スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2012年2月

装飾下

|| 目次 ||
散歩■4日(土)ガーリブのハヴェーリー
映評■6日(月)Gali Gali Chor Hai
映評■10日(金)Ek Main Aur Ekk Tu
散歩■14日(火)ダムダミー・マーイーのプージャー
映評■17日(金)Ekk Deewana Tha
漫画■19日(日)コミック・コンと山松ゆうきち氏
文学■23日(木)雪見の詩会
映評■24日(金)Jodi Breakers


2月4日(土) ガーリブのハヴェーリー

बल्लीमारान के महल्ले की वह पेचीदा दलीलों की-सी गलियाँ
सामने ताल के नुक्कड़ पे बटेरों के कसीदे
गुड़गुड़ाती हुई पान की पीकों में वह दाद, वह वाह वाह
चंद दरवाज़ों पर लटकते हुए बोसीदा से कुछ टाट के परदे
एक बकरी के मिमियाने की आवाज़
और धुंधलाई हुई शाम के बेनूर अँधेरे
ऐसे दीवारों से मुह जोड़ के चलते हैं यहाँ
चूड़ीवालान के कटरे की बड़ी बी जैसे
अपनी बुझती हुई आँखों से दरवाज़े टटोले
इसी बेनूर सी गली क़ासिम से
एक तरतीब चराग़ों की शुरू होती है
एक क़ुरान-ए-सुख़न का सफ़ा खुलता है
असदल्लाह खां 'ग़ालिब' का पता मिलता है

難解な理論のようなバッリーマーラーンのあの路地
先のヤシの木の生えた角では闘鶏に興じる声
水タバコの唸りやパーンの飛沫に混じるあの賞賛、あの祝福
戸口から垂れ下がった古びた麻のカーテン
メェメェと山羊の鳴く声。
そして霞がかった夕暮れの輝きなき暗闇が
壁に顔をこすりつけ進んで行く
チューリーワーラーンの路地のお婆さんが
消えかかった目で扉を探るように。
この光なきカースィムの路地から
1筋の灯火の列が始まる
詩の聖典が紐解かれる
そこがアサドゥッラー・カーン・ガーリブの住所である
 ミルザー・アサドゥッラー・ベーグ・カーン(1797-1869年)は、筆名ガーリブの名で知られる、インドを代表する詩人の1人である。デリーに住み、ムガル朝皇帝の家庭教師も務めたガーリブは、自分のことを第一にペルシア語詩人だと考えていたが、彼の名声はむしろその副次的な産物であるウルドゥー語の詩作で後世にまで轟いた。ウルドゥー語文学では絶対に欠かせない人物であるが、ウルドゥー語文学の領域や言語の壁を越え、広くインド中で愛されている詩人である。また、アーグラー生まれでありながら、人生の大半をデリーで過ごし、デリーを愛し、インド大反乱で混乱したデリーを生き抜き、そしてデリーで息を引き取っており、非常にデリーと所縁の深い人物でもある。

 ガーリブは生涯貸家に住んでおり、デリー内を転々としていた。ガーリブが住んだ家の全てが今でも残っているとは思えないが、彼が最晩年(1865-1869年)に住んだ家は幸いにも残っている。オールドデリーの目抜き通りチャーンドニー・チャウクの南、バッリーマーラーンという通りの途中から西に延びるガリー・カースィム・ジャーンという路地にあるハーキモーン・キ・ハヴェーリー(伝統医たちの邸宅)がそれだ。現在ではガーリブ・キ・ハヴェーリー(ガーリブの邸宅)として知られている。

 ガーリブは著名な詩人であり、世界中に多大なファンを持ちながら、彼が晩年に住んだ邸宅は長年放置されて来た。インドでは文学者関連のそのような事物が大事に保存されることは稀で、ガーリブほどの詩人でもこの惨状であるから、より知名度の低い文学者の状況は推して知るべしである。地元の人々の話では、この歴史的邸宅は長年倉庫として使われたり工場になったりして来たと言う。2009年にはガーリブの邸宅が結婚式の披露宴会場として利用されたことが大々的なニュースとなり、インド中にショックが広がった。これをきっかけにガーリブの最後の住居を保護しようとする気運が高まることとなった。その後も紆余曲折はあったものの、博物館「ガーリブ・メモリアル」としてリノベーションされ、昨年末にオープンした。

 オールドデリーは何度も訪れており、ガーリブのハヴェーリーも一度は訪れたいと思っていたのだが、今まで行く機会がなく、延び延びになってしまっていた。しかし今日は少しだけ時間があったので、バッリーマーラーンまで行ってみることにしたのだった。

 バーリーマーラーンは、現在チャーンドニー・チャウクと呼ばれる目抜き通りの西側に位置する通りである。ファテープリー・マスジドからラール・キラーへ向かって歩くと、最初に右に現れる通りがバッリーマーラーンとなる。オールドデリーは地域によっては住んでいるコミュニティーに明確な特徴があるのだが、バッリーマーラーンは完全なるイスラーム教徒居住区となっている。バッリーマーラーンをしばらく南に歩くと、角にモスクが建つ三叉路に出る。その三叉路を右に曲がるとすぐに左手にガーリブのハヴェーリーがある。入り口にはそれを示す看板がいくつも掲げられているので、まず見過ごすことはないだろう。


ガーリブのハヴェーリー

 アーチの架かった通路を抜けると、まず右手にちょっとした小部屋があり、そこにガーリブの胸像や、彼が着ていた服のレプリカなどが展示されている。ガーリブの胸像は著名な彫刻家バグワーン・ラームプレーによるもので、詩人グルザールが企画し、2010年12月26日にデリー州首相シーラー・ディークシトによって除幕された。ガーリブを写した写真とされるものが1枚だけ現存しており、それを元に作られたと思われる。ちなみに冒頭の詩もグルザールの作で、TVドラマ「Mirza Ghalib」(1988年)で使われたものである。


ガーリブの胸像

 ガーリブのハヴェーリーの奥は2つに分かれており、右側では電話屋が営業している。敷居の左側がガーリブのハヴェーリーとして一般公開されている部分となる。アーチの入り口を持つ3つの部屋が一列に並び、その正面にはちょっとした広場がある。過去の写真ではこの広場に天井はなかったのだが、現在では天井が塞がれており、博物館らしくなっている。壁には所々にガーリブの詩がウルドゥー文字とデーヴナーグリー文字で書かれ、英語訳を添えて掲げられている。


ガーリブのハヴェーリー内部

 その中でも特に目立つところに大きく掲げられていたのが以下の一節である。雰囲気が出るように言葉を補って訳す。

 اگ رہا ہے در و دیوار سے سبزہ غالب
ہم بیاباں میں ہیں اور گھر میں بہار آئی ہے

उग रहा दर-व-दीवार पे सब्ज़ा ग़ालिब
हम बयाबाँ में हैं और घर में बहार आई है

我が家の壁に雑草が生い茂っているがどうということはない
むしろ森の中にいるようで、家に春が来たようでいいじゃないか

 長らく放置され、荒れるに任されて来たガーリブの邸宅の様子が、ガーリブ自身の筆によって楽観主義的に表現されており、それ故にこの詩がこの博物館のテーマ詩のように扱われているのであろう。

 他にも食器や玩具などの展示が少しだけあったが、中でも興味深かったのは下のパネル。ガーリブとウルドゥー語をこよなく愛する外国人7人の名前が入っていた――Yan Marak, Ralph Russel, Salina Habshmzva, Bosani Rom, Annamarie Schdmel, Baba Jan Ghafwadof, So Yamane。一番最後は大阪大学でウルドゥー語を教える山根聡教授である。左には各人の直筆寄せ書き(ウルドゥー語またはペルシア語)があるのだが、山根先生のものは見当たらなかった。と言うことは、このガーリブの似顔絵を描かれたのだろうか?


ガーリブとウルドゥー語を愛する外国人の寄せ書き

 はっきり言って展示物はレプリカか特に価値のないものばかりであり、ガーリブの胸像ぐらいがここにしかない特別な展示物である。リノベーションや装飾の仕方も必ずしも褒められたものではなく、何となく雰囲気が損なわれてしまっているように感じた。ガーリブが晩年に住んだ家であることを噛みしめ、目をつむって在りし日のガーリブを偲ぶのが正しい利用法であろう。むしろ、形だけでも博物館としておくことで、今後この建物がキチンと管理されやすくなるのが利点だと言える。ちなみに入場料などは全くなく、フラリと入って勝手に見学できる。一応入り口には門番らしきお爺さんが座っており、「中を見ていいですか?」と聞くと「どうぞ」と言ってくれる。開館時間は午前11時から午後6時まで、休館日は月曜日と祭日。


2月6日(月) Gali Gali Chor Hai

 2011年にはインドでも様々な事件があったが、1年を通して政治や社会に大きな影響を与えたのがアンナー・ハザーレーによる汚職撲滅運動とロークパール法案問題であった。インドというシステムが上も下も汚職によって腐敗していることにより、一般市民が多大な不利益を被っている現状に力強く声を上げたのがアンナー・ハザーレーであり、ちょうどCWG問題、2G問題、海外送金問題など、多額の金が絡むスキャンダルが続いたこともあって、彼の運動は市民の間で大きく燃え広がった。しかしながら、2011年の終わりと共にアンナー・ハザーレーの運動も失速し、今では半ば過去の人扱いとなってしまっている。

 2月3日より公開のヒンディー語映画「Gali Gali Chor Hai」は、おそらくアンナー・ハザーレーの運動に感化されて作られた作品である。政治家、警察、裁判所、犯罪者が結託し、一般市民から金を巻き上げるシステムが出来上がってしまっていることをブラックコメディー・タッチで取り上げた作品である。一般市民の目線からシステムの腐敗を描いた作品は例えば「Khosla Ka Ghosla」(2006年)、「Well Done Abba」(2010年)、「No One Killed Jessica」(2011年)などがあったが、アンナー・ハザーレーの運動を背景に作られた作品はこれが初めてだと思われる。現にアンナー・ハザーレーも故郷の村人たちと共にこの映画を鑑賞したと言う。



題名:Gali Gali Chor Hai
読み:ガリー・ガリー・チョール・ハェ
意味:どこもかしこも泥棒だらけ
邦題:バーラトを救え!

監督:ルーミー・ジャーフリー
制作:ニティン・マンモーハン、サンギーター・アヒール、プラカーシュ・チャンドナーニー、サンジャイ・プーナミヤー
音楽:アヌ・マリク
歌詞:ラーハト・インドーリー、スワーナーンド・キルキレー
振付:アハマド・カーン
出演:アクシャイ・カンナー、シュリヤー・サラン、ムグダー・ゴードセー、アンヌー・カプール、サティーシュ・カウシク、アキレーンドラ・ミシュラー、ヴィジャイ・ラーズ、ヴィーナー・マリク、ムルリー・シャルマー、アミト・ミストリー、シャシ・ランジャン、ラジャト・ラーワイル、カイラーシュ・ケール(特別出演)、ヴィーナー・マリク(特別出演)
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサント・クンジで鑑賞。


上段左からヴィジャイ・ラーズ、アンヌー・カプール、アミト・ミストリー、
中段左からアキレーンドラ・ミシュラ、サティーシュ・カウシク、ラジャト・ラーワイル、
下段左からムグダー・ゴードセー、アクシャイ・カンナー、シュリヤー・サラン

あらすじ
 場所はマディヤ・プラデーシュ州ボーパール、時はダシャハラーの時期。バーラト・ナーラーヤン(アクシャイ・カンナー)は銀行員で、長年ラームリーラーのハヌマーン役を演じていた。いつかはラーム役をと思っていたが、今年のラームは地元州議会議員マンクー・トリパーティー(ムルリー・シャルマー)の弟サットゥー(アミト・ミストリー)であった。バーラトは父親シヴ・ナーラーヤン(サティーシュ・カウシク)や妻ニシャー(シュリヤー・サラン)と共に住んでいた。最近彼はペイングゲストとしてムンバイー出身のセクシーな女子大生アミター(ムグダー・ゴードセー)を家に住まわせていたが、ニシャーはそれに不満を抱いていた。

 州議会選挙が近付いていた。バーラトの家にサットゥーがやって来て、彼の家の正面に選挙事務所を設置すると言い出す。バーラトはそれを拒否し、サットゥーを追い出す。一方、シヴは対立候補モーハンラール(シャシ・ランジャン)の人柄に惚れ込み、彼への選挙協力を申し出る。バーラトの家にはモーハンラールの選挙事務所が出来てしまった。トリパーティーはそれを聞いてバーラトを裏からいじめることにする。

 ある晩、警察官パルシュラーム・クシュワーハー(アンヌー・カプール)がバーラトの家にやって来る。彼が言うには、チュンヌー・ファリシュター(ヴィジャイ・ラーズ)と言う名の泥棒が捕まったが、彼がバーラトの家から古い卓上扇風機を盗んだと言う。バーラトはそんなものを所有していた記憶がなかったが、父親がそういえば倉庫にしまっていたかもしれないと言い出す。倉庫をチェックすると、扇風機はなかった。そこでバーラトは扇風機を取り戻すためにクシュワーハ―と共に裁判所へ行かなければならなくなる。ところが扇風機を取り戻すためにバーラトはクシュワーハー、チュンヌー、証人のバッチュー・グルカンド(ラジャト・ラーワイル)、弁護士に賄賂を渡さなければならず、また途中スクーターを盗まれるハプニングもあり、合計31,000ルピーも費やすこととなった。しかもその扇風機はどう見てもバーラトの家のものではなかった。このときになって初めて、シヴは倉庫にしまっていた扇風機を誰かに貸したことを思い出す。

 また、この間アミターの存在が引き起こした誤解によってニシャーは実家に帰ってしまっていた。バーラトは何とか彼女を家に呼び戻そうとするが、うまく行かなかった。

 シヴは、バーラトが持って来た扇風機を不吉だと考え、すぐに捨てて来るように指示する。ところが何かとハプニングが起こり、バーラトはそれを捨てられずにいた。最終的にバーラトは扇風機をバッグに入れ、レストランに置いて来る。ところが、そこには2人のテロリストも来ており、全く同じバッグに爆弾を入れてそこに置いて来たところだった。ウエイターはそれらのバッグを勘違いし、爆弾の入ったバッグをバーラトに渡す。バーラトはその後もそのバッグを捨てようとするのだが、その度に問題が発生し、なかなか捨てられなかった。

 ダシャハラーの最終日だった。バーラトはハヌマーンとなってラームリーラーの舞台に立たなければならなかった。しかしサットゥーがなかなか来なかったため、その隙にそのバッグを池に捨てて来る。ところがそのバッグが爆発し、近くにいた漁師が怪我をする。漁師はハヌマーンが爆弾を置いて行ったと証言し、バーラトは警察に逮捕されてしまう。事件は対テロ部隊(ATS)の管轄となり、バーラトは拷問を受ける。テレビのニュースでバーラトが逮捕されたことを知ったニシャーはすぐに駆けつけるが、どうしようもなかった。

 もしバーラトが無罪であっても、まともに裁判をしたら14年は留置所で過ごさなければならない。しかし関係者に賄賂を配って解決しようとすれば、すぐに釈放される可能性があった。しかしそのためには140-150万ルピーが必要だった。シヴは先祖代々の家を売って現金を作り、裏工作をする。その甲斐があり、バーラトは無罪となって釈放される。

 自由の身となったバーラトであったが、納得出来ない気分だった。そこへ選挙で勝ったトリパーティーがやって来る。シヴの家を買ったのは他でもないトリパーティーであった。トリパーティーはシヴの家全てを選挙事務所として使おうとしていた。また、そこへ突然若者が扇風機を返しに来た。それは倉庫にしまっていた扇風機であった。バーラトの目の前には元々所有していた扇風機と、警察から取り戻した扇風機の2つが並ぶこととなった。と、そこへ今度はクシュワーハーがやって来る。クシュワーハーは2つの扇風機があるのを見て、偽の証言をしたことを問題視する。しかし一連の事件で憤っていたバーラトは、クシュワーハーに平手打ちを喰らわせ、次にトリパーティーにも同様に平手打ちをする。そしてインドの国旗を掲げて道を練り歩く。

 汚職にまみれたシステムを庶民の目線から描いた作品で、この現状を変えるには良心ある政治家の登場を待つのではなく、1人1人が自ら汚職に立ち向かって行かなければならないことを説いていたと言える。しかしながら、主人公が巻き込まれる汚職のきっかけやその後の流れがあまり現実感のないもので、観客に差し迫った危機を印象づけることには成功しないと思われる。ともすると単なるブラックコメディーだと思われてしまうだろう。善良な一般市民が時に仕方なく贈賄をしなければならなくなる現実はうまくスクリーン上で説明されていたので、そういう厄介事に巻き込まれる状況をもう少し現実感のあるものとするとグッと良くなったのではないかと思った。

 劇中では、そもそも主人公のバーラトが地元州議会議員と選挙事務所の件で対立したことで、嫌がらせを受けるようになった。インドでは政治家や官僚などの有力者と関わり合いにならなくても汚職システムに飛び込まされることが多く、もう少しよくあるきっかけを考えた方が共感を呼んだだろう。また、その嫌がらせというのも変わっている。盗まれた覚えのないものを盗まれたことにして、それによってバーラトを裁判所通いに陥れるというもので、彼が「盗まれていない」と強く主張すればそれで済んだ話である。後半、バーラトがテロリストと間違えられる部分は全くの蛇足で、汚職とは関係ない。

 ストーリーはダシャハラー祭のときに催されるラームリーラーと平行して進行する。ラームリーラーとは「ラーマーヤナ」を主題とした演劇で、ダシャハラー当日とその直前の9日間、合計10夜を通して上演される。ラームリーラーに出演する人々はアマチュアであることがほとんどで、劇中でも銀行員のバーラトが猿の将軍ハヌマーン役を、不動産屋が羅刹王ラーヴァン役を演じていたが、全くおかしなことではない。ダシャハラーの本質は「悪に対する正義の勝利」であり、汚職をテーマにしたこの映画でも最終日に悪が退治されるかと思っていた。しかしながらそういうことはなく、ラーヴァンの像が燃やされた後、バーラトはもっとも困難な危機に直面し、依然として汚職の描写は続く。裁判で無罪が確定した後、バーラトがマスコミに語る言葉は印象的だ――「今のインドでは誰もラームにはなれない」。バーラトはいつかラーム役を演じたいと願っていた。ラームはマリヤーダー・プルショーッタム(気品高き至上の人間)と異名を持つほど正義の人としてインド人に慕われている。だが、一連の事件を経験したバーラトは、インドにおいて正義を貫くことはできない、せいぜいハヌマーンとなって、ラームを心に刻むことしかできない、と語っていた。

 しかし、ストーリーはそれで終わっていなかった。バーラトは汚職警官と汚職政治家に平手打ちをし、行動に出る。この映画の中で彼が最初に見せた暴力でもあった。この終わり方は取って付けたような印象も受けたが、非暴力主義者として知られて来たアンナー・ハザーレーの一部の言動とも一致しており、もしかしたらその影響があるのかもしれない。アンナーの運動は非暴力を鉄則としているが、度々暴力を支持する発言をしたとして批判も受けて来た。例えば2011年11月にシャラド・パワール農相がとある若者に叩かれるという事件があった。それを受けてアンナーは「たった1発?」と発言したとされ、それが暴力支持だと批判を受けた。また、この「Gali Gali Chor Hai」を鑑賞した後、アンナーは「忍耐を失ったとき、人は汚職をひっぱたくしかない」と発言しており、これもまた同様の批判を浴びた。アンナーの発言同様、この映画の終わり方も物議を醸すものであると言える。

 この映画のもうひとつの軸は夫婦関係にあった。しかし、こちらは非常に弱かった。はっきり言って不必要なサイドストーリーで、しかも起承転まであって結がなかった。これによって何を言いたかったのか分からなかった。

 既にベテランの域に達しているアクシャイ・カンナーは貫禄の演技であった。どんな役でもそつなくこなす器用な男優なのだが、「Gandhi, My Father」(2007年)以降作品に恵まれなかった。「Gali Gali Chor Hai」はリハビリには最適の映画だった。

 ヒロインはシュリヤー・サラン、サブヒロインはムグダー・ゴードセー。どちらもヒンディー語映画界ではまだ地盤を固め切れていない女優たちである。シュリヤーは貞節な妻、ムグダーは都会育ちのイマドキの女の子という役柄であった。しかし、この2人の存在価値がいまいち不明確だったこともあり、彼女たちの演技にも特筆すべきものが感じられなかった。

 むしろ個性を発揮していたのは汚職の連鎖を形作る人々である。汚職警官クシュワーハーを演じたアンヌー・カプール、こそ泥チュンヌーを演じたヴィジャイ・ラーズ、汚職政治家ムルリー・シャルマー、その弟サットゥーを演じたアミト・ミストリーなど、曲者俳優が個性的な演技をしていた。特にアンヌー・カプールの憎たらしい演技は大きな見所である。もちろん、父親シヴを演じたサティーシュ・カウシクもいい男優である。

 音楽はアヌ・マリク。地味な映画ではあるが、いくつか派手な曲が含まれている。筆頭はアイテムナンバー「Chhanno」。パーキスターン人女優ヴィーナー・マリクがアイテムガール出演し、セクシーな踊りを繰り広げる。カイラーシュ・ケールの歌うタイトル曲「Gali Gali Chor Hai」はこの映画のテーマそのものでもある。カイラーシュ・ケールはアンナー・ハザーレー運動の熱烈な支持者の1人でもあり、劇中にも特別出演し、エンディングではアクシャイ・カンナーと手を取り合ってデモ行進していた。

 舞台はボーパール。近年、地方都市を舞台にした映画が脚光を浴びており、ボーパールを舞台にした映画も作られている。「Raajneeti」(2010年)が記憶に新しい。人造湖の畔に広がる歴史ある街で、スクリーンにも映える。市内に残る味のある建築物も劇中で効果的に使われていた。

 「Gali Gali Chor Hai」は、昨年盛り上がった汚職撲滅運動を受けて作られた社会派コメディー。メッセージは十分伝わるが、そこまでの持って行き方とまとめ方に弱さがある。しかしインドの世相を反映する映画として、記憶する価値はあるだろう。

2月10日(金) Ek Main Aur Ekk Tu

 スターシステムが根強く残るヒンディー語映画界では、主演の2人――ヒーローとヒロイン――に関していくつか不文律がある。例えばヒーローとヒロインが血縁であってはいけないという不文律。「映画カースト」という言葉が生まれるほど映画界は血縁主義が横行しているが、実際の兄弟姉妹やイトコが恋人役・夫婦役でカップリングされることはタブー視されている。もちろん近親相姦を想起させるからである。その理由から、ランビール・カプールとカリーナー・カプールの共演は今までない。2人はボリウッド最古の映画カースト、カプール家のイトコ同士である。

 上の不文律はかなり絶対的なものだが、それよりも幾分緩い不文律が、ヒーローよりヒロインの方が年上であってはならないというものだ。いくつか例外はあるし、脚本上の必要性からわざとそういうカップリングがなされることもある。ただ、一般的にはヒロインはヒーローよりも年下の女優が選ばれることがほとんどである。

 本日より公開の「Ek Main Aur Ekk Tu」では、イムラーン・カーンとカリーナー・カプールが主演。カリーナーの方が3歳ほど年上であり、この2人のカップリングには疑問の声も多い。しかし、「Agneepath」(2012年)をヒットさせたダルマ・プロダクションズ(カラン・ジャウハルなどのプロダクション)の作品であり、今年の話題作の1本に数えられている。監督は「Jaane Tu... Ya Jaane Na」(2008年)などで助監督を務めたシャクン・バトラーで、本作が監督デビュー作となる。「Agneepath」も新人監督を起用しており、最近のダルマ・プロダクションは新たな才能にチャンスを与えている。



題名:Ek Main Aur Ekk Tu
読み:エーク・マェン・アォル・エーク・トゥー
意味:1人の僕と1人の君
邦題:君と僕の2週間

監督:シャクン・バトラー(新人)
制作:ヒールー・ヤシュ・ジャウハル、カラン・ジャウハル、ロニー・スクリューワーラー
音楽:アミト・トリヴェーディー
歌詞:アミターブ・バッターチャーリヤ
振付:ラージーヴ・シュルティ、ボスコ
衣装:マニーシュ・マロートラー、シラーズ・スィッディーキー
出演:イムラーン・カーン、カリーナー・カプール、ボーマン・イーラーニー、ラトナー・パータク・シャーなど
備考:PVRプリヤーで鑑賞。


イムラーン・カーン(左)とカリーナー・カプール(右)

あらすじ
 ラーフル・カプール(イムラーン・カーン)は幼い頃から両親(ボーマン・イーラーニーとラトナー・パータク・シャー)の多大な期待を背負わされ、自分に自信を持てない若者に育っていた。大学では父親の望み通りに建築を学び、ラスベガスの建築会社で勤務していた。ところがラーフルはクリスマス直前に解雇されてしまう。ちょうど両親がラスベガスに来る日に解雇を通達され、ラーフルはそれを隠して就職先を探すことになる。

 傷心のラーフルは、ある日リアーナ・ブラガンザ(カリーナー・カプール)という破天荒なインド人女性と出会う。スタイリストのリアーナはちょうど同じく求職中であったが、常に幸せそうで、ラーフルにとっては新鮮な存在だった。クリスマス・イブの夜、ラーフルはリアーナと飲むことになる。リアーナに「退屈」と言われたラーフルは躍起になって酒をがぶ飲みし、酔っ払う。2人はたまたま通り掛かった教会で酔った勢いで結婚してしまう。

 翌朝、ラーフルとリアーナは結婚してしまったことに気付き、それを取り消す手続きをするが、完了までには時間が掛かった。また、リアーナは家賃滞納のため貸家から追い出されてしまい、ラーフルの家に居候することになる。ラーフルはリアーナと過ごす内に彼女に惚れてしまう。この間、リアーナは就職先が決まるが、ラーフルは無職のままだった。

 リアーナは年末年始にインドに帰ることになっていた。2人とも実家はムンバイーにあった。リアーナはラーフルもインド一時帰国に誘う。ラーフルは説得され、彼女と共にムンバイーへ向かうことになる。ただ、両親には内緒で、ラーフルはリアーナの家に滞在することになった。リアーナの家庭はとても温かく、娘と結婚してしまったラーフルを歓迎する。ラーフルはリアーナの家族と共に年越しする。

 リアーナはラーフルを母校へ連れて行く。そこでラーフルはリアーナに愛の告白をするが、リアーナはそういう積もりではなかった。リアーナに振られたラーフルはふさぎ込んでしまう。また、ラーフルは偶然母親に見つかってしまい、リアーナの家を出て実家に戻ることになる。ラーフルは会食の席で初めて両親に反旗を翻し、解雇されたこと、結婚してしまったことなどを明かす。唖然とする両親を置いてラーフルは家を出る。リアーナの家にやって来たラーフルは、リアーナと語り合い、慰められる。

 ラスベガスに戻ったラーフルとリアーナは結婚の取り消しを完了する。ラーフルは幸い就職先も見つかり、新生活を送っていた。リアーナとは相変わらず親友の仲であった。

 その出来は別として、非常に驚かされた映画だった。ロマンス映画でありながら、ヒーローとヒロインが結ばれないという結末。必ずしも結婚をゴールとしない種類の脚本の映画ならば問題ないが、「Ek Main Aur Ekk Tu」のプロットは完全に結婚志向のものであった。それなのに結ばれなかった。結末にサプライズをもたらすため、凝りに凝った結果がこれなのか、それともインドのロマンス映画が成熟した証なのか。しかし、インドのロマンス映画にとって、ひとつの転機になる映画であることは確実である。

 もっとも、ヒーローとヒロインは結婚している。クリスマス・イブの日、クイック結婚専門の教会の前を通り掛かり、酔っ払ったノリで結婚してしまったのである。しかし、当然のことながら2人はそれを取り消すことを決め、手続きもする。通常のヒンディー語映画の流れならば、最終的には2人は結婚を取り消さず、そのまま本当の夫婦となるという結末が用意されていたことだろう。しかし「Ek Main Aur Ekk Tu」では、2人は恋人関係にもならない。

 むしろ強調されていたのは、ラーフルの人間的成長である。ラーフルは幼い頃から両親の言いなりになっていた。父親はラーフルが何らかの分野で1番になることを期待し、彼の職業もキャリアも結婚相手もコントロールしていた。母親はラーフルを溺愛し、人形のように飾り付けては喜んでいた。こういう2人に育てられたため、ラーフルは自信も自身もない若者となってしまっていた。

 そのラーフルが、人生をフルに生きるリアーナと出逢い、様々な事情から共に過ごすこととなる。彼の人生は2週間の内に完全に変わってしまう。退屈な人間だったラーフルは人生を楽しむようになる。そればかりでなく、両親の前で初めて自分の意見を言い、人生において自分がしたいことをすると宣言する。

 映画は社会を反映している。「Ek Main Aur Ekk Tu」も現代インド社会の反映だと言える。親が子に過度の期待を寄せることで、子供が精神的なストレスを受けているという報告がインドで聞かれるようになって久しい。例えば、テレビでは一時、子供の才能発掘番組が流行していた。テレビで見る限りでは、小さな子供たちが歌や踊りなどで驚くべき才能を発揮しており、見ていて楽しいものだ。しかし、舞台裏ではかなり悲惨なドラマが繰り広げられていると言う。子供が親の期待に応えようとしてキャパシティー以上の頑張りをし、精神的にも肉体的にも大きなダメージを受けることが多いと言う。実は同様の「子供の檜舞台」は地域レベル、学校レベル、家庭内レベルでもよく用意されており、多くのインド人両親は、それがどのようなレベルであっても、我が子に華々しい活躍と最高の結果を求める。インドの教育は失敗に優しくなく、常に成功し続けることを運命付けられたエリート養成の性格が強い。その副作用として「Ek Main Aur Ekk Tu」の主人公ラーフルが提示されたと言っていいだろう。ラーフルはリアーナに「あなたは平均的。それがあなたの魅力」と言われ、ホッと安心する。この言葉を必要としている子供はインドにはとても多いのではないかと思う。全く同じではないが、近いテーマの映画には「Taare Zameen Par」(2007年)が挙げられる。

 2011年のボリウッド映画界を振り返るで触れたように、昨年のヒンディー語映画界では、父権を否定するような内容の映画が目立った。「Ek Main Aur Ekk Tu」もその流れに位置づけられる作品であった。父親の前で萎縮してしまい、ただ言われることを聞き入れるだけしか出来なかったラーフルが、最後に父親の前で今までの鬱憤を爆発させ、自我をぶつける。エンディングでヒーローとヒロインが結ばれないロマンス映画であることに加え、ヒンディー語映画の新しい潮流である。

 また、破天荒なヒロインを中心に進行する映画も最近のトレンドである。元はと言えば「Jab We Met」(2007年)でカリーナー・カプールが演じたギート辺りがその走りだったが、それ以降この種の映画はとても増えた。「Tanu Weds Manu」(2011年)でカンガナー・ラーナーウトが演じたタンヌーや「Mere Brother Ki Dulhan」(2011年)でカトリーナ・カイフが演じたディンプルがその代表例である。元祖とも言えるカリーナー・カプールが今回、ギートとよく似た性格のリアーナを演じた。ちなみにリアーナ・ブラガンザという名前から彼女がキリスト教徒という設定であることが分かる。

 このように古くからのインド映画ファンの常識を覆すような要素が詰まった映画だったのだが、完成度そのものは最上とは言い難かった。やはり最後にヒーローとヒロインが結ばれないという点で消化不良に感じたのが大きかったのだが、途中大した事件もなく、大部分は退屈な展開が続いた。スクリーンに引き付けられたのは、2人が結婚するまでと、ラーフルが父親に物申す場面ぐらいだ。

 ちなみに、「Zindagi Na Milegi Dobara」(2011年)に続き、日本人が登場するシーンがある。しかもまたも「山本さん」である。このままだとヒンディー語映画に登場する日本人が全員「山本さん」になってしまいそうだ。さらに、日本人は好意的に描写されていなかった。日本語が聴き取れるので分かることなのだが、本音と建前を英語と日本語で使い分ける狡猾な人種という印象であった。

 下馬評ではイムラーン・カーンとカリーナー・カプールのミスマッチが話題となっていた。だが、結局2人は結ばれなかったので、そのような批判は肩すかしになったと言っていいだろう。2人の間の恋愛も、イムラーン演じるラーフルからの片思いということになっていた。

 イムラーンは今回、両親の影響下で萎縮している姿と、リアーナの影響で弾ける姿を演じ分ける必要があった。それが完全にうまく行っていたとは言い難い。もう少しその2つの姿の間でメリハリを付けた方が良かった。しかし好演していたと言っていいだろう。

 カリーナーは、「Jab We Met」で絶賛されたキャラクターそのものを今回も演じており、演技自体には問題がなかった。しかしながら、それ以上の発展がなかったということで、ネガティブに批評されることもあるだろう。年下のイムラーンとの共演も、若さという点で彼女にとって多少不利に働いている。

 他にラーフルの父親役としてボーマン・イーラーニーが、母親役としてラトナー・パータク・シャーが出演。ボーマンももちろん良かったが、ラトナーの巧さが特に目立った。

 音楽はアミト・トリヴェーディー。これまでの彼のぶっ飛んだ曲作りに比べたらだいぶボリウッド色に染まってしまった印象であるが、「Aunty Ji」は完全に彼の独自色が強く出たダンスナンバーだ。ヘンテコな歌詞と共にとてもパワフルな曲となっている。しかし白眉はバラード「Aahatein」かもしれない。

 そういえばストーリーはクリスマス辺りから始まり、新年に入って数日後に終わる。多分その辺りの時期の公開を計画していたのだろう。しかしヴァレンタイン・デー週公開となってしまった。結末でヒーローとヒロインが結ばれる映画ではなく、ヴァレンタイン・デーにはあまり向かないように感じる。

 「Ek Main Aur Ekk Tu」は、ロマンス映画の常識を覆す結末が驚きの作品。他にもヒンディー語映画の新しい潮流を感じさせる要素がいくつかあり、昨今のインド映画の変化を知るには絶好の映画。ただし完成度は必ずしも高くない。ヴァレンタイン・デー用のカップル向け映画としても最適ではない。

2月14日(火) ダムダミー・マーイーのプージャー

 2月14日と言えばヴァレンタイン・デー。デリーでもヴァレンタイン・デーはだいぶ市民権を得て来ており、この日ショッピングモールはヴァレンタイン・デーに合わせたセールやデコレーションが行われるし、道端では物売りたちが盛んに花束を売り付けて来る。この日の前後に公開される映画に目を転じてみても、やはりカップル向けのロマンス映画が目立つ。ただ、日本のように女性から男性へ一方的に贈り物をする日ではなく、恋人たちがお互いにプレゼントを贈り合ったりして、愛を確かめる日となっている。

 ヴァレンタイン・デーにデリーで行われるイベントとしてもっともユニークなのはダムダミー・マーイーと呼ばれる女神のプージャーであろう。

 デリー大学ノース・キャンパスの名門ヒンドゥー・カレッジには、「ヴァージン・ツリー」と呼ばれる木がある。一部ではバニヤンとされているが、プラディープ・クリシャン著「Trees of Delhi」を参考にすると、デリー原生の「ピールー」という名の木ではないかと思う。しかし植物学には疎いので確証はない。この木がなぜ「ヴァージン・ツリー」と呼ばれるようになったのか、その由来は定かではない。しかし、この木にまつわる様々な伝説が、ヒンドゥー・カレッジの寮生を中心に、まことしやかに言い伝えられている。例えば、偶然この木の下に座った見ず知らずの男女はお互いに恋に落ちるなんて言うロマンチックな言い伝えがある。名前とは裏腹に、キューピッドのような木なのである。

 ヴァレンタイン・デーにはヴァージン・ツリーで面白いイベントが行われる。まずはヴァレンタイン・デーの数日前に寮生の間で、そのときインドでもっともホットな女性(主に女優)が選出され、ダムダミー・マーイーと呼ばれる処女神に認定される。ダムダミー・マーイーは妙齢の女性たちたちの集合体的な化身だとされる。今までアイシュワリヤー・ラーイ、プリヤンカー・チョープラー、ディーピカー・パードゥコーン、カトリーナ・カイフ、ソーナークシー・スィナーなどのボリウッド女優がダムダミー・マーイーに選ばれて来た。

 ヴァレンタイン・デーには、ダムダミー・マーイーの写真やポスターがヴァージン・ツリーに吊り下げられる他、ヴァレンタイン・デーらしい装飾も施される。調子に乗ってコンドームの風船が飾られることもある。そして学生の中から選ばれた「パンディト(僧侶)」がダムダミー・マーイーのプージャー(祭祀)を行う。パンディトの選出方法には変遷があったようだ。カレッジ内で一番もてそうにない男性がパンディトに選ばれることもあったようだが、最近はミスター・フレッシャー(新入生)がこのプージャーを執り行う習慣が続いているらしい。

 ダムダミー・マーイーのバジャン(賛歌)もある。
जय दमदमी माता, माई जय दमदमी माता
तुमको दिन भर देखूँ, रात भर सो न पाता
मैया जय दमदमी माता, 36-24-36 यह तेरी काया
गानों पे थुमके लगाता, माई जय दमदमी माता
जब तू टी.वी. पे आती, तो होस्टल नाचता
ऐसा करके याद दिलाता कि तू दमदमी माता
माई जय दमदमी माता
बोल दमदमी माता की जय!

ダムダミー女神万歳、ダムダミー女神万歳
日中ずっとお前を見ていて、夜はちっとも眠れない
ダムダミー女神万歳、お前の身体は上から91-61-91
歌に合わせて腰をくねらす、ダムダミー女神万歳
お前がTVに現れると、寮全体が踊り出す
誰もが忘れない、お前こそがダムダミー女神
ダムダミー女神万歳
さあ一緒に、ダムダミー女神万歳!
 プージャーが終わると、参加者にプラサード(神饌)が配られる。バーング(大麻)入りのミターイー(お菓子)がプラサードになっていた時期もあるようだが、最近は通常のミターイーになっているらしい。バーングは約1ヶ月後に祝われるホーリー祭のために取っておくのだろう。

 そしてこれがもっとも重要なのだが、ヒンドゥー・カレッジに伝わる言い伝えでは、「恋人いない歴=年齢」で、ダムダミー・マーイーのプージャーに参加し、プラサード(神饌)を食べた者は、3ヶ月以内に恋人ができ、6ヶ月以内にヴァージンを卒業できるとされている(ヴァージン卒業はプージャーから1年以内とする説もある)。このプージャーの歴史はそれほど古くはないはずで、21世紀に入ってから始まったのではないかとされている。グーグルによるニュース検索では少なくとも2005年までしか遡れない。ダムダミー・マーイーという女神もヒンドゥー教のパンテオンの中には存在せず、大学生たちが勝手にでっち上げた女神だ。

 さて、今年ダムダミー・マーイーに選ばれたのはサニー・レオン。カナダ生まれのインド系ポルノ女優で、ヒンディー語映画「Jism 2」への出演が決まっている。昨年は人気テレビ番組「ビッグ・ボス」に登場し、インド系ポルノ女優という肩書きが大いに物議を醸した。ポルノ女優が処女神に祭り上げられるというのは何とも面白い現象である。

 ダムダミー・マーイーのプージャーには前々から関心があって、一度見てみたいと思っていたのだが、うっかり忘れてしまっていたり、突然日にちが変更になったりして(ヴァレンタイン・デーが日曜日に重なるとプージャーの日にちは前後する)、なかなかうまく行かなかった。しかし、もう来年のこの時期にはインドにいられないかもしれないので、最後のチャンスと思って意志を強く固め、ヴァレンタイン・デー当日にヒンドゥー・カレッジまで足を伸ばした。

 しかし、残念ながら僕がヴァージン・ツリーに辿り着いたとき(午後2時過ぎ)には既にプージャーは終わってしまっていた。事前に詳細な情報が手に入らず、午前中の授業が終わったあたりで始まるかと予想して行ってみたのだが、どうもプージャーは早朝に行われるようである。しかしながら少なくとも伝説のヴァージン・ツリーを見ることはできた。


ヴァージン・ツリー

 ちゃんとサニー・レオンのポスターも吊り下げられていたが、コンドームの風船は見当たらなかった。今年は盛り上がったのだろうか?


今年のダムダミー・マーイー、サニー・レオン

 ちなみに今年のヴァレンタイン・デーは少し違った。昨年グルガーオンに、日本人パティシエが常駐するスイーツ屋Irohaがオープンしたのである。普段はシュークリームを主力商品としているが、ヴァレンタイン・デー向けに特別にチョコレート・アイテムを販売し、日本のヴァレンタイン文化をインドに持ち込んでいた。その中で、僕の大好きなインド産ラム酒オールド・モンクを使ったトリュフがあって興味を引かれ、前日にグルガーオンまで足を伸ばしてそれを買ってみたのだった。


Iroha製トリュフ
白色がラム味、茶色が紅茶味

 シュークリームもチョコレートも、日本人パティシエが作っているだけあって、完全に日本の味。甘すぎず、口の中でとろける、絶妙なおいしさ。まだ日本食材店Yamato-yaもなかった時代からデリーに住んでいる僕にとっては、隔世の感がある。デリーが日本と同じようになって行くのは、嬉しい気持ちもあると同時に、正直言って寂しい気持ちもある。しかし「昔は良かった」的懐古主義や現在否定論に陥るのもつまらないので、今後もデリーにいる限りデリーの発展を目撃し楽しんで行きたいと思う。

2月17日(金) Ekk Deewana Tha

 「Rehna Hai Terre Dil Mein」(2001年)という映画があった。ディーヤー・ミルザーのデビュー作、マーダヴァンの本格ヒンディー語映画デビュー作、そしてサイフ・アリー・カーンが脇役出演のロマンス映画で、個人的には結構好きだったがあまりヒットしなかった。当時はまだマルチプレックスがあまり普及しておらず、単館にて1日4ショー――モーニング、アフタヌーン、イブニング、ナイト――が基本だった。「Rehna Hai Terre Dil Mein」では変わったことをしており、エンディングに流れるボーナストラックのアレンジとそのダンスシーンをショーごとに違うものにしていた。もちろん、いくらインド映画好きでもそれら全てを鑑賞しに行くほどではなかったのだが、サウンドトラックにはそれらが全て収められており、自分が見たもの以外はどんな感じか勝手に想像を巡らせていたのを覚えている。

 その映画の監督がガウタム・ヴァースデーヴ・メーナンであった。元々はタミル語映画の監督で、ヒンディー語映画「Rehna Hai Terre Dil Mein」の失敗の後、しばらくヒンディー語映画界からは離れていた。しかしあれから10年の時を経て再びヒンディー語映画に挑戦。それが本日より公開の「Ekk Deewana Tha」である。自身のタミル語ヒット作「Vinnaithaandi Varuvaayaa」(2010年)のリメイクで、またも変わった試みをしている。エンディングを2つ用意しているのである。ハッピー・エンディングの通常版「Ekk Deewana Tha」と、サド・エンディングの「Ekk Deewana Tha (Director's Version)」である。しかしながら、上映館数は圧倒的に前者の方が多く、しかも後者を上映する映画館はどれもチケット代の高い最高級映画館ばかりなので、インド人の観客がハッピー・エンディング版を選ぶのかサド・エンディング版を選ぶのか、つまりインド人は実のところハッピー・エンディングが好きなのかサド・エンディングが好きなのか、その比較は無意味だ。もしこの映画を見るならば、ほとんどの観客が通常版を選ぶことだろう。僕が見たのもハッピー・エンディングの通常版である。

 もうひとつ特殊なのは、英国人女優エミー・ジャクソンをインド人ヒロインに起用していることだ。ミス・ティーン・ワールド(2008年)やミス・リバプール(2009年)の栄冠に輝いているが、彼女は特にインド系という訳でもない。ただ、タミル語映画「Madrasapattinam」(2010年)において主役の英国人女性役で出演し好評を博しており、既に南インド映画界では名の知れた存在のようだ。よって、今回はヒンディー語映画デビューとなる。そういえば「Love Aaj Kal」(2009年)でブラジル人女優ジゼル・モンテイロをインド人役に起用したことがあったが、サブヒロインの扱いであった。エミー・ジャクソンが本作で演じるジェシーは正真正銘のメインヒロインであり、完全なるインド人女性の役である。南アジア人の血が入っていない女優がインド人役のメインヒロインを務めるのはこれが初のことではなかろうか。ちなみに主演男優はプラティーク・バッバルである。

 また、キャストにあまりアピール力がないと判断したのか、音楽監督のARレヘマーンと作詞のジャーヴェード・アクタルの名前が大々的に宣伝されており、「ARレヘマーンとジャーヴェード・アクタルのミュージカル」とされている。これも異例の措置だと言える。



題名:Ekk Deewana Tha
読み:エーク・ディーワーナー・ター
意味:1人の狂人がいた
邦題:ホサンナ

監督:ガウタム・ヴァースデーヴ・メーナン
制作:ガウタム・ヴァースデーヴ・メーナン、レーシュマー・ガターラー、ヴェーンカト・ソーマスンダラム、エルドレッド・クマール、ジャヤラマン
音楽:ARレヘマーン
歌詞:ジャーヴェード・アクタル
衣装:ナーリニー・シュリーラーム
出演:プラティーク・バッバル、エミー・ジャクソン、マヌ・リシ、サチン・ケーデーカル、サマンサ・ルース・プラブ、バーブー・アントニー、ラメーシュ・スィッピー(特別出演)
備考:PVRプリヤーで鑑賞、通常版。


プラティーク・バッバル(左)とエミー・ジャクソン(右)

あらすじ
 ムンバイー在住のサチン(プラティーク・バッバル)は機械工学を修めたものの、映画監督になる夢を追い掛けており、現在無職だった。師と仰ぐカメラマンのアナイ(マヌ・リシ)が有名監督ラメーシュ・スィッピー(本人)から仕事がもらえたため、一緒に仕事をすることになる。

 ところでサチンは借家に住んでいたが、彼は大家の娘ジェシー(エニー・ジャクソン)に一目惚れしてしまった。しかしサチンがヒンドゥー教徒であるのに対し、ジェシーはマラヤーリー・クリスチャン、しかも1歳年上であった。サチンの姉は、この恋に勝ち目はないから早めに諦めるように言うが、サチンは聞かなかった。

 サチンはジェシーの前に出ると緊張してしまって挙動不審になったが、それでも姉の助けもあってジェシーと会話を交わせるようになる。そして出会って10日でサチンはジェシーに愛の告白をしてしまう。ジェシーからは返事をもらえなかった。しかもその日ジェシーは家に帰って来なかった。調べてみるとジェシーは祖父母の住むアレッピーへ帰ってしまっていた。サチンはジェシーの後を追い掛け、アナイを連れてケーララ州まで飛んで行く。

 全く手掛かりがなく、ジェシーを見つけるのは困難だった。しかしジェシーがキリスト教徒であることを思い出し、日曜日にアレッピーで一番大きな教会へ行ってみる。するとそこでジェシーと再会することができた。ジェシーは祖父母にサチンをクラスメイトだと紹介する。祖父母は彼らを家に招く。帰り際にサチンはジェシーにいきなり告白してしまったことを謝る。ジェシーはまずは友達になろうと提案し、2人は友達となる。

 ジェシーはアレッピーからムンバイーへ列車で戻ることになっていた。サチンはわざとジェシーと同じ列車を予約し、一緒にムンバイーへ行くことにする。その列車の中で2人はキスをする。

 ところが、ジェシーの兄ジェリーが2人の仲を疑うようになる。サチンはジェリーを殴ってしまい、ジェリーは仲間を連れてサチンを脅しにやって来る。この事件によってサチンとジェシーの仲がお互いの両親にばれてしまう。ジェシーの父親はサチンの家族を追い出そうとするが、サチンの父親も売り言葉に買い言葉で最大限居座ることを宣言する。そこでジェシーの父親はジェシーをすぐに結婚させてしまうことにする。家族はジェシーを連れてアレッピーへ行ってしまう。

 それを知ったサチンは再びジェシーを追ってアナイと共にアレッピーまで行く。ジェシーと再会した教会でジェシーの結婚式が行われようとしていた。サチンとアナイは参列者に紛れ込んで宣誓の儀式を見守る。するとジェシーは宣誓を拒否し、式場から逃げ出してしまう。また、ジェシーはそのときサチンがいるのに気付く。サチンとアナイは一度式場から抜け出すが、ジェリーに見つかってしまい、乱闘になってしまう。そこへ警察が駆けつけ、サチンとアナイは警察署に連行される。ジェシーに頼まれた父親は2人を訴えないことにするが、2人に対し二度と目の前に現れないように警告する。

 ところがサチンは諦めが付かなかった。夜中こっそりジェシーの家に忍び込み、彼女と出会う。ジェシーは今までの気持ちを吐露し、彼女もサチンに一目惚れしていたことを明かす。満足したサチンはとりあえずムンバイーへ帰る。

 ムンバイーに戻った後、サチンの家族は引っ越しをするが、サチンとジェシーはデートを繰り返していた。しかし、ラメーシュ・スィッピー監督のロケが始まり、サチンはアシスタントとして忙しいが充実した毎日を送るようになる。一方、ジェシーは父親から結婚を強要され続けており、フラストレーションを感じていた。ジェシーは何度もサチンに電話を掛けるが、マンガロールにロケに出掛けていたサチンとはなかなか会話が成立しなかった。ジェシーから強く呼び出しを受けたサチンはラメーシュ・スィッピー監督から許可をもらって一時的にムンバイーに戻るが、ジェシーは既にサチンと別れることを決意していた。サチンが何を言っても無駄だった。その後ジェシーはサチンに何も告げずに英国へ渡ってしまう。姉の情報では、彼女は既に結婚してしまったとのことだった。

 こうして2年の月日が過ぎ去った。サチンはまだジェシーのことを諦め切れていなかったが、彼に一途に恋する女性が現れ、迷っていた。ある日サチンはジェシーとのロマンスを題材に脚本を書き始める。脚本は完成し、プロデューサーも決まり、サチンはとうとう監督デビューする。サチンがタージマハルでロケを行っていたところ、そこに偶然ジェシーが現れる。2人は思い出話に花を咲かせる。その会話の中でサチンは今でもジェシーのことを愛していることを明かす。実はジェシーも結婚していなかった。英国に行った後、すぐにインドに戻り、デリーに住んでいたのだった。サチンとジェシーはすぐにでも結婚することを決め、デリーの教会と寺院で婚姻の儀式をする。

 サチンの映画「Jessie」も完成し、公開される。サチンとジェシーはそれを一緒に見る。アナイは映画が大ヒットになっていると報告する。

 タミル語ロマンス映画のリメイクであることが影響しているのだろう、ヒンディー語映画のトレンドから見たら古風でワンパターンな映画であった。もちろん、「Agneepath」(2012年)の成功からも分かるように、古風な映画作りをリバイバルすることがそのまま失敗作につながる訳ではない。現代向けに、上手に丁寧にアレンジすれば素晴らしい映画になり得る。だが、「Ekk Deewana Tha」は到底そのレベルに達していなかった。昨今のヒンディー語映画界ではめっきり減ったストレートなロマンス映画ということで、かえって心に直接響く部分もあったのだが、映画が進行するに従い、結局はインドの伝統的ロマンス映画の焼き直しに過ぎないということが明らかになって来る。

 もっとも腑に落ちなかったのは、いまどき宗教やコミュニティーの違いを恋愛・結婚の障壁として前面に出していたことである。サチンはマハーラーシュトラ州沿岸部に多いコーンカニー・ブラーフマン、つまりヒンドゥー教徒。一方、ジェシーはケーララ州をベースとするマラヤ―リーのキリスト教徒。2人ともムンバイーで生まれ育っていながら、異なるコミュニティーに属する。確かにインドでは、出自の地域や宗教が違う男女の結婚は難しくなる。しかし、ヒンディー語映画界では、ヒーローとヒロインの恋愛成就の壁にそれらの要素を持って来ることは稀となった。もっと日本人の恋愛観に近い恋愛となって来ている。よって時代錯誤のロマンス映画に感じた。

 また、劇中においてヒロインの方がヒーローよりも1歳年上であることも恋愛の障壁として何度も何度も明確に提示されていた。これも古めかしく感じた。やはり、インドでは花婿より花嫁の方が年上ということは稀だ。しかし、ヒンディー語のロマンス映画でそれが明示され問題になったことは今まであまり記憶にない。その一方で極端な例――例えば女性の方が一回りも二回りも年上――のヒンディー語映画は過去にいくつかあり、もっとも有名なのは「Dil Chahta Hai」(2001年)や「Leela」(2002年)である。

 また、ヒンディー語映画では、ヒーローが一目惚れしたヒロインをストーカーの末になぜかゲットするような、単純かつはた迷惑なロマンス映画は下火となっている。「Ekk Deewana Tha」は正にそのパターンで頭痛がした。

 おそらく南インド映画ではまだこれらのタブーやパターンを軸に恋愛映画を作る習慣が残っているのであろう。それらをそのままヒンディー語映画に当てはめてしまったのがこのリメイク映画の大きな失敗だと言える。

 また、展開に意外性がない割には唐突なまとめ方がされており、雑な印象を受けた。ジェシーが結婚式の宣誓で「ノー」と言うのは容易に予想できるし、彼女が最後に「実は結婚していない」と明かすのもインド映画の常套手段だ。その割に、2人が勝手に結婚して、ジェシーの父親に挨拶しに行く重要なシーンは曖昧に終わらせられており、面倒を避けたと揶揄されても仕方ないだろう。主役2人の恋愛の進展もどこか現実感や説得力がなく、ロマンス映画としては失格だった。

 多くの欠点を持ちながらも、ARレヘマーンの音楽はいくつか素晴らしいものがあり、映画の救援に駆けつけていた。「Kya Hai Mohabbat」、「Aromale (My Beloved)」、「Hosanna」、「Phoolon Jaisi」など、いい曲が揃っている。サントラCDには10曲収録されている。いくつかは南インド的なダンスと共に使われていた。しかし、どうもたくさん注文し過ぎてしまったようで、全てが効果的に劇中で使われていたとは言えなかった。ちょっとだけ申し訳程度に流れてすぐにカットされてしまった曲もあった。

 ところで、インド映画では宗教的マイノリティーがステレオタイプなイメージと共に描写されることが多い。その中でもキリスト教徒はかなり明確なステレオタイプがある。西洋文化にどっぷり染まってインド精神から遠い存在で、酒を飲み、肉を食べ、性にオープンで、家でも英語をしゃべるなど、そういうキャラクターとして描写されやすい。しかし「Ekk Deewana Tha」のジェシーやその家族は、確かにキリスト教徒だったものの、よりマラヤーリーとしての文化を強く保持しており、現実のインド人キリスト教徒に近い気がした。それもそのはず、ガウタム・ヴァースデーヴ・メーナン監督はケーララ州出身であり、この正確な描写も納得である。

 主演プラティーク・バッバルは最近絶好調だ。「Jaane Tu... Ya Jaane Na」(2008年)の脇役出演で注目を浴び、2011年には「Dhobi Ghaat」から「My Friend Pinto」まで様々な作品に出演している。母スミター・パーティール似の寄り目の顔が特徴で、気弱な男が一番似合う。「Ekk Deewana Tha」での彼の役は多少混乱していた。ジェシーの前では挙動不審男なのだが、いきなり愛の告白をしたり、ジェシーを追い掛けてケーララ州まで行ったり、思い切った行動に出ることもある。さらにジェシーの兄を大した理由もなくいきなり殴るなど、喧嘩っ早い一面も見せており、謎の性格であった。おそらく脚本からこういう設定だったのだろうが、それを演技力で包括するところまで行っていなかったのも、その現実感のなさの一因であろう。

 エミー・ジャクソンは英国人ながら意外にインド人に見え、その点で不満はなかった。台詞はおそらく全て吹き替えであろう、かなり低い声なのだが、それがまたなかなか冷たい表情と合っていて良かった。わざわざ英国人女優をインド人役に起用する必要があるのか、それは大きな疑問であるが、少なくともこの「Ekk Deewana Tha」に関する限りは悪くはなかった。

 脇役陣の中では、サチンの師匠であり良き相談役であるアナイを演じたマヌ・リシが非常に良かった。アルシャド・ワールスィー的なベラベラッというしゃべり方をするのだが、それが粋だった。また、どういう縁か、「Sholay」(1975年)で知られる映画監督ラメーシュ・スィッピーが特別出演している。劇中で「Sholay」の賞賛があったり、まるで彼に捧げられた映画のようになっていた。

 基本的に舞台はムンバイーであるが、ジェシーの実家の関係でケーララ州アレッピー(現在の正式名称はアーラップラ)が何度か登場したり、サチンとジェシーの再会の場として、ベタだが、アーグラーのタージマハルが出て来たりする。映画中ではあまり明確に言及されていないが、デリーでもかなりロケが行われている。2人が結婚したのはオールドデリーのセント・ジェームス教会だし、結婚後に2人がデリー観光として訪れた場所の中には、一瞬だけの登場だったが、インド門、ディッリー・ハート、バサント・ローク・マーケットなどが含まれていた。

 言語は基本的にヒンディー語であるが、ジェシーがマラヤーリーということもあり、マラヤーラム語の台詞も時々聞こえて来る。それらには大体英語とヒンディー語の字幕が付く。

 「Ekk Deewana Tha」は、先週公開の「Ek Main Aur Ekk Tu」に続きロマンス映画であるが、どうもどちらもいまいちだ(なぜか題名も似ている)。エンディングを2つ用意するというのはかなり珍しい試みであるが、一般向けのハッピー・エンディング版がこの出来だと、より高価かつレアな方のバージョンの出来はさらに心配である(見る予定もない)。ただ、ARレヘマーンとジャーヴェード・アクタルの手による楽曲は一定のレベルにあり、それが映画を何とか沈没から救っている。それでも完全浮上とまではいかないだろう。

2月19日(日) コミック・コンと山松ゆうきち氏

 近年インドのコミック市場が非常に面白いことになって来ている。元々インドのコミックと言うと、「神様漫画」として知られるアマル・チトラ・カターの数々、プラーンの「チャーチャー・チャウダリー」、RKラクシュマンの風刺漫画などが有名であったが、漫画大国の日本と比べると、漫画が文化として定着している国とはとても言えなかった。識字率の低さ、映画という強力な娯楽メディアの存在、漫画は子供が読むものとする偏見などがその原因とされて来た。2004年にサールナート・バナルジーがグラフィック・ノベル「Corridor」をヒットさせ、グラフィック・ノベルという「絵で語る小説」ジャンルを切り開いたが、決して大衆向けではなく、読者層も順調に拡大しているとは思えない。インド初のオンライン無料ポルノコミック「Savita Bhabhi」が2008年に忽然と現れセンセーションを巻き起こしたが、これも当局による取り締まりなどがあり、現在では有料となっている。しかし、それらの黎明期を経て、現在インドでは様々なスタイルの漫画が一気に花開いており、コミック市場全体がかなり熱くなって来ている。

 そのひとつの象徴がコミック・コンの存在である。インド全土からコミックを取り扱う出版社、インド人カートゥニスト、そしてコミック・ファンが集うインド・コミックの祭典であり、今年で第2回目を迎える。前回もかなり盛況だったと聞くが僕は行き逃してしまっていた。今年はおよそ80業者が参加。個人的な用事もあったため、今年は足を伸ばすことにした。


コミック・コン会場

 インドのコミックは第一に欧米のコミックから多大な影響を受けている。フランス語漫画「タンタンの冒険旅行」や米国のマーベル・コミック、DCコミックなどはインドでも人気であり、インド産コミックもそれらに非常に近いスタイルで書かれることが多い。第2回コミック・コンでも、出品されていたコミックを見ると、多くは欧米テイストのものであった。インド神話に原案や意匠を求めたりしているが、一般の日本人が惹かれるような種類のものではない。

 しかし、日本人として興味深いのは、日本の漫画も最近かなり読まれるようになっており、ジャパニーズ・スタイルの漫画も出て来ていることだ。インターネットなどの影響でインド人が突然日本の漫画にアクセス出来るようになったからこうなったのか、それとも今まで実は一定の漫画ファンがいたのだが、SNSなどで趣味を同じくする人々と交流する機会ができ、表に出るようになったのか、それは分からない。しかし、今はっきりと言えるのは、インドで日本の漫画がファン層を急速に拡大していることである。


「ブラックジャック」や「AKIRA」が売られていた

 そして、もしかしたら将来的に、インドに漫画を紹介した第一人者として記憶されることになるかもしれないのが、山松ゆうきち氏である。日本で「知る人ぞ知る」のカルト的人気を誇る漫画家山松ゆうきち氏は、2004年にインドで漫画をヒンディー語に翻訳して大儲けしようという大胆かつ無謀な野望を抱いてデリーに降り立った。たまたまヒンディー語訳を僕が受け持つことになり、このとき紆余曲折を経て平田弘史著「血だるま剣法」ヒンディー語版は出版される。しかし、30部ほどしか売れず大失敗に終わる。それでも山松氏は転んでもただでは起きず、日本に帰国した後、その失敗談を「インドへ馬鹿がやって来た」という連載漫画にまとめ、日本文芸社から単行本出版にも漕ぎ着けた。その後再びインドで似たような失敗を繰り返し、その失敗談を「またまたインドへ馬鹿がやって来た」(日本文芸社)という漫画にまとめている。また、山松ゆうきち氏のウェブサイト山松ゆうきちの小屋 立ちションベンによると、2010年には西ベンガル州コールカーター(旧名カルカッタ)で漫画教室を開き成功させており、現在ベンガリー語雑誌に山松氏原作の漫画が連載されている。本人はあまり自覚していないが、日印文化交流においていつの間にかかなり重要な役割を果たす人物となって来ている。

 その山松ゆうきち氏の「インドへ馬鹿がやって来た」が、なんとこのたび英語に翻訳されインドで出版されることになった。題名は「Stupid Guy Goes to India」、出版社はチェンナイをベースとするブラフト・パブリケーションズ(Blaft Publications)である。米国人とインド人のハーフが経営するブラフト・パブリケーションズは今回コミック・コンにブースを出しており、「Stupid Guy Goes to India」の出版を記念して、コミック・コンに山松ゆうきち氏を招待した。基本的に暇人の山松氏は、一体何をさせられるのか分からないままインドに来ることになったのだった。


「Stupid Guy Goes to India」と山松ゆうきち氏

 コミック・コンはディッリー・ハート(INAマーケット前)にて2月17日から19日の3日間開催されたが、山松氏の出番は最終日19日の午後1時からだった。通訳が必要そうだったので救援に駆けつけることになっていたが、単にサイン会みたいなものだろうと予想していた。しかし、蓋を開けてみたらステージ上でのインタビューであった。ただ、通訳を付けてもらっていたので僕が出しゃばる必要はなかった。その通訳の語学力は必ずしも十分なレベルではなかったが、まあ何とかなったと言えるだろう。


インタビュー中

 ほとんどの質問は山松氏のプロフィールやインドでの体験に関することで、「インドへ馬鹿がやって来た」を読めば分かることばかりであった。しかし、最後の質問として、「インドのコミック業界に対して何か一言」という質問に対し山松氏は、「スキルは十分あるが、日本と比べるとジャンルがまだ狭い。ジャンルをもっと広げるといいのでは」と述べていた。


左はブラフト・パブリケーションズの社長ラーケーシュ・カンナー

 山松ゆうきち氏の作風は、一般に外国人が思い浮かべる「マンガ」とは少し違うかもしれない。だが、インド人の反応は上々だった。この日は最終日だったために、前日、前々日に「Stupid Guy Goes to India」を買って読んで来た熱心なインド人がおり、山松氏に「今回のコミック・コンの中であなたの漫画が一番素晴らしかった。続編が出たら私がその最初の読者になりたい」と熱烈にアピールするマンガファンもいた。山松氏に弟子入りを願い出る漫画家志望の若者もいた。インドで散々辛酸を嘗めた山松氏も、コミック・コンでの反応を見て、「もしかしたら日本よりもインドの方がオレのマンガ売れるかも」とつぶやいていた。僕を含め、多くの日本人が当時から彼にアドバイスしていた。何をするにもやり方というものがあり、インドで漫画を売るためにも正しい方法を採るべきだと。山松氏の計画は今となって見ればかなり時代を予見するものであったが、その方法はどう見ても行き当たりばったり過ぎた。しかし、今ではインドのコミック業界やコミック・ファンがかなり組織化されて来ており、その入り口さえ間違えなければ、かなりとんとん拍子でインド人に日本の漫画を紹介できそうだ。日本での漫画の現状についてはあまり景気のいい話を聞かないが、インドは今後巨大な市場になり得る可能性を秘めている。

 ところで、山松氏の英訳本を除けば、今回のコミック・コンで個人的なイチオシは以下のブースであった。


スーフィー・コミックス

 スーフィー・コミックスはブログ発祥のコミック・プロダクションである。イスラーム教の中でもオーソドックスではない神秘主義の名称である「スーフィー」を名乗っているが、実際にはコーランやハディース(預言者ムハンマドの言行録)などイスラーム教の教義にまつわる逸話などを短い漫画にしている。大雑把に言えば、アマル・チトラ・カターのイスラーム版か。アーリフ&アリーのワキール兄弟の手による。今回、ブログに掲載した漫画を40編収めた「40 Sufi Comics」を出版し、販売していた。絵は非常に素朴だが、ひとつひとつのストーリーはどれもとても考えさせられるもので、昨今何かと危険視されるイスラーム教を考え直すのに絶好の読み物となっている。一例として一部をブログから抜粋する。


父親と母親ではどちらが子に対して大きな権利を持つか
スーフィー・コミックス「Mother」より

 コミック・コンではコスプレ大会も行われていた。コスプレとメルヘン・ファッションの区別が付いていない人も多かったが、やはり目立ったのは日本のアニメキャラのコスプレであった。


「NARUTO-ナルト-」のコスプレ・・・だと思う

 インドのコミック市場のいいところは、まだ市場が成長段階にあり、皆が試行錯誤しながら進んでいることだ。TVゲームで喩えるならば、ファミコン全盛期やプレイステーション1の時代に似た、何が受けるか何が今後トレンドとなって行くか分からない何でもありのドキドキの世界が繰り広げられている。中にはたった1人で漫画を構想し、描き、着色し、出版し、そしてそれを原作としてアニメまで作って売っているマルチタレントな若者もいた。漫画やアニメはITとも相性が良く、コンピューターのスキルがあればそれらは意外に簡単に出来てしまうようだ。そう考えるとIT大国インドには莫大な人材プールが存在することになる。その質はともかく、エネルギーだけはものすごい。インド滞在期間が残り少なくなった今になって、今後可能であれば10年ぐらいのスパンで行く末を見守って行きたいと思わせられるのは、何と言ってもこのインドの漫画やアニメの市場――特に日本のDNAが入った分野――である。きっと、市場という意味においても、日印文化交流という意味においても、重要なセクターとなって行くことだろう。

2月23日(木) 雪見の詩会

 ヒンディー語を学び、研究するだけでなく、ごく稀にではあるがヒンディー語で詩作をするようになったのは、ラージ・ブッディラージャー女史のおかげである。長年デリー大学でヒンディー語を教え、東京外国語大学でも教鞭を執ったことがあるブッディラージャー女史は、詩人・作家としても活発に活動しており、定年退職しお年を召された後もその勢いは留まるところを知らない。

 日本でヒンディー語を教える中ですっかり日本贔屓となったブッディラージャー女史は、日本から帰印後、インド日本文化評議会(Indian Council for Japanese Culture)を設立し、以来日印文化交流に貢献して来た。ブッディラージャー女史はその活動の一環として、度々インドと日本の詩人を集めて詩の朗読会を催している。ただ、インドの詩人はともかくとして、日本の詩人がそう簡単にデリーで見つかることはない。よって、日本大使館や国際交流基金などに勤務する日本人に声を掛けて彼らに詩を作ってもらうという大胆な行為をしている。それに快く応えてくれる人もいるし、「いやいや詩なんて」と断り続ける人もいる。だが、詩心のある人がいるもので、必ず誰かが詩を作って送ってくれている。僕もブッディラージャー女史と知古になったことで、ある日唐突に詩を作るように頼まれた。しかも、僕はヒンディー語を勉強している立場上、ヒンディー語の詩を求められた。それまでヒンディー語で詩を書こうなどという大それたことは考えていなかったのだが、機会を与えられたため、せっかくだからということで、頭を悩ませながらとりあえず作ってみた。そのとき作った詩は紅葉に関するものだった。それ以外、折に触れて、1年に1作か2作くらいか、ヒンディー語で詩を作るようになった。

 デリーに長く住み、ずっとヒンディー語に親しんで来ているため、僕の心に浮かぶ感情や主張の中のいくつかは、母語の日本語よりもヒンディー語で表現した方がピッタリ来るということも出て来ている。言語によって心を切り取る型が微妙に異なると思うのだが、特定の場面ではヒンディー語の方が適した型が用意されている感覚である。そして多くの場合、その型は難解な単語ではなく、ごく基本的な単語や、それらの組み合わせから成る慣用句である。よって「習うより慣れろ」の世界で、ヒンディー語圏に住まなければなかなか身に付かない。この型が十分な数揃うと、詩にも応用できるようになると思う。僕は英語圏にしばらく住んだことがないので、英語ではそこまで心を写真で写すように表現することが出来ない。

 今回また詩を作る機会を与えられた。ブッディラージャー女史が「हिम की पर्णकुटी (Him Kii Parnkutii=かまくら)」という雪見をテーマにした詩会を2012年2月23日にインド国際センターで企画し、そこで朗読するために、雪に関する詩を作るように頼まれたのだった。ブッディラージャー女史は今まで日本の伝統文化で重視される「花見」「月見」「紅葉」に関する詩会を催して来ており、「雪見」はそのシリーズの最後となるものであった。当初は昨年11月に予定されていた。毎年11月は日本文化月間とされており、日本関連の様々なイベントが開催されるからである。しかし、諸事情から昨年日本文化月間は行われなかった。同時に、2012年は日印国交樹立60周年の年ということで、年間を通して日本文化紹介イベントが催されることになっていた。よって、それに合わせて2012年1月下旬に一度日程が決定した。しかし、その後また諸事情により延期となり、最終的には2月23日の開催となった。日本はまだ寒いと聞くが、インドの平野部はもうかなり暖かくなってしまった。しかし、少なくともデリーではいくら真冬でも雪が降ることはないので、それを考えれば季節外れ感は少ないだろう。

 インド国際センターの第二会議室で行われた詩会には、日本大使館や国際交流基金から来賓があった他、主賓として劇作家DPスィナー氏が来ていた。ちょうど現在デリーで個展を開いている日本人画家平岡達子さんも、自作の詩を携えて参加してくれた。また、ウルミル・サティヤブーシャン女史やシェールジャング・ガルグ氏などの文学者が出席していた他、デリー大学やジャワーハルラール・ネルー大学で日本語教育に関わる教授たちも来ていた。

 僕がこの日のために作った詩は「त्सुनामी के बाद (津波の後)」という題名のものであった。雪の詩ということでまず心に浮かんだのは、2010年、ラダックまでの単独バイクツーリングを試みた僕の行く手を塞いだロータン峠やバララチャ峠の雪であった(このツーリングの詳細についてはこちら)。マナーリーからレーまで陸路で行く際、最初に難関となるのがロータン峠で、次に立ちはだかるのがバララチャ峠である。ロータン峠では雪に降られ、バララチャ峠ではまだ道が雪で閉ざされていて開通していなかったことに加えて雪崩があって先には進めない状態となっていた。日本では雪国に住んだことがないために雪の中バイクを運転したことはなかったのだが、このとき初めて雪の上を無防備なバイクで走行することがどんなに危険か思い知った。あのときの冒険心、雪の恐怖と脅威、自然に対する畏怖の念なんかを詩にしようかと考えたのだが、うまくまとまらずにお蔵入りとなった。

 次に考えたのが子供の頃の雪の思い出であったが、大して面白いものにもなりそうになかった。改めて雪について考えてみたところ、2011年3月11日の東日本大震災の後の、被災地の雪景色の写真が思い浮かんで来た。当時日本では明らかに報道規制が敷かれており、海外で普通に発表されていた写真や映像が日本国内の人々に届いていないという皮肉な状況があった。よって、僕が見た写真と同じものを果たして日本在住の人々も見ていたか分からない。しかし、その被災地の雪景色は個人的には忘れられない写真であった。複数の新聞に掲載されていたと記憶しているが、とりあえず手元に残っているのは、タイムズ・オブ・インディア・クレスト2011年3月19日付けのものである。出所は不明であるが、詩と密接な関係があるので敢えて転載する。


岩手県山田市、3月16日撮影

 津波によって町が破壊し尽くされ、一面に散らばった瓦礫の上に雪が積もっている。しかも落日後すぐの時間帯なのだろう、この異様な雪景色は今にも闇に閉ざされようとしている。と、1台の自動車が、かろうじて瓦礫の間に作られた道の上でか弱い光を発している。この写真を見て、不謹慎にもその美しさに感動してしまった。この写真に写っている範囲内に限っても、多くの人が亡くなったのだろうし、多くの人が財産や大切な思い出を失ったことだろう。これだけ雪が降ったのだから、かろうじて生き延びた人々も極寒の中、大変な苦労をしていることだろう。しかしながら、それらのことを考えて悲しい気持ちになる前に、心は美しいと感じてしまった。あのような恐ろしい出来事の後に、自然はなんと美しい光景を作り出すことか、率直にそう思ってしまった。雪に関しては一番新しい感情であるし、強烈なものでもあったため、これをこの際詩にしてみようと思い立ったのだった。それが「津波の後」という詩である。まずヒンディー語で書き、後に日本語に訳した。よって日本語訳の方が多少固い表現になってしまっている。
त्सुनामी के बाद

बर्फ़ पड़ी, बर्फ़ पड़ी वहाँ
जहाँ घर थे
जहाँ शहर थे
जहाँ सुख थे
और जहाँ अब मलबे ही बिखरे हैं

एक रंग हुआ, एक रंग हुआ वहाँ
जहाँ ख़ून बहा था
जहाँ आँसू बहा था
जहाँ सागर बहा था
और जहाँ अब निराशा ही फैली है

सन्नाटा छाया, सन्नाटा छाया वहाँ
जहाँ ज़मीन गर्जी थी
जहाँ चीख़ उठी थी
जहाँ ख़लबली मची थी
और जहाँ अब पुकार गूँजती है

ऐ बर्फ़, उतने भयानक प्रलय के बाद
इतना ख़ूबसूरत नज़ारा... क्यों?
सदियों से लिखी गई तस्वीर को
और झटके से मथी गई तस्वीर को
अब कोरा काग़ज़ बना दिया
विनाशों को ढकना चाहती है?
निराशों को पनाह देना चाहती है?
लाशों को दफ़नाना चाहती है?
या फिर नई आगाज़ सिखाती है?

बर्फ़ पड़ी, बर्फ़ पड़ी वहाँ
जहाँ फिर घर बनेंगे
जहाँ फिर शहर बसेंगे
जहाँ फिर सुख खिलेंगे
और जहाँ अब बहार का इंतज़ार है



津波の後

雪が降った、雪が降った
家があった場所に
町があった場所に
幸せがあった場所に
そして今、瓦礫が散らばる場所に

一色に染まった、一色に染まった
血の流れた場所が
涙の流れた場所が
海の流れた場所が
そして今、絶望の広がる場所が

沈黙が広がった、沈黙が広がった
地が唸った場所に
悲鳴が上がった場所に
騒動が起こった場所に
そして今、呼び声が響いている場所に

ああ雪よ、あのような恐ろしい津波の後
このような美しい光景・・・なぜ?
何百年に渡って描かれた絵を
そして一瞬でかき乱された絵を
白紙に戻してしまった
破滅を覆い隠そうとしているのか?
絶望した人々を庇護しようとしているのか?
死人を埋葬しようとしているのか?
それとも新たな始まりを教えているのか?

雪が降った、雪が降った
また家が建つだろう場所に
また町ができるだろう場所に
また幸せが花咲くだろう場所に
そして今、春を待つ場所に
 インドでは雪と言うと山の方でしか見られないため、インド人の詩人たちが作った詩を見てみると、雪の詩はそのまま山の詩とイコールになっていることがほとんどであった。また、わざわざ山の方に行かなければ雪に触れることができないため、インドには生で雪を見たことがない人というのも結構存在する。さらに、ヒンディー語では「雪」と「氷」の区別がないため、「雪」と言うよりも「氷」についての詩になってしまっているものもあった。「雪」や「氷」と聞くと人間関係の悪さも連想するようで、それと関連付けた詩もいくつかあった。しかしながら、それらのハンデを抱えながらも、なかなか秀作揃いであった。面白かったのは、雪が愛国心の象徴ともなっていたことだ。パーキスターンや中国との国境は雪で閉ざされている部分が長く、雪がインドの守護者として謳われているものがあった。これは日本にはない絶対にない感覚であろう。一番シンプルで気に入ったのは、ウルミル・サティヤブーシャン女史(उर्मिल सत्यभूषण)の以下の短い詩であった。
बर्फ़

कभी देखी नहीं थी बर्फ़
मेरी बहन के बच्चों ने
वे आये उस पर उछले-कूदे
गोले बनाये, खेले-हँसे
धन्यवाद बच्चों!
तुमने पिघला दी
हम सबके बीच की बर्फ़।



一度も雪を
見たことがなかった姪たち
雪の上で飛び跳ね
雪玉を作り、遊び笑う
ありがとう、雪よ!
お前は私たち皆の間の
雪を溶かしてくれた。
 おそらくそれまで何らかの原因で親類の間で人間関係がギクシャクしていたのだが、雪で遊ぶ子供たちの姿を見て場の雰囲気が和み、それが緩和されたということだろう。雪が人と人の間の雪(ギクシャクした人間関係)を溶かすという比喩がとても新鮮である。

 他に古今和歌集の短歌や松尾芭蕉の俳句などからも雪に関するものを抜粋し、ヒンディー語訳したのだが、僕が個人的に気に入っているのは、古今和歌集に収録されている、清原深養父(きよはらのふかやぶ)による以下の短歌である。
冬ながら 空より花の 散りくるは
雲のあなたは 春にやあるらむ

शीत में गगन से पंखुड़ियाँ गिर आई हैं
बादलों के ऊपर जो बहार आई है
 ブッディラージャー女史の詩会は日本とインドの詩的な交流を深める目的で、なるべく日本人の出席を増やさなければならないのだが、残念ながら今回は日本人の出席者が少なく、ほとんどインド人詩人たちの集まりになってしまっていた。しかし何とか完了させることが出来た。また、2010年11月に行ったお月見の詩会(参照)で詠まれた詩をまとめた詩集「月を越えて(चाँद के पार)」も大手ヒンディー語書籍出版社ワーニー・プラカーシャンから出版され、この詩会の前にそのブック・リリースが行われた。共同編集という形ではあるが、僕がインドで出版した3冊目の本となる。

2月24日(金) Jodi Breakers

 2月は不釣り合いなカップリングを売りにしたロマンス映画が続く。イムラーン・カーンとカリーナー・カプールの「Ek Main Aur Ekk Tu」、プラティーク・バッバルとエミー・ジャクソンの「Ekk Deewana Tha」、そして本日より公開の「Jodi Breakers」はマーダヴァンとビパーシャー・バスである。マーダヴァンは現ジャールカンド州に生まれたタミル人で、南インド映画界とヒンディー語映画界を行き来して活躍している男優だ。コメディーからドラマまで様々な役を演じており、昨年はロマンス映画「Tanu Weds Manu」をヒットさせたが、いかにも南インド人らしい外見からか、ヒンディー語映画界では少し浮いた存在である。一方、ベンガル人家系に生まれたビパーシャー・バスは元祖セックスアイドルで、一時はセクシー女優と言えば彼女のことを指した。その後演技派への転向を模索し、一定の評価を得ており、最近はあまり軽い映画には出演しなくなった。この2人がラブコメ映画の主人公としてカップリングされるのは、長年のインド映画ファンの目からはかなり違和感がある。もちろんそれは計算されたミスマッチングで、それを楽しむ作品であろう。監督は「Good Boy Bad Boy」(2007年)のアシュヴィニー・チャウダリー。「Dhoop」(2003年)という非常に繊細なドラマ映画を撮っているが、その後は停滞している監督だ。題名から分かるように、問題ある夫婦の離婚を影ながら支援する離婚専門家を主人公とした映画である。



題名:Jodi Breakers
読み:ジョーリー・ブレーカーズ
意味:カップル破壊者たち
邦題:離婚のプロ

監督:アシュヴィニー・チャウダリー
制作:プラサール・ヴィジョン
音楽:サリーム・スライマーン
歌詞:イルシャード・カーミル
出演:マーダヴァン、ビパーシャー・バス、オーミー・ヴァイディヤ、ミリンド・ソーマン、ディーパーンニター・シャルマー、ムリナーリニー・シャルマー、ヘレン
備考:PVRプリヤーで鑑賞。


マーダヴァン(左)とビパーシャー・バス(右)

あらすじ
 ムンバイー在住のスィド(マーダヴァン)は前妻と離婚したばかり。スィドの結婚は完全に失敗で、離婚できたことを大喜びしていた。ただひとつの心残りは扶助料として前妻に差し押さえられた愛車ホーニーであった。しかし何事も独身の自由とは換えられず、親友ナノ(オーミー・ヴァイディヤ)らと共に離婚を祝っていた。

 1年後。スィドは円滑な離婚を実現する離婚専門家を名乗り、その事業を軌道に乗せていた。ある日スィドはソーナーリー(ビパーシャー・バス)という女性と出会う。ソーナーリーの機転の良さに感心したスィドは彼女を離婚専門家のパートナーとする。

 あるときスィドは大富豪実業家マーク・パルレー(ミリンド・ソーマン)の妻イラー(ムリナーリニー・シャルマー)から依頼を受け、現在愛人とギリシアで不倫旅行中の夫との離婚のために証拠を収集することになった。スィドとソーナーリーはギリシアへ行き、マークと愛人マギー(ディーパーンニター・シャルマー)を尾行する。しかしスィドは考えを変え、マークとイラーの離婚を仕組むのではなく、マークとマギーの仲を裂いてマークをイラーの元へ戻すように仕組もうと考える。ソーナーリーもその提案に乗る。2人はそれを成功させ、マギーと仲違いしたマークはイラーのところへ行く。

 マークとイラーがよりを戻したことで、スィドとソーナーリーはお祝い気分となる。ソーナーリーはシャンペンを飲み、酔っ払って人が変わってしまう。高揚した気分の中、2人はキスをし、そのまま一夜を共にする。

 ところがスィドはソーナーリーと一線を越えてしまったことを後悔し始める。スィドはソーナーリーに対してよそよそしい態度を取り始める。また、実はスィドはある秘密をソーナーリーに明かしていなかった。実はイラーは彼の前妻で、マークの妻ではなかった。マギーこそがマークの妻だった。スィドは愛車ホーニーを取り戻すため、大富豪マークとの結婚を狙うイラーの依頼を受けて、マークとマギーの仲を裂く工作をしたのだった。ただでさえよそよそしい態度をされた上に、この秘密を知ってしまったソーナーリーは、スィドを避けるようになる。

 それ以来スィドの心はずっと晴れなかった。ナノたちはスィドがソーナーリーに恋してしまったことに気付いており、スィドにそれを認めさせる。しかし、ソーナーリーは特にスィドのことを気にしていないようだった。毎日ヨーガ、ボクシング、ジョギングをして過ごしていた。また、スィドはマークとマギーが離婚するとの報道を見たり、マギーが妊娠していることを偶然知ったりして、誤った行為をしてしまったと後悔し始める。そこへ突然ソーナーリーが現れ、マークとマギーを再び結びつけることを提案する。そのためにはマークの祖母マドンナ(ヘレン)の助けが必要だった。マドンナはゴアに住んでいるため、2人はゴアへ飛ぶ。

 ゴアでマドンナと会った2人は、自分たちがマークとマギーの仲を裂いたことを明かす。マドンナは怒るが、2人を再びくっつけるために協力することにする。マドンナはマークとマギーをゴアに呼び寄せる。久し振りにマークとマギーは再会することになり、そのときマークは初めてマギーが妊娠していることを知る。マークはマギーの怒りを静めようとするが、マギーはなかなか許そうとしなかった。また、イラーが異変を察知しており、いつ彼女がゴアに来てもおかしくなかった。スィドとソーナーリーは計画を急ぐことにし、2人はゴアで婚約式を挙げることにする。そうすればマークとマギーも自分たちが結婚したときの気持ちを思い出すだろうという計算であった。

 ところが婚約式の最中にイラーが現れてしまう。しかもマークに対し、彼の子供がお腹にいると言い出す。全てがぶち壊しになるところであったが、スィドは予め手を打っていた。スィドは言い訳を作ってマークの血液検査をさせており、医者と口裏を合わせていた。イラーが爆弾発言をし出したところで医者を登場させ、血液検査の結果マークはHIV陽性だと言わせる。驚いたイラーは、つい「マークとはまだ寝てない」と口走ってしまい、マドンナに追い出される。この騒動のおかげでマークとマギーはよりを戻す。

 しかしもうひとつ仕事が残っていた。それはスィドとソーナーリーの仲だった。スィドはソーナーリーに対し愛の告白をする。ソーナーリーは最初断るそぶりを見せるが、笑ってそれを受け容れる。

 近年ヒンディー語映画界においてロマンスの方程式が変化しつつあるのを感じる。結婚を神聖視する固定観念が薄れて来ていることについては何度も指摘して来た。いきなり離婚からストーリーが始まるこの映画もその一環と言える。だが、それ以外にもいくつか新しい流れが感じ取られる。例えば2週間前に公開されたばかりのロマンス映画「Ek Main Aur Ekk Tu」では、ヒーローとヒロインが最後に結ばれないという変わった展開で驚かされたばかりであった。先週公開のロマンス映画「Ekk Deewana Tha」では、南インド映画のリメイクではあるものの、知り合って数日でいきなり愛の告白をしてしまうという流れが新しかった。

 この「Jodi Breakers」では、「Band Baaja Baaraat」(2010年)と似た展開が見られる。すなわち、仕事のパートナーであって恋愛関係ではない男女が、ある日一線を越えてベッドを共にしてしまうという展開である。その後の人間関係もよく似ていた。男性の方はそれを気にし、もしかしたらこれをきっかけに付き合うことになってしまうかもしれない、結婚しなければならないかもしれないと、関係の変化を恐れる。だが、女性の方はその出来事を気にしていないと打ち明け、男性は安心する。ところが、やはり女性はその出来事をきっかけに違う視点で彼のことを見るようになっており、男性のその態度に密かにショックを受け、距離を取るようになる。その一方で男性の方は徐々に女性に恋していたことを自覚するようになり、彼女を手に入れようとし出す。簡単に言ってしまえば、「付き合う前にしてしまったセックス」を軸にしたロマンス映画だと言える。日本人の目には目新しく映らないかもしれないが、「Band Baaja Baaraat」を除けば、今までのヒンディー語映画ではあまりなかったストーリー展開である。過去に「Salaam Namaste」(2005年)という映画があったが、これは同棲と婚前妊娠がテーマであり、大きく異なる。

 ただ、僕は「Band Baaja Baaraat」を高く評価しているものの、この「Jodi Breakers」に関してはそこまでのレベルだとは思わなかった。離婚専門家という職業やその必要性が丁寧に描写されていなかったこと、主人公2人が何を考えてパートナーとなったのか曖昧にされていたことや、エイズ患者への差別を助長するようなエンディングなど、様々な原因があったのだが、その中でも大きな原因が、ビパーシャー・バスのキャスティングとその演技にあった。演技力がないと言う訳ではない。映画を見る前は、何か彼女にしか出来ない役なのかと期待したのだが、年齢、演技力、貫禄など、どの観点から見ても、全く彼女をキャスティングする必要性を感じなかったのである。むしろなまじっか頑張って演技をしてしまっているので、彼女だけ浮いている印象を受けた。新人や若手の女優を使い、監督の思い通りに演技をさせた方が新鮮な映画になっただろう。本当に優れた演技力のある俳優は、肩の力を抜いた自然な演技が出来るものだが、ビパーシャーの場合はどうしても頑張ってしまうのである。

 そして脚本作りの段階においても難があった。ビパーシャーが演じたソーナーリーのキャラクターは非常に不透明で、何を考えているのか分からなかった。ソーナーリーだけでなく、この映画に登場する女性キャラクターは皆とても弱かった。スィドの前妻イラーにしても、まるで昔話に登場するような、感情移入出来ない完全なる悪役で、取って付けたようなキャラクターであった。ただ、それを演じたムリナーリニー・シャルマーは憎ったらしくてなかなか良かった。マギーを演じたディーパーンニター・シャルマーは「Ladies vs Ricky Bahl」(2011年)に出演していた細身で上品な印象の女優であるが、前作よりも出番は少なかったし、マギーのキャラクターも詰めが甘かった。女優の中で一番良かったのは結局往年の女優ヘレンだった。

 その一方で男性キャラクターの方はうまく描写できていたし、キャスティングも絶妙であった。マーダヴァンは大柄だが小回りの利く男優であり、スィドのキャラクターに味を加えていた。「3 Idiots」(2009年)で衝撃のデビューを果たしたオーミー・ヴァイディヤも順調にヒンディー語映画界に定着している。今回は「3 Idiots」の爆笑スピーチ以来、大きな見せ場も用意されていた。セックス・グル、バーバー・カームデーヴに扮したナノが集まった信徒たちにスピーチをするのだが、手違いからバーメニューを手渡されてしまう。しかしナノは機転を利かせて酒の銘柄やカクテルの名前などを巧みに混ぜたスピーチを繰り広げる。この映画のワンポイント爆笑シーンである。久々にスクリーンで見たミリンド・ソーマンも好演していた。

 インターミッション前にストーリーの大きな転換点を持って来ていたが、それも良かった。映画の途中に休憩があることを批判する人も多いのだが、僕はもうその習慣に馴染んでしまっているので、むしろその休憩をうまく使った映画を高く評価する。「Jodi Breakers」ではインターミッションの直前に、イラーがスィドの前妻であることが唐突に明かされており、観客を大いに驚かせていた。それは誰も予想していなかったことである。休憩中に観客同士で「え、これどういうこと?」などと話し合う声が聞こえ、大きな盛り上がりとなっていた。インターミッションはこうでなくてはならない。単なるトイレ休憩ではないのである。

 また、ダンスシーンも意外に豪華だった。冒頭の「Kunwara」やビパーシャー・バスの名前を冠した「Bipasha」は小粋なダンスナンバーで、どちらも豪華絢爛だった。特に「Bipasha」の踊りは妖艶で素晴らしかった。今回のビパーシャーは基本的にミスキャスティングだと思っているが、この「Bipasha」だけは彼女の魅力が全開だった。また、歌でもってストーリーを展開するのもインド映画の大きな特徴で、マークとマギーの仲直りを象徴する「Mujhko Teri Zaroorat Hai」も効果的に使われていた。ちなみに音楽監督はサリーム・スライマーンのコンビである。

 ロケ地はムンバイー、ギリシア、ゴア。特にギリシアのシーンは白い建物群や真っ青な海など、エキゾチックな風景が続き、美しかった。

 「Jodi Breakers」は、円滑な離婚を演出する離婚専門家を主人公にした映画だが、その部分は意外に重要ではなかった。むしろロマンスの部分で、インド映画にしては先進的な内容となっており、ロマンス映画の多様化を感じさせられる。インターミッションの使い方もうまい。しかし、ビパーシャー・バスのキャスティングをはじめ女性キャラに難があり、残念ながらパーフェクトな映画とは言い切れなかった。それでも2月に公開された3作のロマンス映画の中ではもっとも王道に近く、楽しみやすい作品だと言える。



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