スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2012年11月

装飾下

|| 目次 ||
旅行■1日(木)アスィールガル&ブルハーンプル観光
旅行■2日(金)ブルハーンプル→アウランガーバード
旅行■3日(土)ダウラターバード&クルダーバード
旅行■4日(日)アウランガーバード→マヘーシュワル
旅行■5日(月)マヘーシュワル→マーンドゥー
旅行■6日(火)マーンドゥー→マンドサウル
旅行■7日(水)マンドサウル→ニーマチ
旅行■8日(木)チャトゥルブジナート・ナーラー
旅行■9日(金)ニーマチ→アジメール
旅行■10日(土)アジメール→デリーと総括
▲D2Dツーリング(2012年10月25日~11月10日)
映評■13日(火)Jab Tak Hai Jaan
映評■14日(水)Son of Sardaar


11月1日(木) アスィールガル&ブルハーンプル観光

D2Dツーリング

 ブルハーンプルの見所は、城壁内のブルハーンプル旧市街、城壁外、郊外、対岸のザイナーバード、さらに20-30km圏内と、ブルハーンプルを中心に放射線上に散らばっている。これらを1日で見て回るのは到底不可能で、最低でも2-3日は必要となる。このような歴史的に豊かな都市がインド観光マップの中でほとんど無視された存在となっているのに、驚きと怒り、そして「発見者」としての興奮を覚える程である。


シャーヒー・キラー
タープティー河対岸のザイナーバードから

 今日はまず、ブルハーンプルから北へおよそ25km行った地点にあるアスィールガル城塞を観光した。オームカーレーシュワルから来るとブルハーンプルに到着する前にあるので、途中で立ち寄って観光するのが一番賢いプランだろう。観光している間にバイクに積んだ荷物が心配だったことと、城塞がどんな管理状態か分からなかったことと、時々虎が出ると書かれていたことなどから、アスィールガルは後回しにして、とりあえずブルハーンプルまで行くことにしたのだった。ブルハーンプルで情報を集めたところ、アスィールガルにはちゃんとチャウキーダール(警備員)がいて、観光するのに全く問題ないことが分かった。麓のアスィール村からは細いジープ道(半分は舗装道、半分は砂利道)が城塞最上部の間近まで続いており、一応駐車場もある。アスィール村からは城塞まで続く階段も出ている。しかし、城塞まで高さ700mはあるので、徒歩で上るのはとても大変である。ちなみに、アスィール村は元々城塞内にあったのだが、城塞がインド考古局の管理下に置かれたため、村は麓に移転させられたと言う。


いざ、アスィールガルへ

 アスィールガル城塞の起源は一説では紀元前まで遡るほど古いとされるが、現存する城塞は14世紀以降に建造されたものである。14世紀にアーサー・アヒールという地元豪族が、旱魃に苦しんでいた領民のための雇用創出策として険しい山の上に建造した砦がアスィールガル城塞の原型となったとされる。


駐車場からアスィールガルへ

 一方、1400年頃にナスィール・カーンによってブルハーンプルが建造された。ナスィール・カーンの父親マリク・ラージャーはアラーウッディーン・キルジーやムハンマド・ビン・トゥグラクなど、デリー政権に仕えて来た将軍で、カーンデーシュ(マールワー地方とデカン高原の間の地域)の太守を任されていた。マリク・ラージャーは、ティームール侵攻後デリー政権が弱体化すると独立を宣言し、ファールーキー朝を興す。その息子のナスィール・カーンはブルハーンプルを建造したが、同時に奸計を使ってアスィールガルをも手中に収める。ナスィール・カーンがどのようにアーサー・アヒールからアスィールガルを騙し取ったのかについて、以下のような逸話が残っている。
 アスィールガルの支配者アーサー・アヒールはお人好しな性格だった。ナスィール・カーンはアーサー・アヒールに、「敵が私と家族を攻撃しようとしている」と言って庇護を求めた。アーサー・アヒールはそれを承諾した。すると、アスィールガル城塞に複数の輿がやって来た。中にはナスィール・カーンの身内の女性たちが乗っていた。アーサー・アヒールの妻や娘たちが彼女たちを迎えた。

 翌日、200丁の輿がアスィールガル城塞にやって来た。ナスィール・カーンの妻や母親など、彼の残りの身内が乗っているとのことであった。アーサー・アヒールは何の疑問も抱かず門を開け、輿を迎え入れた。ところが輿に乗っていたのは武装した兵士だった。彼らは城塞内に入った途端に輿から飛び出て、アーサー・アヒールとその家族を皆殺しにした。城塞内に住んでいた他の人々はこの突然の惨劇に驚き逃げ出してしまった。こうしてナスィール・カーンはアスィールガル城塞をまんまと手に入れた。
 それ以降、アスィールガル城塞は歴代のファールーキー朝の王、ムガル朝の皇帝、そして英国に支配されて来た。そしてそれぞれの支配時期に城塞は増改築を受けた。もっともアスィールガル城塞の建築に貢献しているのがファールーキー朝のアーディル・カーン2世(治世:1457-1503年)である。アスィールガルは主に3つの城壁で囲まれている。一番外側の城壁はマライーガル、中間の城壁はカマルガルと呼ばれており、一番上の城塞がアスィールガルとなる。ヒンディー語で「カマル」とは「腰」という意味で、「マラーイー」は「膝」らしい(この単語は辞書には載っていなかった)。それから連想すると「アスィール」の由来は「頭」という意味の「スィル」になる。マラーイーガルはアーディル・カーン2世が加えたものである。頂上のアスィールガルは全長1km、幅550mの大きさであり、外郭のマラーイーガルまで含めると全長1.6km、幅800mとなる。


カマルガルからアスィールガルへ続く門

 アスィールガルは整備が進んでおらず、大部分は自然に呑み込まれてしまっている。ここまで荒れるに任された遺跡を見たのは久し振りだ。まるで天空の城ラピュタのようである。だが、一応アスィールガルを一巡する歩道があるし、城塞内に残っているいくつかの建築物は見るべき価値がある。


アスィールガル内部

 もっとも目立つのが2本のミーナール(尖塔)を持つジャーマー・マスジドだ。このモスクは城塞内でもっとも高い場所に建っており、ミーナールは遠くからでもよく目立つ。16世紀にファールーキー朝のラージャー・アリー・カーン(治世:1576-96年)によって建造された。城塞内に残る遺跡の中では驚くほどよく保存されている。かつてはミーナールの上まで上れたようなのだが、崩壊が進んだため、現在は閉ざされている。


ジャーマー・マスジド


モスク内部

 ジャーマー・マスジドからさらに城塞の奥の方へ続く道を歩いて行くと、やがて半地下に建つ奇妙な寺院がある。中にはシヴァリンガが祀られており、シヴァ寺院であることが分かる。今でも地元の人々が参拝に訪れる生きた寺院だ。


シヴァ寺院

 興味深いのは、このシヴァ寺院が「マハーバーラタ」の登場人物アシュヴァッターマーと関係していることである。アシュヴァッターマーはクリシュナから受けた呪いによって、ハンセン病を患ったまま永遠に地上を彷徨い続ける運命となった。アシュヴァッターマーはシヴァの信徒であり、新月の夜にアスィールガルのこのシヴァ寺院を参拝に訪れると言う。アイシャー・グッドアースのガイドブックでは、アシュヴァッターマーが訛って「アスィール」という地名になったのではないかとの説が唱えられている。寺院建築自体はそれほど古いものではないが、アシュヴァッターマーが関係しているとなると、寺院の起源は非常に古いことになる。寺院の隣には深い貯水湖があり、アシュヴァッターマー・クンドと呼ばれている。


寺院内部

 この寺院のそばには、深い井戸に鉄の板が架けてある場所がある。ザイナーバードと同様にこれもパーンスィーカーナー(首吊り所)と呼ばれており、英国人が虜囚を絞首刑にするのに使ったと言われている。また、寺院の裏には稜堡跡も残っており、その上に上ると絶景である。


パーンスィーカーナー

 アスィールガル城塞にはいくつもの池や貯水湖などが残っている。アスィールガル城塞を難攻不落と言わしめたのは、その切り立った山に建つ立地条件に依るところが大きいのだが、その他に水が豊富にあることもひとつの理由であったらしい。通常、このように高所に建つ城塞では水の問題が常に付きまとい、長期の籠城戦では大きなネックとなる。だが、アスィールガル内外には365ヶ所もの水源があったとされ、そのいくつかは今でも残っている。シヴァ寺院のそばにも、ラーニー・カ・ターラーブ(王妃の湖)と呼ばれる湖がある。緑色をした静かな佇まいの湖で、この湖の底には石を金に変える不思議な宝石パーラスマニが眠っているという伝説がある。


ラーニー・カ・ターラーブ

 アスィールガルの入り口まで戻る途中には、英国人が刑務所として使ったと言うバラック型の建物や英国人墓地もある。ジャーマー・マスジドからは城塞敷地内の中央部に三方を高い壁で囲まれた建物があるのが見えるが、これは英国人が造ったシューティングレンジ(射撃場)またはスカッシュコートだと言う。この辺りは草木が生い茂っており、入って行くのはなかなか難しい。


シューティングレンジ

 アスィールガル城塞の隣にはコーリヤー・パハールと呼ばれる小高い丘があり、城塞からも見える。難攻不落のアスィールガル城塞の唯一の弱点がこの丘だとされている。アクバルがアスィールガルを攻めたとき、このコーリヤー・パハールに布陣し、陥落させた。アクバルは、アスィールガル城塞を攻略したのがよほど嬉しかったのか、ザルブ・アスィール(アスィールガル鋳造)と刻印された記念金貨を発行している。


コーリヤー・パハール

 アスィールガル観光には、バイクで上まで往復するとして、アスィール村から数えて2時間は掛かる。朝9時半頃にアスィールガル城塞に着いたのだが、チャウキーダール(警備員)は見当たらず、一通り見終わって帰ろうとした午前11時頃にやっと現れた。よって、アイシャー・グッドアースのガイドブックを頼りに、ガイドなしで回った。もしかしたら何か見落としているかもしれない。また、アスィールガルの麓にもいくつか見所があるようだが、ブルハーンプルの観光を優先し、それらは見なかった。

 ブルハーンプルの遺跡については、自分が巡った順番ではなく、これを読んだ人が効率よく巡れるように、整理して列挙しようと思う。ブルハーンプル市内の見所は、城壁内と城壁外に分けられる。まずは城壁内の見所から紹介する。ブルハーンプルで唯一入場料が必要なのはパレス・コンプレックス(シャーヒー・キラー)である。外国人料金は100ルピー。ファールーキー朝のアーディル・カーン2世が建造し、ムガル朝時代に増築された。デリーのラール・キラー(レッド・フォート)やアーグラーのアーグラー城などと同じく、ディーワーネ・カース(貴賓謁見の間)とディーワーネ・アーム(一般謁見の間)に分かれており、入ってすぐの部分はディーワーネ・カースとなる。パレス・コンプレックスはブルハーンプルの遺跡群の中ではもっとも整備されており、特にディーワーネ・カースは美しいガーデニングがなされている。


ディーワーネ・カース
右にあるのはザナーナー・ハマーム

 入って右の部分にある建物はムガル朝時代に造られたザナーナー・ハマーム(女性用浴場)で、その一部に入ることができる。左右に水の流れ出る口があるが、一方からは冷水が、一方からは温水が出て来るようになっていた。このハマームの天井は美しい絵で装飾されており、かなり良く保存されている。花や幾何学紋様が主だが、地元ガイドが「タージ・マハルの原型」と呼ぶ宮殿の絵もある。


ザナーナー・ハマーム


天井の装飾

 ハマームの隣には、ほとんど崩壊したモスクがある。このモスクはピール・バンナー・マスジドと呼ばれている。このモスクには1本だけミーナールが残っているが、その形がクローブ(丁子)に似ているため、地元の人々はラウング・ミーナール(クローブの尖塔)と呼んでいるそうだ。


ピール・バンナー・マスジド

 ディーワーネ・カースの奥には、デリーやアーグラーで見られるような、皇帝の鎮座するパビリオンがあったはずだが、ブルハーンプルではわずかに3つのアーチが残っているだけだ。


ディーワーネ・カースの3アーチ

 ディーワーネ・カースの隣にあるのがディーワーネ・アームである。こちらのパビリオンはよく残っている。このパレス・コンプレックスで本当に壮大な建築は、ディーワーネ・カースの基部となっている部分であるが、パレス・コンプレックス内からはその姿をよく捉えることができない。タープティー河の対岸から眺めるのが一番だ。


ディーワーネ・アーム


ディーワーネ・カース(左)とディーワーネ・アーム(右)
ザイナーバードから

 パレス・コンプレックスを出て左へ行くと、ラージガートへ下りて行く道がある。ラージガートにはいくつか寺院が並んでいる他、ザイナーバードへ渡る舟の発着場ともなっている。また、ガートのすぐそばには象のような形をした岩がある。エレファント・ロックと呼ばれている。月夜の晩にシャージャハーンとムムターズ・マハルはこの岩の上に座り睦み合ったと言う。


ラージガート


エレファント・ロック

 旧市街にはいくつか古いモスクが残っている。ラージガートからすぐ近くにあるのがカーリー・マスジドだ。建造時期には諸説あり、ファールーキー朝の二代目ナスィール・カーン(在位:1399-1437年)によって建てられたとする説もあれば、最後のスルターン、バハードゥル・カーン(在位:1596-1600年)とする説もある。地元の人々はブルハーンプルでもっとも古いモスクだと信じている。現在このモスクは住宅街に埋もれてしまっている。モスクの北側に入り口があるが、分かりにくい。


カーリー・マスジド

 パレス・コンプレックスから旧市街の北(イトワーリー門)の方へ向かうとビービー・キ・マスジドというモスクがある。16世紀の初めにファールーキー朝の王妃によって建てられたとされている。しかし、このモスクは現在使われておらず、普段は閉ざされている。僕が行ったときも中に入ることはできなかった。

 旧市街でもっとも大きなモスクはジャーマー・マスジドである。旧市街の中心部にある。ファールーキー朝のラージャー・アリー・カーン(在位:1576-96年)によって1589年に建造された。15のアーチが並ぶ壮大なモスクで、両側には高さ36mのミーナールが立っている。


ジャーマー・マスジド

 ここからは城壁の外にある遺跡の紹介となる。旧市街を北の方向に出たところにはいくつか廟が残っている。まず、イトワーリー門を出て最初の交差点を右に行くと、ビルキース・ジャハーン廟がある。シャージャハーンの次男シャーシュージャーの妻の墓である。ビルキース・ジャハーンもムムターズ・マハルと同じく産褥熱によってブルハーンプルで死去した。このビルキース・ジャハーン廟はブルハーンプルで是非見るべき遺跡のひとつだ。まず外観が変わっている。上から見ると花びらのような形のユニークなプランになっており、可愛らしい廟だ。横から見るとメロンに似ているので、地元の人々はカルブーズィー・グンバズ(メロン型の廟)と呼んでいる。


ビルキース・ジャハーン廟

 しかも内壁のフレスコ画の保存状態が非常に良く、一面花の絵で埋め尽くされている。まるで花畑に眠っているかのようである。とても女性的な廟でユニークだ。


廟内部

 ビルキース・ジャハーン廟へ通じる門の先から壁に沿って右に曲がり、タープティー河の方向へジープ道を進んで行くと、2つの大きな廟が見えて来る。一般的には「ナーディル・シャーとアーディル・シャーの墓」と呼ばれている。アーディル・シャーはラージャー・アリー・カーンのことで、16世紀後半にブルハーンプルを支配したスルターンである。しかし、ナーディル・シャーという名前のスルターンはおらず、混乱する。一説ではアスィールガルを騙し取ったナスィール・カーンのことだとされ、別の説ではラージャー・アリー・カーンの前のスルターンであるミーラーン・ムハンマド2世(在位:1566-76年)の墓だとされている。同時代のデリー(ローディー朝)の墓廟建築とよく似ている。


左がナーディル・シャーとアーディル・シャーの墓

 また、ビルキース・ジャハーン廟の門から右へ直進すると、ハズラト・シャー・ビカーリーまたはハズラト・シャー・ニザームッディーンと呼ばれるスーフィー聖者の廟がある。ラージャー・アリー・カーンの治世にブルハーンプルで人気を集めた聖者のようだ。ダルガー(聖廟)が現在までキチンと管理されているところからも、彼の人気の程が分かる。このダルガーの敷地内にはカーカー・ピールというもう1人の聖者の廟もある。元々ヒンドゥー教のサードゥ(遊行者)だったが、シャー・ビカーリーに感化されイスラーム教に改宗したとされている。


ハズラト・シャー・ビカーリー廟

 イトワーリー門から出ている道の交差点まで戻り、右に曲がって北へ向かうと、やがて遠くにもうひとつの廟が見えて来る。シャー・ナワーズ・カーン廟である。ムガル朝初期の重要人物である将軍バイラーム・カーンの孫に当たる人物の墓廟だ。この廟まで辿り着くまでの道は水の浸食によってボコボコになっており、通行するには多少勇気が要る。この廟は低い壁で囲まれた敷地内に立っており、門も残っている。門の建築は、なんとなくアーグラーのアクバル廟(スィカンドラー)の門の劣化版と言った感じだ。


シャー・ナワーズ・カーン廟の門


シャー・ナワーズ・カーン廟

 この廟は地元民から「カーラー・タージ・マハル(黒いタージ・マハル)」と呼ばれている。タージ・マハルとはそこまで似ていないのだが、地元民が想像力を働かせて勝手に名付ける名称はとても微笑ましいものだ。この墓廟の内壁の壁画も比較的よく残っている。赤と黒のツートンカラーとなっており渋い。


廟内部

 しかし、この墓廟でもっとも注目なのは、地下にある本物の墓まで行けることである。先にも説明したが、インドで発達したイスラーム教墓廟建築では、地上に偽の墓が置かれ、その地下に本物の墓が置かれる構造になっている。タージ・マハルの地下にもシャージャハーンとムムターズ・マハルの本物の墓が安置されており、そこまで行く通路があることまでは確認できるが、その通路は閉ざされている。現在、地下にある本物の墓まで一般観光客に公開している中世墓廟建築は、僕の知る限りこのシャー・ナワーズ・カーン廟を除いて存在しない。スィカンドラーのアクバル廟は1階に本物の墓が安置されていて一般開放されているが、これは特殊な構造で、逆に上階にある偽物の墓に一般人は行けない。デリーのスルターン・ガーリー廟はインド最初期のイスラーム墓廟建築で、地下に安置された墓に下りて行けるが、地上に偽の墓は置かれていない。よって、これらは例外と言っていいだろう。そうなると、シャー・ナワーズ・カーン廟がインドで唯一、地上にある偽物の墓と地下にある本物の墓の両方にアクセスできる墓廟だと言うことができる。地下通路は真っ暗だが、墓室には外からうっすらと光が入るようになっていて、昼間ならば懐中電灯などなくても墓が視認できる。


本物の墓が安置された地下墓室への入り口

 イトワーリー門近くの交差点まで戻り、右(イトワーリー門から見たら左)に曲がってまっすぐ道なりに進んで行くと、ブルハーンプル市街地の入り口に着く。ガーンディー・チャウクと呼ばれているようだ。アスィールガル方面からイッチャープル方面へ向かうハイウェイが通っているが、それ以外にガーンディー・チャウクから右の方へ向かう路地がある。その道を進んで行くと、まずはグルドワーラー(スィク教寺院)がある。スィク教の創始者グル・ナーナクや第10代グル・ゴービンド・スィンなどがブルハーンプルを訪れたとされており、その関係で市内にはスィク教関連の史跡もいくつか残っている。このグルドワーラーはバリー・サンガトと呼ばれており、グル・ゴービンド・スィンが説法を行った場所だとされている。


バリー・サンガト・グルドワーラー

 バリー・サンガト・グルドワーラーからさらに道を真っ直ぐ進んで行くと、ローディーと呼ばれる村に着く。ここにあるのがダルガーヘ・ハーキミーだ。イスラーム教シーア派の中の分派ダーウーディー・ボーラー派の聖者アブドゥル・カーディル・ハキームッディーン(1665-1730年)を祀った墓廟である。アブドゥル・カーディル・ハキームッディーンは子供時代にクルアーンを暗記してしまったほどの天才で、当代一流の学識者であった。彼の死後、何らかの諍いがあり、埋葬から3週間後に彼の遺体が掘り返されたのだが、彼の遺体は全く腐っていなかった。それを見て驚いた人々は再び彼の遺体を埋葬した。その逸話と、彼の「ハキーム(医者)」という名前の連想から、やがてハキームッディーンの墓に病気を治癒する力があると信じられるようになり、以後ダーウーディー・ボーラー派のイスラーム教徒にとって重要な巡礼地となった。このダルガーヘ・ハーキミーは、ゴミゴミとしたブルハーンプルの中にあって奇跡的に美しく管理されており、地元の人々からは「チョーター・アムリーカー(小米国)」と呼ばれていると言う。敷地の奥にはアブドゥル・カーディル・ハキームッディーンとその弟子たちの真っ白な墓が合計3つ並んでいる。何から何まで真っ白で、別世界のようである。廟に至るまでの道も美しく、本当に欧米のようだ。


ダルガーヘ・ハーキミー


敷地内

 ここからはブルハーンプル近郊の見所を2つ紹介する。まずはムガル朝時代の水利施設であるクンディー・バンダーラー。これはアクバルの大臣アブドゥッラヒーム・カーネカーナーンがブルハーンプル市内に上水を供給するために建造した大規模な水利施設である。世界史でイランの「カナート」という灌漑施設を習ったと思うが、あれと全く同じ原理が使われている。サトプラー山脈の地下水脈を地下貯水湖(バンダーラー)に貯め、それを人口の地下水路を使って都市部まで引っ張って来るシステムである。地下水路の上部には一定間隔を置いて通風・修理用に吹き抜けの縦穴が開けてあり、これをクンディーと呼んでいる。よって、地下水路が通っている場所には規則的に井戸のような円筒形の口が開いている。クンディー・バンダーラーをもっともよく観察できる場所が、ブルハーンプル駅を越えたところにある。サンワーラー門からステーション・ロードを直進し、線路をくぐってさらに真っ直ぐ行った場所にあるが、地元の人々に道を尋ねつつ行かないと迷うだろう。地元の人々はなぜか「クーニー・バンダーラー」と呼んでいる。クンディー・バンダーラーはマディヤ・プラデーシュ州観光局が管理しており、ちょっとした公園のようになっている。ここには1人乗りのエレベーターが設置してあり、これを使って地下25mまで潜り、地下水路を見学することができる(100ルピー)。ところが現在地下水路には水が溢れていて、残念ながら地下へ行くことはできなかった。


クンディー・バンダーラー

 もうひとつブルハーンプル郊外に位置する見所がマハル・グラーラーである。バリー・ウターオリー川を堰き止めたダムで、シャージャハーンによって建造されたパビリオンが川の両岸に建っている。ザイナーバードへ行くときに通ったアムラーヴァティー・ロードを、ザイナーバードで曲がらずにさらに直進するとスィンドケーラー(Sindkhera)という村があり、そこから左に曲がってまっすぐ行くと着く。王子の頃のシャージャハーンが太守としてブルハーンプルに赴任した際に、地元の美しい歌手グラーラーと恋に落ち、彼女と幾晩も月夜を過ごしたとされるのがこのマハル・グラーラーである。そんなロマンチックな場所も、現在では近くの村の女性たちの洗濯場となっていた。


マハル・グラーラー

 これでブルハーンプルの主な見所は大体紹介したことになる。他にバーラーダリーやラージャー・キ・チャトリーなど、アイシャー・グッドアースのガイドブックに掲載されていた見所にもいくつか行ったのだが、ここで特に言及するようなものでもなかった。ただ、あと1日使ってブルハーンプル旧市街を隈なく散歩してみたいという気持ちはあった。さらに面白いものがいろいろ見つかったのではないかという予感がする。やはりブルハーンプル観光に2日では時間が足りない。最低3日は必要だ。それほど豊富な見所を持つ場所である。なぜブルハーンプルのような中世の重要都市が観光地としてここまで低い知名度に甘んじているのか、本当に疑問だ。インドの主要な世界遺産を見尽くしてしまった人にはブルハーンプルを強くお勧めしたい。


「黒いタージ・マハル」周辺に住む子供たち

 本日の走行距離:130.3km、本日までの総走行距離:1,572.2km。ガソリン補給1回、500ルピー。

11月2日(金) ブルハーンプル→アウランガーバード

 本日の目的地はマハーラーシュトラ州の中心に位置する都市アウランガーバード(Aurangabad)。ムガル朝第6代皇帝アウラングゼーブは人生の最後の26年間をデカン高原で過ごしたが、そのときにムガル帝国の首都として整備された都市がアウランガーバードである。ムガル朝時代には皇帝と共に首都に住む8割の人口が動いたとされている。皇帝のキャンプは「動く国家」とまで呼ばれた。つまりは皇帝のいる場所が首都になるので、事実上、この時期も首都はデリーではなくデカン高原にあったことになる。しかし、多くの場合アウラングゼーブのデカン駐留は「遷都」と表現されない。変な話である。デリーという都市が本当に首都として固定的なステータスを持ったのは、皮肉なことに、ムガル朝皇帝の権威が失墜した後、つまりアウラングゼーブ死後の「ポスト大ムガル」時代となる。以降、デリーと皇帝の権威は逆転し、デリーを支配する者がインド皇帝を名乗る権利を有することになる。

 また、アウランガーバードが今日世界中の旅行者を迎え入れるようになったのは、なにもアウランガーバード自体に魅力があるからではない。たまたまアウランガーバードの近くにアジャンター(Ajanta)とエローラ(Ellora)という、インドを代表する2大世界遺産があり、アウランガーバードがそれらを観光するのに適した拠点になっているからである。アジャンターはブルハーンプルとアウランガーバードのちょうど中間地点にあり、アウランガーバードへ行く途中に立ち寄りやすい。アジャンターには既に2回行ったことがあるが、ついでなので休憩がてら最近のアジャンターがどうなっているか見に行くことにした。

 午前6時45分にブルハーンプルを出発。イッチャープル(Icchapur)へ向かう道を進み、マハーラーシュトラ州に入った。マハーラーシュトラ州は明らかに道の状態がマディヤ・プラデーシュ州よりもいい。国道6号線(NH6)はコールカーターとスーラトを結ぶ大動脈なので交通量が多かったが、ブーサーワル(Bhusawal)でアジャンターへ向かう非幹線に入っても、そこまで道は悪くならなかった。交通量が激減し、トラックが少なくなるので、むしろ国道を走っているときよりも快適に走行できた。この道はジャームネール(Jamner)を経由し、アジャンターへ抜ける近道となっている。

 アジャンターには午前9時15分に到着。アジャンターの石窟寺院群まで車両では行けないので、麓にある駐車場にバイクを駐めることになる。このシステムは2004年に始まり、前回来たときに経験済みである。バイクの駐車料金は5ルピー。その他、アメニティー・チャージという、他の観光地では普通取られない謎の料金を徴収される。10ルピー。

 アジャンターの石窟寺院群にはシャトルバスで行かなければならない。ところが、駐車場とシャトルバス乗り場の間には土産物屋が並んでおり、ここの売り子たちが非常にうるさい。いわゆるボッタクリがほとんどなので、ここではあまり買わない方がいいのではないかと思う。土産物屋の他、いくつか食堂が並んでいるので、そこで朝食を食べた。また、有料のクロークルームもあるので、荷物を預けることができた(ひとつ10ルピー)。

 シャトルバスは午前8時半から運行開始しているようだが、あまり時間通りに動いている感じではなかった。午前10時過ぎに発車した便に乗ったが、これが今日の第二便とのことであった。ACバスは20ルピー、ノンACバスは10ルピー。この料金は片道である。5分ほどで石窟寺院群の入り口に到着する。

 入り口では遺跡の入場料を支払う。外国人は250ルピーだ。階段を上って行き、チェックポストでチケットを見せると、ようやく石窟寺院群にありつける。


アジャンター石窟寺院群

 アジャンターに残る石窟寺院は紀元前2世紀から紀元後1世紀と紀元後5世紀から6世紀の2期に掛けて、馬蹄型を描く谷の断崖絶壁に造られた。全て仏教寺院・僧院である。建築的にも興味深い点が多いのだが、アジャンターを世界的に有名にしているのは壁画だ。特に第1窟と第2窟に残る壁画は保存状態も良く、何度見ても息を呑む素晴らしさだ。16世紀以降、細密画がインドで普及するまで、インドの絵画芸術はほとんど残っていないのだが、アジャンターに残るおそらく古代インド絵画の最高傑作が、たまたま現代まで残ることになった。


ボディーサットヴァ・パドマパーニ(蓮華手菩薩)
アジャンターでもっとも有名な壁画

 しかし、「こんなにきれいだったかな?」と言う壁画がいくつもあった。思い出は美化されるものであるが、アジャンターでは思い出よりも美化された壁画がそこにあった。やはりアジャンターにおいても建築物や壁画の修復作業が進んでいるようで、かつての姿とはだいぶ変わってしまっている。途中、サイト・オフィスがあったので、「いくら何でも修復し過ぎじゃないですか」と文句を言いに殴り込んだ。そうしたら親切に対応してくれて、建築物や壁画のビフォア・アフターの写真が収められたアルバムを見せてくれた。確かに壁画は以前よりも濃く美しくなっている。だが、それは表面の汚れを最新技術と化学的な方法を使って取り除いただけで、勝手に色を加えたりはしていないと言う。


修復作業が施された壁画

 アジャンター観光は、ガイドを雇ってひとつひとつの壁画の説明を受けて行くと半日は掛かってしまうだろう。また、石窟寺院群が並ぶ断崖絶壁を対岸から見下ろせるビューポイントがあり、そこまで往復しようとするとさらに時間が掛かる。しかし、それだけ時間を掛ける価値のある場所だ。僕は初めてではないためにさっさと最後まで石窟寺院を見て引き返したが、本当はもっとじっくり見るべき史跡である。


第9窟

 アジャンターの麓にある駐車場の食堂で昼食を食べ、午後1時にアジャンターを発った。アウランガーバードまで100kmほどであったが、途中雲行きが怪しくなり、やがて雨が降り出した。おかげで冷たい風が気持ちよかったが、雨が強くなる度に雨宿りを繰り返しながらの走行になった。そんなこともあってアウランガーバードに到着したのは午後3時過ぎであった。

 アジャンターから来た場合、アウランガーバードでまず目にするのはデリー門になる。インドの城塞の門は、その門が面する方向に位置する都市名に従って名付けられることが多い。デリー門は当然デリーの方向を向いていることになり、この門からデリーをつなぐハイウェイが出ていたことになる。

 アウランガーバードではロンリー・プラネットに掲載されていたホテル・パンチャワティーに宿泊しようと思ったが、やはり人気の宿になっていて満室だった。しかし、同じ経営のホテル・オーベローイに空き部屋があったので、そちらに宿泊した。ノンACルームとACルームは満室で、シングル1,300ルピーのエグゼクティヴルームにACルーム料金の950ルピーで泊まらせてもらった。

 実はアーグラーを出てから全くインターネットができなかった。ボーパールでWiFiありのホテルに宿泊する選択肢もあったのだが、井上想君の住む寮に泊めてもらったので、やはりインターネットに触れられなかった。それ以外の都市ではWiFiは全く望めなかった。観光客の多いアウランガーバードならだいぶ進んでいるだろうと考えたのだが、それでもWiFiは高級ホテルのみ利用可の贅沢品だった。ホテルの近くのネットカフェでLANケーブルを直接PCにつながせてもらい、ようやく1週間振りにメールチェックなどをすることができた。ラダックへツーリングに行ったときは、シュリーナガル、レー、マナーリーなどでWiFiは当たり前のように利用でき、インドもだいぶ進化したものだと感心したのだが、あれは特別なエリアだったようだ。

 夕食はホテル近くの老舗レストラン、スワードでグジャラーティー・ターリーを食べた。甘くて辛い不思議な味がてんこ盛りのグジャラーティー・ターリーはインド料理の中でも好物のひとつで、たとえグジャラート州でなくてもその名を見ると食べたくなってしまう。無制限で食べることができるので、腹ぺこ時には特に重宝する。

 本日の走行距離:235.3km、本日までの総走行距離:1,807.5km。ガソリン補給1回、500ルピー。

11月3日(土) ダウラターバード&クルダーバード

 今回のD2Dツーリングは、ムハンマド・ビン・トゥグラクによるダウラターバード遷都をルーズに辿ることが主な目的で、最終目的地はダウラターバードとなる。ダウラターバードには過去に1度だけ行ったことがある。ダウラターバードはアウランガーバードから15kmほどの場所にあり、目と鼻の先だ。とりあえずは最終目的地にゴールすることにした。午前7時半にアウランガーバードを出て、午前8時にはダウラターバードに着いた。


ダウラターバード遷都完了!

 ダウラターバードにはインドの城塞建築を代表する難攻不落の城塞が残っており、アウランガーバード周辺においてはアジャンターとエローラに次いで人気の観光地となっている。ダウラターバード(富の町)は元々デーオギリ(神の山)と呼ばれており、1187年から1318年までヤーダヴ朝によって支配されていたことが記録に残っている。それ以前から城塞があったとする説もある。14世紀に入るとデリー・サルタナト朝の侵攻を受けるようになり、1318年には戦争に敗北したヤーダヴ朝が滅亡、ダウラターバードはデリー政権の直接の支配下に入る。


ダウラターバード城塞遠景

 ダウラターバードがインド史の表舞台に登場するのは、ムハンマド・ビン・トゥグラクが首都をデリーからダウラターバードに移したときである。1320年代に段階的に遷都をして行き、最終的には大規模な人口移動が行われた。この遷都に関しては、デリーの全人口を強制的に1,100km離れたダウラターバードまで移住させたとする説もあるし、単に首都に住むイスラーム教徒上層部の移住に限られたとする見方もある。どちらにしろ、すぐに首都はデリーに戻され、デリー・サルナタト朝はデリーにてその後しばらく繁栄することになる。


ダウラターバード城塞
右の赤い塔はチャーンド・ミーナール

 政治史上ではダウラターバード遷都はこれだけの話だが、ヒンディー語とウルドゥー語の言語史の立場から見るともう少しインパクトが大きくなる。デリー・サルタナト朝樹立以降、デリーを中心に、ペルシア語を公用語とする外来イスラーム教徒、その末裔でインド生まれのイスラーム教徒、そしてインドの土着の人々の交流を経て育まれて来た言語が、ダウラターバード遷都に伴い、デカン高原に一気に広まったと考えられる。首都がデリーに戻された後も、ダウラターバードに移住した人々の多くはデリーに帰らずデカン高原に留まったとされており、彼らの末裔がデリーの言語を受け継ぎ、文学を発展させて行った。トゥグラク朝が弱体化したときにダウラターバードにはバフマニー朝という独立政権が樹立し、それが後に分裂して、現在のマハーラーシュトラ州、カルナータカ州北部、アーンドラ・プラデーシュ州北部を支配することになるが、その支配者層もデリーの言語を母語とする人々だったと考えられる。その後、ムガル朝時代にアウラングゼーブがデカン高原に長らく駐留したことで、再びこの地においてデリーの言語の普及が加速された。この「デリーの言語」こそが現在ヒンディー語またはウルドゥー語と呼ばれている言語の基礎となったものだ。ヒンディー語は、話者人口の多さと普及地域の広さからインドの公用語としてのステータスを獲得するに至ったが、それは中世の諸イスラーム王朝の賜物だと言える。


チャーンド・ミーナール

 ダウラターバード城塞は3層の城壁によって守られている。もっとも外郭の城壁はアーメールコートで、旧市街を取り囲んでいる、中間の城壁はマハーコートと呼ばれ、この城壁に設置された門が現在遺跡の入り口となっている。それより中に入るとカーラーコートという城壁があり、それを越えると堀で取り囲まれた200mの高さの切り立った岩山があり、その上に宮殿がある。平城と山城が融合したプランの城塞となっている。


カーラーコートの城門

 ダウラターバードの外国人入場料金は100ルピー。ダウラターバードの駐車場付近で城塞内の見所を紹介した「Pictorial Tourist Guide: Daulatabad」(60ルピー)という小冊子を売り子たちが売っているが、これは詳細な地図も付いていてダウラターバード観光にかなり役に立つ。これに従って歩いて行けば見所を見逃すことはないだろう。ただ、唯一アンデーリー(闇の通路)と呼ばれる部分だけはガイドの助けが必要となる。城塞内まで侵入して来た敵兵を暗闇の中で一網打尽にするために仕掛けられた巧妙な罠なので、1人でこの中に迷い込むのは危険だ。アンデーリーの入り口には必ず懐中電灯を持ったガイドがいるので、彼にガイドを頼むべきである。ダウラターバードの一番の見所はこのアンデーリーだ。


アンデーリーの入り口

 大半の観光客はこのアンデーリーで引き返してしまうが、アンデーリーを越えた先にもまだまだ宮殿は続いており、大砲が設置された山の頂上まで上って行ける。バーラーダリーと呼ばれる宮殿からはダウラターバードの四方を見渡せる上に吹きすさぶ風が気持ちよく、好きな場所である。


バーラーダリー

 ダウラターバード観光を終えた後、遺跡入り口前にある食堂で軽食を食べ、クルダーバード(Khuldabad)へ向かった。ダウラターバードから数kmの地点にあるクルダーバードにはアウラングゼーブの墓がある。アウラングゼーブはデカン高原の都市アハマドナガルで死去し、遺言に従ってクルダーバードのザイヌッディーン・ダーウード・シーラーズィー廟内に葬られた。アウラングゼーブはこの聖者廟に深く帰依していたのである。既に一度訪れたことがあるが、ここまで来たからには参拝しておきたかった。


クルダーバードの入り口

 ザイヌッディーン・ダーウード・シーラーズィー廟はクルダーバードに残るふたつの門をくぐった先の交差点の右手にある。パステルカラーの着色がされており、中もとても美しく整備されている。入るとモスクになっており、アウラングゼーブの墓の入り口はすぐ左手となる。


ザイヌッディーン・ダーウード・シーラーズィー廟

 ムガル朝の最大版図を実現したアウラングゼーブの墓は、皇帝の墓としては異例の簡素な墓となっており、アウラングゼーブの人柄が感じ取られる。


アウラングゼーブの墓

 ザイヌッディーン・ダーウード・シーラーズィー廟の前には、ブルハーヌッディーン・ガリーブ廟がある。ブルハーヌッディーンはザイヌッディーンの師匠であり、デリーのニザームッディーン・アウリヤーの弟子である。


ブルハーヌッディーン・ガリーブ廟

 ブルハーヌッディーンはハーンスィー(現ハリヤーナー州)の生まれで、デリーのニザームッディーン・アウリヤーの弟子となり、イスラーム教布教のためにデカン高原に遣わされた。彼はクルダーバードに居を定め、死後は同地に葬られた。一方、ザイヌッディーンはイランのシーラーズに生まれ、デリーを経てダウラターバードまで来た。彼のダウラターバード移住はムハンマド・ビン・トゥグラクによる遷都と関係している。ダウラターバードでブルハーヌッディーンの弟子となり、死後は師匠の墓廟の東側に葬られた。ザイヌッディーンは「バーイース・カージャー(22の聖者)」と呼ばれるが、これはチシュティー派の22代目のカリーファー(後継者)であるからで、しかも彼でチシュティー派の系譜が途切れるからだと言う。先日訪れたブルハーンプルとザイナーバードは、実はこの2人の聖者の名前から命名されている。それからもデカン高原におけるこの2人の聖者の影響力が分かる。


ブルハーヌッディーン・ガリーブの墓

 さて、クルダーバードを見終わり、正午になっていた。次の目的地には2つの選択肢があった。ひとつは、クルダーバードから3kmの地点にある世界遺産エローラを見ることだった。既に2回見ているので、絶対に行かなければならない訳ではない。もうひとつの選択肢はマーレーガーオン(Malegaon)であった。アウランガーバードから120kmほどの地点にある。マーレーガーオンでは独自の映画が作られていることで有名で、低予算B級映画の聖地のようなところである。ドキュメンタリー映画「Superman of Malegaon」(2012年)を見て一度行ってみたいと思っていた。マーレーガーオンの有名な映画監督シェーク・ナズィールには会えないまでも、マーレーガーオン映画のDVDやVCDが手に入らないかと考えていた。この2つの選択肢の内、エローラならかなり楽だ。マーレーガーオンまで行くとなると往復250kmはあるのでかなり疲れる。明日は長距離走る予定なので今日はあまり疲労しない旅程にした方が得策だ。それは分かっていたものの、未知の場所への誘惑は捨てがたく、マーレーガーオンへ行くことにした。ダウラターバードやエローラと方向はそんなに違わない。

 正午頃にクルダーバードからマーレーガーオンに向かった。道の名前は国道211号線(NH211)となる。この道はおそらくナーシク(Nasik)やムンバイーへの近道となっているために交通量が多い。しかし、途中からナーシク方面への道とは分かれ、交通量の少ない道となる。舗装状態は所々悪かったが、全体的には走りやすい道だった。デカン高原のなだらかな丘陵地帯を行く、楽しいドライブだった。

 午後2時半にマーレーガーオンに到着。国道3号線(NH3)上に位置するかなり大きな町であった。早速マーレーガーオン映画のDVDやVCDを探してみた。何人かに聞き込み調査をした結果、手に入る場所は分かった。ニュー・バススタンドの近くに海賊版のDVDやVCDを売る露店がひとつあり、そこで手に入るとのことだった。ところが、行ってみると全く在庫がなかった。ただ、マーレーガーオン映画のDVDやVCDを置いていることはあるようだ。店主のお爺さんは「ここになければマーレーガーオンのどこにもない」と豪語していたので、マーレーガーオンではいくら探し回っても見つからないだろう。2時間半掛けてマーレーガーオンまで来たのだが、残念ながら手ぶらで帰ることになった。しかし、「Superman of Malegaon」で見覚えのある風景があり、マーレーガーオンに来た実感はあった。帰りは来た道を戻り、午後5時半頃にはアウランガーバードに帰着した。


マーレーガーオンの露店DVD・VCD屋

 驚いたことにアウランガーバードには韓国料理レストランがある。宿泊のためにアウランガーバードでまずトライしたパンチャワティー・ホテルの付属である。あまり期待せずにアウランガーバードの韓国料理を食べに行った。このレストランは基本的にインド料理レストランで、頼まないと韓国料理のメニューを出してくれない。しかもメニューを見ても韓国料理っぽくない。かなり不安になったが、一番無難そうなビビンバ(Korean Mixture Rice)を注文した。インド米を使い、季節の野菜を並べただけの、今まで食べた中で最悪のビビンバであった。今日は壮大な空振りを2つもしてしまった。

 本日の走行距離:284.8km、本日までの総走行距離:2092.3km。ガソリン補給1回、500ルピー。

11月4日(日) アウランガーバード→マヘーシュワル

 ダウラターバード遷都を完了し、本日からいよいよ北上を開始する。しかし、デリーからダウラターバードまで南下するのに10日掛かったことからも分かるように、そうすぐにはデリーに戻れない。適切な中継地点を決め、それらの場所に停泊しながらデリーを目指すことになる。来た道をそのまま引き返すのはつまらないので、当然別の道を通る。アウランガーバードからデリーに向かう最短ルートはラージャスターン州経由の道になる。マディヤ・プラデーシュ州のマヘーシュワル(Maheshwar)、マーンドゥー(Mandu)、ラージャスターン州のチッタウル(Chittor)、アジメール(Ajmer)、ジャイプル(Jaipur)などを経由地として想定し、5-6日内にデリーに着くルートを決めた。今日はナルマダー河沿いの聖地マヘーシュワルを目指す。このルート上で唯一今まで行ったことのない町である。

 アウランガーバードを午前6時45分に出発。エローラへ向かう国道211号線(NH211)に乗った。昨日と同じ道なので迷うことはない。昨日はエローラ観光を諦めてしまったが、せっかくなので朝食休憩がてらメインのカイラース寺院だけでも参拝して行くことにした。外国人料金250ルピーに加え駐車料金が5ルピー掛かったが仕方ない。カイラース寺院はヒンドゥー教寺院としては珍しく西向きなので、本当は夕方観光するのが一番美しい写真が撮れる。


エローラのカイラース寺院
8世紀に100年以上の歳月を掛けて彫られた世界最大の「彫刻品」

 エローラの石窟寺院群入り口に立ち並ぶダーバー(安食堂)のひとつで朝食を食べ、午前8時半にエローラを発った。そのままNH211を北に進む。テーブルトップ型の山々が立ち並ぶ美しい光景が続く。道の舗装状態も上々で、しかも日曜日のためか交通量が少なめなので、快適な走行ができた。しかし驚いたことにチャーリースガーオン(Chalisgaon)の20kmほど手前からひとつ大きな山を越えることになり、峠道となった。デカン高原の道では時々峠を越えることになるが、この山が最大であった。道もそんなに広くなく、トラックがすれ違うのがやっとだ。おそらく中世にはデリー~ダウラターバード間を移動する際にわざわざこの山を越えるルートは取らなかったのではないかと思う。やはりブルハーンプル方面のルートでデリー市民はダウラターバードに来たのではなかろうか。

 コールカーターとスーラトを結ぶ国道6号線(NH6)と、アーグラーとムンバイーを結ぶ国道3号線(NH3)が交わる交通の要所ドゥレー(Dhule)には午前10時45分頃に到着。ここからNH3に乗ってインダウル方面へ向かう。グワーリヤル~シヴプリー間のNH3は、国道とは名ばかりの田舎道だったのだが、この区間は片側2-3車線、中央分離帯ありの見事な幹線道路であった。おかげで何の気兼ねもなく飛ばすことができた。もしかしてマハーラーシュトラ州からマディヤ・プラデーシュ州に入ったら道が悪くなるのでは、と邪推していたが、それは杞憂に終わり、マディヤ・プラデーシュ州に入ってからも同様の美しい道が続いた。

 途中、午後12時45分頃、セーンドワー(Sendhwa)を越えた辺りにあるジャムリー(Jamli)という場所のダーバーで昼食休憩をした。午後1時15分に出発し、NH3の北上を続けた。

 マヘーシュワルはNH3上にはなく、途中で国道を下りなければならない。マヘーシュワルへの道筋は全く示されておらず、自分で気を付けて正しい道を取らなければならない。ナルマダー河を越えてしばらく行ったところにある町ダームノード(Dhamnod)で国道を下りれば、マヘーシュワルまであと12kmほどである。

 マヘーシュワルには午後2時15分頃に到着。ところが宿泊場所を見つけるのに苦労した。マヘーシュワルのホテルはフォート内外に集中しているが、ちょうど団体観光客が押し寄せて来ており、このエリアのホテルは満室だった。そこで市街地から少し離れた場所で見つけたホテル・サンギニーという安宿に宿泊することにした。ノンACルームで600ルピーだった。

 マヘーシュワルはかつてマヒシュマティーと呼ばれており、「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」にも登場する古い町である。ナルマダー河沿いのガートを中心に形成された寺院街で、ヴァーラーナスィーやウッジャインなどと雰囲気は似ているが、マヘーシュワルはもっと静かでこぢんまりとしている。マヘーシュワルの象徴はナルマダー河を見下ろす壮麗なフォートである。元々はアクバルによって建造されたようだが、現存するものはホールカル家の女王アヒリヤー・バーイー(在位: 1767-95年)の居城として整備されたものであり、今でもホールカル家の所有物となっている。アヒリヤー・バーイーの治世にはマヘーシュワルはホールカル朝の首都であった。


マヘーシュワル城
遊覧ボートから撮影

 フォートの半分は宮殿ホテルとして営業しているが、残りの部分は一般公開されており、無料で見学することができる。アヒリヤー・バーイーが過ごした一角はホールカル家の歴史を紹介する博物館となっており、アヒリヤー・バーイーの王座(ラージガッディー)、彼女の等身大の像、いくつもの輿などが展示されている。また、複数の神像を納めた小さな寺院もある。


ラージガッディー

 フォートの中には巨大なシヴァ寺院もある。大きいだけでなく、非常に繊細な彫刻で彩られている。彫刻の多くは一風変わったモチーフで、ヨーロッパ人らしきものもある。それらをひとつひとつ見て歩くととても楽しい。


踊りを踊るヨーロッパ人カップル
その裏から銃を持った女性が・・・


チラリとこちらを向く象が1頭

 ナルマダー河の河畔にはモーターボートが並んでおり、遊覧客を募っている。河の真ん中にはバネーシュワル寺院というシヴァ寺院が立っており、そこまで往復するのが一般的だ。料金は1人150ルピー。フォートを綺麗にフレームに収めるにはボートに乗って河の上から撮るしかない。


マヘーシュワルのガート
遊覧ボートから撮影

 夕食はマヘーシュワル・コテージというレストランで食べた。マヘーシュワルはヒンドゥー教の聖地としては珍しく、町に酒屋があり、しかもこのレストランでも酒を出す。変わった作りのレストランで、表はバー、裏はファミリー・レストランとなっている。酒が社会的に悪とされるインドでは、バーとファミリー・レストランが一緒になっているのは異例である。このレストランのメニューも変わっていた。通常のインド料理に加えて見慣れないオリジナル料理がいくつか載っていた。試しに「ガンガー・ジャムナー・サラスワティー」というメニューを注文してみた。3種類のパニール料理がひとつの皿の上でパニール・ティッカーによって3分割されて提供された。パニールは嫌いではないが、パニールだけ3種類食べなければならないというのは結構辛い。全部食べ切れなかった。


ガンガー・ジャムナー・サラスワティー

 本日の走行距離:356.2km、本日までの総走行距離:2,448.5km。ガソリン補給1回、500ルピー。

11月5日(月) マヘーシュワル→マーンドゥー

 昨日は300km以上の長距離移動をしたが、今日はマヘーシュワルから60kmほどの地点にあるマーンドゥーに宿泊予定のため、かなり楽である。マーンドゥーには過去に一度訪れたことがあるが、再びフルで観光したく、早めにマヘーシュワルを出ることにした。

 午前8時30分過ぎにマヘーシュワルを出発。ダームノードまで戻り、市場の中を通り抜けてNH3に乗った。しかし、マーンドゥーへ行く分かれ道がすぐに左手に現れたため、片側2車線、中央分離帯ありのNH3を長く走ることはなかった。グジュリー(Gujri)の手前から分岐するこの道はダール(Dhar)まで続く。この道に入ってからから道路は非常に悪くなる。何十年も舗装していないような農道だ。デコボコの悪路がしばらく続くが、ダールとマーンドゥーを結ぶ道になると急に道の舗装状態が良くなる。通常、マーンドゥーを観光する場合はインダウルを拠点とし、ダール経由でマーンドゥーを目指す。体面を保つために観光客が通る道だけは舗装したようだ。この道路状況から察するに、マディヤ・プラデーシュ州政府はどうも州民を見た政治をしていないようだ。


マーンドゥーへ行く途中に見つけたサラーイ(宿場)跡

 マーンドゥーまでいくつかの村を通り抜け、午前10時15分にはマーンドゥーの城塞内に入った。マーンドゥーの村に入る車両にはティールトヤートリー・カル(巡礼税)が掛かり、二輪車は5ルピー徴収された。宿泊先はマーンドゥーに入って一番最初にあるホテル・ループマティー。ノンACデラックスルームで1,300ルピーであった。


マーンドゥーのデリー門
マーンドゥーへ車両で入る場合はこの門は通らなくてもいい

 マーンドゥーは元々マンダパドゥルガとかマンダピカなどと呼ばれていた。現在地元の人々は一般的にこの地をマーンダヴ(Mandav)と呼んでおり、道を尋ねるときやバスの行き先を確認する際などには「マーンダヴ」と発音した方が通りがいい。「マーンドゥー」はどうも観光客向けの名称のようである。どちらも古名が訛った形だ。


マーンドゥーの城塞が乗る台地

 マーンドゥーは標高634mある切り立ったテーブルトップ型の山の上に位置している。カークラー・コーと呼ばれるこの山の四方は城壁で囲まれており、インドを代表する難攻不落の城塞となっている。また、景観の美しさでも有名で、特に雨季のマーンドゥーはムガル朝皇帝ジャハーンギールから絶賛を受けている。


マーンドゥーにはアフリカからもたらされたバオバブの木が生育している

 いつ頃からカークラー・コー山に城塞が築かれたのかははっきりしないのだが、少なくとも10世紀には城塞があったようだ。デリーとデカン高原を結ぶ道の上に位置するマーンドゥーは13世紀からデリー・サルタナト朝の攻撃を受けるようになり、1305年、キルジー朝の頃にデリー政権の支配下に入る。しかし、ムハンマド・ビン・トゥグラクの治世にマールワー地方の太守を務めていたディラーワル・カーンは事実上独立状態となり、ティームールのデリー略奪でデリー・サルタナト朝が弱体化すると、1401年に完全独立し、グーリー朝を興す。


ディラーワル・カーンのモスク
マーンドゥーで最初のモスクで1405年建造
ヒンドゥー教やジャイナ教の寺院の建材を流用して造られた

ディラーワル・カーンの時代(1401-05年)にはグーリー朝の首都はダールに置かれたが、その息子ホーシャング・シャー(在位:1405-35年)は即位後に首都をマーンドゥーに移す。ホーシャング・シャーの時代にマーンドゥーは第一の黄金期を迎え、要塞化も進んだ。


ホーシャング・シャー廟
インド初の全白大理石建築
タージ・マハルのインスピレーション源のひとつとなった

 しかし、グーリー朝はホーシャング・シャーの息子が即位から間もない1436年に毒殺されたことで滅びる。代わってマーンドゥーの支配者となったのが、ホーシャング・シャーの息子を毒殺した張本人メヘムード・シャー(在位:1436-69年)であった。彼はキルジー朝を興す(デリー・サルタナト朝のキルジー朝とは別)。メヘムード・シャーは一方で好戦的な王で、周辺諸国との戦争を繰り返し領土拡大に努めるが、他方で善政を敷き大いに国を発展させた。彼の治世にマーンドゥーは第二の黄金期を迎える。ちなみに、チャンデーリーにバーダル・マハル門やコーシャク・マハルを建造したのもこのメヘムード・シャーである。


ジャーミー・マスジド
メヘムード・シャーが1454年に完成させた
ダマスカスのモスクを参考にしていると言う

 メヘムード・シャーの死後は長男ギヤースッディーンが即位する。ギヤースッディーンは父親とは対照的に平和的な支配者で、彼の治世にはほとんど戦争が起こらなかった。ギヤースッディーンのハレムには1万5千人の女性がいたとされる。様々な階級や職業の美しい女性が集められ、女性だけの町が作られたと伝えられている。また、ギヤースッディーンは500人のトルコ人女性護衛兵と500人のエチオピア人女性護衛兵を常に従えていたと言う。カッダーフィー大佐も顔負けだ。


ジャハーズ・マハル(船の宮殿)
湖に浮かぶ船のように見えるためにそう名付けられた
ギヤースッディーンが建造

 ギヤースッディーンは1500年に死去する。一説によると息子のナースィルッディーンによる毒殺だったと言う。同年、ナースィルッディーンが即位するが、彼の治世は10年しか続かなかった。その後息子のメヘムード2世が後継者となるが、1526年にグジャラートのムザッファル・シャーの侵攻を受け、マーンドゥーはしばらくグジャラート政権の支配下に置かれることになる。


ヒンドーラー・マハル(ブランコの宮殿)
これもギヤースッディーンの治世の頃の建築だとされる

 その後、ムガル朝のフマーユーンやスール朝のシェール・シャーなどの侵攻を次々と受け、マーンドゥーの支配者は頻繁に入れ替わった。そんな中、シェール・シャーによって任命されたマールワー太守シュジャート・カーンは事実上独立状態となり、その息子のバーズ・バハードゥルが1554年に完全独立を果たす。ところがバーズ・バハードゥルはゴーンド地方(マディヤ・プラデーシュ州東部)の支配者ラーニー・ドゥルガーワティーとの戦争に敗れ、以後政治や軍事に興味を示さなくなってしまう。代わって彼が没頭したのが音楽と美しい妃ループマティーである。バーズ・バハードゥルとループマティーのロマンスはマーンドゥーの象徴となっている。


ループマティーのパビリオン
ループマティーがマーンドゥーからナルマダー河を眺められるように
バーズ・バハードゥルが建造したとされる

 1561年、アクバルの将軍アドハム・カーンがマールワーに侵攻する。バーズ・バハードゥルはウッジャインの北東にあるサーラングプル(Sarangpur)で対峙するが敗走し、ループマティーは捕まってしまう。アドハム・カーンもループマティーの美しさに惚れ込み必死に言い寄るが、彼女はバーズ・バハードゥルへの愛を貫き、毒を飲んで自殺してしまう。


ループマティーのパビリオンから眺めたバーズ・バハードゥルの宮殿
バーズ・バハードゥルから求婚されたループマティーは
結婚の条件としてナルマダー河とバーズ・バハードゥルの宮殿の
両方が同時に見える場所に自分の宮殿を造るように要求した

 ムガル朝下でマーンドゥーはかつての栄華を失う。アクバル、ジャハーンギール、シャージャハーンなどがマーンドゥーを訪れた記録があるが、それ以降は歴史の表舞台からほとんど消え去る。1732年にはマーンドゥーはマラーター同盟のホールカル家の支配下に入る。


レーワー・クンド
ナルマダー河の水が湧き出ているとされる
曇りの日にナルマダー河が見られないことを悲しんだループマティーを
慰めるためにバーズ・バハードゥルが造った

 マーンドゥーはインドの観光地の中では「秘境」に分類されるだろう。確かに多くの観光客が詰め掛けるような場所ではない。しかし、ロンリー・プラネットなどのガイドブックにはしっかり記載されており、マーンドゥーの村では観光客向けの施設が揃っている。僕の目から見たら十分メジャーな観光地だ。それに、この10年の間に村はかなり発展したと感じた。


ジャハーズ・マハルにあるユニークな形の覗き窓

 マーンドゥー城塞内には無数の遺跡が散らばっているが、大きく5つのグループに分類される。王宮(ロイヤル・エンクレイヴ)グループ、レーワー・クンド・グループ、セントラル・グループ、サーガル・ターラーオ・グループ、そしてハーティー・マハル・グループである。この内、最初の3つのグループは別々のチケットになっており、外国人料金は100ルピーだ。それ以外のグループに入場料金はないが、マーンドゥーの主な見所は要チケットのグループに集中している。よって、外国人はマーンドゥー観光には300ルピー掛かることになる。


ヒンドーラー・マハル内部

 10年前に訪れたときにはレンタルサイクルでマーンドゥーを巡った。サーガル・ターラーオ・グループやハーティー・マハル・グループを含め、アクセスが容易な遺跡は全て網羅した積もりである。よって、今回は要チケットの3グループに加え、バイクでないとなかなか行けないような僻地の遺跡を巡ることに決めた。主要3グループの遺跡については上に写真を掲載したので、改めて触れることはしない。


ジャハーズ・マハルの水路

 今回初めて訪れた遺構のひとつはジャハーンギールプル門である。マーンドゥー城塞の最東端にあり、自転車ではなかなか行きづらい。途中かなりの悪路があるので、バイクでも困難なほどである。マーンドゥー村からレーワー・クンド・グループへ行く道の途中に東へ逸れる細い道があり、それをまっすぐ行けば2-30分ほどで着く。しかし舗装道はすぐに途切れ、東へ進めば進むほど悪路が待っているので覚悟が必要だ。しかも、ジャハーンギールプル門の保存状態はかなり悪く、苦労して見に行くだけの価値はあまりない。


ジャハーンギールプル門

 このジャハーンギールプル門のすぐそばには小さな洞窟があって、地元の人々が案内してくれた。絶えず水が滴り落ちており、地面には水が溜まっている。奥の方には鍾乳洞のようになっている部分もあった。


洞窟

 マーンドゥーの最西端にはソーンガルという城壁で囲まれた小高い山がある。これはマーンドゥー城主の非常用避難場所として使われていたようで、敵がマーンドゥーに侵攻して来た際に最後に立てこもる要塞となっていたようである。ソーンガルの入り口であるソーンプル門にも行った。ニールカント宮殿からさらに先に行ったところにある。この門はホールカル家によって建造されたもので比較的新しい。


ソーンプル門

 マーンドゥー村からニールカント宮殿へ向かう道の途中からは、南にあるターラープル門への細い道も分岐している。この門の保存状態は比較的よく、堅固さが今でも伝わって来る。こちらへの道はそこまで悪くないので、自転車でも簡単に行けるだろう。


ターラープル門

 マーンドゥーも遺跡が豊富な場所で、全てを丁寧に見て行くと最低でも2日は掛かる。やはり主要な遺跡を中心に整備・修復作業が進んでおり、ジャハーズ・マハルなどは見違えるほどピンク色になってしまった。村もだいぶ発展した。それでもマーンドゥーはまだまだのどかな雰囲気を十分残しており、依然としてお気に入りの場所である。



 本日の走行距離:96.9km、本日までの総走行距離:2,542.4km。ガソリン補給1回、500ルピー。

11月6日(火) マーンドゥー→マンドサウル

 今日はマーンドゥーから真っ直ぐラージャスターン州のチッタウルへ向かう予定だった。ところが昨日、マディヤ・プラデーシュ州観光開発公社(MPSTDC)経営のマールワー・リゾート・マーンドゥーに立ち寄ってみたところ、アイシャー・グッドアースのガイドブックがいくつか手に入り、周辺地域の観光情報が一気に増えた。それに伴い、予定を変更して、マーンドゥーからチッタウルの間の気になる場所に寄り道しながらデリーへ向かうことにした。

 マーンドゥーとチッタウルの間には、ダール、ラトラーム(Ratlam)、マンドサウル(Mandsaur)、ニーマチ(Neemuch)などの都市がある。これらの都市や周辺地域の観光情報はほとんど知られていない。ロンリー・プラネットでも全く無視されているエリアである。しかし、決して何もない地域ではない。

 個人的には以前からマンドサウルに関心があった。ボーパールやインダウルの考古学博物館を訪れたときに、マンドサウルなる聞き慣れない場所からの出土品がやたら多いことに気付き、絶対に何かある地域だと予想していた。しかし、マンドサウルの観光情報は乏しく、今まで訪れる機会はなかった。

 今回の旅の貴重な情報源となっているアイシャー・グッドアースのトラベルガイド・シリーズであるが、「Ratlam, Mandsaur and Neemuch」という正にこの空白地域を集中的に扱った本も出ていた。この本を手にしたことで、マンドサウル周辺の観光が一気に楽になった。また、同シリーズの「Mandu」もマールワー・リゾートで手に入り、ここにダールを含むマーンドゥーからアクセス可能な観光地の情報が載っていた。その中でダールの他に気になったのがバーグ・ケーヴス(Bagh Caves)であった。5-6世紀の仏教石窟寺院で、アジャンターのように壁画も残っていると言う。

 これらの観光情報を吟味し、今日の宿泊地をマンドサウルに設定して、ルート上にある気になる場所を可能な限り巡ることにした。しかし、時間の見通しが甘く、それらの全てを訪れられた訳ではない。

 午前8時過ぎにマーンドゥーを発ち、まず向かった先はバーグ・ケーヴス。マーンドゥーから130kmほどの地点にある。まずはダールへ行き、そこから西のジャーブアー(Jhabua)方面へ向かう。この道は国道59号線(NH59)で、マディヤ・プラデーシュ州の商都インダウルとグジャラート州の中心都市アハマダーバードを結ぶ重要な道路だ。それにふさわしい、片側2車線、中央分離帯ありの素晴らしい道だった。まだ未完成で、工事中のために迂回しなければならない区間もあったが、9割以上はきれいな舗装道である。このNH59をひたすら西に進むと午前9時45分にサルダールプル(Sardarpur)に着いた。この町がバーグ・ケーヴスへの分岐点となる。国道を下り、南へ向かう道を行く。1.5車線の農道だが、舗装状態は悪くなく、交通がほとんどないので、しばらくは順調な走行であった。

 ところがしばらくすると峠道となり、山をひとつ越える。その辺りから道は悪くなった。ターンダー(Tanda)という小さな町を越え、バーグ(Bagh)に着いたのは午前11時頃。驚いたことにバーグはかなり大きな町だった。アジャンターやエローラの周辺には大きな町はなく、バーグ・ケーヴス周辺地域に対しても同様の雰囲気を予想していたのだが、鉄道駅も幹線も通っていないにも関わらずバーグは町と呼んで支障がない賑わいであった。インドの奥地をバイクで旅行すると、僻地にもかなりの規模の町があることによく驚かされる。

 しかしながらバーグ・ケーヴスはやはり市街地にはなく、バーグを越えて7kmほど行った静かな場所にあった。バーグ・ケーヴスへの道標は同地からあと3kmほどの地点に来るまで全くなく、人に道を尋ねながら進まなければならない。ヒンディー語が話せて読めないと1人で来るのは難しいかもしれない。バーグ・ケーヴスに到着したのは午前11時15分頃だった。


バーグ・ケーヴス

 バーグ・ケーヴスを訪れる観光客はほとんどいないはずなのだが、インド考古局(ASI)によって厳重に管理されており、入場料も要る。外国人料金は100ルピーだ。懐中電灯を持ったガイドが石窟寺院を案内してくれる。


石窟寺院

 バーグ・ケーヴスの石窟寺院はバーグニー川沿いに伸びる低く横に長い山の山腹に一列に並んでいる。ここには7つの石窟寺院があり、アジャンターやエローラと同様に各石窟寺院には番号が振られている。バーグニー川に架かる橋を越えて階段を上るとNo.3があり、左にNo.2、右にNo.4-7がある。これらは隣り合って並んでいる。唯一No.1だけはかなり離れた場所にあり、特に見るべきものはないと言うので行かなかった。


石窟寺院内部
これらの柱は新しく追加されたもの

 バーグ・ケーヴスでは極度に積極的な修復作業が行われており、天井が落ちて崩壊した石窟寺院に柱を立てて、屋根と壁で覆ってしまうほどの規模である。また、保存状態のいい壁画は削り取って近くの博物館に収蔵しており、元々絵があった場所にはその写真が貼ってある。博物館内は写真撮影禁止なので、それらの壁画の写真を撮ることは叶わなかった。壁、天井、柱の模様など、それほど重要ではない壁画は石窟寺院内でそのまま保存されているが、アジャンターとは異なり照明設備が整っていないので、じっくり鑑賞することも撮影することも困難である。


壁画
アジャンターとは質が全く違う

 アジャンター第1窟のボーディサットヴァ・ヴァジュラパーニ(金剛手菩薩)の原型となったとされる壁画など、重要な壁画は全て博物館に所蔵されている。解説は意外と丁寧にしてある。しかし、絵はあまり鮮明ではなく、説明されないと何か分からないぐらいだ。考古学的・歴史学的には非常に重要な石窟寺院であろうが、物見遊山の観光客にはインパクトに欠ける遺跡だ。特にアジャンターを見て来た後では力不足過ぎる。過剰な修復作業が行われているのも興醒めである。拠点となるマーンドゥーから130km離れており、100ルピーの入場料を支払わなければならないことを考え合わせると、観光地としてのアピールはあまりない場所だと感じた。


バーグ・ケーヴス博物館

 正午にバーグ・ケーヴスを出発、来た道を戻った。ところがターンダーから先の峠道でトラブル発生。悪路のせいだろうか、後輪のチェーンカバーが割れて半分外れてしまった。これがガタガタと鳴るのでうるさいし、チェーンやタイヤに触れるので危険だ。そこでサルダールプルのガレージでチェーンカバーを取り外してもらった。チェーンカバーはチェーンを石や泥から守ったり、主にサーリーやスカートを着た女性が後部座席に乗るときに裾が巻き込まれないようにしたりするためのもので、これがなくても走行自体には全く問題はない。

 サルダールプルを出たのが午後1時半頃だった。ここでひとつの誤算が発覚。手持ちの地図には載っていなかったのだが、サルダールプルからラトラームへ行く新しい道が出来ていた。もしダールの観光を済ませてからバーグ・ケーヴスまで来ていれば、この道を通ってラトラームまで行くことができた。この道がない場合、ラトラームへ行くには一旦ダールまで戻らなければならないので、ダール観光は後回しにしていたのだった。ダールの城塞だけは一度見ておきたかったので、NH59を通ってダールに戻ることにした。

 ダールに着いたのは午後2時15分。ダール城への入り口はラトラーム・ロードにあり、ちょうど良かった。4つの城門をくぐり、バイクで上まで上って行くことができる。「ダーラーギリ」と呼ばれる小高い山の上に建つダール城はムハンマド・ビン・トゥグラクによって1344年に建造されたと言う。ダウラターバード遷都後、再びデリーに首都が戻されるときに建造されたことになる。


ダール城の門

 ダール城塞の管理状態はとても悪い。まず、城塞内には博物館があるのだが、「博物館」という表示は全くなく、展示物の質・量も大したことはない。しかもその管理人は外国人から100ルピーの入場料を取ろうとする。「博物館」の看板もなければ入場料金についての説明もないし、そもそもチケットを持っていない。さらに、博物館には電気が通っておらず、展示物がよく見えない。こんな状態の博物館に100ルピーも払いたくなかったので、僕は払わず立ち去った。城塞内に残るいくつかの建物は自由に見学できる。やる気のない警備員が見守っているが、建物の中には入れてくれない。ダール城でもっとも保存状態が良い建築物はカルブージャー・マハル(メロンの宮殿)と呼ばれている2階建ての建築物だ。屋根のドームがメロンに似ているためにそう名付けられたと言う。ムガル朝時代に建造されたとされている。1階に7部屋、2階に4部屋あるとのことだが、扉は閉ざされており中に入ることはできない。


カルブージャー・マハル

 ダール城塞の建築は見るべきものがあったが、管理状態が最悪で、後味のいい観光地ではない。他にダールにはモスクなどがあるが、そちらはスキップし、午後2時45分頃にラトラームへ向けて出発した。

 ダールとラトラームを結ぶ道は25kmほど片側1車線、中央分離帯なしの、通常の田舎道だ。しかし、ナーグダー(Nagda)からはインダウルとアジメールを結ぶ国道79号線(NH79)となり、片側2車線、中央分離帯ありの立派な道となった。この道を時速80km以上の速度で北上し、午後4時15分頃にラトラームに到着した。

 ラトラーム周辺で訪れたかったのはサイラーナー(Sailana)であった。サイラーナーは同名の藩王国の首都だった場所で、現在でも一定の大きさの町となっている。サイラーナーは、独自のレシピによる王家料理で有名である。しかもその料理を造るのは宮廷料理人ではなくマハーラージャー自身。サイラーナー王家は皆一級の料理人なのである。マハーラージャーが料理の腕を振るうようになったのにはこんな経緯がある。
 サイラーナー藩王国のマハーラージャー・ダリープ・スィン(1891-1961年)はあるときゲストと旅行中に料理人とはぐれてしまい、食事に困ることになった。そのときからマハーラージャーは、サイラーナーの王族は料理を修得すべしと誓った。料理を学んだダリープ・スィンはそれだけでは飽きたらず、ゴーシュト・カ・ハルワー(山羊肉のお菓子)やグラーブ・キ・キール(バラの乳粥)などの新レシピを発明した。また、後継者のマハーラージャー・ディグヴィジャイ・スィンは「Cooking Delights of the Maharajas」(初版1983年)を出版し、サイラーナー料理を全国的に有名にした。
 残念ながらサイラーナーには有名なサイラーナー料理を出すレストランは存在しない。しかし、サイラーナーに残るマハーラージャーの宮殿ジャスワント・ニワース・パレスをヘリテージ・ホテルとして一般開放する計画が進行中で、それが実現した暁には、宿泊者はサイラーナー料理に舌鼓を打つことができるようになりそうだ。アイシャー・グッドアースのガイドブックには2013年までの開業が見込まれていると書かれていたので、どんな感じになっているか見てみたかった。あわよくばサイラーナー料理にありつこうと思っていたことは言うまでもない。

 ラトラームからサイラーナーまでは25kmほどある。ラトラームは町中に信号があるレベルの大きな町で、サイラーナー方面に抜けるまで多少時間が掛かった。ラトラームからは片側1車線、中央分離帯なしの道となる。サイラーナーには午後5時頃に到着。市場を通り抜け、ジャスワント・ニワース・パレスへ向かった。市場の真ん中に建っているので分かりやすい。


ジャスワント・ニワース・パレス

 残念ながらジャスワント・ニワース・パレスはまだホテルとして営業しておらず、マハーラージャーもいなかった。しかし、ジャスワント・ニワース・パレスにはひとつユニークな見所がある。カクタス・ガーデンである。この宮殿の庭には世界中から1,200種以上のサボテンが集められ植えられており、一般開放されている。入場料は10ルピーである。中には樹齢50歳以上の巨大サボテンもある。


カクタス・ガーデン

 これらは先代のマハーラージャー、ディグヴィジャイ・スィンのコレクションで、自らテニスコートを掘り起こしてサボテン園にしてしまったと言う。日に5-6時間はサボテンの世話をし、出先からは必ずサボテンを持ち帰っていたらしい。先代亡き後は庭師が一手に世話を引き受けており、訪問客を丁寧に案内してくれる。サボテンの花が開花するのは4-5月頃らしく、カクタス・ガーデンはその頃が一番美しいようだ。


カクタス・ガーデンのフレンドリーな庭師
現在では彼が世話をしている

 既に日が傾き始めていた。サイラーナーを午後5時15分頃に出発。ラトラームまで戻る必要はなく、サイラーナーからはNH79上のジャーオラー(Jaora)に通じる田舎道が通っている。サイラーナーからジャーオラーまでは35kmほど。この道を通っている間に日没となり、辺りが暗くなってしまった。ジャーオラーに着いたのは6時過ぎだった。いつの間にかだいぶ日が短くなり、この時間には真っ暗になってしまう。

 インドのツーリングの鉄則として、日没後はハイウェイを走らないことを決めているが、ここに来てタブーを犯すことになってしまった。ジャーオラーからマンドサウルまでは45kmほど。中央分離帯のある広い幹線なので、対面通行の道よりは危険度が低いが、未知の道であることもあって路上に何があるか分からない。最大限の注意を払って走行した。

 午後7時30分頃にマンドサウルに到着。マンドサウルでも宿泊先を見つけるのに苦労した。アイシャー・グッドアースのトラベルガイドで紹介されていたホテル・ギーターンジャリーに当たってみるが満室だと言われてしまった。近くのホテル・ニーラムで聞いてみたら空き室ありとのことだったので、ここに即決。しかし僕が外国人であることが分かると、Cフォームがないために宿泊不可だと言われてしまった。

 「Cフォーム」とは、外国人がホテル宿泊時に記入させられることになる書類である。マネージャーはこれを地元警察に提出する。このデータは最終的にはデリーの外国人登録局(FRRO)まで届き、それによって外国人の国内移動が逐一監視されることになる。外国人が宿泊することを想定していないホテルではCフォームを常備していないことがほとんどで、それを理由に外国人は宿泊を断られることがある。僕はこれを「Cフォーム・トラップ」と呼んでいる。Cフォームに無知・無頓着なマネージャーは泊めてくれるが、過去に外国人を勝手に泊めて警察からおしおきされたりしたマネージャーは難色を示すだろう。Cフォーム・トラップがあるので、実はインドでは観光客が普通来ない場所を外国人が旅行するのは難しい。

 しかし、僕は観光ヴィザでインドに入国した通常の旅行者ではない。駄目元で「インド在住だからインドの住所を書いておけば大丈夫だろう」と言ってみたら、インドの住所が記載された写真付きIDの提出と引き替えに宿泊を許してくれた。話の分かるオーナーで助かった。僕は学生証を使ったが、PANカードやインドの運転免許証でもOKだろう。厳密に言えば国籍を偽って違法にホテルに宿泊したことになる。しかし、そうでもしなければ超マイナー観光地のマンドサウルでは宿は見つからないだろう。ちなみにこの宿はかなり安く、シングルで230ルピーであった。久し振りにこのレベルの安宿に泊まった。


ホテル・ニーラムのロビーにあった年季物の操作盤

 今日はどうも旅程のミスや思わぬハプニングのせいで、思った通りの旅ができなかった。バーグ・ケーヴス、ダール城塞、サイラーナー・パレス以外には、ビルパーンク(Bilpank)のヴィルーパークシャ・マハーデーヴ寺院、ラトラームのラトラーム・パレス、ジャーオラー近くのフサイン・テークリーなども訪れてみたかったのだが、とでもじゃないが時間が足りなかった。マーンドゥーから出発した場合、まずダール観光をし、バーグ・ケーヴスまで往復して、サルダールプルから直接ラトラームへ行く新しい道を通れば、これらのいくつかは訪れることができたかもしれない。また、バーグ・ケーヴスを訪れた後だから言えることなのだが、バーグ・ケーヴスは飛ばしても良かっただろう。

 本日の走行距離:430.9km、本日までの総走行距離:2,973.3km。ガソリン補給1回、750ルピー。

11月7日(水) マンドサウル→ニーマチ

 マンドサウルから次の宿泊予定地となるニーマチまではNH79で直接つながっており、距離は50kmほどである。しかし、マンドサウルの東にある巨大なガーンディーサーガル湖をグルッと回って行くルートがある。このルート上にはいくつか見所が点在している。ほとんど観光客が訪れない、マディヤ・プラデーシュ州の最僻地だ。それらの観光情報が手に入ってしまったからには行かざるを得ない。


マンドサウルの夜明け
ホテル・ニーラム4階より撮影

 午前7時半にホテルをチェックアウトして出発。まずは早朝でも見学可なマンドサウルの見所を巡った。最初に向かったのはパシュパティナート寺院。シヴナー川の河畔に建つシヴァ寺院である。


パシュパティナート寺院

 この寺院は古くはないが、本尊となっているシヴァリンガは非常に古いものだ。河畔で洗濯をしていたドービー(洗濯屋カースト)が1940年にたまたま見つけたもので、シヴァの顔が8面彫られている。マンドサウル地域の彫刻は質の高さで知られているが、このシヴァリンガは今まで見たものの中でも一二を争う素晴らしさであった。


八面シヴァリンガ

 次にソーンドニーの柱群(Pillars at Sondhni)と呼ばれる遺跡を見に行った。パシュパティナート寺院への参道入り口からラトラーム方面に曲がって数km行くと左手に看板が立っている。踏切を越えた先にこの遺跡がある。528年にマールワーの王ヤショーダルマンが、中央アジアからインドに侵入したエフタルの王ミヒラクラとの戦争に勝利したことを記念して立てた2本の柱が残っている。現在では1本の柱だけ立っており、残りは地面に倒れた状態で保管されている。12mの高さで、一番上にはライオンの彫刻がある。


ソーンドニーの柱群

 パシュパティナート寺院とソーンドニーの柱群の間には考古学博物館があるのだが、午前10時からの開館のため見学することはできなかった。これらの見所を見終えた後、午前8時半にマンドサウルを出発し、東へ向かった。

 マンドサウルから東に約30km、きれいな舗装道を進んだところにあるスィーターマーウー(Sitamau)は、かつてスィーターマーウー藩王国の首都だった町で、現在でも小高い丘の上に宮殿が残っている。スィーターマーウーには午前9時頃に到着した。宮殿は現在ステート・バンク・オブ・インディアのオフィスとなっているが、外からの見学なら自由にさせてもらえた。


スィーターマーウー・パレス

 スィーターマーウーにはナトナーガル・ショード・サンスターンという研究者向けの図書館もある。スィーターマーウーの王ラグヴィール・スィンは研究者肌の人物で、アーグラー大学で文学博士号を取得した初のインド人である。彼が収集した貴重な文献――ヒンディー語、マラーティー語、ペルシア語、ウルドゥー語、サンスクリット語、英語などの言語で書かれた3万5千冊の書籍、6,500点の写本、17万通の手紙など――がこの図書館に所蔵されており、一般人にも公開されている。どんな文献があるのか見てみたかったが、やはりここも午前10時開館で、まだ早すぎた。今日も盛りだくさんの予定となっているため、開館を待たずに先へ進むことにした。スィーターマーウーを出たのは午前9時15分頃だった。

 次の目的地は、チャンドワーサー(Chandwasa)という村の近くにあるダルマラージェーシュワル寺院群である。この寺院へ行くために僕が取った道を説明する。まずスィーターマーウーの市街地を直進して抜け、しばらく進んだ。この道は道路拡張工事中のためか非常に悪く、舗装部分がほとんどない悪路だ。30kmほど走っただろうか、川に架かる橋を渡った先にある村で左に曲がって1.5車線の農道を進んだ。舗装は途中までで、その後は砂の道が続く。しかし、メールケーラー(Melkhera)という町の近くまで来るときれいな舗装道となる。メールケーラーの市街地に入る前に三叉路に出るので、それを左折して舗装道を進む。この道を直進するとチャンドワーサーであるが、村の2km手前に左へ進む砂利道があり、これを進んで行くと、チャンドワーサー村とダルマラージェーシュワル寺院を結ぶ舗装道に出る。寺院群はその先にある。ダルマラージェーシュワル寺院群に着いたのは午前11時頃だった。この道が距離にすると一番近道だと思うのだが、途中しばらく未舗装道があるので、最善の道ではないと感じた。おそらくスィーターマーウーからガンガーダル(Gangadhar)方面を回ってメールケーラーに出る別の迂回路があり、そちらは全面的に舗装されているのではないかと思う。

 小高い丘に位置するダルマラージェーシュワル寺院群には、エローラのカイラース寺院の小型版とも言えるヒンドゥー教の石彫寺院と、アジャンターと似た仏教の石窟寺院が残っている。石彫寺院は8世紀の建築で、中心にメインとなる大きな寺院が建ち、その周辺に小さな寺院が5つ並んでいる。カイラース寺院と比べると見劣りするが、十分見る価値のある建築だ。中央の寺院の聖室の奥にはシヴァ神とヴィシュヌ神の融合体であるハリハルが祀られているが、後に聖室の中央部にシヴァリンガ置かれ、今ではシヴァ寺院として機能している。

 仏教石窟寺院群の方はさらに古く5世紀のものだと言う。この丘には300以上の石窟寺院が残っているとされるが、一般の観光客が容易にアクセス可能なのは14だけだ。地元の人々はこれらの石窟寺院を、「マハーバーラタ」に登場するビームが作ったものだと考えており、特にNo.12の僧院はビーム・バーザール(ビームの市場)と名付けられている。涅槃仏も残っているが、地元民はそれを「この洞窟を作り終わった後にビームが寝ている姿」と考えているらしい。しかし、明らかにこれらは仏教寺院で、どの寺院にもストゥーパが納められ、いくつか仏像も見られる。壁画こそ残っていないものの、バーグ・ケーヴスと比べるとありのままの姿で保存状態も悪くなく、シヴァ寺院と併せて一見の価値のある遺跡となっている。バーグ・ケーヴスよりもこちらの方が断然面白い。

 ただし、奇妙なことにダルマラージェーシュワル寺院群では写真撮影が禁止されており、写真を撮りたい人はボーパールのインド考古局オフィスで許可を取って来なければならないらしい。僕は警備員を拝み倒してシヴァ寺院だけは写真を撮らせてもらった。しかし、発掘が進行中の遺跡以外で写真撮影が全面的に禁止となっているものは今まで見たことがなく、ここの警備員の勘違いなのではないかと邪推している。


ダルマラージェーシュワル寺院

 ダルマラージェーシュワル寺院群を午前11時半に出発。メールケーラーまで戻り、そこから左折して、バーンプラー(Bhanpura)を目指した。この辺りの道もきれいな舗装道で、交通量もほとんどなく、快適な走行であった。ガロート(Garot)を経てバーンプラーには午後12時半頃に到着した。

 バーンプラー市内の見所は考古学博物館である。かつて英国に立ち向かうためバーンプラーに大砲工場を設立したヤシュワント・ラーオ・ホールカルの記念碑であるチャトリーの敷地がそのままオープンエアーの博物館となっている。チケットはないが、写真撮影には50ルピーを支払う。バーンプラー博物館には、近くにあるヒングラージガル(Hinglajgarh)から出土した石像が陳列されている。オープンエアーなので二級品しかないと思うなかれ、デリーの国立博物館に所蔵されていてもおかしくないレベルの一級の彫刻がいくつも展示されている。


バーンプラー考古学博物館
地元では「チャトリー」と呼ばれている

 もっとも有名なのはナンディー像だ。威厳高く座るナンディーに神々の眷属たちがラッドゥー(お菓子)を捧げている。ほぼ完全体で出土しており、彫刻のレベルも素晴らしい。


ナンディー像

 もうひとつ有名なのはウマー・マヘーシュ像。シヴァがナンディーの上に座り、パールヴァティーがシヴァの膝の上に乗っている。周辺にはラクシュミー、サラスワティー、ガネーシュ、カールティケーヤもいる。やはり繊細かつ温かみのある彫刻で、かつてこの地域に優れた彫刻の文化が花開いていたことを思わせる。


ウマー・マヘーシュ像

 他にも素晴らしい彫刻が所狭しと並んでおり、こんな一級品の彫刻がこんな無防備な状態で展示されていることに疑問も感じる。しかし、はるばるバーンプラーまで来たことに十分報いてくれる場所だと言える。


何となく日本の漫画キャラっぽい石像

 バーンプラーの北側にはテーブルトップ型の山があり、博物館の辺りからそちらへ向かうことができる。この山にはチョーター・マハーデーヴとバラー・マハーデーヴという2つの寺院があり、それらの名前を出せば容易に道を知ることができる。この山を目指したのは、「cupule」を見つけるためだった。「cupule」とはどんぐりなどを覆うお椀型の物体のことであるが、どんぐりを拾いに山に入った訳ではない。原始人たちが洞窟の壁などに作ったお椀型のへこみのことを英語では「cupule」と呼んでおり、適切な日本語訳は知らない。これは、壁画を描くことを覚える前に人類が残した「人類最初の芸術」と呼ばれており、10万年から2万年前まで遡ると言われる。バーンプラーのこの山のどこかに560個以上の「cupule」が残っていると言う。しかし、地元の人々は全くこのことを知らず、看板も何もないため、一人で探すことになった。手掛かりは山の北側にこれらが残っているという情報だけだった。山の南側の麓にあるバラー・マハーデーヴ寺院から山の上まで上れる道があり、そこから上へ上って北へ向かった。古い寺院が残っている辺りから北側へ出て、崖を丹念に調べて回ったが、全く見つからなかった。この「cupule」を発見したプラデュマン・バット氏は、「cupule」をならず者たちから守るために、これらが残った洞窟を草木で覆ってしまったと書かれており、やはり何の手掛かりもないままでは見つけるのは無理そうだった。30分ほど彷徨ったが、何の収穫もなく引き返すことになった。


この山のどこかに「cupule」があるはず・・・

 次に向かったのはヒングラージガルである。バーンプラー博物館の展示物が出土した場所だ。ヒングラージガルには城塞が残っており、城塞内にはヒングラージ女神を祀る寺院があって、参拝客を集めている。ヒングラージ女神はパーキスターンのバローチスターン州にあるヒンドゥー教寺院の本尊である。主にクシャトリヤ・カーストの氏神となっているようで、クシャトリヤの移動に伴ってヒングラージ女神を祀る寺院がここに建立されたようだ。その後、軍事的に重要な地域となったために寺院周辺に城塞が建造されたとされる。ヒングラージ城塞がどれくらい古いのかはっきりしないのだが、パルマール朝(10-13世紀)の頃に最盛期を迎えたようだ。その後、バーンプラーの支配者チャンドラーワト家によって支配されていたが、1733年にアヒリヤー・バーイーがこの城塞を占領し、修復を行った。

 バーンプラーからガーンディー・サーガル(Gandhi Sagar)へ向かう道を12kmほど進むと、右手にヒングラージガルへ向かう道が分岐している。この道は数kmだけ舗装されているが、その後は赤土の道となる。そのまま道なりに進んで行くと平野となり、さらには森林の中に入る。道は細いし、所々石と岩の道になるため、一般の乗用車ではアクセスは困難であろう。やがて城門が現れ、それをくぐり抜けると、ヒングラージガルからの出土品が並ぶ場所に出る。ここからヒングラージ寺院へ通じる石畳の道も出ている。テーブルトップ型の台地に建つ山城ではあるが、既に台地の上に立った状態からアクセスするので、上り道を上る必要はなかった。この城塞には4つの門があり、崖側に面する門からは下に道が伸びている。


ヒングラージガルの城門

 ヒングラージ寺院は台地の端に位置しており、徒歩でしかアクセスできない。かなりの僻地だと思っていたが、生きた寺院で参拝客が訪れるため、寺院には警備員もいたし、お供え物を売る店も数軒あった。ヒングラージ寺院の建物自体は古くない。聖室には2つの像が並んでいた。どちらもヒングラージ女神だと言う。


ヒングラージ女神

 ヒングラージガルの城塞内には他にもいくつか遺構が残っているようである。しかし、それらを巡っている時間はなく、ヒングラージ女神を参拝しただけで立ち去ることになった。ヒングラージガルを出たのは午後3時15分過ぎだった。


城壁

 本日最後の目的地はチャトゥルブジナート・ナーラー。ここは原始人や原住民が描いた岩絵で有名だ。ヒングラージガルからメインロードまで戻って、ガーンディー・サーガルへ向かう道を進むと、すぐに右手にチャトゥルブジナート・ナーラーへ通じる赤土のジープ道が現れた。これをひたすらまっすぐ進んで行くとチャトゥルブジナート寺院に出る。川が流れる小さな谷の崖の上に建つ小さな寺院である。ところが、岩絵のある場所がどこなのか全く分からない。寺院にいた人に聞いても要領を得ない答えである。おそらく川底まで下りて行かなければならないのだが、下りる道が見当たらない。岩絵サイトを探してしばらく彷徨ったが、ここでもガイドがいないと無理そうだった。諦めて引き返すと、ちょうど遺跡のチャウキーダール(警備員)がいた。彼が言うには、岩絵サイトへの道はこちらではなく、途中で左に曲がらなければならないらしい。確かに途中左へ向かう道があったが、何の看板もなかったので直進してしまった。また、既に午後4時を回っており、もう岩絵を見るには遅いと言う。チャウキーダールの話では、ガーンディー・サーガルにゲストハウスがあり、そこに宿泊できるらしい。今日はニーマチまで行く予定だったが、もしガーンディー・サーガルで宿泊できれば、翌朝岩絵を見てニーマチ経由でアジメールまで十分行ける。ガーンディー・サーガルで宿泊できることを信じ、今日はチャトゥルブジナート・ナーラーの岩絵を見ることは諦め、ガーンディー・サーガルへ向かった。

 一般に「ガーンディー・サーガル」と呼ばれている地点にはガーンディー・サーガル・ダムがある。ガーンディー・サーガル・ダムはチャンバル河に造られたダムのひとつで、1954年から1960年に掛けて建造された。このダムによって面積700k㎡の湖が形成されており、ガーンディー・サーガルと呼ばれている。このダムによって水没することになった地域に住んでいた人々は、ガーンディー・サーガルの周辺に移住して住んでいる。これらの集落にはNo.1, No.3, No.8のように無機質な命名がされている。No.1にヴィシュラームグリハ(レストハウス)があったのでまず当たってみたが、No.3のゲストハウスから許可が下りないと宿泊できないと言う。そこでNo.3のゲストハウスへ行ったが、現在コレクター(徴税官)が訪問予定で誰も泊めさせることはできないと断られてしまった。また、普通は外国人に部屋を提供していないらしい。またも宿泊問題に直面することになった。

 2つの選択肢があった。ひとつはガーンディー・サーガルから30kmほど戻った地点にあるバーンプラーで宿を探すこと。バーンプラーにも一応ホテルはある。しかし、前述のCフォーム・トラップがあるため、バーンプラーで外国人が泊まれるようなホテルがあるかどうかは不明である。もうひとつの選択肢は予定通りニーマチまで行ってMPSTDC経営のツーリスト・モーテルに宿泊すること。ニーマチにはMPSTDC経営のホテルがあることが、ガイドブックや途中に立っている看板などから分かっていた。経験上、州観光局経営のホテルならどこでも確実に外国人は宿泊できる。しかし、ガーンディー・サーガルからニーマチまでは100kmある。この時点で午後4時45分頃になっていたので、ニーマチに着くまでに日が暮れてしまう。また、ニーマチまで行ったらチャトゥルブジナート・ナーラーまで戻って来るのは大変だ。考えた結果、日没後のハイウェイ走行というタブーをまたも犯すことにはなるが、宿があることが確実なニーマチへ向かうことにした。

 ところで、ガーンディー・サーガル周辺やガーンディー・サーガル・ダム敷地内の道はとてつもなく悪い。ダム完成時に舗装して以来、一度も舗装し直していないのではなかろうか?インドではダムは重要機密となっている。ダムが通り道となっていることが多いので、その場合はダムの敷地内を通ることは可能だが、写真撮影は厳禁だ。おそらくこのダムに近付く者をなるべく減らすために道路の舗装をわざとしていないのだと思う。そんな意図を感じてしまうほどの悪路だった。あまりの悪路に、このルートを通る公営路線バスの運転手は、舗装するまでバスを運転しないと言ってずっとストライキをしていると聞く。よって、この地域では私営のバスしか運行されていない。

 バーグ・ケーヴス近くの悪路による振動と衝撃のせいで昨日はバイクのチェーンカバーが割れてしまったが、今日はこのガーンディー・サーガル周辺の悪路を走行中になんと前方のナンバープレートが落っこちてしまった(もちろん拾った)。ナンバープレートを支えるプラスチックの部分が根本から折れた感じだ。もうカリズマには寿命が来ているのかもしれない。もうすぐ購入して8年になる。特にプラスチックのパーツが老朽化しているようで、どんどん壊れている。まるでカリズマが断捨離を実行しているかのようだ。今までは走行に支障のない部分が壊れているが、タイヤやエンジンなど重要な部分が断捨離されるようなことがあっては立ち行かなくなる。もうこのカリズマで長距離ツーリングは難しいかもしれない。

 それでも、ガーンディー・サーガル・ダムを過ぎてしばらくするときれいな舗装道となり、飛ばすことができた。日が沈み、辺りが暗くなるまでは舗装道が続いた。ニーマチに近付くとまた道が悪くなるが、もう真っ暗になっていたため、スピードを出さなくて済んだ。やがてNH79に出た。この交差点にはMPSTDC経営のツーリスト・モーテルへの道標があり、助かった。

 ツーリスト・モーテルはニーマチの北側にあり、僕はニーマチの東側からアプローチしていた。ニーマチの東半分にはNH79がバイパスとして通っている。よって、NH79を通って北側まで回り、そこからニーマチに南下した。そうすれば2kmほどでツーリスト・モーテルに到着する。ところが、駐車場には多くの自動車が駐まっており、嫌な予感。「ヴィダーヤク(州議会議員)」と書かれた車もある。レセプションで聞いてみると満室で部屋はないとのことで、嫌な予感は的中した。しかし、レセプションの人はとても親切で、代わりのホテルを紹介してくれた。しかも、ニーマチではマンドサウルのようなCフォーム問題はないと言う。その言葉に勇気づけられ、紹介してもらったホテルを目指した。

 そのホテルの名前はホテル・バラト・パレスと言い、ニーマチのファッワーラー・チャウク(Fawwara Chowk)にある。この辺りはホテル街となっており、いくつもビジネスホテル的な宿が並んでいた。このホテル・バラト・パレスが大当たりだった。宿泊料も安いし(シングル800ルピー)、部屋にはギザ、テレビ、ACなど、一通り設備が整っている。しかも、自室で無料でWiFi利用可能。この値段でこれだけの設備が整ったホテルに出会ったのは、今回のツーリングでは初めてだった。この旅に出るまで、ニーマチは全くノーマークの町だったのだが、意外にこのニーマチがもっともコストパフォーマンスの高い滞在となった。ちなみに、ツーリスト・モーテルの方の宿泊料は2,000ルピー前後する。WiFiもないだろうし、ホテル・バラト・パレスに泊まれて本当に良かった。ホテル・バラト・パレスにチェックインしたのが午後7時45分頃だった。

 ニーマチは19世紀に英国の駐屯地となったことから歴史が始まった比較的歴史の浅い町である。主な産業は石灰岩、農業、綿花などであるが、もっとも特殊なのは阿片だ。インドで阿片の原料となるケシの花の栽培が始まったのは15世紀からで、ムガル朝時代には阿片製造は国家の専有事業となり、中国との貿易において重要な輸出品となっていた。ムガル朝に代わってインドの覇権を握った英国東インド会社も阿片の生産と貿易を独占した。1840年に英国と清の間で勃発した阿片戦争は、英国がインドで生産した阿片を中国に大量に輸出したことが原因となったことはよく知られている。その阿片の原料となったケシの花は実はニーマチで栽培されていた。ニーマチの気候と土壌がケシの花栽培に最適だったからで、その頃からニーマチはインドにおけるケシの花栽培の一大産地になっている。現ウッタル・プラデーシュ州ガーズィープルに阿片工場があり、当初はニーマチで採れたケシの花はそこに送られて阿片が生産されていたが、1935年にはニーマチにも阿片工場が建設され、現在に至るまで医療用に麻薬が生産されている。もちろん、ケシの花は政府の厳重な監視下で栽培されている。2月中旬にはニーマチ周辺のケシの花畑は満開になると言う。

 本日の走行距離:344.0km、本日までの総走行距離:3,317.3km。ガソリン補給1回、500ルピー。

11月8日(木) チャトゥルブジナート・ナーラー

 昨日はチャトゥルブジナート・ナーラーの間近まで迫りながら岩絵を拝むことができず、そこから100km以上離れたニーマチまで来てしまった。ニーマチからはNH79を介してチッタウルまですぐで、そこからはいわゆる「黄金の四角形」ハイウェイが始まる。しかも、バーンプラーからニーマチまでの道は半分くらいは確信犯的なとんでもない悪路で、二度と通りたくなかった。愛機カリズマも断捨離を始めている。どう見てもこのままデリーに向かうのが正常な判断であった。

 先を急ぎたいもうひとつの理由は、アジメールのモイーヌッディーン・チシュティー廟に木曜日の夜に行ってみたいという願望があったからだ。スーフィー聖者の廟を訪れるのにもっとも適した日時は木曜日の夜(ジュメー・ラート)である。今日ニーマチを出れば夕方までには余裕でアジメールに到着する。アジメールからは1日でデリーに行くことも可能だ。

 しかし、チャトゥルブジナート・ナーラーの岩絵を見てみたいという欲求を抑えるのは難しかった。ニーマチでたまたま宿泊したホテルがWiFi使い放題で宿泊料も高くなく、居心地が良かったことも後押しになった。行かずに後悔するよりは、行って後悔する方がずっとマシだ。ニーマチにもう1泊し、日帰りでチャトゥルブジナート・ナーラーを往復することを決断した。

 午前8時半頃にニーマチを出発。町をガーンディー・サーガル方面へ抜けて、昨日来た道を引き返す。ニーマチからしばらくは穴ぼこだらけの悪路が続くが、マナーサー(Manasa)を過ぎた辺りからきれいな舗装道となり、これがラームプラー(Rampura)以降も続く。この辺りの光景は、ガーンディー・サーガルと長細い山に囲まれた非常に美しいものだ。ガーンディー・サーガル・ダム付近から道は一気に悪くなり、それがチャトゥルブジナート・ナーラーへの分岐点まで続いた。そこからは赤土のジープ道となる。この道を直進するとチャトゥルブジナート寺院に出てしまうが、寺院に着く直前に左に折れる道があり、それを軌跡通りに道なりに進んで行くと、岩絵がある場所の上に着く。道が途切れた辺りにバイクを駐め、川の方へ向かうと、石が階段状に積まれていて、河原まで下りて行けるようになっている。それを下りると、「ギャラリー」と呼ばれる岩絵密集地帯となる。午前11時半頃に到着した。ニーマチからはどうしても3時間掛かる。


チャトゥルブジナート・ナーラーの「ギャラリー」

 「ナーラー」とは「小川」という意味のヒンディー語で、チャトゥルブジナート・ナーラーとはチャトゥルブジナート川だと理解すればいいだろう。近くに建つチャトゥルブジナート寺院から名付けられた。この川は東から西へ流れているのだが、この川が何万年もかけて削って来た南北の岩壁の形が、ちょうど川に突き出した屋根のようになっている。その屋根の下の空間は人が住むのにちょうど良さそうだ。正にこの洞穴にかつて原始人が住んでおり、その岩壁にたくさんの岩絵を残したのである。6,000年以上前の岩絵から、紀元後10世紀頃の比較的新しい岩絵まで残っている。


岩絵

 岩絵と言うと、同じマディヤ・プラデーシュ州のビームベートカー(Bhimbetka)のものが有名で、世界遺産にも登録されている。チャトゥルブジナート・ナーラーの岩絵も、数、種類の豊富さ、そしてロケーションの美しさなど、ビームベートカーに勝るとも劣らない。ただ、ビームベートカーには「ズー・ロック」と呼ばれる、動物の絵がまとまってたくさん描かれた場所があり、一番の見所となっているのだが、チャトゥルブジナート・ナーラーではそのような分かりやすいメイン・アトラクションを欠いているかもしれない。河沿いに突き出た岩の屋根の下の浅い洞穴にずらりと絵が並んでおり、「ギャラリー」という通称に納得だが、観光客に対して部分的に切り取って提示できるようなものはあまりなかった。


岩絵

 絵のテーマは動物や狩猟に関するものが多い。牛、鹿、サイ、象、ラクダなどと思われる絵が確認された。また、弓矢、剣、斧などを持った人間の姿もある。それ以外に農耕をしていると思われるものもあった。幾何学模様では、スワスティカ(卍)やチャクラ(車輪)らしきものもあり、ヒンドゥー教などとの共通点も見られる。


牛を使って畑を耕している絵であろうか?

 これらの岩絵は誰が何のために描いたのだろうか?未だに定説はない。男性が描いたのだろうか?それとも女性だろうか?性別関係なく絵を描いていたのだろうか?呪術的な目的で描いていたのだろうか?それとも何かを記念するため?これらの素朴な絵を眺めていると興味は尽きない。ビームベートカーやチャトゥルブジナート・ナーラーだけでなく、この辺りには多くの場所で同様の岩絵が見つかっており、一定の文化圏を形成していたと思われる。よって、1人の芸術家による天才的なひらめきで岩絵が出現したのではなく、何千年もの積み重ねによって徐々に発展して来たものであろう。チャトゥルブジナート・ナーラーの岩絵だけを見ても、タッチに個人差があり、決して単独で描かれたものではないことが分かる。点描に挑戦したらしきものも発見した。


お父さんお母さんと子供たち?
左の人、日の丸を持っているように見える

 チャトゥルブジナート・ナーラーの岩絵は小川の南北に5kmに渡って点在しているのだが、一般の観光客が容易にアクセスできるのは、その内の700mほどである。それでも、それらをざっと見て回るだけで1時間から1時間半は掛かる。


何重にも重ね書きされた岩絵

 チャトゥルブジナート・ナーラーを見終わった後はニーマチへ向かってSH31Aを走り出した。昼時になっていたため、ガーンディー・サーガルNo.8のボージナーラヤ(食堂)で昼食を食べた。ガーンディー・サーガル・ダムを渡ったのが午後2時くらいであった。

 ガーンディー・サーガルとニーマチの間にもいくつか見所があるため、それらに立ち寄りながら帰った。まず立ち寄ったのはラームプラー。ラージャスターン地方とマールワー地方を結ぶ要衝ムクンダラー峠の麓に位置する町で、これらの地域の支配者同士が激突して来た場所である。おそらくデリーからデカン高原へ向かう道のひとつがここを通っていたのではないかと思う。ラームプラーは現在では静かな町だ。ラージャスターン州の古い町に似た雰囲気で、石畳の狭い路地が入り組んでいる。町中に入るとイスラーム教徒が多いことにも気付く。一番高いところには宮殿が残っているが廃墟となっており、その一部がテヘスィールダール(徴税官)の事務所になっている。宮殿のある辺りまで上るとガーンディー・サーガルがよく見渡せる。


ラームプラーの宮殿

 宮殿の裏には高い山がそびえ立っており、その切れ目に関門らしきものが残っている。これがムクンダラー峠であろう。峠の左にはシヴァ寺院、右にはダルガーと壁モスクらしきものが見えたが上まで上らなかった。


ムクンダラー峠

 次に立ち寄ったのはククレーシュワル(Kukureshwar)のサハストラムケーシュワル・マハーデヴ寺院である。ククレーシュワルはSH31A上にあるが、この寺院へ行くには町の中を通り抜けて行かなければならない。湖畔に建つ寺院の建物は、ホールカル家のトゥコージー・ラーオ2世によって19世紀に建立された比較的新しいものだが、聖室に納められた小さな千面シヴァリンガは非常に古いものだと思われる。


サハストラムケーシュワル・マハーデヴ寺院

 最後に立ち寄ったのはバードワー女神寺院。グプタ朝時代から信仰されているというこの女神は、どんな難病でも治す強力な力を持っているとされ、地元の人々からは「病院」とまで呼ばれている。ニーマチの人々に周辺の見所を聞くと必ずこの寺院の名前が出て来る。それほど信仰を集めている寺院である。


バードワー女神寺院

 寺院自体はその他のヒンドゥー教寺院とそう変わらない。しかし、ここを訪れるのは何らかの病気を抱えた人ばかりで、寺院の境内には車椅子の人、抱えられて歩いている人、寝込んでいる人など、不健康そうな人ばかりがいる。


バードワー女神

 ニーマチのホテルには午後5時15分頃に到着。日没前の帰着という非常に理想的な日程であった。ここ2日間は日没後にハイウェイ走行を余儀なくされ精神をすり減らされたが、久々に楽な旅程を楽しむことができた。

 おそらく、マンドサウル県とニーマチ県の観光をするには、外国人にとっては現状ではニーマチを拠点とするのが一番無難なのではないかと思う。マンドサウルやバーンプラーでは宿泊に大きな問題がある。それに比べてニーマチのホテルは、英国人によって築かれた町であるためか、外国人に比較的オープンだ。MPSTDC経営のツーリスト・モーテルでもいいし、僕が宿泊したホテル・バラト・パレスもお勧めできる。ニーマチを拠点とし、1日はチャトゥルブジナート・ナーラーとヒングラージガルを日帰りで観光、1日はマンドサウルとダルマラージェーシュワル寺院群を日帰りで観光という日程にするとちょうどいいだろう。マンドサウル観光を別の日に半日ですることにして、マンドサウル方面からダルマラージェーシュワル寺院群へ行けば、バーンプラーまで行って博物館を見てニーマチまで帰って来ることも十分可能だと思う。一方、ラトラームとその周辺の見所の観光はウッジャインやインダウルを拠点とした方が都合がいいだろう。バーグ・ケーヴスは、アクセスが困難で入場料金を取られる割には修復がされ過ぎていて面白くない。一般の観光客は、わざわざ行かなくてもいいのではないかと思う。

 本日の走行距離:237.4km、本日までの総走行距離:3,554.7km。ガソリン補給1回、800ルピー。

11月9日(金) ニーマチ→アジメール

 マールワー地方(マディヤ・プラデーシュ州西部)でだいぶ寄り道をしてしまったので、今後は一直線にデリーを目指す。とは言っても1日で600km以上先のデリーまで行くのは無理だ。どこか途中で1泊しなければならない。デリーまでの中継地点として便利な位置にあるのがアジメールである。インドにスーフィズムをもたらした張本人の1人カージャー・モイーヌッディーン・チシュティーの聖廟がある町で、僕の好きな場所のひとつである。アジメールは中世から近代までラージャスターン地方を支配する重要拠点として発展して来たが、ラージャスターン州を陸路で走破しようとすると、その重要性が改めてよく分かる。グジャラート地方やマールワー地方からデリーを目指そうとすると必ずアジメールを通ることになるし、逆にアジメールまで出るとラージャスターン州の各都市にアクセスしやすくなる。迷わずアジメールに1泊することを決めた。また、ニーマチの北にある見所や、通り道に位置するチッタウルにも立ち寄ることにした。

 午前8時45分頃にホテルをチェックアウトして出発。ニーマチの町を北に抜けてNH79に出た。片側2車線、中央分離帯ありの快適な舗装道を進んで行くと、ナヤーガーオン(Nayagaon)という村がある。ここからハイウェイを下り、右に進むと田園の中にセメント工場が立っているのが見えて来る。この辺りはセメントの一大生産地となっている。ヴィクラム・セメントの工場や踏切を越えてしばらく行くとコール(Khor)という村がある。その村の先にあるのがナヴァトーラン寺院である。11世紀の寺院で、美しいトーラン(門)が残っていることで知られている。寺院のマンダパにはヴァーラハ(ヴィシュヌの化身のひとつで猪)が置かれており、これがヴィシュヌ寺院であったことが分かるが、現在寺院内にはシヴァリンガが置かれており、シヴァ寺院に転用されている。この周辺ではシヴァ寺院に転用された元ヴィシュヌ寺院が多いようで、その歴史的背景が気になるものだ。


ナヴァトーラン寺院

 ナヴァトーラン寺院を見終わって出発したのが午前9時半頃だった。NH79まで戻り、北上を再開した。すぐにマディヤ・プラデーシュ州の州境があり、そこから先は片側1車線、中央分離帯なしの道になってしまった。舗装状態も良くないし、この辺りは砂埃がすごいので、全く快適な道ではない。このような道がラージャスターン州に入った後も続き、チッタウルまでこの調子だった。

 チッタウルには午前11時15分に到着。チッタウルにある城塞チッタウルガルは歴史的にも文学的にも非常に重要な舞台となった場所だ。2004年に訪れたときに詳しく書いたので(参照)、ここでは繰り返さないが、やはり今一度この威風堂々たる城塞と相見えると身震いするものがある。8年前はチッタウルの宿で借りたバイクでこの城塞を巡った。あの旅行中に、デリーに置いて来たバイクが盗まれてしまい、それを知らされた中での傷心の旅であったのも思い出した。ついこの前のようにも思えるのだが、あれからもう8年も経ってしまった。驚きを禁じ得ない。


チッタウルガル

 今回、チッタウルガルでは主な見所を簡単に巡ることしかしなかった。まずはGoProでチッタウルガルへのアプローチから城塞一周を撮影し、その後はクンバーの宮殿、ミーラー寺院、勝利の塔、パドミニーの宮殿などを見物した。チッタウルガル全体の外国人料金は100ルピーである。チケットオフィスはいくつもの城門をくぐり抜けて城塞の上まで出たところにあり、チケットを買うと同時にここでチケットを切られるが、パドミニーの宮殿で再度チケットのチェックがあった。


勝利の塔

 チッタウルガルにはいくつもの遺跡が点在しており、本気でそれらを見て回ろうとしたら最低でも1日は必要である。8年前と比べてやはり修復が極度に進んでおり、見違えるほどきれいになっていた。しかし、その過剰な美化には依然として疑問を感じずにはいられない。


パドミニーの宮殿

 ちょうど昼時になっていた。城塞内には売店やカフェテリアなどもあるのだが、昼食が食べられるような場所はなかった。そこで城塞から下りてすぐのところにあるレストランで食事をした。おそらく8年前にもここで食事をしたはずである。内装などに見覚えがあった。



 チッタウルを出発したのは午後1時15分頃だった。アジメール方面へ向かうと、しばらくして片側2車線、中央分離帯ありの幹線に出る。いわゆる「黄金の四角形」の一部で、北インドの大動脈のひとつだ。道の舗装状態はとてもいいが、さすがにトラックの交通量が桁違いで、今まで通って来た道に比べると走行の快適さは劣る。

 ナスィーラーバード(Nasirabad)で「黄金の四角形」ハイウェイを下り、アジメール方面へ向かう一般道を進んだ。ちょっとした峠道になっており、ひとつ山を越えるとその先にアジメール市街地が見え始めた。そのまま道なりに進んで行くと駅前まで到着した。

 アジメールでは、以前宿泊したことのあるハヴェーリー・ヘリテージ・インに泊まった。古いハヴェーリー(屋敷)をホテルとして開放している比較的安価なヘリテージ・ホテルで、家族経営のアットホームな宿だ。駅やダルガーなどへのアクセスもいい。前回来たときはリノベーション中だったが、今ではきれいにペイントしてあり、立派なヘリテージ・ホテルになっていた。宿のオーナーは僕のことを覚えていないようであったが、すぐに温かく迎え入れてくれた。ちなみに1泊1,135ルピーだった。

 チェックインした後、早速ダルガーを参拝した。一応カメラを持って行ったが、相変わらずダルガーはカメラ持ち込み禁止であった。ダルガーの東側にクロークルームがあるので、そこにカメラなどの荷物を有料で預けることができる。境内は金曜日のマグリブ(夕方)の礼拝直前だったためかとても混雑していた。頭に布を巻き、他の参拝客と同じく聖者に捧げる花を持ってダルガー内に入ったら、誰にも話し掛けられなかった。ダルガーにはカーディムと呼ばれるガイドがいて、普通ダルガーを訪れた物見遊山の外国人にはカーディムが付き添うのだが、今回は全く無視された。あまりに日焼けし過ぎてパッと見もう外国人に見えないのだろう・・・。しかし、おかげで観光ではなく本当に参拝した気分になれた。


カージャー・モイーヌッディーン・チシュティー廟前の大通り

 夕食はホテルで食べた。宿のオーナー夫人手作りのインド料理で、家に帰って来たかのような優しく温かい味がした。宿泊客のほとんどはインド人であった。名門メイヨー大学に通う子女を持つ親たちが何らかの行事に参加するためアジメールに滞在中で、彼らがほとんどの部屋を占めていた。1人ロシア人の若い男性旅行者がいて食卓も一緒だったので旅の話をしてみた。午前中にプシュカル(Pushkar)へ行ってからアジメールに来たようだ。実はプシュカルは個人的にインドで一番嫌いな場所である。今回アジメールまで来たが、隣にあるプシュカルには行こうとも思わなかった。彼にそれとなくプシュカルはどうだったか聞いてみたら、やはり嫌な目に遭ったと言っていた。なぜかプシュカルのことを気に入る外国人旅行者もいるので一概には言えないのだが、僕はプシュカルを最悪の場所だと思っている。


ダルガー近くの露店カバーブ屋
シーク・カバーブ1皿20ルピーなり

 本日の走行距離:288.8km、本日までの総走行距離:3,843.5km。ガソリン補給1回、500ルピー。

11月10日(土) アジメール→デリーと総括

 今日はアジメールから一気にデリーへ向かう。その距離はおよそ400kmである。道中にはジャイプルを初めとしていくつか見所があるが、それらはスキップして、日没までのデリー到着を目指す。

 午前9時15分にアジメールを出発。アジメールから東に30kmの地点にあるキシャンガル(Kishangarh)から再び「黄金の四角形」ハイウェイに乗った。ここからは国道8号線(NH8)となる。ほとんどの区間で片側2-3車線、中央分離帯ありの道が続く。特に片側3車線あるととても運転が楽だ。何も考えなくてもトラックなどの追い抜きができる。所々フライオーバーや道路拡張の工事中だったが、この辺りは概して快適な走行が続いた。

 午前11時15分頃にジャイプルの郊外に差し掛かった。ジャイプルにはバイパスがあるため、市街地を通り抜けなくてもいい。だが、このバイパスはまだ完成していなくて、アジメール方面からデリーに抜けようとすると、途中で工事による悪路に直面することになる。ジャイプル自体、ラージャスターン州の州都なだけあって大きな街だ。バイパスもかなりの大回りとなっている。どうしてもジャイプルを抜けるのに45分は掛かってしまう。

 正午頃にジャイプルを抜け、引き続きNH8を北上。アジメールからの走行距離が200kmを越え、全行程の半分を走ったことを確認して、午後12時45分頃に昼食休憩に入った。シャープラー(Shahpura)を越えた辺りにあるダーバー(安食堂)でターリーを食べた。

 午後1時半に出発。再びデリーを目指して走り出した。次第に雲行きが怪しくなって行き、ベヘロール(Behror)辺りでポツポツと雨が降り始めた。この季節に雨が降ることはあまりないのだが、アウランガーバード付近での降雨に続き、本ツーリング2度目の雨となった。かなり大粒の雨になって来たので、屋根のある場所で雨宿りさせてもらった。15分ほど雨の様子を見ながら待機し、雨が止んだところで再び走り出した。その後も場所によっては雨粒がぱらついていたが、ダールヘーラー(Dharuhera)辺りまで来たら雨は降らなくなり、地面からも雨が降った形跡が消えた。

 しかし今度は断続的な渋滞が待っていた。この道を最後に通ったのは2009年だったと思うが、こんなに混んでいなかったと思う。せっかくデリーとジャイプルを結ぶ立派な幹線道を造ったのに、今度は途中の町をスキップするためのフライオーバーを建設中で、その工事のせいで渋滞が起こっていたのがひとつの理由だ。現在、インド人の経済活動が1年でもっとも活発化するディーワーリー祭のシーズンであり、もしかしたらそれとも関係があるかもしれない。だが、おそらくこの数年間でこの地域の開発が一気に進み、さらに交通量が増えたのだろう。マーネーサル(Manesar)などは全く様変わりしてしまった。ここに昔からマクドナルドがあるために、僕はマーネーサルを通過していることを確認できた。そうでなければ分からなかっただろう。インドにおいて「モダンの象徴」であるはずのマクドナルドが、「過去の面影」を想起させる役を担うとは、なんと皮肉なことか。それほどのスピードで開発が進んでいる。また、ハイウェイ上で少なくとも日本食レストランを2軒見た。ニームラーナー(Neemrana)やマーネーサルなどに多数の日本企業が工場を構えているため、この辺りはよほど日本人が多いのだろう。ジャイプル方面にはバイクでよく出掛けていたので、このNH8には思い出が多い。かつては自分の庭のように感じていた道だったが、ここまで変わってしまうと、もはやそれは独りよがりの妄想に過ぎなくなってしまった。NH8はもう僕を覚えてくれていない。

 所々で渋滞に巻き込まれるため、この辺りのNH8は走っていて面白くない。グルガーオンに入り、IFFCOチャウクでメヘラウリー・グルガーオン(MG)ロードに乗り換えて、メヘラウリー方面からデリーへ向かうことにした。多少回り道にはなるが、こちらはトラックの数がグッと少なくなるので幾分快適だ。デリー・メトロの高架線路下を進んで行った。最近はツーリングの最後になぜか昔の思い出が思い出されて来る。グルガーオンも全く変わってしまった。もっとも激変した地域と言っていいだろう。昔はこの道にはメトロポリタン・モールとDLFシティー・センター・モールしかなかった。新しいモールができるたびに様子を見に出掛けていたものだった。だが、あまりにモールの建つスピードが早く、やがてそれに追いつけなくなってしまった。それまではグルガーオンはデリーの爪先みたいなものだったが、僕が変化に追いつけなくなったそのときから、グルガーオンは完全にデリーの手から離れたような気がする。今では全く得体の知れない存在となってしまった。かつて自分が蒔いた種から生えた木々が急成長して出来上がってしまったグロテスクなジャングルをそそくさと駆け抜けるように、グルガーオンを駆け抜けた。

 デリーに着くとかなりホッとする。道行く人々を見ると、皆キラキラの包装紙に包まれた贈り物をたくさん抱えている。知人友人に配るディーワーリーのギフトを買い漁っているのだ。それを見ると、誰もいない家に1人で帰ることに急に寂しさを感じた。午後5時半にはジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)のマハーナディー寮に到着。こうして、16日間の旅は幕を閉じた。

 本日の走行距離:377.3km、本日までの総走行距離:4,220.8km。ガソリン補給2回、合計1,000ルピー。



 今回のツーリングは、特定の地域を深く掘り下げるタイプの旅ではなく、一定のテーマに沿った旅を目指してみた。そのテーマとは第一にムハンマド・ビン・トゥグラクによるダウラターバード遷都であり、第二にムムターズ・マハルの複数の墓であった。まずはこのふたつのテーマを決め、デリーからアーグラーやブルハーンプルを経由してダウラターバードまで行くことにし、そのルート上で立ち寄れる観光地をなるべく網羅することを試みた。また、行きを東寄り、帰りを西寄りのルートとすることで、デリーとアウランガーバードを南北の頂点とする細長い楕円形を描く旅となった。

 デリーからバイクでダウラターバードを目指したのは、単なる語呂合わせや思い付きではない。ダウラターバード遷都がヒンディー語の普及と関係しているとの見方があるので、ヒンディー語の研究者として、鉄道やバスに頼らずにこの区間を自ら移動してそれを確かめてみたいという気持ちが前からあった。また、デリーの全市民が強制的にダウラターバードに移住させられたという話もあって、「Delhite(デリーっ子)」を自負する自分としては、バイクでこの強制移住を再現することで、当時のデリー市民の苦しみを少しでも共有したいと思っていた。デリーを去る前にこのツーリングを実現することができて本当に良かった。

 当初は意識していなかったのだが、今回のツーリングは結果的にデリーとアウランガーバードの間にある主要な城塞を巡る旅にもなった。自分で走ってみて初めて分かったが、北インドとデカン高原の間にそびえ立つヴィンディヤー山脈とサトプラ―山脈は、ヒマーラヤ山脈ほどではないにしても、十分人の往来を制約する抑止力を持っていて、これらを越えようとすると、限られた峠を通るしかなくなる。そして必ずその場所には堅固な城塞が建っていたり、古い町があったりする。デカン高原も「高原」と言う割には山がちな地形で、決して平地ではない。必然的に人の動きは限られて来て、いくつかの峠道が往来をチェックする重要なポイントとなる。アジャンターやエローラを含め、遺跡や古い町がある場所にはその立地に必ず何らかの意味や理由があると感じた。

 このサークル内にムガル朝の皇帝・皇族の墓が密集していることにも注目すべきであろう。アクバル、フマーユーン、シャージャハーン、アウラングゼーブと4人の皇帝の墓があり、またシャージャハーンの妻ムムターズ・マハルやシャーシュージャー(シャージャハーンの次男)の妻ビルキース・ジャハーンなどの墓もある。これは偶然ではない。デリーとアウランガーバードを結ぶラインはムガル朝にとって非常に重要な地域だったのだ。

 行きのルートは綿密に計画を立てていたので、無駄のない旅程になったと思う。しかし、「ダウラターバード遷都」を達成した後の帰りのルートは目的やテーマを見失い、寄り道の多い旅となってしまった。とにかく行ったことのない場所に行くことが行動原理の、節操のない旅程だ。インターネット事情が悪くて事前の情報収集も十分にできなかったので、帰りのルートは効率的な旅とは程遠い。しかし、参考のために、実際に旅行してみて、どうすれば最善だったかということはその都度記録しておいた。

 今回のツーリングで、初めて行った場所と再訪した場所は半々くらいになる。チャンデーリー、ウッジャイン、ブルハーンプル、マーレーガーオン、マヘーシュワル、バーグ・ケーヴス、サイラーナー、マンドサウル、バーンプラー、ニーマチなどは初めて訪れた。一方、アーグラー、サーンチー、ボーパール、オームカーレーシュワル、アジャンター、アウランガーバード、ダウラターバード、エローラ、マーンドゥー、チッタウル、アジメールなどは再訪となる。世界遺産サイトはどれも3度目以上の訪問だ。10年振りに訪れた遺跡もいくつかあった。

 これらの場所への旅を通して、当局による遺跡の修復作業に対して強い疑問を感じた。初めて訪れた場所の中ではチャンデーリーやバーグ・ケーヴスで極度の修復がなされた後の姿を目の当たりにし、再訪した場所の中ではアジャンター、マーンドゥー、チッタウルガルなどで建築物の姿形が様変わりしてしまったのを目撃した。外国人から高いチケット代を取っているおかげか、インド各地の遺跡の「整備」がとても進んだことはいいことだ。遺跡内に美しい庭園が造られ、歩道が整備され、落下の危険のある場所に手すりが追加され、侵入者を防ぐ柵が張り巡らされ、細かな解説が設置され、チャウキーダール(警備員)が配備された。

 しかし、遺跡の崩れた部分を再建してしまうような修復作業がチャンデーリーやバーグ・ケーヴスで行われており、これについては強烈な違和感を感じた。また、かつてインドの遺跡は黒ずんでいたのだが、いつの間にかその黒ずみがきれいに消去され、現在では黄土色やピンク色になってしまっている。黒ずんでいた頃には何百年もの時を経て来たという「本物感」があったのだが、現在の遺跡はきれいすぎてディズニーランドのような「作り物感」いっぱいの建物になってしまった。今インドを旅行する人は、可哀想に、メジャーな遺跡を観光する限り、こんな変わり果てた状態しか見られないのである。

 まだ遺跡に外国人料金がなかった頃、インド各地の観光地を旅行したが、そのときはほったらかしの荒れ放題になっているものがたくさんあった。あの頃はあの頃で「何とかしろ」と憤りを感じたのだが、同時に自分が「発見者」になったような興奮も覚えたものだ。まともに管理されていない遺跡は自己責任でどこまでも探検できるので、まるで「ドラゴンクエスト」のダンジョン探索を実体験しているかのような楽しさがあった。しかし、今ではそのような興奮を与えてくれる遺跡はインドには少なくなってしまった。

 それでも、今回のツーリングで、まだ当局による保護・整備・修復の手が完全に伸びて来てない遺跡にもいくつか出くわした。ブルハーンプルやチャトゥルブジナート・ナーラーはその代表格だ。そのような遺跡は、大体において1人では辿り着くまでかなり苦労するし、辿り着けても何の順路も解説もなく、途方に暮れてしまうのだが、管理が行き届いた遺跡からは決して得られない興奮や達成感を与えてくれる。知識と能力と時間が許す限り、その遺跡を深く深く掘り下げて行くことができるのだ。

 デリーに住む者にとって、デリーを出てインドを旅することは、インドの真実に出会う旅でもある。デリーに住んでいると、インドの目覚ましい発展や上流階級の派手な活動ばかりに目を奪われ、インドの大半の人々がどんな感情を持ってどんな人生を送っているのか、忘れてしまいがちである。デリーを一歩出ることでその真実はうっすらと色を持ち、幹線を一歩外れることで真実は輪郭を持ち、道なき道を行くことで真実は明確に実体を持つ。発展は、都市と、都市間を結ぶ幹線沿いに確かにやって来ている。田舎の観光地も徐々に発展して来ている。だが、それを一歩外れると、10年前に見たインドとほとんど変わらぬ姿がそこにあった。ただ、テレビと携帯電話だけはどこでも普及していた。情報だけが彼らに届く。しかし発展は届かない。それが最終的にどんな結末を招くか、恐ろしい気分になる。情報も届かない時代の方が彼らは幸せだったかもしれない。

 今回のツーリングではアイシャー・グッドアース(Eicher Goodearth)のトラベルガイド・シリーズが大活躍した。このシリーズの特徴は、特定の都市や観光地に焦点を当てて1冊のガイドブックにしていることだ。また、各州観光局とタイアップして、超マイナーな観光地の紹介にも努めている。特にマディヤ・プラデーシュ州には強い。ロンリー・プラネットでも言及すらされていないような観光地を旅行する際には強力な情報源となる。写真も豊富で魅惑的だ。欠点は、インド人が書いているために、外国人がマイナーな観光地を旅行する際にどんな不便を被るか、あまり配慮されていないところと、各見所の解説が素人っぽいところであろうか。また、このシリーズの全貌もよく分からない。一体今まで何冊出ていてどの観光地が網羅されているのか、ウェブサイトを見ても最新情報が載っていないのである。しかしながら、チャンデーリー、ブルハーンプル、そしてマンドサウル周辺を観光しようと思ったら何としてでも手に入れたい本だ。おそらくマディヤ・プラデーシュ州の州観光局やMPSTDC経営のホテルなどなら手に入りやすいだろう。


アイシャー・グッドアースのトラベルガイド・シリーズ
お世話になりました!

 バイクによるインド旅行は一種の麻薬だ。おそらくインドを旅行する上で一番楽しく実りある旅の形がバイク旅行だと思う。自分で行き先を決め、自分でルートを設定し、自分で運転し、自分で楽しむ。そんなシナリオのない1人用ロールプレイングゲームみたいな旅である。これに慣れてしまうと、バスや列車の旅はどうも誰かに受動的に連れて行ってもらっているような気がして、旅している気分にならない。自分の好きなときに好きな方向へ行けないジレンマもある。特にバスの旅になると食事やトイレも人任せになってしまい、ストレスが溜まる。それに引き替えバイクの旅は、旅の全てを自分のコントロール下に置ける、王者の旅である。バスや列車が通っているか否かに関わらず道のある限り進んで行ける。好きな場所に止まって写真を撮ることもできる。行く先々で出会う人々を「デリーからバイクで来たのか!」と驚かせながら進むこともできる。また、列車も飛行機もなかった時代の人々と似た視点で移動することができるので、思わぬ発見があったりもする。もちろん四輪車でもほぼ同様の旅をすることはできる訳だが、インドのハイウェイでは二輪車は通行税免税で特権階級気分を味わえる一方、四輪車ではその恩恵がないので、旅のコストはかなり増えるだろうし、混んでいる料金所が続くと時間のロスも多くなるだろう。また、4WDならまだしも、普通乗用車だと田舎の悪路はさすがに辛いだろう。総じて、バイク旅ほどの楽しさはないのではないかと予想する。

 かなり前に企画したD2Dツーリングは、多少の寄り道を含みつつも無事に完了となった。改めてデリーの周辺を見渡してみると、まだまだツーリング先として最適なルートが浮かんで来る。ひとつ心残りなのはカリズマに海を見せてやれなかったことだ。デリーから一番近い海はグジャラート州のカンバート(Khambat)であり、ムガル朝皇帝たちもカンバートまで海を見物しに行ったと言う。デリーからカンバートを目指す旅というのはひとつのアイデアとしてあったが、おそらく実現は難しいだろう。デリーからジャイサルメールを目指すツーリングも、いつか挑戦したいと思いつつ後回しになってしまい、遂には企画倒れに終わってしまいそうだ。ウッタル・プラデーシュ州やビハール州の方面をバイクで旅行することもほとんどなく、空白地帯となってしまった。その場合は主に仏跡巡りツーリングとなるだろうか。デリー・サルタナト朝の末裔政権が花開いたカールピー(Kalpi)やジャウンプル(Jaunpur)などの古都もバイクで巡ってみたかった。旅の欲求には切りがないが、今回カリズマのいくつかのパーツが相次いで破損したことで、今まで大冒険を共にして来たカリズマが老齢に達していることを知り、諦めも付いた。およそ8年間で8万kmを走ってくれた。ありがたいことである。また来世でも一緒にインドを走ろう、カリズマよ。


より大きな地図で D2Dツーリング を表示

11月13日(火) Jab Tak Hai Jaan

 現在のヒンディー語娯楽映画界を方向付けた人物の筆頭としてヤシュ・チョープラー監督が挙げられる。1960年代から多くのヒット作を作り続け、特にロマンス映画の方程式を築き上げ、さらには業界最大手プロダクション、ヤシュラージ・フィルムスの創始者でもある。だが、アミターブ・バッチャンやシャールク・カーンなどにスーパースターのステータスを与えた張本人と表現すればもっとも分かりやすいだろう。今のヒンディー語映画の姿があるのは、その大半がヤシュ・チョープラー1人の貢献によるものと表現しても大きな語弊はない。そのヤシュ・チョープラーが今年10月21日にデング熱より急死してしまい、インド全体に大きな激震が走った。

 ヤシュ・チョープラーはロマンス超大作「Veer Zaara」(2004年)以降、8年振りにメガホンを取っており、最新作「Jab Tak Hai Jaan」のディーワーリー公開が間近に迫っている中での訃報であった。享年80歳。まだまだ元気そうだったのだが、残念ながら「Jab Tak Hai Jaan」が彼の遺作となってしまった。だが、その題名「命ある限り」の通り、チョープラー監督は命ある限り映画を作り続けた。正に映画人の鑑と言っていいだろう。このような経緯もあって、「Jab Tak Hai Jaan」はインド映画ファンにとって特別な作品となった。

 今年はディーワーリー祭が11月13日となり、「Jab Tak Hai Jaan」は監督の急死というハプニングがあったものの、予定通りそれに合わせての公開となった。ディーワーリーは1年の内で映画の成功がもっとも約束された日と信じられており、毎年ハイリスク・ハイリターン型の大作が集中する。同日公開の対抗馬作品はアジャイ・デーヴガン主演「Son of Sardaar」となった。

 当然キャストやクルーも豪華だ。主演はシャールク・カーン、カトリーナ・カイフとアヌシュカー・シャルマー。シャールクとカトリーナの共演は初、シャールクとアヌシュカーは「Rab Ne Bana Di Jodi」(2008年)で共演済み。音楽はARレヘマーン、作詞はグルザール。脚本はヤシュ・チョープラーの息子アーディティヤ・チョープラーが書いている。意外なことにヤシュ・チョープラー、ARレヘマーン、グルザールの3人が共に仕事をしたのはこれが初めてであるらしい。各界の天才が一堂に会した作品だ。



題名:Jab Tak Hai Jaan
読み:ジャブ・タク・ハェ・ジャーン
意味:命ある限り
邦題:命ある限り

監督:ヤシュ・チョープラー
制作:アーディティヤ・チョープラー
音楽:ARレヘマーン
歌詞:グルザール
振付:ヴァイバヴィー・マーチャント
衣装:マニーシュ・マロートラー、シーラーズ・スィッディーキー、ウルヴァシー・シャー
出演:シャールク・カーン、カトリーナ・カイフ、アヌシュカー・シャルマー、アヌパム・ケール、リシ・カプール、ニートゥー・スィン
備考:PVRプリヤーで鑑賞。


シャールク・カーン(上と左)、カトリーナ・カイフ(右)、
アヌシュカー・シャルマー(下)

あらすじ
 2012年。英国ディスカバリー・チャンネルに勤務する男前なインド人女性アキーラー・ラーイ(アヌシュカー・シャルマー)はインドのラダック地方に取材で訪れていた。アキーラーはひょんなことからインド陸軍サマル・アーナンド少佐(シャールク・カーン)と出会い、彼の日記を読む。サマルは爆弾処理の専門家で、ボムスーツを着用せずに爆弾を処理する命知らずの勇気で知られていた。今まで58個の爆弾を処理して来ていた。

 サマルの日記には10年前、25歳からの出来事が綴られていた。軍人家系に生まれたサマルは軍人になることを嫌がり、ロンドンにチャンスを求めてやって来ていた。サマルは誰をも幸せにする不思議な魅力を持っており、街角でストリート・ミュージシャンをして小銭を稼ぎつつ、教会の雪かき、魚市場の店員、レストランのウェイターなどをして暮らしていた。

 サマルはミーラー・ターパル(カトリーナ・カイフ)という実業家の娘と出会う。ミーラーは父親(アヌパム・ケール)が決めた許嫁ロジャーと結婚するところであったが、サマルはミーラーが幸せそうでないことに気付き、彼女の本音を引き出す。ミーラーは本当はお嬢様ではなく、彼女の心はもっと破天荒な冒険を求めていた。サマルは彼女を真夜中にロンドンの不良たちが集う集会に招き、一緒に踊る。ミーラーは人生でもっとも楽しい時間を過ごす。このときサマルはミーラーに恋してしまい、彼女に愛の告白をする。ミーラーもサマルに恋をしていたが、はっきりと返事はしなかった。だが、ミーラーはサマルから歌とギターを習う内に関係は深まって行く。

 ミーラーは父親を失望させることはできなかった。ミーラーの母親(ニートゥー・スィン)は彼女が12歳の頃に別の男と逃げてしまった。そのときから父親はミーラーを1人で育てて来てくれた。ミーラーは父親を誰よりも愛しており、彼の意向に反することはできなかった。信心深いミーラーは教会で神様に、サマルとは絶対に一線を越えないと誓う。

 結婚式を前に、ミーラーの元に母親から突然贈り物が届く。ミーラーはサマルに相談し、一緒に母親に会いに行く。母親は英国郊外でイムラーン(リシ・カプール)と共に幸せそうに暮らしていた。母親はミーラーに、なぜ父親の元を去ったか説明する。父親との結婚はお見合いで、恋愛結婚ではなかった。彼女はミーラーが4歳の頃にイムラーンと出会い恋に落ちるが、そのときはミーラーのことを考え父親の元を去らなかった。だが、その8年後、イムラーンはまだ彼女のことを待っていてくれた。母親はそのとき父親を捨ててイムラーンと同棲し始めた。

 それを聞いたミーラーは、愛していない人と結婚することの間違いに気付く。ミーラーは母親を許すと共に、サマルに愛の告白をする。サマルとミーラーは付き合うようになり、肌も重ねる。ある日ミーラーは父親にサマルと結婚したいと話すことを決める。ところがそのときミーラーの目の前でサマルは交通事故に遭ってしまう。サマルの息は止まっていた。ミーラーはその場に座り込んで神様に祈る。もうサマルとは会わない、だからサマルを生き返らせて欲しい、と。その願いが聞き入れられたのか、蘇生措置によってサマルは息を吹き返す。

 その後ミーラーはしばらく連絡不通となっていた。回復したサマルは不審に思う。そんなときミーラーがサマルの自宅を訪れる。ミーラーは神様との約束を明かし、彼とは結婚できないと言う。また、できることならロンドンを立ち去るように頼む。それを聞いたサマルはすぐさまロンドンを発ち、インドに帰る。

 それからのサマルは神との戦いだった。もしミーラーと会うことで自分が死んでしまうならば、一緒にいないことで絶対に死なないはずである。サマルは陸軍に入隊し、神に挑戦するように自ら死地に飛び込み続ける。もっとも危険な爆弾処理班に入ったのもその理由からであった。

 その日記を読んだアキーラーはサマルに興味を持ち、彼の人生のドキュメンタリーを作ることを思い立つ。上司からも2週間の時間をもらい、軍の上層部からも許可が下りた。アキーラーは意気揚々とサマルの密着取材を始める。ところがいきなりアキーラーはチョンボをしてしまう。爆弾処理中のサマルに近付き、地雷を踏んでしまったのだ。サマルの機転により、その爆発によって誰も死傷しなかったが、アキーラーは大目玉を喰らってしまう。だが、徐々にサマルもアキーラーに心を開くようになる。アキーラーはサマルに恋してしまい、自分をガールフレンドにするように頼む。サマルはそれを笑って受け流し、アキーラーも彼がミーラーを愛していることを知っていたので深く落ち込まなかった。

 2週間の取材は終わり、アキーラーはロンドンに帰って行った。アキーラーが作ったドキュメンタリーは上司に気に入られ、放送が決定する。だが、そのためにサマル本人をロンドンに呼ばなければならなくなってしまった。アキーラーはサマルに電話をし、ロンドンまで来られるか聞く。サマルは断るものの、アキーラーのキャリアに関わることであり、休暇を取ってロンドンまでやって来る。しかしアキーラーと出会った瞬間に交通事故に遭ってしまい、記憶喪失となってしまう。サマルからは10年前、2002年の交通事故以降の記憶が飛んでしまっていた。病床のサマルはミーラーの名前を呼び続けた。

 医者は、サマルが知っている人を呼んで会わせ、徐々に記憶を回復させる手法を採る。そのためにはミーラーを呼ぶことがもっとも重要だった。アキーラーはミーラーに会いに行く。アキーラーが見るとミーラーは娘の誕生日パーティーをしているところでとても幸せそうだった。アキーラーはミーラーにサマルがロンドンにいること、そして記憶喪失になったことを伝える。ミーラーはすぐにサマルを見舞いに行き、10年振りに出会う。

 サマルはまず今が2002年ではなく2012年であることを知らされる。ミーラーは、サマルにショックを与えないために、この10年間に自分たちは結婚したと嘘を付く。そしてその嘘に合わせ、アキーラーはサマルのロンドン時代の旧友と協力して、サマルのこの10年間のストーリーを作る。そのストーリーでは、サマルはインド料理レストラン「サマルズ・キッチン」を立ち上げ成功させていることになっていた。

 だが、ミーラーは嘘を付き続けることに苦痛を感じ始める。医者もそろそろ真実を教える頃だと考え、サマルの目の前にアキーラーを登場させることを決める。アキーラーは、サマルの取材をしにディスカバリー・チャンネルから派遣されたという設定でサマルと落ち合う。見たところサマルはアキーラーのことを覚えていないようであった。サマルは、アキーラーが乗っているロイヤル・エンフィールドを見て運転したいと言い出す。サマルとアキーラーは共にロンドンを駆け巡る。

 このときのアキーラーの心情は複雑であった。アキーラーはサマルに強く恋していたが、サマルの記憶を呼び戻すためには彼が愛し続けるミーラーの助けを借りなければならなかったからだ。しかし、このとき初めてアキーラーはサマルの本当の姿を目の当たりにする。明るく、活動的で、常に人を楽しませようとする陽気な人間であった。アキーラーがラダック地方で出会った彼は、滅多に笑わず、内に閉じこもった暗い人間だった。アキーラーは、自分が見たサマルは単なる影だったと気付く。そしてミーラーこそがサマルにとって必要な女性だと認める。また、そのことをミーラーに伝えたアキーラーは、実はミーラーはこの10年間結婚していないことを知る。ミーラーが主催していた誕生日パーティーはロジャーの娘のものであって、彼女の娘ではなかったのだ。

 一方、サマルは1人で地下鉄に乗っているときに爆弾騒ぎに巻き込まれる。本能の赴くままにサマルは爆弾に近付き、簡単に処理してしまう。このとき彼は全てを思い出す。そしてミーラーを教会に呼び寄せ、神様に対し、自分を殺すか、ミーラーをよこすか、二者択一を求めながらインドへ帰って行く。

 インドで復帰したサマルは通算107個目の爆弾を処理していた。そこへミーラーがやって来る。サマルはミーラーにプロポーズをし、108個目の爆弾処理へと向かう。今やミーラーを手に入れたサマルにとって、これが最後の爆弾であった。

 出会い、別離、そして再会という軸と、恋愛結婚とお見合い結婚の間の葛藤という軸の2つを中心に展開する純愛劇を、歌と踊り、コミカルな脇役キャラ、海外ロケなどで味付けした、正統派インド製ロマンス映画。だが、「正統派」とか「典型的」とか、まるで定石通りの何の工夫もない映画のような扱いをするのはおこがましい。なぜならヤシュ・チョープラー自身がその娯楽映画の方程式を作り出したのであり、彼は自分のスタイルを最後の最後まで貫いただけだ。そして素晴らしいのは、ほとんど陳腐にはならず、むしろ観客の様々な情感点を刺激する優れた作品にまとまっていたことだ。正に匠の仕事と言える。

 この映画では主に3つの方向から「愛」が探求されていたと言える。ひとつは結婚における恋愛について。ひとつは愛と宗教・信仰心の対立について。ひとつは世代間の恋愛観ギャップについて。

 インド映画は常に恋愛結婚の味方であり、お見合い結婚は克服するべきものとして描写される。「Jab Tak Hai Jaan」でもヒロインのミーラーは恋愛結婚とお見合い結婚の葛藤に悩まされることになる。お見合い結婚というのは多くの場合、両親や家族に対する愛と信頼の延長線上であることが多い。現代の若い日本人は理解しがたいかもしれないが、大半のインド人は両親を絶対的に信頼しているが故にお見合い結婚を最良の結婚と考えている。ミーラーも同様で、今まで1人で自分に愛情を注いで来てくれた父親の期待を裏切りたくないがために、父親が決めた相手とお見合い結婚をしようとしていた。だが、サマルと出会ったことで恋愛結婚への願望も生まれ、悩まされることになる。これは言い換えるならば家族愛と異性愛の間の葛藤であり、簡単に解決できるものではない。

 それでも「Jab Tak Hai Jaan」を含むインド映画は、心に素直に従い、恋愛結婚することを推奨する。なぜなら夫婦間に愛のない結婚は必ず失敗するからだ。ミーラーは、自分の母親がお見合い結婚をしたばかりに、結婚後に別の男性と恋に落ち、最終的に父親の元を去ったことを知り、一転してサマルと恋愛結婚することを決断する。結婚の失敗によってもっとも影響を受けるのはその夫婦の子供であることをミーラーは自身の経験から痛感していた。だから彼女は心に嘘を付いてまで愛していない男性と結婚することの間違いを知ったのだった。

 しかし、ミーラーは信心深い女性だった。パンジャービーの家系なのでヒンドゥー教かスィク教だと思うのだが、劇中では彼女はキリスト教の教会に足繁く通い、神様に願い事をしていた。ミーラーはサマルと付き合い出す前に神様に、「サマルとは絶対に一線を越えない、もし越えたらどんな罰でも甘んじて受け容れる」と誓う。だが、結婚において恋愛は欠かせないと知ったミーラーは、その誓いを破り、サマルと付き合い出す。彼女にとって神様に背いた初めての体験であった。それは迷信を打ち破る勇気ある一歩であったが、父親にサマルとの結婚を明かす直前にサマルが交通事故に遭ったことで、彼女の心の中で抑圧されていた神様への畏敬がリバウンドして強烈に呼び戻される。息が止まったサマルを見たミーラーは神様に、今後一切サマルとは会わないと約束し、サマルの蘇生を願う。その願いが届いたのか、サマルは息を吹き返す。ミーラーは神様との約束通りサマルと関係を断ち切り、彼をロンドンから追い出す。

 ミーラーは、神様に何かを叶えてもらうためには、何か大切なものを差し出さなければならないと信じていた。ミーラーは大切なサマルの命を救うために、大切なサマルを差し出した。サマルにとってはその理屈は到底理解しがたいものであったが、ミーラーのことを愛していたがために、ミーラーのその決断を受け容れる。そのときから神様との戦いが始まった。サマルは、ミーラーのその理屈が間違いであることを示すために、死ななければならなかった。ミーラーと一緒にいなくても自分が死ぬということを提示しなければならなかった。ミーラーはサマルを愛するが故にサマルを手放し、サマルはミーラーを愛するが故に自ら死地へ飛び込んだ。インド映画が長年に渡って描き続けて来た純愛の究極の形である。

 このサマルとミーラーの純愛と対比する形でアキーラーの恋愛観が提示される。ミーラー演じるカトリーナ・カイフとアキーラー演じるアヌシュカー・シャルマーはそこまで年齢が離れている訳ではない。カトリーナは1984年生まれ、アヌシュカーは1988年生まれである。だが、劇中ではミーラーの方がアキーラーよりも1世代上という設定になっており、アキーラーは「今時の世代」を代表していた。アキーラーの言葉を借りれば、この世代の恋愛観は「インスタント・ラブ」であり、「セックスをしてから付き合うか考える」という恋愛パターンを取る。アキーラーはロンドン在住なので、それをインドの文脈にそのまま当てはめるのは危険であるが、とにかく日本人とそう変わらない恋愛観の世代の女性と考えればいいだろう。アキーラーは純愛なるものがこの世に存在することを信じられなかった。

 だが、結局アキーラーはサマルとミーラーの関係を目の当たりにし、純愛が存在することを思い知らされる。2人とも10年間も離れ離れながらお互いを想い続けて来たのだ。アキーラーはサマルに恋していたが、純愛の前には「インスタント・ラブ」は全く敵わないことを知り、潔くミーラーに道を譲る。これは現代の軽い恋愛に対するアンチテーゼだと言える。

 この3方向からの探求の結果、最終的に導き出された結論は、「愛にはタイミングがある」ということだ。愛はいつでも燃え上がるものだが、それが実現するのには時間が掛かることがある。ミーラーの母親とイムラーンのように8年掛かることもあれば、サマルとミーラーのように10年掛かることもある。だが、信じ続け、想い続ければ、必ず愛は実る、神様ですら妥協する、そんなメッセージがこの映画に込められていた。

 基本的にこの映画は最初から最後まで楽しめたが、ひとつだけ興醒めだったのは記憶喪失の辺りだ。記憶喪失をストーリーに組み込んでドラマチックさを演出するのは古今東西の映画やTVドラマで使い古された常套手段で、ヤシュ・チョープラー監督には、こういう便利過ぎる転機を使わずに映画をまとめて欲しかったと思った。ラダックやカシュミールでこんなに爆弾が発見されるのか、水泳全国大会出場のアキーラーがなぜパンゴン・ツォで溺れたのか、など細かい点で突っ込みは入れられるのだが、大きな文句があったのは記憶喪失の辺りだけだ。

 ヤシュ・チョープラーは、ヒロインをもっとも美しくスクリーンに映す監督として知られており、「Jab Tak Hai Jaan」でも、現代のヒンディー語映画において一線で活躍する2人の女優カトリーナ・カイフとアヌシュカー・シャルマーを魅力的に映し出していた。カトリーナは演技力にグッと自信を付けた印象だったし、アヌシュカーは持ち味のチャキチャキッ振りに磨きを掛け、独自の地位を築き上げたと言える。アヌシュカーはカトリーナに比べると顔に上品さが欠けるのだが、その表現力と自信に満ち溢れた演技によって、サブヒロインながらメインヒロインのカトリーナを圧倒していた。この2人のケミストリーは必ずしも良くなかったが、分かりやすい対比になっていてキャスティングは間違っていなかった。

 そしてもちろんシャールク・カーンも素晴らしい演技だった。彼は真摯に演技しようとすると失敗することがあるのだが、今回はサマルという二面性を持ったキャラクターになりきった優れた演技で、キャリア・ベストの演技のひとつと言って差し支えないだろう。シャールク・カーン映画には珍しく、ヒロインとのキス・シーンやベッド・シーンもあった。アヌパム・ケール、リシ・カプール、ニートゥー・スィンなどのベテラン俳優たちには、特別出演レベルの限られた出番しか与えられていなかったが、それぞれそつなくこなしていた。

 「Jab Tak Hai Jaan」の影の主役はカシュミール地方やラダック地方の雄大な光景とロイヤル・エンフィールドのバイクである。かつてカシュミール地方はインド映画のお気に入りのロケ地であったが、治安の悪化によってその地位はスイスなど海外の景勝地に奪われてしまった。ヤシュ・チョープラーはインド映画に海外ロケを効果的に導入した人物の1人である。しかし遺作において彼はロケ地をカシュミールに戻した。何か運命的なものを感じる。ラダック地方は「3 Idiots」(2009年)の大ヒットによって一気にメジャーなロケ地として浮上した。「Jab Tak Hai Jaan」でも高山湖パンゴン・ツォなどで集中的にロケが行われており、ラダックの自然の魅力がたくさん詰まった作品になっていた。ますますラダックを目指す国内観光客が増加することであろう。

 ロイヤル・エンフィールドは「英国で生まれインドで育った」オートバイ・ブランドである。元々英国で生産されていたが、1956年にインドのサテライト工場で生産が開始された。その後1970年に英国での生産が停止したことで、事実上インドがこのブランドの拠点となり、現在でも国内外で販売されている。ロイヤル・エンフィールドはインドの二輪車業界の中では特殊な位置に置かれている。インドではバイクの売れ筋は100ccから150ccで、プレミアム・セグメントの製品でも225ccから250ccぐらいの排気量に留められているのだが、ロイヤル・エンフィールドだけは一貫して350ccや500ccの大型バイクを販売している。50年以上設計が変わっていないロイヤル・エンフィールドの「生きたビンテージ」は、バイク好きの中でも一目置かれた存在で、そのビンテージ感やマッチョ感に憧れを持つ人も多い。「Jab Tak Hai Jaan」はロイヤル・エンフィールドとタイアップしており、同社のバイクが全面的にプロモートされていた。ラダックの荒々しい風景とロイヤル・エンフィールドのマッチョなスタイルは非常にマッチする。かつて「Dhoom」(2004年)という映画があって、インドに空前のスピードバイク・ブームを巻き起こしたのだが、この「Jab Tak Hai Jaan」は代わってロイヤル・エンフィールド・ブームを巻き起こすかもしれない。

 音楽は前述の通りARレヘマーン。サントラCDを聴いた限りでは飛び抜けていい曲がないと感じたのだが、さすがに映画にはまると魅力を発揮する。レヘマーンの作る曲の多くは映画との相乗効果が素晴らしい。タイトルソング「Jab Tak Hai Jaan」は絶品であるし、アキーラーをフィーチャーした「Jira Re」もいい曲だ。詩の美しさでは「Saans」が一番だ。

 「Jab Tak Hai Jaan」はヤシュ・チョープラー渾身の傑作ロマンス映画。彼が一貫して描き続けて来た純愛の究極の形を見ることになるだろう。スター男優シャールク・カーンの演技、今もっとも勢いのある女優2人――カトリーナ・カイフとアヌシュカー・シャルマー――の共演、ARレヘマーンの音楽、グルザールの歌詞、カシュミールやラダックの美しい自然、ロイヤル・エンフィールド大活躍など、見所も盛りだくさん。もちろん今年必見の映画の1本だ。命ある限り見るべし。

オマケ:劇中に朗読される詩。映画の内容理解の上でとても重要なので、翻訳し掲載する。
तेरी आँखों की नमकीन मस्तियाँ
तेरी हाँसी की बेपरवाह गुस्ताख़ियाँ
तेरी ज़ुल्फ़ों की लेहराती अंगड़ाइयाँ
नहीं भूलूँगा मैं
जब तक है जान, जब तक है जान

陶酔し魅了する君の目を
屈託のなくこぼれ落ちる君の笑みを
波打って誘惑する君の垂れ髪を
僕は忘れない
命ある限り、命ある限り

तेरा हाथ से हाथ छोड़ना
तेरा सायों का रुख़ मोड़ना
तेरा पलटके फिर न देखना
नहीं माफ़ करूँगा मैं
जब तक है जान, जब तक है जान

君が僕の手を離したことを
君が僕を見放したことを
君が再び振り返って見なかったことを
僕は許さない
命ある限り、命ある限り

बारिशों में बेधड़क तेरे नाचने से
बात बात पे बेवजह तेरे रूठने से
छोटी छोटी तेरी बचकानी बदमाशियों से
मुहब्बत करूँगा मैं
जब तक है जान, जब तक है जान

雨の中我を忘れて踊る君を
いちいち下らないことに腹を立てる君を
幼稚な悪ふざけをする君を
僕は愛し続ける
命ある限り、命ある限り

तेरी झूठी क़स्म-ए-वादों से
तेरे जलते सुलगते ख़्वाबों से
तेरी बेरहम दुआओं से
नफ़रत करूँगा मैं
जब तक है जान, जब तक है जान

君の偽りの約束を
君の燃えくすぶる夢を
君の無情な祈りを
僕は嫌い続ける
命ある限り、命ある限り

11月14日(水) Son of Sardaar

 スィク教徒はインド全人口の2%ほどに過ぎないが、ヒンディー語映画を見ているとそのプレゼンスの強さを感じる。例えばヒンディー語映画の中でスィク教徒のキャラクターがコミックロールを担うことが多い。先日公開されたばかりの「Student of the Year」(2012年)はその典型例であった。これは、インディアン・ジョークの中でスィク教徒(サルダールジー)が主人公になることが多いのと関係しているだろう。しかし、それだけでなく、「Gadar: Ek Prem Katha」(2001年)、「Jo Bole So Nihaal」(2005年)、「Singh Is Kinng」(2008年)など、ターバンを頭に巻いた典型的なスィク教徒を主人公に据えた映画がコンスタントに作られ続けており、とても2%の存在感とは思えない。

 実はヒンディー語映画界にはパンジャービーが多い。スィク教の本拠地であるパンジャーブ地方では、ヒンドゥー教とスィク教が共存関係を築いて来ただけあって、ヒンドゥー教徒であってもスィク教を同時に信仰していることは少なくない。また、1947年の印パ分離独立時にパーキスターン領となったパンジャーブ地方から逃げて来た難民たちも、ヒンディー語映画界に多く流入している。そんなこともあって、スィク教は映画界の中で愛される存在となっており、スィク教徒が主人公の映画も時々企画に上がるのだろう。アジャイ・デーヴガンの新作「Son of Sardaar」も、その題名から察せられる通り、コテコテのスィク教徒が主人公の映画である。

 毎年ディーワーリーは大予算型の期待作が数本公開され、まるで映画祭のような状態になるのだが、今年のディーワーリーはヤシュ・チョープラーの遺作「Jab Tak Hai Jaan」と、アジャイ・デーヴガン主演「Son of Sardaar」の一騎打ちとなった。監督は「Atithi Tum Kab Jaoge?」(2010年)をヒットさせたアシュヴィニー・ディール。まだ3作目であり、経験は浅い。だが、前作はとても軽妙なコメディー映画で、信頼できない名前ではない。ヒロインはソーナークシー・スィナー。まだデビューから間もないのだが、いい作品に恵まれており、勢いがある。他にサンジャイ・ダット、ジューヒー・チャーウラー、カメオ出演のサルマーン・カーンなど、豪華なキャストだ。十分期待作と言っていい。ちなみに、この映画はテルグ語映画「Maryada Ramanna」(2010年)のリメイクである。



題名:Son of Sardaar
読み:サン・オブ・サルダール
意味:スィク教との息子
邦題:サン・オブ・サルダール

監督:アシュヴィニー・ディール
制作:アジャイ・デーヴガン、NRパッチースィヤー、プラヴィーン・タルレージャー
音楽:ヒメーシュ・レーシャミヤー、サージド・ワージド、サンディープ・チャウター
歌詞:サミール、アンジャーン、シャッビール・アハマド、マノージ・ヤーダヴ
振付:ガネーシュ・アーチャーリヤ
出演:アジャイ・デーヴガン、サンジャイ・ダット、ジューヒー・チャーウラー、ソーナークシー・スィナー、プニート・イッサール、ムクル・デーヴ、ヴィンドゥー・ダーラー・スィン、アルジャン・バージワー、タヌジャー、ラージェーシュ・ヴィヴェーク、サルマーン・カーン(特別出演)
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサント・クンジで鑑賞。


アジャイ・デーヴガン

あらすじ
 ロンドン在住のインド人スィク教徒ジャッスィー(アジャイ・デーヴガン)は、亡き父親の土地を売却するために故郷パグワーラーに帰る。ジャッスィーは帰国前に、自分の家族にまつわる復讐劇を聞かされていた。パグワーラーではジャッスィーの属するランダーワー家はサンドゥー家と復讐合戦を繰り広げたことがあり、その中でジャッスィーの父親は殺され、現サンドゥー家の当主ビッルー(サンジャイ・ダット)の叔父も殺されていた。そのとき結婚直前だったビッルーは、ランダーワー家の最後の末裔を殺すまでは結婚しないと誓う。だが、ジャッスィーは母親に連れられて英国に逃げていた。以後25年間、ビッルーは許嫁パンミー(ジューヒー・チャーウラー)と結婚せずにランダーワー家の末裔を捜し回っていたのである。ジャッスィーは、さっさと土地を売って立ち去れば、そんな因縁の復讐劇などとは関係ないと楽天的に考えていた。

 ジャッスィーはデリーからパグワーラーへ向かう列車の中で、スク(ソーナークシー・スィナー)という美しいパンジャービー女性と出会い、一目惚れしてしまう。しかし、後に分かったことだが、スクはビッルーの姪であった。また、パグワーラーに着いてからジャッスィーが出会ったトニー(ムクル・デーヴ)はビッルーの甥であった。トニーはジャッスィーこそがランダーワー家の最後の末裔であることを知り、ビッルーにそれを報告しに行く。ところがそのときまでにジャッスィーはサンドゥー家の客として家で歓待を受けていた。

 サンドゥー家の伝統では、お客様は神様であった。たとえ先代からの仇敵であっても、その伝統を曲げることはできなかった。ジャッスィーが仇相手であることを知ったビッルーは、彼がサンドゥー家の中にいる間は決して手出しをしないように部下たちに命令する。もちろん、家を一歩出たら、そのときに復讐する積もりであった。ところが、ジャッスィーもビッルーたちが仇敵であり、自分を殺そうとしていることを知る。家の中にいる内は殺されないことも知り、何とか言い訳をして家を出ないようにする。

 一方、そんなことも知らないスクは、ジャッスィーが家を出たがらないのは自分に恋しているからだと考える。スクもジャッスィーのことが気になっていた。スクにはボビーという幼馴染みがおり、大の仲良しだったが、お互いに結婚する気はなかった。ボビーもスクの恋心を感じ取り、2人の仲を影ながら応援する。

 ジャッスィーは一旦外に出ることになり、ビッルーやその2人の甥トニー、ティットゥー(ヴィンドゥー・ダーラー・スィン)から攻撃を受けるが、戦っている内にまたサンドゥー家の中に入ってしまい、振り出しに戻ってしまった。またジャッスィーはサンドゥー家の客として生きながらえることになった。

 ちょうどローリー祭の時期であった。それに際して、パンミーはボビーとスクの婚約式を行うことを提案する。スクの本心を知っていたボビーはそれを断るが、覚悟を決めていたジャッスィーはボビーを説得し、スクとの結婚を承諾させる。ボビーとスクの婚約式は外にグルドワーラー(スィク教寺院)で行われることになった。ジャッスィーもそれに出席するため外に出なくてはならない。ボビーとスクを見送った後、外に出たジャッスィーはトニーやティットゥーたちと戦う。

 一方、スクは婚約式の場で初めてジャッスィーがランダーワー家の末裔であることを知らされる。スクはボビーに説得され、婚約式を投げ出してジャッスィーの元へと向かう。ジャッスィーはスクと共に悪漢たちをなぎ倒し、ビッルーと対決しに行く。ジャッスィーとビッルーは死闘を繰り広げるが、祖母のベーベー(タヌジャー)やスクになだめられ、最終的にはビッルーはジャッスィーとスクの結婚を認めて、サンドゥー家とランダーワー家の復讐合戦に終止符を打つ。

 ジャンルで言えばアクション・コメディー映画に分類されるだろうが、アクションもコメディーもお粗末だった。ロマンスは二次的な扱いであったが、やはり弱い。スケールも意外に小さく、金が掛かっていないように見えた。総じて、期待外れの作品であった。アシュヴィニー・ディール監督には荷が重い内容の映画だったのではなかろうか?

 基本的にアクションが売りの映画なので、ストーリーがいい加減でもアクション・シーンさえ良ければ爽快感は得られるものだ。しかし、「Son of Sardaar」のアクションは奇妙奇天烈な動きが多く、素人っぽさ全開だった。改めて、「Golmaal」シリーズのローヒト・シェッティー監督のうまさが際立った。単純なように見えて、アクション・シーンを撮るにもやっぱり才能が要るのである。

 コメディーも外しまくりだった。多少は笑えるシーンがあるが、大爆笑とまでは行かない。間が悪いのだ。ジャッスィーがサンドゥー家からなかなか出ようとしないシーンなどは間延びし過ぎてワースト・シーンだと言える。

 ジャッスィーとスクのロマンスも全く感情移入できない。ジャッスィーがスクのことをどう思っているのか、それを暗示するシーンがほとんど存在しない。とにかくジャッスィーはビッルーから逃げることで精一杯で、恋愛なんてしてられなかったのではなかろうか?スクとボビーの関係も謎であるし、ロマンス部分はどれも取って付けたような展開だった。

 オリジナルのテルグ語映画の影響であろうか、歌と踊りの入り方も唐突なことが多く、ヒンディー語映画の文法に従っていない。冒頭などはいきなりタイトルソング「Son of Sardar」となり、ロンドンの象徴である時計台ビッグベンの針にアジャイ・デーヴガンが立っているところから始まる。全く訳が分からない。

 こんな完成度の低い映画をよくディーワーリーにぶつける気になったなと、その勇気にだけは感心する。それだけの作品である。「Atithi Tum Kab Jaoge?」も客がなかなか帰らず苦労する話だったが、それとの共通点は偶然であろうか?

 アジャイ・デーヴガンは「Singham」(2011年)でハードコアなアクション・ヒーローとしての売り出しを成功させ、今回はサルマーン・カーンが持ち味とするコミカルなアクション・ヒーローを目指したと思われる。パンジャービー家系のアジャイ・デーヴガンはスィク教徒ファッションが似合っており、彼が演じたジャッスィーは取って付けたような感じではなかった。元々コミックロールもよく演じて来ているので、アクションとコメディーをうまく1人の役の中で融合させられていたと思う。

 ソーナークシー・スィナーも自信に満ちた演技をしていた。地方単館で受けそうな顔と身体をしているので、地方でより受けそうな「Son of Sardar」のような映画への出演はいいチョイスだ。ソーナークシーの快進撃は、彼女自身の才能よりも出演作に恵まれただけだと考えているのだが、もし自分の長所をよく把握してチョイスしているのだったら、大した女優だ。

 サンジャイ・ダットは「Agneepath」(2012年)に続き悪役出演。見た目に似合わず器用な俳優で、どんな役でもそつなくこなす。特に筋肉派の役はうまく、今回演じたビッルーも適役であった。

 他にジューヒー・チャーウラーの出演が特筆すべきだ。一時代を築き上げた人気女優であるが、既に一線を退き、年に数本の映画に出演するのみだ。久し振りに彼女のキュートな演技を見られた気がする。

 音楽は基本的にヒメーシュ・レーシャミヤー。一時期ほどではないにしても、最近活動を再び活発化させている。ヒメーシュらしい曲作りはだいぶ鳴りを潜め、映画の雰囲気に合う曲を作っている。「Son of Sardaar」の音楽は悪くない。

 言語はパンジャービー語混じりのヒンディー語。変則的なヒンディー語となるので、ヒンディー語のみの知識だと聴き取りに苦労するだろう。

 映画の舞台となっているパグワーラー(Phagwara)は実在の地名で、パンジャーブ州カプールタラー県の町だ。カプールタラーやパグワーラーには行ったことがないが、おそらく実際にカプールタラー県各地でロケが行われていたのではないかと思う。

 「Son of Sardar」は、ディーワーリー公開の期待作であったが、対抗馬の「Jab Tak Hai Jaan」とは比べるのもおこがましい完成度の低いアクション・コメディー映画である。無理に見る必要はない。今は素直に傑作「Jab Tak Hai Jaan」を見るべきである。



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