スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2007年7月

装飾下

|| 目次 ||
生活■21日(土)リサーチ・ヴィザ取得体験記
映評■22日(日)Apne
映評■23日(月)Partner
映評■25日(水)The Bong Conncection
分析■28日(土)ボリウッドの今 マルチ契約とデザイナー
映評■28日(土)Naqaab
生活■30日(月)ドラクエと思うと手続きは楽しい
競技■30日(月)クリケット中印戦も夢ではない
分析■30日(月)インド映画とガーンディー


7月21日(土) リサーチ・ヴィザ取得体験記

 インドの大学は概して7月から新学期が始まる。今年からジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)言語文学文化学部(SLL&CS)インド言語学科(CIL)のヒンディー語博士課程後期(Ph.D. Hindi)に進学する僕も、3週間の日本一時帰国を終え、7月19日にデリーに降り立ち、翌日から各種手続きを開始した。僕は実質的には同学科博士課程中期(M.Phil. Hindi)からの進学となるが、諸々の理由により、書面上は新入生扱いとなった。だが、手続きの出発点となる教務課(アドミニ・ブロック)を訪れた際、衝撃的な事実に直面した。それは、今年JNUに入学した日本人の新入生が僕だけだったということである。正確には僕は新入生ではないので、つまり今年新しくJNUに入って来る日本人留学生の数はゼロだということだ。噂で、今年は多くの日本人がJNUに入学して来る予定だと聞いており、楽しみにしていたので、非常にショックだった。JNU入学を希望していた他の人々は一体どうなってしまったのであろうか?(もしかしたらPh.D.の新入生の日本人が僕だけなのかもしれない。留学生名簿をチラッと覗き見しただけなので情報は不確か)

 一時期JNUには、学部(B.A.)レベルから大学院(M.A.、M.Phil.、Ph.D.など)レベルまで、多くの日本人留学生が在籍していた。JNUは昔から外国人留学生の受け入れに積極的な大学である上に、首都に位置するという立地条件の良さから、日本人留学生在籍数もインドの大学の中では常にトップだったはずだ。僕の記憶が確かなら、毎年20人前後はいたと思う。だが、日本でもインドがにわかに注目を集めるようになって来ているにも関わらず、JNUにおける日本人留学生の数は減少傾向にある。もし本当に今年の新入生がゼロだとすると、今年は一桁になってしまうだろう。なぜそんなことになったのか?その一因は、リサーチ・ヴィザ取得の困難さにあるのではないかと思う。

 インドの正規の教育機関に留学するには、スチューデント・ヴィザ(学生ヴィザ)またはリサーチ・ヴィザ(研究者ヴィザ)の取得が必須である。博士課程前期または修士(M.A.など)レベルまでの留学のためにはスチューデント・ヴィザが必要で、博士課程後期(Ph.D.)レベルではリサーチ・ヴィザを取得しなければならない。インドの大学には面倒なことに、その間に博士課程中期(M.Phil.)なる課程があるところがあり、JNUもその例外ではない。このM.Phil.で学ぶためにどちらのヴィザが必要なのかは曖昧ではっきりしない。僕はスチューデント・ヴィザでM.Phil.を修了することができたが、リサーチ・ヴィザを要求されることもあると聞く。しかも、日本のインド大使館の査証部窓口の人がインドの教育制度をよく理解していないことが、さらに混乱に拍車をかけている。どうもM.Phil.のことを哲学修士(Master of Philosophy)だと勘違いしているように見えた。ひとつだけ確かなのは、M.Phil.課程に留学する際にリサーチ・ヴィザを取得しておけば全く問題がないが、スチューデント・ヴィザだと何か言われる可能性があるということである。

 では、スチューデント・ヴィザとリサーチ・ヴィザの何が違うかと言うと、それは取得の際の手続きの面倒さの違いに尽きる。スチューデント・ヴィザ申請のためには大学からの入学許可証がありさえすればいいが、リサーチ・ヴィザ取得のためにはそれに加えてインドの内務省からの許可が必要となる。この「内務省からの許可」が曲者で、このプロセスのためにリサーチ・ヴィザ申請から発行まで最低でも3ヶ月かかるとされている。もちろんこれは目安で、上限はない。また、リサーチ・ヴィザ申請のためには研究計画書を提出しなければならないが、その内容如何によっては許可が下りないこともある。NGワードとされているのは、「カシュミール」「カースト」「ノースイースト」などである。つまり、インドが外国人研究者に研究してもらいたくない事柄だ。これらの言葉が計画書に含まれる場合、内務省からの許可は絶望的だとされる。何年待っても一向に許可が下りない研究者が何人もいる。

 そういう人々に比べると、僕は記録的スムーズさでリサーチ・ヴィザを取得できた部類に入る。研究分野が文学という比較的人畜無害なものだったことも大きいと思うが、決め手となったのはやはりインド文化交流評議会(ICCR)の奨学生に選ばれたことであろう。ICCRはインドと外国との間の文化交流を担う政府機関で、その活動の一環として外国人留学生に奨学金を支給し、インドへの留学生招致を推進している。このICCR奨学金は言わば黄門様の印籠のようなもので、これがあるのとないのとではリサーチ・ヴィザ取得のスピードと確実性が全く異なるとされる。きっとこれからインド留学を志す人たちの参考になると思うので、ここでICCR奨学金申請からリサーチ・ヴィザ取得までの道のりを、体験談を交え、簡潔に分かりやすくまとめてみようと思う。もしリサーチ・ヴィザがもらえなくてインド留学を諦める若い日本人研究者が続出しているのが現状なら、日印交流年2007などいくら祝ってもいくら予算をかけても無意味であろう。



■1月

 例年、ICCR奨学金の募集は1月に行われる。1月に入ったら、インド大使館に問い合わせたりネットで検索したりして、その年の募集が開始されたかどうか、提出書類は何なのかをチェックすべきである。日本学生支援機構(JASSO)のウェブサイトが特に詳しい。2007年の書類提出締切は1月31日だった。

 申請に必要な書類の量は膨大である。奨学金申請と同時にヴィザ申請用の書類も提出しなければならない。年によって違いがあるかもしれないが、今年は申請書に加え、今までに卒業した大学の卒業証明書や成績証明書、現在在籍中の大学の在学証明書や卒業見込み証明書、大学教授などからの推薦状、健康診断書、研究計画書(Ph.D.のみ)などが要求された。原本が日本語のものは英語訳を添えなければならず、しかもこれら全ての書類をひとつひとつコピーして合計7部送らなければならない。結果、とてつもない量の書類となるのである。コピー代も馬鹿にならない。書類集めがあまりに大変なため、中には途中で申請を諦めてしまう人もいると聞く。まず、根気よく書類を集めて提出できるか否かで、インドで学ぶだけの気合があるかどうかを試されるのである。

 僕はインドで書類集め、コピー、送付の全プロセスを行ったため、さらに大変だった。だが、大学関係の書類は手元にあったし、インドの大学院を出ている関係で元から英語の書類がかなりあったし、インドはコピー代が安くてコピー屋が全部やってくれるので、日本で同じことをやるよりも楽な部分もあった。

■2月

 どうやら締切後に書類審査があるようだが、おそらく提出した人は全て合格するのではないかと思う。2月に入ってしばらくすると、面接のお知らせが来る。面接試験は東京のインド大使館でしか受けることが出来ない。よって、僕も面接のためだけに日本に帰らなければならなかった。面接は大体2月半ばに行われるようだ。2007年は2月15日に行われた。

 指定された日時にインド大使館を赴くと、まずは1月に自分が提出した書類のチェックをさせられる。このとき、書類の不備があった人や記入漏れがあった人は、書類を整える最後のチャンスを与えられる。逆に言えば、期日までに書類を揃えることが出来なくても、とりあえず提出してしまえば、面接までこぎつけるということだ。この面接のときまでに全書類を揃えればいい。

 次に簡単な英語のペーパーテストがある。何かの問題集の一部をそのままコピーしたような感じだ。コピーがいい加減で、隅の方が見えなくなっていたり、印刷が鮮明でなかったりする部分もあったが、突っ込む人はいなかった。テストは読解、同意語・反意語、文法などに関する問題が中心となる。インドに留学したい理由など、与えられたテーマに沿った文章を英語で書く問題もあった。このペーパーテストで落とされる人がいるかどうかは分からない。

 昼食後は大使館の教育担当官との面接となる。奨学金を申請した理由、インドに留学する理由、インド留学中の研究テーマなどに関する質問をされる。普通の人は英語で答えなければならない。僕はヒンディー語博士課程留学希望なので、アピールのために故意に英語とヒンディー語を混ぜて答えた。しっかりと留学したい意思を示すことが合格の鍵ではないかと思う。以前は即日結果が知らされていたようだが、2007年は合格発表は後日とのことだった。

 大体1週間後にEメールで合格通知が来た。不親切なことに、不合格の場合は何の連絡もないようだ。合格者の書類のみ、日本のインド大使館が推薦する奨学生候補者として、インドのICCRへ送付される。

■3月~5月

 ICCRに届けられた書類は、各大学や内務省(Ph.D.のみ)へ転送される。奨学金申請書には、留学を希望する大学や教育機関の名前を、第一希望から第三希望まで3つ書く欄がある。書類はそれらの大学へ送られる。もし3つ書かなかった場合は、担当者が勝手に適切と思われる大学に送付するようだ。とにかく3つの大学に送らなければならないらしい。書類を受け取った各大学では奨学生の審査が行われる。これらのプロセスは全て申請者のタッチできない部分で行われているため、3月~5月は待ちの期間である。

■6月

 もし積極的に働きかけていく意欲があるなら、行動を開始するのは6月からだ。6月に入ると、各大学からICCRに奨学生の入学審査の結果が届き始める。内務省も通常は6月内にリサーチ・ヴィザ発行の是非をICCRに伝えるようだ。

 6月に入り、僕はまず、税務署(ITO)近くのアーザード・バヴァンにあるICCRのオフィスを訪ねた。外国人留学生に関する業務を扱うセクションは、地域ごとに担当者が振り分けられており、現在では東アジア担当はHLヴァルマーという人物であった。彼の話によると、まだJNUからも内務省からも僕に関する書類は何も届いていなかった。

 次にJNUの教務課へ行き、外国人留学生に関する業務を統括するサテーンドラ氏に会って、僕の入学手続きの進捗状況を聞いた。すると、「既にICCRに送付した。数日内に届くだろう」との返事をもらえた。

 最大の難関は内務省である。リサーチ・ヴィザの入手困難さの最大の原因はここであり、インド留学を志す者にとっては伏魔殿そのものである。リサーチ・ヴィザの審査業務を行っているのは、大統領官邸近くの内務省本部ではなく、インド門の南にあるジャイサルメール・ハウスの出張所である。ここではヴィザの延長業務も行われているため、いつも外国人でごった返している。まずレセプションの前でうろついている人から番号札をもらい、狭苦しい部屋でひたすら待つ。番号を呼ばれたらエントリーを行う。これで晴れて建物の中に入ることが出来る。

 やはり内務省でも地域ごとに担当者が決まっている。現在、日本人のヴィザ業務を担当しているのはダースグプターという人物であった。僕が訪ねたときはダースグプター氏は不在であったが、その部下が調べてくれた。リサーチ・ヴィザの発行にゴーサインが出たかどうかは「機密事項」ということで教えれもらえなかったが、10日以内にICCRに書類を送ると言ってくれた。インド人の口約束ではあったが、苦戦を予想していただけに、嬉しい拍子抜けであった。

 とりあえず今できることは全て済ませたため、全てを忘れて旅行に出掛けた。6月下旬にデリーに戻って来た後、再びICCRを訪れてみると、JNUからも内務省からもゴーサインが出ており、既に日本のインド大使館にその旨を送ったとのこと。全てが恐ろしいぐらいに計画通りに進んだ。安心して6月末に日本に帰国することが出来た。

■7月

 7月初旬、インド大使館から実家にレターが届いた。ヴィザ申請に必要な書類である。中旬に、このレターと、パスポートと、パスポート用写真1枚を持って、九段下から四ツ谷に一時的に移転したインド大使館へ行き、リサーチ・ヴィザの申請を行った。やっぱりよく分かっていないのか、それとも意地悪したいのか、査証部窓口の人に、「学生ヴィザじゃ駄目なんですか?」とうそぶかれ、危うく半年かけて準備して来たことを台無しにされるところだったが、「リサーチ・ヴィザじゃなきゃ駄目なんです」の一点張りで無事にリサーチ・ヴィザを取得。最大5年まで取得できそうだったが、僕のパスポートの期限は2011年までだったため、4年弱しかもらえなかった。それでも、リサーチ・ヴィザの取得に失敗してもうインドにいられなくなる可能性があっただけに、そして半年かけて着々と準備して来たことが実りあるものとなっただけに、嬉しさもひとしおであった。



 ICCRを介してリサーチ・ヴィザを申請する場合、鍵となるのは2月の面接と6月の確認作業であろう。特に6月が重要だ。面接はインド留学したい旨を必死にアピールして後は神頼みするしかないが、6月にはもしその気ならいろいろ動くことができる。電話攻勢も不可能ではないが、出来ることなら一度インドへ赴いて、ICCR、大学、内務省を詣でるべきである。そして自分のプロセスがどこまで進んだかを確認し、早く進めるよう催促すべきである。日本で悶々としているよりは何倍もマシだし、この期間に同時並行して大学の見学や留学生活の準備をしておくと、後で楽だろう。ただし、相手を怒らしたり悪印象を与えてしまうと話がこじれるので、ほどほどのバランス感覚が必要だ。また、この時期のデリーは1年で最も暑いことにも注意が必要だ。日本から来てすぐにチョコマカ動き回れるような気候ではない。

 既に書いたが、ICCRは奨学生の書類を3つの大学へ送る。そして合格した中から最も適切と思われる大学を、その奨学生の受け入れ先に決める。奨学生の希望が最優先されるとは思うが、時々志望の大学以外の大学に留学が決定しまうこともある。これがICCRを通した留学の最大の欠点である。これを避けるためには、志望大学の教授の推薦状を入手することぐらいしか方法がないだろう。

 以上がICCR奨学金を利用したリサーチ・ヴィザ取得の方法と要点である。いろいろ面倒ではあるが、もし個人でリサーチ・ヴィザを申請しようとするともっと厄介なことになることを思えば、かわいいものである。個人で申請しようと思ったら、インドで動き回ることは必須となる。ICCRに行く必要はないが、代わりに内務省に何度も足を運ばなければならなくなるだろう。人脈にものを言わせる必要も出て来るが、普通の人がそんな便利な人脈を持っているはずがない。もはやリサーチ・ヴィザは、申請してしばらく待っていればもらえるような代物ではなくなっている。特に統一進歩連合(UPA)政権になってからより一層厳しくなったようだ。インドが経済開放の時代を迎えて久しいが、研究の門戸はかなり狭くなってしまった。

7月22日(日) Apne

 ボリウッドには何世代にも渡って映画界に関わっている家系がいくつもあり、いわゆる映画カーストを形成している。そしてそういう家系の親子共演、兄弟共演はメディアや観客の注目を集めやすい要素であり、必ず話題となる。「Apne」もそんな映画だ。往年の名優ダルメーンドラと、その2人の息子、サニー・デーオールとボビー・デーオールの3人が初めて共演する。3人とも筋肉派男優であるため、さぞや肉々しい映画なのかと思いきや、実は泣かせる映画と言う憎い演出。監督は「Gadar」(2001年)のアニル・シャルマー。6月29日公開のヒンディー語映画である。日本に一時帰国していたため、見るのが遅れてしまった。



題名:Apne
読み:アプネー
意味:身内
邦題:アプネー

監督:アニル・シャルマー
制作:ラーフル・スガンド、サンギーター・アヒール
音楽:ヒメーシュ・レーシャミヤー
作詞:サミール
振付:アハマド・カーン
出演:ダルメーンドラ、サニー・デーオール、ボビー・デーオール、シルパー・シェッティー、カトリーナ・カイフ、キラン・ケール、ヴィクター・バナルジー、ジャーヴェード・シェーク、アーリヤン・ヴァイド、ディヴィヤー・ダッター、アマル・スィン(特別出演)
備考:PVRアヌパムで鑑賞。

左から、ダルメーンドラ、シルパー・シェッティー、サニー・デーオール、
ボビー・デーオール、カトリーナ・カイフ

あらすじ
 バルデーヴ・スィン・チャウダリー(ダルメーンドラ)は、五輪ボクシングの銀メダリストで、ヘビー級チャンピオンの寸前まで上り詰めたが、ドーピングの濡れ衣を着せられて15年の出場停止処分を喰らい、以後その屈辱を晴らすことを人生の目的として来た男だった。バルデーヴには2人の息子と1人の娘がいた。長男のアンガド(サニー・デーオール)、次男のカラン(ボビー・デーオール)、そしてプージャー(ディヴィヤー・ダッター)である。バルデーヴはアンガドにボクシングを教え込む。アンガドはナショナル・チャンピオンになるが、極貧の家庭を救うため、またプージャーの結婚資金のため、ボクシングをやめて就職してしまう。また、次男のカランは幼い頃の事故のせいで左手が動かせず、ボクサーになることは出来なかった。その事故の原因はアンガドにあった。これらの理由のため、バルデーヴはアンガドを冷遇し、アンガドも父親を恐れていた。また、カランは父親の夢を実現させたいと強く希望しながらも障害のためにそれが果たせず、悶々とした気持ちを抑えながら、ミュージシャンとして活躍していた。アンガドはシムラン(シルパー・シェッティー)と結婚しており、カランにはナンディニー(カトリーナ・カイフ)というガールフレンドがいた。父親の過去のトラウマが大きな禍根となっている家庭を何とかまとめていたのが、母親のラーヴィー(キラン・ケール)であった。

 バルデーヴが現役の頃、インドでボクシングは全く人気のないスポーツだった。ところが時代は変わって来ていた。インドのメディア企業主催のボクシング世界大会が開催されようとしていた。バルデーヴの親友エヘサーン(ヴィクター・バナルジー)は、ガウラヴという青年を連れて来て、バルデーヴに再びボクシング・コーチになるよう説得する。バルデーヴもそれを受け入れる。一気にバルデーヴの人生には光が満ちて来た。夢は、インド人初のヘビー級チャンピオンを誕生させることであった。

 ところが、ガウラヴは少し実力をつけると、ムンバイーのジムへ移籍してしまう。ガウラヴを3人目の息子としてかわいがっていたバルデーヴは怒り狂う。だが、これをきっかけにカランの左手が動くようになる。カランはボクサーになることを決意する。こうして、父子の二人三脚が始まった。

 ボクシング世界大会は、6大陸から6人のチャンピオン・ボクサーが集められ、勝者は世界チャンピオンのルカ・グラシアと戦う権利を得るというものだった。カランのデビュー戦の対戦相手は、かつて父親の弟子だったガウラヴであった。カランはガウラヴをリングに沈めると、順調にアジア予選トーナメントを勝ち進み、世界大会へ進出する。米国で開催された世界大会でもカランは連戦連勝で、遂にルカ・グラシアとの対戦権を得る。

 ルカはまず、バルデーヴに八百長試合を持ちかける。もちろんバルデーヴはそれを断固拒否する。試合では一進一退の死闘が繰り広げられる。最終ラウンドの第12ラウンドまで試合はもつれこむが、このときにはカランが優勢になっていた。ところがルカは化学薬品を使ってカランの目を封じ、攻勢に転じる。ルカはカランの肋骨を折り、ダウンを奪う。肋骨の破片が肝臓に突き刺さったカランは意識不明の重態となる。インドで試合観戦していたアンガドらもすぐに米国の病院に駆けつける。

 意識を取り戻したカランは、アンガドやバルデーヴに、薬品によって目を封じられたことを明かす。怒った2人はルカに抗議する。方法は2つ。法廷に持ち込むか、ボクシングで白黒はっきりさせるか、である。バルデーヴは法廷に持ち込むことを主張したが、アンガドはボクシングでルカに復讐すると言って聞かない。アンガドは父親の反対を押し切り、ボクシングのトレーニングを始める。既に若くないアンガドにとって、最大の弱点はスタミナだった。バルデーヴの協力が得られないながらも、エヘサーンが彼の訓練を行う。

 こうして、ルカとアンガドの試合が行われることになった。やはりルカとアンガドは死闘を繰り広げる。だが、次第にアンガドは押され気味となり、両目もほとんど見えない状態となってしまう。だが、そこに駆けつけた父親から力を得て奇跡の復活を遂げ、ルカを一撃でダウンさせる。インド人初のヘビー級チャンピオン誕生の瞬間であった。

 一方、カランとナンディニーは病室から試合を観戦していた。カランは肝炎になりかけており、すぐに手術をしなければならなかったが、試合が終わるまで手術はしないと言い張る。これがたたってカランの肝臓は完全に機能停止してしまい、肝臓移植手術をしなければならなくなる。だが、臓器提供者はなかなか現れなかった。血液型が同じだったバルデーヴは、自分の肝臓をカランに提供すると主張するが、年齢を理由に受け入れられなかった。

 1人考え込んだバルデーヴは、カランを救うために自殺することを決意する。その前にカランに会いに病院へ行くと、臓器提供者が現れたことが分かる。こうしてカランは一命を取り留めることが出来た。家族一丸となってチャンピオンを目指したことにより、父子の間のわだかまりも完全に解消されたのであった。

 ボリウッドでは最近、スポーツを題材にした映画が撮られるようになって来た。カラン・ジャウハル監督の一連の作品など、スポーツが「要素」として映画に盛り込まれることはあったが、「題材」になっていることは少なかった。「Lagaan」(2001年)の大ヒットの前は、「スポーツ映画は失敗する」というジンクスさえインド映画業界内にあったようで、スポーツはあまり映画になって来なかったのである。ちなみに「歴史映画は失敗する」というジンクスもあったようで、クリケットと歴史を融合させた「Lagaan」は、その2つのジンクスを見事に打ち破った偉大な映画と言える。「Lagaan」の後、スポーツも映画の題材のひとつの選択肢になったようで、徐々にスポーツ映画が撮られるようになった。最近では、クリケットを題材にした「Iqbal」(2005年)、ボクシングを題材にした「Aryan」(2006年)、モーターレースを題材にした「Ta Ra Rum Pum」(2007年)などが思い浮かぶ。さらに、女子ホッケーを題材にしたシャールク・カーン主演「Chak De India」の公開も控えている。いくつかの例外を除き、スポーツの世界におけるインドの大国らしからぬ弱さは有名だ。ボリウッドにおけるスポーツ映画の増加は、経済力を付けて来たインド人の間で、インド人スポーツ選手の活躍を願う気持ちの高まりと捉えてもいいかもしれない。

 「Apne」は、ボクシングのヘビー級チャンピオンを夢見て挫折した父親と、その2人の息子の物語である。インドにおけるボクシングの現状や、ボクシング業界の汚職などにも触れられており、「Aryan」よりもさらにボクシングの深みに踏み込んだ作品であった。ボクシング親子と言うと日本では亀田三兄弟が一時期話題になっていたが、それとも通じるものがあった。

 だが、「Apne」の本当のテーマは、ボリウッドの永遠のテーマである「家族の絆」である。父親の夢を家族で一丸になってかなえる姿は感動を誘う。スポーツ映画は大体結末が予想できてしまうのが難点だが、そこまで巧みに持って行くことが出来ている映画は、分かっていても面白いし、泣ける。「Apne」もそんな映画だった。ただ、ハッピーエンドに固執し過ぎだったのではないかと思う。エヘサーンの回想で始まる冒頭の展開からは、バルデーヴが自殺してしまったとしか思えないのだが、結局バルデーヴは何ともなく、最後に家族全員幸せな様子が映し出されて終わっていた。元々悲しいエンディングだったのを、外部からの圧力か何かによって無理矢理ハッピーエンドに改変されたのではないかと思った。

 主演の3人それぞれに見せ場があったが、やはりこの作品の主人公はダルメーンドラ演じるバルデーヴである。夢を追い続ける一人の男としての顔と、家族を思いやる一人の父親としての顔を見事に演じ分けていた。一方、前半は弟のボビー・デーオール、後半は兄のサニー・デーオールの見せ場となっており、それぞれに持ち味を活かした演技をしていた。どちらかというと最近はボビーの成長が目立つ。サニーは怪力に任せた役しかもらえないようになってしまったが、ボビーは様々な役に挑戦しており、芸の幅を広げている。サニーとボビーが並ぶと、ボビーの方が背が高いのも意外だった。サニーの方がでかい印象があったのだが。しかし、ボビーの乳首はちょっと危険だった。

 肝っ玉母さんを演じさせたら右に出る者はいないキラン・ケール。今回も家族を裏からしっかりささえる母親役をどっしりと演じていた。シルパー・シェッティーとカトリーナ・カイフも出演していたが、重要な役柄ではなかった。

 他に、社会党(SP)のアマル・スィンがなぜか特別出演していた。

 音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。「アプネー・トー・アプネー・ホーテー・ハェン(家族は結局家族なんだ)」という歌詞のタイトルソング「Apne」が最も映画の雰囲気に貢献している。ヒメーシュらしいアップテンポの曲「Mehfuz」もいい。

 デーオール一家はパンジャーブ人であり、映画の中のチャウダリー一家もパンジャーブ人という設定であるため、ヒンディー語映画でありながらパンジャービー色が強かった。時々パンジャービー語のセリフが出て来る。また、舞台が米国に移ってからは英語のセリフが増えるのだが、ヒンディー語字幕が出ていた。英語をよく理解しない層に向けた配慮であろう。

 「Apne」は、ダルメーンドラ親子初共演だけが取り柄ではない、きちんと作り込まれた作品である。エンディングの唐突さが残念だが、それを補って余りある興奮と涙が盛り込まれている。

7月23日(月) Partner

 今日は、先週金曜日より公開の新作ヒンディー語映画「Partner」を見た。サルマーン・カーンとゴーヴィンダー共演のコメディー映画である。監督は「コメディーの帝王」デーヴィッド・ダワン。サルマーン・カーンが恋人のカトリーナ・カイフと共演していることも注目である。2人が初共演したのは「Maine Pyaar Kyun Kiya?」(2005年)であり、今回で2本目となる。



題名:Partner
読み:パートナー
意味:パートナー
邦題:パートナー

監督:デーヴィッド・ダワン
制作:ソハイル・カーン、パラグ・サーングヴィー
音楽:サージド・ワージド
作詞:サンジャイ・チェール、シャッビール・アハマド、ジャリース・シェールワーニー
振付:ボスコ・シーザー
出演:サルマーン・カーン、ゴーヴィンダー、ラーラー・ダッター、カトリーナ・カイフ、ラージパール・ヤーダヴ、ダリープ・ターヒル
備考:PVRプリヤーで鑑賞。

上段左から、ラーラー・ダッター、ゴーヴィンダー、カトリーナ・カイフ
下段はサルマーン・カーン

あらすじ
 幼い頃から女性に囲まれて育ったプレーム(サルマーン・カーン)は、女性の心理を理解し、世の悩める男性たちの恋を応援するラブ・グル(恋の導師)となった。ある日、プレームのもとにバースカル・ディワーカル・チャウドリー(ゴーヴィンダー)という男が相談にやって来る。バースカルの片思いの相手は、大富豪ラージ・ジャイスィン(ダリープ・ターヒル)の娘で押しも押されぬセレブ、プリヤー(カトリーナ・カイフ)であった。プレームは無理だと言い張るが、バースカルはどこまでも彼を追い掛け回す。とうとうプレームも了承せざるをえなかった。

 バースカルはプリヤーの会社の財務顧問だった。バースカルは会議でプレームに言われた通りに激しく主張し、プリヤーの関心を引き付ける。バースカルは逐一プレームからアドバイスを得つつ、プリヤーと次第に仲を深めて行く。だが、父親はプリヤーを白人男性と結婚させようとしていた。プレームとバースカルは婚約式会場まで押しかけて説得する。そのおかげでバースカルはプリヤーの結婚相手として認められる。

 一方、プレームはジャーナリストのナイナー(ラーラー・ダッター)に一目惚れした。ナイナーはスクープのため、正体不明のマフィア、チョーター・ドン(ラージパール・ヤーダヴ)を追いかけていた。プレームは何度か彼女の危機を救うが、ナイナーはなかなか彼を認めようとしない。ナイナーには養子がおり、それが彼女の心のブレーキにもなっていた。プレームは子供とも仲良くなり、必死にアピールする。やがてナイナーもプレームを将来の夫として認め始める。

 ところが、ナイナーはプレームがラブ・グルであることを突き止めてしまう。ナイナーは、ラブ・グルが男性たちに、女性を玩具にして遊ぶことを教えている人物だと勘違いしており、自分を騙した復讐として新聞に、ラブ・グルの助言によってバースカルがプリヤーを手玉に取ったと記事にする。それを呼んだプリヤーは怒り、バースカルを会社から追放してしまう。

 だが、プレームはプリヤーの誤解を解き、ナイナーをも説得する。こうしてプレームとナイナー、バースカルとプリヤーはめでたく結婚することになる。しかし、バースカルはハネムーン先までプレームを追いかけて来たのであった・・・。

 ファニーなハンサム男サルマーン・カーンと、アクションと早口の両方で笑いを取れるゴーヴィンダーが共演するコメディー映画。ヒロインは新世代の女優ラーラー・ダッターとカトリーナ・カイフである。面白いことに、実生活での恋人であるサルマーンとカトリーナは、映画中では恋人関係ではなかった。サルマーンとラーラー、ゴーヴィンダーとカトリーナのカップルであった。また、デーヴィッド・ダワン監督は以前にサルマーン・カーンとカトリーナ・カイフを主演に据えたコメディー映画「Maine Pyaar Kyun Kiya?」を撮っており、映画中でも同映画のヒット曲「Just Chill」が少しだけ出て来ていた。

 サルマーン・カーン、ラーラー・ダッター、カトリーナ・カイフという美男美女が出演し、ゴージャスな歌と踊りがいくつも繰り広げられる煌びやかな雰囲気の映画である上に、笑いも壺にはまるようなものばかりで、コメディー映画として非常に完成度が高かった。脳みそを使わない娯楽映画としては最高点である。「Maine Pyaar Kyun Kiya?」と非常によく似たスタイルの映画で、ダワン監督が二匹目のドジョウを狙ったことが伺われる。

 しかし、編集の段階でのミスなのか、それとも上映時のミスなのか、途中でストーリーが飛んでいるところがあった。バースカルがプリヤーの父親ラージに昼食に呼ばれるシーンと、プリヤーと白人男性との婚約式の間に、バースカルとラージが昼食をとるシーンが必要だったはず。おそらくここで、バースカルが何か失敗をやらかしたか、プリヤーが白人男性と結婚することを聞かされたかするはずだったのだと思うのだが、これが抜けていたために、プリヤーと白人男性との婚約式が唐突な展開になってしまっていた。

 サルマーン・カーンとゴーヴィンダーは、「Partner」とい題名の通り、息の合ったドタバタ劇を演じていた。デーヴィッド・ダワン監督は、「Jodi No.1」(2001年)、「Mujhse Shaadi Karogi」(2004年)、「Maine Pyaar Kyun Kiya?」など、2人の男優の凸凹コンビでコメディー映画を撮るのがうまい監督だ。

 男性中心のコメディー映画だったため、女優の活躍の場は少なかったが、ラーラー・ダッターとカトリーナ・カイフはそのゴージャスさで映画を彩っていた。特にカトリーナ・カイフのオーラが増して来ているように思える。

 ラージパール・ヤーダヴが、「Don」(2006年)でシャールク・カーンが演じたドンのパロディー、チョーター・ドン(小さなドン)役で出ていたが、オマケの域を出ておらず、映画中で特に重要な役割を果たしていなかった。

 音楽はサージド・ワージド。「Do You Wanna Partner」、「Dupatta Tera Nau Rang Da」、「Maria Maria」など、思わず踊り出したくなるようなダンスナンバーが多い。脈絡のない入り方をするダンスシーンがいくつかあったが、どれも豪華絢爛な作りで、邪魔にはなっていなかった。一番のお気に入りは「Soni De Nakhre」。サルマーンのカクカクした踊りよりも、やはりゴーヴィンダーの滑らかな踊りに目が行く。カトリーナも本当に楽しそうに踊っていてよかった。

 「Partner」は、サルマーン・カーンとゴーヴィンダーという、昔からボリウッド映画を見ている人には馴染みの深い男優たちと、ラーラー・ダッターとカトリーナ・カイフとい、現在のボリウッドを代表する若手女優たちが共演する、優れたコメディー映画である。暇つぶしには最適の映画だ。

7月25日(水) The Bong Connection

 今日は7月6日より公開の映画「The Bong Connection」を見た。「ボング」とはベンガル人に対する愛称/蔑称であり、その題名の通り、ベンガル人コミュニティーを題材にした、ベンガル人俳優総出演の、ベンガル臭プンプンの映画である。言語はベンガリー語と英語のミックスになっており、ベンガリッシュ映画とでも呼ぼうか。ベンガリー語のセリフの部分では英語字幕が出るため、ベンガリー語が分からなくても楽しむことが出来た。



題名:The Bong Conncection
読み:ザ・ボング・コネクション
意味:ベンガル人コネクション
邦題:ボング・コネクション

監督:アンジャン・ダット
制作:ジョイ・ブラタ・ガーングリー
音楽:ニール・ダット
作詞:アンジャン・ダット、ニール・ダット、ヴィバー・スィン
出演:ラーイマー・セーン、シャヤン・ムンシー、パラムブラタ・チャットーパーディヤーイ、ピーヤー・ラーイ・チャウドリー、ヴィクター・バナルジー、サムラート・チャクラボルティー、ジョーダン・グラハム、サウヴィク・クンダグラーミー
備考:PVRアヌパムで鑑賞。

左から、シャヤン・ムンシー、ラーイマー・セーン、ピヤー・ラーイ・チャウドリー、
パラムブラタ・タットーパーディヤーイ

あらすじ
 アプー(パラムブラタ・チャットーパーディヤーイ)は、アメリカン・ドリームを夢見て、恋人のシーラー(ラーイマー・セーン)をコールカーターに残し、米国ヒューストンへ旅立った。アプーはベンガル人実業家ゲリー(ヴィクター・バナルジー)が経営する会社に入社し、同僚でゲイのレオ(ジョーダン・グラハム)と同居し始める。また、アプーはバーで、米国生まれのベンガル人リタ(ピーヤー・ラーイ・チャウドリー)と出会う。他に、リタに片思いするベンガル人ラーケーシュ(サムラート・チャクラボルティー)、バングラデシュ人タクシー運転手ハサン(サウヴィク・クンダグラーミー)と友人になる。ゲイの同居人との生活、かつあげして来るヒスパニック、米国かぶれのベンガル人たちとの交流、ハサンによって引き起こされるハプニング、結婚を押し付けてくるリタの両親との攻防などから、次第にアプーは米国の生活に疲れて来る。そのとき、ゲリーはレオを同性愛者という理由で解雇した。その不当さをゲリーに訴えたアプーは、ラーケーシュからコールカーターでの有利な求人情報を聞いていたこともあり、とうとう自主退職し、インドに戻ることを決める。

 一方、アプーが米国へ旅立った日、ニューヨークで生まれ育ったベンガル人アンディー(シャヤン・ムンシー)がコールカーターの空港に降り立った。アンディーはベンガルの民俗音楽バウルに関心を持っており、伝統音楽をベースにした新しい音楽を創り出すことを夢見ていた。アンディーは叔父の家に居候し、タブラー奏者の祖父に教えを受けようと思っていたが、祖父は既に植物人間状態になっていた。アンディーはシーラーと出会い、次第に恋心を抱くようになる。また、ミーラー・ナーイル監督から新作映画「Namesake」の音楽の作曲を頼まれる。コールカーターでの生活が軌道に乗り始めていた。ところが、代々伝わる家を売って一儲けしようとしている叔父に失望し、急に米国に帰ることを決める。

 アンディーはシーラーに見送られて米国へ旅立って行った。シーラーの目には涙が溢れていた。ところがそのとき、ちょうどアプーが米国から帰って来た。アプーはシーラーを驚かせようと思って事前に何も伝えていなかった。アプーとシーラーは抱き合う。

 コールカーターの風景、ラヴィーンドラナート・タゴールの歌、サティヤジト・ラーイ(サタジット・レイ)監督の三部作のパロディー、コールカーターの音楽シーン、そしてベンガル人にしか分からないようなギャグやベンガル人の気質を皮肉った自嘲など、まさにベンガル人によるベンガル人のためのベンガリッシュ映画であった。やはり観客にはベンガル人が多く、大受けしていた部分もたくさんあったのだが、英語字幕を追っているだけではなぜ彼らが笑っているのかほとんど分からなかった。

 映画は基本的に2つのストーリーから成っている。コールカーターからヒューストンへ旅立ったアプーと物語と、ニューヨークからコールカーターへ降り立ったアンディーの物語である。前者の核となっているのは、米国かぶれしてベンガル人としての誇りを失ってしまった米国在住ベンガル人たちの風刺である。個性ある登場人物が出て来て、展開に波があって面白いが、アプーを演じているパラムブラタ・チャットーパーディヤーイが大根役者であることと、ストーリーに深みがないことから、それほど関心しなかった。この映画で優れていたのは、後者のアンディーの物語である。ニューヨークで生まれ育ったベンガル人ミュージシャンのアンディーは、自分のルーツを求めてコールカーターへやって来る。あまりにベンガル的なものを求めすぎるが故に、彼はベンガル人の若者が西洋音楽に熱中している様に納得が出来ない。また、すっかり音楽への熱意を失ってしまった年老いた古典音楽家にも失望する。次第に不満が蓄積されて行ったが、その息抜きとなったのはシーラーの存在だった。シーラーのボーイフレンドはアプーだったが、アンディーにも魅力を感じ始める。2人は一緒にシャーンティニケータンに行ったりする。だが、シーラーは決してアンディーに体を触れさせようとしなかった。アンディーの蓄積された不満が爆発するきっかけとなったのは、居候先の叔父が代々伝わる家を売り払おうとしていたことだった。祖父の死の後、叔父はアンディーを、アンディーの父の代理人として、書類のサインさせようとする。だが、アンディーはそれを拒否し、家を出て米国へ帰ってしまう。空港まで見送りに来たシーラーは、アンディーが去る前まではすまし顔をしていたが、彼が去った後に涙を流す。

 これら2つのストーリーを結びつけていたのが、「Sujan Majhi Re」という曲だった。「船頭よ、どこへ連れて行く、あの岸まで渡してくれ」みたいな歌詞の曲で、異国の地にいる主人公の気持ちを痛切に表現していた。多少コメディータッチの映画ではあったが、ベンガル映画らしい悲痛の情感が底辺にしっかりと流れており、観客の感情を決して浮揚させなかった。それがこの映画の優れたところだった。

 俳優は、外国人キャストを除けば全員ベンガル人である。ラーイマー・セーン、ピーヤー・ラーイ・チャウドリー、パダムブラタ・チャットーパーディヤーイ、ヴィクター・バナルジー、サムラート・チャクラボルティーなど、詳しい人なら名前を見ただけでベンガル人と分かる典型的なベンガル名である。ジェシカ・ラール事件で重要な証人となっていたシャヤン・ムンシーもベンガル人だということは今回初めて知った。パダムブラタの演技力のなさにはガッカリだったが、シャヤン・ムンシーはハンサムで落ち着いたいい男優になっており、もしかしたら今後活躍の場が増えて行くかもしれないと思った。ちなみにシャヤン・ムンシーとピーヤー・ラーイ・チャウドリーは夫婦である。ラーイマー・セーンは今まで脇役女優止まりだったが、この映画ではヒロインとして存在感を示していた。

 サティヤジト・ラーイ監督のオプー三部作のテーマ曲が使われていたり、コールカーターでロケが行われたミーラー・ナーイル監督「Namesake」(2007年)が話題になっていたり、「ベンガル人は未だにチャンドラ・ボースが生きているか死んだか決められずにいる」とベンガル人の議論好きが批判されていたり、ベンガル人の大好物であるヒルサーという魚に関してのセリフがあったり、他にもベンガルとコールカーターに関係するいろいろな要素が詰め込んであり、ベンガル人とベンガル好きはニンマリが止まらないことだっただろう。ただ、意外にもベンガル最大の祭りドゥルガープージャーに関するシークエンスは全くなかった。

 「The Bong Conncection」は、ベンガルとコールカーターが大好きな人には絶対にオススメのベンガリッシュ映画である。テーマもベンガル、舞台もベンガル、言語もベンガリー語、俳優もベンガル人。そしてコメディータッチでありながら、チラチラと心の琴線に触れる展開。シャヤン・ムンシーやラーイマー・セーンなど、これからボリウッドでも活躍して行きそうな若手俳優たちが出演しているのにも注目である。

7月28日(土) ボリウッドの今 マルチ契約とデザイナー

 ヒンドゥスターン紙には曜日によってリミックスというサプリメント(折込のオマケ紙)が付いて来る。7月25日付け・26日付けのリミックスがボリウッドに関するもので、目が留まったので、ここにその概要を私見を交えながら書いておく。

 まず25日付けのリミックスで特集されていたのは、最近のボリウッドで流行のマルチ契約のことであった。

 マルチ契約とは、企業やプロダクションが監督や俳優と、複数本の映画の契約を一度に結ぶことである。最近世間を騒がしたマルチ契約と言えば、アドラブスとリティク・ローシャンの間で結ばれた契約だ。リライアンス・グループの傘下の映画コングロマリット、アドラブスは、リティク・ローシャンと3本の映画への出演がセットになったマルチ契約を3億5千万ルピーで結んだ。単純計算すると、リティク・ローシャンの1本当たりの出演料はおよそ1億2千万ルピーということになる。ボリウッド・スターとしては史上最高額の出演料である。

 これがきっかけとなり、ボリウッドでは次から次へとマルチ契約が結ばれるようになった。例えばシャーヒド・カプールはUTVと2本の映画への出演を盛り込んだ契約を結んだ。業界の予測では、UTVはこの契約のためにシャーヒドに5,500万ルピーを支払ったと見られている。つまり1本あたりの出演料は2,750万ルピーだ。これまでシャーヒドの出演料は700~800万ルピーとされて来たため、UTVとのマルチ契約によってシャーヒドの価値は一気に4倍に膨れ上がったことになる。

 最近「Bheja Fry」をヒットさせた新人監督サーガル・ベーラーリーも、マルチ契約の恩恵を授かった人物だ。サティヤジト・ラーイ・映画学校卒業のベーラーリーは、ラジャト・カプールのアシスタントを務めた後、彼の指導の下、600万ルピーの低予算で「Bheja Fry」を撮影した。この映画は1億2千万ルピーの興行収入を上げる大ヒットとなり、ベーラーリー監督は一躍注目を浴びることとなった。早速サハーラーはベーラーリー監督と3本の映画の撮影を盛り込んだマルチ契約を結んだ。現在ベーラーリー監督は「Kachcha Nimbu」という映画を撮影中だが、この映画の予算は大幅アップの4千万ルピーである。

 他にも大手プロダクションとマルチ契約を結んだ俳優・監督はたくさんいる。プリヤンカー・チョープラーはUTVと3本の映画出演の、カリーナー・カプールはアシュトヴィナーヤク・シネヴィジョンと3本の映画出演の、アヌラーグ・バス監督はUTVと3本の映画撮影のマルチ契約を結んだ。ヴィプル・シャー監督はアドラブスと10本の映画撮影のマルチ契約を10億ルピーで結び、プラカーシュ・ジャー監督はアドラブスと3本の映画撮影のマルチ契約を結んだ。また、UTVは「Rang De Basanti」(2006年)のラーケーシュ・オームプラカーシュ・メヘラー監督と、今後彼が作る全ての映画に出資する契約を結んだ。UTVはヴィシャール・バールドワージ監督とも同様の契約を結んだ。ナーゲーシュ・ククヌール監督もムクタ・アーツと組んで2本の映画を撮影している。

 かつてインド映画界はスタジオ・システムを採っていたことがあった。監督や俳優は何らかのスタジオに所属し、一定の月給をもらって映画制作を行っていた。スタジオから独立してフリーランスで俳優業を始めた初のインド人俳優はプリトヴィーラージ・カプールだったと記憶している。徐々に俳優はスタジオから独立し、映画ごとにプロダクションと契約を交わして出演するようになった。だが、マルチ契約のシステムが普及すると、このスタジオ・システム時代に逆戻りする可能性もある。

 このマルチ契約に対して、業界内では賛否両論のようだ。潤沢な資金を持った企業はマルチ契約によって俳優に実際の価値以上の出演料を払うことになり、それが俳優の価値を不当に吊り上げる結果になって、資金に余裕のないプロデューサーが映画を作りにくい環境になってしまっていると批判する人もいる。また、マルチ契約は、監督や俳優の創造性の障害となると声を上げる人もいる。

 一方、アヌラーグ・バス監督はマルチ契約を好意的に捉えている。「大手企業とのマルチ契約は、私たちのような監督にとって大きな助けとなる。なぜなら監督は実験的な映画に挑戦しやすくなるからだ。今、良質の映画が強く求められている。マルチ契約のトレンドは歓迎すべきだ」と述べている。

 マルチプレックス(シネマコンプレックス)の急速な拡大も、マルチ契約普及のひとつの要因となっているようだ。マルチプレックスは観客を呼び込むため、多くの映画を必要としている。良質の映画が大量に生産されることが、マルチプレックスの維持と発展に絶対的に必要な条件なのである。それを裏付けるように、最近では全国でマルチプレックス・チェーンを展開する企業が映画制作にも乗り出している。その筆頭がアドラブスだ。デリーを拠点とするPVRも映画制作に乗り気である。

 マルチ契約がボリウッド映画の創造性を損なうことになるか、助けることになるかは、もう少し時間が経ってからでないと判断できないだろう。だが、ボリウッドで新たな展望を持った才能ある映画監督が多数誕生して来ていることだけは間違いない。



 26日付けのリミックスでは、ボリウッド映画で今、俳優、監督、音楽監督などと並んで重要な要素となっているデザイナーについて特集がしてあった。

 記事はまず、お父さんお母さんか、お祖父さんお祖母さんに、「Deewaar」(1975年)のアミターブ・バッチャンのコスチューム・デザイナーは誰か聞いてみよう?という問いかけから始まっている。もちろん、この問いに答えられる人はほとんどいないだろう。当時、ヒーロー・ヒロインの他に人々の記憶に残る名前は、せいぜい映画監督、音楽監督、プレイバック・シンガーぐらいしかなかった。しかし、今では誰もが映画のコスチューム・デザイナーの名前を知っている(僕はあまり知らないが)。

 ボリウッドとコスチューム・デザイナーの話が出たとき、真っ先に名前が挙がるのはマニーシュ・マロートラーである。マニーシュ・マロートラーが初めて映画のコスチューム・デザインを行ったのは、デーヴィッド・ダワン監督の「Swarg」(1990年)であったが、彼が有名になったのは「Rangeela」(1995年)でウルミラー・マートーンドカルのコスチューム・デザインを担当したときからだ。彼はこの作品でフィルムフェア賞も受賞した。マニーシュ・マロートラーは、特にカラン・ジャウハル監督とのコンビで知られている。カラン・ジャウハルがまだ俳優だった「Dilwale Dulhania Le Jayenge」(1995年)のときから2人のコンビは始まり、「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)、「Kal Ho Naa Ho」(2003年)、「Kabhi Alvida Naa Kehna」(2006年)などでマニーシュ・マロートラーはコスチューム・デザインを担当した。マニーシュ・マロートラーが得意とするのはレディースのデザインである。「Main Hoon Na」(2004年)ではスシュミター・セーンのエレガントなサーリーをデザインし、「Kabhi Alvida Naa Kehna」ではラーニー・ムカルジーとプリーティ・ズィンターのスタイリッシュなコスチュームのデザインをした。だが、「Mohabbatein」(2000年)ではシャールク・カーンのコスチューム・デザインも行った。「Veer Zaara」(2004年)や「Kaal」(2005年)のコスチューム・デザイナーも彼で、何度もフィルムフェア賞に輝いている。最近ではタミル語映画「Sivaji - The Boss」(2007年)でラジニーカーントのコスチューム・デザインも担当している。

 マニーシュ・マロートラーと双璧を成すのがニーター・ルラーである。ニーター・ルラーも昔からボリウッドとの関わりが深く、「Chandni」(1989年)、「Khuda Guwah」(1992年)、「Khal Nayak」(1993年)などのコスチューム・デザインを手がけ、「Mission Kashmir」(2000年)でフィルムフェア賞を受賞しているが、有名なのはアイシュワリヤー・ラーイとのコンビである。アイシュワリヤーの本格デビュー作「Jeans」(1998年)で彼女のコスチューム・デザインを担当したのをきっかけに、「Aur Pyaar Ho Gaya」(1997年)、「Hum Dil De Chuke Sanam」(1999年)などでもアイシュワリヤーのドレスをデザインして来た。2人のコンビの結晶とも言えるのが、「Devdas」(2002年)であろう。この作品でニーター・ルラーは再度フィルムフェア賞を受賞した。アイシュワリヤーのウェディング・ドレスをデザインしたのも彼女である。最近では、アイシュワリヤー主演で近日公開の映画「Jodha Akhbar」のコスチュームを手がけている。

 他に、同じく「Devdas」のコスチューム・デザインをしたアブー・ジャーニー&サンディープ・コースラー、「Dhoom:2」(2007年)のアニター・シュロフ、「Bunty Aur Babli」(2005年)のアキー・ナルーラー、「Mujhse Shaadi Karogi」(2004年)のヴィクラム・パドニスなど、ボリウッドで活躍するデザイナーは多い。そして、観客もコスチューム・デザイナーの名前に注目して映画を見るようになっている。

 さらに新しいトレンドとして、デザイナーが映画のコスチューム・デザインだけでは飽き足らず、映画監督業にも乗り出している。現在、マニーシュ・マロートラーとヴィクラム・パドニスが映画を撮影中とのことである。

7月28日(土) Naqaab

 「今年最もエキサイティングなスリラー」として大々的に売り出されていたヒンディー語映画「Naqaab」。7月13日から公開されていたが、今日やっと見ることが出来た。



題名:Naqaab
読み:ナカーブ
意味:仮面、ベール
邦題:ナカーブ

監督:アッバース・マスターン
制作:クマールSタウラーニー、ラメーシュSタウラーニー
音楽:プリータム
作詞:サミール
出演:ボビー・デーオール、アクシャイ・カンナー、ウルヴァシー・シャルマー(新人)、ヴィカース・カラントリー、ヴィシャール・マロートラー、ラージ・ズシ
備考:サティヤム・ネループレイスで鑑賞。

左から、ボビー・デーオール、ウルヴァシー・シャルマー、アクシャイ・カンナー

あらすじ
 ソフィー(ウルヴァシー・シャルマー)は、ドバイ在住のインド人女性で、バーガーキングで働いていた。ソフィーは偶然大富豪カラン・カンナー(ボビー・デーオール)と出会い、婚約する。ところが結婚式直前、ソフィーはレストランでヴィッキー・マロートラー(アクシャイ・カンナー)と出会う。それ以後、ヴィッキーはソフィーに付きまとうようになる。最初はヴィッキーのことを拒否していたソフィーだが、2人は意外とウマが合い、いつしかソフィーはヴィッキーのことを愛し始めてしまう。

 その頃からソフィーは、誰かに追われている気配を感じていた。彼女はてっきりヴィッキーが尾行して来ているのかと考えていたが、実際は違った。それはサム(ラージ・ズシ)という探偵だった。サムはカランに雇われ、ソフィーを盗撮させていた。また、ヴィッキーはローヒトという名の謎の男とソフィーのことで頻繁に連絡を取り合っていた。

 ヴィッキーは、結婚直前のソフィーとデートを繰り返すことに罪悪感を感じ、彼女を避け始める。ソフィーは最初、突然連絡を絶ったヴィッキーに不信感を抱くが、彼女の幸せのためにわざと無視しているのだと知り、ますますヴィッキーのことを愛するようになる。カランとの結婚式の日、ソフィーは式場を逃げ出し、ヴィッキーの家へ駆け込む。そのまま2人はベッドで一夜を明かす。

 翌朝、ソフィーは謝罪しにカランに家へ行く。だが、カランは激怒していた。ソフィーが去った後、カランは拳銃自殺をしてしまう。それを知ったソフィーはヴィッキーの家に泣きながら戻り、起こったことを話す。すると、ヴィッキーは真実を話し始める。

 実はヴィッキーは、ムンバイーで俳優募集の広告を見て応募し、採用されてドバイにやって来たのだった。雇い主はローヒトという名前で、現実世界の恋愛劇を隠しカメラで撮影したリアリティー映画を作ろうとしていた。その標的となったのがソフィーだった。ヴィッキーは最初断ったが、借金があまりにも多すぎたため、仕方なく引き受けたのだった。ヴィッキーはローヒトやそのアシスタントの指示通りにソフィーに近寄り、彼女の心を巧みに動かして、映画のようなストーリーに仕立て上げたのである。

 それを話しているときに、ヴィッキーの家に1人の男が訪ねて来た。それは死んだはずのカランであった。そしてそのカランこそがローヒト(ボビー・デーオール)であった。カランの自殺もトリックを使った映画撮影であった。ヴィッキーの家にも隠しカメラが仕掛けられており、ヴィッキーとソフィーのラブメイキングのシーンも撮影されてしまっていた。それをネットで流すと脅し、ローヒトは強行的にリアリティー映画「Naqaab」を公開する。

 「Naqaab」は世界中の映画祭でグランプリを獲得し、いよいよインドでも公開されようとしていた。ゴア映画祭がその皮切りであった。その授賞式でやはりグランプリを獲得したローヒトは、喜び勇んで壇上へ上がろうとした。そのときヴィッキーが隠し持っていた拳銃でローヒトを撃った。ローヒトは倒れ、病院へ運ばれたが、死亡してしまう。ヴィッキーは現場で取り押さえられたが、ヴィッキーが持っていたのは空砲であった。彼はローヒトのアシスタントに頼まれて、サプライズ・ショーの一部としてやっただけだった。では誰が犯人か?警察はローヒトのアシスタント2人が犯人だと断定した。彼らが持っていたビデオカメラにもその様子が映っていた。2人は刑務所に放り込まれてしまう。

 だが、実際にローヒトを撃ったのはソフィーであった。ソフィーはヴィッキーが銃を撃つのと同時に隠し持っていた実弾入り拳銃でローヒトを撃ち、混乱に乗じてその拳銃をアシスタントのポケットに入れたのだった。こうして2人はローヒトやアシスタントに復讐し、「Naqaab」の成功を独り占めにしたのだった。

 アッバース・ムスターンという兄弟映画監督は、安っぽいスリラー映画を得意としている。彼らの映画では、死んだと思った人物が実は生きており、その人物が事件の黒幕だった、という展開が非常に多い。だが、娯楽に徹した作りで決してつまらないことはなく、なかなかハラハラドキドキさせられる。僕は彼らの「Ajnabee」(2001年)という映画が大好きだが、最新作の「Naqaab」も悪い映画ではなかった。ただ、細かいところを突っ込んでいけば、ストーリーの破綻はいくつも見つけられる。

 最大の突っ込み所は、隠しカメラを使って私生活を盗撮した卑劣なリアリティー映画が、カンヌ国際映画祭などの権威ある映画祭でグランプリを獲得することはないだろう、という点だが、そこは敢えて目をつむっておこう。最も残念だったのは、エンディング直前、ヴィッキーとソフィーがローヒトに復讐する下りである。これまでかなり緻密にどんでん返しの複線を敷き詰めた展開だったのに、復讐のシーンでは、空砲と実弾入り拳銃の2つを使って殺人をするという、あまりに幼稚な「完全犯罪」で幕が閉じられていた。しかも、空砲でローヒトを撃つように指示したのは、ローヒトのアシスタントという筋であったが、もし彼らがそれを計画しなかったら、復讐は成り立たなかったということで、説得力に欠ける。

 ヴィッキーとソフィーが心を通わす上でひとつのターニングポイントとなったのは、ハイアットでの一幕であった。貧乏なヴィッキーは、ソフィーとハイアットのレストランで食事をするようなお金の余裕はない。だが、彼には秘策があった。「Do Not Disturb」の札が掲げられた部屋を見つけ、その部屋番号を名乗ってルームサービスに電話をかけ、食事を注文し、部屋の前に置かれた食事をちょうだいする、というものだ。そのずる賢さにソフィーは感心して、ヴィッキーのことを考え出すのだが、これはちょっと前に公開された「Life Mein Kabhie Kabhiee」(2007年)の一部と全く同じプロットだった。もしかしたらハリウッド映画か何かに元ネタがあるのかもしれない。インド人はすぐに映画の真似をするので、多分、全国の高級ホテルで「Life Mein Kabhie Kabhiee」や「Naqaab」を真似た悪戯が頻発しているのではないかと思う。

 それでも、映画の至る所で突然挿入される不気味な盗撮シーンは、非常にスリリングだった。映画の最初から最後までビデオカメラが一貫して重要な役割を果たしていたのも、ボリウッド映画では珍しい展開だったと思う。一体誰が盗撮しているのか、そのベールが徐々に徐々に明かされて行く。ボビー・デーオールが黒幕であることは予想がついたが、映画撮影のためにやっているというところまでは予想が及ばなかった。

 ヒロインのウルヴァシー・シャルマーは、この映画がデビュー作。モデルで、既にいくつものTVCMやミュージックビデオに出演しているようだ。色白なのは分かるが、取り立てて美人という訳でもない。だが、演技力は人並み以上だった。驚いた顔がとても様になっている女優だと感じた。既に数本の映画への出演が決まっており、今後ボリウッド映画でよく見ることにことになるのではないかと思う。

 男優陣では、ボビー・デーオールとアクシャイ・カンナーが共演。2人とも長年くすぶり続けて来た男優だが、ここに来てようやく実力を付けつつある。今年はボビー・デーオールの映画がやたらと多いが、単に多いだけでなく、きちんと演技の出来る俳優であることを一本一本証明して来ている。アクシャイ・カンナーもここ数年いい演技をしている。もうすぐ「Gandhi, My Father」というアクシャイ主演の映画が公開されるが、非常に期待している。

 3時間映画分の内容が詰まっていたような錯覚を覚えたが、2時間に収まっていた。その代わり、音楽は印象に残るものが全くなかった。音楽監督はプリータムだが、スリラー映画では持ち味を活かせなかったようだ。

 最近のボリウッドでは、映画の最後のスタッフロールに関して2つの流行がある。ひとつはスタッフロールと合わせて映画のストーリーとは全く関係のないオールキャストのアイテムナンバーを流すこと、もうひとつはジャッキー・チェン映画のようにNGシーンを流すことである。「Naqaab」では後者だった。しかし、コメディー映画ならまだしも、緊迫感溢れるスリラー映画を見終わった後に、間抜けなNGシーン集を見せられたくない。雰囲気台無しである。ここはもっとよく考えてやってもらいたい点である。

 「Naqaab」は、詰めが甘いながらもそれなりに楽しめるスリラー映画である。今年最もエキサイティングかどうかは分からないが、少なくともハラハラドキドキすることは出来るだろう。

7月30日(月) ドラクエと思うと手続きは楽しい

 昔からTVゲームが好きだった。ファミコンは持っていなかったが、暇さえあれば、MSX、ゲームボーイ、PC-9821、ネオジオ、プレイステーション、セガサターンなどでゲームをして遊んでいた。だが、今では全くTVゲームをしていない。しようとも思わない。そもそもTVすら持っていないし、日本の据置式ゲーム機は電圧の問題があるので、TVゲームをしにくい環境にいるのだが、やろうと思ったら携帯式のゲームを日本から買って来ることも出来るし、PCでゲームをすることも出来る。だが、全然しようと思えないのである。大人になったからかもしれないが、周囲には大人になってもTVゲーム好きな人がけっこういる。もしかしたら、インドがTVゲームみたいだからかもしれない。

 僕は常日頃から、「インド=ドラクエ説」を唱えて来た(参照)。「ドラクエ」とは、エニックスというゲーム会社の人気タイトル「ドラゴンクエスト」シリーズの通称で、日本のRPG(ロールプレイングゲーム)人気の火付け役になった作品である。僕もドラクエが大好きだったし、TVゲームのジャンルの中ではRPGが最も好きだ。

 ゲーマーの間ではしばしば、つまらないRPGを「おつかいゲーム」と呼んで見下す傾向がある。一般的なRPGでは、特に序盤にこんな展開がよくある。主人公キャラが町の誰かに話しかけると、「この手紙を○○村の○○に届けて欲しい」とか依頼をされてクエストが始まる。それを承諾し、指定の人物に届けると続けて「この薬を○○に届けて欲しい」などと依頼が舞い込み、それらをこなしていくことでゲームが進んで行く。「おつかいゲーム」は、そういうあっちへ行ったりこっちへ来たりの「おつかい」があまりにゲームの主要部分を占めすぎているゲームのことである。

 しかし、僕は割と「おつかい」が好きな方だ。往々にして「おつかい」中に新しい町や村へ行ったり、未知の場所を探検したりしなければならなかったりするからだ。今まで見たことのないような場所に行きたい!――RPGに熱中していた頃に抱いたその願望が、現在の旅好きな僕の人格の基盤となっていたとしても不思議ではない。そういう未知の場所への冒険でなくても、人から依頼されたことを順にこなして行くことには、ゲーム中でも実生活でも割と快感を覚える。

 そんな「おつかい」マニアの僕の心をくすぐってやまないのが、JNUの入学手続きである。JNUに入学するためには、広大なキャンパスのあちこちを行ったり来たりしなければならないし、手続きの種類によってはキャンパスを出て、デリーを駆け回らなければならない。インドに来たばかりの人にとってはとんでもない苦労と苦痛だが、既にデリーとJNUの地理も、手続きの大体の流れも、インド人の気質も熟知している僕にとっては、自分がRPGの主人公になったような感覚を味わうことが出来るひとときである。しかも、今回は微妙な立場だったため、「もしかしたら入学が取り消されるかもしれない」というスリルと隣り合わせだった。そして最悪の場合に備えていろいろと知恵を巡らさなければならなかった。まさに知力と体力と時の運を総動員させた大冒険であった。

 ICCR奨学生という身分で今年からJNUに再入学することになった僕は、自費留学生よりも少し複雑な手続きを踏まなければならなかった。7月20日(金)、まず向かったのはアドミニ・ブロックの24号室。ここで留学生を管理するサテーンドラ氏と会い、手続きをどうやって始めたらいいか聞いてみた。クエストの始まりである。

町の人の話(TIPS 1)
入学手続き(クエスト)はサテーンドラさんから始まるよ。

 もうすでに4年間JNUにいるだけあって、サテーンドラ氏とは顔見知りだ。名乗らなくても分かってもらえた。
サテーンドラ「君のケースのことはよく知っている。」
サテーンドラ「まずはこの手紙を持ってICCRへ行け。」
 サテーンドラ氏はスラスラとICCR宛の手紙を書いて渡してくれた。
サテーンドラの手紙を手に入れた!
 ICCR奨学生のJNU入学手続きは、この手紙を手に入れることからスタートする。

 ICCRはデリー中央部にある。JNUはデリー南部。デリーの地理が分からない人にとっては、ICCRを探し出すだけでかなりの時間を要してしまうかもしれない。だが、バイクを保有し、ICCRと腐れ縁のある僕にとって、ICCRの本拠地であるアーザード・バヴァンへ行くことなど朝飯前の仕事である。すぐにICCRへ直行した。
【移動】 ICCRへ

町の人の話(TIPS 2)
ICCRはITO(税務署)の近くにあるって話だなぁ。JNUからはバスで1本じゃ行けないぞ。足がないならオートリクシャーを使いな。

 ICCRの国際学生部は、地域によって担当者が振り分けられている。現在日本人を担当しているのはHLヴァルマーという人物である。既にHLヴァルマー氏とも顔見知りなので話が早い。彼にサテーンドラの手紙を渡した。
HLヴァルマー「3日後にまたここに来てくれ。」
HLヴァルマー「2階で小切手がもらえるだろう。」
 という訳で、23日(月)に再びICCRを訪れた。2階のキャッシュ・ルームへ行くと、愛想のよいおばさんが親切に迎えてくれた。そして、しばらく待っていたら、600ドル分の小切手を作って渡してくれた。1学期の学費である。
小切手を手に入れた!
 その小切手を持ってJNUへ戻った。
【移動】 JNU アドミニ・ブロックへ
 アドミニ・ブロックの24号室にいるサテーンドラ氏に小切手を見せた。どうも今日のサテーンドラ氏は膨大な数の入学者の手続きに忙殺されていて虫の居所が悪い。
サテーンドラ「小切手は13号室へ持って行け!」
サテーンドラ「そこからレシートを持って来やがれ!」
 13号室の左奥にどっかりと座っているマダムに小切手を見せた。マダムは眼鏡の奥から僕の顔をチラリと一瞥し、小切手を受け取りながらこう言った。
マダム「スリップはどこ?」
マダム「サテーンドラからスリップを受け取って来なさい。」
 再び24号室へ。サテーンドラ氏にスリップをくれと言う。だが、相変わらずイライラしているサテーンドラは、僕に怒鳴り散らした。
サテーンドラ「まずはレシートを持って来い!」
サテーンドラ「小切手はどうした?渡した?馬鹿者!」
サテーンドラ「レシートを受け取らなきゃ駄目じゃないか!」
 とぼとぼと13号室のマダムのところへ行き、サテーンドラ氏がスリップをくれないと訴えた。そうすると、マダムのコメカミに力が入った。スクッと立ち上がると、24号室へ向かって歩き出した。僕もその後を追う。マダムはサテーンドラ氏の前に立って言った。
マダム「どうしてこの子にスリップを渡さないの?」
サテーンドラ「レシートが先だと・・・」
マダム「スリップが先でしょ!」
サテーンドラ「あ、そうでした・・・」
 ようやくサテーンドラ氏が僕の書類をチェックしてくれることになった。だが、ここでひとつの問題が発生した。僕は今年からICCR奨学生になった関係で、新入生扱いとなっていた。新入生ということは、入学試験を受けなければならなかったらしい。しかし、外国人は入学試験を受けなくても合格するという制度がある。いわゆるアブセンティアである。JNUの入学試験はインド亜大陸(インド、ネパール、バングラデシュなど)でしか行われていない。よって、その他の国のJNU入学希望者が入学試験を受けるためだけにインドに来なくていいようにとの配慮から、外国人留学生は入学試験が免除されている。ただしアブセンティアにはひとつの条件がある。それは、入学試験時にインドにいてはならない、ということだ。もしインドにいた場合、外国人であっても入学試験を受けることが義務となる。僕は新入生扱いになるとは知らず、入学試験時に思いっ切りインドにいた。アブセンティアで合格して、入学試験時にインドにいたことがばれると、入学手続き時に合格が取り消されることがある。

町の人の話(TIPS 3)
アブセンティアを使おうと思ったら、5月はインドにいない方が身のためよ。

サテーンドラ「入学試験時にインドにいたか?」

 はい  いいえ
 ここで嘘をついても、パスポートをチェックすれば嘘は簡単に見破られてしまう。だが、入学試験時にインドにいたことがばれたら僕のJNUライフはゲームオーバーとなってしまう可能性もある。咄嗟に虚偽の申告をした。
 はい ⇒いいえ
 サテーンドラ氏はすかさず僕のパスポートをチェックし始めた。もう駄目だ~と思ったら、忙しくて集中力が欠如していたためか、あまり詳しく見ずに簡単にOKを出してくれた。とりあえず助かった~。サテーンドラ氏はスリップを書いてくれた。
スリップを手に入れた!
 早速スリップを持って13号室へ行き、マダムに手渡した。
マダム「今日はもう遅くなったから、レシートはまた明日ね。」
 こうして23日(月)の冒険は終わった。24日(火)は用事があって手続きをすることが出来なかった。よって、冒険の再開は25日(水)となった。

 アドミニ・ブロックの13号室へ行き、マダムに会った。マダムの指示により、キャッシャーがレシートを発行してくれた。
レシートを手に入れた!

町の人の話(TIPS 4)
自費留学生は、現金で学費を払えばレシートがもらえるよ。ドル払いでもルピー払いでもOKさ。

 レシートを持って24号室へ行くが、サテーンドラ氏はいなかった。代わりにその部下がレシートを確認し、フォリオをくれた。
フォリオを手に入れた!
 フォリオとは、入学手続き用の記入用紙の束である。10枚くらいある。この10枚ほどの記入用紙に、同じようなことを延々と記入して行かなければならない。JNUでは、古風な書類主義が今も綿々と受け継がれているのである。しかも、それぞれにパスポート用写真を貼付する必要がある。幸い、日頃から大量のパスポート用写真をストックしているので、わざわざ写真を撮りに行かずに済んだ。もしパスポート用写真の手持ちがない場合は、それを入手するためにJNU内にあるショッピング・コンプレックス、カマル・コンプレックス(通称KC)へ行ったりしなければならず、余分な時間がかかるだろう。

町の人の話(TIPS 5)
パスポートとヴィザのコピーと、パスポート用写真は、たくさん用意しておくと後で役に立つぞ。

【移動】 JNU ブラフマプトラ寮へ
 一度ブラフマプトラ寮の自室に戻ってフォリオに記入。どんなに急いでも1時間はかかる。授業を登録するための欄もあり、M.A.やM.Phil.の学生はセンターの掲示板に貼り出されている授業一覧から必修授業や選択授業を書き写さなければならない。その点、Ph.D.は授業がないので楽だ。
【移動】 JNU アドミニ・ブロックへ
 フォリオが完成した後は、再びそれをアドミニ・ブロック24号室のサテーンドラ氏に見せた。今日のサテーンドラ氏はなかなかご機嫌だ。一昨日とは打って変わって、旧来の友のように接してくれた。このとき、ヴィザや、卒業証明書などの原本をサテーンドラ氏にチェックされる。よって、日本から持って来るのを忘れないようにしないといけない。自費留学生の場合は、健康診断書の提出を要求される。パスポートとヴィザのコピーも渡さなければならない。そして、僕が最も恐れていたパスポートの出入国記録の再チェックも行われてしまった。今回は丹念に確認されたため、入学試験時にインドにいたことがばれてしまった。
サテーンドラ「入学試験時にインドにいたか?」

 はい  いいえ
 こうなったら嘘をついても仕方がない。正直に答えた。
はい  いいえ

サテーンドラ「なぜ入学試験を受けなかった?」
サテーンドラ「受けないと駄目じゃないか!」
サテーンドラ「なぜインドにいたんだ?」
サテーンドラ「アブセンティアが適用されなくなるぞ。」
 こんなところでゲームオーバーか・・・。涙がこみ上げて来る。なぜかスーパーマリオのゲームオーバーの音楽が脳裏に流れる・・・。しかし、一通り文句を並べ立てた後のサテーンドラ氏の反応は予想外であった。
サテーンドラ「・・・君はICCR奨学生か。なら、まあいっか。」
 そのままサテーンドラ氏はスラスラとフォリオにサインし、アドミニ・ブロック提出用書類以外のものを返してくれた。
サテーンドラのサイン入りフォリオを手に入れた!
 これでひとまずアドミニ・ブロックでの手続きは完了となる。残りは図書館、学生の寮生活を管理するディーン・オブ・スチューデント、所属するスクール(学部)やセンター(学科)での手続きとなる。まずはディーン・オブ・スチューデントへ行った。
【移動】 JNU ディーン・オブ・スチューデントへ
 ディーン・オブ・スチューデントで僕がなすべきことは、現在住んでいる寮の部屋を引き続き割り当ててもらうことである。ちなみに新入生で寮が欲しい人は、この段階で寮の申請を行うことになる。寮の割り当てでは、各学生が属するカテゴリーによって優先度が違うのだが、外国人留学生は「最優先」となっているため、申請すればすぐに寮を宛がってもらうことが出来る。また、寮に住まない人(デー・スカラーと呼ばれる)もやはりディーン・オブ・スチューデントまで来なければならない。だが、寮は必要ないと言えばいいだけなので、手続きは簡単だ。

町の人の話(TIPS 6)
ディーン・オブ・スチューデントの建物はちょっと離れた場所にあって迷いやすいから、誰かに道案内してもらうべきね。

 僕はまず、入寮申請書を渡された。
入寮申請書を手に入れた!
 その場で記入して提出しようとしたが、以前から寮に住んでいる人はブラフマプトラ寮の寮監のサインが必要だったため、寮に戻った。
【移動】 JNU ブラフマプトラ寮へ

町の人の話(TIPS 7)
JNUにはいくつもの寮があって、それぞれ特徴があるよ。ブラフマプトラ寮はM.Phil.とPh.D.の男子学生用の1人部屋寮さ。

 寮監のサインをもらうには、これまでの寮費の支払いを完了したことを示すレシート(寮)が必要だった。僕は既に寮費を完済しており、レシート(寮)も手に入れていたため、それを渡すことで寮監にサインしてもらうことが出来た。
寮監のサイン入り入寮申請書を手に入れた!

【移動】 JNU ディーン・オブ・スチューデントへ
 寮監のサイン入り入寮申請書を持って再びディーン・オブ・スチューデントを赴いた。しかし、今度は「同じ寮の同じ部屋を宛がって下さい」という要求を書いたアプリケーションを一緒に出すように言われた。これは自分で書かなければならない。インドで各種手続きをする場合、アプリケーションを書く技術はけっこう重要である。僕は何年もインドに住んでいるだけあって経験値がたまっており、アプリケーションの形式は英語でもヒンディー語でも大体心得ている。ただ、時間がなかった。ディーン・オブ・スチューデントは4時半に閉まってしまうが、既にこのとき4時になろうとしていた。急いで寮に戻り、PCを開いて、ワードでアプリケーションを作成し、プリンターでプリントした。
【移動】 JNU ブラフマプトラ寮へ

【道具】 PCとプリンターでアプリケーションを作成

アプリケーションを手に入れた!

【移動】 JNU ディーン・オブ・スチューデントへ
 終業時間ギリギリでアプリケーションを提出。ディーン・オブ・スチューデントのカウンターの人からは、明日来るようにと言われた。本日出来ることはこれで完了した。

 26日(木)、ディーン・オブ・スチューデントを訪れた。すると、おじさんオフィサーから、昨日提出した寮監のサイン入り入寮申請書アプリケーションを返された。
寮監のサイン入り入寮申請書を手に入れた!
アプリケーションを手に入れた!

オフィサー「VKジャイン教授のところへ行って、アプリケーションにサインをもらって来なさい。」
 VKジャイン氏はディーン(学生監)で、環境科学学科(SES)の教授である。早速SESへ行き、ジャイン教授の部屋を探し出して、アプリケーションにサインをもらった。
【移動】 JNU SESへ

ディーンのサイン入りアプリケーションを手に入れた!

【移動】 JNU ディーン・オブ・スチューデントへ
 ディーンのサイン入りアプリケーションを持って再度ディーン・オブ・スチューデントへ行き、おじさんオフィサーに手渡した。すると今度は、フォリオを見せるように言って来た。手持ちのサテーンドラのサイン入りフォリオを見せた。
オフィサー「フォリオにセンターのチェアパーソンのサインをもらって来なさい。」
 フォリオには裏側があり、そこには指導教官やセンターのチェアパーソンのサインを記入する場所がある。まだスクールやセンターでの手続きには手を出していなかったため、当然のことながらそれらの場所は空欄となっていた。こうして、まだディーン・オブ・スチューデントでの手続きが終わらないまま、今度は自分が所属する言語文学文化学科(SLL&CS)のインド文化学科(CIL)へ行くことになった。
【移動】 JNU SLL&CSへ

町の人の話(TIPS 8)
自分の所属するスクール・センターへ行くようにしろよ。場所はその辺の人に聞け。

 実は今学期から僕の指導教官ヴィール・バーラト・タルワール教授がセンターのチェアパーソンになったため、1人のサインで2つの仕事が済むようになった。チェアパーソン室をノックし、入って行った。
タルワール教授「よく来た。」
タルワール教授「Ph.D.のトピックは決まったかね?」
タルワール教授「もっといい論文が書けそうなトピックにしなさい。」
タルワール教授「8月15日までに決めなさい。」
 そんな話をされながらも、フォリオにサインをしてもらえた。
タルワール教授のサイン入りフォリオを手に入れた!

【移動】 JNU ディーン・オブ・スチューデントへ
 タルワール教授のサイン入りフォリオを持ってまたディーン・オブ・スチューデントへ。寮監のサイン入り入寮申請書ディーンのサイン入りアプリケーションタルワール教授のサイン入りフォリオを、耳を揃えて提出した。
オフィサー「昼過ぎにまた来なさい。」
 まだ昼食まで時間があったので、図書館での手続きを済ますことにした。
【移動】 JNU 図書館へ
 図書館へ行き、図書館用のフォリオを提出した。すると記入用紙を渡されたので、それに記入し、パスポート用写真と共に提出した。15日以内に図書館カードと貸し出しチケットがもらえるようだ。このとき、ID番号が書かれた紙ももらえる。後にIカード(学生証)を作るときに必要となる。
ID番号を手に入れた!

【移動】 JNU ブラフマプトラ寮へ
 寮に戻り、昼食を食べ、しばらく昼寝して、3時頃にディーン・オブ・スチューデントを訪ねた。
【移動】 JNU ディーン・オブ・スチューデントへ

オフィサー「10分ほど待ちなさい。」
 どうも僕の書類は全然前に進んでいなかったようだ。しばらく玄関に置かれた石の椅子に座って待つ。隣には、同じように寮の関係で待たされているスリランカ人がいた。しばらく彼と雑談していた。しばらくすると、オフィサーがやって来て言った。
オフィサー「チャンドラバーガー寮に住みたいか?」

 はい  いいえ
 同じ寮の同じ部屋に住み続けたいがためにこれまで余分な手続きをして来たのに、この期に及んでそんなことを聞かれる意味が分からない。すかさず答えた。
 はい ⇒いいえ
 すると、オフィサーは窓から唾をペッと吐き出して、また部屋に戻って行ってしまった。さらにしばらく待っていると、オフィサーが僕のフォリオを持って戻って来た。フォリオには、「Brahmaputra」というスタンプが押されていた。
オフィサー「ブラフマプトラ寮に決まったぞ。」

ブラフマプトラ印のフォリオを手に入れた!
 しかし、正確にはこの時点で寮が決まっただけで、部屋はまだ確定していない。これを持って今度はブラフマプトラ寮へ行った。
【移動】 JNU ブラフマプトラ寮へ
 寮生の部屋割りを管理しているのはケアテイカーと呼ばれる人物。ケアテイカーから同じ部屋を割り当ててくれるように頼んだら、難なく了承を得た。フォリオには部屋番号が書き込まれ、寮監のサインをもらえた。
寮監のサイン入りフォリオを手に入れた!
 このとき、ついでに住所証明書ももらっておいた。住所証明書は、この後の外国人登録で必要になる他、携帯電話の購入、バイクの購入など、いろいろな場面で提出を要求されるので、インドで生活を送る上で最も重要な書類のひとつである。
住所証明書を手に入れた!

町の人の話(TIPS 9)
外に住んでいる人の住所証明書は、弁護士立会いの下で発行された大家さんとの契約書になるよ。大家さんに直接証明書を書いてもらってもいいけど、その場合には大家さんのレーションカードのコピーや、電気代・水道代・電話代の領収書のコピーなんかを添えることが必要になるね。

 各フォリオはそれぞれ提出する場所が決まっている。1枚のフォリオを寮に提出し、1枚をディーン・オブ・スチューデントに提出し、1枚をセンターに提出し、2枚をスクールに提出した。
【移動】 JNU ディーン・オブ・スチューデントへ
【移動】 JNU SLL&CSへ
 スクールにフォリオを提出した時点で、Iカードの台紙がもらえる。Iカードの作成にはちょっとした図工の道具が必要となるので、一旦寮に戻って行った。
Iカードの台紙を手に入れた!
【移動】 JNU ブラフマプトラ寮へ
【道具】 ハサミとノリでIカードを作成
 Iカードの台紙に必要事項を記入し、図書館でもらったID番号を書き込み、パスポート用写真をハサミで適切な大きさに切り抜いてノリで貼った。そして再びスクールに戻って、完成したIカードの台紙を提出した。明日の昼過ぎにIカードがもらえるようだ。
【移動】 JNU SLL&CSへ
 このときついでにセンターで、ICCR提出用のジョイニング・レポートへの署名と、FRRO(外国人登録局)での手続きに必要なボナファイド・サーティフィケート(在学証明書)の申請を同時に行った。

 27日(金)、センターへ行くと、ジョイニング・レポートボナファイド・サーティヴィケートの署名が済んでいた。それらを受け取る。
ジョイニング・レポートを手に入れた!
ボナファイド・サーティフィケートを手に入れた!
 今日はいよいよ外国人登録を行う。外国人登録とは、6ヶ月以上インドに滞在する外国人に義務付けられている手続きで、入国から2週間以内に行わないと罰金を支払わされる。デリーでは、ハイアット・リージェンシー近くのFRROオフィスで行う。FRROオフィスは、最悪のインドを体験するには最良の場所である。それでも、オフィスがITO近くのハンス・バヴァンにあった頃に比べたらだいぶ改善された。僕は継続手続きになるので、必要書類はパスポート外国人登録手帳パスポートとヴィザのコピーボナファイド・サーティフィケート住所証明書である。新規登録の人は、それらに加えて、健康診断書など、さらに書類が必要になるだろう。
【移動】 FRROへ
 7月は外国人の入国がピークを迎える時期で、FRROもひどく混雑している。オフィスに置かれた待合用の椅子は全て埋まっており、立って待っている外国人がたくさんいた。まずはレセプションで記入用紙と番号をもらわなければならない。カウンターの前には列が出来ているので、それに並んで自分の順番が来るのを待つ。レセプションのおじさんにパスポート外国人登録手帳を見せれば、番号を書き込んだ記入用紙を渡してくれる。
FRRO記入用紙を手に入れた!
 記入用紙が手に入ったら、FRROの手続きの半分が終わったと思っていいだろう。後はこれに必要事項を記入し、それにパスポート用写真を貼って、指定されたカウンターの近くで自分の順番が来るのを待てばいい。僕は「カウンター1の28番」という番号をもらった。カウンター1に行って聞いてみると、まだ16番の人の手続きをしていることが分かった。この時点で12時頃。開業の9時から3時間かけて16人の手続きしか終わっていないということは、28番の番が回ってくるまでまだまだ時間がある。昼時になっていたので、一旦寮に戻ることにした。
【移動】 JNU ブラフマプトラ寮へ
 1時半~2時までFRROのカウンターは昼休みとなる。よって、1時半頃になると外国人も昼食を食べに外へ行ってしまうことが多いため、椅子も空く。その頃合いを見計らって再びFRROに戻った。
【移動】 FRROへ
 やはりさっきと違って椅子には空きがたくさんあった。カウンター1のすぐそばの席に座り、ひたすら待ちの体勢に入った。
【待機】
【待機】
【待機】
【待機】
【待機】
 2時過ぎになって業務が再開された。なんだかカウンター1だけ進みが遅いようだ。他のカウンターはもうとっくに30番まで行っているのに、カウンター1だけは20番~21番を処理している。既に時計は3時を回っている。34番の番号を持った国籍不明の女性がイライラしている。僕に話し掛けて来た。
34番女性「このオフィスは何時までやってるの?」
 そんなこと言われても分からない。「知らないが5時くらいまでやってるんじゃないの?」と答えておいた。業務が再開されてからのこの1時間、カウンター1ではまだ1人の手続きしか終わっていない。現在2人目の手続き中だ。女性はこのノロノロとしたペースにぶち切れそうになっている。また僕に話しかけて来た。
34番女性「あなたは頭がおかしくならないの?」
 僕は、「もう6年もインドに住んでいるから慣れたよ」と答えた。
34番女性「そう。私はまだ1週間。」
僕「ウェルカム・トゥ・インディア。」
 インドを舞台にした映画で、インドに着いたばかりの外国人の主人公に、エキストラがよく言うようなセリフを、そのインド歴1週間の女性に対して言うことが出来て、密かに嬉しかった。

 2人目の人の手続きが終わった。その人の番号は21番だった。まだまだ待たないといけないなぁと思っていたが、事態は急に進展した。なぜか日本のパスポートを持ったあるインド人がカウンターに立ったところ、隣に座っていたおじさんが僕に話し掛けて来た。そのおじさんもやはりカウンター1待ちで、番号は29番である。
29番おじさん「君の番号はいくつだね?」
僕「28番ですけど。」
29番おじさん「あの人の番号は30番か31番だったはずだ。」
 みんなお互いの番号をしっかりチェックして監視し合っているみたいだ。それが本当だと、重大なチョンボが行われようとしている。僕は立ち上がると、そのインド人に番号を聞いた。なんかモゴモゴ言っている。カウンターに座っているオフィサーに「僕は28番なんですけど」と主張したら、「なら君が先だ」ということで、突然僕の順番が回って来た。僕より先の番号の人はどうもこの場にはいないようだ。しめしめということで、迷わず書類を提出した。

 既に何回もFRROに来ているので、何を提出すればいいかは熟知している。しかも僕の手続きは継続手続きなので、新規などに比べたら簡略である。5分ほどで終了した。5分のために数時間も待たなければならないとは、ディズニーランドのような場所である。カウンターで受け取った書類を、部屋の裏にいるインチャージに見せてサインをもらえば、外国人手続きは完了である。このとき既に4時。待つというのもエネルギーを使うものだ。ずっと座っていたのにヘトヘトに疲れており、もう今日は何もする気になれなかった。
外国人登録に成功した!

【移動】 JNU ブラフマプトラ寮へ
 30日(月)。手続きのほとんどは先週終わったのだが、まだ細かいものが残っている。まずはIカードの受け取り。昼前にスクールへ行った。
【移動】 JNU SLL&CSへ
 木曜日に必要事項を記入し、写真を貼って提出したIカードの台紙は、必要な人物のサインが入ったIカードとなって完成していた。
Iカードを手に入れた!
 Iカードが手に入ればJNUでの入学手続きは完了したものと思っていい。まだ図書館での手続きが残っているが、それはまた後日になる。ここからはICCR奨学生のみの手続きになるが、入学手続きが完了し、寮がもらえたら、ジョイニング・レポートを提出する必要がある。
【移動】 ICCRへ
 日本担当のHLヴァルマー氏にジョイニング・レポートを提出した。だが、書類に一部誤りがあったため、もう一度提出することになった。また、月々の奨学金を受け取るために銀行口座を作る必要があり、その手続きのために金曜日にまた来るように言われた。ジョイニング・レポートもそのときに再提出することにした。

 こうして、1週間以上に及んだ入学手続きをはじめとした一連の手続きがほぼ完了した。あっちに行ったりこっちに来たり、あれを手に入れたりこれを渡したりと、単純だが奥の深いクエストばかりであった。このように、インドはドラクエと思えば非常に楽しい国なのである(涙目)。

7月30日(月) クリケット中印戦も夢ではない

 考えてみれば、世界の二大国である中国とインドがスポーツの世界で本気でぶつかり合うことはあまりないような気がする。中国がスポーツ大国であるのに対し、インドのスポーツがあまりに偏向していることにその一因があるのだが、もしかしたら10年以内にスポーツにおける中印戦が見られるようになるかもしれない(実際の戦争が起きる可能性もなきにしもあらずだが・・・)。そのフィールドはクリケットである。

 中国は昨年、世界クリケット協会(ICC)とアジアクリケット協会(ACC)に加盟しており、国策としてクリケットに力を入れ始めている。7月29日のサンデー・タイムス・オブ・インディア紙によると、中国はさらに思い切ったステップを踏んだようだ。なんと1,000人に及ぶ野球のコーチを、クリケットのコーチに転職させたのである。

 中国におけるクリケット推進の旗頭になっているのは、パーキスターンとオーストラリアのクリケット関係者のようだ。中国人野球コーチをクリケットコーチとして訓練するため、オーストラリア人やパーキスターン人のクリケットコーチが中国入りしている。今のところインド人コーチは選ばれていないが、その背景に政治的な意図があるのかどうかは不明である。ただ、ICCの予算の大部分はインドから捻出されており、中国でのクリケット普及のためにインドが大きな貢献をすることが期待されている。

 ICCとACCは既に中国のクリケット参入を積極的に歓迎し、後押ししている。ICCはクリケット振興のため、中国に2億ドルを提供することを表明しており、ICCとACCは昨年既に共同で40万ドルを支払っている。

 クリケットの中国代表は既にマレーシアやシンガポールで試合を行っている。中国政府は、上海や広州などの中国南部でアジア大会が開催される2010年までに中国代表がインド、パーキスターン、スリランカのようなクリケット強国と対戦できるレベルに到達することを望んでおり、2015年までにクリケットのワールドカップ出場を目指している。また、国内のクリケット人口を2020年までに15万人にまで増加させることも目標として掲げられている。

 クリケットの国際試合というと印パ戦の面白さがずば抜けている。だが、もしクリケット中国代表が実力をつけたら、中印戦も同じくらい熱狂するのではないかと思う。何しろ、インドが本当にライバル視しているのは小国パーキスターンなどではなく、中国なのである。また、印パ関係の緊張緩和に役立ったクリケット外交が、インドと中国の間でも役に立つ日が来るかもしれない。

 こうなって来ると、なんとも寂しいのは日本である。スポーツの世界でインドとの交流を深めようと思ったら、インド国内でほとんど人気のないサッカーなどではなく、クリケットで勝負しなければならない。もちろん、日本がインドの事情に合わせる義務はないのだが、インドで野球やサッカーが普及するのを待つより、日本でクリケットを振興する方が遥かに効率的で近道なのは間違いない。日本にはクリケット協会もあるし、代表チームもある。さらに、クリケットは決して国際的にマイナーなスポーツではなく、振興して損はない。インド人の間での日本のイメージは、日本人の間でのインドのイメージ以上に偏っているが、クリケットの世界でインドと日本の交流が深まれば、その他の分野でももっと自然に交流が出来て来て、相互理解が深まるのではないかと思う。

7月30日(月) インド映画とガーンディー

 2006年最大のヒット作となった「Lage Raho Munnabhai」。マフィアのドンがガーンディー主義に傾倒するという、ちょっとありえないコメディー映画だったが、ガーンディー主義をこれほど分かりやすく映像化した映画は今までになく、インド国民、特に若い世代の中で、ガーンディー主義に対する再評価やその普遍性を巡る論争が巻き起こった。以来、ガーンディーはインドで一種の流行となっている。

 2007年、引き続き映画が牽引役となる形でガーンディーが注目を浴びそうだ。今度は、人間としてのガーンディーが焦点となっている。インドの父としてのガーンディーではなく、一人の息子の父としてのガーンディーの実像に迫った「Gandhi My Father」が公開間近だ。劇作家フィーローズ・ガーンディーが、自身の演劇「Mahatma vs Gandhi」を映画化した作品である。

 7月28日付けのヒンドゥスターン紙リミックス・ウィークエンドに、「Gandhi My Father」と絡めて、インド映画とガーンディーの関係を簡単にまとめた記事が掲載されていた。

 まず、有名な話だが、ガーンディー自身は映画を「社会悪」として毛嫌いしていた。彼が生涯に見た映画は「Ram Rajya」(1943年)の1本のみ。だが、皮肉なことに、ガーンディーは国内外の映画で大いに取り上げられ続けている人物である。

 これは意外な話だが、ガーンディーを直接的または間接的に取り上げた映画は、インド独立前にも何本か存在する。だが、独立前は英国官憲の検閲が厳しく、ガーンディーをあからさまに賞賛した映画制作は不可能に近かった。例えば、パールシュヴァナート・ヤシュヴァント・アルテーカル監督の無声映画「Mahatma Vidur」(1943年)は、主人公のヴィドゥルがあまりにガーンディーに似過ぎているために反英映画とされ、上映を禁止された。だが、巧みに官憲の目をかわしてガーンディーやガーンディー主義を題材として制作され、上映された映画もあった。例えば、クリシュナスワーミー・スブラマニヤム監督は、ハリジャンの部落に住む進歩主義ブラーフマンを主人公にした「Tyagabhoomi」(1939年)という映画を撮ったが、主人公は明らかにガーンディー主義の体現であった。他にも、「Punjab Mail」(1939年)、「Bagyaleela」(タミル:1938年or1941年?)、「Iruvar」(1947年)など、ガーンディー本人や、それに酷似した人物が映画に登場する映画が撮られた。

 だが、ガーンディーの映画として世界的に有名なのはリチャード・アッテンボロー監督の「Gandhi」(1982年)だろう。インディラー・ガーンディー首相とインド政府の全面的協力を得て完成したこの映画は、アカデミー賞8部門を総なめした傑作となった。ところが、アッテンボロー監督以前にも欧米でガーンディーの映画化が企画されたことがあった。その発案者は、英国のチャーチル首相であった。

 ガーンディーを嫌っていたチャーチル首相は、著名な映画監督アレクサンダー・コルダーを、「映画の父」と呼ばれるDWグリフィスのもとへ派遣し、反ガーンディーの映画を作るように依頼した。しかし、グリフィスはそれを拒否した。彼はそのとき、こんなことを言って断ったと言う。「ガーンディーが闘っている理想や価値は、かつて私が映画を通して闘って来たものだ。」

 最近でもガーンディーは映画界で引っ張りだこである。シャーム・ベネガル監督の「The Making of Mahatma」(1996年)は、南アフリカ時代のガーンディーの闘争を題材にした映画だ。ベネガル監督は「Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero」(2005年)でもガーンディーを登場させた。カマル・ハーサン制作・監督・主演の「Hey Ram」(2000年)はガーンディー暗殺犯の実像に迫った作品である。アヌパム・ケール主演の「Maine Gandhi Ko Nahin Mara」(2005年)も、変わった形であったがガーンディーを映画にうまく取り込んだ作品である。ディーパー・メヘター監督の「Water」(2005年)もガーンディーが映画を読み解くための重要な鍵となっていた。だが、「Lage Raho Munnabhai」ほど現代に現代の文脈でガーンディーを蘇らせることに成功した映画はないだろう。

 果たして「Gandhi My Father」がどのような作品になるか、注目したい。



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