スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2010年2月

装飾下

|| 目次 ||
音楽■1日(月)サンスクリット語で歌う中国人ポップ歌手
分析■2日(火)スダーマーの話の教訓
映評■3日(水)Road to Sangam
映評■5日(金)Striker
分析■11日(木)2009年のボリウッド映画界を振り返る
映評■12日(金)My Name Is Khan
分析■18日(木)インド式数学の謎
映評■20日(土)Toh Baat Pakki
演評■22日(月)Maya Bazar
演評■26日(金)Jahan-e-Khusrau
映評■27日(土)Karthik Calling Karthik
分析■28日(日)フィルムフェア賞2009


2月1日(月) サンスクリット語で歌う中国人ポップ歌手

 1月27日付けのタイムズ・オブ・インディア紙に、サンスクリット語で歌う中国人女性ポップシンガーの記事が掲載されていた。彼女の名前は萨顶顶(薩頂頂/サー・ディンディン)。2007年辺りからよく名を知られるようになったアーティストのようで、既にワールドデビューも果たしており、もう日本でもある程度知名度があるかもしれない。


サー・ディンディン

 サー・ディンディンは、1983年中華人民共和国内モンゴル自治区にて、漢人の父と内モンゴル人の母の間に生まれた。その出自の影響からか、民俗音楽と仏教に興味を持ち、チベット語やサンスクリット語を独学で学んで、それらを活かした独特の音楽を作っている。彼女は、中国語、チベット語、サンスクリット語などで歌を歌っている他、言語を自作して感情を表現するというかなり変わったことにも挑戦している。今年5月から上海で開催される万国博覧会でサー・ディンディンは中国文化の多様性の象徴としてフィーチャーされる予定のようである。

 ところで、サンスクリット語は現在インドで使用されている様々な言語の総元締め的な古典言語である。インドには主に4つの系統の言語が分布しているが、話者人口の大半を占めるのがインド・アーリヤ語族の言語とドラヴィダ語族の言語である。サンスクリット語は、聖典ヴェーダの言語であるヴェーダ語の流れを汲み、紀元前にインド・アーリヤ語族でもっとも早く標準化された言語で、以後インドの知識階級の共通語として、知恵の宝庫として、また文学言語として、君臨して来た。サンスクリット語は、インド人の自信とプライドの根拠のひとつであることは間違いない。一方、ドラヴィダ語族の言語は主に南インドで使用されているが、語彙などの面でサンスクリット語の多大な影響を受けている。

 サンスクリット語は現在では古典語として扱われており、ほぼ死語となっているのだが、それでも様々な理由からサンスクリット語を日常生活で使っている人々というのもインドには存在する。サンスクリット語を母語とする人々の人口は国勢調査の年度によって開きがあるのだが、1991年時で約5万人、2001年時で1万4千人いることになっている。また、以前、カルナータカ州でサンスクリット語が話されている村を訪問したことがあるが、本当にサンスクリット語を日常語として使っている人々がいた(マットゥール参照)。

 古典音楽の世界においてもサンスクリット語は生きており、サンスクリット語で歌を歌う伝統は現在まで綿々と続いている。映画音楽でも、ちょっとしたアクセント程度に歌詞やコーラスの中にサンスクリット語が入ることはある。また、知名度の高いサンスクリット語マントラ(お経)を一般リスナー用に聞きやすくアレンジした「Chant of India」というCDをラヴィ・シャンカルとジョージ・ハリスンが作っており、それをサンスクリット・ポップの先駆けとすることが出来るかもしれない。しかし、サンスクリット語で歌を歌う若いポップシンガーというのはインドでは聞いたことがない。今のところサー・ディンディンは「サンスクリット語で歌を歌う初の中国人ポップシンガー」の名をほしいままにしているが、狙おうと思えば、「世界初のサンスクリット語ポップシンガー」の称号も狙える。

 もし中国人の歌手がサンスクリット語で歌を歌っているだけだったら、アジアの2大国であり、何かと比較されがちなインドと中国の間の、草の根文化交流の一例としてもてはやされるのみだったであろうが、インド側はどうも彼女のことを面白く思っていないようだ。なぜならインドは、中国による文化簒奪を警戒しているからである。中国政府はサー・ディンディンに、今後もサンスクリット語で積極的に歌を歌い続けるよう促しているとされるし、中国チベット自治区政府は、サー・ディンディンの音楽について、「インスピレーション源は全て中国文明・文化である」と表現している。その書き方をそのまま捉えるならば、チベット問題はさておき、インドのプライド源であるはずのサンスクリット語まで、中国文明・文化の一端ということになってしまう。インドは、4,000kmに及ぶ国境を中国と共有しており、ジャンムー&カシュミール州、スィッキム州、アルナーチャル・プラデーシュ州などにおいて国土領有権の相違を抱えている。経済・貿易面で中国との連携を強めながらも、インドは決して中国を全面的に信頼していない。昨年はアルナーチャル・プラデーシュ州での州議会選挙が起爆剤となり、国内で中国脅威論がかなり議論されていた。そのような状況もあり、インドは中国国境の兵力を着実に増強している。だが、サンスクリット語という無形の文化遺産まで簒奪される可能性を秘めているとすると、今までとは全く違った「国境警備」に当たらなくてはならなくなる。

 サンスクリット語はインドの所有物なのか?今まで当たり前過ぎてそういう問いがあまりなされて来なかった気がする。しかし、考え直してみると結構危うい位置にあるのではないかと感じる。例えば、サンスクリット語の文法を整備した最大の功労者であるパーニニが活躍した場所は、現在のパーキスターンからアフガーニスターンにかけての地域、いわゆるガンダーラ地方であり、彼がその際に準拠したのも、当時その地域で使われていた言語だとされる。もしパーキスターンがサンスクリット語を自国の無形文化遺産だと主張し始めたら、インドはどう反論するのだろうか?

 ところで、サー・ディンディンのサンスクリット語歌詞の曲はYouTubeなどでも視聴できる。早速彼女の「Alive」という曲のサンスクリット語バージョンを視聴してみた。しかし、何度聞いてもサンスクリット語に聞こえない。一応アルファベットで字幕も出ていたが、どうもサンスクリット語の音韻とは思えない。彼女の別のサンスクリット語曲「Tuo Luo Ni」も聞いてみたが、こちらの方が多少サンスクリット語っぽい語彙が使われている印象を受けたものの、まだ納得できない。そもそもサンスクリット語のポップソングなるものを聞いたことがないため、どんな形になるのか想像も付かないのであるが・・・。

 YouTubeのコメント欄でも彼女の歌詞が本物のサンスクリット語かどうかを巡って興味深い議論が繰り広げられている。誰かが投稿したコメントによると、「Alive」の歌詞は以下のものらしい。プロモーションビデオの字幕よりもよりサンスクリット語に近いものになっている。
om va jra sa ttva sa ma yam a nu
pā la ya va jra sa ttva tve no pa
ti shtha dr dho me bha va su to shyo
me bha va su po shyo me bha va a
nu ra kto me bha va sa rva si ddhim
me pra ya ccha sa rva ka rma su ca
me ci ttam shre yah ku ru hūm ha ha
ha ha hoh bha ga van sa rva ta thā
ga ta va jra mā me mu ñca va jrī
bha va ma hā sa ma ya sa ttva ah
 単語の区切り方が変だが、これを見ながら聞くと確かに、「vajrasattva」とか「bhava」とか、サンスクリット語の単語を歌っているのが分かる。仏教のお経のように見える。「vajrasattva」で金剛菩薩だから、金剛経か何かだろうか?サンスクリット語をちゃんと知っている人が上の歌詞を参考にディクテーションすれば、ある程度元の歌詞を再構築できるだろう。サンスクリット語に聞こえないのは、彼女の発音の問題が大きいと思われる。

 ただ、彼女の音楽自体はアジア各地の民俗音楽の要素をうまく取り込んだものとなっており、十分魅力的であった。

 また、ネットを検索してみたら早速この記事を読んだインド人が「なぜインドにはサンスクリット語のポップソングがないんだ!中国にはあるのに!」とコメントを寄せているのを見つけた。今後インドでも誰かが奮起して似たようなことを始めるかもしれない。

2月2日(火) スダーマーの話の教訓

 インドは説話文学の宝庫である。二大叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」には様々な物語がマトリョーシカのように何重にも何重にも散りばめられているし、「ジャータカ」「パンチャタントラ」「カターサリトサーガラ」などなど、様々な説話集が編纂されて来た。その中に収録されている物語の多くは現代でも語り継がれ、インドの人々たちに人生の教訓を提供し続けているし、外国語に翻訳されて当地の文化にすっかり溶け込んでしまっているものも多い。現代のインド人も、奇想天外な映画のストーリーから苦し紛れの言い訳まで、話を作るのが得意だが、そういう国民性が説話文学の発展につながったのではないかと感じる。

 スダーマーの話も、インドで人気の説話のひとつである。1000年までに成立したとされる説話集バーガワタ・プラーナに収められており、現代の大衆の間でも割とよく知られた物語となっている。昨年公開されたヒンディー語映画「Billu」も、スダーマーの物語がベースにあるとされている。しかし、いまいちスダーマーの話からどういう教訓を得たらいいのか分かりづらいところがある。スダーマーの話を要約するならば、こんな感じである。
 スダーマーはクリシュナの旧友だった。極貧生活を送っていたスダーマーは、妻の勧めもあり、ドワールカーの王となったクリシュナに金銭的援助を求めに行く。貧しかったため、お土産として一握りの米粒しか持って行けなかった。クリシュナに会うのは幼年時代以来であり、スダーマーは果たしてクリシュナが自分のことを覚えていてくれるか不安だった。しかし、クリシュナはスダーマーを歓待する。それでもスダーマーは自分の貧困のことなどをクリシュナに話すことが出来なかったのだが、スダーマーが家に帰ってみると、彼の掘っ立て小屋は屋敷に変貌しており、金銀財宝が溢れていた。それらは、スダーマーの窮状を見抜いたクリシュナからの内緒の贈り物であった。
 貧しいが正直者の主人公が何らかのきっかけで金持ちになるという筋の話は、世界中の説話の中に定型として存在すると思うが、スダーマーの話はそれとは多少異なるように思えていた。クリシュナがヴィシュヌ神の化身で、彼自身神格扱いされていることを考慮すると、神は貧富の差別なく恩恵を与えるという教訓を抜き出すことも可能かもしれないが、どこかピンと来ないところがあった。

 ところで話は変わるが、ヒンディー語の新聞には大体宗教のコーナーがあり、近付いて来ている祭りの起源や由来の解説、断食や礼拝の指南、占星術上の話題、宗教指導者からのメッセージなどが掲載されている。そういう記事にこまめに目を通しているとなかなか面白いのだが、1月30日付けのヒンドゥスターン紙に、シュリー・ラームチャンドラ・ドーングレー・ジー・マハーラージという人物によるスダーマーの話の解説が掲載されており、やっとこの物語が何を語りたかったのか飲み込めた。もちろん様々な解釈は可能だと思うが、彼の解釈は全てをクリアにしてくれるものである。

 まず前提として知っておかなければならないのは、インドでは食べ物を独り占めすることがかなり大きな罪とみなされていることである。インド人と一口に言っても様々な人がいて、金にがめつい人もいれば極度の吝嗇家もいる訳だが、概してインド人やインドの文化は食べ物に対して寛大な態度を持っている。インドを旅行すると、列車などで乗り合わせた人からいろいろ食べ物を分けてもらうことがよくあるし、インドで生活していればさらに多くの場面で食べ物の共有、お裾分け、ディナー招待などと言った行為を目の当たりに出来る。寺院では頻繁にプラサード(神饌)を配り、誰にでも門戸を開いているし、個人でも事あるごとに近所の人々に無料で食事を配っている殊勝な人がいる。インドにいる限り少なくとも食べ物に関しては困らないのではないかと感じる。どこかへ行けば必ず食べ物が手に入る社会であるため、腹を空かせた乞食というのは本当はインドには存在しないと言える。

 ヒンディー語には「アカルクラー(अकलखुरा)」という単語がある。原義は「1人で食べる者」だが、その実際の意味は「利己的な人」「貪欲な人」「自分勝手な人」である。何かの食べ物を仲間と分けずに1人で食べてしまう人は、かなり卑しい人間として蔑まれる。それだけでなく、そういう人は貧困に窮することになるとされる。実はスダーマーも「アカルクラー」であった。それに関する話は以下の通りである。
 幼年時代のある日、スダーマーはクリシュナと薪を取りに出掛けた。そのとき突如大雨が降って来たため、2人は木の下で雨宿りをした。雨はなかなか止まなかった。2人は空腹を感じ始めた。実はスダーマーはいくらかチャナ豆を持って来ていた。彼はチャナ豆を食べ始めた。その音を聞いてクリシュナはスダーマーに何を食べているのか聞いた。スダーマーは、もし本当のことを言ったらクリシュナにもチャナ豆をあげなければならなくなると考え、「何も食べていない、寒さで歯がガチガチ言っているだけだ」と答えた。
 この行為によってスダーマーは貧困生活を送る羽目になってしまったのである。その後、スダーマーはスシーラーという女性と結婚し、子供にも恵まれたが、貧困のために何日も空腹のまま暮らさなければならなかった。スシーラーは1着のサーリーしか持っておらず、子供に食べさせる食べ物すらないことがよくあった。スシーラーは夫から、幼い頃にクリシュナとよく遊んだ仲であることを聞いていたため、彼に、ドワールカーまで行ってクリシュナに助けを求めるように訴えた。スダーマーは乗り気ではなかったが、他に方法もなく、結局は妻の言うことを聞いてドワールカーまで出向くことにした。途中、スダーマーは空腹のために倒れてしまうが、スダーマーが向かっていることを知ったクリシュナはガルル鳥(ガルーダ)を送って彼をドワールカーまで運んで来させた。
 目を覚ましたスダーマーは知らぬ間にドワールカーに着いており驚く。早速クリシュナの宮殿に向かうと、クリシュナは門まで彼を出迎えに来た。クリシュナはスダーマーの貧しい姿を見て同情し、妻のルクミニーと共に心から歓待した。スダーマーはクリシュナに近況を伝えたものの、貧困のことや援助のことは一言も口にしなかった。また、スダーマーは妻からクリシュナへのお土産として米粒を渡されて持って来ていたが、あまりに貧相なお土産だったため、それを渡すことを躊躇していた。全てお見通しのクリシュナはスダーマーに「奥さんが何か送ってくれたのでは?」と聞くが、スダーマーは米粒の入った袋を隠していた。幼年時代にチャナ豆を隠して貧困に喘ぐことになってしまったスダーマーは、今でも同じ過ちを犯そうとしていた。クリシュナは友人を助けるため、無理矢理袋を奪って米粒を食べた。これによりスダーマーの過去の過ちは浄化され、貧困の運命から逃れることになった。スダーマーが家に帰ってみると、貧乏の巣窟だった家は一夜にして富裕の城となっていたのだった。
 インド人と付き合う際、食べ物を共有するかどうか、かなり微妙な選択を迫られることになる。上記の通り、食べ物を共有することは一種のマナーとして考えられており、誰かの前で食べ物を1人で黙々と食べてしまうと、スダーマーのように貧者に身を落とすことはないにしても、「この人は何て自分勝手な人だ」と思われてしまう可能性がある。しかし、一方でインド人は見知らぬ食べ物に関して懐疑的なところもあり、特にヴェジタリアンの人は得体の知らない食べ物に果敢に挑戦したりすることは稀で、無理に勧めることも出来ない。それでも、一応食べる前に周囲の人々に「食べる?」と聞くのは重要だと言える。とりあえず周囲の人々から言質を取ってから食べ始めることで、無用なトラブルを回避できることだろう。

2月3日(水) Road to Sangam

 1月30日は特に祝日にはなっていないが、インド独立の父マハートマー・ガーンディーが暗殺された日であり、インド人にとって特別な日である。毎年この日、ガーンディーの記念碑があるラージガートで供養が行われる。そのガーンディーの命日の1日前に公開された映画がある。「Road to Sangam」である。題名からは想像出来ないが、ガーンディー暗殺事件に間接的に関係する作品となっており、ガーンディーの命日を含む週を狙って公開されたのは確実である。同日公開の「Rann」と「Ishqiya」の影に隠れてしまっているが、世界各国の映画祭で高い評価を得ている社会派映画であり、見逃すのは得策ではないと考えていた。本日何とか時間を捻出して鑑賞することが出来た。

 ちなみに、サンガムとは河の合流点のことで、特にガンガー(ガンジス)河とヤムナー河の合流点のことを言う。河の流路は常に変わるため、サンガムの位置も時代ごとに変わって来たと考えられるが、現在ではウッタル・プラデーシュ州イラーハーバード(アラーハーバードとも)に位置しており、ヒンドゥー教の一大聖地となっている。民間信仰では、サンガムではガンガー河とヤムナー河だけでなく、伝説のサラスワティー河も合流しているとされる。



題名:Road to Sangam
読み:ロード・トゥ・サンガム
意味:サンガムへの道
邦題:サンガムへの道

監督:アミト・ラーイ
制作:アミト・チェーダー
音楽:サンデーシュ・シャーンディリヤー、ニティン・クマール・グプター、プレーム・ハーリヤー、ヴィジャイ・ミシュラー
歌詞:スディール・ネーマー、ナルスィン・メヘター、アッラーマー・イクバール、ジョン・ヘンリー・ニューマン、グル・グラント・サーヒブ
振付:プラディープ・カーレーカル
衣装:モハンマド・ハフィーズ
出演:パレーシュ・ラーワル、オーム・プリー、パワン・マロートラー、ジャーヴェード・シェーク、スワーティー・チトニス、マスード・アクタル、ユースフ・フサイン、GPスィン、ラジャン・ビーセー、スディール・ネーマー、ヴィジャイ・ミシュラー、トゥシャール・ガーンディー(特別出演)
備考:サティヤム・ネルー・プレイスで鑑賞。

左から、パワン・マロートラー、パレーシュ・ラーワル、オーム・プリー

あらすじ
 イラーハーバード在住のイスラーム教徒ハスマト(パレーシュ・ラーワル)は近隣で名の知れた熟練の機械工であった。地元のモスク委員会の幹事にもなっており、近所の人々から慕われていた。唯一、モスク委員会の幹事長を務めるムハンマド・アリー・カスーリー(オーム・プリー)やモスクの管理人マウラーナー・クレーシー(パワン・マロートラー)とはそりが合わなかった。

 ある日州都ラクナウーから旧知の役人リーズヴィーの電話があり、ハスマトはエンジンを修理して欲しいと頼まれる。ハスマトのガレージに届けられたエンジンは、フォードの旧式V8エンジンであった。早速ハスマトはそのエンジンの修理に取り掛かる。何しろ60~70年前に製造されたエンジンであり、修理は簡単ではなかったが、ハスマトにとって不可能でもなかった。息子のラーファト(ヴィジャイ・ミシュラー)や、ガレージの仲間であるズルフィカール(マスード・アクタル)やガッファール(ユースフ・フサイン)と共に着々と修理を進めていた。

 その頃、イラーハーバードでテロ事件が発生し、多数のイスラーム教徒が容疑者として逮捕された。モスク委員会はデモ運動を行うことにするが、混乱の中でカスーリー幹事長の甥が命を落としてしまう。元々過激な思想を持っていたカスーリー幹事長はさらに急進化し、クレーシーと共に無期限ストライキを呼びかける。モスク委員会の決定であるため、地元のイスラーム教徒たちは従わざるをえず、店を閉め、仕事を放棄して、ストライキに参加する。

 ハスマトもとりあえずガレージを閉めるが、テレビのインタビューによって、リーズヴィーから修理を頼まれたエンジンは、ただのエンジンではないことを知る。それはインド独立の父マハートマー・ガーンディー所縁のエンジンであった。

 1947年に印パは分離独立し、多くのイスラーム教徒がパーキスターンに逃げるが、分離独立に最後まで反対していたマハートマー・ガーンディーは、インドに残ったイスラーム教徒の保護に腐心する。それがヒンドゥー教過激派の目にはイスラーム教シンパとして映った。それが原因で、独立の翌年、1948年1月30日に、ガーンディーはニューデリーにおいて、過激派ヒンドゥー教徒に暗殺されてしまう。ガーンディーの遺灰は分配され、インド各地の河に流された。イラーハーバードのサンガムでも1948年2月12日に遺灰が流されたが、そのとき遺灰を運んだのがフォードのトラックで、ハスマトが修理をしているエンジンはそのトラックのものであった。

 話はそれだけではない。最近、オリッサ州カタクの銀行の貸し金庫から、河に流されずに忘れ去られてしまった遺灰が見つかり、ガーンディーの曾孫に当たるトゥシャール・ガーンディーがそれを受け取っていた。その遺灰を改めてイラーハーバードのサンガムに流すことも決まり、その運搬のために、60年前に遺灰を乗せたフォードのトラックを博物館から引っ張り出すことになった。しかし既にエンジンが動かなくなっていたため、ハスマトのところに修理の依頼が来たという訳であった。

 そこまで大きな仕事だとは思っていなかったハスマトはその話を聞いて面食らってしまう。2月12日は間近に迫って来ている上に、ストライキが続いており、仕事がストップしてしまっていた。ハスマトは、親友の医者バナルジー(ジャーヴェード・シェーク)とも相談し、この仕事を断ることにする。ところが博物館でガーンディーの軌跡の展示を見て、ガーンディーがイスラーム教徒のために暗殺されたことを知り、考え直す。ハスマトはモスク委員会で、カスーリー幹事長やクレーシーに対し、仕事再開の特別許可を申請する。しかし、彼らにはハスマトが和を乱してイスラーム教徒を裏切ろうとしていると感じられた。ハスマトは幹事職を罷免されるが、それでも強い意志と共に仕事再開を宣言する。同じく幹事で、ハスマトの友人だったイナーヤト・アリー(スディール・ネーマー)は、最初ガレージの鍵を奪ってハスマトの行動を制止しようとするが、考え直し、彼に鍵を返す。ハスマトはエンジン修理を再開した。

 最初、イスラーム教徒の間にハスマトの行動を支持しようとする者はいなかった。妻のアーラー(スワーティ・チャトニス)ですら、ハスマトを諫めていた。バナルジーのみがハスマトのよき理解者であった。だが、ハスマトの熱意に感化され、1人また1人と、イスラーム教徒の間からもハスマトの協力者が現れ始めた。ハスマトは彼らの助けを借りて何とか期限内にエンジン修理を完了する。また、同じ頃、カスーリー幹事長主導のストライキのおかげで、拘留されていた同胞たちは釈放され、ストライキも終了した。

 とりあえず大仕事を終えたハスマトであったが、彼はさらに大きなことを考えていた。ガーンディーの遺灰を乗せたトラックのパレード順路にイスラーム教徒居住区も含ませ、イスラーム教徒たちの参加も呼びかけることであった。そのアイデアはパレードの主催者に快諾されたが、イスラーム教徒たちを説得するのは難しい仕事であり、その責任は当然ハスマトが負うこととなった。ハスマトは近所の人々に招待状を送り、参加を呼びかけた。モスク委員会においてカスーリー幹事長やクレーシーはハスマトの行動を厳しく糾弾するが、ハスマトは熱心にカスーリー幹事長を説得する。それが実を結び、当日カスーリー幹事長もパレードの場に現れる。

 こうしてガーンディーの遺灰はイラーハーバードの様々なコミュニティーの人々の前でサンガムに流されたのであった。

 インドの文化はしばしば「ガンガー・ジャムニー(ガンガー河とヤムナー河)」と形容される。ヒマーラヤ山脈から端を発したガンガー河とヤムナー河がサンガムで合流し、以後一体となって泰然と流れるように、インドの文化も様々な異なる要素が混じり合い調和し合って形成されているという意味で、特にそれはヒンドゥー教とイスラーム教の融合という文脈で使われることが多い。だから、目ざとい人にとっては、「Road to Sangam」もヒンドゥー教とイスラーム教の融合がテーマの映画だと事前に予想することは不可能ではない。しかし、意外にもこの映画のメインテーマはヒンドゥー教とイスラーム教の問題ではなかった。むしろ、インドにおけるイスラーム教徒コミュニティー内部の問題に迫った作品であった。

 映画でまず問われているのは、インドのイスラーム教徒のアイデンティティーである。劇中で、「目には目の」の過激な思想を持つカスーリー幹事長やマウラーナー・クレーシーの口からは、頻繁に「カウム」という言葉が発せられる。この映画だけに限ったことではなく、イスラーム教やイスラーム教徒の抑圧された現状を取り上げた映画では、「カウム」という言葉は必ずと言っていいほど使われる。昨年公開された「New York」や「Kurbaan」でもこの言葉は頻出単語であった。「カウム」とは「民族」とか「国民」という意味で、英語の「nation」に近い言葉であるが、多くの文脈でそれは「イスラーム教徒コミュニティー」を指す。高校の世界史で習う「ウンマ」だと言い換えてもいい。過激派イスラーム教徒は何よりも「カウム」を優先する思想を持っているが、それはつまり、国家よりも何よりもイスラーム教徒コミュニティーが優先されるアイデンティティーであることを意味する。よって、イラクやアフガーニスターンなど、世界のどこでであっても、イスラーム教徒が殺される事件があれば、それは遠く離れたインドに住むイスラーム教徒にとっても、身内が殺されるに等しいもっとも由々しき事態ということになる。そしてもし国家がイスラーム教徒の利益を損なうことがあれば、全てのイスラーム教徒は団結してその国家に立ち向かわなければならないということになる。その思想によれば、国民としてよりも、イスラーム教徒としてのアイデンティティーの方が強く、守って行かなければならないものなのである。

 「Road to Sangam」の主人公ハスマトは、正にイスラーム教徒としてのアイデンティティーとインド国民としてのアイデンティティーの間で板挟みとなる。ハスマトに与えられた仕事は、インド独立の父の遺灰を乗せる車のエンジンの修理という、一国民として、そして一メカニックとして、非常に名誉なものであった。しかし、地元のモスク委員会は、イスラーム教徒を問答無用でテロリスト扱いする政府のやり方に反対し、地元のイスラーム教徒にストライキを強要していた。いつ終わるとも知れないストライキに参加し時間を無駄にしていると、期限までに修理を完了させることが出来そうになかった。根が正直なハスマトはモスク委員会に特別許可を申し出るが、元々ハスマトとそりが合わなかったカスーリー幹事長らはそれを拒絶する。ハスマトは八方塞がりとなってしまった。

 そんな彼に勇気を与えたのが、他でもないガーンディーの生き方であった。ガーンディーはヒンドゥー教とイスラーム教徒の融和をインドの基盤と考えていた。彼が暗殺されたのも、イスラーム教徒を差別せず、むしろ擁護したからであった。そんなガーンディーの供養のために仕事をすることは、イスラーム教徒にとって罰の当たる行為ではなく、むしろ義務だと思われた。そもそもコーランは労働をイスラーム教徒の義務としており、労働を放棄することはコーランの教えに反する。そして彼は何よりインド人としてこの仕事を成し遂げたかった。ハスマトは、頑なに意志を貫き通すと同時に、周囲の人々を愛情と共に説得し、取り込んで行く。彼の勇気ある行動は遂にカスーリー幹事長の心をも動かし、地元のイスラーム教徒の間にインド国民としての自覚を芽生えさせることに成功した。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の調和と団結の必要性を唱えた映画は数多いが、その前にイスラーム教徒がインド国民として最低限の自覚を持つ必要があると訴えた「Road to Sangam」の着眼点は見事である。そしてその触媒として「残されたガーンディーの遺灰」というユニークな事物を用いた着想は賞賛に値する。壊れたエンジンを直していく過程と、過激で排他的な思想に傾いて行くイスラーム教徒コミュニティーを今一度メインストリームに戻す地道な努力が重ね合わされていたのも、いかにも映画的な物語の組み立て方であった。

 果たして劇中に出て来たモスク委員会のような組織がインド各地にあるのかどうかは不明だが、一般のイスラーム教徒たちがモスク委員会の決定の良いなりなっていることも問題点として指摘されていた。委員会の決定はそのまま神の意志ということになり、人々は神に背いて村八分や反逆者のレッテルを貼られることを恐れ、自由な意見を主張できなくなっている。それがイスラーム教徒コミュニティーをますます世間から隔絶させていく原因となっていることが「Road to Sangam」で描写されており、見所だった。

 ただし、パーキスターン建国を否定する台詞もあり、パーキスターン人にとっては面白くない作品になるかもしれない。ハスマトは、もし印パが分離独立しなかったらという「if」を提示しており、そうだったら今頃インドはどれだけ裕福で強力な国になっていただろうと夢想している。もしインドがそのまま独立していたら、インドは世界最大のイスラーム教徒人口を抱える国になっていたとも述べていたが、それは真実である。インド、パーキスターン、バングラデシュのイスラーム教徒人口を足したら、その数はおよそ4億5千万人になり、現在最大のイスラーム教徒人口を抱えるインドネシアの2倍以上となる。それと関連し、印パ分離独立によって一番損をしたのは結局イスラーム教徒自身だとも語っていた。国の分裂により、世界最大のイスラーム教徒人口を抱える国家の一員になるチャンスを失ってしまった上に、本当にバラバラに分裂してしまったのはイスラーム教徒であり、さらにはコミュニティーの内にこもって排他的・報復的な思想を培っているために他の国民からも白い目で見られるようになっていると、インドのイスラーム教徒に対して警鐘を鳴らしていた。

 ところで、「Road to Sangam」は、長年忘れ去られていたガーンディーの遺灰の発見や、それを改めて河に流す式典の開催、旧式フォード・トラックのリバイバルなど、かなり独創的な展開となっていたが、これらは実際の出来事をベースにしているようだ。実はガーンディーの遺灰はかなりの人々の手に渡ったようで、その内のいくらかは未だに流されずに残っているらしい。そして時々それが何らかの目的やきっかけによって海や河に流されており、ニュースになっている。ちょうど今年の1月30日にも、南アフリカ共和国に残っていたガーンディーの遺灰が海に流された。だが、「Road to Sangam」のベースになったのは、1997年にイラーハーバードのサンガムで、銀行から見つかったガーンディーの遺灰を、ガーンディーの曾孫であるトゥシャール・ガーンディーが流したという出来事であろう。それを裏付けるように、「Road to Sangam」ではトゥシャール・ガーンディー本人が特別出演していた。しかし当然のことながら、映画のストーリーにはフィクションも含まれている。例えば、劇中で登場人物は携帯電話を使っていたが、1997年に携帯電話はそこまで普及していなかった。それだけでも、時代設定を史実通り1997年にしていないことが分かる。しかし、ストーリーの大筋は通常の人間の想像力を越えるもので、歴史的出来事を参考にしていると言っていいだろう。当時の実際の映像が劇中で使われていた可能性もある。

 ハスマト役のパレーシュ・ラーワルは熱演であった。コメディアンとして有名なパレーシュ・ラーワルであるが、元々シリアスな演技もこなす優れた俳優であり、本作では彼の落ち着いた演技が見られた。最近私生活でトラブルに巻き込まれているオーム・プリーも過激派のカスーリー委員長を熱演していた。マウラーナー・クレーシーを演じたパワン・マロートラーは役に対して多少声が高すぎる印象を受けたが、演技は安定していた。医者のバナルジーを演じたジャーヴェード・シェークはパーキスターン人俳優であるが、よくヒンディー語映画に顔を出している。ただ、その他の俳優の中には、素人っぽい演技をしているような人もいたような気がする。

 さすがに一般の娯楽映画のようなダンスシーンはなかったが、カッワーリーのシーンを入れたりして、音楽はふんだんに使われていた。しかし、音楽の作り込みが足らなかったと見え、大して映画を盛り上げたり心を揺さぶったりするような曲がなかった。もう少し音楽に力を入れていれば、さらに完成度の高い映画になっていたことだろう。

 イラーハーバードのイスラーム教徒が主な登場人物であり、彼らのしゃべる言語にはアラビア語・ペルシア語の借用語が多用されていた。つまりウルドゥー語である。よって、いわゆる純ヒンディー語の語彙力だけだと多少聴き取りに難が出て来るだろう。ただ、台詞中ほとんど文法性が無視されていたのが気になった。アワディー方言の影響ということであろうか?イラーハーバードのイスラーム教徒の言語を忠実に再現したかったのかもしれない。

 マハートマー・ガーンディーの命日に合わせて一般公開された「Road to Sangam」は、完全に映画祭向けの作品であり、このまま地味に消え去って行く運命にあるのかもしれないが、ガーンディーの遺灰を巡るストーリーはかなりユニークで、しかもインドのイスラーム教徒の問題に深く切り込んだ野心作である。最近インドやパーキスターンでイスラーム教徒の抱える問題に迫った作品が多く作られているが、その中でもかなり核心に触れることに成功した映画だ。

2月5日(金) Striker

 カラン・ジャウハル監督の超話題作「My Name Is Khan」の公開が来週に控えているため、今週公開のヒンディー語映画はマイナーなものばかりだ。その中でもかろうじて集客力があると思われるのは、スィッダールト主演の「Striker」である。スィッダールトは基本的にテルグ語映画界で活躍中の俳優・プレイバックシンガー・脚本家であるが、ヒンディー語映画「Rang De Basanti」(2006年)で好演してヒンディー語圏の観客にも名が知られるようになった。しかし、元々寡作なこともあり、彼のヒンディー語出演作はそれ以来途絶えていた。この「Striker」で4年振りのボリウッド・カムバックとなる。監督は「Main Madhuri Banna Chahti Hoon」(2003年)や「Main Patni Aur Woh」(2005年)のチャンダン・アローラー。興行的には必ずしも成功していないが、しっかりとした作品を作る監督である。「Striker」は、1980年代からムンバイー暴動が発生した1992年までの時代を背景に、キャロムの名人を主人公にした、実話に基づいた作品である。ちなみにキャロムとは、ビリヤードに似たルールのボードゲームであり、インドでは非常にポピュラーである。



題名:Striker
読み:ストライカー
意味:ストライカー(キャロム用語)
邦題:ストライカー

監督:チャンダン・アローラー
制作:チャンダン・アローラー
音楽:ヴィシャール・バールドワージ、ユヴァン・シャンカル・ラージャー、アミト・トリヴェーディー、ブラーゼ、シャイレーンドラ・バールヴェー、スワーナンド・キルキレー
歌詞:ニティン・ラーイクワール、ブラーゼ、プラシャーント・インゴーレー、ジーテーンドラ・ジョーシー、スワーナンド・キルキレー、グルザール
出演:スィッダールト、アーディティヤ・パンチョーリー、アンクル・ヴィカル、アヌパム・ケール、ニコレット・バード、パドマプリヤー、スィーマー・ビシュワースなど
備考:サティヤム・ネルー・プレイスで鑑賞。

アーディティヤ・パンチョーリー(左上)とスィッダールト(右上、下)

あらすじ
 ムンバイーのスラム街マールワーニーで育ったスーリヤ(スィッダールト)は、幼い頃から兄にキャロムを習い、才能を開花させていた。それが実を結び、ジュニア・チャンピオンにも輝いた。だが、血気盛んだったスーリヤは、幼少時からマールワーニーを支配するマフィアのドン、ジャリール(アーディティヤ・パンチョーリー)と何かと衝突していた。

 成長したスーリヤはドバイへ出稼ぎに行くために動いていたが、エージェントに騙されて今までの稼ぎを失ってしまう。悪友のザイド(アンクル・ヴィカル)に勧められ、ジャリールの主催する賭博キャロムに挑戦する。キャロムをやめて数年経っていたが、腕は鈍っておらず、勝負に勝って大金を得る。以後、スーリヤは再びキャロムに手を出すようになる。

 スーリヤの本業は宝石商間の運び屋であったが、ある日大金を運んでいるときにスリに遭い、損失を補填しなければならなくなってしまう。急いで大金を作る必要に迫られたスーリヤはジャリールの主催する賭博で、20万ルピーを賭けてキャロムをすることになる。しかし、賭博キャロムボードをしていることが家族にばれてしまったため、スーリヤは家出をせざるをえなくなり、マドゥ(パドマプリヤー)という若い女性の経営する酒場に厄介になる。

 スーリヤは特訓を積んだが、ジャリールが用意したプレーヤーとの勝負で負けそうになる。そこでスーリヤとザイドは勝負を投げ出して逃走する。その途中でザイドとはぐれてしまったスーリヤは、マドゥの酒場に隠れ住む。しばらくして、ザイドがジャリールの一味に捕まって大怪我を負わされたことを知る。病院に駆けつけたが既に危篤状態で、間もなくしてザイドは死んでしまう。

 マドゥと結婚したスーリヤは、しばらくマールワーニーを離れて堅気の仕事に就いていた。キャロムは純粋にスポーツとして続けていた。ところが1992年12月、バーブリー・モスク破壊事件の余波によりムンバイーで暴動が発生し、マールワーニー地区も暴動の現場となった。スーリヤは、ファールーキー警部補(アヌパム・ケール)指揮する警察の包囲網や暴徒の間をかいくぐってマールワーニーの自宅へ辿り着く。そこには、姉のデーヴィーとその夫の遺体が横たわっていた。怒りに我を失ったスーリヤは姉たちを殺した犯人を捜して近所を駆け巡るが、その中で偶然、ジャリールが隠れている場所を発見する。

 そこで様子をうかがっていると、暴動はヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間で自然に起こったものではなく、ジャリールが裏から扇動していたものだったことが発覚する。スーリヤは暗闇に紛れてジャリールとその手下を一網打尽にする。

 実話に基づいていたためだろうか、ストーリーが集約していなかった。例えば主人公スーリヤは隣に引っ越して来たイスラーム教徒の家族の娘ヌーリー(ニコレット・バード)に恋をし、デートもするが、それが彼女の家族に知れてしまい、彼らは一夜の内にどこかへ引っ越してしまう。これが後に何らかの伏線になるかと思いきや、特に何にもなかった。主人公はキャロムの名人という設定であり、ストーリー中でもキャロムをプレイするシーンが何度も出て来るが、特にキャロムの勝負で緊迫感を出すような作りにはなっていなかった。おかげでキャロムのルールを知らなくても楽しめることには楽しめるが、キャロムを前面に押し出した作品としての味気はない。さらに、クライマックスは結局ムンバイー暴動であり、キャロムとは全く関係なかった。終盤で、20万ルピーを賭けた勝負で負けそうになり逃げ出したため、スーリヤとザイドはジャリールから命を狙われることになる。ザイドは殺されてしまうものの、スーリヤの方は不思議なくらい足が付かず、遂に捕まることはなかったし、スーリヤもかなり暢気に暮らしていた。映画のストーリーというのは通常、原因があって結果があるものだが、「Striker」では様々な要素が結果なしにバラバラに散りばめられている感じがして、脚本のまずさを感じた。

 主人公の人物設定や行動も一定しない。スィッダールト自身が知的な顔つきをしているため、沈着冷静な役柄なのかと思いきや、怒り狂って大暴れすることもあり、一体どんな人間なのか分からない。スーリヤが酒場の女主人マドゥをレイプするシーンまである。後にスーリヤは責任を取って彼女と結婚するのだが、それを差し引いても、主人公がここまで非道な行いを行うヒンディー語映画はあまり例がない。このため、感情移入がしにくかった。

 スィッダールトは今回ムンバイーの下層階級が使うタポーリー・バーシャーをわざわざ練習してこの映画に望んだようである。キャロムをプレイするシーンは、持ち前のリンとした迫力がうまく発揮されており、引き込まれるものがあった。しかし、基本的にスーリヤはもっとチンピラ風情のキャラであるはずで、知的な外見を持つスィッダールトはミスキャスティングに感じた。クナール・ケームー辺りが適任だったのではないだろうか?

 ただ、もしそれらの批判を好意的に解釈するとしたら、それは「Striker」の題名が示す通り、主人公を「ストライカー」に見立てて構成された映画とすることである。ストライカーとはキャロム用語でいわゆる「自分の玉」であり、ストライカーをはじいて他の駒を四隅の穴に落として行くのがキャロムの基本的な遊び方である。幼少時にスーリヤは兄から、「一度ストライカーに触れた駒にはずっと追いかけて行け」とキャロムの秘訣を教わる。スーリヤというストライカーに触れた駒とはつまりジャリールのことである。スーリヤは最後までジャリールと対決姿勢を崩さず、最後に彼を非道な方法で殺害する。また、ザイドが殺された後、堅気の商売に就いていた頃に、健全なキャロムの大会で彼は自分のストライカーを天秤にかけてそれが規定内か計っていた。それもスーリヤがアンダーワールドから足を洗ったことを象徴していたのだろう。スーリヤをキャロムのストライカーを見なすことで、この映画はかなり筋の通った作品に変身する。

 とは言え、スィッダールトのミスキャスティングは否定できない。むしろ主人公に比べて悪友ザイドは圧倒的にキャラが立っていたし、それを演じたアンクル・ヴィカルも演技力ある俳優だった。アンクルはいかにもずるそうな外見をしており、こいつは必ず何かをしでかすと予感させられ、そして案の定何かをしでかす。アンクルは「Slumdog Millinaire」(2008年)でマーマンを演じていた俳優である。そして悪役ジャリールを憎々しく演じたアーディティヤ・パンチョーリーも素晴らしかった。「Striker」はスィッダールトのボリウッド・カムバックばかりが取り沙汰されるが、アンクル・ヴィカルとアーディティヤ・パンチョーリーの2人の方にむしろ目が行ってしまう。他にアヌパム・ケールが出演していたが、彼の役にはまた人物設定に弱さがあり、いまいちであった。

 3人のヒロインがいたが、男中心の映画であり、それぞれ出番は限られていた。その中では、姉のデーヴィーを演じたヴィディヤー・マールヴァーデーがもっとも印象的であった。彼女は「Chak De India」(2007年)に出演していた、いわゆるチャク・デー・ガールズの1人である。

 映画中にいくつか挿入歌が入るのだが、それらの音楽や歌詞は複数の人々によって作られており、出来も様々である。中でも特筆すべきは、主演のスィッダールトが「Bombay Bombay」と「Haq Se」の2曲で歌を歌っていることである。スィッダールトはこの映画の音楽プロデュースも務めており、多才さをアピールしている。ただ、劇中では「Bombay Bombay」は使われていなかった。

 登場人物はほとんどムンバイーのスラム街の住人であるため、台詞はムンバイーの下層階級の人々が使うタポーリー・バーシャー(ムンバイヤー・ヒンディー)となっている。独特の言葉遣いをするため、慣れていない人には聴き取りづらいだろう。

 「Strike」は、キャロムとムンバイー暴動という2つの要素を軸にした、実話ベースの映画であるが、ストーリーにまとまりがなく、残念な作品になっている。スィッダールトのファンでなければ無理して見なくてもいい作品である。ただ、この映画はインド映画で初めて、YouTubeにて全編を公式配信という面白い試みに挑戦している(ただしインド以外の国において)。その結果がどうなるか現時点では分からないが、もしかしたら将来、記念碑的作品として記憶されることになるかもしれない。

2月11日(木) 2009年のボリウッド映画界を振り返る

 ヒンディー語映画界でもっとも権威のある映画賞であるフィルムフェア賞の2009年ノミニー(ノミネートされた作品や人物)が発表された。「これでインディア」では毎年、フィルムフェア賞ノミニーをもとにその年の映画界の動向を振り返っている。だが、今年はまず、ざっと個人的な所感を述べ、その後にノミネート作品を見て行こうと思う。

 2009年はヒンディー語映画界にとって当たり年でなかっただけでなく、むしろ試練の年となった。もっとも目立った事件は、映画プロデューサー・ディストリビューターとマルチプレックスとの間で興行収入を巡って起こった争いである。プロデューサー側は、マルチプレックス側への抗議を示すために、新作公開の無期限ストライキに踏み切った。このストライキのせいで、4月~6月にメジャーな作品はほとんど公開されなかった。近年稀に見る異常事態である。

 もっとも、この時期はクリケット国内リーグのインディアン・プレミア・リーグ(IPL)のシーズンで、インド人の関心が映画からクリケットに完全シフトしてしまう時期であるし、大学などの試験・受験期間とも重なっているため、毎年それほど多くの期待作は公開されない。それでも、ストライキという形で多くの作品の公開がストップしてしまった影響は少なくなく、映画の公開スケジュールは大きくずれ込むことになった。よって、元々2009年内に公開予定だったものの、このストライキの影響で2010年に回されてしまったものがいくつかある。

 それだけでなく、ストライキ明けには新型インフルエンザがインドで猛威を振るい始めた。人々が不特定多数と接触する映画館を敬遠し出し、映画館が閉鎖されるところも出て来た。

 3ヶ月の空白期間は、映画制作者、映画館、そして観客の三者にとって大きな痛手だったし、新型インフルエンザの流行は全くの不幸と言っていいのだが、それにも増して2009年のヒンディー語映画業界を盛り下げたのが、大予算型映画の失敗が続いたことである。多額の予算が投じられて制作された作品は、実際に投資した人々の財政だけでなく、映画業界全体の雰囲気を左右する。あまりに大作の失敗が続くと、冒険的な映画への意気込みが失われ、その悲観的な雰囲気は以後数年に渡って業界に悪影響を及ぼし続ける。

 2009年の失敗作のリストは長いが、その大きな原因となったのが、アクシャイ・クマールの低迷である。アクシャイ・クマールは2007年に「Namastey London」、「Heyy Babyy」、「Bhool Bhulaiyaa」、「Welcome」と立て続けにヒットを飛ばし、2008年も引き続き「Singh Is Kinng」という大ヒット作を生んで、一躍ボリウッドのトップスターとしてもてはやされるようになった男優である。ところが2009年の彼は全く鳴かず飛ばずであった。まずは1月に公開された「Chandni Chowk to China」が大コケ。インド映画で初めて中国ロケが行われたこの作品は、ハリウッドのワーナー・ブラザースが共同プロデュースしていたこともあり、日本でも「チャンドニー・チョーク・トゥ・チャイナ」という邦題でインド公開から数ヶ月後に一般公開された。このような特別扱いをされたインド映画は他にない。だが、失敗作は失敗作である。この映画がアクシャイ・クマール凋落の前兆であった。続けて4月公開の主演作「8x10 Tasveer」も沈んだ。カリーナー・カプールと共演した「Kambakkht Ishq」は、長いストライキが明けた7月に公開されたことも助けとなり、興行的には成功したのだが、内容の馬鹿馬鹿しさから、批評家や真面目な映画愛好家たちからは酷評された。そしてインド映画界で過去最大の予算を投じられたとされる「Blue」が10月のディーワーリー週に鳴り物入りで公開されたのだが、これもまさかの大失敗に終わり、アクシャイ・クマールの神話は完全に崩壊した。ただ、11月に公開されたコメディー映画「De Dana Dan」」は、カトリーナ・カイフとのゴールデン・コンビ復活が功を奏したのか、上々の成績を残しており、今後の復活が望まれる。

 他にも、期待されていながら失敗に終わった作品は多い。特に上半期は酷かった。豪華スターキャストの「Luck By Chance」、シャールク・カーン主演の「Billu」、ラーケーシュ・オームプラカーシュ・メヘラー監督の「Delhi-6」など、それぞれ見所のある映画が公開された。どれもヒットの可能性はあったし、そう期待もされていたのだが、批評家の評価はともかく、興行的には全てフロップとなった。他にも、ニール・ニティン・ムケーシュとビパーシャー・バスの共演作「Aa Dekhen Zara」、サンジャイ・ダット主演のハードボイルド映画「Luck」、ラーニー・ムカルジーが男装したクリケット映画「Dil Bole Hadippa!」、サルマーン・カーンとカリーナー・カプールの共演作「Main Aurr Mrs Khanna」、サルマーン・カーンとアジャイ・デーヴガンの共演作「London Dreams」、アミターブ・バッチャンが魔法のランプのジンになった「Aladin」、マドゥル・バンダールカル監督の新作「Jail」、イムラーン・ハーシュミーとソーハー・アリー・カーンの共演作「Tum Mile」、実生活のカップルであるサイフ・アリー・カーンとカリーナー・カプールが共演した「Kurbaan」など、話題性がありながら失敗に終わった作品は数知れない。このような状態なので、元々期待されていなかった作品はほとんどダメだった。例えば、デビュー以来ヒット作に恵まれないハルマン・バウェージャーの主演作「Victory」と「What's Your Raashee?」はどちらも沈没。俳優としての成功はほど遠いプレイバック・シンガーのヒメーシュ・レーシャミヤー主演「Radio」も撃沈。当たり外れが大きく、最近は外れの度合いが大きいラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督の「Agyaat」も、観客をなめきったエンディングが批判を浴びるまでも辿り着かず、最初から空振りに終わった。話題作が軒並み失敗に終わり、元々期待されていなかった作品まで沈んだとなれば、暗黒時代の到来を叫びたくなる。

 しかし、それでも2009年には今までのボリウッドの枠組みを壊すような野心的作品がいくつも公開され、徐々にだが確実にヒンディー語映画界が前進していることも感じさせられた。今年最初のヒットとなったのは、インド製ホラー映画の先駆け「Raaz」(2002年)の続編で1月に公開された「Raaz - The Mystery Continues」であるが、むしろ巷の話題をかっさらったのは、2月に公開されたアヌラーグ・カシヤプ監督の「Dev. D」である。古典的人気小説「デーヴダース」を現代風に翻案した作品で、ダニー・ボイル直伝の映像効果と破天荒な音楽によって、身勝手な恋愛とドラッグの乱用によって堕落していく主人公の姿を赤裸々に描き出している。

 新感覚のロマンス映画を撮らせたら右の出る者のいないイムティヤーズ・アリー監督の最新作「Love Aaj Kal」もヒットとなった。現在と過去の恋愛を対比しながら描く斬新な手法を用いたことも特筆すべきだが、何よりこの作品はボリウッドのロマンス映画の不文律である結婚の神聖性を壊したことで注目すべきである。それは言い換えれば、恋愛相手と結婚相手が異なる場合、結婚前の恋愛は恋愛が勝ち、結婚後の恋愛は結婚が勝つというシンプルな法則であるが、「Love Aaj Kal」ではそれが完全に破られた。カラン・ジャウハル監督の「Kabhi Alvida Naa Kehna」がその先駆けとなったものの、インド国内ではヒットせず、その実験は失敗に終わっていた。「Love Aaj Kal」は文句なくヒットとなったため、この映画こそが新時代の扉を開いたと言える。

 ヴィシャール・バールドワージ監督の「Kaminey」も、娯楽映画の土台に立脚しながら、ぶっ飛んだ人物設定と洗練された脚本と実験的な演出で彩られた犯罪映画であり、主演のシャーヒド・カプールやプリヤンカー・チョープラーの俳優としての成熟も促した。他にも、2009年には、「Barah Anna」、「99」、「Sankat City」のように、小品ながらも脚本主体で完成度の高い映画が2009年に多く公開された。

 アミターブ・バッチャンとアビシェーク・バッチャンが親子逆転共演という世界でも稀な大道芸に挑戦したのが「Paa」である。プロジェリア症候群という難病をテーマにしているが、元々の発想源は上記の通り親子逆転共演にあり、ボリウッドでもユニークなアイデアが実行され始めたことを示す好例になっている。「Paa」は興行的にも批評的にも成功した。

 他に、伝統的な娯楽映画のフォーマットで作られ、観客に受け容れられた作品もいくつかある。サルマーン・カーン主演の「Wanted」は南インドのヒット映画の翻案で、単純なアクション映画であるのだが、サルマーンの根強い人気に加えて、こういう分かりやすく爽快な映画を求める層がまだ多数存在するために、大ヒットとなった。ランビール・カプールとカトリーナ・カイフ主演の「Ajab Prem Ki Ghazab Kahani」もコテコテのラブコメ映画だったのだが、ラージクマール・サントーシー監督の熟練のハンドリングによって、優れた娯楽作品となっており、やはり大ヒットとなった。ランビール・カプールは2009年に作品に恵まれ、他の主演作「Wake Up Sid」もヒットとなった。「Wake Up Sid」は、インド映画らしくないユニバーサルな設定ながら、ムンバイーの美しさやモンスーンの叙情というインドらしい情感を訴えることにも成功した稀なロマンス映画である。彼のもう1本の主演作「Rocket Singh - Salesman of the Year」については後述する。

 しかし、2009年のボリウッド映画の中から1本だけを選んで語るとしたら、年末に公開された「3 Idiots」しかない。2009年のボリウッドの不況を単身でひっくり返してしまったほどの突然変異的特大ヒット作である。「Munna Bhai」シリーズのラージクマール・ヒーラーニー監督とミスター・パーフェクトの異名を持つアーミル・カーンが揃ったことで大ヒットはある程度予想されていたのだが、インド映画史に残るほどの大ヒットになるまで化けるとは誰も想像していなかった。「映画の基本は観客を楽しませること」という鉄則を貫きながら、社会的なメッセージを巧みに盛り込んでいく手法はさすがであり、この映画の成功によって、ボリウッドが目指すべき方向性が改めて明確になった。同時期に全世界で公開されて超大ヒットとなっているジェームズ・キャメロン監督の「アバター」が3D映画という新ジャンルを切り開き、技術の進歩を誇示することでハリウッドの行く先を暗示したのと好対照であった。

 2009年のインド映画業界のニュースとしては少し外れるのだが、ムンバイーを舞台に撮影された「Slumdog Millionaire」(2008年)が2009年にアカデミー賞を受賞し、ダニー・ボイル監督と共に、この映画に関わったインド人が世界的な知名度を得るに至ったことも特筆すべきである。

 以上は主に映画のヒット・フロップの概観であったが、2009年公開作品に見られる一定の傾向にも触れておこうと思う。まず、前年までの傾向を踏襲し、引き続きテロやコミュニティー調和を主題にした映画が作られ続けていることが挙げられる。「New York」と「Kurbaan」は、911事件後のイスラーム教徒の受難と、その反発によるさらなる報復的テロという悪循環が描かれていた。偶然にもこれらの映画はとても似たプロットだったのだが、「New York」の方が先に公開された上に、より明るい雰囲気となっていたため、興行的にも成功した。「New York」でのカトリーナ・カイフの演技も高い評価を受けた。911事件ではないが、コミュナルな事件が人々に与える影響という点では、ナンディター・ダース初監督作品「Firaaq」も素晴らしかった。これは、グジャラート暴動後、ヒンドゥー教ととイスラーム教徒間で疑心暗鬼渦巻くアハマダーバードを舞台にした映画である。テロや暴動が原因ではないが、カーラー・バンダルという滑稽な事件をきっかけにヒンドゥー教とイスラーム教の融和がもろくも崩れ去って行く様子を描いた「Delhi-6」もよく出来た作品だったのだが、アップダウンに乏しかったためか迫力に欠け、ヒットはしなかった。

 2009年のヒット作で共通して目立ったのは、根が正直な主人公がとことん正直さを貫き通して最終的に何らかの成功を掴むというプロットである。僕はそれをマハートマー・ガーンディーの哲学にちなんで勝手にサティヤーグラハ(真理の主張)映画と呼んでいる。「Ajab Prem Ki Ghazab Kahani」、「3 Idiots」などにその傾向が見られたが、もっとも顕著だったのは「Rocket Singh - Salesman of the Year」であった。さらに拡大して考えれば、それらの映画で訴えられているのは、急速に発展するインド経済や変貌するインド社会への戸惑いであり、人間性や道徳を失ってまでの発展は必要ないと自制を求めるメッセージである。

 未来や過去を覗くことが出来るという、SF映画にジャンル分けされる種類の映画もなぜか2009年には目立った。「Aa Dekhen Zara」、「8x10 Tasveer」、「Kal Kissne Dekha」などである。また、「ハリー・ポッター」を意識したような魔法映画「Aladin」も公開された。これらは、ハリウッドが得意とするジャンルの映画をインドでも作ろうとする挑戦と受け止めていいだろう。しかし、ハリウッド映画とモロに比較される現状では、インド人監督によるそれらの映画に見所は少ない。どれもヒットはしなかった。インドの娯楽映画のフォーマットの中でどれだけハリウッド的ジャンルを咀嚼できるかが腕の見せ所であるが、それをうまく達成できたのは、「Koi... Mil Gaya」(2003年)や「Krrish」(2006年)のラーケーシュ・ローシャン監督ぐらいである。また、海洋映画というユニークなジャンルに挑戦した「Blue」も大撃沈した。

 ここで2009年の映画音楽も振り返って見よう。映画本体に比べて音楽の方が元気が良く、名曲が多かった。アルバム別で言えば、ARレヘマーンの「Delhi-6」が珠玉の出来である。ARレヘマーンは「Slumdog Millionaire」でアカデミー賞からグラミー賞まで総なめしており、今やすっかり世界的な音楽家になってしまった。映画は滑ってしまったが、「Blue」のサントラCDも遊泳感が溢れており素晴らしい。ARレヘマーンの強力なライバルになり得るのが奇才アミト・トリヴェーディーである。彼がやりたいことを自由にやった「Dev. D」は、ユニークな楽曲の宝石箱となっている。明るい娯楽映画と相性が良いのはプリータム。彼の「Love Aaj Kal」や「Ajab Prem Ki Ghazab Kahani」は盛り上がれる曲が多い。

 曲別で見て行くと、「Raaz - The Mystery Continues」からはシャリーブ・トーシーの「Maahi」やラージュー・スィンの「Soniyo」、「Delhi-6」からは「Masakali」、「Arziyan」、「Genda Phool」など、「Dev. D」からは「Emosanal Attyachar」、アヌ・マリクの「Kambakkht Ishq」からは「Om Mangalam」、「Love Aaj Kal」からは「Twist」、「Chor Bazaari」、「Aahun Aahun」、「Ajj Din Chadheya」など、ヴィシャール・バールドワージの「Kaminey」からは「Dhan Te Nan」、シャンカル・エヘサーン・ロイの「Wake Up Sid」からは「Iktara」、「Blue」からは「Chiggy Wiggy」、「Aaj Dil」、「Fiqrana」など、「Ajab Prem Ki Ghazab Kahani」からは「Main Tera Dhadkan Teri」、「Tun Jaane Na」、「Tere Hone Laga Hoon」など、「3 Idiots」からは「Give Me Some Sunshine」などが良かった。

 さて、フィルムフェア賞をざっと見ていこう。

■作品賞(Best Film)
  • 3 Idiots
  • Dev. D
  • Kaminey
  • Love Aaj Kal
  • Paa
  • Wake Up Sid
■監督賞(Best Director)
  • アヌラーグ・カシヤプ(Dev.D)
  • アヤーン・ムカルジー(Wake Up Sid)
  • イムティヤーズ・アリー(Love Aaj Kal)
  • Rバールキー(Paa)
  • ラージクマール・ヒーラーニー(3 Idiots)
  • ヴィシャール・バールドワージ(Kaminey)
■主演男優賞(Best Actor in a Leading Role Male)
  • アーミル・カーン(3 Idiots)
  • アミターブ・バッチャン(Paa)
  • ランビール・カプール(Ajab Prem Ki Ghazab Kahani)
  • ランビール・カプール(Wake Up Sid)
  • サイフ・アリー・カーン(Love Aaj Kal)
  • シャーヒド・カプール(Kaminey)
■主演女優賞(Best Actor in a Leading Role Female)
  • ディーピカー・パードゥコーン(Love Aaj Kal)
  • カトリーナ・カイフ(New York)
  • カリーナー・カプール(3 Idiots)
  • カリーナー・カプール(Kurbaan)
  • プリヤンカー・チョープラー(Kaminey)
  • ヴィディヤー・バーラン(Paa)
■助演男優賞(Best Actor in a Supporting Role Male)
  • アモーレー・グプター(Kaminey)
  • ボーマン・イーラーニー(3 Idiots)
  • ニール・ニティン・ムケーシュ(New York)
  • Rマーダヴァン(3 Idiots)
  • リシ・カプール(Luck By Chance)
  • シャルマン・ジョーシー(3 Idiots)
■助演女優賞(Best Actor in a Supporting Role Female)
  • アルンダティ・ナーグ(Paa)
  • ディヴィヤー・ダッター(Delhi-6)
  • ディンプル・カパーリヤー(Lucky By Chance)
  • カールキー・ケクラン(Dev. D)
  • シャハーナー・ゴースワーミー(Firaaq)
  • スプリヤー・パータク(Wake Up Sid)
■音楽賞(Best Music)
  • ARレヘマーン(Delhi-6)
  • アミト・トリヴェーディー(Dev. D)
  • プリータム(Ajab Prem Ki Ghazab Kahani)
  • プリータム(Love Aaj Kal)
  • シャンカル・エヘサーン・ロイ(Wake Up Sid)
  • ヴィシャール・バールドワージ(Kaminey)
■作詞賞(Best Lyrics)
  • グルザール(Kaminey - Kaminey)
  • グルザール(Dhan Te Nan - Kaminey)
  • イルシャード・カーミル(Ajj Din Chadheya - Love Aaj Kal)
  • ジャーヴェード・アクタル(Iktara - Wake Up Sid)
  • プラスーン・ジョーシー(Masakai - Delhi-6)
  • プラスーン・ジョーシー(Rehna Tu - Delhi-6)
■男性プレイバックシンガー賞(Best Playback Singer Male)
  • アーティフ・アスラム(Tu Jaane Na - Ajab Prem Ki Ghazab Kahani)
  • ジャーヴェード・アリー(Arziyan - Delhi-6)
  • モーヒト・チャウハーン(Masakali - Delhi-6)
  • ラーハト・ファテ・アリー・ハーン(Ajj Din Chadheya - Love Aaj Kal)
  • ソーヌー・ニガム&サリーム・マーチャント(Shukran Allah - Kurbaan)
  • スクヴィンダル・スィン&ヴィシャール・ダードラーニー(Dhan Te Nan - Kaminey)
■女性プレイバックシンガー賞(Best Playback Singer Female)
  • アリーシャー・チノイ(Tera Hone Laga - Ajab Prem Ki Ghazab Kahani)
  • カヴィター・セート(Iktara - Wake Up Sid)
  • レーカー・バールドワージ(Genda Phool - Delhi-6)
  • シルパー・ラーオ(Mudi Mudi - Paa)
  • シュレーヤー・ゴーシャール(Zoobi Doobi - 3 Idiots)
  • スニディ・チャウハーン(Chor Bazaari - Love Aaj Kal)
 僭越ながら受賞者・受賞作を予想をしてみると、まず「3 Idiots」が間違いなく作品賞か監督賞を取るだろう。主演男優賞では2作品でランビール・カプールがノミネートされているが、アミターブ・バッチャンが受賞する可能性が高い。主演女優賞はカリーナー・カプールが2作品でノミネートされているが、カトリーナ・カイフ、プリヤンカー・チョープラー、ヴィディヤー・バーランの3人の方がチャンスがある。助演男優賞・助演女優賞の方は多少ノミニーに疑問を感じるために予想はしない。音楽賞は「Delhi-6」のARレヘマーン、作詞賞は同じくプラスーン・ジョーシーで決まりだろう。男性プレイバックシンガー賞は「Dhan Te Nan」のスクヴィンダル・スィン&ヴィシャール・ダードラーニー、女性プレイバックシンガー賞は「Genda Phool」のレーカー・バールドワージが有力だと思われる(受賞作はコチラ)。

 ところで、ハリウッドには失敗作や駄目なパフォーマンスをした人のためのゴールデンラズベリー賞が存在するが、昨年からボリウッドでもゴールデンケーラー(黄金のバナナ)賞という同様のコンセプトの映画賞が始まった。そのウェブサイトによると、2009年のノミニーは以下の通りである。

■最悪作品賞(Worst Film)
  • Chandni Chowk to China
  • Blue
  • New York
  • Kambakkht Ishq
  • What's Your Raashee?
■最悪監督賞(Worst Director)
  • ニキル・アードヴァーニー(Chandni Chowk to China)
  • アーシュトーシュ・ゴーワーリカル(What's Your Raashee?)
  • マドゥル・バンダールカル(Jail)
  • ローヒト・シェッティー(All The Best)
  • サッビール・カーン(Kambakkht Ishq)
■最悪男優賞(Worst Actor Male)
  • ヒメーシュ・レーシャミヤー(Radio)
  • ジョン・アブラハム(New York)
  • イムラーン・ハーシュミー(Tum Mile)
  • イムラーン・ハーシュミー(Raaz - The Mystery Continues)
  • サルマーン・カーン(Wanted)
  • ハルマン・バウェージャー(What's Your Raashee?)
■最悪女優賞(Worst Actor Female)
  • プリヤンカー・チョープラー(What's Your Raashee?)
  • カンガナー・ラーナーウト(Raaz - The Mystery Continues)
  • カリーナー・カプール(Kambakkht Ishq)
  • ディーピカー・パードゥコーン(Chandni Chowk to China)
  • ラーニー・ムカルジー(Dil Bole Hadippa!)
■最悪助演男優賞(Worst Supporting Actor Male)
  • アーフターブ・シヴダーサーニー(Kambakkht Ishq)
  • アディヤヤン・スマン(Raaz - The Mystery Continues)
  • ヴィヴェーク・オベロイ(Kurbaan)
  • リティク・ローシャン(Luck By Chance)
  • ランヴィール・シャウリー(Chandni Chowk to China)
■最悪助演女優賞(Worst Supporting Actor Female)
  • アムリター・アローラー(Kambakkht Ishq)
  • ディーヤー・ミルザー(Kurbaan)
  • ディーピカー・パードゥコーン(Chandni Chowk to China)
  • カリーナー・カプール、ディーピカー・パードゥコーン、プリヤンカー・チョープラー(Billu)
  • モナ・スィン(3 Idiots)
■最悪新人男優賞(Worst Debutant Male)
  • ジャッキー・バーグナーニー(Kal Kissne Dekha)
  • アビジート・サーワント(Lottery)
  • ランヴィジャイ・スィン(Toss & LD)
  • パルザーン・ダストゥール(Sikandar)
  • ナスィール・カーン(Shadow)
■最悪新人女優賞(Worst Debutant Female)
  • ジゼル・モンテイロ(Love Aaj Kal)
  • アームナー・シャリーフ(Aloo Chaat)
  • シュルティー・ハーサン(Luck)
  • ジャクリン・フェルナンデス(Alladin)
  • ヴァイシャリー・デーサーイー(Kal Kissne Dekha)
■オリジナルストーリー賞(Most Original Story)
  • Daddy Cool
  • Love Aaj Kal
  • Dhoondte Reh Jaoge
  • Aao Wish Kare
  • Dil Bole Hadippa!
■頭がおかしくなっちまったで賞(Baawara Ho Gaya Hai Ke Award)
  • アクシャイ・クマール&ニキル・アードヴァーニー(Chandni Chowk to China)
  • シルベスター・スタローン&デニス・リチャーズ(Kambakkht Ishq)
  • ナーゲーシュ・ククヌール(8x10 Tasveer)
  • アーシュトーシュ・ゴーワーリカル&プリヤンカー・チョープラー(What's Your Raashee?)
  • シャールク・カーン(Billu)
■最悪作詞賞(Most Atrocious Lyrics Award)
  • サミール(Love Me, Love Me, Love Me - Wanted)
  • アッバース・タイヤワーラー(Chiggy Wiggy - Blue)
  • アーシーシュ・パンディト&マユール・プリー(Love Mera Hit Hit - Billu)
  • アンヴィター・ダット・グプターニー(Bebo - Kambakkht Ishq)
  • ニーレーシュ・ミシュラー(Hey Sexy Mama - 13-B)
■最悪楽曲賞(Most Irritating Song of the Year Award)
  • Love Mera Hit Hit - Billu
  • Tu Paisa Paisa Karti Hai - De Dana Dan
  • Tainu Lai Ke Jaana - Jai Veeru
  • Om Mangalam - Kambakkht Ishq
  • Tera Hone Laga Hoon - Ajab Prem Ki Ghazab Kahani
■いつ公開されたので賞(When Did This Come Out Award)
  • Vaada Raha
  • Baabarr
  • Lottery
  • Fox
  • World Cup 2011
  • Teree Sang
  • Ek- The Power of One
  • Shortkut
■最悪ペア賞(Worst Pair)
  • アクシャイ・クマール&ディーピカー・パードゥコーン(Chandni Chowk to China)
  • サンジャイ・ダット&ラーラー・ダッター(Blue)
  • ラーニー・ムカルジー&シャーヒド・カプール(Dil Bole Hadippa!)
  • サルマーン・カーン&アーイシャー・ターキヤー(Wanted)
  • アビシェーク&アミターブ・バッチャン(Paa)
 他にゴールデンケーラー賞では特別賞(Special Awards)として以下の賞を用意している。ノミニーは発表されていない。
  • シリアスな問題をまずく映画化した作品のための「Lajja」賞(Lajja Award for Worst Treatment of a Serious Issue)
  • まずいアクセントのためのダーラー・スィン賞(Dara Singh Award for Worst Accent)
  • 批評家賞(The Critic's Award)
  • 感情的恐喝作品のための「Black」賞(Black Award for Emotional Blackmail)
  • 無神経賞(Insensitivity Award)
  • もういい加減にしてくれ賞(Bas Kijiye Bahut Ho Gaya Award)
 駄作を挙げていったらボリウッドは底なしなので、こういう賞の方が選考が難しそうだ・・・。

 最後になったが、毎年恒例のアルカカット賞を発表しよう。アルカカット賞とは、あまりヒットしなかったり話題にもならなかったが、個人的にとても素晴らしかったと感じた作品に与えられる賞である。2009年のアルカカット賞は「Rocket Singh - Salesman of the Year」に決定!地味だが非常に野心的な作品である。

 なお、それぞれの映画の詳しい解説や批評などは、映画評早見表を参考に、各記事で読んでいただきたい。「これでインディア」では文章中の映画名にいちいちリンクを貼っていない。

2月12日(金) My Name Is Khan

 1998年に「Kuch Kuch Hota Hai」で映画監督デビューして以来、カラン・ジャウハルは常にボリウッド娯楽映画の代表であり、業界のご意見番であり、話題の中心だった。彼の監督作品を改めて振り返ってみると、まずはその露出度に比べて作品数が少ないことに驚く。「Kuch Kuch Hota Hai」の後は、「Kabhi Khushi Kabhie Gham」(2001年)と「Kabhi Alvida Naa Kehna」(2006年)しかない。これほど寡作にも関わらず彼の名前が常にボリウッドにくっついて来るのは、まずは彼自身の監督作に加えて、プロデュース作品にも彼の色がよく出ているからであろう。「Kal Ho Naa Ho」(2003年)や「Dostana」(2008年)などは、彼のプロデュース作品であって監督作でないにも関わらず、「カラン・ジャウハル作品」として一般に認知されている。また、テレビなど映画以外のメディアに積極的に登場していることも、常に業界の中心にいるイメージの形成に役立っていると思われる。そして何より、「カラン・ジャウハル」というブランド価値がいつの間にかボリウッドの中に出来ていることが、彼のそれらのイメージを強力に後押ししている。ボリウッドの映画人は、カラン・ジャウハルの映画に出演・参加したことのある人とそれ以外に分かれると言っていい。前者は一種のステータスであり、限られたメンバーによるエリート・サークルになっている。俳優で言えば、シャールク・カーン、リティク・ローシャン、サイフ・アリー・カーン、アビシェーク・バッチャン、カージョール、ラーニー・ムカルジー、プリーティ・ズィンター、カリーナー・カプールなどがカラン・サークルの一員であり、皆過去10年以上Aクラスに居座っている面々である。

 いかにも成功の絶頂にいるように見えるカラン・ジャウハルだが、実はかなり崖っぷちに立たされているのではとの見方もある。なぜなら前作「Kabhi Alvida Naa Kehna」がインド本国で振るわなかったからである。不倫の果ての結婚という、インドでは道徳的に受け容れがたいテーマを選んだことがその大きな原因とされている。ただでさえ寡作であるため、1作でもこけたらカラン・マジックの回復には時間がかかる。幸い、「Kabhi Alvida Naa Kehna」は海外市場で受け容れられ、全体としてはヒットということになったため、カランの面目は保たれた。しかし、これで次回作はさらに難しくなった。

 そして本日、4年振りの監督作「My Name Is Khan」が公開となった。

 カラン・ジャウハルの作品は、基本的に娯楽映画でありながら、デビュー作「Kuch Kuch Hota Hai」の頃から死のモチーフが漂うシリアスな要素を含んだものが多かったのだが、最新作「My Name Is Khan」は、911事件後のイスラーム教徒コミュニティーの問題という、今までとは完全に方針転換したセンシティブなテーマの作品である。それはさらなる進化を求める監督のただならぬ意気込みの表れでもあろうが、それを知ったときには、どこか一足飛びしたような危うさをまず感じた。それは、セックスシンボルとして人気を誇って来た女優が急に演技派ぶり始めたのを見たときのような感覚であった。さらに、シャールク・カーンとカージョールを主演に据えたところに、監督の自信のなさを直感した。シャールク・カーンはカラン・ジャウハル作品の常連であり、依然としてトップ男優であり、今回も主演に選ばれたことは別段不思議ではない。しかしカージョールは?最近多少スクリーンに戻って来ているが、一旦は引退した女優であり、彼女をわざわざ引っ張り出す必要があったのか?確かにカラン、シャールク、カージョールのトリオは業界内で「大ヒットの方程式」と考えられており、この3人が揃った映画は軒並み大ヒットを飛ばして来た。しかし、せっかく従来のカラン映画からガラリと変わったテーマの映画に取り組んでいるのに、こういう古いジンクスに依存するのはどうだろうか?

 さらに悪いことに、911事件後のイスラーム教徒コミュニティーの受難をテーマにしたヒンディー語映画は既にいくつも作られており、2009年だけでも「New York」と「Kurbaan」がある。「Kurbaan」はカラン・ジャウハル自身がプロデュースとストーリーを担当した作品である。つまり、既にこのテーマに目新しさはない。この期に及んでどんな映画を作りたいのだろうか?そういう疑問を感じずにはいられなかった。そして、「My Name Is Khan」のサントラCDを購入した際、シャールク・カーン演じる主人公が、アスペルガー症候群という「知的障害のない自閉症」に罹った人物であることが分かった。何らかの難病に罹った人物を主人公に据えたお涙頂戴映画というのは、安易に感動作になってしまう上に、映画賞狙いという世知辛い魂胆が見え見えであるため、必要以上に高く評価しがたい。ボリウッドでも、「Black」(2005年)、「Iqbal」(2006年)、「Taare Zameen Par」(2007年)、「Ghajini」(2008年)、「Paa」(2009年)など、何らかの障害や難病に冒された主人公の映画は多く、これらは興行的にも批評的にも成功している。この点でもカラン・ジャウハルは安易な方向へ逃げているのではないかと不審に感じた。

 以上のような理由から、「My Name Is Khan」の出来には懐疑的で、大きな期待は抱いていなかった。しかし、カラン、カージョール、シャールクのトリオが揃ったこの作品への世間の期待は高く、2010年上半期のもっとも重要な映画になることは確実であった。

 「My Name Is Khan」を巡っては、公開前に主に2つの事件も起こった。ひとつめは2009年8月14日に米国の空港でシャールク・カーンが「カーン」という姓のせいでイスラーム教徒テロリストの嫌疑をかけられ、別室に連れられて厳重な取り調べを受けたことである。後述するが、「カーン」は南アジアでは典型的なイスラーム教徒の名字である。インドの国民的大スターが米国で屈辱的な扱いを受けたために多くのインド人はそれをインドの屈辱と捉え、米国の過敏で差別的な処遇に抗議の声を上げたのだが、これが「My Name Is Khan」とあまりにシンクロした事件であったため、映画のプロモーションの一環ではないかとの穿った見方も出て来た。

 もうひとつの事件は、現在進行中なのだが、マラーター・ヒンドゥー至上主義極右政党シヴ・セーナーによる「My Name Is Khan」上映禁止運動である。シャールク・カーンは、インドのクリケット国内リーグ、インディアン・プレミア・リーグ(IPL)の1チーム、コールカーター・ナイトライダースのオーナーを務めているのだが、今年開催される第3回IPLのための選手オークションで、様々な事情からパーキスターンの選手が1人も選ばれなかったことについて、「パーキスターンの選手を排除するのはよくない」と発言したことで、シヴ・セーナーの格好の標的となった。シヴ・セーナーはシャールク・カーンを「敵国パーキスターンの肩を持つ売国奴」と非難し、発言を撤回しなければムンバイーにおいて主演作「My Name Is Khan」の上映を許さないと脅迫した。実際に映画公開日が近付くにつれて、ムンバイーで同作品を上映予定の映画館がいくつも襲撃を受けた。国民会議派が率いるマハーラーシュトラ州政府は映画館のセキュリティーを強化し、州の威信を賭けて何が何でも「My Name Is Khan」の封切りを強行しようとしたが、シヴ・セーナーの脅迫に恐れをなし、「My Name Is Khan」の上映をとりあえず見送って様子見という映画館も出て来た。これはつまり、州政府が州民に信頼されていないということを意味する。州政府にとってこれは大きな屈辱となった。逆に、最近州議会選挙で国民会議派に惨敗したシヴ・セーナーにとっては、今でもムンバイーの真の支配者はシヴ・セーナーであることを市民に誇示する絶好のチャンスとなった。また、ボリウッドの並み居る映画人までもがシヴ・セーナーを恐れ、表立ってシャールク・カーンらを援護する人があまり現れていないことも問題となっている。

 最近、映画公開直前に論争が巻き起こるのは日常茶飯事となってしまっているが、「My Name Is Khan」が引き起こしている事件は映画業界のみならず、政治、外交、クリケットを巻き込んだかなり大規模なものとなっており、この点でも他の一般の映画とは一線を画している。デリーでもシヴ・セーナーのシンパによる散発的な暴力事件が起こったが、ほとんどの映画館では「My Name Is Khan」の封切りが無事に行われた。おかげで初日に予定通りこの話題作を鑑賞することが出来た。



題名:My Name Is Khan
読み:マイ・ネーム・イズ・カーン
意味:私の名前はカーン
邦題:マイ・ネーム・イズ・ハーン

監督:カラン・ジャウハル
制作:ヒールー・ヤシュ・ジャウハル、ガウリー・カーン
音楽:シャンカル・エヘサーン・ロイ
歌詞:ニランジャン・アイヤンガル
出演:シャールク・カーン、カージョール、ケイティー・キーン、ケントン・デューティー、ベニー・ニーヴス、クリストファーBダンカン、ジミー・シェールギル、ソーニヤー・ジャハーン、パルヴィーン・ダッバース、アルジュン・マートゥル、スガンダー・ガルグ、ザリーナー・ワハーブ、SMザヒール、アリフ・ザカーリヤー、ヴィナイ・パータク、スミート・ラーガヴァンなど
備考:サティヤム・ネルー・プレイスで鑑賞、満席。

カージョール(左)とシャールク・カーン(右)

あらすじ
 2007年から2008年にかけて、米国中を彷徨う男がいた。彼の名前はリズワーン・カーン(シャールク・カーン)。名前から分かるようにイスラーム教徒である。アスペルガー症候群であり、挙動不審ではあるが、知能は人一倍高かった。リズワーンの目的は米国大統領に会うことであった。リズワーンは大統領に、「私の名前はカーン。テロリストではありません」という謎のメッセージを伝えようとしていた。だが、大統領の警備は厳重で、なかなか大統領に会うことは出来なかった。

 リズワーンはムンバイーで生まれ育った。この頃からアスペルガー症候群を発症していたが、修理工だった死んだ父親の影響で、子供の頃から何でも手当たり次第に直してしまうという特技を持っており、母親(ザリーナー・ワハーブ)にも溺愛されていた。だが、弟のザーキルは、母親の愛情が兄だけに注がれていると感じ、ひねくれていた。18歳になったザーキル(ジミー・シェールギル)は米国に留学し、そのまま住み着いてしまった。彼はハスィーナー(ソーニヤー・ジャハーン)と結婚するが、一度もインドに戻ろうとしなかった。やがて母親も死んでしまい、リズワーンは弟を頼って米国へ渡ることになる。

 ザーキルはサンフランシスコで化粧品企業を経営していた。リズワーンはセールスマンの仕事を任される。たまたま立ち寄った美容院でリズワーンはマンディラー・ラートール(カージョール)というヒンドゥー教徒女性と出会う。マンディラーはインド生まれで19歳のときにお見合い結婚をし、米国に嫁いで来たが、夫は別の女性と逃げてしまった。マンディラーは息子のサミールを育てながら、美容師として働いていた。リズワーンはマンディラーに一目惚れしてしまい、以来彼女に猛烈アタックするようになる。最初は相手にしなかったマンディラーであるが、リズワーンの率直な性格に心を溶かされ、やがて彼と再婚することを決める。ただ、マンディラーがヒンドゥー教徒であったため、ザーキルは彼と絶縁する。

 リズワーンは、独立して自分の美容院を立ち上げたマンディラーを助け、サミールとも友情を育んでいた。隣人の白人一家とも家族ぐるみの付き合いで仲が良かった。だが、ここで911事件が起こる。全ては一変してしまった。イスラーム教徒に対する風当たりは日に日に増し、「カーン」の名字を持つサミールは学校でいじめられるようになった。サミールは隣の白人の子供と親友になっていたのだが、彼の父親がリポーターとして派遣されたアフガーニスターンで死んだことがきっかけで、サミールはその子からも縁を切られる。そして遂に上級生のいじめによってサミールは死んでしまう。

 マンディラーは、イスラーム教徒と結婚して「カーン」という名字になったがためにサミールが死んだと考え、リズワーンを家から追い出す。悲嘆と憤慨の中でマンディラーは彼に、「大統領に会って、私の名前はカーンです、テロリストではありません、と言って来るまで戻って来るな」と言ってしまう。その言葉を真に受けたリズワーンはそれ以来、大統領を求めて米国中を彷徨っていたのであった。

 放浪の途中、リズワーンはジョージア州のとある村に立ち寄り、温かい黒人家族のお世話になる。ロサンゼルスに到着したリズワーンは綿密に計画を立て、ロサンゼルス訪問予定の大統領に会おうとする。ところが、事前に立ち寄ったモスクで、過激な思想を持ったイスラーム教徒医師ファイサル・レヘマーン(アリフ・ザカーリヤー)が仲間と共にテロを計画しているところを目撃してしまう。リズワーンはFBIに電話をしてそのことを伝える。警備はさらに厳重になった。その中でリズワーンは大統領に向かって「私の名前はカーンです。テロリストではありません」と叫んだため、テロリストだと勘違いされ、逮捕されてしまう。

 収容所に入れられたリズワーンは尋問を受ける。その間、リズワーン逮捕の様子を一部始終ビデオに収めていたフリーランスのインド人ジャーナリスト、ラージ(アルジュン・マートゥル)とコーマル(スガンダー・ガルグ)は、リズワーン・カーンについて取材をし出す。BBCレポーターのボビー・アーフージャー(パルヴィーン・ダッバース)らの協力を得て、リズワーンの報道が全国で流れ、世間の関心を集める。おかげで、リズワーンはテロリストではなく、むしろテロへの警戒を呼びかけていたことが分かり、釈放される。だが、リズワーンは詰めかけたマスコミの前から忽然と消えてしまう。

 リズワーンはまだ大統領に会うことを諦めていなかった。再び米国中を放浪する旅に出ていたリズワーンは、ジョージア州を巨大なハリケーンが襲っていることを知り、お世話になった家族に会いに行く。村は水没しており、生き残った人々は高台の教会に避難していた。リズワーンは教会で村人たちの救助に乗り出す。リズワーンを追いかけて来たラージ、コーマル、ボビーは、テロリスト容疑者だったリズワーンがハリケーンに襲われた黒人たちを命がけで助けている様子を報道する。この報道は米国の人々の心を動かし、その村には米国中から支援者が集まって来る。遂にはザーキル、ハスィーナー、そしてマンディラーも彼の元へやって来る。だが、突如現れた過激派イスラーム教徒によってリズワーンは刺されてしまう。

 重傷を負ったリズワーンは病院に搬送され、何とか一命を取り留める。一方、入院している間に米国の大統領はブッシュからオバマへ変わる。リズワーン退院の日、オバマ大統領はジョージア州を訪問した。リズワーンは帰宅する前に大統領に会いに行く。大統領もテレビの報道でリズワーンのことを知っており、彼を壇上に呼ぶ。リズワーンは大統領にメッセージを伝え、とうとう目的を果たす。

 911事件、それに続く米国のアフガン戦争、イラク戦争、米国大統領の交代、大型ハリケーン襲来などの実際の事件に加え、米国におけるイスラーム教徒コミュニティーの受難、それに伴う米国在住インド人全体が受けたとばっちり、コーランの解釈、ヒジャーブ(ベール)着用の是非、そしてアスペルガー症候群などなど、およそ3時間の映画の外観は様々な要素で固められている。だが、そのメッセージは至ってシンプルであった。物事は憤怒や嫌悪では解決しない。愛でのみ解決する。映画が主人公リズワーン・カーンを通して語りかけて来るのは、そういうユニバーサルな主張であった。言わば男女の恋愛よりももっと広い意味での愛をテーマにした映画であり、その他の要素は付随的なものでしかない。例えば、「My Name Is Khan」は主人公がアスペルガー症候群でなければ成り立たなかった作品ではない。愛の重要性をより明確にするために、敢えて主人公を多少変わった人物に設定しただけである。実際、この映画を見ても、アスペルガー症候群がどういう病気なのかはあまり理解出来ない。初めて会う人や初めて行く場所に異常な恐怖を覚え、大きな音に過敏に反応し、他人の本心を察する能力に欠け、黄色を怖がるが、知能障害ではなく、むしろ高い知能を持っているぐらいのことが分かった程度である。

 劇中では様々な形で愛と憎しみが描かれる。その中でももっとも象徴的なのが、リズワーンとマンディラーのそれぞれの戦いであった。マンディラーの息子のサミールは差別的ないじめによって命を落としてしまう。ヒンドゥー教徒のマンディラーは、イスラーム教徒と結婚して名字が「カーン」になったばかりに息子は殺されてしまったと考え、リズワーンを家から追い出すと同時に、犯人逮捕に向けて憎しみを原動力に動く。一方、リズワーンはマンディラーと再び共に暮らすため、彼女から与えられた課題――大統領に会ってメッセージを伝えること――を追い求める。それは本当は課題ではなく、怒ったマンディラーの口から出た無意味な言葉のひとつだったのだが、アスペルガー症候群のリズワーンにとってそれは使命に受け止められたのだった。そして言うまでもなくリズワーンの原動力は純粋な愛であった。マンディラーは、警察に通ったり、広告を配ったりして、精力的に犯人捜しに奔走するが、実は結ばない。だが、ただひたすら愛を追い求めるリズワーンの行動は、テロリストに間違えられて収容されるというハプニングを招いたものの、最終的には多くの人々の感銘を呼び、犯人の自首という結果にも結び付く。憎しみで道はどんなに頑張っても開けないが、愛なら自ずと道が開けて行く。「My Name Is Khan」が一貫して主張しているメッセージはこれであった。

 それに関して、イスラーム教関連の故事の解釈を巡る論争が興味深かった。ロサンゼルスのモスクで過激な思想を持つイスラーム教徒医師ファイサル・ラヘマーンが、人々にイブラーヒームとイスマーイールの故事を言い聞かせ、神へ命を捧げる重要性を説いていた。イブラーヒームはイスラーム教の預言者の1人である。イブラーヒームは長年待ち望んで来た息子イスマーイールを授かるが、神から信仰心を試され、イスマーイールを犠牲として捧げるように命令される。迷ったイブラーヒームはそれをイスマーイールに相談するが、彼はそれを自ら受け容れる。父子は神からの命令である犠牲を実行しようとするが、そのときイブラーヒームの深い信仰心を知った神はイスマーイールの命を助け、代わりに子羊の命を犠牲として受け容れた。これはイードゥッ・ズハー(犠牲祭)の起源にもなっている故事である。ファイサル・レヘマーンはこの故事を、信仰心ある者は必要とあらば神に自らの命を捧げなくてはならないと解釈し、テロへの動機付けとしようとする。だが、その場に居合わせたリズワーンは、この故事を犠牲ではなく愛の重要性を示したものだと解釈し、ファイサルに反対する。イブラーヒームもイスマーイールも神を絶対的に信用し、愛していたからこそ犠牲も受け容れたのであり、この故事から得られる教訓は愛以外にないと主張する。コーランに記されたひとつの故事から、愛と憎しみという全く相反する感情が抽出して、映画のメッセージをより明確にすることに成功していた。

 他に、海外在住のインド人のアイデンティティー問題にも触れられていた。911事件以後、イスラーム教徒をはじめとする南アジア人全体に対する風当たりが強くなったのは周知の通りである。その中でもっともとばっちりを受けたのはスィク教徒であった。ターバンをかぶり髭をたくわえたスィク教徒は、ただでさえ目立つだけでなく、オサーマ・ビン・ラーディンとビジュアル的に似ていたため、無知な人々から迫害を受けるようになった。これをきっかけに、ターバンを取り、髭を剃ったスィク教徒も多かったとされる。劇中に登場したレポーターのボビー・アーフージャーもその1人であった。また、イスラーム教徒の女性は宗教上の理由からヒジャーブというベールで頭を覆っているが、やはり911事件をきっかけにアイデンティティーを隠すためにヒジャーブを脱ぐ女性が出て来た。劇中ではハスィーナーがその1人であった。服装を変えるだけでアイデンティティーを隠せるならいい。しかし、名字が「Khan」だから迫害を受ける人はどうすればいいのか?カーン(ハーン)は中央アジアから南アジアにかけて一般的な名字で、特に南アジアではイスラーム教徒の名字の代表格となっている。それは米国でも有名になっており、「カーン」という名字だけでイスラーム教徒だということが分かってしまう。それだけならまだしも、イスラーム教徒=テロリストという先入観が根付いてしまったため、自動的にカーン=テロリストということになってしまう。この犠牲となったのがサミールであった。だが、リズワーンは自ら「私の名前はカーンです。テロリストではありません」と主張し、大統領にもそのメッセージを伝えようとする。この暗号のようなメッセージは、イスラーム教徒=テロリストという先入観を打破する呪文にもなった。この出来事が南アジア人コミュニティーの心を刺激し、個人のアイデンティティーを隠して生きる必要はない、宗教で人を差別することは無意味であると考え直す人々を生んだ。迫害を恐れてヒジャーブを脱いでいたハスィーナーは再びヒジャーブをかぶり始め、今までイスラーム教徒を無条件で敬遠していたボビーは進んでリズワーンを助け始める。この世にはいい人と悪い人の2種類しかない。宗教で人は判断できない。これはリズワーンの母親の金言であり、リズワーンの座右の銘であった。

 最近、ヨーロッパ各国では宗教的コスチュームを禁止する動きが活発になっている。英国の学校でスィク教徒がキルパーン(刀)を帯刀することを認められなかったり、フランスでヒジャーブやブルカーの着用が禁止されることが決まったり、宗教アイデンティティーを否定する方向に社会が向かっている。その是非は大いに議論の余地があるが、少なくとも「My Name Is Khan」の主張は、それらの動きへの批判となるだろう。

 このように映画のメッセージは明確で、素晴らしいものだった。しかし、ストーリーテーリングに問題があり、とても退屈かつ過度に悲壮な映画だと感じた。特に前半はテンポが悪い上に暗澹としており、ちっとも楽しくなかった。おかげで娯楽映画のカテゴリーに入りにくい作品となってしまっている。傑作はインターミッション時に既に満足感で一杯になるものだが、「My Name Is Khan」のインターミッション時までには、ドンヨリとしたストーリーにとことん打ちのめされ、これからこれをどうやってまとめるのかと不安な気持ちで一杯だった。後半は一気にテンポが上がり、矢継ぎ早に様々な事件が起こるので、何とか観客の興味を引き留めておけているが、それでもエンディングまで極端すぎる出来事が多すぎて、映画の世界に吸い込まれることはない。娯楽映画特有の大袈裟な展開を、シリアスな映画にも適用してしまっているにも関わらず、娯楽映画のテンポの良さや明るさに欠けており、結果的にアンバランスな映画になってしまっていた。カラン・ジャウハルにはまだこの規模の映画を撮る経験が不足していたと言わざるを得ない。

 映画はリズワーン・カーンが自ら、米国を放浪するに至った理由を、生い立ちから語っていく手法で構成されているのだが、それよりもむしろ、終盤になって出て来たジャーナリストのラージとコーマルを序盤で登場させて、彼らがリズワーン・カーンの謎を解明して行くという構成の方が、既に使い古された手法ではあるものの、よりスリリングな作品になったと感じた。

 また、最近のカラン・ジャウハルの映画は、あまりにNRI(在外インド人)向け過ぎて、インド本国の文脈から切り離されているきらいがある。「My Name Is Khan」も完全にNRI向けの映画で、本国の大部分のインド人は置いてけぼりを喰らっている。しかもリズワーンが米国のあちこちを移動するため、米国の地理に明るくないと旅情が沸かない。大都市在住の中産階級以上には受けるかもしれないが、地方市場でのヒットは望めないだろう。

 昔からシャールク・カーンの演技力には疑問が呈されて来た。シャールク・カーンらしい役として一般にイメージが定着している役を演じているときにそれはあまり目立たないが、今回のように特殊な演技力を要する役を演じる際にはどうしても露骨になる。リズワーン・カーン役は彼の演技力の限界を露呈することになった。アスペルガー症候群の患者が実際にどういう言動をするのか知らないが、彼の演技は非常に不自然で、さらに悪いことに、見ていて不快感を覚えるものであった。「Paa」でプロジェリア患者を演じたアミターブ・バッチャンは、外見の不気味さとは裏腹にとてもキュートで、見ていて全く不快感を感じなかった。映画はシャールク・カーンのナレーションによって進行して行くのだが、そのしゃべり方も暗鬱としたもので、ただでさえ暗い映画の雰囲気をさらに暗くしており、観客の心を重くしていた。

 カージョールは、年齢的にもイメージ的にも元々映画の要望に合った配役であったし、その枠組みの中でしっかりとした演技をしていた。シャールク・カーンとのスクリーン上でのケミストリーは今でも健在であったが、それ以上に彼女自身の魅力が衰えていないことが示されており、これから彼女のキャリアの第2章が始まることを予感させられた。

 他にはジミー・シェールギル、パルヴィーン・ダッバース、アルジュン・マートゥル、スガンダー・ガルグ、ヴィナイ・パータクなど、脇役・端役で数人のインド人俳優が出演していたが、非インド人俳優(主に白人と黒人)の比重や役の重要度も高く、その点でも一般のインド映画のカテゴリーから外れている。ジョージ・ブッシュ元大統領とバラク・オバマ現大統領のそっくりさんが登場するのも特筆すべきである。どちらかというとオバマ大統領を賞賛するようなストーリーになっており、政治的な意図も少し感じた。ちなみに、ハスィーナーを演じたソーニヤー・ジャハーンは伝説的女優ヌール・ジャハーンの孫娘で、パーキスターン人女優である。

 シャンカル・エヘサーン・ロイによる「My Name Is Khan」の音楽は文句なく傑作である。イスラーム教と愛を主題にした作品であることを意識してか、庶民に愛のメッセージを広めたスーフィー(イスラーム神秘主義)音楽的な楽曲ばかりで、好みであった。「Sajda」、「Noor E Khuda」、「Tere Naina」、「Allah Hi Reham」、全て愛をテーマとし、その向こうにある神との合一を歌った曲である。特に劇中で何度もリフレインされたのは「Tere Naina」であった。リズワーンとマンディラーの関係の重要な転機に「Tere Naina」が流れ、映画を盛り上げた。しかし、全体的にこれらの素晴らしい楽曲の数々が劇中で活かされていなかったように感じた。通常の娯楽映画では挿入歌が挿入されるとそのままダンスシーンやミュージカルシーンに移行するのだが、「My Name Is Khan」では完全にBGMとしての利用で、歌詞と映像が一致していないことも多かった。音楽が傑作であるがために、映画に音楽を無駄遣いされたような変な気分になった。

 また、劇中では「Jaane Bhi Do Yaaro」(1983年)中の名曲「Hum Honge Kamyab(僕たちは成功する)」が何度も引用されており、これが米国市民権運動のテーマ曲となった英語曲「We Shall Overcome」とオーバーラップされて使われている驚きのシーンもあった。

 台詞は、インドと海外の両方の観客をターゲットにした構成となっており、かなり意図的にヒンディー語と英語が交ぜられていたのを感じた。リズワーンの独特のしゃべり方は、同様の内容の台詞をヒンディー語と英語の両方で表現することに成功していたし、英語の台詞にはヒンディー語のナレーションがかぶせられており、ヒンディー語が分からなくても英語が分からなくてもある程度筋を追えるように工夫されていた。

 以上、長々と「My Name Is Khan」について書いて来たが、まだ総評をしていなかった。一言で言ってしまえば、「My Name Is Khan」は、事前の期待や話題性に存分に応えられる作品ではない。メッセージはとても素晴らしいものだったが、それを娯楽映画のフォーマット上で観客を楽しませながら伝えるという基本を忘れてしまっている。少なくとも「3 Idiots」はそれに成功していた。よって、特にインド国内の観客にはとんでもなく退屈で暗鬱な作品に映るだろう。おそらく「Kabhi Alvida Naa Kehna」と同様に、海外では受けるがインドでは並以下の成績に留まるのではなかろうか。超拡大公開体制となっているため、話題性のみを頼りに口コミ情報なしで初週末に映画館に詰めかけた観客から最大限の収益を得ることがヒットのための必須条件となる。そうでなければ、国内でのヒットは困難だ。口コミがマイナスに働くと予想されるため、短期決戦型の作品である。よって、近年稀に見るロングランとなった「3 Idiots」並の成功はとてもじゃないが望めない。もうひとつ予想すると、これをきっかけにカラン・ジャウハルの監督としての才能や方向性に本格的に疑問符が呈されることになるだろう。また、日本人のインド映画ファンには「Kuch Kuch Hota Hai」タイプの映画を好む人が多いように感じるが、「My Name Is Khan」は同じカラン・ジャウハルの映画ではあるものの、娯楽映画に分類するのもはばかれるほど全く別の作品である。注意されたし。しかし、どう転んでも今年もっとも重要な作品の1本になることは間違いないため、この映画の鑑賞をスキップする選択肢はない。

2月18日(木) インド式数学の謎

 数年前に日本ではインド式数学、インド式計算などが俄にブームとなり、関連書籍が雨後の竹の子のように出版されたり、テレビで盛んに特集が組まれたりした。元々インドに関係していた日本人は、おそらく僕と同じく、そのブームを複雑な思いで眺めていたと思う。現在そのブームがどうなっているのかは、インド在住のためよく分からないのだが、もはや過去のものになっていたとしても、「インド式数学」という言葉は人々の記憶に既に十分定着してしまったことだろう。

 ブーム当時は何度か表立ってこのブームを批判しようと思ったものだが、あまり得意ではない分野だったし、インドのネガティブなイメージを広めるような性質のものでもなかったため、特に口出ししなかった。不審に思った点は2つである。ひとつは、インド式数学として知られる特殊な計算法がインドで本当に市民権を得たものであるのかどうか疑わしいということ。もうひとつは、インド人が皆数学の天才であるという認識が一般の日本人の間でかなり広まってしまっている恐れがあることである。

 後者の点は、インドをある程度の期間旅行したり、インドで生活したりすれば、誤った認識であることがすぐに分かる。日常的に金の受け渡しをする立場にある人々――例えば野菜屋とか雑貨屋とか――が、とんでもなく計算が遅かったり、数字に弱かったりするところは簡単に目撃できるし、ある程度学歴が必要な職に就いていても、簡単な計算にもわざわざ電卓を取り出してノロノロと計算している人々も多い。「インドに平均はない」とされるが、それでも敢えて平均を取ったら、絶対に日本人の方が数字に強いと断言できる。よって、日本人が「インド人は数学の天才だ」と無闇に賞賛するのはとても変な話である。

 インド式数学がインドの学校などで一般に教えられているものなのかどうかは、インドの学校教育に踏み込んで調査している訳ではないため、何とも言えない。もしかしてそういうことをしているところもあるかもしれないが、現地に住んでいる実感としては、そんなに一般的ではないのではないかと思われていた。ヨーガやアーユルヴェーダのような、インドでも実際に話題になり実践されているものが日本に紹介されブームとなるなら納得できるが、インド本国であまり聞いたことがないものが日本であたかもインドの代表みたいな顔をすることに対しては何だか複雑な気分を感じる。

 そういう思いがあったため、インド式数学の本は自分では買っていないのだが、関係者からもらったりして数冊一応持っていた。一般読者向けに分かりやすくユニークな計算方法が解説されているのだが、どうも計算方法がまどろっこしくて、最後まで読み進めることが出来なかったのを覚えている。

 ほとんどインド式数学については忘れてしまっていたのだが、先日インドの英語紙であるザ・ヒンドゥー紙に毎週火曜日付属している子供向けサプリメント「ヤング・ワールド」2月16日版に、インド式数学らしきものが掲載されており、注意を引かれた。「ヴェーダ式数学(Vedic Maths)」と題されているが、日本でも同様の名称でインド式数学が紹介しているものがあり、同一のものであろう。インドでインド式数学を初めて目にした瞬間であった。

 これは、「HeyMath」というEラーニング・プログラムの宣伝の一環で掲載されているものであった。気になって本家のウェブサイトを見てみた。会員向けの有料サイトであり、普通には内容は見られないのだが、ホームページの情報から、これがシンガポールのウェブサイトであることが分かった。つまり、ヴェーダ式数学を銘打っていながら、実際はインド以外の国から発信されている情報であった。これもインドでインド式数学が普及していることを示す証拠にはならなかった。

 それでも、新聞に掲載されていた公式名「Urdhva Tiryagbhyam」などを手掛かりにした検索から、全てのインド式数学本の祖と思われる書物に到達するのに成功した。VSアグラワーラ編「Vedic Mathmatics」である。インド学書籍で有名なデリーの出版社モーティーラール・バナーラスィーダースから1992年に改訂版が出版されている。Googleブックスで検索すると、限定表示ながら主要部分を読むことが可能である。

 この本の序文によると、一般にインド式数学として知られている公式は、古代インドの聖典ヴェーダの内のアタルヴァヴェーダに付録(パリシシュタ)として収められているものであるらしい。ヴェーダは宗教文献として有名だが、宗教的な記述以外に、今日において科学に分類されるような世俗的な分野にも触れられており、ありとあらゆる知恵を網羅する文献となっている。数学的公式もその一部である。ヴェーダ式計算公式のコンセプトは、複雑な計算を暗算でも十分対応できるようなシンプルなステップでこなすことが出来るようにするものである。

 ヴェーダには様々な公式が収録されているが、前述の「Urdhva Tiryagbhyam」はおそらくインド式数学の威力を端的に示すもののひとつであろう。一見すると舌がこんがらがりそうな名称だが、日本語に訳すと「縦と斜めの公式」というぐらいの意味である。これは、数桁の数字同士の掛け算を圧倒的にシンプルにするものであり、理解するまで少し時間が掛かるが、理解してしまうとどんな桁数の掛け算にも応用が利くため、非常に便利な魔法のような公式である。

 例えば123x456という計算式があるとする。こうした場合、まずは日本でも乗算の筆算でやるように、上下に並べる。

×12333
×45633

 日本の筆算では後ろ(一の位)から計算して行くのが普通だが、「縦と斜めの公式」では前からでも後ろからでも計算ができる。ここでは前から計算して行く。まずは上下の百の位の数を掛ける。1×4=4になるので、その下に4を置く。

×2333
×5633
×5633

 次に、上の百の位の数と下の十の位の数を掛けたものと、下の百の位の数と上の十の位の数を掛けたものを足す。ここでは(1×5)+(4×2)=13になる。この数の十の位である1を直前の4の下に置き、一の位である3を4の右側に置く。

×33
×33
×633
×2333

 次に、上の百の位の数と下の一の位の数を掛けたものと、下の百の位の数と上の一の位の数を掛けたものと、上の十の位の数と下の十の位の数をかけたものを足す。ここでは(1×6)+(4×3)+(2×5)=28になる。上と同様に、この数の十の位である2を直前の3の下に置き、一の位の数である8を3の右側に置く。

×33
×33
×4333
×333

 次に、上の十の位の数と下の一の位の数を掛けたものと、下の十の位の数と上の一の位の数を掛けたものを足す。ここでは(2×6)+(5×3)=27になる。同様に、この数の十の位の数である2を直前の8の下に置き、一の位の数である7を8の右側に置く。

×33
×433
×438
×1233

 次に、上の一の位の数と下の一の位の数を掛ける。ここでは3×6=18になる。同様に、この数の十の位の数である1を直前の7の下に置き、一の位の数である8を7の右側に置く。

×1233
×4533
×4387
×122

 最後に、下の段に出て来た数字の上下を、筆算による足し算の要領で足す。それが解となる。確かに正しい答えである。

×12333
×45633
×

56088

 3桁×3桁の計算を「縦と斜めの公式」を使って解くと、つまりは以下のような手順で計算したことになる。縦と斜めの計算を繰り返すために、公式の名前もそうなったのだろう。

 この公式は何桁の計算でも応用できるし、後ろから計算することも可能である。4桁×4桁を後ろからすると、以下のような手順になる。また、桁数の違う数字の乗算では、桁数の少ない数の前に必要な数だけ0を代入して計算すればいい。

 興味深いことに、ヴェーダには公式だけが掲載されており、なぜその公式を使った計算で正しい解が出て来るのかの証明が省略されている。天才的数学者として知られるラーマーヌジャンも、証明抜きに独創的な公式を次々と生み出し、その証明のために他の数学者は長年頭を悩ますことになったというエピソードがあるが、それと非常によく似ている。ちょうどこの「縦と斜めの公式」の限定的な証明は、盛岡大学の小口祐一氏が「インドのベーダ数学における計算技術に関する研究 : 2桁の乗法技術の拡張と一般化」という日本語の論文において行っている。これを読むとさらにこの公式やインド式数学についての理解が深まる。

 インド式数学というものが本当に存在することは分かった。しかし、前述の「Vedic Mathmatic」の序文に興味深い記述を見つけた。それは、編者らが1952年にナーグプル大学でヴェーダ式数学について初めて授業を持つようになったという下りである。編者らはそれ以前にも度々ヴェーダ式数学について限定的な講義を行っていたようだが、このときに本格的にレギュラーの授業を任され、地元にかなりのセンセーションを巻き起こしたようである。つまり、それまでインドでは一般にヴェーダ式数学はほとんど知られていなかったということである。ヴェーダ式数学に初めて触れた人々の反応が面白い。複雑な計算をとてもシンプルなステップで解いてしまう公式を目の当たりにして驚いた人が、「これは魔法なのか数学なのか?」と質問した。それに対し彼らは「両方です。理解するまでは魔法ですが、理解した後は数学です」と答えている。以後、ヴェーダ式数学が様々な層の間で普及して行くことになったと記されている。

 つまり、インドでいわゆるインド式数学が世間に知れ渡り始めたのが1952年だと考えることができる。ヴェーダの中にその公式が記述されていたものの、「Vedic Mathmatics」の元々の著者であり、プリーのゴーヴァルダン教団の司教であるバーラティー・クリシュナ・ティールタ(1884-1960年)がそれを世間に広めるまでは、ヴェーダ式数学は謎に包まれていた。ティールタ氏はヴェーダ式数学に関する本をシリーズ化して続刊する予定だったが、16個の公式の解説を収録した本を1冊出版したところで逝去してしまい、以後続かなかったようだ。現在刊行されている「Vedic Mathmatics」はその単なる改訂版であるし、日本で出版されている数々のインド式数学本もその亜種に過ぎない。どうもヴェーダに収録されている公式を理解し解説できる人、または秘伝を公表しようとする人が他に現れなかったようで、その他の公式は手つかずのままになっているみたいである。

 人類史の中でも最古の文献のひとつであるヴェーダにこのような数学的公式が掲載されているという事実から察するに、有名な「0」の話を出すまでもなく、インドで昔から数学が高度に発展していたことや、ラーマーヌジャンのような天才的数学者が古代にも存在したことは確かであろう。しかし、いわゆるインド式数学のようなテクニックが昔からインド人の血肉に染みついており、だからインド人は(数学的に)優秀なんだと結論付けるのは早計だと言わざるをえない。インドの教育界に本格的にヴェーダ式数学が紹介されたのはせいぜい60年前であり、それがたとえ現在一般レベルまで普及していたとしても、それはそう昔のことではなさそうである。むしろまだまだ本国ではあまり認知されていないか、そういうものもあるぐらいの受け止められ方なのではないかと思われる。少なくとも算数や数学の教科書にヴェーダ式数学の紹介はないみたいである。また、教科書とは別にインドでは、「Vedic Mathmatics」を学童向けに平易にまとめた「Vecic Mathmatics for Schools」という本も出ているが(本日の記事はこの本も参考にした。上の図もこの本から転載)、これも2000年代になってからの出版物であり、ヴェーダ式数学を一般に普及させようとする動きがインドでも日本とそう変わらない時期に始まっていることがうかがわれる。ただし、ただ学童向けのヴェーダ式計算本が出版されただけで、日本のような異常な「ブーム」は見当たらない。

2月20日(土) Toh Baat Pakki

 超弩級の期待作だった「My Name Is Khan」が先週公開された影響で、その前後の週は同作との競合を避ける形で新作公開が控え目となった。今週公開のヒンディー語映画は2本だが、どちらもメジャーな作品ではなく、普通に考えたら、このような不利なタイミングでしか公開できなかった訳あり作品ということになる。ただ、こういうときに隠れた名作が公開されることもあり、油断できない。

 新作映画「Toh Baat Pakki」は、限りなく地雷に近い雰囲気の映画ではあったものの、最近ご無沙汰となっていたタッブーが出演していることで目を引かれた。しっとりとした演技に定評のある女優で、彼女が出ているならつまらないことはないだろうと思わせられるだけのオーラを持っている。タッブーのみを信頼してこの映画を見に行った。



題名:Toh Baat Pakki
読み:トー・バート・パッキー
意味:なら話は決まり
邦題:縁談成立

監督:ケーダール・シンデー
制作:ラメーシュSタウラーニー
音楽:プリータム
歌詞:マユール・プリー、サイード・カードリー、シャッビール・アハマド
出演:タッブー、シャルマン・ジョーシー、ユヴィカー・チャウドリー、ヴァトサル・シェート、アーユーブ・カーン、シャラト・サクセーナー、ヒマーニー・シヴプリー、スハースィニー・ムーレー、ウパースナー・スィン
備考:サティヤム・ネルー・プレイスで鑑賞。

左から、タッブー、ユヴィカー・チャウドリー、
ヴァトサル・シェート、シャルマン・ジョーシー

あらすじ
 ラージェーシュワリー・サクセーナー(タッブー)は、夫のヴィナイ(アーユーブ・カーン)と共にパーランプルに住んでいた。彼女の最近の心配は、妹ニシャー(ユヴィカー・チャウドリー)の結婚相手であった。

 ラージェーシュワリーは町で偶然ラーフル(シャルマン・ジョーシー)という工学科の学生と出会う。ラーフルは同じカーストに属しており、ハンサムでもあった。ラージェーシュワリーは、下宿先を追い出されたラーフルを自分の家に住まわせることにし、ニシャーとも出会わせる。ラーフルとニシャーは恋に落ち、自然と2人の縁談がまとまる。

 ところがそんなとき、夫の友人の息子ユヴラージ(ヴァトサル・シェート)が家を訪ねて来る。実は元々彼を家に下宿させる予定であった。だが、ラージェーシュワリーはユヴラージが既に大手企業に勤めており、経済的にラーフルよりも安定していると考え、ニシャーの結婚相手をユヴラージに決めてしまう。ラーフルは家から追い出される。しかし、ニシャーは既にラーフルに恋しており、ユヴラージとの結婚は認められなかった。

 ラーフルは何とかニシャーを手に入れるため、ニシャーとユヴラージの結婚を手助けする振りをして、結婚を破談にさせるための策略を練る。しかし、お世話になったラージェーシュワリーら夫妻の恥にならない方法を考えなければならなかった。そこでラーフルは結婚式でユヴラージを誘拐させることにする。ユヴラージもニシャーとの結婚に乗り気ではなくなっており、その計画に乗る。だが、ユヴラージはそのことをニシャーに説明する機会を作れなかった。

 結婚式当日、着々と式が進行する中、ニシャーはユヴラージに手紙を書き、実はラーフルと相思相愛の仲でこの結婚はできないということを伝える。その手紙を読んだユヴラージはラーフルに裏切られたと知って憤慨し、それを皆の前で公表して、否が応でもニシャーと結婚することを決める。ユヴラージを誘拐しに入った男たちは、代わりにニシャーを誘拐して逃げて行く。

 ラーフルは誘拐犯を追いかけニシャーを取り戻し、式場に連れ帰る。だが、このときまでにラージェーシュワリーらはラーフルの方がニシャーにふさわしいと考えるようになっており、ユヴラージではなくラーフルと結婚させる。ユヴラージの怒りも収まっており、それを祝福する。

 どんなに暇があっても是非見ないで欲しい作品。陳腐なストーリー、使い古されたエンディング、舞台劇のようなカメラワーク、テンポの悪い台詞回し、外しまくりのギャグ、いらいらする音楽、トンチンカンなロケーション、何も取り柄がない。信頼していたタッブーすら全く共感できない役でどうしようもない。せっかくヒンディー語映画がダイナミックな進化を遂げつつある中、時代錯誤もいいところである。

 タッブーは一体どうしてしまったのだろうか?こんな下らない映画に出演するほど落ちぶれてしまったのだろうか?さらに救えないのは、彼女が演じたラージェーシュワリーがこの映画でもっとも弱いキャラクターであることである。妹の結婚相手を手先の利益に従ってコロコロと変える様は何人も共感できないだろう。

 シャルマン・ジョーシーは、「Rang De Basanti」(2006年)や「3 Idiots」(2009年)で見事な脇役を演じた男優である。今回は主役だった訳だが、彼は脇役としての方が断然生きる個性を持っている。ましてや典型的なロマンチック・ヒーローなどは演じるべきではない。無理にかっこつけた主演を演じるとキャリアの傷になるだろう。ただ、後半はラーフル役にとって可哀想な展開となっており、情けなさ全開で非常に彼のキャラクターに似合っていた。「Toh Baat Pakki」のヒットは到底望めない駄作だが、彼の演技については並程度の評価ができる。

 準ヒロインを演じたユヴィカー・チャウドリーは「Om Shanti Om」(2007年)でディーピカー・パードゥコーンの影武者としてデビューした女優である。デビュー当初からディーピカーのようなトップスターのオーラを持った女優に押しつぶされて不幸だったとしか言いようがないが、その後も何とか女優として望みをつないでおり、いくつかの映画に出演している。「Toh Baat Pakki」ではほとんど主体性のない役で、これまた可哀想な役だったのだが、時々キラリと光るものがあり、今後作品に恵まれればもう少し上を目指せるかもしれないと感じた。

 準ヒーローのヴァトサル・シェートは、「Taarzan」(2004年)で大々的に主演デビューしておきながらその後鳴かず飛ばずの男優である。「Toh Bat Pakki」も彼のキャリアに何ももたらさないだろう。目の色が美しく、一度見たら忘れない顔をしているので、やはり今後良作に恵まれるのを待つしかなさそうだ。

 音楽はプリータムだが、全く手抜きの曲ばかり。映画自体がダメなので、音楽だけ頑張っても仕方ないと判断したのだろうか。

 映画の舞台はウッタル・プラデーシュ州のパーランプルということになっていたが、インドをある程度旅行したことのある人ならすぐに看破できるように、全くもってウッタル・プラデーシュ州の風景ではなかった。ロケは主にタミル・ナードゥ州のウータカマンド(愛称ウーティー)とゴア州で撮影されている。ロケーションに説得力がなかったことも、この映画の弱さを一層際立たせていた。

 ちなみに、登場人物のほとんどはサクセーナー姓であったが、これはカーヤスト・カーストに典型的な姓である。ラージェーシュワリーは、妹の花婿のために、サクセーナー姓の若者を探していたのだった。他にインドには血筋を表すゴートラというものもあり、同一ゴートラの男女は近親者ということになって結婚できないことになっている。よって、念のために出身地も聞いていたのだった。

 「Toh Baat Pakki」は絶対に見てはいけない、見せてはいけない作品である。タッブーに期待しても無駄。ドブに捨ててもいい時間があったとしても、昼寝をした方がまだ、休憩にもなるし、もしかしたら面白い夢が見られるかもしれないので、マシだろう。

2月22日(月) Maya Bazar

 現在日本人でもっとも広範にインドの最新映画を鑑賞し評論しているのは、バンガロール在住のアシュヴァッターマンさんなのではないかと思う。アシュヴァッターマンさんは自身のブログカーヴェリ川長治の南インド映画日記において、南インドの主要4言語であるカンナダ語、タミル語、テルグ語、マラヤーラム語の映画評論を綴っている。ベンガリー語映画、マラーティー語映画などはカバーされていないが、ヒンディー語映画はまめにチェックしているようで、少なくとも5言語の映画を追っていることになる。特にこれら5言語内のリメイク映画の流れの分析はアシュヴァッターマンさんの十八番である。

 アシュヴァッターマンさんは各映画を5段階評価しているのだが、最近同氏が最高評価である5点を付けた映画があった。テルグ語映画「Maya Bazar」である。この映画は元々1957年の白黒映画なのだが、ヒンディー語映画界でも近年「Mughal-e-Azam」(1960/2004年)や「Naya Daur」(1957/2007年)の例があったように、今年カラー化されて再公開された。わざわざカラー化されたことからも察せられるように、今でもテルグ語映画の不朽の名作とされている作品である。

 「Maya Bazar」は、アルジュンの息子アビマンニュやビームの息子ガトートカチュなどが主人公で、一見すると「マハーバーラタ」の一部を映画化したものに見えるのだが、ベースとなっている「シャシレーカーの結婚」の物語は実は正規の「マハーバーラタ」に含まれていない。それは南インドにおいて民話として伝わっているものらしく、異伝のようなものだと言える。インドは口承文学の伝統が長いので、その種の異伝は多い。だが、テルグ語映画「Maya Bazar」は民話のダイレクトな映画化ではない。「シャシレーカーの結婚」を土台とした同名の舞台劇が存在するのである。映画はこの戯曲を原作としている。

 アーンドラ・プラデーシュ州で、「Maya Bazar」を得意演目とするのがスラビ・シアターである。1885年に創始されたスラビ・シアターは今年で125周年を迎える。その特徴は、リアリズムとファンタジー、音楽とダンス、大袈裟な台詞回しと派手な視覚効果などをミックスした徹底的な娯楽演劇である。しばしば「ファミリー・シアター」と称されるのは、劇団自体が多数の家族の集合体となっているからである。家族は先祖代々スラビ・シアターの劇団員であり、その伝統が今の今まで続いている。スラビ・シアターは特定の劇団と言うよりは一種の演劇ジャンルのようなもので、最盛期にはスラビ・シアターを上演する劇団はおよそ60座もあった。だが、娯楽の選択肢が増える中でその数は減少し、現在では5座のみが活動している。

 スラビ・シアターはアーンドラ・プラデーシュ州カダパ県スラビ村から始まったためにそう呼ばれる。スラビ村には、かつてマハーラーシュトラ州から移住して来た人々が住んでおり、スラビ・シアターを始めた家族は元々影絵人形師であった。スラビ・シアターは同時期にインド全国で人気を博したパールスィー・シアターと多くの共通点を持っているが(スラビ・シアターをパールスィー・シアターの一種とする見方もある)、スラビ・シアターではパールスィー・シアターと違って、女性も舞台に立った。それだけでなく必要とあらば女性が男性の役を演じた。パールスィー・シアターがヒンディー語映画の発展に多大な貢献をしたように、スラビ・シアターも南インド映画史の中で重要な位置を占めている。初のテルグ語映画「Bhakta Prahlada」(1931年)は、スラビ・シアターの演目をスラビ・シアターの劇団員を使って撮影したものであるし、初のタミル語映画「Kalidasa」(1931年)も同様にスラビ・シアターの劇団員が出演した。

 アシュヴァッターマンさんが最高評価を付けたテルグ語映画「Maya Bazar」を見てみたいと思っていたのだが、あいにくデリーでは公開されておらず(または既に公開終了?)、YouTubeで白黒オリジナルを断片的に見るぐらいしか方法がなかった。そう思っていたら、新聞にスラビ・シアター125周年を記念したスラビ・シアター・フェスティバルがデリーで開催されるとの広告を目にした。このフェスティバルはインディラー・ガーンディー国立芸術センター(IGNCA)において7日間に渡って開催されるが、初日の演目が「Maya Bazar」であった。これは願ってもない天の恵みであった。この機会を無駄にするのは罰当たりな行為だと考え、初日の今日、IGNCAへ向かった。

 デリーで上演を行うのは、スラビ・シアターの中でも最大グループであるシュリー・ヴェンカテーシュヴァラ劇団(1937年創設)であった。基本的にテルグ語で上演されるスラビ・シアターの125周年記念式典が、テルグ語の本拠地であるアーンドラ・プラデーシュ州ではなく、わざわざ遠く離れたデリーで行われるのはどういう訳か?主催者は「諸々の事情により」と述べるに留まっていたが、おそらくテランガーナ独立運動によるハイダラーバードの治安悪化が原因としてあるようであった。このフェスティバルはIGNCAと国立演劇学校(NSD)のコラボレーションでもあるのだが、意外なことにこの2機関が協力してひとつのイベントを開催するのは初めてのことらしい。これらいくつかの要素がうまく噛み合って、デリーにおいてスラビ・シアター・フェスティバルの開催が実現した訳である。

 スラビ・シアターの上演が行われたのは、IGNCAキャンパス内に設営された半野外の臨時劇場であった。まるで南インドの寺院がそのまま移設されて来たのような派手な色遣いの舞台で、まず度肝を抜かれた。舞台の上部やカーテンには、アーンドラ・プラデーシュ州南部のティルパティで祀られているヴェンカテーシュワラ神が描かれていた。まずはフェスティバルの開会式が行われ、IGNCA、NSD、劇団長らの挨拶があった。


開演前の舞台

 午後7時頃から「Maya Bazar」の上演が始まった。初っ端から空を飛ぶナーラド仙のシーンで実際に上から吊り下げられた人が宙を飛んでおり、驚かされた。それに留まらず、劇が進んで行くとさらなるギミックが次から次へと飛び出す。ストーリーに合わせて、火、水、光、火薬、ワイヤーなどを駆使した様々な効果が手品のように披露され、その度に観客は驚きの歓声を上げていた。ガトートカチュなどの使う魔法によって壺や靴や布団が勝手に動き出したり、ストーリー進行とは特に関係ない鳥やコウモリが宙を飛んでいたり、様々な工夫が随所に見られた。アビマンニュとガトートカチュの戦いや、離れ離れになったアビマンニュとシャシレーカーが月を見てお互いを想うシーンなど、それらの特殊効果のおかげでまるで映画を見ているかのように非常に見応えがあった。シーンとシーンの切り替えも迅速かつ絶妙で、観客を全く飽きさせない。そしてその短い切り替え時間の中で、背景がガラリと変わる。背景は基本的に布に描かれたものだが、その一瞬の切り替えには熟練した技術を感じさせられた。また、ステージのすぐ下には楽隊が陣取っており、基本的に上演中ずっと彼らが何らかの楽器を演奏している。効果音も彼らの役割である。俳優は単に台詞をしゃべるだけでなく、時々歌を歌って感情を表現するし、踊りを踊り出すこともある。大人の俳優に混じって、3、4歳ぐらいの子供も舞台に立っていて観客を和ませていた。ストーリーには笑い、悲しみ、恐怖、戦争、信仰などなど様々な要素が含まれており、演出抜きにしてもエンターテイメントとして完成されていた。


アビマンニュの家出のシーン

 スラビ・シアターの鑑賞者は誰しもが口を揃えてそう表現するだろうが、インド映画の原型がそこにあった。もちろん、映画と相互に影響を及ぼし合って発展し、現在の形があるのだと思うが、映画が普及する前からインドには映画に相当するような総合的な娯楽があったことを十分想像させてくれるような作りであった。初期のインド映画を見ると、その頃から様々な特撮が駆使され、無声映画であっても音楽と踊りで満ちあふれた構成になっているのに驚くが、その多くも既に舞台劇で完成されたテクニックだったと考えることができる。また、歌舞伎との共通点を探すのも面白いだろう。


ガトートカチュの登場シーン

 言語は全てテルグ語だったので、俳優が何をしゃべっているのか全く分からなかった。だが、あらすじを英語で説明した紙があらかじめ配られていたし、インド神話の知識もある程度あったため、大筋は理解できた。あらすじを要約するとこんな感じである――アルジュンの息子アビマンニュは、クリシュナの兄バルラームの娘シャシレーカーとの結婚を望むが、バルラームは娘をドゥルヨーダンの息子ラクシュマンクマールと結婚させようとする。それを知ったアビマンニュは、居候していたクリシュナの王宮を飛び出し、放浪の旅に出る。旅先でガトートカチュという恐ろしい大男と出会い、戦いとなるのだが、実はガトートカチュはアルジュンの兄ビームの息子で、彼とは従兄弟であることが分かり、2人は出会いを喜ぶ。ガトートカチュはアビマンニュの身の上を知って彼を助けることにし、魔法を使ってシャシレーカーを連れ去った上に、シャシレーカーに変身してラクシュマンクマールを驚かす。最終的にはバルラームもシャシレーカーをアビマンニュと結婚させることに決め、一件落着となる。


大団円

 パールスィー・シアターが果たして現在まで生き残っているのか不明であるし、僕は今まで本で読んだだけで実際に目にしたことがなかったが、今回それと非常によく似ていると思われるスラビ・シアターを見て、パールスィー・シアターがどんなものか大体把握することができた。それはインド映画の発展を理解する上でも非常に有用な体験となった。参考のために7日間の演目を掲載しておく。全て午後6時半開演となっている。招待状など特に必要ない。早く行けば行くほどいい席が取れる。また、会場にはスラビ・シアターの125年を特集した展示もある。
  • 22日 Maya Bazar
  • 23日 Srikrishnaleelalu
  • 24日 Balanagamma
  • 25日 Bhaktha Prahlada
  • 26日 Sri Brahmamgari Jeevitha Charitra
  • 27日 Jai Pathala Bhairavi
  • 28日 Chandipriya
 スラビ・シアターは、インド演劇の底力を感じさせるに十分の類い稀な舞台劇である。テルグ語が分かればどんなに楽しめたことかと少し悔しい思いもしたが、言葉が分からなくても次から次へと面白い仕掛けが出て来るので退屈しない。デリーに住んで長いが、その中でも後々まで想い出に残るであろう、素晴らしい体験となった。演劇や映画に興味のある人に是非オススメしたい。

2月26日(金) Jahan-e-Khusrau

 いまや単なるインドの政治首都ではなく文化首都と言ってもいいデリーでは、毎日のように大小様々な文化イベントが開催されている。その数あるイベントの中でもJahan-e-Khusrau(クスローの世界)はデリー市民から一目置かれているイベントである。名作映画「Umrao Jaan」(1981年)の監督として有名な芸術家ムザッファル・アリーが2001年からデリーで主催しているJahan-e-Khusrauは、中世デリーで活躍した詩人アミール・クスローに捧げられたスーフィー文芸祭で、スーフィズムと愛をテーマに、詩と音楽と舞踊のパフォーマンスが披露される。2001年から2006年までフマーユーン廟に隣接したアラブ・キ・サラーイを会場に毎年開催されていたが、2007年には何らかの理由で会場がメヘラウリーのクリー・カーン廟に移動し、その後は開催が見送られていた。しかし今年、3年振りに復活し、会場も元通りアラブ・キ・サラーイに戻って、Jahan-e-Khusrauが開催されることになった。

 デリーのイベントは無料であることが多いのだが、Jahan-e-Khusrauは基本的に有料のイベントである。しかし、有料であるにも関わらず人気で、チケット入手が非常に困難なことが多い。今年のプログラムは2月26日から28日まで3日間に渡っており、最終日の大トリをパーキスターンの人気スーフィー歌手アービダー・パルヴィーンが務めることになっている。最終日のチケットは即完売。と言うよりほとんど市場に出回らない内に売り切れてしまった感じである。

 今までJahan-e-Khusrauを見に行ったことはなかったのだが、今年は運良く招待チケットが手に入ったので、行く機会に恵まれた。なぜ招待チケットが手に入ったかというと、今年のJahan-e-Khusrau初日に、日本人オリッシー舞踊家の小野雅子さんが出演することになり、彼女に招待チケットを用意してもらったからである。小野雅子さんとは少しだけ面識があった。2005年4月に小泉首相(当時)が訪印したとき、僕は日本人留学生代表として首相に謁見したのだが、そのとき小野雅子さんも日本人インド古典舞踊家代表として出席していたのである。また、小野雅子さんは僕の妻の大学の先輩にもあたり、その方面のコネクションもあった。そういう訳で図々しくもチケットの手配をお願いしてみたら、ありがたいことにちゃんと用意しておいてくれたのである。

 今年のJahan-e-Khusrauの会場は前述の通りフマーユーン廟に隣接したアラブ・キ・サラーイ(アラブ人の宿泊所)である。フマーユーン廟が建築されたとき、廟でコーランを唱えるためにメッカから300人のアラブ人が呼ばれて来て、ここに住んでいたためにそう呼ばれている。フマーユーン廟コンプレックスのメインゲートを入ってまっすぐ進むとフマーユーン廟に着くが、その途中で右に折れる道がいくつかあり、そちらへ行くと壁で囲まれた区画がいくつかあることに気付く。この一帯がアラブ・キ・サラーイと呼ばれているが、実際のアラブ・キ・サラーイがどこだったかは、後世に様々な改築が行われたために、不明となっている。Jahan-e-Khusrauの会場は、現在はミヒル・バーヌーのマーケットと呼ばれている一画であった。

 入り口には長い列が出来ており、座席に座ったときには既に開演時間の午後6時半を回っていたのだが、ステージ上ではまだ機材チェックが行われており、すぐには始まりそうになかった。会場の座席はチケットのランクごとにAからEまで分割されており、Aがもっともステージに近く、Eがもっともステージから遠かった。僕たちがもらっていたのはDのチケットであったため、ステージからはかなり遠い位置となった。ちなみにチケットにカメラ持ち込み禁止と明記されていたため、カメラは持参しなかった。

 午後7時過ぎになってようやくイベントが開始された。まずは壇上に司会者が現れ、何かをしゃべり出した。ボリウッド俳優のジャーヴェード・ジャーファリーに似ているなあと思っていたら、ジャーヴェード・ジャーファリー本人であった。勝手にジャーヴェードは司会みたいなことがうまいイメージを持っていたのだが、今回見た彼は単にメモを棒読みするだけで、別段ショービジネス向けの人間とは感じなかった。

 まずは小野雅子さんのパフォーマンスからイベントが開始された。小野雅子さんは本来はインド古典舞踊のひとつオリッシー・ダンスを本職としているのだが、今回はコンテンポラリー・ダンスの類に入る踊りを踊っていた。13世紀のペルシア語詩人ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミーの詩に合わせて、オレンジの衣装を翻しながら踊るのだが、何しろ座席が遠かったため、小野雅子さんの踊りをよく観察することができなかったが残念だった。また、音楽に合わせてルーミーの詩の英訳が朗読されていたのだが、読み方が下手でよく聞こえなかった。英訳はあってもいいが、ペルシア語の原文を朗読した方が雰囲気がもっと出ただろう。意外に早く終わってしまったが、日本人のJahan-e-Khusrau出演はかなりの快挙だと言える。

 ふたつめのパフォーマンスは、パーキスターンの若手女性スーフィー歌手サナム・マールヴィーと、マンガニヤール(ラージャスターン州の民俗楽士)のサマンダル・カーンとそのグループのジュガルバンディー(共演)であった。基本的にサナムの方がメインボーカルを務め、マンガニヤールの楽士隊は専ら伴奏を担っていたが、リーダーのサマンダル・カーンはカルタール(インド版カスタネット)を打ち鳴らしながらも自己主張のチャンスを虎視眈々と狙っており、隙あらば大袈裟なパフォーマンスで観客の注意を引き付けていた。サナム・マールヴィーは弱冠24歳であるが、7歳の頃からスーフィーの詩や音楽を勉強しており、ブッレー・シャー、バーバー・ファリード、サチャル・サルマストなどのスーフィー詩人たちの詩を歌い続けている。声に張りがあり、音程コントロールも正確で、非常に巧い歌手だと感じた。しかし、案外サマンダル・カーンもいい声をしていた。中盤以降、遂に我慢できなくなったのか、それとも前々から決まっていたのか、サマンダル・カーンも歌を歌い出した。どちらかというとサマンダル・カーンの声の方が、カッワールなどに特有の悲痛に満ちた響きを持っており、スーフィー音楽に適しているように感じた。事前にあまり打ち合わせをしなかったのか、サナム・マールヴィーとサマンダル・カーンの間で歌うタイミングがうまくいかない部分がいくつもあり、ショーの完成度は高くなかった。そもそも、カラフルなターバンを巻いて浮かれた雰囲気のマンガニヤールと、どっしりと構えて歌に集中するタイプのサナム・マールヴィーはビジュアル的にうまく噛み合っていなかった。

 本日のトリを務めたのはラッビー・シェールギルであった。ラッビーは2004年にアルバム「Rabbi」でデビューしてセンセーションを巻き起こしたパンジャーブ人スーフィー・ロック歌手である。18世紀のスーフィー詩人ブッレー・シャーの有名な詩をアレンジした曲「Bulla Ki Jaana」が空前の大ヒットとなり、一時期テレビやラジオを付けると必ず彼の歌が聞こえて来るほどであった。典型的なスィク教徒の外観の男がアコースティックギターをかき鳴らしてフォークソングを歌うというビジュアル的なギャップも当初はかなり受けていた記憶がある。ラッビーは主にパンジャービー語で歌を歌っている。パンジャービー語の楽曲と言うとどうしてもバーングラーが思い浮かぶのだが、ラッビーの音楽的貢献は、西洋音楽にパンジャービー語を乗せて歌うという新境地を切り開いたことだとされる。2008年にはセカンドアルバム「Avengi Ja Nahin」もリリースされている。

 そんな訳でラッビー・シェールギルには非常に期待していたのだが、ステージ上でのパフォーマンスはお世辞にも上手なものではなかった。彼の持ち曲で観客を沸かせる力があるのは今のところ「Bulla Ki Jaana」と「Tere Bin」の2曲のみで、それ以外の楽曲は非常に退屈であった。しかもラッビーは基本的に音痴であることが分かってしまったし、作詞作曲能力にも疑問を感じた。ギター、ベース、ドラム、キーボードなどの伴奏者もそんなにうまいとは感じなかった。はっきり言って大学のバンドレベルである。そしてインド人観客は残酷なまでに正直であり、ラッビーが歌い出した途端、こいつはダメだと、次々と席を立ち始めた。さらに悪いことに、ラッビーは観客が待ち望んでいた「Bulla Ki Jaana」と「Tere Bin」を最後の取って置きにしていたため、それらが出て来るまでに大半の我慢強くない観客は退屈して帰ってしまっていた。

 デリーでは遺跡を舞台にした音楽・舞踊祭がいくつか催されている。豊かな歴史と遺産が残るデリーならではの演出で、非常に出演者のパフォーマンスを幻想的に彩ることが多いのだが、アラブ・キ・サラーイからはそれほど遺跡としての魅力を感じなかった。その点では、プラーナー・キラーやメヘラウリーのジャハーズ・マハルの方が上である。

 Jahan-e-Khusrauには多大な期待を寄せていたのだが、残念ながら本日は失敗が多すぎた。日本人として、小野雅子さんのJahan-e-Khusrau出演は素直に賞賛したいが、今日は全体的にショーとしての魅力に乏しかった。開き直ってポジティブに考えれば、ラッビー・シェールギルが単なる一発屋であることが分かったぐらいが収穫だと言える。会場にはデリーのシーラー・ディークシト州首相、ICCR(インド文化関係評議会)のカラン・スィン会長、シャシ・タルール副外相などが来場していたが、見所に乏しく、主催者のムザッファル・アリーにとっても赤っ恥の1日になってしまったのではないかと思う。

2月27日(土) Karthik Calling Karthik

 21世紀の最初の年である2001年は、911事件のおかげで、イエス・キリストの誕生と同様に世界史の分岐点として今後記録されることになるだろう。インド映画史にとっても2001年は重要な年である。何しろ現代ヒンディー語映画のターニングポイントとされる傑作「Lagaan」が公開された年なのである。ヒンディー語映画の歴史は「Lagaan」以前と以後に分かれるということは、あれから10年が過ぎようとしている今になってより明確になっている。だが、2001年の大きな事件は「Lagaan」だけではなかった。他にもいくつか重要な出来事があった。それは例えば、ミーラー・ナーイル監督のヒングリッシュ映画「モンスーン・ウェディング」(2001年)が一般公開されて上々の興行成績を収め、今まで専ら映画祭向けに制作されて来た非娯楽映画が映画館にて一般公開されることがタブーではなくなったことも大きな事件であった。さらに、新感覚の青春群像劇「Dil Chahta Hai」が都市の若者から熱狂的に支持され、脚本中心の新しい娯楽映画の基礎が作られたのも2001年であった。その「Dil Chahta Hai」で監督デビューを果たしたのが、当時弱冠27歳のファルハーン・アクタルであった。「Dil Chahta Hai」そのものの衝撃も強かったのだが、彼の成功のおかげで、その後、若く無名だが才能のある映画監督にチャンスが与えられることが多くなり、様々な新人監督のデビュー・ラッシュが続いて、ボリウッドの若返りが一気に進んだ。そういう意味でも彼の貢献は非常に大きい。ところが、ファルハーン・アクタルは何本か映画を監督して来ているのだが、未だにデビュー作「Dil Chahta Hai」を越えるような作品を作れずにいる。そんな中、気分転換のためであろうか、元々の趣味だったバンド活動をそのまま活かして、「Rock On!!」(2008年)でロックスターを演じ、俳優業にも進出した。「Rock On!!」が大ヒットとなったのに気を良くしたのだろう、最近は俳優業の方にも力を入れるようになっており、すぐにも監督作よりも出演作の数の方が多くなりそうな勢いである。だが、才能ある監督であるため、監督業の方も疎かにしないで欲しいものだ。

 ファルハーン・アクタルの俳優第3作「Karthik Calling Karthik」が昨日公開となった。ヒロインは若手トップスターのディーピカー・パードゥコーン。監督はTVCM界で活躍していたヴィジャイ・ラールワーニーで、本作が監督デビュー作となる。ファルハーンとディーピカーの組み合わせはなかなか面白く、話題作の1本となっていた。



題名:Karthik Calling Karthik
読み:カールティク・コーリング・カールティク
意味:カールティクに電話するカールティク
邦題:カールティク・コーリング・カールティク

監督:ヴィジャイ・ラールワーニー
制作:リテーシュ・スィドワーニー、ファルハーン・アクタル
音楽:シャンカル・エヘサーン・ロイ
歌詞:ジャーヴェード・アクタル
衣装:ニハーリカー・カーン
出演:ファルハーン・アクタル、ディーピカー・パードゥコーン、ラーム・カプール、ヴィヴァーン・バテーナー、ヴィピン・シャルマー、ヤティーン・カールエーカル、シェーファーリー・シャーなど
備考:サティヤム・ネルー・プレイスで鑑賞。

ディーピカー・パードゥコーン(左)とファルハーン・アクタル(右)

あらすじ
 ムンバイーの不動産会社に勤めるカールティク・ナーラーヤン(ファルハーン・アクタル)は、優秀な会計士であったが自己主張が苦手だったために周囲からいいように利用され、みじめな毎日を送っていた。同僚のアーシーシュ(ヴィヴァーン・バテーナー)からは仕事を押しつけられ、社長のラージ・カーマト(ラーム・カプール)からはこき使われ、大家にも不当な請求を繰り返されていた。カールティクは上司のショーナーリー・ムカルジー(ディーピカー・パードゥコーン)に片思いしていたが、ショーナーリーはアーシーシュと付き合っており、カールティクの存在自体に気付いていない状態であった。

 カールティクは、幼少の頃に兄を井戸に突き落として殺してしまったというトラウマに悩まされており、精神科医のシュエーター・カパーリヤー(シェーファーリー・シャー)に掛かっていた。シュエーターは気弱なカールティクに、簡単に他人に屈してはいけないと助言する。カールティクはとりあえず社長に意見するが、怒った社長は彼を解雇してしまう。

 職を失ったカールティクは絶望のまま家に閉じこもっていた。遂には睡眠薬自殺を図る。すると、最近新しく買った電話が突然鳴る。彼が受話器を取ると、カールティクと名乗る男からの電話だった。それだけでなく、受話器の向こうで話しているのはなんとカールティク自身であった。その証拠に、カールティクしか知らないようなことを電話のカールティクは知っていた。電話のカールティクは彼に、人生をやり直すための秘策を伝授する。カールティクは半信半疑のままにその助言通りに行動する。嫌なことにははっきりとノーと言い、自己の権利を主張し、相手の弱みにつけ込むようになった。ファッションにも気を遣うようになり、見違えるほど立派な外見となった。すると、人生は不思議と好転し始め、大家の態度は急変し、元の会社で幹部として働くことになり、ショーナーリーをアーシーシュと別れさせ、代わりに彼女の心を射止める。カールティクからの電話は毎日早朝5時にあり、カールティクは何時間も電話の向こうのカールティクと話をする毎日であった。

 ある日、電話のカールティクは彼に、自分自身から電話が掛かって来ることを誰にも口外するなという忠告を与える。だが、ショーナーリーから絶対に隠し事をしないように約束させられたカールティクは、自分自身から電話が掛かって来ることを彼女に明かしてしまう。ショーナーリーはカールティクが精神病を患っていると考え、精神科医に掛かるように言う。だが、電話のカールティクは、忠告を守らなかったことを責め、絶対に精神科医にところには行くなと言う。ショーナーリーと電話のカールティクの間に板挟みになったカールティクはどうしたらいいか分からなくなるが、とりあえずショーナーリーの言うことを聞き、シュエーターに相談しに行く。シュエーターは、電話が掛かって来ることなどは全て幻覚だと言うが、カールティクは、それは幻覚ではなく現実だと主張して譲らない。カールティクの病状を心配したシュエーターは早朝5時にカールティクの家へ行って様子を見る。すると、本当に5時にカールティク自身から電話が掛かって来た。当のカールティクは彼女の目の前にいた。恐ろしくなったシュエーターは家を飛び出してしまう。

 次にショーナーリーが早朝5時にカールティクの家に陣取り、電話を待つことになった。この際も5時に電話が鳴り出すが、ショーナーリーはカールティクが電話に出ることを禁止し、自分を取るか電話を取るかの二択を要求する。すっかり怯えてしまったカールティクは、ショーナーリーを手に入れられたのも電話のカールティクの助言のおかげだと考え、ショーナーリーよりも電話のカールティクを選ぶ。翌日早朝5時に掛かって来た電話で、電話のカールティクは激怒しており、彼を破滅させると宣言する。出社してみると、社長、お得意先、ショーナーリーのところに「カールティク」から誹謗中傷や脅しの電話が行っていたことが分かり、会社は首となり、ショーナーリーからも見放されてしまう。さらに、銀行口座に貯蓄してあった貯金もテレバンキングによって慈善団体に全額寄付されてしまっていた。カールティクは一気に全てを失ってしまった。

 カールティクは金目の持ち物を全て売り払い、その金で自分自身すら知らない遠くへ逃げることにする。彼は目的地の分からない切符を買い、盲人の振りをして全く見知らぬ宿に宿泊し、部屋からテレビや電話を排除し、とにかく自分がどこにいるのか分からない状態で過ごすことにした。こうすることでやっと電話のカールティクから解放されたのだった。

 カールティクが行き着いた先はケーララ州のコーチンだった。彼はコーチンのクーリエ会社で働き始める。だが、上司から電話を買うように命令され、仕方なく電話機を購入する。彼は試しに、以前と同じモデルの電話機を購入してみる。だが、電話局に特別に頼んで、自分の電話番号が自分で分からない状態にした。翌日、5時になっても電話は掛かって来なかった。遂に電話のカールティクを克服したと考えた彼は、久し振りにショーナーリーにEメールを送って報告する。

 カールティクと別れて以来、いきなり行方不明になってしまった彼を心配していたショーナーリーは、彼からのEメールが届いた途端にシュエーターに相談しに行く。シュエーターは独自にカールティクの症状について調査を続けていた。彼女はカールティクを解離性同一性障害だと診断する。そして、5時に電話が掛かって来るのは、彼が持っていた電話機に付属していたリマインダーコール機能が原因だと突き止めていた。カールティクは幼少時から、いもしない兄の幻覚を見ており、その兄を殺してしまったと思い込んで生きていた。それと同様のことが大人になってからも形を変えて起こっていた。彼は無意識の内にリマインダーコール機能を使って自分自身に向けたメッセージを録音し、早朝5時にそのメッセージが再生されるようにセットしていたのだった。また、最近彼が電話機を買った直後に何もメッセージがなかったのは、まだ買ったばかりでセットされていなかったからだった。

 ショーナーリーは急いでコーチンへ向かい、カールティクを探す。一方、この日の5時にカールティクは再び電話のカールティクから電話が掛かって来る。この出来事にショックを受けた彼は、再び睡眠薬自殺を図る。だが、そこへショーナーリーが駆けつける。カールティクは何とか一命を取り留めるが、以後も電話への恐怖症はなかなか取れなかった。

 前知識なしで見に行ったが、意外にもサスペンスやホラーに分類される映画で、そうは予想してなかったために驚いた。自分からの電話が掛かって来るという設定は一見ファンタジーにも見えたが、クライマックスでその種明かしがされており、結局は多重人格と電話の付属機能が原因だったとされて、医学的・技術的に裏付けがされていたいたため、ファンタジーではない。自己の理想像の投影が現実の自己に影響を及ぼすという設定は、ハリウッド映画「Fight Club」(1999年)にも似ていた。電話一本で人生が激変するという展開は多少強引な気もしたし、自分からの電話というミステリアスな事件を精神病でまとめていたのも陳腐な気がしたが、映画としてはよくまとまっており、ハリウッド的娯楽映画に仕上がっていた。だが、僕は以前からインド映画のハリウッド化には反対の立場で、「My Name Is Khan」と並んで、必要以上に高く評価することは避けたい。インド映画はインド映画なりの進化の方向を模索するべきである。もしインド映画がハリウッドと同様の映画ばかりになってしまったら、圧倒的な資本力と技術の蓄積を擁するハリウッドにかなうはずがなく、すぐにハリウッドに顧客を奪われて壊滅させられてしまうだろう。もっとも、そんな極端なことにはならないと信じているが。

 最近のヒンディー語映画には、最新のコミュニケーション・ツールがストーリー中にうまく組み込まれていることにある。携帯電話をストーリー進行上重要な小道具として利用する習慣は「Company」(2002年)の頃から始まり、今ではもう普通の道具になっているが、最近ではEメールやチャットが自然にストーリーの中に溶け込んでいるのを目にすることが多くなった。「Karthik Calling Karthik」でも、ウェブメールのドラフト機能が、ロマンス・シークエンスの進行上に重要な役割を果たす。だが、携帯電話全盛の時代に敢えて家庭用電話をストーリーの中心に持って来て、その付属機能であるリマインダーコールを上手に利用したのは面白かった。ちなみに、主人公カールティクが購入した電話機は明らかに韓国製のものだが、映画中では「日本製」ということになっている。

 ファルハーン・アクタルは今回、気弱でいじめられっ子体質の会社員を誠実に演じており、俳優としての成長を感じさせられた。インドは皆自己主張が強いイメージがあるが、人口が多いだけあって、こんなインド人も中にはいる。その彼が他の一般のインド人みたいな態度を取り始めたら急に優位に立つという展開は、誠実に生きることを否定するようなメッセージに受け止められもしたが、あくまでサスペンス映画であり、その点に深入りして分析する必要はないだろう。

 ディーピカー・パードゥコーンは今回も魅力的であった。肩や腿など、露出度の多い服を着ていたためであろうか、いつになくセクシーにも見えた。自然な表情の作り方もうまくなっており、女優として自信を付けて着たことがうかがわれた。ヒンディー語が苦手な彼女が今回自分で台詞をしゃべていたのかどうかは不明だが、「Love Aaj Kal」(2009年)に続いて自分の声なのではないかと感じた。

 音楽はシャンカル・エヘサーン・ロイで、歌詞をファルハーン・アクタルの父親のジャーヴェード・アクタルが担当している。ストーリー中心の映画で、音楽は二の次であったが、ディーピカーが楽しそうに踊る「Uff Teri Adaa」などは良かった。

 「Karthik Calling Karthik」は、典型的ボリウッド娯楽映画の文法からは全く外れた、グローバル・スタンダードなサスペンス映画である。普通に映画を楽しみたい人には向いているが、インド映画らしいインド映画を求める人々には物足りなく感じるだろう。主演2人の演技のレベルは高く、特にディーピカー・パードゥコーンのファンにはオススメできる。だが、観客を選ぶ映画であるため、興行的な成功は難しいかもしれない。

2月28日(日) フィルムフェア賞2009

 2月11日の日記でフィルムフェア賞のノミニーを掲載したが、早くも受賞者・受賞作品が決定したので、それをまとめておく。

賞の名前 受賞者・受賞作品
作品賞
Best Film
3 Idiots
批評家が選ぶ作品賞
Best Film (Critics)
Firaaq
監督賞
Best Director
ラージクマール・ヒーラーニー
3 Idiots
主演男優賞
Best Actor in a Leading Role (Male)
アミターブ・バッチャン
Paa
主演女優賞
Best Actor in a Leading Role (Female)
ヴィディヤー・バーラン
Paa
批評家が選ぶ男優賞
Best Actor Male (Critics)
ランビール・カプール
Wake Up Sid,
Ajab Prem Ki Ghazab Kahani,
Rocket Singh - Salesman of the Year
批評家が選ぶ女優賞
Best Actor Female (Critics)
マーヒー・ギル
Dev. D
助演男優賞
Best Supporting Actor (Male)
ボーマン・イーラーニー
3 Idiots
助演女優賞
Best Supporting Actor (Female)
カールキー・ケクラン
Dev. D
新人賞(男性)
Best Debut (Male)
アヤーン・ムカルジー
Wake Up Sid
新人賞(女性)
Best Debut (Female)
ゾーヤー・アクタル
Luck By Chance
台詞賞
Best Dialogue
アビジート・ジョーシー
ラージクマール・ヒーラーニー
3 Idiots
脚本賞
Best Screenplay
アビジート・ジョーシー
ラージクマール・ヒーラーニー
ヴィドゥ・ヴィノード・チョープラー
3 Idiots
ストーリー賞
Best Story
アビジート・ジョーシー
ラージクマール・ヒーラーニー
3 Idiots
音楽賞
Best Music
ARレヘマーン
Delhi-6
RDブルマン賞
RD Burman Award
アミト・トリヴェーディー
Dev. D
作詞賞
Best Lyrics
イルシャード・カーミル
Ajj Din Chadheya - Love Aaj Kal
男性プレイバックシンガー賞
Best Playback Singer (Male)
モーヒト・チャウハーン
Masakali - Delhi-6
女性プレイバックシンガー賞
Best Playback Singer (Female)
カヴィター・セート
Iktara - Wake Up Sid
レーカー・バールドワージ
Genda Phool - Delhi-6
衣装デザイン賞
Best Costume Design
ヴァイシャーリー・メーナン
Firaaq
編集賞
Best Editing
シュリーカル・プラサード
Firaaq
音響賞
Best Sound
マーナス・チャウダリー
Firaaq
振付賞
Best Choreography
ボスコ・シーザー
Chor Bazaari - Love Aaj Kal
視覚効果賞
Best Visual Effects
ゴーヴァルダン・ヴィグラン
ヴィナイ・スィン・チュパル
Kaminey
撮影賞
Best Cinematography
ラージーヴ・ラヴィ
Dev. D
BGM賞
Best Background Score
アミト・トリヴェーディー
Dev. D
プロダクションデザイン・芸術賞
Best Production Design & Art Director
ヘレン・ジョーンズ
スカーンター・パーニグラヒー
Dev. D
アクション賞
Best Action
ヴィジャヤン・マスター
Wanted

 他に、長年に渡ってヒンディー語映画の発展に寄与して来た人物に与えられる生涯貢献賞には、音楽監督のカイヤームと男優のシャシ・カプールが選ばれた。

 多少変則的な部分も見受けられる。例えば女性プレイバックシンガー賞が2人選ばれている。票数が同じだったために2人選出ということになったのだろうか?また、新人賞に、俳優ではなく監督のゾーヤー・アクタルが選ばれている。通常は女優が選ばれるのだが、今年はいい新人女優がいなかったのだろうか?確か「Dev. D」のマーヒー・ギルが2009年デビューのはずだが。他に思い当たるのは「Kal Kissne Dekha」のヴァイシャーリー・デーサーイーと「Aladin」のジャクリン・フェルナンデスぐらいか。

 主な映画別に受賞数まとめると以下のようになる。ちなみに主要賞とは、事前にノミニーが発表される10賞――作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、助演男優賞、助演女優賞、音楽賞、作詞賞、プレイバックシンガー賞(男性・女性)――を指す。その他の賞は、批評家賞、技術賞、新人賞などになる。

映画名 主要賞 その他の賞 合計
3 Idiots 3 3 6
Delhi-6 3 0 3
Paa 2 0 2
Dev. D 1 5 6
Wake Up Sid 1 2 3
Love Aaj Kal 1 1 2
Firaaq 0 4 4

 非常に順当な結果だと言える。2009年最大のヒット作となった「3 Idiots」が作品賞と監督賞をW受賞した他、ボーマン・イーラーニーが助演男優賞を取り、主要賞3賞でトップに立った他、技術賞を含めて合計6賞となり、名実共に2009年でもっとも成功した作品となった。一方、2009年の穴馬とも言える「Dev. D」が、主要賞1賞(助演女優賞)ながら、技術賞その他で5賞を稼ぎ、合計6賞で「3 Idiots」と並んだ。従来の娯楽映画のフォーマットを極限まで磨き上げた「3 Idiots」と、インド人にポピュラーなストーリーを斬新な手法で映画化した「Dev. D」の2作品が今年のボリウッドを牽引したことが顕著となっている。

 合計受賞数で意外な存在感を示しているのが、ナンディター・ダース監督作「Firaaq」。主要賞はゼロだが、批評家賞や技術賞で点数を稼ぎ、合計4賞を受賞した。映画祭向け映画ではあるが、非常に完成度の高い作品であったが、映画賞におけるこの健闘は意外であった。

 他に目立つのは、「Delhi-6」と「Paa」である。「Delhi-6」は、映画そのものはフロップに終わってしまったものの音楽は素晴らしかった。それを象徴するように、音楽関連の賞で主要賞3賞に輝いている。一方、「Paa」は主演のアミターブ・バッチャンとヴィディヤー・バーランがそれぞれ主演男優賞と主演女優賞を受賞しており、俳優の演技力のみで賞を勝ち取っている。

 他には「Wake Up Sid」、「Love Aaj Kal」が合計2賞を受賞した他、「Rocket Singh - Salesman of the Year」、「Kaminey」、「Wanted」などもそれぞれ1賞受賞している。残念だったのは1賞も受賞できなかった「New York」だ。特に主演のカトリーナ・カイフは「New York」では好演しており、ノミネートもされていたのだが、賞には届かなかった。それでも、2009年の主要作品はフィルムフェア賞で網羅されていると言っていいだろう。



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