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4月6日(木) Shaadi Se Pehle |
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今日はラーム・ナヴミー(ラーム王子の誕生日)で祝日であった。来週もマハーヴィール・ジャヤンティー(ジャイナ教の教祖の誕生日)やグッド・フライデー(キリストの命日)など祝日が続き、ゴールデン・ウィークのような状態となっている。連休はどこの国でも大きなビジネス・チャンス。本日木曜日から変則的な形で(通常は金曜日が封切日)、新作ヒンディー語映画が3本同時に公開された。今日は、PVRプリヤーでその内の1本、「Shaadi
Se Pehle」を見た。
「Shaadi Se Pehle」とは「結婚の前に」という意味。題名からは婚前交渉の是非がテーマになっているのかと勘ぐってしまうが、そうではなかった。プロデューサーはスバーシュ・ガイー、監督はサティーシュ・カウシク、音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、アクシャイ・カンナー、アーイシャー・ターキヤー、マッリカー・シェーラーワト、スニール・シェッティー、アヌパム・ケール、アーフターブ・シヴダーサーニー、ラージパール・ヤーダヴ、ボーマン・イーラーニー、グルシャン・グローヴァーなど。
Shaadi Se Pehle |
アーシーシュ(アクシャイ・カンナー)は、恋人のラーニー(アーイシャー・ターキヤー)と結婚するためにキャリアアップに励み、大物CM監督にのし上がった。ラーニーの親や叔父(アヌパム・ケール)も結婚を承諾し、めでたくアーシーシュとラーニーの婚約式が行われた。ところがその次の日、アーシーシュは医者(ボーマン・イーラーニー)の言葉を勘違いし、癌で余命1年と思い込む。アーシーシュはラーニーを結婚早々未亡人にしたくなかった。だが、ラーニーに真実を告げたら、彼女は意地でも結婚すると言い張るだろう。そこで考え抜いた末、悪い男を演じてラーニーに嫌われるようにし、結婚をキャンセルさせる作戦を取る。【写真は左から、マッリカー・シェーラーワト、アクシャイ・カンナー、アーイシャー・ターキヤー】
アーシーシュはそのために、モデルのサーニヤー(マッリカー・シェーラーワト)を利用することに決める。アーシーシュはラーニーにサーニヤーのことを「昔の恋人」だと告げ、しかも今でも関係が続いていると思わせる。それを見たラーニーはとうとうアーシーシュに婚約破棄を言い渡す。悲しむラーニーを一生懸命慰めていたのは、アーシーシュの悪友ローヒト(アーフターブ・シヴダーサーニー)であった。ローヒトもラーニーのことが好きだったため、そのままラーニーの心を掴み、とうとう2人は結婚することになる。
一方、サーニヤーはアーシーシュのことを本気で好きになっていた。サーニヤーはアーシーシュを兄に紹介する。ところがサーニヤーの兄は、マレーシアを拠点とする国際的マフィア、アンナー(スニール・シェッティー)であった。アンナーは妹を溺愛しており、アーシーシュのことも気に入る。そしてアンナーはアーシーシュとサーニヤーの結婚を勝手に決めてしまう。
勝手にサーニヤーとの結婚を決められ、しかもローヒトとラーニーが結婚することを聞き、居ても立ってもいられなくなったアーシーシュは、サーニヤーに、自分が癌であり、結婚できないことを告白する。それを知ったアンナーは、医者を呼んでアーシーシュが本当に癌か確かめさせる。医者はアーシーシュが癌でないことをはっきりと述べる。
自分はまだ余命があることを知って喜んだアーシーシュは、アンナーのアジトから抜け出し、ラーニーの元に駆けつける。そこではローヒトとラーニーの結婚式が行われていた。アーシーシュは、自分の勘違いから起こったことを全て打ち明けるが、なかなか信じてもらえなかった。そこへアンナーの手下がやって来て、アーシーシュを連れ去って行く。アンナーはアーシーシュとサーニヤーの結婚式を強行しようとする。だが、そこへ敵のマフィア(グルシャン・グローヴァー)が乱入してきて大混乱となる。それに乗じてアーシーシュとサーニヤーは逃げ出す。
サーニヤーがアーシーシュを連れて行った先では、ローヒトとラーニーが待っていた。ローヒトとサーニヤーは偶然から電話で会話をし、アーシーシュとラーニーのことを相談し合っていたのだった。そして2人を引き合わせる場所を決めていたのだった。アーシーシュとラーニーは抱き合う。 |
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典型的インド映画。僕は「典型的インド映画」という言葉をいい意味でも悪い意味でも使うが、この映画にはいい意味で使いたい。基本的にはコメディーだが、恋愛あり、アクションあり、色気あり、感動ありの、方程式通りの良作であった。そしてヒメーシュ・レーシャミヤーの音楽がプラス要素となっている。
まずは突然、アクシャイ・カンナー演じるアーシーシュが観客に向かって自己紹介するところから始まる。「今まであなたたちはいろいろな恋愛小説を読んだでしょうし、恋愛映画を見たでしょう。自分で恋愛もしたでしょう。ひとつ、私の恋愛話を聞いて下さい。」机の上には、「Devdas」(2002年)や「Kal
Ho Naa Ho」(2004年)のDVDが置いてあるのが見える。そして彼は言う。「私は、結婚の前に婚約を破棄しようとしています。」この映像は、実は自分が癌であると発覚し、ラーニーとの婚約を破棄しようとする前に、真実を残すために撮影していたビデオであった。そこから一旦、アーシーシュとラーニーの出会いから婚約までが軽快な語り口で語られ、観客を爆笑させながら映画の世界にグイグイ引き込む。非常にうまい導入部だったと思う。
アーシーシュは、悪い男を演じてラーニーに嫌われることに決め、そこから本格的にストーリーが回り始める。マッリカー・シェーラーワト演じるサーニヤー(おそらくテニス選手サーニヤー・ミルザーから取ったのだろう)が登場し、サーニヤーの兄アンナーが加わることにより、爆笑の波は一応の頂点を迎える。そこからは少し中だるみとなり、結末も上出来とは言えなかったが、十分に笑わせてくれるコメディー映画だった。
もし脚本と編集にケチをつけるとすれば、アーシーシュの癌が実は勘違いであったということは、伏線を張るだけに留めておいて、終盤までばらさないでおいた方がよかったと思う。この映画で最も優れていたのはダイアログであろう。セリフの隅々まで笑いのネタが詰め込まれている。ヒンディー語が理解できないと理解できない、笑えない部分が多いのが、日本人観客には難点か。
アクシャイ・カンナーは久々に見た気がする。やたら前髪が気になる髪型をしていたが、けっこうコメディーもできる俳優だと少し見直した。アーイシャー・ターキヤーは少し太ってしまってフグみたいな顔になってしまった。彼女はこの映画のヒロインにも関わらず、見せ場はあまりなかった。どうしても観客の目は、「セックスシンボル」マッリカー・シェーラーワトの方に目が行ってしまう。マッリカーは以前に比べてだいぶ大人っぽい顔つきになり(実はけっこう年は行ってるようだが)、演技も見違えるほどうまくなったような気がする。マッリカーはこの映画の中で数々の名セリフを残す。「短い人生で長い夜を過ごしたいなら、私を呼んで」、「私は全インドにキスの仕方を教えることができるわ」、「You're
hot, very hot, forget me not」などなど。マッリカーはもしかして大女優の器かもしれない。ただし、派手なセクシーシーンは今回はない。
脇役のコメディー俳優陣も元気だった。ラージパール・ヤーダヴは、おかしな詩を常に口ずさんでいる変人詩人役。ボーマン・イーラーニーはマフィアのドンにも動じない挙動不審の医者役。アヌパム・ケールは真面目なのか不真面目なのかよく分からないターウー(叔父さん)役。グルシャン・グローヴァーは娘婿の仇を取るためにアンナーを追いかけるクレイジーなマフィア役。そしてすっかり脇役出演が定着してしまったスニール・シェッティーは、「アンナー、チャウビース・ガンテー・チャウカンナー(俺の名はアンナー、24時間用心深いぜ)」が口癖のマフィアのドン役。そしてそれらの脇役が映画の本筋と調和していたのが見事であった。
ヒメーシュ・レーシャミヤー作曲の「Shaadi Se Pehle」のサントラは現在ヒット中。最も人気のあるのは「Bijuriya」という曲だ。この曲は映画中で一瞬だけ流されるが、フルバージョンは映画が終わった後のエンド・クレジットで流される。その他、マッリカー・シェーラーワトの登場シーン「Mundiya」や、アーシーシュがラーニーに真実を告白するシーン「Sache
Aashiq」などが名曲である。
映画は一瞬だけマレーシアのクアラルンプールに飛ぶ。クアラルンプールのランドマーク、ペトロナス・ツインタワーがよく背景に登場する。その他、映画の最後で美しい丘陵地帯が出てくるが、どこなのか特定できなかった。おそらくインド国内だと思うのだが・・・。
映画中少し気になったのは、アーシーシュとカーンプリー(ラージパール・ヤーダヴ)が葬儀屋を訪ねるシーンである。そこでアーシーシュは葬儀屋と、自分の葬儀方法や墓について相談する。墓?ヒンドゥー教徒は、遺灰は全て河に流してしまうため、墓は作らないはずである。偉人が死んだ場合は、例外的に記念碑が作られることがあるが、あくまで記念碑であって墓ではない。ラージャスターン州には、チャトリーと呼ばれる墓苑が見られるが、これも正確には記念碑であって墓ではない。映画中では「サマーディ(記念碑)」と呼ばれており、本当の墓ではないと思われる。だが、映像で見る限り、墓とほぼ同じような形状であった。もしかしてヒンドゥー教徒の一般人の間でも、墓や記念碑を作る習慣が生まれつつあるのであろうか?またこのシーンでは、葬儀屋が葬儀にかこつけて暴利をむさぼる有様が風刺されていたのも気になった。
「Shaadi Se Pehle」はいい意味でインド映画らしい傑作コメディー映画である。スカッとした気分で映画館を出ること請け合いだ。マッリカー・シェーラーワトにも注目。
今日は新作ヒンディー語映画「Banaras」をPVRアヌパムで見た。題名の「Banaras」とは、ウッタル・プラデーシュ州東部にあるガンガー(ガンジス河)沿いの都市ヴァーラーナスィーの別名である。インドを代表する観光地のひとつだ。当然のことながら、ヴァーラーナスィーでロケが行われたようで、どのようなストーリーになるのか楽しみにしていた。監督は「Tumko
Na Bhool Paayenge」(2002年)のパンカジ・パラーシャル、音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、ウルミラー・マートーンドカル、アシュミト・パテール、ナスィールッディーン・シャー、ディンプル・カパーリヤー、ラージ・バッバル、アーカーシュ・クラーナーなど。
Banaras |
バナーラスの裕福なブラーフマンの家庭に生まれたシュエーターンバリー(ウルミラー・マートーンドカル)は、幼少の頃から音楽の才能を開花させていたが、現在では音楽の道から離れ、バナーラス・ヒンドゥー大学(BHU)で物理を専攻していた。一方、掃き掃除人のおばさんに拾われた捨て子のソーハム(アシュミト・パテール)は、バナーラスのガートに住むバーバージー(ナスィールッディーン・シャー)に可愛がられて育った。ソーハムも音楽の才能があり、やがてBHUで音楽の先生になる。ソーハムとシュエーターンバリーは、いつしか恋に落ちる。ソーハムはシュエーターンバリーへの恋に落ちていくと同時に、不思議な力に目覚めていく。【写真は、アシュミト・パテール(左)とウルミラー・マートーンドカル(右)】
ところが、ソーハムとシュエーターンバリーの仲と、ソーハムが低カースト出身との噂はバナーラス中に広まっていた。シュエーターンバリーの父マヘーンドラナート(ラージ・バッバル)と母ガーヤトリー・デーヴィー(ディンプル・カパーリヤー)は、表向きでは2人の結婚を受け容れながら、裏では何とかして2人の仲を引き裂こうと画策していた。ソーハムの従兄弟のマハーマーヤーも、2人の仲をよく思っていなかった。
ソーハムとシュエーターンバリーの婚約式が行われ、2人は指輪を交換するが、それから間もなくしてソーハムは何者かに暗殺されてしまう。シュエーターンバリーはひょんなことから、暗殺を計画したのは母親であることを密かに知ってしまい、ショックのあまり精神不安定状態となってしまう。心配した両親は、精神科医のバッターチャーリヤ(アーカーシュ・クラーナー)を呼ぶが、シュエーターンバリーはソーハムに教えを授けていたバーバージーが、数百年前に既に死んだ人物だったことを知って以来、次第に不思議な力を持つようになり、逆にバッターチャーリヤの持病をよくしてしまう。
ある日、シュエーターンバリーはバナーラスを去ってモーリシャスへ移住する。モーリシャスでシュエーターンバリーは宗教指導者として有名になる。それから17年後、父親危篤の報を受けたシュエーターンバリーは久しぶりにバナーラスへ戻り、瀕死の父親と再会を果たす。マヘーンドラナートは娘を見た直後に息を引き取る。また、マヘーンドラナートの死後、今度はガーヤトリー・デーヴィーの様子がおかしくなり、真夜中ガンガーに身を投げて入水自殺を図ろうとする。シュエーターンバリーに助けられた母親は、ソーハムを殺したのは自分であることを白状する。だが、シュエーターンバリーは微笑と共にそれを受け容れる。ガーヤトリー・デーヴィーは、すぐそばにソーハムの姿を見るのだった。肉体は滅びるが、魂は永遠なのであった。 |
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ヴァーラーナスィーはいろいろな意味でインドで最も魅力的な街のひとつだが、その魅力をスクリーン上で美しく表現しようとする努力がなされていた映画であった。つまり映画の主人公はバナーラス。バナーラスを愛する人が、バナーラスを愛する人のために作った映画と言っても過言ではない。バナーラスへ一度でも行ったことのある人なら、この映画を見たらきっと郷愁を感じるだろうし、バナーラスへ行ったことがない人は、バナーラスへ行きたいという思うことであろう。だが、映画の最も肝心なストーリーの方は、宗教映画的かつファンタジックで、理解の範疇を越えている。ストーリー展開に困ると、「なぜならここはバナーラスだから」というセリフで片付けてしまっているような印象を受けた。しかしながら、終わり方は非常にバナーラス的で美しかった。
一応ストーリーの主軸はソーハムとシュエーターンバリーの恋愛だが、話は魂とか悟りとか超人的パワーとか、そういう方向へ向かって行ってしまうので、この映画を純粋な恋愛映画と認めることはできない。最終的には、バナーラスに漂う無数の偉大な魂たちを感じ取る映画になってしまっていた。その象徴は、魂を信じていなかったバッターチャーリヤが、数百年前に死んだバーバージーの姿を目の当たりにして改心するシーンである。バナーラスなら起こりうる!そう納得するしかない・・・。だが、バナーラス旅行を1.2倍くらいは楽しいものにさせてくれそうなエネルギーは映画の中にあった。駄作と一言で片付けるのは不当であろう。
インドには宗教映画というジャンルがあり、その中では神様の偉大さや、清く正しく生きることの大切さが、伝承や比喩を用いてとうとうと語られる。インド人は口だけは達者なので、こういう説法調の台詞回しは非常に巧い。「Banaras」の中でも耳障りのいい言葉がいくつもあった。例えば、ナスィールッディーン・シャーが愛について語るセリフはよかった。「愛は根である。愛により花は咲き、香りが満ち、実が成る。それを楽しむがよい。だが、愛とは何か、考えてはならない。もし根っこを掘り起こしたら、木は枯れてしまう。愛とは感じるもの。見るものではない。」これから「愛とは何か?」「なぜインドが好きなのか?」と質問されたら、こう答えようと思う・・・。
僕は、アミーシャー・パテールの兄アシュミト・パテールをあまり認めていない。おそらく彼が持つミステリアスな雰囲気が、彼をこの映画の主役に抜擢させたのであろう。だが、アシュミト・パテールは全く映画の中に溶け込んでいなくて、演技もぎこちなかった。ヒロインはウルミラー・マートーンドカル。もう女学生を演じる年齢ではないと思うのだが、ソーハムの死後に精神に異常をきたすシーンがあり、それを演じるために彼女が選ばれたのだな、と理解できた。精神異常を起こす女性の役は、ウルミラーの十八番である。ただ、ソーハムが殺されたことを知ったときの彼女の演技はわざとらしすぎて白けてしまった。
バーバージーを演じたナスィールッディーン・シャーは、はまり役であろう。「Iqbal」(2005年)と言い、「Being Cyrus」(2006年)と言い、とぼけた調子の役が多いが、彼が演じると絶妙なキャラクターになるのだから文句は言えない。彼が演じるバーバージーは、実は数百年前に死んだサードゥの霊魂だったというオチである。ディンプル・カパーリヤーは、序盤から中盤までほとんど見せ場がなく、なぜ彼女が出ているのか分からなかったが、マヘーンドラナートの死後に急に演技力を要するシーンが出てきて、このためのディンプルだったのか、と合点がいった。
バナーラスが舞台になっており、言語はサンスクリット語彙混じりのいわゆる「準ヒンディー語」と、ウッタル・プラデーシュ州東部からビハール州にかけて話されているボージプリー方言のチャンポンになっている。聞き取りは難解な方であろう。
バナーラスと言ったら、まずはやっぱりガンガーとガート。ダシャーシュヴァメード・ガートやアッスィー・ガートと言った有名なガートが登場する。マヘーンドラナートの邸宅になっていたガート沿いの建物はどこのハヴェーリーであろうか?その他、バナーラス・ヒンドゥー大学(BHU)のキャンパス、トゥルスィーマーナス寺院、サールナートのダメーク・ストゥーパなども出てくる。だが、ヴァーラーナスィーのガートを常にうろついている外国人旅行者の姿は、不思議なまでに全くカメラに映し出されなかった。
そういえば、少しだけヴァーラーナスィーで観光客をだます悪質なインド人のことが触れられていたが、騙されている観光客はタミル人であった・・・。
また、オープニングのクレジット・シーンはなかなかかっこいい。懲りすぎというくらい凝っている。
「Banaras」は、題名通りバナーラスを楽しむための映画である。バナーラスへ行ったことがある人もない人も、バナーラスという言葉に何かを感じる人は、見てみるといいだろう。心を洗われるかもしれない。
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4月9日(日) スリランカのラーマーヤナ・スポット |
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4月9日付けのザ・ヒンドゥー紙に、スリランカ観光局とスリランカ航空が共同で、インドの二大叙事詩のひとつ「ラーマーヤナ」をテーマにしたツアー・パッケージを計画しているという記事が掲載されていた。スリランカ国内にあるラーマーヤナ所縁の地を巡るツアーで、インドから観光客を呼び込むことを主眼にしている。
この記事を見て、スリランカに「ラーマーヤナ」所縁の地がけっこうあることに驚いてしまった。確かに「ラーマーヤナ」では、ランカー島という地名が登場する。羅刹王ラーヴァンの王都で、スィーター姫が幽閉されていた島である。伝承では、元々富の神クヴェールの住居として建築神ヴィシュヴァカルマーが造ったとされており、金でできているとされる。ラーム王子とその軍団は、スィーター姫を救出するためにランカー島へ遠征し、ラーヴァンを打ち負かす。インドの神話伝承は、時間の概念が無茶苦茶なくせに地名だけはけっこう詳しく記述されており、それが現代まで影響を及ぼすことがある。アヨーディヤーのラーム生誕寺院建設問題もそのひとつだ。だが、神話・伝承に登場する地名を、そのまま現在の地名に当てはめるのにはかなり慎重にならなければならないだろう。そもそも「ラーマーヤナ」は詩人や民衆の想像力の賜物であるし、もしそれが何らかの歴史的事実に基づいているとしても、神話をそのまま真に受け止めていいことにはつながらない。ちなみに、ランカー島と同様に、「パドマーワト」という中世文学にはシンガラという島が登場し、それがやはり現在のスリランカに比定されることが多いが、シンガラは元々、理想郷として度々インドの神話伝承の中に登場していた地名に過ぎない(シンガラは、シャンバラやシャングリラなどの理想郷伝説と関連しているようだ)。「ラーマーヤナ」に出てくるランカーも、現在のスリランカのことを直接指しているとは思えない。
しかしながら、インド(南アジア諸国を含める)は伝承が歴史を作ることが多い国である。「ラーマーヤナ」のランカー島はスリランカであるとの認識が、いつの間にかスリランカに数々のラーマーヤナ・スポットを形成してしまったと思われる。そういう背景を踏まえた上でスリランカのラーマーヤナ・スポットを見ていくと、これは面白い。
スリランカ観光局とスリランカ航空が提案しているラーマーヤナ観光サーキットで巡るのは、アヴィッサウッラ(Avissawlla)、バンダラウェラ(Bandarawela)、エッラ(Ella)、ウェリマダ(Welimada)、ハクガラ(Hakgala)、ヌワラ・エリヤ(Nuwara
Eliya)、スィーター・エリヤ(Sita Eliya)、プッセッラワ(Pussellawa)、キャンディー(Kandy)、クルネガラ(Kurunegala)、ワリアポラ(Wariapola)、アヌラーダープラ(Anuradapura)、トリンコマレー(Trincomalee)、マナール(Mannar)、タライマナール(Talaimannar)、ウェリガマ(Weligama)、グレート・ベース・リーフ(Great
Basses)とリトル・ベース・リーフ(Little Basses)などなどである。これら全てについて、「ラーマーヤナ」との関連をネットで探し出すことはできなかったが、いくつかは興味深い記述が見つかった。
ラーヴァンはランカー島中に23個の隠れ家を持っていたらしく、これらのスポットの多くは、「ラーヴァンがスィーターを隠した場所」として知られているようだ。エッラにあるラーヴァナ・ロックという洞窟はそのひとつであり、エッラから5kmの地点にあるラーヴァナ・エッラ(ラーヴァナ・フォールズ)というスリランカで最も広い滝の裏には、やはりラーヴァンがスィーターを隠したという洞窟があるという。ヌワラ・エリヤは、スィーターが幽閉されていたアショーカ・ヴァーティカーや、スィーターが隠された場所に立てられたスィーター・エリヤ寺院がある。
さらに言い伝えによると、ラーヴァンの要塞ラーヴァナ・コーッテは、スリランカ南東沖のグレート・ベース・リーフ付近にあったらしく、今でも波打ち際にその遺構を見ることができるという。また、ラーヴァンの宮殿はウェリマダ近くのマリガワ・テンナ(Maligawa
Tenna)にあったと言われており、やはり今でも遺構が見受けられるとか。他にも多くのラーマーヤナ・スポットがある。例えばハクガラ植物園は、ラーヴァンがスィーターを喜ばすために作った庭園が基になっていると言われているし、ワリアポラには、ラーヴァナ所有の飛空挺「プシュパカーヴィーマナ」のための飛行場跡があるという。バンダラウェラ近くのウヴァ(Uva)は、ラーム軍とラーヴァン軍の戦争の舞台となった場所と言われており、ラームの放った矢によってへこんだ石が残っているという。上記の中で、アヌラーダプラはスリランカを代表する観光地で最も有名だが、そこにあるランカラマヤ・ダコバは、ラーヴァンの弟ヴィビーシャンが建造したとの説があるそうだ。他にもスリランカには無数のラーマーヤナ・スポットが点在している。
ランカー島のラーマーヤナ・スポットの中でも最も組織的に観光地化が図られているのが、ヌワラ・エリヤのスィーター・エリヤ寺院である。これは、「世界唯一のスィーター寺院」と言われており、スリランカ観光局も開発に力を入れているようで、現在ではインド人観光客のメジャーな観光地となりつつあるようだ。伝承では、スィーターはアショーカの木(和名:ムユウジュ)の森林に囲まれた庭園に幽閉されていたとされるが、このヌワラ・エリヤもアショーカの木が生い茂っており、しかもここから古いスィーターの像が見つかったことから、ここが「スィーターの幽閉されていたアショーカ・ヴァーティカー」と特定されたらしい。しかし、スリランカは仏教徒のシンハラ人と、ヒンドゥー教徒のタミル人の間の民族紛争が絶えない国である。「ラーマーヤナ」をテーマにしたヒンドゥー教優先の観光開発は、仏教団体から反発を受けており、民族間の軋轢をさらに強める恐れがある。また、ヌワラ・エリヤは紅茶のプランテーションがある場所で、プランテーションで働くタミル人労働者が大量に居住していることから、タミル人人口の多い地域のようだ。よって、スィーター・エリヤ寺院を初めとするヌワラ・エリヤでの「ラーマーヤナ」関連の観光開発は、単なる票集めとの批判も受けているという。
スリランカ観光局によると、現在スリランカで最も観光業を潤しているのはインドからの観光客だという。このラーマーヤナ観光ツアーの推進が、さらなるインド人観光客を呼び込むことを期待している。インド人の観光の動機のトップは今でも巡礼だ。確かにこのままインド人の巡礼好きが維持され、しかも経済力がついてくるなら、インド人は、インド国内の巡礼地だけでは飽き足らず、インドを飛び出して海外の巡礼地へ向かうことになることがあるかもしれない。そうだとしたら、「ラーマーヤナ所縁の土地」スリランカは、絶好の「海外巡礼先」である。
スリランカは既に2度訪れ、主要な観光地は巡ったが、僕ももう一度スリランカを訪れて、インド人観光客に混じってこのラーマーヤナ・スポットを旅行してみたくなった。
つい数年前まで、インドのクリケットの象徴と言えば、「マスターブラスター」サチン・テーンドゥルカルであった。今でもサチンは国民的人気を誇るが、彼は33歳の誕生日を前にしており、また慢性的な故障も抱えていて、スポーツ選手としての全盛期は既に過ぎたように思われる。サチンの他にもチーム・インディアには、サウラヴ・ガーングリー元主将、「ザ・ウォール」ラーフル・ドラヴィル、「ナジャフガルのナワーブ」ヴィーレーンドラ・セヘワーグ、イルファーン・パターン、ユヴラージ・スィンなど、人気選手が生まれた。だが、現在最も注目を集めているのが、マヘーンドラ・スィン・ドーニーである。このまま順調にキャリアを伸ばしていけば、近い将来サチンと並ぶカリスマ的存在になりそうな勢いである。
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マヘーンドラ・スィン・ドーニー
マヘーンドラ・スィン・ドーニーは1981年7月7日、ビハール州(現ジャールカンド州)ラーンチー生まれ。元々アルモーラーの山岳地帯出身の家系のようだ。子供の頃からスポーツ少年だったドーニーだが、元々はクリケットよりもサッカーに興味があり、ゴールキーパーをしていたという。ドーニーのゴールキーパーとしての才能に気づいた学校のコーチは、彼にクリケットのウィケット・キーパー(野球で言うキャッチャー)をするよう勧めた。コーチの目は間違っていなかった。ドーニーはウィケット・キーパーとしても類稀な才能を発揮した。18歳のときから州のクリケット・チームで活躍をし、2004年にインディア「A」に選抜されて注目を浴び、同年12月にチーム・インディア(インド代表)に抜擢された。チーム・インディアのデビュー戦では1球目でウィケットを取られてしまうという屈辱を味わったが、それ以来レギュラーメンバーとして活躍している。
ドーニーの人気の秘密は、その得点力と打撃の豪快さだ。クリケットのルールを可能な限り野球と照らし合わして解説しながら、その得点力を解剖していこう。まず、クリケットには5日間続くテストマッチと、1日で決着が着くワンデー・インターナショナル(ODI)があるが、特にODIにおけるドーニーの平均得点率は54.58ラン(2006年4月現在)でインド選手の中では最高である(ちなみにサチンは44ラン前後)。また、ドーニーのバッティング・ストライク率は、100%を越えている。つまり、1球につき1ラン以上稼いでいるということだ。クリケットでは、1人で100ラン以上稼ぐとセンチュリー、50ラン以上稼ぐとハーフ・センチュリーという記録を与えられるが、ドーニーはODI40試合中、既に2つのセンチュリーと7つのハーフ・センチュリーを達成している。また、クリケットでは、ボールが境界線を越えることを「バウンダリー」と呼ぶ。野球で言うホームランだ。バウンダリーには2つの種類がある。ボールがバウンドなしで境界線を越えると6s(ヒンディー語でチャッカー)、バウンドして境界線を越えると4s(チャウカー)である。それぞれ6ラン、4ランが自動的に入る。ドーニーはODIにおいて既に40以上の6sと、100以上の4sを出している。フィニッシャーとしても有名なドーニーは、試合終了までバッティングをし続けることが多い選手であり、しかも6sで試合を決めたことが今まで3回もある(インド記録)。野球で言えばサヨナラ・ホームランみたいなものか。また、2005年10月31日に行われたスリランカ戦でドーニーは、ウィケット・キーパーとしては世界記録の183ランを記録した(しかもインド人選手としては2番目に高い得点数)。しかも、たった145ボールで183ランを獲得した。これは、100%を越えるバッティング・ストライク率と合わせ、ドーニーのバッティングの積極性を示している。さらにドーニーは、ウィケット・キーパーとしては世界最速でODI合計1000ランを達成し、サチン以来初めてバッツマン(打者)世界ランキング上位3位に入った。正に記録尽くめである。野球でもホームラン・バッターは不動の人気を誇るように、驚異的な得点力を持つドーニーは急速に人気を獲得しつつある。ちなみに、記録男ドーニーの活躍により、チーム・インディアは先日ODI連勝世界記録(16連勝)を更新した。
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豪快なバッティングが売り
ドーニーの人気のもうひとつの秘密はその髪型である。一言で言い表すならば長髪オールバックであろうか。今年2月に行われたパーキスターン遠征ツアーにおいて、クリケットの大ファンであるムシャッラフ大統領は、ドーニーの活躍に感銘を受けると同時にその髪型にも注目し、「ヘアーカットをしないように」と助言を送った、という有名な逸話もある。現在インド各地では「ドーニー・カット」が大流行中だが、ある床屋は「客からドーニー・カットをよく頼まれるが、そもそも髪が長くなければドーニー・カットにはできない」と少々困惑気味のようだ。
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大流行のドーニー・カット
また、もうひとつドーニーの人気の秘密と言えそうなのは、その庶民性であろう。まず、ドーニーはラーンチーという比較的田舎の街で生まれ育った選手であり、その風貌からも都会的洗練性よりも「田舎の兄貴」という親しみやすそうな印象を受ける。毎朝1リットルの牛乳を飲んでいるというのも、何だか庶民っぽい。ラーンチーは現在では2000年に新しくできたジャールカンド州の州都になっているが、分離前はビハール州の都市であり、ジャールカンド州の州民はもとより、ビハール州の人々も、ドーニーのことを「地元の人間」だと思っている。ビハーリーが後ろ盾につくと、その人気は長持ちしそうだ。また、ドーニーのプロフィールを見てみると、どうも彼は英語の歌よりもヒンディー語の歌やガザルの方を好んでいるようで、そういうところにも彼の庶民性が表れている。さらに、サチン・テーンドゥルカルはカーマニアとして有名だが、ドーニーの趣味はバイク。バイクに乗ったドーニーの姿をよく新聞などで見かける。そういう点でも、田舎の若者が感情移入しやすそうだ。ちなみに、その趣味が注目されたのだろう、ドーニーは今、TVSスズキのブランド・アンバサダーにもなっている。
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バイク野郎の一面も
裏に乗っているのはハリバジャン・スィン
結果を求められるスポーツ選手なので、ドーニーがこれからどう成長していくのか、それは神のみぞ知る、であろう。だが、多くの人が予想している通り、僕も彼こそがサチン・テーンドゥルカルの後継者となっていくような気がしてならない。
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4月13日(木) Saawan... / 映画の力 |
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今日の日記は変則的に、映画評と時事ネタを合体させて書こうと思う。
今日は、コンノート・プレイスの映画館オデオンで新作ヒンディー語映画「Saawan...」を見た。「Saawan...」は、サルマーン・カーンが出演しているものの、つまらないと評判の映画であった。そんなつまらない映画をなぜわざわざ見に行ったのか?それにはいくつか理由がある。
まず、何と言ってもこれがサルマーン・カーンの映画であるからだ。僕は特にサルマーン・カーンのファンというわけではない。だが、インド映画ファンとして、サルマーン・カーンの出演する映画は可能な限り全て見ておかなければならないという義務感を持っている。なぜなら、サルマーン・カーンはインド各地に親衛隊があるほど人気を誇る男優であり、いかにつまらない映画でも、彼が出演するとそういう熱狂的なファンが映画館に押し寄せて、ヒット作に大化けする可能性があるからだ。僕はそれを2003年の「Tere
Naam」のヒットで実感した。ヒット映画は映画館で見ておかないと気が済まないので、必然的にサルマーン・カーン映画は否応なしに見ることになってしまう。
もうひとつは、特に現在、サルマーン・カーンが渦中の人になっているからだ。サルマーン・カーンは4月10日、ジョードプル裁判所より、1998年9月28日に保護動物に指定されているチンカラ(鹿のような動物)を密猟した罪で、5年の懲役刑を宣告され、即日ジョードプル中央刑務所に収容された。「囚人番号210番」となったサルマーン・カーンは、スーパースターだからといって特別扱いはされず、他の囚人たち――同刑務所には殺人犯やテロリストも収容されている――と同じように扱われることになった。つまり、日中は40度まで気温が上昇する2人部屋の監房に収容され、食事は砂糖なしのチャーイ、チャンナ豆、ローティー、ダール、ジャガイモとトマトのサブジーなど、質素な料理のみ。ベッドや枕などはなく、毛布3枚が支給される。なぜ毛布だけは3枚も支給されるのか?新聞記事によると、枕は自殺に使用される可能性があるので囚人には支給されないのだとか。だから、1枚の毛布は下に敷き、もう1枚の毛布は丸めて枕代わりにするらしい。しかも夜は蚊が大変らしく、さらにもう1枚の毛布をかぶって凌げということのようだ。そういうわけで毛布だけは3枚も支給されるのである。およそスーパースターが住む環境ではない。判決が出た日、TVのニュース番組は、「Tere
Naam」中に出てきた、精神患者用の修道場に収容された植物人間状態のサルマーン・カーンの映像が流されていて笑えた。また、この判決には不明な点もある。サルマーン・カーンの密猟の目撃者は、彼が雇った運転手ハリーシュ・ドゥラーニーなる人物のみなのだが、ドゥラーニーは2002年に法廷でサルマーン・カーンの密猟を証言をして以来、数年間ずっと姿をくらましていたのだ。ドゥラーニーは森林局の役人に脅されて証言をしたという話もあり、もしかしたら事件は思ったほど単純ではないかもしれない。その裏には、森林に住み、森と動物の保護を訴えるビショノーイー族の政治的活動や、セレブリティーを狙い撃ちする野生動物保護運動家メーナカー・ガーンディーの影が見え隠れする。しかもサルマーン・カーンは、別件の密猟やひき逃げなどの裁判も抱えており、もしこのまま保釈が許されないと、彼の俳優人生は終わってしまう。また、サルマーン・カーンの裁判は、彼だけの人生の問題ではない。サルマーン・カーンは現在、合計15億ルピーの大予算映画5本の撮影を控えている。サルマーン・カーンの懲役刑は、それらの映画の頓挫を意味する。しかもさらに悪いことに、サルマーン・カーンと同じく密猟の罪に問われているボリウッド・スターたちがまだいる。サイフ・アリー・カーン、ニーラム、タッブー、ソーナーリー・ベーンドレー、サティーシュ・シャーなどである。サルマーン・カーンに対する厳罰が先例化してしまうと、他のボリウッド・スターの判決にまで影響が出て、ボリウッド全体が沈没する可能性もあるほどだ。さらに事件を劇的にしているのは、サルマーン・カーンの母親サルマー・カーンが、判決が出た途端に気絶して病院へ運ばれてしまったことである。当然、サルマーン・カーンのファンたちは彼の釈放を訴えている。それに、密猟で5年の懲役刑は過去類を見ないほど重い判決である。これが「セレブリティーに対する差別ではないか」、「いや、セレブリティーは一般人以上に社会的責任がある」という論争も巻き起こしている。このように、サルマーン・カーンの刑務所行きは、周囲に大きな波紋を呼んでおり、まさにボリウッド映画のような状況になりつつある。
このような状態なので、もしかしたらサルマーン・カーンへの同情から、ちょうどタイムリーに公開されていた「Saawan...」の動員数が急増するのではないかと予想していた。現に、ジョードプルの「Saawan...」を上映している映画館は、サルマーン・ファンの集会場のようになっているという記事があった。
また、「Saawan...」が噂通りの駄作ならば、今日で公開が終わってしまう可能性が高かった。インドでは通常、金曜日が映画の封切日になっている。つまらない映画は1週間で上映が終了してしまうので、もし見たいなら木曜日が最後のチャンスということになる。というわけで、今日、「Saawan..」を見に行ったのであった。
最近はPVRなどのシネコンや高級映画館で映画を見ることがほとんどだが、サルマーン映画は安い映画館で見た方が盛り上がって面白いと思ったので、今日だけは特別に、コンノート・プレイスのオデオンで見た。オデオンは昔よく行っていた映画館で、懐かしかった。ちなみにチケット代はリア・ストール(後ろの方の席)で50ルピー。デリーの高級映画館のチケット代は大体150ルピーなので、その3分の1だ。ただ、残念なことにあまり客入りがよくなくて、観客の盛り上がりは思ったほどではなかった。
「Saawan」とはヒンドゥー暦の5番目の月で、7月半ばから8月半ばにかけての期間を指す。だが、これは北インドではちょうど雨季の時期であり、「雨季」と訳していいだろう。副題は「The
Love Season」。よく言われることだが、インド映画では濡れ場になると突然雨が降り出す。大地を潤す雨は愛の象徴であり、雨季こそが「恋の季節」なのだ。日本では「恋の季節」と言ったら、春になるだろうか?夏?「恋愛の秋」という言葉もある。だが、ジメジメした梅雨の時期をして「恋の季節」とはあまり言わないだろう。気候の差、文化の差を感じる。
監督はサーワン・クマール、音楽はアーデーシュ・シュリーヴァースタヴ。キャストは、サルマーン・カーン、カピル・ジャヴェーリー、サローニー・アスラーニー、プレーム・チョープラー、ランジート、ボビー・ダーリン、ジョニー・リーヴァルなど。
Saawan... |
南アフリカ共和国に旅行に来ていたラージ(カピル・ジャヴェーリー)は、同じく旅行で来ていたカージャル(サローニー・アスラーニー)と運命的な出会いを繰り返す。ラージとカージャルは恋に落ち、結婚を決める。2人の父親(プレーム・チョープラーとランジート)は実は旧知の仲であることが発覚し、結婚はとんとん拍子に進んだ。【写真はサルマーン・カーン】
2人はムンバイーに戻り、結婚の準備を始めた。そのとき、カージャルは謎の男(サルマーン・カーン)と出会う。その男は、未来を予知し、人の死を予言する不思議な能力を持っていた。神様が事あるごとに男に未来を語りかけるのだった。興味を持ったカージャルは、結婚後の自分の人生をその男に聞く。すると男は、「お前は金曜日に死ぬ」と言う。
男の能力を信じていたカージャルは、自分の運命を受け入れ、死までの期間、思う存分人生を楽しむことを決める。ラージはカージャルの言うことを信じていなかったが、彼女に合わせることにする。ところが、金曜日にカージャルは流れ弾に胸を撃たれてしまう。病院に搬送されたカージャルは緊急手術を受けるが、予断を許さない容態であった。
怒ったラージは、カージャルに死を宣告した男のもとへ駆けつけ、殴りかかる。そのとき神様から男にメッセージが下される。それは、男の死と引き換えにカージャルの命を助けるというものだった。男は自分の能力に嫌気が差しており、死を望んでいた。よって喜んでその条件を受け入れ、ラージに殴られるままとなり、頭から血を流して倒れる。
その後、ラージが病院に駆けつけると既にカージャルは死んでしまっていた。ところが、ラージに殴られて床に倒れていた男が息を引き取ると、カージャルは息を吹き返した。 |
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期待に違わぬZ級の駄作。サーワン・クマール監督はこんな作品を世に発表して恥ずかしくないのだろうか?だが、駄作ながらいろいろ特筆すべき点がいくつかある作品であった。
まず、何よりずっこけだったのは、主役だと思っていたサルマーン・カーンが、実は特別出演であったことだ。ポスターなどではあんなに大々的にサルマーンの顔が出ているのに・・・。主演は、「Dil
Pardesi Ho Gayaa」(2003年)に出演していた若手俳優、カピル・ジャヴェーリーとサローニー・アスラーニーであった。この2人が演じるラージとカージャルの出会い、恋愛、そして婚約までの退屈な展開が、前半の大部分を占め、その間、サルマーン・カーンの出番はない。映画が始まって4、50分ほど経った後に、突然ミュージカル「Tu
Milaa De」が始まり、サルマーン・カーンの登場となる。観客席がある程度埋まっていると、このシーンで拍手喝采となるわけだが、僕が見ていたときは、口笛が少し鳴っただけであった。
そして、ボリウッド映画に詳しい人ならポスターを見ればすぐに分かるように、この映画は暗に「Tere Naam 2」みたいな位置づけの作品であった。「Tere
Naam」の監督はサティーシュ・カウシクで、直接の続編ではないのだが、しかしサルマーン・カーンの髪型、キャラクター、そして彼の自宅(多分「Tere
Naam」に出てきた家と同じ)などが、「これは『Tere Naam 2』なんだ!」と雄弁に物語っていた。サルマーン・カーンの登場シーンで流れる「Tu
Milaa De」という曲も、「Tere Naam」っぽいメロディーであった。
ストーリーの核となるのは、自分の死期を悟った人間の行動である。これは、インド映画でも「Anand」(1970年)や「Kal Ho Naa Ho」(2004年)で使い古されてきたテーマだ。ヒロインのカージャルも、「『Anand』のラージェーシュ・カンナーや『Kal Ho Naa Ho』のシャールク・カーンみたいに、一瞬一瞬を100年のように生きたいの!」としゃべっていた。そして彼女がラージに何を要求したかというと・・・「私はコンプリート・ウーマン、スハーギニーになって死にたいの!」こうして、ラージとカージャルの退屈なベッドシーンへと移っていく・・・。つまり「処女のままでは死にたくないわ」ということか!
ヒーローのカピル・ジャヴェーリーは平均レベルの若手男優だが、ヒロインのサローニー・アスラーニーは今後作品に恵まれたらもしかしたらある程度大きくなれるかもしれない。彼女の最大の特徴は・・・テニス・スター、サーニヤー・ミルザーに何となく似ていること!演技も溌剌としていて悪くなかった。
久々にジョニー・リーヴァルをスクリーンで見ることができて嬉しかった。一時期、ボリウッド映画はジョニー・リーヴァルだらけということがあったのだが、最近全然登場しなくなってしまった。売れなくなってしまったのか、それとも何か他の仕事で忙しいのか?こんな駄作に出演しているところを見ると、前者なのかもしれない。ジョニー・リーヴァルの相手役を務めるのは、ボリウッド切っての「オカマ男優」ボビー・ダーリン。しかし今回は「完全な女性役」で出演であった。
だが、何と言ってもこの映画はサルマーン・カーンに尽きる。寡黙だが最強というインド人好みのキャラクターで、ヒーローを上回るヒーローっぷりを見せる。しかも神の声を聞くことができる「選ばれし者」。「Tere
Naam」のサルマーン・カーンの髪型はインド中に長髪ブームを巻き起こしたが、この映画はどうであろうか?ちなみにサルマーンが演じた役の名前は映画中で明かされていなかった。
音楽はアーデーシュ・シュリーヴァースタヴァ。「Saawan...」の音楽は悪くないのだが、映画中での使われ方は「台無し」という言葉がピッタリであった。「Mere
Dil Ko Dil Ki Dhadkan Ko」は、ドバイで撮影されたと思われるベリーダンス・ナンバー。白人ベリーダンサーたちがセクシーなダンスを披露するのだが、カピル・ジャヴェーリーとサローニー・アスラーニーの下手なダンスも重ね合わされるためストレスが溜まる。もっとベリーダンスを見せてくれ、と。
舞台は南アフリカ共和国だったりドバイだったりと節操がなく、登場人物が今一体どこにいるのか、混乱して来る。
「Saawan...」がもしヒットするならば、それはひとえにサルマーン・カーンの人気ゆえであろう。サルマーンがいなかったら、映画館で上映されることもなかった駄作である。映画のあらすじに添えている「ナヴァラサ評」のH平安は、総合評の役割を果たしているのだが、久々の「0」である。
さて、「Saawan...」を見終わり、PVRプラザに併設されているお洒落なフードコート「Picadelhi」で夕食を食べた後、家に帰ってTVを付けてみたら、ちょうどサルマーン・カーン釈放のニュースが流されていた。結果的にサルマーン・カーンは3日3晩刑務所にいたことになる。TVの映像によると、ジョードプル中央刑務所や、ムンバイーのサルマーン自宅前は、サルマーンの釈放を喜ぶファンでいっぱいとなっていた。英領時代、多くのフリーダム・ファイターたちは独立運動を主導して刑務所に収容された。その民族的記憶から、日本とは違って、インドでは刑務所に入れられることが何か英雄的響きを持つことがある。サルマーンも刑務所に入ってさらに人気度を上げたと言っていいだろう。ちなみに、翌日の新聞によると、サルマーンは刑務所の中で囚人たちの人気者になったらしく、映画の撮影やボディービルディングの講釈をして過ごしたそうだ。
それと同時に、今日話題になっていたのは、カンナダ映画の大スター、ラージクマールの葬儀である。ラージクマールは4月12日に心臓麻痺により死去したが、それ以来カルナータカ州は大騒ぎとなっている(詳しくはケヘカシャーンさんの◇・◆サブSUB LOGローグ◆・◇を参照)。彼はカンナダ映画にしか出演しておらず、ほとんどボリウッドしか見ない僕にはどれほどの大スターだったかがいまいちよく分からないのだが、ボリウッドに当てはめるとおそらくアミターブ・バッチャン以上の熱狂的人気を誇る大スターだったと思われる。盗賊ヴィーラッパンに誘拐されたことも記憶に新しい。カルナータカ州中からラージクマールに花を捧げるためにファンがバンガロールに殺到し、それが暴動にまで発展したという。おかげで今日はバンガロールは都市機能が麻痺していたそうだ。
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ラージクマールの葬列
The Hinduより
北のサルマーン、南のラージクマール。今日は、インドにおける映画の力をまざまざと見せつけられた日であった。これをインドの後進性と見るか、それとも本当の意味での「映画」が生きている国の現実と受け取るか、それは人それぞれであろう。
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4月14日(金) Humko Deewana Kar Gaye |
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グッド・フライデーで休日の今日、PVRアヌパムで新作ヒンディー語映画「Humko Deewana Kar Gaye」を見た。昼の回を見に行ったのだが、あいにく満席。夕方の席を予約し、家に帰って、夕方にまたサーケート(PVRアヌパムのあるマーケット)に戻って来た。
「Humko Deewana Kar Gaye」とは、「私を恋の虜にしてしまった」という意味。専門的な話になるが、「する」という意味の他動詞「karna」の後に「jaana」が来るのは少し特殊な用例である。この場合、2つの文法的解釈が考えられる。ひとつは「kar(ke)
jaana」の完了形。これだと「私を恋の虜にして行ってしまった」という意味になる。もうひとつは「kar」+「jaana」の特殊な複合動詞。他動詞の複合動詞に「jaana」は普通使われないが、続いた場合、「主語は、意思とは関係なく〜してしまった」というニュアンスになる。題名を「私を恋の虜にしてしまった」と訳したのは、後者の解釈に拠っている。映画の内容からそう判断した(後述)。ただし、どちらでもいいだろう。また、題名に主語はないが、「aap(あなた)」または「tum(君)」であることは明白。「hum」は文法的には「私たち」という意味の1人称複数代名詞だが、用例によっては「私」という1人称単数を指すことが時々ある。映画の題名に出てくる「hum」は「私」と訳した方がいい場合が多く、この場合もそれに該当する。
監督は「Andaaz」(2003年)などのラージ・カンワル、音楽はアヌ・マリク。キャストは、アクシャイ・クマール、カトリーナ・カイフ、アニル・カプール、ビパーシャー・バス、バーギシャシュリー、ヘレン、ヴィヴェーク・シャウクなど。
Humko Deewana Kar Gaye |
自動車会社に勤めるアーディティヤ・マロートラー(アクシャイ・クマール)は、ファッション・デザイナーのソニア(ビパーシャー・バス)と婚約した。アーディティヤはカナダへ転勤となり、ソニアはファッション・ショーのためにパリへ行った。カナダへ渡ったアーディティヤは、そこでインド人女性ジヤー・ヤシュワルダン(カトリーナ・カイフ)と何度も偶然の出会いを繰り返す内に恋に落ちる。だが、ジヤーにもカラン・オベロイ(アニル・カプール)という婚約者がいた。しかもカランはインドを代表する大富豪で、目的のためなら手段を選ばない危険な男だった。【写真は、カトリーナ・カイフ(左)とアクシャイ・クマール(右)】
アーディティヤは、仕事第一のソニアに不満を持っていた一方、ジヤーも結婚と買収を大して区別していないカランの態度に疑問を感じていた。アーディティヤを信頼し、心の中で彼との結婚を夢見ていたジヤーはある日、アーディティヤに自分の過去のトラウマを打ち明け、厳格な父親のせいで子供の頃から家族の幸せを感じたことがないこと、しかも母親を自殺に追いやったのは父親の冷たい態度だと信じていることを伝える。アーディティヤはジヤーの悩みを、ルームメイトのパーキスターン人ナワーブ・シャリーフ(ヴィヴェーク・シャウク)に相談する。だが、ナワーブは酒に酔ってそれを別の友人の前でしゃべってしまう。運の悪いことに、その中にはジャーナリストもいて、その話を新聞に掲載してしまう。
ジヤーの父親はその新聞を見て激怒し、ジヤーをインドのムンバイーへ送り返す。ジヤーもアーディティヤに裏切られたことにショックを受ける。アーディティヤは空港までジヤーを追いかけて行くが、ジヤーは彼を許そうとしなかった。その空港で、アーディティヤはソニアと再開する。
アーディティヤとソニアは結婚式を挙げるためにムンバイーへ戻る。ムンバイーでもソニアは仕事に追われており、アーディティヤとゆっくりできる時間は取れなかった。だが、ソニアが関わっていた仕事は、実はカランとジヤーの結婚式のアレンジであった。ソニアに誘われて結婚式に出席したアーディティヤは、ジヤーとまたも運命の再開を果たす。だが、アーディティヤの目の前でカランとジヤーの結婚の儀式は行われてしまう。その後、ジヤーは新聞記者にジヤーの過去のことをしゃべったのはアーディティヤでないと知って後悔し、アーディティヤに話しかける。2人は、一生お互いのことを忘れないことを誓い合う。だが、その様子をカランに見られてしまう。
怒ったカランはアーディティヤに出て行くよう命令し、ジヤーをも追求する。またソニアも、アーディティヤがジヤーを愛していることを知ってショックを受ける。外に出たアーディティヤは、自動車がひっくり返っているのを発見する。その中にいたのはジヤーであった。ジヤーは自暴自棄になって自殺を図ったのだ。アーディティヤは爆発寸前の自動車からジヤーを救出する。その様子を見たカランは、ジヤーの首にかかっていたマンガルスートラ(結婚の証)を引きちぎり、ジヤーの手をアーディティヤに託す。ソニアもそれを祝福する。 |
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男女の出会いで始まり、障害を乗り越えた末の結婚で終わる、ごく普通のインド映画であった。筋に説得力が乏しいこと、挿入されるミュージカル・シーンの数が過剰であることなど、マイナス要因も多かった。だが、問題のある婚約者を抱えた2人の男女が、最後に結婚を勝ち取るという筋は、多少目新しいものがあった。
インド映画の重要な原則のひとつに、「結婚前の恋愛は恋愛が勝つが、結婚成立後はいかなる恋愛よりも結婚の方が優先される」というものがある。この映画では、カランが既婚女性の証であるマンガルスートラをジヤーの首にかけ、2人の結婚が成立してしまった後に、土壇場でカランがジヤーのマンガルスートラを引きちぎり、アーディティヤに彼女を渡すというクライマックスになっており、少し特殊だった。だが、それは結婚式の当日、スハーグラート(初夜)前に起こっており、上記の原則から大きく外れてはいない。
それぞれ婚約者がいる男女が恋愛することに対する背徳性についても、言い訳めいた伏線が用意されていた。アーディティヤは、ソニアとの婚約式に婚約指輪を忘れて来てしまうのだ。婚約式会場でそれに気付いたアーディティヤは、祖母の指輪を婚約指輪代わりにしてソニアの指にはめる。このハプニングは、暗に「この婚約は元々不成立だった」ということを示していると思われる。
アーディティヤとジヤーの出会いから恋に落ちるまでの一連の流れは、繰り返される出会いを「アクシデント(単なる出来事)→コインシデンス(偶然)→デスティニー(運命)」と定義し直していく使い古されたもので、先日見たZ級映画「Saawan...」でも同じような手法が使われていた。自動車レースなど、あまり意味のないシーンも多く、はっきり言ってもっと短縮することもできただろう。
しかしながら、この映画のひとつの見所は、お互い他の人に恋をしてはいけない立場であり、しかもそれをお互い分かり合っているのに、それでもお互いのことを好きになってしまった、という心のどうしようもない共鳴であろう。だから、題名も「私を恋の虜にしてしまった」と訳した。こう訳した方が、「あなたも私を恋の虜にしてはいけないと分かっているのに、でも結局私を恋の虜にしてしまったのよ」という感情がより鮮明になり、叙情的である。映画中には、「エヘサース(フィーリング)」という言葉が何度も出てきて、「フィーリングこそが人間関係の源だ」と強調されていた。
それに関連し、映画中にはいくつかいい台詞が出てきた。「結婚は、人間関係で成るものではない。フィーリングで成るものだ」「人生は人間関係のためにあるのではない、人間関係が人生のためにあるのだ」など。また、ナワーブ・シャリーフが、ジヤーとの恋愛を続けて彼女の家族に嵐を巻き起こすことを躊躇するアーディティヤに言う台詞「嵐にお願いすることはできない、嵐には立ち向かわなければならない」もよかった。
ただし、フィーリングを主題にしている割には、主人公周辺の人々の心情描写は甘かった。特にソニアがみすみすアーディティヤをジヤーに渡してしまうとは思えない。もう少し詰めた方がよかっただろう。
現在のボリウッドの「オールラウンダー」アクシャイ・クマールは卒のない演技。安心して見ていられる男優である。アニル・カプールは後半からの出演で、「Taal」(1999年)のときのようなキャラクターであったが、映画の雰囲気にあまりフィットしていなかった。
この映画の大きな収穫はカトリーナ・カイフであろう。「Maine Pyaar Kyun Kiya」(2005年)の方が魅力的ではあったが、今回はより演技に磨きをかけていた。英国人とカシュミール人のハーフ、つまりアングロ・インディアンであるカトリーナは、「美しい」と「かわいい」と「かっこいい」が見事に融合した女優だと思っている。近い将来大スターになる可能性も少なくない。個人的に最も注目している若手女優である。
ビパーシャー・バスはほとんど出番なし。彼女が演じたソニアは、仕事を優先する女性に冷たいボリウッドの基本路線を踏襲している。
往年の名ダンサー、ヘレンが特別出演。アーディティヤの姉の夫の母親役で、姉の息子の誕生日パーティーで間違って酒を飲んで踊り出すという変な役であった。そういえば映画中、シャンミー・カプールとヘレンが踊る「Junglee」(1961年)の「Aai
Aai Aa Suku Suku」が使われていた。
音楽はアヌ・マリク。カランとジヤーの結婚式で流れるモダン・カッワーリー風「Mere Saath Chalte Chalte」が最もよい。他にも「Fanaa」、「Rock
Star」などアップテンポの曲が多い。歌詞は「君が来なければよかった、来ても去って行かなければもっとよかった」というタイトル曲「Humko Deewana
Kar Gaye」が一番いい。「Humko Deewana Kar Gaye」のサントラCDは買いである。
ちなみに、アーディティヤが勤めている自動車会社はどう見てもトヨタであった。
「Humko Deewana Kar Gaye」は、インド映画の典型みたいな映画なので、もし「コテコテのインド映画を見てみたい」という人にはオススメだ。また、カトリーナ・カイフを見る目的でも見てもいいだろう。ものすごく退屈というわけではないが、特に楽しい映画でもない。
サイレント期のインド映画界には、女優に対する社会差別により通常のインド人を女優にすることが困難であったことから、外国人、ユダヤ人や、アングロ・インディアン(ヨーロッパ人とインド人のハーフ)女優が多かった。杉本良男著「インド映画への招待状」(青弓社)によると、当時活躍していたアングロ・インディアン女優には、ペイシャンス・クーパー、スローチャナー、スィーター・デーヴィー、インディラー・デーヴィー、ラリター・デーヴィー、マードゥリー、マノーラマー、サビター・デーヴィーなどがいた。ところが1930年代、映画がトーキー化した頃から、ほとんどのアングロ・インディアン女優は活躍の場を失って行った。アングロ・インディアン女優の多くがインドの現地語を話すことができなかったことや、女優に対する考え方が変化し、インド人女優が生まれてきたことがその理由である。だが、インド映画がトーキー化した後もインド映画界で活躍するアングロ・インディアン女優や外国人女優が全くいなくなってしまったわけではない。3月23日の日記で、1930年代〜50年代に活躍したフィアレス・ナディアについて取り上げた。フィアレス・ナディアはスコットランド人とギリシア人のハーフであったが、インド独立前後のボリウッドの主にB級映画に出演し、カルトな人気を誇った女優である。だが、独立後のインドでフィアレス・ナディア以上の人気を誇った外国出身女優がいた。それはヘレンである。
ヘレンは、「Howrah Bridge」(1958年)の「Mera Naam Chin-Chin-Choo」や、「Sholay」(1975年)の「Mehbooba
Mehbooba」を踊っていた「元祖アイテムガール」で、最近では「Hum Dil De Chuke Sanam(邦題:ミモラ)」(1999年)でサルマーン・カーン演じるサミールの母親のイタリア人女性役を演じていたのが記憶に新しい。今ではすっかりおばさんになってしまったが、1960年代〜70年代、ヘレンは名ダンサーとして、そしてヴァンプ(悪女)女優として、インド人の間で絶大な人気を誇っていた。一般にヘレンは「ビルマ人」として受け止められている。
フィアレス・ナディアの記事は去年発行された「Fearless Nadia - The True Story of Bollywood's Original
Stunt Queen」(Dorothee Wenner; Penguin India)というフィアレス・ナディアの伝記本を参考にしたのだが、それからしばらくして、今度は都合よくヘレンの伝記が発売された。「Helen
- The Life and Times of An H-Bomb」(Jerry Pinto; Penguin India)である。2冊とも同じペンギン・インディアから出版されている。これは偶然なのか、それともこういうカルト的映画スターの伝記をシリーズ化しようと目論んでいるのか、それは不明だ。何はともあれ、今回の日記はこの本を参考にしている。
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Helen - The Life and Times of H-Bomb
ただ、この本を買ってから分かったのだが、この本はいわゆる通常の伝記ではない。なぜなら著者のジェリー・ピント氏はヘレン本人へのインタビューを達成していない上に、彼女を知る人々へのインタビューも精力的に行っておらず、ヘレンの人生の詳細を再構成することを諦めているからだ。ヘレンはその手のインタビューを一切拒否しているという。その代わり、著者は雑誌に掲載されたヘレンのインタビューや彼女の出演作をまとめて何とか一冊の本にしている。まだヘレンは存命である(先日見た「Humko
Deewana Kar Gaye」にも出演していた)。存命中の人物の伝記を書くのに当たって本人の全面的協力がないと、それは完全な伝記とはあまり認められないだろう。
だが、僕が興味を持ったのは、どちらかというとヘレンがビルマからボンベイへ移り、そして映画界へ入るまでのエピソードである。その部分は割と詳しく語られていた。ヘレンのインド行きには、日本と当時の国際情勢が大きく関わっている。
ヘレンの生まれた年は諸説あってはっきりしない。1938年とも1939年とも言われている。誕生日は7月14日。父親はフランス人、母親のマレーネはスペイン人とビルマ人のハーフであった。よって、ヘレンはビルマ人というよりも、ヨーロッパ人の血の方が濃い混血児である。父親の死後、母親は英国人役人と再婚した。その英国人の名字を名乗ったため、ヘレンの本名はヘレン・リチャードソンとなっている。第二次世界大戦勃発時、ヘレンの家族は当時英国の統治下に置かれていたビルマに滞在していた。ところが1941年、日本軍のビルマ侵攻により、ヘレンの家族はビルマから脱出しなくてはならなくなった。女性と子供はボートでカルカッタへ送られることになっていたが、ヘレンと母マレーネ、そしてまだ赤ん坊だった弟は後に取り残され、ビルマからアッサムまで徒歩で移動しなくてはならなくなってしまった。
そのときの様子を、ヘレンはフィルムフェア誌(1964年4月3日号)で語っている。
12月のラングーン、寒い夜のことだったわ。年は1941年。ビルマは日本軍によって徹底的に爆撃されていたの。人々は国を捨てて逃げ出そうとしていたわ。私の母親は最低限の荷物をまとめて、私とまだ赤ん坊だった弟を抱えて、空港へ向かったわ。その夜、空港は爆撃されてしまった。私たちは震えながら家に帰ったわ。
ラングーンの生活は耐え難いものになっていったわ。父親は戦争の初期に殺されてしまい、私たちを守ってくれる人は誰もいなかった。その上、戦争のせいで生活はどんどん苦しくなっていったの。友達が家族を連れてインドへ逃げるのを決めると、私のは母親もそれに加わることを決めた。それから、私たちはビルマ北部からアッサムに向かって、長い厳しい道のりを歩き出したわ。
そのとき私は3歳になったばかりだった。でも、私はその苦しい旅路を母親からよく聞いたの。
ヘレンの家族とその仲間たちは何週間も歩き続けた。途中、何百もの村を通り過ぎた。彼女たちはお金もなく、食べ物もなく、服も満足になかったが、途中立ち寄った村人たちの親切のおかげで生き抜くことができた。時々出くわした英国の軍人は、彼女たちに交通機関を提供してくれたり、食べ物を分け与えたりしてくれた。アッサム地方のディブルーガルに辿り着いたとき、彼女たちの旅団の人数は半分に減っていた。ある者は病に倒れ、ある者は後に取り残され、ある者は餓死した。ディブルーガルに辿り着いた者はすぐに病院に運ばれ、そこで治療を受けた。ヘレンとマレーネは骨のような状態まで衰弱しており、弟は重態であった。病院で2ヶ月治療を受けた後、ヘレン一家はカルカッタへ向かった。
ヘレンの母親は看護婦の経験があり、カルカッタでは看護婦として働き始めた。ところが彼女の努力にも関わらず、弟は天然痘で死んでしまった。マレーネにとって、もはやカルカッタは悲しい思い出だけが残る街となってしまった。そこでマレーネはヘレンを連れてカルカッタを発ち、ハイダラーバードやデーオラーリー(現マハーラーシュトラ州北部の町)を転々とした後、1947年、インド独立の年にボンベイへやって来た。
ボンベイでの生活も楽ではなかった。ヘレンたちはボンベイ郊外(当時)のバーンドラーにある家に住んでいたが、その屋外便所はゴキブリの巣窟となっており、トイレに行くとき彼女はいつもゴキブリが頭の上に落ちて来ないように傘を持って行ったという。ヘレンは12歳のときに学校を退学し、踊りを習い始めた。今でこそダンサーとして知られるヘレンだが、踊りを習い始めたのは完全に母親の意思によった。母親を恐れていたヘレンは、友達と一緒に遊びたいのを我慢してダンスの練習に励んだ。この時期にヘレンはマニプリー、カッタク、バラタナーティヤムなどのインド古典舞踊を習ったという。
一方、母親のマレーネもヒンディー語映画のダンサーとして働いていた。彼女はやがて、クックーとコンビを組むようになる。クックーのプロフィールについては不明な点が多い。彼女もアングロ・インディアンらしく、彼女はヒンディー映画の最初のダンス・クイーンとして知られている。1944年に「Mujrim」でデビューした後、ダンサーかつヴァンプとして活躍していた。クックーの前にもアーズーリーやクルディープ・カウルなどのダンサー兼ヴァンプ女優がいたが、クックーこそがヘレンの直接の先駆者と言える。やがてヘレンはクックーのバックダンサーとして映画に出演するようになる。ヘレンのデビュー作は1951年の「Shabistan」である。それから1年ほどバックダンサーとして数本の映画に出演した後、「Alif
Laila」(1953年)で初めてソロ・ダンスをする機会を与えられると同時に、B級映画プロデューサーPNアローラーに見初められ、彼の映画に出るようになる(「Hoor-e-Arab」(1955年)、「Neelofar」(1958年)、「Khazanchi」(1958年)など)。だが、ヘレンのブレイクのきっかけになったのは、「Howrah
Bridge」(1958年)の印象的なアイテムナンバー「Mera Naam Chin Chin Choo」であった。この曲でヘレンは、カルカッタのバーで働く「チン・チン・チュー」という中国娘になって踊っている。
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Mera Naam Chin Chin Choo
Chin Chin Choo Baba Chin Chin Choo
Raat Chandni Main Aur Tu
Hello Mister How Do You Do?
私の名前はチン・チン・チュー
チン・チン・チューよ、チン・チン・チュー
月夜の晩に私とあなた
ハロー、ミスター、初めまして
ヘレンの登場シーンはこれだけであり、ヴァンプでもセクシーでも何でもないが、既にここに彼女の売りである異国情緒性とキャバレー的ダンスの原型を見ることができる。
「Mera Naam Chin Chin Choo」のヒットによりヘレンはキャバレー風ダンサーとして人気を博すようになる。胸を揺らし、腰を振り、指を噛み、口をとがらし、ウィンクし、床に寝転び、のたうち回る踊りはヘレンの十八番となった。ヘレンはマニプリーやカッタクも踊れたが、インドと西洋の踊りをミックスさせた「フィルミー・ダンス」を最も得意とした。当時、映画音楽界ではRDブルマンとアーシャー・ボースレーのコンビがアップテンポのキャバレー・ソングを次々に世に送り出していた。ヘレンはそのダンスナンバーにピッタリのダンサーであった。彼女のダンスはそれだけに留まらず、「Bewaqoof」(1960年)ではアフリカ風ダンスを、「China
Town」(1962年)では中国と日本が合わさったような踊りを、「Sunehri Naagin」(1963年)ではスネーク・ダンスを、「Tarzan
Comes to Delhi」(1965年)ではフラメンコ風ダンスを、「Tum Haseen, Main Jawaan」(1970年)ではジャングル・ダンスを、「Kaalicharan」(1976年)ではアラビア風ダンスを踊った。ジプシー風ダンスもへレンの得意とするところであり、「Sholay」、「Mudh
Mudh Ke Na Dekh」(1960年)、「Baadal」(1966年)など枚挙に暇がない。また、「Hulchul」(1971年)では英国、ロシア、スペイン、スコットランド、エジプト、日本、アフリカ、そしてマラヤーリーのダンスを次々に披露している。言わば、ヘレンは何でもありのヘレン・スタイルの踊りを確立していったと言っていいだろう。ちなみに、ヘレンの踊りの才能を示すものに、踊りを踊れるヒロイン女優とのダンス合戦がある。ヘレンは、当時ベストダンサーとして知られていたヴィジャヤンティマーラー、ワヒーダー・レヘマーンと直接踊りで対決している。例えば「Prince」(1969年)では、ヴィジャヤンティマーラーがバラタナーティヤム、カッタク、オリッスィーを踊るのに対し、ヘレンはモダンダンス、フラメンコ、ベリーダンスを踊って対決する。ヘレンは「Dr
Vidya」(1962年)でもヴィジャヤンティマーラーとダンス合戦をしている他、「Baazi」(1968年)ではワヒーダー・レヘマーンと踊りの腕を競い合っている。
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着物を着たヘレン
現在でもその傾向に大した変化はないが、当時の映画女優は「伝統的、保守的、かつ従順で、サーリーを着て、ロングヘアで、国と家族と子供を思いやるよい女性」を演じるヒロイン女優と、「洋服を着て、ボブカットやワイルドな髪型をして、セクシーな踊りを踊り、タバコを吸い、酒を飲み、自分の欲望をさらけ出して男を惑わす悪女」を演じるヴァンプ女優が真っ二つに分かれていた。ヘレンも映画界に入ったときはヒロインを夢見ていたが、ヘレンは前者のカテゴリーには入ることができず、後者のカテゴリーに押し込められることを余儀なくされた。その理由はいろいろ考えられるが、一番の理由は彼女がビルマからの難民だったことであろう。外国人女優に対する差別的偏見が、ヘレンをヘレンにしたのだ。他方、逆にヘレンがダンサーとして映画に出演できたのは、彼女が外国人であったことも大きな要因と言える。ヘレンが映画デビューする前まで、映画界にはヒンドゥー教徒の女性ダンサーはいなかった。アーズーリー、クルディープ・カウルはインド人ではあるがヒンドゥーではなかったし、クックーはアングロ・インディアンであった。1960年代にビンドゥーが現れるまで、インド映画界にはアングロ・インディアン、キリスト教徒、ユダヤ人、ムスリム、スィク教徒のダンサーしかいなかった。その理由として、インド映画検閲法に、「ヌード、みだらな服装、またはみだらなポーズをした人間の実像または影絵を映すことを禁じる」という規則があったことが考えられる。ヘレンは外国人だったため、この規則の適用を免れたのかもしれない。とにかく、ヘレンはダンサーと同時にヴァンプとしてもインド映画に欠かせない存在となり、悪女、悪妻、売春婦、情婦など、ヒロイン女優が演じることができない役を請け負った。
ダンサーとして、またヴァンプとして人気を博すると同時に、ヘレンの名前は観客の中で一人歩きし始める。ヘレンの出る映画は「あの種類の映画」という固定観念が生まれ、観客はヘレンがスクリーン上に登場して、歌い、踊り、酒を飲み、タバコを吸い、男を誘惑するのを楽しみにするようになった。いつしかヘレンは、「H-Bomb」と呼ばれるようになった。ヴァンプとしての心意気と苦労を、ヘレンはこのように語っている。
当時、ダンサーはヴァンプにならなければならなかったわ。ヴァンプは現実世界と関係しているから、人々はヴァンプに熱中するの。女性はシュガーなだけじゃなく、スパイシーでなければならないわ。私に言わせれば、ヒロインはあまりにいい子ぶって中身がなかった。ヴァンプは魅惑的で、気ままで、片手にタバコを持って、もう片手にウィスキーのグラスを持っていなければならなかった。私はブルカーをかぶらなければ街を歩くことができなかったわ。人々は私を発見すると狂ったように追いかけて来たものよ。私は多くのファン・メールをもらったわ。女性からもね。60年代、私はセックスシンボルになってしまった。私はH-Bombとして知られるようになったわ。とってもおかしかったわ!
だが、ヘレンはヒロインを務めた映画も中にはある。「Elephant Queen」(1961年)、「Cha Cha Cha」(1964年)、「Chor
Darwaaza」(1965年)などである。だが、それらの多くは失敗作に終わり、観客もヘレンがヒロインを演じることを受け入れなかった。
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ポーズを取るヘレン
ヘレンの映画デビューを助け、その後も彼女のキャリアとマネージメントの面倒を見ていたのはPNアローラーであった。2人の仲はプライベートなものに発展して行ったが、その関係は1970年頃にはヘレンにとって足かせになってしまっていた。PNアローラーはヘレンの出演映画に関して大きな決定権を持っていたと言われ、彼は、ヘレンがヒロイン女優としてはばたけなかった要因のひとつにも挙げられている。ヘレンは1972年の「Dil
Daulat Duniya」を最後にPNアローラーの映画には出演しなくなり、彼との関係も断ち切る。それだけでなく、1970年代になり、30代となったヘレンは、次第に若手に押されて落ち目になって行く。PNアローラーと縁を切った後、仕事面でも経済面でも困窮していたヘレンを救ったのは脚本家サリーム・カーンであった。実はヘレンは、サリーム・カーンともただならぬ仲であった。ヘレンとサリーム・カーンが初めて出会ったのは、「Kabli
Khan」(1963年)だった。サリーム・カーンは当時は映画俳優をしており、この映画で2人は共演して知り合う。2人は「Sarhadi Lootera」(1966年)でも共演し、その後親交が続いた。その関係で彼は窮地に立たされていたヘレンを助け、「Imaam
Dharam」(1977年)、「Don」(1978年)、「Dostana」(1980年)などの仕事を彼女に提供した。そして1981年には、彼はヘレンを2人目の妻として迎え入れた(サリーム・カーンはムスリムなので、複数の妻を持つことが法律的に許されている)。サリーム・カーンの1人目の妻はサルマー・カーン。映画スター、サルマーン・カーンの母親である。よって、ヘレンはサルマーン・カーンの継母ということになる。
1970年代のヘレンは落ち目になったと書いたが、それでもヘレンの代表的ダンスナンバーの多くはこの時期に集中している。「Caravan」(1971年)の「Piya
Tu Ab To Aaja」、「Anamika」(1973年)の「Aaj Ki Raat Koi Aane Ko Hai」、「Sholay」の「Mehbooba
Mehbooba」、「Inkaar」(1977年)の「Mungda Mungda」、「Don」の「Yeh Mera Dil Yaar Ka Deewaana」などである。
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Mehbooba Ae Mehbooba...
Gulshan Mein Gul Khilte Hain
Jab Sehra Mein Milte Hain
Main Aur Tu
愛しい人よ、おぉ、愛しい人よ
俺とお前が出会ったら
それが砂漠であろうと一面に
バラの花が花開くのさ
結婚後もヘレンは映画に出演し続けたが、しかし出演作は減少し、1983年を境にほぼ引退する。それでも1、2年に1本は映画に出演しており、ここ10年間では「Khamoshi
- The Musical」(1996年)、「Saazish - The Conspiracy」(1998年)、「Hum Dil De Chuke
Sanam」(1999年)、「Mohabbatein」(2000年)、「Shararat」(2001年)、「Dil Ne Jise Apna
Kahaa」(2004年)、「Humko Deewana Kar Gaye」(2006年)などに出演している。かつてのアイテムガールは、今ではお母さんやおばさんなどを演じることが多いが、先日見た「Humko
Deewana Kar Gaye」では踊りを披露していた。今後、ヘレンはサルマーン・カーンが出演する英語映画「Marigold」にも出演予定である。
ヘレンは1998年にフィルムフェア生涯貢献賞を受賞した。そのときのスピーチによると、彼女は今まで1000本以上の映画に出演したという。ヘレンは、タミル語、テルグ語、アッサミー語、ベンガリー語、パンジャービー語、マラーティー語、グジャラーティー語、ウルドゥー語、ボージプリー語、マガヒー語、ラージャスターニー語など、インドのあらゆる言語の映画に出演したと言われているが、「Helen
- The Life and Time of An H-Bomb」の著者によると、1000本という数字をそのまま受け取ることは難しいようだ。せいぜい500本ほど、多く見積もっても700本ほどらしい。
ヘレンはインド映画史の表舞台にはあまり出てこない存在であるが、しかし現在のインド映画の形成に大きな影響を与えたと思われる。ヘレンの全盛期を見てきた人々の中には、男性にも女性にも、ヘレンのファンという人はかなりいるようで、シャールク・カーンもその1人らしい。僕が最も注目したいのは、フィアレス・ナディアと同じく、インド人観客は皆彼女が外国人であることを知っているのに、そして彼女が醸し出す異国情緒を楽しんでいるのに、彼女をインド人と同等に受け入れていることだ。ある人はヘレンのことを、「外国人の顔をしたかわいいインド人ダンサー」と表現していた。そして、多くの人は「ヘレンはいかにセクシーな格好をし、いかに悪女を演じていても、決してみだらではなかった」と口を揃えることにも注目したい。それらのことを考え合わせると、ヘレンの特殊な存在感が浮き彫りになってくる。ヘレンはインド映画にとって、ひとつの現象であったのだろう。彼女に例えることができる女優は、今のボリウッドにはいないかもしれない。
今日は新作ヒンディー語映画「Pyare Mohan」をPVRプリヤーで見た。題名は、主人公2人の名前。監督は「Masti」(2004年)のインドラ・クマール、音楽はアヌ・マリク。キャストは、ファルディーン・カーン、ヴィヴェーク・アーナンド・オベロイ、イーシャー・デーオール、アムリター・ラーオ、ボーマン・イーラーニーなど。
Pyare Mohan |
ピャーレー(ファルディーン・カーン)とモーハン(ヴィヴェーク・アーナンド・オベロイ)はスタントマンの仕事をしていたが、撮影中の事故で、ピャーレーは視覚を失い、モーハンは聴覚を失った。2人はグリーティングカード店を開き、仲良く暮らしていた。ある日、ピャーレーとモーハンは、デリーからムンバイーへやって来たミュージシャンの卵、プリーティ(イーシャー・デーオール)とプリヤー(アムリター・ラーオ)の姉妹と出会う。たちまちの内にピャーレーはプリーティに、モーハンはプリヤーに恋をする。【写真は左上から時計回りに、ファルディーン・カーン、ヴィヴェーク・アーナンド・オベロイ、イーシャー・デーオール、アムリター・ラーオ】
ピャーレーとモーハンの活躍により、プリーティとプリヤーのムンバイーでの最初のショーは大成功する。おかげで、バンコクで公演する仕事を得ることができた。ピャーレーとモーハンは、空港でプリーティとプリヤーを見送りに行き、その場でプロポーズをする。だが、プリーティとプリヤーは、正常な男性と結婚したいと言って断る。
ところが、プリーティとプリヤーの乗った飛行機には、ドン・トミー・フェルナンデス(ボーマン・イーラーニー)も同乗していた。かつてインドのアンダーワールドを支配していたトミーは、警察の目をくらますために死んだと見せかけてバンコクへ高飛びし、正体を隠して暮らしていたのだった。ひょんなことからトプリーティとプリヤーはトミーの秘密を知ってしまう。しかも、勘違いからバンコクの警察に殺人の罪で逮捕されてしまう。
TVでプリーティとプリヤーが逮捕されたことを知ったピャーレーとモーハンは、2人を救出するためにバンコクへ降り立つ。早速2人は警察署へ行くが、面会はできなかった。そのとき偶然、2人はトミーの弟のタイニーがプリーティとプリヤーを暗殺しようとしていることを知る。ピャーレーとモーハンは、2人を守るためにわざと警察に逮捕されて拘置所へ入り、隙に乗じて逃げ出す。
ピャーレー、モーハン、プリーティ、プリヤーはバンコクの警察とトニーに追われることになった。何度か危機をくぐり抜けるが、とうとうトミーに追い詰められる。だが、絶体絶命のピンチの場面で4人はバンコク警察に助けられる。トミーの弟タイニーは、トミーに殺されかけたことを恨み、トミーを裏切って全てを警察に報告したのだった。
プリーティとプリヤーは、ピャーレーとモーハンの素晴らしさに気付かなかったことを恥じ、改めて2人のプロポーズを受け入れる。 |
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インドラ・クマール監督の前作「Masti」は秀逸なコメディー映画だったため期待していたのだが、この「Pyare Mohan」は期待を遥かに下回るコメディー映画であった。運気回復のために改名までしたヴィヴェーク・アーナンド・オベロイ、またも出演作がフロップ濃厚である・・・。見ていて哀れになって来る。
スタントマンの仕事中の事故でアンダー(目の不自由な人)になってしまったピャーレーと、ベヘラー(ろう者)になってしまったモーハン。この凸凹コンビがこの映画の最大の笑わせ所だ。アンダーをネタにした笑いはインドでは定番だが、ベヘラーの笑いはアンダーに比べたら少ないかもしれない。モーハンは人の唇の動きを見て相手の話す内容を理解するのだが、完璧に理解できるわけではなく、それがいろいろ誤解や騒動を巻き起こす。「お前、ベヘラーか!?」「あれあれ、兄さん、分かりません。私はベヘラーですから」などというちぐはぐなやり取りが面白かった。それにしても、インドでは身体障害者が映画やTVCMなどによく出てきて人々を笑わせるが、まず日本ではこういうことはありえないだろう。インド人は、日頃から路上などで活動している障害を売り物にする乞食を見慣れているためか、障害者に対して日本では考えられないくらい自然に接することができる人が多い。障害者が映画やTVで笑いのネタになっているのが、そういう自然さから来ていればいいのだが、やはり時々気になる。ただ、「Pyare
Mohan」はアンダーとベヘラーにかけてうまくまとめられていた。エンディングで、プリーティはピャーレーに、「あなたの目の中にある真実の愛を見抜けなかった私の方こそが視覚障害者だったわ」と言い、プリヤーはモーハンに、「あなたの愛の鼓動を聞くことができなかった私の方こそが聴覚障害者だったわ」と言う。
アンダーとベヘラーのコンビネーション・ギャグの他、映画中にはオマケ的お笑いシーンもいくつか盛り込まれていた。例えば、大型のRV車と軽自動車が衝突し、RV車から小男が威勢良く叫びながら飛び出て来る。すると、軽自動車からヌッと大男が出てくる。たじろぐ小男――また例えば、バイクに乗ってピャーレー、モーハンらを追いかけていたタイニーが、勢い余ってバイクから放り出され、そのまま頭から停車中のトラックの中にいた馬の尻の穴に突入――こういうベタなギャグがいくつかあった。下品なギャグも多めであった。
ヴィヴェークはいつからこんなチンピラみたいな男優になってしまったのだろうか?彼からは、デビュー当時にあった覇気が全く見られなくなってしまった。ますます額が広くなったような気もする。コミックロールができることはもう「Masti」で分かったから、ヴィヴェークはそろそろ作品をよく選ぶことを心がけたが方がいいと思う。それとももう出演作を選べないぐらいの危機的状況となっているのだろうか?一方、ヴィヴェークに比べたら、ファルディーン・カーンは適切な演技を見せていた。
イーシャー・デーオールはますますけばくなっていて対応に困った。「私はインドの怪力男の娘よ」と言って悪役エキストラをぶちのめすシーンがあるが、これはイーシャーの実の父親ダルメーンドラのことを暗に指しているのだろうか?イーシャーの母親ヘーマー・マーリニーに言及する台詞も映画中出てきた。もう1人のヒロイン、アムリター・ラーオは「Main
Hoon Na」(2005年)の頃に比べて見違えるほど大人っぽくなった。だが基本的にこの映画のヒロイン2人はお飾りに過ぎず、出番はあまりなかった。
ボーマン・イーラーニーは「Munna Bhai MBBS」(2003年)で見せたような「笑える悪役」を今回も演じた。彼はいろんな役柄を演じることができる優れた男優だが、やはり「笑える悪役」が最も似合っている。あの甲高い声で小刻みにシャウトする姿がたまらない。
音楽はアヌ・マリク。「Pyare Mohan」の音楽や踊りは悪くなかったが、印象に残る曲に欠けた。
バンコクが舞台となっており、タイ人もエキストラで出ていた。警察署の署長を演じていた男優はもしかしたらタイでは少し有名な人かもしれない。しかし、俳優たちがタイ人のことを「中国人(チャイニーズまたはチーニー)」と呼んでいることが気になった。インド人は日本人を中国人と混同することが多いが、タイ人のことも中国人と呼んで変に思わないのだろうか?もしかしてインド人の言う「中国人」は、広い意味での用法があるのかもしれない。ヒンディー語の「アングレーズィー」という言葉は、「英国人」という原義に加え、外国人全般を指すのにも使われる。それと同じように、ヒンディー語の「チーニー」には、東洋人全般を指す使い方があるのかもしれないと感じた。
ちなみに、映画中インドラ・クマール自身が監督した「Mann」(1999年)の映像が使われていた。
「Pyare Mohan」は、コメディー映画としてはお世辞にも優れた作品とは言えないが、コント集と思えば笑えるシーンはいくつかある。それでも、無理して見る価値はないと言い切っていいだろう。
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大学の授業が一段落つき、時間に余裕ができたので、どこかへ行こうと考えていた。もう酷暑期に入っているので、平野部は避けたい。となると、デリー周辺部では自ずと目的地はヒマーチャル・プラデーシュ州かウッタラーンチャル州に限られてくる。
前々から行って見たかった場所のひとつに「花の谷」があった。ヒマーラヤ山脈の奥地、ウッタラーンチャル州北部にあるこの谷は、名前が示す通り、300〜500種類の花々が咲き乱れる「地上の楽園」と聞いていた。「花の谷」は、英語では「Valley
of Flowers」、ヒンディー語では「プシュプガーティー」「プールガーティー」「プシュパーワティー」などいろいろな名称がある。これは、この谷が英国人登山家フランク・スミスに「発見」されて「Valley
of Flowers」と名付けられたからであろう。元々はビューンダール谷と呼ばれていた。1931年、スミスは中国との国境にあるカーメート山(7756m)の登頂を終えて帰る途中、偶然花々で満たされたこの谷を「発見」し、著書の中でこの谷を「Valley
of Flowers」と呼ぶと同時に、「私の登山人生の中で、これほど美しい谷は今まで見たことがない」と書き記した。また、ヒンドゥー教の神話では、ハヌマーンはラーヴァンとの戦争で負傷したラクシュマンを救うため、この谷から薬草を持って行ったとも言われている。花の谷は、1982年に国立公園に指定された。
花の谷の花々が最も咲き揃うベスト・シーズンは7月〜8月。だが、この時期は雨季と重なってしまうため、アクセスが困難になる。山道なので、雨が降ると土砂崩れが起き、道路が塞がってしまうのだ。ベスト・シーズンにアクセスが困難になるとは何とザーリム(いけず)な観光地。しかし、それこそがこの谷を楽園たらしめているのであろう。
花の谷のことを考え出したら止まらなくなってしまったので、これこそが旅立ちのときだと直感し、目的地を花の谷に定めた。先月、同じくウッタラーンチャル州の有名な避暑地ナイニータールへ行ったときに、途中の道路がけっこうきれいだったことに感銘を受けた。これならバイクでも行ける、と考えていた。花の谷の旅行経験のある人に聞いてみたら、やはりバイクで行ける、と言われたので、それならいっそのことバイクで行ってみよう、ということになった。ただし、毎度お世話になっている旅行ガイド「ロンリープラネット」(英語最新版)には、途中の町からトレッキングして行かなければならないようなことが書かれていた。とにかく行ってみなければ分からない。バイクで行けるところまで行く、というのが今回のツーリングの基本姿勢である。
シェーカーワーティー・ツーリングや黄金の三角形ツーリングに引き続き、今回も単独ツーリングとなる。道連れは例によってヒーローホンダのカリズマ(225cc)のみ。しかも、今回は今までで最も長期かつ最も難易度の高いツーリングになることが予想される。旅行期間は1週間を予定。今まで3日が最高である。そして、今回初めてインドの山道のツーリングに挑戦する。これまでインドの悪路と悪戦苦闘してきたが、それは全て平野部の道の話であった。インドの道は平地でも十分危ないので、山道は相当危険であることは言うまでもない。ただ、もしナイニータール行きの道のような広くてきれいな道が続くならば、思ったほど危なくもないだろう。どのような道路かは行ってみなければ分からないが、途中、地滑り多発地帯があるとの情報もあり、十二分に気を付けなければならない(昔、ヒマーチャル・プラデーシュ州のチャンバー谷を旅行したときに、地滑り多発地帯の恐ろしさを目の当たりにした)。また、山なので、いくら雨季前と言っても天候を信頼することはできない。気温も標高が上がるにつれてどんどん下がるだろう。平野部では防寒具を背負っての走行になるので、必然的に荷物も今までで一番多くなる。それにもし、花の谷までトレッキングしなければならないなら、どこかにバイクを置いて行かなければならないだろう。あらゆる意味で、今までで最も困難なツーリングである。
ロンリープラネットなどを参考にしながら、以下のように旅程を立てた。まず、一日目にリシケーシュまで行って1泊する(予想走行距離220km)。2日目はリシケーシュからゴーヴィンドガートまたはジョーシーマトへ(予想走行距離約200km)。3日目は花の谷観光の拠点となるガーンガリヤーへ。4日目は花の谷観光。5日目にゴーヴィンドガートまたはジョーシーマトまで戻り、6日目にリシケーシュへ、7日目にデリーへ到着。もし時間があったら、バドリーナートやマーナーも観光してみようと考えていた。全て、デリーとマーナーを結ぶ国道58線上の移動となる。
ロンリープラネットのガイドブックの他、今回は2つの地図を主に参考にした。ロンリープラネットが出している「India & Bangladesh
Road Atlas」と、アイチャル(Eicher)が出している「India Road Atlas」である。どちらの地図も一長一短があるが、2つの地図を見合わせると両者の弱点を補完することができてよい。例えば、どちらの地図も全ての道を網羅しておらず、どちらが詳しいとは断言できないが、2つを見比べることでより多くの道の存在を知ることができる。また、ロンリープラネットの方は見やすい一方、アイチャルの方はバイパスの情報に詳しい。もちろん、2つの地図を持ち歩くのは荷物になるから、必要な部分だけコピーして持参した。
出発当日は6時起床。最近日本からやって来た知り合いが持ってきてくれた納豆を朝食に食べ、パッキングをし、部屋に飾ってあるサラスワティー女神の絵に旅行の無事を祈願してから、7時半頃に南デリーにある自宅を出発。ビーカージー・カーマ・バヴァン近くのガソリンスタンドでガソリンを満タンにして、トリップメーターをゼロに合わせる。まずはガーズィヤーバードを目指す。これでインディア・エクスプレスに書いたが、先日デリー州境ギリギリにあるガーズィヤーバード県カウシャンビーにあるパシフィック・モールを訪れたばかりなので、道に迷うことはなかった。パシフィック・モールを越え、一路東を目指した。初めてパシフィック・モールよりもさらに東へ行って見て驚いたのだが、この辺り(カウシャンビーやヴァイシャーリー、どちらの地名も仏教聖地から取られている)はグルガーオン並みに多くのモールが道沿いに林立していた。だが、モール密集地帯を越えると道は急に狭く悪くなり、渋滞を引き起こしていた。今日は日曜日なので道は比較的空いていたが、それでもガーズィヤーバードの渋滞のおかげでNCR(デリー首都圏)を脱出するのに1時間かかってしまった。
ガーズィヤーバードの次に目指すのはメーラト。「Meerut」と書いて「メーラト」と読む。ガーズィヤーバードから北東に約50kmの地点にある。ガーズィヤーバードを抜けると中央分離帯が消え、無理な追い越しが死神を招く危険な対面車線となったが、いつものようにインド人の危険な走行に注意しながら進んだ。メーラトは1857年のインド大反乱の舞台となった街のひとつである他、歴史のある街である。一度じっくり観光してみたい場所のひとつだが、今回は一刻も早く暑い平野部を通り抜けたいので素通り。メーラトにはバイパスが出来ており、市街地を通らずに通り抜けることができた。そのメーラトのバイパス上にカフェ・コーヒーデーがあったので、そこでコーヒー休憩をした。時計は9時過ぎになっていた。
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デリーではお馴染みの喫茶店チェーン、カフェ・コーヒーデー
メーラトを抜けた後、国道58線を北上し、ムザッファルナガルを目指した。ムザッファルナガルにもバイパスがあり、市街地を迂回して通り抜けることができた。だが、このバイパスの途中には踏み切りがあり、これが大渋滞を引き起こしていた。正確に言えば、踏み切りが大渋滞を引き起こすというよりも、踏み切りを待つインド人のマナーの悪さが大渋滞を引き起こす。インド人は踏み切りが下がると、列を作るということはせず、餌に群がる鯉のように両側に我先と押し寄せてしまう。よって、踏み切りが上がると、両側の道一杯に広がった車両が一気に押し寄せ、にっちもさっちも行かない大渋滞となってしまうのだ。列に並んだ方が結局は早く進むことができる、ということにいつになったら気付くのだろうか?
ムザッファルナガルのバイパスを通り抜け、再び北東方向へ伸びる国道58号線を進み、今度はルールキーという街に辿り着いた。ルールキーにはバイパスがなく、市街地を通り抜けなければならなかった。ルールキーには軍隊の駐屯地があった。ガーズィヤーバードから今まで通って来た街はウッタル・プラデーシュ州内だが、ルールキーはもう既にウッタラーンチャル州である。
ルールキーから30kmさらに北東へ進むと、「デーヴブーミ(神の地)」の始まり、ハリドワール(神の門)である。ハリドワールは母なるガンガー(ガンジス河)の西岸にあるヒンドゥー教の聖地である。ハリドワールには何度か来ているが、今まで滞在してじっくり見て回ったことはない。時計を見ると12時半、もう昼時になっていたので、ハリドワールで昼食を食べることにした。しかし、誤って狭い市場内を通り抜ける道を選んでしまい、人込みをかきわけつつガンガー西岸の道を進む羽目になってしまった。そのごった返した市場を抜けた先が、ハリドワールの中心、ハリ・キ・パウリー(神の足)ガートの広場であった。インドで最も有名な沐浴場のひとつだが、何だか沐浴している人よりも水浴びしている人の方が多かった。ハリドワールの標高はまだ250mほど。デリーと変わらない暑さである。
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ハリ・キ・パウリー・ガート
せっかくなので、ハリ・キ・パウリー・ガート近く、バラー・バーザールにある有名なレストラン、チョーティーワーラーで昼食を食べることにした。チョーティーワーラーはハリドワール、リシケーシュ、、その他の都市などでよく見かけるレストラン名である。どうもこれらは同じ系列のチェーン店というわけではなく、どこかが本物で、その他は類似店のようだ。ロンリープラネットにはリシケーシュのチョーティーワーラーが「オリジナル」だと書いてある。だが、ハリドワールのチョーティーワーラーの看板には、「Pracheen(古い)」と「Asli(本物の)」という形容詞が付けられていた。日本ではよく有名店の「元祖」と「本家」が本物争いをしたりするが、このハリドワールのチョーティーワーラーは一挙に「元祖」と「本家」の両方を名乗っているということか。
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チョーティーワーラー
ちなみにチョーティーワーラーではチョーティーワーラー・スペシャル(75ルピー)というカレーを食べた。マタル・マッシュルーム(豆とマッシュルームのカレー)にパニール(インド風チーズ)が入っている感じのカレーであった。75ルピー。けっこう疲れていて食欲があまりなかったので、腹に重めであった。
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チョーティーワーラー・スペシャル
1時過ぎにハリドワールを出て、今日の目的地リシケーシュを目指す。リシケーシュはハリドワールから25kmほどにある、「ヨーガの故郷」として知られるガンガー沿いの山間の街だ。西岸が主な市街地となっているが、東岸にも町は広がっている。リシケーシュはこれで通算3度目になる。初めてインドを旅行した1999年に訪れた他、ヒンディー語の語学学校ケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターン(中央ヒンディー語学院)に通っていた頃に催された修学旅行のようなイベントでも訪れた。中学生の頃からビートルズが好きだった僕にとって、リシケーシュは憧れの土地であった。その関係で初インド旅行で訪れたのだが、それが今では通過点に過ぎないとは・・・。かつての目的地が現在はただの通過点・・・この変化に何だか感慨深いものを感じる。僕もだいぶ成長したな・・・ということなのだろうか?そんなことを考えながら、リシケーシュに2時頃に到着した。
初めてリシケーシュを訪れたときには、なぜだか覚えていないが、あまり観光客の溜まり場となっていないメイン・バススタンドの近くのホテルに宿泊した。2度目に訪れたときは、修学旅行的ツアーだったこともあり、アーシュラム(修験場)に宿泊した。今回は、バイクがあるのでゴチャゴチャした路地にあるゲストハウスは避け、ロンリープラネットを参考にして、リシケーシュのバックパッカーの溜まり場のひとつ、ハイ・バンクのホテルに宿泊することにした。ハイ・バンクはガンガー沿いではなく、ガンガーを見下ろせる高地にあるこじんまりとした一画で、いくつかのリーズナブルなホテルが密集している。静かな場所ではあるが、高地にあるがために交通の便が悪く、普通の旅行者はホテルと市街地を往復するのに坂道を上ったり下りたりしなければならない(僕はバイクがあるので楽勝だが)。僕はニュー・バンダーリー・スイス・コテージに宿泊することにした。バイクを駐輪する場所も一応あったので安心。バスルーム付きのダブルルーム(シングル料金)で300ルピー。ホットシャワーも出た。この辺りは本当にヒッピー風の格好をした外国人旅行者が多くたむろっており、夜はヒッピーナイトといった感じであった。普段着を着て旅行をしている僕は明らかに浮いていた・・・。
リシケーシュの標高は350mほど。だが、まだまだ暑さはそれほど和らいでおらず、水シャワーが気持ちいいくらいだ。ホテルにチェックインし、シャワーを浴びて1時間ほど休んだ後、リシケーシュ観光に出掛けた。前述の通り、もう既にリシケーシュはけっこう見て回ってしまったが、それでもせっかくリシケーシュに来たので少しは観光しておこうと思った。
リシケーシュのシンボルと言えば、ガンガーに架かる吊り橋、ラクシュマン・ジューラーである。ラクシュマン・ジューラーの近くの駐車場にバイクを止め、ラクシュマン・ジューラーまで歩いて行った。ロンリープラネットには、ラクシュマン・ジューラーは「歩行者専用」と書かれていたので、てっきりバイクでは渡れないと思って駐車場にバイクを置いて来たのだが・・・余裕でバイクが橋を渡っていた!だが、ゆっくり散歩したい気分だったのでそのままラクシュマン・ジューラーを渡り、ガンガー東岸を散歩した。
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ラクシュマン・ジューラー
以前訪れたときのリシケーシュがどんな感じだったかは正直なところあまり覚えていないのだが、今回リシケーシュを散歩してみて感じたのは、インド人観光客――巡礼客ではなく――の圧倒的多さであった。おそらく巡礼も兼ねてリシケーシュに来ているのだろうが、その格好からは主な目的が避暑とレジャーであることが一目瞭然であった。観光地化も一段と進んでいたように感じた。この暑さに加え、聖地の観光地化は訪れる者の失望を誘うが、それでものんびりと散歩をしてあちこち眺めていると、喧騒と喧騒の合間に、聖地としての静かな輝きがキラリと見え隠れしていることに気付いた。特にラクシュマン・ジューラーとラーム・ジューラー(前者の2km下流にある橋で、シヴァーナンド・ジューラーとも呼ぶ)の間のガンガー東岸遊歩道は、今でも聖地リシケーシュの静けさを保っていた。
その遊歩道上で占いマシーンを発見。同じようなマシーンをヒマーチャル・プラデーシュ州のジュワーラームキーで見て、試しにやってみたことがあった。ジュワーラームキーのものは人型だったが、リシケーシュのものは四角形のボード型。値段は1回10ルピー。今回も試してみることにした。ヘッドフォンがセンサーになっており、それを耳に当てると、センサーが人体を探知してその人の未来を読み、占いの結果をヒンディー語で教えてくれる。もちろんそんなことはなく、単にそばに座っているおっさんが適当にスイッチをいじって占い結果を操作しているだけだ。僕の占い結果は、「あなたは今、何か金儲けを計画していますが、それは他の人に言わない方がいいでしょう。1人で進めていった方が無難です」みたいな感じだった。
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占いマシーン
ラーム・ジューラー近くには、件のチョーティーワーラーが2店並んでいる。ここのチョーティーワーラーの店先にはおかしな格好をしたマスコット・キャラがいつも座っていて、リシケーシュの写真スポットとなっている。僕も一枚撮らしてもらった。ちなみに「チョーティーワーラー」とは、頭頂部の髪の毛だけを残して丸坊主にした髪形の人のことだ。ブラーフマン(バラモン)がこのような髪型をしていることが多い。
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チョーティーワーラーのマスコット・キャラ
こう見えても生身の人間です
リシケーシュはヒンドゥー教の聖地なので、市内に寺院は五万とあり、ひとつひとつ見て回ったら切りがない。そもそも僕は片っ端から寺院を参拝するほどの寺院マニアでもない。だが、気になった寺院にはとりあえず足を踏み入れてみるだけの好奇心はある。今回、リシケーシュで僕が気になって足を踏み入れたのは、ラクシュマン・ジューラーの近くにあるダルマラージ寺院であった。ヒマーチャル・プラデーシュ州バルマウルを旅行したときにもダルマラージ寺院を見かけたのだが、そのとき地元の人に、「ダルマラージ寺院はインド広しと言えど、ここにしかない」と言われた。だが、リシケーシュにあった。多分インド中を探せば他にもいくつかあるのではなかろうか?ダルマラージは文字通りダルマの神である。ヒンディー語またはサンスクリット語の「ダルマ(Dharma)」は、外国語に翻訳するのが最も難しい単語のひとつで、「義務」とか「宗教」とか「正義」とかいろいろな訳語が当てはまるし、日本語の「達磨」も元々この単語が語源となっている。だが、個人的に「ダルマ」は「理」という漢字に最も近いのではないかと思う。ダルマラージは、人間が死んだ後に、その生前の行いを見て天国へ行きか地獄行きか、人間に生まれ変わるか動物などに生まれ変わるかなどの判断を下す神様である。ヤマや閻魔様とイメージがかぶるが、ヤマはどうやら死んだ人間の魂をダルマラージのところへ引っ張ってくる役割を果たすだけで、真の採決を下すのはこのダルマラージとのことである。
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ダルマラージ寺院のご本尊
中央にいるのがダルマラージ、右にいる小さい像が一般にダルマラージの書記官と言われるチトラグプタ、そして左にいる牛頭馬頭のような像がヤマ(閻魔様)らしい。
ダルマラージに関する興味深い神話がある。
昔、あるところに王様がいた。あるとき、その王様の領土で旱魃が起こった。王様は人民を救うため、何でも持っている物を望み通りの値段で買うとのお触れを出した。人民は、家にあった品物を王様のところに持って行き、望むだけのお金を受け取って食べ物を買って飢えをしのいだ。
あるとき、1人の男が王様のもとにダリドラナーラーヤン(貧乏神)の像を持って来た。王様は約束通り、そのダリドラナーラーヤンの像を買い取った。
その日から、王様は奇妙な夢を見るようになった。ダリドラナーラーヤンの像を買い取った日の夜、王様の夢の中で、白衣の女性が王宮を去って行こうとしていた。王様がその女性に「あなたは誰ですか?」と問いかけると、その女性は答えた。「私はラクシュミー(富の女神)です。ダリドラナーラーヤンのいる場所に留まることはできないので、今から立ち去るところです。」王様は何も言わずにラクシュミーを見送った。
次の晩、王様は夢の中でサラスワティー(学問の女神)が立ち去っていくのを見た。また次の晩、今度はドゥルガー(力の女神)が立ち去っていった。こうして、王様の王国からは次々に神様が去って行ってしまった。
そしてある晩、王様は1人の神様が去って行こうとするのを見た。王様が「あなたは誰ですか?」と問いかけると、その神様は「私はダルマラージです」と答えた。今まで王様は立ち去っていく神様や女神を止めることはしなかったが、ダルマラージが立ち去っていくのを見ると足にすがりついて止めた。「私を見捨てないで下さい。全てはあなたのためにしたことなのです。」王様の必死の説得により、ダルマラージは王国に留まった。
ダルマラージが王国に留まったことにより、王国から立ち去ってしまったラクシュミー、サラスワティー、ドゥルガーなどの神々も徐々に帰って来た。
ダルマがあるところに富があり、学問があり、力があり、全ての神々が住むのである。ダルマラージを祀る寺院は今のところヒマーチャル・プラデーシュ州のバルマウルとこのリシケーシュでしか見たことがないが、インドの神様の中でダルマラージが最も面白いと思っている。
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本日の走行距離251.4km。
今日は国道58号線に沿って、山の奥地へ入っていく。目的地はジョーシーマトかゴーヴィンドガート。ジョーシーマトは、リシケーシュから約250kmの地点にある比較的大きな町であり、今日は少なくともここまで辿り着きたいと考えていた。もし時間があったら、ジョーシーマトからさらに約20km行ったところにあるゴーヴィンドガートを目指したい。ゴーヴィンドガートは、花の谷トレッキングのゲートウェイとなる町である。今回のツーリングが成功するか否かは、ほぼ本日の移動如何にかかっていると言っていいだろう。
早朝6時起床。ここから先は相当な僻地になることが予想され、極寒の中でホットシャワーのない宿に泊まらなければならなくなる可能性大なので、朝シャワーを浴びておいた。ホテルで朝食を取り、午前8時には出発した。
リシケーシュを越えると、遂に完全な山道となった。峡谷の中腹にある曲がりくねった道を進んでいく。眼下には碧色のガンガーが流れている。しばらく進むと、ラフティングの基地がいくつか見えてきた。ガンガー下りをするリバー・ラフティングは、リシケーシュの主なアトラクションのひとつである。ニームラーナー系列のホテル、グラス・オン・ガンジスも発見。リシケーシュは聖地というよりも今やリゾート地に近い。このグラス・オン・ガンジスの辺りから途端に道が悪くなった。ただし、リシケーシュから約30kmの地点にあるヴャースィーという村の辺りから再び道はよくなった。
リシケーシュとバドリーナートの間には、○○プラヤーグという地名が数多くある。デーヴァプラヤーグ、ルドラプラヤーグ、カルナプラヤーグ、ナンダプラヤーグ、ヴィシュヌプラヤーグである。これらを合わせてパンチプラヤーグ(5つのプラヤーグ)と呼ぶ。プラヤーグとは「河の合流点」という意味で、プラヤーグが付く場所は文字通り河と河の合流点となっており、そしてヒンドゥー教の聖地となっている。プラヤーグの付く最も有名な聖地は、ウッタル・プラデーシュ州のイラーハーバードであろう。イラーハーバードの正式名称はティールトラージ・プラヤーグと言う。これら国道58号線上のパンチプラヤーグの中で、特にデーヴァプラヤーグを一度見てみたいと思っていた。リシケーシュから50kmほどの地点にあるデーヴァプラヤーグは、ヴィヴェーク・オベロイ主演の「Kisna」(2005年)に出てきて、強く印象に残っていたのだ。バーギーラティー河とアラクナンダー河に挟まれた切り立った崖に家屋がへばりつくように立ち並んでいる光景は非常に独特であった。デーヴァプラヤーグには10時頃到着。映画で見たそのままの光景がそこに広がっていた。だが、今日は先を急ぐ必要があるので、写真を撮っただけで素通りした。デーヴァプラヤーグには帰りに立ち寄る予定である。
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デーヴァプラヤーグのサンガム(河の合流点)
デーヴァプラヤーグの次にある大きな町はシュリーナガル。リシケーシュから105kmの地点にあるこの町は、ジャンムー&カシュミール州の州都シュリーナガルとは別の町である。こちらは、デーヴァプラヤーグとは違って河岸のなだらかな斜面に広がる比較的活気のある町であった。国道58号線が通ったために発展した町とのことである。シュリーナガルを越えてさらに進むと、今度はルドラプラヤーグに到達した。ルドラプラヤーグはマンダーキニー河とアラクナンダー河の合流点にある町である。デーヴァプラヤーグと似た雰囲気の、河の合流点を中心に広がる町であった。ルドラプラヤーグには11時半頃に到着。ルドラプラヤーグからさらに35km上流へ行くと、今度はピンダール河とアラクナンダー河の合流点カルナプラヤーグがある。カルナプラヤーグに着いたときには12時45分頃になっていた。
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ルドラプラヤーグ遠景
カルナプラヤーグを越えてしばらく行ったところに、ランガースーという小さな町があった。昼時になっていたので、その道端の食堂で昼食を取ることにした。ダール(豆カレー)、サブジー(野菜カレー)、ローティー(インド式パン)、チャーワル(ご飯)を食べてしばらく休んだ。
1時半に再びバイクにまたがって出発した。ナンダプラヤーグ、チャモーリー、ピーパルコーティーなどの山間の町を越え、ジョーシーマトに辿り着いたのが3時半頃。ジョーシーマトは山の中腹にある標高1845mの町で、もうだいぶ涼しかった。このままゴーヴィンドガートまで行けそうだったので、ジョーシーマトは素通りすることにした。間違った道を行ってしまって30分くらい迷っていたが、4時頃にはジョーシーマトからゴーヴィンドガートへ通じる道を取ることができた。ジョーシーマトの町から一旦、アラクナンダー河の流域ギリギリまで下りるジグザグの坂道を下り、橋を渡ってヴィシュヌプラヤーグを越えると、もうそこはほとんど通行する車のない孤独の峡谷地帯であった。天を衝くような山々に見下ろされながら、悪路と戦いながらバイクで走行した。ジョーシーマトからゴーヴィンドガートまでは20kmほど。4時半にはゴーヴィンドガートに辿り着いた。ゴーヴィンドガートは、国道58号線を下って行ったところにある、アラクナンダー河とラクシュマンガンガー河の合流点にある小さな町であった。
ところで、最も懸念していたリシケーシュとゴーヴィンドガートの間の道はどうだったのだろうか?結論から先に言うと、ピンからキリまでいろいろな道があった。一部の道は、ウッタラーンチャル州政府に感謝状を送りたくなるほどの美しい舗装道で、時速60km出しても問題ないくらい広くてきれいだったが、一部の道はいつ崖に落っこちてもおかしくない、死と隣り合わせの危険な悪路だった。いきなりリシケーシュとデーヴァプラヤーグの間にそういう悪路がしばらく続いたため、このままずっとこの悪路を250km以上走行しなければならないのかと不安になってしまった。デーヴァプラヤーグ辺りからしばらくきれいな舗装道が続いたため、快適に走行することができた。風景も素晴らしかったが、風景に見とれていると危ないので、ほどほどにしておいた。シュリーナガルとルドラプラヤーグの間、チャモーリー周辺、ジョーシーマト周辺などにも悪路が多かった。だが、特に何のトラブルもなく移動することができて幸いだった。
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国道58号線の様子
きれいな道もあれば、危険な土砂崩れ多発地帯もあり、
いろは坂のようなジグザグ坂道もあった
途中の風景はとても美しく、木々に黄、桃、紫色の花が咲いていた
国道58号線から谷底を流れる河へ向かって降りていった場所にある標高1828mのゴーヴィンドガートは、花の谷やヘームクンド(花の谷の近くにあるスィク教の巡礼地)がシーズンを迎える6月〜8月にのみ活気付く小さな村で、今はゴーストタウンのようになっていた。村の中心地の市場にはゲストハウスが立ち並んでいるのだが、全てシャッターが下ろされていた。しかも、昨年のシーズン中に市場を直撃する土砂崩れがあったらしい。市場の多くの建物が破壊され、死者13人を出す大事故になったようだ。現在はまだ復旧作業中で、バイクでそれ以上進むことができなかった。仕方なくそこにバイクを停め、市場の中で唯一シャッターが開いていた万屋(よろずや)にたむろっていた人々に、「部屋はあるか?」と聞いてみた。すると、1人の男(後から聞いて見たらネパール人だった)が「付いて来い」と言うので、付いて行ったら、バラト・ゲストハウスという宿を紹介してくれた。このゲストハウスも本当は営業中ではなかったが、主のウぺーンドラ・メヘターは特別に部屋を開けてくれた。料金は150ルピーでいいと言われた。シーズン中はもっと取っているみたいだ。
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ゴーヴィンドガート
赤い屋根の建物は全てグルドワーラー(左上、右下)
市場にあるホテルは全て閉店中(右上)
昨年の土砂崩れ現場、復旧作業中(左下)
地元の人々の話では、花の谷観光の拠点となるガーンガリヤーはまだシーズンではないために無人で、当然宿もないらしい。せっかくここまで来たのに・・・とショックと疲労で倒れそうになった僕であったが、しかしさらなる情報では、ゴーヴィンドガートから日帰りでトレッキングすることは不可能ではないらしい。現に、2人の白人旅行者がつい昨日までゴーヴィンドガートに滞在しており、日帰りで花の谷をトレッキングして来たそうだ。確かに今日、来る途中で白人が2人乗りしたバイクとすれ違った。多分花の谷に行って来たんだろう、と思っていたが、やはりその通りであった。ありがたいことに、僕を市場からゲストハウスまで案内してくれたネパール人が明日、花の谷まで案内してくれると言って来たので、彼に頼むことにした。彼の名前はガンガー・バハードゥル・ターパー。明日早朝5時出発ということになった。
ウペーンドラが、隣町のパーンドゥケーシュワルに用事があるから観光がてら一緒に行かないか、と誘って来たので、僕のバイクで一緒に行くことにした。パーンドゥケーシュワルはゴーヴィンドガートから2kmほどの場所にある国道58号線上の町である。伝説によると、「マハーバーラタ」のパーンダヴァ5兄弟の父親パーンドゥが解脱を得る前にここに滞在していたために、パーンドゥケーシュワルという地名が付いたそうだ。ゴーヴィンドガートはSTDもないようなゴーストタウンだが、パーンドゥケーシュワルにはまだいろいろ揃っていた。僕は電話をかけたかったのだが・・・あいにく停電で使えず。携帯電話も使用不可である。ちなみに、ウペーンドラはパーンドゥケーシュワルに新聞を取りに来ただけだった。新聞すらゴーヴィンドガートには届かないようだ。
ところで、パーンドゥケーシュワルにはひとつ面白い寺院があった。石造りのこじんまりとした寺院が2つ並んでいたのだが、その造形は非常に美しかった。地元の人々に言い伝えによると、「マハーバーラタ」に出てくる英雄の1人、ビームが造ったそうだ。ヨーグ・バドリー(ヨーガディヤーン・バドリー)寺院というらしい。中にはヴィシュヌ神が祀られていた。バドリーナートまでの道には、パンチバドリー(5つのバドリー)というヴィシュヌ関係の寺院があるようだ。パンチバドリーとは、バドリーナート、ヨーガディヤーン・バドリー、バヴィシャエ・バドリー、ヴリッド・バドリー、アーディ・バドリーの5つである。
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ヨーグ・バドリー寺院
右下は寺院の近くにいた子供たち
ゴーヴィンドガートにはグルドワーラー(スィク教寺院)がある。ヘームクンドへ行くスィク教巡礼者のために建てられたというが、誰でも宿泊することが可能である。食事もただですることができ、僕もここで夕食を食べた。ただし、スィク教の習慣に従い、ここでただ飯を食べる人は頭に布を巻かなければならない。僕はハンカチを頭の上に乗せておいた。今日のメニューは大豆のグルテンのカレーだった。ワーヘグルー、ワーヘグルーと言いながら、ターリー(皿)に食事を盛ってもらった。普通においしかった。ワーヘグルーとはスィク教で最も大事な言葉のひとつで、直訳すると「素晴らしい主」になる。
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本日の走行距離281.4km、本日までの総走行距離532.8km。
花の谷へのトレッキングは、今回のツーリングのハイライトである。まだ花なんてない、と地元の人々には散々忠告されたが、ロンリープラネットの「ほとんどの花は、雨がアクセスを困難かつ危険なものにする7月と8月に開花するが、それでも花の谷の美しさはどの季節に来ても楽しむことができる」との記述を信じ、トレッキングを決行することにした。
朝5時にガンガーが僕の部屋まで来てくれることになっており、4時半頃に起きて仕度をして待っていたが、いつまで経っても来なかった。ガンガーが隣の建物に住んでいることは分かっていたので、家の前で「ガンガー・ジー!」と大声を上げて呼んでみたら、中からいかにも寝起きっぽいガンガーが出てきた。インドではよくあることなので何とも思わない。
まずは市場で唯一開いている万屋へ行った。ありがたいことに、5時からこの店は開いている。ここでオムレツを食べ、チャーイを飲み、トレッキングの途中で食べるための食料を買った。と言っても大したものは売っていないので、ビスケットとオレンジを買った。
何だかんだで出発は朝6時となった。ゴーヴィンドガートのグルドワーラーの近くにある吊り橋が、花の谷やヘームクンドへのトレッキングの拠点となるガーンガリヤー村への、13kmの登山道の入り口となる。
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吊り橋の入り口
ちょうど僕たちが出発したときに、荷物を運ぶ馬たちの隊列も出発のときを迎えていた。途中まではこの馬たちをペースメーカーにして歩いて行った。山登りはどちらかというと上る方が得意なので、ガンガーも驚く驚異的ペースで進んだ。
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荷物を運ぶ馬たち
先にも述べたように、ゴーヴィンドガートからガーンガリヤーまでは13kmの道のり。その途中にはいくつか村や売店があるが、まだシーズンではないので多くの村は無人で、売店もほぼ全て閉まっていた。売店は、ゴーヴィンドガートから2kmほどの地点と、9kmほどの地点の2ヶ所しか開いておらず、チャーイ、ビスケット、キャンディーが手に入るぐらいだった。だが、このチャーイがいかに嬉しいことか。山道を歩いていると、「ああ、コーラを飲みたい」「フルーティー(マンゴージュース)が欲しい」と何度も妄想したものだが、1杯のチャーイがそれらの妄想を瞬時にかき消してしまうのだった。食料として持ってきたビスケットも、デリーにいるときは見向きもしないような安ビスケットだし、インドのオレンジは甘くないので普段はあまり食べないのだが、これらがトレッキングに疲れた体に何と甘く感じたことか。ガーンガリヤーではミネラルウォーターが手に入らなかったので、飲料は持って来なかった。だが、途中に雪解け水をそのまま吸い上げた水道の蛇口がいくつかあったので、その水で喉の渇きを癒すことが出来た。ヒマーラヤの水はデリーの水道水とは比べ物にならないくらいおいしい。飲んでも別に問題はないばかりか、体にいい気がする。雪を抱いた峻険な山々を眼前に臨みながら美しい自然の中をトレッキングするので、自然を楽しむという目的ならこれだけでも満足なくらいだ。ラクシュマンガンガー河に沿って、トレッキングを続けて行った。
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トレッキングの風景
左上はアラクナンダー河、右上は氷河
道は途中までは一応「悪くない」と言えるレベルであった。だが、何しろ雨と雪と土砂崩れが頻繁に道を破壊してしまうし、まだ建設途中の道もあったりして、ひどい悪路を歩かなければならない部分がいくつかあった。見た目舗装されている道でも油断はできない。ガンガーによると、昨年のシーズン中、突然道が崩れてカナダ人旅行者が崖に落ちて死亡したそうだ。その部分は道が半分なくなっていた。シーズン中は前述の通り雨がよく降るし、多くの人がトレッキングをするため、その重量に耐えられなくなって道が崩れることがあるそうだ。それでも、ガーンガリヤーから9km行った地点にビューンダールという村があり、そこまでは比較的なだらかな道が多くて楽に辿り着けた。だが、この村を越えると道は容赦ない上り坂となる。上り坂なだけでなく、ほとんどの部分は砂利道を上っていかなければならないので、2倍疲れる。途中に橋があるのだが、それを越えるとさらにきつくなる。少し歩くごとに数分休憩をとりつつ、何とかこの難関を切り抜けると、そこにはヘリコプター発着所のある開けた広場になっていた。ヘリコプターで来ることもできるのか!ここまで来ればガーンガリヤーはすぐそこである。ガーンガリヤーに到着したのは、ゴーヴィンドガートを出てから5時間15分後の11時15分頃であった。標高は4000m近くらしい。
聞いていた通り、ガーンガリヤーもゴーストタウンであった。ゴーヴィンドガートにはまだ人が住んでおり、開いている店もあったが、ガーンガリヤーはシャッターが閉ざされているか、廃墟となっている建物しかなかった。チャーイ屋すらなかった。ただ、工事の労働者と、グルドワーラーの留守番がいるだけであった。このゴーストタウンが、シーズン中は空き部屋が見つからないくらいツーリストでごった返す活気ある村に変貌するらしい。冬は相当雪が降り積もるようで、建物のいくつかは雪の重みで壊れてしまうそうだ。まだ所々雪も残っていた。だが、気になるのはガーンガリヤーの家屋の建築はどう見ても積雪地帯のものではないことだ。こんな平たい屋根の建物を作っていたら、雪で家が破壊されるのは当然であろう。おそらく、花の谷やヘームクンドへ向かう観光客を当て込んで最近になって急速に発展した村であるため、このような状態となっているのだろう。
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ガーンガリヤー
ガーンガリヤーは1本の道の両脇に建物が立ち並ぶだけの小さな村である。その道をまっすぐ進んで行くと、その先に広がるのが花の谷である・・・はずだが、やっぱり花はほとんど咲いておらず、枯れ木が立ち並んでいるだけであった。これらの木々が一斉に開花していると想像力を膨らませてみると・・・絶景かもしれない。
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ガーンガリヤーを抜けると、そこは花の谷
だが今は枯れ木ばかりの花のない花の谷
村を出て500mほど歩くと、まずは河がある。その河には橋が架かっているのだが、雪と氷河のせいで破壊されていた。石から石へ飛び移りつつ河を渡り、橋からさらに少し進むと、花の谷行きの道とヘームクンド行きの道が別れている。そして花の谷行きの道の入り口には、花の谷の入場ゲートがあった。だが、ゲートは雪で破壊し尽くされており、警備員も誰もいなかった。花の谷は入場料が必要だが、誰もいないのでただで入ることができた。ゲートを通ってしばらく歩くが、やはりほとんど花は咲いていなかった。全く咲いていないことはなかったが、小さな花がポツポツと咲いているだけであった。だが、それらは途中の道でも咲いているし、そもそも花の量から行ったら途中の道の方が多かった。やはり花の谷はシーズン中に来なければ一面に咲く花を拝むことはできないようだ。聞くところによると8月15日辺りが最も美しいらしい。だが、当初から覚悟はしていたので、花の谷まで辿り着けたことの満足感と、こんな季節外れの来客のために咲いていてくれたそれらの小さな花々に感謝の気持ちでいっぱいだった。花の谷が本当に始まるのは、ゲートを通ってさらに数km歩いた先のようだが、途中の道を巨大な氷河が塞いでいて、それ以上進むことはできなかった。
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花の谷
一応少しだけ花が咲いている
仕方がないので氷河の上で遊ぶことにした、というかなぜかガンガーが氷河で遊び出したので、僕も遊ぶことにしたのだった。既に所々解け始めているので、慎重に足場を選びながら、氷河の真ん中まで行って記念撮影。しばらく氷河の上でボーッとしていたが、空を見るとだんだん雲行きが怪しくなって来ていた。そこで、ガーンガリヤーまで戻ることにした。
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氷河と滝
ガーンガリヤーの廃墟となった家屋のひとつで休んでいると、案の定雨が降り出した。だが、小雨程度でそれ以上強くなる気配もなかったので、折を見て下山することにした。ガーンガリヤーを出たのは12時半頃であった。
上りはとにかく息が疲れたが、休み休み行けば何とかなった。一方、下りは息が疲れることはないのだが、足場が悪いために上り以上に慎重にならざるをえず、しかも足が痛み出していたので、かなりゆっくりとしたペースで進んで行った。なぜか上りよりも下りの方が長く感じた。ゴーヴィンドガートに辿り着いたのは午後5時半頃になっていた。つまり、上りとほぼ同じ時間がかかったことになる。ホテルに戻ると、もう身体が限界となっていたので、そのまま寝込んでしまった。合計約28kmのトレッキングだったが、多分人生の中で最もつらいトレッキングだったと思う。何しろ道が悪いために足腰に堪えるのだ。既にいつかシーズン中にもう一度花の谷を訪れるという野望を抱いているが、今度来たときは絶対に馬に乗って行くことを誓った。日帰りしなければこれほど疲れはしなかっただろうし、シーズンに向けて道路工事が進んでいるので、もしかしたらシーズン中はけっこういい道になっているかもしれないが、それでももうあんなつらい道は御免こうむりたい。ちなみに、この花の谷以外にもウッタラーンチャル州にはキラウン・ガーティー(Khiraun
Ghati)という別の花の谷があるそうだ。
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本日はトレッキングのみでバイクに乗らず。
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4月26日(水) バドリーナート/アウリー |
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元々3日かけて見て回ろうと思っていた花の谷を日帰りで片付けてしまったため、日程に余裕ができた。今日は、時間が余ったら行こうと思っていたバドリーナートと、当初の予定にはなかったアウリーへ行くことにした。朝8時にゴーヴィンドガートを出発した。
バドリーナートは、ゴーヴィンドガートから国道58号線をさらに20km以上進んだ先にある。ウッタラーンチャル州の山奥には「チャールダーム」と呼ばれるヒンドゥー教の4聖地がある。ヤムノートリー、ガンゴートリー、ケーダールナート、そしてバドリーナートである。アラクナンダー河沿いにあるバドリーナート寺院は、8世紀に聖人シャンカラーチャーリヤによって建立されたとされており、これら4聖地の中で最も多くの巡礼客を集めるらしい。ただし、バドリーナートは冬の間は閉ざされており、開くのは5月4日から。インド人からしたら、なぜ開いていない寺院へわざわざ行くのか、ということになるだろうが、僕としては、国道58号線の果てまで行くことに意義があった。寺院は閉ざされているものの、既に道は開通しているようなので、行けるところまで行ってみることにした。
ゴーヴィンドガートからしばらくはアラクナンダー河に沿った悪路が続いた。この辺りも地滑り多発地帯のようで、所々非常に危険な道があった。だが、途中にダムがあり、それを越えると舗装された広い道となり、快適に走行できるようになった。いろは坂のようなジグザグの登山道をグングン上って行き、バドリーナートまでの途上、最後の村となるハヌマーン・チャッティーの手前にあるちょっと怖い鉄橋を通り抜け、バドリーナートまであと4kmの地点まで到達した。そこで難関に出くわした。氷河の雪解け水が道を遮断しているのだ。今までも道を小川が横切っていることはあったが、そこまで深くなかったので簡単に渡ることができた。だが、今回のはけっこう深い。しかもすぐ隣は断崖絶壁である。渡るべきか否か、しばし迷った。だが、この難関の先には、「バドーリーナートまであと4km」という道標が立っており、その数字の誘惑を振り切ることはできなかった。また、実は僕の前を地元の人が運転する1台のバイクが走っており、この難関を多少苦労しながらも通り抜けるのを見たので、バイクでも渡れるという自信があった。一か八かで、なるべく山側の道を選んで、一気に通り抜けた。そうしたら案外簡単に突破することができた。この後も同じような道路を遮断する小川が何度か続いたが、一度突破してしまったら後は簡単だった。案ずるより生むが安しであった。
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いつ崩れてもおかしくない悪路
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バドリーナートまでの最後の難関
前方に見える白いものは氷河
9時頃に遂にバドリーナートに到着した。バドリーナートは、その名の通りバドリーナート寺院の門前町。アラクナンダー河の両岸に広がる大きな町であった。だが、やはりまだシーズンではないので、人気があまりない。町中をバイクで走っていたら、1軒だけ開いている茶屋を見つけたので、まずはそこでチャーイを飲んで身体を温めることにした。バドリーナートは標高3133m。空気はかなり冷たくなっていた。しかし日差しが強いので、日向にいる限り寒さは感じなかった。これだけ標高が高いと、排気量225ccのカリズマもだいぶつらいかと思ったが、馬力が多少減ったぐらいで、割と普通に走行してくれていた。
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バドリーナートの町
その茶屋に荷物とヘルメットを置かせてもらい、バドリーナート寺院を見てみることにした。バドリーナート寺院は開いていなかったが、その門だけを見ることはできた。驚いたのはそのカラフルな彩色。南インド様式寺院のゴープラムというよりは、チベット寺院に近い。こんなヒンドゥー寺院があったとは知らなかった。中には15mの高さの寺院があり、1mの高さの黒いヴィシュヌ神の像が祀られているという。
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バドリーナート寺院
バドリーナートにいた人々と話していて初めて分かったのだが、どうも寺院が開いていない時期に旅行者がここまで来るには、ジョーシーマトかどこかでパーミッションを取らなければならなかったらしい。だが、途中で僕を止める人は誰もいなかったし、逮捕されることもなかった。いやはや、情報不足というのは恐ろしい。
国道58号線は、基本的にデリーとバドリーナートを結ぶ道であるが、実はバドリーナートから3km先にあるマーナー村まで続いている。マーナー村こそが真の58号線の果てである。ここまで来たら是非マーナー村まで行ってみたかったのだが、地元の人々の話によると、マーナー村の先は中国(チベット)との国境となっているため、マーナー村付近に駐屯している国境警備隊が通らせてくれないだろうとのことであった。ただし、マーナー村は手工芸品村として知られており、観光地のひとつとなっているため、シーズン中は問題なく行けるらしい。だが、交渉次第で何とかなることがあるため、とりあえずマーナー村への道を進んで国境警備隊と交渉してみることにした。マーナー村へ続く道を走っていると、案の定軍人に呼び止められた。最初は「リターン!」と言われたが、「せっかくデリーからここまで来ましたから」「すぐに帰って来ますから」とごねていたら、案外簡単に「ゴー!」と言ってもらえた。インドのこのいい加減さがたまにありがたい。
さすがにまだ開いていないことになっている道なので、道路には落石が落ちたままになっており、バイクで走行するには困難を極めた。途中、道を横切る小川も再度渡らなければならなかったが、もう経験を積んでいるので簡単に通り抜けることができた。そして遂に、国道58号線の果て、マーナー村まで辿り着いた。マーナー村より先は道がなかった。間違いなく、ここはバイクで行くことができるインド最果ての地のひとつであろう。
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マーナー村の入り口
国道58号線の果て
マーナー村は完全に無人の村であった。ヴァラエティーに富んだ伝統的家屋建築が面白いと聞いていたのだが、ヒマーラヤ地方の山村の家屋そのものであり、特に面白味はなかった。レンガとセメント作りの近代的な家屋もちらほらあった。この先にもヴャースの洞窟やビームの橋など、いくつか見所があるらしいが、あまり長居すると国境警備隊に怪しまれてしまうので、一通り村を見て回った後、引き返すことにした。
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マーナー村の様子
マーナー村を去る前に、カリズマと一緒に記念撮影をした。1人で旅行をしているとなかなか自分の写真を撮ることができず、カリズマと一緒の写真はさらに困難であるが、村の入り口にちょうどよい高さの台があり、そこにカメラを置いてセルフタイマーで撮ることができた。
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マーナー村の入り口で
雄大なヒマーラヤの山々を背景に記念撮影
マーナーから今度は一気にアウリーを目指す。茶屋に預けておいた荷物とヘルメットを受け取った後、バドリーナートの町を後にした。バドリーナートの出口近くにあった標識に、「DELHI
525 RISHIKESH 296」との表示が。随分遠くまで来たものだ。この標識をくぐったのが、10時20分頃であった。
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デリーまで525km
ところで、リシケーシュからバドリーナートまでの道では、多くのサードゥ(遊行者)を見かけた。チャールダームの巡礼を行っているのだろう。少なくともジョーシーマトからバドリーナートの間にいるサードゥたちは、皆、一路バドリーナートを目指していることは明らかだ。みんな徒歩で旅をしているのだから恐れ入る。ポーターを雇っているサードゥを見かけたり、まるで「スターウォーズ」のジェダイやシスのように、師匠と弟子のコンビらしき2人組も見かけた。サードゥたちは、途中にある村や売店などでお布施をもらいつつここまで来ている。とりあえずマーナーまで行くことができて気分がよかったので、バドリーナートまであと少しの地点に座っていたサードゥの一団にお布施しておいた(写真も撮らせてもらった)。
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巡礼中のサードゥたち
バドリーナートまであと一歩
ジョーシーマトまで戻ってガソリンスタンドでガソリンを補給。ジョーシーマトから先(バドリーナート方面)はひとつもガソリンスタンドがないので要注意である。本日の最終的目的地であるアウリーは、ジョーシーマトからさらに12km上っていったところにある。インド最高のスキー場とのことである。一度インドのスキー場がどんなものか見てみたいと思い、スキー・シーズンではなかったが行くことにしたのだった。ジョーシーマトとアウリーの間は軍隊の駐屯地となっており、軍の敷地の真っ只中を通るジグザグの山道を上っていった。僕が宿泊しようと思っていたのは、アウリーで一番高級なホテルというクリフ・トップ・クラブ。スキーのシーズンは1月〜3月で、既に過ぎているので、多分オフシーズン料金になっているのではないかという淡い期待があった。アウリーの町自体はスキー場の麓にあるようだが、クリフ・トップ・クラブはスキー場の中腹にあり、アウリーからさらに上っていかなければならなかった。この道がかなりの曲者で、今まで通ったどんな道よりも悪かった。砂利だらけの未舗装の道が2kmも続くのだ。この道は冬は雪で閉ざされてしまうため、こんな悪路なのだろう。しかも、いつまで経ってもホテルらしきものが見えてこなかったので、だんだん騙された気分になってきた。しかし、ふと立ち止まって振り返ると、雲と雪の白、木々と草原の緑、そして空の青が織り成す景色がとても素晴らしかった。
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クリフ・トップ・クラブまでの道
1時半頃にやっとクリフ・トップ・クラブに到着した。なだらかな傾斜の草原の真ん中に、ポツンとアルプスの山小屋風の建物が建っていた。周囲には何もない。あるとしたら、ジョーシーマトとアウリーを結ぶロープウェーと、スキーヤー用のチェアリフトのみである。冬場は道が雪で閉ざされてしまうので、自家用車で来る人はジョーシーマトに駐車して、ロープウェーで来なければならないようだ。このロープウェーは、標高1917mから標高3027mまでの地点を結ぶ全長4kmのアジアで最も長いロープウェーらしい。冬場以外は自動車でも来れるが、前述のようにとんでもない悪路。しかもバイクでここまで来る人はかなり珍しかったようで驚かれたが、部屋は空いているとのことで、ひとまず安心した。しかし、期待していたようなオフシーズン料金はなかった。1月〜3月はスキー客が来るが、4月〜6月の酷暑期はアウリーは避暑地となるようで、全然オフシーズンではなかった。インド人宿泊客もたくさんいた。宿泊費は、スタジオ(標準部屋)のシングル料金で3400ルピー(2食付)。高い!しかし、オーナーは非常にフレンドリーかつ話の分かる人だった。バイクでここまで来た日本人ということで、しかもヒンディー語をしゃべれるということで、50%のディスカウントを申し出てくれた。つまり、朝食と夕食付きで1700ルピー。何とか許せるレベルであったので、ここに宿泊することにした。部屋は1人で泊まるのはもったいないほど豪華であった。居間、寝室、バスルーム、冷蔵庫の他、キッチンまで付いていた。調理器具や食器も揃っており、食材さえ持って来れば自炊ができる。ホットシャワーが朝のみ利用可なのが日本人には難点か。
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クリフ・トップ・クラブ
キッチン付きで自炊もできる
クリフ・トップ・クラブの料金体系は分かりにくかったが、まとめてみると以下のようになるだろう(2005年10月〜2006年10月の料金)。
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部屋代
1泊 |
食事付き
1泊 |
スキーパック
3泊4日 |
スキーパック
6泊7日 |
スタジオ(1人) |
2400 |
3400 |
10999 |
18999 |
スタジオ(2人) |
3500 |
5000 |
15999 |
28999 |
スタジオ(3人) |
4200 |
6000 |
20999 |
38999 |
スイート(2人) |
5500 |
7200 |
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ファミリー(4人) |
7500 |
9999 |
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スキーパックには、宿泊代、食事代、スキー用具貸し出し代、スキー教習代などが含まれている。やはりインドではスキーはまだまだ金持ちの道楽なので、リッチな客を想定した料金となっている。チェアリフト代は1人100ルピーのようで、インド人庶民が手を出せる値段ではない。しかし、チェアリフト代は仕方ないとしても、宿泊費はもっと安く浮かすことができる。スキー場の麓には政府系のバンガローがあり、こちらはドミトリーから部屋があって安い(150ルピーとの情報)。ジョーシーマトにも安宿がいくつかあるため、ジョーシーマトに宿泊して、ロープウェーでスキー場まで行ってスキーをすることもできるだろう。アウリーの雪質は例年とてもいいようで、インドでスキーをするならアウリーはいい場所かもしれない。
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左上はクリフ・トップ・クラブの前の広場
左下は雪が積もったらスキー場になる場所
右の2枚はチェアリフト
花の谷トレッキングの疲れが溜まっており、アウリーは休息するために来たので、あまり精力的に動き回らなかった。スキー場の麓にアウリーの町があるようで、そこまで行けば何かもっと情報が得られたかもしれない。だが、ロープウェーもチェアリフトも動いているのか動いていないのかよく分からない状態だったので(動いているのは見たが、僕が行ったときには係員がいなくて乗れなかった)、下まで行く気になれなかった。
夜は、リゾート・ホテルらしく宿泊客が火を囲んでのキャンプファイヤーがあった。なぜかバックグランド・ミュージックは最新のボリウッド映画音楽。現在人気沸騰中の音楽監督&シンガー、ヒメーシュ・レーシャミヤーの曲を中心に流されていた。ヒメーシュの曲にはちょっと食傷気味なので、こんなド田舎まで来てヒメーシュかよ・・・という感じだった。他の宿泊客は皆インド人で、しかもほとんどムンバイーやプネーなどのマハーラーシュトラ州から避暑のために来ている人だった。どうやらマハーラーシュトラ州は北インドに比べて休みが早く始まるらしく、その関係でこの時期の避暑客はマハーラーシュトラ州の人が多いようだ。まずはタンボーラーというインド版ビンゴのようなゲームを遊び、その次はアンタークシャリー(歌しりとり)が始まった。歌われる曲は大体がボリウッド映画の歌で、大人から子供までが、チームに分かれてそれぞれの世代を代表する歌を歌い合う。そして1人が歌い出すと、その歌を知っている人はみんな声を揃えて歌いだす。インド人にアンタークシャリーをやらせると本当にすごい。しかもインドで一番映画好きなマハーラーシュトリアンが集まっているのでさらにすごい。よくそんなに歌を覚えているなと関心してしまう。いくらインド映画を見まくっても、映画に関することでインド人に勝つことは不可能だと思い知らされる。
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夜は楽しいキャンプファイヤー
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本日の走行距離96.1km、本日までの総走行距離628.9km。
アウリーでゆっくり静養した後、今日はデーヴァプラヤーグに立ち寄りつつリシケーシュまで戻る。全て今まで通って来た道なので、気は楽だ。8時半にアウリーを出た。アウリーからジョーシーマトまで続く下り坂をゆっくりと下り、ジョーシーマトから国道58号線に沿って西へ向かった。
なぜか今日は暑い日で、ジョーシーマトから標高を下げるに従って風に心地よい冷たさがなくなって来た。午後11時半頃、行きに立ち寄ったランガースーの食堂で休憩。食堂の店主は「バドリーナートまで行って来たのか!」と歓迎してくれた。ここでチャーイを飲み、チョウメン(インド風ヤキソバ)を食べて、再び出発した。
ランガースーからデーヴァプラヤーグまで約100kmの道のりは、全く休憩なしに行った。この辺りになると標高も低く、ヒンドゥスターン平原を走っているのと変わらない暑さになっていた。しかも山道でスピードが出しにくいので、風による冷却効果があまりない。どこかで止まって冷たいコーラでも飲みたい気分ではあったが、デーヴァプラヤーグまでは休まないと決め、バイクを走らせた。
デーヴァプラヤーグには午後3時頃に到着した。デーヴァプラヤーグの英語表記は「Devaprayag」「Devprayag」「Deoprayag」の三種類があったが、デーヴァプラヤーグで統一することにした。国道58号線のデーヴァプラヤーグの入り口には、両側に食堂や売店が数件立ち並んでいるが、小規模なもので、ボーッとしているとそのまま通り過ぎてしまいそうだ。そのちょっとした市場の間に、下へ下っていくバイクでしか通れないような細い路地があって、そこを下って橋を渡れば、デーヴァプラヤーグのサンガム(河の合流点)はすぐそこである。バイクで橋を渡る勇気がなかったので、僕は橋の手前でバイクを停め、歩いてサンガムまで行った。
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デーヴァプラヤーグに架かる橋
一般に、ガンガーの源はガンゴートリーと考えられている。ガンゴートリーはリシケーシュから約250kmさらにヒマーラヤの奥地へ行った場所にあり、ウッタラーンチャル州の4聖地(チャールダーム)のひとつである。だが、実際のガンガーの源はガンゴートリーからさらに18kmトレッキングした場所にあるガウムク氷河と言われており、ここも巡礼地のひとつとなっている。しかしながら、ガウムクやガンゴートリーから流れ出る河は、地元ではガンガーではなくバーギーラティー河と呼ばれている。このバーギーラティー河がアラクナンダー河と合流するこのデーヴァプラヤーグから、ガンガーはガンガーと呼ばれ始める。よって、ガンガーの源はこのデーヴァプラヤーグと考えることもできるのだ。とは言え、デーヴァプラヤーグはとても閑散とした小さな巡礼地で、バックパッカーの聖地と化したリシケーシュやヴァーラーナスィーなどのガンガー沿いの都市と比べると、完全にローカルな聖地であった。デーヴァプラヤーグのサンガムには小さな沐浴場があり、インド人が沐浴したり足を水に付けたりしていた。デーヴァプラヤーグには、シヴァ寺院やラグナート(ラーム)寺院もあり、巡礼地となっている。
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デーヴァプラヤーグ
アラクナンダー河(緑色)とバーギーラティー河(青色)の合流点
写真でも、河の色が違うのが分かる
ここからインドで最も聖なる河、ガンガーが始まる
デーヴァプラヤーグを3時半頃に出て、一路70km先にあるリシケーシュを目指した。デーヴァプラヤーグを越えてしばらくすると道は悪くなるが、ラフティングの基地が点在する辺りまで来れば、またきれいな舗装道になる。リシケーシュには午後5時半頃に到着した。
リシケーシュでは、行きに宿泊したハイ・バンクのニュー・バンダーリー・スイス・コテージに泊まった。前回は1泊300ルピーだったが、今回はなぜか250ルピーに割引してくれた。前に泊まったのと同じ部屋が空いていたので、そこに泊まることにした。
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本日の走行距離268.4km、本日までの総走行距離897.3km
デリーを出たときから一層暑さが増したような気がする。涼しいところから戻って来たこともあるが、1週間前に比べて明らかに気温が上がっている。本当は今日デリーに戻ってもよかったのだが、昨日のアウリー〜リシケーシュの移動が暑さのために思ったより身体に堪えたので、もう1日リシケーシュに滞在してゆっくり休むことにした。それに、何だかんだ言って、外国人旅行者が多く集うリシケーシュは、みんな外国人慣れしているので居心地がよい。
午前中はホテルで休息し、日記を書いたり本を読んだりしていた。いつもはツーリングは軽装で臨むので、PCを持参したりしなかったが、今回は長期のツーリングになるため、PCを持って旅行している。暇なときにコツコツと日記を書いた。昼時にカリズマに乗ってリシケーシュの町に繰り出した。
今日の主な成果と言えば、リシケーシュのガンガーに架かる2つの吊り橋、ラクシュマン・ジューラーとラーム・ジューラー(シヴァーナンド・ジューラー)をカリズマで渡ったことであろう。この前はこれらの橋をバイクで渡れることを知らずに、律儀にもその手前にある駐車場にバイクを停めてリシケーシュ観光をしてしまった。だが、今回は堂々とラクシュマン・ジューラーとラーム・ジューラーをバイクで渡った。だが、おそらく本当はこれらの橋は歩行者専用でバイクは渡ってはいけないと思う。インドのことなので黙認されているのだろう。通行の邪魔になるとは思いつつも、途中でバイクから降りて記念撮影もしてみた。
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ラクシュマン・ジューラー(左)とラーム・ジューラー(右)
ところで、リシケーシュのイタリア料理はけっこうレベルが高いと思う。インドでバックパッカーの溜まり場となっている町の旅行者向けレストランでは、定番であるインド料理とインド風中華料理の他、イタリア料理とイスラエル料理が食べられることが多い。最近はメキシコ料理もホットだ。韓国人観光客の増加を反映してか韓国料理を出す食堂が出てきたり、日本人観光客が昔から多い観光地は日本料理らしきものを出すところもあったりするが(デリーのパハール・ガンジに新しくできたクラブ・インディアの日本料理はうまい!)、最も一般的なのはピザやパスタなどのイタリア料理だ。僕が泊まっているニュー・バンダーリー・スイス・コテージのレストランもイタリア料理がメニューにあり、毎晩パスタやラザニアなどを試して見たが、なかなかおいしかった。リシケーシュの各地に同じようなイタリア料理を出すレストランがあるが、おそらくその中でも最もレベルが高いのではないかと思われるのが、ガンガー東岸スワルグ・アーシュラム地区のグリーン・ホテルに併設されているリトル・イタリーであろう。パスタはイタリアから直輸入しているとのことなので、僕はトマトとマッシュルームのパスタを食べてみた。ちょっと味が薄かったので(多分インドの濃い味付けに慣れてしまったのだろう)、タバスコを少しかけてみたらかなりおいしくなった。一応インド料理などもメニューにあったが、イタリア料理は1品80ルピー前後。デリーの高くてあまりおいしくない大同小異のイタリア料理レストランに比べたら雲泥の差である。
また、リシケーシュはヒンドゥー教の聖地なので、普通のレストランはヴェジタリアン料理しか出さない。だが、僕の泊まっているハイ・バンク地区は、バックパッカーの溜まり場となっているためかちょっと特別なようで、メニューにはノン・ヴェジもあった。メニューカードになくても、店員に頼めば作ってもらえるようだ。
他にあまりやることがなかったので、リシケーシュの周りをバイクでグルグル回ってみた。残念ながらあまり面白い発見はなかった。
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本日の走行距離57.1km、本日までの総走行距離954.4km。
リシケーシュの暑さは異常だ。もしかしたらデリーよりも暑いかもしれない。それとも、北インドを中心に熱波が襲っているのか。今日はデリーに戻る予定だが、もはや日中にデリーまでの200km以上の道のりをバイクで走る気力がなかった。そこで、夜明けと共にリシケーシュを出て、涼しい内にデリーに到着することにした。
午後4時半に起きて、荷物をまとめながら夜が明けるのを待った。ちょうどホテルの部屋の前からは、東の空が見える。山の輪郭が次第に浮かび上がって行き、5時過ぎになると辺りはだいぶ明るくなった。既にホテルの支払いは昨夜済ませてあったので、5時20分頃にバイクに乗ってホテルを出た。まだシャツ1枚だと寒いくらいだ。
早朝なので道は空いているかと思ったが、夜行バスやトラックの通行量がけっこう多かった。30分ほどでハリドワールに到着。今回はハリドワールの町中は通らず、デリー方面に直接通じているガンガー東岸の道を選んだ。ハリ・キ・パウリーを見渡せる橋の上で振り返って見ると、日が昇ったところであった。
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ハリドワールの日の出
ハリドワールからルールキーへ、ルールキーからムザッファルナガルへ、来た道を戻り、一路デリーを目指した。特にムザッファルナガルのバイパスは、車通りが少なくて道もきれいだったので、走っていてとても気持ちよかった。ムザッファルナガルを越えたところで、朝食休憩を取ることにした。いくつか選択肢があったが、リライアンス系列のA1プラザで休むことにした。A1プラザは、最近インドの国道沿いに急速に店舗を拡大している、リライアンスのガソリンスタンドに併設された休憩場で、レストランやトイレがある他、このムザッファルナガル近くのA1プラザにはシャワー室やDVD鑑賞室まであった。A1プラザは、インドの陸上交通に革命をもたらしつつある。A1プラザがもっと各地にできれば、インドにおけるツーリングやドライブはだいぶ気楽になるだろう。ただ、今のところ食事のメニューがあまり充実していないのが難点か。
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A1プラザ
8時過ぎにA1プラザを出発。そのまま国道58号線を南下し、メーラトを目指した。9時を越えるともう空気はだいぶ温かくなって来てしまった。メーラトのバイパスを通り抜けると、4車線の中央分離帯のある道になったが、交通量も早朝に比べて増えたため、それほど早くは進めなかった。ガーズィヤーバードに到着したのは午後10時頃、サフダルジャング・エンクレイヴの自宅に帰り着いたのは10時半頃だった。デリー〜リシケーシュ間は、自動車で5時間ほどの道のりだ。案外近い。
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本日の走行距離248.7km、本日までの総走行距離1203.0km。
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今回のツーリングは、花のない花の谷へ行き、人のいない村へ行き、寺の開いていない門前町へ行き、雪のないスキー場へ行きと、何だか外しまくりの旅行になってしまった。おそらく、ガンゴートリーとガウムクのツーリング&トレッキングをした方が有意義な旅行になったことだろう。だが、一度決めたことはよっぽどのことがない限り押し通す性格なので、花の谷へのツーリングを決行しようと思ったし、花がほとんどなかったことにもそれほど失望は感じていない。それに、今回の訪問地は、自家用車両がなければ行けないようなタイミングと場所ばかりであったとも言える。花のない花の谷、人のいない村、寺の開いていない門前町、雪のないスキー場、全てレアな体験だったと言えるだろう。この時期にバドリーナートまで行くのにパーミッションが必要だったことを知らなかったのは情報不足であった。しかし、オフシーズンならではの人々の親切に触れることもでき、いい旅になった。
また、今回のツーリングは、インドの山道の魅力にとりつかれた旅行でもあった。やはり平地を走るよりも山道を走った方が面白い。インドの山道には危険なイメージがつきまとっていたが、けっこうきれいに舗装された道が続く区画もあり、そういう道を雄大なヒマーラヤ山脈をバックに走っているときはとても爽快だった。もちろん、危険な道もいくつかあったし、今にもバイクが壊れてしまいそうな悪路も多かった。だが、基本的に無茶な運転をしなければ、また日中に走行さえすれば、特に危険なことはないと感じた。
標高3133mのバドリーナートまでカリズマで行けたことは、ひとつの自信となった。カリズマはもっとデリケートなバイクだと思っていたのだが、どんな悪路も標高3000m以上の高所もものともせずに走行してくれた。その点はヒーローホンダ社に感謝したい。やはりインドでツーリングするにあたって最終目標となるのは、マナーリー〜レー間のツーリングであろう。ヒマーチャル・プラデーシュ州の山間の避暑地マナーリーから、ラダック地方(ジャンムー&カシュミール州)の主都レーへの合計475kmのツーリングは、おそらく世界で最も走破困難な道のひとつと言える。標高5328mのタグラン・ラ峠を筆頭に、富士山よりも高い標高4000m以上の峠をいくつも越えなければならないし、ガソリンスタンドが途中にほとんどないので、365kmガソリン無補給で行かなければならないし、高山性砂漠気候なので気候は非常に厳しいし、冬場は雪で閉ざされている道なので、舗装しても舗装しても切りがない最悪の悪路である。また、以前マナーリーからレーへ1日で走破する乗り合いタクシーに乗ったときに(普通は2日かけて走破する)、僕はお約束通り高山病になってしまった。だから標高の高いところの恐ろしさは十分身にしみて分かっている。白人バックパッカーはエンフィールドのバイクでこの道を走破しているが、果たしてカリズマで可能なのか、いつか挑戦してみたい冒険である。
1週間のツーリングの総走行距離は1203.0km。ガソリンは、出発前にビーカージー・カーマ・バヴァンの前のバーラト・ペトロリアムでスピード97を満タンまで補給。2日目にシュリーナガルの町外れにあるガソリンスタンドでレギュラーガソリンを満タンまで補給(8リットル)、3日目は全くバイクに乗らず。4日目にゴーヴィンドガートからバドリーナートを経由してアウリーへ行く途中に、ジョーシーマトでレギュラーガソリンを満タンまで補給(8リットル)、そして5日目にアウリーからリシケーシュへ行く途中に、再度シュリーナガルのガソリンスタンドでレギュラーガソリンを満タンまで補給した(5リットル)。このガソリンで、6日目は50kmほどリシケーシュ近辺を走り、7日目はデリーまで行くことができた。燃費は大体1リットル40kmほどであった。
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4月30日(日) Darna Zaroori Hai |
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今日はPVRプリヤーで新作ヒンディー語映画「Darna Zaroori Hai」を見た。題名の意味は「恐怖は必要」。2003年に「Darna
Mana Hai(恐怖は禁止)」という映画が公開されたが、どちらも「ボリウッドのクエンティン・タランティーノ」と呼ばれるラーム・ゴーパール・ヴァルマーがプロデュースしており、「Darna
Zaroori Hai」は「Darna Mana Hai」の続編的映画である。
「Darna Mana Hai」は6つの小話がセットになったオムニバス形式の珍しいインド映画であった。また、それぞれの小話は、「世にも奇妙な物語」を彷彿とさせるストーリーであった。「Darna
Zaroori Hai」も同じく6つの小話が盛り込まれたオムニバス形式の映画である。違う点は、「Darna Mana Hai」ではプラーワル・ラーマン監督が1人で6つの小話を監督したが、今回の「Darna
Zaroori Hai」ではそれぞれの小話を違う監督がメガホンを取っている。よって、今回は映画評も変則的になる。
6話1セットと言っても、厳密に言えば7話あった。まず、マノージ・パーフワー演じる男が、前作「Darna Mana Hai」を見に夜、墓場を通って映画館へ行く話が導入部となる。この小話はサージド・カーンが監督。この小話が終わると、ニシャー・コーターリーが踊るクレジット・ミュージカル「Aake
Darr」が始まる。ミュージカルが終わってからが映画の本格的な開始で、5人の子供たちが古い屋敷に迷い込み、そこに住む老婆から怖い話を6つ(実際は5つ)聞くことになるいきさつまでがおどろおどろしく描かれる。映画の格となるこの部分の監督はマニーシュ・グプター。老婆が語る5つの小話の1つめは、家の中に「誰か」がいると恐れる大学教授の話。アミターブ・バッチャンとリテーシュ・デーシュムクが主演、ラーム・ゴーパール・ヴァルマー自らがメガホンを取っている。2つめの小話は、真夜中自動車が故障し、電話を借りるために近くの家に入った男が、おかしな夫婦と出会う話。アルジュン・ラームパール、ビパーシャー・バス、マクランド・デーシュパーンデーイが主演、監督は「Darna
Mana Hai」のプラワール・ラーマン。3つめの小話は、幸せな家庭にある日突然訪れた奇妙な生命保険セールスマンの話。スニール・シェッティー、ソーナーリー・クルカルニー、ラージパール・ヤーダヴが主演、監督はヴィヴェーク・シャー。4つめの小話は、ホラー映画のストーリーを考案中の映画監督と謎の美女の話。アニル・カプールとマッリカー・シェーラーワトが主演、監督はジジー・フィリップ。5つめの小話は、身に覚えのない殺人罪で警察に捕まった男の話。ランディープ・フダー、ザーキル・フサイン、ラスィカー・ジョーシーが主演、監督はチャクラヴァルティー。ベテラン俳優から若手俳優まで、豪華なキャスティングである。
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左から、ソーナーリー・クルカルニー、ランディープ・フダー、
マッリカー・シェーラーワト、リテーシュ・デーシュムク、
アルジュン・ラームパール、スニール・シェッティー、
アミターブ・バッチャン、アニル・カプール、ビパーシャー・バス
それぞれの小話はとても分かりやすく、ここでいちいちあらすじを解説する必要もないだろう。結論から先に言えば、「Darna Mana Hai」よりもパンチ力がなかった。「Darna
Mana Hai」も大した映画ではなかったのだが、それよりもパワーダウンしてしまっていると言う他ない。しかも、残念なことにどの小話もあまり怖くなかった。
最も面白かったのは、老婆が語る5つの話ではなく、むしろ冒頭のマノージ・パーフワーの小話であった。主人公は、ラーム・ゴーパール・ヴァルマー制作のホラー映画「Darna
Mana Hai」を見に夜中映画館へ行く。上映開始まで時間がなかったので、主人公は映画館までの近道である墓場を通っていこうとするが、母親は「今日は13日の金曜日で、しかも新月だから墓場を通ってはならない」と忠告する。だが、主人公は母親の忠告を無視して墓場を通ったばかりか、死者を侮辱するような行為をする。映画館にはほとんど観客がおらず、主人公は「Darna
Mana Hai」の酷評をしながら映画を見る。見終わった後、主人公は墓場を通って帰ることになるが・・・。こんな感じのストーリーである。オチがとてもよかった。これは個人的な予想だが、このサージド・カーン監督の小話は、劇場予告編として撮影されたが、あまりに出来がよかったので本編に挿入されることになったのではなかろうか?
僕は前々から、ボリウッドはホラー映画とミュージカルの美しい融合を試行錯誤すべきだと主張してきたが、「Darna Zaroori Hai」はなかなかよかったのではないかと思う。前述の通り、ニシャー・コーターリーが踊る「Aake
Darr」しかミュージカル・シーンはないが、マノージ・パーフワーの小話が終わると同時にスムーズにミュージカル兼クレジットのシーンへ以降し、おどろおどろしいエロさのある踊りが披露されていた。劇場予告編では、モーヒト・アフラーワトが踊る「Khabardar」というミュージカルもあったのだが、映画では使われていなかった。
オムニバス形式の映画で、それぞれの俳優の出番は限られていたが、どの俳優もいい演技をしていたと言えるだろう。見所と言えば、「ボリウッドのセックスシンボル」の座を争うビパーシャー・バスとマッリカー・シェーラーワトの競演であろうか?どちらの女優も暗闇に映える妖艶な魅力を持っており、ホラー映画にとても似合っている。若手ではリテーシュ・デーシュムクやランディープ・フダーの好演が目立った。
「Darna Zaroori Hai」は見終わった後に特に何かが心に残るような映画ではないし、これを見たからといって酷暑期の猛暑を凌げるわけでもないが、言葉が分からなくても何も考えずに楽しむことのできる映画である。暇つぶしにちょうどいいのではなかろうか?