だった。こちらの寺院も相当古いと思われるが、いつのものかは解説がなく分からなかった。チャンドラバーガーとは反対側の郊外の丘の上にはナウラカー・キラー(九十万砦)と呼ばれる要塞も残っている。1860年にマハーラージャー・プリトヴィー・スィンによって建造されたものだが、未完のまま放置されてしまった。ほとんど城壁しか残っていない上に規模も小さく、中心部には4、5年前に建立されたというハヌマーン寺院が建っている。ジャールラーパータンには他に12世紀のジャイナ寺院もあるが行かなかった。




チャンドラバーガーのシヴァ寺院


 次に向かったのは、ジャールラーパータンから10kmの地点にあるガーグローン城塞。ラージャスターン州の女性の民族衣装にチョーリー(ブラウス)とガーグラー(スカート)があるが、そのガーグラーからこの要塞の名前は取られたとか。なぜなら2つ河に囲まれた丘の上に立っており、まるでスカートを広げたような形をしているからだ。最初にこの要塞を建造したのは7世紀のゴーガー・チャウハーンだとされている。その後ラージプート各部族の間で所有が変遷した後、1423年にマーンダウのホーシャングシャー・ゴウリー、1443年にマールワーのメヘムード・キルジーの攻撃を受け、それぞれ城内の女性たちはジャウハルを行ったという。その後、15〜16世紀にはマハーラーナー・クンバーとマハーラーナー・サーンガーの支配を受け、メーワール王国の一部となったが、1540年にシェール・シャーが、1561年にはアクバルがこの要塞を攻撃して占領した。シャージャハーンの時代の17世紀に、このガーグローン城塞はコーター王国の領土とされ、ジャーラー・ジャーリム・スィン1世が精力的に改修したという。だが、現在では立派な城壁が残っているものの、内部は雑草だらけの廃墟となっており、特に大して見所はなかった。ただ、現在改修工事中であり、あと1、2年もすればきれいな城塞遺跡になるかもしれない。工事をしていた人々の話では、来年3月までに改修が完了するというが・・・。




ガーグローン城塞


 ガーグローン城塞からカーンプルを通過してバーラーンという街まで辿り着いた。この間の道は相当悪く、自動車がいつか壊れるのではないかと思ったほどだ。しかも道は自動車がやっとすれ違えるだけの幅しかなく、ちょっとしたことですぐに対向車とにらめっこになってしまっていた。バーラーンは中規模都市だったが特に見所はなく、軽く昼食を食べて、そこから東へ約20kmの地点にあるヴィラースへ向かった。

 ヴィラースこそ、昨日ブリジ・ヴィラース・パレス博物館で僕が見て感銘を受けた彫刻が出土した場所だった。しかしヴィラースへ行く道はほとんどアドベンチャーだった。バーラーンの東にあるキシャンガンジという村から脇道へ入っていくと、途中小川があった。一応橋が架かっているが完成しておらず、自動車で小川を渡っていかなければならなかった。ジープならまだしも、軽自動車で渡河をするなんて初めての経験だ。浅い川だったが、地面は石ころだらけで自動車がひっくり返りそうになるほど揺れた。バイクで川を渡っている村人もいたりして、インド人の強引さには驚かされた。しかしこの場ではこの強引さがあるおかげでヴィラースまで辿り着けたと言える。何とかこの小川を越えた後、しばらく進んでいくと、今度はもっと大きな川が我々の前を立ちふさがっていた。道は川底をつたって向こう岸まで続いていた。そこへやって来た村人は「自動車で通れるよ」と簡単に言っていたが、どう見ても無事に通れるとは思えない。ヴィラースはそこから歩いてすぐらしいので、自動車はそこに置き、その村人に案内してもらって徒歩で行くことにした。人間が通れるくらいの幅の橋は、そこから少し離れた場所に出来ていた。

 ヴィラース(またはビラース)の遺跡が残っている周辺はカンニャダー村と呼ばれている。村人に連れて行かれた先にはインド考古調査局のキャンプがあった。ヴィラースの遺跡は目下発掘中で、キャンプには無数の出土品が展示されていた。だが、グジャラート州のドーラーヴィーラーでもそうだったが、発掘中の遺跡は基本的に写真撮影禁止となる。せっかくここまで来たのに、ヴィラースの見事な出土品の写真を収めることはできなかった。しかし調査員のおじさんが簡単にそれぞれの彫刻を解説してくれた。ヴィラースの寺院はほとんどムスリムにより破壊され尽くしてしまっているが、その跡地から発掘された彫刻類は相当古く、また芸術的に優れたものが多いように見えた。仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教に関連する彫刻が見つかっており、最も素晴らしいのはアナント竜に横たわりヘソからブラフマー神を生やすヴィシュヌ神の像ではあるが、中でも興味深かったのが、マディヤ・プラデーシュ州の観光地カジュラーホーの寺院群で有名なミトゥナ像(男女交合像)。男女の交合はもとより、女性とロバが交合している獣姦の像、女性の股から水が出るようになっている水路など、面白い彫刻がいくつかあった。ヴィラースの彫刻は前述の通り、コーターのブラジ・ヴィラース・パレス博物館でも見ることが可能である。・・・それにしても、ミトゥナ像などを見ると、なぜインドを侵略したイスラーム勢力が徹底的にヒンドゥー教などの寺院を破壊したのかが少し理解できる。普通に考えたら、こんなエロチックな彫像を寺院に祀る宗教を見たら、邪教と考えるのは当然かもしれない。

 インド考古調査局キャンプの前にもひとつ小さな寺院が建っていたが、そこから村の中を抜けた草原に、ヴィラースのシンボル的建築物と言っても過言ではないチャウカンバー寺院が建っている。調査員には「写真を撮るなよ」と念を押されたが、誰も監視員などいなかったため、写真を撮ることができた。チャウカンバー寺院は、その名が示すとおり――チャウ=4、カンバー=柱――4本の柱だけが残っている寺院跡である(それとも元々こういう形だったのかもしれない)。柱にはビッシリと彫刻が刻まれていた。ヴィラースには他にも多くの寺院跡が散在しており、全てを見て回るには半日はかかるという。寺院自体はほぼ全て破壊され尽くしているため、遠くまでわざわざ見に来ても普通の観光客には興味が沸かないかもしれない。しかしここから発掘される出土品はおそらく一級品と言っていいだろう。さらなる発掘調査を期待したい。




チャウカンバー寺院


 チャウカンバー寺院を見終えた時点でちょうど日没の時間を迎え、そこから一路コーターまで戻った。コーターに戻って来たのは午後8時過ぎだったので、まるまる半日のツアーとなった。走行距離は360km。1500ルピーは妥当な値段だったといえるだろう。コーター駅に下ろしてもらい、そこで夕食を食べて、午後10時発の2471スワラージ・エクスプレスに乗ってデリーに向かった。

 ハーラウティー地方はつい最近になって観光地としての整備が始まったばかりであり、まだ観光客の数も少なく、観光地の整備やそこへ通じる道路の整備も遅れており、何より観光地を案内できるガイドや運転手の絶対数が不足している。今回巡った中で見るべき価値がある遺跡は、ジャールラーパータンのスーリヤ寺院と、ヴィラースぐらいだと思ったが、他にコールヴィーなどの仏教遺跡、シャーハーバードのモスク、シェールガルの要塞、ケーショーラーイ・パータンのケーシャヴ・ラーイ寺院、バローリーの寺院群、バインスロードガルの要塞、アルニヤーの壁画などなど、面白そうな遺跡がたくさんあり、もう少し時間が欲しかったというのが正直な感想である。

12月20日(月) 旅行戦利品

 ラージャスターン州はいろいろな魅力に満ち溢れた州だが、優れた伝統手工芸品もそのひとつである。例えばジャイプル名産のジャイプリー・ラジャーイーという薄手の布団はデザインがいかにもインドっぽい上に非常に機能的で、日本へのお土産に最適だと思う。カラフルな人形劇用の人形も、ラージャスターン州でよくみかけるお土産品である。大理石に宝石を埋め込んだ細密画風の絵もなかなかよい。凝った仕掛けのある錠もよく売っていて、その構造には毎回感心させられる。

 今回の旅行では、いくつか買い物をした。ただ、僕ももはや普通のツーリストではないので、デリーでよく見かけるようなありきたりな土産物にはほとんど興味を示さない。僕が求めるものは、デリーでは手に入らないような変わった品物やアンティークである。僕が今回買った品物の中で面白いと思われるものを紹介しよう。




パフパフ

 トップバッターはパフパフ。サイクルリクシャー、オートリクシャーや屋台など、昔のインドではクラクションのためにブリキ製のラッパを利用していた。何と呼ぶのか分からないため、便宜的に「パフパフ」と名付けている。今でもパフパフがクラクションに利用されている地域はあるが、次第に減少しつつあることは確かである。9月にコールカーターに行ったときにひとつパフパフを入手したが、僕が想像していたのと形が違った。クルッと一回転しているパフパフが欲しいのだ。というわけで今回、ウダイプルにいくつかアンティーク屋(というかガラクタ屋)があったので、パフパフを探してみたら、見事に発見した。想像通りクルッと一回転してはいたのだが、また少し微妙に形が違った。一回転して交差していて欲しかったのだが、途中で止まっていた。だが、このタイプのパフパフは、先日見たヒングリッシュ映画「Hari Om」(2004年)に出ていたオートリクシャーに装着されており、購買欲をそそられた。発見されたときには3つの部品に分かれており、しかも相当汚れていたが、ブリキを磨いてもらって、接合してもらった。残念ながら音はそれほどよくなかった。「パ、フ!」という音が出て欲しいのだが、「ップー」という音しか出ない。しかもちょうどうまくはまるゴムがなかなか見つからなかった。言い値は500ルピー以上だったと思うが、かなり値下げさせた。




ドーグラー


 ブーンディーにもアンティーク屋がいくつかあった。僕が宿泊したハヴェーリー・ブリジ・ブーシャンジーの1階もお土産屋兼アンティーク屋のようになっており、いろいろ変わったものが売られていた。その中で最初に目を付けたのは、チャッティースガル州バスタル地方のドーグラーと呼ばれるメタルワーク。最近ドーグラー集めにはまっている。ホテルで売られていたドーグラーは、バスタル地方が現在のように商業化する前に作られたものらしく、確かにその品質には資本主義経済の悪影響を受けていない美しさがあった。僕が買ったドーグラーは2つ。1つは容器を頭に乗せる部族の女性、もう1つは鳥に乗る戦士(?)。特に鳥に乗る戦士のドーグラーは、ファイナル・ファンタジーという有名なTVゲームに出てくる鳥の乗り物「チョコボ」を想起させた。ここは全て定価であり、言い値はそれぞれ7ドルだった。ドルを何ルピーに換算するかで値下げ交渉を行った。






 これは今回買ったアンティークの中でも相当な自信作である。一見すると何だか分からないだろう。ブリキ製の円形ケースと、フォトフレームのような置物に見える。右の物体には絵が入っており、片面にはラーム王子、もう片面には羅刹王ラーヴァンが描かれている。また、円形ケースの中にはスィーター姫の小さな人形が入っている。ラームもラーヴァンもスィーターも「ラーマーヤナ」の登場人物である。ラーヴァンがラームの妻スィーターをさらったことにより、ラームとラーヴァンの間で戦争が起こった。




ラームとラーヴァン
スィーター


 で、これにどういう仕掛けがあるかというと、実際に目で見ないとよく分からないだろうが、下の写真で何とか理解することはできるだろう。




ラームの面を近づけるとスィーターはラームの方を向き、
ラーヴァンの面を近づけるとスィーターは背中を向ける


 つまり、磁石を使った玩具の一種である。仕掛けは簡単で、素朴な作りだが、そのアイデアのよさとレアさで一瞬の内に購入を決定してしまった。いったいいつ作られたものなのか検討もつかないが、ラームとラーヴァンの裏には、「チャンドラ−マンダル」「マトゥラー」とヒンディー語で刻まれていた。ラームに関連する玩具ではあるが、クリシュナ神話の舞台マトゥラーで作られたものらしい。これはレア過ぎて値段は付けられない。




チャッパル(サンダル)


 しかし今回の旅行で手に入れた品物で一番のヒット商品は、このチャッパル(サンダル)だったかもしれない。インドの旅行にサンダルはけっこう必要不可欠だと思うのだが、今回実はサンダルを持ってくるのを忘れてしまった。よってウダイプルでチャッパルを現地調達したのだが、それをよく見てみたら面白いことに気が付いた。




白い部分と青い部分に
それぞれ「SONY」のロゴ


 チャッパルにはなんとソニーのロゴが!日本を代表する大企業ソニーの前身は、実はサンダル製造会社だったのだ!そして何十年も前に製造中止となったソニー製サンダルがインドでまだ売られていたのだ!・・・というのは全て冗談だが、日本に持って帰ったらギャグ・アイテムとして使えるかもしれない。

12月22日(水) カリズマ盗難事件

 12月16日の日記でも少し書いたが、12月15日の夜〜16日の早朝にかけて、愛機カリズマが何者かに盗まれてしまった。カリズマとはホンダの合弁会社ヒーロー・ホンダ社のプレミアム・スポーツ・バイクで、去年の9月に購入して以来、1年以上、1万km以上、僕の足となって活躍してきてくれた。カリズマ盗難は間違いなく僕にとって今年最大の惨事と言えるだろう。僕がどれだけカリズマを愛していたかは、僕の周囲の人々がよく知っていたし、この日記をよく読んでくれている人々も何となく感じ取っていたことと思う。よって、カリズマ盗難の報は、僕自身ショックだったものの、僕の周囲の人々にも多大なショックを与える大きな出来事となった。これを読んでいる読者もショックを受けてしまうかもしれない。残念なことだが、盗まれてしまったものは仕方ない。一応この日記に事の顛末と事後処理の過程を、考察や推測を交えてまとめてみようと思う。

 まずは簡単に現在の僕の生活環境に触れなければならないだろう。僕は現在、2人の日本人と共に家を借りて住んでいる。僕の家の大家はグプターという退役軍人で、大家はチャウキーダール(門番)を2人、朝の番と夜の番のために雇っていた。また、片側の隣は空き地となっている。僕の家の前の道路には大家さんの自動車が停まっており、また敷地内にいかなる車両も駐車させない方針であるため、僕のバイクはいつも隣の空き地の前の道路に駐車してあった。この家に住み始めて1年以上経つので、チャウキーダールとも親しくなっていたのだが、レギュラーメンバーのチャウキーダールのうち、1人はディーワーリーの長期休暇を取って1ヶ月前くらいから故郷に帰っており、もう1人のチャウキーダールも母親の死去により村に帰っていた。よって、盗難当時、彼ら2人の代わりに、別のチャウキーダールが門番をしていた。

 僕がデリーを出発したのは12月11日だった。旅行するときや日本に帰るときはいつもバイクを隣の空き地の奥に入れておいたのだが、今回は短期旅行であったため、そのままの状態で旅に出てしまった。これは僕のミスだった。ちゃんとカバーはかぶせて行ったものの、特別なロックなどは付けて行かなかった。これも僕のミスだった。

 12月16日、ブーンディーを観光していたときに、同じ家に住む友人から電話があり、停めてあったバイクがなくなっていたことを知らされた。最初は悪い冗談だと思ったが、それは事実だった。いったいチャウキーダールは何をやっていたのか、と聞いたが、チャウキーダールは2人とも別のメンバーに代わっていた。つまり、レギュラーのチャウキーダールの代わりに門番に来ていた2人は既にいなくなっており、別の代理チャウキーダールが16日から家の門番をしていた。この時点で、犯人は大体推測ができた。

 また、じっくり考えてみると、旅行へ行く1週間ほど前から、バイクの鍵穴の調子が悪くなっていたことを思い出した。鍵をさして回そうとしても、スムーズに回らなくなっていたのだ。そのときは特に気にしなかったが、今思えばあれは合鍵を作ったときの後遺症だった可能性が高い。バイクの盗難があった場合、もっとも考えられるのはレッカー車などによる盗難だが、僕は合鍵によって盗まれたと確信した。つまり、前々から僕のカリズマは狙われており、合鍵まで作るという用意周到な計画的犯行だったということだ。これではいかに注意しようとも、カリズマが盗まれるのは時間の問題だったと言える。

 バイクでも何でも、盗難に遭った場合はその日の内に警察に届け出ることが重要だ。だが、あいにく僕はデリーから500km離れた地点にいたため、それができなかった。友人にFIR(First Information Report=ここでは盗難届けのようなもの)の提出を頼んだが、僕のRC(Registration Certificate=車両保有証)がなくては何も手続きは進まなかった。RCは僕の部屋の中に置いてあり、部屋の鍵は僕しか持っていなかった。

 20日の早朝、僕はデリーに戻って来た。早速、警察にFIRを提出しようと動いたが、ひとつ大きな問題が発生した。インドでは、大家が誰かに部屋を貸すとき、その人の写真やプロフィールなどを警察に提出しなくてはならないという法律がある。特に借家人が外国人であった場合は絶対に行わなければならない。ところが大家のグプター氏はそれをしていなかった。大家が警察に報告したくない理由は2つ。1つは、外国人が家を借りた場合、警察がチェックしに来るからだ。インド人は皆、何かしら違法行為をしていると言っても過言ではない。よって、極力警察が家に来るのを避けようとする。また、ヒンディー文学の文豪プレームチャンド著の「ゴーダーン(牛供養)」という小説を読めば、インド人が警察による家宅捜査を非常に不名誉なものと考えていることが分かる。もう1つの理由は税金をごまかすためだ。インド人は大体脱税しており、大家は家賃をごまかして税金を極力抑え込んでいる。借家人が外国人である場合、家賃はインド人の借家人よりも多いと考えるのが普通で、それに伴って税金の額も増えてしまう。よって、外国人が借家人であることをあまり警察に報告したがらない。このおかげで、大家はFIR提出に非常に消極的であった。ただ、僕がバイクを買ったときは、まだガウタム・ナガルに住んでおり、登録証の住所もガウタム・ナガルになっていた。そのため、大家は僕に、ガウタム・ナガルに住んでいることにするように、と度々念を押した。だが、前に住んでいた家の大家も同じく警察に報告していなかったため、僕の住所はインドに存在しないことになってしまう。とは言え、これらは大家の問題だから僕には大して関係ない。

 実は大家のグプターは警察と強力なコネクションを持っていた。FIRをワードで書いてプリントアウトした後、グプター氏と共にサロージニーナガルの警察署を訪れた。インドでは、自分で書いたFIRに、警察のスタンプを押してもらうことで、それが盗難届けとなる。しかし警察のスタンプを押してもらうのは一番大変な仕事のようで、多くの場合、盗難の被害者に対して警察は「なんでそんなところに置いてたんだ」「注意してなかった方が悪い」と怒鳴るだけで、全然相手にしてくれないらしい。そうでないにしても、いろいろな職務質問をされて、少しでも怪しい点があるとスタンプはもらえないそうだ。警察署の雰囲気は、インド映画によく見られる邪悪な警察のイメージとそう変わらず、みんなイライラした顔をして仕事をしており、訪れる人をまずは疑心暗鬼の目で見ていた。僕1人で来たらきっと酷い目に遭っていたのではなかろうか。しかしグプター氏の強力なコネクションのおかげで、ものの5分でスタンプを押してもらえた。これがあれば、もし保険などに入っていた場合、保険が下りる。保険以上にFIRの提出が重要なのは、僕のバイクを使ってもし誰かが犯罪や事故を起こした場合、責任が僕のところへ来るのを避けることである。もしかしたらバイクが警察に押収されている場合もあるので、2日後に来るように言われた。

 2日後の今日、再びサロージニーナガルの警察署へ行ってみた。当然のことながら僕のバイクは見つかっていなかったが、FIRに不備があるのでもう1回書き直すように言われた。最初のFIRには、16日にバイク盗難が発見された旨が書かれており、FIRの提出日は20日となっていた。警察の話によると、もし16日〜20日の間に誰かが僕のバイクで事故やテロなどを起こした場合、責任は僕のところへ来るとのことだった。よって、20日まで旅行していてデリーにいなかった旨を付け加えるようアドバイスされた。また新しくFIRを書いて警察に持って行った。

 最終的なFIRは以下のようになった。多分バイクだけでなく何かインドで盗まれたときの参考になると思うので、個人情報などは省略または修正して載せておく。

Date:20/12/2004

The S.H.O.
Sarojini Nagar
New Delhi

Subject: Theft of motor cycle Registration No.○○○○, Model Karizma, Colour Pearl Red, Chassis No.○○○○, Engine No.○○○○ and Key No.○○○○

Dear Sir/Madam

I parked the above motor cycle outside house <Address> on 11th December and left Delhi for Udaipur on the same day. I came back to Delhi on 20th December and found the above motor cycle missing. I made a search but now it is felt that the above motor cycle has been stolen.

It is requested that the matter may please be investigated and action taken to find the thief and motorcycle.

Thanking you

Yours Sincerely

<Signature>
Name
Address


 それにしても、バイクが盗難されたと聞いたときはさすがにショックだったが、自分の目で見たわけではなかったので、ゆっくりと現実を受け止めることができた。もし、ヘルメットをかぶって、さあ出かけようと外に出てバイクがなかったら発狂していたかもしれないが、ワンクッション置いて盗難を知ったので、冷静に対処をすることができたと思う。聞くところによると、盗難が発覚した日は近所や日本人の友人の間で大変な騒ぎになっていたようだ。本人不在のまま騒ぎが進展して行き、友人たちには非常に迷惑をかけてしまった。僕がデリーに戻る頃には、騒動も僕の気持ちも落ち着いていた。

 今回の事件で別にインドを嫌いになったりはしなかった。悲しかったが、盗むだけの価値はあるバイクだし、無防備だった僕にも非があった。物を盗まれていちいち怒っているようでは、インドから何も学べなかったことになってしまう。人生の中で人はいろいろなものを失うが、バイク程度だったらまた買えば同じものが手に入るのだし、そう悲しむべき不幸でもない。バイクを盗まれたおかげで、バイクを盗まれる心配がなくなってよかった、と考えるのがいいだろう。

 何か悲しいことがあったとき、いつもインド映画音楽の歌詞が勇気を与えてくれる。カリズマを盗んだ人間に対して憎悪の気持ちも生まれたが、そのとき現在公開中の映画「Swades」の歌の「心の中からラーヴァン(羅刹)を取り除いた者にラーム(神)が宿る」という歌詞を聞いて、何となく心が落ち着いた。不幸があると、人間の心の中には悪い思考や思念が入り込んでくるものだが、それを入り込ませないことが人生において非常に大切である。ひたすらラーム(ラーマ)の名を唱え、心を落ち着かせる。ラーマラーマーラーマ・・・マラーマラーマラー・・・「ラーマ」という言葉を繰り返していると、いつの間にか「マラー」の繰り返しとなる。「マラー」とは「死んだ」という意味であり、心のラーヴァンが「死んだ」という状態につながる。・・・そんな説法をどこかで聞いたことがある。

 しかしなぜカリズマが盗まれてしまったのか。僕はひとつの仮説を唱えたい。カリズマはインドのバイクでも高価な方である。しかも燃費がスタンダードなバイクの2分の1以下であるため、燃費をバイクの最も重要な要素と考える一般のインド人は絶対に買おうとしない。また、鍵の構造も多少工夫されているようで、一般のバイクよりも合鍵を作るのに時間がかかるというレビューをどこかで読んだ。それらを考慮し、カリズマは外見はかっこいいものの、比較的盗難の恐れが少ないのではないかと考え、カリズマを選んだといういきさつがあった。この考えがどこまで正しかったのかは分からないが、状況が一変したのは2004年8月であった。スズキの大型バイクがムンバイーを疾走する「Dhoom」という映画が公開され大ヒットを記録した。「Dhoom」に登場するバイクは1000cc以上の大型バイクだが、一般のインド人はバイクを見分ける目を持っておらず、「Dhoom」のバイクはカリズマ(225cc)だと勘違いする人が続出してしまった。僕もいろんな場面で、「これは『Dhoom』のバイクだね」と言われたことがあった。それらの反応を受け、僕は「Dhoom」のヒットにより、インド人のバイクに対する思考が変化するのではないかと予想していた。その予想はあまりに正確すぎた。ちょうどタイミングよくカリズマの値段が1万ルピー値下げされたこともあり、カリズマの販売台数は急速に伸びたらしい。これは、「Dhoom」の影響により、バイクに燃費よりもかっこよさを求めるインド人が急増したことを意味する。とすれば、カリズマ人気がブラックマーケットにも波及し、カリズマが盗難のターゲットとなり始めたとしても不思議はない。発売から既に1年以上が経っているため、合鍵も簡単に作れるようになってしまっていたことだろう。これらの原因が重なり、僕のカリズマは何者かに狙われ、そして盗まれてしまったというわけだ。インドに大型バイク時代が到来する――そしてまずはカリズマが売れ始める――そういう僕の予測は正確だったのだが、その予想をした本人のカリズマが盗まれるとは何とも皮肉で間抜けな話である。

 上のいきさつを読んでもらえば分かるとおり、犯人は十中八九、代理で来ていたチャウキーダールである。チャウキーダール自身が盗んだか、または手引きをしたかだろう。何かが盗まれた日に、同時にいなくなった人間がいるとしたら、その意味は子供でも理解できる。そしてデリーに帰って来てからもうひとつ重要な情報を得た。僕の家ではベンガル人のコックが来て料理を作ってくれているのだが、彼が、叔父さんの家でチャウキーダールのSがバイクを盗んだことがあると教えてくれた。Sはレギュラーのチャウキーダールで、現在は村に帰っている。だが、話を聞くと今回と手口が非常に似ていた。Sは、その叔父さんの家で、自分が村に帰っている間、代理のチャウキーダールにバイクを盗ませたらしい。しかしそのときは証拠不十分で罪に問うことはできなかったという。誰が盗んだにしろ、今回も証拠を探すのは難しいだろう。

12月23日(木) Swades

 今日はPVRプリヤーで先週金曜日から公開のヒンディー語映画「Swades」を鑑賞した。監督は、2001年の大ヒット作で、アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた名作「Lagaan」のアシュトーシュ・ゴーワーリカル監督、音楽は同じく「Lagaan」で音楽監督を務めたARレヘマーン、そして主演はインドのスーパースター、シャールク・カーン。期待する方が無理と言う顔ぶれである。

 「Swades」とは「我らの国」という意味。シャールク・カーン以外のキャストは、ガーヤトリー・ジョーシー(新人)、キショーリー・バッラル、マスター・スミト・セート、ラージェーシュ・ヴィヴェーク、ダヤーシャンカル・パーンデーイなど。




中央白い服がシャールク・カーン


Swades
 米国のNASAで気象衛星の開発に携わっていたエリートNRI(在外インド人)のモーハン・バルガヴァ(シャールク・カーン)は、急に幼少時代に母親代わりに自分を育ててくれたカーヴェーリー・アンマー(キショーリー・バッラル)を思い出し、休暇をもらってインドに帰る。カーヴェーリー・アンマーは老人ホームを出て、チャランプルという僻地の村で生活していた。2人は感動の再開を果たす。

 カーヴェーリー・アンマーは、モーハンの幼馴染みでもあったギーター(ガーヤトリー・ジョーシー)とその弟チックー(マスター・スミト・セート)と共に住んでいた。ギーターの父母は村で学校を開いていたが、相次いで急死し、ギーターが後を継いで学校を切り盛りしていた。彼女は、親交のあったカーヴェーリー・アンマーに家の世話をするために来てもらっていたのだった。

 モーハンとチックーはすぐに親友となるが、ギーターはモーハンに心を開かなかった。なぜなら彼女は、モーハンがカーヴェーリー・アンマーを米国に呼ぶためにインドに来ていたことを勘付いていたからだった。ギーターはモーハンに、「カーヴェーリー・アンマーを連れて行かないで」と頼むが、モーハンは承知しなかった。

 チャランプルに滞在する内に、モーハンは村の数々の問題を目の当たりにする。頻繁に起こる停電、カーストによる差別、教育に対する意識の低さ、政府を批判するだけで自分では何もしようとしない人々・・・。モーハンは、郵便局員のニヴァラン(ラージェーシュ・ヴィヴェーク)、米国行きを夢見る青年メーラーラーム(ダヤーシャンカル・パーンデーイ)らと共に、ギーターの学校にさらに多くの子供たちを入学させるため奔走すると同時に、水力発電により村に自力の発電装置を備え付けることに成功する。この過程でギーターはモーハンに心を開き、2人はいつの間にか相思相愛となっていた。

 ところが、モーハンの休暇は既に終わっており、米国に帰らなければならなかった。モーハンはカーヴェーリー・アンマー、チックー、ギーターや村人らに見送られ村を去っていく。NASAに戻ったモーハンは気象衛星の打上げを成功させるが、彼の脳裏からは村のことが常にちらついていた。遂にモーハンは辞職届けを出し、皆の待つ村へと帰って行った。

 「Lagaan」では、インドを植民地支配していた英国に対する村人たちの蜂起と、その過程での村の団結が描かれていた。「Swades」の大まかな筋もそれと大して変わらず、米国から来たインド人らしからぬインド人が、村の数々の問題を知り、解決を模索する過程で村人の団結が行われていき、そして主人公自身も村に戻って行くというストーリーだった。だが、正直な感想、期待外れだったと言っていい。本当に「Lagaan」と同じ監督なのかと我が目を疑うくらい、ストーリー進行は冗漫かつ退屈で、ミュージカル・シーンにも華がなかった。とは言え、この映画で提起されていた、インドの農村の問題は正鵠を射ており、見る価値はある映画である。外国人の中で、インドの村は理想化して語られることが多いが、インドの汚点が最も多く潜在しているのは、やっぱり封建的社会が根強く残っている村なのである。

 まず最初にモーハンが直面する問題は電気である。村に電線は来ているのだが、頻繁に停電する。政治家は「すぐに改善する」と言うが、いつまで経っても改善される兆しもない。次に明らかになるのは教育問題である。村では子供たちは大切な労働力なので、親は子供を学校に入れたがらない。ブラーフマンたちはブラーフマン以外の子供と共に自分の子供を学ばせることを拒否する一方で、不可触民もどうせ差別されるということで子供を学校に送ろうとしなかった。ギーターの学校は、そういう村の風潮に押し流される形で、存続の危機を迎えていた。これらの問題の解決に尽力する中でモーハンは、村人たちが誇りとする「サンスクリティ(文化)」と「パランパラー(伝統)」こそが、諸悪の根源であるという結論に達する。村はバラバラで、お互いにお互いを責め合っており、団結するということを知らなかった。

 村人の団結が象徴的に表されるシーンは3つある。1つめは、野外映画上映会のシーンだ。村では、時々やって来る巡回映画が大きな娯楽となっている。広場の真ん中にでっかいスクリーンが立てられ、そこに映像が流されるのだが、非常に面白い形となっていた。観客はスクリーンの両側、つまり表側と裏側に座っており、カーストの高い者が正面から映画を見て、カーストの低い者が裏から左右逆に映った映像を見ていた。上映されていた映画はダルメーンドラとズィーナト・アマン主演の「Yaadon Ki Baaraat」(1973年)。しかし例によって上映中に停電となってしまい、村人たちからは怒号が上がる。そのときモーハンは、空を見上げるよう促す。「ほら、鋤が見えるよ」モーハンは、星と星をつないで、鋤の形を作ってみせた。モーハンは言う。「星は単独ではただの瞬く星でしかないが、星々が集まれば何かになれる。」ここで「Yeh Tara Woh Tara」のミュージカルとなり、スクリーンは取り払われて、両側に座っていた子供たちが一緒になって踊り出す。

 ダシャヘラーのシーンも印象的である。モーハンらの努力により、村の多くの子供たちがギーターの学校に入学することになり、ダシャヘラーの吉日が入学式となった。村人たちの出席のもと、入学式が行われ、不可触民の子供たちも無事に入学することができる。その夜、ラームリーラーが行われる。ギーターがスィーターを演じ、ニヴァランがラーヴァンを演じ、舞踊劇を踊る。このときの音楽が「Pal Pal Hai Bhaari」である。この音楽は僕のお気に入りである。

 もう1つのシーンは、村に水力発電装置を作るシーンである。モーハンは村人100人を集めて、湧き水の水を利用した水力発電装置を設置する。水から電気が生み出されると、村人たちは一緒になって喜ぶ。これらの出来事を通し、バラバラだった村は一体となっていく。

 村人が団結していく過程で、モーハンの心も次第に変わっていく。最初、モーハンはミネラル・ウォーターを大量に持参して村まで来ていた。現地の水を意地でも飲まないようにしていた。しかし、村の問題に直面し、深く考え込んでしまったモーハンは、25パイサーの水を売りに来た少年から水を買い、現地の水を遂に身体の中に入れる。ギーターに「No Returning Indian」と揶揄されたモーハンが、真の意味で村に帰った瞬間だった。

 シャールク・カーンの演技はさすがである。今回なぜかヌードシーンが多く、パンツ一丁になってクシュティーをするシーンまであった。この映画がデビュー作となるガーヤトリー・ジョーシーは、知的な顔立ちをしており、役にピッタリだと思った。しかしものすごい美人というわけではないので、演技派として成長していくといいだろう。郵便局員のニヴァランを演じたラージェーシュ・ヴィヴェークと、米国でダーバー(安食堂)を開店することを夢見るメーラーラームを演じたダヤーシャンカル・パーンデーイは、「Lagaan」にも出演していた。

 ARレヘマーンの音楽は今回も素晴らしく、「Swades」のサントラCDは買う価値があると思う。だが、音楽の使われ方があまりにひどかったので落胆してしまった。特に冒頭の「Yuhi Chala Chal」は、せっかくいい音楽なのに、かなり低予算でやっつけ仕事なミュージカルとなってしまっていて残念だった。

 舞台となったチャランプル村がどこでロケされたのかは情報がないが、典型的なインドの農村であり、ちょうど田舎を旅してきた僕の心を打った。米国NASAでのロケはインド映画初とのこと。

 「Lagaan」と同じ感動を求めて見ると失望する映画であるが、インドの農村がどんな問題を抱えているのか垣間見てみたい人にはオススメの映画である。

12月24日(金) Raincoat

 今日はPVRプリヤーで新作ヒンディー語映画「Raincoat」を見た。今年初めにデリーでも一般上映されたベンガリー語映画「Chokher Bali」(2003年)のリトゥパルナ・ゴーシュ監督が初めて撮ったヒンディー語映画で、主演はアジャイ・デーヴガンとアイシュワリヤー・ラーイ。その他、マウリー・ガーングリーやアンヌー・カプールなどが出演。




アイシュワリヤー・ラーイ(上)と
アジャイ・デーヴガン(下)


Raincoat
 村で無為に過ごしていた貧しい青年マンヌー(アジャイ・デーヴガン)は、一念発起してカルカッタにやって来る。マンヌーは友人の家に滞在し、ビジネスを始めようとが、彼がカルカッタにやって来た本当の理由は、幼馴染みのニールー(アイシュワリヤー・ラーイ)に会うことだった。ニールーはマンヌーの近所に住んでおり、2人は恋仲だったが、ニールーは別の裕福な男とお見合い結婚してしまった。それ以来6年間、マンヌーはニールーのことを忘れられずに生きてきたのだった。

 マンヌーは大雨の日、友人の妻(マウリー・ガーングリー)から借りたレインコートを着てニールーの家を訪ねる。ニールーは窓を閉め切った真っ暗な家に住んでおり、幾分やつれたかのように見えた。家にはニールー以外誰もおらず、夫は今、仕事で日本に行っており、2人の使用人も出払っているとのことだった。家が真っ暗なのは停電のせいだという。ニールーはマンヌーに幸せに暮らしていると伝える。マンヌーは、TV局に勤めてTVドラマを制作しており、もうすぐ結婚する予定であると彼女に嘘を言う。

 ニールーはマンヌーの昼食の材料を買うため、彼のレインコートを着て外出した。マンヌーが留守番をしていると、1人の男(アンヌー・カプール)が訪ねてくる。最初マンヌーは彼がニールーの夫だと思ったが、彼は大家だった。大家は、ニールーの夫が詐欺師であること、ニールーはアンティークの家具の貸し借りをして生計を立てていること、家賃や電気代などをずっと滞納していることなどを明かす。マンヌーはそのとき、結婚する前にニールーが「あなたと次に会ったとき、幸せに暮らしていなくても、幸せに暮らしている振りをするわ」と言っていたことを思い出す。マンヌーは、ビジネスを始めるために借りたお金全てを、ニールーの家賃として大家に渡す。

 大家が出て行った後、ニールーは外からプーリーを買って帰って来た。マンヌーは彼女に何も言わず、ただプーリーを食べる。マンヌーが家に帰ると、レインコートの中から手紙とアクセサリーが見つかる。レインコートには、マンヌーがお金を借りるときに書いた手紙が入っており、彼がお金に困っている旨が書かれていた。それを読んだニールーは、自分のマンガルスートラを売り、マンヌーの花嫁のための装飾品を買い、レインコートの中に入れていたのだった。

 非常に難解な映画。上記のあらすじも正確ではないかもしれない。登場人物同士のセリフのやり取りに重点が置かれているため、しかもひとつのセリフに表の意味と裏の意味があることが多いため、そのひとつひとつを正確に理解していかないと全く訳の分からない映画になってしまうだろう。大まかな筋は、それぞれ貧しい生活を送っていた男女が久し振りに再会するが、自分の貧しさを隠しながら、それでもお互いの状況を密かに理解し、なけなしの金でお互いを金銭的に助けるというストーリーである。

 トリウッド(ベンガリー語映画界)リトゥパルナ・ゴーシュ監督は、現在のボリウッド映画の主流・亜流とは全く違った手法でヒンディー語映画界に殴りこんだと言える。言語はヒンディー語だが、全体の雰囲気はサティヤジト・ラーイ(サタジット・レイ)監督に代表されるベンガリー語映画そのものである。じっくりと熟考されたセリフのひとつひとつは、冗漫に見えて無駄がなかった。この種の映画が簡単にヒンディー語圏の観客に受け容れられるとは思えないが、こういう映画を映画館で見れるようになったこと自体、インド映画業界の大きな進歩だと言える。

 主演のアジャイ・デーヴガンとアイシュワリヤー・ラーイの演技は彼らのフィルモグラフィーの中でベストに位置するのではなかろうか。内向的な青年を演じたアジャイ・デーヴガンは、アイシュワリヤーと共演した「Hum Dil De Chuke Sanam(邦題:ミモラ)」(1999年)の頃を思い出させた。「Bride & Prejudice」(2004年)で演技力に疑問符が付いてしまったアイシュワリヤーだが、同映画の後に撮影されたこの映画を見れば、彼女に演技力がないと言うことはできないことが分かるだろう。

 映画は米国の小説家オー・ヘンリー(1862-1910)の「賢者の贈り物(The gift of the Magi)」を基にしているという。「賢者の贈り物」は、貧しい夫婦がクリスマスのときにお互いにそれぞれ大切な物を売ってプレゼントを買うというストーリーだった。この映画はクリスマスなどとは関係なかったが、過去の回想シーンでディーワーリーが描かれていた。基本的に映画全体はオリジナルに近いと言える。

 この映画で影の主題となっていたのは、マンヌーのセリフ「結婚式の日、どうして花嫁は泣くのか」だと思った。マンヌーは友人の妻に問いかける。「両親から離れるから泣くのか?それとも別の理由が?」そして彼は続ける。「ところで彼とは連絡取り合ってるかい?」つまり、友人の妻にも昔、恋人がいたが、お見合い結婚によってその恋愛は成就せず、別の男性と結婚したのだった。

 普通の映画ではないが、映画が分かる人には「インド映画にもこういう作品があるのか」と衝撃を与える映画である。

12月25日(土) Ab Tumhare Hawale Watan Sathiyo

 クリスマスの今日、PVRアヌパムで新作ヒンディー語映画「Ab Tumhare Hawale Watan Sathiyo」を見た。ここ数年の内に急速にインドのクリスマスがクリスマスらしくなって来ているように感じる。例えば、PVRの店員はサンタクロースの帽子をかぶっていたし、レストランではクリスマスの特別メニューが用意されるのは当たり前となっている。

 「Ab Tumhare Hawale Watan Sathiyo」とは、「諸君、祖国は君たちに託したぞ」という意味。題名からも分かるように、愛国主義的映画である。監督は、「Gadar : Ek Prem Katha」(2001年)のアニル・シャルマー監督。音楽はアヌ・マリク。キャストは、アミターブ・バッチャン、ボビー・デーオール、アクシャイ・クマール、ディヴィヤー・コースラー(新人)、カピル・シャルマー(新人:監督の弟)、サンダーリー・スィンハー、ダニー・デンゾンパ、アシュトーシュ・ラーナー、ナグマーなど。




左からサンダーリー・スィンハー、
ボビー・デーオール、
アミターブ・バッチャン、
アクシャイ・クマール、
ディヴィヤー・コースラー


Ab Tumhare Hawale Watan Sathiyo
 1971年、アマルジート・スィン少将陸軍(アミターブ・バッチャン)と息子のヴィクラマジート・スィン海軍中佐(ボビー・デーオール)は第三次印パ戦争に従軍するが、ヴィクラマジートは殉死してしまう。ヴィクラマジートの息子クナール(ボビー・デーオール)も陸軍に入隊するが、不真面目な性格は直らなかった。

 ジャイサルメールに駐屯していたクナールは、シュエーター(ディヴィヤー・コースラー)という女の子と出会い、恋に落ちる。シュエーターはラージーヴ少佐(アクシャイ・クマール)と結婚したが、結婚式の日にラージーヴはジャンムー&カシュミール州に召集され、そのまま帰らぬ人となってしまった。クナールはシュエーターに結婚を申し込み、彼女もそれを受け容れようとしたときに、死んだはずのラージーヴが帰って来る。ラージーヴはパーキスターン軍に2年間捕われていたのだが、何とか脱走して帰って来たのだった。一方、クナールはジャンムー&カシュミール州の駐屯地に異動となった。偶然、クナールの上官はラージーヴだった。

 クナールはテロリストの基地壊滅で戦果を上げるものの、その戦闘により戦友トリローク(カピル・シャルマー)を失う。実はその戦果のほとんどもトリロークの勇敢な行動によるものだった。クナールは自己嫌悪に陥る。クナールはラージーヴがシュエーターの夫であることも知り、彼女を諦めることを決意する。

 そんな中、パーキスターンの政治家スィカンダル・カーン(アシュトーシュ・ラーナー)がアマルナート・ヤートラー(ジャンムー近郊のヒンドゥー教聖地巡礼)に参加するという印パ親善イベントが行われた。しかしスィカンダルの目的は親善ではなく、大規模なテロにより印パの仲を永久に切り裂いて金儲けをするというものだった。アマルジートはスィカンダルの意図を知っていながらも、親善イベントなので中止することができなかった。しかし、クナールの活躍により爆弾テロは阻止された。

 2001年の大ヒット作「Gadar : Ek Prem Katha」の監督の作品であり、オールスターキャストに近い顔ぶれだったため、ある程度の質を期待していたのだが、全く期待外れの見る価値のない映画だった。印パ友好に捧げられた映画とのことだが、ここまでパーキスターンが悪く描かれていて、どうして友好などが生まれようか?完全にインド人の愛国心を想起させるための映画である。「LoC」(2003年)と同じく、日本人には全然楽しめない映画だった。

 ストーリーに全然ひねりがなく、戦闘シーンにも全く緊迫感がなかったが、アミターブ・バッチャン、アクシャイ・クマール、ボビー・デーオールなどの俳優の演技は悪くはなかった。アニル・シャルマー監督の弟カピル・シャルマーは、デビュー作ながら頑張ってはいたのだが、顔がスクリーンで映えないのであまり将来性がなさそうだ。もう1人の新人ディヴィヤー・コースラーはなかなかの演技力と魅力があった。

 ロケ地には見るべきものがあった。前半で登場するのはラージャスターン州ジャイサルメール。パーキスターンとの国境に近いため、軍の重要な駐屯地となっている。毎年2月に行われるデザート・フェスティバルが再現されており、ジャイサルメールの魅力が存分に映像になっていた。ジャイサルメールは今まで多くの映画のロケ地となってきたが、終盤に登場するアマルナートは珍しい。アマルナートはジャンムー&カシュミール州にあるヒンドゥー教の重要な聖地で、標高3888mの山の上にある洞窟の中に、氷でできたシヴァリンガが祀られている。だが、テロ多発地帯としても有名であり、この映画でもテロリストの標的となっていた。それでも巡礼者の数は減らないというから、信仰の力というのはすごい。このアマルナートを映画のロケ地としたのは、この映画の最大の挑戦だったと言っていいだろう。僕はまだ行ったことがないので、アマルナートの洞窟やリンガを見ることができて少し感動した。これだけがこの映画の見所かもしれない。アマルナートの氷製リンガがスクリーンに映し出されたときには、観客の中には手を合わせる人がいた。

 アマルナート・ヤートラーのシーンで、松葉杖をついた人が踊るシーンがあるが、その人はアクシャイ・クマールの友人だとか。アクシャイ・クマールが監督に頼んで、片足が不自由な友人に小さな役をあげたそうだ。

 結論として、「Ab Tumhare Hawale Watan Sathiyo」は、見た目には大作映画に見えるが、見ると損するので見ない方が吉であろう。

12月26日(日) カリズマ盗難事件続報

 この1週間は、ラージャスターン州旅行中に盗まれた僕のバイク、カリズマの処理で忙しかった。忙しいというよりも、事件を担当する警察官とのコンタクトがうまく取れずに時間が過ぎ去ったという方が正しいだろう。

 インドで盗難に遭った場合、警察にFIR(First Information Report)と呼ばれる書類を登録しなければならない。FIRは日本にはない制度で分かりにくいのだが、盗難、事故、違法行為など、何らかの事件があった場合、警察に提出する報告書のようなもので、インドの新聞などでもよく出てくる単語である。被害者が警察に届けるものがFIRなのか、それとも警察が「こういう事件がありましたよ」と書く書類がFIRなのか、未だにいまいちよく分からないのだが、とにかくFIRのためにこの1週間は忙しかった。

 12月22日(水)の日記でも書いたが、まずは警察に盗難事件があった旨を書いた書類を提出した。一般にまずこの書類がFIRと呼ばれている。だが、これを警察に受け取ってもらうのが大仕事である。警察は自分の仕事を増やしたくないため、滅多なことがない限りたやすくFIRを受け取ってくれない。カリズマ盗難事件は、大家のコネクションにより、HC(Head Constable=巡査長?)の地位の人が担当してくれることになった。提出したFIRのコピーにスタンプを押してもらうことにより、警察に受領されたFIRが手に入ったということになる。このFIRが、一応日本で言う「盗難届け」に当たり、警察のスタンプがあることにより「盗難証明」にもなるだろう。多分これがあれば保険は下りると思われる。

 しかし、それとは別にもうひとつFIRがある。これは、警察の事件簿に登録されている書類で、これが正式な「盗難証明」になるみたいだ。そのコピーを受け取るために1週間振り回された。

 24日、家にHCが来て事情聴取を行った。焦点は、「誰がそこに駐車したのか」と、「本当に盗難に遭ったのか、友人が黙って使っているのではないのか」という2点だった。警察の話によると、事件を登録するのは簡単だが、一度登録された事件をキャンセルすることは非常に困難であるため、登録する前にもう一度確認する必要があるとのことだった。もし偽の事件を登録したら、それはFIRを提出した者が罪に問われることになるし、もし友人が僕のバイクを黙って使っていたのなら、その友人が逮捕されることになる(インドでは一台のバイクを数人で共有することが多い)。非常に正しい言い分だと思った。僕は、本当に盗難に遭ったことを明言し、事件を登録してもらうことにした。他に、インドに来た理由や親の職業などを質問された。

 次の日にはFIRがもらえるとのことだったが、ちょうどナラスィンハ・ラーオ元首相が死去したため、追悼式典などで警察に仕事が増えてしまい、担当警察と会えない状態が続いた。今朝になってHCが家を訪れ、僕のカリズマ盗難の告知を全インドの警察署に送ったこと、そのために500ルピーを費やしたこと、そして午後に警察署にFIRを取りに来るように伝えられた。500ルピーの発言は、暗に賄賂を求めているということが見て取れた。

 午後にサロージニーナガル警察署を訪れてみると、HCは仮眠室のような部屋でインド対バングラデシュのクリケットの試合を見ていた。その試合が一段落つくと、僕は記録室に連れて行かれ、いくつかの帳簿を見せられた。どの帳簿にも僕の名前とカリズマ盗難の詳細が記載されていた。曰く、「これを書くために徹夜した」とのことだった。記録室には分厚いファイルが多く山積みになっており、ひとつひとつのファイルがひとつの事件であることを知らされた。また、同じ部屋では、別の車両盗難事件(ヒュンダイ社のサントロ)について警察官同士が話し合っていた。その会話をこっそり聞いてみると、警察は地域に住む泥棒の住所を全て把握しているような感じだった。「あそこのあいつは兄弟揃って泥棒だ」みたいな会話をしていた。そして、事件の起こった地域に関連していそうな泥棒の名前を手帳にメモしていた。

 次に、HCのデスク兼仮眠室のような雑多な部屋に連れて行かれ、そこでじっと彼が書類に記入する様子を見ていた。そこには彼が担当している事件のファイルが山積みになっており、それぞれ数多くの手書きの書類が折り重なっていた。彼が自分で書いたものもあれば、外部の人間に金を払って書かせたものもあるという。「1つの事件のために、これだけ書かなければならない。だから誰も被害者からFIRを受け取りたがらない」と愚痴をこぼしていた。HCは、事件ファイルの書類のために、銀行から失敬してきた薄っぺらい印刷用紙を使用していた。どうやら書類記入用の紙やペンまで警察官が自費で出さないといけないらしい。つまり、ひとつの事件を担当するごとに、警察官は何かしら懐を痛めないといけないことになる。そういう愚痴と共に、「お前の家にペンと紙はあるか?」と聞いて来た。試しに「ありますよ。持って来ましょうか?」と言ってみると、「オレは欲しいとは言っていない。もしくれるのならお前の意思で持って来い」と微妙な言い方をしていた。日本の酒についても聞いて来た。賄賂を暗に求めつつも、賄賂ではない形で受け取ろうとしている魂胆が見え見えだった。それにしても、手続きが面倒であるため、またペンや紙が不足するため、完全に機能していない警察の実態を見るにつけ、インドの諸々の問題は簡単には解決しないことを実感させられた。また、HCは「オレと友達になるか?」と聞いて来た。この「友達」にはどうやら深い意味がありそうだ。彼の定義によると、「友達というのは、『いろんなこと』を話し合えるもの」らしい。一応その場は、友達になることは了承しておいたものの、特に賄賂などは渡さなかった。これで賄賂を渡した途端にカリズマが出てきたら、笑いものである。

 とりあえず、正式なFIRはもらうことができた。4ページあり、全て手書きで書かれていた。HCの講釈によると、家の外から物が盗まれた場合はIPC(Indian Penal Code=インド刑法)第379条に当たるようだ。家の中から物が盗まれた場合はIPC第380条となり、法律が異なってくる。よく見たら国籍がインド人になっていたので、日本人に直してもらった。非常に不鮮明なコピーではあるが、一応これが手に入ったことで、盗難届けの手続きは終了したことになるだろう。カリズマが戻って来る可能性は少ないが、とりあえず今年中は様子を見てみるつもりである。

12月29日(水) 大河の恵み、グワーハーティー



 あまり日本では大きく報道されなかったかもしれないが、最近、アッサム州グワーハーティーから出発し、東南アジア各国を走破して、インドネシアのバタム島まで疾走するラリーが11月22日から行われた。残念ながら現在のところ、インドとミャンマーの国境は諸々の事情により正式には開通していないが、最近ミャンマーのタン・シュエ元首が訪印し、国境開通も次第に夢の夢ではなくなって来ているように思える。現状では、ミャンマーと国境を接するインド東北地域(ノース・イースト)はどん詰まりの辺境地帯に過ぎない。だが、もしインドとミャンマーの国境が開いたら、この地域の重要性は今とは比べ物にならないくらい上昇する。ミャンマーだけでなく、中国雲南地方とも通じており、まさにノース・イーストは東・東南アジアへの玄関口となる可能性を秘めている。

 日本人にとって、ノース・イースト地域は旧日本軍によるインパール作戦が決行された地域として特に記憶されている。現マニプル州の州都インパールは、第二次世界大戦当時、中国重慶を拠点とする蒋介石軍への輸送拠点となっていた上に、ビルマまで侵攻していた旧日本軍にとって、英領インド攻略のための足がかりとなる都市だった。敗色が濃厚となっていた旧日本軍は、戦局の打開のため、無謀とも言えるインパール占領作戦をチャンドラボース率いるインド国民軍と共に1944年3月より決行したが、計画の杜撰さ、戦力の圧倒的な差、そして峻険な自然環境のせいで結果は燦々たるものとなり、生還者は2割ほどという太平洋戦争の中でも最悪の作戦となってしまった。旧日本軍はインパールまで辿り着くことはできなかったが、アッサム地方とインパールを結ぶインパール街道の途中にある、現ナガランド州の州都コヒマを巡って英領インド軍と激しい戦闘を行った。

 僕は、2003年の5月にアッサム州、メーガーラヤ州を旅行したが、外国人の入域が規制されている他のノース・イースト諸州には足を踏み入れなかった。そのときはいつか他のノース・イーストの地域も旅行できたら、と考えていたが、その機会は案外早く来てしまった。デリーでナガランドの友人や知り合いが増えたこと、元旦にコヒマの日本人墓地を参拝する計画が上がっていたこと、また個人的に行ったことがないインドの地域が次第に減ってきたことなどから、今冬の旅行地としてナガランド州が候補として上がってきた。同時にアンダマン&ニコバル諸島も数年前から毎冬、旅行の目的地として候補に上がっていたが、12月26日にインドネシアのスマトラ沖で発生した大地震による大津波で同諸島は壊滅的打撃を被り、つくづく行かなくてよかったと胸をなでおろした。

 ナガランドには、一般にナガ族と呼ばれる部族が住んでいる。しかし、ナガ族という呼称や考え方は後世に外部から植えつけられたもので、明確な定義は困難である。少なくとも確実なのは、ナガランド州には言語や習慣を異にする15以上の部族が住んでいることだ。また、ナガランド州の外にもナガ族とされる部族がいくつか住んでいる。ナガ族の風習として有名なのは首狩りである。ナガ族では首を狩った男のみが一人前として扱われ、首狩りのできない男は結婚することができなかった。また、首は村に豊穣をもたらすと考えられていた。そのため、ナガ族の男性は敵対部族の村を襲撃し、首を狩って、その頭蓋骨を村の男子集会所に飾った。ナガ族は長い間文字を持っておらず、19世紀に英国人が訪れるまではほとんど歴史に残っていない。現在では宣教師団の布教によりナガ族はキリスト教バプティスト派に改宗し、首狩りの風習も既に過去のものとなっているようだ。ナガ族は、印パ分離独立の1947年からナガ独立を表明し、中央政府と長い対立を繰り広げていることも忘れてはならない。1963年にはナガ族の住む地域はナガランド州としてアッサム州から独立したが、それでも独立闘争は終わっていない。

 前述の通り、ナガランドは外国人の入域が規制されている州のひとつである。規則では、外国人旅行者は、4人以上のグループでナガランドに同時に入らなければならないことになっている。逆に言えば、4人以上のグループを結成することができれば、割と簡単に許可が下りる。デリーで僕を含む4人の日本人を集め、南デリーのアウラングゼーブ・ロードにあるナガハウスにて入域許可証を申請したら、1日ほどですぐに発行してくれた(必要書類:パスポートとヴィザのコピー、パスポートサイズの写真2枚、申請書)。どうせならマニプル州インパールなども旅行してみたかったが、マニプル州の入域許可証は悪名高き内務省を通さなければならないだけあって非常に厄介で、時間がかかりそうだったので、今回は諦めることにした。旅程は、まず飛行機でデリーからアッサム州グワーハーティーまで飛び、そこから列車かバスでナガランド州の入り口に位置するディマープルまで行き、コヒマなどを観光して、グワーハーティーまで戻って、列車で帰って来るというものである。一応ナガランド州は日本の外務省から渡航延期勧告が出ているが、1年以上前から渡航を延期していたので問題ないだろう。

 飛行機や列車のチケット予約も済み、全ては順調に行っていた。ところが、突然出発前日になって、参加メンバーの1人が急に「オレ行かない」と言い出した。冬休み明けにテストがあり、そのためのテスト勉強に打ち込みたいとのことだった。彼には、前々から渋っていたのを、4人のメンバーを揃えるために半ば強制的に参加してもらったのだが、この期に及んでの裏切りにナガランド旅行は一気に暗雲が立ち込めた。僕は愛機カリズマが盗まれたにも関わらずながらンド行きをキャンセルしなかったとういのに・・・!必死の説得にも関わらず彼の心は変わらなかった。普通の旅行だったら旅行参加者が1人減ったところで特に問題はないが、今回の旅行は4人で同時に入域しなければならないという条件付きのものである。それに、もう既に4人の名前で許可証も取得してしまった。急にナガランド旅行が危ぶまれたが、こちらにはひとつの光明があった。それは、ナガランド州ディマープルの元IG(Inspector General=警視総監?)と、ナガランド州政府の財務大臣が知り合いだったことである。このコネに全てを託して、我々3人はナガランドを目指すことになった。

 デリーからグワーハーティーまでは、ジェット・エアウェイズの9W601便を利用。予定離陸時間は午前10時10分だったが、既に昨夜の時点で1時間遅れとなっており、結局さらに1時間遅れて出発することになった。通常、ジェット・エアウェイズは搭乗前の手荷物再検査はないのだが、目的地が多少きな臭いアッサム州であることもあり、再検査が義務付けられていた。機内食はフィッシュ・カレーでなかなかおいしかった。

 フライトは約2時間。西から東に向かうため、進行方向左の窓側席(A)に座っていると、ヒマーラヤ山脈を眼下に眺めることができる。僕は進行方向右の席に座っていたが、こちらはブラフマプトラ河の雄大な河流と、遥か遠くに幾重も連なるメーガーラヤ山脈を眺めることができた。グワーハーティーはブラフマプトラ河の河畔に位置する、古代から存続する由緒ある都市である。さすがに東南アジアの文化圏に半分入っているだけあって、デリーとは全く違った自然と家屋。日本の田園風景にも非常によく似ている。

 午後2時過ぎにグワーハーティー空港に到着。そこにあったアッサム州観光局で早速いろいろ情報収集し、タクシーで市街地へ向かった。空港から市街地までは23km離れており、プリペイド・タクシーで300ルピーかかる。そのまま夜行のバスや列車でナガランド州の玄関口ディマープルまで直行することも可能だったが、できるだけ夜間の移動は避けるため、グワーハーティーに1泊することにした。アッサム州観光局経営のツーリスト・ロッジ(前回グワーハーティーに来たときに宿泊)は満室だったため、駅の近くにあるホテル・プラーグ・コンティネンタルに泊まった。料金はいろいろあるが、シングル600ルピー、ダブル900ルピーより。

 ホテルにチェック・インした後は、散歩がてら駅まで歩いて、明日のディーマープル行きの列車のチケットを予約した。席はACとノンACがあるが、ACはウェイティング・リストだというので、ノンACを予約した。だが、予約は形だけのもので、実際は自由席に等しいことは十分考えられる。列車がどういう状態なのか、全く予想が付かない。

 グワーハーティーの魚市場を見学した後、ジャスト・フィッシュという魚料理専門レストランで夕食を食べた。前回アッサム州を旅行したとき、アッサムのフィッシュ・カレーの旨さに虜になってしまったため、是非グワーハーティーではフィッシュ・カレーを食べたかった。ジャスト・フィッシュはホテルの近くにあり、おいしい魚料理を出してくれそうだったので、即決して訪れたのだった。オーナーは昔ダージリンで商売していたことがあるらしく、日本語を少ししゃべることができた。魚料理だけのレストランというコンセプトはけっこう珍しく、メニューも豊富に用意されていた。魚の名前がほぼ全てヒンディー語(または現地語)になっているので、外国人にはよく分からないのが難点だが、骨の多さがマークで表されているのはいいアイデアだと思った。4種類のフィッシュ・カレーとフィッシュ・ティッカを食べたが、どれもなかなかおいしかった。

12月30日(木) ディマープルで軟禁

 早朝からグワーハーティー駅へ行き、6時発、ディマープル行きの2067ジャン・シャターブディー・エクスプレスに乗り込んだ。発車時刻は30分ほど遅れた。座席は予約してあったのだが、なぜか(よくあることだが)、我々の席に最初から座っている人がいて、しかもその人がその座席番号の書かれたチケットを持っていたため、多少トラブルがあった。しかも座っていたのがシスターであるため、強気に出づらかった。しかし、こちらのチケットの方が正規の物であったため、車掌の手助けもあり、席を取り戻すことができた。

 ノンAC席ということでどういう席になるか心配したが、ちゃんと一人一人座席になっており、他の地方の2等座席とは違った。座っている人を見渡してみると、ナガランド人と思われる人が多かったが、インド系の人もけっこういた。女性だけで旅行しているグループがあることが、他のインドの地域と大きく違うところではないかと思った。チャーイ、コーヒー、軽食など、車内販売は豊富で飲食には困らなかった。正規の販売員以外はほとんど入って来なかった。ちょうど前の席に座っていたナガランド人の男性は、20年前に日本に来たことがあると言っていた。列車には銃を持った警官が乗り込んでいたが、特に入域許可証などの提示を求められることはなく、皆フレンドリーに接してくれた。

 早朝の列車であったため、しばらく景色は濃霧に覆い隠されていた。稲田が果てしなく続く田園風景が続き、所々にハイジェニックな印象を受ける伝統的家屋が並んでいた。前回来たときも思ったが、アッサムの田園風景はインド随一の美しさを持っている。稲は既に刈られており、二期作が始まっていた。

 チャーパルムク、ホージャル、ランディン、ディフーなどのアッサム州の各駅を経由して列車は進んで行った。しばらくは広大な平原が広がっていたのだが、ディフー駅あたりから次第に景色は山岳地帯へと変遷して行き、日本と非常に似た雰囲気になって来た。ディマープル駅には11時過ぎに到着した。

 ディマープル駅には、知り合いの元IGが迎えに来てくれることになっていたが、まだ彼らは到着していなかった。もう既に携帯電話は使用できなくなっていた。ローミング・サービスはグワーハーティーまでのようだ。駅のSTD(電話屋)から電話をかけ、しばらく駅で彼らを待っていた。

 ディマープル駅では数ヶ月前に爆弾テロ事件があり、その関係からか武装した警察の姿が目立った。出入り口近くに立っていると、警察がヒンディー語で話しかけて来た。こちらが日本人であることが分かると、「派出所に来て下さい」と言ってきた。列車でナガランド州に入った場合、外国人はディマープル駅でチェックを受けないといけないようだ。しかし、様子を見ていると、ナガランド人と同じような顔をしている日本人なら、人ごみに紛れてサッと駅を出てしまえば、簡単に入域できてしまいそうな雰囲気だった。

 元IGも駅に到着し、一緒に駅の派出所まで来てもらった。やはり予想通り、4人で入域許可証を申請したにも関わらず3人で来たことが問題となった。以前、同じような書類上の問題を抱えてナガランド州へ入ったオーストラリア人が現地人と問題を起こして責任者が処罰されたことがあり、一層規制が厳しくなっていたようだ。一番問題なのは、ナガランド州の入域許可が下りた4人の内、1人がいないということが、その1人が行方不明という扱いになってしまうことである。我々は駅の待合室みたいな場所で2時間以上待たされることになり、その間、元IGが財務大臣や州首相などとコンタクトを取ってくれて特別許可の取得を打診してくれた。また、デリーに残った友人に電話をして、ナガハウスへ行って、自分は現在デリーにいるということを証明するよう頼んだ。現在、ナガランド州政府は国民民主連合(NDA)寄りであり、元IGはNDAの一員、統一人民党(JD(U))の政治家であることもあり、その分、話は早く進んだと思うのだが、肝心の州首相と連絡が取れない状態だった上に、デリーのナガハウスが年末年始の休暇期間に入ってしまっていたので、手間取ったようだ。結局、今日は特別許可が下りるのを待つためにディマープルのホテルに宿泊することになってしまい、パスポートも取り上げられてしまった。特別許可が下りるまではホテルの外へ出てはいけないと釘を刺されたため、これは言い換えればホテルに軟禁されてしまったことになる。軟禁されたことは、旅行人生の中で初めての経験だった。

 宿泊したホテルは、ディマープル郊外にあるホテル・サラマティ。なかなか立派な建物で、部屋も広くて清潔だった。バスタブ・トイレ付き、タオル、石鹸、シャンプー、トイレットペーパー、テレビなど完備で、シングル900ルピー、ダブル1100ルピー。

 とりあえず腹が減っていたので、ルームサービスで食事を食べた。アッサム州では魚を特に攻めたが、ナガランド州のスペシャリティーと言えば豚肉である。豚肉のカレーを中心に注文した。そうしたら、予想を遥かに超える旨さで、日本のポーク・カレーに似たまろやかさがあった。デリーでは魚も豚もいいものは手に入らないので、今回の旅行の「食」は、デリーにないものを求める傾向が強い。

 いつ特別許可が下りるのだろうか・・・いつ軟禁が解けるのだろうか・・・。3人でじっと部屋に閉じこもって、今後の対策を何となく協議した。このまま許可が下りなかったら、史上最悪の寝正月になってしまう・・・。もしコヒマに行けないのなら、アッサム州に戻ってカーズィランガー国立公園で一角サイでも見ようか、メーガーラヤ州シロンにでも行こうか・・・。ふと窓から外の景色を眺めると、下でカップルらしき男女がいちゃついていた。その様子を3人で覗いていると、さらに虚しさが増幅された。

 あれこれ考えても仕方ないので、ベッドに寝転んで眠っていたら、午後6時頃に電話があり、特別許可が下りたと伝えられた。許可というより、訪問の目的を観光ではなく、「オフィシャル」ということにすれば、全く問題ないとのことだった。確かに州政府財務大臣との会談も予定されていたので、「オフィシャル」ということになるかもしれない。確か同じような言い訳で1、2年前にブータンを個人旅行したような気がする。

 とにかく許可が下りて、ホテルの外を自由に出歩くことも許されたので、早速祝杯を挙げるため外に出た。しかし、我々が宿泊したホテルはかなり郊外にあり、オート・リクシャーを捕まえるのも困難なくらいだった。それでも何とか見つかったため、市街地まで行くことができた。

 ホテルのフロントで情報収集したところ、ディマープルで酒が飲める場所は、「We2 Restaurant」しかないという。同レストランはディマープルの繁華街にあった――ただ、繁華街と言っても、既にほとんどの店がシャッターを閉じていた。時間が遅かったからだろうか、それとも年末年始だからだろうか。レストランの中に入って、「酒は飲めるか?」と聞いてみると、ウェイターは「こっちです」と言って「トイレ」と書かれたドアを開けた。「おいおい、トイレじゃないよ」と思いつつも付いて行くと、驚くべきことにトイレの先にバーがあり、数人の若者たちが談笑していた。多分違法でバーを経営しているのだろう。どうやらナガランド州は酒に対する規制が厳しいらしく、公共の場で酒を飲むことは基本的に禁じられているようだ。ナガランドの人々は皆、酒好きで大っぴらに酒を飲むようにイメージしていたのだが、どうやらそうでもないらしい。ビールを注文したが、大して冷えていないまずいビールを出された。思っていたほど、ナガランドは酒を楽しむことができない場所のようだ。

 「We2 Restaurant」で軽くビールを飲んだ後、その近くにあった、ディマープル一番の味という「Plaza Restaurant」へ行って食事をした。ただ、ここは基本的にインド料理と中華料理のレストランで、ナガランドの郷土料理を食べることはできなかった。マトン・カレーやフィッシュ・カレーを食べて、外に出た。

 どうしてもナガランド料理を食べたかった我々は、ホテル・サラマティの隣にあった小さな食堂へ入った。この食堂は夕食に出かける前にちょっと覗いたのだが、中から強烈な納豆の臭いがしたため、すぐに引き返してしまった経緯があった。ナガランドにも日本と同じような納豆があるのは割と有名である。僕は納豆が大好きだが、この臭いの強烈さは耐えられるようなものではなかった。しかしナガランド料理への飽くなき欲望を持った我々は、勇敢にもこの納豆臭立ち込める食堂に足を踏み入れた。幸い、先ほどよりも臭いは薄まっていた。ナガランド人の女の子3人が中心になって切り盛りしているようだった。その内の1人は、軟禁中にホテルの部屋から覗いたときにいちゃついていた女の子だった。ここではポーク・チョウとポーク・チリを食べたが、それほどおいしくなかった。

12月31日(金) 退屈都市、コヒマ

 我々が宿泊したホテル・サラマティの周辺は、スーパー・マーケットと呼ばれるショッピング街になっていた。朝9時頃からパラパラと開き始めたので、ちょっと散歩してみた。スーパー・マーケットでは輸入古着を売る店が大半を占めていた。おそらくミャンマーを通ってバンコクから密輸入されて来た品々だろう。ハングルが書いてある服も売られていたので、韓国からの輸入物もけっこうあると思われる。もちろん、探せば日本からの輸入古着もあるだろう。スーパー・マーケットにはいくつかナガランドの工芸品を売る店もあり、一応目星を付けておいた。

 元IGが、パスポートと、特別許可が下りた旨を追記した入域許可証をホテルまで持って来てくれた。タクシースタンドまで送ってくれて、そこからタクシーでコヒマへ向かうことになった。ディマープルからコヒマまで500ルピー。ナガランド州のタクシーは、黄色一色か、黄色と黒のツートンカラーになっている。都市間の移動は黄色一色のタクシーしかできないという違いがある。ディマープルまでは、はっきり言って平野部だったが、ナガランド州の州都コヒマは山岳部にある。よって、これにてナガランドに本格的に足を踏み入れることになる。

 ディマープルからコヒマまでは山道を約74km。道の所々に集落や茶屋などがあり、雰囲気は特に他のインドの州とそう大して変わらなかった。途中チャーイ休憩を挟み、約2時間ほどで標高1444mの高さにある州都コヒマに到着した。コヒマは山の尾根から尾根へと広がる都市で、シムラー、ダージリン、ガントク、シロンなど、他の山岳都市と非常に似た雰囲気を持っていた。コヒマは曲がりなりにも州都なので、僕はてっきりディマープルよりもコヒマの方が大きな都市なのかと考えていたが、商業的繁栄度から見たら、鉄道駅や空港があり、アッサム州と接続のいいディマープルの方が断然都会だった。コヒマの一番標高の高い丘の上には、無意味に巨大で豪華な警察署本部がど〜んとそびえ立っており、ナガランド州における警察の権力の強さを如実に物語っていた。それと同時に、悪名高きアッサム・ライフル隊の基地も所々に見受けられた。




警察署本部
これが街で一番立派な建物


 コヒマでは、街一番のホテルである、ホテル・ジャプフに宿泊した。閑散とした印象を受けたが、部屋はまともで、バス・トイレ付き、タオル、石鹸、シャンプー、トイレットペーパー、TV、ヒーターなど完備。

 ホテルにチェック・インした後、早速街に繰り出した。ホテルの下にタクシー・スタンドがあったので、そこでタクシーをチャーターしようと交渉してみた。しかし、コヒマは全く観光地化されていないため、タクシー・ドライバーも街の観光名所に非常に暗かった。片言ながらヒンディー語が通じたため、何とか意思疎通をしつつ、まずは何はともあれ、コヒマの一番の見所である戦没者墓地へ行ってみた。ところが、大晦日のためか扉が閉まっていた。一応玄関には「日曜と国定休日は休み」と書かれていたが、今日は金曜日で、特に国定の休日にもなっていない。門の周辺の人に聞いたり、門を乗り越えて中に入って管理者を探してみたが、誰もいなかった。とりあえず戦没者墓地は元旦の明日にもう一度来ることにして、次に向かったのは州立博物館。博物館はコヒマの北端にあった。だが、残念ながらここも閉まっていた。やはり管理人を探してみたが、どこにもいなかった。博物館の庭には、日本語が刻まれた機関銃や、戦車の上端部などが放置されていた。




博物館の外に放置されていた機関銃
「九ニ式歩兵砲
No.865
昭和十三年製
大阪工廠」


 コヒマで訪れてみたかった上記の2ヶ所がどちらも閉まっていて非常に残念な気持ちになったが、とりあえずコヒマの他の見所を適当に回ってもらった。まず連れて行ってもらったのは、コヒマ郊外にあるインディラー・ガーンディー・スタジアム。コヒマのような山がちの地域では、平地があることが非常に誇りとなるようだ。このスタジアムはアッサム・ライフル隊の駐屯地のすぐそばにあり、主にサッカー用の野外グラウンドとなっていた。ラージーヴ・ガーンディー元首相によって1987年に建造が開始されたようだ。規模はなかなかのものだったが、整備があまりなされておらず、人っ子1人いなかったため、荒涼とした印象を受けた。スタジアムからコヒマ市街へ戻る間に、州庁舎にも寄ってみた。こちらもかなりの規模の建築物だったが、別にナガランドの伝統建築をモデルにしているわけでもなく、何の色気もない建物で、特に見る価値はなかった。

 次に市街地まで戻って、コヒマで一番大きいマーケットというスーパー・マーケットへ行った。ここはなかなか面白かった。主に食料品市場で、野菜や果物などが売られていたが、一番の目玉は魚、虫、鳥獣類。ここの辺りの人々は何でも食べるようで、魚、ドジョウ、タウナギ、タニシ、カエルに加えて、蚕のような虫、鹿、インコなどが売られていた。ただ、違法に狩猟しているようで、鳥獣類の写真は撮らせてもらえなかった。








蚕のような虫
もちろん食用


 スーパー・マーケットの下には、セールス・エンポリアム(州経営の土産物屋)があったが、例によって閉まっていた。通常、インドではあまり大晦日や元旦はあまり祝われないため、他の地域を年末年始に旅行しているときはこんなことにはならないのだが、ナガランド州はキリスト教の影響を強く受けているため、クリスマスから新年まで政府機関などは長期休暇となってしまうようだ。本当にタイミングの悪い旅行になってしまった。それでも、セールス・エンポリアムの近くや、スーパー・マーケットに、ナガランド州の伝統工芸品を売る店があったのが救いだった。ナガランド州の特産品と言えば、ショール、木製の皿、槍の置物、背負い籠、アクセサリー、お面、槍と盾などだろう。僕は、首が並んだネックレスが欲しかったため、それを中心に見て回ったのだが、ある店で4連の首と牛の首が付いたものを見つけ、気に入ったため、店のおばさんと値段交渉をした。言い値は800ルピー。ベラボウに高い。ドライバーや、マーケットを案内してくれた通りすがりの女の子にも協力してもらって値下げを交渉したのだが、やたらと頑固でなかなか折れなった。どうもあまり売りたくないような印象を受けたので、ますます欲しくなった。なんとかごり押して値下げしてもらって購入した。

 次に向かったのは酒屋。ナガランドでは「ズ」と呼ばれる米から作る地酒が有名である。だが、どうもナガランド州は禁酒政策を取っているようで、街の表通りに酒屋などは見当たらなかった。ドライバーもよく知らなかったようで、途中で英語をしゃべれる彼の友人も一緒に来てもらって、コヒマに一軒しかないという地酒屋へ連れて行ってもらった(その後数軒発見したため、コヒマにはいくつも同じような酒屋があると思われる)。地酒屋は表通りから一本奥に入った細い道を抜けた先にあり、近くに行くとツーンと酒の臭いがするためにすぐに酒屋だと分かる。中は薄暗くてまるでアヘン窟のような怪しい雰囲気で、いくつか部屋があって、座席があり、数人の人々が、よくインドの便所に置いてあるマグカップで地酒を飲んでいた。1杯(約500ml)20ルピー。試しに飲ませてもらったが、ドブロクにそっくりの味だった。持ち帰りたいときは、自分でボトルなどを用意して来なければならないようだ。大晦日の祝杯用に2ボトル分購入した。




ナガランドのドブロク、「ズ」
延々と発酵し続けており、
キャップを開けたら大爆発


 一度ホテルに戻った後、ホテルの向かい側の山頂に見える教会を目指して散歩してみた。コヒマは歩けば歩くほど、貧しい都市であることが浮き彫りになってくるようだった。山の斜面にビッシリと並ぶ民家の風景は、シムラーなどでも見ることができるが、この街からは他の山岳都市にある活気が見受けられなかった。それでいて、伝統的建築様式を残した建物や、伝統衣装を着た人が少ないため、歩いていて楽しくない。非常に中途半端な都市だと感じた。人々は警戒心が強いものの、話しかけると非常に親切で、道を尋ねると目的地までわざわざ道案内してくれる人が多かった。だが、この親切も、小暇があるからこそのものなのではないかと思った。

 我々が目指していたのは、カテドラルと呼ばれるノース・イーストで一番大きな教会であり、コヒマの人々の一応の誇りのようだ。確かに立派な建築で、中も広かった。中では大晦日の礼拝が行われていた。カテドラルからタクシーを拾ってホテルまで戻った。もう5時頃になると辺りは真っ暗になってしまった。コヒマの大晦日は、散発的に爆竹などが鳴っていたものの、非常に静かで平穏だった。外はほとんど車通りも人通りもなかった。



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