スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2003年5月

装飾下

|| 目次 ||
▼東北インド旅行(5月1日〜6月12日)
旅行■1日(木)ブラフマプトラ・メイル
旅行■2日(金)グワーハーティー到着
旅行■3日(土)グワーハーティー寺院巡り
旅行■4日(日)ジョールハート
旅行■5日(月)マジューリー日帰りツアー
旅行■6日(火)古都シヴァサーガル
旅行■7日(水)雲の王都シロン
旅行■8日(木)雨に愛された町チェッラプンジ
旅行■9日(金)巨人の遊び場ジャインティア・ヒルズ
旅行■10日(土)再びグワーハーティー
旅行■11日(日)交通の要所スィリーグリー
旅行■12日(月)紅茶都市ダージリン
旅行■13日(火)ダージリン観光
旅行■14日(水)ダージリン戒厳令
旅行■15日(木)カリンポン、そしてガントク
旅行■16日(金)ルムテク&ガントク観光
旅行■17日(土)ペリン
旅行■18日(日)カンチャンジャンガー
旅行■19日(月)ブータン突入
旅行■20日(火)ティンプー散策
旅行■21日(水)パロへ
旅行■22日(木)パロ観光
旅行■23日(金)ティンプーに帰還
旅行■24日(土)土曜のティンプー
旅行■25日(日)ワンデュ・ポダン
旅行■26日(月)プナカ
旅行■27日(火)火曜のティンプー
旅行■28日(水)怒涛の越境
旅行■29日(木)マンゴーの街マールダー
旅行■30日(金)ガウル&パーンドゥアー
旅行■31日(土)ベールハムプル&ムルシダーバード

※旅行地図を用意しました。左の「旅行MAP」をクリックして下さい。

5月1日(木) ブラフマプトラ・メイル

 デリーからグワーハーティーへ行く列車はいくつかあったが、時間帯から判断して僕は4056ブラフマプトラ・メイルを利用することにした。オールド・デリー駅を夜9時に出発し、翌々日の昼2時にグワーハーティーに到着する便である。「メイル」と名の付く列車は元々郵便配達用の列車だったようだが、今では旅客列車と同様の扱いになっている。エクスプレスよりも少し格が落ちるイメージがある。僕はスリーパー・クラス、つまり寝台席の一番安い席を買っていた。

 昨夜は出発時間に間に合うようにオールド・デリー駅へ行ったのだが、ブラフマプトラ・メイルはいきなり3時間遅れの11時50分発に変更されていた。やれやれ・・・と溜息が出る。3時間もオールド・デリー駅のプラットフォームの雑踏の中で待つのはしんどいので、ISBT(カシュミーリー・ゲート)近くにあるマクドナルドで時間を潰すことにした。ここのマクドナルドはデリー・メトロ開通に伴って新しく開店した支店で、ISBTのバス出発を待ったり、今回のようにオールド・デリー駅発の列車の出発を待ったりするのに便利だ。夜は11時まで営業している。

 11時過ぎに再びオールド・デリー駅へ行ってみると、既にプラットフォームに列車が来ていた。早速乗り込んで自分の席を探す。3時間出発が遅れているために車内は既に人と荷物でいっぱいだ。僕の席は幸い比較的楽な3段ベッドの一番上の寝台になっていた。そこを見てみると・・・誰かおじさんが寝ている・・・。インドではよくあることだ。即どかして僕がそこに寝る。ふぅ・・・と落ち着いて周りを見渡してみると、明らかに許容量より多くの乗客が溢れ返っている。8人のコンパートメントになぜか10人以上の人間がひしめいているのだ。こいつらどうやって寝るつもりなんだ・・・?天井には汚ない扇風機が3つ。真ん中の扇風機は故障のため動いていない。扇風機には黒ずんだ蜘蛛の巣がベッタリとまとわりついている。やっぱりメイルは格下の列車のようだ。深夜12時過ぎにやっと列車は動き出した。

 早朝目が覚めた。他の乗客もポツリポツリと起き出している。下を見てみると、床に人が寝ている。やっぱりそうするしかないよな・・・と思い、床に寝ている人を踏みつけないように気をつけつつトイレへ行く。そしてまた自分の寝台に戻って一眠りした。

 インドの寝台列車は8人一組のコンパートメントになっている。3段ベッドが2つと、2段ベッドが1つ。3段ベッドの中段は折りたためるようになっており、それがそのまま座席の背もたれになる。昼間は中段を折りたたんで下段に座って同じコンパートメントになった者同士で取り留めのない話をしたりして時間を潰すのが一般的な列車旅行スタイルである。ところが昼間になって下を見てみると、6人掛けのはずの椅子に既に8、9人の人が座っている。僕の座る場所がない。しかも乗客同士でどこに荷物を置くか言い争っており、少し席を外すと僕の寝台に荷物を置かれそうな雰囲気だ。仕方ない、このまま上の寝台で過ごすか・・・。結局今日はほとんどずっと寝台の上で寝て過ごした。だから列車がどこをどう通っているのか全く分からなかった。日中は非常に暑かった・・・。

5月2日(金) グワーハーティー到着

 早朝6時頃、列車はニュージャルパーイーグリー駅(一般にNJPと呼ばれている)に停車していた。ニュージャルパーイーグリーは西ベンガル州北部の交通の要所にある場所だ。ここからひたすら東進してアッサム州を目指す。なんだか湿っぽいな、と思ったら、外では雨が降っていた。ニュージャルパーイーグリー駅で降りた人がけっこういたようで、車内は昨日よりは空いていた。おかげで今日は下の座席に座ることができた。

 列車から西ベンガル州北部〜アッサム州の風景を見ていた。果てしな〜く水田が続いていた。これが「ショナル・バングラ(黄金のベンガル)」か・・・。これだけ米があれば、10億人のインド人を養っていくことも可能だろう。水田の合間に熱帯性の植物が生い茂り、去年のちょうど同じ時期に旅行したスリランカを思い出した。ケーララ州の風景にも似ていた。バングラデシュには行ったことがないが、おそらくこんな風景なのだろう。バングラデシュとの国境はすぐそこである。

 ニュージャルパーイーグリー駅を出た列車はなぜか鈍行列車と変わらなくなり、途中にある小さな田舎の駅にいちいち停まるようになった。おかげで途中の村の様子を垣間見ることができたが、はっきり言って超ド級のド田舎である。こんな開発が進んでいない場所はインドで初めて見たかもしれない。家は木や葉っぱで作られ、道路に自動車の数はほとんどなく、電線もあるのかないのか分からない状態だ。しかし美しかった。自然に見事に融合した人間の生き様がそこにあった。だが一方で、もしグワーハーティーもこんなだったらどうしよう・・・と不安になってしまった。僕の心の中には自然と共に生きる田舎の生活への憧憬があるが、いざド田舎へ行くとなるとやはり不安になるという矛盾した感情がある。

 いつ西ベンガル州からアッサム州に入ったのかは分からなかった。しかし遂に憧れの土地である東北インドに足を踏み入れることができた。東北・・・と聞くとなぜか辺境の地が思い浮かぶ。日本の東北地方、中国の東北地方、タイの東北地方、なぜかアジアにおいて東北が付く地域は辺境のイメージが浮かぶ場所が多い。インドも例外ではない。東北インドはインド中央部に住む人々にとっては辺境であり、全く異質の文化を持った土地なのだ。これからインドの一般的な習慣に従って、東北インドの7州(セブン・シスターズ)のある地域をノース・イーストと呼ぶことにする。

 途中列車はブラフマプトラ河を渡った。ブラフマプトラ河はノース・イーストを貫通してバングラデシュへ流れ込み、ガンガーやヤムナーと合流する大河である。ガンガーやヤムナーにも劣らない巨大で悠々とした河だった。もちろん、僕が乗ったブラフマプトラ・メイルはこの河から名付けられている。

 ブラフマプトラ河を渡ると、文明の匂いのする建物、村落がちらほらと見え始めた。同時に、薄汚れたスラムや、スラムの住人の姿も目に付くようになって来た。もうそこはグワーハーティーだった。午後5時にグワーハーティー駅に到着した。デリーからざっと41時間列車に乗っていた。西から東まで2053Km、インドを横断したことになる。とにかく疲れた・・・。早くシャワーを浴びたい・・・。

 グワーハーティーは古名をプラーグジョーティシュプラと言い、「マハーバーラタ」にも登場するくらい由緒正しい街である。しかし他のインドの古都と同じく、現在では小汚ない街となっていた。雰囲気はやはりケーララ州の州都ティルヴァナンタプラムを思い起こさせた。アッサム州だけでなく、ノース・イーストの中心的な都市であるが、アッサム州の州都ではない。州都は隣にあるディースプルだ。列車から降り立って少し歩いたのだが、ジメジメしていて汗ばむ。アッサムというと紅茶の名産地として有名だ。だからてっきり涼しいところなのかと思っていたが、少なくともグワーハーティーは湿気の多い場所だ。

 僕は駅前にあるアッサム州観光局経営のツーリスト・ロッジ・プラシャーンティに泊まった。シングルで230ルピー。スタッフがフレンドリーで、部屋も快適だった。

5月3日(土) グワーハーティー寺院巡り

 朝起きると外は雨だった。しかも大雨。このまま止まなかったら困るな、と思いつつ朝食を食べて準備をしていたら、いつの間にか止んでいた。しかし空はどんよりとした曇り空。いつまた雨が降り出してもおかしくはない。だが雨ごときでひるんではいけない。勇気を出して外に出た。

 今日はグワーハーティー観光をする。グワーハーティーは古い街だけあって、いくつか面白そうな寺院がある。まずはブラフマプトラ河に浮かぶピーコック島にあるウマーナンダ寺院へ行くことにした。

 ホテルからブラフマプトラ河沿いに延びるMGロードへ出て、船着場を探した。ブラフマプトラ河沿岸にはいくつも船着場があり、対岸に渡ったり、市内移動の交通手段としてボートが利用されている。また、沿岸にはいくつかボート・レストランが浮かんでいる。その中でウマーナンダ寺院行きの船着場を見つけ、ボートに乗り込む。本日最初の便(10:00AM)だったようだ。往復10ルピー。




ピーコック島とブラフマプトラ河


 同じボートに偶然ブータン人の兄妹と乗り合わせた。と言ってもネパール系のブータン人で、グワーハーティーに何かの仕事で来ているようだ。ヒンディー語を普通に話すことができて、英語もできた。これからブータンに行く予定だ、と言うと驚いていた。幸先の良い出会いだった。

 ウマーナンダ寺院はシヴァ寺院で、寺院の地下にシヴァ・リンガが祀ってあった。けっこうコマーシャリズムが浸透していて、お布施を半ば強制的に払わされた。ウマーナンダ寺院の隣には、1820年に建てられた古い寺院もあったが、建築的に面白いものではなかった。この寺院はただ単にロケーションが面白いだけだった。ピーコック島という割には孔雀もいなかった。

 ウマーナンダ寺院から本土に戻り、そこから歩いて今度はナヴァグラハ寺院を目指した。ナヴァグラハ寺院はグワーハーティーの東端にあるチットラーチャルの丘の上にある。地図では近いように思えたのだが、実際に行ってみると非常に遠かった。ジャングルの中の坂道を上がっていくような感じだった。しかも朝雨が降ったせいで湿気ムンムン。汗ビッショリになりつつも、やっと丘の上にあるナヴァグラハ寺院に辿り着いた。

 ナヴァグラハとは九曜星、つまりスーリヤ(太陽)、ソーム(月)、マンガル(火星)、ブド(水星)、ブリハスパティ(木星)、シュクル(金星)、シャニ(土星)、ラーフ(蝕星)、ケートゥ(彗星)のことで、インドの天文学、占星学において重要な働きを持つ神様たちのことである。実際、このナヴァグラハ寺院は天文学と占星学の中心地だったようだ。

 ナヴァグラハ寺院は釣鐘をひっくり返したような形をした特徴的な形をした小さな寺院だった。多くの参拝客が訪れており、僕もどさくさに紛れて中に入ってみた(・・・というよりグワーハーティーの寺院は異教徒にも寛容である。普通に中に入れてくれる)。すると・・・そこは呆然と立ち尽くすに値する不思議な空間になっていた。真っ暗闇の中に、9つのリンガが立ち並んでおり、それぞれのリンガも周りにはびっしりとディーヤー(灯火)が置かれていた。まるでリンガを無数の星が取り囲んでいるかのようだった。参拝客はその上にさらにディーヤーを置いて礼拝する。この小さな小さな灯りの群れが、リンガの近くに座るパンディト(僧侶)や参拝客をボーッと暗闇の中に赤く浮かび上がらせていた。おそらくひとつひとつのリンガが9つの惑星を表しているのだろう。一番奥にあったリンガがもっとも参拝客を集めていたので、それがスーリヤか、またはシャニだろうと予想できた。寺院内部は異様な熱気で包まれており、吹き抜けの天井の上の方で換気扇が回っていた。




ナヴァグラハ寺院


 寺院の周りにはなぜかヴィシュヌの10アヴァタール(化身)が彫られていた。ナヴァグラハ寺院からは非常に眺めがよく、グワーハーティーの街を一望することができた。上から見てみるとグワーハーティーもなかなか大きな街だと思った。それともここから見えた街がアッサム州の州都ディースプルなのかもしれない。




チットラーチャルの丘の様子


 またも歩いて丘を下り、そのまま歩いてホテルに戻った。もう汗ビッショリになっていたので、シャワーを浴びて服を着替えて、昼食を食べてから再び外に出掛けた。

 次の目的地はグワーハーティーでもっとも有名な寺院と言われる、カーマーキャー寺院である。カーマーキャー寺院はグワーハーティー郊外にあるので、ステーション・ロードのバス停からカーマーキャー寺院行きのバスに乗って行った。4ルピーだった。

 やはりカーマーキャー寺院も丘の上にあったが、今度はバスがグイグイ登って行ってくれたので楽だった。カーマーキャー寺院はヒンドゥー教の一派、シャクティ派の中心地かつ、タントリズム発祥の地である。・・・と書きつつ僕もあまりそれらの用語を理解していないが、つまりは性行為を宗教儀式に取り込んだ信仰だと説明しておけばいいと思う。この寺院の由来はこうである。

カーマーキャー寺院の由来
 シヴァはサティーと結婚したが、サティーの父ダクシャはそれを面白く思っていなかった。ある日ダクシャはシヴァを招かずに宗教儀式を行い、それがサティーを傷つけた。サティーは父親に抗議するために火の中に投身自殺してしまう。それを知ったシヴァ神は絶望的悲しみに襲われ、サティーの遺体を抱いてインド中を滅茶苦茶に歩き回った。ヴィシュヌ神はシヴァを正気に返らせるため、サティーの遺体をチャクラ(円盤状の武器)で次々に切り落として行った。サティーの遺体が落ちた場所はインド各地に聖地として残っている。そしてサティーの女性器が落ちた場所がここカーマーキャー寺院である。一方、サティーがバラバラになるとシヴァは正気を取り戻し、ヒマーラヤへ帰って深い瞑想に入った。

 バスを降り、供え物を売る店が続く参道を少し上っていくと、すぐにカーマーキャー寺院が現れる。寺院のオリジナルは非常に古いのだろうが、ムスリムによって破壊されたり、復元したり、増築したりされているため、古いのか新しいのかよく分からない、なんとなく雑然とした雰囲気の寺院である。3つのドームがあり、一番高い塔を持つところが本堂のようだ。主な入り口は2つあり、正面から入るとカーマーキャー女神の像を金網越しに参拝することができるようになっているが、ここからは本堂に入れず、ここで参拝を済ます信者は少ない。一方、本堂の横の入り口の前に長い列ができており、そこから入るのが真の参拝である。例によって僕も入れてもらえることができたので、列に並んで中に入ることにした。




カーマーキャー寺院(奥)
手前の赤い寺院は別の寺院


 ヒンドゥー寺院に入ったことがある人なら分かるだろうが、あの暗くておどろおどろしい雰囲気はまるで悪魔教の寺院か、そうでなければディズニーランドか何かのアトラクションのようである。壁や床はねっとりとしており、独特の油の臭いが辺りに立ち込めている。そして地の底からうなり響いてくるようなマントラ詠唱の声。カーマーキャー寺院の本堂は地下に降りていくようになっているので、それはまるで地獄へ降りていく階段のように思えた。幸い、列に並んでいたインド人たちの表情が明るかったので、地獄へ降り立つような気分には寸前のところでならなかったが、思わず泣き出す子供の気持ちはよく分かるような気がした。カーマーキャー寺院の奥には、花で覆われたシヴァリンガらしきものがあったが、暗闇だったし、花と供え物で埋め尽くされていたので、いったい何があるのかよく分からなかった。地下にある水を飲め、と言われたが、なんだか気持ち悪くて飲めなかった。お布施も要求されたが、今回はパスしておいた。おかしな場所だった。カーマーキャー寺院の周辺には他にも多くの古い寺院が散在していたが、それらを見ることはしなかった。バスに乗ってグワーハーティーに戻った。

 今日1日歩き廻ってみて、だいぶグワーハーティーのことが分かったようだ。街の雰囲気はやはりティルヴァナンタプラムに似ている。何が似ているかというと、建物の全体的にくすんだ感じと、熱帯樹の緑の強烈な濃さのコントラストだ。ジャングルの中に人工的建物が申し訳なさそうにニョキニョキと顔を出しているような感じである。雨が降ると湿っぽいが、夕方は涼しくて過ごしやすい気候だった。また、駅の北側には裁判所が固まっているようで、黒い服を着た弁護士らしき人の姿が目立った。グワーハーティーのサイクル・リクシャーには雨除けのため折り畳み式の長い庇がついているし、オート・リクシャーには扉が付いている。治安上の問題からか、街に軍隊の姿が目立った。アッサム州の公用語はアッサミー語だが、ヒンディー語も十分通じた。文字はベンガリー文字とほぼ同じ。僕はベンガリー文字を読むことができないので口惜しい思いがした。ヒンディー語のデーヴナーグリー文字と共通点も多いので、何となく読める文字もけっこうあるのだが。街中の広告を見た限り、どうもグワーハーティーで一番の繁華街は、ファンシー・バーザールというところらしい。また機会があったら行ってみようと思う。

 夕方、ホテルのレストランでフィッシュ・カレーを食べてみたらけっこうおいしかった。ベンガル地方と同じく、アッサムも魚のおいしい地域のようだ。米もコリコリした食感でおいしい。

5月4日(日) ジョールハート

 グワーハーティー駅の南側にはパルターン・バススタンドという大規模な長距離バススタンドがある。公共バスとプライベート・バス、両方のバスが発着しており、セブン・シスターズ各州へ行くバスが頻繁に出入りしている。まさにセブン・シスターズの交通の中心部と言える。これら7州はかなりバス交通網が発達しているようだ。僕の憧れの土地、マニプル州やナーガーランド州行きのバスを見ると、ついついそちらへ乗り込んでしまいそうになる。日本人の顔があれば、ばれずにそれらの外国人立入禁止州にも行けてしまいそうだ。しかし今回はそっちまで足を伸ばす予定ではないので、グッとこらえた。

 今日は早朝パルターン・バススタンドからバスに乗ってグワーハーティーを発ち、アッサム州北西部の入り口の町ジョールハートへ向かった。プライベート・バスで140ルピーだった。

 バスはまずは南東へ向かい、アッサム州の州都ディースプルを通り抜けて行った。やはりディースプルはだだっ広くてあまり何もなさそうな街だった。ディースプルを抜けると突然田舎の風景に様変わりする。水田が果てしなく広がり、ポツポツと牛が草を食べており、木、竹、泥などで作られた家が林の中に立ち並んでいる。グワーハーティーにいる人の顔はまだアーリヤ系の血の臭いがしたが、この辺りの田舎にいる人々の顔はかなり東南アジア風味である。肌の黒いモンゴロイドと言っていいだろう。

 ここで僕は2回おんぶを見た。赤ちゃんを背中におんぶしていたのだ。実はインドで人が赤ちゃんをおんぶをしているところを見るのは稀である。前で抱っこするか、腰に引っ掛けるように横で抱くか、2タイプであることが多い。僕が思うに、モンゴロイドは比較的尻が小さいため、横ひっかけタイプの抱き方が不得意なのだと思う。インド人のお母さんなんかかなり大きな尻をしているから、赤ちゃんにとってそれは椅子のようなものだろう。同じように、アフリカ人も横ひっかけタイプの赤ちゃんの抱き方をよくするらしい。やはりアフリカ人のお母さんも尻は相当でかい。一方、インド人は太っているので、赤ちゃんを背中におんぶするのが不得意なのではないか。痩せていないと背中まで手が回らず、赤ちゃんをしっかりとキープすることができない。

 ナガーオンという町を過ぎた。すると突然広大な茶畑が道の両脇に現れるようになった。そういえばグワーハーティーよりも気候が涼しくなっている。今日は1日中曇っていたのでそう感じたのかもしれないが、ブラフマプトラ河の上流に向かっている形なので、標高が上がっていると考えていいだろう。茶の栽培に適した気候である。これがかの有名なアッサム・ティーの茶畑か・・・。少しだけ感動した。本当にどこまで行っても茶畑だった。

 アッサム・ティーの他にもアッサム州で有名なものがある。それは一角サイである。アフリカなどにいるサイは2本の角があるのだが、アッサム州にいるサイは1本しか角がなく、世界でもここにしか生息していないようだ。グワーハーティーの街中でも一角サイのトレード・マークをよく目にした(例えばアッサム州観光局やアッサム・オイル社のトレード・マークは一角サイである)。多分にもれず絶滅の危機に瀕しており、手厚く保護されている。ジョールハートに行く途中で一角サイが1500頭以上生息しているというカズィランガ国立公園近くを通り過ぎた。もちろん一角サイを見ることができなかったが。ちなみにアッサム州では石油が出るらしく、石油産業も茶栽培と並んでアッサム州の主要な産業である。

 グワーハーティーから約7時間でジョールハートに到着した。幹線道路沿いにある何の変哲もない町だった。しかし明日訪れる予定のマジューリーへの基点となる町である。バス停の近くにホテル街があり、ジョールハートで最高級というホテルに泊まることにした。と言ってもシングルで375ルピー。田舎町で安いホテルに泊まると停電のときにジェネレーターがなくて本当に停電になったり、虫が部屋で大運動会を繰り広げたりしているので、なるべく設備の整っていそうなホテルに泊まることにしている。

5月5日(月) マジューリー日帰りツアー

 アッサムに来て初めて晴天を見た気がする。今日はマジューリーへ行くため気合を入れて朝6時にホテルを出た。チェック・アウトし、荷物をフロントに預けて身軽な格好で出発した。今日はマジューリーへ日帰りで行き、さらにシヴァサーガルへ移動する予定である。

 マジューリーは世界最大の川中島である。ブラフマプトラ河の真ん中に浮かんでおり、886平方Kmの面積がある。マジューリーには現在22のサートラーが残っている。これだけが事前に僕が持っていたマジューリーに関する知識だった。いったい世界最大の川中島とはどんなものなのだろうか?サートラーって何だろうか?無性に好奇心が沸き、どうしても行ってみたくなったのだ。

 マジューリーへ行くためにはまずバスでジョールハートからニーマティー・ガートまで行き、そこでフェリーに乗ってマジュリーへ渡らなければならない。ところがせっかく6時にホテルを出たものの、ニーマティー行きのバスは7時半が始発だった。バスの中で1時間以上出発を待たなければならなかった。ジョールハートからニーマティーまで7ルピーだった。

 ニーマティー行きのバスはジョールハートから北に向かった。まずは竹林の中にある村を通り抜け、それを過ぎると今度は大湿地帯の中を貫いている悪路を、車体をゆっさゆっさと揺らしながら進んで行った。やがて沼地と砂浜の中間のような場所に出た。そこがニーマティー・ガートだった。ジョールハートから約1時間かかった。

 「ガート」というとヴァーラーナスィーの沐浴場がすぐに思い浮かんで来るが、どうもガートの元々の意味は船着場のようだ。ニーマティー・ガートにはヴァーラーナスィーのような、河に向かって降りていく階段もなく、沐浴をする人もなく、ただ船着場だけがあった。フェリーが1艘と、数艘の船が停留していた。陸地にはチャーイ屋など数軒の掘っ立て小屋が建っていたが、ヤギが落ち着かない雰囲気でうろついていたりして寂寥とした雰囲気だった。ふとタミル・ナードゥ州のラーメーシュワラムのアダムス・ブリッジ辺りを思い出した。その内向こうの方から人とバイクを満載したモーターボートがやって来た。その船が今日のマジューリー行きの第一便のようだ。9時過ぎにボートは再び乗客とバイクを満載して出発した。15ルピーだった。




過積載モーターボート


 僕はそのガートからマジューリーまでただフェリーで対岸まで渡るだけかと思っていた。だが15ルピーという運賃から想像がつくように、マジューリーまでの道は一筋縄ではいかなかった。そのままず〜っとボートはブラフマプトラ河を下り続けた。この辺りのブラフマプトラ河は湖と見間違うほどの流域を誇っており、船で河の中央部に行ったら、両岸がどちらも見えないくらいである。川中島がいくつも浮かんでおり、いったいどれがマジューリーかよく分からない。そうこうしている内に30分が経ち、そして1時間以上が過ぎてしまった。10時半頃、やっとボートは船着場に辿り着いた。

 ボートが接岸するや否や、乗客たちはボートから一目散に飛び降りる。陸ではボートのタイミングに合わせてバスが客を待っていた。つまりいい席を取るために彼らはこれほどまで急いでボートから降りて駆け出しているのだ。アッサム人もやっぱりインド人の血を引いているようだ・・・。

 マジューリーは湿原と森の広がる美しい場所だった。そして人も住んでおり、いくつか町がある。マジューリーで一番大きな町はガラムルという。とりあえずそこへ行けば何か起こるだろうと思い、ガラムル行きのバスに乗る。ガートからマジューリーまで10ルピーだった。マジューリーの道は一切舗装されておらず、とんでもない悪路である。だがバスから見える景色はまぶしいほどにのどかで美しかった。「地上の天国」、そんな言葉が僕の脳裏に浮かんだ。




地上の楽園マジューリー


 ガートからガラムルまでまた1時間ほどかかってしまった。思った以上に移動に時間がかかる。どうせならマジューリーに1泊する予定で来ればよかったと後悔し始めた。ガラムルに着いたときは既に11時半頃になっていた。

 マジューリー来訪の第一の目的はマジューリーがどんなところか見ることだったが、第二の目的はサートラーを見物することである。ガラムルにひとつサートラーがあったので、それをまず見ることにした。ガラムルの町の入り口付近に立派な門が建っており、それがサートラーへ通じる道の入り口となっていた。

 サートラーへの道をテクテク歩いていると、自転車に乗った青年が話し掛けて来た。彼の名はデニーといい、マジューリーでツーリスト・ガイドをしているらしい。マジュリーには3つの部族が住んでいるそうなのだが、彼はその中のミスィ族にあたるらしい。顔はモンゴロイド。どうも起源はチベットにある部族のようだ。彼とは同い年だったためにすぐに仲良くなり、いろいろとマジュリーのことについて教えてくれた。

 マジュリーには60以上のサートラーがあったそうだが、水没したり移転したりして、現在では22のサートラーが残っているそうだ。実はマジュリーは雨季(6月〜9月)に島のほとんどの部分が増水したブラフマプトラ河の下に沈んでしまう。しかしそれでも島には人が住んでおり、水没時にもそのまま住み続けているらしい。確かにマジューリーの人々の家を見ると、高床式になっている。多分そこまで増水するのだろうということが予想できた。毎年水没するため、道路も舗装されずにある。世界遺産に登録する動きもあるのだが、まだまだ実現の日は遠いようだ。マジューリーは秘境中の秘境と言ってよく、外国人旅行者はほとんど来ないが、ロンリー・プラネットに掲載されているため、来る人は来るようだ。彼が言うには僕は彼が会った3人目の日本人だそうだ。




マジューリーの典型的民家


 マジューリーを観光する際、もっともネックとなるのは宿である。ガラムルにサーキット・ハウスという政府の役人のための宿泊所があり、そこが空いていれば泊まることもできるが、確実ではない。またサートラーにはダラムシャーラー(巡礼者用のゲストハウス)があるので、そこに泊まることもできるが、設備は期待できないだろう。つまり、マジューリーは旅行者向けのゲストハウスが全くない場所なのだ。だからデニーはマジューリーにゲストハウスを作る夢を語ってくれた。確かにこんなに美しい場所はそうあるものではない。うまく宣伝すれば、秘境好きのバックパッカーたちがたくさんやって来るのではないだろうか?

 また、マジューリーまでの交通と、マジューリー内の交通、どちらも不便であるとしか言いようがない。僕の場合、ジョールハートからガラムルまで4時間もかかってしまった。しかもニーマティー・ガートに戻る最終のフェリーは2時らしい。それを逃したらジョールハートに帰れなくなる可能性が高い。ジョールハートから日帰りで来るにはしんどい場所のようだ。マジューリーで少なくとも1泊するような旅行プランで来るべきだろう。また、マジューリー内にはバスが通っているが、頻繁に通っているわけではないので使い勝手が悪い。オート・リクシャーも島に数台しかなく、常に拾えるものではない。一番いい方法は、誰かから自転車を借りて回る方法かもしれない。

 さて、サートラーに到着した。靴を脱いで敷地内に入る。デニーの説明によると、サートラーには僧侶が住んでおり、サンスクリト語、音楽、舞踊などを学んでいるらしい。サートラーごとにいろいろ特色があり、また規則も違うのだが、厳しいところではサートラーは女人禁制で、未婚の人しか住むことができないらしい。

 サートラーの基本となる建物(これこそがサートラーなのだが)は寺院とホールが一体化したような建物である。正方形の部屋と屋根の上に塔を持つ本殿があり、その前に長方形の細長いホールが伸びている。この様式の建物は、グワーハーティーからジョールハートに来る間の村でも何度も目にしていた。礼拝の場所であると同時に、集会所や催事場を兼ねた建物のようだ。ガラムルのサートラーのホールの内壁には、クリシュナの生涯の壁画が描かれていた。またガルダの像がホールの一番手前に置かれていた。この建物の周りにサートラー居住者の家がポツポツと立ち並んでおり、ブラーフマンが住んでいる。本殿内部も見せてもらったが、クリシュナやヴィシュヌなどの像が祀られていた。だが基本的に建物は再築されていて新しく、あまり面白くなかった。





ガラムルのサートラー



ホール


本殿に祀られている神像


 サートラーは仏教の僧院のようなものと考えていいだろう。修行僧が住み込みで宗教や芸術を学び、宗教儀式を行う場所のようだ。ヒンドゥー教のブラーフマン(僧侶)は世襲なので、元々僧院などは必要ない。このサートラーという文化はアッサム・ヒンドゥー独自のものと思われる。

 マジューリーで一番すごいサートラーはどこか、デニーに聞いてみたらアウニアティーというところが島で一番大きく、そして一番古いらしい。だがガラムルから10Km離れたところにあり、しかも道が非常に悪いようだ。オート・リクシャーで行く他ない。既に12時を回っており、帰りのフェリーが出発するまであと2時間もない。幸い、ガラムルの町に2台オートが停まっていたので、ガラムルからアウニアティー、アルニアティーからガートへ行ってもらうことにした。値段は涙の300ルピー。べらぼうに高い・・・が売り手市場なので仕方ない。島でオートは高級な移動手段なのだ。それで行ってもらうことにした。デニーとはガラムルで別れた。彼にガイド代を渡そうとしたら、「そういうつもりでガイドしたわけじゃない」と言って断られた。インドでガイドがガイド代を受け取ろうとしないのを初めて見た。しかしそれでも無理矢理受け取ってもらった。是非彼にはマジューリーにゲストハウスを作る夢を実現させてもらいたい。

 ガラムルからカムラーバリーという町を通り、そこからアウニアティーへ向かった。確かに道は相当悪く、途中で泥に車輪がはまってしまったこともあった。だが、なんとかガラムルから1時間足らずで到着することができた。

 アウニアティーのサートラーには宝物庫があり、パンディット・ジーがひとつひとつ説明してくれた。120年前の木の椅子やら、銀の大皿やら、ナーガー族のヤリやら、象牙やら、船の模型やら・・・。あまり楽しくなかったが、後から聞いた話では、ここに所蔵されている象牙はかなり貴重な品のようだ。

 次にアウニアティーのサートラーを見せてもらった。パンディト・ジーが言うには17世紀に建てられたものらしいが、やはりガラムルと同じく建物は再築されており、そう古くなかった。しかしホールの大きさはガラムルの2〜3倍はあり、やはりガルダの像が一番手前に飾られていた。本殿にはゴーヴィンダ(クリシュナ)やヴァスデーヴァ(クリシュナの父)などが祀られていた。




アウニアティーのサートラー


 僕は時間がなくて22あるサートラーの内のわずか2つしか見ることができなかったが、どうも建築や彫刻に期待をしてはいけないようである。かなり期待外れだった。その代わりデニーが言うには、運がよければダンスや音楽のパフォーマンスをサートラーで見ることができるようだ。

 2時のフェリーには間に合い、何とかジョールハートに戻ることができた。しかし帰りのフェリーはかなり鈍足で、しかもブラフマプトラ河の流れに逆らう形で進むことになったので、ニーマティー・ガートまで2時間半もかかってしまった。行きの2倍以上かかったことになる。

 5時半にジョールハートのホテルに戻った。そこで食事をとる。今日は思った以上にいろんなところで時間がかかってしまって食事をするタイミングが取れなかった。だから朝からサモーサーとチャーイしか口にしていなくてずっと腹ペコだった。クタクタに疲れていたのでそのままもう1泊してもよかったのだが、どうしても今日中にシヴァサーガルへ行っておきたかった。荷物を受け取った後、バス停に向かってシヴァサーガル行きのバスに乗り込んだ。バスは7時頃に出発し、シヴァサーガルには8時半過ぎに到着した。

 シヴァサーガルではアッサム州観光局経営のツーリスト・バンガローに宿泊した。部屋は広くて清潔で、宿の主人も親切な人だった。シングルで210ルピー。敷地内にツーリスト・オフィスがあるので便利である。

5月6日(火) 古都シヴァサーガル

 アッサム地方には13世紀から1826年まで600年以上続いたヒンドゥーの王朝があった。アホム王国である。日本で言えば鎌倉時代から江戸時代までずっと続いた王朝、ということになるだろう。アホム王国は現在のミャンマーに住んでいたシャン族がアッサム地方に侵入して作った王朝だったが、ヒンドゥー教を受容し、ムガル朝の17回に渡る攻撃を跳ね返して、独自のアッサム・ヒンドゥーを発展させた。そのアホム王国が600年間首都を置き続けた場所がこのシヴァサーガルである。

 シヴァサーガルの街の中心となるのは、街の名前と同名のシヴァサーガルという巨大な人造湖と、その湖畔に建つシヴァドール寺院である。僕の泊まったツーリスト・バンガローもシヴァ・サーガルの湖畔にあり、シヴァドール寺院から歩いてすぐである。今日はシヴァドール寺院から観光を始めた。

 シヴァドール寺院はアッサム地方で最も高い塔を持つシヴァ寺院である。高さは33mある。ロンリー・プラネットには「インドで最も高いシヴァ寺院」と書かれていたが、インドで最も高いシヴァ寺院はタミル・ナードゥ州のタンジャーヴルにあるブリハディーシュワラ寺院だろう(66m)。ツーリスト・オフィスでもらった観光案内にはちゃんと「アッサム地方で最も高いシヴァ寺院」と書かれていた。だが「シヴァ寺院」と限定するということは、他にもっと高いヒンドゥーの寺院があるということなのだろうか?別に高さで競い合っても仕方ないとは思うのだが・・・。1734年に造られた寺院だそうだ。

 シヴァドール寺院を実際に見てみると、はっきり言ってそんなに巨大な寺院ではない。パンフレットの写真では黒ずんだ石肌むき出しの味のある寺院なのだが、現在ではなぜか塔部分がピンク色のペンキで塗られており、俗っぽい雰囲気になっていた。またマジューリーで見たサートラーのように、本殿前は細長いホールとなっていた。本殿内部には不思議な形の水路(ヨーニ?)があった。参拝者は水路に頭をつけて祈っていた。




シヴァドール寺院


 何となく気分が乗っていたので、シヴァドール寺院のスケッチをすることにした。シヴァサーガルで最も有名な寺院であるのはもちろんのこと、アッサム州でも最も重要な寺院らしい。絵は2時間半ほどで完成。まあまあの出来だった。

 シヴァドールの次は、シヴァサーガル市街地から4Km離れたところにあるラング・ガルを見に行った。シヴァドール寺院前の交差点からテンポ(乗り合いオート)を拾って行くことができた。だが行ってみてビックリ。こんなところにも外国人料金が設定されていた。インド人料金5ルピーに対し、外国人料金100ルピー。しかし「僕は日本人だがインドに住んでいるからインド人料金だ」という理論を使ったら、しぶしぶながらも5ルピーで入れてもらえた。最近遺跡のチケット・カウンターの人が規則に厳しくなっており、インド人料金で入ることができる確率が低くなっていたのだが、さすがにアッサム州はまだ人情が生きていた。外国人料金が設定されて以来、インド政府と壮絶な戦いをしているような気分になる。

 ラング・ガルは18世紀半ばにアホム王国の王プラマッタ・シンガーによって建てられた2階建ての建物である。王家の人々がここから象の決闘やスポーツを観戦したらしい。現在ではピンク色の壁に黒い屋根という色合いだが、ラング・ガル(色の家)という名の通り、当時はきれいに彩色されていたと思われる。壁にはところどころにキラリと光る彫刻が施されていた。この建物で一番センスを感じるのが、屋根の上にある舟型の彫刻である。この彫刻がなければラング・ガルの魅力は半減していただろう。だが結論として、100ルピー払って見る価値のある建物とは思えなかった。5ルピーで十分だろう。どちらかというと、ラング・ガルの正面にある公園から見た方がきれいだ。この公園には色とりどりの花が植えられており、ラング・ガルをラング・ガルたらしめている。本当は入場料3ルピー、カメラ料10ルピー必要だが、特別にただで写真だけ撮らせてもらえた。




ラング・ガル


 インド人料金で入場することができて気分がよかったので、ラング・ガルもスケッチすることにした。2時間半ほどかけてスケッチした。これもまあまあの作品に仕上がった。

 ラング・ガルの近くにもうひとつ遺跡がある。タラータル・ガルまたはカレーン・ガルと呼ばれるアホム王国の王宮跡である。18世紀初頭のアホム王国最盛期の王ルドラ・シンガーによって造営された。ここも外国人料金100ルピー、インド人料金5ルピーだったが、僕は5ルピーで入ることができた。しかしタラータル・ガルの規模はなかなかのものだったが、保存状態があまりよくなくて、取りとめのない廃墟という感じだった。八角形の小さなシヴァ寺院が残っていたが、内部は物置となっていた。地下3階、地上4階の宮殿も崩壊状態だった。これも100ルピー払う価値は絶対にない。




タラータル・ガル


 他にもシヴァサーガルには多くの人造湖、寺院、遺跡などが残っている。だがタラータル・ガルを見る限り、概してアホム王国の建築物に優れた特徴があるとは思えなかった。保存状態もあまりよくなさそうだ。結局ラング・ガルが一番見る価値のある遺跡だと言える。今日は2つもスケッチをして疲れたので、他の場所は見るのはやめてホテルに帰ってしまった。

 ところで、街中で「シヴァサーガル」の表記を見ると4種類あることに気が付いた。英語で「Sivasagar」または「Sibsagar」、それにアッサミー語と稀だがヒンディー語である。英語表記の「Sivasagar」はヒンディー語的表記法、「Sibsagar」はアッサミー語的表記法である。現地人の発音を聞くとアッサミー語的「シブシャーゴル」とヒンディー語的「シヴサーガル」両方あった。僕はインドの地名をカタカナ化する際、基本的にヒンディー語至上主義をとる方針なので、「シヴァサーガル」と表記していくことに決めた。他にもアッサムに来てからいろいろ地名を見てきたが、カタカナ表記することを考える際に問題となりそうな例がいくつかあった。例えばナガーオンという町の英語表記は「Nagaon」と「Nowgong」があった。前者がヒンディー語的、後者が英語的かつアッサミー語的表記法である。やはり現地人の発音では「ネゴーン」「ナガーオン」両方ある。これもヒンディー語を基にして「ナガーオン」と表記した。

5月7日(水) 雲の王都シロン

 早朝ホテルをチェック・アウトして7時半発グワーハーティー行きのバスに乗った。今日は1日移動の日である。アッサム州を一気に南下して、メーガーラヤ州の州都シロンへ向かう。政府系のデラックス・バスでグワーハーティーまで175ルピーだった。シヴァサーガルからグワーハーティーまで363km。

 バスがシヴァサーガルを出ると急に雨が降り出した。アッサム州は雨の多いところで、ほとんど毎日のように雨が降っている。昨夜も嵐だった。だがありがたいことに今まで雨が降ったら困るときに雨に降られたことはない。いつもどうでもいいときに雨が降ってくれる。僕は相当晴れ男のようだ。今回もバス移動中に降ってくれたので何の支障もなかった。

 ジョールハートを通過し、カズィランガ国立公園を通り過ぎて、12時頃にナガーオンのバス停で昼食休憩になった。食堂があったのでそこでターリーを食べたのだが、それが非常においしかった。アッサム州に来て以来ほぼ毎日のようにフィッシュ・カレーを食べているが、これがおいしいの何のって・・・。デリーじゃ味わうことのできない旨さである。

 グワーハーティーには3時頃到着。パルターン・バススタンドですぐにシロン行きのプライベート・バスを見つけて乗り込んだ。シロンまで約100km、60ルピーだった。バスは3時半に出発した。

 メーガーラヤとは「雲の家」という意味である。州全体がアッサム州とバングラデシュに挟まれた山の上にある。名前の通り年中雲に覆われており、世界で最も湿度の高い地域として、そして降雨量の最も多い地域として有名である。州都のシロンは「東洋のスコットランド」と呼ばれている。メーガーラヤには主にカシ族、ジャインティア族、ガロ族の3部族が住んでいる。

 グワーハーティーを出てしばらくすると、バスはグングンと山を登っていく。まさにエンジン泣かせの坂。途中の道をトラックが黒煙を吐きながらノロノロと列をなして登坂していた。それを追い越しながらグングン登る。いつアッサム州からメーガーラヤ州に入ったかよく分からなかったが、気付くと途中通過する村の様子が変わっていた。

 僕はノース・イーストに来る前にある推測を立てていた。もしノース・イーストの文化がインドよりも東南アジアに近いなら、必ず外で働く女性の数が増えるはずである、という仮説である。一般的にインドでは、市場などで物を売る人は十中八九男である。インドでは外で働くのは男で、家で働くのは女という役割分担がはっきりしている。ところがタイなどの東南アジアでは、女性はとても働き者で、女性が店番をしている姿を見ることが多い。男は何をやっているかというと、タバコを吹かしたりトランプをしたりして、実用的なことは何もしてない、ということが多い。そういえば白人女性がインドの社会を見て「男が女性の社会進出を抑圧している」と批判し、東南アジアの社会を見て「男は何もしていない」と批判し、とにかくアジアの男は悪いと結論付けているのを見たことがあるが、どちらも文化なのだから、他人がとやかく言うことではないと思う。

 さて、実際に見たノース・イーストの様子だが、アッサム州はまだインド文化の影響が強いためか、外で働いている女性の姿はそんなに多くなかった。だが、メーガーラヤ州に入った途端、店番の主な担い手が女性に変わった。パーンを売る人も、雑貨を売る小屋の中にいる人も、女性の姿が圧倒的に目立つようになった。ただ、男性の店番も少なくなかったが。一応推測が外れていなかったことが密かに嬉しかった。

 顔はやはり東南アジア系である。背は低く、色は黒い。女性の服装もサーリーではなく、左肩に引っ掛けるローブのようなものを身にまとっていた。男性は特に特徴のある服は着ていなかった。以前書いたように、ここでも赤ちゃんをおんぶをしている人の姿が目立った。

 7時半頃、シロンに到着した。もう暗くなっていたので周りの風景はよく見えなかったが、シロンは案外大きな町に思えた。標高は1496m。湿気の多い場所だと聞いていたが、涼しくて非常に過ごしやすい気候だ。とりあえず今日は晴れていたので、雲の覆われたような雰囲気ではなかった。山の上の町というと、今までシムラーやダラムシャーラーなどを見てきたが、ヒマーチャル・プラデーシュ州の山の町に比べると建物の密集度が低く、森の中に町があるような雰囲気である。

 ホテルを探してシロンの中心街ポリス・バーザールをうろついている内に8時になった。するとあちこちの店が次々とシャッターを下ろし始めた。どうもシロンの市場は8時で終了のようだ。レストランまでシャッターを下ろしている。早くせねば、と急いで部屋の空いているホテルを探し、結局ホテル・モンスーンに泊まることにした。部屋は小さいが清潔で、テレビもあった。1泊275ルピー。

5月8日(木) 雨に愛された町チェッラプンジ

 シロンの近くにチェッラプンジという町がある。メーガーラヤ州の主要な観光地のひとつであり、周りにいろいろと見所がある。なんとこの町は世界で一番降水量の多いところだそうだ。年間平均降水量が12063mm。東京の年間平均降水量が1523mmなので、実に東京の8倍もの雨が降る計算になる。1974年には世界記録の24555mmの雨が降り、1995年6月16日にはなんと1日で東京の1年間の降水量とほぼ同じ、1563mmの雨が降ったらしい。いったいどんな雨だろう、想像がつかない。海をひっくり返したような雨だろうか。雨季の6月〜7月には、ノンストップ・レインが降るそうだ。とにかく雨の多い場所である。

 メーガーラヤ観光局が毎日チェッラプンジ周辺の観光地を巡るツアーを主催している。今日はこのツアーに参加して1日チェッラプンジ観光をすることにした。朝8時出発で、1人125ルピーだった。僕以外は皆インド人。アッサム州、マハーラーシュトラ州、ケーララ州などなどいろいろなところから来ていた。シロンは涼しい気候の場所なので、避暑に来ているインド人がたくさんいる。かつてコールカーターなどのベンガル人にとって避暑地といったらダージリンだったが、ダージリンは残念ながら観光業に汚染されてしまったので、最近の避暑トレンドはもうシロンに移っているそうだ。

 このツアーでまず驚いたのは、女性のバスガイドが付いていたことだ。カシ族のおばさんで、バスから見える景色を解説したり、参加者の面倒をよく見ていた。インドで女性のバスガイドが付いたツアーを初めて見た。やはりメーガーラヤ州は女性が積極的に社会に参加している。カシの女性を見ていると、インド人女性にはないフットワークの軽さがある。よく動き、よく働く。




カシ族のガイド
チャイナ・ドレスの原型のような
民族衣装を着ていた


 シロンを出たバスは山道を登っていく。まずはマウクドク谷という景色のいい場所で停まった。そこからはメーガーラヤ州の美しい台地がよく見えた。ガイド曰く何かの映画でサルマーン・カーンがここで踊りを踊ったそうだ。こういう言い方をするとインド人は非常に喜ぶ。前々から思っていたのだが、絶対にインドの映画産業と観光業はタイアップして相互に利益を享受することができると思う。この映画でこの俳優がロケを行い、この歌に合わせて踊った、という情報を集めて旅行ガイドブックにすれば、映画好きなインド人を絶対に惹き付けることができると思う。当地の観光業にもプラスになるし、その映画が人々の記憶に残る可能性も高くなる。しかしまだそこまでインド人の知恵が回っていないようだ。とにかくスイスやカナダなどの景色のきれいな外国でロケをすれば売れると思っているプロデューサーも多い。だが、インドにはそれらの国にも負けない美しい場所がいくつもある。予算も少なくて済むし、わざわざ無理に外国ロケする必要はないと思う。




メーガーラヤ州の風景


 マウクドク谷からバスは台地の上に出た。メーガーラヤ州の地形はまるでパソコンのキーボードのようだ。側面は急傾斜、上面は平らな、同じ高さくらいの台地がいくつも突き出ている。そして表面は豊富な緑で覆われている。キーボードの中に迷い込んだような独特の景色がずっと続く。またメーガーラヤ州では石炭がたくさん採れる。台地の上にはいくつも石炭の山ができており、人々が手作業で石炭を掘り出していた。

 バスはチェッラプンジに到着した。次の目的地はチェッラプンジの丘の上に建っているラーマクリシュナ・ミッションの建物だった。ラーマクリシュナ・ミッションはヒンドゥー教の一派である。ここには博物館があり、メーガーラヤ州に関する情報を仕入れることができる。メーガーラヤの3部族のこと、彼らの使っている道具、衣類、武器、祭りの様子などが展示されている。

 次に行ったのはノーカリカイ滝。ノーカリカイ滝は世界で4番目、インドで2番目に長い落差を誇る滝である。ノーカリカイ滝にはこんな伝説がある。

ノーカリカイ滝の伝説
 昔リカイという女性がいた。リカイは未亡人で1人の娘がいた。彼女はある男と再婚したが、その男はリカイの娘を嫌っていた。ある日リカイが鉄鉱石を運ぶために外出していたときに、彼は娘を殺してカレーにしてしまった。彼はリカイにそのカレーを食べさせた。リカイはそのカレーを食べたが、娘の指を見つけ、夫が娘を殺したこと、そしてそれを食べてしまったことを知る。リカイは悲しみの余り気が狂ってしまい、滝から飛び降りて自殺した。彼女の名前を取ってその滝はノーカリカイ(リカイの滝)と呼ばれるようになった。ちなみにカシ語で「ノー(Noh)」は「滝」、「カ(Ka)」は女性であることを表す言葉である。

 日光の華厳の滝も自殺の名所として有名だが、どうして人は滝から飛び降りたがるのだろうか。ノーカリカイ滝は一筋の滝で、ダイナミックな水の落ちぶりだった。インドで一番の落差を誇る滝はどこにあるのかよく分からなかった。




ノーカリカイ滝


 次に行ったのはマウスマイ洞窟。入場料5ルピー、カメラ料15ルピーが必要だった。メーガーラヤ州には無数の洞窟があり、このマウスマイ洞窟もそのひとつである。ここは洞窟全体が電灯で照らされているので懐中電灯がなくても気軽に探検できる洞窟だ。ほとんど人工的な手が加えられておらず、非常に狭い穴をくぐっていったり、自分で足場を見つけて進んで行ったりしなければならない。また、日本の鍾乳洞のように鍾乳石を保護しようとかそういう考えは全くないので、気軽にあちこち触ったりすることもできてしまう。ここは非常に楽しかった。




マウスマイ洞窟


 次に行ったのはコー・ラムハー。ガイドは「自然に出来た巨大なシヴァ・リンガ」と言っていた。なんと断崖絶壁に沿って一本の巨大な柱のような岩がそそり立っていた。確かにシヴァ・リンガに見えないこともない。コー・ラムハーはカシ続の人々にとっても聖なる岩として信仰の対象になっているらしい。またこのコー・ラムハーはメーガーラヤの丘陵地帯の端に位置しており、眼前には広大な平野が広がっていた。そこはもうバングラデシュである。




コー・ラムハー
平野部の河はもうバングラデシュ領


 次に行ったのはタンカラン公園。入場料5ルピー、カメラ料10ルピーが必要だった。ここからはキンレム滝を展望することができる他、「ノン・ヴェジ・ツリー」を見ることができる。非菜食主義の木?何じゃそりゃ?ガイドが「ノン・ヴェジ・ツリー」と言ったときにはいったい何のことか理解できなかったが、実際に見てみたら納得。日本で食虫植物と呼ばれている植物のことをインド人は「ノン・ヴェジ・ツリー」と呼んでいたのだ。この公園にあったのはウツボカズラで、袋に蓋が付いたような形の植物だ。実は子供の頃僕は食虫植物が大好きで、ウツボカズラも飼育していた。あのときは近所の園芸屋で買ってきたが、この辺りには自生しているようだ。遂にあの頃の憧れの植物の故郷にやって来たか・・・。感慨もひとしおである。ところでノン・ヴェジ・ツリー以外の植物ってヴェジタリアン・ツリーなのだろうか?彼らは水しか飲んでないと思うのだが・・・。




ノン・ヴェジ・ツリー
ウツボカズラ


 最後にノースンギティアン滝を見た。この滝は雨季には7筋の滝が流れるため、セブン・シスターズと呼ばれているそうだ。だが今は2筋しか流れていなかった。これも壮大な滝だった。このノースンギティアン滝の展望ポイントにレストランがあり、ここで昼食を食べてツアーは終了となった。4時半にはシロンに到着した。




ノースンギティアン滝
現在はツー・シスターズ
雨季にはセブン・シスターズになる


 やはりメーガーラヤ州の最大の見所は自然である。各地に湖、川、滝、洞窟などがあり、ピクニックやトレッキングに非常に適した場所である。その他興味深かったのは、あちこちに建っているモノリスである。平べったい石が直立、または平行に置かれている。ストーン・ヘンジやモアイなどと並ぶ古代文明の跡、と書きたいところだが、おそらくカシ族の元々の信仰対象か、墓だと思われる。ガイドは、直立しているのが男性の象徴、平行に置かれているのが女性の象徴であると説明していた。シヴァ・リンガとの関連も興味深い。注意してメーガーラヤの風景を見ると、各地に大小様々なモノリスを発見することができる。シロンにすらある。




摩訶不思議なモノリス群


 もちろん田舎に住むカシ族の様子を見るのも楽しい。日本人と同じ顔をした人々がいるので、不思議な気分だった。だがインド人はあまり部族の習慣や風俗などに興味はないようだ。彼らは景色の写真を撮ったりするだけで満足していた。

 前述の通り、チェッラプンジは世界で最も降雨量の多い場所である。だからいつ雨が降ってもおかしくないのだが、なぜか今日はずっと快晴だった。おかげで観光に非常に適した日だった。ガイドも「あなたたちはラッキーだ」と言っていた。昨日のツアーでは土砂降りだったらしい。また僕の晴れ男ぶりが発揮されてしまったのか?

 シロンの本屋で「Meghalaya Land Of Enchantment」という本を買った。メーガーラヤ州のことがいろいろ書いてあったので、その中から個人的に興味のあることをまとめておく。

 メーガーラヤ州にいる部族は3つあり、メーガーラヤ州西部に住むのがガロ族、中部に住むのがカシ族、東部に住むのがジャインティア族である。シロンやチェッラプンジはカシ族の土地だ。ガロ族はチベットから来たと言われ、チベット・ビルマ語族の言語を話す。一方、カシ続とジャインティア族は東南アジアから来たと言われ、モン・クメール語族系の言語を話す。ガロ族の言語はガロ語、カシ族の言語はカシ語、ジャインティア族の言語はプナル語と呼ばれている。公用語は英語。だが少なくともシロンの人は英語、ヒンディー語両方とも話すことができる。一方、メーガーラヤ州に入ると急に看板からヒンディー語やアッサミー語が消える。まるで頑なにヒンディー語などの他言語を拒否しているかのようだ。英語か、現地語をアルファベット表記した言葉が書かれている。また、メーガーラヤ州の主要部族はカシ族であるため、州全土でカシ語が通じるそうだ。

 ノース・イーストではキリスト教宣教師が積極的に布教活動をしたことから、キリスト教徒が非常に多いのだが、メーガーラヤ州では他の州ほどキリスト教徒の数は多くない。全人口の52%がキリスト教徒で、ヒンドゥー教徒が16.5%、イスラーム教徒が2.5%、その他仏教徒、スィク教徒、ジャイナ教徒などがわずかながらいる。キリスト教徒の比率が低いということは、つまり彼らはオリジナルの信仰をよく保存しているということだろう。とは言え、メーガーラヤ州各地で教会や十字架型墓地をよく目にする。

 メーガーラヤ州の部族は母系社会として有名である。母親の系統で家系が続いている。親族関係や祖先は常に母方が中心となる。この母系社会のシステムが、カシ族の女性が働き者であることの大きな要因であろう。女性は外で働き、男性は家で料理をしたり子育てをしたりしているそうだ。だが家長はやはり男性のようで、父親などが有事に際して最終的な決定権を持っている。とは言え、基本的に男女平等の社会と見ていいだろう。また結婚に際しては族外結婚が基本のようである。つまり少しでも血縁関係にある者同士は結婚しない。




カシ族の働く女性


 ツアーでもらったパンフレットに基本的なカシ語が紹介されていたので掲載しておく。

カシ語
Khublei 神様の恵みがありますように。カシ語の挨拶。
Khublei shibun ありがとうございます。
Phi long kumno? お元気ですか?
Nga shait nga khlain 元気です。
Thiah suk おやすみなさい。
Katno ka dor ine? これはいくらですか?
Ai 〜 seh 私に〜を下さい。


5月9日(金) 巨人の遊び場ジャインティア・ヒルズ

 メーガーラヤ州にはカシ族、ジャインティア族、ガロ族の3部族が住んでおり、シロンやチェッラプンジはカシ族の居住地域にあたる。ガロ族の住むメーガーラヤ州西部はシロンから遠いのだが、ジャインティア族の住むメーガーラヤ州東部(ジャインティア・ヒルズ)はシロンからすぐそこである。今日は天気がよかったらジャインティア・ヒルズへ行き、雨が降ったらグワーハーティーに戻ろうと思っていたが、見事に昨日に勝るとも劣らないほどの快晴。ジャインティア・ヒルズを訪れることに決定した。

 昨日はちょうどメーガーラヤ州観光局が主催するツアーに参加して、安く手っ取り早くチェッラプンジ周辺の観光地を巡ることができたのだが、ジャインティア地方へ行くツアーはなく、タクシーをチャーターしなければならなかった。メーガーラヤ州は坂道が多いため、サイクル・リクシャーは存在せず、オート・リクシャーの数も少ない。町で最も目にするのは、黄色と黒のツートン・カラーに塗られたマールティー・スズキやアンバサダーのタクシーである。

 ちょうどホテルのレセプションにタクシー・ドライバーをしている人がいた。僕がレセプションの人とジャインティア観光の相談をしているのを聞いて、彼が僕に話し掛けて来た。どうも彼はジャインティア方面に行ったことはないようだが、連れて行ってくれるということだった。言い値は1500ルピー。シロンのタクシーのチャーター代は1時間120ルピーということなので、仮に8時間かかるとして900ルピー〜1000ルピーくらいだろう。値段交渉をして結局1100ルピーで行ってもらうことにした。

 昨日買った「Meghalaya Land Of Enchantment」に、ジャインティア・ヒルズの見所がいろいろと載っていた。その中から面白そうなスポットを選らんであらかじめリスト・アップしておいた。昨日はたくさん滝を見たのでもう自然はあまり見たくない。何か他とは違うものを見てみたかった。基本的にそのリスト通りに廻ってもらった。

 ドライバーはメーガーラヤ州生まれのベンガル人で、ヒンディー語が通じたので助かった。自動車はマールティー・スズキ。彼とはお互いの身の上話やらメーガーラヤ州のことやらいろいろ話をした。彼は2人兄弟3人姉妹の次男だそうだ。彼の父親は早くに亡くなってしまい、3人の姉妹は結婚して家を出てしまい、また兄はカシ族の女性と結婚して母系社会の習慣に従って嫁の家へ入ってしまったので、彼が年老いた母親を1人で養っているそうだ。主にタクシーで観光客を相手にシロンやチェッラプンジを廻っているようだが、今日初めてジャインティア方面へ行くそうだ。あまり外国人と接したこともないようで、デジカメも初めて見たと言っていた。

 シロンを出てジャインティア・ヒルズの中心都市ジョワイに通じる国道40号線を東に進む。この道はトリプラー州の州都アガルタラーまで通じているそうだ。やはり丘陵地帯がどこまでも続く美しい風景だ。道路も非常にきれいに舗装されている。メーガーラヤ州政府は道路の整備に力を入れているそうだ。しかしこんなに美しいメーガーラヤ州の残念なところは、道の途中で列をなしてノロノロと坂を上っているトラックである。メーガーラヤ州の特産品、石炭を運搬するためにこれだけ多くのトラックがあちこちを走っているそうだが、このトラックが汚ない黒煙をブォ〜と吐きまくっているのだ。環境汚染しまくりである。トラックの裏についたり、追い越したりするときにこの汚染された黒煙が容赦なく自動車の中に入って来て、臭いの何のって・・・。だからトラックに近付いたら急いで窓を閉め、通り越したらまた窓を開ける、という行為を繰り返さなければならない。また、急な坂道の登坂に力尽きたトラックが道の真ん中に立ち往生していたりすることもしばしばである。

 国道40号線を東に進み、カシ族の領土からジャインティア族の領土へ入った。ジョワイへの道を途中で左折して、まずはナルティアンという町へ向かった。ナルティアンはジャインティア王国の首都だった場所である。鬱蒼とした林を通り抜けてナルティアンへ向かう。・・・急にドライバーがテロリストの話をし始めた。メーガーラヤ州の森林にはテロリストが住んでおり、政府に反抗して通行人を殺害したりしているらしい。この辺にもいるのか、と聞いてみたら、いる、と言われた。・・・ってやばいじゃん、それ・・・!早く言ってよ!急に周りののどかな林の風景が危険な森のように見え始めた。テロリストたちはシロンのバーザールに店を構えている人々にショバ代を要求しているようで、もし金を払わないと店を襲撃するらしい。だから店主たちは皆テロリストに金を払っているそうだ。シロンの店が6時頃から次々とシャッターを下ろし始め、8時にはもう全ての店が閉まってしまう理由が分かった。あの差し迫った雰囲気は異常だと思っていたが、テロリストを恐れてのことだったのだ。メーガーラヤ州は他のノース・イースト各州に比べて比較的安全とのことだが、やはりテロリストの脅威にさらされ続けている地域であることを忘れてはならないようだ。

 ナルティアンはのどかな田舎町だった。まずは丘の上にあるドゥルガー女神寺院へ行った。ここは500年の古さを誇るヒンドゥー寺院で、かつては人身供養が行われていた場所である。現在、年老いたベンガル人のパンディト・ジーが管理していた。パンディト・ジーに「この寺院はどれだけ古いのですか?」と敢えて質問してみたら、「ざっと2000年じゃ」という答えが返って来た。ドライバーは何でも信じてしまう性格らしく、「バープレ!」とひたすら驚いていた。建物自体は新築されているので古さを感じないが、生贄を殺すためのまな板と、遺体を放り込む穴が残っていた。ナルティアンには他にもいくつかヒンドゥー寺院があるが、それら全てをそのベンガル人のパンディト・ジーが管理しており、ドゥルガー女神寺院以外は見る価値ないと言われたので行かなかった。




かつてこの上で
人身供養が行われたという


 ドゥルガー女神寺院は見てもそんなに楽しいものではないが、ナルティアンには世界に誇るべき素晴らしいものが他に残っていた。町のすぐそばに、無数のモノリス群がそのままの姿で保存されているのだ。地面から直立している細長い石と、小さな石に支えられて地面と平行に浮かんでいる平らな石の組み合わせがいくつも並んでいる。これはかなり息を呑む風景である。地元の人はやはりモノリスは神様だと言っていた。だが僕の直感では、墓か、家の跡のように見えた。ここでは最近までジャインティア族が定期市を開いていたようだが、遺跡を保存するため、現在ではこのモノリス群の隣に市場は移っている。




ナルティアンのモノリス群


 このモノリス群の中でもさらに有名なのは、メーガーラヤ州で一番高いモノリスである。高さは8mあり、数あるモノリスの中でも群を抜いて巨大である。伝説では巨人マル・パランキとルー・ランスコル・ラマレによって建てられたらしい。メーガーラヤ州では日本のデイダラボッチのような巨人伝説がけっこう残っている。ナルティアンのこのモノリス群と、最大のモノリスはインドの他の地域では見ることのできない素晴らしい見所である。




メーガーラヤ州最大の
モノリス


 現在このモノリス群はただ囲いがしてあるだけで、管理はされていないに等しい。入場料も当然ない。だが地元の人が言うには、2ヵ月後にインド考古学局の調査員がここに調査しに来るらしい。インド考古学局と言ったら、インド各地の遺跡に法外な外国人料金を設定している張本人である。そいつらが来てここを観光地として認定してしまったら、きっと入場料を設定し、外国人料金も取るようになるだろう。彼らより一足先にここに訪れることができたので勝利感が沸いたが、同時に、早くインド中のマイナーな観光地を巡っておかなければ、全て外国人料金を設定されてしまう、という危機感も持った(もっとも、1100ルピーも出して一人でタクシーをチャーターした外国人に文句を言う筋合はないかもしれないが・・・)。

 モノリス群の近くには、小川に横たわるモノリスもあった。このモノリスは橋代わりに利用されていたそうで、何かの祭りのときにこのモノリスのプージャーが行われるそうだ。

 ナルティアンを出て国道40号線に戻り、再びジョワイへ向かう。途中、タドラスケイン湖に寄った。この湖は四角形をした人造湖で、伝説ではサジャル・ナンリという男が鍬で地面を一突きしただけで出来た湖らしい。湖畔では地元の女性たちが洗濯をしていた。

 シロンから東に66km、ジャインティア族の中心都市ジョワイに到着した。さすがにシロンに比べれば規模は小さいが、それでもシロンとジョワイの間には村しかないので、大きな町に見える。カシ族とジャインティア族は別の部族で、言葉も違うのだが、一目で分かる違いのようなものはあまりなかった。・・・どちらかというとカシ族の方が美人が多いか・・・。ジャインティア族の顔はモンゴロイドの血がより濃いような気がした。服装もカシ族と似ているが、腰に巻く布が特徴的だった。




ジャインティア族の親子


 まずはジョワイの町の麓にあるキアン・ノンバー記念碑を見に行った。4階建てのタワーのような建物で、あまり見て楽しいものではなかった。門が閉まっていたので上に上ることもできなかった。キアン・ノンバーとはジャインティア族の英雄で、英国とインド独立を賭けて戦ったフリーダム・ファイターのことらしい。




キアン・ノンバー記念碑


 記念碑にはキアン・ノンバーについて以下のように説明してあった。

ジャインティア族の英雄キアン・ノンバー
 キアン・ノンバーはジャインティア・ヒルズが生んだ最高の勇者である。彼はインドの歴史に刻まれるべきフリーダム・ファイターだった。彼は1862年から63年にジャインティア・ヒルズから大英帝国の勢力を駆逐するために戦った。

 1862年12月27日、不幸にも彼はマンセル村のウムカラに病気で横たわっていたところを卑劣な英国兵士に捕らえられてしまった。そして1862年12月30日にジョワイのイアウムシアンで公開処刑された。絞首台から彼は住民たちに言った。「絞首刑の後、もし私の顔が東に向いたなら、我々は100年以内に自由を得ることができるだろう。もし私の顔が西に向いたなら、我々は永遠に奴隷のままだろう。」

 彼の言葉は真実となった。殉死した愛国者の顔は東を向き、インドは1947年に独立を果たした。


 キアン・ノンバー記念碑を見た後、ジョワイのマーケットをちょっとぶらついてみた。驚いたことにジョワイの人はヒンディー語も英語も通じなかった。ジャインティア族の言葉プナル語か、カシ語のみが通用した。外国人は珍しいようで、僕はかなりみんなからジロジロ見られた。やはりマーケットの店番をしているのは女性が圧倒的に多い。ジョワイのバス停の向かい側に大きな庶民バーザールがあるのだが、そこはどこを見ても女女女・・・。インドの中でも、おそらく世界の中でも非常に珍しい女性だらけのマーケットだった。シロンの庶民バーザールも見たのだが、やはりシロンは都会であるし、ベンガル人が多いため、男性の商人も多かった。ジョワイのマーケットは買い物客以外、男を見つけることは困難である。この女マーケットは密かに必見の見所だと思った。このマーケットの観光価値は僕が世界で最初に発見したのではないだろうか・・・いや、何事にも先人がいるかな・・・。また、このマーケットでカブトムシの幼虫のような虫を売っているのを見た。どうもここらの人は虫を食べるようだ・・・。ちなみにジョワイの特産品はターメリックである。ドライバーもわざわざターメリックを市場で買っていた。1kg60ルピーだった。





ドキッ!女だらけのマーケット






ジョワイ特産品ターメリック


 アッサム州を旅行していたときからずっと思っていたが、ノース・イースト各州の人々は他地域の人よりもパーンをよく食べている。特にメーガーラヤ州の人々はまるで三度の食事よりもパーンが好きなのではないかと疑われるくらい常にパーンを食べている。チェーン・パーン・イーターだ。しかも女性がパーンを食べているのが目立つ。上の写真の女の人もパーンを食べているため、口が真っ赤である。マーケットにもパーンの材料になるキンマの葉が大量に売られていた。

 ジャインティア・ヒルズで他に是非訪れてみたかった場所があった。インドで一番の長い洞窟と言われるウムラワン洞窟(6.5km)と、11の独立した洞窟が並ぶというサンダイ洞窟である。しかしそこまで行く道は相当悪いようで、しかもテロリスト居住地域にあたるため、現在観光客には開かれていないそうだ。仕方ないのでこれでジャインティア・ヒルズ観光を切り上げてシロンに帰った。

 ジャインティア・ヒルズの見所は何と言ってもナルティアンのモノリス群だ。そしてジョワイの女マーケットは一見の価値がある。シロンからバスでジョワイまで行って、ジョワイでタクシーをチャーターしてそこから約20km離れたナルティアンへ往復するのが最も安上がりかつ手軽な観光方法だろう。ただ、ジョワイは英語やヒンディー語が通じないので、やはりシロンでタクシーをチャーターした方がいいかもしれない。

 今日はジャインティア・ヒルズ観光後、シロンの本屋で「An Introduction to the Khasia Language」という本を買った。僕は専門が言語学なので、非常に各地の言語に興味がある。けっこう分かりやすく解説してあって、カシ語の基礎文法を大体理解できた。非常に面白いと思ったのは、名詞の複数形の性である。カシ語の名詞には性の区別(男性名詞と女性名詞)、数の区別(単数形と複数形)がある。性の区別は全て冠詞で表される。男性名詞単数形には「u」という冠詞が付き、女性名詞単数形には「ka」という冠詞が付く。例えば月は男性名詞で「u bynai」、木は女性名詞で「ka diing」である。また生物名詞は自然性と対応し、オスの犬は「u ksew」、メスの犬は「ka ksew」となる。ところが複数形になると性の区別は消滅し、無条件で冠詞「ki」が付く。つまり月の複数形は「ki bynai」、木の複数形は「ki diing」、犬の複数形は「ki ksew」となる。複数形を表す冠詞「ki」はどうも女性を表す冠詞「ka」から派生した語のようだ。つまり、複数形になると、性は基本的に女性名詞となるのだ。

 もうひとつ例を挙げてみる。1人称の代名詞に性の区別はなく、単数形は「nga」、複数形は「ngi」である。だが2人称と3人称には男女の区別があり、2人称単数男性形は「me」、女性形は「pha」、2人称複数形は男女とも「phi」になり、3人称単数男性形は「u」、女性形は「ka」、3人称複数形は男女とも「ki」である(3人称は冠詞と全く同じである)。やはり複数形になると単数女性形から派生したと考えられる形態をしている。

 これはヒンディー語の文法と全く逆である。ヒンディー語は男性優位の言語だ。複数形は基本的に男性形になる。例えば「私たちが」と言ったときに、「私たちが」の中に1人でも男性が含まれれば、主語の他の構成員が全て女性であっても、その文は男性形の文になる。完全に女性のみの集団である場合のみ、文は女性形が許される。だがカシ語は複数形は女性形になってしまう。これは絶対にカシ族の母系社会を反映していると思う。

 カシ語は中国語と同じく孤立語と言ってよく、名詞や動詞などの活用が全くない。代わりに上に見たように冠詞が非常に重要な役割を果たしている。語順も中国語や英語と同じく、基本的に名詞、動詞、目的語の順番だ。ざっと見たところ、とても簡単な言語に思えた。ただ、ベンガリー語の影響をよく受けているし、モン・クメール語族ということなので、深く研究するにはベンガリー語やカンボジアのクメール語の知識が必要になるだろう。

5月10日(土) 再びグワーハーティー

 メーガーラヤ州に来て以来ずっと晴天に恵まれていた。おかげで一昨日、昨日と快適に観光をすることができた。だが一方で物足りない気分もあった。なぜならここは「雲の家」である。雲と雨もメーガーラヤ州の重要な観光ポイントのひとつだからだ。雲が下から上がってくる、という独特の風景はメーガーラヤ州の最も美しい光景と言われている。

 と思っていたら、シロンを去る今日になってやっと雨模様となってくれた。観光するときは晴れて、去るときに雨が降るとは何てラッキーなのだろう。早朝、グワーハーティー行きの乗り合いジープに乗ってメーガーラヤの丘陵地帯を下った。ジープは90ルピー。バスよりも高いが、スピーディーに移動することができる。

 朝から曇り空だったが、ジープに乗り込んでシロンを発った瞬間から雨が降り出した。そして途中の道では、有名な「下から上がってくる雲」も目にすることができた。いくつもの白い雲が山の斜面を這うようにゆっくりと空に向かっている。まるで巨大なナメクジのようだ。

 7時頃シロンを出て、グワーハーティーには10時ちょっと過ぎに到着した。グワーハーティーに足を踏み入れるのはこれで3度目なので、もう既にちょっと気心の知れた街のように思えてきた。明日は1日かけてバスで西ベンガル州のスィリーグリーへ向かう予定なので、今日はグワーハーティーでゆっくりと1泊するつもりだった。ところが案外宿探しが難航した。前回来たときに泊まったツーリスト・ロッジ・プラシャーンティが満室だったことから他のホテルを探さなくてはならなくなった。前回はすんなりそこに泊まることができたから気付かなかったが、グワーハーティーのホテルはどうも外国人を歓迎しない傾向にある。パルターン・バススタンド周辺にいくつも安いホテルがあるのだが、それらは僕が日本人であることを知ると急に「部屋は満室だ。他へ行ってくれ」と急にそっけない態度になる。また、グワーハーティーの宿は慢性的に満室状態が続いているようで、安くていいホテルは本当に常に満室状態のようだ。

 また、普通外国人がインドのホテルに泊まるとき、宿帳とは別にC−4というフォームに必要事項を記入させられる。これはホテルがFRRO(外国人登録局)に届け出るためのフォームで、このフォームによって外国人旅行者は行動を逐一把握されている。ところがアッサム州とメーガーラヤ州のホテルでは、このC−4を全く記入させられなかった。法律が違うのだろうか?非常に気になったところである。

 宿探しに手こずったものの、僕も旅行経験は長いので、なんとか泊めてくれるホテルを探し当てて一時の安住を手にすることができた。ホテルの名前はホテル・イエッサー。パルターン・バススタンドから近く、便利なところにある。名前がとてもよい。ダブル・ルームしかなくて、1泊300ルピーだった。やはり外国人を泊めるのに慣れていないようだったが、僕がヒンディー語をしゃべれることを知るとリラックスしてくれていろいろ親切にしてもらった。

 グワーハーティーで行ってみたかった観光地は既に行き尽くしたので、今日はグワーハーティーで一番のモダン・マーケット(つまりノース・イーストで一番)と思われるファンシー・バーザールへ行ってみた。ベネトンなどの支店があった他、ショッパーズ・ポイントという数階建てのショッピング・モールもあった。中は狭くてこじんまりとしており、店舗がまだ入っていないところもあってまだまだこれからといった感じだったが、冷房が効いていて快適だった。やはりグワーハーティーのナウなヤングたちが集まっていた。3階にはノース・イースト最大の音楽ショップを謳うミュージック・ポイントという店があった。デリーのミュージック・ワールドやプラネット・ハリウッドを愛用している僕にとっては、やはりこじんまりとした店でしかなかったが、洋楽からインド映画音楽まで一通り揃えてあった。アッサミー語の歌のCDを買うことができることが特徴だろう。

 今日は疲れが溜まっていたので、ファンシー・バーザールを視察した後にホテルに帰って眠った。

5月11日(日) 交通の要所スィリーグリー

 グワーハーティーを拠点にノース・イースト各州へ移動する際、最も便利なのがパルターン・バーザールの長距離バススタンドでバスに乗ることである。パルターン・バススタンドはアッサム州交通局経営の公共バスと、プライベート・バス両方が発着するため、とりあえず行けばバスが見つかるという非常に都合のいい場所だ。特にプライベート・バスの客引きが激しく、彼らに行き先を言えばすぐにバスまで案内してくれる。今まで僕はジョールハートとシロンへ行くためにプライベート・バスを利用した。ジョールハート行きのバスは快適で申し分なし、シロン行きのバスはオンボロでノロノロ運転だったが、シロンに辿り着くことには辿り着いた。今日はアッサム州を出て500km以上離れた西ベンガル州の交通の要所スィリーグリーへバスで向かう。大体12〜13時間かかるそうだ。

 早朝5時頃ホテルをチェック・アウトして、パルターン・バススタンドでスィリーグリー行きのバスを探した。プライベート・バスの客引きは、6時発と言ったり6時半発と言ったりして怪しかったので、公共バスをまずは探した。しかし朝出発する公共バスはなかった。仕方ないのでまたプラベート・バスを利用することにした。チケットは250ルピー。客引きの話では6時発のバスがあるらしい。もう1人スィリーグリーへ行くベンガル人のおじさんがいて、その人とバスが来るのを待っていた。

 6時頃客引きが「こっちだ、こっちだ」と言うのでついていくと、今にも出発せんとしているバスがあった。しかし超満員状態。チケットを買うときに僕は22番のシートを予約したはず。しかし僕とベンガル人のおじさんは、一番前の運転手ボックスに座らされた。まあ景色がよく見えるし、揺れも少ないので悪い席ではない。だから文句は言わなかったが、どんどん乗客を詰め込んで来るので窮屈だった。

 6時過ぎにパルターン・バススタンドを出発したバスはグワーハーティー市内でさらに乗客を拾いつつ市外に出た。ブラフマプトラ河を渡り、ひたすら水田の中の道を西へ向かった。

 バスで長距離移動する際、慣れないと食事を取ったりトイレに行ったりするタイミングを見極めるのが難しい。僕は何度もバスで長距離移動して来たが、未だに慣れていない。途中で急にバスが止まって、運転手がエンジンを止めて降りてしまうことが何回もあり、それはトイレ休憩だったり、チャーイ休憩だったり、昼食や夕食タイムだったり、ガソリン給油だったり、何かの手続きのために止まっただけだったりする。運転手、車掌や周りの人に「これは何のためのストップか」と逐一聞かないと、食事をするタイミングを逃したり、ずっとトイレに行けなかったりする。今回はまさにそれだった。朝から何も食べずにバスに乗ったため、途中で何か食べたかったが、昼食休憩らしい休憩がなく、ほとんど何も食べないままずっと乗っていた。

 グワーハーティーを出てからのアッサム州がけっこう長くて、午後2時半頃にやっと州境を通過した。西ベンガル州のコーチ・ビハール地方に入った。アッサム州の田舎の風景に比べ、やはり西ベンガル州の田舎の方がより文明を感じた。ところが西ベンガル州に入ってから、サーリーの下にブラウスを着ていない女性を3人目撃した。現在インド人女性がサーリーを着るとき、必ずと言っていいほどサーリーの下にブラウスとペチコートを身に付ける。しかしそれは比較的新しい文化(おそらくムガル朝時代〜イギリス植民地時代以後)で、もともとインド人女性はサーリーの下に何も身に付けていなかった。ただサーリーの端で胸を隠していただけだった。そのさらに前は男女ともドーティー(腰布)だけを巻いているだけで、上半身は裸だったと言われている。このようにインド人の服装も変遷を繰り返しているわけだが、田舎中の田舎へ行けば、今でもサーリーの下に何も来ていない女性の姿を見ることができる。僕は今までのところタミル・ナードゥ州の田舎で目撃しただけだったが、本日西ベンガル州北東部のコーチ・ビハール州で2度目の目撃を果たすことができた。まるでシーラカンスを見たような気分だ。ただ、そういう格好をしている女性は十中八九お婆さんである。

 コーチ・ビハールではもうひとつ珍しいものを見た。乗り合いサイクル・リクシャーである。貨物運搬用のサイクル・リクシャーに屋根を付けたような、幌馬車風のサイクル・リクシャーで、このタイプのリクシャーは初めて見た。

 西ベンガル州ではちょうど選挙が行われており、あちこちの施設で人々が列を成して投票をしていた。西ベンガル州は共産党の勢力の強い場所であり、道はCITUの赤い旗で埋め尽くされていた。

 ところが3時頃、急にバスはコーチ・ビハール地方の中心都市コーチ・ビハールで停まってしまった。運転手が言うにはここが終点らしい。元々このバスはコーチ・ビハール行きのバスだったのだ。しまった、騙された!予約したはずのシートが予約されていなかったりしてなんか怪しいと思っていたが、こういうことだったのか!あのパルターン・バススタンドのプライベート・バス・カウンターに一杯喰わされた。久々にインド人に騙されてしまった。しかし同志もいた。同じくスィリーグリーへ向かうベンガル人のおじさんである。おじさんが車掌に掛け合ってくれて、コーチ・ビハールからスィリーグリーへ行くバス代60ルピー×2人分を取り返してくれた。幸いスィリーグリー行きのバスがすぐに来たのでそれに乗り込み、午後7時頃にはスィリーグリーに到着した。グワーハーティーから合計13時間かかった。結局騙された割には、時間も金もロスせずに済んだ。これもベンガル人のおじさんの助けがあったからこそだ。捨てる神あれば拾う神あり、捨てるインド人あれば拾うインド人あり、ということで一件落着ということにしておこう。だがこの長時間の移動によって、昨日はゆっくり休んで回復した体力を全て使い果たしてしまったかのようにヘトヘトに疲れた。

 スィリーグリーは10km離れたニュージャルパーイーグリー(NJP)と双子の街を形成している。ニュージャルパーイーグリー駅はコールカーターとグワーハーティーをつなぐ鉄道の要であり、スィリーグリーのバススタンドは西ベンガル州北部の都市(ダージリン、カリンポン、コーチ・ビハールなど)や、スィッキム州、アッサム州などの隣接州、またネパール、ブータン、バングラデシュなどの隣国へのバスが発着する。スィリーグリーのバススタンドには頻繁にバスが出入りしていた。

 また、アッサム州と違って、この辺りはもう既に外国人旅行者がたくさん来る場所である。街の雰囲気も、外国人を変に気にしない感じで何となくホッとする。

 今日はセントラル・バススタンドの前にあるデリー・ホテルに泊まることにした。シングルで150ルピー。バスルームが汚ないが、部屋はまあ許せる程度。1階に外貨両替のカウンターがあるので便利。レートはそんなによくない上に、コミッションを30ルピー取られる。

 アッサム州を去ったことにより、ノース・イースト旅行に区切りがついた。グワーハーティーはノース・イーストの中心地として非常に栄えている印象が強い。最後に騙されたのが悔やまれるが、今となってはよくも悪くも思い出のひとつに過ぎない。メーガーラヤ州では働く女性の姿が印象に残った。

 しょうもないことだが、なぜかアッサム州、メーガーラヤ州では、5ルピー紙幣がよく流通していた。5ルピー紙幣はデリーではあまり見かけないのだが、それらの州を旅行しているとどんどん財布の中に5ルピー札がたまっていく。

5月12日(月) 紅茶都市ダージリン

 アッサム州から西ベンガル州に入り、ノース・イースト旅行を完遂したことで、今回の旅の第一章が終わったことになる。第一章は予定通り順調に進んだ。晴天に恵まれたことが大きな助けとなった。今日からは第二章、スィッキム文化圏の旅である。これからスィッキム王国の文化圏内であるダージリン、ガントク、カリンポンなどを巡る。ちなみに第三章ではブータンを1週間ほど旅行する予定で、第四章は余った時間を使って西ベンガル州南部の都市をいくつか廻ってコールカーターを目指し、最終的にデリーへ戻る。

 と言うわけでそろそろ旅の日程の目途がついてきたので、帰りの列車を予約することにした。6月8日にデリーから日本に飛ぶので、それまでにデリーに戻らなければならない。とは言え、デリーで少し余裕が欲しいので、6月4日か5日あたりのコールカーター発デリー行き列車を予約することにした。実はグワーハーティーでも列車を予約しようとしたのだが、鉄道予約オフィスの全てのカウンターに果てしない列ができていた上に、外国人用の窓口もなかったので諦めた。

 スィリーグリー&ニュージャルパーイーグリーの鉄道予約オフィスは朝8時から開くということなので、その時間に合わせて行った。だが既にカウンターの前には数人の列ができていた。それでもグワーハーティーよりはマシである。列に並んで順番が来るのを待った。

 今の時期、インドのほとんどの学校は長期休暇中であり、旅行シーズンである。また、欧米の大学なども今が長期休暇の時期にあたるため、欧米人大学生の旅行者も多い。帰りの列車を予約するのにはかなりの困難が予想された。正攻法ではおそらく手に入らないだろう。実はデリーからグワーハーティー行きのブラフマプトラ・メイルのチケットもかなり苦労をして手に入れたのだった。今回僕が狙っていたのは2303プールヴァー・エクスプレス。コールカーターのハーウラー駅を9:10に出発し、24時間後にニューデリー駅に到着する。デリー〜コルカタ間を移動するには、この列車がもっともリーズナブルだ。

 30分くらい列に並んでやっと僕の順番が回って来た。窓口の人に予約フォームを渡す。「外国人か?」と聞かれたので「そうだ」と答える。「パスポートを出せ」と言われたのでパスポートを渡す。外国人用に予め確保されたシートを探してくれている。ここで僕が学生ヴィザでインドに来ていることがばれると問題が起きるのだが(観光ヴィザ以外の外国人に外国人用シートの特権はないことになっている)、幸いヴィザはチェックされなかった。ところが6月4日も5日も席がなかった。6月6日なら空いていると言う。つまり7日の朝にデリーに着くことになる。7日にデリーに着いて8日に飛行機に乗るのか・・・。ギリギリの旅だな・・・。しかし間に合うことには間に合う。そのチケットを買うことにした。エアコン付き3段ベッド車両の席で1208ルピーだった。

 なんとか帰りの切符を手にしたところで、次の仕事に取り掛かることにした。スィッキム州へ行くにはパーミットが必要なので、どこかで手続きをしなければならない。デリー、コールカーター、ダージリンなどでもパーミットを申請できるのだが、スィリーグリーのスィッキム観光局がもっとも手軽にパーミットを出してもらえるそうなので、ここで取ることにした。スィッキム観光局の開業時間10時に合わせて行ったのだが、オフィサーが来ていないということでずっと待たされた。典型的なインドの事務手続き風景である。オフィスの偉い人がいないと何も進まないのだ。1時間ほど待ってやっと手続きが始まった。フォームに必要事項を記入し、パスポート・サイズの写真を1枚提出して手続きは完了。30分後にはパーミットが発行された。また、同時にスィッキム州観光案内のパンフレットももらえた。

 このようにスィリーグリーは交通の要所であるだけでなく、事務手続きに便利な場所でもある。だが、全く観光ポイントはない。やることを終えたら長居する必要は全くない街だ。すぐに次の目的地へ向かう。セントラル・バススタンドで12時半発のダージリン行きバスに乗り込んだ。スィリーグリーからダージリンまで80km、プライベート・バスで57ルピーだった。

 スィリーグリーからバスは北に向かい、やがて山を登り始めた。シムラーやシロンへ行くときも同じように山を登って行ったが、それらと比較してこのスィリーグリー〜ダージリン間の道は相当な悪路だ。道の舗装も劣悪ながら、一車線しかない場所がいくつもある。対向車とすれ違うのにいちいちどちらかが停まって道を譲らなければならない。しかもトラックから出る排気ガスが臭すぎる。追い越しに成功するまでその排気ガスを吸い込み続けなければならない。

 だがこのスィリーグリー〜ダージリン間の道を個性的にしているのは、トイ・トレインの存在である。自動車用の道路に沿って、トイ・トレインの細い線路が通っている。このダージリンのトイ・トレインは蒸気機関車で、鉄道ファンの憧れの的である。スィリーグリーからダージリンへ行くのにトイ・トレインで行くこともできるが、バスやジープで行くよりも2倍の時間がかかるので、実用的ではない。蒸気機関車に乗ることを楽しめる人でないと途中で飽きてしまうだろう。

 ダージリンへ行くまでに3回トイ・トレインを見かけた。だがその内の2つはディーゼル機関車で、蒸気機関車は1回しか見なかった。どうも全部が全部蒸気機関車ではないようだ。トイ・トレインとは言いつつも、案外ちゃんとした車両だった。山の斜面にへばりつくように並ぶ家々の真ん前を列車が悠々と通っていく光景は迫力があった。

 ここらの人の顔を見ていると、実にいろんな顔がある。ベンガル人らしきアーリヤ系インド人はもちろんのこと、チベット人、ネパール人、スィッキム人などなど。肌の色も様々だ。中には日本にいてもおかしくない顔をしている人もいる。日本の有名人に似た顔もチラホラ。イチロー、所ジョージ、矢沢永吉、ムツゴロウなどなど・・・。

 スィリーグリーからダージリンまでずっと西ベンガル州であり、ベンガリー語が公用語の地域だが、不思議とダージリンに近付くにつれて看板からベンガリー文字が消え、ヒンディー語が目立つようになった。もちろん英語の表記が一番目立つが。これは元々ダージリンやカリンポンがスィッキム王国の領土であったことと関係あるかもしれない。

 標高が上がるごとに次第に風が冷たくなって来た。チベット風の建物も目立つようになった。バスは途中で乗客を拾ったり降ろしたりしながらゆっくりと進み、3時頃カルサーンを通過、4時半頃に標高2134m、西ベンガル州の有名な避暑地ダージリンに到着した。

 現在避暑シーズンの真っ盛りなので、宿探しに手間取ることは十分予測していたが、本当にその通りだった。まずガイドブックに載っているホテルはほぼ全て満室。それ以外のホテルも満室のところがほとんど。街の中心部から離れたホテルには空室があったが、あまり魅力的な部屋ではなかった。ダージリンは山の斜面に沿って広がる都市なので、道は坂道だらけだ。移動するのに一苦労である。標高が高いので空気も薄い。そんなダージリンで1時間ほどホテルを探して彷徨った。だが最終的に納得できるホテルに泊まることができた。ガーンディー・ロードのホテル・プラダーンである。シングルで275ルピー。まさに足で見つけたホテルだった。

 今まで旅行者があまりいない場所を旅行していたので、ネットカフェでメール・チェックをする機会があまりなかった。グワーハーティーのファンシー・バーザールで一度メール・チェックをしたが、日本語が使用できなかったので、英語のメールだけをチェックしただけだった。しかしさすがにダージリンは外国人旅行者も多いだけあって、日本語使用可能なネットカフェも簡単に見つかった。早速メールチェックをした。また、夕方になるとかなり冷えたので、店でセーターを買った。必要なものは現地調達。身軽な旅の基本である。

 今日見た雰囲気では、どうもダージリンは外国人に慣れ過ぎていて、逆に冷たい感じがした。特に子供が冷めていて、僕を見ても「ふん、日本人か」みたいな顔をして通り過ぎていく。「こいつは何者だ」みたいな脅威と好奇の目で見てくれる子供の方が僕は好きなんだが・・・。だが基本的に人は親切で、ホテルを探しているときも多くの人に助けてもらった。

 ところで、ダージリンのカタカナ表記についてだが、「ダージリン」はもともとチベット語の「Dorje Ling(雷の地)」から来ており、ヒンディー語などのインドの言語とは関係がない。街の看板などを見てみるとヒンディー語では表記が一定しておらず、「ダールジリン」だったり「ダールジーリン」だったりする。既にダージリン・ティーというブランドで半分日本語にも浸透しているので、僕はダージリンと表記することにした。同じようにアッサム州の「アッサム」も、ヒンディー語では「アサム」と表記されているが、茶のブランド名の浸透を理由に「アッサム」と表記している。また、ダージリンから30km南にある町カルソーンは英語で「Kurseong」と表記されている町のことだが、ヒンディー語では「カルサーン」でほぼ統一されていたので、カルサーンと表記することにした。

5月13日(火) ダージリン観光

 ダージリンは有名な避暑地であるが、避暑地の宿命として、観光ポイントとなるとどうしてもいかにも観光客をターゲットにしたアトラクションが多くなる。それらは当然のことながらツーリスト・プライスである。それに乗っかって純粋に楽しむもよし、ただ単にのんびり過ごすのもよし、なのだが、やっぱり「せっかく来たんだから」という考えが浮かび、積極的にミーハーな観光ポイントをこなしてしまう。

 ダージリンの観光関連者は早朝から晩までいろいろなエンターテイメントを用意している。早朝の見所と言えば何と言ってもサンライズ。ダージリンの南にタイガー・ヒルという場所があり、そこから見る日の出は格別ということになっている。日の出なんて何度も見ているので、わざわざ朝早く起きて日の出を見に行くのも馬鹿馬鹿しいのだが、後で「ダージリンに行っておいてあそこに行かなかったなんて!」と批判されるのが嫌で、行こうと思ってしまう。今日は朝3時に起きて、タイガー・ヒルまで行くジープ乗り場へ行こうとした。朝早く起きるのは問題なかったが、外に出てみるとパラパラと雨が降っていた。空を見ても星が見えない。こんな状態では日の出どころではないだろうと思い、タイガー・ヒルへ行くのはやめてホテルに戻って再び寝た。

 ホテルで朝食をとり、朝8時頃再び気を取り直してホテルを出た。もう雨は上がっていた。今度はトイ・トレインに挑戦することにした。駅に行ってみるとちょうどチケット・カウンターが開いたところだったので、9:15発ニュージャルパーイーグリー行きのトイ・トレインのチケットを買った。トイ・トレインは人気のアトラクションなのでチケットを手に入れるのは難しいのだが、幸運にも1席だけ空いていたので滑り込みでチケットを買うことができた。ニュージャルパーイーグリーまでは行かず、ダージリンの次の駅グームまで行く。2ndクラスで21ルピー。

 ダージリンのトイ・トレインにはディーゼルと蒸気のふたつがあるようだが、僕が乗ったのは残念ながらディーゼル機関車だった。今回乗ったのはどちらかというと交通機関としての役割が大きい列車だったのでディーゼルだったのだろう。この他、ジョイ・ライドという完全にツーリスト向けの列車も出ており、こちらは220ルピーかかる。ダージリンからグームまで往復する列車である。おそらくこの列車は蒸気機関車だと思う。





ダージリンのトイ・トレイン
これは蒸気機関車



僕が乗ったトイ・トレイン
ディーゼル機関車


 9:15ちょうどにトイ・トレインはダージリン駅を出発した。実は乗る前まで「トイ・トレインに乗って何が楽しいのか」と思っていた。だからシムラーへ行ったときもトイ・トレインのことなど眼中になかった。ところが乗ってみるとこれがまた面白かった。やっぱり民家のすぐそばを通り抜けていくのが楽しい。おばさんが洗濯をしながらこちらを見ていたり、子供が手を振っているのを見ながら進んでいく。遠くに目をやればヒマーラヤの山々が連なっている。列車のすぐ隣をバスやジープが通り抜けていくというのもすごい。ディズニーランドなどのアトラクションでは決して真似できない、大自然の中の生きたアトラクションだった。ついついパシャパシャと写真を撮りまくってしまった。





途中で蒸気機関車とすれ違う


列車のすぐ横をジープが通り過ぎる


 30分ほどでグームに到着した。グームにはイガ・チョリン・ゴンパというダージリン地方で最も有名なゴンパ(チベット仏教の寺院)がある。1875年に建造された比較的新しいゴンパだが、この辺りでは最古のゴンパということになる。外見はカラフルなゴンパ、内壁には美しいタンカがびっしりと描かれていた。中にはマイトレーヤ・ブッダの巨大な仏像が安置されている。何となく今日はスケッチをしたい気分になっていたので、このゴンパをスケッチすることにした。しかし途中で空模様が怪しくなり、雨が降るまでに完成させようと急いでしまったため、あまりバランスのとれていない絵になってしまった。2時間半ほどで絵は完成した。結局雨は一滴も降らなかった。




イガ・チョリン・ゴンパ


 グームからジープ・タクシーを拾ってダージリンに戻った。安食堂でポーク・モモを食べて、ダージリンの繁華街ザ・モールを通ってチャウラースターへ行った。この辺りの雰囲気はシムラーそっくりである。どちらもイギリス人が避暑地として開発した都市なので、似ていて当然かもしれない。ただ、シムラーとダージリンで違うところは、シムラーはパンジャーブ文化の影響がある一方で、ダージリンはチベット文化の影響が色濃いことだ。また、茶のプランテーションの労働者のほとんどがネパール人であることから、ダージリンはネパール人が非常に多い地域である。ネパーリー語が半ば公用語としてまかり通っている。

 今度はダージリンの北に向かってず〜っと歩いて行った。ダージリンの北の端には、インドで初めて造られたというロープウェイが運行している。チャウラースターから徒歩で30分ほど歩いてやっと辿り着いた。正式名はダージリン・ランギート・ヴァレー・ロープウェイという。このロープウェイもダージリンでは観光ポイントのひとつだ。こちらはトイ・トレインと違って、交通手段ではなく完全に観光客向けのアトラクションである。往復75ルピーだった。

 僕が行ったときは混んでいなくてすぐに乗ることができた。小さな6人乗りのゴンドラに乗り込むと、急に空中に放り出される。ガクガク揺れるのでビックリするが、すぐにゴンドラは安定し、すーっと急降下し出す。これはけっこう怖い。何しろここはインドである。日本のように安全第一ではない。何が起こるか分からない国なのだ。しかし乗ってしまったからには覚悟を決めるしかない。景色を楽しもうと外を見る。すると、眼下の山の斜面には茶の木が魚の鱗のようにびっしりと張り付いている。これが有名なダージリン・ティーの生まれ故郷だ。谷一面が茶畑だった。しかもかなり急な斜面である。その茶畑の間にジグザグの道があり、米粒ほどの人がゆっくりと歩いている。




ロープウェイと茶畑


 30分ほどで麓の町に着いた。ここには食堂が数軒あるだけで特にやることはない。ここで一杯紅茶を飲んでもいいが、帰りのロープウェイに乗っているときにトイレに行きたくなると困るので何も飲まなかった。すぐに帰りのロープウェイに乗って上まで上った。往復75ルピーは高いと思ったが、ダージリンの茶畑を上から眺めることができるのがいい。

 ダージリン・ティーにもいろいろなブランドがあるが、僕が仕入れた情報によると、「Happy Valley Tea」か「Makaibari Tea」というブランドが高品質のようだ。大体1kg400ルピーぐらいする。最高級品のダージリン・ティーだと1kg1300ルピーほどするそうだ。

 ところで、モモ研究家(食べるだけだが)を自称する僕にとって、やはりチベット文化圏内ではモモの食べ歩きが義務必然となっている。今回の旅行では今のところ、グワーハーティー、スィリーグリー、ダージリンでモモを食べてみた。グワーハーティーではパルターン・バーザールにある小さなモモ・スタンドでチキン・モモを食べたが、割とおいしかった。1皿6つ15ルピーと格安だった。スィリーグリーではセントラル・バススタンドの前に夕方になると出る屋台でマトン・モモを食べたが、これもけっこうおいしかった。1皿8つ10ルピーとさらに格安だった。こうなって来るとダージリンのモモに期待がかかるが、実際にはダージリンでは案外おいしいモモにありつくのは簡単ではなかった。高級レストランではDekevas RestaurantとKunga Restaurant、安食堂ではTenzin Restaurantを試してみた。どれもクラブ・サイドというダージリンの中心街に位置している。まずDekevas Restaurantではチキン・スティームド・モモ(50ルピー、1皿8つ)を食べたが、皮が厚くて中も肉が多すぎておいしくなかった。Kunga Restaurantでもチキン・スティームド・モモ(60ルピー、1皿10個)を食べたが、皮は饅頭風、中はやはり肉が多すぎて食べるのに苦労した。Tenzin Restaurantではチキン・モモはなく、ポーク・スティームド・モモ(12ルピー、1皿4つ)を食べたが、モモというより饅頭になっていた。どうも僕の理想とするモモにありつけない。

 思うに、まずどうもチキン・モモというのはチベット料理の中では邪道なのかもしれない。チベット料理の本場に行って、おいしいチキン・モモにありつけたことは今まで皆無であるばかりか、チキン・モモを用意していないところも多い。チキン・モモはインド人の好みに合わせて開発されたモモだと予想できる。チキン・モモを食べるのだったら、デリーが一番おいしい。

 おいしいモモを作る秘訣は野菜にある。モモにおいて、主役は野菜なのだ。肉は野菜を引き立てる影の役者に過ぎない。それを分かっていない店は、肉ばかりを中に詰めてモモを作る。そして皮肉なことに、高級レストランになればなるほどその傾向が強くなる。肉をできるだけ詰めれば客が喜ぶと思っているようだ。・・・と考えるより、もしかしてこれはチベット人と日本人の味覚の差なのかもしれない。

 僕はチベットに行ったことはないのだが、ラダックやダラムシャーラーは訪れたため、一応チベット料理に物申してもいい身分にあると思っている。よってここでインドのモモの法則を唱えたい。

インド モモの法則
1.一般に高級レストランのモモはまずい。安食堂や屋台で食べるべし。モモしか作っていないような店が一番おいしい。
2.チベット文化圏のモモには期待してはいけない。ただ、ポーク・モモが一番おいしいと思われる。
3.チキン・モモはデリーで食べるべし。チベット文化圏ではチキン・モモは高いばかりかおいしくない。

 そういえばダージリンではビーフ・モモも食べることができる。肉屋でビーフを売っているのも見た。インドでここまで大っぴらに牛肉が流通している都市は初めて見た。ヒンドゥー教で牛は聖なる動物と考えられているため、牛肉の扱いは慎重である。例えばデリーでは牛肉を売ってはいけないことになっている(ただ、BeafではなくFilletと書いて売れば問題ないらしい)。また、驚くべきことに牛肉はインドでは肉の中で一番安い肉である。だが、どうも牛肉と言っても水牛の肉だったりするため、あまりいいイメージがない。インドで牛肉を食べて病気になった人を知っている。宗教的また衛生的理由から、インドであまり牛肉を食べない方がいいと思う。

 また、インド人のモモの食べ方を見ているとけっこう邪道である。なんとモモにトマト・ケチャップを付けて食べているのだ。僕には暴挙に思われるのだが、餃子に醤油を付けて食べる日本人の食べ方も、本場から見たら暴挙かつ邪道なのかもしれない。中国で餃子を食べたときは、辛いタレのようなものを付けて食べていた。インドでも、同じような辛いタレが一緒に付いてくることが多い。

5月14日(水) ダージリン戒厳令

 今日は朝からスィッキム州の州都ガントクへ向かう予定だった。朝ホテルをチェック・アウトして、チャウク・バーザールのジープ乗り場へ向かった。しかしどうも街の雰囲気がおかしい。ジープ乗り場の前には多くの人が集まっており、ジープ会社のカウンターは閉まっていた。人々は口々に「今日はガントクへ行けない」と言う。満席になったのかと思っていたが、そうではなかった。ちょうどその場に日本語のしゃべれるインド人がいたので聞いてみたら、誰かダージリンの偉い人が暗殺されたらしい。そのせいでダージリンにつながる道は封鎖され、バス、ジープ、トイ・トレイン、交通機関は全て麻痺状態になってしまった。スィリーグリーへもガントクへも行けない状態だ。早速新聞を買って情報を仕入れた。以下、本日のテレグラフ紙(英語)から抜粋して翻訳。

ゴールカーの指導者、射殺される
[ダージリン5月13日]正体不明の暗殺者によって、DGHC(ダージリン・ゴールカー山岳議会、Darjeeling Gorkha Hill Council)の議員プラカーシュ・ティンが、ダージリンから約48km離れたゴークにおいて射殺された。

 ティン(享年40歳)は午後5時半頃に地元の市場から帰宅している最中に襲撃された。彼はダージリン・サダル病院へ搬送される途中で死亡した。

 ティンはゴールカー人民自由戦線(GNLF:Gorkha National Liberation Front)の指導者であり、1988年にDGHCが結成されて以来、暗殺された3人目の議員となった。

 1999年3月28日には、ダージリン・モーター・スタンドにおいて、GNLFダージリン支部委員だったルドラ・プラダーンが切り殺された。去年の10月3日には、カリンポンのダルヤー・ダラーにおいて、反GNLFの指導者で議員だったCKプラダーンが白昼に射殺された。

 ティンに同行していた地元住民のバクター・ジョーギーによると、彼らはパパイヤを買いにゴーク・バーザールへ行き、その帰宅途中、市場から2kmの地点で、4人の武装した暗殺者たちがGNLFの指導者を背後から撃った。

 「私は突然銃声を聞き、ティンが崩れ落ちるのを見た。暗殺者たちは次に私に向かって銃を撃って来たが、弾丸は外れた。私は彼らに石を投げた。しかし彼らは引き続き銃を撃ってきて、弾丸のひとつが店の近くをかすめていった。しかし私は彼らを追い払うために投石をやめなかった。」

 親類とGNLFの議員たちは指導者を45km離れたダージリン・サダル病院へ急送したが、途中で彼は死亡した。

 ティンの悲報が広まると同時に、病院周辺が警戒態勢に置かれ、運動が禁止された。

 ダージリン支部委員長ディーパク・グルンを含むほとんど全てのGNLF上層部は病院に駆け込んだ。午後9時半現在、指導者から何のコメントも発表されていない。

 当局は発言を拒絶しており、GNLFの指導者の左胸郭に4発の弾丸が打ち込まれたという事実だけを述べるに留まった。

 情報では、ゴークでは緊張が張り詰めているが、不穏な動きは報告されていない。ダージリン警察本部長サンジャイ・チャンデールは、既にSP(治安警察)が送り込まれており、暴動を警戒していると語った。

 スィッキムへの州境は封鎖された。

 ビジャンバーリー・パルバザールの議員だったティンは、DGHCにおいて灌漑と大衆教育を担当していた。ビジャンバーリー・パルバザールはかつて左翼の牙城だったが、ここ数年に渡ってGNLFが支配している。

 GNLFは今までのところ暗殺に関して何も声明を発表していないが、グルンは殺人を非難し、犯罪者の迅速な逮捕を要請した。

 ティンの死後、彼の妻と2人の息子(リワーズとリカーシュ)、そして娘のクリティアカー(カリンポンの聖ジョセフ修道院の8thクラスの学生)が残された。

 ティンはダージリンに住んでいたが、葬儀はゴークで行われる模様だ。

 とりあえずこの記事を読む限りでは、プラカーシュ・ティンに同行していたバクター・ジョーギーという男が怪しい。銃で武装した集団に向かって石を投げて応戦するとは・・・生きて帰れるはずないだろ!!インド人は本当に面白い。

 犯人の正体は不明とのことだが、この事件はのどかな避暑地ダージリンの暗部を明るみに出すものとなるだろう。ダージリンにはイギリス植民地時代から茶のプランテーションとして連れて来られたネパール人が多く住んでおり、インド独立後、彼らは政府から差別を受けていると感じ始めた。インド憲法に彼らの言語であるネパーリー語は地方公用語として認定されていないし、西ベンガル州政府に職を得るためにベンガリー語の能力を要求される。かと言って既にダージリンは彼らの生まれ故郷となっており、ネパールに帰るわけにもいかない。そこで1980年代半ばから、彼らは西ベンガル州から独立してネパール移民の州ゴールカー・ランドを作る運動を開始した。それを指導したのがゴールカー人民自由戦線(GNLF)であり、1986年には大きな暴動も発生した。1988年には西ベンガル州政府が妥協し、ダージリン・ゴールカー山岳議会(DGHC)が発足して、ダージリンは大幅な自治を認められた。ところがそれを不本意とするGNLFのメンバーが分離し、1990年にゴールカーランド自由協会(Gorkhaland Liberation Organisation、GLO)を結成してゴールカーランド独立実現に向けて活動を継続している。その後も散発的にダージリンでは事件が起こっており、今回の事件もそのひとつである。

 どうせ地元の政治団体による勢力争いなので、外国人に危険はないだろうが、道路が封鎖されてしまうと旅行に支障が出る。今日はどうしてもガントクへ行きたかったのだが、全く行けそうな雰囲気ではなかったので諦めた。明日行くことにする。再びホテル・プラダーンに戻ってチェック・インした。

 ダージリンのメイン・ロードであるヒル・カート・ロードでは、暗殺されたプラカーシュ・ティンの葬列兼デモ行進のようなものが行われていた。街中に警察が配備されており、今日は1日中全ての店のシャッターが閉まったままだった。ただ唯一、薬屋だけは開いていた。戒厳令中でも薬屋だけは営業を許されているのかもしれない。戒厳令と言ってものどかなもので、道端では学校が休校になって喜んでいる子供たちがクリケットをして遊んでいた(ダージリンやシムラーなどの学校は現在授業がある。冬に長期休暇となるようだ)。道を歩く人も普通にいて、危険は全く感じなかった。しかし全ての店が閉まってしまったのでやることがない。今日は退屈な1日となってしまった。ずっとホテルで寝ていた。夕方になってやっといくつかの店が開いたものの、雨が降り出したためにますます中に閉じこもることになってしまった。

5月15日(木) カリンポン、そしてガントク

 突然の事件で昨日はダージリンで足止めを喰らってしまったが、今日はどこへも行けるようだ。朝ホテルをチェック・アウトし、ジープ乗り場へ向かった。ところが、やはり昨日の戒厳令によって交通機関が混雑しており、ガントク行きの乗り合いジープは11時まで席が取れない状態だった。また、ジープ・カウンターは非常に混乱しており、どうも信用が置けない。なかなかガントクに辿り着けない・・・!

 ジープ乗り場をウロウロしていると、「どうした?」というインド人がやって来た。彼が言うには、ガントクへ行くにはまずカリンポンへ行って、そこでガントク行きのジープに乗った方が今のところ早い、とのことだった。カリンポン行きのジープはすぐに出発するようで、席も空いているとのこと。カリンポンは今回行こうかスキップしようか迷っていたところなので、ガントクへ行く途中立ち寄るのも悪くない、と思い、まずカリンポンへ向かうことに急遽決定した。ダージリンからカリンポンまで乗り合いジープで55ルピー(バック・シート)。乗り合いジープはフロント・シート、ミドル・シート、バック・シートそれぞれ値段が違い、フロント・シートが一番高い。

 8時にダージリンを出発した。やっとダージリンを脱出することができた気分だ。ダージリンから東に向かって山を下りて行く。2時間ほどで谷間にある河に出た。ティースター河である。このティースター河にあるティースター・バーザールは、スィリーグリー、カリンポン、ガントクへ向かう道の交差点であるだけでなく、リフティングの基地にもなっている。ティースター・バーザールから再び山を上って行き、10時半にはカリンポンに到着した。

 ダージリンはセーターが必要なくらい涼しかったのだが、同じ山の町カリンポンはけっこう暑かった。標高1250mなので、ダージリンよりも900mほど低い位置にある。900m違うだけでこれだけ気温が違うのか、と実感した。だが、ダージリンと町の雰囲気はよく似ており、やはりネパーリー語が話されていた。ここもダージリン・ゴールカー山岳議会(DGHC)の管轄に置かれている。バススタンド周辺は、道が狭いために交通渋滞がひどかった。

 カリンポンではある人と会う予定があった。今回ブータンのスペシャル・ヴィザを取る手助けをしてくれたブータン大使館の人の恩師がメイン・ロードで店を構えており、是非その人に会って安否を確かめてほしい、と頼まれていた。カリンポンの繁華街を道を尋ねつつさまよっていたら何とか店を見つけることができた。恩師にも会うことができた。ブータン大使館の人に話によると「生きていたら相当年なはずだ」と言っていたが、会ってみたらピンピンしており、年齢を聞いたらまだ61歳だった。彼はヒンディー語の教師をしており、去年退職したようだ。

 カリンポンでは首尾よくガントク行きの乗り合いジープを見つけることができた。12時半に出発し、ガントクまで70ルピーだった。同じジープにはなんか変わった顔のおばさんが2人乗っていた。どこから来たのか聞いてみると、ブータン人だった。仏教寺院巡りをしにインドに来ていると言っていた。この辺りにはブータン人もけっこう多いのかもしれない。片言のヒンディー語が話せたので、いろいろブータンの情報を引き出すために会話をした。この2人のおばさんの性格から判断する限り、ブータン人は強引かつ親切、そしてはしゃぎまくり、という感じで、何となく韓国人を思い出した。いよいよブータン旅行が近付いてきたように思った。

 ジープは一度ティースター・バーザールまで戻り、三叉路を北に折れて、ティースター河に沿ってスィッキム州へ向かった。景色はヒマーチャル・プラデーシュ州とよく似ており、高い山に囲まれた美しい道だった。1時間ほどで西ベンガル州とスィッキム州の州境ラーンポーに到着した。外国人はここで手続きをしなければならないはず・・・と思いきや、他の乗客が「ヒンディー語をしゃべってろ」と言う。警察のチェックがあったが、僕は何も質問されなかった。ブータン人も知らん顔である。そのまま州境を越えてしまった。もうこの辺りでは、僕の顔は地元の人の顔と変わらないからばれないようだ。

 とうとうスィッキムにやって来た。スィッキムは長い間「桃源郷シャングリラ」と考えられてきた秘境である。しかし来てみたら案外発展した土地だった。道はきれいに舗装されているし、河にかかる橋も立派だし、ラーンポーの町などはインドの他の町と何ら変わらなかった。

 スィッキムには元々東南アジア方面からやって来たレプチャ族が住んでいたが、15世紀にチベットから内乱を避けてやって来たチベット人が住むようになり、スィッキム王国を作った。スィッキム王国はブータンやネパールなどと抗争を繰り広げながら、やがてインドを植民地化したイギリスと、スィッキム王国を属国とみなしていたチベットの勢力争いの場となる。インド独立後もスィッキム王国は独立を保ち続けるが、次第に国内に住むネパール人の不満が高まって暴動まで発展し、政府はコントロールが取れなくなった。そこで1975年に国民投票を行い、インドとの併合の道を選んだ。スィッキムは中国と国境を接するため、インドにとって軍事的に非常に重要な土地となり、政府はスィッキムの発展に多大な資金を費やしている。また、スィッキムは無関税地域である。

 このスィッキム州に対する優遇政策、またブータンとの良好な外交関係から、インドが中国に対してどれだけ恐怖を抱き、そして警戒をしているか察することができる。インドのライバルというとすぐにパーキスターンが思い浮かぶが、独立前からインドの潜在的な敵は常に中国だった。核保有国であるインドとパーキスターンは、「仲良くケンカしな」の間柄であり、お互いに依存し合っている部分が多くある。また、インドに比べたらパーキスターンは小国家であり、はっきり言ってあまり恐れる必要はない。しかしアジアのもうひとつの核保有国、中国はインドにとって不気味な巨大国家であり、一度戦争をして敗北をしているトラウマの国である。パーキスターンを裏から援助しているのも中国である。

 また、チベット仏教の国であるスィッキムやブータンの立場から見ると、近代史上一度は中国につくかインドにつくか選択を迫られたはずである。しかし1949年に中国によって侵略されたチベットを見れば、インド側についた彼らの選択は間違っていなかったといえる。ただ、チベットも相当アグレッシブな国なので、もし中国に侵略されていなかったら、チベットがスィッキムやブータンを侵略していたかもしれない。そのときはインドとチベットが対峙することになっていただろう。ダライ・ラマも今でこそノーベル平和賞を得るくらいの平和主義者になっているが、歴史が別の方向に動いていたら、ヒトラーのような侵略者になっていたかもしれないと僕は思っている。インドに亡命し、政治活動を禁止されている今のダライ・ラマには、結果的に平和を唱えることぐらいしか対抗手段がないのだ。

 ラーンポーから再び山道を上がって行き、3時にはガントクに到着した。ラーンポーはまだ暑かったのだが、ガントクはこれまた山の上にある街で、けっこう涼しかった。ガントクは今まで見た山の街(シムラー、ダラムシャーラー、マナーリー、ダージリン、カリンポンなどなど)の中で最も都会っぽい雰囲気を持っていた。特に繁華街のMGロードはバンガロールっぽいモダンさだった。




ガントクのMGロード


 デリーでスィッキム人に会うたびに、インドにいる全ての民族の中で、スィッキム人がもっとも日本人に近い顔をしていると思っていた。だから、日本人とそっくりな民族の住む場所に行ってみたい、というのがスィッキムを訪れた主な動機だった。実際にスィッキムに来て見ると、案外インド系の人がいっぱいいる。避暑で来ているインド人もいるのだろうが、やはりダージリンやカリンポンと同じくネパール人が多く住んでいるため、そう感じたのだろう。だがその中で、肌の色の白い、日本人と言っても何の疑問も沸かない顔の人たちがいた。なんだか感動した。ついジロジロそこらの人の顔を見てしまう。

 ガントクではMGロードにあるグリーン・ホテルに泊まった。ダブル・ルームをシングル料金にしてもらって1泊300ルピーだった。ホット・シャワーもあり、贅沢すぎるほどの部屋だった。

 ガントクで目立ったのは、酒屋と宝くじ屋である。やはりタックス・フリー・ゾーンなので、こういう娯楽方面の産業が発達するのだろうか?また、外国の家電製品を売る店も多かった。ただ、日本円を両替できる場所と日本語でインターネットのできる場所が見当たらなかった。今日は僕がガントクに着いてしばらく後に大雨が降り出してしまい、あまり歩いて廻れなかった。アッサム州やメーガーラヤ州では晴れ男だったのだが、西ベンガル州方面に来てからは一転して雨男になってしまった・・・。

5月16日(金) ルムテク&ガントク観光

 夜中まで昨日の雨は降り続けたが、朝になるとすっかり止んでいた。今日はまず乗り合いジープ乗り場へ行って、明日のペリン行きのジープの席を予約した。スィリーグリー以北の地域では乗り合いジープ網が非常に発達している。短距離、長距離両方ある。乗り合いジープは基本的に満席になると出発するシステムである。これが便利と言えば便利なのだが、不便と言えば不便なのだ。スィリーグリーのような旅行者の多い場所の乗り合いジープならすぐに乗客が見つかり、席が埋って出発できるのだが、地方の町などになるとなかなか乗客が見つからず、1時間以上待たされることになる。また、逆に乗り合いジープは本数や席数が少ないので、予約をしておかないと当日行っても席が取れないこともある。ダージリンからガントクへ向かう乗り合いジープに乗れなかったのは記憶に新しい。乗り合いジープはバスに比べて料金は少し高めだが、圧倒的に速いのも長所である。

 朝一番で予約しに行ったので、ペリン行きの席は簡単に取れた。ガントクからスィッキムまで130ルピーだった。ちなみにガントクの長距離乗り合いジープ乗り場は、ロンリー・プラネットには街の中心部にあると書いてあったのだが、現在は一時的に街の南へ移動していた。

 今日はまずガントク近郊にあるルムテクへ行くことにした。ルムテクへ行くのにも乗り合いジープが便利である。ガントクのラール・バーザールからルムテク行きの乗り合いジープが出ていた。これが乗客がなかなか見つからず、1時間ほど待ってやっと出発することができた。25ルピー。

 ルムテクはガントクの向かい側の山の斜面にある小さな村である。ガントクから一度山を下り、谷間の河を渡って再び山を上った。ガントクから1時間ほどで到着した。ここにはルムテク・ダルマ・チャクラ・センターという仏教の僧院がある。チベット仏教カギュ派の長ギャルワ・カルマパの所在地だという。だが行ってみて失望したのは、完全に観光地化されていたこと。特にインド人観光客が大挙して押しかけており、ここで学ぶ僧たちも何だか観光客疲れしている様子だった。仏像や金のストゥーパの納められた寺院と、僧たちが学ぶ校舎が隣接しており、どちらもチベット風の派手な建築だった。




ルムテク・ダルマ・チャクラ・センター


 ルムテクから帰った後、今度はガントクの街の上にあるエンチェイ・ゴンパを見に行った。ガントクの中心街から相当山を上ったところにあり、非常に疲れた。30分以上かかったと思う。エンチェイ・ゴンパも寺院と僧院のコンプレックスとなっており、赤い袈裟を来た子供たちが勉強をしていた。だがどうも僕にはスィッキム州のゴンパは性に合っていないみたいだ。苦労して行かなければならない割には、はっきり言って大したことない。ラダック地方のゴンパは古びていて迫力があったのだが、スィッキム州のゴンパは装飾が派手すぎて逆にチープな印象を受ける。ただ唯一内壁に描かれているタンカはよくメンテナンスがされているためかとても美しい。





エンチェイ・ゴンパ


勉強中の坊さんたち


 ガントクもそんなに多くの見所があるわけではなく、やることがなくなってしまった。モモの食い歩きももう既に昼に済ませた。ガントクでは街のあちこちでモモを食べることができ、屋台風の店なら1皿15〜20ルピーほどで食べることができる。僕が食べた中では、MGロードのLet's Eatという店のモモが一番おいしかった。インターネットもやったが、期待していたよりずっと環境は悪く、日本語の使えるネット・カフェもないし、スピードも非常に遅い。さて次は何をしようか、と考えていたらいいアイデアが浮かんだ。髪が長くなったので髪を切ろう。ガントクには僕と同じ顔をした人がたくさんいるので、ガントクの床屋もこの顔に合う髪型を心得ているだろうと予想し、ホテルの近くの安そうな床屋へ入った。デリーの同じようなレベルの床屋よりもずっと丁寧に切ってくれた。出来上がりはまあインドだな、という感じになったが、一応満足。

 床屋で髪を切ってもらっている内に今日も雨が降り出した。土砂降りである。床屋によると毎日夕方になると雨が降るそうだ。スィッキムはもう既に雨季に入っているようだ。豪雨の影響からか停電になり、そのままずっと電気は回復しなかった。この長期停電により、僕のガントクの評価がガタ下ちだった。

5月17日(土) ペリン

 早朝ホテルをチェック・アウトしてジープ乗り場へ向かった。ガントクでは毎日夕方雨が降るものの、早朝はきれいに晴れ上がっている。今日は西の方角に雪山が見えた。インド最高峰カンチャンジャンガー(8598m)かもしれないが、未確認なのでなんとも言えない。




カンチャンジャンガー?


 乗り合いジープは7時に出発し、山を下って行った。同じジープにはドイツ人の旅行者が1人、残りはベンガル人旅行者だった。山を下り、日が昇るにつれて気温が上昇していく。1時間ほど山を下るともう麓まで着いた。と、急にジープは修理屋の前でストップ。サスペンションがおかしい、ということで修理をすることになった。これで1時間ロスしてしまった。

 僕が予め予想していたルートとは別の道を進み、ジープは一度州境の町ランポー(東スィッキムの入り口)を越えて西ベンガル州に入ってしまった。そこからもうひとつの州境の町マッリ(南スィッキムの入り口)へ一度行き、ここでもう一度州境を越えてスィッキム州に入った。確か規則では外国人旅行者は一度のパーミットで一度しかスィッキム州に入ることを許されていないはずだが、こういう場合は大目に見てもらえるみたいだ。マッリーからジョルタンへ行き、ジョルタンから再び登山をしてゲイシン、そしてペリンへと向かった。運転手によると、この道が一番きれいに舗装されているため、こういうルートをとっているそうだ。ただ、ジョルタン〜ペリン間の道は悪路が続いた。

 ペリンもやはり山の上にある町だった。途中でエンジンがオーバーヒートしそうになりながらもなんとか山を上り切り、1時ピッタリにペリンに到着した。ペリンからはカンチャンジャンガーがきれいに見えるとのことだったが、やはり正午を過ぎると雲が出て遠くの景色が見渡せなかった。明日の朝に期待するしかない。ペリンではジープ・スタンドのすぐ近くにあるガルダ・ホテルに泊まった。4人部屋のドミトリー(1泊50ルピー)しか空いていなかったが、他に誰もいなかったし、どうせ1泊しかしないので問題ないだろうと考え、泊まることにした。ノートPCやデジカメを持って旅行しているので、普段はあまりドミトリーを利用しないことにしている。盗難も怖いし、周りの人にも気を遣わせてしまう。夕方になってイギリス人旅行者がドミトリーに入ってきたが、紳士な人だったので特に問題なかった。ホテル・ガルダはバックパッカーに人気の宿で、久しぶりに多くの外国人旅行者と接する機会を持った。また、ペリンはインド人避暑客で賑わっており、どこの宿もインド人で満室気味だった。

 今日中にペリンの見所を見ておかなければならないので、急いで昼食を食べて観光に出掛けた。雨雲らしき雲もだんだんとこちらに迫っていた。ペリンの第一の見所といえば、スィッキムで最も古く、また最も重要なゴンパであるペマヤンツェ・ゴンパである。ペリンから少し上がった場所にあった。やはりスィッキムの他のゴンパと同じく何度も再建されているため、建物からは歴史を感じなかったが、オリジナルは8世紀にパドマサンバヴァによって建てられたらしい。パドマサンバヴァはブータンではグル・リンポチェと知られている人物で、「第二の仏陀」と見なされているほど仏教史の中では重要な人物である。ブータンに仏教を広めたのもこのパドマサンバヴァである。




ペマヤンツェ・ゴンパ


 3階建てのペマヤンツェ・ゴンパの最上階にはザンドグ・パルリと呼ばれる壮麗で繊細なストゥーパが納められている。これは確かに一見の価値のあるストゥーパである。まるで南インドのゴープラムを想起させるような、目の痛くなる細かさと色使いの作品だ。入場料5ルピーが必要だった。

 建築的には、このゴンパ自体よりも、ゴンパの近くに建っていた何軒かの家が面白かった。土台は石造りで、その上は木で造られていた。屋根はトタンになっていたが、この地方の伝統的な建築様式の残存を見た気がした。




古そうな家


 ペマヤンツェ・ゴンパからさらに道を進んでいくと、スィッキム様式のゲートがある。そのゲートをくぐって道なりにず〜っと歩いていくと、スィッキム王国第二の首都跡ラブデンツェに出る。ほとんど廃墟だったが、開けた場所なので、天気がいいときに来るとここからの景色は絶景だと思われる。




ラブデンツェ


 結局僕がホテルに帰るまで雨は降らなかった。夕方、外に出てみると、ペリンの町が上から次第に雲で覆われていくのを見ることができた。「雲の家」の名を持つメーガーラヤ州よりも「雲の家」っぽい風景だった。やはり夜になって雷を伴った豪雨が降り出した。

5月18日(日) カンチャンジャンガー

 今日は朝8時に乗り合いジープに乗ってスィリーグリーへ向かわなければならない。それまでに何としてもインド最高峰の山カンチャンジャンガーをペリンから拝んでおきたかった。ペリンから見るカンチャンジャンガーは間近に迫って見え、非常に素晴らしいと言う。僕の泊まったガルダ・ホテルは谷に面しており、そこから北の方角にそびえるカンチャンジャンガーを見ることができるはずだった。朝5時前に起きてホテルの屋上へ上ってみる。だが残念なことに北の方角は雲がかかっていた。しかし時間はまだまだある。カンチャンジャンガーが見えるまで気長に待ってみることにした。

 東から太陽が昇る。雲がピンク色の染まる。もしカンチャンジャンガーが見えていれば、日の出と共に次第に色が変わっていく様子が見えるはずだったのだが、残念ながらまだ雲の裏に隠れたままだった。昨夜の大雨で屋上の並べられた椅子や机はびしょ濡れになっており、座る場所もない。ずっと立って北の方をただひたすら見つめていた。一緒に見ていた西洋人は「太陽が昇るにつれて雲も上に上がる」と言っていた。果たして見えるだろうか。

 6時になった。屋上にある部屋からホテルの主人が出て来た。次第に空から雲が消えつつあり、いくつか白い山が見え始めていた。「どれがカンチャンジャンガーですか?」と聞いてみると「雲に隠れて見えないな」と言われた。主人は屋上にある白色の、おそらくチベット仏教の祭壇に火を灯して、何やら念仏のようなものを唱え始めた。これが朝の日課のようだ。祭壇からは灰色の煙がモクモクと空に上がって行った。何のための念仏か知らないが、僕には雲を追い払うマジナイのように思えた。

 すると6時15分、次第に北の空にかかっていた雲が上に上がり始め、雪を抱いたいくつかの山の姿がきれいに見渡せるようになった。カンチャンジャンガーは四角錐の形をしており、ちょうど半分日が当たり、半分影になっていた。朝からずっと待っていたので、見ることができて嬉しかった。




ペリンから見える山々
矢印がカンチャンジャンガー


 ホテルをチェック・アウトし、朝8時ちょっと前にジープ乗り場へ行くが、なかなか出発しようとしない。僕は予約したときに朝8時発と言われたのだが、他のインド人乗客は7時45分と言われたり、8時半と言われたりしており、ジープ会社の杜撰なタイムテーブルが明らかになってしまった。結局出発したのは8時45分頃だった。

 ペリンからスィリーグリーまではずっと山を下っていくだけなので楽である。10時にはスィッキム州南部の交通の要所ジョールターンへ到着し、州境の町マッリーを越えて西ベンガル州に入った。ティースター河に沿って下流へ向かう道はきれいに舗装されていて快適だった。やがてヒマーラヤの山岳地帯が終わって風景が開け、ティースター河も山間の河から平地の河へと姿を変えた。同時に道も一直線の道となった。オート・リクシャーとすれ違い、道端に止まっているサイクル・リクシャーに目が行く。懐かしい。そういえばずっとオート・リクシャーやサイクル・リクシャーを見ていなかった。ダージリン、カリンポン、ガントク、ペリンなどの山の町は斜面が多いので、サイクル・リクシャーやオート・リクシャーは使われていないのだ。やがてすぐにスィリーグリーの街に辿り着いた。時計は1時になっていた。

 スィリーグリーに着いてまずはセントラル・バススタンドへ行った。明日はインドとブータンの国境の町プンツォリンへ行き、ブータンへ入国する。プンツォリンへ行くバスはスィリーグリーまたはカリンポンから出ているが、西ベンガル州北部の交通の要であるスィリーグリーがやはりもっとも接続がいい。念には念を入れて明日のブータン行きのバスを予約しておいた。朝7時半発、51ルピーだった。

 スィリーグリーでは前回と同じデリー・ホテルに泊まった。シングルが空いていて120ルピーだった。このホテルはバススタンドの真ん前なので便利だし、日本円を両替することができるので非常に利用価値が高い。ダージリン、カリンポンや、スィッキム州の町では日本円を両替するのは非常に難しい。

 スィリーグリーはただの交通の要所であり、観光すべき場所はないので、暇だった。日本語の使えるネット・カフェもない。今回の旅行で、日本語でインターネットができた場所はダージリンしかない。日本人観光客があまり来ない場所を旅行するときは、日本語IMEのインストール・ファイルを入れたフロッピー・ディスクが必需品だと感じた。CD−Rでは利用価値は下がる。インドの普通のネット・カフェでは、フロッピー・ディスクしか外部記憶媒体がない端末を使わされることが多い。もちろんフロッピー・ディスクには日本語IMEは入らないので、スマート・メディア+フロッピー・ディスク型のスマート・メディア・リーダーを用意して、その中に日本語IMEをコピーするのがベストだと思われる。

 スィリーグリーに戻って来たことで、旅の第二章は終了である。第二章はスィッキム文化圏の旅であったと同時に、避暑地巡りの旅でもあった。ダージリンは言うまでもなく東インド随一の避暑地であり、コールカーターから来た多くのベンガル人避暑客で賑わっていた。また、ガントクやペリンなど、スィッキム州の各都市も既にベンガル人避暑客の人気スポットとなっており、避暑シーズン真っ盛りだった。

 この避暑客ラッシュを見て実感したのは、既にインドの観光業界は外国人観光客に依存しなくても、インド人旅行者で十分に潤っているという事実である。観光業の自給自足が成り立っていると言っていいだろう。一昔前までは、観光地は外国人旅行者をターゲットにすることが成功の第一の鍵だったと言えなくもない。なぜなら主な旅行者は外国人だったからだ。ところが時代は変わり、今ではインド人旅行者が最も重要な客層となっている。インド人旅行者はグループで旅行することが多く、また、ここぞというときに金を使うインド人の習慣から、稼ぎ率もよく、言葉や文化の違いから来る問題も少ない。インド政府が観光地に法外な外国人料金を設定するという強気の態度に出れたのも、この観光業の実情の変化があるからだろう。もはやインドの観光業は貧乏パックパッカーを必要としていないのかもしれない。歓迎するのは多額の外貨を落として行ってくれる金持ちツアー客のみだ。そもそも観光業が外国人旅行者に依存し過ぎる状態が危険であることは、911事件やSRRS事件などの教訓から既に世界的に自明の理となっている。観光業はまず自国の旅行者向けに発展すべきだ。そう思うと、インド政府の着眼点は非常に鋭いと感心する一方で、1人のバックパッカーとして憤りを感じる。バックパッカー天国だった昔のインドが懐かしい(と言いつつも僕の初インドは1999年春で、そんなに昔ではないが・・・少なくともこのときには観光地の外国人料金はなかった)。

 また、秘境と言われ、秘境と考えていたスィッキム州は、案外普通のインドと変わらなかった。山の風景はきれいだが、それ以外に特別な見所があるかと言われれば、自然しかない、と答えるしかない。トレッキングをすればまた印象も変わるのかもしれないが、パーミットの関係で他の地域に比べて煩雑な手続きを踏まなければならないというデメリットがある。ちょっとスィッキム州にはがっかりした。

 ダージリン、カリンポンなどの西ベンガル州北部の都市や、スィッキム州にネパール人が非常に多く住んでいるのには驚いた。公用語もネパーリー語であり、そのせいで街の看板にはデーヴナーグリー文字が目立つ(ヒンディー語とネパーリー語の文字は同じ)。ネパーリー語とヒンディー語はよく似ているためか、ヒンディー語もよく通じる。

5月19日(月) ブータン突入

 今日は特別な日だ。今回の旅でもっとも重要で、もっともエキサイティングな旅となるであろうブータン旅行を開始する日だからだ。しかも普通の人があまり体験することのできない個人旅行をする。一般的に外国人旅行者はブータンを旅行する際、1日200ドルを前払いし、旅行会社を通じて団体旅行をしなければならないことになっている。だが、実際にはいろいろと抜け道はあるようで、僕の場合は在印ブータン大使館の知り合いに頼んで特別ヴィザを発行してもらった。旅行の情報源はロンリー・プラネット・ブータンが唯一の頼りである(ガントクにて1050ルピーで購入)。第三章ブータン個人旅行、いったいブータンはどんな国なのだろうか?朝起きたときから今までインドを旅行して来たときとは違う緊張感が僕の身体にまとわりついていた。

 ところで、「ブータン」という国名の由来にはいくつか説がある。サンスクリット語のブート(チベット)+アント(終わり)=ブーターント(チベットの果て)⇒ブータンだったり、ブート+スターン(場所)=ブートスターン(チベットの地)⇒ブータンだったり、ブー(地)+ウッタン(上)=ブーッタン(高地)⇒ブータンだったり、諸説入り乱れていて定説はない。ただ、僕がブータン人の発音を聞いたところによると、「ブーターン」と発音している。カタカナでもブーターンと表記したくなったが、ここは慣例に従ってブータンと表記している。

 朝、セントラル・バススタンドへ行く。ブータン国境の町プンツォリン行きのバスは7時半発である。バスはバススタンドの奥の方に既に停まっていた。車体はインドのバスとあまり変わらない。昨日席予約しておいたのは正解だったようで、車内は満席になっていた。ブータン人らしき人も乗っていたが、どちらかというとインド人の方が多かった。国内移動用に利用している人もけっこういると思われる。

 バスはスィリーグリーを南に出て、そこから遥かグワーハーティーへ通じる道をずっと東へ向かった。カリンポンからプンツォリンへ向かうバスもおそらく同じルートを通ると思われるので、やはりスィリーグリーからプンツォリンへ向かうのが一番の近道だろう。黄金色に輝くベンガルの穀倉地帯を抜け、やがて風景は一面の茶畑に変わる。北にはヒマーラヤ山脈が延々と連なっている。ヒマーラヤ山脈とブラフマプトラ河に挟まれた、現在通過中の平地はドゥアールと呼ばれる地域で、かつてブータンが所有していたのだが、イギリスとの戦争によって所有権を失った場所である。イギリスはアッサム地方につながるこの地域の重要性に目をつけただけでなく、ドゥアールは茶の栽培地に適した環境だったので、どうしても欲しかったようだ。現実に今では広大な茶畑が広がっている。

 グワーハーティーへ向かう道を途中で北に折れ、今度はヒマーラヤ山脈に向かう形となった。やがて11時過ぎにインド側の国境の町ジャイガーオンに到着した。ジャイガーオンは普通のインドの町だったが、民族衣装を着たブータン人の姿がチラホラと見られるために少し変な雰囲気だった。事前の情報では、ジャイガーオンには何もない、とのことだったが、ジャイガーオンには宿泊施設やレストランもあった。ブータンとの国境、つまりジャイガーオンとプンツォリンの境には大きな門が建っており、人や車は自由に行き来できていた。




ブータンへの入り口


 外国人がインドからブータンに陸路で入国する際に忘れてはならないのは、ジャイガーオンでインド出国手続きをすることである。ブータンの門の近くにイミグレーション・オフィスがあるので、そこで出国手続きをした。オフィサーは紳士な人で、何の問題もなく手続きをしてくれた。

 インドで出国手続きをした後、ブータンの門をくぐってプンツォリンへ入った。つまりブータンに入国したことになる。だがあまり実感が沸かない。プンツォリンはフリー・ゾーンとなっており、日中なら誰でも入っていいことになっている。外国人もプンツォリンだけだったら何のパーミットもなしに入ることができるため、プンツォリンだけちょっと行ってみる、という「なんちゃってブータン旅行」をする人も多い。だが、プンツォリンにはもちろんブータン人もいるのだが、それ以上に多くのインド人が行き来しており、また建物もインドとそう変わらなくて殺風景なため、あまりブータンに来たという感じではない。

 今度はブータンのイミグレーション・オフィスへ行く。イミグレーション・オフィスのくせにプンツォリンの郊外にあった。外国人の中でもインド人は特別扱いで、彼らはブータンを旅行するのに旅行者料金(1日200ドル)もパスポートも必要ない。入国と同時に14日間のヴィザが下りる。だからプンツォリンのイミグレーション・オフィスはインド人でいっぱいだった。僕は「ヴィザ・オフィサーのところへ行け」と言われていたので、ヴィザ・オフィサーを探した。部屋に入ってみてビックリ。なんとヴィザ・オフィサーは女性だった。しかも美人である。美人ヴィザ・オフィサーがいるとはブータンもあなどれない。僕のヴィザは余裕を持って5月15日から2週間の期間申請しておいたので既に発行されており、5月29日までブータンに滞在できることになった。ヴィザ代として1050ルピー払った。ちなみにブータンのヴィザはブータン入国時のみ(つまりプンツォリンかパロ国際空港においてのみ)発行されることになっている。

 今から急げばティンプー行きのバスに乗れるとのことだったので、これまた別の方向の郊外にあるバススタンドへ急いだ。だが席は既に埋まっていた。そこで今度はタクシーを当たってみることにした。タクシー・スタンドへ行って「ティンプー、ティンプー」と叫ぶと、「Reserved? Reserved?」と聞かれた。予約なんてしんてない、と思ったが、後から知ったところによるとブータンで「リザーブド」と言った場合、1人でタクシーをチャーターすることのようだ。「リザーブド」の他に「シェア」があり、こちらは要するに乗り合いタクシーのことである。もちろん僕はシェアでティンプーまで行くことにした。プンツォリンからティンプーまで350ルピー払った(正しい値段かどうかは知らない)。

 ここで一度断っておくと、ブータンの通貨はヌルタム(Ngultrum、Nu)、補助単位がチェタム(Chetrum)だ。1ヌルタム=100チェタムである。ブータンの通貨はインドのルピーと同価値となっており、1ヌルタム=1ルピーとなっている。また、ブータンではインド・ルピーも流通しており、ブータンのどこでも自由にルピーで支払うことができる(インド・ルピーは国外持ち出し禁止のはずだが・・・)。よって、この時点では僕はインドから持って来たルピーで払っている。まだヌルタムを使っているという気分ではないので、単位はルピーで書いているという次第だ。

 タクシーはマールティー・スズキのワゴン車で、ドライバーを含めて5人が乗った。やはりブータン人は親切で、外国人の僕を一番前の助手席に座らせてくれた。悪路を走行する際、一番前の席が一番楽である。

 ブータンはインドよりも30分時間が進んでおり、インドの1時がブータンの1時半になる。ブータン時間で1時半頃にプンツォリンを出発した。プンツォリンはヒマーラヤ山脈の麓にある町で、町を出るとすぐに山道となる。少し山を登ったところのリンチェンディンで入国審査がある。外国人はここで自動車を降りて手続きをしなければならない。名前、国籍、パスポートNo.、ヴィザNo.などをメモされて、旅行目的を聞かれた。観光と答えるとやばいかな、と思っていたら「オフィシャル?」と聞かれたので、「そうだ」と答えておいた。また、入国審査時にSARS関連のチェックをされた。中国、台湾、シンガポール、カナダなどに過去1週間以内に滞在したか、高熱はないか、などを申告しなければならない。プンツォリン〜ティンプー間にはもうひとつチュカという場所で外国人はチェックを受ける。

 ブータン大使館の人から、「プンツォリンを出て1時間ほどすると寒くなるので、温かい服を手元に用意しておきなさい」とアドバイスを受けていたが、全くその通りだった。プンツォリンはインドと同じ気候で非常に暑くて汗ビッショリになったが、プンツォリンを出て1時間もするとかなり標高の高いところまで来るので、気温は急に下がる。ダージリンで買ったセーターを着て寒さをしのいだ。

 道はインドの援助によって造られたためか、インドと全く変わりない。ところどころ崖崩れや落石などでひどい悪路になっている部分もあり、お世辞にも快適な道とは言えなかった。対向車とすれ違うときもギリギリなので危険が伴う。

 3時頃にランチを食べることになり、道路沿いにある食堂に入った。ここでいきなりブータン料理を食べることになった。ターリーを注文すると、皿の上にご飯と野菜、そして小さな皿にカレーとチーズが出て来た。エマ・ダツェというブータンの一般的な料理である。噂では非常に辛いと聞いていたので、恐る恐る口にしてみる・・・やっぱり辛い!インド料理に慣れているつもりだったが、それをさらに上回る辛さだ。しかも辛さ以外に味がしない。ただ野菜を茹でただけの料理にチリを加えた料理に思えた。カレーの中には尋常ではない数のグリーン・チリが入っている。辛すぎて全部食べることができなかった。ブータン人は毎日こんなものを食べているのか・・・。インドのダール・チャーワルが急に恋しくなった。

 その食堂のテレビでヒンディー語のドラマが放送されていたので、もしかしてこの人たちはヒンディー語が分かるのかもしれないと思って聞いてみたら、やはり片言のヒンディー語を話すことができた。ブータン人は基本的にヒンディー語が分かるようだ。だが非常に訛っているので聴き取るのに苦労する。ヒンディー語映画や映画音楽も彼らは非常に好きらしい。ここ数ヶ月間インドでは「DJドール・リミックス」というカセット・CDが大流行しており、どこへ行っても必ずその音楽が流れているのだが、僕が乗ったタクシーの運転手もやっぱりこのカセットを持っていた。ヒマーチャル・プラデーシュ州やスィッキム州などの山岳地帯を旅行しているとき、このCDに入っている「Tere Mere Honthon Pe」が流れると何となく「山だなぁ」という気分になる。ブータンも例外ではない。

 ヒンディー語を理解するものの、基本的にブータン人はゾンカ語を話している。英語も一応話せるようだが、インド人ほどうまくはない。ブータン人はやたらと話好きな民族のようで、自動車に乗っている間中、ノンストップで話し続けていた。また、急に黙ったと思うと、ブツブツとお経なものをみんなで唱え始めるので怖い。イスラーム教のようにお祈りの時間とかがあるのだろうか?

 途中で雨が降り出した。やはり山の上の道を通行しているので、天候は不安定である。しかし雲と山と光の織り成す景色は非常に美しかった。雨が止むと今度は虹が出た。虹というのは自分が光源から遠ざけるほど小さく濃く見えるようになり、近付くほど大きく薄く見えるものだと実感した。また、虹のアーチをくぐり抜けることはどうも不可能だということも分かった。とりあえずこの美しい風景と虹を見て、ブータンに歓迎されているような気分になった。

 日が沈み、次第に闇が辺りを覆ってきた。一時に比べれば標高は下がり、少しは気温が上がったように思ったのだが、夜になるとやはりかなり寒い。セーターの上にもう1枚何か欲しいぐらいだ。8時半頃にやっとティンプーに到着した。プンツォリンから7時間かかった。

 果たしてホテルが見つかるか心配だった。まずはティンプーの中心街にあるホテル・タンディンを当たってみたのだが、満室となっていた。どうもインド人旅行者で満室となっているようだ。インド人避暑客はブータンにまで足を伸ばすようになっているのか・・・。そこで向かいのホテル・ナルリンへ行ってみたのだが、やはり満室。他にいいホテルはないか聞いて、今度は少し離れたところにあるホテル89へ行ってみたら、このホテルは余裕で空き室があった。この差はいったいなんだろう・・・?ダブル・ルームをシングル料金にしてもらって350ルピーだった。部屋はインドで350ルピー払えばこのくらいのレベルだろう、というぐらいで、不満はなかった。テレビ、ギザル、タオル、石鹸、トイレット・ペーパーなど完備されていた。

 ホテルにはレストランが併設されており、そこで夕食を食べた。メニューを見てみて一安心。インド料理が主なアイテムだった。だが、インドの外でインド料理を食べて、インドよりもおいしいということがあるとは普通に考えて起こり得ない。中華料理もあったが、こちらはインド風中華のブータン版で、もっと怪しげな料理になっていることが容易に推測できる。ブータン料理もあったが、痛い目にあったばかりなので、食べる気がしない。「ブータンでグルメを期待してはならない」と聞いてたが、本当に食べたいものがない。今思えばインドは世界でも上位にランクインするくらいのグルメ天国だった。なんて幸せな場所に僕は住んでいたのだろう・・・。仕方ないので、フライド・ライスを食べた。量がやたら多く、あまりおいしくなかった。

5月20日(火) ティンプー散策

 ブータンを最もブータンたらしめているのは、何と言っても彼らの身に付けている民族衣装である。男性はゴー、女性はキラという服を着ている。法律でブータン人は学校、公共施設、公的行事などで民族衣装を着ることを義務付けられており、好き好んで着ているわけではない人もいるのかもしれないが、町のほとんどの人は基本的に男女とも民族衣装を着て道を歩いている。またブータンにはネパール人も多く住んでいるのだが、彼らも民族衣装を着ている。チベット系のブータン人はやっぱり民族衣装が似合うのだが、インド系のブータン人にははっきり言って似合っていない。特に美しいインド系の女性がキラを身に付けていると、冒頭シーンのシンデレラを連想させる。




ネパール人もゴーを着る
だが似合っていない


 女性が身に付けるキラはチベット風の衣装なのだが、男性が身に付けるゴーは江戸時代の日本人が身に付けていた衣装と非常によく似ている。だからブータンに入国すると、まるで江戸時代に迷い込んだような気分になる。いや、もっと正確に言えば、時代劇のセットに迷い込んだような気分だろう。なぜなら道には自動車が走っているし、腕時計、サングラス、帽子などを身に付けている人もいるからだ。ゴーの下にはシャツと短パンをはいている人が多く、足が寒いのか、ほとんどみんな膝まであるハイソックスをはいている。

 今日はティンプーで1日のんびりしてブータンに慣れる日にした。まずはバス乗り場へ行って交通機関の様子を見てみた。明日パロへ行こうと思っているので、バスが何時に出るのかチェックしなければならなかった。何しろブータンを個人旅行するのは稀なケースなので、基本的な交通の情報がない。自分で確かめるしかないのだ。バススタンドはティンプーのすぐ近くにあり、中心部から歩いていける距離である。だが、バススタンドにはほとんどバスが停まっておらず、閑散とした雰囲気・・・。これが一国の首都のバススタンドか?ブータンには鉄道も飛行機の国内路線もないので、バスが唯一の長距離移動手段のはずだが・・・。




ティンプーのバススタンド
国内交通の要所のはずだが・・・


 バススタンドの建物に入ってみると、いくつかカウンターが並んでいた。どうもブータンのバスは全て私営のようで、それぞれの会社のカウンターが横一列に並んでいる。その中からパロ行きのバスを運営している会社のカウンターを探して聞いてみると、簡単に予約することができた。明日の朝9時発のバスで、僕の座席番号は@。つまり僕が一番初めにそのバスの座席を予約した人ということだ。31ヌルタムだった。

 次に銀行へ行ってお金を両替することにした。ブータンではインドルピーが使えるので、インドから入国した場合は手持ちのルピーがなくならない限り両替する必要はあまりないのだが、せっかくブータンにいるのだからヌルタムで支払いをしたいし、旅の最後にヌルタムを持ち帰りたい。ブータン・ナショナル・バンクへ行ってみると中は日本並みに清潔でよく整理されていた。開業時間の9時に一度訪れたのだが、本日のレートが届いていないとのことだったので、10時頃再び訪ねた。今度は両替可能で、本日のレートは100円=40.15ヌルタムだった。インドで日本円をルピーに両替するよりも断然有利である(スィリーグリーでは100円=37.5ルピーだった)。日本人はブータンでインドルピーを使うよりも、銀行で日本円を両替してヌルタムで支払った方がいいようだ。現在のところ1ヌルタム=2.5円という計算になる。

 ティンプーのメイン・ロードはノルズィン・ラムという通りである。その通りにはトラフィック・サークルがひとつだけ存在し、その辺りが街の中心部ということになる。トラフィック・サークルには警察が立っており、交通整理をしている。しかし交通整理が必要になるくらい車が通っているわけでもないので暇そうである。ブータンは世界でも稀に見る、首都に信号が1つもない国だと言う。そのトラフィック・サークルがある場所にかつて信号機が取り付けられたことがあったそうだが、住民から「非人間的で街の景観を壊す」と苦情が相次ぎ、2、3日後に撤去されたそうだ。




トラフィック・サークル
ティンプーの中心地
だが人影もまばら


 街を歩いてみると、本当にこれが首都かと疑われるぐらい活気がない。閉まっている店が多いし、人通りもまばらだ。唯一、車だけは割と頻繁に行き交いしている。だが、それも首都のレベルを遥かに下回っている。街造りのコンセプトもよく分からない。いきなり街のすぐ北に大きなゴルフ・コースがあり、その向こうに政府の建物がある。東にも大きなグラウンドがあり、その向こうにウィークエンド・マーケットの会場がある。街の重要な施設がわざわざ郊外に追いやられているかのようだ。だが、建物はどれも立派で味のあるものが多く、特に銀行などは相当手の込んだ建物である。

 ブータンにおいて僕の個人的な観光ポイントは、各地に存在するゾンだった。ゾンとは僧院と政庁と要塞が一体化したような建築物で、ブータン建築の完成形と言うことができる。ティンプー市内ではタシチョ・ゾンが最も美しく重要な建物である。タシチョ・ゾンでは国王や閣僚が執務を行っており、まさにブータンの中心部と言える。タシチョ・ゾンの由来は1216年まで遡るが、現在の建物は先国王ジグメ・ドルジ・ワンチュクによって造られ、1969年に完成したものである。ゴルフ・コースの向こう側に位置しており、背後の丘の上から全体を見渡すことができる。

 政庁なので、オフィス・アワーには観光客はノコノコと中に入ることはできない。だが警備員の話のよると、朝7時〜9時、夕方5時〜6時の間だったら入ってもいいようだ。今日は入らなかったが、またチャンスがあったら中も見てみようと思っている。

 ブータンを旅行する前から、写真を見ただけでこのタシチョ・ゾンをスケッチすることに決めていた。それほどかっこいい建物なのだ。実際に見てみるとやはり付け入る隙のない完成された建築物のように思えた。早速スケッチに最適な場所を探す。やはり背後にある丘の上から眺めるのが一番絵になる。残念ながら日陰となるような場所はなかったが、曇り気味だったのでいいかと思い、道端に腰掛けてスケッチを始めた。途中2度ほどパラパラと小雨が降り出して中断したりしたが、3時間ほどで絵は完成した。なかなかの出来栄えになった。




タシチョ・ゾン


 驚くべきことに、ブータンの伝統的建築方法によると、設計図も何も用いず直感で組み立てていくのが一般的らしい。このタシチョ・ゾンも、何の設計図もなしに造られたそうだ。また、釘なども一切使われておらず、木を組み合わせて造ってあるらしい。

 2時頃になっていたので、何かおいしそうなレストランはないかとノルズィン・ラムをテクテク歩いた。正午を過ぎたというのに一向に人通りは多くならない。ティンプーには多くのレストランがあるにはあるのだが、営業しているんだかしていないんだかよく分からない状態で、入る気になれない。仕方ないのでホテルに戻って食事をした。今度はチキン・ビリヤーニーを食べた。昨日のフライド・ライスよりはマシだった。

 長らくメール・チェックをしていなかったので、ティンプーでネットをしておきたかった。ティンプーで一番大きいネット・カフェと言うインフォ・テック・ソルーションズへ行ってみたが、そこはコンピューターの学校になっていた。しかし2台だけインターネットができる端末があり、空いていたのでネットをすることができた。日本語は表示のみで、IMEは入っていなかった。だがそれでもダージリン以来初めて日本語のメールをチェックできるので嬉しかった。しかし回線速度は非常に遅い。料金は1分2ヌルタムだった。

 特に今日は急いで観光をする気にもなれなかったので、他のブータン人のようにノンビリと町を見て歩いた。本屋でブータンの国語であるゾンカ語の入門書を探してみたが、あまりいい本はなかった。ゾンカ語−英語の辞書はあった。一応「Dzongkha Handbook」という本を買っておいた。65ルピーだった。

 ティンプーの標高は2320m。日が照ると日差しが強くて暑く感じるが、空が雲に覆われると涼しくて快適である。もう雨季に入りかけているのか、時々パラパラと小雨が降ることがある。夜はけっこう冷える。また、インド以上に野良犬が多く、夜になると犬同士でワンワン吼えあっている。インドの犬と同じく、基本的に人間には危害を加えるような意思はないようだ。あくまで犬は犬の世界にのみ生きている。また、ちょっと郊外に行けば牛がうろついている。

5月21日(水) パロへ

 ブータンには空港がひとつだけ存在する。首都ティンプーから53km離れた、パロの谷にあるパロ国際空港である。パロの谷はティンプーの谷の西隣にあり、ブータンでもっとも美しい谷と言われている。今日はティンプーのホテルをチェック・アウトして、パロ行きのバスに乗り込んだ。ブータン人はけっこう時間に几帳面なようで、出発時刻の9時ちょうどに走り出した。

 ティンプーを南へ出て、ティンプー谷とパロ谷の交差点、チュゾムまで南下した。谷の交差点ということはつまり河の交差点ということになる。ティンプーのそばを流れるワン・チュ河とパロのそばを流れるパロ・チュ河がここで合流しており、立派な橋が架かっている。チュゾムはティンプー、パロ、ハー、プンツォリンへ向かう道が交差する重要な場所であり、警察のチェック・ポストもある。外国人はここでチェックを受ける必要はないようだ。

 チュゾムから北西へ向かい、やがてパロ国際空港が見えてくる。谷間のわずかな平地を利用して造られた空港で、滑走路はひとつしかない。飛行機も1機しかなかった。空港を越すと、次第に前の方にパロ・ゾンが見えてくる。山の中腹部に建つ白色のゾンで、遠目からでも非常に目立つ。パロの町を静かに見下ろしている。パロ・ゾンはブータンの数あるゾンの中でももっとも堅固なゾンとして知られ、チベット軍の侵略を何度も跳ね返した輝かしい業績を持っている。




パロ・ゾン


 ティンプーから1時間半ほどでパロに到着した。パロの町はせいぜい500mほどの1本の通りに集約しており、道の両側に店がズラリと並んでいた。しかしその1軒1軒が純ブータン風の威厳のある建物で、ティンプーよりも美しい景観をしている。





パロのメイン・ロード


純ブータン風建築の店


 パロには2日滞在する予定である。とりあえずマーケットの一番手前にあったザムリン・ホテルをあたってみた。部屋は空いており、ダブル・ルームをシングル料金にしてくれて150ヌルタムだった。部屋にはバスルームが備え付けられているが、ギザルはない。テレビもない。インドの150ルピーの部屋とそう変わらないと思った。安さに惹かれてここに泊まることにした。

 どうやらブータンの安いホテルはレストラン付属のような形になっていることが多いようだ。1階がレストランになっており、2階に宿泊用の部屋がある。それぞれのホテルにはあまり部屋数が多くなく、せいぜい4〜5部屋くらいである。イメージとしては西部劇によく出てくる酒場兼宿泊所に近い。

 まだ2つしかブータンのホテルを経験していないが、基本的にブータンのホテルは非常にフレンドリーだと感じた。僕は1人でフラッと訪れて「部屋はないか」と聞いているので、最初は不審がられるが、「僕は日本人で、特例として個人で観光をしている」ということを説明すれば、すぐに打ち解けてくれる。そして何か不都合がないか非常に気を遣ってくれる。決して個人旅行のしにくい国ではないと感じた。

 早速パロの町を歩いてみる。地元の人向けの雑貨屋が多いが、中には観光客用のお土産屋もあった。あるお土産屋の窓には日本語で「おいしい乾燥松茸あります」と書かれた紙が貼ってあった。そういえばある知り合いのデリー在住日本人にブータンに行くことを告げたら、「ブータンでは松茸があるから買って来てくれ」と頼まれていた。ブータンに松茸なんてあるのか、と半信半疑だったが、本当にあるみたいだ。ただ、その店に入って聞いてみたら乾燥松茸は売り切れて置いていなかった。どうも今は松茸の季節ではないようだ。

 昼はソナム・トペルというレストランで食べた。ブータン料理は挑戦するのを諦めたので、無難にチベット料理を食べることにした。チキン・モモがなかったので、ポーク・モモを食べたが、やはりチリが入っていて辛い。豚肉もなんとなく変な味がした。だが皮の作りは本格的で、ポイントが高い。1皿5つで20ルピーだった。

 今日はパロ・ゾンのスケッチに時間を費やした。空港の方から見たパロ・ゾンが一番映えて見えたので、パロの町を出て空港の方へ歩いて行った。適当なところで座ってスケッチを始めようとしたが、そのときちょうどパラパラと雨が降り始めた。雨はスケッチの大敵である。水性のペンで描いているので、雨粒が落ちるとにじんでしまう。スケッチ・ブックをしまってしばらく雨が止むのを待ったが、なかなか止みそうにない。そこで近くにあった杉の木の下に移って、そこでスケッチを始めた。雨に悩まされながらも3時間ほどで絵は完成した。満足のいく完成度になった。

 その後パロの町でネットをしようと歩き廻った。2、3軒トライしてみたが、どこもホットメールにつなげないほど接続が遅かった。ブータンには唯一国営のドゥルク・ネットというプロバイダーしかなく、ここがダウンするとブータン国中のインターネットが使用不能となる。昨日ティンプーでネットをしたときも非常に遅かったが、今日はとうとうつながらなかった。

 夕食はザムリン・ホテルのレストランで食べた。料理は1、2時間前に注文してくれ、と言われたので、予めチキン・モモとエッグ・トゥクパを注文しておいた(モモは餃子、トゥクパはヌードル・スープ)。このセットは僕のお気に入りで、デリーでチベット料理を食べるときもよくこの組み合わせで注文する。正直言ってあんまり期待していなかったのだが、意外や意外、モモもトゥクパもかなりおいしかった。これからはチベット料理オンリーでブータン旅行を乗り切ろうと決意した。

5月22日(木) パロ観光

 ブータンに着いてからあまり天候に恵まれていなかったのだが、今日になってやっと晴天らしい晴天となった。山の頂には白い雲がいくつも浮かんではいるが、谷は青い空に照らされている。日本の春くらいの気温で、1日中非常に快適に過ごせた。おかげで今日はブータンでもっとも美しいパロの谷を心地よく観光して廻れた。

 まずは朝からパロ・ゾンへ向かった。昨日は外からスケッチしただけで中には入らなかった。ティンプーでも結局タシチョ・ゾンには入っていないので、これがゾン初訪問となる。

 パロ・ゾンはパロの町からパロ・チュ河に架かった橋を渡り、少し山を登ったところにそびえ立っている。パロ・ゾンの正式名はリンチェン・プン・ゾンといい、オリジナルは1644年にガワン・ナムゲルによって建てられた。




パロ・ゾンと橋


 ところで、ブータンの建築史を語る際、1897年という年は重要である。1897年6月12日午後5:06、アッサムで歴史的な大地震が起こった。マグニチュードは8.7。1995年の阪神淡路大震災のマグニチュードが7.2であったことを考えると、その地震の規模が少しは計り知れるだろう。この地震はインド東北部の各地域に甚大な被害をもたらした。メーガーラヤ州を旅行していたときも、この大地震の話を何度か耳にした。ほとんどの建物が倒壊して、地形が全く変わってしまったと言う。ブータンも例外ではなく、この地震によって国中のゾンが倒壊または深刻なダメージを被った。その中で、このパロ・ゾンだけはほとんど無傷で残ったと言う。

 また、各地のゾンの歴史を見ると、「火災で全焼」という記述が目立つ。これは、ゾンの壁にバターが塗られていることと、儀式のためにゾン内で火を使うことが原因のようだ。パロ・ゾンは1897年の大地震を生き延びたものの、1907年に火災で全焼し、次の年に再建修復されている。それ以後は何事もなかったようで、1995年に映画「リトル・ブッダ」のロケがここで行われたことが特筆に価する。

 パロ・ゾンはパロの町のどこからでも見えるのだが、近付くにつれてそれが予想よりも遥かに大きな建築であることに驚かされる。パロ・チュ河に架かる橋を渡る。この橋も残念ながらオリジナルではない。オリジナルは1969年の洪水で流されてしまい、再建されたのが今のニャマイ・ザムと呼ばれる橋である。元の橋は戦争の際に取り外せるようになっていたようだが、現在の橋は固定されている。しかしながら、けっこう味のある橋である。




橋を渡る


 橋を渡って坂道を上がって行く。パロ・ゾンの入り口は山側にあり、橋からグルッと回っていかないといけない。入り口には警察がいて、入場者のチェックをしている。僕もパスポートのチェックを受けた。1人で外国人が観光しているので少し不審がられたが、特に何の問題もなく通してもらえた。中に入ると、外見に勝るとも劣らない豪華さにさらに驚かされる。今までラダックやスィッキムなどのチベット寺院建築を見てきたが、ブータンの建築は群を抜いて素晴らしいと感じた。インドにもなかなかこんな圧倒的な建築物はないかもしれない。外見の雄大さ、内面の豪華さ、そして独自の伝統や文化、この3つがブータンのゾンには揃っている。しばし呆然としながら辺りを見回していた。





パロ・ゾンの内部


同じくパロ・ゾンの内部


 パロ・ゾンは正方形をしていて中は吹き抜けの広場となっており、中心部にウツェという塔が建っている。赤い袈裟を来た僧たちがあちこちにいる他、いろんな人が中の広場にたむろっていた。パロ・ゾンは僧院であると同時にパロ地方の市役所でもあり、また裁判所でもある。だから一般市民も来るし、役人もいるし、僧侶もいる。ゾンは元々政治、宗教、軍事の拠点として建造された。当時と違うのは、僕のような外国人観光客もやって来ることだろう。僕の存在だけがこのゾンにマッチしていないような居心地の悪さを感じた。パロ・ゾンでは今でもゾンがゾンとして生きている。

 僕は1人でフラフラと歩いているので、周りの人々から「なんだこいつ」という目で見られるが、別に何も言われないので、どこへでも入って行った。ウツェの上も登ったし、寺院も見たし、子供の修行僧たちがお経を読んでいるところにもお邪魔した。ゾンの部屋の中に入ると、非常に乳臭かった。

 パロ・ゾンの背後の山の上には、国立博物館がある。元々タ・ゾンと呼ばれる見張り塔だった建物を博物館にしてしまったもののようだ。入場料はローカルが5ヌルタム、外国人が100ヌルタムだったが、学生1ヌルタムと書いてあったのに目を付けて交渉してみたら、まんまと1ヌルタムで入ることができた。カメラは持ち込み禁止で、チケット・カウンターに預けなければならなかった。

 博物館には、ブータン先史時代の出土品から始まって、タンカ(宗教画、衣服、アクセサリー、食器、武器などなどが展示されていた。中でも目を引いたのは屋上にあったブータン切手コレクション。ブータンの切手から、昭和初期の印刷物のような味のあるチープさが感じられて僕も欲しくなった。しかし何よりもすごいのは建築そのものだと思う。博物館は円柱状をしており、屋根は不自然な傾斜を持っている。どうも法螺貝の形を模して造られた建築のようだ。内部も非常に入り組んだ造りをしており、どうやって造ったのか不思議になるくらいだった。




国立博物館


 これらの見所はパロの町から歩いて行ける距離にあるのだが、郊外にも3つほど見所がある。昼食を食べた後、今度はそれらを廻ることにした。歩いて行くには遠すぎるので、タクシーをチャーターすることにした。パロの町にはたくさんタクシーがいる。タクシー・ドライバーと値段交渉して、最終的に350ヌルタムでチャーターすることにした。

 まずはキチュ・ラカンへ行った。この寺院は659年にチベットの王ソンツェン・ガンポによって建てられたと伝えられている。中には巨大なグル・リンポチェの像があり、右足を前に突き出している。参拝者はその足に頭を付けて敬意を示すのが礼儀のようだ。また、寺院の中庭にはパロで唯一のオレンジの木が植えてあった。パロの気候はオレンジの木に適しておらず、ここにしか育っていないようだ。




キチュ・ラカン


 次に行ったのはパロからさらに北に15km行ったドゥルクゲル・ゾンである。1649年にパロ・ゾンと同じくガワン・ナムゲルによって造られた。パロの谷はチベットに通じる峠につながっており、戦略上非常に重要な土地だった。ドゥルクゲル・ゾンは防衛の拠点として建造されたものだ。だが現在では廃墟となっており、朽ち果てるに任せられている。廃墟になっているとはいえ、小高い岩山の上に築かれており、周囲を圧倒する威圧感は失っていない。




ドゥルクゲル・ゾン内部


 最後に行ったのがタクツァン・ゴンバ。キチュ・ラカンとドゥルクゲル・ゾンの間にあり、ブータンで最も有名な僧院と言われる。標高3140mの山の上にあるゴンバで、途中まで車で行って、そこから歩いて行かなければならない。パロの標高も2280mあるので、そこからさらに上がっていくのは非常に疲れる。駐車場から4、50分歩いて登ったところにカフェテリア(2940m)があり、そこが一応中間地点ということになる。普通の観光客はここで引き返すらしい。ゴンバの中には許可がないと入ることはできない。僕もさすがに疲れたので、カフェテリアで60ヌルタムもするファンタを飲んで休んでから引き返した。




タクツァン・ゴンバ


 パロの町に帰ってネットを試してみたら、今日はつながっていた。ウィンドウズXPを使っているところがあり、そこは日本語を表示することができた。ティンプーと同じく1分2ルピーだった。インドのネット・カフェのPCは、セカンド・ハンドだかサード・ハンドだかよく分からないようなオンボロのマシンを使っていることが多いのだが、ブータンのネット・カフェは概してインドよりも進んだ機器を持っている。また、インドのネット・カフェでウィンドウズXPを使っているところはほとんどない。インド人はウィンドウズ98が一番好きのようだ。

 ふと思うと、だんだんとブータンに慣れてきたように感じる。未知の国へ旅行した際、その最初の数日間は、その国のリズムというか呼吸というか、全体的な雰囲気に慣れることができず、少し臆病になる傾向がある。特に、カメラを向けていいのかどうか、ということに一番気を遣う。僕はスケッチでは建築物が主な対象物だが、写真ではなるべく人を撮りたいと思っている。しかしなりふり構わず人にカメラを向けるのは失礼だ。特に若い女性を撮るのには相当勇気がいる。国によってはイスラーム教のように、女性の写真を撮ってはいけない、というような規律があることもあるので、気を付けなくてはならない。だが、ブータンはまさにその人こそが最も写真になるので、人を撮らなかったらブータンにカメラを持って来た意味がないと言っても過言ではない。人を撮りたい、撮りたいと思いつつブータンに来て2、3日はあまり人を撮れずにいたが、今日は割とパシャパシャと撮れるようになった。どうもブータン人はシャイなので、カメラを向けると逃げてしまう人もいるが、一方で快く被写体になってくれる人もいる(どちらかというとインド系のブータン人の方が写真には気さくか)。一番理想的なのは、少し仲良くなってから写真を撮ることだが、最低限のマナーとして「写真を撮ってもいいか」と了解をとってから撮るようにいつも心掛けている。







ブータンの人々








 ブータン人の言語状況を見ているとけっこう面白い。まず、ブータンの公用語はゾンカ語である。ビルマ・チベット語族で、チベット語と非常に近い言語のようだが、相互に理解は不可能のようだ。学校教育は英語で行われているため、若い人になるほど流暢な英語を話す傾向にある。その他、ヒンディー語とネパーリー語がよく通じる。特にヒンディー語が通じるのは僕にとってありがたい。これは、ブータンでヒンディー語の映画やドラマがよく流通していることや、インド人の労働者が多くブータンに来て働いていることに起因すると思われる。ヒンディー語からゾンカ語に入った語彙もいくつかあるようで、例えばガーリー(車、バスなど)、プージャー(お祈り)、マーリク(主人、ボス)などのヒンディー語は一般的に使われている。この他、インド人がヒンディー語会話中に英語を混ぜるように、ブータン人もゾンカ語に英語やヒンディー語を混ぜて会話する傾向にある。数詞は英語やヒンディー語で代用する傾向が強く、またお金の単位はヌルタムよりもルピーと言っていることが多いのも特徴だ。

5月23日(金) ティンプーに帰還

 今日はティンプーに戻る。昨日あらかじめバスを予約しておいたのだが、またしてもシートNo.は@。ブータン人は前もって予約をするということをあまりしないのだろうか?その割にはバスは満席になるから不思議だ。

 朝、バススタンドへ行ってみるとどうも様子がおかしい。おかしな配置でバスが3台並んでいた。気にせずティンプー行きのバスに乗って待っていると、急にビデオ・カメラなどの撮影機材を持った人々がバスに乗り込んで来て、映画かドラマの撮影が始まった。僕はおそらくカメラには映ってはいけない人なのだが、隅の方にいたので支障はなかったようだ。監督らしき人は、突然の事件に驚きを隠せない乗客たちに何か言っていた。「普通にしていてください。カメラの方を見ないでください。」みたいなことを言っているんだろう、と容易に推測できた。

 どうも撮影しているシーンは、主役の男優がバススタンドに自動車で乗り付けてきて、友達か恋人か、とにかく誰かを探して3台のバスを見て廻る、というところだった。バスに入って乗客を見回すシーン、バスから出てくるシーン、バススタンドに自動車で乗りつけるシーンなどを撮影していた。男優は肌が比較的白くて整った顔立ちをしていたが、しかし背が低かったし、いかにも男優という感じのキリッと顔ではなかった。とにかく、ブータンでロケに出くわすのはかなりの珍事と言えるだろう。

 パロからティンプーまでは1時間半ほどの距離。10時半にはティンプーの閑散としたバススタンドに到着した。もうティンプーの地図は頭に入っているので楽勝だ。前回泊まったホテル89が非常に好印象だったので、今度も同じホテルに泊まることにした。やはり歓迎してくれて、同じ部屋に泊まらせてもらった。

 昼食はブータンで唯一日本食が食べられるレストラン、S.N.S.へ行ってみた。店内には「やきとり」と書かれた提灯がぶら下がっていたり、水墨画っぽい絵が飾ってあったりと、一応日本っぽい雰囲気が部分的に醸し出されていた。メニューを見てみると、インド料理などに混じって日本料理のセクションがあった。Tonkatsu、Shougayaki、Oyakodon、Korokke、Mabodofuなど、けっこう品目は豊富だった。値段も50ルピー前後でリーズナブル。一番無難そうな親子丼(55ルピー)を注文してみた。

 ブータンには日本人ヴォランティアが開発援助のためにけっこう住んでいるようなので、おそらくその中の誰かが日本食を教えたのだと予想できる。デリーでも「いろいろな」日本食を食べることができるが、もしティンプーの日本料理がすごいおいしかったらデリーは面目丸つぶれだな、と思いつつ料理ができるのを待っていた。意外とすぐに出てきたが、外見はボウルに入ったご飯の上にスクランブル・エッグをグチャッと乗せたような感じだった。親子丼はもっとフワッと乗せないと駄目だよ、と思いつつ恐る恐る食べてみると・・・う、まずい・・・。味の評価云々よりも醤油の味がしない!しかもグリーン・ピースがたくさん入っている!ソーヤ・ソースが切れてしまったのか?それともこういう作り方だと思っているのか?確かに醤油は豆から作られるが、だからと言ってグリーン・ピースを入れることないだろう!心の中で文句をブツブツつぶやきつつも、空腹を頼りに何とか全部胃の中に放り込んでしまった。これならデリーの日本食料理屋の方が数段上である。おかげでデリーの面目は守られた。

 ちょうどそのレストランの近くにあるチャンリミタン・スタジアムで、ブータン・トレード・ショーなるイベントが開催されていた。今日が初日で、数日間続くようだ。面白そうなので行ってみると、自動車の展示やら、各企業の新製品の展示やら、インドの州観光局のブースなどが出ていた。規模は非常に小さかった。

 トレード・ショーでいくつか収穫があった。まず、アーンドラ・プラデーシュ州観光局のブースで、アーンドラ・プラデーシュ州の観光スポットが紹介されたパンフレットを買うことができた(50ヌルタム)。アーンドラ・プラデーシュ州は広大な面積を誇る割には、インドの中でもあまり観光地として知られていないところである。僕は密かにアーンドラ・プラデーシュ州の未知の観光地をいつか巡ってみようと計画していたので、そのパンフレットは重要な情報源となった。また、タミル・ナードゥ州観光局のブースでは、クイズに応募しておいた。何がもらえるか知らないが・・・。

 一番の収穫だったのは、映像技術専門学校(Visual Institute of Technology)のブースで、ブータン紹介のCD−ROMを買うことができたことだ。「Druk Yul - A Multimedia Guide To Bhutan」という題名で、ブータンについて映像と音楽を交えて知ることができる。ブータンの歴史、社会、文化、政治、経済、祭り、観光情報、国歌、壁紙、スクリーン・セーバーなどなど、内容は盛りだくさんである。500ヌルタムもしたが、それだけ払う価値のあるものだと思った。・・・だが、なんとなく見たところインターネットに掲載する目的で作られた雰囲気なので、もしかしたら将来的にネット上で無料でダウンロードできるようになってしまうかもしれない。




映像技術専門学校のブース
キラを着たブータン人女性


 そのCD−ROMを後でホテルで見ていたのだが、一番驚いたのは現国王ジグメ・シンゲ・ワンチュクに4人の后がいるということだ。4人とも家柄、教養共に最高レベルの女性のようで、4人と同時に結婚したらしい。




国王と4人の后


 実はブータンもメーガーラヤ州と同じく母系社会の習慣の色濃い地域である。結婚すると婿が嫁の家に行き、財産は女性が継ぐことになっている(現在では男女平等に分配されるようになったようだ)。このため、やはりメーガーラヤ州と同じく女性が積極的に社会に進出している。いや、社会進出というよりも、社会を構成していると言った方が正しいのかもしれない。だが、やはり王室だけは特別のようで、王妃が王家に嫁ぐ形となるようだ。4人の后は4人とも率先して社会奉仕活動をしているようだ。

 また、ブータン人の男性はスカーフの色によって身分が識別されるようだ。ゾンを訪れるときは必ずスカーフを身に付けなければならず、赤色は大臣、青色は議員、白色は一般庶民というように身分に従って身に付けるべきスカーフの色が決まっている。まるで聖徳太子の冠位十二階のようである。

 CD−ROMにはけっこう突っ込みどころも多かった。ブータンの国技はアーチェリーなのだが、その紹介のページでアーチェリーのムービーを見ることができた。その中で、数人の人が的に向かって矢を放つのだが、一本も命中せずに映像が終わってしまった。どうせなら命中してるところの映像を流せよ!!ブータンの国旗の紹介のページがあって、ムービー再生のボタンがあったので押してみたら、ただ国旗が風になびくだけの映像が流れた。・・・容量の無駄遣いだ・・・。国歌も聴くことができたのだが、2つの選択肢があり、1つはインストルメンタルのみの再生、もう1つはヴォーカルのみの再生だった。なぜ演奏と合唱を同時に聴くことができないのだっ!!何はともあれ、ブータンのことをあまり知らない人に見せたら絶対にブータンのことがよく分かるCD−ROMだと思った。お土産に最適である。

 ティンプーにはけっこうまだ見所がたくさんある。今日は国立テキスタイル博物館へ行ってみた。ブータンで目立つものと言ったらまず建築物があるが、それと同じくらい目を引くのが、人々の着ている衣服である。ブータンの織物は独特で繊細な刺繍がしてあり、伝統的で高度な技術が今も生きていることを感じさせる。刺繍デザインはインドが他の追随を許さないくらい進んでいると言われているが、ブータンもインドに対抗できるくらい高度な刺繍技術を持っていると思う。また、どこかしら日本の平安文様を思い起こさせるような懐かしい印象も受ける。だから是非テキスタイルの博物館に行ってみたくなった。

 国立テキスタイル博物館の入場料は150ヌルタム。カメラ撮影は禁止で、建物はそれほど大きくなく、展示物もあまりない。まず見学者は小部屋に通されて、イントロダクション・ビデオを見せられる。このビデオはよく出来ており、ブータン人がどうやって織物を織っていき、模様を付けていくかが分かりやすく説明されている。また地域の特徴も知ることができる。

 このイントロダクション・ビデオに比べると、展示物は案外大したことはない。機織を実演している女性が2人いて、貴重な織物がいくつも展示されているが、精彩に欠ける。ミュージアム・ショップでは織物を買うことができる。




ブータンの織物


 博物館を見ている内に雨が降り出してしまい、そのまま今日はずっと雨が断続的に続いた。雨だと何もできないので、今日もネット・カフェでメール・チェックをすることにした。前回行ったインフォ・テック・ソリューションズは今日はスピードが速く、前回と別の端末に座ったら日本語入力もすることができた。日本語の他、タイ語、ウルドゥー語、韓国語などのIMEも入っていた。それにしても三度の飯よりもネットにお金を費やしているような気がする。

 ところで、ここのところ非常に身体の調子がいい。ブータンに来てから、というよりダージリンやスィッキム辺りを旅行しているときからずっと快調である。下痢にも全くならないし、便秘にもならないし、食欲もコンスタントにある。やはりヒマーラヤ山脈は健康にいい場所なのかもしれない。何より飲み水がおいしいことが一番嬉しい。ヒマーラヤ地方ではミネラル・ウォーターが意味をなさない。生水を飲んだほうが健康にいい(煮沸またはフィルターを通すのが一番安全だが)。気候も非常に過ごしやすい。このままずっとブータンにいたいぐらいの快適さである。

5月24日(土) 土曜のティンプー

 おそらくティンプーにいて一番楽しいのは土曜日だろう。その理由としてまず挙げられるのが、土曜日にはブータン唯一の新聞「クンセル(Kuensel)」が発行されることだ。なんとブータンでは新聞が週刊なのだ。情報が1週間というサイクルでもって入れ替わっていくということになる。なんてのんびりとした国だろう・・・。日本人の場合を考えてみると、朝刊を見て、朝のニュースを見て、夕刊を見て、夜のニュースを見て・・・その間にネットや携帯でも情報を仕入れて・・・と情報収集に病的なほど忙しい。どちらが幸福なのかは知らないが、週刊新聞はブータンの雰囲気にピッタリである。クンセルはブータンの主要都市で手に入ると思うが、やはり首都が一番手に入りやすく、ティンプーに関するイベント情報などが一番多いので、首都で買うのが一番楽しい。

 という訳で僕も早速週刊新聞クンセルを買ってみた。クンセルは英語、ゾンカ語、ネパーリー語の三言語で発行されており、1部10ヌルタムである。20ページあり、新聞というよりは同人誌のようだ。トップ・ニュースは、ネパールの東部にいるネパール系ブータン人難民キャンプについて、ブータン政府とネパール政府の間で交渉が持たれ、合意が取り交わされたというニュース(けっこう重要なニュースである)。その他の一面記事は、6月5日からインド祭がティンプー、プナカ、パロ、タシガン、チュカ、ブムタンなどで開催されること、55歳のネパール人シェルパが12時間45分でエベレスト登頂に成功し、世界記録を塗り替えたこと、プンツォリンで大量のドラッグを密輸しようとしたトラックが捕まったこと、5月23日に立法委員会が設置されたことなどである。

 2面には読者の意見投稿が掲載されており、3面からブータン国内の記事が始まる。8面には1ページ使ったカラーの広告が載り、9面からは12面までは娯楽系記事(クロスワード、クイズ、教養記事、投稿写真など)。13面と17面は国際記事で、14面は特に南アジアのニュース。15面は健康&科学の記事で、16、18、19面と17面の大半は広告である。全体的に「わざわざそんなこと記事にするなよ」というようなニュースや広告が多く、平和な国であることを感じさせる。中から個人的に面白かった記事を要約して以下に載せておいた。

ティンプーの野良犬がセルビタンをうろつく
 1999年に設立された王立動物保護協会(RSPCA)は、昨年ティンプーから16km離れたセルビタンに、犬の人口抑制のために動物福祉センターを創設した。ティンプーの野良犬は捕獲されて動物福祉センターで去勢、殺虫、予防接種を受け、再びティンプーの街に放されていた。ところがティンプー市民の相次ぐ野良犬に対する苦情によって途中で方針転換され、野良犬はティンプーに放されずに動物福祉センターに収容されることになった。よって50匹の収容能力しかないセンターに700匹もの犬が収容されることになった。だがセンターのフェンスが貧弱だったため、次々と犬が逃げ出し、先週数えたところわずか200匹の犬しか収容所にいなかった。これによりセルビタンの野良犬の数が急増し、近隣の住民たちの不安を増大させている。また、セルビタンに動物福祉センターがあることから、私的に犬をセルビタンにこっそり捨てに来る人もおり、問題を複雑化させている。

【コメント】ブータンの町には野良犬の数がやたら多い。そしてよく吠える。しかし敬虔な仏教国であるブータンには、野良犬を殺すという発想はないようだ。また、ブータンでは犬が最も人間に近い動物と考えられており、犬を大切にすると来世に利益があると信じられている。ブータン人が野良犬にエサをやる姿をよく目にする。
アフター・スクール・ビジネス
 ビダ・ワンモとソナム・ワンモは学校が終わった後に仕事をしている。彼女たちは授業後にブータン石油業者エリアへ行って、学校へ行っていない子供たちに混じってドマ(パーン)を売っている。姉妹は父親を助けるためにドマを売っている。彼女たちの父親は交通警察をしており、一月の稼ぎは2、3000ヌルタムである。母親は主婦をしている。

 姉妹は毎日200〜250ヌルタムを稼いでいる。5つのドマのパックを10ヌルタムで売っている。週末には彼女たちの売り上げは350〜400ヌルタムまで上がる。

 ドマ売りの子供たちにとって、商売は常に競争である。客を見つけると子供たちは競い合って走り、ドマを買うように叫び、せき立てる。小さい子供などは競争のときに転んで踏まれてしまうこともある。そのような熾烈な争いにも関わらず、彼らはお互いに助け合っている。自分の分のドマを売り終わると、他の子供のドマを売るのを手伝うのだ。

 「時々腹の立つ客もいる。罵声を浴びせかけて、自動車でひき殺すと脅す人もいる。最初は悲しくなったけど、今では慣れてしまった。」とドマ売りの子供の1人は言う。彼らは悪質なタクシー・ドライバーを最も恐れている。タクシー・ドライバーの中にはドマを受け取ると、金を払わずに走り去ってしまう人がいるのだ。しかし渡る世間は鬼ばかりではない。時々親切な人にも出会う。ドマを買うのでもなく、同情心からお金をくれる人もいるのだ。

 子供たちは8時を過ぎると家に帰り、ソナムとビダは11時まで宿題をする。彼女たちは平均的な学生であり、試験に落ちたことは一度もない。

【コメント】ティンプーにはドマを売る子供たちが非常に多い。小さなバケツにドマのパックを入れて、街を歩いていたり、道端に座っていたりする。インドのように乞食が多いわけでもなく、大量の物売りがバス停をうろついているわけでもないのだが、学校にも行かずにドマを売る子供を見るにつけ、ブータンも完全に平和な国ではないことを感じる。
コンピューター・ゲーム:ティンプーの最新トレンド
 ティンプーに新しく開店したネット・カフェ、バラックでは、ローカル・エリア・ネットワーク(LAN)を利用した「カウンター・ストライク」というゲームが流行している。LANを利用した多人数参加型ゲームは他の国では珍しくないが、ブータンでは最新中の最新である。バラックにはティンプーの若者が連日押しかけて、ゲームの腕を磨き、競い合っている。バラックには1日平均65人の客が訪れ、年齢層は7歳から25歳で、全て男性である。30分20ヌルタムで、1人平均1日50ヌルタムを費やしている。

 高校生のバスケル・ムカイ君は言う。「ネットワーク・ゲームはプレイ・ステーションなんかとは違って多くの人と一緒にプレイすることができる。だから必ず近い未来に大流行するだろう。」

 しかし同じく高校生のナムガイ・ティンレイ君は言う。「ネットワーク・ゲームは一時的流行に過ぎないだろうし、長時間コンピューターの前にいるのは健康によくない。」

 親の中にはこう考える人もいる。「私は悪くないと思っている。少なくとも私が知る限り、息子が夢中になって楽しめる場所は他にない。」「子供が勉強をおろそかにしない限り、ゲームをしていてくれた方が他に悪い遊びを覚えるよりかずっとマシだ。」

 ビデオ・ゲームによって子供たちが宿題をおろそかにしてしまうことがあるかもしれないが、テレビを見るよりはいいだろう。ゲームをしている間、子供たちは考え、読み、分析し、そして決断している。ビデオ・ゲームは読書やバスケット・ボールよりは好ましくないかもしれないが、子供たちにコンピューターを扱う知識を身に付けさせていることは否めない。世界は高度技術化して来ているのだから、これはいい現象だと言えるだろう。

 ちなみにバラックはとても儲かっているようだ。

【コメント】ブータンのような秘境でもコンピューターに対する人々の関心は高く、ネットワーク・ゲームも次第に普及し始めているようだ。まだあまり問題は発生していないようで、親のコメントも非常に呑気だが、近い将来テレビ・ゲームがブータン人の若者にどういう影響を与えるのだろうか。
日本のゴミ収集車がティンプーのゴミ収集を改善させた
 4年間でティンプーのゴミの量は8トンから20トンまで増加した。しかし最近になってゴミ捨て場の数は減少し、ゴミ収集が容易になった。これは全て日本の北海道、札幌市から贈られた5台のゴミ収集車のおかげである。5月21日に行われたセレモニーでは、デリーの日本大使館経済局長が出席し、正式に5台のゴミ収集車をティンプー市に寄贈した。市当局は2002年にゴミ収集車を受け取って以来ずっと活用している。デリーの日本大使館はティンプーのゴミ収集車のメンテナンスと輸送のために75,000米ドルを寄付した。

 ティンプー市長プンツォ・ワンディは語った。「ゴミ収集車によってドア・トゥ・ドアの収集が可能になり、街のゴミ捨て場の数は次第に減っている。現在当局は市内の80%の地域をドア・トゥ・ドアでゴミ収集している。以前は10−15%ほどでしかなかった。」

 ゴミ収集車は効果的に機能しているが、ティンプー市の拡大と人口の増加が障害となっている。

【コメント】今日の朝新聞を読む前に偶然ゴミ収集車を目撃し、日本のゴミ収集車に似ているな、もしかして日本から寄付されたのかな、と思っていたので、タイムリーな話題だった。ちなみにデリーにある日本大使館は、ブータンとの外交業務も兼任している。ブータンに日本大使館はない。
ブータン政府のポータル・サイト登場
 今週、情報技術局(DIT)は政府のオフィシャル・ポータル・サイトを始動させた。URLはhttp://www.bhutan.gov.bt/である。このポータル・サイトは、政府系、非政府系機関、企業、個人問わず、ブータンに関するあらゆるサイトにリンクしている。

【コメント】まだこのサイトを見ていないが、これでブータンに関する情報収集がより容易になるだろう。

 土曜日にティンプーにいて楽しい第二の理由は、ウィークエンド・マーケットを見ることができるからだ。週末になるとティンプーにあちこちから野菜、果物、穀物などを売るために人が集まる。ウィークエンド・マーケットは金曜日の午後からボチボチと準備が始まり、土曜日の朝から本格的に売買が開始され、日曜日の夕方まで続く。しかし市場見学の基本原則として、市場は朝がもっとも盛り上がって楽しい。しかも期間限定の市場なら、初日が一番新鮮で上質なものが売られることは容易に推測できる。というわけで、ティンプーのウィークエンド・マーケットは土曜日の朝に行くのが一番いい。僕も朝9時頃に訪れてみた。

 マーケットは街の外れにある。既に人の流れがウィークエンド・マーケットの方へと流れている。行ってみるとビックリ。今までどこに隠れていたんだ、と責めたくなるくらい多くの人が市場に詰め掛けていた。久しぶりに人ごみを体験した。ティンプーの人口は4万6千人ということだが、このマーケットを見てやっと納得がいった。

 やはり目立つのは女性の売り手である。メーガーラヤ州のジョワイの市場ほどではないが、8割以上は女性が物を売っている。また、メーガーラヤ州と同じく女性がパーン(ブータンではドマと呼ばれている)を食べる姿が目立つ。メーガーラヤ州のカシ族とジャインティア族はモン・クメール語族系ということだが、ブータン人と共通点が非常に多いような気がした。着ている服も似ているといえば似ている。




ウィークエンド・マーケット


 ブータンでは松茸が取れるということなので、ウィークエンド・マーケットで松茸を探してみたが、やはり今はシーズンではないようで見当たらなかった。野菜、果物、穀物などの食材が主な商品だが、奥の方にはハンディクラフトの店もあった。また、不思議なことに肉や魚を売っている人はほとんどいなかった。

 土曜日にティンプーにいて楽しい第三の理由は後で述べるとして、今日はマーケットを見てから民俗博物館(フォーク・ヘリテイジ・ミュージアム)へ行った。入場料は150ヌルタム。ブータンの伝統的な家を見て廻れるようになっており、各階に日用品や工芸品などが展示されている。ブータン人は本当にこれが民家かと疑われるくらい立派な家に住んでいる。一般的な家は3階建てで、1階は家畜の部屋、2階は食材や道具の倉庫、3階に台所、リビング・ルーム、仏間、客用トイレなどがあり、屋根裏部屋は通風性がよく、洗濯物などを干せるようになっている。日本の伝統的建築と同じく寝室はなく、家族は基本的にリビング・ルームで過ごし、食事をし、布団を敷いて寝る。また、庭にはホット・ストーン・バスと呼ばれる風呂があり、熱した石を水に入れてお湯にして入浴できるようになっている。150ヌルタムは高いと思ったが、ブータンの民家を見ることができるので一見の価値はあると思う。




民俗博物館


 その後、ティンプーの西の方にある動物園までずっと歩いて行った。ティンプーの街はそれほど大きくないため、大体全て歩いて廻れるのだが、なぜかポツンと郊外にある施設があったりする。この動物園も市街地から相当離れたところにあったが、頑張って歩いて行った。

 動物園とは行っても、ここには1種類の動物しか飼育されていない。しかしその動物は世にも稀な動物で、見る価値のあるものである。動物の名前はドン・ゲム・ツェイ、またはタキンと呼ばれている。タキンはブータンにしか生息していない変わった格好をした動物で、ブータンの「国の動物」に指定されている。タキンの出自に関して以下のような伝説がある。

タキンの出自
 15世紀に偉大な聖人ラマ・ドゥルクパ・クンレイがブータンを訪れた。ブータン中の神々は聖人の超能力を見物するために一堂に会した。人々も聖人に奇跡を起こすよう促した。そこで聖人は昼食のために牛とヤギを丸ごと料理して出すよう求めた。彼はそれらの肉を平らげ、骨だけが残った。すると彼は大きなげっぷをして、ヤギの頭蓋骨を牛の身体の骨にくっつけた。そして指を鳴らすと、骨は命を持って立ち上がり、草を食べ始めた。これがタキンとなり、やがてブータン中の山々で見られるようになったという。

 実際、タキンはどの科にも分類することができず、現在では独自の科に分類されているそうだ。

 この動物園に関しても面白い話がある。ティンプーの郊外に一度動物園が作られたのだが、動物を柵に閉じ込めて見世物にするのはブータンの信条にそぐわないと王様が判断し、動物園で飼われていた動物は全て野に返された。ところがタキンはティンプーの街に下りてきてエサを求めて歩き廻り始めたので、仕方なくタキンだけは再び柵の中に入れられたそうだ。

 タキンはけっこう広大な柵の中に飼育されており、普通ではあまり間近で見ることはできないそうだ。ところがラッキーなことに、僕が行ったときにはちょうどタキンが柵の近くまで来てくれて、至近距離でタキンの姿を見ることができた。確かに顔はヤギのようで、身体はヤクのように毛がボウボウと生えている。面白い姿をした動物である。人を全然恐れないようで、僕のそばで平然と草を食べ続けていた。相当食いしん坊の動物のようだ。





タキン


ずっと草を食べ続けていた


 ちなみにこの動物園の周りには3匹の犬がうろついていて、来訪者を容赦なく吠え立てるので注意が必要である。僕も犬に激しく吠えられて一度引き返した。

 動物園から帰る途中に、デンチェン・ポダンに立ち寄った。デンチェン・ポダンはティンプーの王宮タシチョ・ゾンのオリジナルがあった場所であり、現在では僧院になっている。現タシチョ・ゾンに比べたらシンプルな建物であり、ただ写真を撮っただけで引き返した。

 ところで、「ブータンのディスコ」と聞いて興味をそそられない人がいるだろうか?ティンプーはさすが首都だけあって、街にいくつかディスコやバーがある。土曜日にティンプーにいるのが楽しい第三の理由は、ナイトライフを楽しめることだ。どうも土曜日が一番盛り上がる、というか、土曜日しか盛り上がらないようだ。いったいどんな人が来て、どんな風に盛り上がるのか是非見てみたかったので、夜中にディスコを覘きに行った。

 僕が行ったのはオール・スターズ・ディスコというディスコである。夜9時からオープンするそうだが、僕は10時半頃に訪れた。入場料は300ヌルタム。ドリンクはフリーではなく、いちいち払わなければならない。中に入ってみると・・・ズッコケ、誰もいない。音楽だけが流れている。仕方ないので好物のラム・コークを飲んで、店の人と雑談をしながら人が来るのを待った。

 11時頃からやっと人が来始めた。ディスコを訪れる前に僕は3つの予想を立てていた。
 @ゴーやキラ(民族衣装)は着てこないだろう。
 Aネパール系ブータン人が多いだろう。
 B男の方が多いだろう。
 意外や意外、この内、@だけが当たっていた。AとBは見事に外れた。まず客は20代くらいの若者オンリーである。さすがにゴーやキラを来てディスコに来るような人はおらず、みんな精一杯オシャレをして来ていた。案外チベット系のブータン人がほとんどで、また供給過剰なほど女の子が多かった。友達またはカップル同士で踊りに来ている人が大半で、どうもティンプー社交界の狭さからかみんな顔見知りっぽかった。

 ディスコで流れる曲はデリーのディスコとそう変わらない。英語の歌がほとんどで、時々ヒンディー語のヒット曲が流れる。ディスコの内装は学園祭レベル・・・。日中はなかなかお目にかかれないくらいハンサムな男、美人な女もいた。デリーのディスコとの最大の違いは、黒人の不在だろう。デリーのディスコは黒人にほぼ占拠されている状態だが、黒人が全くいないというのも少し寂しいものだ。僕は10時半から11時半までディスコにいて、その間合計20人くらいの人が来ていただけだったが、最大時には100人以上の若者が集うそうだ。貴重なものを見ることができた。

5月25日(日) ワンデュ・ポダン

 パロはティンプーの西に位置していたが、今日は東にあるワンデュ・ポダンへ向かう。バスは8時半発、40ヌルタム。まずはプンツォリンやパロへ行くときと同じくティンプーを南に出るが、シモトカで東に折れて山を登り始める。次第に辺りは雲に覆われてきて、景色は曇りガラスを通して見たように白一色に染まる。途中ドチュラ峠(3140m)を越えると今度は下り坂となり、視界もだんだんと晴れてくる。プナカとの交差点であるメツィナを南へ進むと、次第に道路は谷底へ降りて行き、広大なプナク・チュ河が見え始める。四方は急斜面の高い山々に囲まれ、谷底に向かってずっと段々畑が続いている。と、バスがカーブを曲がると、急に前方の崖の上に巨大なゾンが出現する。これがワンデュ・ポダン・ゾンである。プナク・チュ河とダン・チュ河の合流点に面した高い崖の上に平べったく横たわったゾンで、谷全体を睨みつけているかのような威圧感を感じる。




プナク・チュ河とワンデゥ・ポダン・ゾン


 プナク・チュ河には大きな橋がかかっており、その橋のそばにチェック・ポストがある。そこで僕は降ろされてチェックを受けた。だが、困ったことにパーミットを要求された。実はティンプー谷、パロ谷以外の場所を訪れる場合、外国人はヴィザとは別にパーミットを取得しなければならない。パーミットはティンプーのタシチョ・ゾンでもらえるようだ。このことを事前に知らなかったわけではないが、曖昧な情報しかなかったため、とりあえず行ってみて様子を確かめてみようと思って何も用意せずに来たのだった。しかしこっちにも切り札がある。ワンデュ・ポダンの行政官と一応知り合いなのだ。彼に会いに来た、と説明したら、何とかワンデュ・ポダンに入る許可を出してくれた。

 橋を渡って急な坂を上っていくと、ワンデュ・ポダンのバーザールに到着した。ティンプーからワンデュ・ポダンまで70km、3時間半かかった。まずは宿探しをしたが、ワンデュ・ポダンは十分な数のホテルがないようだ。僕が泊まろうと思っていたホテルは潰れてしまっていた。そこでバーザールのすぐ近くにあるクンガ・ホテルへ行って聞いてみたら、部屋を提供してくれた。共同バス・ルームで150ヌルタム。

 ワンデュ・ポダンのバーザールはバス&タクシースタンドを中心に馬蹄状に広がっており、平屋建ての店の壁は全て白で統一されたいた。軒先に立ったり座ったりしている人が多く、人口が多いような印象を受けたが、どうやらみんなバスが来るのを待っているみたいだ。




ワンデュ・ポダンのバーザール


 ワンデュ・ポダン・ゾンのスケッチも当然するつもりだった。ワンデュ・ポダン・ゾンがよく見える位置は、チェック・ポストがある辺りだと感じたので、バーザールからずっと坂道を降りて行って、橋を渡っていいスケット・ポイントを探した。ブータンのゾンをスケッチする際に一番問題となるのは日陰探しである。ブータンは山の国なので、必ず毎日雨が降る。だから日陰でスケッチすることが好ましい。だが、市場や集落などを除いて、その日陰があまり見当たらないのだ。今回はチェック・ポスト近くにあったチョルテン(ストゥーパ)の下に座ってスケッチすることにした。やっぱり途中で雨が降ってきて中断したりしたが、2時間ほどで完成した。日陰でスケッチするために仕方なく選んだアングルだったが、面白い構図になってけっこう気に入っている。




ワンデュ・ポダン・ゾン


 ワンデュ・ポダン・ゾンは1638年にガワン・ナムゲルによって建造された。ある日彼は「眠っている牛のような形のゾン」を造れば国中に平和が訪れるという啓示を受けた。人々がゾンの建設地を探していると、四方にカラスが飛び去るのを見た。それは四方に宗教が広がることを意味しており、その地がゾンの建設地に選定されたと言う。眠る牛の話はともかく、四方に飛び去るカラスの話は後からの作り話の可能性が高い。ワンデュ・ポダンに来て見れば、このゾンが故意的に要地に建造されたことが分かる。1837年に火災に遭って修理され、1897年の大地震で甚大な被害を被ったそうだ。ワンデュ・ポダン・ゾンの立っている崖には無数のサボテンが生えており、これがゾンの難攻不落を助けたと言われている。

 スケッチの後、ワンデュ・ポダンの行政官に会ってみようと思ってゾンへ入って行ったが、今日は日曜日で休みだったことと、行政官に会うにはスペシャル・パーミットが必要(これもティンプーで取得しなければならないそうだ)ということで、会えなかった。何でもパーミットが必要な国なのか、と気分を害された。デリーで1回会っただけなので、そう無理して会わなくてもいいか、と思い諦めた。ワンデュ・ポダン・ゾンは外国人には公開されていない。

5月26日(月) プナカ

 ティンプー、パロを旅行していたときは、ブータンは個人旅行しにくい国ではないと思っていたが、ティンプーより東に来たら急に状況が変わった。いちいちパーミットを取らないといけないし、ホテル事情もよくないし、交通手段も不便になる。予定ではワンデュ・ポダンに2泊し、今日はプナカを日帰りで観光して、明日ワンデュ・ポダンより129km東にあるトンサへ行くつもりだった。ところがワンデュ・ポダンからトンサへ行くバスはなく、ティンプーから来るトンサ行きのバスを待たないといけないということを知り、トンサに行く気が失せた。ヴィザの期限が迫っているので、ティンプーから離れれば離れるほど交通手段が不便になることが分かった以上、ティンプーから遠く離れた場所へ行くのは危険であることも理由のひとつだ。また、ワンデュ・ポダンにはバス・チケットの予約カウンターなどはない。バスが来たら乗る形式である。インドだったらバスの予約をする必要はほとんどないが、ブータンは1日2便くらいしかないため、土地事情に詳しくない旅行者としては予約をしておかないと不安である。

 という訳で予定を変更して、今日は荷物を持ってプナカへ行くことにした。ワンデュ・ポダンで泊まったホテルは朝水が出ないし、周りがうるさいしであまり気に入らなかった。ワンデュ・ポダンからプナカへ行くにはタクシーを使うしかない。シェア・タクシーで行こうと思ったが、まだ朝早かったためかプナカへ行く乗客が集まらない状態だった。仕方ないのでタクシーを200ヌルタムでチャーターして行った。

 プナカは長い間ブータンの首都が置かれてきた場所である。標高は1350mと、ブータンの中では比較的低いため温暖な気候である。よって現在でも冬の間は、ティンプーの僧たちがここに移動して来る。ところがプナカにはなぜか宿泊施設がない。5km離れたクルタンにはいくつかホテルがあるため、そこに今日は泊まることにした。

 ワンデュ・ポダンからクルタンは16km、30分ほどで到着した。クルタンは殺風景な建物の並ぶ新興住宅地で、見るべきものは全くない。クルタンのホテル事情も相当悪かった。探すのに苦労したが、なんとか泊まれるホテルを見つけた。ゾムリン・ホテルというところで、1泊200ヌルタム。

 クルタンからプナカまではハイキングのつもりで歩いて行った。すぐそばにはモ・チュ河が流れている。やはり標高が低いだけあって暖かく、歩いていると汗が出てくる。クルタンから3、4km歩くと、モ・チュ河とポ・チュ河の合流点に建つプナカ・ゾンが見えてくる。金色の屋根を持つ3つの塔が直線状に並び立つ細長いゾンだ。モ・チュ河に架かる細い吊り橋を渡ると、ゾンの入り口となる。




プナカ・ゾン


 プナカ・ゾンは1637年〜38年にガワン・ナムゲルによって造られた。ブータンで2番目に造られたゾンと言われている(1番目はシモトカ・ゾン)。例によって何度も火災で焼失しており、1897年の大地震でも大被害を受けたが、その度に修復、増築されて現在に至る。

 ここのゾンは外国人も入ることができる。が、やはり入り口で警察からチェックを受ける。ここのゾンに入るのにも特別なパーミットが必要のようで、警察も少し困っていたが、最終的には入れてもらえた。ゲートをくぐるとすぐ広場になっており、中にはチョルテン、菩提樹、そして6階建てのウツェが建っている。手前が行政機関で、奥が僧院や寺院になっている。




6階建ての壮麗なウツェ


 もういくつかゾンを描いたので、プナカ・ゾンのスケッチは趣向を変えて、遠景からではなくゾンの入り口を拡大して描くことにした。ゾン全体を見渡せてしかも日陰になっている場所が見当たらなかったのも理由のひとつだ。プナカ・ゾンの入り口の手前にある寺院の庇の下に座って描いた。ゾンの細かい装飾をひとつひとつ見てスケッチしている内に時間が経ってしまい、合計3時間半以上かかった。

 チベット仏教の寺院の壁には必ずマニ車と呼ばれる、チベット文字が書かれた円柱が無数に埋め込まれている。参拝者は「オーム・マニ・パドメ・フム(ブータンではオーム・マニ・ペメ・フムと言う)」と念仏を唱えながらそのマニ車を回す。マニ車の中にはお経が入っており、1回回すごとにそのお経を1回唱えたことになるそうだ。小さなマニ車の他、2〜3mあるような巨大なマニ車も珍しくない。巨大マニ車には鈴がついており、1回回すごとにチンと音がするようになっている。

 僕がスケッチをするために座っていた寺院の壁にもマニ車が埋め込まれており、参拝者がやって来てはそのマニ車をカラカラと回して廻っていた。見ていると、ほとんどヨボヨボのおじいさん、おばあさんばかりだ。「オーム・マニ・ペメ・フム、オーム・マニ・ペメ・フム・・・」としわがれ声でつぶやきながら、ヨタヨタと歩いている。今にも死んでしまうのではないかと心配になるくらいヨボヨボなので、こんなところにマニ車を回しにくるよりは家で休んでいた方がいいのではないかと思ってしまう。

 もし宗教的行為に科学的根拠を持ち込むとしたら、チベット仏教のマニ車回しは一種の運動・体操のようなものなのではないかと思う。年寄りになると身体を動かしにくくなる一方で、信心深くなるので、マニ車を回すために寺院へ行って、寺院の周囲を何周も何周も廻る。こうすることによって身体を動かす機会を得ているわけだ。チベット仏教の神様への礼拝の仕方もけっこうな運動である。まず頭の上で手を合わせ、次に顔の前、そして胸の前に合わせてから、土下座するような形で頭を地面につける。これを何回も繰り返せば、ラジオ体操1回分の運動量になるのではなかろうか。同じく、イスラーム教の礼拝の仕方からも、運動を感じる。わざわざ大袈裟な仕草の礼拝方法が決まっている宗教は、信者に日々信仰心を忘れさせないようにしていると同時に、故意にしろ偶然にしろ最低限の運動を毎日提供していると思う。

5月27日(火) 火曜のティンプー

 クルタンで泊まったホテルも快適ではなかった。プナカは温暖な気候の土地のため、ブータンでは珍しく蚊がいるのだが、僕の部屋は窓が完全に閉まらず、蚊が入って来放題だった。蚊帳などもなく、僕は全身を布団で覆って寝なければならなかった。それでもあちこち刺された。また、布団に南京虫でもいたのか、朝起きたら蚊とは別の虫に刺された跡もあった。水の供給もよくなく、昨日は6時になるまで蛇口から水が出なかった。家族で経営しているほのぼのとした宿なのはよかったのだが、設備に不満満々だった。

 今日はティンプーに戻る。朝7時半頃にホテルをチェック・アウトしてとりあえずメイン・ロードに出てみる。交通機関が不便であることが予想されたので、シェア・タクシーで帰ろうと思っていた。だが、偶然にもティンプーへ行くバスを発見し、乗ることができた。ちょうど8時発のバスで、クルタンからティンプーまで35ヌルタムだった。

 今までブータンの長距離バスの詳しい現状について描写を避けて来たが、もう旅も終わりに近付き、一般化できるようになったのでここで書いておく。ブータンのバスははっきり言って汚ない。インドのバスよりも汚ない。汚ない印象を与える一番の原因は、無数のハエが車内を四六時中飛び回っていることだ。座席も何だか湿っていて感じが悪いし、車内にはドマの臭いが充満している。今まで乗ったバス全てがそういう状態だった。

 クルタンからティンプーまでは3時間半ほどかかり、11時半にはティンプーのバススタンドへ到着した。既にティンプーは僕にとって憩いの場である。ティンプーの定宿ホテル89の快適さも手伝って、ティンプーは僕にとって非常にリラックスできる街となった。ホテル89には僕の専用ルームが用意されている(というよりいつもチェック・インするとその部屋を宛がってくれる)。202号室だ。フレンドリーで親切な従業員、気持ちいいお湯のシャワー、ケーブル・テレビ、パソコンをするのにちょうどいい机などなど、まさにブータンのオアシス。ティンプーに着いた途端、僕の足は自然とホテル89へ向かっていた。徒歩圏内に何でもあるティンプーのちょうどいいサイズも好きである。

 ちょうど1週間前に僕はティンプーの街を初めて散策した。その前日の月曜日の夜にティンプーに到着し、夜が明けて、火曜日にブータン観光を本格的に始めた。そのときの印象は「人通りが少なくて店も閉まっていて閑散としている」だったが、今日再び見てみて、火曜日はティンプーの多くの店の定休日であったことに気が付いた。どうりで店が閉まっているはずだ。

 今回のブータン旅行では、タシチョ・ゾン(ティンプー)、パロ・ゾン、ワンデュ・ポダン・ゾン、プナカ・ゾンと4つのゾンのスケッチをして来た。トンサ・ゾンを訪れることができなくて残念だったが、時間があったら行こうと思っていたゾンだったので、諦めはついた。これ以外にもうひとつ予定していたゾンがあった。シモトカ・ゾンである。シモトカ・ゾンはティンプーの8km南にあるゾンで、プンツォリンやパロへ行く道、プナカやワンデュ・ポダンへ行く道、そしてティンプーへ行く道が交差する要所に立っている。シモトカ・ゾンはブータンで最初に建てられたゾンと言われている。シモトカ・ゾン以前にも実際ゾンは建てられていたのだが、行政機関と僧院の両方の機能を兼ね備えた要塞として建てられた最初のゾンがシモトカ・ゾンなのだ。歴史上の重要さからスケッチの候補に挙がっていたのだが、パロやワンデュ・ポダンへ行く途中でバスの中から見たところ、現在シモトカ・ゾンは修理中のようで、屋根がなかった。こういう不完全な形では様にならないので、シモトカ・ゾンのスケッチは取りやめることにした。

 今日やったことと言えば、インターネットをしたことと、タシチョ・ゾンの中を見学したことと、モモを食べ歩いたことぐらいしかない。後はホット・シャワーを浴びたり、ホテルでテレビを見てくつろいでいた。火曜のティンプーは店が閉まっているので、ショッピングも楽しめなかった。明日はプンツォリンへ向かう。ティンプーには合計5日間も滞在したことになり、今回のブータン旅行で一番時間を費やした街となった。けっこう思い出深い都市となった。

 今回の旅行では、食文化に対する冒険心のなさからブータン料理にほとんど挑戦しなかった。ずっとモモやトゥクパなどのチベット料理を食べ続けて来た。だからブータン料理については何も書くことができないが、ブータン人の食の好みについては少し書くことができる。どうもブータン人は、辛い食べ物は好きなようだが、他の味覚を刺激する味付けに関しては無関心のようだ。トゥクパの味は薄いし、チャーイも全然甘くないし、ブータン料理もチリを除けばほとんど味付けがしていない。また四六時中何かを噛んでいなければ気が済まない性格の人が多いようで、ドマをクチャクチャ食べるか、チューイング・ガムを食べるか、そうでなかったらドライ・チーズを噛んでいる。唯一、モモはとても日本人の味覚に合う。一般的に食べられているのはポーク・モモかチーズ・モモで、チキン・モモは予め注文しておかないと食べれないことが多い。ポーク・モモが一番おいしかったところは、ティンプーのHasty Tastyという小さなレストラン。チキン・モモが一番おいしかったところは、パロのザムリン・ホテル。トゥクパもザムリン・ホテルが一番だった。

 また、ブータンではコールド・ドリンクが非常に手に入りにくい。インドと同じくペプシ、コカ・コーラ、ファンタ、ミリンダ、リムカ、サムズ・アップ、マウンテン・デュー、セブン・アップなどなどが手に入るのだが、「コールド」ではないのだ。コールド・ドリンクを注文しても、常温で保存してあるものを出されることが多く、例え冷蔵庫に入っていても、全然冷えていないことがほとんどだ。だから冷えたコールド・ドリンクを出してくれるレストランはとても印象に残る。僕が飲んだ中で唯一真のコールド・ドリンクを出してくれたのは、ティンプーのHasty Tastyである。コールド・ドリンクでこういう状況だから、冷えたビールなどはもっと手に入りにくい。

 飲酒に関しては、ブータンはインドよりもオープンである。昼間から酒を堂々と飲んでいる人もおり、どこのレストランでも酒を置いている。またインドに比べて非常に安い。

5月28日(水) 怒涛の越境

 今日でティンプーともお別れである。ティンプーには名残惜しい気持ちがいっぱいだったが、インドとの国境の町プンツォリンへ行くバスが7時半発と朝早かったため、そそくさとホテルをチェック・アウトして、街中を通り抜けてバススタンドへ行ってしまった。プンツォリン行きのバスは今まで乗ったバスの中では一番清潔だった。時間通りにバスは出発。ティンプーを後にした。ティンプーからプンツォリンまで97ヌルタム。ちなみにティンプーからプンツォリンへ行くバスは混雑しているので、予約が不可欠だ。今回のシートNo.は昨日の昼頃予約したにも関わらず24だった。

 ティンプーからプンツォリンまで172km、7時間かかった。途中チュカという場所で昼食休憩があった。そこの食堂にはなぜか深田恭子のポスターが貼ってあった。店の主人に聞いてみると、バンコクで買ったそうだ。ブータンのイミグレーション・オフィスがあるリンチェンディン(プンツォリンから5km離れた場所にある)で忘れずに出国審査を済ませ、2時過ぎにプンツォリンに到着した。

 もしプンツォリンでスィリーグリー行きのバスまたはシェア・タクシーが見つかったらスィリーグリーへ向かい、見つからなかったら今日はプンツォリンに1泊する予定だった。プンツォリンのバススタンドで聞いてみると、2時半にスィリーグリー行きのバスがあるらしい。あと10分後である。しかし僕は一度インドのイミグレーション・オフィスまで歩いて行って、入国審査を済まさなければならない。10分じゃあ到底無理な距離である。一旦そのバスに乗るのを諦めたが、バスはイミグレーション・オフィスの前を通るので、念のためドライバーと車掌に「イミグレーション・オフィスの前で少しだけ停まってくれないか」と頼んでみたらOKしてくれた。何でも言ってみるものである。そのバスのチケットを購入した。スィリーグリーまで51ヌルタム。

 2時半にプンツォリンのバススタンドを出たバスは、そのままインド〜ブータン国境にあるゲートをくぐり抜けてインドへ入国、国境の町ジャイガーオンに入った。そこで多くのインド人乗客が乗り込んで来た。彼らもブータンを旅行した帰りなのだろうか。バスはちゃんとインドのイミグレーション・オフィスの前で停まってくれた。「急げ!」という声を背にオフィスに走りこむ。ところがデスクには誰もいない!オフィサーはどこだ!奥の部屋では数人のインド人が呑気にトランプをしていた。「オフィサーはどこ?」と聞いても「今来るからゆっくり待ってろ」といたって呑気。トランプをしている人々の中にオフィサーはいないようだ。早くしてくれ〜と机をバンバン叩いていると、やっとオフィサーがのんびりと部屋に入ってきた。「外でバスが待っているから早くして」と頼むと、「おお、それはそれは」と言って急いで手続きを済ませてくれた。パスポートに入国スタンプを押してもらうや否や、すぐにオフィスを出てバスに飛び乗った。自己最速記録の国境越えにして、越境バスを待たせて審査を済ますという高等テクニックを使ったことになる。

 インドへの入国審査を無事済ませ、バスがジャイガーオンを出ると、すぐに風景は茶畑となり、そしてベンガルの穀倉地帯と変遷して行った。以前にも述べたが、やはりベンガル北部のジャルパーイーグリー地方やコーチ・ビハール地方の農村では、ブラウスを着ずにサーリーを着ているお婆さんの姿が非常に目立つ。インドの農村の風景を見ると、インドに帰って来た、という実感が沸く。ブータンもよかったが、インドも負けず劣らず美しい。やっぱり僕はインドが好きだ。ブータンの景色はどれもフォトジェニックだけど、時代劇テーマパークで写真を撮っているようで、あまり現実感がない。しかしインドの風景は、まるで汗の臭いが湧き出てくるような現実感に溢れた写真を撮ることが可能である。もはや言うまでもなく、インドは僕の故郷である。そしてインドも僕を温かく迎えてくれた・・・といか、暑く暑く迎えてくれた。やっぱりインドは暑い!!

 6時頃にスィリーグリーのバススタンドに到着した。今回の旅行でスィリーグリーは何度も立ち寄った。何も観光名所のないところだが、交通の要所なので、乗り換えなどのために泊まらなければならないことが多い。東北インドのハブ・シティーである。前回、前々回と泊まったデリー・ホテルが満室だったため、近くにあるキショーリー・ホテルに泊まった。1泊152ルピーだった。

 インドに帰ってきて一番最初に食べた食べ物はマトン・カレー。なぜかマトンの味が恋しくなった。スィリーグリーのバススタンド近くにある安食堂でマサーラーの効いたマトン・カレーを食べた。これだよ、これ、この味!この辛さ!インド料理はインドの空気の中で食べると世界一おいしい。

■オマケ1 ブータン個人旅行会計報告

 ブータンは普通に旅行したら1日200USドルかかる国だ。だからもし個人旅行したらいくらかかるのか非常に興味があった。そこでジャイガーオン〜プンツォリン間にあるブータン・ゲートをくぐってから、つまりブータンに入国してから、ブータン・ゲートを出るまで、つまりインドへ出るまでの10日間(5月19日〜5月28日)に使ったお金をいちいち記録しておいた。それを以下の表にまとめてみた。

分類 詳細 小計
ホテル代 350×6(ティンプー)
150×2(パロ)
150×1(ワンデュ・ポダン)
200×1(クルタン)
2750
飲食代 1730
移動代 350(プンツォリン⇒ティンプー)
31(ティンプー⇒パロ)
350(パロ郊外観光)
28(パロ⇒ティンプー)
40(ティンプー⇒ワンディ・ポダン)
200(ワンディ・ポダン⇒クルタン)
35(クルタン⇒ティンプー)
97(ティンプー⇒プンツォリン)
51(プンツォリン⇒スィリーグリー)
1182
インターネット代 1分2ヌルタム 645
入場料代 1(国立博物館)
150(テキスタイル博物館)
150(民俗博物館)
301
買い物代 80(本)
500(CD−ROM)
10(新聞)
590
その他 1050(ヴィザ代)
10(お布施)
300(ディスコ)
1360
合計 8558

 もし一般の旅行者が10日間ブータンを旅行したら、2000USドルは最低かかる。それを僕は8558ヌルタム(21395円)で旅行してしまった。約10分の1だ。こう考えると1日200USドルも払ってブータンを旅行するのが馬鹿馬鹿しく思えてしまうかもしれないが、僕は個人で旅行して逆に、高いお金を払ってでも旅行会社を通して団体で旅行すべき国だと感じた。理由はいくつもある。ティンプーやパロ以外は外国人が旅行するにはパーミットが必要なこと、ティンプーから離れれば離れるほど公共交通機関は急激に不便になること、ティンプーやパロ以外の町に満足できる安い宿泊施設がないこと、観光地にガイドや解説など全くないことなどだ。もし旅行会社を通して10日間旅行していたら、高級ホテル、快適なバス、ガイドなど全て旅行会社が効率的にアレンジしてくれるので、絶対にブータン中全てのゾンを見て廻ることができたと思うし、もっと多くの情報を吸収することができたと思う。お金はかかってもいいから、短期間で集中的に旅行したい、という旅行者向けの国だ。つまり、リッチだが忙しい日本人が旅行するのに適した国である。何より、ブータンは一生に一度は訪れるべき国である。インドが色あせて見えるくらい独特の雰囲気を持った国だ。ブータンで絵にならない写真を撮ることの方が難しい、とまで言われている。

■オマケ2 ミス・ブータン

 ミス・ブータンと言うとなんだか響きがギャグっぽいが、僕がブータン旅行中に見てきた女の子の中から、一番かわいいのでは、という娘をミス・ブータンに選んで写真に収めた。場所はティンプーのウィーク・エンド・マーケット。




ミス・ブータン


 ブータンの女性は宗教的理由から髪を短くしていることが多い。だがティンプーではロング・ヘアの若い女性を多く見かける。やはり髪が長い方がかわいさが際立つ。また、標高が高くて日光が強いため、肌が荒れていたり、赤や黒になっていたりする人も多いのだが、ティンプーでは色白の女の子が多かった。といわけで首都だけあってティンプーには普通に見てけっこうかわいい女の子はいたが、他の地域ではちょっと土っぽすぎてミス・ブータン候補者を見つけるのは困難だった。もしミス・インドを選べと言われたら候補者がたくさんいすぎて選ぶのは難しいが、ミス・ブータンは案外簡単だった。ただ、ブータン人は日本人に顔が似ているため、選考の目は厳しくなる。ティンプーのディスコにも割とかわいい女の子は来ていたが、やはりナチュラルな魅力となると、ウィーク・エンド・マーケットの片隅で店番をしていた上の写真の娘になる。

 ちなみにミスター・ブータンは・・・けっこうハンサム・ガイもたくさんいたけど、あまり興味ないから写真には撮ってない。

5月29日(木) マンゴーの街マールダー

 ノース・イースト旅行、スィッキム旅行、そしてブータン旅行を終え、あとはコールカーターからデリーへ帰るのみだ。しかしスィリーグリーからコールカーターの間にもマイナーだが面白そうな観光地がある。それらの見所に立ち寄りながらコールカーターを目指す。今日は朝、スィリーグリーのバススタンドからマールダー行きのローカル・バスに乗った(94ルピー)。

 マールダー、と聞いてピンと来る人はおそらくマンゴー党だろう。マールダー・マンゴーと言ったら、インド最高――世界で一番マンゴーのおいしい国はインドだから(断言)、つまり世界最高というのがインドのマンゴー党たちの一致した意見である。マールダーという名前が一人歩きしてしまい、西ベンガル州にマールダーという街があることを知っている人の方が少ないくらいだ。マールダーはコールカーターの北350km、スィリーグリーの南250kmの地点にある都市で、別名イングリッシュ・バーザールとも言う。現在インドはマンゴー・シーズン真っ盛り。マンゴーが旬の季節に、マールダーでマールダー・マンゴーを食べる、という通にしか思いつかないアイデアを思いついたのが僕であった。

 バスは7時に出発した。このチケットをバススタンドのカウンターで買うとき、7時発と言われて時計を見たら7時20分で、あれ、もう出発時間過ぎてるじゃないか、と思ってよく考えたら、まだブータン時間のままだった(インドはブータンよりも30分遅い)。陸路で国境を越えると、時差を直すのを忘れることがある。

 インドの地図を見ると、西ベンガル州北部(スィリーグリーやダージリンなどのある地方)と南部(コールカーターなどのある地方)の間、ネパールとバングラデシュに挟まれた地域が、すぐにちぎれてしまいそうなほど狭いので、谷間になっているのかと思う人もあるようだが、実際はどこまでも続く平野である。インド独立時にベンガル地方は東西に分裂してしまい、西ベンガル州と東パーキスターン(後のバングラデシュ)ができてしまった。そのときに国境線が引かれ、それがたまたま細長い地域を作り出したのだ。スィリーグリーからマールダーまでの道は、まさにその細長くて狭いインド領を通って行った。ただの平野だった。

 朝はまだよかったのだが、太陽が昇るにつれて気温は一気に上昇した。バスは猛スピードで走っているので、開け放たれた窓から入ってくる風が気持ちいいはずだが、全然涼しくない。この状態は気温が体温と同じか、それ以上であることを示している。しばらく涼しい地域にいたのでインドの暑さを忘れていた。

 スィリーグリーからマールダーまで6時間半ほどかかり、1時半頃にマールダーのバススタンドに到着した。一面のマンゴー畑に囲まれた街、というのをイメージしていたが、普通のインドの街だった。それにしても本当に暑い。太陽の日差しも強烈だし、空気も生き物のようにヌメヌメしている。バススタンドから少し歩いたところにある、西ベンガル州観光局経営のマールダー・ツーリスト・ロッジに泊まることにした。シングルが270ルピー。テレビ、タオル、石鹸、ホット・シャワー(必要ない!)などが完備された快適なホテルだ。部屋の床をゴキブリ、ヤモリ、カエルなどが横切ることもあるが、部屋が広いのであまり気にならない。何よりここのレストランの料理は絶品だった。

 バスに乗っている間に頭痛がするようになったので、今日は部屋でばてていた。やはり昨日から今日にかけていきなり暑い場所に下りてきたので、身体が適応できなかったみたいだ。夏バテ、酷暑バテ、インドバテである。今日はホテルでゆっくりと休養した。

 ところで、件のマールダーのマンゴーだが、ホテルの人に聞いてみたら、マールダー・マンゴーの収穫時期はあと15日〜20日後らしい。今市場に出回っているのは他の地域から来たマンゴーのようだ。一応市場に売っていたマンゴーを買って食べてみたが(1kg14ルピー)、おいしいにはおいしいものの、ほっぺたが落ちるほどおいしいとは思えなかった。多分マールダーのマンゴーではなかったのだろう(売り手はここのマンゴーだと言っていたが・・・)。シーズンを狙って来たつもりだったが、まだ早過ぎたようだ。マンゴーの他、ライチも旬の季節だ(1kg12ルピー)。ライチも買って食べてみたが、甘くてけっこうおいしかった。マールダーは果物王国だ。

5月30日(金) ガウル&パーンドゥアー

 マールダーはマンゴーの名産地として有名な街だが、その他に、ベンガル地方を支配した歴代の王朝の遺跡が郊外に散らばっており、それらを観光するための拠点となる街でもある。今日は1日使ってそれらの遺跡のいくつかを観光して廻った。

 ムスリムの侵略者によって「ベンガル」と名付けられるまで、ベンガル地方はガウルと呼ばれていた。歴史上、ガウルはヒマーラヤ山脈からベンガル湾、ブラフマプトラ河からビハール北部を含む地域を指しており、支配者は仏教のパーラ朝、ヒンドゥーのセーナ朝、ムスリムの諸王朝、そしてムガル朝と変遷して行った。しかし現在ガウルと言った場合、マールダーから12km南にある村のことを指す。ガウル村はガウル地方に興った多くの諸王朝が首都を置いた場所で、多くの遺跡が残っている。

 今日はまず午前中ガウルを観光することにした。交通手段はいろいろ選択肢があったが、サイクル・リクシャーで行ってみることにした。ベンガルの村の様子をゆっくりと見ながら見て廻りたかったからだ。ホテルの前で客待ちしていたサイクル・ワーラーと交渉して、100ルピーでガウルの観光地を巡ってもらうことにした。

 昨日は北からマールダーに入ったので気付かなかったが、マールダーの南側、つまりマールダーからガウルに至るまでの地域には広大なマンゴー畑が広がっていた。かの有名なマールダー・マンゴーの宝庫である。木には緑色のマンゴーがたくさんぶら下がっていた。確かにまだ酸っぱそうだが、あともう少し経てば熟れそうだ。マンゴー畑は一見すると何の囲いもしていなくて簡単にマンゴーを盗めてしまいそうだが、よく見るとところどころに見張り小屋があって、マンゴー畑を監視している。




マールダーのマンゴー
熟すまであと数週間!


 マンゴーの木はインド人にとって繁栄のシンボルである。マンゴーの形をした模様はテキスタイルや街角でよく見かける。マンゴーの実は言うまでもなくインドでもっとも甘くておいしい果物だ。それだけでなく、マンゴーの木は葉をたくさん茂らすため、木の下に影を作ってくれる。今の時期、木の影がどれだけありがたいか、身をもって体感している。街道沿いにマンゴーの木が植えられていることが多いのも、やはりマンゴーの木が一番理想的な影を作ってくれるからだ。また酷暑期には旅人がマンゴーを食べて休むことができる。

 マールダーからガウルまですぐに着くかと思っていたが、12kmという距離はサイクル・リクシャーにとって小さい距離ではなかった。しかもこの猛暑の中である。道もそんなによくないし、トラックやバスがよく通る道だったので、蹴散らされつつ進まなければならなかった。1時間ほどしてようやくガウルの村に到着した。インドの典型的な田舎の村だった。家は泥を塗り固めて造られており、屋根は瓦、壁には牛糞、裸の子供が走り回っている。

 やはりこの辺りの女性も、サーリーの下に何も着ていない。ブラウスやペチコートなどを着ず、直にサーリーを身体に巻いている。コーチ・ビハール地方に入ったときからずっと気になっている西ベンガル州の光景だ。ただ単に暑いからそうしているだけなのか、そういう習慣なのかは分からないが、相当田舎であるという印象を与える。デリー周辺部では決して見ることのできない光景である。




サーリーの下に
何も着ていない


 まず行ったのはバラー・ソーナー・マスジド(英訳するとグレート・ゴールデン・モスクになる)。ガウルで最も傑出した建築物と言われている。別名バーラー・ドワーリー(12の入り口)というようだが、11の入り口しかない。フサイン・シャーによって建造が始められ、息子のヌスラト・シャーの時代、1525−26年に完成したそうだ。天井のドームが11個全て残っており、ガウルの遺跡の中では保存状態がいい方だったが、廃墟という印象は否めなかった。




バラー・ソーナー・マスジド


 バラー・ソーナー・マスジドからさらに南へ向かうと、ダーキル・ダルワーザーという門がある。ガウルの王宮への北門だった門のようで、象兵が通れるくらいの幅と高さがある。隅の方は崩れかかっているが、門としての体裁は一応保っており、当時はけっこう壮麗な門であったことが予想できる。王宮へ向かうまで、他にニーム・ダルワーザーとチャンド・ダルワーザーという2つの門があったようだが、現存していない。建造者は特定されていないようだが、ナスィールッディン・マハムード・シャー1世(1442−50)という説が有力である。




ダーキル・ダルワーザー


 次に行ったのはフィーローズ・ミーナール。高さ25.6mの塔で、クトゥブ・ミーナールの3分の1ほどしかないが、モスクや廟の多いガウル&パーンドゥアーにおいて、この塔は一際印象に残る。この塔の建設者についても混乱があるようで定説はない。だが、サーイフッディーン・フィーローズ・シャー1世(1486−90)が建てたとする説が有力のようだ。建設目的についても諸説があり、勝利を記念した塔だとか、アザーンのための塔だとか、見張り塔だとかいろいろ言われている。つまりガウルの遺跡についてはあまりよく分かっていないということだ。だが、この塔にまつわる悲話だけが今でも伝わっている。この塔を建てた建築家がスルターンに、もしもっと建築材料を用意してもらえたら、もっと高い塔を建てることができた、と言ったところ、怒ったスルターンに最上階から突き落とされて死んでしまったそうだ。かつて屋上には半球形のドームがあったようだが、地震によって崩壊してしまい、今では代わりに平らな屋根が置かれている。塔の門は閉ざされていて、上に上ることはできなかった。




フィーローズ・ミーナール


 フィーローズ・ミーナールからさらに南へ行くと城壁が残っており、そこにカダム・ラスール廟とファト・カーン廟がある。カダム・ラスールとは「預言者の足跡」という意味で、廟の中に白大理石でできた足跡が祀ってある。ある聖者がアラビアからここに持ち込んだものだそうだ。その横にあるのがファト・カーン廟である。一般にはアウラングゼーブ帝によってこの地に送られた将軍ディリル・カーンの息子ファト・カーンの墓だと言われているが、学者たちの意見では、これはカーリー女神に捧げられた寺院で、ラージャー・ガネーシュ(1415−18)によって建てられたと推測されている。確かにカマボコ型の屋根をしており、ベンガルのヒンドゥー寺院の様式に似ている。




ファト・カーン廟


 僕が行ったのは以上の遺跡だが、後から調べてみたらまだガウルにはいくつか見所があった。コートワーリー・ダルワーザー、ロータン・マスジドなどである。また、ガウルはバングラデシュとの国境スレスレの村であり、国境の向こう側にもいくつか遺跡があるようだ。

 ガウルの遺跡はあまり保存状態がよくなく、また際立って素晴らしい建築もないが、マンゴー畑とベンガルの村の中を通り抜けて遺跡巡りできるのでけっこう楽しかった。しかし、マールダーに帰る頃には正午になっており、もっとも日差しの強い時間帯になっていた。だからサイクル・ワーラーのおじいさんは汗ビッショリになって死にそうになりながら、自転車をこいでいた。はっきり言ってこの時期にインド平野部を観光しようと思っていた僕の考えが甘かったと言わざるをえない。自転車をこいでいない僕もただ座っているだけで汗ビッショリになるくらい暑い。この猛暑の中、1人の乗客を乗せて自転車をこぐことがどんなに大変か・・・何だか哀れに思えてきた。途中日陰で何度も何度も休憩をとりながら、1時半頃にやっとホテルに到着した。もちろん100ルピーでは少なすぎると思ったので、大幅にチップをあげておいた。

 ホテルで昼食を食べ、シャワーを浴びた後、今度はマールダーの北18kmのところにあるパーンドゥアーの遺跡群を見に行った。パーンドゥアーはガウルよりもさらにマールダーから遠いので、さすがに今度はサイクル・リクシャーを利用するのはやめて、オート・リクシャーで行くことにした。交渉の結果、往復225ルピーということになった。

 パーンドゥアーが歴史上スポット・ライトを浴びるのは、ベンガル地方にムスリムの諸王朝が栄えた時期の内の一部に過ぎない。14世紀にベンガル地方はデリー諸王朝の支配下に置かれるが、シャムスッデイン・イリヤース・シャーは1353年に独立を宣言してガウルからパーンドゥアーに首都を遷した。それ以降1442年に至るまで、ベンガル地方の首都はパーンドゥアーにあり、またこの時期はベンガルがとても安定し、栄えた時代でもあった。だが伝説上では、パーンドゥアーは「マハーバーラタ」に登場するパーンダヴァの5兄弟によって造られたと言われている。考古学的な証拠からも、この地にかつてヒンドゥーの王国が栄えていたことが実証されているらしい。

 パーンドゥアーの見所は何と言ってもアーディナー・マスジドである。ベンガルで最も巨大なモスクと言われており、155m×94mの広さがある。やはり崩壊している部分が多いが、中央ホール北側にある2階建ての部分はよく残っている。この構造はアーグラーの近くにあるファテープル・スィークリーや、マディヤ・プラデーシュ州マーンダウのジャーマー・マスジドでも見た。アーディナー・マスジドはシカンダル・シャーによって建造され、1374年から84年まで10年の歳月をかけて造られた。金曜日には近隣の住民が全員ここに集まって礼拝を行ったそうだ。この建物の基盤部分にはヒンドゥー寺院の彫刻の残骸が多数見受けられ、このモスクもヒンドゥー寺院を破壊して建造されたものであることが分かった。





アーディナー・マスジド


モスク内の2階構造


 アーディナー・マスジドの近くには、エーク・ラーキー廟がある。エーク・ラーキーとは「10万の」という意味で、10万ルピーを費やして建造された霊廟と言われている。ジャジャルッディーン・ムハンマド・シャーとその妻、息子が葬られており、15世紀に造られた。ガウル、パーンドゥアーの遺跡群の中でもっとも保存状態がよく、屋根までちゃんと残っている。形はベンガル地方のヒンドゥー寺院と共通部分が多い。エーク・ラーキー廟のすぐ横にはクトゥブ・シャーヒー・マスジドという、ガウルのバラー・ソーナー・マスジドを半分にしたようなモスクがある。




エーク・ラーキー廟


 ガウルもパーンドゥアーも、入場料は設定されていない割に植木などがきれいに整備されており、また説明もちゃんと書いてあった。モスクなどの中はけっこう涼しいので、地元の人々が涼みに来ており、あちこちで寝転がっていた。

 ガウルとパーンドゥアーの歴史は他の地域と同じく抗争の歴史であり、誰々が誰々を殺して王座を奪って・・・という記述の繰り返しである。だから詳しくは書かないが、ひとつだけ興味深い発見があった。バルバク・シャー、ユースフ・シャー、ファテー・シャーの3人のスルターンが相次いでガウルを支配した15世紀中期は、ガウル芸術の繁栄期だったのだが、その後黒人奴隷(スィッディー)の王が続く(シャージャダー・バルバク・シャー、サーイフッディーン・フィーローズ・シャー、ラジャーブ・マハムード、ムザッファル・シャー)。どうもムスリムの侵略者と共に、アフリカから黒人奴隷がベンガルまで来ていたようだ。スィッディーのスルターンと言うとグジャラート州が有名だが、ベンガルにも黒人の王がいたようだ。ということはベンガル人の中には黒人の血が入っている人がいるということだ。確かに黒人特有の縮れッ毛をしたインド人がときどきいる。黒人がインドに与えた影響を考えてみるのも面白い。

 ところで、マールダーは西ベンガル州なので、人々はベンガリー語を一般に話している。だがここでもヒンディー語はよく通じた。たまにヒンディー語が不得意な人もいるが、ベンガリー語とヒンディー語はよく似ているので、僕はヒンディー語を話し、向こうはベンガリー語を話していても相互に理解できてしまうことが多い。僕もベンガリー語はできないが、何となく言っていることは分かるし、ベンガリー文字も何となく読めてしまう。また、マールダーでヒンディー語を上手に話す人の中には、ビハール州から来ている人が多いかもしれない。マールダーからビハール州は、ガンガーを渡ったすぐそこである。

5月31日(土) ベヘラムプル&ムルシダーバード

 マンゴーが熟すまでマールダーに居座り続けたい気持ちを振り切って、今日は朝からバスに乗ってさらに南を目指した。今日の目的地はマールダーから南に130km、コールカーターの北220kmの地点にあるムルシダーバードである。ムルシダーバードは18世紀以降ベンガル地方の首都が置かれた場所で、ムルシダーバードのナワーブ(太守)は一時ビハールやオリッサをも支配していた。やはり数多くの遺跡が残る町である。

 やはりマールダーの南には広大なマンゴー畑が広がっており、やがてライチの木も目立つようになる。途中、ファラーッカーというところで、ダムの上を渡る形でガンガーを横切った。ヴァーラーナスィーで見たガンガーとは全く姿が変わっており、湖のように広大な河となっていた。ファラーッカーを越えると、ふと風景が変わったことに気が付いた。家屋の形に独特の特徴が表れた。屋根の下辺が弓状に沿った形をしているのだ。まるで上からテントをかぶせたようだ。ベンガル地方独特の建築様式チャール・チャーラーと言うそうだ。

 8時半過ぎにマールダーのバススタンドを出発したコールカーター行きのバスは、11時半頃にベヘラムプルに到着した。地図から判断して、ベヘラムプルに着く前にムルシダーバードを通過すると思っていたのだが、ベヘラムプルに先に到着してしまった。今日はムルシダーバードに泊まろうと考えていたのだが、ベヘラムプルに泊まった方が交通の便がよさそうだと判断し、バススタンドの近くにあったホテル・ホワイト・ハウスに泊まることにした。シングルが155ルピーで、部屋は小さいがテレビ、タオル、石鹸など必要なものは揃っており、グッド・バリューのホテルだと思った。1階にはエアコンの効いたレストランがあり、値段もリーズナブルなので、地元の人々がよく涼みに来ていた。

 ベヘラムプルはガンガーの支流バギラーティー河の河岸に広がる、何の変哲もないインドの町だった。ここは絹製品が特産品のようだ。英語では「Berhampur」と表記されるが、これはイギリス人が聞き間違えて表記してしまったもののようだ。現地人はベヘラムプル(Behrampur)と言っているし、看板などにもベンガリー語でこう表記されている。よってカタカナでもベヘラムプルと表記している。ムルシダーバードはベヘラムプルから乗り合いオートなどに乗って、バギラーティー河の下流に向かって11kmほど行った場所にある。別名ラールバーグとも言う。ベヘラムプルのバススタンドにたむろしているサイクル・ワーラーも頼めばムルシダーバードに行ってくれるようだが、昨日サイクル・リクシャーを使って失敗したばかりなので、使うつもりは毛頭もなかった。

 あまり詳しい情報もなかったし、折からの猛暑のため、僕はベヘラムプルからオートをチャーターしてムルシダーバードの観光地を巡ることに決めた(往復200ルピー)。

 バギラーティー河に沿って北に進むと、やはりここでもマンゴー畑が視界に入って来た。ベヘラムプルから約30分でムルシダーバードに到着。ムルシダーバードは典型的なムスリムの町の特徴を持った町で、道がいろんな方向に入り組んでいた。その入り組んだ町を少し外に出れば、ベンガルの田舎の風景が広がっていた。

 ムルシダーバードはムルシド・クリー・カーンがベンガル太守になった1706年頃からベンガル地方の首都として急速に発展した。1725年に彼が死ぬと、義理の息子のスジャーウッダウラーが後を継いだ。しかしスジャーウッダウラーは1741年パトナーの太守アリー・ヴァルディー・カーンと戦って戦死し、アリー・ヴァルディー・カーンがベンガルの太守となって、ムルシダーバードはベンガル、ビハール、オリッサの首都となった。ムルシダーバードは交易の中心地として栄え、イギリス、フランス、オランダなどの商人たちがこの地の富を求めて競って訪れた。やがてイギリスの東インド会社が交易権を獲得し、それがイギリスのインド支配のきっかけとなった。1756年にアリー・ヴァルディー・カーンが死ぬと、彼の孫のスィラージュッダウッラーが太守となった。1757年、プラッシーの戦いで彼はイギリス軍と戦い、ミールジャーファルの裏切りによって暗殺された。その後ミールジャーファルがベンガルの太守となり、彼の子孫たちがずっとベンガル太守を引き継いで行った。だがプラッシーの戦いの敗北からムルシダーバードの繁栄に陰りがさし始め、1776年の大飢饉によって人口が急減してしまった。さらに同年にベンガルの首都はカルカッタに遷され、こうしてムルシダーバードは歴史の表舞台から消えたのだった。

 ムルシダーバード観光でまず行ったのはカトラー・マスジド。ベンガル地方の首都をムルシダーバードに遷したムルシド・クリー・カーンが埋葬されている廟であると同時に、モスクでもある。ムルシド・クリー・カーンが存命中の1723−24年に建造され、タイミングよく(?)翌年に彼は死亡してこのマスジドに埋葬された。2本の太いミーナールがモスクに力強い印象を与えており、一部崩壊しているものの、中はよく保存・整備されていた。「カトラー」とは市場のことで、このモスクではマーケットが開かれていたそうだ。入場料無料だが、ガウルやパーンドゥアーのどの遺跡よりも魅力のある建築物だった。




カトラー・マスジド


 次に行ったのはムルシダーバード最大の見所ハザールドワーリー。1829年−1837年にナワーブのナズィーム・フマーユーン・ジャーによって建設されたイタリア様式の宮殿である。「ハザールドワーリー」とは「1000の扉」という意味である。別に1000個も扉があるわけではないが、たくさん扉がある宮殿という意味で名付けられたのだろう。




ハザールドワーリー


 現在ハザールドワーリーは博物館&図書館になっており、博物館部分は入場料を払えば見学することができる。例によってインド考古学局の魔の手が伸びており、インド人は5ルピー、外国人は100ルピーというダブル・スタンダードな料金設定である。とりあえずチケット・カウンターでインド人料金で入れないか交渉してみたら、「オフィサーと話せ」と言われたので、ハザールドワーリーの裏口からオフィサーの部屋へ入って、彼と話をしてみた。ここのオフィサーは話の分かる人で、「インド考古学局宛てに1通レターを書きなさい」と言われたので、サンスターンで習ったヒンディー語の公式文書の書き方の知識を生かして嘆願書を書いた。「私は日本人だがデリーでヒンディー語を勉強している学生で、ハザールドワーリーを見学する許可を与えてほしい」という内容の文章だ。そうしたらオフィサーは僕に無料でハザールドワーリーを見学する許可を与えてくれた。しかも考古学局の職員を1人ガイドとして付けてくれた。日本人なのに正しいヒンディー語で公式文書を書くことができることに驚いたようだ。インド人でもなかなか書くことができないらしい。

 宮殿の1階は武器の展示だ。大半はプラッシーの戦いで使われたもののようだ。インドの博物館にはよく武器の展示がしてある。だが個人的にあまり武器には興味ないのでささっと通り過ぎてしまった。2階、3階はヨーロッパから輸入した油絵、家具、食器などや、ナワーブが使った輿、象鞍、そしてアラビア文字で書かれたマニュスクリプトなどが展示してあった。中でも圧巻なのは、ヴィクトリア女王から贈られたという巨大なシャンデリア。また、1階にあった鏡台も面白かった。微妙な角度で鏡が備え付けられており、自分の顔が決して映らないのだ。顔が映らない鏡がいったい何の役に立つのか・・・ナワーブの遊び心を感じた。

 ハザールドワーリーの正面にはベンガル最大の規模を誇るイマームバーラーがある。もともとその場所にはスィラージュッダウッラーによって造られた木製のイマームバーラーがあったのだが、1846年に火災によって消失し、当時のナワーブだったフェーラードゥンジャーによって1848年に再建されたものが現存している巨大なイマームバーラーだそうだ。内部に入ることはできない。




イマームバーラー


 ハザールドワーリーの裏にはニュー・パレスと呼ばれるもうひとつの宮殿がある。だがハザールドワーリーよりも遥かに小さく、小汚ない建物である。入場料1ルピーを払えば中に入れるが、中はほとんどガラクタ置き場であり、全く見る価値がない。

 最後にモーティージール(真珠の湖)へ行った。アリー・ヴァルディー・カーンの義理の息子ナワジャス・ムハンマドによって造られた人造湖で、馬蹄型をしている。彼の愛妻のために造られたそうだ。

 ムルシダーバードを見て廻っている間、暑さは最高潮に達した。逃げ場のない暑さである。日向に行けば太陽の光が命を抜き去ろうとするし、日陰に行けば沸騰した空気が身体を押しつぶそうとする。身体中汗だらけになってもう歩く気力もなかったので、ムルシダーバード観光はもう終わりにしてベヘラムプルに帰った。今日1日でかなり日焼けしまくった。

 ムルシダーバードは外国人旅行者がたくさん来る観光地ではないと思うのだが、インド人観光客はけっこう来るようで、観光客ずれがひどい。ガイドは先を争って無理矢理ガイドをしようとして来るし、サイクル・リクシャーやオート・リクシャーもいいカモはいないか目を光らせている。ムルシダーバードにはいくつかホテルがあったが、ある程度清潔そうなホテルはないように思えた。やはりベヘラムプルに泊まって、日帰りで訪れるのが一番いいと思う。僕が見た観光地以外にもムルシダーバードには多くの見所があり、また見所に入らないような廃墟も各地に残っていて、ゆっくり廻ったらけっこう面白そうな場所である。ただ、人を圧倒する建築物となると、カトラー・マスジドとハザールドワーリーぐらいしかないだろう。



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