スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2006年5月

装飾下

|| 目次 ||
映評■1日(月)Gangster
映評■2日(火)The Mistress of Spices
分析■2日(火)タミル・ナードゥ州でインダス文字発見
映評■5日(金)36 China Town
分析■7日(日)マンゴーの楽園、マリーハーバード
分析■11日(木)Dhoom世代
映評■12日(金)Tom Dick and Harry
分析■13日(土)J&K州は売春公認州?
映評■14日(日)Tathastu
▼チャッティースガル州旅行(5月15日〜26日)
旅行■15日(月)ゴーンドワーナー・エクスプレス
旅行■16日(火)ジャバルプル
旅行■17日(水)ラーイプル
旅行■18日(木)スィルプル
旅行■19日(金)ボーラムデーオ&ターラー
旅行■20日(土)ジャグダルプル
旅行■21日(日)バールスル&ダンテーワーラー
旅行■22日(月)チトラコート
旅行■23日(火)コーンダーガーオン
旅行■24日(水)カーンゲール国立公園
旅行■25日(木)奈落列車
旅行■26日(金)旅行のまとめ
映評■29日(月)Fanaa
映評■31日(水)Ankahee


5月1日(月) Gangster

 今日は、先週の金曜日から公開の新作ヒンディー語映画「Gangster」をPVRプリヤーで見た。

 「Gangster」の副題は「A Love Story」。プロデューサーはマヘーシュ・バット、監督は「Murder」(2004年)のアヌラーグ・バス、音楽監督はプリータム。キャストは、イムラーン・ハーシュミー、シャイニー・アーフージャー、カンガナー・ラーナーウト(新人)、グルシャン・グローヴァーなど。

Gangster
 インドの警察から指名手配されているギャングスター、ダヤー・シャンカル(シャイニー・アーフージャー)と恋に落ちたシムラン(カンガナー・ラーナーウト)は、共に警察の追っ手から逃げ回る毎日を送っていた。2人は結婚していなかったが、パスポートを偽造するために孤児の男の子ヴィットゥーを引き取り、3人家族を装って韓国のソウルに逃亡した。家族に憧れていたシムランにとって、ダヤー、ヴィットゥーと共に暮らす生活は幸せそのものであった。しかし、ある日インドの諜報員に見つかって襲撃を受け、ヴィットゥーが殺されてしまう。【写真は、イムラーン・ハーシュミー(上)、シャイニー・アーフージャー(左下)、カンガナー・ラーナーウト(右下)】

 ダヤーは悲しみに沈むシムランを韓国に残して、モーリシャスやドバイなどを転々とする。しかも、ダヤーは週に1回しかシムランに電話をしなかった。シムランは次第に寂しさを紛らわすためにアルコール中毒になっていった。そんな中、ダヤーは韓国の酒場でシンガーをしているアーカーシュ(イムラーン・ハーシュミー)と出会う。シムランはアーカーシュの優しさに次第に心を開いていき、自分がギャングスターの女であるという秘密まで明かす。それを聞いてもアーカーシュはシムランに失望したりせず、彼女への愛を変えなかった。シムランはアーカーシュをいつしか愛するようになり、2人は一夜を共にする。

 ところが、電話をしてもなかなか出ないシムランを怪しんだダヤーは、密かに韓国に戻っていた。ダヤーはアーカーシュを叩きのめすが、それを何とか止めたシムランはダヤーに、今ではアーカーシュを愛していると言い渡す。泣き崩れるダヤーは、もうギャングスターの仕事は辞めることを誓う。そのときダヤーたちは再び諜報員の襲撃を受ける。何とか逃亡に成功した2人は、ソウルから離れた場所に居を定める。心を入れ替えたダヤーは、肉体労働をして日銭を稼ぐ。

 だが、シムランはアーカーシュの子供を身篭っていることに気付く。ダヤーはインドへ戻るための偽造パスポートを受け取りにソウルへ戻っていた。シムランはアーカーシュに電話をする。アーカーシュはすぐにシムランのところへ駆けつけ、彼女と結婚したいこと、またダヤーのためにも、彼を警察に引き渡すことを提案する。

 一方、ダヤーはかつて師事していたギャングスターの大ボス(グルシャン・グローヴァー)とソウルで偶然出会い、殺されそうになる。それでも何とか返り討ちにしたダヤーは、シムランをソウル駅に呼び寄せる。待ち合わせ時間を大幅に遅れてソウル駅にやって来たダヤーであったが、そこには警察が待ち構えていた。シムランに裏切られたことを知ったダヤーは号泣しながらパトカーに押し込まれる。

 だが、シムランはアーカーシュが実は諜報員であり、全てはダヤーを逮捕するための作戦であったことを知ってしまう。そしてアーカーシュはシムランに対し、ギャングスターの情婦なんかに誰が真剣に恋をするかと言い放つ。インドに戻ったシムランは、自分を裏切ったアーカーシュを暗殺する。そのときシムランもアーカーシュに撃たれて負傷してしまうが、一命は取り留める。

 逮捕されインドに引き渡されたダヤーは死刑を宣告される。シムランは、ダヤーの死刑執行と時を同じくして病院の屋上から飛び降り、自殺する。天国でシムランはダヤー、ヴィットゥーと再会するのであった。

 狂おしい恋愛映画。インド映画にありがちなお気楽さがなく、胸をキリキリとしめつけられるような重々しさのある優れた映画であった。だが、アンハッピーエンドでありながら、映画館を出るときに晴れ晴れとした気分にさせてくれるのは、インド映画の長所を死守した結果と言えるだろうし、僕はそれを高く評価する。間違いなく2006年のボリウッドの最高傑作のひとつに数えられる作品となるだろう。

 「Gangster」という題名からは、マフィア同士の抗争を描いた映画を想起してしまうが、副題の「A Love Story」が示す通り、この映画の基本は恋愛である。恋愛、そして裏切りに次ぐ裏切り、そして再び死でもって償われ、結ばれる恋愛。こういうインド映画は今までなかったのではないかと思う。

 映画的技法で最もうまかったのは、冒頭の導入部とインターミッションに入る前の映像。あらすじでは時系列に沿って書いたが、映画では現在と過去が交錯する。冒頭では、シムランが1人の男を銃で撃ち、自身も男に撃たれるシーンが描かれる。病院に担ぎ込まれたシムランと男は、同じ手術室で手術を受ける。そこからシムランの回想シーンへと移る。

 シムランの回想の中で、アーカーシュとの出会い、ダヤーとの関係などが明らかになり、再びインターミッション前に手術室の映像となる。そこで、隣で手術を受けていた男が息を引き取る。このときまで男の顔は隠されているが、男が死ぬと初めて、それがアーカーシュであることが分かる。シムランは無表情のままである。このとき、シムランがアーカーシュに騙されたことまでは語られていないので、観客はシムランのこの表情に悲しみを見る。だが、インターミッション後のストーリーから、シムランの表情には、自分を裏切り、ダヤーを裏切る原因を作ったアーカーシュが死んだことへの達成感を浮かべていたのだと再認識する。インターミッションを上手に使ったうまい演出であった。

 演技の点で最も印象に残ったのは、ソウル駅の前でのシムランとダヤーの待ち合わせのシーン。アーカーシュに説得されたシムランは、ダヤーを警察に引き渡すことを決め、ダヤーが現れるのを待っていた。かつてのボスとの戦いで血だらけになっていたダヤーは2時間遅れで駅に現れ、シムランに抱きつく。そして、ポケットから小さなケースを取り出す。しかし、そのときパトカーのサイレンの音が鳴り響く。シムランに裏切られたことを知ったダヤーは、次第に顔を崩し、遂には号泣し始める。ダヤーを演じたシャイニー・アーフージャーは全体的にオーバーアクティング気味であったが、このときの号泣振りだけは素晴らしかった。ダヤーが逮捕された後、地面に落ちたケースからは、赤いスィンドゥールの粉がこぼれ落ちていた。インドではスィンドゥールは結婚の証。ダヤーはシムランに正式に結婚を申し込もうとしていたのであった。

 ヒロインのカンガナー・ラーナーウトはヒマーチャル・プラデーシュ州出身の新人女優である。声が鼻声っぽくて気になったが、新人とは思えないほど堂々とした演技をしていたし、「連続キス魔」イムラーン・ハーシュミーとの濃厚なキスシーンも難なくこなしており、これからに期待できる。イムラーン・ハーシュミーは、素朴な青年役と見せかけて実はとんだ曲者という役。彼の出演作の中ではベストと言える演技だった。

 この映画には他にいくつも特筆すべき事柄がある。やはり日本人として最も気になるのは、この映画の大部分がソウルでロケされていることだ。一説によると、この映画は韓国でロケされた初めてのインド映画らしい。日本とそれほど変わらないソウルの風景の中でインド映画が繰り広げられるのは奇妙な感じだった。そういえばこの映画のストーリーは少し韓国映画っぽいところがあった。イムラーン・ハーシュミーが眼鏡をかけていたのも、もしやヨン様の真似か?昨今、インドでは韓国企業の躍進が著しい。おそらく韓国企業がインド映画の韓国ロケを誘致したのではなかろうか。現に、ソウル駅前のシーンではわざとらしく駅前スクリーンにLGの広告が流れていた。日本企業もインド映画の力をもっとうまく利用して、「Love in Tokyo」(1966年)以来初のボリウッド日本ロケ実現に向けて頑張ってもらいたいものだ(そういえば「Dhoom 2」はソニーが全面協力しているようだ)。

 この映画の題材になったのは、1993年のムンバイー連続爆破テロの主犯とされるアブー・サレームとその愛人で元ボリウッド女優のモニカ・ベーディーと言われている。インド警察から指名手配されていたアブー・サレームとモニカ・ベーディーは2002年9月18日にポルトガルのリスボンにおいて偽造文書所持の疑いで逮捕された。それ以来、インドはポルトガルに対して2人の引渡しを求めており、2005年11月11日にようやく本国送還に成功した。現在アブー・サレームは公判中である。アブー・サレームは自身の人生を題材にした映画の上映を禁止するように訴えたが、マヘーシュ・バットは「映画は創作であり現実の人物とは関係ない」と主張している。アブー・サレームも結局上映禁止の訴えを取り下げたようだ。ちなみに、アブー・サレームの自供は、ボリウッド男優サンジャイ・ダットのムンバイー連続爆破テロへの関与を示唆しており、そのおかげでサンジャイ・ダットは危機に陥っている。

 また、この映画のキャスティングには二転三転があったようだ。当初、アーカーシュ役のオファーを受けたのは、パーキスターンの豪腕投手ショエーブ・アフタルであり、またシムラン役をオファーされたのは、マッリカー・シェーラーワトだったようだ。マヘーシュ・バット制作「Nazar」(2005年)で主演したパーキスターン女優ミーラーの妹、アクサ・ルバーブも候補に入ったようだが、結局イムラーン・ハーシュミーと新人のカンガナー・ラーナーウトが演じることになった。

 マヘーシュ・バット制作の映画は、パーキスターンの俳優や音楽家とのコラボレーションが多いが、この「Gangster」では今度はバングラデシュで大人気のバンド、ジェームス(James)が「Bheegi Bheegi」でボリウッド・デビューを果たしている。しわがれ声の熱唱ボーカルがかっこいい。アッサム人歌手ズビーンのカッワーリー風ソング「Ya Ali」もよい。だが、「Gangster」の中でも最も優れているのは、K.K.が歌う「Tu Hi Meri Shab Hai」であろう。音楽監督は「Dhoom」(2004年)で大ヒットを飛ばしたプリータム。イムラーン・ハーシュミーが出演する映画のサントラはなぜかヒットする確率が非常に高いが、この「Gangster」もヒット中であり、買う価値ありである。

 イムラーン・ハーシュミーが出る映画は何となく退廃的な狂おしい情愛を描く映画が多いような気がする。「Gangster」もその潮流に乗った作品であり、しかもある種の到達点に達している優れた作品だ。もはやこれは、「イムラーン映画」というジャンルの確立を宣言してもいい時期ではなかろうか。

5月2日(火) The Mistress of Spices

 今日はPVRアヌパムで新作ヒングリッシュ映画「The Mistress of Spices」を見た。主演は「インドの女神」アイシュワリヤー・ラーイ。アイシュワリヤーは、2004年にグリンダル・チャッダー監督のヒングリッシュ映画「Bride and Prejudice / Balle Balle! Amritsar to L.A.」に出演しており、今回が英語映画出演第2弾となる。

 題名は、「スパイス使い」とでも訳そうか。米国在住ベンガル人女流作家チトラー・バナルジー・ディヴァーカルニー原作の同名小説をもとに作られた映画である。プロデューサーはグリンダル・チャッダー、監督はグリンダル・チャッダーの夫のポール・マエダ・バージェス。キャストは、アイシュワリヤー・ラーイ、ディラン・マクダーモット、アヌパム・ケールなど。

The Mistress of Spices
 サンフランシスコに「スパイス・バーザール」という名の店を開くインド人女性ティロー(アイシュワリヤー・ラーイ)は、客の抱えている問題を見抜き、スパイスの力でそれを癒す能力を持っていた。しかし、ティローは3つのルールを守らなければならなかった。1)スパイスの力を自分の欲望のために使わないこと、2)他人の肌に触れないこと、3)店から外に出ないこと。これらのルールを破ったとき、スパイスは罰を下すと師匠に警告されていた。ティローはそれらのルールを守りつつ、店にやって来る人々の相談に乗っていた。【写真は、アイシュワリヤー・ラーイ】

 ある日、ティローは店の前で事故に遭って負傷したダーグ(ディラン・マクダーモット)を助ける。スパイスたちはティローに警告するが、ティローは彼に恋するようになってしまう。また、ティローはダーグに触れ、ルールのひとつを破ってしまう。

 すると、スパイスたちはティローではなく、ティローの顧客を罰するようになる。今までティローのスパイスに助けられていた人々は、スパイスのせいで不幸に襲われるようになる。それを見たティローは、客を取るか、愛を取るかのジレンマに陥る。ティローは一旦はスパイス使いの道に戻るものの、やはりダーグを忘れることができず、今度は「店から出てはいけない」というルールを破って、ダーグと一緒にデートをしてしまう。店に帰って来ると、スパイス・バーザールの店内は無茶苦茶に荒らされてしまっていた。

 ティローは最終的に、愛とスパイスの両方を取る道を行く。ティローはまず、スパイス・バーザールを閉店することに決める。そしてスパイスの力を使って自らを着飾り、ダーグの家へ行って一緒に一夜を過ごす。その後、店に戻ったティローはスパイスに火を付け、焼身自殺を図る。

 だが、翌朝気付いたときにはティローはダーグに助け出されていた。手には赤唐辛子が握られていた。スパイスはティローの愛を許してくれたのだった。

 グリンダル・チャッダーはもしかして少女趣味の人なんじゃないだろうか?彼女は「Bend It Like Beckham(ベッカムに恋して)」(2002年)のヒットで一躍有名になったが、続くヒングリッシュ映画「Bride and Prejudice」は見事に外し、次回作でどう出るかが注目されていた。僕は「Bride and Prejudice」をそれほど駄作だとは思わなかった。インド人女性と英国人男性の恋愛という点で少し不安があったが、ボリウッド的娯楽映画を英語でやりたかったんだな、という意図がはっきりと分かった分、監督のお遊びと受け止めることができたからだ。しかしこの「The Mistress of Spices」はどう見てもチャッダー監督のグロテスクな少女趣味の産物としか思えない。スパイス使いというキャラクターは新しかったが、言うなれば魔法使い。スパイス使いとしての責務と恋愛の間の板ばさみはまだいいとしても、恋愛のために焼身自殺をし、それが結局恋愛成就につながるというお伽話的クライマックスは、いかにも乙女の夢物語という感じがする。しかも今回も前作と同じくインド人ヒロインが白人男性と結ばれる結末である。一連の作品の中で、チャッダー監督が観客に何を訴えたいのか、段々分かって来た。外国人と結婚した自身の行動を正当化したいのだろう。恋愛を賞賛しながらも最低限の伝統・習慣・ルールを守る傾向にあるインド映画の伝統とは全く違った、ラディカルな映画を作る映画監督だと思う。

 ひとつひとつの花に意味があるという「花言葉」は日本人にも馴染みが深いが、スパイスのひとつひとつにも意味があり、それぞれ効能があることを知るのは新鮮な体験である。それらが果たして本当にインドの伝統医学に基づいたものなのかは知らないが、映画中ではカルダモン、シナモン、コショウ、トゥルスィー、ターメリックなどなどのスパイスの効能が語られ、とても興味深い。ティローが経営するスパイス・バーザールの店内の雰囲気もとてもいい感じだ。また、ティロー(Tilo)という名前は「ゴマ」という意味であり、それが映画の最後で締めの台詞につながっているところもニクイ演出であった。

 アイシュワリヤー・ラーイがヒロインを演じることはおそらく最初から決まっていたことだろうが、相手役のキャスティングには疑問を投げかけざるをえない。アイシュワリヤー演じるティローは、店の前でバイクで怪我をしたダーグというアメリカ・インディアンの血を引く米国人に一目惚れしてしまう。そのダーグをディラン・マクダーモットという米国人男優が演じているのだが、全然アイシュワリヤーと釣り合っていない。まだ「Bride and Prejudice」のマーティン・ヘンダーソンの方がよかった。しかもアイシュワリヤーは、ステレオタイプなインド人女性役を強要されており、彼女の魅力がほとんど発揮できていなかった。彼女の英語も、感情がこもっていないような気がする。アイシュワリヤーは、英語の映画に出演したい気持ちは分かるが、もっと脚本をよく見て映画を選ばないと、海外の映画界において女優としての価値を下げてしまうだろう。また、ソフトなベッドシーンはあったが、キスシーンはなかったことも付け加えておく。

 脇役の中では、スパイス・バーザールの常連客の1人を演じたアヌパム・ケールが最も名の知れた男優である。彼は「Bride and Prejudice」にも出ていた。だが、大した見せ場はなかった。アヌパム・ケールが演じたお爺さんの孫娘ギーター役を演じたのは、パドマー・ラクシュミー。世界的に有名なインド系英国人作家サルマーン・ルシュディーの妻である。このギーターのキャラクターは、ほとんど出て来ない端役ではあるが映画のメッセージとしてとても重要だった。ギーターは、メキシコ人とアメリカ人のハーフと恋愛結婚しようとして、両親や祖父を困らせるのである。やはり、インド人女性と外国人男性の恋愛が、チャッダー映画の根幹にある。

 言語はほとんどが英語。時々ヒンディー語も登場するが、重要な台詞はない。ダーグの回想シーンでは、アメリカ・インディアンの言語も出てくる。また、ティローの幼年時代のシーンは、おそらくケーララ州で撮影されたと思われる。ケーララ州はアーユルヴェーダの故郷として知られている。

 「The Mistress of Spices」は、アイシュワリヤー・ラーイが出演する英語映画ということで十分注目される映画ではあるが、それ以外に特筆すべき事柄がある映画ではない。グリンダル・チャッダー監督は、今度はジョン・トラボルタ、ジェニファー・ロペス主演の「Dallas」を監督するようだが、果たしてどうなるのだろうか?

5月2日(火) タミル・ナードゥ州でインダス文字発見

 僕は子供の頃から古代文明がとても好きだった。その興味はいわゆる超古代文明と言われるオカルトチックな分野まで達しており、ムー大陸とかアトランティス大陸とか、名前を聞くだけでワクワクしていた。だが、少なくとも実在が確認されている世界四大文明の中では、特にインダス文明にとても興味を持っていた。未だに解明されていないインダス文字や文明滅亡の謎にロマンを感じていたものだった(インダス文明は核戦争で滅んだと信じ込んでいたが・・・)。当然、インダス文明の本場であるインドやパーキスターンを旅行する際はインダス文明の遺跡も欠かさず巡っており、今までモヘンジョ・ダーロ、コート・ディージー、ハラッパー、ロータル、ドーラーヴィーラーなどを訪れた。近々、カーリーバンガーも訪れる予定である。インドに住んでいると、インダス文明の遺跡まで比較的簡単に足を伸ばせるのが嬉しい。それに、インダス文明の発掘調査の進展はインドの国威発揚に関わっているため、インダス文明絡みのニュースは積極的に報道されることが多く、毎回そういう記事を見つけるたびに心が躍る気分である。

 5月1日のザ・ヒンドゥー紙にも、インダス文明に関する記事が一面に掲載されていた。記事の見出しは「タミル・ナードゥ州で世紀の発見」。何と、インダス文字が刻印された石製の研磨手斧がタミル・ナードゥ州で発見されたらしい。

 発見のいきさつはこうである。2006年2月、ナーガパッティナム県に住む学校教師Vシャンムガナータンは、バナナとココナッツの木を植えるために自宅の裏庭を掘り起こしていた。すると、地面の中から2つの石製の研磨手斧を見つけた。シャンムガナータン氏は考古学に興味を持っており、タミル・ナードゥ州考古学局に務める友人に電話をした。その友人はその手斧を預かり、さらにタミル・ナードゥ州考古学局のTSシュリーダール特別局長に手渡した。シュリーダル局長は、2つの手斧の内のひとつに文字が刻まれているのを発見した。彼は同局の碑文研究家に鑑定を命じたところ、それらがインダス文字であることが特定された。さらに、インダス文字の権威として知られる考古学者イラヴァタム・マハーデーヴァンが検証したところ、彼もやはりインダス文字だと断定し、これを「タミル・ナードゥ州の考古学における世紀の発見」と表現した。マハーデーヴァン氏によると、この手斧は紀元前1500年ほどのものだという。


発見された手斧

 なぜこの手斧が世紀の発見なのか。それにはいくつか理由がある。まず、まとまった形でのインダス文字の碑文がタミル・ナードゥ州で発見されたのはこれが初めてだからである。今まで、インダス文字の出土はマハーラーシュトラ州が最南端だったようだ。マハーデーヴァン氏によると、この手斧が北インドから輸入されて来たものである可能性はないらしい。なぜなら手斧の石材はタミル地方のものであるからである。

 手斧に刻まれた文字は4文字。マハーデーヴァン氏が考案したインダス文字番号によると、48番、342番、367番、301番とのことである。最初の文字は、肋骨を持った骨格の人間が体操座りのような格好をしている。2番目の文字は取っ手のある壺。3番目の文字は三叉の槍、4番目の文字は三日月である。もちろん、インダス文字はまだ未解明であり、これらはマハーデーヴァン氏の個人的な見解で、実際は別のものを表しているかもしれない。また、マハーデーヴァン氏によると、1番目の文字の読み方は「muruku」、2番目の文字の読み方は「an」で、それらを合わせると「murukan」になる。「ムルガン」と言えば、タミル地方で信仰されている戦闘神であり、ヒンドゥー教の神話の中ではシヴァ神の息子のカールティケーヤと同一視されている。三叉の槍や三日月がシヴァ神のシンボルと同一であることも興味深い。


<これらの文字画像はここより拝借>


ムルガン

 この48番と342番の文字のセット、つまりマハーデーヴァン氏によると「murukan」という単語は、ハラッパーから出土したインダス文字の印章などにも頻出する組み合わせらしい。

 まとまったインダス文字がタミル・ナードゥ州内で初めて発見だけでなく、そこに書かれていた単語はタミル文化と密接に関係ある言葉だった。それをもってして、マハーデーヴァン氏は、この手斧の発見によって3500年前にタミル地方に住んでいた人々が、インダス谷地方と同一の文字を使用していただけでなく、同一の言語を使用していたことが明らかになったと主張している。これこそが、この手斧を世紀の発見と呼ぶ最大の要因だ。

 また、ちなみに48番「muruku」文字が単独で刻まれた土器や、47番文字が刻まれた土器は、前々からタミル・ナードゥ州、やケーララ州などで発見されていたらしい。だが、この手斧のように、人工加工物に複数の文字がひとまとまりとなって発見されたのはこれが初のことのようだ。

 インダス文明の担い手がどの民族だったかについては、昔から議論が絶えない。現在ではドラヴィダ系の人々だったとの説が有力だが、確かにこの手斧の発見は、マハーデーヴァン氏が言うように、それを裏付ける強力な証拠となるだろう。

 また、蛇足ではあるがひとつ追記しておく。この記事を掲載したザ・ヒンドゥー紙は、スポーツ紙のような新聞が多いインドにあってもっとも硬派な新聞であるが、本来はチェンナイを本拠地とする南インド系の新聞である。そのために、どちらかというとタミル人の自尊心を満たすこのニュースが一面に掲載されたのであろう。

5月5日(金) 36 China Town

 かなり暑くなって来たが、今日も頑張ってバイクでPVRアヌパムまで行き、本日公開の新作ヒンディー語映画「36 China Town」を見た。

 題名は映画の舞台となる住所であり、特に深い意味はない。プロデューサーはスバーシュ・ガイー、監督は「Ajnabee」(2001年)や「Aitraaz」(2004年)などのスリラーを得意とするコンビ、アッバース・マスターン、音楽は今絶好調のヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、アクシャイ・カンナー、カリーナー・カプール、シャーヒド・カプール、ウペーン・パテール(新人)、パレーシュ・ラーワル、ジョニー・リーヴァル、パーヤル・ローハトギー、タナーズ・ラール、ラージ・ズシ。その他、イーシャー・コッピカル、タヌシュリー・ダッター、プリヤンカー・チョープラーが特別出演。

36 China Town
  ゴアのチャイナタウンでカジノを経営する大富豪ソニア(イーシャー・コッピカル)は、行方不明になってしまった1人息子ヴィッキーに250万ルピーの懸賞金を懸けていた。ゴアで行方不明になったヴィッキーはなぜかムンバイーにおり、映画スターを夢見てムンバイーへやって来たラージ(シャーヒド・カプール)と、お見合い結婚と失恋のダブルパンチに打ちのめされてムンバイーをさまよっていたプリヤー(カリーナー・カプール)に発見される。2人は250万ルピーの懸賞金を山分けすることに決め、ソニアに電話をして、バスでゴアへ向かった。【写真は左から、パーヤル・ローハトギー、パレーシュ・ラーワル、カリーナー・カプール、アクシャイ・カンナー、シャーヒド・カプール、ウペーン・パテール、ジョニー・リーヴァル、タナーズ・ラール】

 2人が「チャイナタウン36番地」にあるソニアの邸宅に着いた頃は既に真夜中になっていた。人気のない邸宅に入った2人は、ソニアの死体を発見する。急いで2人は逃げ出したが、慌てていたプリヤーはスーツケースを邸宅に置いてきてしまった。

 ソニア殺人事件は、カラン刑事(アクシャイ・クマール)が担当することになった。カランは早速ラージ、プリヤーを捕まえた他、遺体をプリヤーのスーツケースに入れて持ち運んでいた夫婦KK(ジョニー・リーヴァル)とルビー(タナーズ・ラール)、そして殺人があった夜にKKと共に夜通しギャンブルをしていたホテルのオーナー、ナトワル(パレーシュ・ラーワル)とその妻グレイシー(パーヤル・ローハトギー)、また、その夜グレイシーと共にいたゴア切ってのプレイボーイ、ロッキー(ウペーン・パテール)など、次々と容疑者を捕まえた。それぞれの容疑者は隠し事があって嘘の供述をするが、カランは嘘を的確に嘘を見抜き、事件の犯人をズバリ言い当てる。

 題名から、何か中国と関係ある映画なのかと期待しまうが、中国っぽいモチーフが用いられているもののほとんど中国とは関係ない。ゴアのチャイナタウン36番地にある邸宅で起こった殺人事件と、それを巡る1人の刑事と7人の容疑者の駆け引きを描いたスリラー映画。だが、スリラーの部分よりもむしろ、映画の息抜きになっているコメディーシーンの方が秀逸な映画であった。

 こういうスリラー映画では、あっと驚く真犯人の存在と、巧妙に張り巡らされた伏線が評価の対象になる。だが、この映画ではそのどちらも弱かった。あらすじの中で真犯人に関して書かなかったが、実は真犯人はメインキャストの中にはいない。こういうどんでん返しはスリラー映画にはよくある手法であり、映画をよく見ている人なら序盤からその展開は予想できたはずである。その割に伏線や殺人の動機に説得力がなく、スリラー映画としての質は著しく低かった。

 コメディー映画としての成功は、2人のコメディアン、パレーシュ・ラーワルとジョニー・リーヴァルの存在に拠るところが大きい。パレーシュ演じるナトワルと、ジョニー演じるKKは、2人ともギャンブル好き。だが、ナトワルはギャンブルで金持ちの妻の財産をかなり食い潰してしまったため、現在ではギャンブル禁止となっている。しかし、ギャンブル禁断症状が出て来ており、ついついふらふらとカジノへ迷い込んでしまう。一方、KKはあるバーバー(行者)から授かった「予知のサイコロ」を武器に、ゴアのカジノで一儲けしようと企んでいた。この2人がタッグを組んでルーレットに挑戦するのだが・・・結果は惨敗。しかも殺人事件に巻き込まれ、観客を大爆笑させてくれる。

 この映画がもしヒットしたら、それは映画そのものの力ではなく、音楽監督ヒメーシュ・レーシャミヤーのおかげと言えよう。ヒメーシュ・レーシャミヤーは現在最も勢いのあるシンガーソングライターで、彼が作曲し、かつ自ら歌を歌った曲はヒットを連発している。「Aashiq Banaya Aapne」(2005年)の同名曲、「Aksar」の「Jhalak」、この「36 China Town」の「Aashqui Meri」、もうすぐ公開予定の「Tom Dick and Harry」の「Jhoom Jhoom」などが、最近のヒメーシュ作曲ヒメーシュ歌唱ヒット曲である。調子に乗った彼は最近、「Aap Kaa Suroor」というソロアルバムまでリリースした。「36 China Town」の音楽はヒメーシュ色がかなり強く出ており、ヒメーシュ・ブームに洗脳されているインド人観客を呼び込むだけの力があると思われる。

 実生活の恋人であるシャーヒド・カプールとカリーナー・カプールは、「Fida」(2004年)以来2度目の共演。この2人は案外相性がいいのだろうか、見ていてものすごく自然な感じがする。そして2人とも揃って二枚目半の演技をそつなくこなしていた。この映画がデビュー作となるウペーン・パテールは、見ていて苦笑いしたくなるほどのプレイボーイ役。アゴが割れている上に筋肉ムキムキという変な男優がまた現れた。

 「Shaadi Se Pehle」(2006年)に続き出演のアクシャイ・カンナーは、ふざけたキャラクターばかりの中で1人だけ真面目な刑事役。その真面目っぷりがまた周囲とのギャップを生んでいておかしい。アクシャイ・カンナーはいつの間にかけっこういい男優になっていると思う。そういえば、彼が英国紳士風の黒いスーツと帽子をかぶってチャイナタウン36番地の邸宅に入っていくシーンがあったが、あれは訳が分からなかった。

 イーシャー・コッピカルは殺される大富豪役で、冒頭のみに出演。タヌシュリー・ダッターは、シャーヒド・カプール登場シーンのミュージカル「Jab Kabhi」の相手役で特別出演。プリヤンカー・チョープラーは、事件解決後の後日談映像に出演。なんとアクシャイ・カンナー演じるカラン刑事の妻役であった。

 映画は中国と全く関係なかったものの、ダンスシーンには中国っぽいモチーフが出てきた。多分ノースイーストの人であろうが、東洋人っぽい顔をしたバックダンサーやエキストラも目立った。中には日本的モチーフまであった。例えば忍者とか、ハッピっぽいデザインの服とか・・・。また、シーンとシーンの間に日本語のヒラガナやカタカナが一瞬だけ見えたような気がする。言うまでもなく、インド人は中国と日本を未だに混同している。

 ところで、ゴアのチャイナタウンというのはおそらく架空のものであろう。僕の記憶が正しければ、インドにはチャイナタウンはコールカーターにしかない。チャイナタウンということでネオン街のような風景が映し出されていたが、おそらくタイのバンコクでロケされたのであろう。

 「36 China Town」は、ヒメーシュ・レーシャミヤーの音楽のヒットによりかなり期待されていた作品だが、蓋を開けてみると平均以下のスリラー映画であった。最初からコメディー映画と割り切って見に行けば何とか許せるレベルかもしれない。

5月7日(日) マンゴーの楽園、マリーハーバード

 最近、デリーの街角には黄色く熟れたマンゴーが出回っている。しかし、北インドのマンゴーの季節は雨季前後である。現在デリーで出回っているマンゴーは、南インドから長い時間をかけて運ばれて来たものか、人工的に早く熟させて収穫されたものか、去年収穫されたマンゴーを冷凍保存したものか、最悪の場合は熟れたようにペイントされたものらしく、マンゴー通はまだ手を出さない。

 外国人の間では、「マンゴー=アルフォンソ」という偏見があまりにもこびりついてしまっているようだ。マンゴーには、それこそマンゴー辞典が作れてしまいそうなくらいいろいろな種類があるのだが、その中でもオレンジがかった黄色をした中型のマンゴー、アルフォンソ種は外国人によく知られた名前である。ゴア原産のアルフォンソ・マンゴーは、マハーラーシュトラ州西部で主に生産されており、特にラトナギリのものが有名だ。収穫時期は4月。そのリッチなテイストは、インド料理で例えるならば「皇帝のカレー」バターチキンと言ったところか。だが、マンゴーに子供の頃から親しんでいるインド人(特に北インド人)の前で「マンゴー=アルフォンソ」なんて口走ったら、「まだ分かってないな」と鼻であしらわれてしまうだろう。確かにアルフォンソは「果物の王様」と呼ばれるマンゴーの中において、「マンゴーの王様」と呼ばれており、インドから海外に輸出されるマンゴーの中でも大きなシェアを占めている。だが、その理由は必ずしもアルフォンソがインドのマンゴーの中で一番おいしいからではない。アルフォンソは形がよく、味や香りが強く、しかも日持ちがするために、海外輸出用として適しているだけだ。アルフォンソだけでマンゴーの道を閉ざしてしまうのは、徒然草に出てくる「仁和寺にある法師」のようなものだと言える。では、どのマンゴーが一番おいしいのか。それは、インド人1人1人が一家言を持っているので、ここで不用意に書くことはできない。


アルフォンソ

 それでも、僕の周りのマンゴー通には、西ベンガル州のマールダー(イングリッシュ・バーザール)で取れるファジリー・マンゴーをインド最高に推す声が強い。僕もその声に押されてマールダーまでわざわざ行ったことがあったが、まだ収穫前だったという苦い思い出がある。その後、何とか食べる機会に恵まれた。マールダー・マンゴーをインド料理に例えるならば、みんなの大好物「アールー・ゴービー(ジャガイモとカリフラワーのカレー)」とかその辺りか。アルフォンソがひとつでお腹いっぱいになるのに対し、マールダーは何個でも食べたくなる味である。


マールダーのファジリー・マンゴー(収穫前)

 ところで、ウッタル・プラデーシュ州の州都ラクナウーの近くにも、「マンゴー・キャピタル」を自称するマンゴーで有名な場所がある。ラクナウーの有名な観光地バラー・イマームバーラーやルーミー・ダルワーザーを越え、市街地から西に約30km行った地点にあるマリーハーバードである。マリーハーバードは、カーコーリーやマールなどと共に、ウッタル・プラデーシュ州の「マンゴーベルト」を構成している。

 マリーハーバード一帯には多くのマンゴー畑が密集しているようだが、その中でも最も有名なマンゴー農園は、カリームッラー・カーンが経営するアブドゥッラー農園である。彼の一族は300年以上も前からマンゴーの商売に関わっているという。その農園の中に樹齢90年の1本のマンゴーの木がある。なんとこのマンゴーの木、1本の木に315種類ものマンゴーが成るのである。カーン氏が10年の歳月をかけて接木していったらしい(そんなことができるとは知らなかった!)。カーン氏が「マンゴーの大学」と呼ぶこの木は、リムカブック(インドのギネスブック)に載っているという。


カリームッラー・カーン

 アブドゥッラー農園のスペシャリティーは、カリームッラー・カーンの父親アブドゥッラー・カーンの名前を冠したアブドゥッラー・パサンド(アブドゥッラーの好物)。このマンゴーは多くのマンゴー・フェスティバルで受賞している。また、カーン氏が「グラス」と呼ぶマンゴーも特殊である。小さい品種のマンゴーだが、このマンゴーはナイフで切って食べたりしない。マンゴーに針で穴を開け、コップの上に置と、果汁が自然にコップに溜まっていくのである。そして全て果汁が出切ったらそれを飲むというわけだ。

 ちなみに、マリーハーバードは、ウルドゥー詩人ジョーシュ・マリーハーバーディー(1898-1982)の生まれ故郷でもある。ジョーシュ・マリーハーバーディーは1955年にパーキスターンに移住したが、彼の生家は今でもマリーハーバードに残っているという。やはり彼の家もマンゴー農園を持っていたようだが、現在ではインド政府の所有物となっている。また、マリーハーバードの近くには、「Junoon」(1978年)、「Kalyug」(1980年)、「Umrao Jaan」(1981年)などのロケ地となった宮殿もいくつか残っているようだ。ラクナウーとマリーハーバードの間にあるカーコーリーは、カバーブ(串焼き肉)で有名な町である。「Rang De Basanti」(2006年)にも「カーコーリー・カバーブ」という言葉が出てきた。

 話をマンゴーに戻そう。北インドで最も有名なマンゴーの品種のひとつにダシャヘリーがある。緑〜黄色のマンゴーで、食べた後まで手に残るその強い香りと、濃厚な味で知られている。実はダシャヘリーの原産地と言われるダシャヘリー村も、このマリーハーバードの近くにある。ダシャヘリー村には、樹齢300年のオリジナルのダシャヘリー・マンゴーの木がある。この木は昔からラクナウーのナワーブ(太守)の所有物となっているらしい。かつてナワーブは、この木になる全てのマンゴーを誰にも食べさせないようにするため、木全体を網で覆ってしまったことがあるとか。ナワーブがそこまでこだわるマンゴーなので、さぞや素晴らしい味だろうと舌なめずりをしてしまうが、残念ながら今でもこのオリジナルのダシャヘリーの木になるマンゴーは市販されておらず、王族しか味わうことができないという。ただし、通常のダシャヘリー・マンゴーは6月中旬頃から市場に並び始める。


ダシャヘリー・マンゴー

 ダシャヘリーと双璧をなす北インドのマンゴーの品種にチャウサーがある。やはりマリーハーバードの近くにチャウサーという名の村があり、そこのマンゴーが原産らしい。チャウサーは黄金色をした大型のマンゴーで、7月に市場に出並び始める。その圧倒的な甘さは、未熟なままで食べても十分甘いとまで言われている。


チャウサー・マンゴー

 その他にもインドには各地に有名なマンゴーの品種がある。ウッタル・プラデーシュ州ではサフェーダーやラングラーなども有名であるし、グジャラート州のケーサル、アーンドラ・プラデーシュ州のバンガンパッリ、カルナータカ州のトータープリー、タミル・ナードゥ州のニーラムなども特産品である。どのマンゴーが最もおいしいかは本当に議論の分かれるところだ。やはりインド人は自分の地元のマンゴーを一番だと主張する傾向が強い。だが、マンゴー党の中でこれだけは一致した意見であろう――インドのマンゴーは世界一!

 ところで、日本のマンゴー党に朗報である。「世界一」のインドのマンゴーがもうすぐ日本に輸出されるようになるかもしれない。現在日本はインドからのマンゴー輸入を全面的に禁止している。それは手荷物で持ち帰った際も同様で、もし成田などの税関で荷物の中からマンゴーが見つかると容赦なく没収されてしまう。マンゴーをインドから日本にうまく持ち帰るコツは、マンゴーのひとつひとつをサランラップなどで包んで匂いが外に漏れないようにすることだ。こうしないと空港を警備する「マンゴー犬」に発見されてしまう。だが、もうこんな苦労をしなくてもよくなるかもしれない。そのマンゴー禁輸措置を解除するための手続きが現在着々と進行中だからだ(もしかしてもうゴーサインが出たのか?)。日本に出回っているマンゴーはフィリピン産のものが多いと思うが、一度インド産マンゴーが市場に出回るようになれば、日本にマンゴー革命が起きることは確実であろう。

 マンゴーの原産地はベンガル湾沿いのインド東部、ミャンマー、アンダマン諸島らしい。紀元前5世紀頃に仏教僧たちがマンゴーを東南アジアや東アジアに伝え、ペルシアの貿易商たちがマンゴーを中東やアフリカに伝えたようだ。16世紀以降インドにやって来たヨーロッパ人たちも、マンゴーの世界普及に一役買った。おかげで今では世界中でマンゴーが生産されている。だが、それでも「マンゴーの父」としてのインドの地位は少しも揺らいでおらず、インド産マンゴーは世界のマンゴーの貿易量の40%を占めているという。時々冗談で「インド最大の輸出品は宗教」と言われるが、マンゴーも大した輸出品である。

 ・・・と言うことは、インドのマンゴーが食卓に並べられることを許されなかった日本は、世界的潮流からかなり取り残されていたと言える。マンゴーなしの食生活・・・日本人はかなり貧相な食生活を送っていたものだ。インドで生まれた仏教は既に6世紀に日本に伝来していたが、インドのマンゴーはようやく21世紀になって日本に上陸しそうだ。

5月11日(木) Dhoom世代

 2004年の大ヒット映画「Dhoom」。

 プリータムの音楽も大ヒットしたが、この映画のヒットの最大の要因は、日本製大型バイクの活躍である。「Dhoom」はバイクが主人公の映画と言い切っても過言ではない。インドではつい最近まで、交通カースト制度(いかに安くてボロい四輪車でも、道路上の身分はどんなに高価な二輪車よりも絶対的に上)の影響もあり、バイクは「四輪車を持てない人の乗り物」というイメージが強かった。それは今でも根強いが、それでもこの映画の登場のおかげで、「バイクはかっこいい」「バイクはステータス・シンボル」というイメージがインド人の間で劇的に定着した。今まで燃費をバイク購入時の最大のポイントと考えていたインド人の心の中に、「多少燃費は悪くてもかっこいいバイクが欲しい」という意欲を沸き起こさせた。そして、金のあるインド人は、インド国内で販売されている100cc〜200ccぐらいの小型バイクに飽き足らず、タイから1000cc前後の大型バイクを輸入して乗り回すようになった。ボリウッド・スターの中にも、バイク愛好家を自称する人がいつの間にか増えている。ジョン・アブラハム、サルマーン・カーン、ソハイル・カーンなどなど・・・。クリケット・スターのマヘーンドラ・スィン・ドーニーもバイク好きで有名である。「Dhoom」以降、ボリウッド映画の中に大型バイクが登場する機会もぐっと増えた。「Dhoom」以降では、「Deewane Huye Paagal」(2005年)の終盤にある、ドバイでロケされたバイク・スタントが圧倒的である。

 これら一連のバイク・ブームをひっくるめ、輸入バイクであれインドの市販バイクであれ、バイクを愛する人々は「Dhoom世代」と呼ばれるようになっているようだ。


映画の1シーン
ジョン・アブラハムが乗っているのは
Suzuki GSX1300R Hayabusa



ナンバープレートをよく見ると・・・
セロハンテープで貼り付けられた紙!?
イカス!

 ところで、5月11日付けのタイムズ・オブ・インディア紙では、「Dhoom世代」のスピード出し過ぎや交通違反が問題になっていた。インド人ライダーのスピード違反は今に始まったことではないと思うし、その増加の裏には、「Dhoom」のヒットだけでなく、二輪車人口の増加、二輪車の性能アップ、道路の整備など、他にも多くの原因が考えられるだろう。だが、「Dhoom」との関連性も確かに見受けられる事象があった他、いくつか興味深い事実が分かったため、今回取り上げることにした。

 記事の中でもっとも興味深かったのは、インドではバイクのスピードを計測するスピード・レーダーや赤外線カメラがないということ。よって、暴走するライダーが後を絶たないものの、スピード違反で捕まるライダーはほとんどいないらしい。また、無理に捕まえようとしてライダーを怪我させることを警察が恐れていること、四輪車に比べてナンバープレートが小さいため、ナンバーをメモして後からチャーラーン(challan;元ヒンディー語。インド英語でinvoiceという意味。ここでは違反切符)を送ることが困難なこともその理由のようだ。僕も確かに今までインドでバイクを運転していてスピード違反で捕まったことはない。逆に考えれば、インドは法定速度を気にして運転しなくていいということが分かってちょっとした収穫であった。

 ちなみに、二輪車の交通違反で最も多いのはノーヘル。やはり見てすぐ分かるから、警察も捕まえやすいのだろう。最近、これからは規格化されたヘルメットのみをヘルメットと認めるようになるとの記事を見たが、果たしてどうなるのであろうか?あの安っぽいプラスチック製ヘルメット(下の写真)が消えて行くのであろうか?ノーヘルの次に多いのは3人乗り。インド人は4人乗り5人乗りと曲芸師のようなこともするが、その場合の罰金は1人超過するごとに加算されていったりするのであろうか?素朴な疑問である。その次は無免許。無免許運転は、これらの違反で捕まったときに連鎖的に見つかることがほとんどであろう。


インド名物エコノミーヘルメット(20ルピー)


命の保証はないが、警察はやり過ごせる

 また、インドの乗用車法では、二輪車の最高速度は時速50kmと決められているようだ。交通警察は、「なぜ二輪車製造会社は時速50km以上出るバイクの製造を許されているのか?」と疑問を投げかけている。だが、インドのバイク事情も道路事情もだいぶ変わってきたので、法律の方を現状に合わせる必要もあるのではないかと思う。ちなみに僕が所有しているヒーローホンダのカリズマは、最高速度125kmと宣伝されている。

 さらに目を引いたのは、グレーターノイダ・エクスプレスハイウェイで週末に密かに行われているレースの記述であった。この道路は、ノイダとグレーターノイダを結ぶ全長23.5kmの道路であり、どうやらレースに適した広くてきれいな舗装道のようだ。デリーの裕福な若者たちは、高性能の四輪車や二輪車を持ち寄って、ここでレースを開いたり、スタント・パフォーマンスを競い合ったりしているらしい。今年3月にはノイダ警察がこれらの若者を一斉摘発したようだが(まるで日本の警察の暴走族一斉摘発のようだ)、それでもまだ警察の目をかいくぐって続けられているようだ。確か「Dhoom」にもバイクレースのシーンがあった。多分これも、「Dhoom」の影響ではないかと思う。


これは「Dhoom」の1シーン

 ところで、僕はインドでバイクを乗り回している。インドでバイクに乗るというと、かなり危険に思われることが多いが、実は日本よりもインドの方がいくつかの点で快適のような気がする。

 まず、上に述べたように法定速度を全く気にする必要がないこと。その他の交通ルールもあってないようなものなので、警察を恐れながら運転する必要はない。ただし、デリー内ではノーヘルは厳しく監視されているので、ヘルメットのみ気を付ける必要がある(デリーの外ではヘルメット着用義務すらあやふやである)。例え警察に捕まったとしても、罰金は100ルピー(300円以下)。日本の法外な罰金に比べたら全然痛くない。

 しかし、裏を返せばインドではみんな交通ルールを守っていないということなので、道路はさぞや危険なのではないかと思われるだろう。だが、法律に縛られない自然交通ルールが道路を支配しているので、それほど危険でもない。道路は右側通行か左側通行か、くらいが法律で決まっていれば、後は交通なんて何とかなるのではないかと思ってしまうくらいだ。インドでは、みんな他の人が危ない運転をしていることや、インドの道路には何が飛び出て来るか分からないことをよく心得ているので、とても注意深く運転している。そして、その場の臨機応援で何とか切り抜けるだけの知恵を持っている。停電で信号が消えるとさすがに混乱するが、それでも何とかなって行くのが日本人から見ると不思議でたまらない。インドの道路を見ていると、これがインドで名高い「混沌の中の秩序」か、とうなってしまうことが何度もある。その点では、交通ルールを盲従し、秩序の中でのみ生きることに慣れ、ルールに従ってさえいれば安全と思い込んでいる日本の方が、潜在的な危険を孕んでいるくらいだ。

 バイクにとってさらにありがたいのは、インドの道路で車両を運転する人々がバイクの存在をかなり意識してくれていることである。四輪車は二輪車を邪魔に思い、二輪車は四輪車を邪魔に思うのは万国共通だと思うが、それでも二輪車を運転していると「周囲に気にされている」という自分自身の存在感を感じる。言うまでもなく、道路上で存在感があることは危険回避に非常に重要だ。インドでは、バイクの数が比較的多くてバイクの存在を気にせざるをえないこと、また、多くの四輪車ドライバーがバイクを運転した経験を持っていることなどがその理由なのではないかと思う。日本では、多くの四輪車ドライバーはバイクの存在をほとんど無視して運転しているところがあるし、二輪車を経ずに四輪車を運転している人がけっこういてバイクの気持ちがよく分かっていないのではないかと思うことが時々あり、かえって危険である。

 遠出するとき、有料道路の料金所の多くが二輪車の通行料を免除してくれていることも嬉しい。二輪車が通行料を払わなければならないのは、デリーとノイダを結ぶトール・ロードぐらいである(9ルピー)。ほとんどの有料道路はフリーパスで通過することができ、四輪車に比べて経済的にも時間的にも優越感を感じる。日本の高速道路も見習ってもらいたいものだ。

 インフラ整備の遅れはインドの大きな問題のひとつであるが、バイカーにとって道路が悪いことはかなり頭の痛い問題である。しかし、デリーの道路は比較的きれいだし、主要都市を結ぶ幹線道路も近年だいぶ整備が進んで来た。四大都市をハイウェイで結ぶ「黄金の四角形計画」も、遅々としてはいるものの着々と進行中である。ハイウェイ上のサービス(ガソリンスタンド、トイレ、休憩所など)も徐々にではあるが充実しつつあるのを感じている。

 よって、バイクに乗ることだけに関するなら、インドはけっこう快適な国である。少なくとも僕はそう思っているし、日本に帰ってもしバイクに再度乗り始めたら、かなりストレスが溜まるのではないかと危惧している。

 しかしながら、インドでバイクを運転する際の最大の短所は、何と言っても暑さであろう。現在も酷暑期真っ只中。いくらバイク好きでも、こう暑くてはよっぽどのことがない限り日中バイクなんて乗ってられない。また、いかにインドが発展しようと、この暑さを抑えることは不可能だ。この暑ささえなければ、日本に比べて気ままにバイクを運転できるインドはバイク天国になれると思うのだが・・・。以上、「Dhoom世代」の妄想であった。

5月12日(金) Tom Dick and Harry

 今日はPVRアヌパムで本日公開の新作ヒンディー語映画「Tom Dick and Harry」を見た。

 題名は主人公3人の名前。この3つは英語圏で非常に一般的な名前であり、英語の慣用句では「一般の人」を表す。だが、主人公3人はちょっと普通ではない。3人とも身体障害者なのだ。トムはベヘラー(耳が聞こえない人)、ディックはアンダー(目が見えない人)、ハリーはグンガー(しゃべれない人)である。詳しくは以下のあらすじと解説を参照のこと。監督はディーパク・ティジョーリー、音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、ディノ・モレア、ジミー・シェールギル、アヌジ・ソーニー、セリナ・ジェートリー、キム・シャルマー、グルシャン・グローヴァー、シャクティ・カプールなど。

Tom Dick and Harry
  ベヘラーのトム(ディノ・モレア)、アンダーのディック(アヌジ・ソーニー)、グンガーのハリー(ジミー・シェールギル)は、スィク教徒ハッピー・スィンの家に家賃を払って住んでいた。彼らの家の隣には、セリナ(セリナ・ジェートリー)というかわいい女の子が住んでおり、3人とも彼女にゾッコンだった。また、魚売りの女の子ビジュリー(キム・シャルマー)はトムに猛烈アタックを繰り返していた。【写真は左から、アヌジ・ソーニー、セリナ・ジェートリー、ディノ・モレア、キム・シャルマー、ジミー・シェールギル】

 その頃、街では女の子の誘拐事件が多発していた。それを行っていたのは、世界最悪の悪人を目指すスプラーノ(グルシャン・グローヴァー)であった。スプラーノはかわいい女の子を海外へ売り飛ばすビジネスをしており、次のターゲットをセリナに定める。部下たちはセリナ誘拐を試みるが、トム、ディック、ハリーの妨害にあって失敗する。彼らに顔を見られてしまったため、スプラーノは今度は彼ら3人を殺害するよう命令を下す。ところがそれもあえなく失敗に終わる。

 セリナに恋するトム、ディック、ハリーの3人は、とうとう彼女に同時に告白する。だが、セリナは拒絶する。彼女に好きな人がいると思い込んだ3人は、今度はセリナとその彼をくっ付ける作戦を練る。セリナの家で「彼」の家の住所を見つけ出した3人は、セリナを睡眠薬で眠らせて、「彼」の家へ連れて行く。

 ところが、実はセリナは警察(シャクティ・カプール)が誘拐事件の首謀者を見つけ出すために送り込んだ覆面警官であった。そしてセリナの家で見つけた「彼」の住所は、実はスプラーノのアジトの住所だった。3人はスプラーノにセリナを引き渡して帰って来る。ところが、家に帰ってTVを見て、3人はさっき会った男がマフィアのドンであることを知る。

 トム、ディック、ハリーやその仲間は、スプラーノのアジトで催されていた宴に変装して紛れ込み、セリナや他の誘拐された女の子たちを助けようとする。ところがスプラーノにそれがばれてしまい、捕まってしまう。そこへちょうど警察が駆けつけ、大乱闘の末、スプラーノとその部下たちは逮捕される。

 子供向けTV番組みたいな子供騙しの低レベルなギャグ満載のコメディー映画。グンガー、ベヘラー、アンダーの身体障害者コンビが主人公ということで、先日公開されたばかりのアンダーとベヘラーが主人公の「Pyare Mohan」と酷似していた。「Pyare Mohan」も大した映画ではなかったが、「Tom Dick and Harry」もそれ以上にしょうもない映画であった。また、身体障害者をコメディーの主人公にすることに、僕は抵抗を感じずにはいられない。

 日光東照宮で有名な「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿は、インドでは「ガーンディー・ジーの三猿」と言われている(その起源や関連は不明)。その三猿と、身体障害者3人を対比させたスタートの切り方はコメディーとしてはまあ合格と言えるだろう。だが、目の見えないディックがコンドームを風船と間違えて子供たちに配ってしまったり、セリナのお父さんの用事をディックが助けているところを女中が2人が同性愛行為をしていると勘違いしたりという下ネタから、スプラーノとその部下たちのコミカルな悪役振りまで、非常にベタな笑いが続いた。また、ベヘラーのトムにグンガーのハリーが身振り手振りで説明するシーンが何度もくどくどしく出てきてじれったかった。全く笑えないことはないが、コメディー映画として失敗していることは明らかで、それが必然的に映画としての失敗につながってしまっている。

 いくつか過去の映画のパロディーも出て来た。インド映画をよく見ている人にとって、パロディーを見るとニンマリすることは避けられないのだが、しかしそのパロディーの仕方は何となく外しており、あまり素直にニンマリすることができない。例えば、冒頭では「Sholay」(1975年)の有名な「Tera Kya Hoga Kaliya?」のシーンが出て来るが、特に必要なシーンではなかった。盲目つながりで、「Black」(2005年)が引き合いに出されるが、やはり蛇足であった。クライマックスのシーンで、トム、ディック、ハリーがボリウッドの有名なキャラクターに扮してスプラーノのアジトに潜入するが、笑いの壺には全く届かない。ちなみにトムは「Amar Akbar Anthony」(1977年)でアミターブ・バッチャンが演じたアンソニー、ディックは「Josh」(2000年)でシャールク・カーンが演じたマックス(多分)、ハリーは「Mangal Pandey」(2005年)でアーミル・カーンが演じたマンガル・パーンデーイに変装していた。


左からアンソニー、マックス(?)、マンガル・パーンデーイ

 唯一パロディーで面白いのは、スプラーノの部下の3人である。スプラーノは、ボリウッド映画の有名な3人の悪役を贅沢にも部下にしている。「Sholay」でアムジャード・カーンが演じたガッバル・スィン、「Mr. India」(1987年)でアムリーシュ・プリーが演じたモガンボ、「Shaan」(1980年)でクルブーシャン・カルバンダーが演じたシャーカールである。スプラーノは、これらの悪役が犯した過ちを犯さないように気を付けながら世界一の悪役を目指すという、ユニークな悪役キャラである。グルシャン・グローヴァーは昔からおかしな悪役を演じて来ているが、その集大成がスプラーノだと言える。ちなみに、スプラーノのキャラクターは「オースティン・パワーズ」(1997年)のドクター・イーヴルがモデルになっていると思われる。

 この映画の唯一の救いは音楽監督ヒメーシュ・レーシャミヤーだ。特に「Jhoom Jhoom」は大ヒット中である。ヒメーシュ・レーシャミヤーは、自信を持って「インドの小室哲哉」と呼ぶことができる。彼の音楽はいつも同じようなメロディーで、しかも同じ歌詞が何度も繰り返されるのだが、不思議な中毒性があり、彼が作曲し彼が歌う曲はほとんどヒットを飛ばしている。かつてARレヘマーンが「インドの小室哲哉」と紹介されたことがあったが、レヘマーンよりもヒメーシュの方が小室哲哉と比較するにふさわしいだろう。ヒメーシュは、「Tom Dick and Harry」の挿入歌を作曲するに留まらず、なんと自身も映画中に登場して歌を歌っている(帽子をかぶったつぶら目で髭の濃い男)。しかも映画中挿入される「Jhoom Jhoom」と映画終了後のオマケナンバー「Tere Sang Ishq」の2曲に!一応、「Jhoom Jhoom」の方はハリーが見た夢ということになっており、翌朝ハリーは「夢の中にヒメーシュ・レーシャミヤーが現れた」と報告していた。それにしても、音楽監督が映画に登場するなんて、前代未聞のことなのではなかろうか?

 主役と言えるのは5人。ディノ・モレア、ジミー・シェールギル、アヌジ・ソーニー、セリナ・ジェートリー、キム・シャルマーである。だが、インド映画をよっぽど見込んでいる人でない限り、これら5人のほとんどは全く見知らぬ俳優ということになるだろう。知らなくても不思議ではない、はっきり言って今のところこれらの俳優は二流止まりだからだ。意外にも、最も名を知られていないであろうアヌジ・ソーニーの演技が光っていた。また、僕は今までキム・シャルマーを認めていなかったのだが、彼女が今回演じた「マチュリーワーリー(魚売り)」のビジュリーは恐ろしいほどはまっていてよかった。バストやヒップを揺らすと「プヨヨ〜ン」という効果音がしたりして、やはりものすごくベタなギャグのネタになっていたが、大衆には受けるだろう。ボリウッド映画には時々、ビジュリーのようなセクシーな格好をしたマチュリーワーリーが登場する。ムンバイーには家々を訪問して魚を売り歩くマチュリーワーリーが本当にいるのだろうか、デリー住民の僕には興味津々である。一方、ディノ・モレア、ジミー・シェールギルや、メイン・ヒロイン扱いのセリナ・ジェートリーは風格を欠いた。


マチュリーワーリー

 「Tom Dick and Harry」は、コテコテのギャグが満載のコメディー映画である。ヒンディー語が分からない人でもおそらく簡単に理解し、笑うことができるだろう。だが、それ以上の深みは期待してはならない。他に特筆すべきは、ヒメーシュ・レーシャミヤーが登場するダンスシーンとキム・シャルマーの「プヨヨ〜ン」ぐらいか。

5月13日(土) J&K州は売春公認州?

 5月13日付けのインディアン・エクスプレス紙を読んでいたら、衝撃的な事実が発覚した。なんと、ジャンムー&カシュミール(J&K)州は、インドで唯一、売春が合法化されている州らしい。

 J&K州の特殊な状態を論じる前に、まずはインド全体における売春に対する規制を抑えておく必要がある。実は、インドは売春が非合法の国ではない。インドでは、売春は法律で禁じられていない。売春に関する法律はあるが、それは売春そのものを禁じる法律ではない。だが、他方で売春を合法とする法律は、J&K州の除けば存在しない。つまり、インドでは売春は合法でも非合法でもない扱いになっている。

 インドで売春を扱う法律は、1956年に制定された猥褻商売防止法(PITA)。この法律は、1950年に国連で採決された売春防止宣言と国際的世論に押される形で制定され、当時は全インド猥褻商売抑制法(SITA)と呼ばれていた。1986年の改正をきっかけに、現行のPITAと呼ばれるようになった。

 PITAは、性労働を外郭から制限して行き、結果的に売春を撲滅することを目的とした法律だが、この法律の大きな落とし穴は、売春そのものを禁止していない点である。PITAが明確に禁じているのは、
  • 宗教施設、教育施設、病院などの「公共の場」から200ヤード(約183m)以内、または州政府、警察、行政長官などによって指定された区域での売春と買春
  • 公衆の面前で言葉、仕草、身体の露出などにより客の呼び込みをすること
  • 本人が望む望まないに関わらず人に売春をさせること
  • 売春目的で人を移動させること
  • 売春宿の経営や関与
  • 売春目的か否かに関わらず売春宿に滞在すること
  • 他人が売春で得た収入で18歳以上の人が生活すること
などである。つまり、裏を返せば、個人でこっそり目立たない場所で商売を行う売春婦は一応法には触れないということである。「公共の場」の定義も非常に曖昧で、これでは売春は完全に禁止されていることになっていない。よって、警察は性労働者たちを摘発する際は、売春ではなく、インド刑法(IPC)に規定されている公共猥褻罪や公的不法妨害罪などの罪を適用するようだ。

 話をJ&K州に戻そう。J&K州は、インドで唯一売春を合法とする法律がある州である。その法律は公認売春規正法といい、80年以上前の1921年に制定されたものだ。1921年、この法律はまずは政令として公布され、その後、同年2月12日にマハーラージャー・ハリ・スィンのダルバール(王宮)で承認されたことから、法律として実効化した。インド独立後も廃止されずに残り、現在まで同州の法律の一部となっている同法は、売春婦を「性を売って稼ぐ女性」と規定し、県庁に登録された公認売春婦の売春を認めている。同時に、この法律は売春宿の経営者を「性労働のための家、部屋、テント、ボート、その他の場所を所有する男性または女性」と規定し、公認売春婦を使った売春宿の経営を認めている(「ボート」という単語があるところが、ボートハウスで有名なシュリーナガルを擁するJ&K州らしい)。

 しかしながら、J&K州ではPITAとランビール刑法(インド刑法のJ&K州適用版)によって売春を規制している。だが、売春を公認する法律がある以上、公認売春婦になるための申請用紙は現在でも入手可能であるし(手数料はたったの5ルピー)、もし誰かがこの法律を利用して公認売春婦になろうとしたら、行政側としてはそれを拒否することはできないようだ。よって、J&K州では、売春を合法とする法律がありながら、売春が規制されているという矛盾した状況となっている。また、この同州に公認売春婦が存在するのか否かは不明である。さすがに州政府もその矛盾を看過できなくなったようで、次の州議会で公共売春規制法の廃止を提議する見込みである。

 なぜJ&K州で突然こんな大昔の法律が話題に上ったかというと、現在同州で政治家、警察、官僚が関与する大規模な売春ネットワークのスキャンダルが暴露され、大問題になっているからだ。民衆は、スキャンダルへの抗議と、売春ネットワークに関わった人物の名を発表を求めたデモを連日行い、それを鎮圧しようとする警察との衝突が繰り返されている。最近J&K州の治安は幾分落ち着いて来ていたのだが、このセックス・スキャンダルにより今までの平和努力が水泡と帰す可能性もある。中央政府もこの問題を深刻に受け止めているようだ。

 だが、5月13日付けのタイムズ・オブ・インディア紙の分析によると、どうやらこのデモを陰で操っているのは、カシュミール分離派のテロリストたちのようだ。目障りな有力者の名前を何の根拠もなしに「スキャンダルに関わった」と発表して民衆を扇動したり、「美容院が女性の道徳の堕落を後押ししている」「ケーブルTVも堕落の原因だ」などと主張してそれらを一時閉鎖に追いやったりと、「道徳」という新たな武器によって民衆と世論を思いのままに操っているらしい。最近では「カシュミールの女性は携帯電話を持つべきではない」との声明まで発表されたという。

 時代遅れの公認売春規制法はすぐに廃止されるであろうが、J&K州で火の付いたセックス・スキャンダル問題は対応を誤ると大変なことになりそうだ。

5月14日(日) Tathastu

 今日はPVRアヌパムで新作ヒンディー語映画「Tathastu」を見た。

 「Tathastu」とは「それでよい」という意味。監督はアヌバヴ・スィンハー、音楽はヴィシャール・シェーカル。キャストは、サンジャイ・ダット、アミーシャー・パテール、ジャヤープラダー、グルシャン・グローヴァー、ヤシュ・パータクなど。

Tathastu
 二輪車工場に勤める一般人ラヴィ(サンジャイ・ダット)は、妻サリター(アミーシャー・パテール)、一人息子ガウラヴ(ヤシュ・パータク)と共に幸せに暮らしていた。ところがある日、ガウラヴはクリケットの試合中に倒れてしまう。ラヴィは息子を高級病院へ連れて行く。ところが、診察料は3万ルピーもかかった。何とかお金をかき集めたラヴィだったが、追い討ちをかけるように息子の心臓移植手術のために150万ルピーが必要であることを知らされる。【写真は、アミーシャー・パテール(左)とサンジャイ・ダット(右)】

 ラヴィはまずは150万ルピーを調達するために保険会社や勤務先などを当たるが、システムはラヴィのような貧乏人に優しくできておらず、思うように金が集まらなかった。医者も、150万ルピーが支払われない限り手術は始められないと言い張る。追い詰められたラヴィは、銃を買って病院の受付を占拠し、その場にいた30人を人質にとる。病院はすぐに警察に取り囲まれる。ラヴィと警察の間では断続的に交渉が続けられる。

 最初はラヴィを怖がる人質たちであったが、息子の命を救うための行動だと分かると、彼を応援するようになる。また、会社の同僚たちも現場に駆けつけてラヴィを援護する。

 ところで、実は同病院には政府与党の党首スワーミー・ジーが入院していた。党首も心臓を患っており、心臓移植が必要であった。そのときすぐに入手可な心臓はひとつのみ。入院した順番がガウラヴの方が先であったため、もしお金が支払われればガウラヴの方にその心臓の優先権があった。だが、ラヴィは期限までにお金を支払うことができなかった上に、政治家たちの圧力があり、スワーミー・ジーの手術が優先されることになった。

 それを知ったラヴィは、遂に観念して人質を解放し、警察の前に出て来る。だが、ラヴィはそのまま引き下がる男ではなかった。公衆の面前で自殺し、自分の心臓をガウラヴに渡そうとした。そのとき、群集の中からスワーミー・ジーの部下の政治家が現れる。そして、スワーミー・ジーはガウラヴに心臓を譲ること、そして手術代を党が肩代わりすることを発表する。実は既にスワーミー・ジーは他界していたのだが、これは群衆の支持を得るために行ったパフォーマンスであった。だが、そのおかげでガウラヴの手術が行われることになり、ガウラヴはまた元気にクリケットで遊べるようになった。

 所々いい映画っぽい要素が見受けられるのだが、全体的に細かい欠陥が目立ち、結局駄作の烙印を押さざるをえない。

 息子の手術の費用が工面できずに病院を占拠するという「Tathastu」のストーリーは、どうやら実話をもとにしているようなのだが、脚本や展開が稚拙であるために現実感がなかった。ラヴィが占拠した病院の構造がいまいち分かりにくいし、ラヴィと人質たちの間のやり取りは説得力を欠いた。病院を包囲した警察の行動も適切ではないし、最後に政党がガウラヴの手術代を肩代わりするのも根本的な解決になっていなかった。着想が悪くなかっただけに、これらの詰めの甘さが惜しまれるところである。

 この映画の表のテーマは父と子の間の愛情であろうが、裏のテーマは間違いなく社会のシステム批判である。特に強調されていたのは、庶民の生活レベルとかけ離れた高級病院の内情。初診料として3万ルピーも要求され、手術代として150万ルピーも支払わなければならないというのは、果たして現実的な数字が分からないが、月給5千ルピーのラヴィを初めとした一般庶民にとって、大都市にある高級病院が法外な診察料を取っていることは確かであろう。そして、挙句の果てには「貧乏人はこんな病院に来るな。政府系病院へ行け」と言われる始末。だが、息子のこと愛してやまないラヴィにとって、自分の収入の限界を超えていたとしても最高の病院に息子を入院させたいというのは、当然の願望であろう。インド映画では一般的に、登場人物が怪我をすると当然のようにきれいな高級病院に運ばれるが、「Tathastu」は庶民が高級病院に行ったらどうなるかを取り上げており、その点で監督のメッセージは伝わって来た。

 この映画の最大の見所はサンジャイ・ダットのシリアスな演技であろう。マフィアのドンをやらせると右に出る者はいないサンジャイ・ダットだが、意外に彼は芸幅の広い役者である。「Munna Bhai MBBS」(2003年)のようなコメディーもできるし、「Parineeta」(2005年)のような時代劇もできるし、今回のようなシリアスな演技もできる。しかし図体がでかく、風格があるので、今回彼が演じたような一般庶民の役は少し無理がある。それに、彼が100ccくらいのバイクに乗っているシーンがあったが、全然似合っていなかった。だが、もっとも優れた演技をしていたのは、間違いなくサンジャイ・ダットであった。

 映画最大の戦犯はアミーシャー・パテール。彼女は現在のボリウッドの俳優の中で、最も人気に釣り合う演技力を持ち合わせていない女優である。女優と呼ぶのも憚られるくらいだ。彼女が泣き喚くシーンが数回登場するのだが、どれもオーバーアクション気味で現実感がない。

 女医を演じたジャヤープラダーは「Khakee」(2004年)以来の出演。しかし、彼女のようなベテラン女優に見合う役ではなかった。

 音楽はヴィシャール・シェーカルだが、映画中ほとんどダンス・シーンはなし。唯一、カッワーリー・ナンバーが挿入されていたが、ない方がマシというぐらいのつまらない曲と踊りであった。

 「Tathastu」は、社会に向けたメッセージをひしひしと感じさせてくれるものの、現実感のない展開なので、あまり感情移入はすることができないだろう。

5月15日(月) ゴーンドワーナー・エクスプレス

 チャッティースガルの名前は魔法だ。僕だけかもしれないが、チャッティースガルの名前を聞いただけで身震いがする。チャッティースガル州は常に「いつか旅行してみたい州ナンバー1」だった。

 チャッティースガル州は2000年にマディヤ・プラデーシュ州から分離独立した新しい州である。州公用語はヒンディー語。「チャッティースガル」とは「36の砦」という意味で、その名の通りこの地域にはかつて36の砦があったからこの名称で呼ばれるようになったとされる。インド亜大陸中央部に位置するチャッティースガル州は、それまでほとんど無視され続けて来た地域だが、州政府が集中的に観光を推進していることもあり、州成立以来急に注目を集めるようになった。チャッティースガル州の大きな特徴のひとつは、州内に住む部族の独自の文化とその優れた手工芸品である。ジャールカンド州やオリッサ州西部も部族地帯として有名だが、チャッティースガル州はそれらの地域と「トライブ・ベルト」を構成している。

 数年前からチャッティースガル州旅行を狙っていたのだが、情報の欠如と観光環境の整備の遅れからなかなか踏み出せないでいた。しかし、2005年2月開催のスーラジクンド・クラフトメーラーがチャッティースガル州の大特集をしており、そこでチャッティースガル州の情報を集めることができたこと、また、同年9月に発行された定番旅行ガイド「ロンリープラネット・インド(英語版)」がチャッティースガル州の旅行情報を少量だが掲載したことなどから、次第にチャッティースガル州旅行の準備が整ってきた。

 5月後半という酷暑期真っ只中の時期にチャッティースガル州を旅行するのは酷かと一瞬考えた。インド平野部の旅行は涼しい時期がいいに決まっている。だが、既にインドでいろいろな種類の暑さを経験した中、湿気のない暑さだったら旅行するのに大きな障害とはならないと分かって来た。チャッティースガル州は内陸にあるのでそれほど湿気はないだろう。涼しい時期はオリッサ州などの高温高湿地域に当てた方が得策だ。この時期にオリッサ州は旅行できない。デリーよりも暑くなかったらそれだけで御の字である。よって、遂にチャッティースガル州旅行を決行することに決めた。

 前々から、チャッティースガル州を旅行するならここもついでに行っておきたいと思っていた場所があった。マディヤ・プラデーシュ州東部のジャバルプル。この辺りはゴーンド族の王国があった地域で、いくつかユニークな見所がある。デリーからまずはジャバルプルに行き、そこからチャッティースガル州を目指す旅程を立てた(旅行地図は5月26日の日記にまとめてある)。

 デリーとジャバルプルの間にはいくつか列車が走っているが、ジャバルプルに早朝着く夜行急行列車、2412ゴーンドワーナー・エクスプレスに乗ることにした。毎回列車のチケットの予約には苦戦しているが、今回は観光ヴィザで来ていた知り合いの助けを得て、簡単に取ることができた。

 ゴーンドワーナー・エクスプレスは午後2時半にデリー南部のハズラト・ニザームッディーン駅を出発。最近は便利になったもので、インド鉄道のウェブサイトから列車の発車状況(つまり出発に遅れはないかなど)を確認できるようになった。調べてみたところ時間通りの出発。余裕を持って2時10分頃には駅に到着するようにした。

 ところが今回は大きな落とし穴が用意されていた。インドには、まるでこれは何かのゲームかと思われるくらいの落とし穴がいろんなところで待ち構えているが、このゴーンドワーナー・エクスプレスもかなり難易度の高い罠を仕掛けていた。僕が予約したのはAC(冷房車両)3等の寝台席で、チケットには車両番号はAS2と書かれていた。ところが、プラットフォームに停車していたゴーンドワーナー・エクスプレスには、AS1はあれど、AS2はいくら探しても見当たらないのだ。代わりにAS1/2という得体の知れない車両があった。これはAS0.5ということなのか、それともAS1とAS2の合体した車両なのか、とにかく今までこんな番号の車両は見たことがない。しかし、AS1があってAS2がどこにもないとすると、このAS1/2がAS2である可能性が高い。とりあえずその車両の近辺の人に「これはAS2か?」と聞いてみると、「AS2はあっちだ」と言われた。僕は、「あっち」と言われた方向で「AS1」を確認して来たところである。しかし、そちらにあるということは僕の見落としかもしれないと思い、また来た方向へ戻った。だが、やはりAS1しかない。既に出発まであと5分。今までインドの列車は何度も使っており、だいぶ経験も積んだつもりだが、こんななぞなぞみたいな自体は初めてだ。仕方ないので、とりあえずAS1に乗ってみることにした。すると、赤い服を着たポーターがちょうど出て来るところだった。列車のことは、車掌の次にポーターがよく知っている。ポーターに「AS2はどこ?」と聞いてみたら、「これがAS2だ!AS1と書いてあるけどAS2だ!」と答えて去って行った。なんと、車両番号の間違いだったか!かなり苦戦したが、何とか自分の車両に乗り込むことができた。

 列車の旅の楽しさの大部分は、同じコンパートメントになった他の乗客たちの顔ぶれに依存している。今回は幸か不幸か、超絶バドマーシュ(悪戯っ子)の兄弟2人組を連れた家族と一緒になってしまった。チェートゥー(7歳)とオーミー(5歳)という2人の男の子は、インドの騒がしい子供そのもので、2人でじゃれ合ったりふざけ合ったり喧嘩したり、大変だった。特に年下のオーミーがやたら攻撃的な子で、プロレスの真似みたいなことを列車の通路で始めたり、列車中に響く大声を上げたり、くしゃみをして鼻水を飛び散らしたりとやりたい放題であった。インドの親は小さい子供に対しては基本的に放任主義なので、時々叱りはするが後はほったらかし。そしてなぜかこの2人は僕に絡んで来た。オーミーが「自動車ごっこをしよう」と言って来たので遊んであげたのだが、それがまた想像を絶する自動車ごっこであった。オーミーが2台のミニカーをカバンの中から取り出して来て、1台を僕にくれたので、てっきり2人でブ〜ンブ〜ン言いながら椅子の上とかを走り回る遊びだと思ったのだが・・・なんとオーミーは手に持った自動車を執拗に僕にぶつけて来るのだ。そして、「ぶつかられたら空に飛び上がって地上で転がり回らなければならないんだ」と説明して来た。どうも映画の見すぎのようだ。よって、僕の持ったミニカーはオーミーにぶつけられては、「グァ〜ン」と言いながら空に吹っ飛んだりしなければならなかった。しかもこの子はまだ5歳なのに汚ない罵り言葉をよく知っている。どうも全て映画に出て来た台詞のようだ。ボリウッド映画が子供に与える悪影響について考えつつ、オーミーの車の突進に耐えていた。幸い、この家族は途中のジャーンスィー駅で降りたので、その後は平和が訪れた。

 平和は訪れたのだが、同じコンパートメントにはもう1人変なおじさんが座っていた。見た目は普通のインド人のおじさんで、温和で物静かな感じなのだが、僕がデリー在住の日本人であることが分かると、途端に饒舌になって営業を始めた。何の営業かというと、レイキである。レイキとは臼井甕男という日本人によって編み出されたと言われている手当て療法だ。日本でどれだけ普及しているのかは知らないのだが、少なくともインドではけっこうメジャーである。そのおじさんは、レイキを人に教えることができるという「レイキ・マスター」らしく、レイキ治療院兼学校をデリーのマハーラーニー・バーグで開いているそうだ。そして、僕にレイキを学ぶようしつこく勧めてきた。一応名刺を受け取り、「気が向いたら行きますから」とかわすと、営業を終えたおじさんは途端に元通り大人しいおじさんに戻り、そのままジャバルプルまで二度とレイキの話題は出さなかった。一体何だったんだろう・・・。

5月16日(火) ジャバルプル

 ゴーンドワーナー・エクスプレスは午前5時50分にジャバルプル駅に到着する予定だったが、到着したのは午前6時40分頃。てっきりもっと遅れるかと思っていたので、ちょうどいいくらいの時間に到着してくれてありがたかった。

 ジャバルプルは「マハーバーラタ」の時代まで遡る古い街のようだが、13世紀からゴーンド族の王国(ゴーンドワーナー)の首都として栄えた街として特に有名である。マディヤ・プラデーシュ州東部からチャッティースガル州にかけて、10世紀頃から5つのゴーンド族の王国が存在し、ジャバルプルはその中心地のひとつだった。その中でもガラー・マンドラー王朝の王妃ドゥルガーワティーが有名である。1524年に現在のウッタル・プラデーシュ州バーンダーに生まれたドゥルガーワティーはカジュラーホーの寺院を造ったチャンデーラ王朝の末裔で、1542年にゴーンド王国のダルパトシャーに嫁いでゴーンドワーナーへやって来た。ところが、1550年頃にダルパトシャーは死去してしまい、息子のヴィール・ナーラーヤンもまだ幼少であったため、ドゥルガーワティーが摂政となって王国を統治した。ドゥルガーワティーの統治下、王国は経済的、文化的に最盛期を迎えた。ところが、その繁栄はムガル王朝の征服の野心に火を付けることになる。ドゥルガーワティーはムガル王朝の軍門に下ることを拒否し、真っ向から立ち向かった。3度に渡る戦いの中、負傷したドゥルガーワティーは自刃し、結局ゴーンド王国は敗北してムガル王朝の属国に成り下がってしまうが、ムガル王朝の支配に対抗し、生き恥をさらすよりは死を選んだ勇敢なドゥルガーワティーは、「ジャーンスィーのラーニー」ラクシュミーバーイーと並ぶ女傑としてインド史に記録されている。ジャバルプルにはドゥルガーワティーの名を冠した施設などがいくつか散見され、地元の人々の誇りとなっていることが伺われた。

 ジャバルプルはあまり外国人旅行者には有名ではない都市だと思うのだが、旅行者に対してしたたかな人が多いところだった。インド人観光客が多いからだろうか、それとも近くに有名なカーナー国立公園があるからだろうか?駅を出るや否や、殺気立ったオートワーラーたちに囲まれ、「ホテルまで5ルピー!」「いやいや無料!」と引っ張りだこであった。オートが5ルピーとか無料って、悪名高いアーグラーと同じじゃないか!ちょっと無料のオートに乗るのは怖かったので、5ルピーのオートに乗ってホテルまで向かった。

 ジャバルプルで宿泊したのは、ホテル・ヴィジャン・パレス。オールド・バーザールと呼ばれる旧市街の入り口辺りにあるホテルで、デラックス・ノンACシングルが450ルピーだった(デラックスしか空いていなかった)。バスルーム、テレビ、タオル、石鹸、シャンプーなど完備で、快適なホテルだった。

 シャワーを浴び、朝食を食べた後、ジャバルプル観光に出掛けた。ジャバルプルの見所はほとんど郊外にある。オートをチャーターしてそれらを巡ることにした。暑さを懸念していたのだが、どういう偶然か今日は1日中曇り空で、涼しい日であった。

 まず向かったのは、ジャバルプルから約25km西へ行った場所にあるドゥアーンダール滝。ジャバルプルからオートで40分ほどの地点に駐車場があり、そこから10分ほど歩くと到着する。ナルマダー河にあるこの滝は、「煙の滝」という名前の通り、ものすごい水しぶきを上げる豪快な滝であった。ここは観光地であると同時に周辺住民の生活の場でもあるようで、地元の人々が河で洗濯したり水浴びしたりしていた。


ドゥアーンダール滝
観光客が滝を眺める横で地元の人がせっせと洗濯中
左下は河に投げ込まれる賽銭を潜って拾う少年

 ドゥアーンダール滝から少し戻ったところの丘の上には、64ヨーギニー寺院という円形の寺院がある。円形の壁には64体のヨーギニーの像が祀られており、中心部にはシヴァとパールワティーを祀ったガウリー・シャンカル寺院が建っている。ヨーギニー(ダーキニーとも呼ばれる)とは、ヒンドゥー教の8母神に付き従う64人の侍女のことであり、シャークタ派の信仰と密接に関係している。中央のガウリー・シャンカル寺院は、カルチュリー王国の女王アラナーデーヴィーが1155年に建造したが、その周囲を取り囲むヨーギニーの像はさらに古いもののようだ。同じような64ヨーギニー寺院は、オリッサ州からマディヤ・プラデーシュ州にかけて見られ、世界遺産カジュラーホーにも存在する。ヨーギニー信仰については勉強不足なのであまり詳細について書くことはできない。


64ヨーギニー寺院&ガウリー・シャンカル寺院
円形の境内の中心にはシヴァとパールヴァティーを祀った寺院

 次に行ったのは、ジャバルプルの観光の目玉、ベーラーガートである。別名マーベル・ロックス。この辺りのナルマダー河は断崖絶壁に囲まれており、その岩肌の色がまるで大理石のように白いので、こう名付けられた。ただし、大理石のように見える白い岩は実際は大理石ではなく、マグネシウムが混ざった石灰岩である。その狭い峡谷をボートで遊覧するのがお決まりのコースとなっており、何を隠そう僕もこれを楽しみにしていた。ここは度々ボリウッド映画のロケ地にもなっており、最近では「Asoka」(2002年)の「Raat Ka Nasha」のミュージカル・シーンが有名だ。乗り合いボートの料金は乗客数によって変わるようだが、僕は31ルピー払った。舵取りの人が「あの岩は寺院に見えます」「ここでレーカー(女優の名前)が踊りました」「あそこの洞穴にはワニが住んでいますが、今は夏休みでどこかへ行っています」などと、ヒンディー語で面白おかしく解説をしてくれる。遊覧客に披露するためか、それともただ単に暑いからか知らないが、子供たちが岩の上から飛び込み合戦をしていたのが一番印象に残った。時間は正味30分ほど。以前はもっと奥まで行っていたようだが、上流にナルマダー・ダムが出来たおかげで水位が下がり、今は途中までしか行けなくなってしまっているらしい。はっきり言って面白さは期待を下回ったが、インドの数ある観光地の中でもユニークなアトラクションだと感じた。このベーラーガート遊覧は10月から6月まで営業している。


ベーラーガート(マーベル・ロックス)遊覧
岩で遊ぶのはマーメードでもローレライでもなく地元の子供たち

 ベーラーガートはジャバルプルから約22kmの地点にあるが、遊覧を終えてからは来た道を引き返し、ジャバルプル郊外にあるマダン・マハルへ行った。ここも是非見てみたかったスポットである。マダン・マハルは小高い岩山の上に立つ小さな城砦だが、その特異な点は、大きな岩の上に建物が乗っかっていることである。このようなタイプの城砦はインド広しと言えどここにしかないという。マダン・スィンという名のゴーンド族の王が1116年に建造したらしく、ドゥルガーワティー時代には見張り塔として利用されていたようだ。入場料はなし。この砦のすぐ脇にもいくつか建物跡があったが、ほぼ完全に崩壊してしまっていた。ちなみに地元の言い伝えによると、このマダン・マハルの地下には大量の金塊が隠されているという。


マダン・マハル

 このマダン・マハルの周辺には黒い岩がゴロゴロと転がっており、ハイダラーバード周辺の風景とよく似ていた。岩によって出来た洞穴を利用した寺院も多く見受けられた他、「バランシング・ストーン」なる取って付けたような観光スポットもあった。


バランシング・ストーン

 ジャバルプルに戻った後はドゥルガーワティー記念博物館へ行った。外国人の入場料は30ルピー(特に法外な値段ではなかったので外国人料金で入場)。1階はジャバルプル周辺で出土したシヴァ、ヴィシュヌ、ジャイナ教関連の石像が陳列されていた。2階は、ターティヤー・トーペーからガーンディー、ネルー、ボースまでの独立運動関係の写真や文物の展示、アショーカ王の碑文、ベーラーガートの64ヨーギニー寺院の特集、古銭コレクション、そしてジャバルプル周辺に住む部族をジオラマと写真で再現した部族セクションなどがあった。やはり部族セクションが最も興味深かった。また、博物館の前にはヴィシュヌのアヴァタール(化身)のひとつ、ヴァーラハ(イノシシ)の像が置かれていた。

 ジャバルプルにはなぜかスィク教徒が多く、街の中心部にはグルドワーラーもあった。その正面にはモスクもあった他、教会もたくさん見かけた。英国植民地時代はナルマダー地区の中心都市として栄えたようで、その名残りからか新市街の方は整然とした街並みだった。さらに特筆すべきは、午後から夕方にかけて、ジャバルプルの市街地には多くのマンゴーシェイク屋とラッスィー屋が軒を連ねる。マンゴーシェイクは1杯5ルピーという破格の値段でうまい。ラッスィー屋の方は、なぜかイッチャーダーリーという名前を冠した店が多かった。その中でも最も客を集めていたのが本物のイッチャーダーリーだろうと予想し、1杯10ルピーのラッスィーを飲んで見た。甘くて濃厚なラッスィーであった!他に気付いたのは、チキン・ビリヤーニー専門店がいくつかあったこと。今日の夕食はそんなチキン・ビリヤーニー専門店のひとつで取った。チキンに柔らかさがなかったのが残念だが、ご飯の方は味がよく染み込んでいてうまかった。意外に食べ歩きが楽しい街であった。

5月17日(水) ラーイプル

 今日はチャッティースガル州の州都ラーイプルへ一気に移動する。ジャバルプルからラーイプルまでは360kmぐらいある。ジャバルプルのバススタンドは、公営のものと私営のものが隣り合わせになっている。昨日、バスの時刻を確認したところ、公営のラーイプル直行バスは午前9時半にならないとなかった。おそらく12時間以上かかるので、なるべく早朝に出て明るい内に着くバスの方が好ましい。私営の方を当たってみたら、午前6時発のバスがあったので、それを利用することにした。運賃は185ルピー。

 午前6時過ぎにジャバルプルを出たバスは、まずはちょっとした丘陵地帯を通過した。ここには野生の猿がたくさんおり、運転手と助手は猿の群れを見つけるとバスを止めて、昨晩のローティーの残りを猿たちにばらまいていた。その丘を越えると再び平野となり、8時45分頃にジャバルプル南東にあるマンドラーに到着。マンドラーもゴーンド王国の中心地だった場所で、この近辺にもマダン・マハルのような城砦の遺構が残っている。ジャバルプルのドゥルガーワティー記念博物館の部族セクションにいくつか遺跡の写真が展示されていた。時間があったら巡ってみたかったのだが、マディヤ・プラデーシュ州はメインではなく、チャッティースガル州の方に時間を割きたかったので、今回は素通りすることにした。

 午前9時15分頃にマンドラーを出て、バスはビチヤーという町へ向かった。ジャバルプル南東には、インド最大の敷地面積を誇るカーナー国立公園がある。てっきりバスはこのカーナー国立公園を通り抜けて行くかと期待していたのだが、その北端をかすめるように通っただけだった。2時間ほどでビチヤーに到着し、またバスは30分ほど止まっていた。私営バスを選んだのは、もっとスピーディーに行ってくれることを期待したこともあったのだが、公営バスと変わらぬ鈍行ぶりだったのでちょっと残念だった。ビチヤーまではバスは比較的空いていたのだが、ビチヤーで多くの人々が乗り込んで来た。ジャバルプルではまだあまり感じなかったが、この辺まで来ると普通のインド人とは違う少し平べったい顔の人が増えた。近くに額に刺青を入れた女の子もいたが、多分部族なのだろう。

 ビチヤーを出ると、再び丘陵地帯となった。おそらくこの山がマディヤ・プラデーシュ州とチャッティースガル州を隔てているのだろう。この丘陵地帯はサトプラー・ヒルズと言われているようだ。どこに州境があったのかは記憶にないのだが、いつの間にかチャッティースガル州に入っていた。

 チャッティースガル州の第一印象は、「貧しいな・・・」であった。ほとんど日陰のないだだっ広い荒野が広がっており、人工のものなのか自然のものなのか、所々に湖があって、人々が洗濯をしたり水浴びをしたりしていた。住民の家屋も泥作りの「カッチャー・マカーン」ばかりだ。だが、チャッティースガル州の辺境部が特に貧しかっただけのようで、さらにバスが進むと、もう少し発展した村や町が目に入って来るようになった。午後2時半過ぎにカワルダーという町に到着。カワルダーはかつてカワルダー藩王国の首都だった町だが、道路の交通量が少なく、市場にも活気がないように見えるため、村に毛が生えた程度という印象であった。そして午後4時半頃にはシムガーという三叉路を中心とした町に到着。ここは、ビラースプル(チャッティースガル州の主要都市のひとつ)、ジャバルプル、ラーイプルへ続く道が交差している交通の要所だが、やはりダーバー(安食堂)が並ぶだけの寂れた町だった。

 シムガーからラーイプルへ国道200号線を南下。悪い道ではなかったのだが、この途上で事故を2回目撃した。1つはトラックの横転。インドのトラックは重心が高いので、よく横転する。最初見たときはギョッとするが、インドのハイウェイでは特に珍しくない風景である。もう1つは暴走トラックの子供をひき逃げ。目の前でトラックが自転車に乗った子供をひいて、しかも走り去っていくところを見てしまった。バスの運転手などは最初は道行く車を止めて何とかしようとしていたが、最後には「運が悪かったんだ」と言ってバスを発車させた。

 ラーイプルに近付くに連れて次第に都会っぽくなって行った。午後6時頃にラーイプルのナヤー・バススタンドに到着した。さすが州都だけあって、街並みは立派なものだった。きれいに舗装され、街灯が立ち並ぶ大通りもあった。ラーイプルではバススタンド近くのホテル・ジョーティに宿泊することにした。エアークーラーのシングル、バスルーム、テレビ、タオル、石鹸付きで300ルピー。日本人が珍しいようで、とてもフレンドリーに接してもらえた。

5月18日(木) スィルプル

 ラーイプル周辺の最大の見所と言えば、ラーイプルから東に約85km行った地点にあるスィルプルである。

 スィルプルはシュリープルが訛った形で、少なくとも5世紀頃から存在した町のようだ。チャッティースガル州のある地域には、古代にはコーサル国という王国があり、一時期スィルプルはその首都であった。コーサル国は、アヨーディヤーを首都とするコーサル国と区別してダクシン・コーサル国(南コーサル国)と呼ばれてた。スィルプルは特に、ダクシン・コーサル国の黄金時代を築いたマハーシヴァグプタ・バーラールジュン(595-696年)の頃には首都として栄えたようだ。当時スィルプルはどうやら仏教の重要拠点のひとつだったようで、ヒンドゥー教寺院の他に仏教寺院も発掘されており、中国の玄奘も639年にこのスィルプルを訪れている。

 このように、スィルプルは遺跡好きにはたまらない場所である。今日は、スィルプルを中心にラーイプル東部にある見所をタクシーをチャーターして回った(AC付きターター・インディカで1600ルピー)。

 午前8時にラーイプルを出発。昨日頼んでおいたタクシーのドライバーはちゃんと時間通りに来てくれたので感心。ラーイプルとオリッサ州のサンバルプルを結ぶ国道6号線を東へ向かう。アーラングという町を越えた辺りで左に折れる道があり、それをまっすぐ進めばスィルプルである。この辺りは森林地帯で、セミの鳴き声がやかましかった。

 スィルプルには2時間弱で到着。かつてダクシン・コーサル国の王都として栄えたスィルプルは、今では遺跡と廃墟に囲まれた静かな村であった。観光客はあまり訪れないようで、村人たちは全く観光客ずれしていない。一昔前のカジュラーホーはこんな感じだったのではなかろうか?村のすぐそばには、チャッティースガル州最大の河であるマハーナディー河が流れていた。

 最初に向かったのは、スィルプルの最大の見所であるラクシュマン寺院(入場料はインド人5ルピー、外国人100ルピー)。スィルプル村の東の端に位置している。スィルプルの遺跡はほとんど崩れてしまっているが、この寺院はちゃんとシカル(塔)が残っている。それ以上に重要なのは、この寺院が現存する中でインドで2番目に古いレンガ造りの寺院であることだ(一番目は不明)。マハーシヴァグプタ・バーラールジュンの母親ワースターが、7世紀に夫ハルシャグプタの死を悼んで建造したと言われている。ガルバグリハ(聖室)とマンダプ(前殿)からなるヒンドゥー寺院の一般的な様式。マンダプ部分は崩れてしまっており、柱の基部だけが残っている。聖室の入り口のトーラン(門)にはヴィシュヌ神のアヴァタール(化身)やミトゥナ像がズラリと彫られており見事。上部にはシェーシュ(蛇神)に横たわるヴィシュヌ神が彫られている。壁の一部には石膏も残っている。


インドで最も古いレンガ造りの寺院、ラクシュマン寺院
ご本尊はヴィシュヌ神
塔部表面にはプラスターが残っている
聖室入り口の門の彫刻が見事

 ラクシュマン寺院の敷地内には、周辺部から出土した石像などを収めた博物館が2つある。ヒンドゥー教のみならず、仏教やジャイナ教関連の石像も出土しており、この辺りがマハーラーシュトラ州エローラのように複数の宗教が同時に保護されていた地域であることが伺われた。


博物館の展示物
左から四面シヴァリンガ、ターラー(仏教)、
パールシュヴァナート(ジャイナ教)、ヌリスィン(人獅子)、
マヒシャースラマルディニー(悪魔を殺すドゥルガー女神)

 ちなみに、昨年10月にこの寺院のご本尊のヴィシュヌ神が盗まれるという事件が発生したようで、警戒態勢は非常に厳重だった。スィルプルに入る車両は全てナンバーをチェックされ、ラクシュマン寺院も四方を高いフェンスで囲まれており、寺院の聖室入り口や博物館の入り口には最新式のセキュリティー装置が設置されていた。


最新式セキュリティー装置

 スィルプルでは多数の仏教遺跡が見つかっている。その多くはヴィハール(僧院)だが、その中でも最大のものがラクシュマン寺院の南にあるティーヴァルデーヴ・マハーヴィハールである。数年前に発見されたばかりの最新仏教遺跡だ。柱が並ぶ広場を、仏像が祀られた部屋を中心に僧侶の個室が取り囲んでいる。後から知ったところによると、このヴィハールの門の彫刻がとても素晴らしいようだが、横から入って横から出てしまったために見逃してしまった。この遺跡だけ屋根が掛けられていることから、その重要性が伺われる。まだ入場料はなかったが、チケットオフィスの建物は既にできていたので、将来的には入場料を取るようになるのだろう。ティーヴァルデーヴ・マハーヴィハールの奥には、セヘビクシュニー・ヴィハールと呼ばれるもうひとつの僧院跡も発見されている。この発掘現場からはガラス製の腕輪の破片が多数見つかったことから、ここは尼僧用の僧院だったのではないかと考えられているが、それ以外の重要な根拠はない。


ティーヴァルデーヴ・マハーヴィハールとその周辺の仏教遺跡
右下の写真は尼僧の僧院と考えられている

 マハーナディー河の河畔には多くの寺院が建っているが、その中でも最も重要なのはシヴァリンガを祀ったガンダルヴェーシュワル寺院。元々は非常に古い寺院のようだが、現存しているのはマラーター時代に再建されたものらしい。それでも、寺院や境内の所々に芸術性の高い石像が多数残っており、寺院の古さを静かに物語っていた。中でもいきり立った男性器を丸出しにしてターンダヴァの踊りを踊るシヴァ神の像と、柔和な表情が印象的なラクシュミー・ナーラーヤンの像が印象的であった。ラクシュマン寺院はもはや遺跡となってしまっているが、この寺院を初めとしたマハーナディー河畔の寺院群のほとんどは生きている寺院で、礼拝が行われていた。


ガンダルヴェーシュワル寺院
右上はちんぽ丸出しで踊るシヴァ神、左下はラクシュミー・ナーラーヤン
右下は寺院の壁面にあった謎の彫刻
最近のものか

 村の西側には、アーナンド・プラブ・クティ・ヴィハールと呼ばれる仏教僧院がある。これは7世紀にアーナンド・プラブという名の仏教僧によって建設されたとされるレンガ造りの僧院で、彫刻が施されたトーラン(門)の他に仏像も出土している。


アーナンド・プラブ・クティ・ヴィハール

 スィルプルには他にも数多くの遺跡が存在し、発掘調査も進行中である。しかし、暑さのために小さな遺跡までひとつひとつ丹念に巡る気力がなかったし、上記の遺跡以外はほとんど廃墟であるので、全ては見て回らなかった。現在スィルプルはゲストハウスも旅行者向けのレストランもないような田舎だが、あと数年後に行けば、もっと整備された観光地になっていることだろう。

 スィルプルを見終わった後は、ラーイプル方面へ戻り、途中にあるアーラングという町に立ち寄った。ここにも古い寺院がひとつ残っている。12世紀に建造されたパンチラト様式のジャイナ教寺院で、中には3体のティールタンカラ(アジタナータ、ネーミナータ、シュレーヤーンサ)の像が安置されている。また、ガルバグリハ(聖室)の外壁面は、カジュラーホーのようなミトゥナ像でビッシリと埋め尽くされている。寺院の正面部分はまるでナイフで切り落としたかのようにスッパリとなくなっており、かえって印象的な外観となっていた。


バーンド・デーヴァル寺院

 実は朝食を食べずに観光に来ていたので、腹が減っていた。だが、この辺りにはほとんどレストランが見当たらなかった。そこで、アーラングにある食堂に入って軽食を食べることにした。ドライバーの勧めに従い、この辺りの特産品だというムーング豆のバラーというスナック(1つ3ルピー)を食べた。豆コロッケという感じの味であった。


バラー

 アーラングから今度は南へ向かい、チャンパーランという町へ行った。ビハール州にある、マハートマー・ガーンディーが藍小作労働争議を率いたチャンパーランとは別の町である。チャンパーランは、ヴァッラバーチャーリヤ派を創始したヴァッラバーチャーリヤの生まれた場所とされている。チャンパーランには、メルヘンタッチな色使いのチャンペーシュワルナート寺院がある。グジャラーティー資本で建設され、グジャラート州のからの参拝客が多いようで、ヒンディー語が州公用語のチャッティースガル州にありながらグジャラーティー文字が目立った。この寺院の詳しい背景はよく分からないが、特に行って面白い場所ではなかった。内部は写真撮影禁止だったので、寺院本殿に続く廊下のみ撮影。


チャンペーシュワルナート寺院

 最後に、チャンパーランから約10km、マハーナディー河の河畔にあるラージムという町へ行った。ラージムには、ラージーヴ・ローチャン寺院というヴィシュヌ寺院がある。スィルプルのガンダルヴェーシュワル寺院と同じく全体が白いペンキで塗られてしまっていて味がなかったが、内部の彫刻や像は素晴らしかった。中には黒い服を着た魔女っぽい女神の像もあり、不気味だった。寺院は8〜9世紀に建造されたという。寺院を訪れるとちょうどご開帳のときで、ご本尊のヴィシュヌ神を拝むことができた。ラージーヴ・ローチャンとは「蓮の目」という意味。目がピカリと光っていた。


ラージーヴ・ローチャン寺院
内部の彫刻が見事
右下はガルル鳥に乗るヴィシュヌ神
左下の像はドゥルガー女神か

 ラーイプルに戻った後、夕暮れまで時間があったのでラーイプル市内の見所を見て回ることにした。と言ってもラーイプルには取り立てて面白い場所はない。マハント・ガースィーダース記念博物館ぐらいだ。この博物館は1875年にラージナーンドガーオン藩王国のマハーラージャー、マハント・ガースィーダースによって設立されたもので、インドで10本の指に入る古い博物館とのことである。1875年に建造された元の博物館は八角形の形をした近代的な建物だが、1953年に現在の建物に移転された。旧博物館、現博物館共に、時計塔の近くにある。マハント・ガースィーダース記念博物館の1階には、ラーイプル周辺の遺跡から出土した石像、テラコッタ、銅像、コインなどの展示があり、博物館の主要な展示物となっている。2階は自然史コーナー。インドの博物館によくある、動物や植物の模型をジオラマ風に並べたアレである。他にこの階には武器の展示もあった。この博物館の中で最もつまらない階だ。3階には部族関係の展示がある。チャッティースガル州に住む部族たちの使用している器具や装飾品などがメインだ。

 ちょうど今日は博物館設立記念日で、入場料が無料になっていた。だが、せっかく入場料が無料なのに、博物館を訪れる人はとても少なかった。入場料が無料であることも博物館へ行ってから初めて知ったし、そもそもラーイプルの街を歩く通行人の中で博物館の位置を知っている人はほとんどいなかった。

 夕食は、おそらくラーイプル最大の繁華街だと思われるジャイストゥンブ・チャウクにあるギルナールというレストランで食べた。ここはグジャラーティー・ターリー様式のターリー専門レストランだったが、ターリーの内容は必ずしもグジャラート料理ではなかった。お替りは自由、と言うか、お替りを要求する前に次から次へと店員が食べ物を皿に乗っけてくる。1人70ルピー。ラーイプルに来たら一度は訪れたいレストランである。

5月19日(金) ボーラムデーオ&ターラー

 今日はラーイプルの北側に位置する観光地をタクシーで巡ることにした。

 午前8時に出発。まず目指したのは、チャッティースガル州とマディヤ・プラデーシュ州の州境近く、サトプラー山脈の中にあるボーラムデーオ。国道200号線を北上し、シムガーという町で西に折れてカワルダーまで行く。ここまでは、ジャバルプルからラーイプルへ来たときに通ったので見覚えのある風景が続いた。カワルダーからは本線を外れて田舎道に入り、そのまま約15kmほど進む。所々道がよくない上に、国道200号線はトラックやバスの交通量が多いので、けっこう時間がかかった。ラーイプルからボーラムデーオまでは116km、約3時間ほどでボーラムデーオに到着した。なだらかな山々に囲まれたボーラムデーオはそれだけでも非常に美しい場所であったが、ここの見所は山の上にひっそりと建つボーラムデーオ寺院である。

 11世紀前半にナーグワンシー王朝によって建造されたこの石造寺院は、外壁面を無数のミトゥナ像が覆っていることから、「チャッティースガル州のカジュラーホー」と呼ばれている。ガルバグリハ(聖室)にはシヴァリンガが祀られているが、寺院の名前はなぜかゴーンド族の神様ボーラムが由来のようだ。シカル(塔)やマンダプ(前殿)が完全な形で残っており、おそらくチャッティースガル州で最も保存状態のよく、しかも芸術的に完成された寺院と言える。ボーラムデーオ寺院は今でも参拝者を集める生きた寺院であり、入場料などはなかった。


ボーラムデーオ寺院
カジュラーホーに勝るとも劣らない男女交合像の嵐

 ボーラムデーオにはもう2つ寺院が残っている。マンドワー・マハルとチェールキー・マハルである。チェールキー・マハルの方は崩壊してしまっているようなので、マンドワー・マハルだけを見た。マンドワー・マハルは、マハル(宮殿)という名前が付いているものの、実際は寺院である。解説によると、1349年にファニ・ナーグワンシー国の王が、カルチュリー国のアンビカー・デーヴィーとの婚姻を祝って建造したものらしい。ガルバグリハ内部は一段低くなっており、シヴァリンガが祀られている。マンダパは16本の柱によって支えられただけのシンプルな構造だ。そしてボーラムデーオ寺院と同じく、本殿の外壁面にはミトゥナ像が彫られている。しかし、おそらく訪れる者全てが首を傾げるであろうことは、その彫刻の芸術レベルが明らかにボーラムデーオ寺院のものよりも下がっていることだ。マンドワー・マハルはボーラムデーオ寺院よりも300年後に建造された。それにも関わらず、寺院の壁面に残っているミトゥナ像は素朴というか、稚拙というか、ほのぼのしているというか、ボーラムデーオ寺院の持つ密集性と繊細さが見受けられない。これは文化の衰退を表しているのだろうか?


マンドワー・マハル
ミトゥナ像はとても素朴

 ボーラムデーオの見所を見終わった後は、途中のカワルダーに少し寄ってもらった。カワルダーにはマハーラージャーの宮殿があると聞いていたのだ。カワルダーで道を尋ねつつ探したら、確かに宮殿はあった。宮殿の門を入ってすぐ左手には何かのオフィスがあり、人が働いていた。そこで聞いてみると、マハーラージャーは今は留守で宮殿は閉まっているという。しかも、宮殿の敷地内には訓練された犬が徘徊しており、余所者を見ると襲って来るらしい。宮殿内のオフィスで働く人もその犬を大いに恐れているというから、ドーベルマンか何かなのだろう。写真くらいは撮りたかったが、犬の話を聞いた途端、先へ行く勇気が失せてしまった。

 カワルダーを出た後、一旦シムガーまで戻った。シムガーはビラースプルとラーイプルを結ぶ国道200号線と、ジャバルプルから続く国道12A号線が交差する町で、ちょっとした市場になっている。このとき2時になっていたので、シムガーのダーバー(安食堂)で昼食をとった。

 次に向かったのは、本日第二の目的地であるターラー。ターラーも是非行ってみたい観光地であった。だが、ドライバーがターラーの位置をよく知らなかったので、途中で道を尋ねつつ進むことになった。ターラーは、シムガーからビラースプル方面へ国道200号線を北上し、2つめの河を渡る手前で右に折れて、田舎道を進んで行くと河の向こうに寺院が見える。乾季だったので河の水が干上がっており、河を自動車で渡ることができたが、雨季以降には別の道を通らなければならないかもしれない。

 ターラーは、マニヤーリー河の河畔にある小高い丘にある2つの崩れかけた寺院で有名である。それぞれデーヴラーニー寺院、ジェーターニー寺院と呼ばれている。どちらもシヴァ寺院で、5〜6世紀の建造とされている。デーヴラーニー寺院はかろうじて壁までが残っているが、ジェーターニー寺院は基部が残るでほぼ全壊状態。寺院の周囲には欠損した石像や石柱が散乱していた。まだ整備中で入場料などはなかったが、将来的には入場料を取るようになりそうだ。


デーヴラーニー寺院


ジェーターニー寺院

 5〜6世紀の寺院というとかなり古い。だが、これだけ崩れに崩れた寺院をわざわざ見に来る物好きはあまりいないだろう。しかし、ターラーの魅力は実は寺院にあるのではない。1987〜88年にかけての発掘調査で発見された、ある石像がここの最大の見所なのだ。そして僕もその石像を見にわざわざここまで来たのだった。僕がその石像のレプリカを初めて見たのは、マディヤ・プラデーシュ州ボーパールの州立考古学博物館においてであった。なんだこれは!インドの神様の像をけっこう見て来たつもりだったが、あのような種類の像は未だかつて見たことがなかった。あのときの衝撃は今でも忘れない。それほど異様な石像であった。その石像の本物がチャッティースガル州にあることを知ったとき、僕は何が何でもそこへ行くことを決めたのだった。

 その石像は、デーヴラーニー寺院の入り口の左側にある。ターラーの寺院群の敷地内にはいくつもの石像が無造作に並べられていたが、この石像だけはその重要性から、小屋に収められ、錠がかけられていた。


デーヴラーニー寺院の左側に小屋がある


中を除いて見ると・・・何やら不気味な石像が!

 これこそが、ターラーの最大の見所であるルドラシヴァ像だ。高さ2.54m、幅1mのこの巨大で不気味な像は、カメレオン、魚、カニ、カエル、孔雀、亀、虎、蛇、ワニなどの様々な動物と人面によって体が構成されており、しかも胸、腹、腰などに顔を持っている。このようなタイプの像は、インドはおろか世界でも他に例がないという。世界70大不思議があったら、このルドラシヴァ像はランクインして然るべきだ。








ルドラシヴァ像4連写


顔のアップ
カエルの目、トカゲの鼻、魚のヒゲ、カニのアゴ、孔雀の耳

 不気味なのだが、何だか愛嬌のある顔や身体をしており、おどろおどろしいということはない。見れば見るほどいろいろな部分に発見があり、非常に興味をそそられる像である。一体誰がどんな目的でこのような像を作ったのか?シヴァ派タントリズムの信仰と関係あると言われるが定かではない。ルドラシヴァという名称も便宜的に名づけられただけで、本当は何の像だかよく分かっていない。ターラーの遺跡の中で、この異様な像だけがほぼ完全な形で発見されたことも、単なる偶然なのか疑わしくなって来る。何かの魔力なのではなかろうか・・・。

 見ての通り、残念ながらルドラシヴァ像は鉄格子の奥に安置されており、うまく1枚の写真にまとめることができなかった。ルドラシヴァ像のレプリカは、前述のようにボーパールの州立考古学博物館や、ラーイプルのマハント・ガースィーダース記念博物館に置いてあり、そこならレプリカながら全貌を眺めることが可能だ。


ボーパールの州立博物館に所蔵されている
ルドラシヴァ像のレプリカ

 どうしてもルドラシヴァ像に目が行ってしまいがちだが、他の石像や彫刻にも鬼気迫る迫力があった。その特徴を自分なりの言葉で表現するならば、繊細かつ豪快。石像のサイズはどれも巨大で、しかも悪魔の居城のデコレーションのようなおどろおどろしいものが多い。それでいて彫刻は繊細であり、その芸術的レベルはかなりの高さである。特にデーヴラーニー寺院のガルバグリハの門の内側に彫られていた獅子(?)の顔が気に入った(下の写真では一番左上)。いったいどんな壮麗な寺院だったのだろうか?想像が膨らんで止まない。


デーヴラーニー寺院とジェーターニー寺院の石像と彫刻の数々

 ターラーの遺跡を見終わった時点で午後4時であった。時間があったらもう少し近辺の遺跡を見たいところであったが、ラーイプルへ引き返すことにした。ビラースプルからさらに先のチャッティースガル州北部にも、ジャーンジギール、ラームガル、ディーパーディーヒなど面白そうな遺跡がゴロゴロ転がっているが、今回は行けそうにない。チャッティースガル州は「何もない場所」という印象が強かったが、とんでもない、この2日間で、多くの観光資源に恵まれた州だと認識を改めさせられた。ただし、まだ外国人団体観光客を受け容れられるだけの設備は全くと言っていいほど整っていない。観光地まで行く交通機関もとても頼りない。ボーラムデーオだったら、カワルダーでテンポなどをチャーターして行くことができるだろうが、ターラーは今のところビラースプルかラーイプルでタクシーをチャーターしないと無理であろう。

 ホテルに戻る前に、ドライバーがラーイプル北郊にあるバンジャーリー寺院に寄ってくれた。ジャバルプルからラーイプルに来るときも目にしたが、最近出来た何の変哲もない寺院かと思っていた。ドライバーがやたらと勧めるので、ちらっと覗いて見ようと思ったら、実はなかなか面白かった。まず、狭い敷地内に、ヒンドゥー教の神様たちの巨大な人形がいくつも並べられている。そしてそれらの造形のレベルがインドにしてはなかなか高い。バスの中からは、2つの寺院の屋上にある巨大なハヌマーンとシヴァの像のみが目に入ったのだが、敷地内には他にもヴィシュヌ、クリシュナ、ブラフマーなど、多くの神様の人形があった。


バンジャーリー寺院
左上からハヌマーン、シヴァ、
シェーシュに横たわるヴィシュヌ、
カーリヤ竜を殺すクリシュナ、アムリタを持って現れるラクシュミー

 しかし、それらのハイレベルな神様人形よりも面白かったのは、このバンジャーリー寺院のご本尊である。つい、これらの人形に圧倒されてしまうが、バンジャーリー寺院のご本尊は、バンジャーリー女神というドゥルガー女神の一種で、人形で彩られた2つの寺院の横にある。その女神の顔が何とも・・・以下、写真を見ていただけば分かる。


バンジャーリー女神の像


クレヨン○んちゃん?

 ヒンドゥー教の寺院のご本尊は、時々思わず噴き出してしまうようなおかしな物体が祀られていることがある。このバンジャーリー寺院もそのひとつであろう・・・。

5月20日(土) ジャグダルプル

 チャッティースガル州の中でも特に行ってみたかったのが、「手工芸品の里」と呼ばれるバスタル地方。チャッティースガル州の手工芸品と言えば、何も言わなければこのバスタル地方の部族たちが作る手工芸品のことを指すくらいである。バスタル地方はチャッティースガル州南部に位置しており、行政区分ではバスタル県という県を構成している。チャッティースガル州最南端の県がダンテーワーラー県で、そのすぐ北にあるのがバスタル県だ。その中心都市はジャグダルプル。今日はバスでジャグダルプルを目指す。

 午前8時にナヤー・バススタンドでジャグダルプル行きの私営バスに乗り込んだ(155ルピー)。バスはラーイプル市内を乗客を求めてしばらく徘徊し、その後やっとラーイプルを出た。ラーイプルから国道43号線を南下。しばらくは平野が続いた。

 途中、カーンケールという町に到着。小高い岩山の麓にあるけっこう大きな町で、中心部には「ヤー・アッラー」という大きなアラビア文字が掲げられたモスクがあった。カーンケールも藩王国があった場所で、宮殿があるようだ。このカーンケールを越えると森林地帯となり、やがてバスはいろは坂のような急斜面のジグザグ道を上り始めた。この一帯は緑のなだらかな山々が遠くまで続く非常に風光明媚な場所であった。その坂を上り切ったところにはケーシュカールという町があり、看板に書かれている住所から、ここが既にバスタル県であることが分かった。カーンケールからケーシュカールに来ると、標高は500m上がるらしい。おかげでバスに入ってくる風が少し涼しくなった。バスに乗り込んで来る乗客も、いかにも部族っぽい服装の人が増えた。

 ケーシュカールからさらに国道43号線を南下。バスタル地方の手工芸品の中心地であるコーンダーガーオンやバスタルを通り過ぎた。ジャグダルプルに到着したのが午後3時半頃であった。

 ジャグダルプルはバスタル県の県庁所在地であるが、やばいくらい田舎の町であった。その田舎度を端的に表すのは、この町にオートリクシャーが走っていないことであろう。市内交通はサイクルリクシャーのみが利用できる。そして、この町の人々が外国人に対してあまり免疫がないことも見て取れた。僕が町を歩いているとみんな注目して来るのだが、僕が話しかけようと少し近付くと、目をそらしたり、どこかへ行こうとしたりするのだ。おそらく英語で話しかけられるのを恐れているのだろう。しかし、気候は少し暑いくらいでラーイプルより断然マシ。ジャグダルプルはちょっとした避暑地としてもいいかもしれない。

 バススタンドでサイクルリクシャーを拾い、町の中心部に当たるサンジャイ・マーケットまで行ってもらった。このマーケットから少し裏手に入った場所にある、ホテル・レインボーに宿泊することにした。ホテル・レインボーには州観光局オフィスがあり、旅行情報を集めやすいし、ホテル自体もけっこうよいと聞いていたからである。エアークーラーのシングル部屋で、380ルピー。バストイレ、テレビ、タオル、石鹸などが完備されている。

 朝からほとんど食べていなかったので、チェックインした後はまず軽食を取った。その後、ホテルに併設されている観光局オフィスへ行って情報を集めることにした。僕がもっとも欲しかった情報は、部族の村にどうやったら行くことができるか、ということだった。しかし、観光局オフィスにはあまり経験のなさそうな若者しかおらず、しかも彼らは観光客が何を求めているのか正確に把握することができていなかった。パンフレットなどに記載されている情報以上のものは入手できなかった。

 仕方ないので、まずは人類学博物館へ行くことにした。この博物館へ行けば、チャッティースガル州の部族のことがよく分かるらしい。ところが、誰も博物館の位置を知らない。サイクルワーラーに聞いても分からない。人々が自分の町の観光スポットを知らないのは、観光客が少ない町によくあることである。チトラコート・ロードにあることが分かっていたので、今度はチトラコート・ロードの場所を尋ねつつ歩いた。チトラコート・ロードには出たが、やはりその道周辺にいる人の大半も博物館のことを知らなかった。だが、1人の人が、「ダラムプラー・ナンバー1にある」と思い出して教えてくれたおかげで、そこまで辿り着くことが容易になった。ダラムプラー・ナンバー1なんていう変な名前の町が本当にあるのかと一瞬疑ったが、本当にあった。だが、はっきり言ってジャグダルプルの隣町であった。最初はチトラコート・ロードをひたすら歩いていたのだが、これはかなり遠いということがだんだん分かって来たので、サイクルリクシャーを拾って行くことにした。ダラムプラー・ナンバー1で再び道を聞いたらすぐに教えてもらえた。やっと博物館に辿り着いたのだが、残念ながら土日は休みで、門は閉ざされていた。月曜日に出直すしかない。

 今度は、ジャグダルプルまで戻って、バスタルの手工芸品が売られている店はないか探してみることにした。ジャグダルプルまで来れば至る所に手工芸品の店があるのではないかと考えていたが、サンジャイ・マーケットは完全に食材のマーケットで、そのようなものはなかった。人類学博物館を探す際に少し町を歩いたのだが、生活必需品を売る店があるのみで、お土産屋のようなものは見当たらなかった。だが、ホテルのレセプションに聞いてみたところ、手工芸品が売られている場所を教えてもらえたので、そこへ向かった。ジャグダルプルには、手工芸品店が軒を連ねる通りがあった。チャーンドニー・チャウクとシャヒード・パークの間にある通りである。ここで売られているものは木彫品中心で、僕が一番求めているドークラー(ベルメタル・アート)はほとんど売られていなかった。この辺りの店は、軒先で職人が木を削っていたりする工場兼店舗のような感じのものが多かったが、唯一、バッターチャーリヤ・アートという店だけはきれいにディスプレイされた近代的な店舗であった。そしてドークラーも高級品を中心に売られていた。だが、店員がまた情報に疎い人間で、手工芸品について何を質問しても的を射た返事は返って来なかった。ジャグダルプルは情報が絶対的に不足している!

 手工芸品店巡りをしていたらすっかり日が暮れてしまった。今日は特に目覚しい成果は得られずにバスタル1日目を終えることになってしまった。帰る途中、広場でカバッディーの大会が行われていたのでちょっと観戦することにした。全インドから男女のカバッディー・チームが来ており、壮絶な戦いを繰り広げていた。カバッディーの試合を生で見たのは実はこれが初めてである。ルールは少し分かる程度。見ていてよく分からない場面もあったが、けっこう迫力のあるスポーツで新鮮だった。

5月21日(日) バールスル&ダンテーワーラー

 バスタルに来て以来、観光に苦戦している。インドは旅行が予定通りに行かない国なのは百も承知で、あらかじめその心の準備はできているのだが、その心の準備を越えた予定通りの行かなさにもどかしい思いをさせられている。今日も予定通りに事が進まなかった。

 今日はジャグダルプルから38kmの地点にある、バスタル地方最大の自然観光地、チトラコート滝へ行こうとしていた。あらかじめ、朝9時にチトラコート行きのバスが、アヌパマーという名の映画館の近く(つまりバススタンドとは別)から毎日出ているとの情報を得ていた。念には念を入れて昨日現地へ行って、発着所近くに店を構える人々に聞き込み調査をしてみたが、やはり9時にチトラコート行きのバスが出ているとのことだった。さらに念を入れて、今朝は8時半過ぎにそこへ行ってみた。すると、チトラコート行きのミニバスが今にも出発するところであった。後から知ったところでは、この午前8時半発のバスがチトラコート行きの最も早い便で、9時にももう1本チトラコート行きのバスが出ている。

 てっきりその8時半発のバスはチトラコート止まりかと思ったが、バスの正面に掲げられていたボードによると、チトラコートよりもさらに先のバールスルやダンテーワーラーへも行くようだった。どちらもチャッティースガル州の観光案内に記載されており、一応見所のある場所のようだ。そこで、どうせならついでにそれらを見ておこうということで、ダンテーワーラーにまず行って、そこから引き返してバールスル、チトラコートを見つつジャグダルプルへ戻るという旅程を組み立てた。

 ジャグダルプルの住民は人見知りするが、一旦打ち解けると田舎特有のホスピタリティーでもって接してくれる。バスの車掌もいろいろアドバイスしてくれた。車掌によると、このバスはダンテーワーラーへ行くことには行くが、田舎道を通っていくのでとても時間がかかるとのこと。バススタンドからメインロードを通ってダンテーワーラーへ行くバスが出ており、ダンテーワーラーへ行くには断然そちらの方が早いようだ。しかし既にそれを知ったときにはバスは走り出してしまっていた。ちなみにこのバスがダンテーワーラーに到着するのは1時半頃だという。ダンテーワーラーへ行ってから、バールスルとチトラコートを見て帰っているととても遅くなってしまう。よって、とりあえずこのバスでバールスルまで行くことに決めた(40ルピー)。

 田舎道とは言っても、ジャグダルプルからチトラコートを経由してバールスルへ行く道は、一部の工事中の道を除けばとてもきれいに舗装がしてあった。バスタル地方の風景は山、川、森、平原などの自然が織り成す絶景で、とても美しい。そして途中、部族たちの村をいくつも通り過ぎた。昨日、サンジャイ・マーケットを少し散策したときから薄々気付いていたが、バスタル地方に住むお婆さんたちは、サーリーの下にブラウスを着ておらず、おっぱいをほとんど丸出しにしている人がけっこういる。腕には刺青があり、鼻や耳に大きな金の飾りを着けていることが多い。頭に荷物を載せ、サーリーの裾をたくし上げて、早足で歩いている姿がとても印象に残った。

 午前10時頃にチトラコートに到着。バス停のすぐそばに滝が見えた。だが、とりあえず今はお預け。バスからは下りずにそのまま乗り続けた。ジャグダルプルを出たときはバスはそれほど混んでいなかったが、途中の村で乗客を乗せつつ進んでおり、このときにはもはや入り込む隙間もないほど満員となっていた。もちろん、インドの田舎で「満員」というのは、バスの天井にも人が座っている状態のことである。チトラコートを過ぎ、しばらく行くとバスは坂道を下り始めた。ちょうどラーイプルからジャグダルプルへ来るときに上った坂道のような感じだった。標高が下がったためだろう、坂道を下りきると一気に気温が増した。やはりバスタル地方は比較的涼しい地域のようだ。バスタル県からも外に出て、チャッティースガル州最南部のダンテーワーラー県に入っていた。

 12時過ぎにバールスルに到着。バールスルは、チトラコート行き、ダンテーワーラー行き、ナーラーヤンプル行きの3本の道の交差点付近に数軒の茶屋、パーン屋、雑貨屋が並ぶ市場があるだけの超ド田舎であった。これでもかつてバスタルの首都だった時代があるらしい。バールスルは巨大なガネーシュ像が見所であるが、少なくとも4つ、古い寺院が残っている。バスを降りて村の中に入ると、すぐにそれらの寺院へ続く道を示した標識を見つけることができた。

 その標識に従って道を歩いて行くと、まずは左手にバッティーサー寺院というシヴァ寺院があった。シヴァリンガを祀った2つの寺院が横に並んでおり、それらのマンダプ(前殿)はつながっていた。バッティーサー寺院からさらに道を進んで行くと、今度は左手にガネーシュ寺院が見えた。ガネーシュ寺院は四方をフェンスで囲まれており、バールスルの一番の見所である巨大ガネーシュ像はさらに小屋で保護されていた。大小2体のガネーシュ像があり、どちらも四角っぽい形をしていた。神様ポスターなどで、ガネーシュ像はやたらとディフォルメされた形で描かれることが多いが、それと似ていて面白かった。チャッティースガル州で最大のガネーシュ像とのことである。


ガネーシュ寺院
寺院自体は崩壊、巨大なガネーシュ像のみが残る
右下はガネーシュ像の裏側

 次にガネーシュ寺院を出てまっすぐ森林の中を歩いて行くと、今度は寺院のシカル(塔)が見え始めた。これはマーマー・バーンジャー寺院と呼ばれるヴィシュヌ寺院である。現在は修復中で、西ベンガル州から来た労働者たちが働いていた。ちょうど労働者たちの昼飯のときになっており、彼らと一緒にマーマー・バーンジャー寺院を出た。彼らの内の1人が、もうひとつの寺院、チャンドラ・ドイティヤ寺院まで案内してくれた。チャンドラ・ドイティヤ寺院は湖畔にある寺院で、シカルには素朴な彫刻が彫られていた。神様の像、戦士の像などに混じって、やはり男女が交合するミトゥナ像があった。そのレベルは、ボーラムデーオのマンドワー寺院よりはマシだったが、あまり芸術性の高いものではなかった。


チャンドラ・ドイティヤ寺院

 バールスルの遺跡には解説が書かれていなかったので、詳細はよく分からないが、どれも11〜12世紀建造の寺院だという。遺跡だけ見たら、はっきり言ってバールスルは苦労が報われるほど面白いスポットではない。おそらく日本人でこんな辺鄙な場所にあるこんなつまらない遺跡群を訪れたのは僕が初めてなのではなかろうか?

 可能ならば、バールスルからチトラコートに戻りたかった。だが、チトラコート〜バールスル間の道はあまり使われない道らしい。バールスルに来るとき、一台も車とすれ違わなかったことからもそれを薄々感じ取っていた。聞いたところによると、この道は1日2便しかバスが通らないという。つまり、僕が乗って来たミニバスのみ、ということだ。このミニバスは終点ダンテーワーラーに1時半に着き、2時に再び出発。4時にバールスルを経由して、チトラコート、ジャグダルプルへ行く。このバスを待っていたら遅くなってしまう。今日はチトラコート滝を見るのは諦めて、ダンテーワーラーへ行った方が賢明のようだった。ダンテーワーラーまでは乗り合いジープが出ている(この辺りでは乗り合いジープは「タクシー」または「マーシャル」と呼ばれている)。

 バールスルのメインロード沿いにあった茶屋でチャーイを飲んでいたら、乗り合いジープがやって来た。このジープはバールスルから約20kmの地点にあるギーダムまでしか行かなかったが、ギーダムでダンテーワーラー行きのバスがたくさん見つかると聞いたので、これに乗ることにした(15ルピー)。

 バールスルを出たのは1時半頃であった。ギーダムには2時頃に到着。ギーダムはけっこう大きな町で、活気のあるマーケットがあった。部族と見られる一般のインド人の顔ではない人々がたくさんうろついていた。ここでダンテーワーラー行きの乗り合いジープに乗り換えた。このジープがダンテーワーラーのバススタンドに到着したのは午後3時頃であった。

 ダンテーワーラーには、バスタル地方の人々から信仰を受けているダンテーシュワリー女神を祀ったダンテーシュワリー寺院がある。ダンテーワーラーの町に入ってすぐにあるサークルを右に曲がってまっすぐ進んだところにある。ダンキニー河とシャンキニー河の合流点に建つこの寺院は、シヴァ神の妃サティーの歯が落ちた場所と言われている(つまりシャクトピートのひとつ)。「ダンテーシュワリー」という名前も、「歯の女神」という意味だ。ものすごく古い寺院だが、現存するのは14世紀に改築されたものらしい。ダンテーシュワリー寺院の内部に入るには、ズボンを脱いでドーティー(腰布)を巻かなくてはならない。ドーティーは寺院の入り口で借りることができた。寺院のご本尊は、マヒシャースラマルディニーの姿をしたドゥルガー女神。寺院内には、バイラヴ寺院の他、バールスルから出土したシヴァ、シヴァリンガ、ガネーシュ、ナンディー、ヴィシュヌなどの石像が半ば無造作に置かれていた。


ダンテーシュワリー寺院
右上はご本尊、左下は併設されているバイラヴ寺院
寺院の手前部分は後世に造られた屋根で覆われていた

 おそらくよっぽど特殊な興味のある人以外、ダンテーワーラーもわざわざ苦労して行くような場所ではないと感じた。今日はオマケのつもりでバールスルとダンテーワーラーを巡ったのだが、これらの取り立てて魅力のない遺跡がメインになってしまった。

 ダンテーシュワリー寺院の前の店でスプライトを飲んでいたら、ちょうどジャグダルプル行きのバスがやって来たのでそれに乗り込んだ(45ルピー)。バスはギーダムを経由してジャグダルプルへ。やはりチトラコート経由よりもこちらの方が断然早く、2時間半ほどでジャグダルプルに到着した。

 ところで、チャッティースガル州南部、ジャグダルプル周辺はナクサライト・エリアとして知られている。ナクサライトは、マオイスト(毛沢東主義派)とも呼ばれる過激派左翼で、武装革命を名目としたテロを度々起こしているため、政府から禁止団体扱いを受けている。ナクサライトは西ベンガル州、ビハール州、ジャールカンド州、オリッサ州、チャッティースガル州、アーンドラ・プラデーシュ州などで活発に活動を行っており、ネパールからタミル・ナードゥ州へインド亜大陸を縦断する「レッド・コリダー」を構築しようと、さらに勢力拡大を狙っているらしい。チャッティースガル州のナクサライトはジャングルを拠点とし、部族たちを雇用して度々反政府テロを起こしている。

 そのナクサライトが今日と明日(21日と22日)に「ダンダカーランニャ・バンド」と呼ばれるゼネストを呼び掛けていた。「ダンダカーランニャ」とは「ダンダカの森」という意味で、「ラーマーヤナ」のラーム、ラクシュマン、スィーターが王国追放の時期に過ごした森で、チャッティースガル州南部の密林地帯がこのダンダカの森だと言われている。ちょうどナクサライトが勢力を張っている地域である。ナクサライトは、そのチャッティースガル州のナクサライト・エリア全域におけるゼネストを布告したのだ。そして、それを州民に徹底させるため、昨夜、ダンテーワーラー県において鉄道、国家鉱物開発局(NMDC)、私営鉄鋼会社ESSARを攻撃した。特に鉄道の爆破により鉄鉱石を積んだ貨物列車が脱線し、大被害が出たようだ。NMDCやESSARを攻撃したのは、どうもこれらの機関や会社が部族たちの生活を脅かしていると見られているからのようだ。ナクサライトだけでなく、部族たちで構成される正規の政治団体も、それらに対する批判の声を上げている。NMDCはチャッティースガル州の天然資源を搾取して環境を汚染し、ESSARの工場は部族たちの命の源である河の水を大量に吸い上げているとの批判が、新聞に掲載されていた。

 さらに、深夜にはジャグダルプルとアーンドラ・プラデーシュ州の都市を結ぶ国道221号線上で、バスが4台燃やされるという事件が起こった。ただし、ナクサライトは「人民の味方」を自称しているので、通常、一般庶民には手を出さない。ナクサライトはこの道を通っていた旅客バスを止め、乗客を全員降ろし、バスに火を放ったという。乗客は全員無事とのことだが、どうやらたまたま休暇から帰る途中だった警官がそのバスに乗っていたようで、誘拐されてしまったという。この警官は後日遺体で発見された。

 また、州政府はナクサライトによるゼネストを失敗させるため、ダンダカーランニャ・バンドの初日である今日、州南部でバイクのラリーを開催した。このラリーは、バイラムガルをスタートし、ラーイプルをゴールとするもので、200台のバイクが参加したのだが、ラリーが始まってバイクが4kmほど進んだ時点で爆弾が爆発し、6人が負傷した。このテロのせいで周辺地域の店舗は全てシャッターを閉じ、州政府の意向とは裏腹に同地域でのナクサライトの影響力を証明することになってしまった。

 今日、ダンテーワーラーからジャグダルプルに戻るバスの中で、「インド人」と「部族」のやり取りを見ていてふと思うことがあった。「インド人」と「部族」の境界線は実は非常に曖昧であるが、部族が多く住む地域を旅行すると大まかなイメージが沸くであろう。ここで言う「インド人」とは、都市や農村に基盤を持っているメインストリームの人々で、「部族」とは密林に住んで独自の文化を保持する少数派の人々のことだと理解してもらいたい。ダンテーワーラーからジャグダルプルに戻るバスは、ギーダムで長いこと止まって乗客を乗せていたのだが、そこで乗り込んで来る人々の多くは「部族」であった。「インド人」と「部族」の関係は、まるで英国植民地時代のイギリス人とインド人か、もしくは米国におけるアングロサクソンとネイティヴ・アメリカンみたいなものだ。「インド人」のバス運転手や車掌たちの、「部族」の乗客に対する態度は、まるで奴隷か家畜のようである。「インド人」の乗客にはそんな態度は取らないのに、「部族」と明らかに分かる人々には非常に厳しく当たる。その一方で、「部族」も意地汚い。運賃を払わずにバスに乗ろうとしたり、実際よりも少ない運賃を渡して知らんぷりしていたり、あの手この手で「インド人」を騙そうとする。これでは「インド人」車掌が「部族」乗客に対して厳しくなるのも無理はないと思った。ナクサライトには、ジャングルに住む部族たちが多く参加しているという。昨日のゼネスト前夜のテロでも、ナクサライトの集団の多くはゴーンド語を話していたとの記事があった(情報操作かもしれないが、一応正しい情報だと受け止めておく)。チャッティースガル州の部族たちがナクサライトに参加するのは、この「インド人」と「部族」の間の溝にどうやら原因がありそうだ。

5月22日(月) チトラコート

 今日は、昨日行こうと思っていて行けなかったチトラコート滝を観光することにした。昨日と同じく、午前8時半にアヌパマー・シネマ近くから出るミニバスに乗り込んだ(25ルピー)。今日は月曜日だからか、昨日よりも車内は混雑していた。バスは当然のことながら昨日と同じ道を行き、チトラコートには10時頃に到着した。

 チトラコート滝はナイアガラの滝のような馬蹄型の滝で、サイズはナイアガラの滝の3分の2だという。この滝が「インドのナイアガラ」と呼ばれるのはごく自然なことだ。チトラコート滝はチャッティースガル州の自然観光地の最大の見所のはずだが、観光客向け設備の整備は非常に立ち遅れている。まず、ジャグダルプルとチトラコートを結ぶバスの便が非常に悪い。例えば、ジャグダルプルからバスで日帰りするとするとしよう。午前8時半または9時にアヌパマー・シネマの前から出ているミニバスに乗れば、それぞれ10時、10時半にチトラコートに到着する。日帰りにはとても理想的なバスだ。この10時半到着のバスが11時にチトラコートを出てジャグダルプルに戻るのだが、困ったことにこの11時発のバスを逃すと、次は午後4時発のバスになってしまう。言い換えれば、11時発のバスがジャグダルプルまで往復して戻って来るのを待たなければならない。それまでジャグダルプルまでの公共交通機関はない。乗り合いジープもチトラコートは通っていない。そして、午後4時のバスの次は、ダンテーワーラー往復のミニバスしかない。このバスはチトラコートを午後5時半頃に出る。つまり、もしジャグダルプルからチトラコートまで日帰りで往復するとすると、午前8時半のバスに乗ってチトラコートまで行き、10時から1時間観光して11時のバスに乗ってジャグダルプルに戻るか、それとも午後4時または5時半のバスを待たなければならない。チャッティースガル州の観光地は、交通が不便な場所にあることが多いので、タクシーをチャーターするか自分の車を使って旅行しないと効果的に回れない。チャッティースガル州観光の大きな欠点である。

 交通の便の他、観光客用の休憩施設もまだまだとても十分なレベルになかった。チトラコートのバス停周辺は数軒の茶屋やパーン屋があるだけで、観光客、特に外国人観光客がのんびりできるような雰囲気ではない。政府経営のレストハウスがすぐ近くにあったが、半分工事中で、誰かが泊まっているようには見えなかった。

 最も残念だったのは、滝の水量が少なかったこと。チトラコート滝が横一面に水しぶきを上げて壮絶な姿を見せるのは雨季の最中の6〜7月で、雨季前の現在は一部しか滝が流れていなかった。雨季の後に来るべきなのは分かっていたのだが、滝の水量に合わせて旅程を組むのも悔しかったので、無理に来てしまった。花の谷と同じく、やはり自然モノの観光地は季節を外して行くと楽しさと感動が半減以下になってしまうことを痛感させられた。


雨季前のチトラコート滝

 もし滝が少しでも豪快に流れていたら、午後4時発のバスまでここでゆっくりしていこうかと考えていたが、滝がこのような状態だったので、早めに切り上げて帰ることにした。つまり、11時発のバスでジャグダルプルへ帰ることにした。

 戻るついでに、ダラムプラー・ナンバー1にある人類学博物館に立ち寄ることにした。幸い今日は開いていた。入場料は無料。1階に6つの部屋があり、バスタル地方に住む部族の紹介、部族たちが使う器具の展示、部族たちの手工芸品や部族が信仰する神様の解説など、かなり充実した内容であった。ここに来れば、バスタル地区の至る所で見かける部族たちのことが少しは理解できるであろう。写真撮影は禁止だったので、展示物の写真はない。


人類学博物館

 展示の中で気になった事項をメモしておく。バスタル地方では、部族たちによって10以上の言語が話されているが、その中で部族間のリングアフランカとなっているのは、ハルバー族のハルビー語。ハルバー族はバスタル地方一帯に住むかなり勢力の持った部族のようで、ハルビー語はマラーティー語、オリヤー語、ヒンディー語(チャッティースガリー方言)の混交言語らしい。確かに部族たちの話す言語に聞き耳を立てたところ、全く見知らぬ言語をしゃべっているときもあれば、ヒンディー語の訛ったような言語をしゃべっているときもあった。多分ヒンディー語っぽい言語はこのハルビー語なのだろう。他に、ドラヴィダ系言語のゴーンディー語やパルジー語もバスタル地方ではよく話されているらしい。

 バスタルに住む部族のユニークな習慣の中で、人類学者の興味を最も引いているのは、ムリヤー族とアブジ・マーリヤー族の習慣であるゴートゥル。これらの部族の村の郊外にはゴートゥルという施設が設けられており、未婚の男女がここで一緒になって生活するらしい。ゴートゥルは言わばトレーニング・センターである。若者たちが一人前の部族員になるための社会的慣習を学ぶ。しかし、特定の教師はいない。全員が教師であり、全員が学生である。ゴートゥルに住む若者たちは、歌い、踊り、遊び、そして問題が発生した場合は自分たちで解決する。ゴートゥルでは性教育も自然な形で行われているという。つまり、フリーセックスとなっているらしい。ゴートゥルで若者たちは衣食住やその他の技術を身につけるのと同様に、見よう見まねで性の知識と経験も身につける。数晩ごとにパートナーを替えて交わり、異性の身体のことを隅々まで習得する。不思議なことにこんな習慣がありながら、バスタル地方の部族に10代の妊娠はないらしい。また、結婚をした後は打って変わって配偶者としか性交をしないようだ。

 また、祭りのときの服装で最も特徴的なのは、バイソンホーン・マーリヤー族であろう。「バイソンホーン」という名前が象徴する通り、この部族は祭りのときに牛の角をかぶって踊りを踊る。この牛の角の被り物は博物館にも実物が展示されていた。

 その他、各部族の神様たちの紹介がとても詳しく、これらを少しでも記憶しておけば、バスタル地方の手工芸品を購入する際にとても役に立つだろう。ただのおかしな像だと思っていたものが、実は重要な神様であることが分かったりして新鮮な驚きがあった。

 博物館を見終え、サイクルリクシャーでジャグダルプルまで戻り、ホテルで昼食を食べた。その後少し昼寝をして、午後3時半頃に再び活動を開始した。

 実はジャグダルプルを観光し終わった後は国道221号線を南下してアーンドラ・プラデーシュ州の州都ハイダラーバードへ抜ける予定であった。しかし、この道でナクサライトによるテロがあったため、バスの運行がストップしてしまっていた。あとはラーイプルに戻るか、アーンドラ・プラデーシュ州北方の港湾都市ヴィシャーカパトナムへ行くしかない。ジャグダルプルには鉄道が通っているが、ラーイプルやハイダラーバードとは直接接続されておらず、このヴィシャーカパトナムに通じている。このラインは、インドで最も高い位置を通るブロードゲージの鉄道ということ、またその風景の風光明媚さで鉄道マニアには有名である。だが、やはりこの路線もナクサライトによるゼネストとテロの影響で線路が破壊され、運行がストップしてしまっていた。昼寝の後は、この路線がいつ復活するのか情報を集めるためにジャグダルプル駅へ行った。駅はバススタンドよりもさらに郊外にあり、サンジャイ・マーケットからサイクルリクシャーで片道30ルピーかかった(バススタンドは15ルピー)。

 駅には、ジャグダルプルとヴィシャーカパトナムを結ぶ列車、2VKが停車していた。だが、駅にいた人々の話では、いつ路線が復帰するか誰も分からない状況だという。残された道は2つ。ラーイプルまで戻り、ナーグプル経由でハイダラーバードへ抜けるという巨大な遠回りをするか、それともバスでヴィシャーカパトナムへ行くか、である。当然、ヴィシャーカパトナム周りの方がより現実的だ。

 駅からサンジャイ・マーケットに戻った後は、ジャグダルプルの手工芸品店を巡った。一昨日は、シャヒード・パークとチャーンドニー・チャウクの間に軒を連ねる最も安価な店を見て回ったが、他に高級店もいくつかあるとの情報を得たので、それらを見てみることにした。

 まず、チャーンドニー・チャウクのすぐ近くには、州政府観光局経営のシャブリーというエンポリウムがあった。品揃えは非常に豊富。ドークラー(ベルメタル・アート)、テラコッタ、鉄工芸品、バンブークラフト、木彫品、綿織物など、バスタル地方で生産されている手工芸品が一通り揃う。

 また、メインロードにはサンスクリティ・アートという高級手工芸品店があった。パンカジ・ホテルのすぐ隣にあるが、客がいないときは閉まっているので、表通りにある衣服店(サンスクリティ・アートという横断幕が掲げられている)に行って開けてもらわなければならない。ここでは圧倒的な数のドークラーのコレクションに度肝を抜かされた。60人のアーティストと専属契約を結んでいるらしく、大型サイズのものから小型のものまで、いろいろな種類のドークラーが倉庫のような場所に所狭しと並べられていた。


サンスクリティ・アート

 とりあえず今日は見るだけにして、何も買わなかった。その後はサンジャイ・マーケットを散策して、いかにも部族っぽい人の写真を激写することに精を出した。


サンジャイ・マーケットの部族的風景


5月23日(火) コーンダーガーオン

 今日は、ジャグダルプルの北方にある手工芸品の製造所を2つ訪ねた。同時に、バスタル訪問の最大の動機であった、ドークラー(ベルメタル・アート)を買い漁った。

 午前9時頃にバススタンドへ行き、ラーイプル行きのバスに乗り込んだ。まず目指したのは、ジャグダルプルから約76km北にあるコーンダーガーオン。コーンダーガーオンには、サーティー・サマージ・セーヴィー・サンスター(サーティー社会奉仕所)というNGO運営の手工芸品製作所がある。9時過ぎにバススタンドを出発したバスは、10時半頃にコーンダーガーオンのバススタンドに到着した。

 コーンダーガーオンのバススタンドに降り立ち、グルッと見回してみたが、サーティーがどこにあるのか皆目見当がつかなかった。そこで、バススタンド近くの店に立っていた青年に「サーティーはどこ?」と聞いてみた。すると、「よし、俺が連れて行ってやる」と言って、そばに停めてあったバイクに乗るよう促した。ジャグダルプルでは博物館に辿り着くまでに非常に苦労したので、てっきり今回もサーティーの施設を探すのに一苦労するのではないかと身構えていた。よって、一番最初に何とはなしに話しかけた人がいきなりバイクで目的地まで連れて行ってくれるという、あまりにインド映画的な都合のいい展開にしばし思考がついていかなかったが、別に悪い人でもなさそうだったので、好意に甘えて連れて行ってもらうことにした。

 サーティーの施設はコーンダーガーオンの市内にはなく、隣町のクマールパラーという場所にあった。ジャグダルプル方面から行く場合、コーンダーガーオンのバススタンドから国道43号線をさらに4kmほど北へ行くと三叉路があり、ナーラーヤンプルへ行く道が左に続いている。そこにサーティーの看板があり、巨大な鉄製の門もある。そのナーラーヤンプルへ続く道をまっすぐ行って、再び看板が見えたらそれに従って右折し、しばらく進めばサーティーの施設に辿り着く。

 サーティーが行っている主な活動は、バスタル地域の職人たちのハンディクラフトのスキルの「リバイバル」と、スキルのない村人たちのトレーニングである。今でこそバスタル地方のドークラー(ベルメタル)やテラコッタなどの手工芸品はインド内外で「芸術品」として有名になっているが、外部の人々に「発見」されるまでは、それらの技術は「芸術品」として売って収入を得るためではなく、家庭内の生活必需品(神様の像、壺、食器、衣服、装飾品など)の生産のみに使われており、文明の流入と安価な代替物の普及によってそれらは忘れ去られようとしていた。そこで、1993年に設立されたサーティーのメンバーたちは、バスタル地方の優れた技術を持った職人たちに、伝統的技術を生かしながら、現代のニーズに合ったデザインの手工芸品を作るように指導を行うと同時に、職人たちが安定した収入を得られるようなシステムを構築して来た。そういう意味で、サーティーの行っている活動は伝統技術の「リバイバル」である。逆に言えば、バスタル地方の手工芸品は現代人向けに「リバイバル」されたものであるため、現在店で売られている観光客の目を引くバスタルの手工芸品のほとんどは伝統的なデザインではないということになる。例えばドークラーでは、ドアの取っ手、ランプシェード、ハンガー、箱などを店でよく見るが、それらは全て新しいデザインらしい。つまり、バスタル地方の手工芸品にアンティーク的価値のあるものを探すのはほとんど無意味ということにもなる。もしアンティークがあるとしたら、伝統的に作られていた神様の像などであろう。前述の通り、サーティーは伝統技術のリバイバルに加え、主に周辺の村々の女性たちに内職としてできるような手工芸品の技術を教え、貧困から少しでも抜け出せるような環境作りに励んでいる。ちょうど僕が訪れたときも、女性たちがアクセサリーを作る技術を学んでいた。サーティーは、インド各地で行われるメーラー(市場祭)や展示会に積極的に参加し、バスタルの手工芸品のプロモーションを行ったりもしている。手工芸品関連の活動の他、環境保護、天然資源管理、女性の地位向上、教育などもサーティーの活動の一環である。

 サーティーで主に生産されていたのは、ドークラー、テラコッタ、ローハーシルプ(鉄工芸品)であった。特にドークラーの製造過程を見学してみたかった。ドークラーは、インダス文明時代まで遡る非常に古い鋳造技術を使った工芸品である。真鍮、ニッケル、亜鉛の合金で作られており、12のステップによって完成するという。だが、12人の職人がそれぞれのステップを担当して流れ作業でドークラーを作っているわけではなく、その過程の一部を見れたのみであった。

■ドーグラーの製作過程の流れの一部■


金属で型を作る


型を粘土で包む


日向で粘土を乾かす


土の釜で焼く


研磨する

 僕はこのドークラーがバスタルの手工芸品の中で最も好きだ。ドークラーを求めてバスタルに来たと言っても過言ではない。サーティーにもドークラーの豊富なストックがあり、ドークラー好きの僕には宝の山であった。その中で、バスタルに来てからずっと探していたデザインのものも見つけることができた。僕が探していたのは、何らかの家事や祭事をしている村人のドーグラー。その小型のものを集めていたのだが、ジャグダルプルの店には中型〜大型のものしかなく、無念に思っていたところであった。サーティーには正にその小型の村人ドークラーが何種類か置いてあった。ひとつ80ルピーだった。


呪術を行っている人々


左から、ウサギを屠殺しようとする人、チャトニー(チャツネ)を作る人、
スープ(箕)で穀物をあおぎ分ける人

 サーティーの施設から徒歩で国道43号線に戻り、三叉路で乗り合いジープを拾ってコーンダーガーオンへ戻った(5ルピー)。そして、コーンダーガーオンのバススタンドでジャグダルプル行きのバスに乗って、今度はバスタルから数km先にあるパルチャンパールを目指した(40ルピー)。パルチャンパールには、州政府観光局が運営する手工芸品製作所シルプグラームがある。シルプグラームは国道43号線沿いにある静かな佇まいの場所で、ここでもいろいろな手工芸品が作られていた。だが、ちょうど1時頃に到着したため、昼時で職人たちはほどんど工場にいなかった。

 シルプグラームには州政府のエンポリウム、シャブリーもあった。チャッティースガル州の手工芸品を売るシャブリーはデリー、ラーイプル、ジャグダルプルなどにも店舗がある。デリー、ラーイプルの店舗は訪れたことがないが、ジャグダルプルのシャブリーは昨日訪れた。シルプグラームのシャブリーは一通りバスタルの手工芸品を取り揃えているものの、品揃えの豊富さは明らかにジャグダルプルの店舗の方が上だった。単にお土産目的であったら、わざわざシルプグラームを訪れる必要はないだろう。


ジュートを編む女性
シルプグラームにて

 パルチャンパールで乗り合いジープを拾ってジャグダルプルに戻った(20ルピー)。ジャグダルプルのバススタンドで、ついでにハイダラーバード行きのバスがどうなっているか聞いてみた。すると、今日から運行が再開されるとの情報を得た。見ると、午後4時発のハイダラーバード行きのバスが今にも出発するところであった。今日のバスが無事にハイダラーバードに辿り着けば、ひとまずナクサライトによるテロの危険はなくなったと言えるだろう。ナクサライトが呼び掛けていたダンダカーランニャ・バンドも昨日で終了している。ヴィシャーカパトナム経由でハイダラーバードに行こうかとも考えていたが、本日のハイダラーバード行きのバスの様子を見て、明日の午後4時発のバスに乗ってハイダラーバードを目指すことに決めた。

 おまけとして、バスタル地方を観光している間に集めた情報をまとめておく。テラコッタでは、ジャグダルプルからオリッサ州方面へ行ったところにあるナガルナールという村が最も有名のようだ。ナガルナールでは織物の製造過程も見学することができる。ドークラーでは、ダンテーワーラー方面にあるトーカーパール、ラージウル、マーレンガー、ディルミリーなどの村が有名らしい。村で職人から直接ドークラーを買う場合、その値段は重さで決まり、相場は500g65ルピーほどだそうだ。

5月24日(水) カーンゲール国立公園

 今日は午後4時発のバスに乗ってハイダラーバードへ向かう予定であった。4時まで時間があったので、バスタル地方の主要観光地のひとつであるカーンゲール国立公園へタクシーをチャーターして行くことにした。カーンゲール国立公園を巡るには自家用車かタクシーの必要がある。

 インド人には自然好きな人が多いような気がする。自然好き、というのは必ずしも自然を愛護するということではない。インド人は大自然や風光明媚な場所の真っ只中に平気でゴミを捨てたりするので、そういう意味では自然を愛する人々とは言いがたい。ここで言う自然とは、観光や旅行の動機という文脈においてである。僕は個人的に、観光旅行は歴史的遺産などを訪ねる遺跡観光と、避暑地、ビーチ、国立公園、サファリパーク、その他のリゾート地などでリフレッシュしたり冒険したりする自然観光の2つに大きく分かれると思っているのだが、インド人は前者よりも後者の方を好む傾向にある。インドの避暑地は全て山の自然の美しさを売りにしているし、湖、滝、雪、森などの自然の美の体験は、インド人の観光旅行の大きな動機になっている。おそらく、「観光」をするのはまだ都市部の比較的裕福なインド人に限られており、彼らは都会に住んでいるがゆえに自然が恋しいのだと思われる。インド人観光客がクトゥブ・ミーナールやタージ・マハルなどの歴史的建造物に殺到するようになったのはごく最近のことだ。それでもインド人の中には、「こんな古くて崩れかけの建物を見て何が面白いのか」と考えている人は少なくない。

 その関係であろう、ジャグダルプルに来て以来、地元の人々から「ティーラトガル滝とコータムサル洞窟は見たか?」と何度も何度も質問された。これらは、ジャグダルプルの南にあるカーンゲール国立公園の大きな見所である。僕はどちらかというとバスタル地方にはどんな部族がどんな生活をしているのか、そしてどんな人たちが工芸品を作っているのかを見に来たのだが、部族ツアーの情報はほとんど手に入らないのにも関わらず、それらの自然観光地の情報はどんどん手に入った。もちろん、チトラコート滝は前々から見たいと思っており、別格であったが、基本的に僕は「自然や動物を見て何が面白いのか」と考える遺跡観光派の人間なので、必要な情報がなかなか集まらず、要らない情報だけが手に入る現状にもどかしさを感じていた。だが、今日は午後4時まで時間の余裕ができたので、それほど地元の人々が勧めるならばティーラトガル滝とコータムサル洞窟もついでに見ておこうか、という気分になった。

 それに、部族ツアーが思うようにできなかったこともジャグダルプル最後の日をそれらの自然観光に当てた大きな理由だ。遺跡観光はまだインド人にも分かってもらえるが、部族の村を訪ねるような観光は、まだインド人には理解が難しいようだ。概ね、「あんな貧しくて原始的な生活をしている人たちを訪ねて何が面白いのか」という感じの反応である。バスタル地方には、グジャラート州のカッチや、ラージャスターン州のジャイサルメールなどの部族観光先進地にあるような、「観光客がよく訪れる村」というものも確立していない。カッチのジェーティー氏のような、地元観光情報通のような人物も僕の知る限りではバスタルにはいない。ホテル・レインボーに併設されている観光情報局もあまり頼りにならない。また、最近バスタル地方ではナクサライト関連の事件が活発化しており、タクシーのドライバーがあまりジャングルの奥地の村々へ行きたがらないのも部族ツアーを難しくしている要因のように思われた。チャッティースガル州の部族を訪ねるには、旅行会社が主催する団体ツアーに参加するのが一番だと思われる。

 午前9時にホテルを出発。タクシーはACなしのアンバサダー。ドライバーはウッタル・プラデーシュ州東部バッリヤー(マンガル・パーンデーイの生まれ故郷と言われている)出身のパーンデーイ氏。半日の観光で運賃は800ルピーだった。車はまず西方、ダンテーワーラー方面へ向かい、途中で南方、アーンドラー・プラデーシュ州に通じている国道221号線へ折れた。カーンゲール国立公園の入り口は国道221号線上にあり、ジャグダルプルから約35km、1時間もしない内に到着した。

 国立公園の入り口は2方向に分かれている。右へ4kmほど行くとティーラトガル滝、左へ10kmほど行くとコータムサル洞窟である。まずはティーラトガル滝へ行った。

 インドの面白いところのひとつに、国立公園内にも住民の村が点在していることだ。カーンゲール国立公園の門をくぐった後も、ジャングルに住む部族たちが普通に生活している様子を見ることができた。ティーラトガル滝の駐車場は滝の上にあり、そこでは数軒の茶屋が営業していた。おそらくこの茶屋も国立公園内に住む部族が経営しているのであろう。茶屋の近くから下へ下りて行く階段があり、滝の下まで行くことができる。滝の下にはちょっとした岩山があり、その上に祠が2つ3つ建っている。部族のものと思われる記念碑(墓のようなもの)もあった。滝の上や下では洗濯や水浴びをしている地元の人々もいた。

 ティーラトガル滝は、段々に流れ落ちる様子が美しい高さ30mの滝である。やはりこちらも雨季中が最も壮大な風景となるようだが、雨季前の5月でもけっこう水量があった。周辺の風景も起伏に富んでいてとても味があった。雨季前だったら、水量不足迫力不足のチトラコート滝よりも、こちらの滝の方が訪れる価値があるかもしれない。チトラコート滝は男性的、ティーラトガル滝は女性的、と形容することもできる。チトラコート滝はあまりに水の勢いが強すぎて滝の下で遊ぶことは不可能だが、ティーラトガル滝なら水遊びもできそうだ。


ティーラトガル滝とその周辺の風景
部族の記念碑(右の1番上)や小さな祠があった他
滝の近くに変な人形が(左の下から2番目、右の1番下)

 次に、コータムサル洞窟へ行った。コータムサル洞窟への入り口をくぐる前に必要諸費用を払わなければならない。入場料はインド人25ルピー、外国人150ルピー、自動車1台につき50ルピー、洞窟のガイド兼ライト係が50ルピー、カメラ代25ルピー、ビデオ代200ルピーなどである。僕は交渉の結果、特別にインド人料金で入ることができた。

 入り口から10kmほど未舗装の道を進んでいくと、コータムサル洞窟の駐車場に着く。ここには売店などは一軒もなかった。駐車場から1分ほど歩くと、洞窟の入り口がある。まずは地下に続く狭い階段があり、身体を縮めながらそれを下って行かなければならない。少し臆病なインド人は、この狭くて深い入り口に怖気づいて、外で連れが出てくるのを待つことにしてしまう人もいるみたいだ。下まで下りきると、後は横穴の洞窟となっている。深さ20〜72m、長さ330mとのこと。コータムサル洞窟は実は地下水の通路で、雨季後には洞窟いっぱいに水が流れるために閉鎖される(11月1日〜6月30日まで開いている)。チトラコート滝は雨季中または雨季直後でないと面白くないが、それとは逆にこのコータムサル洞窟は雨季を外さなければ見ることのできない観光地だと言える。鍾乳石やと石筍がよく残っており、一番奥には石筍をシヴァリンガや神像に見立てた祠があった。こういうオチの付け方がいかにもインドらしいところで僕は気に入った。観光客用に整備されていないことが功を奏して洞窟全体がかなり天然のまま残っているし(人工物は階段のみ)、電灯などが設置されておらず、ライト係が持っている懐中電灯と蛍光灯のみがを頼りとして歩いて行く状態なので、まるで洞窟を探検しているような気分になれる。


コータムサル洞窟
狭く深い階段を下りていくと洞窟に辿り着く(右上)
ガイド兼ライト係の後について洞窟体験
一番奥にはシヴァリンガ

 ところで、ジャバルプルのベーラーガートでも思ったが、インド人というのはある物を何かに見立てるのがとてもうまい民族だと思う。おそらく星座を考えた人々も、インド人と同じメンタリティーだったのだろう。コータムサル洞窟は、1951年に発見された洞窟で、特に洞窟である以外見所はないのだが、ガイドたちは途中にある鍾乳石や模様を何かに見立てて、巧妙に見物ポイントを作り出していた。一番奥にあるシヴァリンガや寺院もそのひとつだが、その他にも「よく考えるな」と感心してしまうものがいろいろあった。


ライオン、らしい


タイタニックの船首、らしい


天井を見上げた写真
モスクのドーム、らしい



いろんな神像の集合体、らしい

 ティーラトガル滝もコータムサル洞窟も、余った時間を有効活用するためについでに訪れた観光スポットであったが、結果的にはどちらも行っておいてよかったと思えた。

 ところで、ティーラトガル滝やカーンゲール国立公園内の至る所で、以下のような看板を見かけた。

 これはバスタル地方に生息するバスタル・パハーリー・マイナー(直訳するとバスタルヤマムクドリ)という名の鳥のことを解説する看板であった。学名はGracula Religiosa。この鳥は人間の言葉を真似する「世にも稀な」鳥で、チャッティースガル州の「州鳥」に指定されていること、全体は黒色をしており、羽の先端に白い点があること、バスタル県とダンテーワーラー県の森林地帯に生息していることなどが記述されている。そして、「Bastar mein bolein sambhalkar kyonki jaisa sune waisa bole waani ki aina pahari maina(バスタルでは言葉に気を付けて、なぜならマイナー鳥が聞いた言葉をそのまま返すから)」という粋な注意文が添えられている。

 ドライバーのパーンデーイ氏に「この鳥を見ることができるか?」と聞いてみたら、「ジャグダルプルで見れる場所がある」と言うので、帰りについでに寄ってもらった。それはチャッティースガル州森林局のヴァン・ヴィディヤーラヤ(森林大学)という施設であり、ちょうどカーンゲール国立公園からジャグダルプルに帰る道の途中にあった。この大学では、4匹のマイナー鳥を大きな檻の中で飼育しており、人間の言葉をしゃべる訓練を施している。見物料は1人5ルピー。


バスタル・パハーリー・マイナー

 もったいぶってしまったが、実はこのマイナー鳥、日本語で言う九官鳥のことである。どうも九官鳥の原産地はインドのこのバスタル地方のようだ。日本で九官鳥と言ったら誰でも少なくとも「人間の言葉を真似するあの黒い鳥か」とイメージできると思うのだが、なぜか原産地のはずのインドでは、九官鳥はあまりメジャーではない。よって、鳥が人間の言葉をしゃべることに大半のインド人は大いに驚くらしい。係員の話では、この森林大学に飼育されていた九官鳥は、「サーブ、ナマステー(こんにちは)」、「カーナー・カーヤー?(食べ物は食べましたか?)」、「ターター(バイバイ)」など、いくつかのヒンディー語のフレーズを話すという。僕が見たときは「サーブ、ナマステー」しかしゃべってくれなかった。どうも暑い昼時は無口になるようで、朝か夕方の訪問を勧められた。しかし、州政府の予算を使って訓練している割には、話せるセリフが少なすぎはしないだろうか?この森林大学は、ちょっとした観光スポットとしていいかもしれない。

 ホテルに戻ったのは1時半頃。まずはホテルのレストランで昼食を食べた。ホテル・レインボーのレストランは、サービスが時々悪いのが玉に瑕だが、味は田舎の町にしてはなかなかのもの。ジャグダルプル滞在中はずっとこのレストランで食事をし、いろいろなメニューを試した。パラーター、ビリヤーニー、プラーオなどがおいしかった。フィッシュ・カレーは全く駄目で、チキン・カレーは辛すぎた。最後に選んだのは、ウェイターの勧めに従ってナヴラタン・コールマー。これもうまかった。

 夜行バスでの移動になるので、出発時間ギリギリまで休息することにした。シャワーを浴び、部屋でのんびりしていたところ、外から雷鳴の音が・・・。雨が降り出すと面倒なことになるので、少し早めにチェックアウトしてバススタンドへ向かうことにした。ホテル・レインボーには合計4泊5日したことになる。スピーディーに旅行するのが好きな僕にとって、ひとつのホテルにこれだけ長く滞在したのは珍しい。ホテルの従業員ともだいぶ親しくなっており、皆に見送られての出立となった。

 サイクルリクシャーでバススタンドに着くと、まだハイダラーバード行きのバスは到着していないようだった。ベンチに腰掛けてしばし待機。だが、いつまで経ってもバスはやって来ない。もう3時50分だ。さすがにこれはおかしいと気付き、バスのチケットを売っている人に聞いてみたら、今日のハイダラーバード行きのバスはキャンセルになったとのこと。しかも再び3、4日間バスは運行されないらしい。これは完全にジャグダルプルに閉じ込められてしまった・・・。

 急いで代替案を考えることにした。もっとも現実的な手段は、ヴィシャーカパトナムへ行くこと。だが、ハイダラーバード行きバスの運行中止を受け、ヴィシャーカパトナム行きのバスは既に満席になっていた。残る手段はラーイプル、ナーグプル経由でハイダラーバードへ行く大迂回ルートである。仕方なくそのルートを取ろうとしたところ、オリッサ州のジャイプルまで行けばヴィシャーカパトナム行きのバスに乗ることができるとの情報を得た。アーンドラ・プラデーシュ州の交通の要所であるヴィシャーカパトナムまで行ければ、後はいろいろなルートを取ることができる。思い切ってそのルートを取ることにした。

 ちょうど午後4時頃にジャグダルプルのバススタンドから、オリッサ州のボーリグンマー行きのバスが出発しようとしていた。ボーリグンマーはジャイプルまでの途上にある町である。まずはこのバスに乗り込んだ(32ルピー)。バスが出発した途端、大雨が降り出した。バスには次々といろんな人が乗り込んで来た。魚売りの人がいたのだろう、バスの中は魚の匂いが充満した。バスはオリッサへ向かう道を進んだ。ジャグダルプルからオリッサ州との州境は案外近く、1時間もしない内に通り過ぎる町や村の風景はオリッスィー文字で支配されるようになった。僕はオリッスィー語、オリッスィー文字には疎い。一気に入ってくる情報は半分以下になってしまった。ボーリグンマーには6時頃に到着。ボーリグンマーもジャグダルプルに負けず劣らず部族でいっぱいの町だった。ちょうどジャイプル行きのバスがあったので、そちらへ乗り換えた(9ルピー)。ジャイプルには7時過ぎに到着した。

 オリッサ州の西南部も実は部族エリアとして有名である。ジャイプルはその中心部で、信号があるくらいの大きな町だった。バスに乗っていて気付いたのだが、ジャグダルプルとジャイプルは平野でつながっており、州こそ違えど、地理的環境や人々の風俗はかなり共通していた。バスタル地方と同じく、特徴的な金の装飾品を付けた女性や、おっぱいほぼ丸出しのお婆さんが道を闊歩していた。もし旅行のテーマが部族であったら、チャッティースガル州のジャグダルプルとオリッサ州のジャイプルを併せて旅行することはとても理に適っている。ジャグダルプルとジャイプルの間もバスで3時間ほどの距離だ。ナクサライトの影響でジャグダルプルで必要以上にゆっくりしてしまったが、バスタル地方を早めに切り上げ、ジャイプルに来てオリッサ州の部族エリアを観光するという選択肢もありだったな、と少し後悔した。

 このジャイプルで1泊することもできたかもしれない。だが、元々夜行バスで移動するつもりで気力を蓄えていたので、今日はこのまま移動を続行することにした。ボーリグンマーで乗ったバスは実はアーンドラ・プラデーシュ州ヴィジャヤナガラム行きのインターステートバスだった。ヴィジャヤナガラムはヴィシャーカパトナムの途中にある町である。ジャイプルのバススタンドで情報を集めてみたところ、最も早いヴィシャーカパトナム行きのエクスプレスバスは午後9時半発であったが、既に満席とのことだったので、まずはこのヴィジャヤナガラム行きのバスでヴィジャヤナガラムまで行き、そこでヴィシャーカパトナム行きのバスに乗り換えることにした。

 ヴィジャヤナガラム行きのバスは午後8時に出発した(73ルピー)。午後10時頃に夕食休憩があり、そこで南インド料理のミールス(定食)を腹に掻き込んだ。冷めていてあまりおいしくなかったが、かなり腹が減っていたので何でもよかった。雨が降ったせいか風はとても冷たかった。バスの中ではずっとうとうとしていたので、あまり途中のことは覚えていない。確か深夜12時頃にオリッサ州とアーンドラ・プラデーシュ州の州境を越えたはずである。州境では、こんな真夜中なのにも関わらず市場が開かれており、トラック野郎たちが野菜などを買っていた。深夜マーケットは格安なのだろうか?そんなことを朦朧とした意識の中で考えていたら、午前2時頃、バスはやっとヴィジャヤナガラムのバススタンドに到着した。

5月25日(木) 奈落列車

 ヴィジャヤナガラムのバススタンドは真っ暗だった。数個の電球のみが点灯し、バススタンドの命脈をかろうじて保っていた。停車しているバスは数台あったが、中は真っ暗で行き先も掲げられておらず、今夜中には出発しそうにない。座って休憩しようにも、ベンチにはバス待ちの乗客なのか路上生活者なのか、多くの人々が横になっていて座る場所もないほどだった。ヴィシャーカパトナム行きのバスの時刻表を調べようにも、質問所は閉まっているし、壁に書かれている時刻表も全てアーンドラ・プラデーシュ州の州公用語であるテルグ語で書かれているため全く分からない。さて、どうしようか、と困っていると、1台のバスがクラクションを鳴らしながらバススタンドへ入って来た。見覚えのある派手な電飾だった。ジャイプルで見た、9時半発のヴィシャーカパトナム行きのエクスプレスバスである。午後8時発のヴィジャヤナガラム行きバスが途中停車を繰り返しながらゆっくりとヴィジャヤナガラムに来た一方、午後9時半発のバスはほぼ途中停車なしでここまでやって来たようだ。このバスに乗ればヴィシャーカパトナムまで行ける。急いでバスに乗り込んだ。既に座席はなかったため、他の多くの席のない乗客がしているように、通路に座ることにした。運賃は31ルピーだった。

 何とか一眠りしようと、少しでも心地よい姿勢を編み出すために試行錯誤している内に、バスはヴィシャーカパトナムに到着した。時計は午前3時過ぎになっていた。ヴィシャーカパトナムは西ベンガル州コールカーターとタミル・ナードゥ州チェンナイを結ぶ重要な鉄道路線上にあり、バスよりも列車の便がよい。ここからは列車で移動することにした。

 ジャグダルプルからハイダラーバードへ行こうとしていたのは、最終目的地であるバンガロールへ行くためであった。ヴィシャーカパトナムまで来てしまえば、ルートにはいろいろな選択肢が生まれる。ここからハイダラーバードを経由してバンガロールへ行くこともできるし、チェンナイを経由することも可能だ。ちょうど駅にはチェンナイ行きのコロマンダル・エクスプレスが到着しようとしていた。だが、調べて見たところ、ヴィシャーカパトナム発バンガロール行きのプラシャーンティ・エクスプレスが午前10時40分にあった。この直通列車に乗るのが一番手っ取り早くて安上がりなのは明らかだ。だが、問題なのは寝台席が手に入るか否かである。現在はインドの学校の長期休暇期間なので、鉄道は非常に混雑する。駅の当日予約窓口で問い合わせてみたところ、やはりこの列車の寝台席も入手が不可能に近い状態であった。困っていたら、当日予約窓口の辺りにたむろっていたダフ屋風のおじさんが話しかけてきた。彼が言うには、プラシャーンティ・エクスプレスの席は入手不可能だが、その次の11時20分発の列車なら席が手に入るらしい。しかも「あと1席だけ残っている!急いでジェネラルチケットを買って来い!」と急かす。ジェネラルチケットとは、いわゆるただの乗車券で、座席の予約料などは含まれていないチケットのことだ。藁をも掴む思いでジェネラルチケットの窓口でバンガロールまでのジェネラルチケットを購入し(209ルピー)、再び当日予約窓口に戻って来ると、今度は350ルピーをよこせと言う。ジェネラルチケットと寝台席券の差額かと思って何も疑わずに350ルピーを渡した。しばらくすると今度はもう100ルピーよこせと言って来た。再び迷わずに渡した。だが、後から知ったところではこれらは全て駅員に渡す賄賂または自分のポケットに入れるための金で、差額でも何でもなかった。

 11時20分発の列車は、コールカーターのハーウラー駅を出て、ヴィシャーカパトナム、ヴィジャヤワーラー、ティルパティなどを経由してバンガロールの郊外にあるヤシュワントプルへ向かうハーウラー・ヤシュワントプル・エクスプレスであった。結局、午前3時から11時まで、ほぼずっと何もせずにプラットフォームのベンチに座って待っていたことになる。列車がプラットフォームに到着すると、ダフ屋はスリーパークラス(エアコンなしの寝台車)を管理するTC(チケット・コレクター=車掌)と話をつけ、「絶対に席は手に入るから」と言って、僕から謝礼として50ルピーをもぎり取った後、とりあえず寝台車両S3の7番の席に座っているように言って来た。その席はTC用の席であった。僕がS3の7番に座っていると、同じように座席のない乗客が数人その席に送られて来た。列車は発車し、やがてTCがやって来た。だが、TCは「ヴィシャーカパトナムで降りた乗客は1人もいなかった。だから空いた席はひとつもなかった。君に席を提供することはできない」と言って謝って来た。しかも、「私はこれだけしか受け取っていない」と言って250ルピーを返して来た。そしてその金を受け取ると、今度は「これで君と私の間には何の関係もなくなった。君はジェネラルチケットで寝台車両にいるから、ペナルティーを支払わなければならない」と言って、400ルピーを払えと要求して来た。一体ダフ屋に騙されたのか、このTCに騙されているのかよく分からないが、とにかくまんまと騙されたのは確かだった。

 僕は実は列車の移動があまり好きではない。列車よりもバスの方が好きだ。チケットが取れれば列車移動は何の問題もないのだが、正規のチケットなしに列車移動するには、賄賂を渡したり人脈を駆使したりいろいろ交渉したり、数々の難関を潜り抜けなければ安眠は保証されないからだ。しかも同じく席のない他のインド人乗客と争い合わなければならない。バスだったらこんなことはほとんどない。バススタンドに行けば、目的地へ行くバスが大体の場合すぐに見つかり、運賃を払って黙って座っていれば何の困難にも直面せずに目的地に到着する。ジャグダルプルからハイダラーバードまでバスで移動できさえすれば、ハイダラーバードからまたバスでバンガロールに簡単に行くことができた。だが、ナクサライトのせいで迂回を余儀なくされたばかりか、とんでもないトラブルに巻き込まれることになってしまった。だんだん列車を選んだことを後悔して来た。

 ジェネラルチケットで寝台車に乗っている場合、通常は寝台料金との差額+罰金を支払わなければならない。だが、それを支払いさえすれば、寝台車両に乗ることを許される。ただし、乗ることが許されるだけで、寝台席は保証されない。もしここで寝台席を諦めてセカンドクラス(2等座席車両)へ行けば、罰金や超過料金などは支払わなくていい。だが、セカンドクラスは座る場所もないくらいの満員である。また、ティルパティで数人の乗客が降りることが分かっていた。ティルパティに到着するのは夜の12時半ぐらいだという。終点のヤシュワントプルに到着するのが午前8時以降というから、少なくとも6、7時間は横になって睡眠できるという希望があった。昨夜もまともに寝ていないので、体力はかなり限界に達している。少しでも横になりたい。そこで、400ルピーを払ってティルパティまで肩身の狭い思いをして寝台車両の中で座って行くことにした。基本的にTCは車両を巡って検札をしているので、TCの座席は空いている。そこに座らせてもらって、列車がティルパティに辿り着くのをひたすら待った。

 ヴィジャヤワーラー駅には午後6時頃到着。アーンドラ・プラデーシュ州中部の沿岸寄りにあるヴィジャヤワーラーの近くには、アマラーワティーという仏教遺跡がある。同じくアーンドラ・プラデーシュ州の仏教遺跡ナーガールジュナコンダと併せていつか旅行してみたいと思っていた場所だ。今回は素通りすることになった。ヴィシャーカパトナムも一度は行ってみたいと思っていた都市だったが、観光する時間的余裕や気力はなく、今回はただの中継地になってしまった。今度はいつ来れるだろうか?ところで、ヴィシャーカパトナムではまだヒンディー語をよく聞いたが、ヴィジャヤワーラーまで来ると、乗って来る乗客の中にはヒンディー語が得意でない人が多かったように感じた。

 列車はヴィジャヤワーラーからそのままベンガル湾に沿って南下。ネッルールに着いたのが午後10時頃であっただろう。ネッルールで同じようにジェネラルチケットで寝台車に座っていた3人の乗客が降りたのをきっかけに、僕のいたコンパートメントでは就寝準備が始まった。他に寝台席のない乗客は2人いた。他の乗客が寝台に横になる中、僕たち3人はTCの席に腰掛けてうとうとしていた。とても辛い時間が続いた。

 ティルパティには午前1時頃にようやく到着した。インドはおろか、度々世界最大の聖地とまで言われるティルパティ。ここも一度は訪れたいと思っていた場所だ。このように訪れたかった場所を次々と素通りしていくのは、旅人のプライドを大いに傷つける。だが、今回は数年前からずっと旅行したいと思っていたチャッティースガル州を満喫することができたので、多くは望むまい。ヴィジャヤワーラーやティルパティにも近い将来また来れるだろう。

 ティルパティで数人が降りたことから、やっと僕も寝台が手に入った。だが、座っているときはあれほど眠気が襲って来たのに、いざ2日振りに横になるとやたらと目が覚めた。ジャグダルプルからここまでずっと雨模様であったため、外から吹き込んでくる風はとても冷たい。スリーパークラスなので毛布などは用意されておらず、荷物の中にも防寒具などは入っていない。てっきりチャッティースガル州から南インドにかけてかなり暑いと思っていたので、防寒具があろうはずがないのだ。そういえばこの時期に南インドに来たのは初めてかもしれない。雨季直前の時期はけっこう雨が降るので、案外南インドは涼しいことが分かった。多分晴天になると暑いのだろうが。そんなことを考えていたら、ようやく眠りに就けた。

 翌朝は午前9時頃にヤシュワントプルに到着した。ヤシュワントプルはバンガロールの郊外にある町であり、オートリクシャーなら50ルピーほどで中心街マジェスティックに行ける。チャッティースガル州からバスと列車を乗り継いでバンガロールまで地道に来たが、バンガロールに来た途端、まるで突然100年200年タイムスリップしたかのような印象を受けた。ついこの前まで、おっぱいほぼ丸出しの原始的なお婆さんたちが道を闊歩していたのに、バンガロールでは最新のファッションに身を包んだ色の白い女性たちが文明を感じさせる形で肌を露出させて颯爽と歩いていた。欧米や日本では、新しい時代の到来が古い時代の終わりを自動的に決定付ける傾向が強いが、インドでは異なる時代が共存し、同時進行している。新しい時代がやって来ても、古い時代がそれを巧みに吸収し、分別し、利用し、自らを適応させ、また距離を保ち、生き残ってしまう。それがインドの特徴であり、問題であり、病巣であり、強さでもあり、また面白いところだ。2日振りに寝て、狭くて寝心地の悪い寝台で6、7時間ぐらいしか眠っていないのに、バンガロールに降り立った心身はやたらと冴えていた。

5月26日(金) 旅行のまとめ

 数年前から楽しみにしていたチャッティースガル州旅行だったが、予想とはだいぶ違う印象を受けた州であった。

 まず、僕は勝手に、チャッティースガル州はどうしようもない田舎だと考えていた。チャッティースガル州出身の人とデリーで会ったことがなかったし、情報も限られていたので、てっきり今でもジャングルに覆われた州かと思い込んでいた。だが、チャッティースガル州は案外発展した州だった。その理由は、インド中央部の交通の要所であることが大きいと思われる。チャッティースガル州はウッタル・プラデーシュ州、ジャールカンド州、マディヤ・プラデーシュ州、オリッサ州、マハーラーシュトラ州、アーンドラ・プラデーシュ州と隣接しており、その関係で州を縦断する道路と、州を横断するコールカーター〜ムンバイーを結ぶ幹線は、バスやトラックの交通量が非常に多い。そしてその交差点に州都ラーイプルが位置している。

 また、チャッティースガル州は現代に入って初めて交通の要所との地位を確立したわけではない。古代はヴァーラーナスィーとラーメーシュワラムを結ぶ道路上にあったようで、やはり人の行き交いの多い地域だったようだ。そのため、同地ではいくつもの王国が興亡し、意外にも遺跡に恵まれた州となっている。玄奘が訪れた仏教遺跡まであるほどだ。また、州南部にはラーム王子の一行が住んでいたというダンダカの森があるが、それほど昔からの交通の要所だったならば、アヨーディヤーを追放されたラーム王子がチャッティースガル地方に流れて来たとしてもおかしい話ではないかもしれない。

 チャッティースガル州旅行は部族の村々を訪ねる旅を主体にしようと考えていた。だが、今回は全く部族の村を訪ねることはできなかった。その大きな原因は観光の整備の遅れ。州成立から6年。かなり満を持してチャッティースガル州に足を踏み入れたつもりだったが、それでもまだまだ観光客を受け容れる体制が整っていなかった。遺跡の整備は徐々に進んでおり、自然観光地もいくつか魅力的なスポットが州内に存在するが、チャッティースガル州で最もユニークな観光資源となりそうな部族は、全く観光に利用されていないと言っていい。部族たちの作る手工芸品はだいぶ有名になっているものの、部族を訪れるツアーなどはローカルレベルでは確立されていない。観光客訪問用のモデル村などを指定したり、部族に詳しいガイドを養成したりしないと、なかなか個人旅行者が部族の村を訪れることは難しい。どこに部族が住んでいるのか、どの部族がユニークな文化を持っているのか、部族の村を訪れるにあたっての注意点は何なのか、部族の写真を撮っていいのか(写真撮影をタブー視する部族もいる)、部族が集う定期市はいつなのか、などの情報がないと1人では部族の村へ行くことが困難である。また、部族側もまだ観光で収入を得る準備が出来ていない。また、グジャラート州カッチ地方の部族たちは美しい衣装を身に付けていてとても絵になったが、僕が見た限り、チャッティースガル州の部族はみすぼらしい格好をした人が多く、その点で少し不利かもしれないとも思った。また、ナクサライト問題が部族観光の最大のネックであろう。タクシーのドライバーたちはナクサライトを恐れてジャングルの奥地へ行こうとしてくれない。部族を観光業に巻き込むことがいいことか悪いことは別にして、部族をテーマにチャッティースガール州を個人で旅行するのは、今のところ困難だと結論づけざるをえない。

 部族ツアーがどうも難しそうだと分かったので、自動的に観光の主食は遺跡巡りとなった。今回訪れた主な遺跡は、州中央部以南のスィルプル、ボーラムデーオ、ターラーなどであったが、それより北にもディーパーディーヒ、ラームガル、ジャーンジギールなど、いくつか面白そうな遺跡が点在している。惜しむらくは保存状態のいい遺跡があまり残っていないこと。見る者を圧倒する迫力がかろうじてある遺跡は、ボーラムデーオぐらいだ。また、先史時代から有史時代にかけての壁画も州内でいくつか見つかっているようで、もしマディヤ・プラデーシュ州のビームベートカーのように保存状態のいいものがまとまって残っているならば、観光地として開発できるかもしれない。壁画は特にラーイガル周辺に多いようだ。

 チャッティースガル州は自然観光地としてのポテンシャルも高い。チャッティースガル州はインドの森林の12%を保有しており、州内には3つの国立公園と11の野生動物保護区がある。そして、「インドのナイアガラ」の異名を持つチトラコート滝や、「ワールドフェイマス」とやたら喧伝するコータムサル洞窟は、インド内外の観光客を呼び込むだけの魅力があるだろう。ただし、チトラコート滝は雨季中〜直後に訪れるべきなのに対し、コータムサル洞窟はその時期は閉鎖されている。自然モノの観光地は季節限定であることがあるので注意が必要だ。また、バスタル地方は高台にあるため、気候が少しだけ涼しいことも特筆しておく。

 チャッティースガル州は、お土産には事欠かないであろう。バスタル地方の手工芸品は国内外で名声を獲得しており、お土産に最適だ。僕はドークラー(ベルメタル)を一押しするが、鉄工芸品やテラコッタにもユニークなものが多い。ただし、全て手作りであるので、質にはばらつきがある。質の高い工芸品は高級店でなければ手に入らないだろう。

 チャッティースガル州の大きな欠点のひとつは交通機関だ。観光地の整備は徐々に進んでいるが、観光地まで行くための交通機関の整備はとても立ち遅れている。今のところ、タクシーをチャーターして行くしかない場所が多いし、バスで行こうとすると1日に1ヶ所しか見れなくなってしまうなんていうこともある。タクシー運賃も他の州に比べて高めだったように感じた。ボーラムデーオとターラーをタクシーで回ったときは2600ルピーも払わされたが、いくらエアコン付きの車だったからと言って、高すぎはしないか?ラーイプルで高いタクシーを使いまくってしまったために、その後節約を余儀なくされてしまった。また、それとは別に、ナクサライトのテロによる道路の封鎖や鉄道の運行休止には困らされた。

 最新のニュースによると、ターター鉄鋼がバスタル地方に工場町を建設することが決定したようだ。ターター鉄鋼は既にジャールカンド州のジャムシェードプルに工場町を建設しているが、それと同じような町がバスタルにできるらしい。州政府は、ターターの新たな町が地域の発展に大いに貢献することを期待している。今のところバスタル地方はどこまでも続く田園風景や森林が美しいのどかな田舎であるが、ターター鉄鋼の進出はバスタルを大きく変えてしまうかもしれない。チャッティースガル州はこれからどうなって行くのだろうか?


5月29日(月) Fanaa

 今日はPVRバンガロールで新作ヒンディー語映画「Fanaa」を見た。

 題名の「Fanaa」とはスーフィズムの専門用語で、自我の消滅と神との合一を達成した「消融」の状態を表す。ヒンドゥー教のモークシャ(解脱)や仏教のニルヴァーナ(涅槃)などと似た言葉である。転じて、文学上ではこの言葉は「愛のために命を捧げること」「愛における破滅」を指す。

 プロデューサーはアーディティヤ・チョープラー、監督は「Hum Tum」(2004年)のクナール・コーリー、音楽はジャティン・ラリト。キャストは、アーミル・カーン、カージョール、リシ・カプール、タッブー、キラン・ケール、シャイニー・アーフージャー、ラーラー・ダッター、シャラト・サクセーナー、サティーシュ・シャーなど。

Fanaa
 盲目のカシュミール人女性ズーニー・アリー・ベーグ(カージョール)は、1月26日の共和国記念日式典でパフォーマンスをするため、両親(リシ・カプールとキラン・ケール)を故郷に残し、友人たちとデリーに来ていた。デリー滞在中のツアーガイドを務めていたのが、キザな詩人、リーハーン・カードリー(アーミル・カーン)であった。ズーニーはリーハーンに恋するようになり、パフォーマンスが終わった後に彼に告白する。だが、リーハーンは快い返事をしなかった。それでもリーハーンは彼女にデリー滞在の最後の夜を人生で最も素晴らしい時間にすることを約束し、彼女と一夜を過ごす。翌朝、ズーニーはプラットフォームでリーハーンと別れを告げてカシュミールへ去って行く。泣き崩れるズーニー。だが、リーハーンは列車の中まで乗り込んで来ていた。リーハーンはズーニーを連れて列車を降り、そのまま2人は結婚することにした。ズーニーの両親も急遽デリーに来ることになった。【写真は、アーミル・カーン(左)とカージョール(右)】

 また、ズーニーはデリーの病院で目の手術を受けることになった。医学の進歩により、ズーニーの目は治療が可能であることが分かったからである。結婚、そして視力の回復。ズーニーの身に次々と訪れる幸せ。しかし、その幸せは不幸のどん底の予兆に過ぎなかった。

 ズーニーが目の手術をしている間、大統領官邸近く、共和国記念日式典が行われた会場で爆弾テロが発生した。ズーニーは、そこの警備員のスィク教徒ジョニー・グッド・スィンと仲良くなっており、目の回復と結婚を一緒に祝うため、リーハーンに彼を呼びに行かせていた。リーハーンは爆発に巻き込まれ、死んでしまう。視力を回復したズーニーの目の前には、初めて見る父親と母親の顔があったが、それと同時に彼女は、リーハーンの遺体の確認作業をさせられることになった。遺体はグチャグチャになっており、判別は不可能だった。しかし、持ち物は確かにリーハーンのものだった。ズーニーは、その顔を見ることなしに夫を失ってしまった。

 それから7年後・・・。インドとパーキスターンからカシュミールの完全独立を要求するカシュミール分離派IKFのテロが過激さを増していた。インド政府テロ対策本部(シャラト・サクセーナーやタッブー)は、7年前からIKF所属のあるテロリストを追っていた。その男こそリーハーンであった。インド政府は、IKFが核兵器を入手したとの驚愕の情報を得た。だが、その核兵器は「トリガー」がなければ利用は不可能である。トリガーはインド各地の軍施設に保管されていた。政府は、そのトリガーをデリーに集める命令を出す。

 カシュミールの駐屯地にもひとつのトリガーが保管されていた。そのトリガーをデリーに護送する役割を追った部隊(シャイニー・アーフージャーなど)の中に、インド軍兵士になりすましたリーハーンの姿があった。リーハーンはヘリによるトリガー護送中に兵士たちを毒殺してトリガーを奪取し、パラシュートで雪山に着地すると、逃走を始めた。追っ手をかわしながら仲間との合流地点を目指したが、腹と腕に深い傷を負ってしまう。それでも何とか追っ手を振り切ることに成功したリーハーンは、雪山の中にあった一軒家の戸を叩く。中から出て来たのは、なんとズーニーであった。しかも彼女には、リーハーンという息子までいた。それを見てリーハーンは意識を失ってしまう。

 ズーニーの看病により一命を取り留めたリーハーンは、ズーニーの母親が数年前に死んだこと、リーハーンという名の男の子は自分の息子に間違いないことを知り、苦悩する。この家を逃げ出そうにも、外は猛吹雪で身動きが取れない状態だった。IKFの仲間とも連絡がつかなかった。また、ズーニーはその男に何か懐かしい感覚を感じ始める。リーハーンはその家で数日過ごす内に次第にズーニーや息子と打ち解けるようになり、遂にズーニーや父親に自分がリーハーンであることを明かす。最初はその事実を受け容れられなかったズーニーだったが、立ち去ろうとする彼を見て思わず抱きしめる。改めてリーハーンとズーニーの結婚が父親の前で行われた。

 だが、TVでリーハーン指名手配の報道が流されたことにより、リーハーンがテロリストであることがばれてしまう。いち早く気付いたのは父親で、彼を警察に引き渡そうとするが、リーハーンは父親を崖から落としてしまう。ズーニーもすぐにリーハーンの正体に気付き、息子を連れて逃げ出す。ズーニーはテロ対策本部と連絡を取って、リーハーンの居場所を教える。リーハーンはズーニーに弁解するが、ズーニーは聞かなかった。やがてそこには、IKFの仲間がやって来る。リーハーンはトリガーを持って仲間のところへ行こうとする。だが、ズーニーは彼を銃で撃ち、そして彼を抱きしめて涙を流しながら最期を看取る。

 クナール・コーリー監督の前作「Hum Tum」とは打って変わったシリアスな作品。前半は洒落たセリフのやり取りとボーイ・ミーツ・ガール的な明るい展開から「Hum Tum」調が見受けられるが、後半は前半の雰囲気を忘れてしまうくらいどんどん沈んで行く。後味もいいとは言えなかった。「Fanaa」は2006年の期待作の1本であり、興行的にもヒットしそうだが、脚本、映像、編集などに雑な部分が散見され、細かい部分で首を傾げざるをえない部分がいくつかあった。

 この映画は、題名の「Fanaa」が暗示するような破滅的恋愛を描いているとは言えない。むしろ、男女の恋愛と国家への愛の葛藤を描いた映画と考えた方がいいだろう。映画の冒頭では、イクバール作詞の愛国歌「Hindustan Humaara」が流れたり国旗掲揚のシーンがあったりするし、国歌「Jana Gana Mana」に関するシーンもあった(カシュミール分離派テロリストのリーハーンは、インド国歌を歌うことができない)。そして、冒頭のシーンにおけるズーニーの母親のセリフ、「正しい道と間違った道を区別するのは難しいことではない。2つの正しい道からより正しい道を選ぶこと、そして2つの間違った道からより間違っていない道を選ぶこと、この2つが人生を決定する」は、そのままクライマックスのズーニーがリーハーンを銃で撃つシーンにつながって来る。愛する夫を匿うことと、国の脅威となるテロリストを殺すことは、どちらも正しいことだ。また、愛する夫を殺すこと、国の脅威となるテロリストを匿うことは、どちらも間違ったことだ。ズーニーは、その2つの正しい道、もしくは2つの間違った道から、どちらかを選ばなければならなかった。そして彼女はリーハーンに向けて引き金を引いた。愛国主義映画というバイアスからこの映画を見るならば、主人公はカージョール演じるズーニーであり、この映画が観客に送るメッセージは、「いくら愛している人でも、その人が国家に対して危険人物であったら、匿うべきではない」ということになる。そして敢えて都合よく解釈するならば、現代インドにおける「ファナー」とは、己を捨てて国に尽くすこと、ということか。このような見地に立って「Fanaa」を見ると、政治的メッセージが色濃すぎて、おそらくその評価はとても低くなることだろう。それに、インドではもし自分の愛する人がテロリストだと分かっても、そのまま愛し続ける方が普通だと思う。それこそが「ファナー」ではないのだろうか?テロをやめるように説得したりすることはあれど、いきなり逃げ出したり、警察に引き渡そうとしたり、射殺したりするのは現実的ではない。よって、終盤のズーニーの行動はあまり理解ができなかった。一般に何らかの形でインド政府に不満を持っているカシュミール人が、インドの統一性を主張したり、インドのために尽くすようなプロットも違和感があった。

 だが、アーミル・カーン演じるリーハーンに感情を移入させて見ると、もう少し違った見方もできる。リーハーンは初めから、テロリストと普通の女の子の恋愛は不可能だと知っていた。だからズーニーの告白を断ったのであり、彼女のデリー滞在最後の日に現れなかったのだ。しかし運命は2人を結びつけてしまった。カシュミールへ去ろうとするズーニーをデリーに引き留めたのはリーハーンであったが、やはりテロリストとしての義務感から、大統領官邸爆弾テロのついでに自分の死の偽装工作をし、ズーニーに自分を無理矢理忘れさせるしかなかった。「ファナー」を「自己の破滅」と定義するなら、この偽装工作は「第1のファナー」である。

 しかし7年後、リーハーンはズーニーと運命の再会を果たしてしまう。そして、彼女が今でも自分のことを愛しているばかりか、自分の息子まで生んでいたことが分かってしまう。最初はその現実を拒絶するリーハーンであったが、次第に現実を受け止め、遂には積極的に7年前の失われた幸福を取り戻そうとする。そして自分がリーハーンであることも明かしてしまう。だが、一度テロリストの道を歩んだ者に安住の地はなかった。一方で政府当局の捜索が強化され、他方でテロリスト仲間たちからのプレッシャーがかかった。核兵器のトリガーを仲間に届けたら、テロリストを辞めてズーニーと幸せな家庭を築くことを一旦は決意するが、しかし自分がテロリストであることがズーニーにばれ、しかもテロ対策本部の捜査官たちが間近に迫った状況ではどうすることもできなかった。リーハーンを射殺したのはズーニーであったが、それはリーハーンの自殺でもあった。愛する人に愛する人の目の前で殺されること、それこそがリーハーンの「第2のファナー」であり、そして彼が選んだ「究極の恋愛」であった。それは、死の間際に彼がズーニーに言うセリフ、「俺がお前を愛しているくらい、お前は俺を愛してくれていないな」にも表れている。破滅的恋愛において、死こそが最大の愛の証なのである。

 映画の最大の転機は、リーハーンがテロリストであることが発覚するインターミッション直前であろう。だが、心情的に最も丁寧に描かなければならないのは、7年後にリーハーンがズーニーと再会し、自分がリーハーンであることを明かすシーンだ。そのために、ズーニーは盲目だったためにリーハーンの顔を知らないという巧妙な伏線が張られていた。だが、リーハーンはちょっといい雰囲気だったアンタークシャリー(歌しりとり)の後に、かなり唐突にズーニーに正体を明かしてしまった。しかも、それをさっきまで酔っ払っていたはずの父親が盗み聞きしているという、まるで低予算TVドラマのような展開が続き、残念であった。「Fanaa」の最大の欠点はこの部分に尽きるであろう。

 この映画は、カージョール復帰作としても重要である。90年代後半のボリウッドで大活躍したカージョールは、アジャイ・デーヴガンとの結婚を機に銀幕から遠のいていた。最後に映画に出演したのは「Kal Ho Naa Ho」(2003年)の特別出演。本格的出演に限定すると、最後は「Kabhi Khushi Kabhie Gham」(2001年)になる。よって、5年振りの復帰と言っていいだろう。もっとも、去年あたりからアジャイ・デーヴガンと共にTVCMに出演したりしていたので、インド在住の人々にとってはカージョールはそれほど久し振りでもない。今回盲目のカシュミール人の女の子を演じたカージョールは、改めて高い演技力を証明したと言っていい。「Black」(2005年)で同じく盲目の少女を演じたラーニー・ムカルジーと比べて、自然な演技が光っていた。

 数年に1本の映画にしか出演していなかったアーミル・カーンだが、今年は既に2本目の出演作である。今回演じた役柄には、40歳を過ぎた彼はもはやおっさん過ぎるような気もしたが、そこは演技力でカバーしていた。だが、リーハーンのキャラクター設定の詰めが甘かったため、その演技力が生かされていなかった部分があった。特に終盤、リーハーンがトリガーを奪って逃げたズーニーを追って雪道を走っているシーンは、まるでターミネーターが迫ってくるような怖さがあったのだが、いざズーニーの前に表れたリーハーンは何だか間抜けな表情をしていた。この追いかけシーンで完全にリーハーンは悪役になってしまったのかと思ったが、やっぱり主人公なのでその後の行動との脈絡が少なくなってしまっていた。これらは演技力云々ではなく、脚本の問題であり、アーミルもどういう表情をしたらいいのか分からない場面だっただろう。

 リシ・カプール、キラン・ケールなどはいい演技をしていた。タッブーやシャイニー・アーフージャーはあまり活かされていなかった。前半でラーラー・ダッターが一瞬だけ特別出演していたのだが、全くの蛇足であった。アイテムナンバーが用意されていたけどカットされてしまったとか、そういう類のミスであろうか?

 音楽はジャティン・ラリト。口笛のメロディーが印象的な「Chand Sifarish」は、クトゥブ・ミーナールのミュージカル・シーンで使われていた。アーミル・カーンは肩を揺らすだけの脱力系踊りを踊っていた。この歌は「Fanaa」のタイトルソング扱いとなっている。後半、リーハーンとズーニーの7年後のロマンスのシーンに流れる「Mere Haath Mein」も、「僕の手に君の手、それだけで天国の全てが僕のもの・・・」という美しい歌詞の歌である。「Fanaa」のCDは買いであろう。

 「キザで詩人なツアーガイド」のリーハーンが大活躍する前半は、ウルドゥー詩のオンパレードとなる。よって、ウルドゥー語彙と詩が理解できるだけの語学力がないと付いていくのはつらいであろう。映画中、最も重要な役割を果たす一節は以下の通りである。ズーニーは母親からこの詩を聞き、そしてリーハーンに聞かせる。
Tere Dil Mein Meri Saanson Ko Panah Mil Jaaye
Tere Ishq Mein Meri Jaan Fanaa Ho Jaaye


あなたの心に安息できますように
あなたの愛に破滅できますように
 他にも美しい詩がいくつも出て来て、映画の詩情を盛り上げている。「Mere Haath Mein」から2つの詩を抜粋。
Rone De Aaj Humko, Tu Aankhein Sujane De
Baahon Mein Le Le Aur Khud Ko Bheeg Jaane De
Hai Jo Seene Mein Qaid Dariya, Woh Choot Jaayega
Hai Itna Dard Ki Tera Daman Bheeg Jaayega


今日は泣かせてくれ、涙を流させてくれ
腕に抱いてくれ、そして涙に沈ませてくれ
胸に閉じ込められた河、堰を切って流れ出すだろう
これだけの痛み、お前のスカートを濡らすだろう

Adhoori Saans Thi
Dhadkan Adhoori Thi
Adhoore Hum
Magar Ab Chand Poora Hai Falak Pe
Aur Ab Poore Hain Hum


不完全な息を吐いていた
鼓動も不完全だった
そして不完全な俺たち
でも今は月は満ちている、天空に
そして今、俺たちは完全だ
 アクション・シーンはハリウッドと比べても遜色のないものがいくつかあった。特にリーハーンがトリガーを奪ってヘリコプターから飛び降りるシーンはとても迫力があった。だが、ズーニーの父親が崖から落ちるシーンはちょっと稚拙だった。ヘリコプターがやたら炎上して墜落するのもやり過ぎだと思った。

 リーハーンがズーニーらのツアーガイドを務める前半では、デリーの観光名所や有名スポットがかなり網羅されていた。クトゥブ・ミーナール、フマーユーン廟、トゥグラカーバード砦、大統領官邸、インド門、鉄道博物館、メディカル・フライオーバーなどなど。また、カシュミールのシーンの大半はポーランドで撮影されたようだ。当初はジャンムー&カシュミール州ロケが予定されていたようなのだが、テロを恐れるカージョールが難色を示したらしい。エンド・クレジットから察するに、マナーリーでも部分的にロケが行われた可能性がある。

 現在プラネットMなどの店舗では「Fanaa」グッズが売られている。僕が見たのはマグカップと「赤唐辛子ペンダント」だけであるが、他にもあるかもしれない。「赤唐辛子ペンダント」は、前半でツアーガイドのリーハーンが身に付けていたものだ。だが、特にデザイン的に面白味があるわけでもなく、ストーリー上重要な役割を果たした小道具というわけでもなく、しかも225ルピーもするので、買う価値は限りなくゼロに近い。


赤唐辛子ペンダント
どちらかというともうひとつの短い方のペンダントの方が
ストーリー上目立った活躍をしていた

 「Fanaa」はインド映画には珍しいアンハッピーエンドの映画である。愛国主義的臭いもプンプンするが、決してそれだけではない映画だ。少し雑な部分もあるが、映画館まで見に行く価値のある映画だと言える。美しい雪山の風景は、酷暑期向け避暑用映画としての付加価値もあるだろう。映画は丸々3時間あるので、気合を入れてみていただきたい。

5月31日(水) Ankahee

 今日はガルダ・モールのINOXで、5月19日から公開のヒンディー語映画「Ankahee」を見た。

 「Ankahee」とは「語られていない」という意味。監督はヴィクラム・バット、音楽はプリータム。キャストは、アーフターブ・シヴダーサーニー、アミーシャー・パテール、イーシャー・デーオール、リシター・バットなど。

Ankahee
 幸せな家庭を築いていたムンバイー在住の医者のシェーカル・サクセーナー(アーフターブ・シヴダーサーニー)はある日、リストカットして病院に運び込まれてきた元ミス・ワールドで女優のカーヴィヤー・クリシュナ(イーシャー・デーオール)の治療を受け持つことになり、人生が変わってしまう。カーヴィヤーの孤独に同情したシェーカルは、友人の忠告を聞かずにどんどんカーヴィヤーにのめり込んでしまい、遂にはカーヴィヤーの熱烈な求愛に負ける形で不倫関係となってしまう。【写真は、イーシャー・デーオール(左)とアーフターブ・シヴダーサーニー(右)】

 常にメディアの注目を集めるカーヴィヤーの新しい恋人が世に知れ渡るまで時間はかからなかった。すぐにシェーカルがカーヴィヤーと不倫していることは、シェーカルの妻ナンディター(アミーシャー・パテール)や一人娘のシーナーにも知れてしまう。ナンディターはシェーカルと問い詰めたり懇願したり、カーヴィヤーに会いに行ったりして何とか家庭を守ろうとするが、結局シェーカルは家を出てカーヴィヤーと同棲するようになってしまう。

 だが、カーヴィヤーは決して幸せになれるタイプの人間ではなかった。彼女の精神はシェーカルを手に入れる前も手に入れた後も大して変わらなかった。カーヴィヤーは常に強引な形で幸せを追い求めるあまり、現在の幸せを楽しめない人間だった。シェーカルはカーヴィヤーに言われてナンディターと離婚までしたが、それでもカーヴィヤーの疑心暗鬼と嫉妬は収まらなかった。とうとう切れたシェーカルは、カーヴィヤーに対して「お前は狂っている!」と言い渡す。それを聞いたカーヴィヤーはシェーカルの目の前で拳銃自殺してしまう。

 全てを失ったシェーカルは、ナンディーターのもとに戻る。だが、ナンディターは既に結婚前にしていた仕事を再び始めることに決めており、シーナーを連れてプネーに引っ越すところであった。シェーカルはシーナーが出て行った後の家に残り孤独のまま暮らす。

 16年後・・・。シェーカルは死の床に就いていた。シェーカルは、プネーから娘のシーナー(リシター・バット)を呼び、人生の中で起こったことを書き記した本を渡す。シーナーがそれを読み終わり、父親と抱擁し合った翌朝、シェーカルは死んでいた。 

 社会的成功を手にしながら自己中心的な性格のせいで私生活での幸せを手に入れることができない女優と、彼女に関わったために人生が狂ってしまった医者の話。プロット自体に目新しい部分はないが、ある事実を知ると、この映画は断然面白くなる。

 この映画は、ヴィクラム・バット監督と、ミス・インディア&ミス・ユニバース女優スシュミター・セーンの不倫という実際にあったスキャンダルをベースにしている。バット監督は、妻子持ちでありながらスシュミター・セーンと関係を持ち、遂には離婚まで行ってしまった。つまり、この「Ankahee」はバット監督の自伝的映画なのだ。よって、題名には、「今まで語られなかったスシュミター・セーンとの不倫を巡る物語」という意味が込められている。また、冒頭には、「私の娘、クリシュナーに捧げる」との一文が載っている。バット監督が不倫をしたとき、一人娘のクリシュナーは2歳であった。離婚によってもっと影響を受けたのがクリシュナーであるとの認識から、バット監督はこの映画を娘に捧げたようだ。

 もうひとつ面白い事実がある。シェーカルの妻ナンディターを演じているアミーシャー・パテールは、バット監督の現在のガールフレンドだということだ。過去の不倫をテーマにした映画を撮るのに、現在のガールフレンドを妻役に起用するとは、かなり複雑なことをしたものだ。

 不倫を描いた映画はもはやボリウッドでは新しくなく、また社会的には成功を収めていても私生活では恵まれていない人の実態を描いた映画も古今東西枚挙に暇がないので、この映画にはそれほど目新しい部分はない。だが、シェーカルとカーヴィヤーの不倫が発覚してから起こる一連の出来事はとてもリアルであった。シェーカルとナンディターが娘のシーナーの通う幼稚園の園長先生に呼び出されて「両親の離婚は子供に悪影響を与える」と説得されたり、ナンディターがカーヴィヤーの家を突然訪ねてシェーカルを返すよう懇願したり、またナンディターがシェーカルのオフィスを突然訪ねて「自分はカーヴィヤーのようにきれいじゃないけど、努力することはできます。一度だけチャンスを下さい」と泣きついたり、カーヴィヤーがシェーカルを愛するあまり、いろんな人を邪推して墓穴を掘って行ったり、それらのリアルな描写は観客の感情に訴えかけるものがあった。

 しかしリアルでなかったのはシェーカルの心情描写である。シェーカルは、医者としてカーヴィヤーを助けようとしているんだと自分で自分を言い聞かせながら、カーヴィヤーの魅力に引き込まれていってしまう。その点はとても説得力があるのだが、シェーカルがカーヴィヤーを愛してしまう理由がちょっと掴めなかった。カーヴィヤーがミス・ワールドになるくらいの美人だから、というだけではちょっと弱い。また、心情の変化も丁寧に描写されていなかった。シェーカルがゴアに出張に行ったときにカーヴィヤーも追いかけてきて、そこから不倫が始まってしまうわけだが、その直前、またその後の展開からシェーカルに感情移入することができなかった。

 この映画のメインは何と言ってもイーシャー・デーオールであろう。ミス・ワールドを獲得できるほどの美貌を持った女優とはとても思えないが、美貌を鼻に掛けて周囲からどんどん孤立していく様は真に迫っていた。冒頭、リストカットして病院に運び込まれ、シェーカルと初めて顔を合わすシーン、また終盤、拳銃を頭に突きつけるシーン、どちらも涙を流しながらも相手を圧倒するパワーが目にこもっており、迫力があった。

 アーフターブ・シヴダーサーニーも落ち着いた演技のできる俳優として定着してきたようだ。だが、16年後のシーンのおじいさんメイクはあまりうまくなかった。僕はアミーシャー・パテールのことをボリウッド一の大根女優だと思っているのだが、この映画の演技はまあまあだと言える。まだおかしな演技が抜けていないが、この前見た「Tathastu」(2006年)に比べたらだいぶマシだ。リシター・バットは特別出演扱い。ほとんど出番はなかった。

 音楽はプリータム。「Ankahee」のCDは買っていないし、映画中印象に残った曲もなかったが、映画の雰囲気を壊すような挿入歌はなかった。

 「Ankahee」は、映画としては中の下ぐらいであろうが、ボリウッドの裏事情に詳しい人やゴシップ好きな人ならけっこう楽しめる映画と言えるのではなかろうか?



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