スワスティカ これでインディア スワスティカ
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2006年8月

装飾下

|| 目次 ||
映評■11日(金)Omkara
映評■12日(土)Kabhi Alvida Naa Kehna
映評■15日(火)Shaadi Karke Phas Gaya Yaar
映評■16日(水)Yun Hota Toh Kya Hota
映評■18日(金)Ahista Ahista
生活■31日(木)引っ越し奮闘記
映評■31日(木)Aap Ki Khatir


8月11日(金) Omkara

 昨日、日本での3週間の一時帰国を終え、デリーに戻って来た。一時帰国中に何よりも気がかりなのは、インド映画の公開状況である。僕がインドにいない3週間の間に、けっこうな数の映画が公開されてしまった。しかも、今日は2006年最大の期待作「Kabhi Alvida Naa Kehna」の公開日である。もたもたしている暇はない。今日は大学での所用を済ませ、外国人登録局(FRRO)での登録も迅速にこなし、早速映画館へバイクを走らせた。「Kabhi Alvida Naa Kehna」の本日のチケットは入手することが叶わなかったが、名作と話題の「Omkara」をちょうど見ることができた。7月28日公開の映画である。

 「Omkara」とは、ヒンドゥー教の聖印「オーム」の印のことだが、作品中では主人公の名前となっている。監督と音楽はヴィシャール・バールドワージ。彼は音楽監督出身の映画監督である。バールドワージ監督は2003年にシェークスピアの「マクベス」を翻案した「Maqbool」という映画を制作し、高い評価を得た。それに気をよくしたのか、この「Omkara」は、今度は同じくシェークスピアの「オセロ」をベースとした映画である。

 キャストは、アジャイ・デーヴガン、カリーナー・カプール、サイフ・アリー・カーン、コーンコナー・セーンシャルマー、ヴィヴェーク・オベロイ、ビパーシャー・バス、ナスィールッディーン・シャーなどである。

Omkara
 舞台はウッタル・プラデーシュ州。バーイーサーブ(ナスィールッディーン・シャー)と呼ばれる老練な政治家と強いつながりを持ったオーミー・シュクラ(アジャイ・デーヴガン)は、辺りを支配するギャングのボスであった。オーミーの下には、ラングラー・ティヤーギー(サイフ・アリー・カーン)、ケーシュー・ウパーディヤーイ(ヴィヴェーク・オベロイ)などの部下がいた。【写真は左から、サイフ・アリー・カーン、カリーナー・カプール、アジャイ・デーヴガン、ヴィヴェーク・オベロイ、コーンコナー・セーンシャルマー、ビパーシャー・バス】

 オーミーは、弁護士の娘ドリー(カリーナー・カプール)と恋仲だったが、ドリーはラージューという男と結婚させられることになった。オーミーは結婚式においてドリーを誘拐する。弁護士とオーミーの間に火花が散るが、バーイーサーブの仲介により、ドリーはオーミーと結婚することになった。弁護士はオーミーに対し、「父親を裏切るような女が、夫に尽くすはずがない」と言い残して去って行く。

 一方、刑務所で豪華な生活を送っていたバーイーサーブは、下院選挙に出馬することになった。それをきっかけとして、オーミーは副官にケーシューを任命する。オーミーから信頼されていると確信していたラングラーは、自分を差し置いてケーシューが出世したことに内心ショックを受けながらも、表向きはオーミーの命令に従う。

 オーミーにドリーを取られたラージューと、ケーシューに出し抜かれたラングラー。負け犬の2人はやがて、共謀してオーミーを見返すことを計画し出す。まずは酒に弱いケーシューに酒を無理に飲ませ、失態を犯させる。そして、徐々にオーミーに、ケーシューとドリーが実はできているのではないかという疑いを植え付ける。また、ラングラーは、オーミーが妻ドリーに送った家宝の腰飾りを、自分の妻のインドゥー(コーンコナー・セーンシャルマー)に盗ませ、それをケーシューに渡す。ケーシューは、恋人のビッロー(ビパーシャー・バス)にその腰飾りを送る。オーミーは、腰飾りがなくなっていることに気付き、ドリーに対して疑心暗鬼を強めた。

 オーミーとドリーの結婚式の日。オーミーはビッローが、自分がドリーにあげた腰飾りを持っているのを見る。ケーシューとドリーが密通していることに確信を持ったオーミーは、ラングラーに対しケーシューを殺すよう指示をする。ラングラーはケーシューを銃で撃つ。そしてオーミーはドリーを自分の手で殺す。

 だが、オーミーはインドゥーから、腰飾りを盗んだのは自分であり、それをけしかけたのはラングラーであることを聞いてしまう。インドゥーも初めて夫の企みに気付き、自らラングラーを殺してしまう。また、ケーシューは銃で撃たれながらも生きており、オーミーのところへ行くが、オーミーはケーシューの前で自殺をしてしまう。

 「Maqbool」でも本作でもそうだが、ヴィシャール・バールドワージ監督の最も巧みな点は、今まで何度も何度も映画化されて来たシェークスピアの作品を、完全なるインドの文脈に置き換えて映画にしていることだ。人間の疑心と嫉妬を描いた「Omkara」のプロットは「オセロ」そのものかもしれないが、それを除けばこれほどインドの土着の政治、社会、言語、自然に肉薄した映画は、通常のインド映画でもなかなかない。最も近いのは、プラカーシュ・ジャー監督の「Apaharan」(2005年)であろう。

 「Omkara」の舞台はウッタル・プラデーシュ州。ラクナウー大学(ウッタル・プラデーシュ州)、イラーハーバード(同)、ボード・ガヤー(ビハール州)、ローナーヴァラー(マハーラーシュトラ州)、マハーバレーシュワル(同)、ムンバイー(同)などでロケが行われたようだが、大半はマハーラーシュトラ州のワーイーで行われたらしい。確かに北インドっぽくない自然の風景がいくつか見受けられた。だが、登場人物のしゃべる言語はウッタル・プラデーシュ州がベースとなっており、北インドの雰囲気を聴覚の方面から醸し出している(ハリヤーナー方言との説もあり)。スラングもかなり多用されている。どうもこの映画は、インド映画で初めて、際どい罵詈雑言がカットされずに一般公開されることになった映画であるらしい。映画は正に汚ない罵詈雑言のオンパレード。何しろ冒頭の最初のセリフから、これまでのインド映画では決して登場しなかった「チューティヤー」という単語が入っているのだ(敢えて日本語に直訳すれば・・・「おま○こ野郎」、か。かなり危険度の高い言葉なのでインド人の前での使用は自己責任で)。逆に言えば、この映画の言語は教科書で習うような正統派のヒンディー語ではないため、ヒンディー語がある程度理解できても、よっぽど田舎や下層のインド人と接していなければ、登場人物のセリフを理解するのは困難であろう(僕も多くのセリフはチンプンカンプンであった・・・)。インド人の観客ですら、どうも聴き取れないセリフ、意味の分からないセリフがあったようで、近くの人に「何て言った?」と質問する声がそこかしこで聞こえた。だが、この土臭くも洒落たセリフ回しこそが、この映画の最大の魅力であり、さらに突き詰めれば、ヒンディー語の最大の魅力とも言うことができるだろう。

 映像も素晴らしかった。ハッと息を呑むような美しい自然を非常に独創的なアングルで撮影したり、映像が何かを暗示するようなシーンがいくつもあったりして、映画の醍醐味を味あわせてくれる映画でもあった。特に最後、ドリーの遺体が横たわる揺れるブランコと、自殺してその下に倒れたオーミーを重ね合わせて上から撮るシーンは強烈であった。セリフ回しも重要であるが、やはり映像でものを語れない映画は、映画として重大な部分が欠落していると言わざるをえない。「Omkara」は、セリフと映像、この両方の要素を極限にまで磨き上げた稀な作品と言える。

 アジャイ・デーヴガン、サイフ・アリー・カーン、カリーナー・カプールを始めとする俳優たちの演技も素晴らしかった。特に今回、株を上げたのはサイフ・アリー・カーンであろう。役のために頭髪をそり落とすほど気合が入っていただけでなく、策謀を巡らせる狡猾なラングラーを見事な演技で演じ抜いていた。「Being Cyrus」(2006年)でも好演を見せていたサイフ・アリー・カーンは、ここ数年で急速にボリウッドの最重要男優にのし上がったと言ってよいだろう。

 アジャイ・デーヴガンは、彼が最も得意とする無口で強面な男の役を演じていた。彼のイメージにピッタリであったので、文句を挟む隙間もない。カリーナー・カプールも、彼女が一番本領を発揮できる悲壮感溢れるヒロインの役を演じていた。コーンコナー・セーンシャルマーもはまり役であった。最近の彼女はモダンな女性の役を演じることが多かったが、彼女の顔は完全に田舎娘向けであり、今回のような田舎丸出しの役柄は非常にはまっていた。ナスィールッディーン・シャーの圧倒的な存在感も忘れてはならないだろう。

 残念なのはヴィヴェーク・オベロイである。最近伸び悩んでいるヴィヴェークは、「Omkara」でも何だかミスマッチな演技をしていた。彼は、シリアスな演技をさせてもコミカルな演技をさせても何だか中途半端になってしまう非常に使いにくい男優のような気がする。いつまで迷走が続くのだろうか?一方、ビパーシャー・バスは特別出演とされていたが、特別出演以上の役割は果たしていたと思う。セックス・シンボルのイメージの強いビパーシャーは、何だかんだ言ってもやっぱり売春婦、踊り子、悪女のようなちょっと汚れた役が一番似合う。

 「Maqbool」では主人公の名前マクブールが、シェークスピア原作の主人公マクベスを想起させるものであったが、「Omkara」ではさらにその傾向が加速され、登場人物の名前の頭文字や音が、原作の名前と似たものとなっている。オセロ→オーミー(オームカーラー)、カシオ→ケーシュー(ケーシャヴ)、デズデモーナ→ドリー、ビアンカ→ビッローなどである。また、原作ではハンカチが重要なアイテムとなっていたが、「Omkara」ではそれが腰飾りで代替されていた。ストーリー上、原作と大きく違ったのは最後のシーン。原作では、イアーゴ(ラングラー)が妻エミリア(インドゥー)を殺害するが、「Omkara」ではインドゥーが夫ラングラーを殺害する。インドゥーがラングラーを殺害するシーンはちょっと唐突であったが、これは悪役の哀れな最期を強調するための変更だと受け止めることができるのではなかろうか。

 「Omkara」には多くの挿入歌・ダンスシーンがあり、サントラCD・カセットも売れているようだが、映画はどちらかというと踊りなしにした方がよかったのではないかと思う。それでもいくつかの曲――タイトル曲「Omkara」、映画中、2度登場して印象的な使われ方をする子守唄風「Jag Ja」など――はいい曲である。

 「Omkara」は、インド版シェークスピア映画として非常に見る価値のある映画である。セリフに使われる単語やフレーズはかなり下品で聴き取りが難しいものが多いが、北インドの田舎の人々が実際に使うような生き生きとした会話がそのまま再現されており、やはり一見の価値がある。

8月12日(土) Kabhi Alvida Naa Kehna

 ボリウッド映画はスター俳優たちで成り立っているが、ボリウッドには並み居るスターたちよりも観客動員数に絶大な影響力を持つ人気監督が何人かいる。カラン・ジャウハルはその筆頭である。カラン・ジャウハル監督は今まで「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)、「Kabhi Khushi Kabhie Gham」(2001年)などのボリウッドの歴史に残る名作の監督や脚本や、2003年の大ヒット作「Kal Ho Naa Ho」の制作、脚本を担当した。メディアへの露出度も高く、カリスマ的人気を誇っている。そのジャウハル監督の最新作が、「Kabhi Alvida Naa Kehna」である。インド史上最高の7億ルピーを投じて制作されたオールスターキャスト映画というだけでも大ヒットは間違いなしだが、やはりジャウハル監督の名前が最大のセールスポイントになっている。8月15日の独立記念日に合わせ、昨日から封切られた同映画は、当然のことながら初日から満員御礼の大ヒット。公開前から予約をしておかなければ見るのは困難という状態である。日本から帰って来たばかりですぐにはチケットが手に入らないだろうと半ば諦めていたが、昨日映画館で聞いてみたら運よくチケットが手に入ったため、本日PVRプリヤーで鑑賞することができた。

 「Kabhi Alvida Naa Kehna」とは、「さよならは言わないで」という意味。カラン・ジャウハル監督の映画の題名は必ず「K」から始まる。監督はカラン・ジャウハル、音楽はシャンカル・エヘサーン・ロイ。キャストは、シャールク・カーン、ラーニー・ムカルジー、アビシェーク・バッチャン、プリーティ・ズィンター、アミターブ・バッチャン、キラン・ケール、アルジュン・ラームパール(特別出演)、カージョール(友情出演)、ジョン・アブラハム(友情出演)など。

Kabhi Alvida Naa Kehna
 舞台はニューヨーク。マーヤー(ラーニー・ムカルジー)は、幼馴染みのリシ・タルワール(アビシェーク・バッチャン)との結婚を前に、この結婚が本当に心から望んでいたものなのかを考え込んでいた。彼女にとって、両親を失った後、リシの父親サム(アミターブ・バッチャン)は育ての親同然の存在であった。だが、リシとの結婚は、愛情から生まれたものではなかった。結婚式の日、一人ベンチに座って悩んでいたマーヤーに、たまたま通りがかった一人の男が話しかける。その男の名前はデーヴ・サラン(シャールク・カーン)。将来を有望視されたサッカー選手であった。デーヴは、雑誌の編集長を務めるキャリア・ウーマンのリヤー(プリーティ・ズィンター)と4年前に結婚しており、アルジュンという息子がいた。母親のカマルジート(キラン・ケール)も同居していた。デーヴはマーヤーに、「愛情は結婚した後に探すもの。探さなければ見つからない」と助言する。それを聞いたマーヤーは、リシと結婚する決意を固める。だが、デーヴはマーヤーと出会った直後に事故に遭って右足を怪我し、選手生命を絶たれてしまう。【写真は左から、シャールク・カーン、ラーニー・ムカルジー、アミターブ・バッチャン、アビシェーク・バッチャン、プリーティ・ズィンター】

 4年後。サッカー選手になる夢を失ったデーヴは、少年サッカーのコーチを務め、家計の大半はリヤーの収入に頼る生活を送っていた。デーヴとリヤーの結婚生活はいつしかすれ違いが多くなってしまっていた。また、デーヴは息子のアルジュンに無理矢理サッカーを教えるが、アルジュンはバイオリンを習いたがっていた。そのせいで、息子との間にも信頼関係を築くことができずにいた。そんな中、デーヴは偶然地下鉄駅でマーヤーと再会する。だが、デーヴはマーヤーを誤って怪我させてしまう。病院において、デーヴ、リヤー、リシ、マーヤーの4人はお互い顔を合わせる。デーヴは、マーヤーが幸せな結婚生活を送っていないことに勘付く。普通の結婚生活を望むマーヤーにとって、リシや父サムのゴージャスな生活は苦痛以外の何物でもなかった。また、子供ができないことも彼女にとって後ろめたい点であった。

 デーヴとリヤー、リシとマーヤーの仲が次第にギクシャクしていく一方で、デーヴとマーヤーは頻繁に会うようになり、仲を深めていった。いつしかそれは恋と呼べるものになってしまっていた。2人は一度は、一線を越えず、それぞれの家庭に戻ることを決意するものの、デーヴとリヤー、リシとマーヤーは大喧嘩をしてしまう。失意のままデーヴとマーヤーの2人は雨の中出会い、そのままホテルへ行って肉体関係を持ってしまう。

 一線を越えてしまったデーヴとマーヤーであったが、デーヴとリヤー、リシとマーヤーの仲は一応改善の方向へ向かっていた。2人はもう、この不倫の関係をやめることを決めると同時に、お互いのパートナーに自らの過ちを告白し、謝罪することにする。だが、リヤーはデーヴを許さず、リシもマーヤーを許さなかった。リヤーはデーヴを家から追い出し、リシはマーヤーを追い出した。2組の夫婦は、離婚という最悪の結末に至ってしまう。しかも、デーヴはマーヤーに自分が離婚したことを言わず、マーヤーもデーヴに離婚したことを言わなかった。デーヴとマーヤーはそれぞれ孤独な生活を始める。

 そのまま3年の月日が過ぎ去った・・・。

 リヤーは前々から言い寄ってきていたハンサムな上司(アルジュン・ラームパール)との結婚を考えており、リシは白人女性と結婚しようとしていた。また、デーヴは新しい就職先が決まり、別の町へ移住しようとしていた。そんな中、リヤーとリシは偶然再会する。このとき初めて、リヤーはリシとマーヤーが離婚したことを知り、リシはデーヴとリヤーが離婚したことを知る。リシとリヤーは、マーヤーにそのことを伝え、デーヴを追いかけるように促す。駅に駆けつけるマーヤー。デーヴはマーヤーを見つけ、逃げるように列車に乗り込む。マーヤーもデーヴを見つけるが、すでに列車は動き出してしまっていた。だが、デーヴは列車を緊急停車させ、マーヤーのもとに戻って来る。デーヴはマーヤーに、駅の構内でプロポーズをする。

 さすが、としか言いようがない傑作。間違いなくカラン・ジャウハル監督の最高傑作であろう。ジャウハル監督の作品は、結婚を主題とするインド映画の伝統を踏襲しつつも、それに死、再婚、家族の離合集散などを絡めつつ、独特のモダンで研ぎ澄まされた形で見せる点に特徴がある。それはこれまで、ときに大袈裟すぎたり、非現実的すぎたりする傾向があったのだが、「Kabhi Alvida Naa Kehna」は非常に現実的で、しかも大人のテイスト溢れる作品に仕上がっていた。

 本作の主題は結婚後の恋愛。それは不倫と言ってもいいだろうが、決してドロドロとした泥沼劇に陥っておらず、ジャウハル監督はそれを巧みに美しく描き上げていた。それは、「結婚は恋愛あってこそ成り立つもの」という真の主題がその土台にあるからであろうし、不倫をした2人の、3年に渡る孤独なプラーヤシュチト(禊)があるという、いかにもインドらしいクッションが設けられているからであろう。そして、最後にその2人の再婚を後押しするのが、かつてのそれぞれのパートナーであることも、予定調和的ではあるが、映画を美しく収束させることに重要な役割を果たしていることは言うまでもない。インド映画の不文の方程式に、「結婚前の恋愛は恋愛が勝ち、結婚後の恋愛は結婚が勝つ」というものがある。インド映画では結婚は絶対視されており、一度成立した結婚は何があっても正当であるし、最も適切なのだ、というメッセージが込められていることが多い。よって、当人のどちらか、または両方が望まない結婚式の当日に、土壇場で愛し合う男女が結ばれるという筋が多いし、結婚後に沸き起こってしまった恋愛は、結局結婚した相手への真の愛に目覚めて元の鞘に戻るという結末になることが多い。「Kabhi Alvida Naa kehna」でも、一瞬だけ、不倫の道を歩む既婚の2人が、一線を越える前に、「家族は家族だから」と、それぞれの家庭に戻ることを決意するシーンがあり、方程式通りの着陸かと、半ば安心、半ば落胆したのだが、その直後、急転直下、一気に肉体関係に突入してしまい、かなりショックを受けた。そして、紆余曲折はあったものの、最後には、不倫をしてお互いの家庭と人生を破壊してしまった2人は結ばれ、ハッピーエンドとなる。本作品は、結婚後の恋愛が結婚に勝った稀な例と言ってもいいかもしれない。

 もうひとつ注目すべきテーマは、デーヴとリヤーの家庭に見られる。デーヴは有望なサッカー選手だったが、交通事故により選手生命を絶たれ、キャリア・ウーマンの妻の収入に頼った生活を送っている。一般に、夫よりも妻の方が収入が高い場合、その家庭はうまく行かないと言われている。デーヴとリヤーの家庭は正にその典型として描かれていた。リヤーが華やかな脚光を浴びるパーティーを舞台にしたミュージカル「Rock N Roll Soniye」で、踊り狂う群衆の中、一人佇むデーヴのその寂しそうな表情に、ヒモ夫の哀愁の全てが凝縮されていた。そして、2人の不仲の最大の原因も映画中で解き明かされていた。それは、デーヴが自分の人生の不成功を嫌い、妻の人生の成功を妬んでいることだ。その怒りをデーヴが子供に転嫁する様子も同時に描かれていた。これでは家庭はうまくいかない。そして、リヤーも売り言葉に買い言葉で、デーヴに対して「この家では男はあなたじゃなくて私」と、一番言ってはいけない言葉を口走ってしまい、それが離婚の遠因となってしまう。インドでも女性の社会進出が進んでおり、デーヴとリヤーの家庭のような問題を抱えた家庭が増えて来ているのではないかと予想される。舞台はニューヨークであったが、インドの今、または近い将来に切り込むこの鋭い切り口は、もしかしたら映画中の白眉と言っていいかもしれない。

 映画中、最も緊張感があったのは何と言っても横断歩道のシーンであろう。花束を持って不倫相手のマーヤーを待つデーヴ。横断歩道の向こうにマーヤーを見つけ、デーヴは微笑みながら、信号が青になり、彼女が渡って来るのを待つ。ところが、そのマーヤーの真横に妻のリヤーが偶然来て立つ。マーヤーもリヤーもお互いの存在に気付いていない。デーヴは顔面蒼白となる。信号は青になり、2人は横断歩道を渡って来る。横断歩道の中ほどでリヤーは向こうにデーヴが立っていることに気付き、微笑む。マーヤーの視界にもデーヴしか入っていない。一体どうなってしまうのか・・・と観客は息を呑むことだろう。マーヤーとリヤーが目の前に来て、何かをしゃべる直前、デーヴは「リヤー!」と妻の名前を呼ぶ。ハッと気付いたマーヤーはすぐに後ろを向く。デーヴは、マーヤーのために買った花束をリヤーに「君のために」と言って渡す。このときまで、デーヴとリヤーの関係は崩壊寸前であったが、デーヴから花束を渡されたリヤーは少し考え直し、デーヴとの関係修復をしようと思い始める。一方、リヤーが去った後、デーヴはマーヤーに一本の花しか渡せなかった。密かに隠しておいた一本であった。妻には一杯の花束、不倫相手には1本の花。結婚した男女の関係と、不倫している男女の関係を暗示するシーンであった。そしてこの出来事がデーヴとマーヤーを、不倫関係の解消に向かわせるきっかけになる。

 他にも一瞬ドキッとするシーンがいくつかあった。例えば、カマルジートの誕生日を祝うために、タルワール家とサラン家のメンバーが食卓を囲むシーン。ユーモアのセンスがないと揶揄されたデーヴは、突然「僕はマーヤーに恋してしまった」と告白し始める。呆然とする両家のメンバー。しばらくの沈黙の後、デーヴは笑みにならない笑みを浮かべながら、「ジョークさ」とつぶやく。だが、サムだけは、デーヴのその表情に真実を見て取る。また、その直前のシーン、サムとマーヤーがサラン家を訪ねるところでもドキッとするセリフが出てくる。デーヴとリヤーの写真を見ていたマーヤーは、その写真を手に持ったまま帰ろうとする。それを見たリヤーは「デーヴを返して」と言う。既にデーヴと不倫関係にあったマーヤーは、リヤーのそのセリフにハッとする。だが、次の瞬間リヤーは微笑みながら「写真のことよ」と言う。罪悪感に苛まれるマーヤーの心情が、一瞬のシーンでよく描写されていた。

 褒めるばかりでは能がないので、いくつか不満な点も挙げておこうと思う。まず、実は序盤はあまり引き込むものがなかった。もしかしたら駄作かもしれないと心配になったほどだ。特にアミターブ・バッチャン演じるサムの能天気なキャラクターは、映画に笑いのラス(情感)をもたらしてはいたものの、序盤では過剰な演出の印象が強かった。だが、退屈なのは導入部のみで、話が乗ってくるとグイグイ引き込まれて来る。また、キラン・ケール演じるカマルジートの設定も深みがなかった。カマルジートはデーヴの母親のはずなのに、デーヴとリヤーが離婚した後もリヤーの家に住み続けるという変な状況になり、クライマックスでは全く存在感がなかった。さらに、リヤーにはキャリア・ウーマンとしての人生を最後まで貫いてもらいたかった。家庭よりも仕事を優先し、しかもそれに誇りを持つリヤーの言動は、自立した女性の典型として描かれていたが、デーヴと離婚した後は心変わりがあり、彼女は家事や子育ての喜びを見出すようになる。それはそれでいいのだが、その心変わりはストーリーとは直接関係なく、少し蛇足のように思えなくもなかった。インド映画は、自立した男勝りの女性、家庭を顧みないキャリア・ウーマンに対しては冷たい結末を用意するか、心変わりを起こさせる傾向があり、カラン・ジャウハル監督もその伝統には逆らえなかったようだ。今に始まったことではないのだが、特にカラン・ジャウハル監督の映画は影響力が強いので述べさせてもらうが、英語を多用したそのダイアログにも不満があった。ニューヨーク在住のNRI(在外インド人)が主人公ということで、セリフに英語が多用されるのは仕方がないのだが、多少非現実的でもいいからもっとヒンディー語に比重を置いた方がいいのではないかと思った。かつてヒンディー語映画は、ヒンディー語の普及に多大な貢献をし、今でも大きな役割を果たしているが、最近のボリウッド映画は逆に、ヒンディー語を使いながらも英語の普及を後押ししているような気がしてならない。また、映像や音声が悪い部分が多かったのも気になった。たまたま僕が見た映画館のプリントが損傷していたのか、それとも全てのプリントがこんな状態なのかは分からないが、せっかくの名作もこれでは感動が半減してしまう。

 そして、果たしてこれが全ての人に共通なのかは分からないが、僕はこの映画を見て少しも泣くことができなかった。いい映画ではあるのだが、あまりに精巧に出来すぎていたためか、涙腺にガツンと訴えかけるシーンはあまりなかったように思える。一番の泣き所は、クライマックスの、デーヴがマーヤーにプロポーズするシーンだろうが、あまりに劇的かつわざとらしすぎて感動に欠けた。最後の最後で、カラン・ジャウハル監督の悪い癖が出てしまったように思える。このときのシャールク・カーンの演技も大袈裟すぎて興醒めだった。ただ、泣けなかったのは、単に僕自身が結婚生活を経験したことがないからかもしれない。

 主人公は円熟期を迎えた3人――シャールク・カーン、ラーニー・ムカルジー、プリーティ・ズィンター――と、人気急上昇中のアビシェーク・バッチャン。既に定評のある4人は、皆素晴らしい演技をしていた。特にシャールク・カーンとラーニー・ムカルジーの演技は、今まででベストと言えるだろう。よく、「シャールクはいつでもシャールクしか演じられない」という批判を聞くが、本作品のシャールクは、敢えてシャールクのオーラを消し、映画に溶け込む演技をすることに成功していたと思う。それは、シャールク演じるデーヴが、負け犬根性丸出しの男の役だったことが功を奏していたからかもしれない。ただ、彼のクライマックスのシーンだけは、前述の通り、とても違和感を覚えた。ラーニーの方は一貫して自然な演技をしており、「Black」(2005年)以上だと言える。

 アミターブとアビシェーク、バッチャン親子の共演はこれで4回目になる。「Bunty Aur Bubli」(2005年)で初共演、「Sarkar」(2005年)では初めて親子の役を演じ、アミターブ主演の「Ek Ajnabee」(2005年)にはアビシェークが特別出演した。実の親子なので息はピッタリ。「Rock N Roll Soniye」では、「Bunty Aur Bubli」に続き、バッチャン親子のダンス共演も見ることができる。ちなみに、アミターブとアビシェークが並ぶと、アビシェークの方が背が高いように見えたが、靴の関係であろうか?身長はほぼ一緒のはずだが。

 元々、マーヤーの役にはカージョールが、リヤーの役にはラーニー・ムカルジーが想定されていたらしい。だが、カージョールは「Fanaa」(2006年)の撮影のためにスケジュールが合わず、代わりにラーニーがマーヤー役を、プリーティ・ズィンターがリヤー役を演じることになった。カージョールとラーニー、「Kuch Kuch Hota Hai」コンビの「Kabhi Alvida Naa Kehna」も見てみたかった気がする。そのカージョールは、「Rock N Roll Soniye」で友情出演してダンスを踊っている。また、「Where's the Party Tonight」ではジョン・アブラハムがDJ役で友情出演している。さらに、カラン・ジャウハル監督がカメオ出演しているようだ(僕は発見できなかったが、クライマックスの列車のシーン)。また、リテーシュ・デーシュムクも特別出演する予定で、撮影も行われたらしいのだが、彼の出演シーンは編集の段階で全てカットされてしまったらしい・・・。

 音楽は「Kal Ho Naa Ho」に引き続きシャンカル・エヘサーン・ロイのトリオが担当。「Kal Ho Naa Ho」のサントラは映画以上に大ヒットしたが、この「Kabhi Alvida Naa Kehna」のサントラも現在大ヒット中である。だが、「Kal Ho Naa Ho」と似た雰囲気の曲が多いとの批判が聞かれる。タイトル曲の「Kabhi Alvida Naa Kehna」は、ソーヌー・ニガムとアルカー・ヤーグニクが歌うスローテンポの美しい曲。「Kal Ho Naa Ho」のタイトル曲もソーヌー・ニガムが歌っており、曲自体の雰囲気も似ている。ディスコ・ナンバーの「Where's The Party Tonight」は、どうしても「Kal Ho Naa Ho」の大ヒット曲「It's The Time To Disco」を想起してしまう。ロックンロールとバングラーを融合させたという「Rock N Roll Soniye」も「Maahi Ve」とよく似ているし、「Mitwa」も「Kuch To Hua Hai」を髣髴とさせる。しかも、背景が「Kal Ho Naa Ho」と同じニューヨークであるため、同映画と比較して語られることは避けられないだろう。だが、シャンカル・エヘサーン・ロイの弁によると、「Kabhi Alvida Naa Kehna」の曲は、1小節も「Kal Ho Naa Ho」とは共通していないと言う。とは言え、「Kabhi Alvida Naa Kehna」はいい曲ばかりであり、ストーリーだけでなく音楽と踊りも見るべき価値のある作品であることに異論はない。大勢のバックダンサーを使ったいくつかのミュージカルやダンスシーンでは、ファラハ・カーンの振り付けが光る。また、映画中、「Dilwale Dulhania Le Jayenge」(1995年)の「Tujhe Dekha To」と、「Maine Pyaar Kyun Kiya」(2005年)の「Just Chill」が少しだけ流れる。

 題名は前述の通り「さよならは言わないで」という意味。ヒンディー語の日常会話集などには、「さよなら」のために通常「ピル・ミレーンゲー」というフレーズが紹介されることが多いが、これは直訳すると「再び会いましょう」という意味であり、再会を期さない別れの言葉のためには、アラビア語起源の「アルヴィダー」という単語が適している。映画中では、「『アルヴィダー』と言ったら再会の希望がなくなってしまう。だから・・・『ピル・ミレーンゲー』」というセリフが数回出て来る。それと同時に、日本語の「さよなら」も唐突に出て来るので日本人には要注目である。日本でロケが行われた「Love In Tokyo」(1966年)という映画に、「Sayonara Sayonara」という曲があり、「さよなら」はインド人が最もよく知っている日本語となっている。蛇足だが、イラーハーバードで「Sayonara」という店を見かけたことがある。さらに蛇足だが、ビハール出身の友人がこっそり教えてくれたところによると、局地的かもしれないが、「Sayonara」は隠語でセックスの意味もあるらしい・・・。どうやらその音が方言で下半身を示す言葉に似ているからだと説明されたが・・・勝手に他人の言語の言葉をスラングにして利用するな、という感じである。


イラーハーバードで発見した「Sayonara」

 米国を舞台にしながら、デーヴが元サッカー選手というのは少し設定ミスだったのではなかろうか?米国ではサッカーはそれほど人気のあるスポーツではない。おそらく、これは今年行われたFIFAワールドカップに便乗した設定なのだろう。また、カラン・ジャウハル監督の映画には、よくスポーツのシーンが出て来るように思える。「Kuch Kuch Hota Hai」のバスケット、「Kabhi Khushi Kabhie Gham」のクリケットなどである。その流れで、今回はサッカー、という感じだったのかもしれない。

 「Kabhi Alvida Naa Kehna」は、ヒット作溢れる2006年のボリウッド映画の中でも大本命の大傑作と言える。映画、サントラ共に強力オススメ。ただし、恋愛のない結婚や、お互いに愛情の確認をし合わないマンネリな夫婦生活を批判するメッセージが込められているため、仲のよくない夫婦やカップルには、少しホロ苦い映画になるかもしれない。また、よく出来た映画ではあったが、涙を流すほど感動できる作品ではないと思う。果たして他の人はこの映画を見て泣けるのだろうか、ちょっと聞いてみたい気がする。僕は泣けなかった。

8月15日(火) Shaadi Karke Phas Gaya Yaar

 8月15日。日本は終戦記念日、少ししめやかな気分になる日である。だが、ここインドは独立記念日。打って変わってお祭り騒ぎ、のはずだが、ここ数年は独立記念日を狙ったテロに対する厳戒態勢が敷かれており、それほどお祭り騒ぎでもない。全国的な祝日なので、マーケットの店舗のほとんども閉まっている。特に午前中は町中に検問が敷かれ、非常に出歩きにくい雰囲気となる。昨日、PVRアヌパムへ行ったら、マーケットの中心部に土嚢を積んだ簡易の要塞が設けられており、銃を持った軍人が高所から睨みを利かせていた。戦場に迷い込んだみたいだった。こんな様相なので、独立記念日には家に閉じこもっている人がけっこう多いと思われる。また、子供たちはこの日には凧を飛ばして遊ぶ。特に低所得層が多く住む住宅地へ行くと、空は凧だらけである。

 しかしながら、独立記念日も午後になると、一応「テロは防げた!」みたいな雰囲気になり、一気に警戒レベルは下がる。車通りがとても少ないので、打って変わってデリーを走り回るのに快適な日となる。暇だったので、午後から映画を見にコンノート・プレイスの老舗映画館オデオンに出掛けた。本当は「Anthony Kaun Hai?」という映画を見に出掛けたのだが、新聞の映画欄を見間違えてしまい、オデオンで上映されていたのは2週間前に公開された「Shaadi Karke Phas Gaya Yaar」といういかにもつまらなそうな映画だった。しかも、それに気が付かずにチケットを買ってしまった・・・。それでも、買ってしまったものは仕方ないので、そのまま見ることにした。結果、やっぱりつまらなかったのだが、つまらないなりに語るべきことがあったので、一応映画評をここに掲載しておく。

 「Shaadi Karke Phas Gaya Yaar」とは、「結婚してとんでもないことになっちまったよ」という意味。監督はK.S.アディヤーマーン、音楽はサージド・ワージドとダッブー・マリク。キャストは、サルマーン・カーン、シルパー・シェッティー、リーマー・ラグー、シャクティ・カプール、スプリヤー・カルニクなど。

Shaadi Karke Phas Gaya Yaar
 アーヤーン(サルマーン・カーン)は、自動車の整備工場を経営する中産階級の若者だった。ある日、妹の誕生日プレゼントを買いにサーリー屋を訪れ、そこでアハーナーという美しい女性(シルパー・シェッティー)と出会う。だが、アーヤーンは、アハーナーが買った高価なサーリーを、妹への誕生日プレゼントのために買った安価なサーリーと取り間違えてしまう。アハーナーは家に帰って購入物が入れ替わっていることに憤慨しながらも、アーヤーンのことはすっかり忘れていた。【写真は、サルマーン・カーン(左)とシルパー・シェッティー(右)】

 その後、アーヤーンはアハーナーと数回偶然出会い、仲を深めて行く。ある日、アーヤーンはアハーナーが忘れて行った日記を手に入れる。そこにはアハーナーのいろいろな好みのことが書かれていた。アーヤーンはその日記を研究し、アハーナーの気を引こうとする。アハーナーも、アーヤーンが自分の好みにピッタリであることに驚き、運命の人だと考えるようになる。アハーナーの父親(シャクティ・カプール)もアーヤーンのことを気に入る。2人の結婚はそのままスムーズに進んだ。唯一、アハーナーの母親(スプリヤー・カルニク)だけは、娘が中産階級の男と結婚することに反対であった。アハーナーの家は大富豪であった。

 結婚後、アーヤーンの家に住み始めたアハーナーは、アーヤーンの態度の変化や、彼の家族の中での生活に嫌気を感じ始める。アハーナーは妊娠するが、まだ子供を生みたくなかった彼女は堕胎したいと言い出す。アーヤーンはそれに反対する。だが、アハーナーは階段から落ちて流産してしまう。アーヤーンは、アハーナーが故意に堕胎したと思い込んで失望する。こうして夫婦仲は徐々に険悪なものとなって行った。

 アハーナーの不満が一気に爆発したのは、自分の誕生日パーティーの日、アーヤーンの家でたまたま自分の日記を見つけてしまったことからだった。このとき初めて、彼女はアーハーンの好みが自分とピッタリ一致していた理由を知る。アーヤーンが自分の気持ちを弄んだことに怒ったアハーナーは、酒を一気飲みして酔っ払い、公衆の面前でアーヤーンを侮辱する。逆ギレしたアーヤーンは、アハーナーに平手打ちを食らわす。アハーナーはそのまま実家に帰ってしまい、別居状態となってしまう。

 母親に説得されたアーヤーンは、アハーナーの実家を訪れ謝罪し、彼女を連れ戻そうとする。だが、アハーナーはそれを拒否する。しかも、このときアハーナーは再び妊娠しており、彼女の家族は堕胎させようとしていた。それを知ったアーヤーンは、離婚してもいいからお腹の子供だけは生むように頼む。問題はこじれ、法廷で争われることになる。裁判長は、離婚のために1年間の猶予期間を設けると同時に、アハーナーに対して子供を生むように命令する。また、アーヤーンはアハーナーがまた流産させないように、アハーナーのそばに付きっ切りになる必要性を主張する。裁判長もそれを認め、こうしてアーヤーンはアハーナーの家で彼女のそばに住むことになった。そしてアハーナーが出産すると、今度は医者が母乳によって子育てする必要性を主張する。こうして、今度はアハーナーがアーヤーンの家に2ヶ月住むことになった。

 アハーナーは子育てをしている内に、次第に子供に対して情が移ってくる。2ヶ月が過ぎ去り、実家に帰ることになると、アハーナーは帰ることを拒否する。だが、母親は彼女を無理矢理連れ出す。だが、今まで黙っていた父親が急に怒り出し、アハーナーをアーヤーンの家に帰らす。アーヤーンも、アハーナーの心変わりを待っており、帰って来た彼女を温かく迎える。

 大スター、サルマーン・カーンを起用した映画ではあるが、非常に古風で前時代的な映画だった。映画が発信するメッセージも、「女性は結婚して、子供を生んで、夫に従うべき」という伝統主義的なものだった。だが、デリーの中でも比較的庶民が集う映画館で見たことが功を奏し、いろいろ思うところのある映画であった。インド映画の本音が最も如実に表れるのは、映画賞を取るような良作、大作、ヒット作ではなく、こういう低予算のB級C級映画なのかもしれない。

 題名通り、この映画は結婚後の夫婦生活のギクシャクを描いている。その点は先日見た「Kabhi Alvida Naa Kehna」と共通している。だが、夫婦仲がうまく行かない原因の多くは、妻と妻の家族側に求められている点で、非常に一方的な脚本であった。まず、妻アハーナーの家は上流階級で、夫アーヤーンの家は中産階級であるというアンバランスさが、結婚生活の不成功を暗示していた。そして、モデルをしていたアハーナーは、自立した考えを持ったモダンな女性であった。彼女がアーヤーンに言う、「私はあなたの家族と結婚したんじゃないの、あなたと結婚したの」というセリフは、陳腐ではあるが、彼女の考え方を明確にしていた。しかも、結婚後4ヶ月で妊娠したアハーナーは、「私はまだ若いから」と言って、子供を生みたくないと言い出す。こういう我がままな女性は、インド映画では悪役以外の何者でもない。この時点で、完全に観客の同情はアハーナーから離れる。また、アハーナーの家は女性が権力を握っていた。アハーナーの母親は、最初から娘が中産階級の男と結婚することに反対しており、結婚がうまく行っていないのを知ると、離婚と堕胎を躊躇なく勧める。アハーナーの姉は既に4回離婚しており、はなっから結婚を信じていない。その一方で、アハーナーの父親は娘の結婚の成功を祈ってはいるものの、いつも黙ってばかりで、それがさらに家の女たちを付け上がらせる原因となってしまっていた。

 このような設定なので、結末の予想は非常にたやすい。アーヤーンとの離婚を求めるアハーナーは、裁判所の命令によって嫌々子供を生んで育てることになるが、次第に母親としての喜びを見出すようになり、最終的にはアーヤーンの妻として元の鞘に収まる。映画の最後のシーンで、「なぜ戻って来た?」と聞くアーヤーンに対し、アハーナーは「子供のために」と答える。子供のためだけかよ、と少し落胆するアーヤーンに対し、はにかみながら「つまり、2人目の子供のために」と言い直す。この終わり方は悪くはなかった。アハーナーの心変わりと同時に、彼女の母親の心変わりも描かれる。アーヤーンはアハーナーの父親に対し、「あなたが言いたいことを言わないから、女どもが付け上がるんだ」と責める。それを聞いた父親は急に変貌し、我がまま放題だった妻を2回平手打ちし、「これからは俺は黙ってないぞ!」と一喝する。これが原因で、アハーナーの母親は一転して夫に尽くす忠実な妻となってしまう。

 このように、この映画は男中心社会を美化し、自立した女性を伝統的な価値観に引き戻そうとする明確なメッセージが込められていた。そして、観客もそれを楽しんでいたようで、アーヤーンがアハーナーを平手打ちするシーン、アハーナーの父親が母親を平手打ちするシーンでは、大きな拍手喝采が沸き起こっていた。別にフェミニズム的観点からこの映画を批判するつもりはない。ただ、インド映画と観客の本音を改めて知ることができる映画だと思った。

 演技の面では、脇役であるシャクティ・カプールとスプリヤー・カルニクの好演が光った。シャクティ・カプールはいつも変な役ばかり演じているが、この映画では珍しくシリアスな役に挑戦しており、とても落ち着いた演技をしていた。スプリヤー・カルニクは、「タカビーなマダム」をよく演じる脇役女優であるが、この映画でも自分の十八番を演じて映画中最大の悪役となり、観客の感情をうまく方向付けていた。

 主演のサルマーン・カーンは可もなく不可もなくの無難な演技。彼のファンへのアピールであろうか、取ってつけたような格闘シーンが一瞬だけ挿入されていたが、全体としては物静かな好青年の役を演じていた。ヒロインのシルパー・シェッティーは役をもっとよく選ぶべきだ。彼女のような、名の売れた女優が演じるべき役ではなかった。よっぽど売れていないのだろうか?

 ボリウッド映画なので、途中でダンスシーンがあるのは必然のことであるが、無意味なダンスシーンが多く、映画を盛り下げていた。

 「Shaadi Karke Phas Gaya Yaar」は、現代のボリウッドの潮流とはかけ離れた古風な映画である。わざわざ見る必要はないが、インド映画や、インド映画とインド人の関わりを語ろうと思ったら、こういう駄作もたまには見なければならない、と思わされたことで、個人的には価値のある映画であった。

8月16日(水) Yun Hota Toh Kya Hota

 ジャナマーシュトミー(クリシュナ生誕祭)の今日、PVRアヌパムで7月21日公開の「Yun Hota Toh Kya Hota」を見に行った。この映画は、インド最高の俳優として誉れ高いナスィールッディーン・シャーが初めてメガホンを取った作品で、911事件を題材としたオムニバス形式の映画である。

 題名「Yun Hota Toh Kya Hota」の意味は、「こうであったらどうだっただろう」という意味。副題は「What If..」。監督はナスィールッディーン・シャー、音楽はヴィジュー・シャー。キャストは、コーンコナー・セーンシャルマー、ジミー・シェールギル、イルファーン・カーン、スハースィニー・ムレー、サロージ・カーン、アンクル・カンナー、パレーシュ・ラーワル、ラトナー・パータク・シャー、カラン・カンナー、トリシュラー・パテール、シャハーナー・ゴースワーミー、イマード・シャー、ラヴィ・バースワーニー、ティンヌー・アーナンド、ボーマン・イーラーニー、ラジャト・カプール、ランヴィール・シャウリー、カーラ・スィンなど。4つの小話が一本の映画を構成している映画なので、登場人物は非常に多い。

Yun Hota Toh Kya Hota

 話は2001年8月31日から始まる。

 ティローッティマー・プンジ(コーンコナー・セーンシャルマー)は、ネットで知り合った米国在住インド人のヘーマント(ジミー・シェールギル)と結婚し、幸せの絶頂だった。だが、ヘーマントは仕事のために、結婚式を終えるとすぐに米国へ帰ってしまった。ティローッティマーはヴィザが下りるまで待たなければならなかった。だが、ヘーマントの家族は多くの問題を抱えていた。ヘーマントの母親(カーラ・スィン)は米国人だが、インド人の父親(ラヴィ・バースワーニー)と結婚してインド国籍を取得し、インドに住んでいた。ヒステリックな性格の彼女は、ティローッティマーが米国へ行くのを邪魔し、家の仕事を全て彼女に押し付けていた。ヘーマントの妹は夫と別居状態で精神錯乱状態だった。この家庭に嫌気が差したティローッティマーは、早く米国へ行こうとする。彼女は米国大使館で未婚だと偽って観光ヴィザを取得する。

 株式仲買人のサリーム・ラージャーバリ(イルファーン・カーン)は、年上の女性ナムラター(スハースィニー・ムレー)の虜となっており、しつこく言い寄っていた。だが、ナムラターはサリームを冷たく突き放した。サリームと仲間のジャーヴェードは、ポール警部(ボーマン・イーラーニー)が買った株の件で問題に直面していた。ポール警部はマフィアから金を借りて株に手を出し、大損をしてしまった。そのせいで彼はマフィアから命を狙われていた。サリームとジャーヴェードが警部の隠れているホテルを訪ねたときに、ちょうど警部は暗殺者に殺されてしまう。しかも2人は暗殺の犯人にさせられる恐れがあった。サリームは、母親アンマー(サロージ・カーン)の助言に従い、ジャーヴェードと共に米国へ逃亡する。

 貧しくも優秀な学生であるラーフル・ビデー(アンクル・カンナー)は、米国の大学に合格したが、米国へ行けずにいた。学資金が足らないことと、父親が病気で瀕死の状態であることがその原因だった。だが、友人のクシュブー(アーイシャー・ターキヤー)が学資金を援助してくれた上に、ちょうど父親が息を引き取ったため、米国行きを決める。ヴィザも入手することができた。

 ラージューバーイー・パテール(パレーシュ・ラーワル)は、表向きはダンサーを率いて米国ツアーを行っていたが、裏では米国への不法移民を斡旋していた。ある日、ラージューバーイーのもとに19年前に別れた妻ターラー(ラトナー・パータク・シャー)がやって来て、娘のパーヤル(シャハーナー・ゴースワーミー)を米国へ移住させるよう頼む。ターラーの再婚相手は飲んだ暮れで、妻や娘に売春をさせて暮らしていた。ターラーは、パーヤルだけでも米国へ逃がそうと思い、ラージューバーイーを訪ねたのだった。ラージューバーイーは、今でもターラーに対して愛情を抱いていた上に、18歳のパーヤルが自分の実の娘であることを直感し、それを引き受ける。ラージューバーイーはパーヤルのヴィザを首尾よく取得する。

 サリームは既にニューヨークに渡っていた。ティローッティマー、ラーフル、ラージューバーイー、パーヤルらはボストン行きの飛行機に乗り込んだ。彼らはボストンを経由してロサンゼルスへ行く予定だった。ところが、ボストンの空港でティローッティマーは搭乗券をなくしてしまい、ロサンゼルス行きの飛行機に乗り遅れてしまった。ラーフル、ラージューバーイー、パーヤルはロサンゼルス行きの飛行機に乗るが、その飛行機はハイジャックに遭い、ニューヨークの世界貿易センターへ突っ込む。また、そのときちょうど世界貿易センターにはサリームが来ていた。ヘーマントは、妻の乗った飛行機がテロに遭い、落胆していたが、そこへ飛行機に乗り遅れてバスでロサンゼルスまでやって来たティローッティマーが現れた。

 要は911事件の被害に遭ったインド人と、たまたま飛行機に乗り遅れて難を逃れたインド人のストーリーを4本集めた映画である。どうやら実話に基づいているようだ。だが、はっきり言って監督がこの映画を通して何を観客に伝えたかったのか、よく分からなかった。よって、名優ナスィールッディーン・シャーの監督第1作は、残念ながらとても弱い作品になってしまっていた。

 4つのストーリーの内で最も繊細に描写されていたのは、ラージューバーイーとターラーの物語であろう。移民斡旋を生業としていたラージューバーイーは、19年前に別れた妻の娘パーヤルを米国へ送る仕事を請け負う。しかし、ターラーがどこからその資金を調達して来たのか不安になったラージューバーイーは、ターラーの家を訪ねる。すると、ターラーは飲んだ暮れの夫に売春させられていることを知ってしまう。遂に夫を見限ったターラーは、家を出てラージューバーイーのオフィスに住むようになる。このオフィスでの2人のやり取りが、映画中最もロマンティックなシーンであった。また、ラージューバーイーはパーヤルが自分の娘であることに勘付く。彼はターラーから受け取った金を全て彼女に返し、責任を持ってパーヤルを米国に送り届けることを約束するのだった。

 その他3つのストーリーはまとまりに欠けた。サリームとナムラターの関係、ラーフルとクシュブーの関係や、ヘーマントの家族の状況は説明不足で訳が分からなかった。サリームが911事件で死亡するプロットは、一般にイスラーム教徒のテロリストの仕業とされている911事件の被害者の中にはムスリムもいたんだ、ということを主張していると取ることもできるが、やはりそれも説得力に欠けた。

 だが、インド人がどのように米国のヴィザを取得しているのか、その様子を観察するのは興味深かった。特にティローッティマーがヴィザを取るシーンは面白い。女性が観光ヴィザを取得する際、面接で未婚だと言わないとどうもヴィザは下りにくいらしい。既婚の場合、米国に夫がおり、そのまま配偶者として住み込んでしまう可能性があるからだ。また、ラージューバーイーが密かに行っていた米国への移民の斡旋業は、どうやら実際に存在するようだ。例えば以前、パンジャービー・シンガーのダレール・メヘンディーが、海外ツアーの際にバックダンサーと称して移民希望者を非合法に海外へ連れて行ったとして逮捕されたことがあった。

 多くの俳優が登場したが、その中でも光っていたのはやはり既に名声が確立された俳優たちだった。具体的には、パレーシュ・ラーワル、コーンコナー・セーンシャルマー、イルファーン・カーンなどである。アーイシャー・ターキヤーやジミー・シェールギルは活躍の場が限られていたが、それぞれ無難な演技をしていた。その他、あまり見ない俳優たちも多数出演していた。その中ではラトナー・パータク・シャー、シャハーナー・ゴースワーミーなどが良かった。

 一応、映画の冒頭で、「これは実話に基づいたストーリーです」との注意書きが出るが、題名が「こうだったらどうだっただろう」という、いかにも仮定的なものなので、本当に全てが全て実話なのか疑わしい。ただ、搭乗券をなくして飛行機に乗れなったためにテロで死なずに住んだティローッティマーの話は、逆に現実感があった。人生何が幸いするか分からないものである。

 名優ナスィールッディーン・シャーが撮った911事件を題材とした映画ということで、かなり期待をしてはいたのだが、オムニバス形式だったのが裏目に出て、内容があまりない映画になってしまっていた。次回作に期待である。

8月18日(金) Ahista Ahista

 今日はPVRアヌパムで本日より公開の新作ヒンディー語映画「Ahista Ahista」を見た。題名の意味は「ゆっくりと、ゆっくりと」。監督はシヴァム・ナーイル、音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、アバイ・デーオール、ソーハー・アリー・カーン、シャヤン・ムンシーなど。

Ahista Ahista
 アンクシュ(アバイ・デーオール)は、オールド・デリーの婚姻登記所で新郎新婦の臨時証人の仕事をして日銭を稼いでいた。ある日アンクシュは、ナイニータールから来たメーガー(ソーハー・アリー・カーン)と出会う。メーガーは、駆け落ちして恋人と婚姻登記所で落ち合うことになっていたが、恋人のディーラジ(シャヤン・ムンシー)はいつまで経っても現れなかった。アンクシュはメーガーを慰め、勇気付けると同時に、デリーでの滞在場所をアレンジする。【写真は、ソーハー・アリー・カーン(左)とアバイ・デーオール(右)】

 次第にアンクシュはメーガーに恋をするようになった。メーガーも、アンクシュの親切により、ディーラジに裏切られた悲しみを何とか克服できるようになり、彼に心を開くようになって来る。アンクシュは、メーガーの滞在費のために1万ルピーを稼がなければならなかったが、運よく銀行の営業職に就くことができ、条件付きだが出世もできた。定職に就くことができたアンクシュは、メーガーに結婚を申し込む。メーガーも数日考えていたが、最後にはプロポーズを受け容れる。

 ところが、その頃ディーラジがデリーに現れ、メーガーを探していた。アンクシュはディーラジのメーガー捜索を邪魔し、何とかナイニータールへ帰らせそうと画策するが、うまく行かなかった。とうとうディーラジはメーガーの居所を探し出してしまう。

 ディーラジが約束の日に現れなかったのには理由があった。ディーラジはナイニータールからデリーに向かっていたが、列車の中でテロリストと間違えられ、警察に拘束されていたのだった。それを聞いたメーガーは、どうしたらいいのか分からなくなる。結局、アンクシュはメーガーを諦め、ディーラジとメーガーの結婚の証人となり、2人の結婚を祝福する。

 変わったストーリーの映画だったが、終わり方は無難ではあるが、観客の期待を裏切る形であり、映画館を出るときの気分は晴れなかった。中盤が最も盛り上がる映画である。

 たとえディーラジに正当な理由があったとは言え、観客の同情はアンクシュに集まるだろう。今までまともに若い女性と接したことがなかったアンクシュは、婚姻登記所で一人立ち尽くす身寄りのないメーガーを必死になって支え、やがてプロポーズをする。アンクシュを応援したくなるのは人間の性であろう。ディーラジがデリーに来ていることを知った後のアンクシュの行動は卑怯だったかもしれないが、それはメーガーを手に入れたいがための行動であり、彼を責めることはできない。メーガーもアンクシュを受け容れる。だが、アンクシュとメーガーにとって不幸だったのは、ディーラジが故意にメーガーを裏切ったのではないことだ。メーガーは、ディーラジを差し置いてアンクシュと結婚することはできなかった。結局、アンクシュは元の孤独な生活に戻って行く。非常に現実的な終わり方ではあったが、アンクシュにとって非常に悲しいエンディングとなってしまっていた。また、ディーラジとメーガーの再会は、メーガーの住む教会の宿舎で行われていたが、どうせなら婚姻登記所で行われるべきだったと思う。その方がドラマチックだし、映画は盛り上がったことだろう。最後、ハッピー・エンディングではない上に、盛り上がりに欠けたために、尻すぼみ的なエンディングになってしまっていた。

 いくつか下層のインド人の生々しい生活振りが伝わってくる要素があり、それが最も興味深かった。主人公のアンクシュは、婚姻登記所で臨時証人となって日銭を稼いでいた。臨時証人、と言ってもそんな職業は日本にはないので説明が必要だろう。どうやらインドの婚姻登記所では、婚姻届けを提出する際、花嫁側、花婿側、それぞれ2人ずつ、合計4人の証人の署名が必要となるらしい。しかし、駆け落ちなど、訳ありの結婚をしたカップルには、4人の証人を揃えるのが困難となる。そこで、アンクシュの出番となる。アンクシュは手数料200ルピーを取ってその場で証人を揃え、新郎新婦の婚姻を成立させる仕事をしていたのだった。

 また、アンクシュは銀行口座開設の営業の仕事もし出す。こちらはもっと分かりやすい。銀行口座開設の契約をひとつ取るごとに500ルピーの報酬がもらえる。婚姻登記所で多くの新婚カップルと出会い、コマメに彼らの連絡先をメモして来たアンクシュは、その人脈を生かして短期間で多くの契約を取り付け、好成績を上げる。それが上司の目に留まり、彼はエリア・スーパーヴァイザーに出世するチャンスを得る。ただし、教養のない彼にとって最大の難関は、英語であった。英語が話せないとエリア・スーパーヴァイザーにはなれなかった。だが、アンクシュは、「オールド・デリーではヒンディー語しか話されていない」と上司を説得し、出世を勝ち取ったのだった。ただし、1ヶ月以内に英語を習得するという条件付きであった。エリア・スーパーヴァイザーになったアンクシュは、2万ルピーの月給をもらえるようになった。

 「Socha Na Tha」(2005年)でデビューしたデーオール一族の新顔アバイ・デーオールは、まだまだ演技の勉強が必要であろう。素人以下の演技であった。彼の丸々肥えた顔は、とても低所得層のインド人には見えなかった。ソーハー・アリー・カーンは無難な演技をしていたが、この映画は特にキャリアの足しにはならないだろう。ディーラジを演じたシャヤン・ムンシーは、「Jhankaar Beats」(2003年)でデビューした男優である。ハンサムな顔をしているが、特に見せ場はなく、将来性は今のところなさそうだ。数ヶ月前、ジェシカ・ラール事件への関与で多少メディアに出ていた。彼は、同じく売れない若手女優ピヤー・ラーイ・チャウドリーの夫である。

 音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。ヒメーシュ効果により、「Ahista Ahista」のサントラCDはけっこう売れている。いかにもヒメーシュらしい曲――タイトル曲「Ahista Ahista」、「Allah Kare」、「Love You Unconditionally」、「Dil Naiyyo Maane Re」など――で満たされており、ヒメーシュ・ファンは買いであろう。だが、最も叙情的に使われていたのは、カッワーリー曲「Aawan Akhiyan Jawan Akhiyan」であった。

 デリーが舞台になっていたので、いくつも見慣れた場所が出て来た。オールド・デリーのラール・キラー、ジャーマー・マスジド、チャーンドニー・チャウク、ダリヤー・ガンジや、コンノート・プレイス、クトゥブ・ミーナールなどである。途中のミュージカル・シーンで、ディーウらしき風景も見えた。

 オールド・デリーが舞台になっていたので、言語はオールド・デリーで話されている言葉かと思いきや、それほどオールド・デリーっぽくもなかった。アバイ・デーオールもうまくデリーっぽい言葉をしゃべれていなかった。

 「Ahista Ahista」は、アバイ・デーオール、ソーハー・アリー・カーンという若手俳優の共演が注目ではあるが、わざわざ見る価値のある映画ではない。ただ、婚姻登記所に寄生して商売をする下層インド人たちの様子が少しだけ垣間見えて面白かった。

8月31日(木) 引っ越し奮闘記

 僕がインドの地に初めて降り立ったのは1999年春。40日間でインド亜大陸を大まかに一周し、俗に言う「インドにはまった」人の一人となった。2000年春もインドを旅行し、コールカーターIN、デリーOUTで北インドを中心に行き残した場所を巡った。2001年春には隣国パーキスターンも旅行した。そして2001年夏、3度目のインド行きは、片道切符を持ってのヒンディー語留学であった。

 当初僕が通っていたケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターン(中央ヒンディー語学院;以下サンスターン)のデリー校には寮がなく、生徒は自分で住む家を見つけなければならなかった。ちなみに、サンスターンの本校はアーグラーにあり、そちらは寮がある。日本人の場合、インド政府からの奨学金をもらってヒンディー語留学すると自動的にアーグラー校への留学となり、私費留学だとデリー校への留学となる。どちらがいいのかは意見が分かれるところだが、デリー校の特色は、この「自分で住む家を見つけなければならない」という点にあると思う。インドを少し旅行しただけでも日本では「一般人」から豪傑か変人扱いだ。一般の日本人はインド旅行を命を懸けた大冒険だと思い込んでいる。ただでさえそんな状況なのだから、インドに住み、しかも自分で家を探すという行為が並大抵のことでないことは、きっと誰にでも想像が付くことだろう。そして実際、それは非常に骨の折れる行為なのである。だが、僕の経験から言えば、この家探しこそが、ヒンディー語学習の絶好の入り口なのだ。不動産屋と交渉し、大家さんと話し合い、迷いに迷って住む家を決める頃には、いつの間にかヒンディー語がけっこうできるようになっているし、さらに重要なことに、インド人と自然にヒンディー語でコミュニケーションを取ることができるようになっている。どういう家に住むかは人それぞれだが、もしインド人の真っ只中に住むようになったら、さらにヒンディー語の上達は早くなる。ただし、デリー校に留学した人のヒンディー語は、生のヒンディー語と触れる機会が多いため、口語っぽくなる傾向になる。一方、アーグラー校に留学すると、寮に住む他の外国人と教科書通りのヒンディー語で会話することになるので、正統派のヒンディー語が身に付きやすいと言われている。

 当時、サンスターンのデリー校はオーロビンド・マールグにあるオーロビンド・アーシュラム内にあった。オーロビンド・マールグは南デリーを南北に貫く幹線であり、バスの便が非常に良かった。よって、デリー校に通う生徒はこのアルビンド・マールグ沿いの町に住むことが多かった。中でも伝統的に人気があったのが、全インド医科大学(AIIMS)近くにあるガウタムナガルである。

 デリーの町は大まかに分けて2つある。元々集落や村があり、デリー市街地の拡大により首都圏の中に呑み込まれる形となった「ガーオン」と、後から計画的に建築された「コロニー」である。ガーオンには比較的低所得の住民が住んでおり、建物は高く、道は狭く、ごちゃごちゃしている。一方、コロニーにはきれいな屋敷が並んでおり、道は広く、計画的で、所々に公園も設けられている。当然、コロニーの住人は中〜上流階級層だ。ガウタムナガルは、中の下ぐらい、ガーオンに毛が生えたぐらいの町だった。近くには、ユースフ・サラーイという栄えた市場があるし、医科大学がそばにある関係で医学生がけっこう下宿していてそれほど雰囲気は悪くないし、少し散歩すればサウス・エクステンション、グリーン・パーク、アンサル・プラザと言った南デリーを代表する高級マーケットへアクセスできたりと、けっこう便利な場所であった。ただし、そういう便利さに気付いたのは住んだ後で、僕はあまり深く考えずにこのガウタムナガルに居を定めた。1部屋、バスルームと小さなベランダ付き、キッチンなし、水道代電気代込みで3000ルピーの部屋だった。

 僕の大家さんは、ハリヤーナー州クルクシェートラ出身、ジャート族のジャイナ教徒だった。ジャート族はしゃべり方や気性が荒いためか、デリーでは他のコミュニティーから軽く蔑視される傾向にあるようだが、インドではコミュニティー間で相手の目立つ特徴をあげつらって軽蔑のし合いをしているので、それほど気にしなくてもいいのではないかと思う。インドで最も厳格な菜食主義を貫くジャイナ教徒だったことも、キッチンのない部屋に住んだ僕にとっては関係なかった。大家さんがジャイナ教徒だと、キッチンで肉料理を作ってはならないと制約を課されることがある。大家さんの奥さんは足が悪く、一日中家にいることがほとんどだった。大家さんにはシーヌーという一人息子がいた。僕よりも10歳くらい年下だったが、僕のことを「バイヤー(お兄さん)」と呼んで慕ってくれた。シーヌーとはよくアンサル・プラザのマクドナルドへ行った。シーヌーのような下位中産階級の若者にとって、マクドナルドでハンバーガーを食べるというのは、イマドキのオシャレな行為なのだ。しかし、まだ当時中学生だったシーヌーは、1人でそのようなシャレた場所に行くことはできないようだった。そこで僕がいつも一緒に付いて行ってあげたのだった。ガウタムナガルの外れでは、毎週木曜日、ビール・バーザールという定期市が開かれていた。シーヌーはそこで売られている屋台のチョーレー・バトゥーレーも大好きだった。木曜日にお互い時間があると、一緒にビール・バーザールへ行ってチョーレー・バトゥーレーを食べていた。大家さんの家にはもう一人、シャームーというサーバントの男の子が住み込みで働いていた。見た目は8歳くらいの少年だったのだが、年齢を聞いてみたらシーヌーとほとんど変わらなかった。村で暴行を受け過ぎたためか、栄養が足らなかったためか、成長が止まってしまったらしい。シャームーも僕のことを慕ってくれていた。僕が日本に帰るたびに、なぜかダイヤル式の錠を買って来て欲しいと頼まれた。しかもこっそりと。だから僕も日本から帰って来ると、こっそりとシャームーにダイヤル式の錠をプレゼントしていた。だが、なぜか次の帰国のときまでになくしてしまっていて、また新しい錠を頼まれた。

 ガウタムナガルには2年ちょっと住んだ。その間、サンスターンがオーロビンド・アーシュラムからカイラーシュ・コロニーに移転するという出来事があった。2年目もサンスターンに通うことに決めた僕は、その移転に伴って新校舎のそばに引っ越そうと考えた。グレーター・カイラーシュ(GK)辺りで家探しをした。グレーター・カイラーシュはいわゆるコロニーにあたり、高級住宅地である。高級住宅地で同じような予算の家を探すとなると、物件は必然的にサーバント・クォーターになってしまう。サーバント・クォーターとは、高級住宅の裏に引っ付いている住み込みサーバント用の住居である。空きがある場合、賃貸に出されていることがある。いくつか物件を見て回った結果、GK-I のサーバント・クォーター部屋に狙いを定めた。家賃は4000ルピーだった。ほとんど決めかけたのだが、そこではインターネットが使えない可能性が浮上したため、引っ越しをキャンセルし、そのままガウタムナガルに住み続けることにした。僕が引っ越しをやめたと知ったときの大家さんの家族の喜びようは、僕をますますガウタムナガルに定着させる要因となった。

 ここで少しインターネットに関して説明しなければならないだろう。僕が留学しにデリーに降り立った2001年、デリーでは自宅でインターネットをしている人はほとんどいなかった。どこがIT大国だ、と空き缶を蹴っとばしたくなるほどのインターネット不毛地帯だった。ほとんどのインド人はネットカフェでインターネットをしていた。日本人の駐在員の中には自宅でインターネットをしている人もいたと思うが、ほとんどが電話回線によるナローバンドのインターネットだったことだろう。僕も留学前はインドで自宅インターネットができるとはあまり考えていなかったが、できたらいいな、ぐらいの気持ちでノートPCを持参していた。まずは電話回線によるインターネット開通を模索したが、当時電話線を家に引くのは非常に困難だった。普通に申請したら、申請から1年後に電話局の人が家に来る、という有様であった。もし迅速に回線を引きたいなら、多額の賄賂を払わなければならなかった。今では民間企業の参入により、状況は見事に改善されたが、当時は絶望的な状況だった。だが、偶然、ケーブルによるブロードバンド・インターネットを自宅で享受しているインド人と知り合うことができ、彼の助けにより、自宅インターネット開通に成功した。ブロードバンドと言っても名ばかりで、スピードは128kbps、料金もとても高かった覚えがある。だが、この成果により、「これでインディア」が誕生したと言っても過言ではない。

 デリーではどうもケーブル会社の縄張りが決まっているようで、地域によって担当の会社が全く違う。ガウタムナガルはハートウェイのエリアだったが、GK-I はハートウェイのエリアではなかった。GK-Iで開業しているネットカフェで聞いてみたところ、他のケーブル会社があることが分かったが、月々の料金はハートウェイの3倍くらいだった。ただでさえ家賃が上がるのに、インターネット代まで跳ね上がってはたまらない。これが引っ越しをキャンセルした最大の理由だった。ガウタムナガルからカイラーシュ・コロニーにあるサンスターンまで、毎日オートリクシャーまたはバスで通った。

 インド留学3年目、僕はジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)のMAヒンディーに入学した。JNUはさらに遠い場所にあり、ガウタムナガルからバスやオートで通うことはかなり面倒だった。JNUには寮があり、留学生のほとんどはまずは寮に入るのだが、僕は既に家があったので寮は申請しなかった。また、この頃はJNUの寮の個室でインターネットをすることは難しかった。いくつか方法はあったようだが、どちらにしろ快適なインターネット環境は望めなかった。よって、寮に引っ越すことは、ほとんど「これでインディア」の終了を意味した。既に「これでインディア」は僕のインド生活の日課となっていたため、それを捨てて寮に住むことはできなかった。だが、毎日ガウタムナガルとJNUを往復するのは大変だった。そこで僕はバイクを購入することにした。バイクのおかげでJNUへの通学はかなり楽になった。

 そんなとき、再び引っ越しの話が持ち上がった。詳しい事情は省略するが、話はとんとん拍子で進み、サフダルジャング・エンクレイヴの家に引っ越すことになった。サフダルジャング・エンクレイヴは高級住宅地で、しかもJNUへのアクセスもガウタムナガルよりよい。家の前にはディア・パークという巨大な森林公園が広がっており、そのおかげでこの辺りは他の地域よりも気温が低く、空気がきれいだ。日本食材店Yamato-yaや日本人会室などもすぐ近くにあり、ちょっとした日本人街となっている。ハートウェイのオフィスは何を隠そうサフダルジャング・エンクレイヴ内にあり、ガウタムナガルから引き続きインターネットを使うことができた。こういう恵まれた環境で新たなデリー生活が始まった。

 サフダルジャング・エンクレイヴでは、得たものも多かったが、失ったものも多かった。最大の損失は、インドとの隔絶であった。高級住宅地に住むと静かに生活することができていいのだが、それは裏を返せばインドの日々の生々しい出来事から隔絶して生活することを意味する。ガウタムナガルでは、何かの祭りが近付くと必ず町全体がいかにも「祭りが近付いて来ました!」という雰囲気になったし、大家さんや近所の人々との会話の中で、インド人の本音を知ることができた。言わば、僕はインドに常に浸かりながら生活をすることができた。自分の目で、自分の肌で、躍動する生のインドを観察し、経験することができた。だが、サフダルジャング・エンクレイヴでは、例えばホーリーの日でも、ずっと家に閉じこもっていれば、色粉に全く触れずに1日をやり過ごすことができた。そして、インドに次第に慣れて来た僕は、お祭り騒ぎよりもそういう静かな休日を望むようになってしまっていた。

 それでもMAの頃はまだマシであった。毎日授業があったので、頻繁に大学に行かねばならず、そこでクラスメイトたちと会話をし、インドにいる楽しさを味わうことができた。しかし、MAの2年のコースを終え、次のMPhilに進学したら、授業の数はグッと減り、大学に行く機会、外に出る機会が減ってしまった。インドに住んでいながら、生のインドと接する機会がなくなってしまった。僕と外界との関係は、毎朝届く新聞のみとなってしまったように思えるときもあった。このような状態なので、「これでインディア」の日記の内容にも変化が出て来た。自分で言うのも何だが、さすがにずっと続けて来ているので、だんだんこなれてきた感があるのだが、それよりも自分の目で見た生のインドを記すことが出来なくなって来ていることに気付き、度々悩むようになった。

 MPhilも2年目に入り、論文を書かなくてはならなくなった。そのとき、またも突然引っ越しの話が出た。前回は引っ越しのお誘いみたいなもので、引っ越し先の決まった引っ越しだったが、今回は追い出されるような形となった。すぐに引っ越し先を探さなくてはならなくなった。これが今月の話である。よって、実は日本から帰って来て以来、映画を見つつも家探しの日々を送っていた。長かったが、ここまでが前置きである。「これでインディア」を書き始めた頃の日記は現在では諸事情あって一般公開していないので、新しい読者には少々説明が必要だと思い、長い前置きを書いた次第である。

 インドでの物件探しの基本は、まずは住みたい地域を定めることから始まる。自分で住みたい地域に直接行って、そこの不動産屋に聞いたり、自分で歩いてテナント募集をしている家を探す。インドの不動産屋は、一定の地域に特化して物件を扱っていることが多く、複数の地域の物件を一度に探せるようなシステムは、新聞の不動産欄を除けばあまり確立していない。僕は、引っ越し先の候補をサフダルジャング・エンクレイヴとガウタムナガルに定めると同時に、JNUの寮への引っ越しも模索し始めた。前者2つを引っ越し候補としたのは、やはり住み慣れた地域の方が安心だったからだ。また、この時期にJNUの寮を考え出したのには理由があった。それはまず、MPhilの学生から1人部屋がもらえることだ。BAやMAの男子学生は相部屋しかもらえないが、MPhilとPhDの男子学生は1人部屋専用のブラフマプトラ寮に住むことができる(女子学生はヤムナー寮に住めばBAやMAでも1人部屋がもらえる)。また、いつの間にかシフィーというケーブル会社がJNUキャンパス内でインターネット・ケーブルのサービスを始めており、自室でインターネットをすることが可能となっていたことも大きな理由だ。

 ガウタムナガルで物件探しを始めるにあたって、まずは挨拶がてら昔住んでいた家に行ってみた。ガウタムナガルはこの2〜3年の間にだいぶ変わってしまった。空き地だった場所に家が建ち、店が入れ替わり、車の量もすいぶん増えた。そして大家さんの家もだいぶ変わってしまっていた。まず、シーヌーは去年、チャンディーガルの工科大学に入学し、親元を離れていた。大家さんの言葉によると、僕よりも身長が高くなったらしい。元々同じくらいか、僕の方が高かったぐらいなのだが。それは一応嬉しい知らせだったのだが、悲しい知らせもあった。奥さんが最近何らかの病気で昏睡状態となってしまい、そのまま回復していないらしい。しばらくAIIMSに入院していたようだが、現在はカロールバーグの知り合いの家にいるそうだ。はっきり言って、いつ死ぬか分からない状態らしい。また、サーバントのシャームーはもう家にいなかった。サーバントはみんな多かれ少なかれそうなのだが、シャームーは盗難癖があった。実は僕も少々被害に遭ったことがある。それについて時々大家さんが怒っていたのだが、とうとう堪忍袋の緒が切れたのか、永久追放してしまったと言う。つまり、今のところ家には大家さん1人しか住んでいなかった。シーヌーが大学を卒業したら、すぐに結婚させて嫁をもらい、家の面倒を見させる、と言っていた。

 早速引っ越しの話を切り出してみた。まず、僕が昔住んでいた3000ルピーの部屋は、今では4000ルピーになっていた。あの小さな部屋に4000ルピーも出して住む気はないし、そもそも既に居住者がいた。また、いつの間にか大家さんはガウタムナガル内に別の家を建てて、ペイングゲストを始めていた。そこに1室空きがあるようだったので見せてもらった。割ときれいに装飾された家具付きの部屋だったが、窓がほとんどない密室の上にキッチンがなかった。家賃は6500ルピーだという。これはいくら何でも高すぎる。実は大家さんの助けを借りて、ガウタムナガルで他の物件を探そうと思っていたのだが、大家さんが「ガウタムナガルの他の家に君が住むことになったら、いい気がしない」みたいなことを言っていて、頼みにくい状況となってしまったので、ひとまずガウタムナガルは保留することにした。

 同時にサフダルジャング・エンクレイヴ地域でも物件を探していた。サフダルジャング・エンクレイヴは基本的には高級住宅地だが、アルジュンナガル、フマーユーンプル、クリシュナナガルなどのガーオンも混在しているというちょっと変わった地域である。どこか安くていいところがあればと思って探していたのだが、ひとつ、かなりいい物件が見つかった。場所はガーオンではなくコロニー地帯のサフダルジャング・エンクレイヴ、3階建ての建物の3階にある広々とした2部屋+バスルームの物件なのだが、屋上が全て自分のものになる上に、大家さんが見た所あまり貪欲ではなく、5000ルピーという破格の値段を提示してもらえた。この環境でこの値段は安い。ただし、ここもキッチンがない。また、ここに住んだらまたインドと隔離された環境となってしまう恐れがあることも悩みであった。


サフダルジャング・エンクレイヴで気に入った物件

 さらに同時に、JNUの寮の申請も始めていた。JNUの寮は、外国人留学生に優先的に部屋が宛がわれるシステムとなっている上に、希望も聞いてもらえやすい。申請の際、学部(スクール)や学科(センター)の事務所で、既に提出してしまったフォリオ(登録用紙)を一時的に返還してもらわなければならないのが面倒くさかったが、何とか申請当日(8月17日)にブラフマプトラ寮への入寮が決定した。ところが、ブラフマプトラ寮にはいい部屋が空いていなかった。建物の構造上、いい部屋と悪い部屋があり、当然のことながらいい部屋は競争率が激しい。また、ブラフマプトラ寮は新館と旧館があり、それぞれ長所と短所がある。寮生の部屋割りなどの決定権を持つケアテイカーが、「取り合えず適当な部屋に住んで、いい部屋が空いたらそちらへ移ればいい」と言ったので、空いている中で最も涼しいと思われる新館1階(グランドフロア)の部屋を取った。一応、インドでは1階の部屋が最も涼しく、家賃も高い。なるべく建物の下の階で安い物件を探すのが、部屋探しのコツである。いくら酷暑期は過ぎ去ったとは言え、まだ暑いので、その鉄則に従ってこの部屋を選んだわけだが、この部屋はトイレの真横であり、しかも北向きでかなりジメッとした部屋であった。後でインド人の友人に見てもらったら、「この部屋はいい感じがしない。ここには住まない方がいい」と言われた。インド人がそんなことを言うくらいなのだから、部屋の選択を間違えてしまったのだろう。早速、部屋変更の申請をすることになった。とは言っても、このとき既に週末になってしまっていたため、申請は週明けの8月21日となった。同時に、このときには既に寮に入ることを決断していた。


ブラフマプトラ寮で最初に宛がわれた部屋
壁にトイレの水らしきものが染み出している(右下)
各部屋にはベッド1つ、椅子2つが予め置かれている

 部屋変更もケアテイカーに全権がある。ケアテイカーは入寮のときに「すぐに部屋を変えられる」と言っていたが、いざ変更を申請しようとすると、「少なくとも1ヶ月は住まなければ変更はできない」と言って来た。しかも言葉の端々に何か下心が見え隠れし、いい心地がしなかった。どうも気難しい人のようだ。とりあえず21日には何も事が進展しなかった。翌日、同じ寮に住んでいる友人から「新館の2階(ファーストフロア)にいい部屋が空いた」との情報を入手したため、再び寮を訪れた。ちょうどその「いい部屋」付近でケアテイカーを発見したので、交渉してみた。ところが、いい部屋は長年住んでいる寮生に優先的に宛がわれるようになっているようで、その部屋はいくら頑張ってももらえそうになかった。それでもごねていたら突然、「じゃあ、あの部屋にするか?」と別の部屋を指差された。その部屋は、新館3階(セカンドフロア)、中庭に面した西向きの部屋であった。西向きではあるが、窓の前に木があるし、中庭を挟んで向かい側に建物があるので西日が直接入ってくることはない。1階の部屋よりも断然良さそうだ。即決でその部屋に変えてもらうことにした。


新しく宛がわれた部屋
西向きだが、窓の外には防虫効果のあるニームの木があって快適

 何とか引っ越し先が決定して一安心だが、引っ越し作業はまだまだこれからだ。次なる目標は、この寮の部屋を快適な居住空間に変貌させることである。JNUの寮はとても安い。外に住むことを考えたら、家賃に消えて行くはずだった金を快適な居住空間創出のための設備投資に回すことにためらいは少ない。この時点から、巨額の資金を投じた寮部屋改造計画が始動した。

 インド人は、寮の部屋を宛がわれると真っ先に壁や天井をホワイトウォッシュ(漆喰塗り)する。それはそれでいいのだが、JNUの学生は安物の漆喰を塗るため、壁に触れると服などに色が付いてしまう。見ての通り、新しい部屋の壁は青で統一されており、このままだといろいろなものが青く染まってしまう。よって、僕もインド人にならって漆喰塗りをすることにすると同時に、高品質のペンキを塗って、色が付かないような壁を作ることにした。と言っても、インドには左官がおり、安価な人件費で漆喰を塗らせることができる。JNUのショッピング・スポットであるカマル・コンプレックス(KC)の裏に左官のキャンプがあり、普通の学生はそこにいる左官を雇って漆喰を塗ってもらうようだが、他の寮生の部屋の様子を見ると、それほど熟練しているとは思えない。よって、インド人の友人に頼んで、ヴァサント・ヴィハールを縄張りとする腕利きの左官を呼んでもらうことにした。彼の名前はナレーシュと言う。早速ナレーシュは8月23日から仕事を始めた。日当は150ルピーである。まずは予め壁に塗られている青色の漆喰をはがすところから作業が始まった。


ホワイトウォッシュ用の材料は自分で購入
なるべく高品質のペンキを選択した
合計900ルピーほど

 漆喰塗りと同時に、電気回線の整備も行わなければならなかった。僕の部屋に予めあった電化製品は、蛍光灯がひとつ、パンカー(天井のファン)がひとつ、読書用ライトがひとつあった。そして壁には、蛍光灯用のスイッチ、パンカー用のスイッチと調節器があった。その他、スイッチ用のボードが設置されていたと見られる穴があり、そこからコードが飛び出していた。コンセントはなかった。これらを自分用に変貌させなければならなかった。具体的には、PCや冷蔵庫用のコンセントの設置と、インバーター(充電装置)用の配線である。また、部屋を明るくするためにもうひとつ蛍光灯を設置することにし、さらに読書用ライトは取り外すことにした。インドの部屋は、日本と違って自由に配線したりすることができるので面白い。幸い、僕の友人に電気のエキスパートがいるので、配線作業は彼に全てを任せることにした。


予め設置されていたスイッチ

 まずはアルジュンナガルにある、近所で評判の電気屋で材料を購入。スイッチ用のボードは店先にある切断機で作ってもらえた。また、寮には蛍光灯のランプなど最初から付いていないので、自分で購入しなければならない。それらを合わせたら合計500ルピーほどかかった。


ボード作成中

 僕はあまり電気のことに詳しくないので、配線作業の詳細は省くが、数時間の作業により、全ての設置が完了した。配線カバーでちゃんとコードを隠したため、まるでどこかのオフィスのようになった。


配線作業中

 配線作業はすぐに済んだのだが、ホワイトウォッシュの方は遅々として進まなかった。左官などのインドの労働者は日雇いであるため、仕事日数を増やして収入を上げようと、わざとのろのろ仕事をする。ナレーシュに任せた漆喰塗りも、「3日で終わる」と言いながら、結局5日かかってしまった。


ホワイトウォッシュ作業中

 また、僕はナレーシュに真っ白に塗るように希望したのだが、元の青色が微妙に残ってしまい、微妙に青みがかった白色の壁になってしまった。さらに、全てを白で塗れと言ったら、ドアの外まで真っ白にしてしまった。他の部屋のドアの色は茶色なのに、僕の部屋だけ白い。これは目立ちすぎる。こんな状態なので、僕の部屋はブラフマプトラ寮でかなりの注目を集めることになってしまった。


ひとつだけ白いドアが僕の部屋

 引っ越し前にもうひとつしておかなければならないことがあった。それはフロアリングの購入である。見ての通り、寮の床は殺風景な石畳となっている。これでは快適な居住空間は望めない。よって、荷物を運び込む前に、この上に敷くフロアリングを買おうと思っていた。ビニール製のフロアリングがインドのマーケットで売られている。サウス・エクステンション・パート1近くにあるコートラーというマーケットで安く手に入るとの情報を入手したので、行ってみることにした。いくつかの種類があったが、部屋のイメージは当初の予定である白よりもむしろ、青を基調とすることになりそうだったので、青色のフロアリングを購入した。寮の部屋は290cm×270cm。床全面に敷くためのフロアリングを買って800ルピーほどであった。かなり迷いに迷った挙句選んだ色と柄のフロアリングだったが、敷いてみたらなかなかいい感じで成功だった。写真だとさらに美しく見えた。


見違えるように白く輝くようになった部屋
実際は少し青みがかっている
窓枠は黒く塗ってもらった

 こうして一応ホワイトウォッシュとフロアリング敷設が完了し、部屋はいつでも引っ越せる状態となった。と言うより、正確には引っ越しを実際にしなければいつまでもホワイトウォッシュをし続けそうな状態だったので、無理矢理フロアリングを敷いて、荷物を運び込んで、漆喰塗りを切り上げさせたのである。引っ越しの最中にもナレーシュは粘って仕事をしていたほどだった。引っ越しは8月27日にトラックを使って行った。引っ越しに使う中型のトラックは、インドではテンポと呼ばれている。町の一角に数台のテンポが駐車している場所があり、引っ越しの際はそこへ行ってテンポの運転手や荷物運搬用の労働者(レイバー)を雇う。何度も引っ越しをしている訳ではないので正確な相場は分からないが、サフダルジャング・エンクレイヴからJNUまでの引っ越しで、テンポのために400ルピーを支払った。レイバーの料金は、引っ越し元と引っ越し先の階数などにも依るが、僕は2人のレイバーを100ルピーずつの料金で雇った。ちなみに、テンポの運転手とレイバーは全く別の職種であり、運転手が荷物運搬を手助けすることはない。引っ越し作業中は、ただ見ているだけである。また、インドでの引っ越しの際に気を付けなければならないのは、必ずテンポのそばに友人などを座らせて監視させることだ。引っ越しの途中で荷物を盗まれることがけっこうあるらしい。


テンポ

 ところで、寮の部屋にはあらかじめ鉄の枠にベニヤ板を置いただけのような色気のないベッドが置いてあったのだが、ガウタムナガル時代から愛用している木製ベッドを持参したので、元からあったベッドは外に出した。机も元からあるものは使いにくそうだったので、やはり自分の机と取り替えた。また、元々持っていた冷蔵庫は寮の小さな部屋には大きすぎたので、知り合いに頼んで小さな冷蔵庫と交換してもらった。引っ越し前に一応いらない物を捨てて来たのだが、まだまだ荷物は多く、さらに多くの荷物を捨てなければならなそうだった。


引っ越し直後

 ひとまず全ての荷物を部屋に詰め込んでこの日は終了した。しかしまだまだ重要な作業が残っていた。インバーター設置である。停電の多いインドにおいて、停電のない贅沢な寮生活を送ることが、今回の最大の目標であった。何しろ停電になるといろんな作業が滞ってしまい、勉学の支障にもなるため、この投資は贅沢だが贅沢ではないだろう。引っ越しの翌朝、アルジュンナガルにあるバッテリー屋へ行って、インバーターを物色した。ここで少し解説すると、インバーターとは、電気をバッテリーに充電し、停電時に自動的に給電する装置である。停電の多いインドでは、ジェネレーターに並んで必需品となっている。ちなみにジェネレーターとは発電機のことで、ガソリンや灯油によって自分で発電する。大容量の電気が必要な場合に使われる。その他にUPS(無停電電源装置)という装置もあるが、こちらはデスクトップPCなどの電源のバックアップに利用されている。インバーターは停電から給電まで4秒ほどのタイムラグがあり、通常のデスクトップPCはその間に電源が切れてしまうが、UPSは即時給電する。ただし、一般的にUPSの持続時間はインバーターほど長くない。また、インバーターにもいろいろなワット数のものがあるのだが、寮の一室で蛍光灯、パンカー、PCなどを数時間動かすぐらいなら、600Wのインバーターで十分だ。最近インバーターを購入したインド人の友人がSu-Komという会社のインバーターを熱烈に賞賛していたので、それに影響されて僕も同じメーカーのものを買うことにした。コンパクトだし、なんとUPSの機能も付いているので、インバーターでありながらUPSのように利用することができるという優れものである。Su-Kom製の600Wのインバーター、同じくSu-Kom製のバッテリー(1年半の保障期間付き)、トロリー(バッテリー用ケース)、設置料を合わせてちょうど1万ルピーだった。早速配線を行ってもらい、無停電寮生活が実現した。設置後、ちょうど停電があったが、僕の部屋だけは停電にはならなかった。インバーターが作動すると蛍光灯からジーという音がするのが少し気になるが、全く大した問題ではない。あんなに煩わしかった停電が、今では待ち遠しいくらいだ。


インバーター

 インバーター設置後は荷物の整理を始めた。当初は部屋一杯にダンボール箱が積み重なっていて寝床もないぐらいだったが、何とかベッドの上ぐらいは片付いて来たので、8月29日から寮に住み始めた。これから毎日徐々に荷物を片付けて行くと同時に、必要な物を買い揃える予定である。


今のところこんな状態
新しく設置したスイッチやコンセントはこんな感じ

 これで引っ越しが一段落したと思ったら大間違いである。僕にとって最も重要な作業がもうひとつ残っていた。それはネット開通である。今まで利用していたハートウェイは、JNUキャンパス内では利用できない。よってプロバイダーの乗り換えをしなければならなかった。JNUでは前述の通り、シフィーという会社がケーブル・インターネット・サービスを提供している。寮の屋上まで光ファイバーが通っていて、そこにあるモデムから各部屋にケーブルを分岐させているようだ。なるべく寮に住み始めると同時にネットも利用できるようにしたくて、前もってシフィーに新規契約の申請をしていたのだが、なかなかシフィーのエンジニアがやって来なかった。8月25日に、JNUエリアを担当するマノージというエンジニアに電話をして、部屋に来るように言ったのだが、待てど暮らせどマノージはやって来なかった。どうもマノージは下っ端で頼りなさそうだったので、8月28日にシフィーのウェブサイトに掲載されていたコールセンターの電話番号に電話をかけて、新規契約を申し込んだ。すると、3日以内に利用できるようになると言われた。やっとエンジニアがやって来たのが8月30日。名前を聞いてみるとマノージではなく、どうも新参者のようだった。一応ケーブルは部屋まで引いてもらえて、PCと接続させたのだが、IPアドレスの問題なのか、なかなかインターネットに接続できない状態となっていた。部屋に来たエンジニアは未熟で、問題を解決することができなかった。1、2時間ほどいろいろ操作していたのだが、結局つながらないままエンジニアは帰ってしまった。その日の夜に、今度はマノージがやって来た。マノージは先ほど来た若いエンジニアよりも分かっていそうな顔をしていたが、操作内容はさっきのエンジニアと同じで、やはりネットに接続することは叶わなかった。仕方がないので、この日にネットに接続するのは諦めることにした。

 どうもJNUエリアを統括するのはグッドゥーという人物らしかった。グッドゥーだけは豊富な知識を持っており、どんな問題にも対応できるらしい。そこで8月31日は朝からグッドゥーに電話をして、早く来いと催促した。グッドゥーは「2分で行く」と言いながら、いつまで経ってもやって来なかった。電話もなかなかつながらない。グッドゥーは昼ごろにやっと部屋にやって来た。ネパール人っぽい顔をした少年のような人物であり、意外だった。しかし技術は確かだった。手早く作業を行い、ものの数分でインターネットに接続することができた。いままでの奴らは一体何だったんだ、という感じだ。始めからグッドゥーが来れば話が早かったのに・・・。ちなみにシフィーの初期費用は1000ルピーで、それに加えてまず一月分の接続料を支払う。料金プランはいろいろあるのだが、現在ちょうどキャンペーン中で、スピード256kbps、ダウンロード・リミット400mbのプランが破格の150ルピーだったので、まずはそれを申し込むことにした。つまり、まずは合計1150ルピーを支払った。引っ越しのせいでずっとネットに接続することができなかったので、「これでインディア」の更新もずいぶん滞ってしまった。事前告知をするのを忘れたので、もしかしたら愛読者に心配をかけてしまったかもしれない。

 まだまだ買い揃える予定のものがいくつかあるのだが、インターネットの開通をもって、一応引っ越し完了としていいだろう。結局、引っ越し期間は部屋探しから始まってネット開通まで、約20日かかった。今回は引っ越し奮闘記とのことなので、ひとまずここで筆を置くことにする。ブラフマプトラ寮での生活は、また追ってレポートしようと思う。

8月31日(木) Aap Ki Khatir

 ネットが開通し、引っ越しも一段落付いたので、先週の金曜日から公開のヒンディー語映画「Aap Ki Khatir」を見にPVRアヌパムへ行った。

 「Aap Ki Khatir」は「君のために」という意味。監督は「Bewafaa」(2005年)のダルメーシュ・ダルシャン、音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、アクシャイ・カンナー、プリヤンカー・チョープラー、ディノ・モレア、スニール・シェッティー、アミーシャー・パテール、アヌパム・ケール、リレット・ドゥベーなど。

Aap Ki Khatir
 ロンドン生まれのインド人アヌー(プリヤンカー・チョープラー)は、恋人のダニー(ディノ・モレア)と別れた後、ムンバイーに住んでいた。だが、アヌーはダニーのことを忘れることができなかった。そんなとき、アヌーの義理の姉妹であるシラーニー(アミーシャー・パテール)の結婚式が行われることになった。結婚相手のクナール(スニール・シェッティー)はダニーの親友であり、結婚式に現れる可能性大であった。アヌーはダニーに会うためにロンドンへ帰る。【写真は、左上がプリヤンカー・チョープラー、右上がアクシャイ・カンナー、下の5人は左から、ディノ・モレア、アミーシャー・パテール、スニール・シェッティー、アヌパム・ケール、リレット・ドゥベー】

 だが、アヌーはひとつの計略を考えていた。アヌーはダニーを嫉妬させるため、偽の恋人と同行することにした。偽の恋人のために白羽の矢を当てられたのが、アマン(アクシャイ・カンナー)であった。アマンはただ報酬のために見ず知らずのアヌーの恋人になりすますことを承諾する。

 アヌーは結婚式の数日前にアマンと共にロンドンに帰り、父アルジュン・カンナー(アヌパム・ケール)、母ベティー(リレット・ドゥベー)、シラーニーなどにアマンを紹介する。その場にはダニーも現れる。アヌーは早速アマンを使ってダニーを嫉妬させようとする。

 一方、アマンはアヌーの恋人になりすましている内に、本当に恋をしてしまう。だが、アヌーはダニー一筋であった。だが、結婚式の前日に衝撃の事実が発覚する。なんとダニーはアヌーと別れた後にシラーニーと付き合っていたのだった。このことはアヌーもクナールも知らなかった。それを初めて知ったアヌーは大きなショックを受ける。アマンはアヌーに思いを伝えるが、アヌーは拒絶する。アマンもショックを受け、結婚式を待たずにアヌーの家を去って行く。だが、アヌーの心の中にもいつの間にかアマンがいた。また、シラーニーは結婚式当日にクナールにダニーとの過去の関係を打ち明ける。怒ったクナールはダニーを追いかけて結婚式場から姿を消してしまう。

 結婚式場を出たクナールとアマンは偶然外で出会い、お互いに説得し合い、励まし合う。意を決した2人は再び結婚式場に戻る。アヌーとシラーニーも2人の帰りを待ちわびていた。こうしてクナールとシラーニーは改めて結ばれることになり、アヌーとアマンの結婚も同時に決定される。

 軽快なノリのラブコメ映画。ストーリーには何の深みもないが、普通に楽しめるインド映画だった。惜しむらくは、クライマックスにおいて登場人物の行動に説得力がなかったことだ。クナールは、シラーニーがかつて親友のダニーと付き合っていたことを知って怒るが、そんなことを気にする方がおかしい。また、アマンがアヌーに恋してしまうところまでは分かったが、アヌーがアマンを真の恋人として受け入れる流れにはもうワンクッション欲しかった。

 この映画で最も興味深かったのは、パンジャービーとグジャラーティーのせめぎ合いであった。シラーニーの家族はパンジャービーで、クナールの家族はグジャラーティーであり、それぞれの家族がお互いになめられまいと牽制し合う。「Kal Ho Naa Ho」(2003年)でもパンジャービーとグジャラーティーの対立めいたものが描かれていたのは記憶に新しい。だが、特にパンジャーブの人々とグジャラートの人々の間で歴史的または民族的な対立があるわけではないようだ。単にパンジャービーとグジャラーティーは文化的に相容れない部分、競合する部分がいくつかある上に(例えば一般的にパンジャービーは肉食主義者が多く、グジャラーティーは菜食主義者が多い、パンジャーブではバングラー・ダンスが有名で、グジャラートではスティック・ダンスが有名など)、お互い商売上手で何かと張り合う場面が多いので、自然と両者の間で競争意識が芽生えるようだ。

 僕は「Taal」(1999年)で初めてアクシャイ・カンナーを見て以来、彼に対してかなり低い評価を持っていたのだが、ここに来て彼はかなりいい俳優に成長しつつあるように思える。今年公開された「Shaadi Se Pehle」でもいい演技をしていたが、この「Aap Ki Khatir」は特にアクシャイ・カンナーのための映画であり、ベストの演技をしていたと言っても過言ではない。少し斜に構えた性格の役が最も才能を発揮できそうだ。

 「Krrish」(2006年)でヒロインを演じたプリヤンカー・チョープラーは、もはやボリウッドのトップ女優だ。「Aap Ki Khatir」では演技云々よりもその湧き出る存在感の方が目立ち、貫禄を見せていた。今年のディーワーリーに公開が予定されている「Don」でもヒロインを演じており、これからますます伸びていくだろう。

 一方、アミーシャー・パテールに関しては僕は常に辛口である。この映画での彼女も何だか花がなく、褒める材料がなかった。デビュー当時のオーラが完全に消えてしまったように思え、残念でたまらない。ディノ・モレアは、情けない末路のプレイボーイを演じ、はまり役であったが、彼もいまいち壁を越えられない男優である。スニール・シェッティーはなぜキャスティングされたのか意味不明。スニール・シェッティーとアミーシャー・パテールのカップルは完全にミスマッチである。アヌパム・ケールはどちらかというとコミックロールであったが、シリアスに決めるときはバチッとシリアスに決め、さすがであった。

 音楽は毎度お馴染みヒメーシュ・レーシャミヤー。彼の歌声やうなり声も存分に楽しむことができる。「Aap Ki Khatir」のサントラCDはけっこう売れているようだが、僕は特に買う価値のあるものだとは思えない。

 映画の中では、「Aap Ki Khatir(君のために)」というセリフが何度も出て来る。映画のオチは、そのフレーズをもじった「Baap Ki Khatir(父のために)」であった。この他にもダイアログに工夫が散見され、映画の隠し味となっていた。

 言語は基本的にヒンディー語だが、登場人物のほとんどはNRI(在外インド人)という設定なので、英語の使用頻度は高めである。パンジャーブ人とグジャラート人の結婚ということで、パンジャービー語とグジャラーティー語も時々出て来た。

 「Aap Ki Khatir」は、悪くはない映画だが、見ても特に何も残らない映画である。タイムパスのための映画だと言える。


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