9月の上旬は日本に一時帰国しており、本日デリーに戻って来た。戻って来た途端、昨日より公開の新作ヒンディー語映画「Barfi!」を見に行った。ランビール・カプール主演の映画で、「Gangster」(2006年)や「Life
in a... Metro」(2007年)で有名なアヌラーグ・バスが監督である。バス監督はリティク・ローシャン主演の「Kites」(2010年)で大コケしてしまったのだが、それ以前の作品群から分かるように、センスはある監督であり、この作品で名誉挽回が期待される。
映画は時間軸が1972年、1978年、そして現代と主に3つの時代を行き来し、複雑な構成となっているが、下記のあらすじでは基本的に時間の流れに沿ってまとめてある。
題名:Barfi!
読み:バルフィー!
意味:主人公の名前
邦題:バルフィー!
監督:アヌラーグ・バス
制作:ロニー・スクリューワーラー、スィッダールト・ロイ・カプール
音楽:プリータム
衣装:アキ・ナルラー、シェファリナ
出演:ランビール・カプール、プリヤンカー・チョープラー、イリアナ・デクルーズ、サウラブ・シュクラー、ジシュー・セーングプター(特別出演)
備考:PVRプリヤーで鑑賞、満席。
左からイリアナ・デクルーズ、ランビール・カプール、プリヤンカー・チョープラー
あらすじ
1972年、シュルティ (イリアナ・デクルーズ)は父親の仕事の関係でダージリンにやって来る。そこでシュルティはバルフィー (ランビール・カプール)という不思議な青年と出会う。バルフィーは耳が聞こえず、言葉をしゃべることもできなかった。だが、常に底抜けに明るく、周囲を楽しませていた。シュルティはランジート・セーングプター (ジシュー・セーングプター)と婚約を済ませていたが、バルフィーに惹かれるようになる。しかし、母親に説得され、そのままランジートと結婚することを決める。
1978年、シュルティは偶然カルカッタでバルフィーと再会する。バルフィーはジルミル (プリヤンカー・チョープラー)という知能遅れの女の子と一緒に住んでいた。バルフィーがジルミルと共にカルカッタに来た理由は以下の通りである。
ジルミルは元々ダージリンのムスカーンという知能障害児院に入れられていた。父親のチャタルジー は地元の名士であった。バルフィーの父親はチャタルジーの家で運転手をしていたこともあり、バルフィーは子供の頃から彼女のことを知っていた。しかし、祖父が危篤となったことをきっかけにジルミルは院から家に戻され、暮らしていた。
あるとき、バルフィーの父親が心臓発作で倒れてしまう。手術のために2日以内に7,000ルピーを捻出しなければならなかった。バルフィーはチャタルジーに頼むが全く聞き入れられない。そこで彼はジルミルの誘拐を試みる。ところがバルフィーがチャタルジーの家に侵入したときにはジルミルは別の何者かに誘拐された後だった。そこで今度はバルフィーは銀行強盗をする。しかし、警察官のダッター (サウラブ・シュクラー)に見つかってしまい、一目散に逃げ出す。その途中でたまたまジルミルが閉じ込められた自動車を見つけ、隙を見てその自動車を奪って逃げる。バルフィーはジルミルを自宅に連れて来る。
思わぬ展開でジルミルを誘拐できたバルフィーは早速チャタルジーにジルミルの身代金として7,000ルピーを要求する。首尾良くそのお金を手に入れ、病院に払い込むが、そのときには既に遅く、父親は息を引き取っていた。このときの紙幣の番号からバルフィーの足が付く。ダッターはバルフィーを逮捕しようとするが、バルフィーは逃げ出す。
バルフィーは何度もジルミルを置いて行こうとしたが、ジルミルはバルフィーに付いて来てしまった。そこでカルカッタまで行き、一緒に住み始めたという訳だった。久々に再会したバルフィーとシュルティはカルカッタの街を満喫するが、次第にジルミルがシュルティに焼き餅を焼くようになり、いつの間にか姿を消してしまう。
シュルティはカルカッタでジルミルの捜索願を出す。それがダージリンのダッターのところまで知らされる。ところがダッターの手元にはジルミルの身代金を要求する2通目の手紙が来ていた。今度は10万ルピーが要求されていた。混乱したダッターはカルカッタまで出向く。そこでバルフィーを発見し、必死のチェイスの後にようやく逮捕する。バルフィーはダージリンまで連れて行かれる。心配したシュルティは、夫の引き留めも聞かずにダージリンへ向かう。
警察は、バルフィーがジルミルを誘拐し、身代金を要求したと考えていた。確かに最初の身代金要求はバルフィーが出したものだったが、今回のものは彼も関知しておらず、ジルミルの居所も分からなかった。10万ルピーの身代金が渡されるが、犯人はジルミルが乗った車を川に落としてしまう。ジルミルの遺体は発見されなかったが、死亡したことになった。そこで警察は、バルフィーはずっと警察署にいたものの、彼がジルミルを殺したことにして、事件の幕引きを計ろうとする。しかしダッターはバルフィーがそういうことをする人間ではないと知っており、彼を逃がす。ダージリンまで来ていたシュルティは、夫の元を去り、バルフィーと共にカルカッタへ行く。
バルフィーとシュルティはしばらくカルカッタで暮らしていた。しかしバルフィーはジルミルを忘れることができず、シュルティはジルミルの代わりにはなれなかった。ある日バルフィーはジルミルが書き残した電話番号を見つけ、電話を掛ける。それはムスカーンの番号だった。バルフィーとシュルティはムスカーンを訪ねる。院長は最初ジルミルのことに関しては口を閉ざすが、バルフィーの熱意を見て、全てをジルミルに任せる。実はジルミルはカルカッタで行方不明になって以来、ムスカーンにいたのだった。チャタルジーは、祖父の遺産がジルミルの名義となったことで、狂言誘拐を演じてそのお金を引き出そうとしていたのだった。しかしバルフィーも同時にジルミルを誘拐しようとしたことで計画は狂ってしまった。今回ムスカーンの院長からジルミルが見つかったことを聞いたチャタルジーは、それを他言せず、狂言誘拐を続行し、10万ルピーの身代金を要求する。院長もジルミルを実の娘のように可愛がっており、両親の元に返したくなかった。お互いの利害が一致していた。身代金が手に入った後、車を川に沈めてジルミルが死んだことにするのも計画通りであった。しかしバルフィーはムスカーンの中からジルミルを見つけ出す。
現代。老衰したバルフィーはジルミルに看取られながら息を引き取る。シュルティはそれを羨ましそうに見守る。
「Koi... Mil Gaya」(2003年)や「Black」(2005年)のヒット以来、ヒンディー語映画界では身体障害、知能障害、精神障害などを持った主人公を担ぎ上げ、感動的なドラマや、全く正反対のお馬鹿なコメディーを作ることがひとつのトレンドとなった。障害者を主人公にした感動作は何だか恩着せがましいし、障害を笑いのネタにする安易なコメディー映画は見ていて気分が悪くなる。だから、この種の映画に対しては常に評価は厳しめである。00年代後半に雨後の竹の子のように出現した一連の「障害映画」の中で、唯一と言っていいほど手放しで賞賛しているのは「Guzaarish」(2010年)ぐらいであろうか。他に「Iqbal」(2005年)、「Taare
Zameen Par」(2007年)、「Kaminey」(2009年)などもいい映画だ。逆に胸くそ悪くなった映画は、「Golmaal」(2006年)、「Pyare
Mohan」(2006年)、「Tom Dick and Harry」(2006年)などである。
さて、この「Barfi!」であるが、主人公バルフィーは耳が聞こえず、言葉もしゃべれない青年。いわゆる聾唖者である。だが、その障害を全く悲観せず、むしろ人生をフルに楽しみ、周囲の人々をも幸せにする、特異な存在として描写されている。また、この映画には2人ヒロインがいるが、その内の1人ジルミルは知能障害児で、地元の名士である両親からは疎まれている。彼女の理解者は、母方の祖父と、メイドのおばさんのみだった。バルフィーとジルミルに比べたら健常者のヒロインであるシュルティの視点から、バルフィーとジルミルの恋愛が語られる流れとなっている。
しかしながら、最初にバルフィーが恋をしたのはシュルティであり、シュルティもバルフィーのことが気になっていた。だが、2人が出会ったときには既にシュルティは婚約しており、彼女にとってバルフィーとの恋愛を結婚まで持って行くには、バルフィーが聾唖者であるという点を差し引いても困難であった。結局シュルティはバルフィーを諦めてしまう。
このシュルティの決断に大きな影響を与えたのは母親の言葉だった。母親はかつてダージリンで学生時代を送っていたが、そのとき心から愛していた男性がいた。彼女には、その彼と一緒に駆け落ちするチャンスもあった。しかし、彼女はそれをしなかった。その男は現在木こりをしており、金銭的には決して裕福とは言えなかった。母親は時々その彼を遠くから眺めに来ていることをシュルティに明かし、もし自分がその男と結婚していたらどんな惨めな人生を送っていただろうと言う。シュルティはそれを聞いて現実と向き合うようになり、バルフィーとの結婚を諦め、許嫁のランジートと結婚したのだった。バルフィーもランジートと対面して、自分から身を引く。
だが、シュルティは結婚して以来ずっとバルフィーのことを忘れられなかった。結婚から6年後、突然カルカッタでバルフィーと再会すると、その忘れられない気持ちはより確固たるものとなって燃え上がる。このときシュルティは母親が嘘を付いていたことを思い知る。母親も木こりの男を今でも愛しているからこそ、何度も彼を眺めに行っていたのだ。シュルティには一度バルフィーを取り戻すチャンスが訪れる。だが、そのときには既にバルフィーの心はジルミルと共にあった。シュルティは二度とバルフィーの心を勝ち得ることはなかった。
老年になったシュルティには、ジルミルこそが本当にバルフィーを愛した女性と映る。シュルティの理想は祖父母のような死だった。彼女の祖母は、祖父の死の翌日に亡くなり、ほぼ同時にあの世へ旅立った。シュルティは、仲良く寄り添って死んだ祖父母の人生を理想としていた。それなのに、結婚という人生の一大事において、シュルティは心を最優先せず、頭で考えてしまった。だから彼女は昔から夢だった理想の人生を送ることができず、孤独となってしまった。一方、ジルミルは知能障害者であるがために心の声を素直に聞くことができた。ただバルフィーを愛した。だからバルフィーを手に入れることができ、彼の死にそっと寄り添うことができた。
インドのロマンス映画では恋愛結婚が礼賛されるが、「Barfi!」は恋愛結婚を成就させることの出来なかった女性の視点から、かつて自分が愛した男性と別の女性の恋愛結婚を語るという、一風変わった工夫がなされている。一見したところではバルフィーのユニークなキャラクターや、聾唖者と知能障害者の恋愛という変化球や、サイレント映画的な動作主体のコメディーに目が行くが、その核心はやはり恋愛であり、インド映画の王道である。それにプラスして、狂言誘拐の導入によってサスペンスが加味されており、「何でもあり」のインド映画の醍醐味を、非常に洗練された手法で再定義して提示しており、優れたパッケージとなっている。編集も非常にクレバーだった。アヌラーグ・バス監督はこの作品で完全に「Kites」の失敗を克服したと言える。
ランビール・カプールは「Rockstar」(2011年)などでの好演により若手俳優の中では頭一つ抜きん出た状態だった。この「Barfi!」によって完全に若手トップの名を確固たるものとしたと言っていいだろう。ほとんどしゃべらない役だが、なんと雄弁な演技だったことか。器用に動く四肢を存分に使って、バルフィーの感情を巧みに表現していた。ただただ脱帽である。
プリヤンカー・チョープラーもかなり思い切った演技をしていた。演技派への脱皮は、既に「Kaminey」の頃から挑戦しており、「What's Your
Raashee?」(2009年)では1人12役という荒技もこなしたが、「Barfi!」にて彼女の女優としての度胸を目の当たりにした実感である。やはり彼女もロクに台詞をしゃべっていないのだが、嫌みにならない程度に知能障害のある女性の素振りを再現しており、とても良かった。
シュルティを演じたイリアナ・デクルーズはテルグ語映画女優であり、本作がヒンディー語映画デビュー作となる。薄幸の美女と言った雰囲気をうまく醸し出せており、彼女の人選は間違っていないと思うが、シュルティ役を演じられる女優はヒンディー語映画界にも何人かいるはずで、わざわざ南インドから彼女を連れて来たことには疑問を感じる。それでも、ベンガリー語映画界のスーパースター、ジシュー・セーングプターも特別出演しており、この映画に汎インド的なアピールを加えたいというマーケティング戦略があったのかもしれない。
脇役ではサウラブ・シュクラーが素晴らしい。彼が演じるダッターとバルフィーは、まるで銭形平次とルパン三世のような、敵ながら親友という関係だ。太った彼がカルカッタやダージリンの町中でバルフィーを必死に追い掛けるシーンがいくつかあり、笑いを誘う。
音楽はプリータム。「Barfi!」は音楽も素晴らしかった。アコースティックギターをベースにした語り弾き的な曲が多く、映画に上品なイメージを加えていた。また、バルフィーが言葉をしゃべれないため、歌で彼の気持ちを代弁している部分もあり、歌詞の理解は重要である。特にバラードの「Main
Kya Karoon」は出色の出来だ。
「Barfi!」の舞台は主に西ベンガル州の避暑地ダージリンだが、映画は実際にダージリンで撮影されている。ダージリンの有名なトイトレインや茶畑も映画の中で頻繁に登場する。バルフィーが自転車に乗ってトイトレインと併走するシーンなどはダージリン特有であろう。本当に山道と線路が一体化しており、民家のすぐそばを列車が通るのである。一方、カルカッタのシーンでは路面電車や人力車が出て来て、カルカッタらしさを演出していた。
「Barfi!」は、アヌラーグ・バス監督起死回生の一作。ランビール・カプールはこの作品によって若手トップとしての地位を確固たるものとした。聾唖者が主人公の映画で、サイレント映画さながらの台詞を極力に抑えた展開であるが、語り掛けて来るものは普通の映画以上だ。そして映画のテーマはやはり愛。インド映画の王道を行く映画であり、現代のインド映画の新しくも古い形を代表する作品だと言える。間違いなく今年必見の映画の1本である。
不作だった2002年のヒンディー語映画界において、「Raaz」は例外的なヒットとなった作品だった。「Raaz」はしばしばインド初のホラー映画と呼ばれる上に、女優の肌の露出を映画の武器とする「スキンショー」のトレンドを作り出したり、前年に「Ajnabee」で衝撃のデビューをしたビパーシャー・バスが人気を不動のものとした作品だったりして、映画史上でも一定の重要性を持っている。また、この映画はB級映画を地道に作り続けるバット・キャンプ(マヘーシュ・バット、ムケーシュ・バット、ヴィクラム・バット、プージャー・バットなど)の代表作ともなり、直接ストーリー上の関連性はないものの、続編も作られた。「Raaz
- The Mystery Continues」(2009年)である。「Raaz」の監督がヴィクラム・バットだったのに対し、こちらはモーヒト・スーリーが監督をした。いかにもインドらしいホラー映画で、セミヒットとなった。
9月7日に「Raaz」シリーズの最新作「Raaz 3」が公開された。その頃は日本にいた関係で、今この映画を見ることになった。「Raaz 3」のキャスティングやクルーの顔ぶれは、「Raaz」と「Raaz
- The Mystery Continues」を足して2で割ったような案配となっている。監督は「Raaz」と同じヴィクラム・バット。主演女優にはビパーシャー・バスが返り咲いた。一方、「Raaz
- The Mystery Continues」の主演男優イムラーン・ハーシュミーが「Raaz 3」でも引き続き主演。その他、「Jannat
2」(2012年)でデビューしたミスコン出身女優イーシャー・グプターも出演している。「Raaz 3」は3D映画となっている。
題名:Raaz 3
読み:ラーズ3
意味:秘密3
邦題:ラーズ3
監督:ヴィクラム・バット
制作:マヘーシュ・バット、ムケーシュ・バット
音楽:ジート・ガーングリー、ミトゥン、ラシード・カーン
歌詞:サンジャイ・マースーム、クマール、ラシード・カーン
出演:イムラーン・ハーシュミー、ビパーシャー・バス、イーシャー・グプター、マニーシュ・チャウドリーなど
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサント・クンジで鑑賞。3D。
上からビパーシャー・バス、イムラーン・ハーシュミー、イーシャー・グプター
あらすじ
シャナーヤー・シェーカル (ビパーシャー・バス)はかつて絶大な人気を誇ったものの、現在は旬を過ぎた女優だった。シャナーヤーは起死回生のために映画賞の女優賞を熱望していたが、その栄誉は若手人気女優サンジャナー・クリシュナン (イーシャー・グプター)に奪われてしまった。実はサンジャナーはシャナーヤーの腹違いの妹であった。サンジャナーの父親と妾の間に生まれたのがサンジャナーであった。だが、父親は妾と住み始めてしまい、シャナーヤーは無視されることになった。よって、シャナーヤーはサンジャナーにいっそうの憎悪を抱いていた。
ところでシャナーヤーは過去3年間、人気映画監督アーディティヤ・アローラー (イムラーン・ハーシュミー)と密かに付き合っていた。アーディティヤを人気映画監督に育て上げたのもシャナーヤーであった。アーディティヤは今回最優秀監督賞を受賞し、上機嫌であった。既にシャナーヤーの黄金期は過ぎ去ったことを知っていたアーディティヤは彼女に結婚を申し出る。だが、シャナーヤーはキャリアの方を重視しており、その申し出を断る。
シャナーヤーは神頼みして賞が得られなかったことで黒魔術に頼るようになる。シャナーヤーの願いはサンジャナーの没落であった。彼女は悪霊ターラーダッター (マニーシュ・チャウドリー)と出会い、彼から呪いの水を受け取る。この水を毎日サンジャナーに飲ませることで、彼女を苦しませることが出来るとのことだった。シャナーヤーはアーディティヤを使ってその水をサンジャナーに飲ませることにする。アーディティヤの新作にサンジャナーを起用させ、彼女と近付き、そして密かに水を飲ませた。アーディティヤは、黒魔術に荷担することは本意ではなかったが、恋人の願いでもあり、また映画界での出世を後押ししてくれた恩もあって、断れなかった。しかしながら、アーディティヤはサンジャナーと深く話す内に、彼女に惹かれるようになる。徐々に呪いが効き始めるのだが、夜な夜な現れる亡霊に怯える彼女を守る内に、とうとう2人は肉体関係となってしまう。
アーディティヤは、シャナーヤーとの関係を断ち切り、サンジャナーと付き合うことを決める。ところがシャナーヤーは、アーディティヤがサンジャナーに呪いの水を飲ませることを承諾する様子を映したビデオを持っていた。それでもってシャナーヤーはアーディティヤを脅す。だが、彼は脅しに屈せず、映画の撮影を中断して、サンジャナーと共に別荘へ籠もる。
だが、ある日シャナーヤーが突然別荘を訪れる。シャナーヤーは引き続きアーディティヤを脅す。また、彼女は密かにサンジャナーに呪いの水入りのチョコレートを食べさせていた。そのおかげでシャナーヤーは映画界の重鎮が集まるパーティーにおいて幻覚を見て服を脱ぎ捨ててしまう。公衆の面前で全裸となったことでサンジャナーの名誉は地の底まで落ちる。サンジャナーはしばらく入院することになる。一方、人気女優が奇行に走ったことで、シャナーヤーのもとに映画のオファーが殺到する。
アーディティヤはシャナーヤーの留守中に彼女の自宅に侵入し、残っていた呪いの水を奪い出す。また、呪いを始める前に地中に埋めたガネーシャ像を掘り起こす。異変を察知したシャナーヤーは再びターラーダッターのもとを訪れ、今度はサンジャナーの死を要求する。ターラーダッターはそれと引き替えに体を要求する。シャナーヤーはターラーダッターの腐敗した体を受け容れ、悪霊と性交する。
ターラーダッターの呪いにより、入院中だったサンジャナーは突然意識を失ってしまう。アーディティヤは、黒魔術に理解のある医者の助けを借りて霊媒師を呼び寄せる。霊媒師は、魂の世界に行って、捕らえられたサンジャナーの魂を救い出すしか手段はないと言う。アーディティヤは自らが魂の世界へ行くことを決める。アーディティヤは魂の世界においてターラーダッターと戦う。現実世界ではシャナーヤーがその儀式を邪魔しようとして来るが、アーディティヤはガネーシャ神のご加護もあってターラーダッターを退治することに成功する。サンジャナーは意識を取り戻す。呪いが失敗したことを知ったシャナーヤーは酸を浴びて死んでしまう。
場末の観客をメインターゲットに絞ったかのような作品を送り出し続けるバット・キャンプであるが、B級映画ながらなかなか面白い作品を時々作るので無視出来ない。今年の作品ではヴィクラム・バット監督「Dengerous
Ishhq」が個人的に壺にはまったし、ムケーシュ・バット制作「Jannat 2」もヒットしている。「Raaz 3」も楽しめた。
まず面白かったのは、売れなくなった女優の焦燥感と嫉妬がストーリーの原動力となっていたことである。往年の女優がかつての栄華を忘れられずに旬を過ぎた後も見栄を張った生活を送り続けるという姿は古今東西の映画でよく題材となるが、「Raaz
3」では旬を過ぎたもののまだ完全に下降していない女優シャナーヤーが、新たに台頭して来た若手女優サンジャナーを何とか失墜させようと黒魔術に頼る。それだけでなく、後にはサンジャナーは実は腹違いの妹であることが明かされるが、この点は蛇足に感じた。旬を過ぎた女優のエゴのみを呪いの動機とした方が綺麗にまとまっていたと思う。しかし、この辺りのドロドロとした人間関係をこれでもかと見せ付けるのは、バット・キャンプの得意技だ。
呪いの水を毎日飲ませるという呪術がインドに昔から伝わるものなのか、それともライターの空想の産物なのか、分からない。それほどおどろおどろしさがない気もする。だが、呪いにかかったサンジャナーを救うために魂の世界へ行くという設定は良かった。もちろん、「マトリックス」シリーズの二番煎じであろうが、現実世界と魂の世界を交互に見せて緊迫感を出したりしていて、このアイデアの導入は成功していたと思う。
また、「Raaz」がトレンドセッターとなった「スキンショー」も健在で、女優の肌見せシーンがいくつか存在する。「連続キス魔」の異名を持つイムラーン・ハーシュミーは今回両ヒロインとキスをしている上に、両ヒロインとベッドシーンもこなしている。また、サンジャナーが幻覚を見て全裸で公衆の面前に飛び出すシーンも、いかにもバット・キャンプが考えそうなサービスシーンだ。
今回3Dで鑑賞した。それをフルに活かした映像表現は見当たらなかったものの、ホラー映画としての完成度はそれほど低くない。突然のビックリ映像と大きな効果音で驚かすタイプの幼稚なホラーではあるが、それなりに怖さはある。
総じて「Raaz」の名に恥じない映画となっていたと評価できる。興行成績も悪くないようである。
ビパーシャー・バスは今回かなり勇気ある決断をしたと言える。彼女が演じたシャナーヤーは、ビパーシャーの身の上とも重なるものがあるからだ。ビパーシャーも既に30歳を越えており、ヒロイン女優としての黄金期は過ぎている。デビュー作「Ajnabee」で最優秀新人女優賞を受賞したものの、その後受賞とは縁がない。ビパーシャーは一時代を築いた女優で、インド中で知名度も高いが、女優としてのキャリアは順風満帆とは言い難い。シャナーヤーの身の上や彼女の台詞は、何となくビパーシャー自身の今の心情を代弁しているようで、妙な現実感があった。また、かつて「セックス・シンボル」として名を馳せたビパーシャーは、演技派女優への転身を図るのだが、それも成功しなかった。ビパーシャーが注目を集めるのは常にセクシーさを前面に押し出したときであり、「Raaz
3」でも「Raaz」の頃に回帰したかのようにセクシーさを強調していた。どこか吹っ切れたかのようにも見えるが、今後ビパーシャーはどうなるのであろうか?
もう1人のヒロイン、サンジャナーを演じたイーシャー・グプターは、2作目ということもあり、デビュー作「Jannat 2」に比べたら余裕のある演技をするようになっていた。ただ、それほど難しい役柄ではなく、ホラーシーンでも怖がっていればいいだけだったので、これをもって評価をすることは難しい。ビパーシャーに比べるとオーラが足りない気もする。名前にもこれと言って特徴がない。有望な若手女優が多いので、埋もれてしまうかもしれない。
主演男優のイムラーン・ハーシュミーはいつもながら絶妙な演技を見せていた。キャラクター設定がうまく出来ていなくて、彼が演じたアーディティヤの人物像ははっきりしないのだが、そんなハンデもものともせず、イムラーン節で乗り切っていた。誤解を受けることが多い男優であるが、同世代の中ではもっとも柔軟な演技が出来る優れた俳優だと言える。
音楽はジート・ガーングリー、ミトゥン、ラシード・カーンなど。「Raaz」は音楽も大ヒットした映画だったが、それほどの質を誇る楽曲にはなっていない。唯一「Deewana
Kar Raha Hai」がヒットしているようだが、映画中では使われていなかったと思う。
「Raaz 3」は、ヒンディー語映画を代表するセクシーホラー映画の第3弾。前作、前々作とのストーリー上のつながりは全くなく、前知識なしで楽しめる。見事なB級映画である。3Dでなくてもいいだろう。
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9月20日 (木) 念願のラダック・ツーリングへ
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ラダックへのツーリングは、インドでバイクを買ってツーリングを始めて以来の夢であり憧れであった。チベット仏教を信仰する人が多く住み、「インドの小チベット」と呼ばれるラダック地方は、ジャンムー&カシュミール州の東部に位置し、中国と国境を接するセンシティブなエリアである。だが、平野部とは全く異なった景観が広がり、独特の文化が育まれていて、近年国内外の旅行者の間で人気の旅行先となっている。2002年に一度訪れたことがあったが、当時はバイクを所有しておらず、バスや乗り合いジープを使っての一般的な旅行であった。ラダックへのツーリングは、バイク好きなインド人の誰しもが抱く夢であり、僕も同様に「いつかラダックへのツーリングを」「カリズマ(愛機)にラダックの青空を見せたい」と考えていた。
デリーからラダックの主都レー(Leh)を目指す場合、主に3つのルートが考えられる。ひとつはシュリーナガル(Srinagar)経由の西からのルート。シュリーナガル近辺の治安が懸念事項だが、道路は最もよく整備されていて、峠越えも比較的楽で、標高も段階的に上がっていくため高山病の心配が少なく、3つのルートの中では一番容易である。ひとつはマナーリー(Manali)を経由し、ロータン峠(3,978m)を越えてラーハウル地方を走破する中央突破ルート。一気に標高を上げるため、高山病の恐れがあるのだが、バイカーには最もポピュラーなルートだ。ひとつはヒマーチャル・プラデーシュ州の州都シムラー(Shimla)からキンナウル地方やスピティ地方を巡る大回りルート。スピティ地方からクンザム峠(4,590m)を越えてラーハウル地方に入り、2番目のルートと合流する。最も困難だが最も楽しいルートだとされる。スピティ地方は以前ツーリングで巡ったことがある(参照 )。どのルートも冬には雪で峠が閉ざされてしまうため、夏季限定となる。
2010年にマナーリー経由のルートでラダック・ツーリングに挑戦したのだが、途中にある難所バララチャ峠(4,890m)で雪に阻まれて引き返すことになった(参照 )。その後、子供が生まれ、デリーで一緒に住み始め、学業も忙しくなり、もはやこの夢を実現するチャンスは巡って来ないだろうと考えていた。しかしながら、博士論文を提出し、ヴィザの6ヶ月延長に成功し、第二子が生まれ、妻子が日本に滞在する中、ラダック・ツーリングに挑戦する最後のチャンスが生まれた。
どうせならもっとも困難なスピティ経由のルートで挑戦しようと目論んでいたのだが、ひとつ思い通りに行かないことがあった。天候である。今年は雨季の前半にあまり雨が降らなかったこともあって、通常ならモンスーンが引き始める9月に入ってから逆に降雨量が増加し、なかなか雨季が終わらなかった。ヒマーラヤ山脈へのツーリングは何度も経験済みで、山の天気は変わりやすいことも十分承知しており、雨に対する万全の準備はできていたが、できることなら雨に降られる確率の低い時期に山道を走行したい。インドの季節は大まかに雨季と乾季に分かれており、乾季にはほとんど雨が降らない。雨季にわざわざツーリングする必要性がない。また、山道では雨が降ると土砂崩れなどが起こって数時間から数日間、通行止めになることが多いので、旅程を立てるのが難しくなる。
そうこうしている内にヒマーチャル・プラデーシュ州の各峠で今季初の積雪があったとのニュースがあった。この時期の雪はすぐに溶けてしまうので、このまま来年まで閉鎖になることはないだろうが、通行に支障が出るのは確かだ。次第にこれらのエリアを通過するルート(2番目と3番目のルート)を信頼出来なくなって来た。また、昨年からロータン峠への車両進入規制が始まったことも分かり、面倒に感じるようになった。ヒマーチャル・プラデーシュ州以外のナンバーの車両は、事前に許可を取らなければロータン峠に行くことができないのである。昨年までは四輪車のみが対象だったが、今年からは二輪車も規制対象となってしまった。申請すれば許可はもらえるようなのだが、1日は掛かるようで、とても面倒である。今回はラダックに辿り着くことがまず一番の目的なので、不確実なルートを選択する気にはなれなかった。
残るはシュリーナガル経由のルートであった。帰りのルートとして考えていたのだが、こちらを通って向かった方がラダックへの到着は確実であった。今までこのルートに挑戦したこともないため、もし途中で挫折しても、新しい経験にはなる。マナーリー経由やスピティ経由だと、今まで経験済みなので、新しい経験は少ない。よって、土壇場でシュリーナガル経由のルートで行くことに決めた。
ラダック・ツーリングへ向けて徐々にバイクを整備して行った。山道を走行する際の一番の懸念はタイヤのパンクである。だが、僕のバイクは両輪ともタフアップ・チューブを装備しているので、通常の安いチューブよりはパンクに強い。今までの経験上、タフアップ・チューブがパンクするときは、チューブそのものが老朽化で駄目になったときくらいで、釘が刺さったぐらいではビクともしない。タイヤもすり減っていたので交換した。こまめにメンテナンス・サービスにも出しているので、大きな問題はない。出発直前にフルボディー・チェックをしてもらい、特にバッテリー回りをチェックしてもらった。おかげでバイクの調子はすこぶる良い。
今回新たな試みとしてツーリングに導入したのはGoPro という小型ビデオカメラである。スキー、サーフィン、スカイダイビングなど、様々な場面で様々な用途に使用できるが、バイクなどのモータースポーツでも威力を発揮し、走行の様子を撮影出来る。9月に日本に帰ったときに購入した。
出発前に僕の住むジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)のキャンパスで何度もテスト・ドライブを行い、最適な設置法を考案した。結果的に、サクションカップマウントを使ってタンクの上に設置するのが一番いいと分かった。何より映像にハンドルが含まれるのがいい。前方に設置すると風景全体が映るが、バイクから撮影していることが分かりにくくなり、あまり面白くない。それに前輪の上は最も揺れるので、映像の質が落ちる。また、僕の乗るカリズマには高めのメーターバイザーが付いている。これが撮影の邪魔になっていたため、取り外した。見た目は悪くなるが、その結果、前方をよく見渡せるようになり、十分鑑賞に値する動画を撮影できると判断した。よって、GoProを実戦投入した。
GoPro Hero2
タンクの上にマウントされているのがGoPro
ところで、GoProはフルバッテリーで2時半動画を撮影出来る。予備のバッテリーも購入し、合計5時間の撮影を可能にしたのだが、旅のかなり初期の段階でその予備バッテリーを紛失してしまった。一体どこでなくしたのか、皆目見当も付かないのだが、最初の停泊地であるアムリトサルで既になくしてしまった可能性もある。よって、1日最大2時間半のみの撮影しかできないことになってしまった。これは大きな誤算だった。
今回旅の参考書とした本はいくつかある。まずは毎回お世話になっているロンリー・プラネットのインド(英語版)。最新情報を得るために、2011年の最新版(30周年エディション)を購入した。2色刷りになっており、見やすくなったが、情報量は明らかに減ってしまっている。有名遺跡の3D図解など、ロンリー・プラネットに求めていないものまで含んでいるのは、他社のガイドブックに対抗するためか。その方向性に疑問を感じていたために買い控えていたのだが、今回ラダック・ツーリングを前に購入した。
他にラダック関係の書籍をいくつか持参した。その中で今回最も頼りにしたのが山本高樹著「ラダック ザンスカール トラベルガイド」である。ダイヤモンド社の地球の歩き方Gem
Stoneシリーズのひとつで、今年出版されたばかりのラダック情報満載ガイドブックだ。8月にはインド(ラダックとスピティ)を訪れていた著者ともデリーで会うことができ、生の最新情報を提供していただいた。ラダック・ツーリングを計画していた僕にとっては、これ以上ないほどタイムリーなギフトであった。この本のおかげで、今後さらにラダックを訪れる日本人が増えることだろう。
もしかしたらこれが僕にとってインドで最後のツーリングになるかもしれない。今までのツーリングで培った経験を少しでも文字情報化するため、旅行記の中では随所にバイク旅の豆知識を挿入することにする。説教臭くなるかもしれないが、今後インドをバイクで旅行する人に少しでも役に立てば光栄である。
インドをバイク・ツーリングするに当たって、あると便利なものなどもまとめておく。まずは何より防寒具だ。平均標高3,500m-4,000mあるラダック地方のツーリングでは、夏でも厚手のジャケットや冬用のグローブは必須である。意外と重要なのが靴で、くるぶしまである保温性の高いブーツが好ましい。インドの山道ツーリングでは川越えや水たまり越えをしなければならないので、そのとき水や水しぶきが靴の中に入らないような構造になっていなければならない。足が冷えると体力が一気に消耗する。ユニクロのヒートテックなど、保温性の高い下着類(シャツと股引)があるとだいぶ違う。それに加え、インドの市場で冬によく売っているモンキーキャップや、ウールのショールなどがあるといい。
インドにおいて山ツーリングのシーズンは夏になる。つまり、平野部からツーリングを始める場合、これらの防寒具は着ないので、荷物となる。その荷物を運ぶための工夫も必要である。背負うよりもバイクに積載した方が圧倒的に楽なので、そのための装備を揃えるべきだ。インドにもバイク・ツーリング用品を作るCramster というメーカーがあり、その製品で大体揃う。インドのバイカーたちは大体Cramster製品を愛用している、と言うか同社の独占市場と言った感じだ。
バイク積載用のバッグの他、僕は今回Watershed の防水バッグ(Backpack Animas)を紐で後部に積んで使用した。米軍も採用する完全防水のバッグで、中に空気を入れれば浮き袋にもなるほどだ。他に、ホテルに荷物を置いての街乗り・散歩時用にグレゴリーのデイパックも持って行った。中には所持金や書類など、重くならないものを入れた。ラダック・ツーリングでは道中、パスポートやパーミットなどを見せないといけない場面が何度かあるので、それらの書類をさっと取り出せるような荷造り上の工夫が必要だ。
テントを持って行くべきか迷ったが、結局持って行かなかった。インドでのツーリングでは、どんなところでも大体宿が見つかるので、わざわざテントを運ぶ必要性は低い。それがたとえラダックのような僻地であっても、である。しかし、レー・マナーリー・ロードをオフシーズンに走破しようとした場合に限って、テントが必要となることがあるかもしれない。
寝袋は今回持って行くのを忘れてしまったもののひとつだ。寝袋がなくて危機的に困ったことはあまりなかったが、寒いところ、汚いところで寝ることもあるので、あると安心だ。
カメラは、富士フィルムのFinepix X100とソニーのCybershot DSC-RX100という似たような名前のカメラ2台体制である。メインカメラはAPS-C、35mm換算35mm単焦点のX100。画質には定評があるが、操作性に癖がある。そのため、自分の写真を撮ってもらったり、バイク運転中に風景写真を手軽に撮るために、1インチセンサー搭載35mm換算28mm-100mmズームレンズのRX100も導入した。デジタル一眼レフ(DSLR)はあまり自分のスタイルと合っていないし、ツーリングには邪魔なので、敬遠している。
Finepix X100
他に、日焼け止めやリップクリームは必須とも言えるアイテムかもしれない。バイクに乗っていると結局日焼けしてしまうのだが、露出する部分に毎回日焼け止めを塗っておくだけでだいぶ違う。また、ラダックは極度に乾燥しており、唇をはじめとした様々な部分がカサカサになって来る。普段はリップクリームなんて使っていないが、今回持って行ったらだいぶ役に立った。
これは持参したものではなく、現地で購入したものになるが、Milestone Books のトレッキング地図「Milestone Himalayan Series: Ladakh and Zanskar」は道路情報が非常に正確で重宝した。395ルピーもするが、買って損はない。
ちなみに、ラダック・ツーリングを「ラダック・ツォーリング」とした理由については、この旅行記を最後まで読んでいただければ分かるだろう。
以下がGoogleマップを利用したツーリングの全行程である。
より大きな地図で ラダック・ツォーリング を表示
シュリーナガル経由でラダックへ向かうことを決めたのだが、デリー~シュリーナガル間はおよそ900kmあり、1日で走破することは困難である。どこかで1泊から数泊しなければならない。ちょうど中間点にあるのはパンジャーブ州のジャランダル(Jalandhar)やパターンコート(Pathankot)などであるが、それぞれ観光地としての魅力は乏しく、本当に単なる中継点となってしまう。少し寄り道する形にはなるが、スィク教の総本山ハルマンディル・サーヒブ(黄金寺院)があるアムリトサル(Amritsar)で1泊することを決めた。アムリトサルには以前行ったことがある。
午前5時15分に南デリーのジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)を出発し、リングロードを時計回りに回ってNH1(国道1号線)を目指した。まだ早朝なので交通量は少なく、非常にスムーズな走行だったが、リングロードからGTロードに入った途端に道路の大部分が水没している悪路にぶち当たった。デリーはインドで最も美しい道路がある一方で、インドで最も酷い道路もある。首都だからと言ってどこもかしこもワールドクラスとは限らない。
NH1は今まで何度も通ったことがあるので、この道を通ることにそれほど興奮は覚えない。ただ、通る度に道路の姿が変わっていることには毎回驚かされる。かつては何の変哲もない幹線道路だったが、地道に道路拡張工事が行われ、随所にフライオーバーが造られ、今では複数レーンの立派なハイウェイとなった。この道を走行するのにほとんど問題はない。何も考えず直進していればいい。午前7時にはパーニーパト(Panipat)を通過し、午前9時頃にはアンバーラー(Ambala)に到着した。
Tip バイクは通行税を払う必要はない
ハイウェイには各所に料金所(Toll Gate)があり、通行税(Toll)を徴収しているが、通常二輪車は免税となっている。一番左に二輪車用のレーンがあるため、料金所が見えたら徐行しながら左へ進む。デリーとノイダを結ぶDNDフライウェイやグレーター・ノイダとアーグラーを結ぶエクスプレスウェイなどは例外的に二輪車にも通行税が課せられる。
アンバーラーはハリヤーナー州の最北端にある街で、ここから道が分岐している。アンバーラーから北に進めば連邦直轄地チャンディーガル(Chandigarh)やヒマーチャル・プラデーシュ州の州都シムラー(Shimla)がある。ここから西に逸れればパンジャーブ州で、ルディヤーナー(Ludhiana)やジャランダルなどがある。今までのツーリングでチャンディーガルやシムラーには行ったことがあったが、ルディヤーナー方面にはバイクで行ったことがなかった。今日の目的地アムリトサルはルディヤーナーを越えた先にある。ここからはバイク・ツーリング上、未知の領域に足を踏み入れたことになる。
ハリヤーナー州とパンジャーブ州の州境で貨物トラックの渋滞があったが、バイクだったのですり抜けることができた。その後はだだっ広いハイウェイが続き、非常に快適な走行。周囲は見渡す限り田園風景が広がっている。「緑の革命」を目の当たりにした。また、デリーに住んでいるとパンジャーブ人はせっかちなイメージがあるのだが、本場パンジャーブ州を走行していると、逆にのんびりした人々が多いような印象を受けた。デリーのパンジャーブ人は運転も荒々しいが、パンジャーブ州に入ってからは意外にみんなおっとりとした運転をしていた。デリーのパンジャーブ人が特殊なのだろうか?
午前10時にカンナー(Khanna)のマックで朝マックをして休憩。出発前に自宅で朝食は食べて来たが、この時点で空腹だった。デリー~ジャランダル間のハイウェイではいくつものマクドナルドやKFCを発見した。他にカフェ・コーヒー・デー(インド資本の喫茶店チェーン)やニルラーズ(インド資本のファミリーレストラン・チェーン)なども見た。ハイウェイ沿いに点在するダーバー(安食堂)で休憩するのがインドのツーリングの醍醐味なのだが、このようなファストフード・チェーン店の利点は清潔なトイレが期待出来ることである。ハイウェイを自家用車で移動中、女性がいる場合や大の方の用を足したい場合は、ハイウェイ沿いのファストフード・チェーン店は心強い存在だ。最近では主要な幹線沿いにはこのようなファストフード・チェーンがかなり進出している。
Tip ハイウェイのファストフード・チェーンを活用せよ
ハイウェイ上で少しでも清潔なトイレに有り付きたかったら、マクドナルドやKFCなど、ファストフード・チェーンが最も信頼できる。主要幹線上では大体これらのチェーンが点在している。通常のダーバーのトイレは、外でした方がマシのレベル。トイレがなくて外でしなければならないことも多い。
12時15分頃にルディヤーナーに到着。ヒーロー・サイクルの本場だ。産業都市という雰囲気の街であった。そして午後1時にはジャランダルに着いた。ここからアムリトサルまでは半分ぐらいが片側1車線のみの中央分離帯のない田舎道となるが、アムリトサルが近付くと中央分離帯のある片側2車線以上の道路となる。午後2時前にはアムリトサルに到着した。実は今日はバーラト・バンド(全国一斉ストライキ)が行われており、アムリトサルのバーザールは閑散としていた。
アムリトサルではグランド・ホテルという1950年創業の老舗ホテルに宿泊した。ロンリー・プラネットでリコメンドされていたため、Eメールで予約を入れて宿泊した。僕の宿泊した部屋は1泊1,500ルピー前後。部屋には特に特徴はないが、中庭が気持ちいい。バジェット・ルーム以外ではWiFiが無料なのも、ここを選んだ理由だ。しかし、WiFiでインターネットができてしまうといまいち旅情が沸かない。日常生活から完全に切り離されないと旅行をしている気分がなかなか出ないものだ。しかし何だかんだ言って、ないよりはあった方が楽しい。TwitterやFacebookで近況を報告することができるからだ。便利な世の中になったものだ。僕がインド旅行を始めた頃は、旅先からEメールを送れるということで、ホットメールが旅人の間で流行していた。あれからなんと急速な進歩を遂げたことだろう。
グランド・ホテルの中庭
以前アムリトサルを訪れたときに、一番の見所である黄金寺院は見物済みなので、それほどあくせく観光する気にはなれない。だが、アムリトサルから30kmほど西に行った場所にあるアターリー・ワーガー印パ国境で毎夕行われる国境閉鎖セレモニーは未見だったので、今回はそれを必ず見ようと計画していた。それに間に合うように飛ばして来たのである。バイクで行っても良かったのだが、宿のオーナーであるサンジャイ氏がツアーを勧めて来たこと、そしてバイクの長旅で疲れていたこと、またツアーの同行者(フランス人の老人)がいたこともあり、ツアーで行くことにした。結果的にこの選択は間違っていなかった。
サンジャイ氏がホテルに宿泊する外国人旅行者を対象に毎日組んでいるツアーは、アムリトサルの3つの観光地を巡る5時間ほどのパッケージ・ツアーで、ACタクシーでマーター・マンディル、アターリー国境、黄金寺院を巡る。値段は、同行者が2人以上いる場合は1人580ルピー。午後3時半出発で、午後8時45分頃には宿に帰り着く。バイクで行かなくて良かった理由は、国境でのセレモニーが終了すると夜になってしまっているからである。夜になるとインドの道は真っ暗になって一寸先に何があるか、何がいるか分からず、危険度が数倍上がるし、道にも迷いやすくなるので、ツーリングの鉄則として、夜は絶対に走行しないことを決めている。
Tip 夜間のハイウェイ走行は絶対にするな
インドのハイウェイは満足な照明設備がないことがほとんどで、夜間の走行は昼間の何倍も危険となる。道に何があるか分からないし、対向車の容赦ないハイビームで目は眩みっぱなしだ。実際に夜間の交通事故数は日中の3倍にもなる。日が沈むまでに目的地に着くような旅程を立てるべきである。
このアターリー・ワーガーのセレモニー、以前アムリトサルを初めて訪れたときにわざわざ見に行かなかったことが示すように、個人的には全く期待していなかった。だが、見た途端にガラリと考えが変わってしまった。これは外国人旅行者がインドで是非見るべきもののひとつに入るほど面白いエンターテイメントだ。外国人は無条件で前の方の席に座らせてもらえるのもいい(ただし外国人であることを証明するためにパスポートを持参すべし)。この印パ国境は日中開かれており、ヴィザさえあれば陸路で印パ間を行き来できるのだが、午後4時に国境業務は終了する。その後、国境を閉じる儀式が行われるのだが、これがいつからか観光客向けの一大エンターテイメントとなっている。ライバル国家パーキスターンを眼前に控え、ナショナリズムを高揚するようないくつかの前座イベント(観客が国旗を持ってダッシュ、ボリウッド映画音楽に合わせてダンス、インド万歳のシュプレヒーコールなど)が行われ、主にインド人観光客が盛り上がるのだが、その盛り上がっている様子を見るだけで外国人も楽しめる。メインとなるのは国境警備隊(BSF)による国旗下げの儀式だ。まずは2名の女性隊員が颯爽と国境際まで歩いて行き、その後派手なターバンを巻いた男性の隊員が複数、頭に着くまで足を高々と上げて行進を行う。その姿は格好良さと滑稽さの絶妙なブレンドだ。もちろん隣ではパーキスターンが同様の儀式を行っており、パーキスターン側でも観客が歓声を上げる。国境ということで警備が厳重かと思っていたが、国境警備隊としては隣国に負けないように観客を盛り上げることが優先事項となっているようで、意外にルーズであった。儀式が始まる前なら自由に動いて写真を撮らせてもらえるし、インド人に混じって踊ることもできる。もっとも、インド側の方が常に観客数も多く、盛り上がりではパーキスターンに負けることはないだろう。
国境閉鎖セレモニー
国境でのセレモニー後は黄金寺院を訪れ、ツーリングの無事を祈った。以前は昼間しか黄金寺院を見なかったため、夜の黄金寺院は新鮮であった。
夜の黄金寺院
本日の走行距離:468.4km。ガソリン補給2回、合計1,000ルピー。
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9月21日 (金) アムリトサル→シュリーナガル
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今日はジャンムー&カシュミール州の州都シュリーナガルを目指す。手持ちの距離表によるとアムリトサルからシュリーナガルまでの距離は521km。昨日よりも長い距離を走行することになるし、半分以上は山道が予想されるので、かなりの苦難が予想された。アムリトサルとシュリーナガルの間で、どこかで1泊すればもっと楽になるのだが、どうせなら今日1日頑張って、翌日シュリーナガルでのんびりしたいので、今日は急ぐことにした。ちなみに平野部の片側二車線以上・中央分離帯ありの道では、休憩時間抜きで、大体1km=1分の計算で所要時間が計算出来る。だが、山道になるとその1.5倍から2倍は掛かる。
Tip 平野のハイウェイは1km=1分だと思え
平野部の中央分離帯のある片側二車線以上のハイウェイをバイクで走行する場合、1km=1分の計算で大体所要時間が計算出来る。目的地まで200kmだったら、休憩時間を含まずに200分、つまり3時間20分ほど掛かる計算になる。ハイウェイと言っても道中いろんなことがあるので、時速60kmで走ろうと時速100kmで走ろうと、実はそんなに変わらない。ちなみに、時速100km以上で長時間走行し続けられるバイクはインドにはまだあまり存在しない。もちろん、中央分離帯のない道路、砂利道や泥道などの悪路、山道などではさらに時間が掛かる。
午前5時半にアムリトサルを出発した。まだ辺りは暗い。まずはパターンコートを目指す。アムリトサルからパターンコートまでの道は、車線拡張工事が所々で行われており、そんなに良くない。ほとんどの区間では片側一車線・中央分離帯なしの危険な道路となっている。早朝だったので交通量が少ないのが救いであった。周囲は一面畑で、朝靄が掛かり、とても幻想的な光景であった。まだ寒かったが、6時半頃に日が昇り、徐々に暖かくなって来た。
パンジャーブの朝
パターンコートの手前でラヴィ河を渡り、ジャンムー&カシュミール州に入った。パターンコート市街地に入る必要はなかった。この辺りはカトゥアー(Kathua)という地名のようだ。ここで初めてヒマーラヤ山脈の最前列が見え始める。この州境からは、ジャンムー&カシュミール州政府に感謝状を送りたくなるほどの広く美しい道路が続く。片側二車線・中央分離帯ありで、トップスピードで走行出来る。ジャンムーまでは快適な走行が続いた。
ジャンムーには午前9時45分頃に到着。ジャンムーにはバイパスがあるため、市街地に入らなくても通過できた。ここからが本当の戦いだった。ジャンムーまではなだらかな丘陵地帯になっているが、ジャンムーを過ぎると本格的な山道が始まる。しかも舗装状態は一気に悪くなるため、スピードが出せない。さらに、早朝を過ぎたことで交通量も増え、思い通りに走行できない区間が続いた。
午前11時半頃にウダムプル(Udhampur)を通過し、その先にあるダーバー(安食堂)で昼食を取った。この辺りは山道とは言ってもまだそんなに標高が上がっておらず、暑さを感じる。正午12時に出発。しばらくするとジグザグに山の斜面を登って行く道となり、標高が一気に上がる。急に空気がヒンヤリとして来る。そしてデーオダル(ヒマラヤスギ)林の中の道となる。ひとつ山を越しているようで、その山の頂上にあるのがジャンムー地方の避暑地パトニートープ(Patnitop)となる。パトニートープはシュリーナガルまでの中継地点として理想的な位置にあるが、避暑地ということでホテルの値段は安くないことが予想され、ここでの宿泊を避けたのだった。
パトニートープを越えると今度は下り道となり、標高が下がるために、再び気温が上がる。体感気温が忙しい。だが、坂を下り切ると川沿いに伸びる平らな道を進むことになるため、走行は一気に楽になる。
午後3時半頃にバニハール(Banihal)という山間の町に差し掛かった。ここで大渋滞があった。バイクなので隙間を縫って先まで進めたが、その先で見た渋滞の原因は、イスラーム教徒によるデモンストレーションであった。預言者ムハンマドを侮辱したとされる米国映画「Innocence
of Islam」に対し、イスラーム諸国で反発が起こっている。この辺りは既にイスラーム教徒多住区域となっているようで、ここでも金曜の集団礼拝を機にデモが行われているようであった。1ヶ所のみではなく、バニハール以降数カ所でデモ行進が行われており、きな臭い雰囲気が漂っていた。四輪車はデモが終わるまで停止を余儀なくされていたが、僕はバイクだったのでデモをする人々の間を通り抜けて先へ進むことができた。
このデモのおかげで四輪車がしばらくの間全て通行止めとなっていたため、僕はこの先の道路をほとんど独占しながら走行することができた。神様が与えてくれたプレゼントのように感じた。インドは、都市部の道ですらとんでもない悪路があるため、山道の状態は推して知るべしである。だが、インドの山道で本当に厄介なのは、黒煙を巻き上げながらノロノロと進むトラックだ。特に同じ進行方向に進むトラック。対面車線では追い抜きに労力が要るのである。これさえなければどんな悪路であってもそんなに苦痛には感じない。だから、何の先行車もない状態の山道の走行ほど嬉しいものはない。おかげで何の支障もなくそのままジャワーハル・トンネルまで辿り着けた。この全長2.5kmのトンネルを越えるとその先がカシュミール地方となる。今まで通って来たのがジャンムー地方であった。
ジャワーハル・トンネルの手前にはチェックポストがあり、外国人はここで登録しなければならない。名前、住所(Permanent Address)、国籍、インド入国日、カシュミール地方入域日、パスポート番号、ヴィザ番号などを書き込む。ホテルの予約があるかも聞かれた。ジャワーハル・トンネルは軍事上非常に重要な施設となっており、写真・ビデオ撮影厳禁である。
ジャワーハル・トンネルを越えてしばらく下った先にはタイタニック・ビューポイントという展望ポイントがある。ここからカシュミール地方の最初の風景を眺めることができる。そこでチャーイを飲んで少し休憩した。タイタニック・ビューポイントを出発したのが午後4時半頃であった。
タイタニック・ビューポイント
なぜ「タイタニック」なのか?
写真を見れば分かるだろう
カシュミールの美しさについては改めて力説する必要はない。「地上の楽園」と呼ばれるカシュミールは、ムガル朝皇帝から現代のボリウッド映画監督まで、多くのインド人に愛されて来た風光明媚な土地だ。しかし、しばしば「カシュミール谷(Kashmir
Valley)と呼ばれるため、もっと山がちな地形を想像していた。日本語の「谷」という言葉は山と山の間の切り立った狭い空間をイメージしているような気がするが、こちらで言う「谷」はもっと広い意味の言葉である。タイタニック・ビューポイントから眺めたカシュミールも、実際に走行したカシュミールも、広大なる平原であった。延々と広がる田園風景と森林、遠くに見えるなだらかな山、コテージ風の家屋、まるで風景画のようなメルヘンチックな風景が続く。日没までにシュリーナガルに着きたい気持ちが強かったので、ゆっくりとその風景を楽しんでいる余裕があまりなかったのが残念だが、バイクで走りながらもついつい景色に見とれてしまうほどだった。僕が見たカシュミール地方でもっとも美しい風景は、このジャワーハル・トンネルからシュリーナガルまでのものだった。残念ながらこのときまでにGoProのバッテリーが切れていたので、撮影できなかった。
グリーン・トンネル
タイタニック・ビューポイントを下りた先からはずっと平野の中を進む道で、余裕の走行であった。午後6時半にはシュリーナガルに到着した。
シュリーナガルは、その風光明媚な美しさ以上に、アグレッシブな客引きで悪名高い街だ。僕も2002年に初めてシュリーナガルに来たときには、その強引さに辟易してしまったものだった。当時はシュリーナガルの治安が芳しくなく、観光客が少なくて、その少ないパイを巡って争奪戦が行われているものだと理解していた。何を客引きしているかと言うと、十中八九シュリーナガル名物ハウスボートへの宿泊である。しかし、湖上に浮かぶホテルであるハウスボートに宿泊すると旅行者は軟禁状態となってしまい、オーナーが悪人だと、正にケツの毛まで抜かれるほど徹底的に所持金をむしり取られてしまう。だが、最近は治安が安定しており、カシュミールの観光業もだいぶ活気が出て来ていると聞いていた。よって、その種の客引きは下火になっただろうと期待していたのだが、全然そんなことはなく、今でもしっかり健在であった。
僕はバイクでシュリーナガルに到着した。普通に考えたらそんな旅人を客引きすることは不可能なはずである。しかし、シュリーナガルに到着した途端、バイクで追い掛けて来て「デリーから来たのか?」などと話し掛けて来る輩がおり、走行しながら話しているとすぐにハウスボートの客引きであることが分かった。また、シュリーナガルの市街地に着いて、予約していたホテルへの道を尋ねようとしたら、尋ねやすい場所にたむろっている輩がみんな客引きなのである。シュリーナガルの人間はみんな客引きなのか?もちろん正確な情報などくれず、「そこはストライキだ」「危険だ」「他にいいホテルがある」などと言って自分の属するホテルへ誘導しようとする。次第に辺りが暗くなって来たし、これは困ったと思っていたのだが、たまたま進路を取った道が正しい道で、事前にホテル周辺の地図を一目見ておいたことも功を奏して、自力でホテルまで辿り着くことが出来た。
シュリーナガルでは、シャンカラーチャーリヤ・ヒルの麓にあるスイス・ホテルに宿泊した。外国人には一律で割引をしてくれる親切なオーナーが経営するホテルである。僕の泊まった部屋は1泊1,250ルピーであった。24時間ホットシャワーが利用でき、WiFiもある。難点はレストランがないことで、外で食べなければならない。
スイス・ホテル
熱々のシャワーを浴びた後、夕食を食べに出掛けた。ホテルの人の話では近所にあるラサ(Lhasa)というレストランがおいしいらしいので、そこへ徒歩で行って食べた。名前からするとチベット料理屋だが、他にインド料理、中華料理、カシュミール料理など何でもある、いわゆるマルチクイジン・レストランである。中庭があっていい雰囲気だ。せっかくなのでカシュミール料理のゴーシュターバーを食べた。酸味が利いたマトン肉団子カレーでおいしかった。
本日の走行距離:514.1km、本日までの総走行距離:982.5km。ガソリン補給2回、合計1,000ルピー。
昨日は苦行に近い長距離・長時間移動をしたので、今日は風光明媚なシュリーナガルでのんびりすることにした。
シュリーナガル名物ダル湖
シュリーナガル観光の目玉はダル湖である。ハウスボートに宿泊しようとしまいと、シュリーナガルの思い出はダル湖と共に形作られる。朝、GoProで撮影しながらダル湖をバイクで一周した。ダル湖の東側は軍施設、公園、庭園、リゾートホテルなどが並ぶ閑静な地域となっているが、西側は市街地となっている。宿泊したスイス・ホテルはダル湖の南側に位置している。ダル湖を反時計回りに巡った。ダル湖は噴水が上がり、舟が浮かび、山を反映し、非常に美しい光景。素晴らしいドライブとなった。だが、市街地に入るとダル湖からは離れ、一気に喧噪の渦中に巻き込まれる。ダル・ゲートの交差点で再びダル湖と相見えるが、この辺りは市の中心部に近く、交通量が増える。一周およそ40分ほどであった。
VIDEO
シュリーナガルは庭園でも有名な場所である。ダル湖一周時には通過したが、再び反時計回りにダル湖を回り、湖の東側にあるニシャート・ガーデンまで行った。ニシャート・ガーデンの入場料は大人10ルピー。美しく整備されており、色とりどりの花が咲き乱れる。庭園の中心には水路が流れ、所々に人口の滝が設けられている。シンメトリーの実現に最大限の注力をした典型的なムガル庭園である。
ニシャート・ガーデン
次に、シャンカラーチャーリヤ・ヒルの上までバイクで上った。山の上には電波塔がある関係で軍によって管理されているが、入り口で登録することで、バイクでも行かせてもらえた。山道ではあるがきれいに整備されていて走行するのが気持ちいい。木が生い茂っているので、ずっとシュリーナガルの風景が見渡せる訳ではないが、所々に木の切れ目があり、そこから覗くことは出来る。しかし本当に眺めがいいのは頂上のシヴァ寺院からの展望である。残念ながらここへ行く前にカメラや携帯電話を預けなければならず、写真を撮ることは出来ない。シヴァ寺院の傍には梵我一如を提唱し宗教改革を行った8-9世紀の学者シャンカラーチャーリヤが瞑想をしたという洞窟もある。
シャンカラーチャーリヤ・ヒル中腹からの眺め
昼食の時間となったので、昨日行ったラサ・レストランで、今度はチベット料理を食べた。ギャトゥクというラーメン系の食べ物である。「ラサ」を看板に掲げているだけあっておいしかった。
午後からはバイクをホテルに置いて、徒歩でシュリーナガル散歩をした。まずはダル湖を眺めながら西へ向かい、ダル・ゲートまで行った。そこから少しメインロードを逸れて、ハウスボートの立ち並ぶ地域を歩いてみた。ダル湖の表通りは客引きや雑踏のせいでとても騒がしいが、一本中に入るととても静かで平和だ。そこから再びメインロードに合流して、旧市街の方へ向かった。旧市街と聞いて、細い路地が複雑に絡み合うエリアを想像していたが、他のエリアと変わらない道の広さで、街は広々としていた。道路の拡張工事が行われた結果かもしれないが、カシュミール人の美意識が反映されているのかもしれない。
シュリーナガル名物シカーラー
旧市街にはいくつか見所が固まっている。まずはピール・ダストギール・サーハブ跡地があった。スーフィー聖者ピール・ダストギールの聖遺物が納められた18世紀の建造物だ。跡地というのは、ピール・ダストギール・サーハブは今年6月に火災で焼け落ちてしまったからである。とても美しい建築物だったのだが、見るも無惨な姿となっていた。再建作業が行われているようだが、以前のような姿に戻るだろうか?
焼失したピール・ダストギール・サーハブ
次にローザーバルへ行った。これは非常に物議を醸している墓廟である。言い伝えによると、これはイエス・キリストの墓だと言う。イエス・キリストの人生には空白の期間があるのだが、その時期にカシュミールに来て仏教を学んでいたとする仮説がある。イエス・キリストの時代のカシュミールは仏教の中心地であった。そしてイエス・キリストは十字架では死なず、余生をカシュミールで送り、この地で没したとされる。この建築物は中に入ることもできず、外からの撮影も禁止されているが、こぢんまりとした清楚な建築物であった。
次に向かったのはナクシュバンド・サーハブ。ここは中に入れてもらえる。ナクシュバンド・サーヒブには元々預言者ムハンマドの髭とされる聖遺物が納められていた。内部の装飾は、カシュミール地方の伝統的なペーパーワークを思わせる美しい花柄となっていた。
ナクシュバンド・サーヒブ
ピール・ダストギール・サーハブ、ローザー・バル、ナクシュバンド・サーハブは一本の道に並んでおり、これらは容易に見て回れる。その次に訪れたジャーマー・マスジドは突き当たりを左に曲がったところにあるが、壮大な建物なのですぐに分かった。山岳地方の建築様式を上手に料理した建物となっており、その壮麗さには圧倒された。カメラ持ち込みのために10ルピーが必要だが、外国人も歓迎してもらえる。
ジャーマー・マスジド
次なる目的地はカーンカー・シャーヘ・ハムダーンだった。ジャーマー・マスジドからは少し離れているが、道に迷いつつ道を尋ねつつ旧市街を歩くのは楽しい体験だった。カーンカー・シャーヘ・ハムダーンは、一応中には入れてもらえ、中の写真撮影もOKだが、非イスラーム教徒は入り口の部分のみ足を踏み入れることを許されている。
カーンカー・シャーヘ・ハムダーン
最後に、預言者ムハンマドの髭が納められているハズラトバルを目指した。ハズラトバルは旧市街にはなく、ダル湖西岸の離れた場所に位置しているため、オートリクシャーを使った(150ルピーを支払った)。残念ながらハズラトバルのドームは工事が行われていて醜い姿となっていた。よってフォトジェニックではなかった。男性は頭を布でカバーすることで中まで入って見学することができる。ハズラトバルとダル湖の間は心地よい公園となっていて、地元の人々が夕涼みをしていた。
ハズラトバル
ハズラトバルの裏には桟橋があり、シカーラーが待機している。せっかくシュリーナガルに来たのでシカーラーに乗らない手はないと思い、ここからホテルのあるネルー・パーク地域の桟橋までシカーラーで移動しようと考えた。しかし、観光客向けのシカーラーはあくまで遊覧目的であり、移動目的でシカーラーを使う観光客はあまりいないみたいだ。ダル湖の岸には桟橋が散在するが、各船頭には自分の縄張りの桟橋があるようで、そこからでしか客を乗せることはできない。よって、普通は湖を遊覧して出発地に戻って来ることしかしない。しかし、無理を言ってネルー・パークの桟橋まで行ってもらった。多分通常の観光客が通らないような場所を通って行くことが出来たと思う。湖に浮かぶ集落の中をいくつも通り抜けたが、それはまるでディズニーランドのジャングル・クルーズのようだった。遊覧よりも移動でシカーラーを使った方が絶対に楽しいと思う。ハズラトバルからネルー・パークまで1時間半ほどで到着した。帰りの運賃も含めて1,000ルピーを払った。一応公定の遊覧料金は30分200ルピー、1時間300ルピーとなっている。ただ、絶対にローカル向けのタクシー・シカーラーはもっと安いはずである。
シカーラーで遊覧
夕食は、シュリーナガルで最も高名なカシュミール料理レストランであるムガル・ダルバール で食べた。ムガル・ダルバールはホテル兼レストランで、レストランは建物の2階(First Floor)にあるのだが、面白いことにムガル・ダルバール・レストランと称する紛い物が同じ建物の1階(Grand
Floor)にある。ムガル・ダルバールはロンリー・プラネットに載っていることもあってカシュミール料理目当てて来た外国人の接客にも慣れており、カシュミール料理がてんこ盛りとなったカシュミール・ターリー(500ルピー)を勧めてくれた。迷わずそれを注文。昔からカシュミール料理には一目置いていたが、本場で食べるカシュミール料理はやっぱり絶品だった。肉尽くしだが、バラエティーに富んでいて全く苦にならない。
カシュミール・ターリー
本日の走行距離:50.0km、本日までの総走行距離:1032.5km。ガソリン補給なし。
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9月23日 (日) シュリーナガル→カールギル
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いよいよレーに向けて旅立つ。だが、レーまでのおよそ400kmの道のりを1日で走破することは難しい。なぜなら途中には標高3,529mのゾジ峠(ゾジ・ラ)という難所が待ち受けているからである。どこかで少なくとも1泊する必要がある。当初はまずソーナーマルグ(Sonamarg)で1泊することを考えていた。
シュリーナガル名物ハウスボート
午前9時にシュリーナガルを出発。ダル湖を反時計回りに巡りつつ、北へ向かう道を取る。しばらくはゴミゴミした市街地が続くが、それを抜けると美しい谷間の道となる。道路もきれいに舗装されており、走行は至って快適。風景を楽しみながらのんびりと走った。
シュリーナガル~ソーナーマルグ間の道
次第に周囲の山々が高く険しくなって行く。しかし山にはまだ木々があり、柔和な印象の風景である。と、急になだらかな緑の絨毯が現れる。景勝地として知られるカシュミール地方でも最も美しいとされるソーナーマルグである。山のなだらかな傾斜に芝生が生い茂っており、その上で無数のポニーが草を食んでいる。道路沿いにはリゾート・ホテルが立ち並び、ポニー・ライドの客引きが道行く観光客を待ち構えている。時刻は午前11時15分頃であった。
ソーナーマルグ
道が快適で意外に早く着いてしまったこと、また案外何もない場所で暇しそうだったことから、ソーナーマルグでの宿泊はスキップし、ここでは軽食を取るだけにして、次の目的地であるカールギル(Kargil)を目指すことにした。
ソーナーマルグで記念撮影
11時45分頃にソーナーマルグを出て、カールギルへ向かう。だが、ソーナーマルグを過ぎるといよいよゾジ峠となる。ジグザグに標高を上げて行く峠道となり、道路も砂利道となる。しかし、対向車が少ないため、走行はそんなに苦ではない。しばらく進むと、自動車が列になって止まっている場所があった。この先は1車両しか通れないような狭い道となり、ちょうど軍用車の隊列が峠を下って来るため、上りの車両は通行止めとなっていた。僕も列の最後尾にバイクを止めた。ところが、車両の整理をしている軍人が僕を見て、「バイクはあっちの道から行け」と言って来た。確かに僕がバイクを止めた場所は分岐点となっており、別の道が別の方向へ続いている。だが、その道を軍用トラックが塞いでおり、使われていない道かと思った。塞いでいると言っても、バイクなら通過可能だ。軍人が言うならそちらからも行けるのだろう。バイクのエンジンを始動させ、別の道へ行くことにした。
ゾジ峠へ続く道
列で待っている間、前の車の乗客に写真を撮ってもらった
裏に、トラックで塞がれた別の道が見える
ゾジ峠はシュリーナガル~レー間にある峠の中では最も低い。だが、ほとんどが砂利道または泥道で、難易度は決して低くない。僕が通過するとき、ちょうど前には戦車を含む軍用トラックの隊列がノロノロと進んでおり、しばらくはその後を付いて行くしかなかった。しかし、途中で突然戦車が炎上し出した。すわパーキスターン軍から砲撃を受けたか!と興奮したが、特にミサイルや砲弾が飛んで来たような覚えはなかった。情けないことに、どうも単なる火災であった。この火災が発覚すると、戦車に付いて進んでいたトラックは停車し、乗っていた軍人たちが消火のために駆け出した。このおかげで首尾良く軍の隊列を追い越すことが出来た。前方にはさらにもう1台巨大なトラックがノロノロと進んでいたが、これも隙を見て追い抜くことに成功した。その後は先行車もなく、悪路ながら快適な走行であった。
VIDEO
しばらく走って行くと、午後1時頃、遂にゾジ峠の最高点を示す標識の立った場所まで辿り着いた。これでゾジ峠を制覇した!それを越えてからは俄然道が良くなり、スピードに乗って走ることが可能となった。
ゾジ峠
午後2時15分頃にドラス(Dras)に到着。ドラスは人間が住む定住地の中で、世界で二番目に寒い場所とされている。ちなみに一番寒い場所はロシアのオイミャコン(Oymyakon)であるらしい。ドラスで休憩して行こうかと思ったが、シュリーナガル~レー間を移動する乗り合いタクシーなどで混雑していたため、そのまま通過することにした。しかしドラスを越えるともうダーバーなどはなく、失敗した。ただ、そんなに空腹ではなかったし、疲労も溜まっていなかったので、苦ではなかった。
ドラス付近の風景
もはや山には樹木がない
ドラスからの道のりは、所々いい道もあれば、所々悪路もあった。やはり交通量が少ないので、たとえ悪路であっても大きな困難はなかった。ただひたすらに前へ進んだ。ゾジ峠近辺はほとんど樹木のない険しい山々が続くのだが、カールギルに近付くに連れて少しだけ緑が戻って来る。午後4時15分にはカールギルに到着した。
カールギル
カールギルではホテル・グリーンランドに宿泊した。新館と旧館があり、前者は2,000ルピー、後者は1,500ルピーとのことであった。旧館のバスルームにはギザ(電気温水器)がなく、お湯は午前4時から7時の間のみ利用可能であった。一方、新館の方にはギザが備え付けてあった。すぐにでもシャワーを浴びたかったので、新館の部屋に宿泊することに決めた。ところがカールギルでは電圧が不足しているらしく、ギザをオンにしてもちっともお湯が温まらない。何時間もギザをオンにしておかなければならないらしい(結局、夜通しスイッチをオンにしておいたら、朝には熱々のお湯が出た)。
シャワーは後回しにして、カールギルの町中を散歩してみた。ここはまだイスラーム教徒多住地域である。活気はあるのだが、不思議とどんよりとした空気が流れる町で、イメージカラーは灰色と言った感じだ。1999年、印パ間で戦われた非公式の戦争、カールギル紛争の舞台となった町でもある。街角でソーセージみたいなものを売っていたので買って食べた(5本で10ルピー)。あまり味がなく、餅のような食べ心地で、不思議な食感だった。
ソーセージみたいな食べ物
ホテル・グリーンランドには食堂らしきものがあるのだが夕食は提供していないらしく、外食を余儀なくされた。シュリーナガルでもそうだったので、何かライセンス上の問題でもあるようだ。ホテル・グリーンランドの近くにあるルビー・レストランがおいしいと聞いたのでそこへ行って見た。表の看板には「パンジャービー、チャイニーズ、カシュミーリー料理」などと威勢の良いことが書かれていたが、いざ入って聞いてみると、チキンとマトンのカレーしかなかった。チキンのカレーを注文した(ライスと合わせて110ルピー)。オーソドックスなチキン・カレーだったが、長旅に疲れた体には格別おいしく感じられた。
本日の走行距離:218.1km、本日までの総走行距離:1250.6km。ガソリン補給1回、380ルピー。
カールギルからレーは200kmほどで、十分1日で走破可能であるが、せっかく自分のバイクで移動しているので、途中にあるラマユル(Lamayuru)でも1泊し、のんびりとレーまで向かうことにした。
カールギルを出てしばらくすると悪路が続くエリアがあったが、ムルベク(Mulbek)が近付くと舗装道となった。ムルベクはチベット仏教圏の最西端であり、ここで初めてチベット文化圏の象徴のひとつであるタルチョ(五色旗)を見掛ける。ムルベクには磨崖仏がある。午前9時45分頃にムルベクに到着し、ここで軽食を取って休んだ。
ムルベクの磨崖仏
ムルベクのダーバーで初めてラダック・ツーリングをするバイカーのグループに出会った。ゾジ峠を越えた辺りで行き違ったバイカーはいたが、話ができたバイカーは彼らが初めてだった。チェンナイ在住のタミル人グループで、男性3名、女性2名の合計5名でのツーリングであった。彼らとはラマユルに着くまで要所要所で合流し、レーに着いてからも何度か出会うことになる。一人で旅行していると自分の写真を撮るのに苦労するのだが、彼らのおかげでいくつか自分入りの写真を撮ることが出来た。
ムルベクのダーバーにて
午前10時15分頃にムルベクを出発。ムルベクとラマユルの間には2つの峠があり、峠の前後は悪路となっている。だが、それ以外はきれいな舗装道となっており、とても気持ちいい走行が出来る。しかし、周囲の光景は、ほとんど緑のない荒れ果てたものとなって行く。それでもカシュミール地方とは違った雄大な美しさがあり、やはり運転しながら景色に見とれてしまう。
ムルベク~ラマユル間の光景
標高3,720mのナミカ峠(ナミカ・ラ)は、それを示す看板が見当たらなかったため、いつの間にか通り過ぎてしまった。だが、標高4,108mのフォトゥ峠(フォトゥ・ラ)は分かりやすかったため、立ち止まることが出来た。ここがシュリーナガル~レー間でもっとも高い場所となる。フォトゥ峠には正午ちょうどに到着した。
フォトゥ峠
フォトゥ峠からはずっと下り道となる。そのまま下って行くと、やがて壮大な僧院が出現する。それがラダックでもっとも有名なゴンパ(僧院)のひとつ、ラマユル・ゴンパである。ラマユル村には午後12時45分頃に到着した。
ラマユル村
ラマユルではホテル・ムーンランドに宿泊。ラマユルにはいくつかゲストハウスがあるが、このゲストハウスの駐車場が一番分かりやすかったためにここにした。バイクで旅行する際には、ホテルの近くまでバイクで行けることと、駐車場があることが重要なファクターとなるため、通常のバックパック旅行とは多少異なった宿選びが必要となる。
Tip ツーリング時の宿選びは駐車場から
ツーリングでの宿泊中にバイクを盗まれたり悪戯されたりすることは極力避けなければならない。そのためには駐車場がある宿が一番だ。できれば駐車場に門扉があって、夜に外部の人が簡単に入れないような構造になっているといい。
また、ホテル・ムーンランドは庭の管理が行き届いていてとても美しかった。既にオフシーズン料金となっており、600ルピーで宿泊することができた。ホテル・ムーンランドのレストランで昼食を食べてから、ラマユル・ゴンパを見に出掛けた。拝観料は50ルピー。チベット仏教はいくつかの宗派に分かれているが、ラマユル・ゴンパはカギュ派の分派であるディクン派に属す。カギュ派の開祖がマルパで、マルパの師がナーローパとなるが、ラマユルではそのナーローパが11世紀頃に瞑想したとされる洞窟を覆うようにゴンパが建っている。ゴンパの創立は16世紀だが、19世紀にジャンムー・カシュミール地方を支配するドーグラー軍の侵攻を受けて破壊されている。現存しているものはその後再建されたもので、それほど古くはない。
ラマユル・ゴンパ
ラマユルの周辺の風景は、まるで月面のようであり、「月世界」の異名を持つ。伝説によるとこの辺りはかつて大きな湖になっていたが、聖者マディヤンティカが湖の底を杖で叩いて決壊させることで、この月面のような土地が出現したと言う。
月世界
ラマユルで軽く高山病の症状を感じるようになった。高度順応のため、シュリーナガル(1,730m)、カールギル(2,817m)と、宿泊地の高度を徐々に徐々に上げて来た積もりだったが、高山病は避けられなかったようだ。ラマユルの標高は3,390m。今までの自分の経験だと、どうも宿泊地の標高が3,000mを越えると高山病の症状が現れ始める。頭痛ではないのだが、頭がズキズキして来た。軽く下痢気味でもある。特に日が沈んで寒くなると症状が重くなる。ラマユルではゴンパを見る以外にやることはないので、ゆっくりと休んだ。自分のこの体調を見るに、ラマユルで一泊したのは正解だったと言える。
ラマユルの子供
ラマユルの宿では、バンガロール出身のサーイーというソロ・バイカーと出会った。インドの最南端カンニャークマーリーから、インドの最北端トゥルトゥクを目指してツーリングを行っている。バイクはカワサキのニンジャ650cc、輸入品だ。輸入してまで大型バイクに乗っているインド人バイカーは相当なマニアである。彼とはその後も出会うこととなる。
本日の走行距離:114.7km、本日までの総走行距離:1365.3km。ガソリン補給1回、500ルピー。
高山病の症状のせいだと思うが、夜はよく眠れなかった。だが、日が昇り、気温が上がると、だんだん症状が和らいで来た。サーイーとバイク話に花を咲かせていたら、かなり元気が出て来た。朝食を食べ、午前8時半にラマユルを出発した。今日の目的地はレー、ラダック地方の主都である。
ホテル・ムーンランドの窓から覗いたラマユル・ゴンパ
ラマユルを出ると一旦谷底まで下りる道となり、カルシ(Khalsi)という町まで平坦な道が続く。カルシでは今にも落ちそうな脆弱な橋を渡った。所々道が悪かったが、順調に先に進み、午前9時半にはヌルラ(Nurla)を通過。舗装道と砂利道が交互に訪れる中、ひたすらレーへ向けて走った。
カルシの橋
ただ、ラマユルとレーの間にいくつか見所があり、それらに立ち寄りながらレーを目指そうと考えていた。まずは山本高樹氏のガイドブックで紹介されていたマンギュ・ゴンパへ行こうと思っていたのだが、マンギュ(Mangyu)村への道が見当たらず、いつの間にか次の目的地アルチ(Alchi)への分岐点まで来てしまっていた。道を聞こうにも人影がないのでどうすることもできない。仕方がないのでマンギュは諦めてアルチを見ることにした。アルチへ行く道の途中からマンギュ方面へ行けそうな舗装道が枝分かれしており、もしかしたらその道でマンギュまで行けるかもしれないと考えたが、そのときは確認しなかった。後に地図で確認したところ、やはりマンギュへはアルチへ行く道の途中から分岐している道で行くようになっている。「ラダック
ザンスカール トラベルガイド」では「幹線道路上のウレ・トクポからインダス川に架かる橋を渡り、南の山中へ6キロほど車道を登ったところにある村」(P68)と書かれているが、これは古い情報または誤りであろう。
アルチ村
アルチ村にあるアルチ・ゴンパは仏教美術の宝庫とされ、ラダックでの最大の見所のひとつである。11世紀建立と、ラダック地方でもっとも古いゴンパでもある。切り立った崖の上に要塞のようにそびえ立つ通常のゴンパと異なり、川沿いのなだらかな斜面に白い寺院が点在する。この建築プランはスピティ地方のタボ(Tabo)とも酷似している。これはチベットの建築様式が入って来る前の姿であり、カシュミール地方の大きな影響を受けている。チベット文化圏で一時衰退した仏教の復興に大きく貢献したリンチェン・サンポが、留学先のカシュミールから連れ帰った職人たちの手によると考えられ、菩薩像や金剛界立体曼荼羅など、芸術的な木像が残っている。内壁も壁画でビッシリと埋め尽くされている。拝観料は50ルピー。残念ながら内部は写真撮影厳禁となっている。
アルチ・ゴンパの管理人
アルチでは、世界一周旅行中の日本人女性と出会った。レーからバスで来ていて、帰りの便まで4時間ぐらい待っていなければならないとのことだったので、バイクの後ろに乗せてあげて、レーまで一緒に行くことにした。
チェルテン(卒塔婆)内部に残る絵
しかし、その前にひとつ立ち寄りたい場所があった。やはり山本高樹氏のガイドブックに掲載されていたサスポルが気になっていたのである。サスポル村の崖に空いた無数の洞窟に由来不明の壁画が残されているとのことで、興味が沸いた。アルチからサスポルは、NH1に合流してすぐであった。サスポル村に入る手前にジープ道が崖沿いに延びており、それを進んで行くと、やがて高所に廃墟となった城が見えて来る。その左下辺りに確かに洞穴がいくつも口を開けていた。それがサスポルの洞窟だった。
サスポルの洞穴
サスポルは非常にマイナーな史跡で、ほとんど誰も訪れないのだが、偶然我々が洞穴の麓に辿り着いたときに、1人のインド人観光客が僧侶を連れてワゴン車から降りて来た。彼はウダイプル在住のハーティムというITエンジニアで、インターネットでサスポルの情報を入手し、アルチで僧侶を捕まえて、一緒にやって来たらしい。その僧侶の案内で我々もサスポルの洞窟を見物することができた。
洞穴から眺めたサスポル村
しかし、この洞窟がある崖、非常に脆く、ほとんどロッククライミングのような形で洞窟を目指すことになった。案内してくれた僧侶はもう結構な年に見えるのだが、ひょいひょいと崖をよじ登って行く。途中には新しいお堂があり、中には千手観音像が納められていた。しかし目を奪われたのは洞窟の壁画の方である。多少コミカルなタッチで描かれた各種仏が、どの洞穴にも描かれていた。写真撮影も自由だったので、撮りまくった。この洞窟から眺めるサスポル村も美しかった。
サスポルの壁画
サスポルを出たのは正午12時頃。その後しばらく進むと、山に囲まれた広大な平野となった。その荒れ果てた平野の中を1本の道が延びており、それをひたすら東に向けて走った。バスゴ(Basgo)を通過し、しばらく行くとニンム(Nimmu)に到着。ニンムには食堂が並んでいる。このときちょうど12時半頃になっていたので、ここでトゥクパやモモなど昼食を食べた。
バスゴ
午後1時頃にニンムを出発。午後1時半頃にマグネティック・ヒルに差し掛かった。マグネティック・ヒルは密かに一度訪れてみたかった場所だ。地元の人々によると、この辺りの土には磁力があり、その磁力に引っ張られて自動車が坂道を上がって行くと言うのである。しかしどうもこの言い伝えは眉唾物のようである。自動車が坂道を上がるのは、よくある単なる目の錯覚ではないかと思われる。
マグネティック・ヒル
この坂に自動車を止めると磁力に引っ張られて坂を上って行くと言う
やがて大河を中心に広がる広大な平野に出る。これがインダス河によって形成されるインダス谷であり、その隅にラダック地方の主都レーが位置する。荒野に伸びる一本道を走り続け、午後2時半頃にはレーに到着した。
インダス谷
レーに来たのは10年振りだ。ガラリと変わってしまったということをいろんな人から聞き及んでいたのだが、本当に全く面影もないくらいに変わってしまって、以前どこのホテルに泊まったのかも特定できないくらいであった。
レーのメインバーザール
レーでは、シャーンティ・ストゥーパの麓にあるオリエンタル・ホテルに宿泊した。家族経営のアットホームな雰囲気を維持しながらも、中規模ホテル並みの設備が揃っている。安い旧館と高い新館があるが、新館の方にしか空きがなく、シングルで1,300ルピーだった。オリエンタル・ホテルを選んだのは、例によってWiFiが利用可能だったからだが、僕のPCと相性が悪く、WiFiではネットに繋げなかった。だが、LANケーブルを差し込むことでネットをすることはできたので、大きな問題ではなかった。夕食はビュッフェ・スタイルなのだが、何となく学食みたいな雰囲気で、僕は居心地が良かった。ラマユルの宿と同様に、庭の管理が行き届いていて、美しい花々が咲き乱れていた。
オリエンタル・ホテル
今日は他に観光をする予定はなかったが、とりあえずレーの土地勘を得るために、レーを一望できる史跡としてシャーンティ・ストゥーパとナムギャル・ツェモ・ゴンパをバイクで巡った。
シャーンティ・ストゥーパ
日本山妙法寺によって建設されたはずだったが・・・
ところで、ラマユルで出会ったサーイーもオリエンタル・ホテルに宿泊しており、夕食を共にした。翌日、サーイーの奥さんプージャーが飛行機でレーに到着する予定で、さらに4WDに乗って南インドから来る他の友人たちも合流すると言う。今後は皆でレー周辺の見所をバイクで巡るようである。
やはり夜になると軽く頭痛がする。まだ高度順応できていないのだろうか?レーの標高は3,360mである。3,000mレベルの標高でくたばっていては、今後が思いやられるのだが・・・。
本日の走行距離:148.8km、本日までの総走行距離:1514.1km。ガソリン補給1回、500ルピー。
まだ3000m級の高度に完全に順応できていなさそうなので、今日はあまりあくせく動き回らず、レーを満喫することにした。今日の課題はパーミットを取ること。これから向かおうとしている目的地は、パーキスターンや中国との国境間近で、インド人も外国人も、そこへ行くにはインナーライン・パーミット(ILP)を取得しなければならない。外国人の場合、2名以上で申請しなければならず、単独で旅行している僕にとっては多少厄介な問題である。だが、レー中心部の旅行代理店ならば、単独の旅行者でも、他の旅行者とうまく融通を利かせてILPを取ってくれる。
レーの町並み
シャーンティ・ストゥーパから撮影
おそらくどこの旅行代理店でもILPの取得代理をしてくれるのだろうが、せっかくなので日本人女性がザンスカール人(ラダックの隣の地域)の旦那さんと経営する旅行代理店Hidden Himalaya で取得してもらうことにした。Hidden Himalayaはレー市街地のアッパー・トゥクチャ・ロードにある。午前10時頃から開いており、朝一番で頼めば、その日の内にILPを用意してもらえるようだ。バイクで行っても良かったのだが、高地順応するためにレーをのんびり散歩したかったので、ホテルから徒歩でHidden
Himalayaを目指した。
もうオフシーズンになっているので、果たして明日からの目的地であるヌブラ谷へ行く予定の旅行者が他に見つかるだろうかと心配だったが、ちょうど同じ方面へ向かう人がいたようで、難なく取得してもらえた。一旦パスポートを預けることになるが、同日の午後4時にはILPと共にパスポートを返却してもらえる。
その他の今日の行動は取り留めがない。Hidden Himalayaでパスポートを預けた後、朝のメイン・バーザールなどを散歩しながら、レー・フォートを目指した。10年前にレーに来たときは酷い高山病になってフラフラ状態で、高台にあるレー・フォートまで足を運ばなかった。レー・フォートの外観は、レーを象徴する堂々たる威容であるが、内部は特に何もないと誰かから聞いたのも、レー・フォートまで行かなかった理由のひとつだ。今回は10年前の自分がしなかったこと、できなかったことをしようと、レー・フォートまで徒歩で目指した。ちなみにレー・フォートまでは道路が通じており、バイクで行こうと思えば行ける。
レー・フォート
メイン・バーザールからレー・フォートへ向かうにはレー旧市街の中を通って行かなければならない。これがとても面白い体験だった。伝統的な家屋の間を入り組んだ路地が走っており、まるで迷宮のようだ。時にはトンネルを潜らなくてはならない。そして大体どの道を通って行っても、最終的にはレー・フォートへ通じる登り道へと出る。真下から見るとますます圧倒的な威容を誇るレー・フォートを眺めながら、とぼとぼと階段を上がって行った。
レー旧市街
レー・フォートの外国人入場料は100ルピーであった。確かにレー・フォートの内部自体には千手観音像を祀るお堂以外は特に何もなかったが、ちょうど「First
Frames: In the Footsteps of Early Explorers」と題した写真展示をしており、20世紀前半にラダックやチベットを訪れた探検家たちの撮影した貴重な写真が城塞の部屋を使って展示されていた。僕がレー・フォートにいた間ずっと停電で、真っ暗で何も見えないところもあったのだが、この展示自体はかなり気合いが入ったもので、ひとつひとつ説明を読んでいくとためになった。
レー・フォート
「First Frames」の垂れ幕も
レー・フォートのすぐ下にはカフェがある。レー・フォートを見終わって何だか疲れたので、そこでアプリコット・ジュースを飲んで休んだ。そのカフェはまるで僧侶の勉強部屋みたいな雰囲気で、机の上には「仏教とは何か」「チベット語入門」みたいな本が置かれていた。試しに「仏教とは何か」という本をパラパラとめくってみると、「仏教徒はブッダとダルマとサンガに帰依しなければならない。それらに帰依していない人は、仏教国に生まれても仏教徒を称していても、仏教徒ではない」みたいな厳しいことが書かれており、「ああ、これは自分のことだな・・・」と少し気まずい気分となった。
勉強部屋みたいなカフェ
再び旧市街に降り立ち、イスラーム教徒たちがタンドゥール釜でローティーを焼く店が密集する場所を通りながら、メイン・バーザールに戻った。ちょうど昼頃になっており、徒歩でオリエンタル・ホテルまで行った。既にサーイーの奥さんがレーに来ており、一緒に昼食を食べようと約束していたからだが、例によって奥さんが高山病に罹ってしまったようで体調が良くなく、結局1人で食べることになった。
せっかくならおいしいチベット料理を食べようと思い立ち、レーでも老舗のレストラン、サマー・ハーベストまでバイクで行った。そこでマトン・モモとヴェジタブル・トゥクパを食べた。モモもトゥクパもデリーを初めとしていろんなところで食べて来たが、確かにどちらもおいしく、レーの食文化に感心した。レーには他にも中華料理、イタリア料理、東南アジア料理、韓国料理など、様々な料理を出すレストランがたくさんあり、食には本当に困らなそうだ。ただ、冬になるとそのほとんどが閉まってしまう。既にハイシーズンは終わっており、シャッターが閉まった店も少なくない。
昼食を食べ終わった後は、GoProをバイクに搭載してレー市街地の撮影を行った。レーの麓の、ガソリンスタンドのある交差点から始め、一方通行となっているメイン・バーザールをグルッと回って、チャンスパ・ロードを通ってシャーンティ・ストゥーパまで至る道のりを撮影した。
VIDEO
午後4時にILPを受け取りに行き、残りの時間は部屋でのんびりして過ごした。高山病の症状もなくなり、体調は至って快調。天候も申し分ない。この調子なら明日、予定通りヌブラ谷まで行けそうだ。
レー旧市街
本日の走行距離:21.1km、本日までの総走行距離:1535.2km。ガソリン補給なし。
今日はレーの北にあるヌブラ谷を目指す訳だが、レーとヌブラ谷の間には、カルドゥン峠(カルドゥン・ラ)という難所が待ち受けている。この峠の標高は5,602mあり、世界で最も高い自動車道とされている。実際にはもう少し低いのでは、という説もあり、正確性において信頼のあるMilestone
Himalayan Seriesの地図でも5,359m(5,602m)と2つの数字が併記されている。しかし、とりあえず5,602mとした方が挑戦しがいがあるので、そうしておく。僕にとっても、僕のバイクにとっても、これだけの標高は初の経験であり、一体自分が、バイクが、どうなってしまうのか、想像も付かない。よって、いつにも増して気合いの入った旅立ちであった。
絶好のカルドゥン峠日和
午前8時15分頃にホテルを出発。ヌブラへ通じる道はレーの北にある。事前にチェックしておいたので、迷うことなく正しい道を取ることができた。しばらくは狭い舗装道が続き、走行に支障はない。だが、グングン標高が上がり、空気が薄くなって来るため、エンジンのトルクが弱くなって来る。ノロノロと坂道を上がるしかない。
午前9時頃にサウス・プッル(South Pullu)に到着。ここで外国人はILPのコピーを渡し、パスポートを見せる。2名以上いないと取得できないILPであるが、一旦取得してしまえば、単独での旅行でも特に何も言われなかった。
サウス・プッルのチェックポスト
サウス・プッルを出ると、道は舗装道ではなくなり、砂利道となる。途中で工事をしている場所があり、四輪車は通行止めとなっていたが、バイクはすり抜けることができた。その後、坂を下って来る軍用車の隊列をやり過ごすのに時間が掛かったが、それさえクリアすれば、残りの道は自分だけのものだった。エンジンはますます力を失いつつあり、スピードが出なかったが、少しずつ少しずつ前進した。峠付近ともなると、ファーストギアでも坂道を登るのに苦労するほどだ。頑張れ、カリズマ!カルドゥン峠までの距離を示す道標が待ち遠しい。あと8km、あと7km、あと6km・・・。
そして午前9時45分、とうとうカルドゥン峠に到着、標高5,602mの峠を制覇した!全てのバイカーは正にこの極限の高みを目指してラダックまでやって来るのだ。僕もその1人であり、愛機カリズマと共にそれを達成した。自動車で行ける場所としては世界最高ということで、通常の峠に比べると観光地化されており、賑やかだ。峠には茶店、土産物屋の他、高山病などの治療のための診療所や寺院などがあった。ここでブラック・ティーを飲んで一息付いた。そうこうしていると、ヌブラ方面からオーストラリア人バイカー3人がやって来た。彼らはチャンディーガルでバイクを借りてラダックまでやって来たと言う。しかし、あまりラダックの土地勘がなく、ヌブラ谷も大して観光しなかったようだ。
カルドゥン峠制覇!
午前10時15分頃にカルドゥン峠をヌブラ方面へ向けて下り出した。さすがに下りの方がエンジンに負担が少ないが、今度はブレーキをうまく使って行かないとすぐにブレーキを駄目にしてしまう。エンジンブレーキをフル活用してゆっくりと坂道を下った。やはり途中までは未舗装の砂利道だ。途中で道路を塞ぐ岩石の除去を行っている場所があり、バイクもすり抜けできなかったので、しばらく待つことになった。
岩石除去作業中
次のチェックポイントであるノース・プッル(North Pullu)には午前11時15分頃に到着。ここでもILPのコピーを提出し、パスポートを見せた。
ノース・プッル
ノース・プッル周辺からきれいな舗装道となり、その後の道はかなり楽になる。ヘアピンカーブが続く場所があるため、スピードの出し過ぎは禁物であるが、美しい谷の景色を楽しみながら、ヌブラ谷を目指して走行した。
ヌブラ谷へ下りる道の風景
峠を下り切ったところにあるカルサル(Khalsar)村付近でもうひとつチェックポストがあったが、無人で、ここでのレポートはしなくてもいいようであった。このチェックポストから左に折れてカルサル村を通ってヌブラ谷の主都ディスキト(Diskit)へ向かう道があったので、まずはそちらへ行ったが、この道は軍専用になっており、途中にある検問所で追い返されてしまった。チェックポストから右に曲がる道を取らなければならなかった。
シャヨク河
真っ青なシャヨク河のそばを行く道を進むと、やがて広大な平地が現れる。ここでは2つの河が合流しており、厳密に言えば右側がヌブラ谷、左側がシャヨク谷となる。今日の目的地はシャヨク谷にあるフンダル(Hundar)であった。よって、フンダル方面の道へ進んだ。
シャヨク河とヌブラ河の合流点
フンダルの前にヌブラ谷の主都ディスキトがある。ここに谷唯一のガソリンスタンドがあるとのことだったので、そこでガソリン補給をする予定だった。ガソリンスタンドは確かにディスキトから1km先に存在した。だが、ガソリンスタンドには誰もおらず、営業している気配もなかった。近くの人に聞いてみたところ、ガソリンスタンドはずっと閉まっていると言う。インドの僻地でのツーリングでこういう事態は常に予想している。だが、今まで本当にそのような場面に遭遇したことがなかった。このガソリンスタンドが営業していなければヌブラ谷の人たちは困るだろうと考え、十中八九ガソリンはあるだろうと楽観視していたのだが、実際にガソリンに困っている人たちが住む谷がヌブラ谷であった。もちろん、出発前にタンクはフルにしたが、予備の燃料を持って来ることまではしなかった。バイクの燃料タンクは既に半分ほどが空になっている。レーに戻るだけのガソリンは確実にあるが、ヌブラ谷をバイクで周遊するだけのガソリンはない。フンダルの次の目的地トゥルトゥクまでは往復およそ200kmある。さらにヌブラ谷の奥にあるパナミク(Panamik)まで往復しようとしたら50kmだ。絶対に足りない。旅程を変更せざるを得なくなった。
とは言っても、本日フンダルに宿泊する旅程に変更はない。フンダルはディスキトから10kmほどの地点にあり、そこまで行くのに問題はない。フンダルはヌブラ谷でもっとも緑が多く茂るオアシスで、人気の宿泊地だ。かつて外国人はこのフンダルまでしか行くことを許されていなかったため、最果ての地としての魅力もあった。フンダルにはいくつものゲストハウスがあり、宿泊には困らない。僕はスノーレパード・ホテル&ゲストハウスに宿泊した。やはり庭園に咲き乱れる花々が美しいゲストハウスであった。それにしてもラマユル、レー、フンダルと、ずっと美しい花壇のある宿に泊まって来ている。ここの人たちは花が大好きなのだろうか?ちなみに、フンダルに到着したのは午後1時45分頃であった。
スノーレパード・ホテル&ゲストハウス
フンダルでも村人たちにガソリン事情について聞いてみたが、この谷の大きな問題のひとつだと同じ答えが返って来た。ディスキトのガソリンスタンドは時々営業することもあるらしいのだが、行ってみないと分からないという全く信頼できない存在で、こちらの人々はわざわざレーまで行ってガソリンを買い込んで来るそうだ。僕にとっては憧れだったカルドゥン峠越えも、この谷の人々にとっては生活の現実であった。
フンダルの路地
急にガソリンを節約しなければならなくなってしまったので、フンダルでは徒歩で村を散策して回った。とてものどかで純粋な村で、一気に気に入ってしまった。何もない場所だが、なぜか満たされる。そんな村であった。
フンダルの子供たち
フンダルの大きな見所は、ディスキトとフンダルの間に広がる砂丘である。そこでキャメル・ライディングをすることができる。ジャイサルメールなどで散々ラクダには乗って来たので、キャメル・ライディング自体に特に魅力は感じなかったが、ここのラクダを見ておやっと思った。フタコブラクダなのである。インドでフタコブラクダは初めて見た。ラージャスターン州などで見られるラクダはヒトコブラクダである。聞くところによるとヒトコブラクダはアラビア原産で、フタコブラクダは中央アジア原産だと言う。この辺りにいるラクダは、シルクロードを通る行商人たちによって持ち込まれたものの末裔らしい。せっかくなのでフタコブラクダのライディングを楽しんだ。15分150ルピーであった。
フンダルの砂丘でフタコブラクダに乗る
ディスキトのガソリンスタンドが使い物にならないため、今後の予定を再考しなくてはならなくなった。翌日レーにとんぼ返りという選択肢もあったが、フンダルを散歩している内にヌブラ谷がすっかり気に入ってしまい、せっかく来たのだからもう少し滞在したいという気持ちが強くなって来た。フンダルは1994年から2010年まで、外国人が来られる最果ての土地だった。そのフンダルがこのような心地良い場所なのだから、2010年以降に外国人に開放されたばかりの、現在の最果ての地トゥルトゥクは、さらに素晴らしい場所なのではないかと思えて来た。バイクで行くことはできないが、発想を転換し、バイクをフンダルに置いて、バスでトゥルトゥクへ行くことを考え始めた。
フンダルの子供たち
モスクで遊んでいたイスラーム教徒の子供
本日の走行距離:133.3km、本日までの総走行距離:1668.5km。ガソリン補給なし。
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9月28日 (金) ディスキト→トゥルトゥク
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スノー・レパード・ホテル&ゲストハウスは拡張のためリノベーション工事を始めており、もうすぐ今季の営業を停止しようとしていた。だが、僕がバスでトゥルトゥクへ行っている間、バイクや荷物を預かることに快く同意してくれた。これでトゥルトゥクまで行くことが可能となった。
フンダルの砂丘
山本高樹氏の「ラダック ザンスカール トラベルガイド」によると、トゥルトゥク行きのバスはディスキトから午後1頃に出ているとのことだった。午前中はディスキトの観光もできそうだ。朝、フンダルから乗り合いジープに乗ってディスキトへ向かった(20ルピー)。
ディスキトのバススタンドで確認してみたところ、トゥルトゥク行きのバスは午後2時~2時半頃の出発とのことであった。それまでディスキトを観光して回ることにした。ディスキトを見下ろす山腹にはディスキト・ゴンパがある。ディスキト・ゴンパまでは車道が通じているが、バイクは置いて来たし、時間を潰す必要もあったので、徒歩でゴンパを目指した。
ディスキト・ゴンパ
ディスキト・ゴンパはゲルク派に属し、インダス谷にあるティクセ・ゴンパの分院となっている。ディスキト・ゴンパへ通じる道は町の東から出ている。車道の他に一応階段があり、それをひたすら登って行った。拝観料は30ルピー。ゴンパの麓に窓口があり、そこで支払う。ディスキトにおいて、実はゴンパよりも目立つ存在なのが、町を見下ろす小高い丘に立っている高さ32mの黄金のチャンバ像である。2010年に完成したばかりで、ダライ・ラマ法王が開眼法要を行った。聞くところによると、この像の表面に張られた金箔は日本製らしい。こんな僻地で出会う日本のささやかな貢献を知ると、何だか嬉しい気持ちになる。チャンバ像への道はチケット窓口付近から分岐しており、30ルピーのチケットでチャンバ像とゴンパの両方を見物できる。まずはチャンバ像を見に行った。チャンバ像の腰掛けが寺院になっており、中にも仏像が納められている。
チャンバ像
チャンバ像を見た後、ゴンパの方へ登って行った。ディスキト・ゴンパは切り立った崖の上に立っており、境内に入ってからも急な登り道となっているので、見て回るのはとても疲れる。このゴンパではゴンカン(護法堂)が面白い。顔を布で覆われた不気味な像がいくつも納められている。しかし写真撮影は禁止である。
このゴンパ内には商店があり、僧侶が管理をしている。ゴンパを見終わった後、水を飲みながらその僧侶と雑談をした。それとなくヌブラ谷のガソリン事情について情報収集をしたのだが、やはりここでもこの谷においてガソリンは大きな問題だと言う話だった。実は彼もバイクを持っているのだが、もうすぐ売却する予定だと言う。最近ティクセ・ゴンパのリンポチェ(管長)がこのディスキト・ゴンパを視察に訪れ、僧侶がバイクに乗ることを禁止するお触れを出したと言う。1ヶ月の猶予を与えられており、彼はそれまでにバイクを売り払わなければならないとか。確かにバイクは僧侶が乗る乗り物ではないな。
ディスキト・ゴンパでのんびりした後、下まで下りて、ディスキトの町を散策した。表通りを通っただけでは殺風景な町にしか思えなかったが、奥まで歩いて行ってみると、ここものどかな居住地が広がっていた。ディスキトのバーザールにあったレストランで昼食にマトン・モモを食べた。やはりレベルの高いモモであった。
ディスキトの町並み
午後1時にバススタンドへ様子を見に行ってみたら、トゥルトゥク行きの私営ミニバスが停車していた。既に何人か乗客がバスの中で座っていたので、席がなくなってはいけないと思い、僕も座席に座って発車を待った。結局このミニバスは午後2時半に出発した。運賃はトゥルトゥクまで90ルピーだった。
ディスキトの老婆と子供
バスは、シャヨク河の下流に向かう形で西へと進んだ。フンダル辺りまでは緑が目立つが、それを過ぎると荒れ地が目立って来る。南北にそびえ立つ山も険しくなって行き、河は勢いを増して行く。途中、パルタープル(Parthapur)でチェックポストがあったが、ここではILPを見せる必要はなかった。パルタープルを過ぎてしばらく行くとトイセ(Thoise)という地域があるが、ここは軍の駐屯地となっている。対パーキスターンの最前線であり、警備は非常に厳重で、写真撮影を禁じる看板が至るところに立っている。
次第に人影がなくなって行き、切り立った山に囲まれた岩だらけの世界となって行く。いくつか一車線しかない鉄橋を渡ると、再び軍の駐屯地があり、その直前にチェックポストがあった。ここではILPのコピーを提出する必要があった。それを過ぎ、またも脆弱な橋を越えてしばらく行くと、次第にまた点々と集落が見え始める。午後6時半前にはトゥルトゥクに到着した。トゥルトゥクに入村した時点でも警察にILPのコピーを提出した。
トゥルトゥクでは、「ロンリー・プラネット」や「ラダック ザンスカール トラベルガイド」で紹介されていたマハ・ゲストハウスに宿泊しようと考えていたが、ミニバスに同乗していた地元民がホームステイを提案して来たので、その人の家に泊まることにした。彼の名前はアブドゥッレヘマーンで、インド・チベット国境警察(ITBP)である。現在自宅をゲストハウスに改装中で、とりあえず今年はホームステイという形で営業を開始したようだ。1人1泊400ルピーで、朝食、夕食、チャーイ込みという値段設定だった。僕が到着したときにはアルゼンチン人男性とフランス人女性のカップルが宿泊していた。宛がわれた部屋は簡素で、地面にマットレスが置いてあり、枕と毛布が用意されているだけだった。
トゥルトゥクと一口に言っても、村は川を挟んで東西2つの集落に分かれている。西の集落の方が古く、ユレ(Youl)と呼ばれている。東の集落はファロール(Farool)と言う。トゥルトゥクのゲストハウスやホームステイはファロールの方に集中しているが、僕の泊まった家はユレにある。2010年に外国人に開放されたばかりのトゥルトゥクを訪れる旅行者はまだ少ないが、その中でもかなりレアな体験になったのではないかと思う。
部屋に落ち着いたときには辺りは暗くなっており、今日は特に何もできなかった。近所の人々が家に集まって来ていたので、彼らと雑談しつつ、村のことなどについて情報収集をした。電気は午後6時半から午後11時までしか来ない上に、夜特にすることもないので、夕食を食べ終わった後はすぐに就寝した。
ヌブラ谷の奥地にあるトゥルトゥク村は特殊な場所である。まず、2010年に外国人に開放されたばかりの場所である点。よって、村人たちが外国人と接するようになって、まだ3年しか経っていない。観光地の中では、もっともピュアなインド人の姿を見られる可能性が高い。
トゥルトゥク・ファロール
トゥルトゥクが観光地として注目を浴びるのは、なにも村に特別な史跡などがあるからではない。その立地に特徴があるのである。まず、パーキスターンとの国境(国境不確定のため、厳密に言えば管理ライン)からおよそ10kmの地点にあること。辺境の村にふさわしい立地である。その次に、外国人が行ける場所の中で、インド最北端と言っていいこと。インド最南端のカンニャークマーリーは分かりやすいが、最北端は意外に知られていない。トゥルトゥクまで来れば、インド最北端を踏破したと宣言して差し支えないだろう。
トゥルトゥク・ファロールの子供たち
だが、この村に関してもっとも興味深いのは、1971年までパーキスターン領だったと言うユニークな歴史である。1971年と言えば第三次印パ戦争の年だ。これはインドの完勝に終わった戦いで、東パーキスターンが独立してバングラデシュが建国されたことがとりわけ注目されるが、実はこのヌブラ谷でも戦いが行われており、インド軍はトゥルトゥク近辺までを占領して、戦後公式に自国領とした。つまり、トゥルトゥクに住む中年以上の住民は、元々パーキスターン国籍で、パーキスターンの制度の中で教育を受けて来た人たちなのである。
ホームステイ先のお爺さん
トゥルトゥクは地域的な観点からはバルティスターンに属しており、住民たちはバルティー族で、シーア派イスラーム教徒だ。ヌブラ谷の東の方はチベット仏教圏であるが、フンダル辺りからイスラーム教徒の人口が目立ち始め、このトゥルトゥクまで来ると完全にイスラーム文化圏となる。チベット文化圏の象徴であるタルチョ(五色旗)などは全く見当たらない。ただ、歴史を紐解くと、元々この辺りではボン教が信仰されており、次に仏教が隆盛し、最後にイスラーム教が主流となったようだ。
トゥルトゥク・ユレの伝統的民家
どうも「トゥルトゥク」という地名の由来には2つの説があるようである。ひとつはバルティー語の「ドゥク・トゥク」が訛って「トゥルトゥク」になったという説。「ドゥク・トゥク」とは「ここに住め」という意味で、「訪れた者が定住したくなるような素晴らしい土地」と解釈すればいいだろう。もうひとつの説は「トゥルク・ドゥク」が訛って「トゥルトゥク」になったというもの。これは「トルコ人」という意味である。どうもこちらの方が信憑性が高いようで、元々東トルクメニスタン辺りにいたトルコ系王族がこの地に定住したことから、現在のトゥルトゥクにつながる文化が形成されたようである。
トゥルトゥク・ユレの路地
この村の人々は母語としてバルティー語を話すが、ラダッキー語やヒンディー語・ウルドゥー語もよく理解する。だが、英語ができる人はほとんどおらず、現地語のどれかができないとコミュニケーションにも苦労するほどだ。およそ40年前までパーキスターン領だっただけあって、彼らの話すウルドゥー語の発音は、インドよりもパーキスターンのものに近いような気がする。ただ、やはり母語ではなく、学校で修得した言語なので、彼らのウルドゥー語は文法的にはあまり正確ではない。
トゥルトゥク・ユレの子供たち
ヒンディー語やウルドゥー語を習得した外国人にとってトゥルトゥクが面白いのは、村人たちとのコミュニケーションにおいてヒンディー語またはウルドゥー語の語学力が大きな武器となることである。インドの一般的な観光地では、英語ができるインド人が大体必ずいるため、英語でもコミュニケーションが取れてしまう。それはインドの便利な点でもあるが、ヒンディー語やウルドゥー語をマスターした者にとっては酷くつまらない点でもある。だが、ここトゥルトゥク村ではヒンディー語またはウルドゥー語が絶大な威力を発揮する。まだ英語がしゃべれる人が一握りしかいないため、外国人との会話を恐れている人々がほとんどだ。だが、ヒンディー語またはウルドゥー語ができることが分かると、一気に心を開いてくれる。普段は日の目を見ることが少ないヒンディー語またはウルドゥー語の語学力だが、トゥルトゥクでは村に溶け込む重要な鍵となっている。これらの言語を学んでいて良かったと心底思わせてくれる貴重な場所だ。ヒンディー語またはウルドゥー語の学習者には、この村への訪問を強く勧めたい。もちろん、ラダッキー語やバルティー語の知識があれば、さらに深いコミュニケーションが取れるだろう。
民家の屋上では杏などが日干しにされていた
今日は1日村を散策して歩いた。上に書いたトゥルトゥクの概略も、主に散歩と村人たちとの会話を通して仕入れた知識をまとめたものである。やはり話していて面白いのは、パーキスターン時代を知る老人たちだ。彼らにパーキスターン時代の話や、インド領になって変わったことなど、いろいろ質問した。ある日突然国籍が変わってしまうというのは一体どんな体験なのだろう?ほとんどの人がそう疑問に抱くに違いない。確かに彼らも最初は戸惑ったようである。パーキスターン時代の学校ではインド軍の非人道的な所行を散々吹き込まれていたため、1971年にインド軍に村が包囲されたときには、多くの村人たちが森の中に逃げ、逃げ遅れた人々はモスクに立てこもったと言う。だが、このとき占領軍を率いていたのはヌブラ谷出身の人物で、彼らが理解する言語で根気よく説得をしたため、村人たちも逃げるのを止め、占領軍に素直に従ったと言う。パーキスターン時代は日々の食べ物にも困るくらいの貧しい地域だったが、インド領になってからは著しく発展した。電気が来たのもインド時代になってからのことである。だが、印パ分離独立時のように、家族親戚が国境を挟んで離れ離れになってしまった例もたくさんあると言う。村人の誰しもがパーキスターン人の親戚を持っているほどだ。道はつながっているが、国が別々になってしまったため、もし会おうと思ったらデリーまで行ってパーキスターンのヴィザを取得し、そこからラホールなどを回ってバルティスターンへ行かなければならない。非常に面倒なことになってしまった。また、トゥルトゥクの中を流れる川を上流まで遡って行くと、カールギルまで通じているそうだ。しかし現在ではこの道はインド軍によって封鎖されてしまっており、一般市民や外国人は通行できない。今ではトゥルトゥクはカルドゥン峠のみで外界と通じる僻地となっているが、印パ分離独立前は四方に道があり、結構な交通の要所だったと思われる。
ユレとファロールを結ぶ橋
この川を遡るとカールギルに着くと言う
しかしインド軍が道を封鎖しており一般市民は通行不可
上では、トゥルトゥクでピュアなインド人と会えるなどと書いたが、残念ながら観光地ずれは急速に進んでいる。子供たちには早くも外国人にペンやチョコレートやお金をねだる癖が付いてしまっている。一体誰が子供たちを堕落させているのだろうか?3年でここまで汚れてしまうものなのだろうか?とは言ってもまだまだ純粋さは残っていて、子供たちとの交流はこの村の楽しみのひとつだ。
トゥルトゥク・ユレの少女
山本高樹氏は「ラダック ザンスカール トラベルガイド」の中でトゥルトゥクの女性について「驚くほど美しい」みたいなことを書かれているが、それはちょっと誇張しすぎだと感じた。確かにラダック人などと比べるとエキゾチックな顔立ちをしているが、厳しい自然環境の中で生活している人々が表面的な意味において美しくなる可能性は限りなくゼロに近いと言える。しかし、これだけは言える。トゥルトゥクの村人たちは男女とも非常に働き者であり、そういう生き様において身に付く美しさはどの村人たちにも内在していた。
トゥルトゥクからの眺望
この村の子供たちは基本的にカメラに対してオープンで、自分から写真を撮ってくれとせがんで来る子供も多い。だが、ある程度の年齢になると、特に女性は、写真を嫌がる傾向にある。村の入り口にはいろいろ注意書きがあり、「写真やビデオを撮る前に必ず許可を取るように」と書かれている。だが、許可を求めると大人の女性は大体「ノー」と言うので、結局子供の写真くらいしか撮れなかった。
トゥルトゥクの御触書
トゥルトゥクは、上記の通り、まずはその特殊な立地と歴史において、二次的には素朴な村であるが故に、観光地としての魅力を持っているのだが、一応村を散策した中で、観光資源となり得る史跡を2つ見つけた。そのどちらもユレ村にある。まずひとつはジャーマー・マスジド。ラダック地方でもっとも古いモスクのひとつとされている。支柱やキブラーなどが木から造られており、素朴な彫刻もあって、とても魅力的だ。しかし内部は写真撮影禁止となっている。
早朝ジャーマー・マスジドでクルアーンを学ぶ子供たち
もうひとつは一般に「カーチョー・カーンの邸宅」として知られる、元々トゥルトゥクを支配していた王族の屋敷で、トゥルトゥクではもっとも豪勢な伝統的建築である。王族はヤブゴ王朝を称している。
カーチョー・カーンの邸宅
現在の当主ムハンマド・カーン氏が今でもその邸宅に住んでおり、訪問者にヤブゴ王朝の歴史を解説してくれる。過去の王の遺品――剣、杖、ターバンなど――も展示されている。目下、その邸宅を博物館にする計画を持っており、来年にはオープンしたい考えのようだ。トゥルトゥクの歴史については彼がもっとも知識を持っている。バルティスターンの歴史について書いた著書もあるようだ。今のところ入場料金はなく、寄付金となっている。
邸宅内部
ユレにはパーキスターン時代から続く小学校がある。とは言っても3部屋のみの小さな学校で、軍隊からテントを譲り受けて、校庭に立てたそのテントの下でも授業をしている。ホームステイした家が学校のすぐそばで、そこの先生と仲良くなった。学校に招待されたので、午前中の朝礼の時間にお邪魔した。朝礼ではイスラーム教のナート(賛美歌)やインド愛国歌など、子供たちは歌を歌っていた。僕も朝礼の機会に日本のことや簡単な日本語などをヒンディー語で教えた。ちょうど今日はクラステストの日で、子供たちは出題された問題の解答に勤しんでいた。
朝礼の様子
ところでトゥルトゥクでは、サスポルで出会ったハーティムと偶然再会した。彼は昨日トゥルトゥクに到着し、今日の朝レーへ向かうとのことであった。ラダック旅行は皆似たような日程で動くことが多いので、行く先々で前に会った旅行者と再会することも少なくない。
日曜日には午前6時にトゥルトゥクからレー行きの公営バスが出ていると言う。このバスは土曜日にレーを出て同日中にトゥルトゥクに着き、翌日にレーまで引き返すというスケジュールで運行されている。この公営バスがあるため、トゥルトゥクとディスキトを結ぶ私営のミニバスは今日は運休である。通常ならこのミニバスも午前6時にトゥルトゥクを出る。今日はこの公営バスに乗ってフンダルまで戻り、そこからバイクで再びカルドゥン峠を越えてレーまで行く。
午前5時に起き、チャーイを飲んで、村の麓にあるバススタンドへ向かった。2人のおばさんが杏やクルミの入った大きな袋のそばでバスを待っていた。これからレーに行って売りさばくのだと言う。話してみると、親戚が日本で中古車販売の仕事をしているそうだ。もしかしてと思ったが、やっぱりその親戚の国籍はパーキスターンであった。日本において中古車販売ビジネスをするパーキスターン人は多い。
次第に辺りが明るくなって来た。既に午前6時を回っているが、バスは一向に来ない。明るくなるにつれてバスを待つ人の数が増えて来た。これでは席を確保するために早起きした意味がない。午前6時45分頃になってようやくバスがやって来た。このバスは、トゥルトゥクの隣村、パーキスターン国境間近のタクシ村(Tyakshi)が始発であるため、既に何人か乗っていた。タクシ村は今のところ外国人の入域が許されていない。バスがトゥルトゥクのバススタンドに着いた途端にバスに乗り込み、最前列の席を首尾良く確保した。
この公営バスは、トゥルトゥク周辺からレーまで作物などを売りに行く人々が利用している。よって、停車するごとに大量の荷物をバスの屋上に積み込む人がおり、進むのに時間が掛かる。しかも月末であるため、この付近で道路工事をしているビハール州やジャールカンド州からの労働者たちも、仕事を終えてこのバスを使って故郷に帰るところであった。よって、バスは大変な混み合いだった。途中のチェックポストで再びレポート。単にトゥルトゥクへ向かった日を伝え、帳簿と照らし合わせるだけでOKだった。
ノラリクラリとバスは進んだが、午前10時半頃にはフンダルに到着した。フンダルのスノー・レパード・ホテル&ゲストハウスに預けておいたバイクや荷物は無事だった。荷物の詰め替えや着替えなどをして、午前11時にはフンダルを出た。
真っ青な河と真っ白な砂浜が織り成す風景を楽しみながら、ディスキトを越えて東へ進んだ。途中、正午前後にカルサルで昼食としてトゥクパを食べた。そして今一度装備を調え、いざ2度目のカルドゥン峠へ向けて出立した。
世界最高の峠と言うことで、越える前は畏怖していたカルドゥン峠だが、2度目ともなるとかなり気持ちに余裕ができていた。ノース・プッルのチェックポスト付近でサーイーやプージャーと再会。彼らはこれからヌブラ谷へ向かう。現在の旅程上、パンゴン・ツォでまた出会えるかもしれない。
ノース・プッル
サーイー、プージャーと共に
カルドゥン峠には午後2時頃に到着。行きと同じように、峠にある茶屋でブラック・ティーを飲んで小休止。ついでに数枚記念撮影をして、今度はレーに向けて峠を下り始めた。
カルドゥン峠からの眺め
ちなみに、峠の南北にあるチェックポスト――ノース・プッルとサウス・プッル――では、帰りにはILPを見せたりレポートをしたりしなくてもいいようであった。ヌブラ谷方面からの車両はノーチェックで通してもらえる。
午後3時半頃にレーに到着。同じくオリエンタル・ホテルに投宿した。ガソリンの残量を見ると、リザーブを含めて4リットルはある。もしかしたらトゥルトゥクまでバイクで往復しても足りたかもしれない。しかしギリギリのところだ。考えてみると、トゥルトゥクの宿の多くはバイクでは行けない場所にあったので、バイクで行かずに正解だったかもしれない。だが、やはりフンダルからトゥルトゥクまでの光景も捨てがたく、あの道をバイクで往復できていたらとの気持ちもある。微妙なところである。
本日の走行距離:124.9km、本日までの総走行距離:1793.4km。ガソリン補給なし。