スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2005年2月

装飾下

|| 目次 ||
分析■2日(水)若者の喫煙とボリウッド
映評■3日(木)Padmashree Laloo Prasad Yadav
映評■4日(金)Black
演評■6日(日)スティング・コンサート
分析■9日(水)チャンドラ・ボース伝説、再び
映評■10日(木)Shabd
分析■13日(日)アングロ・インディアンの町、消滅の危機
分析■15日(火)2004年ボリウッド映画界を振り返る
分析■15日(火)消えた虎
分析■21日(月)ラヴィ・シャンカル、ノーベル平和賞候補に
分析■24日(木)インド映画のキス
映評■25日(金)Bewafaa
分析■27日(日)フィルムフェア賞発表


2月2日(水) 若者の喫煙とボリウッド

 少し前の記事になるが、1月24日付けのデリー・タイムズ・オブ・インディア紙に、若者の喫煙とボリウッド映画の関連について書かれていた。最近のボリウッド映画は、悪役のみならず主人公まではタバコを吸い、それが若者に良からぬ影響を与えている可能性があるとWHO(世界保健機関)が警告しているという内容だった。

 確かに最近のヒンディー語映画は特にタバコを吸うシーンが多いように感じる。「Musafir」(2004年)の中でサンジャイ・ダットは特大の葉巻をくわえていたし、「Swades」(2004年)ではシャールク・カーンは実生活と同様にチェーン・スモーカーを演じていた。その他、「Elaan」(2005年)のジョン・アブラハム、「Ek Hasina Thi」(2004年)のサイフ・アリー・カーン、「Vaada」(2005年)のザイド・カーンなど、今をときめくスターたちが映画中でタバコを吸っている。以前はネガティブなイメージを手軽に醸し出すために悪役がよくタバコを吸っていたのだが、次第に主人公が普通にタバコを吸うようになっているのは確かだ。それが影響されやすいインドの若者に、「タバコはかっこいい」というイメージを与えているとしてもおかしくない。また、現在巷で話題になっている「Page3」(2005年)では女の子や女性の喫煙があからさまに描かれており、さらに若い女性の喫煙が増えることが懸念される。

 新聞のデータによると、76%の映画に喫煙シーンがあり、ポジティブなキャラクターがタバコを吸う率は、1991年の映画が22%だったのに対し、2002年の映画は53%にまで増加したという。また、ヘビースモーカーとして有名なシャールク・カーンは、今まで109回スクリーン上でタバコを吸ったという報告もある。ここからは多少信憑性の薄いデータだが、フィルムスターが喫煙しているシーンを見ている若者は、映画を見ない若者に比べて3〜16倍も喫煙をする確率が高いという。前述の「Musafir」では、ボリウッド映画で初めて、映画の冒頭に「喫煙は健康を損ないます」という注意書きが映し出された。新しく映画検閲局の局長に就任したシャルミラー・タゴールの指示だという。

 ボリウッドのみならず、ハリウッドでも映画中の喫煙は日常茶飯事となっている。1950年から2002年までの150本の主要映画(「007」シリーズ、「スターウォーズ」シリーズ、「ロード・オブ・ザ・リングス」シリーズなどなど)を分析したところ、典型的な映画では1時間に11シーンも喫煙シーンが映し出されることが分かった。

 ボリウッド俳優が喫煙をするから、インド人の若者が好んでタバコを吸い始めると一方的に関連付けることはフェアではないと思うが、それでもインド映画の影響力は他の人が思っている以上に強い。最近の事例では、「Dhoom」(2004年)の大ヒットの影響による大型バイク志向の高まりが挙げられる。「Dhoom」では、今大人気の男優ジョン・アブラハムや、ウダイ・チョープラーが、スズキの大型バイクに乗っていた。インドではまだ100cc前後の高燃費バイクが主流で、200cc以上のバイクは今までほとんど発売されていなかったし、一般のインド人の選択肢にも入っていなかった。だが、映画の大ヒットにより、大きなバイクへの憧れが若者の間で爆発的に広まり、ヒーロー・ホンダ社のカリズマ(225cc)などの売れ行きが伸びていると聞く。僕のバイクが盗まれてしまったのも、元を辿れば「Dhoom」のせいだと個人的に考えている。また、映画中ジョン・アブラハムが乗っていたスズキのハヤブサ(1300cc)という大型バイクは特に若者の注目を集めることになり、街ではハヤブサ風に改造したバイクを時々見かける。先日アーグラーまでツーリングしたときも、割ときれいにカスタムしてハヤブサに見せかけたバイクを1、2台見かけた。一度それらの偽ハヤブサをカメラに収めようと思っているのだが、なかなかチャンスがない。

 2003年にヒットした「Tere Naam」というサルマーン・カーン主演の映画も、大いに若者を刺激した。何が刺激的だったかというと、サルマーン・カーンの髪型。サルマーン・カーンは真ん中で分けたセミロングの髪型をしており、この映画のヒット後は同じような髪型をした若者が街に溢れかえった。2004年に公開された「Lakshya」という映画の「Agar Main Kahoon」というミュージカルで、プリーティ・ズィンターがはいていたエスニック風ロングスカートは、「ズィンター・スカート」と呼ばれ、一時インド人の若い女性の間で大流行した。2003年の大ヒット作「Munna Bhai MBBS」では、主役のサンジャイ・ダットが入試を別の優秀な人に受けさせて医学部に合格したが、同じ手口で大学入試などを受ける学生がその後急増したというニュースを読んだことがある。これらの他にも、インド映画のインド社会に与える影響力の強さを伺わせる出来事は枚挙に暇がない。

 インドはまだ日本のように情報の波にさらされることが少なく、特に農村部や小都市では、映画が大きな娯楽であり続けているし、重要な情報源となっている。日本にいると一度に多くの情報が頭脳の中に勝手に入ってきて非常に、逆にひとつひとつの情報にそれほど影響されない。そのため、映画の影響力は田舎へ行けば行くほど大きくなっていく。インド映画は現在のところ、作品としては批評するに値しないものが多いが、社会に影響を与える要因としては絶対に無視できない存在である。そういうことを考えると、映画中の喫煙が社会に与える影響も看過することはできないだろう。また、喫煙だけでなく、最近の映画の性描写の過激さも問題だと思うし、デリケートな主題を扱っている映画に政府が目を光らせる理由も分かる。1984年の反スィク暴動を描いた「Amu」(2005年)は検閲によっていくつかセリフがカットされてしまったし、1993年3月のムンバイー爆弾爆発事件を描いた「Black Friday」は、先週の金曜日に公開される予定だったが、当日になって高等裁判所により上映延期を命令された。

 ボリウッド映画とヒンディー語の関係も非常に重要だ。近代ヒンディー語の形成には、古くは19世紀にインド各地で演劇を公演して廻ったパールスィー劇団やインダルサバー劇団などの劇団が非常に重要な役割を果たしたと言われる。ボリウッド映画はそれらの劇団の強い影響を受けており、映画が娯楽の王様の地位に就いてからは、劇団以上にインド各地にヒンディー語を大いに普及させた。インド映画がなかったら、ヒンディー語は今ほど普及していなかったと思う。また、外国人のヒンディー語学習者がインドの外にいながら生のヒンディー語を知ろうと思ったら、今のところ映画以上に最適な媒体はない。そしておそらく21世紀のこれからは、ヒンディー語のTVドラマが映画以上にヒンディー語普及の強力な後押しとなると思われる。

 インド映画は庶民のお気楽な娯楽作品として一蹴することも可能だが、インド映画がインド社会に与える影響を馬鹿にすることはできないと思うし、インド映画を批評する際は作品の内部だけでなく、外部への影響も考え合わせる必要があると思う。若者の喫煙増加ひとつをとっても、インド映画の影響がないとは言い切れないだろう。最近はインドでも喫煙者に対する規制が厳しくなっており、デリーでは法律上は公共の場での喫煙は禁止されている。「Musafir」に喫煙に対する警告が出たのは序の口で、今後は喫煙シーンのあるボリウッド映画全てに同様の警告が出されるようになるかもしれない。

2月3日(木) Padmashree Laloo Prasad Yadav

 インドで一番面白い政治家は誰かと聞かれたら、僕は真っ先にラールー・プラサード・ヤーダヴの名前を挙げるだろう。ラールーは、ビハール州を拠点とする国民党(Rashtriya Janata Dal:RJD)の党首で、1990年〜97年に渡ってビハール州の州首相を務め、現在は中央政府の鉄道大臣を務めている。インドを代表する汚職政治家として知られており、贈収賄スキャンダルにより州首相の座を下りざるをえなかったときも、ただの主婦に過ぎなかった自分の妻ラブリー・デーヴィーを代わりに州首相に任命してしまうという珍事件を起こした。現在でもラブリー・デーヴィーがビハール州の州首相を務めているが、実質的な支配者はラールーをおいて他にいない。ビハール州が最貧州のまま停滞しているのは、ラールーのせいだとする見方が強いが、州内の低カースト層やヤーダヴ族(牛飼いカースト)からの圧倒的な支持を受けており、選挙のたびに失脚が噂されながらも不死鳥の如く蘇るしぶとい政治家である。日本の政治家に例えるならば、田中角栄あたりか。ラールーに関するこんな冗談も有名だ。「あるとき、日本の首相がビハール州を訪れた。首相はラールーに『私だったら、3年でビハール州を日本のようにしてみせます』と言った。それに対し、ラールーは、『私だったら、3ヶ月で日本をビハール州のようにしてみせます』と答えた。」

 ここ最近、ラールーの名前が新聞やニュースに踊らない日はない。なぜなら、ラールーと彼の率いるRJDがビハール州の政権に就いて以来、4度目の州議会選挙が行われるからだ。果たしてラールーは政権を続行させられるか、それとも今度こそ失脚するのか。メディアはビハール州の州議会選挙に大いに目を光らせている。投票日が近付くにつれて、州内で学童の誘拐事件が頻発したりしたことも、報道合戦に火を注いでいる。そんな中、本日ビハール州の州議会選挙の第一期投票が行われた。この慶事を記念して(?)、現在インド全土ではラールーの名前とそっくりな題名の映画「Padmashree Laloo Prasad Yadav」が公開されている。ビハール州の選挙にピッタリ合わせて公開したとしか思えないタイミングだ。その心意気を買って、ちょうど第一期投票日の今日、この映画をPVRナーラーヤナー見ることにした。

 題名の中の「Padmashree」とは、毎年1月26日の共和国記念日に大統領により功績のあったインド人に送られる勲章のひとつである。上からバーラト・ラトナ(インドの宝石)、パドマ・ヴィブーシャン(蓮の大宝石)、パドマ・ブーシャン(蓮の宝石)、パドマ・シュリー(蓮の美)の4つがある。ラールー・プラサード・ヤーダヴの名前の前に受勲名が付くことにより、「〜伯爵」みたいな尊称になるのだが、ラールーはまだそのような勲章は受け取っていないため、それが苦笑を誘う。だが、この題名は実は4人の主人公の名前である。ヒロインの名前がパドマシュリー、ヒーローや脇役の名前がラールーとプラサードとヤーダヴなのだ。

 監督はマヘーシュ・マーンジュレーカル、音楽はアーナンド・ラージ・アーナンド、スクヴィンダル、ニティン・ライクワルの3人。キャストは、スニール・シェッティー、マースーミー、グルシャン・グローヴァー、ジョニー・リヴァー、マヘーシュ・マーンジュレーカル、キム・シャルマー、シャラト・サクセーナー、カニーカーなど。そしてなんと驚くべきことに、ラールー・プラサード・ヤーダヴ自身が特別出演しているのだ。現役の政治家がボリウッド映画にのこのこと出演するなど、あまり考えられないことだ(ボリウッド・スターが政治家に転身することは多いが・・・)。これだからラールーは面白い。映画自体は低予算のコメディー映画であまり見る気がしなかったが、スクリーン上で是非ラールーの雄姿を見てみたくて、映画館に足を運んだ。




左からジョニー・レバー、スニール・シェッティー
マヘーシュ・マーンジュレーカル、キム・シャルマー、
マスーミー、カニーカー


Padmashree Laloo Prasad Yadav
 ラールーはムンバイーのマフィアのボス、トム叔父さん(シャラト・サクセーナー)の家に居候していたが、ある日トムの愛人リター(キム・シャルマー)といちゃついているところを見つかり、逃げ出した。ラールーにはパドマシュリー(マースーミー)というガールフレンドがいた。女好きなラールーに愛想を尽かしていたパドマシュリーは、父の友人サクセーナーに奪われた5億ルピーの価値のあるダイヤモンドを取り返すため、南アフリカ共和国のケープタウンへ発つ。それを知ったラールーも、同じくケープタウンへ飛んで、パドマシュリーと共にダイヤモンドを探すことにした。

 サクセーナーは簡単に見つかったが、ラールーが脅したことにより心臓麻痺で死んでしまう。サクセーナーの言い残した言葉により、ダイヤモンドは銀行の金庫に保管されていることが分かる。ラールーとパドマシュリーは、ケープタウンを牛耳るマフィア、ジョン・トニア・ブッシュ(グルシャン・グローヴァー)とその部下ヤーダヴ(ジョニー・リヴァー)を仲間に引き入れ、銀行強盗をしてダイヤモンドを手に入れる。ラールーたちは警察に密告してジョンを逮捕させるが、ジョンはあらかじめダイヤモンドを誰も知らない場所に隠していた。パドマシュリーは色仕掛けでヤーダヴや、ジョンの弁護士プラサード(マヘーシュ・マーンジュレーカル)を騙してダイヤモンドの情報を引き出そうとするが、なかなかうまくいかなかった。その内、ラールー、プラサード、ヤーダヴの3人の男がパドマシュリーに恋してしまう。また、トム叔父さんとリターもラールーを追ってケープタウンに降り立った。

 ダイヤモンドの在り処が分かると、それを巡ってラールー、パドマシュリー、プラサード、ヤーダヴ、裁判所から脱走したジョン、そしてトム叔父さんとリターの間で争奪戦が起こる。最後にはジョンは逮捕され、ラールーとパドマシュリーはダイヤモンドを手に入れ、無事にインドに帰る。

 監督のマヘーシュ・マーンジュレーカルといえば、「Hathyar」(2002年)や「Rakt」(2004年)など暴力映画やホラー映画の監督であり、「Kaante」(2002年)や「Run」(2004年)などで怖いマフィアやチンピラ役を演じた俳優である。そのマヘーシュ・マーンジュレーカルが、このようなコメディー映画を作り、このようなコメディーな役柄を演じたことには驚きを隠せえない。コメディーの作風は、「Hunmaga」(2003年)や「Hulchul」(2004年)のプリヤダルシャン監督と似ており、インドのよくあるコメディー映画という感じだった。つまり、単発的お笑い優先で、全体的なストーリーの流れは二の次となっていた。特に下流層のインド人はこういうお気楽なコメディー映画が大好きだが、日本人の鑑賞に耐えるような作品ではないと言わざるを得ない。とは言え、こういうインド映画の楽しさが分かるようになると、インド映画の理解度が深まったような自己満足感も得られるのは確かだ。

 コメディー映画としての質はいまいちだったものの、やはり現役の政治家ラールー・プラサード・ヤーダヴが特別出演していることは、この映画を何よりもユニークなものとしている。ラールー・プラサードの登場シーンは冒頭と最後のみで、はっきり言ってストーリーと直接関係ないが、特に最後のシーンで俳優たちに、「若者たちよ、国の名声を高めることをしないといけないぞ」と説教するところは、皮肉なのか真面目に言っているのか、苦笑が漏れた。

 ジョニー・レヴァーを久し振りにスクリーンで見た。一昔前は見る映画見る映画全てにジョニー・レヴァーのあの一度見たら忘れられない顔が出ていたと記憶しているが、最近は出演作が少なくなっている。だが、今でもボリウッドを代表するコメディー俳優であることには変わりない。この映画では準主役級の役を演じていたため、彼の面白いアクションをじっくり堪能することができた。スニール・シェッティーやグルシャン・グローヴァーもよかった。ヒロインのマースーミーは、アルファベットで「Masumi」と綴るため、一見すると日本人の名前っぽい。だが、おそらくムスリムの女性名だろう。大きな目と分厚い唇が印象的な新人女優で、恥じらいを捨てた演技力があった。

 「Padmashree Laloo Prasad Yadav」は、批評家の評価も低く、興行的にも成功していないが、映画中でラールー・プラサード・ヤーダヴを見るというレアな体験をさせてくれるため、話のネタにはなるだろう。

2月4日(金) Black

 先週からなぜか似たような名前の映画が続けて公開された。先週は「Black Friday」と「Black Mail」という映画が同時に公開されるはずだったが、直前になって「Black Friday」は公開中止になった。今週からは「Black」という映画が始まった。今日は「Black」をPVRプリヤーで鑑賞した。

 「Black」の監督は、「ミモラ(Hum Dil De Chuke Sanam)」(1999年)や「Devdas」(2002年)のサンジャイ・リーラー・バンサーリー。キャストはアミターブ・バッチャン、ラーニー・ムカルジー、シェールナーズ・パテール、ドリティマーン・チャタルジー、アーイシャー・カプール(子役、新人)、ナンダナー・セーンなど。バンサーリー監督の前2作とは打って変わって、ボリウッドではなくハリウッド的感動作に仕上がっていて驚いた。涙なくしては見れない傑作なので、この映画を見る予定のある人は、以下のあらすじを読まないことをオススメする。




ラーニー・ムカルジー(左)とアミターブ・バッチャン(右)


Black
 英領インド時代のシムラー。アングロ・インディアンの家に生まれたミシェル・マクネリー(アーイシャー・カプール/ラーニー・ムカルジー)は、生まれつき盲目でしかも聾唖だった。ミシェルは8歳になったが、知能は発育せず、好き勝手に振る舞い、毎日のようにトラブルを起こしていたが、両親はそれを黙認していた。父親のポール(ドリティマーン・チャタルジー)はミシェルを精神病院へ入れようとしたが、母親のキャサリン(シェールナーズ・パテール)はそれに反対していた。ミシェルにはサラ(ナンダナー・セーン)という妹もいた。

 ある日、ポールとキャサリンは最後の望みを託して一人の教師を雇う。それがデーブラージ・サハーイ(アミターブ・バッチャン)だった。デーブラージは傲慢で強引な男だったが、どうすればミシェルが言葉やマナーを覚えるか知っていた。彼の口癖は「不可能はない」だった。ポールの反対にあいながらもデーブラージはミシェルに根気良く言葉とマナーを教え、水に「water」という名前があることを知ったのをきっかけに、全ての事象には名前があることを認識する。

 それからミシェルは多くの言葉を覚え、やがて大学に入学することができた。しかし、盲目で聾唖者のミシェルには進学することが難しく、落第していた。だが、ミシェルは諦めなかった。だが、その内デーブラージに異変が起こり始めた。やたらと物忘れが激しくなったのだ。アルツハイマー痴呆症である。

 そのとき、ミシェルの妹サラの結婚式が行われた。ミシェルは世の中に愛、結婚、キスというのものがあることを知る。その夜、ミシェルはデーブラージにキスを迫る。デーブラージは彼女にそっとキスをし、そのまま彼女のもとを去る。そのまま彼は長い間帰って来なかった。

 それから12年の歳月が過ぎ去った。ミシェルは40歳になっていた。だが、デーブラージの消息は分からなかった。ある日、教会からの帰りに、突然ミシェルとサラはデーブラージが噴水の傍に座っているのを発見する。だが、デーブラージは元々目に病気を抱えており、既に盲目となっていた。しかもアルツハイマー痴呆症は末期症状に達しており、彼は何も覚えていなかった。ミシェルのことすら忘れていた。ミシェルは必死にデーブラージに記憶を思い出さそうとするが、効果はなかった。

 その年、ミシェルは遂に大学を卒業することになった。彼女はデーブラージの前で自分が大学を卒業したことを示す。ミシェルの大学卒業はデーブラージの夢でもあった。デーブラージは彼女の卒業の衣を触り、少しだけ記憶を取り戻す。デーブラージは、この世界に不可能がないことを、自らの身をもって再び証明したのだった。今度はミシェルが、デーブラージに言葉を教える番だった。

 またひとつ、突然変異的な傑作インド映画が誕生した。あらゆる意味で「Black」は普通のインド映画ではない。インド映画の伝統や枠組みを打破するインド映画である。ミュージカル・シーンがない、歌と踊りがない、あからさまなコメディーが入らない、大袈裟な効果音が入らない、演技がヒーロー、ヒロインっぽくない、舞台はインドなのにインドを感じさせない、などなど、インド映画がこれまで遵守して来たルールを全て無視するかのような衝撃的な映画だった。

 これまでボリウッドのスターというと、皆が憧れるようなかっこいいヒーロー役しか演じて来なかったイメージがある。だが、最近は頭の狂った人のような役を演じるスターが増えてきた。「Koi... Mil Gaya」(2003年)ではリティク・ローシャンが知能障害児の役を演じていたし、「Rakht」(2004年)でもスニール・シェッティーが精神病の患者を演じていた。「Bhoot」(2003年)ではウルミラー・マートーンドカルが幽霊に取り付かれた女性の役を演じていたのも記憶に新しい。だが、ここに来てボリウッド界で演技派女優としての地位を確立しつつあるラーニー・ムカルジーが、目が見えず、耳が聞こえず、口も利けないというヘレン・ケラーみたいな三重苦の女性役という困難な役に挑戦し、周囲を驚かせた。目はあさっての方向を向き、ガチョウのようなヨチヨチ歩きをし、怒ると奇声を発して手足をばたつかすという、見ていて不快になるほどの迫真の演技だった。捨て身の演技と形容してもいい。ラーニー・ムカルジーはデビュー当初から地味な印象が強いが、彼女こそ同世代の女優陣の中で最も演技力のある女優であることが、この映画でも証明された。

 この作品の脚本は、アミターブ・バッチャンのために書かれたと言われている。よって、アミターブ・バッチャンの演技も素晴らしかった。回想シーンでのバッチャンは、三重苦の少女に何とか言葉とマナーを教え込もうとする熱血教師を威厳たっぷりに演じ、現在のシーンではアルツハイマー痴呆症に冒され、盲目となった患者をやはり鬼気迫る演技で演じていた。バッチャンなくしてこの映画は成立しなかっただろう。アミターブ・バッチャンとラーニー・ムカルジーのキスシーンはかなりのレア物だと思うのだが・・・。

 そして最も驚いたのは、8歳のミシェルを演じたアーイシャー・カプールという子役の俳優。アーイシャーはポンディシェリー出身、演技経験の全くない9歳の少女らしいが、この子は本当に障害児なんじゃないかと疑ったくらいの文句の付けどころのない演技だった。前々から僕はインド映画の子役の演技力の無さを憂いていたが、この子のような演技のできる子役が出てくると、インド映画の将来が楽しみになって来る。ハリウッドで俗に「天才子役」ともてはやされる子役俳優と比べても遜色ないどころか、勝るとも劣らない圧倒的演技力だった。

 その他、父親を演じたドリティマーン・チャタルジー、母親を演じたシェールナーズ・パテール、妹を演じたナンダナー・セーンなど、どれもインド国内や国際舞台で活躍する演技派俳優で、隙がなかった。

 ストーリーを読めば分かるが、この映画は明らかにヘレン・ケラー(1880-1968)の生涯をベースにしている。アミターブ・バッチャンが演じたデーブラージ・サハーイは、ヘレン・ケラーを献身的に支えたサリヴァン先生とそっくりであり、水が重要な役割を果たしたこと、口に手を当てて発声方法を知覚したこと、盲目聾唖者でありながら大学を卒業したことなど、ヘレン・ケラーの伝記に出てくる事項とそっくりである。

 時代設定や環境設定はいまいち理解不能だった。一応英領インド時代のシムラーということになっており、人々は英語とヒンディー語をしゃべっていたが、街並や風景はまるで外国のようだった。いくら英領インド時代と言っても、シムラーがこれほどイギリス色に染まっていたとは思えないのだが・・・。だが、現在のシムラーを見ているからそう思うだけであって、実際当時のシムラーはこんな感じだったのかもしれない。いったい西暦何年の話なのかはよく分からなかったが、映画中の風景に出てくる映画館にチャーリー・チャップリンの「キッド」(1921年)や「黄金狂時代」(1925年)の看板が出ていたので、その辺りの話ということだと思う。俳優陣も、インド人にしては白人の顔に近い人々が意識的に選ばれていたような印象を受けた。

 映画では雪が非常に印象的な役割を果たしている。今年のシムラーは大雪だったようだが、この映画が撮影されていた去年の1月は全然雪が降らなくて撮影に支障が出たという。そこで監督は大量の塩を辺り一面にまいて強引に雪に見せたそうだ。相当塩の無駄遣いをしたのではなかろうか・・・。

 「Black」は、ボリウッド映画というよりも、限りなくハリウッド映画に近いインド映画である。今までラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督などがハリウッド映画っぽいインド映画を送り出して来たが、これほどまでインド色とインド映画色を消した、かつ完成度の高いインド映画はなかった。ボリウッドもやればできるのだ。だが、やろうとしなかっただけなのだ。なぜならそれは庶民の求めるものではないからだ。「Black」は、英語のセリフが全体の半分以上を占めており、庶民を対象とした映画ではない。かと言って、上流層のみをターゲットにしたお高くとまった芸術映画でもない。経済開放後、急速にインドで発達しつつある中産階級を対象とした映画だ。以前のインド映画界では、娯楽映画と芸術映画が全く別の道を歩んでいた。庶民は息抜きに娯楽映画を楽しみ、上流階級は芸術映画を鑑賞して悦に入るという構図が出来上がっていた。しかし、21世紀に入り、庶民と上流階級の中間に当たる中産階級が勃興してきたことにより、娯楽映画と芸術映画の中道を行く映画が模索され始めた。それにより、ヒングリッシュ映画や、社会性の強いヒンディー語映画などが多数製作されるようになり、シネコンの普及を受けて都市部の映画館でも一般公開されるようになった。「Black」は、それらの模索の中で導き出されたひとつの完成形と言ってもいいだろう。猿真似と揶揄されるくらい徹底的にハリウッド映画の手法を取り込み、インド人俳優とスタッフでハリウッド映画のような映画を作ってしまった。これはインド映画史に残る事件かもしれない。

2月6日(日) スティング・コンサート

 2004年2月7日のブライアン・アダムス、同年10月1日のシャギーに続き、今度は英国のロック歌手、スティングがデリーにやって来た。昨年からデリーでは海外の有名アーティストがコンサートを行っているが、ここ2年の間デリーでコンサートを行った海外ミュージシャンの中で、スティングが一番のビッグネームだろう。スティングは現在「セイクレッド・ラブ・ツアー」と題した世界ツアーを行っており、1月には日本も公演して回ったようだ。インドではバンガロールとデリーで2回公演が予定されており、2月4日には既にバンガロールでコンサートが行われた。バンガロール公演の後、スティングはヴァーラーナスィーを経由してデリーに来訪し、公演を行った。

 ブライアン・アダムス・コンサートのチケット料金は750ルピーと500ルピーで、シャギー・コンサートのチケット料金は600ルピーと400ルピーだったが、スティング・コンサートのチケット料金はかなり強気の2000ルピー、1500ルピー、900ルピー。これもスティングの名が成せるわざか。ちなみにスティングの日本公演のチケット料金は9000円と8000円だったようだ。1ルピー=2.5円なので、インドで日本よりも安くスティング・コンサートに参加することができてラッキーと考えることもできるが、その一方で日本とインドの物価の差を考えると、これはベラボウに高い料金設定とも言える。会場はデリー北部、ピータムプラーにあるディッリー・ハート建設予定地の空き地。つまり野外コンサートだ。シャギー・コンサートが行われた場所と同じである。デリーの富裕層の多くはデリー南部に住んでおり、こんな僻地をコンサート会場に選ぶのは不便だと思うが、それにはいろいろな意図がありそうだ。シャギー・コンサートと同様に、スティング・コンサートもデリー観光局がスポンサーに付いている。ディッリー・ハートを管理するデリー観光局は、新ディッリー・ハート建設予定地のこのピータムプラーの場所をなるべく多くの人々に覚えてもらうために、わざわざこんな不便な場所をコンサート会場に選んでるのではなかろうか。また、この会場のすぐそばにはデリーメトロが通っており、デリー政府としても、デリーが世界に誇るデリーメトロをなるべく見せびらかしたい意図があると思われる。それだけでなく、観客はメトロを利用してコンサート会場に来ることができるので、交通渋滞の緩和がある程度期待されることも大きな理由だろう。また、飛行場近くの南デリーでコンサート行うと、上空を飛行機が通過して、騒音がコンサートを台無しにするというなかなか納得のいく理由もあるようだ。

 スティングやポリス(スティングが所属していたバンド)の曲は高校時代に少し聞いていたような記憶があるが、実はあまり詳しくない。一応デリーに来てくれた海外ミュージシャンのコンサートは欠かさず見に行こうと思っているので、今回も行くことに決めた。チケットはプラネットMで購入、迷わず2000ルピーのチケットを買った。いったいどんな人が2000ルピーもの大金を払ってスティングのコンサートを見に来るのか、見てみたかった。

 スティングは1951年10月2日、英国で生まれた。本名はゴードン・マシュー・サムナー。母親がクラシック音楽のピアニストだったため、音楽の道へ自然に入り込んだようだ。だが、彼の人生はそれほど平坦ではなく、プロのミュージシャンになる前に英語教師、サッカー・コーチ、排水溝掘りなどの仕事を経験した。ロンドンでジャズバンドに参加したゴードンは、黄色と黒のツートンカラーのジャージ(ブルース・リーの真似?)をいつも着ていたことから、「蜂の針」を意味する「スティング」というあだ名を付けられた。1977年にギタリストのアンディー・サマーズ、ドラマーのスチュワート・コープランドらと共に「ポリス」というバンドを結成し、「ロクサーヌ」のヒットにより一躍有名となる。1980年にスティングはポリスのメンバーとしてインドで公演を行った。1985年にスティングはポリスを脱退し、ソロ活動を始める。1998年にもスティングはインドでソロ公演を行った。

 どうやらスティングは相当インド好きのようで、特にヨーガやインド古典音楽に入れ込んでいるようだ。スィタール奏者として有名なラヴィ・シャンカルやその娘アヌーシュカ・シャンカルなどとも親交があるそうだ。インド旅行もけっこうしており、今までヴリンダーヴァン、ヴァーラーナスィー、ゴークル、ジャイサルメールなどを旅行したという。今回のツアーの題名になっている「Sacred Love」という曲は、インドのために書いたと彼自身が明かしていた。

 コンサート当日、デリーではあいにく朝から雨が降っていた。コンサートの開場は5時半、開始は7時とのことだったが、5時頃にはまだ雨が降り続いていた。しかし、コンサートが始まる頃には止んでくれた。会場の警備を行っているデリー警察も、国際的コンサートの警備の経験がだいぶ蓄積されてきたようで、駐車場の配置、車両誘導、観客誘導が次第に組織的になってきたと感じた。前回、セキュリティーの厳しさに打ちのめされたため、万全を期して今回は全く手荷物なし、携帯電話も持たずに会場に来た。おかげで入場の際には何のトラブルもなかった。デリーで行われるコンサートでは、カメラ、バッグ、飲食物などの持ち込みは厳しく制限されているのが慣例だ。観客の中には外国人の姿が目立ち、特に白人が多かった。後日の報道によると観客数は6千人以上とか。ステージに一番近い2000ルピー席では、シャギー・コンサートを遥かに越える密集度だった。コンサートは30分遅れで開始。だが、雨が降って機材の調整が遅れたのが原因と思われるため、仕方ないだろう。ブライアン・アダムスとシャギーのコンサートではインド人による前座があったのだが、今回はいきなりスティングが出てきてくれた。コンサート時間も2時間ピッタリで適切な時間だった。結果的にスティングの音楽の内容如何に関わらず、今までで一番快適なコンサートであった。




スティング


 だが毎回コンサートに来て残念に思うのが、インド人観客のマナーの悪さだ。チケットの裏に書かれていた注意事項には、アルコール類の摂取や喫煙が厳禁とされていたにも関わらず、コンサート中タバコを吸う人が何人もいて、またコンサートが終わった後には酒の空き瓶が転がっていた。多分ドラッグをやっていた人もいただろう。臭いで分かった。僕の近くでは、白人のおばさんがタバコを吸うインド人女性にぶち切れて、「ここは禁煙だ。今すぐタバコを消せ!」と怒り、口論が発生していた。1人2000ルピーのチケット代を払うだけの経済力がある人々にもマナーがないのは先が思いやられる。権利だけ主張して義務は守らないインド人の悪い癖を改めて実感することになった。

 ちょうど「Page3」という映画でムンバイーのセレブの表と裏が描かれていたが、このスティング・コンサートもデリーのセレブが集結する場となっていたように思える。コンサートが終わった後も多くのゴージャスな身なりの人々が会場に残り、お互いに挨拶し合っていた。やはりタバコを吸う女性の姿が非常に目立った。タバコを吸うことがステータスだと思っているインド人女性が最近どうも急増しているようで、僕は1人心を痛めている。会場にはインド人ロックバンド、ユーフォリアやパリクラマー、サロード奏者のアマーン&アヤーン兄弟(アムジャド・アリー・カーンの息子たち)も来ていたそうだ。

 肝心の曲目だが、ちょっと予習していったにも関わらず、スティングについて語れるほど知識がないため、あやふやである。ポリス時代からソロ時代まで幅広く演奏しており、デビュー曲の「Roxanne」から、「Message In A Bottle」、「Every Breath You Take」、「Englishman In New York」、「Shape of My Heart」、最新曲の「Desert Rose」を演奏し、アンコールでインドのために書いたという「Sacred Love」を演奏した。ほとんど観客との交流なしにコンサートが進行していったのは残念だった。ブライアン・アダムスやシャギーは、観客の1人をステージに上げて、一緒に歌を歌ったりしていたのだが、スティングはそういうことはしなかった。スティングの最初の一言は「ナマステー、デリー!」。そういえばシャギーはデリーの観客の前で間違えて「ハロー、ムンバイー!」と言ってヒンシュクを買っていた。

 この調子だと1年に2回、海外アーティストの公演が行われることが定例化しそうだ。さあ、次はどのアーティストが来るのだろうか?

2月9日(水) チャンドラ・ボース伝説、再び

 世界の歴史をひもとくと、一般に死去したと考えられながら「〜は実はそのとき死んでいなかった」という説が出回っている人物がけっこういるものだ。日本では、例えば源平時代の英雄、源義経に不死伝説があり、「義経は実はチンギス・ハーンになった」という説まであるし、本能寺にて織田信長を討った明智光秀も、実は死なずに天海という僧侶となって徳川家康に仕えたという説がある。エルビス・プレスリーがまだ生きていると考えている米国人も多いと言うし、アドルフ・ヒトラーは第二次世界大戦時に死んでいないとする説もある。インドでそのような人物を挙げるとするならば、スバーシュ・チャンドラ・ボースだろう。

 スバーシュ・チャンドラ・ボースはベンガルの英雄として、またインド自由独立闘争の英雄として広く知られている人物である。ボースはマハートマー・ガーンディーやジャワーハルラール・ネルーら国民会議派の指導者と共にインド独立を夢見たものの、彼の取った手法は「非暴力・非服従」とは正反対の過激派の道であり、「敵の敵は友」と主張してナチス・ドイツや軍国主義の日本とも関わりを持った。ボースは英国当局から目を付けられただけでなく、国民会議派幹部からも疎まれる存在となったため、彼の評価はインド国内でも国際的にも複雑である。だが、多くの証拠から、ボースは愛国主義には賛成だったものの、当時のドイツや日本で支配的になりつつあった偏屈な民族主義や軍国主義には反対していたことが伺われるし、現在に至っても南アジアの政情は妥協の産物であった印パ分離独立という悲劇から抜け出せておらず、一向に安定していないことを見ると、ボースが抱いた全インド完全独立の夢とその急進的手法が完全に間違っていたとは言い切れないと思われる。また、日本と最も深く関わったインド人という観点からも、ボースを再評価することは我々日本人にとって非常に重要である。

 スバーシュ・チャンドラ・ボースは1897年1月23日、現在のオリッサ州カタクに生まれた。ボースの家系はいわゆる名門で、父親は社会的に高い尊敬を集めていた弁護士だった。ボースの教育は英国式に行われ、1913年にカルカッタの大学に入学した。在学中にボースはヴィヴェーカーナンダの哲学に影響されて苦行者を目指し、突然苦行の旅に出てしまったり、当時ベンガル地方に普及していていた過激派の思想に傾倒し、傲慢な英国人教授を殴って停学処分となったりした。何とか復学したボースは大学を卒業し、1919年英国ケンブリッジ大学に留学する。ボースは1920年にインド高等文官試験(ICS)を受験して合格したが、英国の手先となるのを潔しとしていなかった上に、独立闘争に命を捧げることを決意していたため、官僚になるのを拒否した。

 1921年にインドに帰国したボースは、当時既にカリスマ的指導力を発揮していたマハートマー・ガーンディーや、ベンガル地方の独立運動指導者チッタランジャン・ダースと出会い、本格的にインド独立のための闘争に身を投じる。国民会議派内部にスワラージ党を結成したダースは1922年にカルカッタ市長に就任し、腹心のボースは行政長官となった。だが、独立運動の過熱を恐れた英国当局は難癖を付けてスワラージ党を弾圧し、1924年にボースは逮捕されてビルマのマンダレー監獄に収容されてしまう。さらに追い討ちをかけるように、1925年にダースは急死してしまう。ボースは監獄で病気となって釈放されると、ベンガルに戻ってスワラージ党の再建に尽力した。

 1929年、マハートマー・ガーンディーは「塩の行進」を行って英国の圧政に対抗すると、ボースもそれに従い、再び逮捕投獄されてしまう。1930年、ボースは獄中からカルカッタ市長選挙に立候補し、有権者の圧倒的支持を受けて当選を果たす。次第にガーンディーの穏健な手法に反発を覚え始めていたボースは、ガーンディーやジャワーハルラール・ネルーらと袂を分かつようになった。ボースは何度も投獄と釈放を繰り返す内に健康を害し、1933年からウィーンで療養することになった。すぐに健康を取り戻したボースは、積極的にヨーロッパ各国の政治家や知識人と交流した。ウィーン滞在中、ボースはオーストリア人秘書のエミリーと密かに結婚する。1936年、ボースはインドに戻るがすぐに逮捕される。1938年にガーンディーの意向によって国民会議派年次大会の議長に就任したボースは会議派内で影響力を強めた。ボースは翌年も議長を務めようと画策し、実際に投票により支持を受けたが、今度はボースの政治力の増大を恐れたガーンディーの反対を受けて辞任せざるを得なかった。ボースは会議派内の急進派をまとめてフォワード・ブロックを結成した。この頃からボースは日本への亡命を考えており、フォワード・ブロックは日本からの極秘の資金援助を受けていたという。同じ頃、ヨーロッパではナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発していた。1940年、ボースはまたも逮捕されたが、釈放中に変装して脱走し、アフガニスタンとソビエト連邦を経て、1941年にやっとのことでドイツのベルリンに到着した。ベルリンにてボースは自由インドラジオ局や自由インドセンターを設立し、海外からインド独立運動を行った。

 1941年12月8日に米国に宣戦布告した日本は快進撃を続け、東南アジアまで手中に収める。それを知ったボースは日本行きをますます募らせた。また、アドルフ・ヒトラー総裁との会談が失敗に終わったこともボースの気持ちを日本へ向けた。日本もボースのカリスマ的指導力に関心を持ち、ドイツにボースを引き渡すよう要求した。遂にボースの日本行きは決定されたが、その引き渡し方法は無謀なものだった。ボースを乗せたドイツの潜水艦が日本の潜水艦とインド洋上で合流し、海上でボースが潜水艦から潜水艦へ乗り移るという計画だった。1943年2月8日にドイツ軍潜水艦Uボートに乗ってドイツを出港したボースは、4月27日夜から28日朝にかけて、無数の鮫が泳ぐインド洋上で日本軍の伊26号にボートで乗り移り、5月6日に日本領だったスマトラ島へ到着した。そこから飛行機で日本へ向かったボースは、5月16日に東京へ到着した。ボースは東条英機首相と会談し、日本のインド独立運動支持を取り付けた上に、日本国民にも熱狂的に迎えられることになった。ボースは「中村屋のボース」として知られていたラース・ビハーリー・ボースと共にシンガポールへ向かい、そこでマレー半島在住インド人や英印軍から寝返ったインド兵を中心に編成された約4万人のインド国民軍(INA)の総司令官に就任すると共に、自由インド仮政府設立を宣言する。このときからスバーシュ・チャンドラ・ボースは、「ネータージー(指導者)」の尊称で呼ばれるようになり、合言葉は「チャロー・ディッリー(デリーへ進め)」になった。日本政府は自由インド仮政府の当面の領土として、当時占領下にあったアンダマン&ニコバル諸島を提供する。ボースは同諸島をスワラージ&シャヒード(自治と殉死)諸島と改名する。

 各方面で劣勢に陥っていた日本は、戦況の起死回生のために1944年3月よりインパール作戦を実行に移す。一日も早くインドの土を踏むことを願っていたインド国民軍からは6千人が作戦に参加した。だが、インパール作戦は元々無謀な作戦であったために失敗に終わった。作戦が予定通りに進行せず、雨季が早く到来するという不運もあった。日本軍もインド国民軍も多大な犠牲を払いながら退却しなければならなかった。

 1944年10月、ボースはラングーンまで戻り、一度東京に飛んで自由インド仮政府の足固めを行い、再びラングーンに戻った。英印軍はビルマに押し寄せており、ボース率いるインド国民軍は日本軍と共によく戦ったが守りきれず、1945年5月にはバンコクまで退却することになった。もはや東方よりインドに侵攻することが困難となった今、ボースはインド国民軍を北京、上海、天津のいずれかに移し、ソ連と連携してインド北方よし侵攻することを画策していた。また、インド本国ではインドとパーキスターンの分離独立の気運が高まっており、ボースはインドに向けて中途半端な独立に警鐘を鳴らしたが多くの人は耳を傾けなかった。

 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し降伏する。既に日本降伏を数日前から知っていたボースはシンガポールに戻っていた。ボースはソ連行きを決め、8月17日にサイゴンから九七式重爆撃機に乗って飛び立った。飛行機はツーランに一度着陸し、18日正午に台湾の台北に到着した。ボースの乗った飛行機は大連(東京とも言われる)に向けて飛び立ったが、離陸時の事故により墜落し、機体は爆発炎上した。ボースは陸軍病院に運ばれたが重傷で、同日午後8時半〜9時に死亡した。

 ボースの遺体は台北の神社で火葬にされ、遺骨は東京に運ばれて杉並区の蓮光寺に安置された。これがスバーシュ・チャンドラ・ボースの一生である。

 だが、病院でボースの死を看取った人が大勢いるにも関わらず、「ボースは実は死んでいなかった」とする説がインド人の間でまことしやかに信じられている。一番有名な説は、ソ連にまで到達したものの捕虜となり、シベリアで死去したというものだが、その後も生き続けたと信じているインド人も多い。もし今も生きていたら100歳を越えるため、「今でもまだ生きている」などと主張する人は少ないが、少なくとも1985年まで生きていたとする興味深い説がある。それは、「バグワーンジー=ネータージー説」である。バグワーンジーとはウッタル・プラデーシュ州ファイザーバードで1985年9月16日に死去した聖人であり、グムナーミー・バーバー(名無し和尚)とも呼ばれていたという。彼の容貌はボースそっくりであったと言われるが、バグワーンジーは常にカーテンの裏におり、信者でも滅多に顔を見ることができなったそうだ。遺品の中にもボースとの関連を裏付ける証拠品がいくつもあるとか。だが、実際のところはどうなのか、全く分からない。

 最近になって、再びその不死伝説に火を注ぐ記事が新聞に掲載された。2月5日付けのザ・ヒンドゥー紙によると、台湾政府が最近インド政府に対し、チャンドラ・ボースが飛行機事故で死んだとされる1945年8月18日に、台北で一件も飛行機事故が起こった記録がないと通達したのだ。台湾政府が所有する文献によると、台北では1945年8月14日から9月20日までいかなる飛行機事故も発生していないという。だが、当時は日本の降伏で政局が大混乱した時期だったので、記録が残っていなくても不思議ではない。

 ちなみに、現在、インド最高の映画監督として名高いシャーム・ベネガル監督がスバーシュ・チャンドラ・ボースの最後の5年間を描いた映画「Netaji:The Last Hero」または「Bose:The Forgotten Hero」(どちらが正式名称か分からない)が一般公開間近となっている。ボース役は「Tere Naam」(2003年)などに出演のサチン・ケーデーカルが演じる。東条英機や日本軍将校などの日本人役はどうなるのかが気になるところだが、今のところ日本人が出演するという情報はない。おそらくチベット人やスィッキム人あたりが日本人を演じるのではないかと思う。

2月10日(木) Shabd

 今日はPVRアヌパムで新作ヒンディー語映画「Shabd(言葉)」を見た。監督・脚本はリーナー・ヤーダヴ(初監督)、音楽はヴィシャール・シェーカル。キャストは、サンジャイ・ダット、アイシュワリヤー・ラーイ、ザイド・カーンなど。




左からザイド・カーン、
アイシュワリヤー・ラーイ、サンジャイ・ダット


Shabd
 シャウカト・ヴィシシュト(サンジャイ・ダット)は人気小説家だったが、2年前に発表した小説が「現実感がない」と批評家の酷評を受け、それ以来立ち直れないでいた。シャウカトの妻、アンタラー(アイシュワリヤー・ラーイ)は夫を愛しており、精一杯支えていた。シャウカトとアンタラーはゴアに移り住んでいた。

 ある日、シャウカトは新しい小説を書き始めることを決める。主人公は女性、だが、母でもなく、妻でもなく、姉妹でも娘でもない、1人の独立した女性。女性の名前はタマンナー(「欲望」という意味)。シャウカトは密かにアンタラーをタマンナーのモデルにする。

 アンタラーは芸術学校の教師をしていた。シャウカトが新しい小説を書き始めた日、アンタラーが勤める学校に新しい教師がやって来る。彼の名はヤシュ(ザイド・カーン)。自由奔放でまるで生徒と区別が付かないくらいヤンチャなヤシュの態度にアンタラーは困惑するが、それを聞いたシャウカトは、ヤシュに既婚であることを隠し、関係を築くよう指示する。ヤシュはアンタラーに一目惚れし、アンタラーに言い寄るようになる。シャウカトはヤシュを小説の中に登場させ、彼が行動すべきことを言葉にすると、ヤシュもその通りに現実世界で動いた。

 ヤシュはある日アンタラーをデートに誘った。シャウカトはアンタラーに承諾するよう指示した。アンタラーはヤシュと出かけ、そのまま早朝まで帰らなかった。そのとき初めてシャウカトはアンタラーを失う恐怖を感じ始める。だが、小説の執筆は続けていかなければならなかった。次第にシャウカトの精神が分裂し始める。

 遂にヤシュはアンタラーにプロポーズをするようになった。シャウカトの嫉妬が頂点に達したとき、彼はヤシュが死ななければならないと決定する。シャウカトはアンタラーに、自分が既婚であることを告白するように指示する。アンタラーがそのようにすると、ヤシュは諦めて去って行ってしまった。それを聞いたシャウカトは驚く。シャウカトの小説では、ヤシュは恋に破れ自殺するはずだった。だが、ヤシュは死ななかった。小説の世界と現実世界の亀裂はシャウカトの精神を損傷させてしまい、アンタラーは彼を精神病院に入れざるをえなかった。

 「ストーリーに現実感がない」と酷評された小説家が、自分の妻の人生を題材に小説を書いている内に、現実と空想の世界の区別がつかなくなり、遂には頭がおかしくなってしまう、という悲しいストーリーだった。ラストシーンは一応暗くなりすぎないように配慮されていたが、特に中盤から終盤にかけて非常に暗鬱で混乱を催す映画だった。その暗鬱と混乱こそが、主人公の脳裏でまさに起こっていることなのだが・・・。

 この映画の脚本は、元々カリーナー・カプールのために書かれたという。だが、カリーナーは別の映画のスケジュールが入っていて契約することができず、イーシャー・デーオール、スシュミター・セーンなどを巡った挙句、アイシュワリヤー・ラーイに落ち着いたとか。また、シャウカト・ヴィシシュトの役もアクシャイ・クマール、シャールク・カーン、サルマーン・カーンなどを巡って、サンジャイ・ダットに決まった。

 男女の三角関係が主軸になっている映画だが、通常の三角関係映画ではなかった。男と女と男の三角関係でありながら、男同士の対決がないのだ。だがもっといろんな意味で異常な映画だった。小説家シャウカトが妻アンタラーにさせる行動は異常であるし、アンタラーも素直に夫の言うことを聞いてヤシュと関係を保つのはおかしかった。ヤシュのキャラクターも現実感がなく、まるで幽霊のように現れて幽霊のように消えて行ってしまった。小説と現実の境界が次第に消えていくのがこの映画の売りだと思うのだが、キャラクター設定自体に現実感がないのは致命的だった。

 サンジャイ・ダットはマフィアの役が一番板に付いており、小説家のようなインテリの役はあまり似合わないと思うが、いい演技をしていた。アイシュワリヤー・ラーイも手を抜いていなかった。おそらくこの映画の一番の見所は、サンジャイ・ダットとアイシュワリヤー・ラーイのベッドシーンであろう。今までアイシュワリヤーは、キスシーンやベッドシーンを絶対に許さない女優だったが、「Kyun...! Ho Gaya Na」(2004年)で実生活の恋人ヴィヴェーク・オーベローイと大胆なキスシーンを披露してからは、次第に際どいシーンにも挑戦するようになって来ている。最近ではアイシュワリヤーはマイケル・ダグラスの次作「Racing the Monsoon」に出演することが決まり、さらなるキスシーンは避けられない状況となって来たというのが情報筋の観測である。もう1人の主演、ザイド・カーンは最近人気急上昇中の若手男優だ。まだ演技に幅がないが、チャラチャラした若者を演じさせたら今のところ彼にかなう若手男優はいない。

 インド映画の扱うテーマが広がって来ているのを感じさせてくれる映画だったが、インド映画を新たな方向へ引っ張ろうとしつつも、インド映画の悪しき足枷から脱却できていないと感じさせられた。

2月13日(日) アングロ・インディアンの町、消滅の危機

 現在都市部を中心に話題を呼んでいる映画「Black」では、英国人とインド人の混血であるアングロ・インディアンの家庭が舞台となっていた。英領インド時代、英国人とインド人の混血が進み、ハーフの子供が生まれた。彼らをアングロ・インディアンと呼んでいる。「風と共に去りぬ」(1939年)のビビアン・リー(1913-1967年:ダージリン生まれ)にもインド人の血が入っているというし、インド人と外国人のハーフやクオーターで世界的に有名な人はけっこういるので、当時から英国人とインド人の結婚は決して珍しいことではなかったと思われる。「Lagaan」(2001年)や「Kisna」(2005年)では、英領インド時代におけるインド人男性と英国人女性の恋愛が描かれていたが、これらの話もまんざらフィクションとは言い切れない。だが、英国人とインド人の間に生まれた子供たちは、多くの場合、英国人からもインド人からも差別される存在だったという。英国社会にもインド社会にも溶け込めなかったアングロ・インディアンたちは、やがてひとつの町を作り、集住するようになった。それが、現在のジャールカンド州にあるマックルスキーガンジ(McCluskieganj)である。2月13日付けのサンデー・エクスプレス紙にマックルスキーガンジのことが書かれていた。

 マックルスキーガンジは、ジャールカンド州の州都ラーンチーから北西に70kmの地点にある。1932年、スコットランド人とインド人のハーフであり、裕福な貿易商だったアーネスト・マックルスキーは、アングロ・インディアンの理想郷を作るという夢を抱き、ラートゥー藩王国のマハーラージャーから土地を購入して、現在のジャールカンド州に町を作った。これがマックルスキーガンジの始まりである。すぐに、周囲の偏見に耐え切れなかったアングロ・インディアンたち350家族以上が、マックルスキーの町に移住して来た。彼らは赤い屋根と広いベランダのある英国風の家を建て、家畜を飼い、畑を作り、教会、学校、病院を建て、自給自足の生活を始めた。当時のマックルスキーガンジは、毎日のように演劇やピクニックやダンスが催され、広大なバラ畑が広がる、本当の理想郷だったようだ。第二次世界大戦が勃発し、英国やインドもその戦火に巻き込まれるも、マックルスキーガンジは平和なままだったという。

 ところが、1947年のインド独立により、マックルスキーガンジの運命はガラリと変わってしまった。英国の保護を受け、英国風の生活を送っていたマックルスキーガンジの人々にとって、英国がインドからいなくなることは考えられないことだった。マックルスキーガンジには何の産業もなく、独立インドの中で自立性を保っていくことは不可能に近かった。彼らの子供は相次いで英国、オーストラリア、カナダなどに移住した。マックルスキーガンジには鉄道駅があり、蒸気機関車時代は給水のために列車が必ず止まっていた。村人たちは、バナナや果物を売って毎日100ルピーは稼いでいたという。だが、列車がディーゼル化すると、マックルスキーガンジ駅の重要性は急減し、1日に特急2便と鈍行2便しか停車しなくなってしまった。よって、1日の稼ぎは40ルピーにも満たないという。昔は公務員などにアングロ・インディアンの留保枠があったようだが、それも取り払われてしまった。しかも近年は極左過激派組織ナクサライトの脅威が平和を脅かすようになった。これらの理由からマックルスキーガンジの人口はどんどん減少し、現在ではわずかに20家族のみが住んでいるという。インド全土を見ても、1947年の時点で30万人いたアングロ・インディアンは、現在では15万人にまで減っているというデータがある。




マックルスキーガンジに住む
アングロ・インディアン


 それでも、最近になって海外や他の地域に移住していたマックルスキーガンジ出身のアングロ・インディアンが、故郷に帰って来るというUターン現象もあるようだ。だが、英領インド時代の置き土産がこの先どうなってしまうのか、おそらく気に掛ける人はほとんどいないだろう。

2月15日(火) 2004年ボリウッド映画界を振り返る

 インドで最も権威のある映画賞であるフィルムフェア賞のノミネート作品が2月13日に発表された。第50回を迎える今年のフィルムフェア賞は、2004年に公開された映画が対象となる。ノミネート作品の紹介や受賞作品の予想と共に、昨年のボリウッド映画を振り返ってみようと思う。

Best Fim
作品賞
Dhoom
Hum Tum
Main Hoon Na
Swades
Veer-Zaara

 2004年のインド映画は、面白い映画が多かったものの、大規模なヒット作には恵まれなかった。インド人とパーキスターン人の恋愛を描いたヤシュ・チョープラー監督の期待作「Veer-Zaara」(製作費3億ルピー、興行収入4億ルピー)は決して駄作ではないものの、思ったほど大ヒットせず、観客の反応もまあまあだった。NASAで働くインド人が農村に戻って改革を行うという筋のアシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の「Swades」(製作費3億ルピー、興行収入1.7億ルピー)ははっきり言って期待外れで、興行的にも成功しなかった。有名振付師のファラハ・カーンが初めて監督を務めた「Main Hoon Na」(製作費2.5億ルピー、興行収入3.3億ルピー)は、徹底的な娯楽映画に仕上がっており、その徹底振りが幸いしてヒットを記録した。漫画家が主人公というクナル・コーホリー監督のデビュー作「Hum Tum」(製作費0.7億ルピー、興行収入2.5億ルピー)は、タイムズ・オブ・インディア紙とのタイアップによりヒットした。サンジャイ・ガードヴィー監督の「Dhoom」(製作費?、興行収入3.1億ルピー)は、インドの若者にバイク旋風を巻き起こすほどブームを呼んだ。結局、2004年の映画の中で最も社会に影響を与えた映画は「Dhoom」だと言えるだろう。ちなみに、2001年の大ヒット作「Gadar」の興行収入は7.6億ルピー、同じく2001年の「Kabhi Khushi Kabhie Gham」や、2003年の大ヒット作「Koi... Mil Gaya」の興行収入は5.3億ルピーである。興行収入だけで映画を評価することはできないが。

 この他に2004年の映画で面白かったものは、ムンバイーの売春婦をカリーナー・カプールが熱演した「Chameli」、シェークスピアの「マクベス」を翻案した「Maqbool」、敏腕刑事の悲しい復讐劇を描いた「Ab Tak Chappan」、タイのバンコクを舞台とした不倫サスペンス映画「Murder」、著名な画家MKフサインが監督を務めた幻想的映画「Meenaxi : Tale of 3 Cities」、不倫をコメディータッチで描いた「Musti」、現代インドを代表する映画監督であるマニ・ラトナム監督の「Yuva」、人生に目的を見出せなかった若者が軍隊に入って愛国心に目覚める「Lakhsya」、アイシュワリヤー・ラーイとヴィヴェーク・オーベローイのキスシーンが衝撃的な「Kyun! Ho Gaya Na...」、後味のよいホラー映画「Rakht」、斜陽のボリウッドスターの表と裏をドキュメンタリータッチで描いた「King of Bollywood」、アイシュワリヤー・ラーイのハリウッドデビュー作「Bride & Prejudice」、40年の歳月を経てカラー化された伝説的名作「Mughal-e-Azam」、女性によるセクハラを描いた「Aitraaz」、サンジャイ・ダットがかっこよすぎる「Musafir」などである。これらのほとんどはDVDが発売されているので、もし2004年公開のインド映画のDVDを買おうと思う人がいたら、これらを探してみるといいだろう。

 2004年のボリウッド映画の最大の特徴と言えば、性描写の過激化であろう。「Murder」、「Girlfriend」、「Julie」など、過激な性描写で話題になった。これだけでなく、女優の肌の露出が極度に多かったり、ストーリーが際どかったりする映画も少なくなかった。この傾向は2005年に入った今でも続いており、ボリウッド映画が、次第に家族で安心して見れる映画でなくなっていることを懸念する声が高まっている。ただ、インド映画は元々暴力シーンなどが多くて、過去の映画も完全に家族向けではなかったことや、ミュージカル・シーンなど、歪曲的表現法によりストリップダンスよりもかえってエロいダンスとなっているものがけっこうあったことを付け加えておかなければならない。

 さて、上記ノミネート作品の内、受賞するのはどの映画だろうか?僕は「Veer-Zaara」と「Main Hoon Na」のどちらかだと思う。映画としては後者の方が面白かったが、ヤシュ・チョープラーの名声を考えると、前者が受賞する可能性が高い。

Best Director
監督賞
アーシュトーシュ・ゴーワーリカル Swades
ファラハ・カーン Main Hoon Na
ファルハーン・アクタル Lakshya
クナル・コーホリー Hum Tum
ラージ・クマール・サントーシー Khakee
ヤシュ・チョープラー Veer-Zaara

 監督賞は普通、映画賞と重なることが多い。「Dhoom」のサンジャイ・ガードヴィー監督がノミネートされず、「Lakshya」のファルハーン・アクタル監督と「Khakee」のラージ・クマール・サントーシー監督が加わっただけである。ファルハーン・アクタル監督は「Dil Chahta Hai」(2001年)で衝撃のデビューを果たしたが、第二作目の「Lakshya」は前作ほど話題を集めなかった。だが、個人的にはお気に入りの映画のひとつである。「Khakee」は去年の1月に見たので記憶が薄れているが、ノミネートされるほど面白い映画とは思えない。監督賞も、ファラハ・カーン監督とヤシュ・チョープラー監督の一騎打ちとなるだろう。

Best Actor
男優賞
アミターブ・バッチャン Khakee
リティク・ローシャン Lakshya
シャールク・カーン Main Hoon Na
シャールク・カーン Swades
シャールク・カーン Veer-Zaara

 シャールク・カーンが3作品でノミネート。アミターブ・バッチャンとリティク・ローシャンが食い込んだが、受賞するほど強烈な演技はしていない。2004年はシャールク・カーンの年だったと言っても過言ではないだろう。シャールク・カーンと言えば90年代のボリウッド映画界を代表する男優だが、21世紀に入っても彼の人気と演技は衰えていない。シャールク・カーンが受賞するのは確実だが、どの作品で受賞するかと問われたら、「Veer-Zaara」だろう。

Best Actress
女優賞
アイシュワリヤー・ラーイ Raincoat
プリーティ・ズィンター Veer-Zaara
ラーニー・ムカルジー Hum Tum
シルパー・シェッティー Phir Milenge
ウルミラー・マートーンドカル Ek Haseena Thi

 男優賞とは違って、予想するのが非常に難しい顔ぶれである。「Raincoat」でのアイシュワリヤー・ラーイの演技は素晴らしかったが、同作品はメインストリームではないのがネックか。ラーニー・ムカルジーは「Hum Tum」でノミネートされているが、「Veer-Zaara」の演技の方が素晴らしかったと思う(助演女優賞でノミネート)。代わりにプリーティ・ズィンターがノミネートされているが、それほどいい演技はしてなかったと思う。「Phir Milenge」のシルパー・シェッティーは確かによかったが、ちょっと場違いな印象を受ける。「Ek Haseena Thi」のウルミラー・マートーンドカルも迫真の演技をしていたが、受賞に至るほどではないのではなかろうか。よって、どの女優も決定打がない。ラーニー・ムカルジーの受賞が濃厚か。だが彼女の演技の真骨頂は、2005年に公開された「Black」である。気が早いが、彼女は来年の女優賞の最有力候補だ。

Best Actor In A Supporting Role
助演男優賞
アビシェーク・バッチャン Yuva
アクシャイ・クマール Khakee
アクシャイ・クマール Mujhse Shaadi Karogi
アミターブ・バッチャン Veer-Zaara
ザイド・カーン Main Hoon Na

 「Yuva」のアビシェーク・バッチャンが助演だったかどうかは別として、確かに同作品において彼は演技力を開花させた。是非アビシェークに受賞させてやりたい。だが、「Mujhse Shaadi Karogi」のアクシャイ・クマールも心憎い演技をしていた。もっとも、彼は同作品でコメディアン賞にもノミネートされているので、そちらでの受賞が好ましいと思われる。「Main Hoon Na」のザイド・カーンもよかった。この映画で彼は一気にスターダムにのし上がったと言ってよい。「Khakee」のアクシャイ・クマールと「Veer-Zaara」のアミターブ・バッチャンは受賞するまでもない。受賞はアビシェーク・バッチャンかザイド・カーンだろう。

Best Actress In A Supporting Role
助演女優賞
アムリター・ラーオ Main Hoon Na
ディヴィヤー・ダッター Veer-Zaara
プリヤンカー・チョープラー Aitraaz
ラーニー・ムカルジー Veer-Zaara
ラーニー・ムカルジー Yuva

 ラーニー・ムカルジーが「Veer-Zaara」と「Yuva」でノミネート。どちらの彼女の演技も素晴らしく、彼女が本命である。「Aitraaz」のプリヤンカー・チョープラーも確かに重要な役を演じており、受賞の可能性はあるが、同映画で彼女は悪役賞にもノミネートされており、虻蜂取らずになるかもしれない。「Veer-Zaara」のディヴィヤー・ダッターは女中役のくせに一番存在感があった。だが、助演というより脇役だったと思う。「Main Hoon Na」のアムリター・ラーオも悪くはなかったが、受賞するまでには至らないだろう。よって、ラーニー・ムカルジーがほぼ確実に受賞するだろう。

Best Actor In A Comic Role
コメディアン賞
アクシャイ・クマール Mujhse Shaadi Karogi
アルシャド・ワールスィー Hulchul
ボーマン・イーラーニー Main Hoon Na
パレーシュ・ラーワル Hulchul
サイフ・アリー・カーン Hum Tum

 インドの映画賞には独自の賞があるが、コメディアン賞はそのひとつだ。2004年も数々のコメディアンが笑いを提供してくれた。ノミネートされたのは上記の5人。映画と名前を見ただけで、コメディーシーンが浮かんで来る。この中で、サイフ・アリー・カーンはコメディアンというよりも主演男優だったと思う。2004年を代表するコメディー映画「Hulchul」からは2人がノミネート。あわてん坊の小物役を演じたアルシャド・ワールスィーは悪人顔だが面白い若手男優で要注目だ。パレーシュ・ラーワルはベテラン男優であり、この映画で一番笑わせるキャラクターだった。最近のコメディアンの中で一番面白いのは、「Main Hoon Na」でノミネートされたボーマン・イーラーニー。悪役や父親役も出来る、演技の幅が広いおじさん男優である。同作品でも最高に笑わせてくれた。「Mujhse Shaadi Karogi」のアクシャイ・クマールは、コメディアンとしての才能を開花させた。受賞コメディアンを予想するのは難しいが・・・アクシャイ・クマール、ボーマン・イーラーニー、パレーシュ・ラーワルの内のどれかだと思う。

Best Actor In A Villainous Role
悪役賞
アビシェーク・バッチャン Yuva
アジャイ・デーヴガン Khakee
ジョン・アブラハム Dhoom
プリヤンカー・チョープラー Aitraaz
スニール・シェッティー Main Hoon Na

 悪役賞もインド独特の賞である。女優の中で唯一プリヤンカー・チョープラーが「Aitraaz」でノミネート。部下の男性を誘惑する美人上司役を演じ、彼女の外見にピッタリの役だった。「Yuva」のアビシェーク・バッチャンは助演男優賞にもノミネートされており、どちらかで受賞したいところ。「Dhoom」のジョン・アブラハム、「Khakee」のアジャイ・デーヴガン、「Main Hoon Na」のスニール・シェッティーは、悪役賞受賞には貫禄が欠ける。プリヤンカー・チョープラーが受賞するのではないかと予想する。

Best Music Director
音楽監督賞
アヌ・マリク Main Hoon Na
アヌ・マリク Murder
ARレヘマーン Swades
マダン・モーハン Veer-Zaara
プリータム Dhoom

 インド映画にとって、音楽は非常に重要な要素である。音楽監督賞にノミネートされたのは4人。この内、マダン・モーハンは30年以上前に死去しており、異例のノミネートとなった。だが、さすがに昔の音楽家だけあって、彼の音楽は今風ではない。今年最もヒットした音楽と言えば、「Murder」と「Dhoom」であろう。「Murder」の音楽は今までのインド映画にはないメロディーで、インド人観衆にもうまく受け容れられた。「Dhoom」は映画のヒットとシンクロしてのヒットという性格が強いが、憶えやすいフレーズが功を奏したとも考えられる。よって、アヌ・マリクかプリータムの受賞が濃厚である。「Main Hoon Na」の音楽ももちろんよかった。

Best Lyricist
作詞家賞
ジャーヴェード・アクタル Main Hoon Na(Main Hoon Na)
ジャーヴェード・アクタル Yeh Taara Woh Taara(Swades)
ジャーヴェード・アクタル Aisa Desh Hain Mera(Veer-Zaara)
ジャーヴェード・アクタル Main Yaaha(Veer-Zaara)
ジャーヴェード・アクタル Tere Liye(Veer-Zaara)

 作詞家賞もインドならではだが、なんとノミネート作品全てジャーヴェード・アクタルの作詞曲。これは作詞家の欠乏を意味しているのか、それともジャーヴェード・アクタルの天才性を表しているのか。どの曲も少し口ずさめるほどポピュラーな曲だが、歌詞のよさという観点から優劣を付けると、僕は「Veer-Zaara」の「Main Yaaha」が一番いいと思う。「Yeh Taara Woh Taara」は童謡っぽいメロディーながら、少し説教臭い内容である。「Main Hoon Na」は軽すぎるし、「Veer-Zaara」の他の2曲の歌詞は「Main Yaaha」のサビの叙情にはかなわないだろう。

Best Playback Singer(Male)
プレイバック・シンガー賞(男性)
クナル・ガーンジャーワーラー Bheegey Hont Tere(Murder)
ソーヌー・ニガム Main Hoon Na(Main Hoon Na)
ソーヌー・ニガム Tumse Milke Dilka(Main Hoon Na)
ソーヌー・ニガム Do Pal(Veer-Zaara)
ウディト・ナーラーヤン
&マスター・ヴィグネーシュ
Yeh Taara Woh Taara(Swades)
ウディト・ナーラーヤン Main Yahaa(Veer-Zaara)

 プレイバック・シンガー賞(男性)ではソーヌー・ニガムが3曲でノミネート、ウディト・ナーラーヤンが2曲でノミネートという状態である。だが、ソーヌー・ニガムが歌った3曲は、それほど歌唱的に素晴らしいとは思えない。一方、ウディト・ナーラーヤンが歌う2曲はどちらもいい曲である。だが、本命は「Murder」の「Bheegey Hont Tere」を歌ったクナル・ガーンジャーワーラーだと思う。インド音楽ではなく、アジアのポップ音楽のような歌い方で、インド映画音楽の新天地を開いた。

Best Playback Singer(Female)
プレイバック・シンガー賞(女性)
アールカー・ヤーグニク Saanso Ko Saanso Mein(Hum Tum)
アールカー・ヤーグニク Lal Dupatta(Mujhse Shaadi Karogi)
アールカー・ヤーグニク Saanwariya, Saanwariya(Swades)
サードナー・サルガム Aao Na(Kyon! Ho Gaya Na...)
スニディー・チャウハーン Dhoom Machale(Dhoom)

 現代のインド映画女性歌手の女王アールカー・ヤーグニクが3曲でノミネート。この中では「Lal Dupatta」が個人的に好きな曲だ。「Saanso Ko Saanso Mein」という曲の曲名は「Hum Tum」のCDでは「Hum Tum」となっている。サードナー・サルガムの「Aao Na」はスローテンポのきれいな曲。この曲をバックにアイシュワリヤー・ラーイとヴィヴェーク・オーベローイがキスをした記憶がある。2004年、最も街角で流れることになった曲は、スニディー・チャウハーンの歌う「Dhoom Machale」。女性歌手への賞にはあまり合わない勇ましい曲だが、受賞の可能性は十分にある。この中で受賞作を選ぶのは困難だが、歌唱力から言ったらアールカー・ヤーグニク、話題性から言ったらスニディー・チャウハーンだろう。

 幸い、今年のノミネート作品は全て見たことがある映画ばかりだった。毎週のように公開されるヒンディー語映画を全て見尽くすのは不可能に近いが、フィルムフェア賞ノミネート作品を全て映画館で見ることができたのは、選択眼がよかったということだろう。さて、僕の予想はどこまで当たるだろうか。受賞作品発表は2月26日(土)である。

2月15日(火) 消えた虎

 ラージャスターン州の観光業が危機に瀕している。インドを代表する宮殿ホテルがあるウダイプルのピチョーラー湖は、ここ2〜3年続いている水不足のために大部分が干上がってしまった。世界自然遺産に指定されているケーオラーデーオ国立公園も水不足で、野鳥たちが飛来しなくなってしまうことが懸念されている。そして何より危機的なのは、サリスカー国立公園から虎が一匹もいなくなってしまった疑いがあることだ。

 1月23日付けのサンデー・エクスプレス紙は、「6月以来、サリスカーで虎を見ましたか?」という題名の記事を掲載した。サリスカー国立公園はラージャスターン州北部、アルワルの近くに位置する面積866平方kmの国立公園である。前回の国勢調査では24頭の虎が生息していたことが確認されていた。ところが、昨年の6月以来、観光客はおろか、公園を管理する森林局の局員までもが、1匹の虎も1つの足跡も見ていないという。虎が頻繁に目撃されるという12月から1月でも、目撃件数はゼロである。これだけ大規模な自然死は普通考えられないことから、密猟により絶滅してしまった可能性が非常に高い。

 この報道を受けて中央政府やラージャスターン州政府は、世界野生生物基金(WWF)インド支部の協力を得てサリスカー国立公園で大規模な捜索を行った。その結果が2日15日付けのインディアン・エクスプレス紙に載っていたが、やはり1匹も見つからなかったそうだ。

 インドでは一時、虎が絶滅の危機に瀕したことがあった。20世紀初めにはインドに4万頭の虎が生息していたとされるが、1973年に正式に虎の頭数調査が行われた結果、1827頭しかいないことが分かった。虎の絶滅の危機が叫ばれるようになり、1970年には虎の狩猟が禁止され、1973年にはプロジェクト・タイガーという名の虎保護計画が発足した。プロジェクト・タイガーは集中的に虎の保護を行う地域を9ヶ所指定した。アッサム州マナース、ジャールカンド州パーラーマウ、オリッサ州スィムリーパール、ウッタル・プラデーシュ州コーベット、マディヤ・プラデーシュ州カーンハー、マハーラーシュトラ州メールガート、カルナータカ州バンディープル、ラージャスターン州ランタンボール、西ベンガル州スンダルバンである。プロジェクト・タイガーのウェブサイトによると1973年当時、上記9ヶ所の保護区域では合計268頭の虎の生息が確認された。2003年には、27ヶ所の保護区域で合計1576頭の虎が生息されるまでに至ったという。なんと6倍に数が増えたように見えるが、1973年から2003年にかけて保護区域の数が3倍に増えており、数字のマジックが施されている。プロジェクト・タイガー発足当時の9ヶ所の保護区域の2002年の調査結果は1114頭。約4倍に増えたことになる。これらのデータを見る限り、プロジェクト・タイガーは一応の成功を収めたと言っていいだろう。また、プロジェクト・タイガーは、現在インド全土に3600頭の虎がいるとの推計も発表している。だが、プロジェクト・タイガーの保護区域となっているサリスカー国立公園で一匹も虎がいなくなったという報道は、同プロジェクトの根底を覆すほどのスキャンダルとなりそうだ。

 2月13日付けのサンデー・エクスプレス紙は、虎絶滅の危機に関して特集を組んでいた。インドの虎が絶滅の危機を迎えている原因は密猟に他ならないのだが、そのまた原因になっている要素はどうも2つありそうだ。1つは政治家の無関心、1つは森林局員や警備隊の質やモラルの低さである。前者の状況を端的に表す言葉が同紙に載っていた――「虎に選挙権はない」。確かに虎の保護を行っても、政治家たちには何の得にもならないばかりか、かえって保護区域に住む住民たちの反感を買い、結局損になって返って来る。ならば虎には関わらない方がいい、という考えになるのは至極当然である。だが、各国立公園や保護区域は決して資金の欠乏に陥っているわけではない。昨年は森林政策のために80億ルピーの予算が支給され、この内15億ルピーがプロジェクト・タイガーに配分された。しかしながら、州政府が各保護区域に配分する時期が毎年遅いため、予算を使い切れずに会計年が終わってしまうという問題も発生している。

 森林局員の問題はもっと深刻だ。森林警備隊の月給は2500ルピー、4年に一度制服が支給される。小学校卒業程度の学歴で就職することが可能であり、装備はほとんどの場合竹の棒のみ。銃火器で武装することはまず認められず、認められたとしても自衛のためでしか発砲することができない。このような窮状の森林警備隊員が、賄賂を受け取って密猟者を手助けしたり、自ら密猟を行ったとしても、完全に彼らを責めることはできないだろう。また、80年代以来森林局員の新規雇用は行われておらず、現在働いている人たちの平均年齢は50歳を越えるとの報告もある。一方、森林局の幹部たちの出世欲も問題をさらに深刻にしている。保護区域においては、虎の増減数がそのまま昇進に関わるため、実際の生息数よりも多めに報告することが通例となってしまっているという。よって、保護区域の局員たちは、出世のために競い合うように虚偽の虎の生息数を報告しあうという有様である。また、例え密猟があったとしても、それが公になると保護区域の責任者の首が飛ぶため、密猟はひた隠しにされる。

 プロジェクト・タイガーの方針転換が虎の頭数減少の原因となっている可能性も指摘されている。プロジェクト・タイガーは当初、動物主体の保護計画を行ってきた。詳しいことはよく分からないが、虎の生息地域になるべく人間を入れないように規制していたということだと思う。だが、近年になって、プロジェクト・タイガー虎と人間の共存計画に方針転換した。森林資源の有効活用を主眼とし、虎の生息地域と人間の生活地域の間に緩衝地帯を置くようにしたという。だが、皮肉にも緩衝地帯が地元民の生活にとって重要な場となってしまい、虎の生息範囲は結果的に減ってしまった。ベテラン野生動物保護官のアルジャン・スィン氏は、「虎と人間は共存不可能」と断言しており、虎の頭数減少はプロジェクト・タイガーの方針転換のせいだとしている。

 インドにおける密猟は深刻な問題となっている。1993年8月、デリーで400kgの虎の骨と、8頭の虎の毛皮と、59頭の豹の毛皮が押収されるという事件が起こった。それ以来、NGOを中心にインドで虎の密猟が大きく取り沙汰されることになったが、中央政府も州政府も積極的な対策を講じようとしなかった。あるデータによると、1994年〜2004年の間に、719頭の虎と2474頭の豹が殺されたという。また、今年1月31日には、同じくデリーにて、39頭の豹の毛皮、2頭の虎の毛皮、42頭のカワウソの毛皮、60kgの虎と豹の足、3kgの虎の爪、14頭の虎の牙、10頭の虎のアゴ、135kgのヤマアラシの針が押収されるというショッキングな事件も起こった。これらの密猟の背後にいるのは、サンサール・チャンドという名のマフィアである。象の密猟者として名を馳せていたヴィーラッパン亡き今、サンサール・チャンドがインド最悪の密猟ギャングのボスとなっている。だが、ヴィーラッパンと同様に森林局員や政治家とのコネクションがあるため、なかなか捕まらないようだ。

 そういえば去年の12月には、プロジェクト・タイガーのお膝元であるラージャスターン州ランタンボール国立公園に行ってきた。ランタンボールでは1972年の時点で14頭しか生息が確認されなかったが、徐々に数は増え、現在では40頭前後の虎が生息しているという。当地でサファリに参加したが、残念ながら虎に遭遇することはできなかった。しかし、ほぼ同じ時期に同国立公園に行った人は虎を見ることができたらしいので、ランタンボールに虎は一応いるということだろう。あのとき虎が出てきてくれたら、もっと虎に同情することもできたのだが、どちらかというとやはり虎の絶滅危機の問題は、他のいろいろな問題に比べてそれほど深刻で甚大なものではないようにも思える。人間と自然の共存が一番望ましいが、虎優先で人間が後回しになってしまっては本末転倒である。だが、インド野生生物保護協会のビリンダ・ライト氏は、「虎が一匹死ぬことは、タージ・マハルの片隅が欠けるのに等しい、大きな損失である」と警鐘を鳴らしている。

2月21日(月) ラヴィ・シャンカル、ノーベル平和賞候補に

 インド古典音楽を世界的に有名にした張本人、スィタール奏者のラヴィ・シャンカルが、2005年のノーベル平和賞の候補者に選ばれた。

 ラヴィ・シャンカル(本名:ラヴィーンドラ・シャンカル)は1920年、ヴァーラーナスィー在住のベンガル人ブラーフマンの家に生まれた。兄のウダイ・シャンカルからして既に、知る人ぞ知る、世界的に有名な舞踊家で、ラヴィ自身も舞踊家として幼い頃から兄の公演に付いてまわって世界を経験した。1938年、ラヴィ・シャンカルは舞踊の道を諦め、スィタールの道に入ることを決意し、これまた有名なスィタール奏者、ウスタード・アラーウッディーン・カーンの弟子となって、6年間スィタールの腕を磨いた。その後、ラヴィ・シャンカルは国内外で積極的に公演活動を行って一応の名声を得ていたが、本格的な名声を獲得するのは、1960年代、ビートルズのジョージ・ハリスンと会ってからである。ジョン・レノンとポール・マッカートニーという天才的ミュージシャンたちに囲まれ、ビートルズの中での存在感に悩んでいたジョージは、インド音楽に活路を見出した。スィタールを習い始めたジョージはラヴィから多大な影響を受け、音楽のみならず、インド宗教やインド哲学にはまったりする。インド音楽はビートルズやヒッピー文化の流行に乗って世界中でブームとなり、ラヴィ・シャンカルがインド音楽の象徴としてもてはやされるようになった。




ラヴィ・シャンカル


 ラヴィ・シャンカルがノーベル平和賞を受賞する理由として第一に挙げられるのは、バングラデシュ救済コンサートの開催であろう。1971年4月、東パーキスターン(現在のバングラデシュ、当時はパーキスターン領)は独立闘争を開始しており、ベンガル地方では難民問題が発生していた。父親の実家が現在のバングラデシュ内にあったため、バングラデシュに同情の思いを寄せていたラヴィ・シャンカルは、親友ジョージ・ハリスン(当時既にビートルズは解散)に難民救済の手段を相談をした。それを受けて、ジョージ・ハリスンは「Bangladesh」というシングルを発表して世論の関心を集めると同時に、ラヴィ・シャンカルは「Joi Bangla(ベンガル万歳)」というシングルを発売して、救済基金を集めた。また、ラヴィ・シャンカルはジョージ・ハリスンに、米国で小規模なチャリティー・コンサートを行うことをもちかけた。ラヴィ・シャンカルはあくまで小規模なコンサートを意図していたのだが、ジョージ・ハリスンが大張り切りしてしまい、コンサートは史上稀に見る豪華なものとなった。コンサートは1971年8月1日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われ、駆けつけたミュージシャンは当時トップクラスの顔ぶれだった。元ビートルズのジョン・レノンやポール・マッカートニーは参加しなかったものの、リンゴ・スターは参加を快諾した。その他にも、エリック・クラプトン、ボブ・ディラン、ビリー・プレストン、レオン・ラッセル、バッドフィンガーなどなど、総勢25名のミュージシャンが演奏し、4万人の観客を集めた。今でこそ多くのミュージシャンや映画スターたちがチャリティーと称したコンサートやショーを行っているが、このバングラデシュ救済コンサートこそが、史上初のチャリティー・コンサートとされている。ただ、初の試みだったためにいろいろ問題も発生した。コンサートの売上は25万ドル、直後に発売されたコンサートのアルバムの売上は1500万ドル以上という莫大なものだったが、慈善事業としての登録を行っていなかったため、税金を払わされる羽目になったという。ちなみに、バングラデシュは同年12月にパーキスターンから独立を達成した。

 スィタールやインド古典音楽を習っている日本人たちに言わせると、ラヴィ・シャンカルはイマイチらしいが(僕は古典音楽鑑賞能力が足りないので何とも言えない)、日本人がスィタールを習うまでインド音楽が世界的な認知度を獲得したのは、ラヴィ・シャンカルの功績あってのことだと思う。ラヴィ・シャンカルが出しているアルバムの中では「Chants of India」というCDが一番好きだ。まだ日本にいる頃に、このCDを聞いてインドを思い浮かべていた記憶がある。確かスティングもこのアルバムを聞いて瞑想に耽るとか何とかインタビューで話していた。

 ビートルズを知る世代や、インド古典音楽に少しでも造詣のある人たちなら、ラヴィ・シャンカルの名前を知らぬ者はいないだろう。だが、もしかしたら新たな世代の人々には、世界的に有名なジャズシンガー、ノラ・ジョーンズの父親としての方が有名になるときも来るかもしれない。ノラ・ジョーンズは2年前にグラミー賞を総なめしていたが、今年も故レイ・チャールズとデュエットした「Here We Go Again」がレコード賞を獲得し、今や米音楽界の女王に君臨していると言っても過言ではないだろう。また、ラヴィ・シャンカルのもう1人の娘、つまりノラ・ジョーンズの腹違いの姉妹であるアヌシュカー・シャンカルは、父親と同様にスィタールの道を歩んでおり、時々親子で共演したりして人気を博している。ラヴィ・シャンカルとアヌシュカー・シャンカルはデリーに住んでおり、チャーナキャープリーの分かりにくい場所にラヴィ・シャンカル・ファウンデーションなる施設もある。

 今年のノーベル平和賞の候補者に選ばれたのは166人。ラヴィ・シャンカルの他、U2のボノ、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世、コリン・パウエル元米国務長官などの名前も挙がっているらしい。また、予測としては、今年のノーベル平和賞は津波被害者の支援を行った団体に与えられる可能性が高いそうだ。既にラヴィ・シャンカルの名声は「生きた伝説」の域に達しており、インド政府からインド人最高の栄誉である勲章バーラト・ラトナ(インドの宝石)も得ている。特にノーベル平和賞をもらったところで彼がさらにすごい存在になるかといえば、そういう訳ででもないだろう。ラヴィ・シャンカル自身も「ノーベル賞をもらったからといって私がより素晴らしい音楽家になるわけでもない。私はただ自分の音楽を追及するだけだ」と述べている。だが、インド贔屓の僕は、ラヴィ・シャンカルがノーベル平和賞受賞者になったら面白いと期待している。もらえるものは早くもらっておかないと、そろそろ健康状態がやばいという噂もあることだし・・・。

2月24日(木) インド映画のキス

 24日付けのザ・ヒンドゥー紙に、ロリウッドの女優がボリウッド映画でキスシーンを演じたためにパーキスターン政府から罰金刑を科せられた、とのニュースが報じられていた。

 米国映画が一般にハリウッド映画と呼ばれていることは一般常識である。知らないと恥をかくことが多いだろう。インド映画、特にヒンディー語映画が、ボンベイとハリウッドを合体させてボリウッド映画と呼ばれていることを知っている人は、日本ではちょっとした雑学王ぐらいの称号が得られるだろうか。インドでは常識中の常識だが、さすがに一般の日本人にはまだそれほど知られていないのではないかと思う。最近のニュースで、韓国に韓国版ハリウッドのハルリュウッドが建造予定という記事を見たが、これも韓国映画ブームが続けば、その内有名になる可能性はある。だが、ロリウッド、トリウッド、コリウッドぐらいになると、知っている人は天然記念物ぐらいの扱いを受けるほど希少価値があるのではないかと思う。ロリウッドという名前を聞くと、ロリコン映画のことか、と早とちりする人も多いかもしれない。ロリウッドとは、パーキスターン映画、トリウッドとは、ベンガル語映画、コリウッドとはタミル語映画のことを指す。パーキスターンの映画産業の拠点であるラーハウル(ラホール)+ハリウッドでロリウッド、西ベンガル州の映画産業の拠点であるコールカーター(カルカッタ)のトリガンジ+ハリウッドでトリウッド、タミル語映画の拠点コダムバッカム+ハリウッドでコリウッドというわけだ。他にも同じような「〜リウッド」があるかもしれない。

 さて、最近の印パ関係の緊張緩和を受け、両国の映画産業界では率先して交流が行われている。パーキスターンの映画俳優がインド映画に出演したり、インドの映画俳優がパーキスターン映画に出演したり、映画祭にお互いの国の映画や映画関係者を招待し合ったりしている。昨年インド公開された「Khamosh Pani」(2003)という映画は、監督はパーキスターン人、俳優の多くはインド人、テーマは印パ分離独立時の悲劇と、完璧な印パ信頼醸成映画であり、2003年のロカルノ国際映画祭で金豹賞を受賞した。

 そんな友好的な雰囲気の中、ロリウッドのトップ女優であるミーラーが、マヘーシュ・バット監督の「Nazar(視線)」に出演した。パーキスターン国内には、パーキスターンの俳優がインド映画に出演することに対する反感もあるようだが、ミーラーは「平和のための行為を誰も止めることはできない」と毅然とした態度を取って撮影に臨んだ。

 ところが、その映画が現在パーキスターンで波紋を呼んでいる。何が問題になっているかというと、ミーラーが、映画の中で、主演男優のアシュミト・パテール(アミーシャー・パテールの兄)とのキスシーンに出演したということだ。パーキスターン文化省は、「イスラーム教の道徳と倫理に反する行為をした」という理由で、ミーラーに重い罰金を科したという。また、パーキスターン政府は自国の映画俳優がインド映画に出演することを禁じる措置も検討中だというから、急に両国の映画界で緊張が走っていることが伺われる。本当に映画中にキスシーンがあるのか、また罰金の額はいくらなのか、などの詳しい情報はない。




ミーラー


 このキスは3つの問題を孕んでいそうだ。1つは、元々パーキスターン俳優がインド映画に出演することに反感を抱く勢力があったこと、1つは、映画中で男女がキスをすることがパーキスターンの映画界では(おそらく)一般的ではなかったこと、そして1つは、キスをした相手がインド人男優であったこと、である。イスラーム教絡みの宗教的問題や、女性に対する社会的抑圧の問題も大きいと思うが、正直言って一番いけなかったのは、インド人男優とキスをしてしまったことなのではないかと思う。敵国の男優に自国のトップ女優のキスが奪われることは、国民のプライドに関わる歯がゆい出来事であろう。しかもアシュミト・パテールは名前から察するに十中八九ヒンドゥー教徒である。せっかく印パ間の映画界で交流が活発になってきていたのだが、このキスひとつでその流れがストップしてしまうことがないか、懸念される。

 インド映画も、長い間「キスはご法度」と言われてきており、そう報道されることも多いが、実は昔からキスシーンはちょくちょくあった。ボリウッドでよくあるのは、顔の角度をうまくずらした、唇と唇の接点が見えない偽のキスシーンである。だが、唇と唇のキスがスクリーンに映し出される本気のキスシーンも少なくないし、それが映し出されるようになったのも、最近のことではない。少し古い女優では、ディンプル・カパーディヤーがキス魔として知られている。例えば、「Saagar」(1985年)ではリシ・カプールと、「Jaanbaz」(1986年)ではアニル・カプールと、唇と唇の本気のキスをしている。彼女の他にも、調べてみるとけっこう多くの女優がいろいろな映画でキスシーンを演じている。インド映画でのキスシーンは、女優次第という感じである(日本でも同じだと思うが)。




リシ・カプールとディンプル・カパーディヤー
「Saagar」でのキスシーン
ラメーシュ・スィッピー監督はこのシーンを
343回も撮り直したという


 最近の映画で衝撃的だったのは、「Kyun! Ho Gaya Na...」(2004年)でのアイシュワリヤー・ラーイとヴィヴェーク・オーベローイのキスである。アイシュワリヤー・ラーイはインド最高の美女として、インドでその名を知らぬ者はいないほど有名だが、キスシーンやベッドシーンは絶対に駄目、という頑固さでも知られた女優だった。ところが、同映画で実生活の恋人ヴィヴェークとの共演が実現し、「恋人とのキスだったらOK」というわけでキス解禁に至った。僕は何の前情報もなくこの映画を見に行ったのだが、突然2人がキスし始めたので、かなりうろたえた覚えがある。よく偉大な政治家や芸術家などが死去したときに、「ひとつの時代が終わった」という表現が使われるが、アイシュワリヤー・ラーイのキスを見たとき、僕は「ひとつの時代が終わった・・・」と言い知れぬ脱力感に襲われたものである。最近、CNNのニュースでアイシュワリヤー・ラーイがハリウッド進出するにあたってキスシーンをどうするか、との問題が取り沙汰されており、「ラーイさんはこれまでボリウッドの24作品に出演しているが、 インドではラブシーンの上映が禁止されているため、ラーイさんが作中でキスの演技をしたことは一度もない」と報じられていたが、この文章には少なくとも2つの間違いがある。インド映画でラブシーンは完全に禁じられているわけではないし(撮影の仕方次第だ)、アイシュワリヤー・ラーイは上記の映画で既にキスシーンを演じている。また、「ラーイさん」という呼び方も非常に違和感を感じるのだが、どうにかしてもらえないだろうか。ちなみに、「Shabd」(2005年)でアイシュワリヤー・ラーイはサンジャイ・ダットとのベッドシーンを演じ、さらに一歩前進した。




ヴィヴェークとアイシュのキス
「Kyun! Ho Gaya Na...」


 その他にも、2004年の映画から唇と唇のキスシーンがあった映画を思い出してみると、「Murder」ではイムラーン・ハーシュミーとマッリカー・シェーラーワトのキスシーンがあり、「Dev」ではファルディーン・カーンとカリーナー・カプールのキスシーンがあり、「Tumsa Nahin Dekha」ではイムラーン・ハーシュミーとディーヤー・ミルザーのキスシーンがあり、「Naach」ではアビシェーク・バッチャンとアンタラー・マーリーのキスシーンがあった。2005年では、「Black」でのアミターブ・バッチャンとラーニー・ムカルジーのキスシーンが衝撃的だった。他にも数多くのインド映画で、男優と女優の本気のキスシーンを見ることができる。もはやインド映画界でキスシーンは珍しいものではなくなってきていると言って過言ではないだろう。




アビシェークとアンタラーのキス
「Naach」


 キスを巡って、去年の暮れにひとつの事件があったことも記憶に新しい。「Fida」(2004年)で共演したシャヒード・カプールとカリーナー・カプールは実生活でも恋人だが、この2人がプライベートでキスをしているところのビデオが何者かにより携帯電話で盗撮され、その写真が新聞に掲載され、それをカリーナーが「偽物だ」として提訴するという事件が起こった。カリーナーは「私が公共の場でキスをすることはあり得ない」と述べたらしいが、スクリーン上でキスシーンを披露しているからあまり説得力がない。合成写真との説もあるが、そうは思えない。おそらくその写真は本物だろう。だが、この事件から、イケイケギャルっぽいイメージのあるカリーナー・カプールも、けっこう恥ずかしがり屋というか、伝統的インド人女性の恥じらいを持っていることが分かって何だか意外だった。




新聞に掲載されたカリーナーとシャヒードのキス


 ちなみに、ボリウッドの大御所であるアミターブ・バッチャンはこの件に関して、「注意を怠って、盗撮される方が悪い。メディアの責任ではない」と一刀両断している。

2月25日(金) Bewafaa

 最近忙しくて映画を見る暇がなかったが、今日は何とか時間を見つけて、最新ヒンディー語映画「Bewafaa」を見にPVRプリヤーへ行った。「Bewafaa」とは意訳すれば「裏切り」という意味である。プロデューサーは「Mr. India」(1987年)や「Kyun! Ho Gaya Na...」(2004年)などのボニー・カプール、監督は「Raja Hindustani」(1996年)や「Dhadkan」(2000年)のダルメーシュ・ダルシャン、音楽はナディーム・シュラヴァンとサミール。キャストは、アニル・カプール、アクシャイ・クマール、カリーナー・カプール、スシュミター・セーン、マノージ・バージペーイー、シャミター・シェッティー、カビール・ベーディー、ナフィーサ・アリーなど。




上段左からスシュミター・セーン、
アニル・カプール、カリーナー・カプール、
アクシャイ・クマール
中段左からシャミター・シェッティー、
マノージ・バージペーイー


Bewafaa
 カナダのモントリオール在住のインド人アンジャリー(カリーナー・カプール)は、両親に内緒で、ミュージシャンを目指すラージャー(アクシャイ・クマール)と付き合っていた。ある日、結婚してデリーに住んでいた姉のアールティー(スシュミター・セーン)がモントリオールにやって来た。アールティーは妊娠しており、カナダで出産する予定だった。アンジャリーはラージャーをアールティーに紹介する。

 アールティーの夫アディティヤ(アニル・カプール)はインド有数の大富豪で、仕事で世界中を駆け巡っていた。アールティーの出産の当日にカナダに駆けつけたものの、アールティーは双子の女の子を産んで死んでしまう。アンジャリーの両親は、彼女にアディティヤと結婚することを提案する。アンジャリーはラージャーに何も告げずにアディティヤと結婚し、デリーへ去った。

 3年後。アディティヤは未だにアールティーのことを忘れることができず、アディティヤとアンジャリーの間には深い溝があった。アンジャリーは必死に姉のように振る舞おうとするが、それでもアディティヤの冷たい態度は変わらなかった。アディティヤはまた仕事で海外へ出かけることになり、アンジャリーは彼を見送りに空港へ行く。アディティヤを見送った後、偶然アンジャリーはラージャーに出会う。ラージャーは有名なミュージシャンとなっており、コンサートで公演するためにデリーを訪れていた。

 ラージャーとアンジャリーは密会を繰り返すようになる。ラージャーはアンジャリーに、自分と一緒にカナダへ来るように説得する。ところが、アディティヤは予定よりも早く家に帰って来てしまった。アディティヤは、友人のディル(マノージ・バージペーイー)とその妻パッラヴィー(シャミター・シェッティー)を紹介する。ディルはジャムシェードプル在住の富豪で、パーティー好きな男だった。

 アディティヤが帰って来た後も隙を見てラージャーと会っていたアンジャリーだが、遂にそれがパッラヴィーとディルにばれてしまう。しかもカナダから両親がデリーに来ており、家族を裏切ってラージャーと一緒になることを躊躇するようになる。

 やがて、ラージャーのデリー滞在最後の日となった。ラージャーは最後の夜にコンサートを行い、アンジャリーの前で、2人の思い出の歌を歌う。その歌は、自分を裏切った恋人を責める歌だった。耐え切れなくなったアディティヤとアンジャリーは、その場を後にする。ラージャーは、アディティヤに全てを暴露したのはディルの仕業だと考え、ディルに殴りかかる。それを止めたのはアディティヤだった。アディティヤは、最初から全てを知っていたと話し、アンジャリーの真意を確かめるためにディルとパッラヴィーの助けを借りたことを明かす。そしてアンジャリーに、全ての決定権を委ねる。アディティヤと共に住むか、それともラージャーと共に行くか。アンジャリーは、「女性は恋人を裏切ることはできるが、母親は子供を裏切ることはできない」と言って、アールティーの子供たちやアディティヤと共に住むと答える。それを聞いたラージャーは、「君の決断は正しかったし、今の決断も正しいよ」と言って潔くアンジャリーを諦め、デリーを去る。

 前半はテンポが遅くて退屈だったが、後半、マノージ・バージペーイーが登場するあたりから急に面白くなり、最後はインドの伝統に則った、優等生的エンディングだった。オールスターキャストの典型的なインド映画であり、ヒットする可能性は十分にある。

 ストーリーの最初のターニング・ポイントは、妊娠していた姉が出産の際に死去し、姉の夫とアンジャリーが結婚することになるシーンである。インドでは、妻に先立たれた男性が、その妻の妹と結婚するということがけっこう行われるようで、例えば「Hum Aapke Hain Kaun...!」(1994年)でもそれが描かれていた。日本人からすれば少し変な慣習かもしれないが、結婚が家族と家族の結びつきであること、また嫁入りする際のダウリー(持参金)の問題が大きいことなどから、こういうことは珍しくないようだ。アンジャリーは、大好きだった姉が遺した子供たちのためにも、恋人のラージャーを諦め、アディティヤと結婚することを決意する。

 次のターニング・ポイントは、気まずい結婚生活を送っていたアンジャリーの人生にラージャーが再び現れるシーンである。ラージャーはアンジャリーのことが忘れられず、アンジャリーのラージャーのことを忘れていなかった。満足のいかない結婚生活を送っていたアンジャリーは、ラージャーと密会を繰り返す。しかし、次第に2人の仲を隠すことが難しくなってきて、物語が面白くなってくる。

 ラストでは、当然のことながらラージャーとアンジャリーとアディティヤの三角関係が明らかになり、アンジャリーがどちらを取るかを決断することになる。インド映画では、クライマックスで恋愛と結婚が天秤にかけられることが多い。だが、法則は非常に単純である。結婚前の恋愛は恋愛が勝ち、結婚後の恋愛は結婚が勝つ。いくら望まない結婚であっても、一度結婚が成立してしまったら、それを遵守するのが好ましいとするガイドラインがあるかの如く、である。この映画では既にアディティヤとアンジャリーの結婚は成立してしまっていたため、アンジャリーはアディティヤを選択することになる。というよりも、姉アールティーが遺した子供たちのためにアディティヤをとったと言った方が正しい。・・・とすると、アンジャリーはアディティヤを愛しているから彼を選んだというわけではないことになり、アディティヤはそれでいいのか、ということになるが、そういう細かい点は突っ込まれていない。

 この映画はカリーナー・カプールのために作られたようなものだ。彼女の悲哀に満ちた表情はもはや現代のインド映画に欠かせない存在となっている。さすが映画カースト出身である。アニル・カプールも渋い演技をしていた。特に、アンジャリーが姉と同じ髪型に変えたのを初めて見たときの表情が非常にうまかった。アクシャイ・クマールは売れ筋ミュージシャン役のくせにあまり貫禄がなかったように思えた。脇役陣ではマノージ・バージペーイーの演技が秀逸。かれのネットリとまとわりつくような気味の悪い演技は、誰にも真似できない。

 序盤のカナダ・ロケを除き、デリーが舞台となっていたため、いくつかデリーの名所が映っていた。その中でも目立ったのがデリー・メトロ。まるで「デリーにメトロができましたよ〜」と宣伝するかのような、わざとらしい登場の仕方をしていた。カリーナー・カプールがチケットを買って、自動改札機を通って、電車に乗り込むという、デリー・メトロの利用マニュアルのような一連のシーンがあった。

 全体を通して、裏の方にいるエキストラの人たちが面白かったように思える。冒頭の「Ek Dilruba Hai」のミュージカル・シーンでは、中国人と見られるオタクっぽい東洋人がエレキギターを弾いていたし、一人すごい美人な白人(ロシア人か)がじっとアクシャイ・クマールを睨んでいた。モントリオールの道をカリーナー・カプール、スシュミター・セーン、アクシャイ・クマールの3人が歩くシーンでは、裏の方で白人に混じって赤いターバンを巻いたスィク教徒のおっさんが立っていて、なぜか目が行ってしまった。

 実は、アンジャリーの母親はカナダ人という設定になっていた。その設定が特にストーリーで重要な役割を果たすことはなかったのだが、そのカナダ人の母親はインド人よりもインド人らしくあろうと努めており、アンジャリーに、「英語でなくヒンディー語で話すように」と言い聞かせていた。だから、何となくヒンディー語万歳映画のようにも思えた。

 「Bewafaa」は正統派のインド映画であり、インド映画ファンが安心して楽しむことができる映画である。

2月27日(日) フィルムフェア賞発表

 昨夜、第50回フィルムフェア賞の受賞者・受賞作品が発表された。TVを見ていなかったので授賞式の様子を報告することはできないが、受賞作品はフィルムフェア賞のウェブサイや本日の新聞に掲載されていた。2月15日の日記でノミネート作品を紹介し、同時に勝者の予想も行ったのだが、だいぶ予想とは外れた結果となった。

作品賞
Veer-Zaara
監督賞
クナル・コーホリー Hum Tum
男優賞
シャールク・カーン Swades
女優賞
ラーニー・ムカルジー Hum Tum
助演男優賞
アビシェーク・バッチャン Yuva
助演女優賞
ラーニー・ムカルジー Yuva
コメディアン賞
サイフ・アリー・カーン Hum Tum
悪役賞
プリヤンカー・チョープラー Aitraaz
音楽監督賞
アヌ・マリク Main Hoon Na
作詞家賞
ジャーヴェード・アクタル Tere Liye(Veer-Zaara)
プレイバック・シンガー賞(男性)
クナル・ガーンジャーワーラー Bheegey Hont Tere(Murder)
プレイバック・シンガー賞(女性)
アールカー・ヤーグニク Saason Ko Saanso Mein(Hum Tum)

 作品賞が「Veer-Zaara」になるのは大体予想していたが、監督賞が「Hum Tum」のクナル・コーホリーとは意外。男優賞を3作品でノミネートのシャールク・カーンが受賞することは分かっていたが、問題はどの作品で受賞するかだった。が、これも意外なことに、「Swades」で受賞した。2003年はプリーティ・ズィンターのブレイク年だったが、2004年〜05年はラーニー・ムカルジー熟成の時期と言える。ラーニー・ムカルジーは、「Hum Tum」と「Yuva」で主演女優賞と助演女優賞を同時に受賞した。彼女は「Black」(2005年)の名演で次回の主演女優賞も狙える。また、同じく「Yuva」でマニ・ラトナム監督の指導により俳優として開花したアビシェーク・バッチャンが助演男優賞を受賞。父親アミターブ・バッチャンも大喜びだろう。コメディアン賞はサイフ・アリー・カーン。彼はコメディアンというより普通のスターなので、コメディアン賞はプロフェッショナルなコメディアンに受賞させてあげたかった。プリヤンカー・チョープラーの悪役賞受賞は予想通りだった。アヌ・マリクの音楽監督賞受賞は予想通りだったが、「Main Hoon Na」での受賞は少し意外だった。キャッチーな音楽で人気を博したが、もっといい映画音楽もいっぱいあったと思うのだが。作詞家賞にノミネートされていたのはジャーヴェード・アクタルだけなので、彼が受賞するのは決定していたのだが、何で受賞するかは大いに関心があった。僕は「Veer-Zaara」の「Main Yaaha」が本命だと思っていたが、同映画の「Tere Liye」が受賞作品となった。どちらもいい歌詞だったが、前者の方が僕は好きだった。プレイバック・シンガー賞は、「Murder」の「Bheegey Hont Tere」でアジアのポップスのような歌を歌ったクナル・ガーンジャーワーラーと、「Hum Tum」で「Saason Ko Saanso Mein」を歌ったアールカー・ヤーグニクが受賞。

 この他、フィルムフェア賞には特別賞や技術部門の賞もある。批評家作品賞は「Yuva」と「Dev」、批評家男優賞は「Maqbool」のパンカジ・カプール、批評家女優賞は「Dev」のカリーナー・カプール、批評家特別賞は「Yuva」のアビシェーク・バッチャン、ソニー・シーン・オブ・ザ・イヤー賞は「Hum Tum」、RDブルマン賞は「Murder」で「Bheegey Hont Tere」を歌ったクナル・ガーンジャーワーラー、新人賞は「Tarzan」でデビューしたアーイシャー・タキヤー、フィルムフェア・パワー賞はシャールク・カーン、過去50年間の最優秀作品賞は「Sholey」(1975年)、生涯貢献賞はラージェーシュ・カンナー、録音賞は「Dhoom」のドワーラク・ワリヤー、編集賞は「Dhoom」のラメーシュSバガト、アクション賞は「Yuva」のヴィクラム・ダルマー、BGM賞は「Swades」のARレヘマーン、撮影賞は「Lakshya」のクリストファー・ポップ、ダイアログ賞は「Veer-Zaara」のアディティヤ・チョープラー、シナリオ賞は「Yuva」のマニ・ラトナム、美術賞は「Yuva」のサブー・キリル、振付師賞は「Lakshya」の「Main Aisa Kyon Hoon」を振り付けしたプラブ・デーヴァー、などなどである。

 今年のフィルムフェア賞は、少数の映画が賞を独占するということがなく、複数の映画が各賞を分け合う形となった。それだけに、今年を代表する映画を決めるのが難しい。僕がインドに住み始めて以来、2001年は「Lagaan」と「Gadar」、2002年は「Devdas」、2003年は「Koi... Mil Gaya」と「Kal Ho Naa Ho」、という具合に、各年ごとに代表作を迷わず挙げることができたのだが、今年は代表作を1、2本に絞ることができない。受賞結果を見ると、「Veer-Zaara」の受賞が少なかったことと、「Hum Tum」が予想以上に賞を獲得したことが意外だった。


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