スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2004年10月

装飾下

|| 目次 ||
演評■1日(金)シャギー・コンサート
映評■2日(土)Dance Like A Man
映評■5日(火)Let's Enjoy
言語■6日(水)インド映画の言語
映評■8日(金)Bride & Prejudice
映評■10日(日)Shukriya
映評■14日(木)Balle Balle! Amritsar to L.A.
分析■17日(日)グルガーオンvsノイダ
分析■19日(火)ミス・フリーダム
分析■24日(日)ヴィーラッパンの最期
言語■25日(月)インドの若者言葉
映評■28日(木)Vaastu Shastra
映評■29日(金)Flavors
分析■30日(土)「インド=ドラクエ」論
映評■30日(土)Morning Raga


10月1日(金) シャギー・コンサート

 インドのディスコで必ず流れている曲というのがいくつかあり、ディスコによく行ったりしていると、誰の曲か知らなくても自然と「あ、この曲知ってるな」というのが増えてくる。レゲエの王様と言われるシャギーの曲も、インドに来てからそんな感じで親しんできた。そのシャギーのコンサートが今日、デリーで催された。

 2月7日(土)にデリーのネルー・スタジアムで行われたブライアン・アダムスのコンサートでは散々な目に遭ったので、もうこういうコンサートには二度と行くまいと誓っていた。だが、デリーでコンサートをしてくれる海外アーティストは非常に限られており、シャギーはブライアン・アダムスに続き、デリー公演を行う今年2人目の大物アーティストということになる。つまり、デリーでは海外アーティストのコンサートは半年に1回のペースでしか行われていないと言っていいだろう。どれだけ辛い目に遭っても、これだけ時間が空くと、そのアーティストのファンであろうがなかろうが、「また行ってみようかな」という気分になって来る。逆に考えれば、半年に1回のペースだからこそ、デリーで公演してくれたアーティストを片っ端から見る余裕ができ、それぞれのアーティストを好きになるチャンスに恵まれるということだ。入場料も日本とは比べ物にならないくらい安い。それに、インドで行われるコンサートがどのような状態なのか、観察するのも実は楽しい。

 シャギーのコンサートの題名は「Lucky Day Live」。2002年に発売されたアルバム「Lucky Day」の名前を冠したライヴだ。シャギーは今回で3度目のインド訪問とのこと。前回は2年前にムンバイーでコンサートを行ったという。コンサートの入場料は600ルピーまたは400ルピー。ブライアン・アダムスのコンサートで実感したが、インドで行われるコンサートは、なるべく高いチケットを買うに限る。なぜなら、安い席は果てしなく後ろの方になってしまうからだ。チケットは大手音楽店チェーンのプラネットMで売られていたので、迷わず600ルピーのチケットを購入した。

 コンサートの場所は、ディッリー・ハート・グラウンドと書いてあった。ディッリー・ハートと言えば、南デリーのINAマーケット近くにある伝統工芸品マーケットで、僕の家からすぐ近くだが・・・よく見てみると、そこではなかった。ピータムプラーと書かれている。地図で調べてみると、ピータムプラーは北デリーの辺境地帯だった。あんなところにもディッリー・ハートなんてあったのか、と思ったが、コンサート会場はディッリー・ハート建設予定地の空き地だった。もしかしたらディッリー・ハート移転計画があるのかもしれない。コンサートはノキア、ペプシ、ロマノフ、MTVなどが協賛していたが、なんとデリー観光局も特別協賛していた。このようなコンサートにデリー観光局が関わるのは初のことらしい。

 午後5時半から開場とのことだったが、普段あまり行かない地域だったので早めに行くことにした。リングロードを外回りに北上し、ナーラーヤナー、ラジャウリー・ガーデン、パンジャービー・バーグなどを越えて行った。コンサート会場は、デリーメトロのネータージー・スバーシュ・プレイス駅のすぐ近く、マックス・ホスピタルの前にあり、野外ステージが組まれていたのですぐに分かった。駐車場はほとんど泥沼状態で困った。この時点で開場まで2時間ほどあったので、散歩がてら近くにあったピザハットで時間を潰した。

 5時くらいからゲートの前に並んでいた。ブライアン・アダムスのコンサートのときはとてつもない長蛇の列ができていたのだが、今回はそれほど混雑していなかった。しかし警備は相変わらずで、カーキー色の制服を着た警察が物々しい警備を行っていた。ゲートが開いたのは6時頃だった。だが、ここで大きな問題が起きた。今回のコンサートの警備状態は最高レベルで、カメラは愚か、ハンドバッグなど一切持ち込みを禁止されていた。確かにチケット裏面に書かれていた注意事項には、持ち込み禁止品目としてハンドバッグも明記されていた。だが、例えハンドバッグ持ち込み禁止でも、そこまで厳密に持ち込みを禁止するイベントは今まで経験したことがなかった。さすがにカメラは持って来なかったが、金や運転免許証を入れた小さなバッグを持って来ていたので、入場を拒否されてしまった。ゲートにいるのは下っ端の人間なので、ここで何を言っても彼らは「駄目なものは駄目だ」と聞く耳を持たない。仕方がないので、バッグの中身を全て出して、バッグだけをバイクのシートの下に入れて入場した。そしたら、中にいる人の多くが余裕でバッグを持ち込んでいた。どうやら別のゲートではそれほどセキュリティーが厳しくなかったようだ。いったいどうなってるんだ・・・。

 コンサートは8時から始まった。まずはインド人ダンサーによる前座のダンス。現在ヒット中のヒンディー語映画「Dhoom」の「Dhoom Machale」から始まり、洋楽のダンスナンバーなどを数曲踊っていた。最初は盛り上がっていたが、けっこうだらだらとしつこかったので、歓声はだんだん「シャギーを出せ〜!」という怒号に変わってきた。シャギーは8時半頃登場。第一声が「ムンバイー!」だったのはジョークか、それとも本気の間違いか・・・。

 シャギーが披露した曲は「Mr Lova Lova」「Boombastic」「Hey Sexy Lady」「Angel」「Oh Carolina」「Strenght of Woman」「In the Summertime」「Hotshot」「Luv Me」「Get My Party On」「It Wasn't Me」などなど。また、来年3月発売予定の新盤収録予定の新曲を、世界に先駆けて歌ってくれた。シャギーはあまりダンスが得意ではないようで、動きがワンパターンだったが、独特のねっとりとした声は魅力的だった。

 客の入りはブライアン・アダムスのときと比べて半分くらい。あのときは身動きがとれないくらいビッシリと詰まっていたが、今回はだいぶ空間に余裕があった。10月3日付けのエコノミック・タイムス紙によると、主催者は1万5千人の来場者数を予想していたようだが、実際にはその半分くらいだったという。観客数が少なかったのは、シャギーの知名度が低いというよりも、辺鄙な場所を会場にしたからだと思われる。コンサートで演奏された曲はディスコでよく流れているナンバーが多かったため、会場は巨大なディスコのようになっていた。観客の全体的な盛り上がりはブライアン・アダムスのときの方がよかったが、各人の熱狂度はシャギーの方がよかったように思えた。シャギーが「これが最後の曲だぜ!」と言った瞬間、多くのインド人が帰り始めたのは残念だった。インド人は何かが終わるや否や、なぜ一目散に帰りたがるのだろうか・・・。未だにその答えを得られないでいる。

 厳重すぎる警備に不快な思いをしたが、終わってみればなかなか楽しいコンサートだった。コンサート会場の裏を時々通り過ぎるガラガラのメトロが、シュールな雰囲気を醸し出していた。

10月2日(土) Dance Like A Man

 先週も大量に新作映画が公開されたが、今週もヒングリッシュ映画2本、ヒンディー語映画4本が封切られ、インド映画ファンとしては目が回るような忙しさである。先週公開の映画も全て見たわけではない。全部見尽くすほど暇人ではないので、慎重に選択して鑑賞していかなければならない。今まで培った選択眼を発揮するときがいよいよ来たという感じだ。その中から、今日はナショナル・アワードを受賞したヒングリッシュ映画「Dance Like A Man」をPVRアヌパムで鑑賞した。

 「Dance Like A Man」は、マヘーシュ・ダッターニー監督の舞台劇を映画化した作品で、監督はパメラ・ルックス。キャストは、ショーバナー、アーリフ・ザカリヤー、アヌーシュカー・シャンカル、モーハン・アガーシェー、サミール・ソーニーなど。




アヌーシュカー・シャンカル(左)と
サミール・ソーニー(右)


Dance Like A Man
 ジャイラージ(アーリフ・ザカリヤー)とラトナー(ショーバナー)は共にバラタナーティヤムの舞踊家で夫婦だったが、既に過去の人となっていた。娘のラター(アヌーシュカー・シャンカル)もバラタナーティヤムの舞踊家を目指しており、デビューの舞台が近付いていた。ラターは婚約者のヴィシャール(サミール・ソーニー)を家に連れて来るが、そのときちょうどラターの舞台でムリダンガムを演奏する予定だった音楽家が腕を骨折してしまい、両親はそのことで頭がいっぱいだった。何はともあれ、両親はヴィシャールを娘の結婚相手として認める。ヴィシャールはラターの家族と交流を始めるが、その内彼女の家族が抱えている問題に気付き始める。

 ジャイラージの父親は有名な政治家のアムリトラール・パリク(モーハン・アガーシェー)だったが、彼にダンサーになることを許していなかった。アムリトラールは、バラタナーティヤムを売春婦の踊りだと認識しており、男がその踊りを踊ることなどもってのほかだと考えていた。ジャイラージは父親に反抗しつつ踊り続けていたが、遂に踊ることを辞める決意をする。ラトナーは依然として踊り続けていたが、息子のシャンカルの死をきっかけに、やはり踊ることを辞めてしまう。それ故、2人は娘のラターに並々ならぬ期待をかけていた。

 ラターの公演は大成功を収め、批評家の反応も上々だったが、海外公演の代表に選ばれるほどではなかった。また、ラトナーは娘の成功に喜ぶ反面、娘への嫉妬に苦悩する。また、ヴィシャールは結婚後もラターに踊りを続けさせることを約束するものの、少し躊躇している部分もあった。

 三度の飯よりも踊りが好きな3人、ジャイラージ、ラトナー、ラターの一家に、ごく普通の青年であるヴィシャールを飛び込ませることにより、一家の葛藤を浮き彫りにした映画。現在のシーンと過去のシーン(赤みを帯びた画像になっている)を交錯させて、3人の踊りにかける情熱、特にジャイラージとラトナー、ラトナーとラターの間の舞踊家としての競争心、嫉妬心などを描写していた。特異なストーリーもさることながら、ショーバナーらが踊るバラタナーティヤムのダンスも素晴らしく、インド舞踊映画としても楽しめる。

 物語の軸となるのは、舞踊への情熱と愛する人への愛情の間の板ばさみである。まず、ジャイラージは父親アムリトラールから踊ることを抑圧された過去があり、それがトラウマとなっていると同時に、ダンサーとして、妻ラトナーの才能に嫉妬を覚えていた。ラトナーは、踊りを続けるためにアムリトラールと密約を交わし、夫が踊りを踊らないように仕向ける。また、ラトナーは娘のラターに、愛情と嫉妬の入り混じった感情を持っていた。これらの感情の交錯がうまく描かれれば映画として最高なのだが、シーンとシーンのつなぎ方に多少問題があり、ちょっと分かりづらい構成になってしまっていたと思った。また、なぜかカメラが揺れているのが気になった。映画自体の問題か、映画館の設備の問題かは分からなかったが、始終画面が揺れ続けていたので見にくかった。

 ジャイラージを演じたアーリフ・ザカリヤー、ラトナーを演じたショーバナー、ラターを演じたアヌーシュカー・シャンカルの3人がバラタナーティヤムを踊るシーンがいくつかあった。中でも飛び抜けて素晴らしかったのはショーバナーのダンス。ショーバナーは有名なバラタナーティヤム舞踊家の家系に生まれ、インド随一のダンサーとして世界で名声を獲得する一方、子供の頃から映画界にも出演し、数々の名演をこなしている。自身で振り付けしたというバラタナーティヤムの踊りは、素人目で見ても他の出演者とは全くレベルが違う動き。彼女のダイナミックでいて繊細な動きを見ると、インド舞踊の奥の深さを思い知らされる。映画中でショーバナーのバラタナーティヤムのダンスを堪能できるのは、大きな特長となっている。

 ラターを演じたアヌーシュカー・シャンカルは、有名なスィタール奏者、ラヴィ・シャンカルの娘であり、これまた有名なジャズ・ボーカリスト、ノラ・ジョーンズの異母姉妹である。ラヴィ・シャンカルの一番弟子のスィタール奏者として現在いくつかアルバムを出しているが、スィタールを始める前はバラタナーティヤムをやっていたそうで、映画デビュー作のこの作品でも踊りを披露している。しかしショーバナーの踊りと比べてしまうと、見劣りがするのは仕方ない。アヌーシュカーは細身であるため、見た目で損をしている部分もある。舞踊家は少しふっくらしたくらいが迫力が出ていい。だが、付け焼刃で習ったような動きではなかったのは確かだ。

 映画はバンガロールが舞台であり、登場人物のほとんどは英語のみをしゃべる。現地語を話すのは使用人のみで、それには英語字幕が出る。つまり、典型的なヒングリッシュ映画の言語構成である。だが、最近気になるのは、インド人が英語をしゃべるヒングリッシュ映画の多くは、英語の表現が文語的かつ棒読みっぽくなってしまうのではないかということだ。つまり、あまり現実に即していないセリフになってしまっているように感じる。英語とヒンディー語を適度に混ぜて話すのが一番現実に近いのだが、ヒングリッシュ映画には、無理に登場人物に英語のみを話させているものが多い。この前見た「Hyderabad Blues2」でも同じ印象を受けた。ヒングリッシュ映画の限界を少し感じた。

 ナショナル・アワードを受賞したとは言え、多少映画の構成に疑問が残ったが、インド舞踊ファンには必見の映画であることには違いない。

10月5日(火) Let's Enjoy

 今日は、先週末から公開のヒングリッシュ映画「Let's Enjoy」をPVRアヌパムで見た。監督はスィッダールト・アーナンド・クマールとアンクル・ティワーリー、音楽はMIDIval PunditZ。キャストは若手新人俳優のオンパレードで、「Girlfriend」(2004年)に出演していたアーシーシュ・チャウドリー、双子のローヒト・ヴェート・プラカーシュとラーフル・ヴェード・プラカーシュ、ヤーミニー・ナームジョーシー、シヴ・パンディト、ヴィノード・シェーラーワト、カビール・スィン、サヒール・グプター、ジャスプリート・スィン、ドルヴ・スィン、ドルヴ・ジャガースィヤー、アールズー・ゴーヴィトリーカル、ローシュニー・チョープラー、ピヤーリー・ローイ、ラージーヴ・グプターなどなど。




左からシヴ・プラサード、ドルヴ・スィン、
ヤーミニー・ナームジョーシー、アーシーシュ・チャウドリー、
アールズー・ゴーヴィトリーカル、ヴィノード・シェーラーワト、
ローシュニー・チョープラー


Let's Enjoy
 南デリーのファームハウスでダンスパーティーが開かれることになった。パーティーの主催者はアメリカ帰りのナイスガイ、アルマーン(アーシーシュ・チャウドリー)。アルマーンの親友で双子のラマン(ローヒト・ヴェード・プラカーシュ)とラタン(ラーフル・ヴェード・プラカーシュ)がDJを務めることになり、アルマーンの友人たちが招待された。

 シュレーヤー(アールズー・ゴーヴィトリーカル)はアルマーンの元彼女だった。しかし4年前にアルマーンがアメリカへ渡ってから一度も連絡を取り合っていなかった。シュレーヤーは友人のソーナール(ローシュニー・チョープラー)とピヤー(ピヤーリー・ローイ)と共にパーティーに出席する。シュレーヤーのアルマーンに対する気持ちは複雑だった。

 アルマーンの大学時代の友人、ラグ(シヴ・パンディト)はリーマー(ヤーミニー・ナームジョーシー)と5年間も付き合っていたが、まだ2人は肉体関係に至っていなかった。リーマーの誕生日がアルマーンのダンスパーティーと重なったため、ラグはリーマーをパーティーに誘う。

 カラン(ヴィノード・シェーラーワト)はミュージシャンになるためにデリーにやって来た若者だった。未だに芽が出ずくずぶっていたが、アルマーンのパーティーに誘われてやって来る。

 ラージンダル(ドルヴ・スィン)はモデルになるのを夢見て毎日ジムで筋肉を鍛えている貧しい若者だった。アルマーンのファームハウスでパーティーがあるのを聞き、モデルになるチャンスと会場に忍び込む。

 その他、ハッピー(カビール・スィン)、ソーディー(サヒール・グプター)、バニー(ジャスプリート・スィン)の3人組や、ファッション・デザイナーでオカマのBJ(ドルヴ・ジャガースィヤー)などもパーティーに出席する。

 アルマーンとシュレーヤーは久し振りに再会するが、うまくお互いの気持ちを言い表せないでいた。ラグとリーマーはパーティーそっちのけでいちゃつける場所を求めて放浪していた。ラージンダルは塀を乗り越えて会場に侵入するが、ちょうどそこで立ち小便をしていたBJと出会う。BJはラージンダルを見初めてモデルにすると約束するが、ラージンダルはBJが怪しい目で見るので断る。1人で落ち込んでいるラージンダルを見て、ピヤーは何となく惹かれ、声を掛ける。ハッピー、ソーディー、バニーはパーティー会場の地図をなくして郊外を迷走し、散々な目に遭いつつもやっと会場に辿り着く。カランはシュレーヤーと出会い、停電中に彼女のために歌を歌う。シュレーヤーはカランに惹かれるが、最後にはアルマーンとよりを戻す。ラグとリーマーは誰かのベンツの中でやっと落ち着いていちゃつくことができた。

 こうして、楽しいダンスパーティーの夜が更けて行った。

 「Dil Chahta Hai」(2001年)、「モンスーン・ウェディング」(2001年)や、ジョージ・ルーカス監督の処女作「アメリカン・グラフティー」(1973年)を思わせる青春群像映画。デリー在住の若者たちがそれぞれの思惑や目的を持って、南デリー郊外のファームハウスで開催されたダンスパーティーを訪れ、それぞれの青春をエンジョイするというストーリーで、あらすじは大したことないのだが、見終わった後の爽快感はなかなかのもの。これだけ登場人物が多い映画をまとめるのはけっこう難しいのだが、うまくそれぞれの特徴を活かしており、誰が誰だか分からなくなることはない。

 出てくる登場人物全てが主役と言ってもいいのだが、一応パーティーの主催者アルマーンが軸となって物語が進んでいく。男女の恋愛という観点から見ると、アルマーンとシュレーヤー、シュレーヤーとカラン、ピヤーとラージンダル、ラグとリーマーの4組が主体である。女性陣の中で一番目立っていたソーナールは、アルマーンに気があるようにも見えていたが、結局大した活躍はしていなかった。コメディーという観点から見ると、ハッピー、ソーディー、バニーの3人組の行動が面白かった。道に迷っている途中、道案内のために怪しい男バーラト・ブーシャン(ラージーヴ・グプター)を車に乗せてしまう。バーラト・ブーシャンは3人を売春宿に誘う。ところがそれは罠で、バーラト・ブーシャンは999ルピーをかっぱらって逃げてしまう。その他、双子のDJ、ラマンとラタンが冒頭で自動車のパンクにより砂漠の真ん中で立ち往生してしまうシーンや、ラグとリーマーのやりとりなどが面白かった。いい味を出していたのはラージンダル。パーティーに出席すればモデルになれると思って会場に侵入するものの、相手にしてくれたのはオカマのBJだった。ラージンダルは結局モデルになることができなかったが、最後にピヤーの電話番号をゲットする。ギターを持ってパーティー会場に来たカランもよかった。停電中、カランはシュレーヤーに弾き語りをする。

 パーティーの途中に停電になるというシーンは、なかなか現実に即していてよかった。そういえば9月8日にコールカーターで行われたFIFAワールド杯インド対日本の試合でも停電があった。インドにおいて、停電は生活の中で大きな問題だが、停電がないとインドという気がしないから不思議だ。そういう意味で、パーティー中の停電というのはいいところを突いていた。

 よくインド映画のダンスシーンを見て、「こんなのインドにはどこにもない」と言う人がいるが、実はインド映画のミュージカル・シーンのようなダンスパーティーは、行くところに行けば存在する。この映画で描かれている南デリーのファームハウスにおけるダンスパーティーも、決してフィクションではない。季節になれば、連日連夜、金持ちの集まるパーティーが行われている。だから、デリーのパーティー文化を垣間見るためにも、この「Let's Enjoy」はいいのではなかろうか。

 先日見た「Dance Like A Man」で、ヒングリッシュ映画で使われる英語について批判を述べたが、この映画の言語は現実に忠実に即した、生の中上流層の言語だった。すなわち、英語とヒンディー語のチャンポンである。これこそ、現代のハイソな若者たちが使っている本当の英語であり、本当のヒンディー語である。言い換えれば、ヒンディー語と英語の融合形、ヒングリッシュ語である。現代のこの2つの言語の華麗なる融合に、僕は、トルコ語、ペルシア語、ポルトガル語、英語などの外国語や、オーストロ・アジア系言語、ドラヴィダ系言語などの土着語、サンスクリト語、ブラジ語、アワディー語、パンジャービー語などのインド諸言語を次々と取り込んで行った、ヒンディー語のダイナミズムを見る気がする。また、個人的にはこういう言語の映画が一番聴き取りやすいし理解しやすい。教科書に載っているようなコテコテのヒンディー語を登場人物が話すヒンディー語映画もそれはそれで分かりやすいのだが、現実の言語状況に即していないことが多いので、多少気になることがある(例えば裁判所のシーンでヒンディー語を話していたりすることなど)。

 音楽はMIDIval PunditZというニューデリー出身のユニットが担当しており(その筋ではある程度有名かも)、全曲ほぼダンスナンバー。「Sabse Peeche Hum Khade」と「Subah」の2曲だけはアコースティク・ギターの音が心地よい弾き語り風の曲。どちらもなかなかいい歌で、機会があったらマスターしてみたい曲である。

 ほとんど新人で、名前を覚えるのが大変だが、この中からまた新たなスターが出てくるのだろうか。「Let's Enjoy」は、映画なのに見終わった後は精一杯踊りきったような気分になる、ユニークな映画である。

10月6日(水) インド映画の言語

 昨日の日記などでヒンディー語映画の言語について少し触れたので、言語からインド映画について概観してみようと思う。

 インドは多言語国家として有名である。憲法上では、第一公用語としてヒンディー語、第二公用語として英語が設定されている他、現在、「憲法第8附則規定の諸言語」として17の言語が認定されている。これら合計19言語の内、スィンディー語とコーンクニー語を除いた17言語の文字がインドの紙幣に記載されている。また、最近「古典語」のカテゴリーが新しくでき、タミル語が「古典語」に認定されたが、この動きが何を目的としたものかいまいちよく分からない。これらはあくまで憲法上・法律上の話であり、実際に細かく言語・方言の分類を見ていくと、数百の言語があるとされている。これらの多言語状態は、映画にも大きな影響を及ぼしている。

 インドで映画が初めて作られたのは1912年だった。しかしこのときは無声映画であり、弁士がストーリーの説明をしていたため、弁士を変えるだけで各言語に簡単に対応することができた。ところが、1931年にトーキー映画の制作がインドで始まって以来、インド映画は必然的に各地域の言語で作られるようになり、言語別映画という新たな状態が生じた。1956年には、インドは文字を持つ言語を基準に州が再編されることになり、言語別映画はすなわち州別の映画文化圏というインド独自の状況を作り出した。その中でも特に映画制作本数が多いのが、ヒンディー語(北インド一帯)、テルグ語(アーンドラ・プラデーシュ州)、タミル語(タミル・ナードゥ州)だった。また、サティヤジト・ラーイ(サタジット・レイ)監督などの活躍により、ベンガリー語(西ベンガル州)の映画も世界的に有名となった。だが、インド全土の影響力は何と言ってもヒンディー語映画が飛び抜けている。確かに制作本数で見れば、ヒンディー語映画はテルグ語映画やタミル語映画に負けることもあった。例えば1995年のデータでは、全言語の制作本数795本の内、ヒンディー語映画は157本、テルグ語映画は168本、タミル語映画は165本であり、ヒンディー語映画は制作本数で南インドの各映画界に負けている。しかし、テルグ語映画やタミル語映画は、海外市場を除けば基本的にそれらの州でしか上映されないのに対し、ヒンディー語映画はインド全土で公開される。ヒンディー語に対する反感の強いタミル・ナードゥ州でも、ヒットしているヒンディー語映画はきちんと上映される。しかも、2003年のデータでは、全言語の制作本数877本の内、ヒンディー語映画222本、テルグ語映画155本、タミル語映画151本となり、ヒンディー語映画の影響力が近年急速に増していることが明らかになっている。

 ところで、ヒンディー語学習とヒンディー語映画は非常に相性がいい。ヒンディー語を学ぶためにヒンディー語映画を見る人もいるし、ヒンディー語映画をよく理解したいためにヒンディー語を勉強する人もいる。学習環境面から考えてみれば、ヒンディー語は他の外国語と比べて非常に恵まれた言語である。ヒンディー語映画という、これ以上ない教材が存在しているのだ。初歩文法と基本単語を一通り頭に入れておけば、あとはヒンディー語映画を狂ったように見ているだけで自然とヒンディー語の理解力が深まっていく。映画中分からない単語が出てきたらマメにメモをしておくように少し努力すると、語彙力も付いてくる。思い起こしてみれば僕自身も、ヒンディー語に対する情熱とヒンディー語映画に対する情熱は常に表裏一体だった。ヒンディー語のためにヒンディー語映画を見て、ヒンディー語映画のためにヒンディー語を勉強していたようなものだ。

 正直なところ、最初の内は映画の中に出てくるヒンディー語を完全に理解することはできなかった。それゆえ、筋を追えなくなる映画もいくつかあった。今でも覚えているのは、まだデリーに住み始めて間もない頃に見た「Yaadein」(2001年)がほとんど理解できなくて悔しい思いをしたことだ。また、ヒンディー語に自信が付き始めた2002年に見た「Agni Varsha」もよく分からなかった。だが、JNUで本格的にヒンディー文学を学び始めてからは、ヒンディー語映画の理解力は飛躍的にアップした。今では日本語の映画を見るのと同じ感覚でヒンディー語映画を見ることができるようになったと自負していた。だが、つい最近DVDで見た「Mughal-e-Azam」(1960年)や「Umrao Jaan」(1981年)は、自負していたほど理解することができなかった。また、「Chameli」(2004年)も理解するのに苦労した映画だった。しかも、「Lagaan」(2001年)をDVDで改めて見直してみると、実はこの映画は理解するのに多少困難が伴う映画であることに気が付いた。上記の映画は全て同じヒンディー語映画である。それなのに、なぜ理解できる映画と理解しがたい映画があるのだろうか?

 実は、教科書や講座などでヒンディー語を学んだだけでは、全てのヒンディー語映画を完全に理解することは困難である。もちろん、何もヒンディー語を知らないよりは格段に理解力がアップするのは当然だが、ある程度まで行くと、そこで高い壁にぶち当たる。それらと上で挙げた映画は関係がある。その主な理由は、ヒンディー語の借用語、方言、使い分けの多様さと、口語と文語の格差である。

 ヒンディー語映画の言語には大きく分けて5種類ある――@理想主義的ヒンディー語、A現実主義的ヒンディー語、B演劇的ヒンディー語、C創作的ヒンディー語、Dウルドゥー語。以下、それぞれ説明する。

 @理想主義的ヒンディー語はいわゆる標準ヒンディー語であり、これらのタイプの映画では、登場人物は教科書に載っている通りの文法、語彙、言い回しでセリフをしゃべってくれる。例えば「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)などに代表される、ファミリー向け典型的インド映画は、このタイプの言語であることが非常に多い。本や授業で習った通りのヒンディー語が出てくるので分かりやすく、またヒンディー語学習に最適の映画である。

 A現実主義的ヒンディー語は、現実社会の言語状況をそのまま反映しており、普通にヒンディー語を学習しただけでは理解するのが困難である。多くの場合、マフィアや下層階級の人々が話す、ブロークンなヒンディー語だ。最近このタイプのヒンディー語映画が増えており、例えば上で挙げた、ムンバイーに住む下級売春婦が主人公の「Chameli」などはその例である。「Munna Bhai M.B.B.S.」(2003年)もその一種で、登場人物はコテコテのムンバイヤー・ヒンディー(ムンバイーで話されているヒンディー語)を話す。

 B演劇的ヒンディー語は、言い換えればサンスクリト語の語彙を多く使用したヒンディー語である。俗に「シュッド・ヒンディー(純ヒンディー語)」と呼ばれているが、特に純なわけでもなく、かえって不純物が混じったヒンディー語のように聞こえるため、この呼称は個人的にあまり好んで使っていない。ヒンドゥー教の神様が主人公のTVドラマなどでよく使われるヒンディー語で、上記の、神話時代を舞台にした「Agni Varsha」はまさにこのタイプの言語が使われていた。これも、普通のヒンディー語を勉強しただけでは出てこない単語が多く出てくるため、普段から文語に親しんでいないとちんぷんかんぷんだろう。インド人が演説するときなどに話すヒンディー語も、このタイプであることが多い。

 C創作的ヒンディー語は、特定の時代設定・場所設定などを効果的に醸し出すために、意図的に創り出された言語である。この好例が「Lagaan」で使われているヒンディー語だ。村人たちが話すヒンディー語は、標準語でもなければどこかの方言でもない。マトゥラー地方の方言、ブラジ語をベースとして創り出された、「架空の田舎弁」である。日本の文芸作品でも、登場人物に「おらは〜だべ」みたいに話させて、地方色のない田舎臭さを出させることがあるが、ちょうどあれと一緒である。このような理由で、ヒンディー語の方言の知識がないと、理解するのに多少困難が伴う。

 Dウルドゥー語は、アラビア語・ペルシア語の語彙が多く使われたヒンディー語と理解してもいいだろう。だが、ここではヒンディー語とウルドゥー語の議論には深く立ち入らず、ただ「ウルドゥー語」とすることにする。ムガル朝の宮廷が舞台の「Mughal-e-Azam」や、ムスリムの娼婦が主人公の「Umrao Jaan」では、ヒンディー語というよりウルドゥー語が使われている。よって、ヒンディー語の知識だけでは太刀打ちできない語彙が多い。特に、ガザル詩などを詠まれると、ウルドゥー語の深い知識なしには「ヴァ!ヴァ!」と感嘆の声を上げることは不可能である。ちなみに、@理想的ヒンディー語の映画でも、むしろウルドゥー語の語彙が多く使われており、「ヒンディー語映画に出てくる言語はウルドゥー語だ」と主張する人も多い。

 基本的にヒンディー語映画はこれら5つの内のどれかの言語タイプが使われるが、映画によっては登場人物の特徴に合わせて話す言語のタイプを変えることがある。例えば「Dev」(2004年)という映画では、主人公たちは@理想主義的ヒンディー語、またはDウルドゥー語に近い@理想主義的ヒンディー語を、ムスリムの政治家はDウルドゥー語を、ヒンドゥー教徒の政治家はB演劇的ヒンディー語を使っていた。これらの現実主義的使い分けをまとめて、A現実主義的ヒンディー語に分類してしまうことも可能かもしれない。また、映画全体が@理想主義的ヒンディー語でも、挿入歌の歌詞がDウルドゥー語的であることは日常茶飯事である。実は、映画音楽の歌詞にはウルドゥー語的語彙が多用される傾向にあり、それを理解するにはやはりウルドゥー語の知識が必要となることが多い。

 ところで、ヒンディー語映画には英語もけっこう出てくるが、しかし映画の理解のために英語の知識は必ずしも必要ない。なぜなら、特に@理想主義的ヒンディー語タイプの映画の中の英語のセリフの後には、必ずヒンディー語が来るからだ。例えば、「What are you doing?」と言った後には必ず「kya kar rahe ho tum?」と来るのだ。ヒンディー語映画の多くは、英語が分からない人々を考慮に入れて作られている。インド人は英語がうまいと思っている外国人がけっこう多いが、インド人10億人の中で、英語が分かる人は、まだまだ1割にも満たないと言われている。だから、ヒンディー語映画を英語だらけにすることはできないのだ。

 これまではヒンディー語映画に限って論じてきたが、最近流行のヒングリッシュ映画を考慮に入れると話はもう少し複雑になる。ヒングリッシュ映画とはつまり、インド製英語映画のことで、登場人物が英語を話すのだが、話はそう単純ではない。全く英語しかしゃべらないヒングリッシュ映画もあれば、ヒンディー語とミックスして英語を話すヒングリッシュ映画もある。そのミックスの仕方も、ごちゃ混ぜの場合もあるし、一瞬だけ現地語が入ることもある。全く英語しかしゃべらないヒングリッシュ映画ですぐに思い付くのは、この前見た「Dance Like A Man」。その他、NRI(在外インド人)によって撮影されたヒングリッシュ映画もこの傾向であることが多い。この種のヒングリッシュ映画は、英語さえ分かれば問題なく理解できるだろう。ヒンディー語と英語のチャンポンで進んでいく映画は、例えば「Let's Party」が記憶に新しい。このタイプの映画は、ヒンディー語部分に字幕が出ることは少なく、完全にヒンディー語と英語のバイリンガル向け映画となっている。このチャンポン映画よりももう少し英語の使用率が高いヒングリッシュ映画には、現地語部分に字幕が付くことが多く、例えば「Mr.&Mrs. Iyer」(2002年)や「King of Bollywood」(2004年)などが代表格だ。これらも英語さえ分かれば理解可能だろう。つまり、ヒングリッシュ映画と言っても、英語さえ分かれば理解できる映画と、英語とヒンディー語の両方が分からないと理解できない映画の2種類があるのだ。ちなみに、現実の言語状況に最も即した映画は、英語とヒンディー語の両方の知識が要求されるバイリンガル映画であることを指摘しておく。

 最近はヒンディー語映画とヒングリッシュ映画の線引きが難しい映画も出てきたが、基本となるセリフが英語かヒンディー語かでまだ判別可能である。検閲の際も英語映画かヒンディー語映画かが記入されるので(インドでは映画上映前に検閲証明書が映し出されるが、そこに映画の言語も記されている)、その判別は大きな問題とはならないだろう。

 総括すると、ヒングリッシュ映画を含むヒンディー語映画の世界を100%楽しむためには、ヒンディー語の知識の他、英語、サンスクリト語(少なくとも文語的ヒンディー語)、ヒンディー語の方言や各種バリエーション、ウルドゥー語などの知識が必要となるということである。もちろん、これは言語的側面から述べただけであり、この他にもインド文化に対する理解や、邦画洋画を見るときとは違う心構えが必要となるが、言語が映画という芸術形態の大きなウエイトを占めている以上、言語を中心に論じざるをえないだろう。ヒンディー語映画は、独特の世界にさえ慣れることができれば、言語が分からなくてもあらすじが理解できて楽しめる映画であり、言語がある程度分かればどんどん楽しみが増えていくが、もしそれ以上深く追求しようとすると、それはヒンディー語が今まで歩んできた歴史に深く深くはまっていくことになる、底なし沼のような映画である。

10月8日(金) Bride & Prejudice

 少なくともここ1ヶ月間は、アイシュワリヤー・ラーイが初めて英語の映画に挑戦する「Bride & Prejudice」の話題で持ち切りだった。この映画は、有名な英国女流作家ジェーン・オースティンの古典的恋愛小説「Pride & Prejudice」(邦題は「高慢と偏見」または「自負と偏見」)をベースにしたヒングリッシュ映画で、監督は「ベッカムに恋して」(2002年)で一躍有名となった英国在住のインド人女性監督グリンダル・チャッダー。この顔ぶれを見て期待するなという方が無理である。その「Bride & Prejudice」が本日からインドで一斉に封切られた。ちなみに、インド人観客を配慮して、この映画は英語バージョンとヒンディー語バージョンの両方が公開されている。英語バージョンの題名は「Bride & Prejudice」、ヒンディー語バージョンの題名は「Balle Balle! Amritsar to L.A.」である。内容は全く同じだと思われるので注意が必要だ。今日は英語バージョンの「Bride & Prejudice」をPVRアヌパムで鑑賞した。英語バージョンを選んだのは、今回はやはりアイシュワリヤー・ラーイが英語の映画に出演するという出来事が重要なのであり、ヒンディー語バージョンを見るのは多少邪道なように思えたからだ。

 原作は「Pride & Prejudice」だが、映画の題名はそれをもじった「Bride & Prejudice」となっている。原作も映画も若い女性の結婚をテーマにしており、そういう意味で「pride(高慢)」を「bride(花嫁)」に変更したのだと思うが、この「B」は同時にボリウッドの「B」も意味しているのではないかと推測している。監督は上述の通りグリンダル・チャッダー、音楽はアヌ・マリク、撮影監督は「Asoka」(2001年)のサントーシュ・シヴァン。キャストは、マーティン・ヘンダーソン、アイシュワリヤー・ラーイ、アヌパム・ケール、ナーディラ・ババル、ナヴィーン・アンドリューズ、ナムラター・シロードカル、ピーヤー・ラーイ・チャウドリー、メーグナー、インディラー・ヴァルマー、ニティン・ガナトラー、ソーナーリー・クルカルニー、ダニエル・ギリース、マーシャー・メゾン、アレクシス・ブレデルなど。日本でも公開される可能性があるし、楽しみにしている人も多いと思うので、もしこれから見る予定がある人は、以下のあらすじや批評は読まない方が無難かもしれない。




マーティン・ヘンダーソン(左)と
アイシュワリヤー・ラーイ(右)


Bride & Prejudice
 アムリトサル在住のバクシー氏(アヌパム・ケール)とバクシー夫人(ナーディラ・ババル)の家には4人の姉妹がいた。上からジャヤー(ナムラター・シロードカル)、ラリター(アイシュワリヤー・ラーイ)、マーヤー(メーグナー)、ラキー(ピーヤー・ラーイ・チャウドリー)である。ジャヤーは大人しい性格で、ラリターは賢く聡明で、マーヤーは古典芸術にはまっており、ラキーは活発な女の子だった。最近のバクシー夫人は4人姉妹の結婚のことで頭がいっぱいだった。

 ある日、バクシー一家は友人の結婚式に出席し、そこで英国在住のインド人大富豪バルラージ(ナヴィーン・アンドリューズ)、その妹のキラン(インディラー・ヴァルマー)、そしてその友人で米国の大富豪ウィル・ダーシー(マーティン・ヘンダーソン)と出会う。バルラージはジャヤーに一目惚れし、ジャヤーもバルラージを気に入るする一方、ダーシーとラリターは何となくお互い気になりながらも反発し合う。ラリターはダーシーの高慢な態度、特にインドを馬鹿にした態度が気に食わなかった。

 バルラージはジャヤーとラリターをゴア旅行に招待し、そこでバルラージとジャヤーの仲は一層深まる一方、同行したダーシーとラリターの仲はますます険悪になった。しかもラリターはゴアでジョニー・ウィッカム(ダニエル・ギリース)と出会って恋に落ちる。ウィッカムはダーシーの知り合いだったが、彼を毛嫌いしており、ラリターにダーシーの悪口を吹き込む。さらにダーシーを嫌いになったラリターはウィッカムをアムリトサルに招待して別れる。

 ジャヤーとラリターはアムリトサルに帰って来るが、そこにウィッカムが現れ、バクシー家に居候することになる。ところが末娘のラキーがウィッカムに一目惚れしてしまい、2人はデートをするようになる。しかもバクシー家には米国ロサンゼルス在住のインド人大富豪で遠縁の親戚のコーリーが花嫁探しにやって来る。コーリーはラリターに目を付ける。そのときアムリトサルではナヴラートリーのガルバー祭が開催され、バクシー一家、ダーシー、バルラージ、ウィッカムなどがスティック・ダンスを踊る。そこでコーリーはラリターの友人チャンドラ・ランバー(ソーナーリー・クルカルニー)と出会う。コーリーはラリターに求婚するが、ラリターは金にしか人生の価値を見出していないコーリーを好きではなく、断る。コーリーは怒ってバクシー家を出てしまい、そのままチャンドラ・ランバーに求婚して結婚してしまう。ダーシー、バルラージ、キラン、ウィッカムらもインドを後にした。その後、バルラージからジャヤーに何の連絡もなく、ウィッカムはラキーにEメールを送り続けていた。

 4人姉妹の結婚がうまくいかず、バクシー夫人は焦っていたが、そのときロサンゼルスのコーリーから電話が入る。コーリーとチャンドラ・ランバーの結婚式がロサンゼルスで行われるので、4人分のロス行き航空券を用意したとのことだった。縁談のチャンスとバクシー夫人はそれをふたつ返事で快諾し、夫人、ラリター、ジャヤー、ラキーの4人がロサンゼルスに向かうことになった。その途中、ロンドンでストップオーバーしてバルラージと会おうとしたが、あいにくそのとき彼は英国にはいなかった。一方、ラキーは密かにウィッカムと会い、デートをしていた。

 ロサンゼルスでバクシー一家はダーシーの家に呼ばれ、彼の母親キャサリン(マーシャー・メゾン)や妹のジョージー(アレクシス・ブレデル)と出会う。ラリターはダーシーとデートをして、ダーシーに対して別の感情を抱き始める。だが、母親のキャサリンはラリターを気に入っておらず、コーリーとチャンドラ・ランバーの結婚式でラリターにダーシーの恋人を紹介して2人の仲を意図的に引き裂く。また、ダーシーがジャヤーとバルラージの結婚を邪魔していたことを知り、ラリターは完全にダーシーに愛想をつかす。ダーシーはやけくそになってラリターに愛の告白をするが、彼女は受け容れなかった。

 ロンドンに戻ったバクシー一家を追って、ダーシーもロンドンにやって来る。そこでラキーとウィッカムがデートをしていることを知る。実はウィッカムはダーシーの妹を妊娠させた過去を持つ危険な男だった。ラキーの身が危ないことを知ったラリターは、ダーシーと共にラキーを探し出し、連れ戻す。この件をきっかけに、ダーシーとラリターの仲は急速に接近し、やがて2人は結婚することになる。また、ジャヤーのもとにバルラージが訪れ、正式に結婚を申し込む。

 ラリターとバルラージ、ジャヤーとダーシーの結婚式はアムリトサルでインド式に盛大に祝われた。

 前作「ベッカムに恋して」はヒングリッシュ映画の典型例で、かつ英国映画に限りなく近い作品であったが、今作は英国の小説をベースにしているとは言え、インド映画を国際的に、かつ英語にした映画という感じがした。インド映画として見ればある程度楽しいが、英国映画として見た場合の評価には疑問符が付く。一言で言えば、期待よりは下の作品だった。

 ストーリーの大筋は原作と似通っているが、舞台がインドのアムリトサル、ゴア、英国のロンドン、米国のロサンゼルスとなり、原作の5人姉妹が4人姉妹となり、登場人物の多くがインド人になっている点で大きな違いがあった。また、原作では末娘のリディアは駆け落ちしてしまうが、今作ではインド的良心が働いたのか、それともインド映画的大団円ハッピーエンドの必然性が必要だったのか、ラキーは駆け落ち前にラリターらに阻止されることとなった。原作でエリザベス(ラリターのモデル)とダーシーを分け隔てたのは階級の差だったが、今作では文化の差となっていたのも特筆すべきだ。他にも原作との相違点を探っていくと、インド人とインド映画の趣向が分かるかもしれない。だが、基本的に200年前の英国で書かれた原作は、驚くほど現在のインド映画の筋に似ていると言っていいだろう。原作は「財産に恵まれた独身の男性であれば、妻をほしがっているにちがいないというのが、世間一般に認められた真理である」という有名な一節で始まるが、これはインド映画の方程式にも見事当てはまる。しかし、それこそがこの映画の最大の欠点だったかもしれない。

 ヒングリッシュ映画を見に来る観客は、通常のインド映画とは違ったものを求めて来ていることが多い。前作「ベッカムに恋して」は正にそういう観客に訴えかけるものがあったため、インドでも都市部の中上流階級層を中心に受け容れられた。今回はそれと同じ監督の最新作ということで、かなり期待をして映画館に足を運んだインテリ層が多いことだろう。その観客にインド映画の焼き直しみたいな映画を見せても受けはよくないのではなかろうか。また、ラリターと結ばれる男性が米国人である必要は特にないように思えた。米国在住の大富豪NRI(在外インド人)で、自身のルーツであるインドに偏見を持っている高慢な男、という設定にしてしまっても映画は成り立つし、その方がヒングリッシュ映画として深みが出るように思えた。さらに、インドの女神的存在であるアイシュワリヤー・ラーイが外国人と結婚してしまうというプロットは、果たして大衆に受け容れられるのか不安である。アイシュワリヤーでなくても、自国の女性が外国人と結婚するという話は、同族の女性を外敵から守らなくてはならないという本能を持っている男性には、生理的・心理的に受け容れがたいと思われる。この映画は海外でもリリースされるようだが、あまりにインド映画的過ぎるため、僕はそれほどヒットしないと予想する。

 映画中は多くのミュージカル・シーン、ダンスシーンが挿入されていた。パンジャーブ風結婚式から始まり、ゴアのパーティー、ナヴラートリーのダンディヤー(スティック・ダンス)など、インドの魅力を余すところなく(過剰に?)伝えていたのではないだろうか。ただ、「ベッカムに恋して」でも少し感じたが、グリンダル・チャッダー監督の映画からは、他のヒングリッシュ映画によく見られる、インド文化への尊敬や憧憬があまり感じられない。彼女にとって、インド文化は映画作りの中心テーマではなく、映画を飾り立てる装飾品になっているように感じた。

 キャスティングにも疑問が残った。アイシュワリヤーの相手役、マーティン・ヘンダーソンは、「ザ・リング」(2002年)などに出演していたニュージーランド出身の若手男優。だが、ハンサムなだけでまだ演技力は発展途上という感じだった。アイシュワリヤー自身も、初の国際映画ということで緊張していたのか、ちょっと演技が堅かった。バクシー家4姉妹の配役も成功とは思えない。ウィッカムを演じたダニエル・ギリースは、「スパイダーマン2」(2004年)にも出ていた俳優だが、あまりに悪役顔すぎてウィッカム役には似合わなかった。悪を内に秘めた美男子、という男優を探すべきだった。バクシー氏を演じたアヌパム・ケールもちょっとアピールに欠けたが、憎々しいバクシー夫人を演じたナーディラ・ババルは秀逸。「カーマ・スートラ 愛の教科書」(1996年)で主人公マーヤー役を演じたインディラー・ヴァルマー(インド人とスイス人のハーフ)が、バルラージの妹キラン役を演じていたが、彼女の演技も高圧的でよかった。また、バルラージを演じたナヴィーン・アンドリューも、同映画でラージ・スィンを演じていた男優だ。

 「Bride & Prejudice」は、ヒングリッシュ映画を期待して見に行くと期待外れに終わる映画だが、普段ヒンディー語が分からなくてインド映画を敬遠している人にはもしかしてオススメできる映画かもしれない。何しろあのアイシュワリヤー・ラーイを英語で楽しめるのだ。時間があったらヒンディー語版の「Balle Balle! Amritsar to L.A.」も見て、見比べてみたいと思う(10月14日の日記を参照)。

10月10日(日) Shukriya

 今日は新作ヒンディー語映画「Shukriya」をPVRアヌパムで見た。「Bride & Prejudice」と同時公開となり、影が薄くなってしまっているが、L.K.アードヴァーニー元副首相が絶賛したという記事を見たので、鑑賞する価値はあるだろうと思い、映画館に足を運んだ。

 「Shukriya」とは「ありがとう」という意味。監督は新人のアヌパム・スィンハー。「Tum Bin」(2001年)のアヌバヴ・スィンハー監督の弟らしい。音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー、ヴィシャール・シェーカル、ヨーゲンドラ=デーヴェンドラの合作。キャストは、アーフターブ・シヴダーサーニー、シュリヤー・サラン、アヌパム・ケール、ラティ・アグニホートリー、インドラニール・セーングプター、アールティー・メヘターなど。




アーフターブ・シヴダーサーニー(右)と
シュリヤー・サラン(中央)


Shukriya
 英国に住む大富豪のインド人、ジンダル(アヌパム・ケール)は、もうすぐ60歳の誕生日を迎えようとしていた。妻のサンディヤー(ラティ・アグニホートリー)、娘のアンジャリー(アールティー・メヘター)とサナム(シュリヤー・サラン)は、ジンダルの誕生日パーティーの準備で忙しかった。また、ジンダルは自身の誕生日に、長年の夢だった癌病院の開院式を行うことを計画していた。ジンダルは母親を癌で失ってからというものの、癌に冒された貧しい人々のための無料の病院を設立しようと夢見ていたのだった。

 ところが、急にジンダルはおかしな声を聞くようになる。最初は気のせいかと思っていたが、その声は死神の声だと確信するようになる。誕生日の4日前、死神はジンダルに「お前の命はあと2時間だ」と宣告する。ジンダルはそれを受け容れるが、死神に自身の夢を語り、「お前に人間の難しさは分からないだろう」と言うと、死神は誕生日までの4日間、猶予をくれた。

 ところで、サナムには最近気になる男性がいた。ギター弾きのリッキー(アーフターブ・シヴダーサーニー)である。サナムはリッキーのことを運命の人だと思っていた一方で、リッキーもサナムのことが気になり始めていた。サナムは父親の誕生日パーティーにリッキーを招待する。ところがその直後、リッキーは交通事故によって死んでしまう。

 死神によって4日間の猶予を得たジンダルは、その時間を有効に使おうと考えていた。すると、彼のもとに、リッキーの身体を得た死神がやって来る。死神は、ジンダルの言葉に影響を受け、人間の世界を体験しにやって来たのだった。死神はジンダルの家に居候するようになる。リッキーがやって来たと思ったサナムは、もちろん大喜びだった。死神はジンダルの家族と共に暮らす内に、母親の愛、家族の絆、そしてサナムとの恋を体験する。

 遂にジンダルの誕生日、つまり彼の死ぬ日がやって来る。ジンダルは癌病院の開院式を行い、夜には誕生日パーティーを行う。死神はサナムを一緒にあの世に連れて行こうとするが、サナムが愛しているのはリッキーであり、死神ではないことを悟った彼はそれを辞める。サナムは父親と死神が話しているのを偶然聞いてしまい、父親が今日死ぬこと、そしてリッキーは本当は死神であることを知るが、何もしなかった。誕生日パーティーの途中、ジンダルはこっそりと席を外し、そのまま死神とあの世へ旅立つ。それを見ていたサナムの前に、リッキーが戻って来る。

 あまり話題にはなっていないが、悲しさと幸せが入り混じった気分になるクライマックスが小気味よい佳作だった。大筋はブラッド・ピット主演の「ジョー・ブラックをよろしく」(1998年)に似ているが、物語に、ヒンドゥー教の祭りであるカルワー・チャウトを織り込んだ点で、インド人の心を打つ作品に仕上がっていた。また、現在インドは祖先崇拝を行う期間シュラーッド(ピトル・パクシュ)であり、この時期はインド人は高価な買い物をしないことで知られている。同じ理由で、配給会社もこの時期に映画をリリースすることを避ける傾向にあるのだが、この映画はまさにシュラーッドにぴったりの映画だった。

 前半はありきたりのボーイ・ミーツ・ガール的展開で退屈だったが、ジンダルの前に死神が現れる中盤以降、物語は急に面白くなる。リッキーが実は死神であることを知っているのはジンダルだけで、サナムは彼に恋するようになる。妻のサンディヤーもリッキーを気に入り、我が子のようにかわいがる。このような愛情は死神にとって初めての経験だった。

 最も優れていた場面はカルワー・チャウトのシーンである。カルワー・チャウトはインド映画に度々出てくる祭りで、日本で公開された「ミモラ」(1999年)や「アシュラ」(1994年)などでも出てきた。太陰暦で祭日は決定されるので毎年日付は変わるのだが、今年は10月31日だとされている。この日、既婚の女性たちは朝から晩まで1日中、水すら一滴も飲まない厳格な断食をし、月が見えたら夫に断食を破る水を飲ませてもらう儀式を行う。視覚的には、円形の篩(ふるい)に月を透かして、次に夫の顔を透かすという動作が記憶に残るだろう。この祭りは夫の長寿を祈るためのものである。カルワー・チャウトを通して、死神は人間が愛する人の長寿を祈る行為を知り、ジンダルは妻の祈りも虚しくもうすぐ死んでしまう自分の運命に涙する。また、サナムにカルワー・チャウトの儀式をしてもらうことで、死神は彼女への愛を確固たるものにする(死神にカルワー・チャウトをするという場面は冷静に考えれば滑稽だが・・・)。

 新人男優インドラニール・セーングプター演じるヤシュの存在は多少うまく使いきれていなかったか。サナムはヤシュという幼馴染みがおり、彼はジンダルの会社の重役も務めていた。ヤシュは密かにサナムに恋していたのだが、リッキーが現れたことにより、会社での地位を失いそうになったばかりか、サナムまでリッキーに持って行かれそうになり、彼を憎む。ヤシュはチンピラを雇ってリッキーを殺そうとまでするのだが、死神を殺せるはずもなく、チンピラたちは撃退される。死神はそれがヤシュの差し金であることを知ったのだが、特に彼を責めなかった。ここまではよかったのだが、その後急速にヤシュは物語の中で存在感を失う。ヤシュにはもうひと頑張りさせてあげたかった。

 ベテラン俳優、アヌパム・ケールとラティ・アグニホートリーの演技は文句のつけどころがないほど素晴らしかった。普通の青年と死神を演じ分けたアーフターブ・シヴダーサーニーも、ベストの演技をしていたと思う。だが、おそらく観客の脳裏に最も鮮明に印象に残るのは、サナムを演じたシュリヤー・サランである。彼女は「Thoda Tum Badro Thoda Hum」(2004年)という全く失敗作に終わった映画でデビューしたそうだが、僕はこの映画で彼女を初めて見た。濃い目の顔ながら、インド人が好きそうなタイプの健康的美人で、目がクリクリしていて表情が豊かなのがいい。踊りも元気があっていい。僕には若き日のマードゥリー・ディークシトやカージョールを思い起こさせた。これから大物女優になっていくと予想している。なぜかミニスカートをよくはいており、非常に際どいアングルが多かったのも気になった。パンチラ女優として売り出すつもりなのか。

 舞台は全編ロンドンであり、ロンドンとスイスでロケが行われたという。特に海外を舞台にする必要はなかったと思うが、インド映画のお約束ということで、その辺りはあまり責めないでおく。

 「ありがとう」という意味の題名は、おそらく死期を悟った人間が愛する人々に最も言いたい言葉ということだろう。映画中、ジンダルはいろいろな意味を込めて何度も感謝の言葉を多くの人に投げかけていた。最後は死神にすら彼は「お前が私にくれた4日間は人生で最高の日々になった。ありがとう」と感謝する。死神も、人間として生きる難しさを教えてくれたジンダルに感謝の言葉を述べる。ジンダルが最後に妻サンディヤーに言う言葉、「来世でも僕と結婚してくれるかい?」もよかった。

 現在、「Bride & Prejudice」が話題だが、この「Shukriya」もなかなかいい映画である。前半のありきたりな展開を我慢すれば、後は幸せな涙を流すことができるだろう。

10月14日(木) Balle Balle! Amritsar to L.A.

 最近デリーは急激に寒くなった。1週間ほど前に数日間続けて雨が降り、気温が下がったが、そのまま上昇せずに留まっている感じだ。特に朝晩の冷え込みは12月並みではなかろうか。僕は軟弱にも既にシャワーにはギザル(電気温水器)を使用している(インドではホット・シャワーは贅沢品である、況や風呂をや)。このまま極寒の冬に突入してしまうのだろうか。

 9月までは時間に余裕があったのだが、10月に入り、だんだん授業が忙しくなってきた。ターム・ペーパーと呼ばれる論文式レポートと、セミナー・ペーパーと呼ばれる研究発表用レポートを1授業につき1本ずつ書かなければならない。授業によって違うが、大体ターム・ペーパーは10月以内、セミナー・ペーパーは11月以内が期限となっている。現在授業を4つ取っているので、合計8本のレポートをまとめなければならない。1週間に1本のレポートを仕上げなければならない計算になる。そしてセミナー・ペーパーを提出し、発表を終える頃にはもう期末テストが待っている。

 今日はやっと1本レポートを仕上げて晴れ晴れしい気分だったので、PVRアヌパムに先日見たヒングリッシュ映画「Bride & Prejudice」のヒンディー語版「Balle Balle! Amritsar to L.A.」を見に行った。これらはただ言語が違うだけで、内容は全く一緒である。よって、あらすじについては10月8日(金)の日記を見てもらいたい。ここでは、英語版とヒンディー語版の比較、また新たに気付いたことなどをまとめる。やはりネタばれになるので、映画を見ていない人はあまり読まない方がいいかもしれない。

 まず、英語版を見たときよりもヒンディー語版の方が、より楽しめたような気がする。既に英語よりもヒンディー語の聴き取り能力の方が勝っているため、内容理解がよりできたことも一因だが、やはりインド人が英語をしゃべる映画よりもヒンディー語をしゃべる映画の方が自然にすんなりインド映画の世界に入っていける。また、2度目の鑑賞だったため、細かい部分にまで注意を向けることもできた。

 題名の「Balle Balle!」とは、パンジャービー語の感動詞で、「万歳!」「やった〜!」「フレー!」みたいな意味。パンジャーブ地方のバングラー・ダンスなどを見ていると、よくダンサーたちが「バッレー、バッレー!」と雄叫びを上げる。この他、「ハリッパ!」「シャーバー!」「ラッバー!」なども似たような意味で、これらの語彙を少しでも知っていると、パンジャーブ州の伝統舞踊バングラー・ダンスの歌詞を楽しめるようになる。ついでに他にもバングラーなどで頻出する簡単な語彙を挙げておくと、チャク・デー・パテー(ガンガン行こうぜ!)、クッディー(女の子)、ジュグニー(イマドキの女の子)、ヤール(愛しい人、親しい人)、ソーニー(金=ベッピンさん)、ヒーラー(ダイヤモンド=ベッピンさん)、ナーチュ(ダンス)、ムンダー(ターバン)、キルパーン(短剣)、ガッディー(車)など。これらの語彙は、この映画を見る際にも役立つだろう。

 言語は吹き替えだった。つまり、英語版の方がオリジナルで、ヒンディー語版はその上から吹き替えがしてある。外国人俳優のセリフを声優が吹き替えていたのは当然だが、インド人俳優のセリフも実際の本人の声ではない人がいたかもしれない。その筆頭はアイシュワリヤー・ラーイだ。アイシュワリヤーは「ヒンディー語版の吹き替えをするなんて契約書に書いてない」と吹き替えを断ったらしい。他に、アヌパム・ケールの声も本人ではないように思えた。声優を誰がやっていたかは知らないが、カートゥーン・ネットワーク(アニメ専門チャンネル)でよく聞く声がいくつかあったような気がする。途中挿入されるミュージカルも、ヒンディー語(またはパンジャービー語)の曲になっていた。ただ、音楽だけは英語よりも現地語の方が絶対にいい。英語のインド映画的ミュージカルを見るのは違和感がある。そういえば「Lagaan」(2001年)の「O Rey Chhori」でもインド映画的英語ミュージカルがあった。

 今回見直してみて、アイシュワリヤーになぜ覇気が感じられなかったのかがよく分かった。普通、ボリウッド映画はスターシステムを採用しており、主役の男優や女優はよりかっこよく、より美しく見えるように工夫されている。例えばアップのシーンが圧倒的に多かったり、彼/彼女よりも背の高い脇役を横一線で並べなかったり、照明を工夫して肌をなるべく白く見せたり、といろいろな技法が取られている。しかしこの映画ではグリンダル・チャッダー監督は一切そういう配慮をしていなかった。そのため、他の映画では実際より数割増しに神々しく見えるアイシュワリヤーも、他の脇役やエキストラの中に紛れてしまって「普通の人」と化してしまっていた。それでいて、アイシュワリヤーは頑なにキス・シーンを拒んだようだ。少なくとも3回、キスのチャンスがあったが(1回はウィッカムと、2回はダーシーと)、どれもキス直前で終了していた。もし世界に向けて羽ばたきたかったら、特にハリウッドで活躍したかったら、ノーキスではやっていけないだろう。果たしてインドの女神は世界の女神となるためにプライドを捨てるのだろうか、それともインドの女神で留まるのだろうか?また、アイシュワリヤーが水着になるシーンもあったが、ほとんど彼女の全身は映されなかった。

 女性作家の原作を女性監督が映画化しただけあり、女性の視点中心の映画だと思った。女性の強さと弱さ、美しさと醜さのコントラストが、男性にはちょっと真似できないくらい巧妙に描かれ、女性にとってどういう人生が一番幸せなのかを考えさせる力がある映画である。女性同士の関係は非常に緻密に描かれている一方、男性の登場人物の描写はステレオタイプでお粗末だ。少女漫画と同じノリである。それゆえ、バクシー氏を演じたアヌパム・ケール、ダーシーを演じたマーティン・ヘンダーソン、ウィッカムを演じたダニエル・ギリースなどの潜在能力が活かし切れていなかった。

 はっきり言って映画のキャラクターはそれもあまり深みがないのだが、ウィッカムだけは議論する価値があると思う。ウィッカムはダーシーの乳母の息子で、ダーシー家の馬の世話をして暮らしていた。ダーシーとは共に育った仲だったが、彼はダーシーの妹が16歳のときに彼女を妊娠させ、しかも駆け落ちしようとしたため、ダーシーは妹を奪い返して彼を追放した。それ以来2人は会っていなかったのだが、ゴアで偶然再会する。ダーシーはホテル買収のためにゴアに来ていた一方で、ウィッカムはインドを貧乏旅行してゴアに流れ着いていた。ラリターはインドに対して偏見を持つダーシーを嫌い、「金を持っていれば持っているほど、本当のインドから遠ざかる」と主張するウィッカムに惹かれる。ウィッカムはラリターにダーシーの悪口を吹き込み、ますます彼女はダーシーを嫌うようになる。ダーシーはただラリターに「ウィッカムには気を付けろ」と言うだけで、深い話まではしなかった。アムリトサルにウィッカムが来ると、彼はラキーと仲良くなる。ラキーはロンドンでもこっそり彼を訪ねるが、彼は船上生活者だった。最後にラリターはウィッカムとダーシーの妹の間に起こった事件を知り、ウィッカムからラキーを取り戻す一方で、ウィッカムはダーシー、ラリター、ラキーの3人からそれぞれ殴られて、憐れな末路となる。・・・普通に考えたら、善人の面をかぶった悪役が懲らしめられて一件落着と言いたいところだが、よく考えたら、金持ちのダーシーが美しいラリターと結婚し、貧乏なウィッカムが、過去に過ちを犯したとは言え、またラリターとラキーの二兎を追おうとしたとは言え、不幸な結末を辿るのは、結局「金持ちと結婚すべし」という何の含蓄もない結果となってしまっているのではなかろうか。この点は、インド映画の一般的ストーリーと多少異なるように思える。インド映画では、貧しい主人公が大富豪の息子または娘と苦難を乗り越えて結婚するというストーリーがけっこう好まれる。

 原作の5人姉妹を4人姉妹にしたのは賢明だったと言える。もっとも影が薄くなってしまっていたのは三女のマーヤー。古典音楽や古典舞踊をなぜか熱心に習得している女の子という謎の設定な上に、活躍場所は途中のコブラ・ダンスだけ(これはこれで映画中もっとも迫力のあるシーンだが)。外見的にも4人姉妹の中で一番見劣りがしており、かわいそうだった。長女ジャヤーを演じたナムラター・シロードカルは役柄にピッタリだと感じたが、アイシュワリヤーと並ぶとあまり長女っぽくないのが難点だった。四女のラキーを演じたピーヤー・ラーイ・チャウドリーは、アイシュワリヤーを除けば4姉妹の中で一番目立っていた。

 演技と存在感で際立っていたのは、バクシー夫人を演じたナーディラ・ババルと、バルラージの妹キランを演じたインディラー・ヴァルマーだ。何が何でも娘たちの縁談をまとめようと躍起になる母親を、ナーディラは憎々しくも、哀愁溢れる笑いを醸し出しながら豪快に演じた。一方、インドを馬鹿にし、バルラージとジャヤーの結婚を面白く思わないキランを、インディラーは題名「高慢と偏見」を自らのみで体現化しようとしているかのように、積極的に演じた。ナーディラの演技は映画の質を高めていたが、インディラーは脇役のくせにあまりに存在感がありすぎて、少しバランスを悪くしていたようにも思えた。

 エキストラをどこから集めたのかは知らないが、裏の方にいる人々をよく見てみるとけっこう楽しい。おそらくプロのエキストラではなく、現地で雇った人がけっこういるのではなかろうか。ミュージカル「Lo Shaadi Aayi」ではヒジュラーが登場して踊り出すが、僕はこのヒジュラーは本物ではないかと思った。本物のヒジュラーを映画に登場させた映画というのは記憶にない。また、クライマックスでは結婚したラリターとダーシーが象の上に乗っているシーンがある。このシーンに映っていた象使いも、どう見ても本物である。アイシュワリヤーを後ろに乗せて、笑みがほころびそうなのだが、それを必死でこらえているような微妙な表情を見せていて微笑ましかった。他にもこのシーンでは、踊る群衆の中に「何が起こってるんだ」とポツンと立っている人がいて面白かった。

 アムリトサルが舞台だっただけあり、スィク教最大の聖地にしてアムリトサルのランドマーク、黄金寺院が何度も映し出され、スィク教徒にとってはおめでたい映画となったと思う。他に僕が特定できた場所は、グランドキャニオンやロサンゼルスのロングビーチなどだ。ロンドンのシーンで映っていた遊園地はけっこう有名なのではないだろうか(英国には行ったことがないので分からず)。

 エンディング・ロールでは、ジャッキー・チェン映画よろしくお楽しみNGシーン特集がある。グリンダル・チャッダー監督も出ており、マーティン・ヘンダーソンに抱きついたり、白人のおじさんと踊ったりと、やりたい放題だ。アイシュワリヤーの生の顔もチラッと見ることができる。

 日本人で英語とヒンディー語が両方分かる人はそれほどいないので、普通の人は迷わず英語版「Bride & Prejudice」を見るべきだろう。しかし、もしヒンディー語が分かるなら、ヒンディー語版「Balle Balle! Amritsar to L.A.」の方が、インド映画特有の要素「ラス」をより多く享受することができるように思われるので、オススメだ。果たして日本で公開されるときが来るのかは分からないが、あまりにインド映画的特徴が強いので、一般受けは難しいかもしれない。英国でも既に公開されているが、反応は様々で、絶賛の嵐というわけではなさそうだ。興行的にはまずまずとのこと。「ベッカムに恋して」(2002年)はベッカム人気も加算されていたので、今回はそれを差し引いて勘定すべきだろう。

10月17日(日) グルガーオンvsノイダ

 17日付けのサンデー・タイムズ・オブ・インディア紙に、デリーの衛星都市、グルガーオンとノイダの比較が掲載されていた。

 グルガーオンはデリー南西部、ハリヤーナー州にある街である。グルとは「精製されていない砂糖」、ガーオンは「村」という意味なので、グルガーオンは無理矢理日本語にしてしまえば「砂糖村」になる。おそらく昔はサトウキビ畑が一面に広がっていたのだろう。しかし、今やグルガーオンはデリー市民の間で最もホットなショッピング・スポットに急成長した。グルガーオンの中心地はモール・ロード。シティー・センター、メトロポリタン、ザ・プラザ、サハーラー・モールなど、郊外型巨大モールが立ち並んでいる。首都に製品を供給する工業地帯としても急速に発展しており、スズキやホンダなど、日本企業の工場もある。最近グルガーオンでは、オベロイ系の高級ホテル、トライデントもオープンし、ますます目の離せない街となっている。

 一方、ノイダはデリー東部、ヤムナー河の向こう側にあるウッタル・プラデーシュ州の街だ。NOIDAとは、「New Okhla Industrial Development Area(ニューオークラー工業開発地域)」の略である。ちなみにオークラーはヤムナー河西岸にある街だ。ノイダは碁盤目状の都市設計で、セクター1、セクター2というような無機質な住所が付けられている。セクター18が商業的中心地となっており、シネマコンプレックスWAVEや、いくつかのデパートがある。ヤムナー河に架かっている、デリーとノイダを結ぶ橋、トール・ロードは、日本の三井建設(現三井住友建設)が施工した有料道路で、まるで日本の高速道路のようにきれいな道路である。工期より4ヶ月も早く完成したことは、工期内に工事が完成した前例がなかったインドにおいて既に伝説となっている。本当に「インド人もビックリ」の出来事だったそうだ。

 グルガーオンとノイダの他に、デリー周辺にはファリーダーバード(デリー南東、ハリヤーナー州)やガーズィヤーバード(デリー東部、ウッタル・プラデーシュ州)などがあるが、発展度や注目度から見たら、グルガーオンとノイダの比ではない。

 タイムズ・オブ・インディア紙には、グルガーオンとノイダの特徴、長所、短所がそれぞれ分析されていた。

 グルガーオンの高級住宅地の地価は2700〜3000ルピー/平方フィートで、寝室3部屋の物件の1ヶ月あたりの家賃は8000〜12000ルピー。現在グルガーオンには6つのモールがあり、2006年までに17のモール(多くはシネコン付属)が完成する予定。8車線のデリー・グルガーオン・エクスプレスウェイ、医療コンプレックスのメディシティーなども完成間近である。グルガーオンの5つの長所として、@南デリー南郊という立地の良さ、Aアパートの設備の良さ、B外国人、実業家、専門家などが集住するコスモポリタン的雰囲気、C国際空港への接続の良さ、D最先端の買い物や娯楽が挙げられていた一方で、4つの短所として、@デリーに接続する道が2つしかないこと、A公共交通機関が不便で、自家用車が必要となること、B地下水レベルが低く、水不足が深刻な問題となりうること、C電気供給が足りておらず、停電が頻発することが挙げられていた。

 それに対し、ノイダの高級住宅地の地価は2300〜2500ルピー、寝室3部屋の物件の1ヶ月あたりの家賃は8000〜12000ルピー。現在、セクター18、27、63に合計3つのモールがあり、2006年までに12のモールがオープン予定。アジア最大のモール、ユニテク・モールもオープン間近という。その他、国際空港を備えたNRIシティー、タージ・エクスプレスウェイ、巨大なアミューズメント・パークなどが建設されており、特別経済特区も計画されている。ノイダの4つの長所として、@南デリーまたは中央デリーへの接続の良さ、A地下水レベルが比較的高いこと、B電力会社の民営化により電力供給が比較的安定していること、C多数の病院があり、アポロ病院にも近いことが挙げられていた一方、4つの短所として、@治安の悪さ、または治安が悪いというイメージの悪さ、A住宅に選択肢が少なく、高級住宅地が少ないこと、B急速に発展しているにも関わらず、落ち目のイメージがあること、C周辺住民の教養が低いことが挙げられていた。

 僕は、ノイダとグルガーオンでは、圧倒的にグルガーオンに足繁く通っている。地図で見ると、僕の家からの距離はノイダとグルガーオンではそう変わらないのだが、精神的にグルガーオンの方が近いイメージがある。ノイダはヤムナー河を越えていかなければならないので、そういう印象を受けるのだと思う。最近は久しくノイダに行っていないので正確には分からないが、グルガーオンの方が映画を見るにもショッピングするにもあらゆる意味で便利だ。ただし、自家用車があればの話だが。現在はバイクを持っているので、グルガーオンもノイダも簡単に行けるが、バイクを買う前はどちらも「地の果て」に思えたものだ。2回ほどバスに乗ってグルガーオンへ行ったことがあるが、行くだけで非常に疲れてしまい、しかも夜遅くなると帰りの足がとても心細かった。バイクを買った理由のひとつは、通学の利便性に加え、グルガーオンを行動範囲内に収めたかったことが大きい。

 改めてグルガーオンとノイダを加えてデリーの地図を見てみると、既にコンノート・プレイスやインド門のある中央デリーは、デリー中央部ではなくなっていることに気付く。グルガーオン、ノイダ、インディラー・ガーンディー国際空港などへのアクセスを考えると、多くの外国人やリッチなインド人が居住する南デリーこそが、「中央デリー」なのだ。デリー大学などがある北デリーは・・・悪いが北方辺境地帯とでも改称させてもらおうか・・・。グルガーオンとノイダがホット・スポットとして注目を集める一方、コンノート・プレイスをはじめとする昔からのデリーのマーケットは次第に苦境に立たされつつあると聞く。最近デリー政府は、商店やレストランの営業時間制限を緩和し(閉店時間午後7時→午後11時)、ナイト・ショッピングを可能にしたが、これもグルガーオンとノイダに対抗するための措置である。

 グルガーオンやノイダの勃興は、僕がインドに留学した後に起こった。初めてインドに来た頃(1999年)は、コンノート・プレイスがデリーのショッピングの中心部だと思っていたし、当時はそうだったことだろう。その頃は、サウス・エクステンションが出来て間もなかったように記憶している。僕が留学した年(2001年)にはアンサル・プラザが新しいショッピング・スポットとして注目を集めていた。しかし、時代は今やグルガーオンとノイダ。物心ついた頃に既に日本の高度成長期が終わっていた僕にとって、現在のデリーの発展、インドの発展は、新たな驚きであり、新たな刺激となっている。

 タイムズ・オブ・インディア紙には、グルガーオン対ノイダということで、2つの衛星都市の競争心を煽る記事を掲載していたが、CBリチャード・エリス社南アジア支部のアンシュマン・マガジン社長は、「2つの都市は全く別の生き物であり、将来的にはグルガーオン対ノイダではなく、グルガーオン&ノイダになって行くだろう」と冷静なコメントを寄せていた。まだグルガーオンもノイダも日本人の目から見たら足りない部分が多く、発展途上としか言えないが、おそらく10年後くらいには、どちらもアジア最大のショッピング・スポットになっているのではないかと思う。

10月19日(火) ミス・フリーダム

 インドには多くのチベット系の人が住んでいる。ジャンムー&カシュミール州のラダック地方やスィッキム州に住む人々はインド国籍を持つチベット系民族だが、その他にもチベットから逃れてきた難民がインド各地に住んでいる。少し歴史的背景を説明すると、チベットは7世紀頃から独立した国土を保有しており、歴代の中国王朝とも対等以上の関係を持ってきたが、1950年、毛沢東率いる中国共産党軍が、「封建制度からの人民解放」を名目にチベット侵攻を開始し、チベットの文化、社会、宗教の徹底的破壊を行った。1959年にダライ・ラマ法王がインドに亡命すると、その後を追って10万人のチベット人が共にインドに亡命した。以後、40年以上に渡ってダライ・ラマ法王はチベット問題の平和的解決を訴え続けており、最近はチベット独立を断念して対話優先を主張しているが、中国政府はなかなか応じていない。インドにおいてチベット難民が多い街として挙げられるのは、チベット亡命政権があるヒマーチャル・プラデーシュ州のダラムシャーラー、その州都シムラー、クッルー、マナーリーなど同州一帯、西ベンガル州のダージリン、カリンポンなど、またカルナータカ州のマイソールなどである。デリー北部のマジュヌ・カ・ティッラーやISBT近くにもチベッタン・キャンプがあり、チベット人たちが集住している。

 17日付けのサンデー・エクスプレス紙によると、10月8日から3日間に渡って、ダラムシャーラーのマクロード・ガンジにおいて、ミス・チベット・コンテストが行われたという。ミス・チベット・コンテストは2002年から毎年開催されており、今年で3回目となる。やはりミスコンは保守層から批判を受けており、亡命政権のサムドン・リンポチェ首相も「西洋文明の悪影響が出る」とつっぱねたが、それでも主催者は強行し、けっこうな成果を上げているようだ。2002年のミスコン優勝者ドルマ・ツェリンは、ミス世界観光コンテストにおいてミス中国と同じステージに立ち、チベット人の喝采を浴びたという。

 新聞では、今年の5人の候補者の内の1人、カルサン・ディッキーに焦点を当てて書かれていた。

 カルサン・ディッキーはチベット東部のナグチュ生まれ。高校卒業後、ダンサーになるのを夢見てダンス・スクールに通ったが、交通事故により負傷して夢を諦めざるをえなかった。その後、看護婦として働いていた。2003年のミス・チベット・コンテストのことを友人から聞いたディッキーは、自分も出場したいと考えるようになった。ディッキーは両親に「ネパールに巡礼に行く」と言ってチベットを後にする。ところが、パスポートも何も持っていない彼女にとって、ネパール入国は簡単ではなかった。彼女は切り立った山をロープ1本で登り、深い森を潜り抜けて、ネパールに入ったという。ただ、ダライ・ラマ法王に会うことと、ミスコンに参加することだけを考えて、苦難を乗り越えたそうだ。ネパールに入ってからはとんとん拍子で事は進んだ。彼女はチベット人受入センターに電話してトラックを手配してもらい、カトマンズへ移動した。ラサとは全く違うカトマンズの繁栄を見たディッキーは、中国政府への反感をさらに強めたという。ディッキーはカトマンズのホテルで月給4000ルピーで働き始めた。ミス・チベット・コンテストが再び開催されることが分かると、ディッキーは早速応募用紙を送付した。応募用紙に彼女は、インドに行けるだけの金がないことも書いておいた。ミスコンの主催者ロブサン・ワンギャルはディッキーからの手紙を受け取ると、在米チベット人ジャーナリスト、ツェリン・ヤンドンに連絡して援助を出してもらった。ヤンドンから送ってもらった300ドルにより、ディッキーのミスコン参加の夢は遂に現実のものとなった。ディッキーは、ネパールから同じくミスコンに参加するソーナム・ディッキーと共にカトマンズからデリーまで3日間バスに乗ってやって来た。




カルサン・ディッキー
この人差し指は・・・?


 ミス・チベット・コンテストは、まず8日の水着審査から開始された。チベット難民の複雑な感情に配慮して、水着審査は一般に非公開で行われた。9日にはスピーチ&一芸披露が行われ、5人の候補者はそれぞれチベットに関する自論を述べ、またチベット語の歌を歌った。最終日の10日には結果発表が行われた。




民族衣装姿の候補者5人


 さて、ここでミスコンの候補者たちのアップ写真を見てみよう。カルサン・ディッキーの写真は上に載せたが、他の4人の候補者は以下の通りである。








ドンドゥプ・ワンモ
ソーナム・ディッキー



タシ・ヤンチェン
ティンレイ・ドルマ


 ドンドゥプ・ワンモはウッタラーンチャル州デヘラードーン生まれで、デリー大学卒業で、現在デリーのアウトソーシング会社に勤務している。ソーナム・ディッキーはラサ生まれで、学生時代にインドに亡命し、現在ネパールで両親の仕事を手伝っている。タシ・ヤンチェンはスィッキム州ガントク生まれで、プネー大学でコンピューター学士を取得、現在ガントクの情報技術局に勤務している。ティンレイ・ドルマはヒマーチャル・プラデーシュ州ビール出身、ムスーリーの学校で学んだ後、現在はメーキャップ・アーティストになるため修行中。さて、この5人の中で誰がミス・チベットに選ばれたのだろうか・・・?

 残念ながら、わざわざミスコンのためにチベットから亡命して来たディッキーはミス・チベットにはなれなかった。2004年のミス・チベットに輝いたのは、ガントクのタシ・ヤンチェン。言っちゃ悪いが、ミスコン候補者の5人を見てみれば、一目瞭然でヤンチェンが一番かわいいということが分かる。スピーチや一芸披露でもけっこう成績がよかったようだ。ヤンチェンはプネー大学に通っていたときも、ミス新入生に選ばれたというから、チベット人の中のミスコンの覇者と言える。ミス・チベットには賞金10万ルピーと、来年の国際ミスコンに参加する権利が与えられたが、ヤンチェンは賞金の一部をダライ・ラマ法王に寄進したという。それにしても審判は非常に楽だったと思うのだが・・・。




ミス・チベットに選ばれたタシ・ヤンチェン


 ところで、ミスコン出場の夢を果たしたディッキーは、ダライ・ラマ法王に謁見してからラサへ帰るという。もちろんパスポートなしで密出国したため、本国で彼女は罪に問われる可能性が大きい。それでも彼女は帰ると言う。「私のメッセージを世界に広めるためにはミスコンしかなかったの。私は自分の夢の中に生きてきた。その代償を払う覚悟はできているわ。」果たしてミス・チベット・コンテストがチベット本土で行われる日は来るのだろうか・・・。

 ちなみに、ミス・チベットのウェブサイトもある。

10月24日(日) ヴィーラッパンの最期

 ここ1週間、インドのニュースにヴィーラッパンの名前が出なかった日はない。10月18日夜、南インドの伝説の大盗賊ヴィーラッパンが、タミル・ナードゥ特捜部(STF)により射殺された。ヴィーラッパンは、タミル・ナードゥ州、カルナータカ州、ケーララ州にまたがる密林地帯を根城にして象牙と白檀(サンダルウッド)の密貿易に関わっていた他、警察、森林警備隊、政治家、芸能人などの殺人や誘拐を繰り返して人々を恐怖のどん底に陥れていた、インドの「Most Wanted」だった。今まで彼が殺した人間の数は120人以上、象の数は2000頭以上、彼の首に懸かっていた懸賞金は合計5500万ルピーだと伝えられている。報道の大きさから、改めてヴィーラッパンの死がインドに与えた影響の大きさが計り知れた。




ヴィーラッパン


 ヴィーラッパンのフルネームはクーセ・ムニスワーミー・ヴィーラッパン・グンダルと言う。ヴィーラッパンの生年月日は不明だが、一説によると1952年1月18日だと言われている。彼はタミル人だが、カルナータカ州のゴーピーナータム村の後進階級の家に生まれた。ヴィーラッパンが初めて象を殺したのは、まだ10歳のときだったと言われている。彼は密猟王として悪名高いサルヴァイ・グンダル(セヴィアン・グンダルとも)に、象の狩猟の腕を買われて密猟団に仲間入りする。1969年にギャング同士の争いからヴィーラッパンは初めて殺人を犯し、1972年に逮捕されるがすぐに釈放された。グンダルは80年代に象牙の輸出が禁止されると、白檀の密輸も開始し、彼の死後、その仕事はヴィーラッパンに受け継がれた。1986年にもヴィーラッパンは逮捕されたが、保釈金を払って釈放された。このときまでヴィーラッパンはまだ密貿易グループのドンに過ぎなかったが、ヴィーラッパンが本格的に誘拐や殺人に手を染め始め、山賊または盗賊として恐れられるようになるのは1987年からである。さらに、ヴィーラッパンと警察の争いが鮮明化するのは、森林の治安を目的とした特捜部が設立された1990年からだ。ところが、1991年にヴィーラッパンは森林警備隊副隊長を捕らえて斬首し、警察は一旦体制を整え直さざるをえなくなった。93年にカルナータカ州警察はヴィーラッパンに対抗するための特捜部を設立し、ヴィーラッパンの妻ムトゥラクシュミーと弟のアルジュナンを逮捕する。だが、アルジュナンが拘束中に死亡したことにより、ヴィーラッパンの犯罪はさらに凶悪化し、警察官や森林警備隊が次々と誘拐され殺された。タミル・イーラム解放の虎(LTTE)やナクサライト(極左過激派団体)とも連携していたとされている。ヴィーラッパンの形容詞が盗賊から大盗賊へと飛躍するのは、カンナダ映画界の大俳優ラージクマールの誘拐事件からだろう。ヴィーラッパンは2000年7月30日に、自宅にいたラージクマールを誘拐し、身代金と妻や仲間の釈放を求めた。ラージクマールは同年11月14日に解放されるが、一説によると2億ルピーの身代金が支払われたという。政府はそれを否定している。2002年8月25日には、カルナータカ州のH.ナーガッパ元大臣がヴィーラッパンに誘拐され、同年12月8日に遺体で発見された。それ以降、ヴィーラッパンは鳴りを潜めていた。病気だったとも言われている一方で、今度はタミル映画界の大スター、ラジニーカーントの誘拐を企てていたとも言われている。

 ヴィーラッパンの射殺は、特捜部による綿密な作戦によって達成された。一連の作戦はオペレーション・コクーンと呼ばれている。6000平方kmの森林の中からヴィーラッパンを見つけ出すのは、干草の山の中から針を探し出すように困難であることを悟った特捜部は、ヴィーラッパンを森林からおびき出す方法を模索するよう方針を変更した。作戦が動き始めたのは2003年5月頃からだった。特捜部は、ヴィーラッパンが弟に宛てて送った手紙の傍受に成功した。手紙の中で、ヴィーラッパンは有望な若者たちを仲間に引き入れるよう要請していた。特捜部は、ヴィーラッパンのもとにスパイを送り込むため、2人の大学生を含む4人の一般市民の志願者を訓練した。警察官を使わなかったのは、ちょっとした仕草や動作で正体がばれないようにするためだ。彼らはムスリム過激派を装って森林に入り、ヴィーラッパン率いる盗賊に合流した。彼らは2003年6月に19日間ヴィーラッパンと共に生活し、決定的情報を携えて帰って来た。その情報により、ヴィーラッパンは白内障とリウマチを患っていることが判明した。2004年初め、特捜部はヴィーラッパンの後方支援を行っていた部族民を仲間に引き入れることに成功した。2004年5月、ヴィーラパンは目の治療をするためのアレンジをその部族民に依頼した。特捜部は包囲網を張り巡らせたが、このときは直前になってヴィーラッパンが計画を変更したため、作戦は遂行されなかった。だが、特捜部は忍耐強く次のチャンスを待った。そのチャンスは10月13日に再び訪れた。やはりヴィーラッパンは目の治療のために部族民にアレンジを依頼した。特捜部は10月18日午後10時15分の時間を指定し、救急隊員に変装した2人の特捜部員を救急車に乗せて送り込んだ。ヴィーラッパンは3人の仲間と共に時間通り現地に現れ、何の疑いもなく救急車に乗り込んだ。その間、特捜部はヴィーラッパンが向かう可能性のある全ての道を封鎖し、彼が来るのを待ち構えた。10時45分頃、救急車が封鎖地帯のひとつまで到達すると、特捜部はまずは降参するよう呼びかけた。だが、盗賊たちが発砲してきたために特捜部も反撃した。銃撃戦の末、4人の盗賊は射殺された一方、救急隊員に変装していた特捜部員たちは、銃撃戦が始まる前に即座に茂みの中に隠れたため無事だった。ヴィーラッパンの遺体には3ヶ所の弾痕があり、一発は脳を打ち抜いていた。ヴィーラッパンが自殺した可能性も指摘されている。





ヴィーラッパンの遺体


 19日の新聞には、一斉に上のようなヴィーラッパンの遺体の写真が掲載された。日本の新聞では考えられない残酷写真だが、インドでは許容範囲であるばかりか、伝説の盗賊の最期なので、さらし首的におめでたい写真なのかもしれない(ネットでもどんどん掲載されているので、僕もそれに従う)。ちゃんと頭部が銃弾で打ち抜かれている様子が分かる。しかし、多くの人々を残念がらせたのは、彼の髭が切り揃えられていたことである。ヴィーラッパンは、独特の髭で有名だったのだが、病院での治療時に正体がばれるのを避けるためか、髭は普通の形に整えられていた。

 ヴィーラッパンの射殺以降、いろいろな話が世間を賑わせている。ヴィーラッパンの残酷な悪行を並べ立てる記事もあれば、今までヴィーラッパンが捕まらなかったのは、政治家との強力なコネクションがあったからだと指摘する論説もある。騙まし討ちのような形での射殺への批判もあれば、タミル・ナードゥ州のジャヤーラリター州首相や特捜部ヴィジャイ・クマール隊長の「鬼の首を取った」かのようなコメントが次々と報道されている。ヴィーラッパンを「盗賊」と呼ぶ人もあれば、「ロビンフッド」「ランボー」などと英雄視しようとする記事もある。今年2月21日付けのタイムズ・オブ・インディア紙に、「ヴィーラッパンは次の誕生日を迎えられないだろう」という占い師の言葉が掲載されていたことまで引き合いに出され、「人は嘘を付くが星は嘘を付かない」と、占い好きなインド人の喜びそうな記事まであった。また、多くの記者が指摘していたが、ヴィーラッパンのような盗賊が暗躍する基盤となったのは、森林に住む抑圧された部族民たちの不満の蓄積であったことも忘れてはならない。ヴィーラッパンは森林の民に施しを行っていたため、彼らから畏敬の念を持たれていたという。ちなみに、ヴィーラッパンに懸けられていた懸賞金は特捜部によって分配され、オペレーション・コクーンに参加していた隊員にそれぞれ30万ルピーと不動産が賞与されるという。

 インドの盗賊と言えば、映画「Bandit Queen」(1994年)のモデルとなった、女盗賊プーラン・デーヴィーが有名だろう。1958年にウッタル・プラデーシュ州の貧しい漁師の家に生まれたプーラン・デーヴィーは、11歳のときに結婚するものの夫の暴力に耐えかねなくなって逃亡し、その後刑務所に入ったりギャングに誘拐されてレイプされたり苦難の時を過ごした結果、盗賊となって復讐を開始し、1980年からウッタル・プラデーシュ州で暴れまわった。やがて政府と司法取引をして1983年に自首し、11年の懲役を終えた後は国会議員に転身、最期には(2001年)暗殺されるという波乱万丈の人生を送った女性である。ヴィーラッパンも実は司法取引を打診されていたのだが、彼はプーラン・デーヴィーと違って一切森林の外に出ようとしなかった。

 プーラン・デーヴィーの死、そしてヴィーラッパンの死、これら一連のニュースを並べると、心なしか少し寂しい気持ちになってくる。「盗賊」という存在は、日本にいるだけだったら、お伽話か昔話に出てくる存在である。子供の頃を思い出すと、「盗賊」という存在に恐怖と同時に何となくロマンを感じていたように思う。しかし、ここインドでは、それが現実に存在する。インドではまだ中世がしぶとく生き残っているのだ。それは盗賊しかり、ヒジュラーしかり、大道芸人しかり、電気もガスもない村に住み昔ながらの生活を営む人々しかりである。インドを旅すると、それら中世の生きた化石たちが、中世の遺跡以上に旅人を刺激する。だが、大盗賊と呼ばれる人々が消え去っていくことにより、それらが、我々の目の前で次第に近現代の波に押し流されていくように感じた。それは一方で喜ばしいことなのかもしれないが、一方で非常に悲しいことだ。

 だが、ヴィーラッパンが根城にしたジャングルで、新たな中世的ロマンも生まれている。それは、ヴィーラッパンがジャングル各地に隠した財宝探しである。ヴィーラッパンは警察に急襲されるのを恐れ、現金を分散させて秘密の隠し場所に隠していたとされている。現金と共に象牙や白檀もどこかに隠されているようだ。近隣の部族民たちは既に宝探しに乗り出しており、地元警察や特捜部にとってもヴィーラッパンの隠された財産の捜索が急務となっているという。盗賊の宝探しとは、また刺激的なニュースである。

10月25日(月) インドの若者言葉

 25日付けのデリー・タイムズ・オブ・インディア紙に、イマドキの大学生が使うナウい(死語?)言葉が特集されていた。インド全土の大学に広まっている言葉もあれば、地方限定の言葉もある。どこまで本当か、デリーの大学に通う僕でもよく分からないが、一応紹介しようと思う。

■新入生

 新入生のことを、デリーでは「Fuchcha」、プネーでは「Pacchad」または「Machhar」、ムンバイーでは「Bachcha」、アハマダーバードでは「Bachchu」または「Langot」と呼ぶ。インドの大学では新入生に対して「ラギング」と呼ばれる一種の新入生いじめが行われるため、「新入生」という言葉は特別な意味を持っている。デリーの「Fuchcha」はけっこうよく知られた言葉だ。語源はよく分からないが、「乳臭い奴」みたいな意味だと思われる。プネーの「Machchar」は「蚊」という意味。ブンブンうるさい奴、という感じだろうか。ムンバイーの「Bachcha」とアハマダーバードの「Bachchu」は「お子様」という意味。アハマダーバードの「Langot」は「ふんどし」「腰巻」という意味。日本語の「腰巾着」と似たような意味だろうか。「Pacchad」は意味不明だった。

■イケイケの女の子

 かわいい女の子、セクシーな服を着た女の子のことを、デリーでは「Khandala」、プネーでは「Roohafza」、ムンバイーでは「Chhamiya」、アハマダーバードでは「Fatakdi」または「Chipkali」、バンガロールでは「Jill」または「Poonay」と呼ぶ。デリーの「Khandala」は語源不明。マハーラーシュトラ州にある同名の避暑地とは別だと思う。プネーの「Roohafza」はペルシア語で「爽快な」という意味。シャルバト(シャーベットの語源)という飲み物の商標になっているために広まった言葉だと思われる。ムンバイーの「Chhamiya」は、おそらく鈴の鳴る音「チャムチャム(chham-chham)」から来ていると思われる。それ以外は意味不明。この他、かわいい女の子を「マール(maal)」と呼ぶ隠語があるが、これは既に「イマドキの言葉」ではなくなっているようだ。

■かっこいい男の子

 かっこいい男の子、日本語の俗語で言う「イケメン」のことを、デリーとバンガロールでは「Dude」、プネーでは「Yum」、「Stud」、「Raapchandus」または「Hero」、コールカーターでは「Guru」、ムンバイーでは「Hottt」と呼ぶ。デリーとバンガロールの「Dude」は英語から来ている。「気取り屋」「オシャレさん」みたいな意味だ。ただし発音に注意。「ドュード」ではなく「ディウド」がイマドキの発音らしい。確かにこの言葉はよく使われている。プネーの「Yum」「Stud」「Hero」も英語の語彙だ。それぞれ「美味」「種馬」「英雄」という意味である。「Raapchandus」はヒンディー語または現地語から来ていると思われるが意味は不明。コールカーターの「Guru」は「導師」という意味だ。グルは元々「重い」という意味だが、だいぶ軽い意味で使われるようになってしまった。ムンバイーの「Hottt」は「ホッッッ」と発音するのだろうか、英語の「hot」から来ているのは明らかだろう。

■腹立たしい男

 日本語の俗語だと「むかつく奴」とか「きしょい男」とかになるのだろうか、そういう一緒にいるだけで腹立たしくなるような男のことを、デリーでは「404 Error」、プネーでは「Pakao」、アハマダーバードでは「Jhinga」、バンガロールでは「Blade」、ムンバイーでは「Kita-Patti」と呼ぶ。デリーの「404 Error」は傑作。インターネットのブラウザでURLやファイルが見つからないときに出るエラーだ。確かにこのエラーが出るとイライラする。IT大国インドらしい隠語だと言える。プネーの「Pakao」は、ヒンディー語の「pakaanaa(沸騰させる)」という動詞の派生語で、やはり「イライラする」という意味である。アハマダーバードの「Jhinga」は、辞書によると「エビ」とか「綿花に付く虫」という意味のようだ。バンガロールの「Blade」とムンバイーの「Kita-Patti」はおそらくどちらも「刃」という単語から来ていると思われるが、はっきりとは分からない。

■退屈な先生

 退屈な先生のことを、デリーでは「Chaatu.com」、プネーでは「Drag」、アハマダーバードでは「Bhonpu」または「Dabbo」、バンガロールでは「Chaat」、ムンバイーでは「Pakao」、コールカーターでは「Tan」まはた「Halu」と呼ぶ。デリーの「Chaatu.com」は、「舐める」という意味の動詞「チャートナー」から来ている。「チャートゥー」は「脳みそを舐められるように退屈な人物」。「.com」の部分は説明しなくていいだろう。バンガロールの「Chaat」も同じ語源であろう。プネーの「Drag」は「退屈な人」という意味の英語の俗語である。アハマダーバードの「Bhonpu」は、自動車のクラクションのことで、転じて「声がうるさい人」みたいな意味である。同じくアハマダーバードの「Dabbo」は、「抑える」という意味の動詞「dabaanaa」の派生語で、「シッ!静かに!」みたいな意味。デリーの隠語と関係あると思われる。ムンバイーの「Pakao」は上記の「腹立たしい男」で出てきた。コールカーターの「Tan」「Halu」はよく分からない。

■大学デビューの田舎女

 田舎の高校では目立たない女の子だったが、都会の大学に入学して一気にオシャレに目覚めたような女の子のことを、デリーでは「GTH」、プネーでは「Fukra」または「HMT」、アハマダーバードでは「B2B」、ムンバイーでは「Kakubhai」または「Behenji」と呼ぶ。デリーの「GTH」とは、「Ghati Turned Hep」の略で、つまり「殺人犯からオシャレさんへ」という意味。プネーの「Fukra」は、「いいセンスをした若者」という意味の「フーカル」の女性形だと思われる。「HMT」は「Hindi Medium Types」という意味。北インドの学校には授業を英語で行う「English Medium」と、ヒンディー語で行う「Hindi Medium」があるが、その後者の学校を出た女性のことを指すようだ。もちろん、前者の方が社会的地位は高い。アハマダーバードの「B2B」は「Bindu to Britney」の略。ビンドゥーとは典型的なインド人女性の名前で、ブリトニーは有名な米国のアイドル歌手ブリトニー・スピアーズのことだ。ムンバイーの「Kakubhai」は、「兄貴」みたいな意味だがどういう文脈で使われているか不明。「Behenji」は「姉貴」という意味だ。

 この他、いろいろな若者言葉が載っていたので、面白いものをピックアップしてみる。

★「Digital」は「頭がいい」、何だか理系の天才っぽいイメージだ。
★「Bombaat」は「素晴らしい」、英語の「bomb」からか。
★「Chatlya」は「先生におべっかを使う学生」、上記の「退屈な先生」も参照。
★「T2M2」は「Tu Tera, Mein Mera(君は君の、僕は僕の)」の略で、つまり「割り勘」。
★「Nag(蛇)」は女の子の間で使われる俗語で、「デート以上のことを求める男」。なんだかインド人の男が可哀想に思えてくる。
★「JKG」は「Joru ka Gulam」の略、「妻の奴隷」という意味で、転じて「女性の尻に敷かれた男」。
★「AKN」は「Aaj ki Nari」の略、「イマドキの女」という意味で、「どうやってJKGの男を捕まえてキープしておくか知っている処世術に長けた女性」。
★「Chopsticks」は「いつも一緒の仲良しカップル」。
★「Pappudo」は「間抜け」。
★「Pipudo」は「携帯電話」、ピープー鳴るからだろう。
★「Stamp」は「キス」、スタンプを押す、みたいなイメージだろうか。

 これらの言葉が全て本当にインド人の若者で使われているかは疑わしいが、しかしいくつかは聞き覚えのあるものがあった。これらの語彙を習得するには、インド人の若者の輪の中に積極的に入っていかなければならないだろう。

 おまけだが、インド人大学生の中で最もポピュラーなヒンディー語の俗語は、「パターナー(paTaanaa)」だと思う。この動詞は元々「満たす」「平らにする」「乗せる」「灌漑する」「合意を得る」みたいな意味だが、大学生の間ではもっと別の意味で使われる。それは日本語の「付き合う」と似たような意味であり、男側から言えば、「女の子をナンパする」「女の子とデートする」「女の子といちゃつく」「女の子をあちこち連れ回す」みたいな文脈で使われる。おそらく「合意を得る」という意味が転じて、こういう使われ方がされるのだろう。女側からもこの言葉を使うのかはよく分からない。ヒンディー語では他動詞と自動詞を厳密に区別するので、もしかしたら女の子は「デートした」を、他動詞「パターナー」の自動詞形「パトナー」で使ったりするかもしれない。

 今回の日記の情報源として、ヒンディー語学習者必携の書であるオックスフォード大学出版の「THe Oxford Hindi-English Dictionary」を参考にしたが、10年以上前に編纂された辞書にも関わらず、けっこういろいろな俗語が網羅されていて驚いた。だが、それでも生きた言語に不変のものはない。ヒンディー語にも次々と新しい隠語、俗語が生まれてきていることが分かる。

10月28日(木) Vaastu Shastra

 ここ2週間ほどは宿題に追われていて映画を見に行けなかった。やっと中休みになったので、早速新作ヒンディー語映画を見に行った。今日見た映画はラーム・ゴーパール・ヴァルマー製作のホラー映画「Vaastu Shastra」。PVRプリヤーで鑑賞。

 題名になっているヴァーストゥ・シャーストラとは、一言で説明してしまえば「インドの風水」である。住環境が人間に与える影響を考慮したインドの伝統的建築学で、例えば北東は祭壇、南東は台所、西は食堂、、東や南に寝室、北は宝物庫などと規定されている。映画中でもヴァーストゥに関する言及が多少あるが、特にヴァーストゥ・シャーストラが重要な伏線となっていることはなかった。

 監督はサウラブ・ウシャー・ナーラング。キャストはチャクラヴァルティー、スシュミター・セーン、エヘサース・チャンナー、サーヤージー・シンデー、ラージパール・ヤーダヴ、ピーヤー・ラーイ・チャウドリー、プーラブ・コーホリー、ラースィカー・ジョーシーなど。




チャクラヴァルティー(左)と
スシュミター・セーン(右)


Vaastu Shastra
 プネー郊外にある屋敷に一家が引っ越してきた。作家のヴィラーグ(チャクラヴァルティー)、女医のジルミル(スシュミター・セーン)とその4歳の息子ローハン(エヘサース・チャンナー)、そしてジルミルの妹のラーディカー(ピーヤー・ラーイ・チャウドリー)の4人だった。

 最初に異変に気付いたのはローハンだった。ローハンは「家に僕たち以外に誰かがいる」と言い、マニーシュとジョーティーという名前の2人の「見えない」子供たちと遊ぶようになった。最初は子供の空想だと気にも留めなかった両親だが、怪奇現象が相次ぐようになり、ローハンの様子も次第におかしくなるにつけ、異変を感じ取るようになる。雇ったメイド(ラースィカー・ジョーシー)が謎の変死を遂げ、ラーディカーとその恋人のムラーリー(プーラブ・コーホリー)がヴィラーグらの留守中に惨殺されたことにより、恐怖は現実のものとなる。

 やがて亡霊たちはヴィラーグ、ローハン、ジルミルらにも襲い掛かる・・・。

 「この映画を見て何が起こっても、プロデューサーは一切責任を負いません。」数週間前から意味深なキャッチコピーと共に「Vaastu Shastra」の予告編が流れていた。おそらく「恐怖のあまり心臓麻痺とかになっても知らないよ」という意味だったと思うのだが、結果的にそのキャッチコピーは「映画の出来が悪くても許してね」という意味だったのではないかと思ってしまう。ラーム・ゴーパール・ヴァルマー自身の、インド製ホラー映画の草分け「Bhoot」(2003年)を越えるホラー映画ではなかった。しかしながら、評価できる点も多かった。

 ストーリーや映像などは、スタンリー・キューブリック監督の「シャイニング」(1980年)と類似点が多い。夫の職業が作家であること、家族に小さな子供がいること、郊外の屋敷に引っ越すところなど、設定はかなり似通っている。「シャイニング」で一番有名なシーンは、子供が回廊を三輪車でグルグル回るシーンだが、「Vaastu Shastra」にも、全く同じではないが、それに強く影響を受けたと思われるシーンがあった。しかしラストはだいぶ違った。より優れた終わり方になっていればいいのだが、残念ながら「今までの雰囲気がぶち壊し」ぐらいのひどい終わり方だった。どうせなら「シャイニング」と同じエンディングにしてくれた方が気持ちよく映画館を出れたのだが・・・。あらすじには敢えて書かなかった。

 それでも、カメラワークは非常によく考えられていた。全ての怪奇現象の元になったのは、敷地内にあった不気味な形の大木だったのだが、それをカメラだけでじっとりと表現していた。セリフではそのことはほとんど触れられていない。また、冒頭にあった一家が乗った自動車がサッと通り過ぎるシーン、ブランコの上にカメラを置いて前後に揺らしながら屋敷全景を映すシーンのカメラワークなども印象に残っている。

 「シャイニング」のように、そのままカメラだけで亡霊の視線を表現すれば素晴らしい作品になったかもしれないが、残念ながら映画中、亡霊たちは実体を持って登場してしまう。しかも効果音が過剰すぎ、不要な部分、全く意味のない部分でも「ズギャーン!」とか騒音が鳴るので興ざめだった。なぜ屋敷に亡霊が住み着くようになったのかも、例の木が関係あることが暗示された以外は明らかにされなかった。




亡霊の1人、マニーシュ


 しかし俳優たちの演技はほぼパーフェクト。特に主人公のスシュミター・セーン、子役のエヘサース・チャンナー、憎々しいメイド役のラースィカー・ジョーシーが素晴らしかった。スシュミター・セーンの演技は「Samay」(2003年)の好演を越える良さ。子役はインド映画の弱点だが、エヘサース・チャンナー君の演技は自然で素晴らしかった。最近才能のある子役が増えつつあり、非常に嬉しい。ラースィカー・ジョーシーが演じたメイドは、ヴィラーグとジルミルの前では猫をかぶる一方で、ローハンには「言うこと聞かねぇとお化けの出る小屋に閉じ込めるぞ!」と脅す上に、家のものを盗む憎々しい奴だった。他に、「Bride & Prejudice」(2004年)で4人姉妹の末娘を演じたピーヤー・ラーイ・チャウドリーも出演していたことが特筆すべきだ。すごいかわいいわけではないが、不思議と印象に残る若手女優だと思った。ただ、「Bride & Prejudice」と同じような役だったのは偶然なのか、それともこの方向の女優を目指すのだろうか。

 映画中、ミュージカル・シーンは一切ない。そのくせ上映時間は約3時間ある。怖い映画ではあるが、クライマックスでは笑いすらこぼれるかもしれない。

10月29日(金) Flavors

 JNUの二大祭典と言えば、秋の選挙と春のホーリーである。11月4日の選挙が近付いており、キャンパスでは連日激しい選挙合戦が繰り広げられていた。今日はジェネラル・ミーティング(演説会)で授業は休み。その休日の「ファーエダー・ウターネー・ケ・リエ(うまく利用するため)」、朝からPVRアヌパムで先週から公開のヒングリッシュ映画「Flavors」を見た。

 「Flaovrs」は米国在住のインド人若者たちの恋愛、就職難、国際結婚などをライトタッチで描いた作品である。監督はラージ・ニディモールーとクリシュナDK。キャストは、リーフ、プージャー、アヌパム・ミッタル(プロデューサーも兼任)、ジッキー・シュニー、アンジャン・シュリーワースタヴ、バーラティー・アーチュレーカル、プニート・ジュスジャー、ガウラヴ・ラーワル、モーヒト・シャー、スィリーシャー・カトラーガッダー、リーシュマー、ガウラグ・ヴヤースなど。素人の俳優が数人出演している。




Flavors


Flavors
 米国の東岸に住むカールティク(リーフ)と西岸に住むラチュナー(プージャー)は、毎日電話でいろいろなことを話し合う仲だった。ある日ラチュナーは無理矢理お見合いをさせられ、それが2人の仲を急に揺さぶっていた。

 ラド(アヌパム・ミッタル)は米国人のジェニー(ジッキー・シュニー)と結婚することになった。ラドの両親(アンジャン・シュリーワースタヴとバーラティー・アーチュレーカル)は結婚式に出席するためにインドから米国にやって来た。両親はジェニーの両親が既に離婚していることに驚くが、ジェニーをとても気に入る。

 アショーク(プニート・ジュスジャー)とジャス(ガウラヴ・ラーワル)は米国に来たものの職もなくブラブラしている若者だった。ルームメイトのヴィヴェーク(モーヒト・シャー)も最近解雇され無職者になってしまった。しかもヴィヴェークは、学生時代のクラスメイト、ギーターのことが忘れられなかった。同じく同居人で美容師のキャンディー(リーシュマー)は、無職者3人組の生活を管理しながら彼らを励ます。

 サンギーター(スィリーシャー・カトラーガッダー)はニキル(ガウラグ・ヴィヤース)と結婚して米国に移住したが、毎日退屈な生活を送っていた。一方、ニキルは解雇されてしまい、妻には内緒で毎日職探しをしていた。

 ラドとジェニーの結婚式が近付いていた。ラチュナーは出張で東岸に来てカールティクと会うが、2人の仲は次第にこじれてきた。カールティクは本当はラチュナーと結婚したいと思っていたが、友人として過ごした時間が長かったため、なかなか本心を打ち明けられなかった。

 ヴィヴェークはギーターが既に結婚していたことを知り極度に落ち込む。仲間たちは彼を飲みに連れ出すが彼の心はなかなか晴れない。キャンディーはそんな彼を気遣って一晩いっしょにいてあげるが、それをきっかけにヴィヴェークはキャンディーのことが好きになってしまう。

 ラドとジェニーの結婚式の日、両親の他、カールティク、アショーク、ジャス、ヴィヴェーク、サンギーター、キャンディー、ニキルらが出席する。ヴィヴェークが恋焦がれていたギーターは、実はニキルの妻のサンギーターだった。ラチュナーは結婚式の前に去って行ってしまうが、カールティクは電話でラチュナーにプロポーズをする。

 ヒングリッシュ映画の模範作と言っていい作品だった。米国に住むNRI(在外インド人)1世、NRI2世、出稼ぎインド人、そして旅行で来たインド人、それぞれの人物描写、心情描写が巧みで、テンポもさくさくスピーディーに進んで心地よい。それだけに、ラストがあっけなかったのが残念だった。

 これと言って主人公と呼べるキャラクターはおらず、登場人物はほぼ等しく出番があった。ストーリーの軸となるのはラドとジェニーの結婚式であり、ラドの両親のトンチンカンな行動がもっとも爆笑を誘うが、他のキャラクターもそれぞれに存在感があって面白かった。例えば、ヴィヴェークが会社から解雇されるシーン。上司の白人は首を横に振るヴィヴェークを見て言う。「それはイエスか、ノーか?」それでもヴィヴェークは首を横に振る。言うまでもなく、この仕草はインド人の「イエス」だが、外国人にはなかなか理解されない。結局ヴィヴェークは解雇されてしまう。ホロリとさせてくれるのはサンギーターとニキルだ。ニキルも会社をクビにされてしまうのだが、それを妻のサンギーターには言わずに毎日ネットカフェで就職活動をしていた。一方、サンギーターは退屈な主婦生活を送っており、毎日午後4時からのTVドラマだけが1日の楽しみだった。ある日友人からニキルが解雇されたことを知ってしまうが、それでも彼女は夫の前で何も言わなかった。その日、ニキルは自分から解雇されたことを打ち明ける。サンギーターは彼に対して「たかが仕事じゃない。あなたは働きすぎだったわ。少しくらい休憩してもいいでしょ。一緒に過ごせる時間ができるし」と温かく慰める。しかし一番面白いのは何と言ってもラドの母親とジェニーのやりとりだ。母親はジェニーに「前にボーイフレンドはいたの?」「それは友達?それともそれ以上?」「あなたと近しい関係だったの?」と根掘り葉掘り聞いた後、「過去は過去、気にする必要はないわ」と言って、「あなたはアメリカ人だけど、とってもいい娘ね」と笑う。ジェニーの方も、離婚した両親を持っているだけに、インド的家族の温かさを実感する。母親がジェニーに人生の訓戒として与えた言葉はよかった。「人生はトラブルだらけだわ。ラドと結婚した後も多くのトラブルが起こるでしょう。でも、離婚して別の人と再婚すればそれが解決するとは思わないで。結局同じようにトラブルが起こるだけよ。結婚は人生で一度だけと考えて、その中で問題を解決していくように努めてね。そうすれば、私たち夫婦みたいに末永く続くわ。」その言葉を聞いてジェニーは「私は決してラドから去ったりしないから安心して」と約束する。

 このように多くの登場人物を絡み合わせたストーリーは、ラストの収束のさせ方が一番重要だが、この映画では結局それがうまくいっていなかった。ラドとジェニーの結婚式にラチュナー以外は出席するのだが、それによって何も連鎖反応が起こらなくてがっかりした。唯一、ヴィヴェークが好きだったギーターがサンギーターだったことがサプライズだった。だが、全体的によくできた映画だったので、ラストで台無しということはなかった。

 ヒングリッシュ映画ということで登場人物は英語をしゃべるのだが、典型的なインド訛りから、NRI2世のきれいなアメリカ英語まで、様々な英語が混じっていた。ヒンディー語とタミル語(多分)が少しだけ出てくるが、英語字幕が付いている。

 そういえばジェニーがセリフの中で「Hindi Temple」と言っているのを聞いた。日本人はよくヒンディー語のことを「ヒンドゥー語」と呼んでいるが、アメリカ人にもあまり「ヒンディー」と「ヒンドゥー」の区別がついていないのかもしれない。ヒンディーは言語名、ヒンドゥーは宗教名であり、それらの混同はコミュナルな問題にもつながってしまうのであまり好ましくない。

 都市部のシネコンを中心にロングランしそうな良作ヒングリッシュ映画だ。同時期に公開されているグリンダル・チャッダー監督の「Bride & Prejudice」(2004年)よりも優れたクロスオーバー映画であることは間違いない。

10月30日(土) 「インド=ドラクエ」論

 僕はかねがねインドはドラクエなのではないかと考えている。この考えをインドに住んでいる同世代の日本人に明かしてもけっこう同意してもらえることが多いので、ここで理論立てて「インド=ドラクエ」ということを立証してみたいと思う。

 まず、ドラクエとはエニックス社(現スクウェアエニックス社)の大ヒットTVゲーム「ドラゴンクエスト」の略である。1986年に発売されるや否や社会現象となるまで人気を博し、以後ロールプレイングゲーム(RPG)という分野が確立された。多分僕と同じくらいの世代の人たちなら、ドラクエを知らない人はいないと思う。簡単に説明すれば、ゲームの目的は敵の親玉を倒し、姫を救出することなのだが、当初の主人公はレベルも低く、装備もなきに等しいので、モンスターを倒して地道に経験値と金を稼ぎ、レベルを上げて装備を整えつつ街から街へと旅を続けて、最終的に親玉を倒す。ドラクエは現在第7作まで発売されており、もうすぐ第8作が発売される予定だ。ドラクエと言った場合、それらのシリーズを総括的に指していることが多いが、僕はここでは、特にゲームシステムがシンプルだった、初期のドラクエのことを念頭において使っている。「インド=RPG」としてもいいのだが、ドラクエの名前を出した方が座りがいいので、「インド=ドラクエ」論としておく。

 まずインドのカースト制度がドラクエっぽい。ドラクエに登場する人々は、主人公以外だいたいみんな何らかの仕事を四六時中している。武器屋は武器をひたすら売り続け、防具屋はひたすら防具を売り続け、薬屋はひたすら薬を売り続け、宿屋は常に宿屋である。それはいつゲームをやろうと変わらない。インドもそれと非常によく似ている。洗濯屋はひたすら洗濯をし続け、鍛冶屋はひたすら鍛冶をし続け、オートワーラーはひたすらオートリクシャーを運転し続ける。都市部では人の入れ替わりが激しくなっているものの、田舎へ行ったら5年前に会った人が同じ場所で同じことをしていたなんてことはザラである。そういう時の流れが止まっているかのような状態がドラクエを想起させる。

 道を歩いている人の行動もインドとドラクエではけっこう似ている。インドの道には暇なおっさんたちがのんびりしていることが多い。外国人の姿を見ると、「ちょっとこっちに来なさい」と陽気に声をかけてくる人も少なくない。少し会話を交わすとお互いすぐに打ち解けて、思わぬ重要な情報をくれたりすることもあるし、変な話に話題が移っていくこともある。こういう道の人々との会話の機微も、ドラクエとよく似ている。ドラクエでも、旅の情報を得るために街の人々と積極的に会話をしなければならない。しかも、全ての人が重要な情報をくれるとは限らず、あまり意味のないことを話してくる人もいる。

 インドでもドラクエでも情報収集は非常に重要である。日本のようにいろんな場所で同じものを売っているようなことは少なく、あるものを手に入れるために遠くの市場へ行ったりしなければならないことが多い。例えば友達の家に行ったとき、便利そうな品物、けっこうオシャレなグッズが置いてあったりする。当然、自分も欲しくなる。「これどこで買ったの?」と聞くと、親切な友人なら「○○市場の○○の店で売ってる」などと教えてくれるだろう。その情報に従って行ってもなかなか見つからないことも多い。周りの人に道を聞きつつ、やっとその店が見つかったときは大きな喜びがある。ドラクエでも、街によって売っている商品が違うので、特定のものを手に入れるために遠くの街へ足を伸ばさなければならないときがある。

 経験値を積めば積むほど、生活がより楽しくより便利になることは、日本でもインドでも同じことだ。しかし、インドではそれが特に顕著である。例えば、コンノート・プレイスからサウス・エクステンションにオートリクシャーで行こうとする。まだサウス・エクステンションがどのくらいの距離の場所にあるか分からないときは、オートワーラーに100ルピーぐらいをふっかけられることも多いだろう。しかし、何度もコンノート・プレイスとサウス・エクステンションを往復していれば、適正価格が次第に分かってくる。このようなことを繰り返す内に、デリーの正しいオート運賃が理解できてくる。停電や水不足もインドでは日常茶飯事の問題である。最初の内は戸惑うのも無理はないが、住んでいる内に次第に慣れてきて、最終的には「お、停電か」くらいの対応になり、速やかに懐中電灯やロウソクを用意できるようになっている。これも経験の賜物だろう。また、インドの文化や歴史を学べば学ぶほど、生活や旅行が楽しくなることも、経験値上昇による恩恵だと言える。ヒンディー語などの現地語の習得により、悪徳商人からのぼったくりを防ぐことも可能だ。日本のように、インドは社会全体が便利を追求しているわけではないので、個人の努力が非常に重要である。

 インド商人との値引き交渉もゲーム感覚でやるのが一番よいと言われている。あまり真剣になりすぎるのもみみっちいし、かと言って全く値引き交渉しないのも「日本人は金払いがよい」という印象をインド人に無闇に与えてしまってよくない。会話を楽しむように値段を交渉するようになれれば、買い物もさらに楽しくなるだろう(ただ、インド人の値引き交渉は真剣そのものだが・・・)。残念ながら、ドラクエには値引き交渉というシステムはないが、インド商人との交渉は感覚的にはモンスターとの戦闘である。

 しかしながら、僕が一番ドラクエを感じるのは、何らかの事務手続きをしているときだ。インドの事務手続きは全てペーパーワーク。そこに便利さの追求などは全くない。大学の入学手続きにしても、入学願書の入手、書類の記入、提出、責任者の署名集め、学費の納入などなど、いろいろなプロセスを経なければならない。責任者が常にいるとは限らないため、1人のサインを手に入れるためにいろんなところを廻ったり、1つの書類が足らないために翌日出直さなければならなかったり、結果を待つために果てしなく待ち続けたりしなければならない。こういうたらい回しは、ドラクエを初めとするRPGにはよくあるイベントである(専門用語で「フラグ立て」とも言う)。しかも、権力者にコネがあったり賄賂を渡したりすると、煩雑な手続きが信じられないくらい簡単に終わってしまったりすることもあったりして、裏技、禁じ手、抜け道がいろいろ存在するのも面白い。後から振り返って、「あのときあの場所であの人に偶然会わなかったら、何も手続きは進まなかっただろう」と思うことも多いが、そういう予定調和的出会いもインドとドラクエに共通している。

 だが、インドをドラクエと見なすような見方は、実際にインドで生まれインドで生活しているインド人たちには失礼な考え方だ。いくらドラクエに見えようとも、それが彼らの現実であり、その中で真剣に生きていかなければならない。それを外国から来た我々が、「インドはドラクエだ」と言うことは、上から見下しているような印象を与えてしまう。しかし、インド人の思想をよく見てみると、「この世界は神様のリーラーの場」という考え方がある。「リーラー」とは「遊戯」という意味で、神様はこの世界に「遊ぶ」ために舞い降りていると考えられている。例えば「ラーマーヤナ」で描かれているラーム王子と羅刹王ラーヴァンの戦いにしても、どちらも結果は分かっていながら、敢えて「遊ぶ」ために戦争を行ったのだ。つまり、ラームは正義の役を、ラーヴァンは悪の役を演じたというだけで、本質的には神様の行動は「お遊戯」であり、人間はただそれに従うしかない。この「諦めの哲学」がインド人の思想の根幹にある。「こんなみじめな生活をしているのに、なぜこんな人間らしい笑顔を見せることができるのだろう?」と思うことも多いのだが、それも上記のようなインド人独特の考え方が影響していると思われる。例えどんな役を与えられようと、その役を演じ続けることがルールであり、ゲームの勝者への道なのだ。結局、「インド=ドラクエ」論は、インドの長い歴史の中では特に新しい考え方ではなく、インド人自身も「この世はゲームだ」と考えていたということになるのではないだろうか?

10月30日(土) Morning Raga

 今日はPVRプリヤーで新作ヒングリッシュ映画「Morning Raga」を見た。監督はマヘーシュ・パッタニー、音楽はマニ・シャルマーとアニト・ハリ。キャストは、シャバーナ・アーズミー、プラカーシュ・ラーオ、パリーザード・ゾーラービヤーン、リレット・ドゥベー、シャリーン・シャルマー、ヴィヴェーク・マシュルー、ナセル、ヴィジャイなど。




左からプラカーシュ・ラーオ、
パリーザード・ゾーラービヤーン、
シャバーナ・アーズミー


Morning Raga
 アーンドラ・プラデーシュ州のある村。声楽の才能があったスワルナラター(シャバーナ・アーズミー)は、友人でヴァイオリン奏者のヴァイシュナヴィーを無理に誘って、コンサートに出演するため街へ向かった。スワルナラターの息子マーダヴとヴァイシュナヴィーの息子アビナイも一緒だった。ところが彼女らの乗ったバスは、村の郊外に架かる橋で自動車と衝突し、河に落ちてしまう。この事故により、ヴァイシュナヴィーとマーダヴは死んでしまった。それ以降、スワルナラターは自分の過ちを自分で罰するため、村から一歩も出ず、ひっそりと暮らしていた。

 20年後、ハイダラーバードに住んでミュージシャンを目指していたマーダヴ(プラカーシュ・ラーオ)は、仕事を辞めて本格的に音楽活動を始める。マーダヴはバンド仲間を集めていた。久し振りに村に帰ったマーダヴは、偶然ピンキー(パリーザード・ゾーラービヤーン)と出会う。ピンキーも元々同じ村に住んでおり、久し振りに村を訪ねていたところだった。マーダヴとピンキーは意気投合し、一緒にバンドをすることにする。

 ハイダラーバードに戻った2人は、ピンキーの母親カプール夫人(リレット・ドゥベー)の協力も得ながらべーシストとドラマーを見つけて、レストランで演奏を始める。だが、音楽に何の興味もない人々の前で延々と演奏し続けることに疑問を覚えたマーダヴはすぐに辞めてしまう。行き詰ったマーダヴは再び村に戻り、死んだ母親の友人だったスワルナラターを訪ねる。マーダヴは是非彼女にバンドに入ってもらいたかった。スワルナラターは最初は断るものの、夫の勧めもあり、バンドに協力することになる。

 やがてハイダラーバードでフュージョン音楽のコンサートが開かれることになった。マーダヴたちはそれに出演するために、スワルナラターに街に来るように頼む。しかしスワルナラターは事故現場の橋にバスが来ると、昔の惨劇を思い出して取り乱し、バスから降りてしまう。結局コンサートはキャンセルことになった。

 スワルナラターはその代わり、ピンキーに声楽を教えることにした。ピンキーはスワルナラターの家に住み込んで声楽を習う。やがて別のコンサートがハイダラーバードで催されることになった。マーダヴらは再び出演することに決め、スワルナラターにも街に来るように頼む。ピンキーはスワルナラターを無理矢理車に乗せて橋を渡り、何も起こらないことを証明する。また、ピンキーは実は20年前の事故でバスに衝突した車を運転していたのは、酔っ払った父親だったことをマーダヴとスワルナラターに打ち明ける。

 コンサートの日。会場にはスワルナラターも現れた。ピンキーは彼女に歌うように頼む。スワルナラターは一瞬躊躇するが、歌い出し、観客から喝采を浴びる。

 悪くはないのだが、いまいち盛り上がりにかける感のあったヒングリッシュ映画だった。監督は元々劇作家で、ゲイ映画「Mango Souffle」(2003年)を撮った人だ。「Mango Souffle」はかなり演劇が原作のため、かなり演劇っぽい映画になってしまっていたが、「Morning Raga」ではその点は改善されていた。しかし、まだ映画の文法にあまり慣れていないところがあるように思える。

 この映画が悪くないと思えたのには、音楽の良さ、演技の良さ、そして田舎の農村の良さの3点のおかげだろう。

 題名にインド音楽の専門用語「ラーガ」が入っているだけあり、音楽がテーマの映画だった。これで音楽が全く駄目だったら目に手も当てられなかったのだが、カルナーティック音楽(南インドの古典音楽)が非常にいい雰囲気を醸し出していた。古典声楽とキーボード、ドラム、ベースなどを合わせたフュージョン音楽も悪くなかったと思う。インドの古典音楽を聞いていると、インドは素晴らしいと改めて実感する。しかもこの映画でも描かれているように、インドの農村には優れた喉を持っている知らざれる音楽家たちがけっこうたくさんいるのではないかと思った。「Dance Like A Man」(2004年)でも同じように、村の何の変哲もないお婆さん(元デーヴダースィー)が古典音楽を教えているシーンがあった。

 主演は何と言ってもシャバーナ・アーズミーだ。インド有数の演技派女優で、「City of Joy」(1992年)など英語の映画とも相性が良い。なぜかヒングリッシュ映画にしか出演しないパリーザード・ゾーラービヤーンも好演。パリーザードはあまりヒンディー語が得意ではないのだろうか?今回でデビュー2作目のプラカーシュ・ラーオも落ち着いた演技をしていてよかったが、感情の表現が多少苦手なのではないかと感じた。この3人が主役だが、ピンキーの母親役を演じたリレット・ドゥベーもいい味を出していた。彼女は「kal Ho Naa Ho」(2003年)にもファンキーな役で出演していた。

 インドの田舎はけっこうずるい。それだけで非常に絵になるからだ。映画にしろ、写真にしろ、とくかく田舎へ行って手当たり次第に映像にするだけで、何らかの芸術性を持ったものが出来てしまう。インドの農村はそういう魅力に溢れている。この映画でも田舎の魅力をたっぷりと描いていた。スワルナラターが住んでいる家は、数日前の日記で触れた、ヴァーストゥ・シャーストラに準じて設計されている典型的なインドの家屋だと思った。村人の中では水牛飼いがコメディーっぽい役で出ていてよかった。彼は常にアンナプールナーという名の水牛と一緒におり、「何が起きてもお前はミルクを出して、おいらはそれを売るだぞ」と言い聞かせているところが面白かった。

 「南インドのある村」が舞台とされていたが、明らかにアーンドラ・プラデーシュ州の農村が舞台となっており、州都ハイダラーバードの映像も、チャール・ミーナールを含めてたくさん出てきた。最後のコンサートはゴールコンダー砦の前で行われていた。言語は基本的に英語だが、村人たちはテルグ語を話す。ちゃんと英語字幕が出る。

 ヒングリッシュ映画は質の高い作品が多いので、ヒンディー語映画よりも優先的に見ることにしている。この映画はヒングリッシュ映画の中では完成度の低い映画と言える。だが、それでも上記の3点により見る価値はある映画に仕上がっていたと思う。



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