スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2003年12月

装飾下

|| 目次 ||
分析■1日(月)四州一斉選挙
映評■5日(金)Tehzeeb
競技■6日(土)祝W杯予選インド対日本決定!
分析■8日(月)インドの巨大裏金経済
祝祭■11日(木)天皇誕生日記念式典
分析■12日(金)バーラトって?
▼グジャラート州旅行(12月17日〜1月5日)
旅行■17日(水)アーシュラム・エクスプレス
旅行■18日(木)ヒジュラー寺院ベーチャラー・ジー
旅行■19日(金)博物館級彫刻モーデーラー&パータン
旅行■20日(土)死者の丘ロータル
旅行■21日(日)天空寺院都市シャトルンジャイ寺院
旅行■22日(月)インドの中のポルトガル、ディーウ
旅行■23日(火)ディーウ探検
旅行■24日(水)神話時代からの聖地ソームナート
旅行■25日(木)1万段の階段ギルナール山
旅行■26日(金)無限詠唱の街ジャームナガル
旅行■27日(土)クリシュナの王都ドワールカー
旅行■28日(日)未だ復興途上、震災の町ブジ
映評■28日(日)Tere Naam
旅行■29日(月)カッチ南部の町マーンドヴィー
旅行■30日(火)カッチの村々訪問
旅行■31日(水)インダス文明の首都ドーラーヴィーラー


12月1日(月) 四州一斉選挙

 インドで選挙といったら、祭りと変わらない。時にどんちゃん騒ぎ、時に暴動と、インドの選挙はハプニングの連続である。何が人々をそこまで熱狂的にさせるか知らないが、民主主義が正常に機能していると言っていいのだろう(か?)。概して後進地域の人々ほど、政治の力を思い知っていると言われる。選挙で支持候補者が勝てば、その地元地域は一気に発展し、負ければその地域は開発から取り残される。支持する政治家を誤ると、最悪の場合、スラム街や違法建築などは取り壊しの憂き目を見るため、特に弱者にとって選挙は死活問題である。もちろん「持てる者」にとっても、現状維持とさらなる権益獲得のための支持者・支持政党選択は重要だ。

 今日はインドの4州で州議会議員選挙が行われた。デリー州、ラージャスターン州、マディヤ・プラデーシュ州、チャッティースガル州である。11月20日にはミゾラム州でも選挙が行われたため、これらを含めて5州ほぼ同時選挙とすることもできる。選挙の日は休日となる。学校は休みだし、交通機関はストップするし、店も閉まる。「皆選挙に行きましょう」ということで休日になるというよりも、何が起こるか分からないから、ということらしい。ここ1週間ほど、選挙活動が活発に行われており、非常にうるさい。なぜかインドの選挙演説も日本の選挙演説も、同じ調子に聞こえるから不思議だ。

 うちの大家さんもどうやら選挙には熱心のようで、この前は家にハウズ・カース選挙区から立候補するアールティー・メヘラー現州議員が来ていた。僕も呼ばれたので彼女に会いに行った。よく街角の選挙ポスターに出ている顔だし、特徴的な顔をしているので、見たとき「お、あの人か」と思った。アールティー・メヘラーはインド人民党(BJP)であり、大家さんもBJP支持者のようだ。



 昨日のサンデー・タイムズ・オブ・インディアには、今日の4州一斉選挙の見所が分かりやすく面白く一枚の絵になって載っていた。毎回タイムズ・オブ・インディアにはやられっぱなしである。




デリーの選挙


 左は現州首相で国民会議派(コングレス)のシーラー・ディークシト。右は前州首相でBJPのマダン・ラール・クラーナー。今回のデリー州の選挙はこの2人の対決というわけだ。上の絵は、「Jassi Jaissi Koi Nahin(ジャッスィーみたいな女の子はどこにもいない)」というTVドラマのパロディーである。実は正確な意味が読めないのだが、おそらくシーラーが「私のような州首相はどこにもいないわ」と言っており、マダンが「お前みたいな?オレがいるじゃないか!」と言っているのだと思う。デリーの議席総数は70。現在国民会議派の議席が52、BJPが14である。シーラーが州首相に就任して以来、デリーのインフラが向上したこともあり、国民会議派が有利と見られている。だが、1998年の選挙でBJPが敗れた原因はタマネギの値段急騰だったが、現在もタマネギなどの野菜の値段が急騰しており、一発逆転はありうる。最近のデリーでのデング熱の流行や、レイプ事件多発なども、州議会野党BJPの攻めどころである。

選挙の結果、国民会議派47議席、BJP20議席で、シーラー・ディークシトの圧勝。




ラージャスターンの選挙

 左は現州首相アショーク・ゲヘロート(国民会議派)、右はラージャスターン州のBJPを束ねるヴァスンダラー・ラージェー・スィンディヤー。これは言わずとしれた「ターミネーター」シリーズのパロディーだが、「Kaun Banega Crorepati(誰が億万長者になるか)」というTVクイズ番組(「クイス・ミリオネア」のインド版)の要素も入っている。つまり、「Kaun Banega Terminator4」は「誰がターミネーター4になるか」という意味だ。ラージャスターン州の選挙は国民会議派とBJPの他に、ウッタル・プラデーシュ州のマーヤーワティー州首相が率いる大衆社会党(バフジャン・サマージ党:BSP)も虎視眈々と議席拡大を狙っている。ラージャスターン州の議席総数は200。現在国民会議派が156議席、BJPが35議席である。今年は雨がよく降って農業が安定したこともあり、与党国民会議派が有利だと見られている。

選挙の結果、BJP120議席、国民会議派56議席で、ヴァスンダラー・ラージェーの圧勝。




マディヤ・プラデーシュの選挙

 左は現州首相のディグヴィジャイ・スィン(国民会議派)、右はBJPのウマー・バーラティー。これも言わずと知れた「マトリックス」シリーズのパロディーである。与党国民会議派のディグヴィジャイが掲げる「マトリックス・リローデッド(再選)」か、野党BJPのウマーが掲げる「マトリックス・レボリューションズ(改革)」か、というわけだ。これは一番うけた。先日行われた日本の衆議院選挙において、日本のマスコミはこれくらいのユーモアを発揮できただろうか?マディヤ・プラデーシュ州の選挙は、ヒンドゥー至上主義が争点になっており、また現在同州の電気・水供給状態がよくないことから、BJPが有利と見られている。マディヤ・プラデーシュ州の議席総数は230、現在国民会議派の議席は127、BJPの議席は82である。

選挙の結果、BJP172議席、国民会議派39議席で、ウマー・バーラティーの圧勝。




チャッティースガルの選挙

 左は現州首相で国民会議派のアジト・ジョーギー、右はBJPのディリープ・スィン・ジューデーオである。この絵はおそらく「Kyo Ki... Main Jhuth Nahin Bolta(なぜなら僕は嘘つきじゃないから)」という映画のパロディーだと思う。それか、「Kyunki Saas Bhi Kabhi Bahu Thi(なぜなら姑もかつては嫁だったから)」というTVドラマのパロディーかもしれない。この絵を理解するには11月16日に起こった、サンデー・エクスプレス誌によるジューデーオ収賄すっぱ抜き事件を知っている必要がある。ジューデーオは環境森林省の副大臣を務めており、選挙戦勝利の暁にはチャッティースガル州の首相の地位が約束されていた。だが、彼がオーストラリアの鉱山会社から賄賂を受け取っている場面が何者かによって盗撮され、それが同誌によって暴露されたのだった。ジューデーオはその責任を取って副大臣を辞任し、選挙でも一気に不利となってしまった。ジューデーオはその事件を国民会議派の陰謀と主張している。ジューデーオはその盗撮ビデオの中で、「Paisa Khuda To Nahin Magar Khuda Ke Kasam Khuda Se Kam Bhi Nahin(お金は神様じゃないが、神様に誓って、神様に勝るとも劣らない)」とボリウッド映画顔負けのセリフをしゃべっている。上の絵ではそのセリフをパロッて、「Kyunki... Kursi Khuda To Nahin But Khuda Se Kam Bhi Nahin(なぜなら、州首相の椅子は神様じゃないが、神様に勝るとも劣らない)」と書かれており、アジト・ジョーギーとジューデーオが州首相(CM)の椅子を巡って争っている。ご丁寧に、右下には「70mm盗撮カメラで撮影されました」と書かれている。爆笑。チャッティースガル州の議席総数は90で、現在国民会議派が62議席、BJPが22議席である。

選挙の結果、BJP50議席、国民会議派36議席で、BJPの圧勝。州首相はラマン・スィン。

 この新聞を見ただけでも、全くインドは面白すぎる・・・。外国人にとって選挙はほとんど他人事だが、なんだか楽しい気分にさせてくれていい。



 ついでにもうひとつ選挙絡みで面白いニュース。12月1日のデリー・タイムズ・オブ・インディアから要約。

126人の幽霊有権者
 ヤムナー河東岸にある高級住宅地プリート・ヴィハールのEブロック76番地には、何年間も空き家になっている家がある。近所の子供たちの間では「幽霊屋敷」と専らの噂だ。ところが、今回の選挙で、その家の住所で登録されている有権者が126人もいることが明らかになった。選挙登録ナンバー137−1151〜1273までと、139−363〜365までの人々で、ウマー・クマーリー、スダー、ナヌー・ラール、カンハイヤー、マンヌーなどの名前である。

 近所の人の話によると、E−76の家に以前住んでいた人は12年前にカナダへ引っ越してしまい、4年前には銀行員が住み始めたが、1年半で出てしまった。それ以降、誰も入居者はいないという。

 デリー選挙管理委員会のS.S.ゴーンクロークター副委員長は「E−76で登録されている人々は全て正規の有権者だ。ホームレスの有権者でも住所明記が義務付けられているので、その家の住所を書いたのだろう。そのE−76付近にJJクラスター(ジュンギー・ジョーンプリー・クラスター:スラム街)があるはずだ」と述べているが、地元住民は「もっとも近いJJクラスターはマンダウリーで、2〜3kmも離れている」と反論している。

 また、デリー選挙管理委員会のアルン・ゴーヤル委員長は、「有権者リストに誤りはない。厳密な住所検査によって17000人の名前が前回の有権者リストから削除された」と述べている。

 デリー当局は、何年も空き家になっている家に、どうして126人の有権者の住所が登録されているのか首をひねっている。人々はお化けがこぞって投票所に現れるのではないかと興味津々だ。


12月5日(金) Tehzeeb

 今日で大学のテストが終わった。つまり、モンスーン・セメスター(8月〜12月)の全てのカリキュラムを修了した。インドで、インド人学生相手のヒンディー文学修士を学ぶことはかなり大変だったが、なんとか1学期終えることができてホッとしている。テストの結果はおそらく芳しくないとは思うが、今はただ解放感を味わいたい。

 今日は早速新作映画「Tehzeeb」を見にPVRアヌパムへ行った。「Tehzeeb」とは「洗練」とか「文化」という意味だが、映画の主人公の名前がそのまま題名になっていると受け止めた方がいいだろう。監督は「Fiza」(2000年)でデビューしたカーリド・ムハンマド。音楽は日本でも有名なA.R.レヘマーン。キャストはシャバーナ・アーズミー、リシ・カプール、ウルミラー・マートーンドカル、アルジュン・ラームパール、ディーヤー・ミルザー、ナムラター・シロードカル。




左からアルジュン・ラームパール、シャバーナ・アーズミー、
ディーヤー・ミルザー、ウルミラー・マートーンドカル


Tehzeeb
 テヘズィーブ(ウルミラー・マートーンドカル)の母は有名な歌手ルクサーナ(シャーバナ・アーズミー)だった。ルクサーナは仕事のために家を空けることが多く、それによって夫アンワル(リシ・カプール)との仲が険悪になっていた。彼女に不倫の疑いが持ち上がったとき、アンワルが自宅で射殺される事件が起こる。まだ子供だったテヘズィーブは偶然母親が父親を殺す瞬間を見てしまう。テヘズィーブはそれ以来、母親を憎むようになる。テヘズィーブは母親に黙って詩人・作家のサリーム(アルジュン・ラームパール)と結婚し、家を出て行ってしまった。

 それから幾年もの歳月が過ぎ去った。テヘズィーブはサリームと幸せに暮らしていた。テヘズィーブの妹のナズニーン(ディーヤー・ミルザー)も一緒に暮らしていた。ナズニーンは知能障害の子供で、ルクサーナは彼女を強制的に精神病院に入れたが、テヘズィーブは彼女を勝手に退院させて一緒に住まわせていたのだった。

 ある日ルクサーナは突然テヘズィーブに会いに来た。二人は表面的には5年振りの再会を喜ぶが、裏には火花が飛び散っていた。ルクサーナはナズニーンが病院を出てそこにいることに怒り、サリームと駆け落ちしたことを蒸し返し、テヘズィーブのやることにいちいちケチをつけていた。テヘズィーブも母親にいちいち反抗していた。ルクサーナは娘を歌手にしたかったのだが、さっさと結婚して才能を無駄にしているテヘズィーブを見て苛立つのだった。遂にルクサーナとテヘズィーブの仲は最悪の状態になり、テヘズィーブは母親に、父親を殺したことを責める。ルクサーナも怒り、出て行こうとするが、そのときナズニーンが銃で自殺未遂をしてしまう。なんとか命を取り留め、それから次第に二人の仲は修復されていく。母親はテヘズィーブに父の死の真相を明かす。彼女は父親を殺したのではなかった。父親が彼女の前で自殺をしたのだった。不倫も誤解であることが分かった。

 テヘズィーブは母親に今までのことを謝る決意をする。庭にいた母親に話しかけるが、ふと見ると母親は死んでいた。彼女は密かに心臓を患っていたのだった。テヘズィーブは母親の遺志を受け継いで歌手の道を歩む決意をする。

 非常に難解な映画だった。この映画は、ヒンディー語映画というより、敢えて「ウルドゥー語映画」と呼んだ方がいいのかもしれない。ここで「ウルドゥー語」という言葉を使ったが、これは映画中に見受けられたアラビア語・ペルシア語語彙の多用、イスラーム教要素、そしてガザル(詩の形式)の頻出という特徴を考慮に入れて便宜的に使用した。僕は基本的に無批判にヒンディー語とウルドゥー語を分けて考えるのには反対だが、かといって、これら2つの言語を全く同じ言語と言い切ることにも実は抵抗がある。これらは元々1つの言語で、同じような文法構造をしているが、現在これらの言語は一般に別の言語と考えられており、文学用語として、公用語として、それぞれ独自の発展を遂げつつある。だから、これらの言語は歴史的に元々同根の言語であることを念頭に置きつつ、言語学的に近似性の強い言語であることに注意を払いつつ、政治的、社会的、文学的、総合的観点から、ここ100年ちょっとの間に枝分かれした2つの言語と考えてしまうのが一番妥当な見方だと思っている。それはともかくとして、僕はこの映画を「ウルドゥー語映画」と名付けたい。映画中には、明らかに他のヒンディー語映画よりも多くの難解なアラビア語・ペルシア語語彙が意識的に使われ、ヒンディー語語彙の知識だけだと理解するのに苦労する。また、主要な登場人物は皆イスラーム教徒であり、「アーダーブ」(ムスリムの挨拶)とか「ヤー・アッラー」「ビスミッラー」(共に「ああ神様!」「なんとまあ!」みたいな意味)などのセリフが使われたり、ナマーズ(アッラーへのお祈り)が大袈裟に描写されたりしている。それに、アルジュン・ラームパール演じるサリームが詩人かつ作家であるという設定のため、ウルドゥー韻文学の代表的な詩形ガザルを折に触れて吟唱する。監督がイスラーム教徒だからだろうか、非常にイスラーム色の強い映画であった。そういえば現在ヒンディー語映画上映が禁止されているパーキスターンで、この「Tehzeeb」を一般公開しようという動きがある、という話を聞いたことがある。確かにこの映画だったら、パーキスターンで上映されても何の問題もないだろう。むしろパーキスターン人に媚を売っているのでは、と勘ぐってしまうほど親イスラーム的である。

 ガザルについてもう少し詳しく解説しよう。ガザルとは元々アラビア文学の詩形だ。主にイスラーム教地域に広く流布し、西はスペインから東はバングラデシュまで、各地の言語でガザルが書かれている。「ガザル」という単語そのものの意味は「雌鹿」らしい。ガゼルという鹿のような動物がいるが、あのことではないかと思っている。ガザルは、その「雌鹿」の意味から転じて、「恋人との会話」を意味する。俗っぽく言えば「女を口説く詩」と言うこともできるが、つまりは恋愛の抒情詩である。ただ、テーマは何でもよく、政治批判のガザルなんかもありうる。原則として女性の観点から詩が書かれるが、ウルドゥー・ガザルでは男性からの観点からでもガザルが書かれている。詩なので、俳句の五七五や季語のような規則がある。ガザルの詩は2行でひとまとまりになっており、これをシェールと言う。シェールが複数集まって1編のガザルを構成する。すべての行の韻律は等しくなければならず、2行ごとに脚韻を踏んでいないといけない。脚韻にはラディーフとカーフィヤーの2種類があり、前者は全く同一の単語で韻を踏むこと、後者は音の似た単語で韻を踏むことである。ガザルは他の詩形とは違って、全体でひとつの情感を描写する必要はなく、各シェールごとにバラバラの内容の詩を書いたりするのが一般的だ。冒頭のシェールの2行は脚韻を踏み(マトラー)、最後のシェールには作者のペンネーム(タカッルス)がどこかに入る(マクター)というルールもある。。一例として、ウルドゥー・ガザルの代表的詩人、ミール・タキー・ミールのガザルを、なるべくカーフィヤー、ラディーフ、マトラー、マクターなどが失われないように気を遣いながら翻訳してみた。

   人生はまるで水泡のごとし
   世界はまるで蜃気楼のごとし

   彼女の唇の何という柔らかさ
   まるでバラの花びらのごとし

   心の目で世界を見れば
   まるでこの生活は夢のごとし

   私は幾度も彼女の家を訪れてしまう
   この不安はまるで無尽のごとし

   見よ、今一瞬のあの雲の形を
   まるで私の目に流れる涙のごとし

   ああ、ミール!彼女の半開きの目の
   魅惑はまるで美酒のごとし

 各シェールの間に特に脈絡があるわけではないのが分かるだろうか。人生の無常観を表現してみたり、恋人の美しさを描写してみたり、心の不安を書いてみたり、バラバラである。この脈絡のなさがガザルの最大の特徴であり、また面白いところでもある。ここまでガザルについて解説したのは、実はこの「Tehzeeb」のストーリー構成がこのガザルの詩形を想起させるものだったからだ。つまり、何となくシーンとシーンの間に脈絡がないのだ。もしこれが普通の映画だったら、「脈絡がない!」と切って捨てるところだったが、全体に流れるガザル詩的雰囲気のおかげで、「もしかしてこれはこういうテクニックか?」と思わされてしまった。ミュージカル・シーンも脈絡なく挿入され、得体の知れないシュールなダンスが繰り広げられる。ただ、後半ぐらいになると、なんとかストーリーがまとまってくる。

 ついでに述べておくと、この映画のいくつかの曲は、古典ウルドゥー詩人の詩を基に作曲されている。アルジュン・ラームパールがいろんな女性たちと変な踊りを踊る「Khoyee Khoyee Aankhein」はシャード・アズィーマーバーディーの詩を、ゲスト出演的な登場の仕方をするナムラター・シロードカルが歌って踊る「Sabaq Aisa」はダーグ・デヘルヴィーの詩を、最後にウルミラー・マートーンドカルが歌う「Mujhpe Toofan Uthaye」はモーミン・カーン・モーミンの詩を基にしている。A.R.レヘマーンとウルドゥー詩人たちの時代を超えたコラボレーションというのもなかなか楽しいが、残念ながらそれが成功しているとは思えない。

 はっきり言ってしまえば、この映画は駄作である。テヘズィーブとルクサーナの仲がいったいどうなのか、お互い本心はどう思っているのか、よく分からない。二人が仲良さそうにしているシーンは本当に仲良さそうなのに、二人が口論し合っているときは本当に憎みあっている。そもそも、ルクサーナが娘の家を訪ねた理由にあまり説得力がない。知的障害児のナズニーンも、重い役ながらうまく活かしきれてなかった。突然現れてサリームを誘惑するセクシー編集長シーナーも突発的すぎるし、彼女によって引き起こったサリームの不倫疑惑も、驚くほど呆気なく解決してしまう。ナズニーンが自殺を図ったときに使用した銃は実は父親が自殺したときに使用した銃で、テヘズィーブがずっと隠していたものだが、その銃がナズニーンの自殺未遂によって明るみに出てしまう。警察がその銃の所有者を追及するシーンがあるが、その後うやむやになってしまう。テヘズィーブたちが飼っている黒猫と、ルクサーナが飼っている白猫の描写も中途半端だった。もっとうまく使えただろうに。最後、母親が急死してしまうシーンなどは観客への奇襲としか言いようがない。ほとんど何の伏線もなかった(1シーンだけルクサーナが薬を飲むシーンがあったにはあったが・・・)。監督と脚本家の才能を疑うような粗雑さが随所に見受けられるのだが、詩的映画と言ってしまえば何だか片付くような気にもなるから不思議だ。

 今年はプリーティ・ズィンターが当たり年だったが、ウルミラー・マートーンドカルも頑張った。「Bhoot」、「Pinjar」に引き続き、「Tehzeeb」でも演技力を要する役をこなした(年内にもう1本ウルミラー主演の「Ek Hasina Thi」が公開される予定)。しかし「Bhoot」の印象が強すぎて、彼女が怒りに目をむき出し顔を震わすシーンを見ると、悪霊に憑依されているように見えてしまう。ウルミラーは顔や身体のバランスが何だか変、というか特徴的だ。彼女の目を見ると、なぜか昆虫をイメージしてしまう。

 アルジュン・ラームパールは今までパッとした映画、役がなかったのだが、この映画は今までで最高の演技をしていたと思う。知的で陽気な男をダンディーに演じていた。ディーヤー・ミルザーは知的障害児の役で、駆け出しの女優としてはかなりの冒険だったと思う。ただ、やっぱり自分を捨て切れてないところがあり、知的障害児にしてはかわいすぎた。「Koi... Mil Gaya」で同じように知的障害児を演じたリティク・ローシャンに比べたらまだまだ演技力が足りない。テヘズィーブの母親を演じたシャバーナ・アーズミーは、正に往年の女優という表現がピッタリのベテラン女優である。この映画でも余裕と貫禄のある演技を見せていた。影の主役は何と言っても彼女だろう。同じくベテラン男優リシ・カプールが、テヘズィーブの父親役で登場していた。

 「Tehzeeb」、自分の中ではどう評価していい映画なのか決めあぐねている状態だが、多分普通の人が見たら「つまらん」と断言することは確かだと思う。ウルドゥー語に造詣が深い人が見たら、何かきらめくものを見つけられるかもしれない。

12月6日(土) 祝W杯予選インド対日本決定!

 2006年にドイツで開催されるFIFAワールド・カップのアジア1次予選の対戦相手が決定した。日本は3組に入り、オマーン、インド、シンガポールと対戦することになった。やはりインドに住む者として、日本代表がインド・チームと対戦することが何より嬉しい。インド対日本の試合は、来年2004年の6月9日に日本で行われ、9月にインドで行われるようだ。日本代表がインドに来るのかと思うと少しワクワクする。9月といったら、まだまだ暑いので、日本チームは気候対策を十分にしなければならないだろう。一方で、日本の6月というのもインド人にとってはしんどいだろう。あの湿気は、南インドや北東インドへ行けば体験できるだろうが、北インドにはない。完全にホーム・チーム有利の試合となることは明らかだ。

 インドではサッカーはあまり人気のあるスポーツではないが、前回のワールド・カップを機にサッカーに興味を持つ人は増えたようだ。ワールド・カップ開催中には、普段クリケットをして遊んでいる子供たちが、サッカーをして遊んでいたくらいだ。これはTVと衛星ケーブルの普及とも関係があるだろう。次回のワールド・カップは、さらにTVの普及が進むだろうから、もっと盛り上がると思われる。地域的には、サッカー人気はベンガル地方で一番盛り上がっている。

 インド・チームのスター選手といったら、何と言ってもバイチャン・ブーティヤーだ(日本では英語アルファベットを直読みしてバイチュン・ブティアと書かれている)。バイチャン・ブーティヤーは1976年12月15日にスィッキムで生まれ、幼い頃からサッカーに親しんでいたという。1987年から地元ガントクのサッカー・チームでプレイし始めた。彼の才能が開花したのは1992年にデリーで開催されたスブロート・カップだった。同カップでMVPを獲得したバイチュンは1993年からコールカーターのウエスト・ベンガル・チームに入ったと同時に、インド代表として国際マッチにも出場を重ねる。1999年からはイギリス二部リーグのマンチェスター・バレーFCに移籍し、インド人で初めて欧州で活躍するサッカー選手となった。2003年にはインドに戻ってきたらしい。ポジションはフォワードで、インド随一のストライカーである。「インドの中田」とでも言うべき選手だ。

 まあ、インドがいくら頑張っても、今のところ日本代表の敵ではないと思うが。インドは現在FIFAランク128位。日本は28位なので、100位の差がある。インドは予選3組の中ではもっとも格下である。組中1位の国のみが最終予選まで行けるので、日本は勝たなければならない。さすがにインドを応援することができない。もっとも、インドの予選突破は難しいだろう。だが、韓国のアン・ジョンファンみたいに、ワールド・カップで少しでも知名度が高まれば、バイチャンが日本のサッカー・チームに移籍することもあるかもしれない。ちなみに、バイチャンはインド人サッカー選手といえど、典型的インド人顔ではなく、チベット系の顔をしている。




バイチャン・ブーティヤー


 予選とはいえ、ワールド・カップで日本の対戦国となったことは、インドの認知度上昇に役立つし、経済効果も期待される。SARS騒動以来、日本企業の関心が急速に中国からインドへ向きはじめているという話を聞く。きっと10年後、20年後に、SARS事件は日本経済界の歴史的転機として語られることになるだろう。そして、ひょっとするとこのワールド・カップがさらにインドと日本のつながりを強くするきっかけになるかもしれない。そういう意味で、僕はこのニュースを温かい歓迎の意と共に受け止めた。もちろん、試合を生で見ることもできるかもしれないから、それも楽しみだ。デリーで試合してくれないかな・・・。

12月8日(月) インドの巨大裏金経済

 僕は全然経済に関する知識がないのだが、インドの経済について少し書いてみたくなったので、頑張って書いてみることにした。

 インドというととにかく貧しい国というイメージがある。確かにインドに来てみれば、まず目につくのは街に投げ出された目を覆うばかりの貧困である。インドの一人当たりのGNPを見てみても、たった460USドル(2001年)。日本の一人当たりのGNPは3万5千USドル(2000年)ほどなので、国民一人当たりの所得は日本の80分の1ほどだ。しかし、かといってインドを貧しい国と言い切ってしまうのには抵抗がある。その理由のひとつに、賄賂経済と脱税経済の実態がある。

 インドでは賄賂も脱税も犯罪だが一般的だ。日本でスピード違反は違反だが、厳密に守っている人はほとんどいないのと同じ、と考えたらいいだろう。ディリープ・スィン・ジューデーオが収賄の容疑で環境森林省副大臣を辞職したのは記憶に新しいが、賄賂を受け取っていない政治家なんてインドにいるの?という感じだ。例えばジャグモーハンという人がいる。現在、観光文化省の大臣をしているが、彼は賄賂を受け取らない高潔な人間として有名である。・・・しかし、賄賂を受け取らなくて有名になるということは、他の人は賄賂を受け取っているということではないか!

 学生生活を送っているだけなら、特に賄賂を渡すような機会が巡ってくることはない。ただ、入学手続きのときなどに、学校の事務員に100ルピーほど握らせておけば、煩雑な手続きが一気に簡単になったり、なかなか届かなくて困ることが多い入学許可証などの書類が確実に届いたりと、けっこう便利だという話を聞いたことがある。インド人というのは、賄賂を渡せば割と「義理深く」仕事をする国民である。

 賄賂を贈って事がスムーズに進むようになる、という程度だったらまだかわいいものだが、インドでは、賄賂を贈らないと事が進まない、ということの方が多いので厄介だ。インドで商売や仕事をしたりしていると、賄賂は外せない必要経費となる。インドのシステムは賄賂を媒介として進んでいくことが前提となっているので、警察関係やお役所関係の事務手続きは、まず「賄賂をいくらにするか」から話が始まるという。もちろん、賄賂を払わないという選択肢もないではない。しかし、そうした場合は手続きにやたら時間がかかったり、取り合ってもらえなかったりと、得することがない。結局賄賂を払った方が楽だ、と悟るだけだ。一昔前の電話線架設がいい例だ。賄賂なしだと申請から電話線開通まで、1〜2年かかった。現在では仕事が早い民間会社があるので、すぐに電話線を引くことができる。

 もちろん賄賂は一応違法なので、表立って賄賂を払うことはできない。払うときは別にこそこそ払う必要はないが(むしろ相手は堂々と受け取るので、こちらも堂々と渡すべきだろう)、どういう形で払うか、といった際に、こそこそしなければならなくなる。つまり、会社の経費などから賄賂代を差し引くことはできない。よって、脱税して裏金を溜め込んで賄賂に当てるしかない。インドは税金が高いので、いちいち真面目に税金を払っていたら後に何も残らなくなるとも聞く。これも脱税をしなければならない理由である。賄賂と同じくらい、インドでは脱税も必須になっている。

 所得税は、現在では年間所得が7万ルピー(約20万円)以下の人は免税になっていると聞いている。つまり月給6000ルピー(約2万円弱)に満たない人は税金を払わなくていいことになる。するとどういうことが起こるかというと、自分の年収をこの基準以下にして申告する人が多くなるのだ。つまり脱税である。ある統計によると、インドの人口の3%ほどしか所得税を納めていないという。もちろん、本当に貧しくて所得税を免除されている人、所得税免除地域に住んでいる人なども多いだろうが、明らかにこの数字は現実のインド人の所得水準よりも低い。政府の公式記録は表の金の動きしか表せないから、どうしても経済力が実態よりも低めに評価されてしまう。だが、本当はもっとみんな金を持っているのだ。もともとインドは「金持ちからがっぽり金をとる」政策だったのだが、それが次第に「浅く広く」の税体制へとシフトして来ている。例えば、最近以下の6つの条件のうち、1つでも該当すれば税金を払わなくてはならないという制度ができた(ワン・バイ・シックス制)。自宅を持っている、自家用車を持っている、電話を持っている、クレジット・カードを持っている、ゴルフ場などの会員権を持っている、年に2回以上海外旅行へ行った。僕の友人のあるインド人は、ずっと所得税を払っていなかったのだが、このワン・バイ・シックス制が制定されたとき、その年に海外旅行を2回以上していたために該当してしまい、慌てていた。確かに他の5つの条件は、納税時に一時的に手放して逃れることができるが、海外旅行だけはちゃんと記録に残るのでごまかせない。

 税金をごまかすために、収入や支出に、現金と小切手の使い分けが行われる。小切手は表の金のために使われ、現金は裏の金のために使われる。高額の受け渡しがあるときは、何割を小切手で払い、何割を現金で払う、という交渉も行われる。表で動く金額は、実際に動く金額と隔たりがあることになる。脱税でも賄賂でも、裏で受け取った金は一旦「表に出せない金」になるので、そのまま裏金として使用するために保存しておく。裏で小切手に変えることもできる。インドには、非公式に小切手を現金に、現金を小切手に変えるブラックな商売がある。こうして、インドでは表の経済と裏の経済が平行して存在しており、明らかに裏の経済の方が巨大な規模を持っている。

 この裏の経済を理解すると、インド人の経済活動も理解できる。裏金を使って何か高額なものを購入してしまうと、税務署に目を付けられてしまう。だから、高価で後に残るものの購入にはインド人は慎重だ。金がなくて買えないというより、金はあるが、表に出して動かせる金がないので買えない、という状況が多いのではないだろうか。裏金は例えば外食に使われる。高級レストランで大所帯の家族が腹いっぱい食事をしているところなどをデリーではよく見かけるが、それも一種の裏金消費なのだろう。食事だったら後で証拠が残らないので、いくらでも散財することができる。結婚パーティーがやたら盛大なのも、裏金が相当動いているからなのかもしれない。インドで外食産業がやたら盛んなのはこういう隠れた理由があったりする。

 つまるところ、インド人は税金を払うのが嫌なので、普段は貧乏を装って生きているが、足の付かない金の使い道ができると、パッと散財してしまう、というのがインド人の金銭感覚なのではないかと思っている。数字で表れてくるインドの貧困度は、実際の貧困度に比べたらかなり意図的に水増しされた数字だと捉えるのが正しいだろう。デリーのスラム街に行ったら、その設備の充実度には目を見張る。どこの家にもテレビや冷蔵庫があり、電気は盗電だからタダ、水も公共用水だから無料、家賃もなし、必要なのは食費などの生活費だけ、という生活を送っている。マーケットなどに行っても、結局一番儲けているのは、道端の掘っ立て小屋などで商売しているチャーイ屋だと言われている。彼らは家賃や税金を払わなくていいので、ガス代と食材費となけなしの人材費を支出するだけで、あとはガッポリと稼げるらしい。いざとなったらすぐに逃げれるというのも彼らの強みだ。なんか、こうやって見ていると、インドは金持ちが損をして、貧乏人が得をする国にも見えてしまう。もちろん、金持ちは金持ちで得な人生を送っているわけだが。

 物と金の関係も日本とインドでは考え方が違う。インドではなるべく金を物に換えようとする傾向が強い。伝統的には、貴金属や宝石に換える習慣がある。インドの女性がやたらと金や宝石で着飾るのも、装飾という目的ももちろんあるだろうが、財産の保持という重要な目的がもうひとつあるからだと言われる。インド映画でも、経済的に困窮した家の奥さんが、家のどこかから装飾品や食器などを持ち出して質屋に売りに行くというシーンがよく描かれる(日本でもあっただろうが)。貴金属や宝石の他にも、高額な品物はインドでは日本よりもれっきとした財産と認められる傾向が強い。例えば自動車やバイクなどは、日本では中古屋に売るとかなり安く見積もられるが、インドでは驚くほど高く買い取ってくれる。僕は中古のノートPCをネルー・プレイスで売り払ったのだが(本当は多分違法だと思う)、日本では考えられないほどの高値で買い取ってもらえた。買値の約半額だった。これからは日本で不要になった中古ノートPCを集めて、こっそりインドに持ち込んで、売り払って稼ごうか、と思ってしまったくらいである。

 一方で、インド人はあまり銀行を信用していないようだ。これは、他民族からの侵略を頻繁に受けて政情不安定だった歴史の、民族的記憶が原因なのかもしれない。銀行だけでなく、基本的に政府に対しても信頼は置いていない。政府がいなくたって、自分たちの共同体で自活していけるだけの逞しさを持っている国民である。だから、銀行なんかに金を預ける代わりに、物に換える。物なら政府が入れ替わろうと価値が下がらない。そういえば、僕のロシア人の知り合いが、ソ連が崩壊して国が混乱したときのインフレで、お祖母さんが一生かけて貯めた金が、一夜にして、パン一切れも買えない額になってしまったと言っていた。だが、宝石などの物に換えていた人は、被害を最小限に抑えられたという。現代でも「紙幣が一瞬にして紙切れになる」「預金が一瞬にして消滅する」という国はまだまだある(最近の日本も、絶対大丈夫とはいえないが・・・)。金をすぐに物に換えるという習慣はまんざら間違いでもないだろう。

 インド人には、長期的視点に立って考えるという視点がないと言われる。今稼げる金は稼いでしまうという性格の人が多い。鮭の稚魚を放流したとすると、海から帰ってきた鮭を全部取って食べてしまう、という考え方でビジネスをしている人が多いということか。いや、鮭の稚魚があったらその場でそれを食べてしまうのかもしれない。とにかく、会社の発展よりも、自分自身の今日の利益を第一に考える経営方針がインド人のビジネスの実態である。投資という考えも希薄だ。資本を投下して事業を成長させ、それが育ったときに元の何倍もの利益を回収すると考えるだけの知恵というか、将来を展望する力というか、未来への信頼感がない。ゆえに、「インドに経済はない」と断言する人もいるくらいだ。

 インド人とトランプやウノなどのカードゲームをして遊ぶと、彼らの思考回路がよく分かる。例えば七並べをしたら、インド人は相手のことなどかまわないで、とにかく自分があがることだけしか考えない。日本人だったら、例えばハートの8を持っていて、それより数の大きいハートのカードを持っていないとき、そのハートの8をわざと出さずに敵を困らす、といった「戦略」がある。ウノをやっても、他人を邪魔するという考えがなく、自分さえあがればいいという思考のもとゲームをするから全然盛り上がらない。日本人だったら、ドロー4などの切り札は最後まで温存しておいて、隣の人がリーチになったときなど、ここぞというときに使用したりするが、インド人は、ドロー4が手に入ると、喜び勇んで即座に使用する。隣の人がリーチになって、自分がリバースを持っていたら、とりあえずそれを使用してリーチの人の順番を遅らすとか、そういう戦略が楽しいゲームだと思うのだが、インド人は他の人のリーチなどお構いなしで、何の対策も打たずにそのままゲームを進める。インドはチェスの発祥の地と言われるが、彼らの戦略の無さを見ると、それも怪しく思えてくる。それと同じ感覚で商売をやっているとしたら、確かに儲かりもせず、損もせず、現状維持を第一としてやっていってしまうだろう。よくガイドブックなどに載っている「外国人旅行者を騙す、ずる賢いインド人」も、その場限りで騙して儲けていくよりは、誠実に外国人に対して商売をした方が、結局最後には儲かるということが分かっていない。

 とにかく、インドの経済やインド人の金銭感覚を考える際、日本の物差しで考えても全然通用しない。表に表れる経済指標や数字だけを見て、インドの経済を分かったつもりでいると、いつまで経っても実態を理解できないだろう。表の市場は氷山の一角であり、海の下には巨大な市場が埋もれている。それがインドの潜在的経済力であり、それをうまく引き出してやれば、これからすごい国になると思う。しかも、インドの経済は大部分を農業に支えられているということも忘れてはならない。人口の8割は農民の国である。日本は工業発展のために農業を二の次にしてきたたため、人間の生活に必要な食糧の大部分を外国から輸入しなければならない、まるで点滴を受けないと生きていけない重病患者のような国になってしまった、と感じる。商品を売って食糧を買うというのは、典型的なプランテーション国家の経済だ。しかしインドは工業やIT産業を発展させながら、それでも経済の根幹に農業が揺るがず残っている。それが外交で独自性を保つ自信にもつながる。最近デリーは急速に発展してきているが、これからインドはどういう国になるのだろうか?まだまだお楽しみはこれから、という感じの国である。

12月11日(木) 天皇誕生日記念式典

 毎年12月になると、天皇誕生日を記念したパーティーが各国の日本大使館で行われるようだ。天皇誕生日は12月23日だが、その時期には大部分の人が冬休みでデリーを離れていることもあり、前倒しして行われることが常らしい。今年インドでは今日、その式典が行われた。

 天皇誕生日記念式典に招待される人は、デリー日本人社会の上層カーストにあたる人々のようだが、今年はアッラーの思し召しなのか、一介の学生である僕のもとにも招待状が迷い込んだ。学生の分際でそんな式典に参加するのは気が引けたし、僕の存在が日本人社会の封建制度を破壊しないか心配だったが、まあ一応インドのTVCMに出演してインド芸能界デビューも果たしたことだし(その後とんとオファーはないが)、会場の隅にチャウキーダール(警備員)のようにチョコンと居座っていれば邪魔にはならないだろうと開き直って、参加することにした。招待状に特に注記はなかったが、ドレス・コードは最高レベルであることが容易に予想できた。そんなパーティー用の衣服をインドに持って来ているはずはない。僕の友人にはインドでスーツをオーダーメイドした人もいるが(安く作れるからいいらしい)、そんなことをしている暇もなかった。僕の同じくらいの背の友人から背広を借りて、なんとかこの場を乗り切ることにした。

 式典は6時半からだというので、6時くらいには家を出て、バイクで日本大使館へ向かった。バイクで日本大使館のパーティーに来る人なんて、現地人職員かテロリストか僕くらいのものだった。大使館の門で客を迎えていた人たちも、どうしたらいいのか分からない顔をしていた。しかし招待状があるので入れないわけにはいかない。結局問題なく入れてもらえた。やはり警備は厳重で、門を通るときに車体を調べられた。いよいよ大使館に入る。実は日本大使館に正面から入ったのは、これが初めてだった。ヴィザ取得や在留邦人届け提出などの用事は、裏口から入るようになっており、大使館敷地の限られたスペースしか行けないようになっている。大使館の中には、バイクを駐輪する場所が特に決まっていなかったようで、適当な空きスペースに誘導された。どうやら僕はほぼ一番乗りに近かったようだ。

 大使館内にある大使公邸が式典の会場になっていた。玄関から入ってすぐの大広間に行くと、大使館の外交官とその奥様たちが揃っていた。中には以前会ったことのある人もいてホッとしたが、それでも僕の存在は場違いであることは間違いなかった。計画通り、隅の方にチョコンと立って、早速サーブされたコカ・コーラを片手に人々の様子を眺めていた。皆、最高レベルの服を身に付けており、中には着物を着ている貴婦人までいた。実は一瞬だけ、背広を持っていなかったから、ちょっとオシャレなクルター・パジャーマーを着て行けば問題ないだろうとか考えていたが、それを実行に移さないで正解だった。デリー在住の日本人の他、インド人やその他の国の人々も来ていた。

 野外の庭では、ビュッフェ形式の立食パーティーになっていた。みんなそちらへ流れていたので、僕も外に出て、食事をつまんでいた。こんな公の式典なので、一人だけ浮いてしまうかと思ったが、案外知っている人にも何人か会うことができたのでよかった。既にデリーに2年以上住んでいるため、自然と年配の人々にも知り合いが出来ていた。それに、デリーの日本人社会は大きすぎず、小さすぎずのサイズで、人付き合いするにはちょうどいいように思える。そんなわけで、一応完全に孤立することだけは避けられた。ただ、「なんだ、君まで来てるのか」と言われることがほとんどだったので、やっぱり場違いだったんだな、と実感した。

 食事はインド人に配慮してちゃんとヴェジタリアン・メニューが用意されており、味もなかなかおいしかった。ただ、オールド・モンクはおろか、ラム酒が置いてなくて、好物のラム・コークを飲むことができなかったのが不満だった。デリーのバーで、オールド・モンクを置いていないところなんてないぐらい人気のあるラム酒なのだが・・・。

 途中、音楽が流れ始めて皆シーンとしてしまったので、何か始まったと思って人だかりの方へ歩き出したが、しばらくしてやっとそれがインドの国歌のインストロメンタルであることに気が付いた。よく見たら、みんな直立不動で国歌を聴いている。動いているのは僕だけだった。人だかりが出来ていたのは、ただ人がたくさんいるだけだった。インドの国歌「ジャナ・ガナ・マナ」の後に、日本の国歌「君が代」が流れた。両国の国歌が終わった後は、みな直立不動を解除して、再び団欒し始めた。

 今日は主賓としてヴィノード・カンナーが来るというので、少し楽しみにしていた。ヴィノード・カンナーは俳優出身の政治家で、現在は外務省副大臣をしている。そんなに優秀な政治家ではないようで、次々にポストを変えられているような印象がある。だが、結局彼は野外会場には現れなかった。後から聞いたら、大広間の方に来ていて、30分ほどで帰ってしまったらしい。主賓が来たら、来場客みんなで拍手でもして歓迎すべきだったが、あいにく客は皆庭へ出てしまい、誰もいない大広間にヴィノード・カンナーがやって来る形になってしまったそうだ。おかげで僕は彼を見ることができなかった。

 僕は、天皇誕生日記念式典だから、きっとみんなで「天皇陛下、ご誕生日おめでとうございます!」とか言って万歳三唱や拍手でもするのかと思っていたが、終わってみればただの立食パーティーだった。天皇の誕生日とあまり関係ない式典のように感じた。一応インド人などは、日本人に「おめでとう」と声をかけていたが、別に天皇の誕生日が来たからといって、「おめでとう」と言われる筋合いはないというか、特におめでたい気分でもないから変な気分だった。きっと出席した外国人は、日本人にとって天皇の誕生日は大切な日なのだろう、と勘違いしてしまっていると思われた。

12月12日(金) バーラトって?

 日本という国名には「にほん」という読み方と、「にっぽん」という読み方があり、どうも後者の方が正式のようだ。昔は「倭」とか「大和」などと呼ばれていたこともある。卑弥呼で有名な邪馬台国は、一般的には「やまたいこく」と読まれているから所在地に関して論争があるが、言語学的にいったら当時の中国語の発音では「邪馬台」は「やまと」と読むので、大和地方に邪馬台国があったとする立場に賛成である。とにかく、3世紀頃の日本は「倭国」とか「大和」などと呼ばれていた。だが、現在日本のことを「倭」とか「大和」などと呼ぶ人はいないので、日本語では「日本」と呼ばれていると言っていいだろう。この他、英語で「Japan」と呼ばれ、これを元に世界各地でいろいろな発音で呼ばれている(例えばフランス語ではジャポン、ドイツ語ではヤーパン、アラビア語でヤーバーンなど)が、基本的に現代の日本国の呼称は、「にほん」「にっぽん」「Japan」の3種類だと考えていいだろう。

 インド、インドと一口に言っているが、インドにもいろいろな名前がある。英語の名称から2通りあり、「India」と「Republic of India」の両方が使用されている。どちらが正式名称なのかはっきりしない。現地語での呼称はもっとたくさんある。正式名称はサンスクリト語から来ている「バーラト」になっているが、「バーラトワルシュ」という言い方があったり、「ヒンドゥスターン」、「ヒンド」などの、どちらかというとペルシア語系の名称もあったりする。中国ではインドのことを「天竺」「身毒」「印度」と呼び、日本では仏教界で「天竺」と呼ぶのを除けば、「インド」「印度」という呼称に統一されていると言っていいだろう。

 「バーラト」という国名の由来についてよく書かれるのは、インド二大叙事詩のひとつ「マハーバーラタ」に出てくる「バラタ族の子孫の土地」という意味で、「バーラタ」「バーラト」と呼ばれている、という説明である。「バーラタ」「バーラト」という名称は、プラーナ文献に見られる。5〜6世紀に成立したヴィシュヌ・プラーナには「海の北、ヒマーラヤ山脈の南の土地をバーラタと呼び、バーラティー(バラタ族)の子孫たちが住む」と書かれている。

 「bhaarat」「bhaarata」を音節ごとに分解して、その意味を説明する人もいる。例えば「bha」を「bhagwaan(神様)」、「rat」を「rati(情愛)」として、つまり「バーラト」の意味を「神を愛する者の土地」と説明したり、「bhaa」を「bhaav(情感)」、「ra」を「raag(音律)」、「ta」を「taal(リズム)」として、「情感と音律とリズムの溢れる土地」と説明したりする。しかし、これらは非常に疑わしい。後からこじつけられたと見るのが正しいだろう。

 「バラタ」について見てみると、元々の意味はヒンディー語の「bharnaa」と関係があり、「満たされた者」「満足した者」みたいな意味になる。古代インドには「バラタ」という伝説上の王がおり、その王の子孫たちが「バラタ族」と呼ばれた。バラタ族はパンジャーブ地方のサラスヴァティー川流域に住んでいたことから、その周辺の地域が「バラタ族の土地」という意味で「バーラタ」と呼ばれるようになり、やがてインド亜大陸全体を指す言葉になった、というのが、先にも述べた「バーラト」の起源だ。この他、銅、亜鉛、すずなどの合金のことも「バラト」と言う。もしかしたら、バラタ族というのは、銅を加工する職人だったのかもしれない。また、ひばりのことも「バラト」と言う。

 しかし最近、インド人の友人から面白い説を聞いた。「バーラト」をバラタ王やらバラタ族やら「マハーバーラタ」と関連付けて語るのは全部こじつけで、「バラト」とは踊って人を楽しませる大道芸人やジプシーみたいな人々のことで、実際は「踊り子の住む土地」みたいな意味だというのだ。つまり、踊り好きな人々が住む土地がインドだというのだ。そう聞くと確かに納得できるかもしれない。結婚式や祭りで踊り狂うインド人や、踊りの無い映画を映画と認めないインド人を見ると、「インド人って本当に踊りが好きだな〜」と思う。おそらく西の方からやって来た人々が、踊りを踊ってばかりいるインド人を見て、そう名付けたのだろう。バラタという人物が著した「ナーティヤシャーストラ」というサンスクリト語の芸術書があるが(2世紀頃には成立していたと言われる)、バラタとは人物ではなく、コミュニティーの名前だという説もある。

  また、先に挙げたヴィシュヌ・プラーナで、「バーラティーの子孫たちが住む土地」と書かれていたが、「バーラティー」には「バラタ族の」という意味の他にも意味がある。「バーラティー」は知恵と学問の女神サラスヴァティーの別名でもあるし、「言葉」という意味もある。もしかして「バーラト」とは、「おしゃべりな人々の住む土地」みたいな意味になるかもしれない。これもしごく納得のいく説明である。口先だけはやたら達者な人が、他の国に比べて多いと思う。

 ものの名称なんて割と単純で適当な理由から名付けられるものだ。オーストラリア大陸に上陸したヨーロッパ人が、得体の知れない動物を見てその名を原住民に尋ねたところ、「知らない」と現地語で言われたが、それを名前だと勘違いしたため、以後その動物は「カンガルー」と呼ばれるようになったという話は有名だ(しかしアボリジニー語の研究者に聞いたら、この話は全くのデタラメらしい)。サハラ砂漠の「サハラ」も、アラビア語で「砂漠」という意味であり、それを固有名詞だと勘違いしたヨーロッパ人が「サハラ砂漠」と名付けてしまったという例もある。「バーラト」の由来もおそらくすごい単純な理由からだと思う。適当に名付けられた名前に、後からいろんな人がいろんな意味をこじつけて権威を出そうとすることはよくあることだ。僕のハンドルネームである「アルカカット」も、すごい単純な方法で作られた名前なのだが、いろんな人が意味を詮索するので面白い。

12月17日(水) アーシュラム・エクスプレス


←旅行MAPが左にあります。


 JNUに入学してからというものの、まとまった休日がとれず、また真面目に出席しないとついていけないほど難しいことから、ずっとまともに旅行ができなかった。だから、1ヶ月の休みがとれる冬休みを非常に楽しみにしていた。既にインドの隅々まで旅行し尽くしてしまった感があるが、まだまだ穴になっている地域は山ほど残っている。目的地の第一希望は去年に引き続きアンダマン・ニコーバル諸島だったのだが、チケット入手に乗り出したのが遅かったため、今年も諦めた。そこで、まだ個人的にまたほとんど手付かずの地、グジャラート州を集中的に巡ることに決めた。2000年にアハマダーバードを簡単に観光したことがあるだけだった。

 午後3時05分オールド・デリー駅発の2916アーシュラム・エクスプレスに乗り込む。今回は奮発して2等AC寝台を利用。というより、半ば間違えて高い席を買ってしまった。予約代込みで1431ルピーもしてビックリした。2等AC寝台といったら、1等AC寝台に次いで2番目にいい等級である。さすがに車両は下等車両よりも微妙にグレード・アップしており、コンパートメントが4人+2人の6人席だったり(普通は6人+2人の8人席)、各コンパートメントにカーテンが付いていたり、毛布、シーツ、枕が付いていたり、個人用のライトがあったり、トイレのドアノブが微妙に質がよかったり、トイレにカップが付いていたりする。等級の高い列車に乗ると毛布が付くので、寒い時期に旅行するときでも寝袋などを携帯する必要がなく、荷物を軽減することができる。

 僕の席は通路側にある2段ベッドの下の席だった。カーテンが付いているので、それを閉めてしまうと、完全に一人だけのプライベート空間に閉じこもることが可能だった。僕の向かいにある4人席はちょうど車掌などのスタッフ席で、限りなく安全だったが、彼らは彼らでカーテンを閉め切って仕事をしたり休んだりしているので、ずっと没交渉だった。列車の中で話しかけてくる人がいないというのも何だか寂しいものである。ただひたすら寝て時間を過ごした。

 ちなみにこれから向かうアハマダーバードは、いろいろな表記のされ方をしており、少々ややこしい。英語では「Ahmedabad」や「Amdavad」などと表記されており、日本語では「アーマダーバード」「アーメダーバード」「アフマダーバード」などと表記されているのをよく見かける。駅で流れるアナウンスの発音に忠実にカタカナ化するなら、「エヘメダーバード」あたりが一番近いと思うが、多分こう書くと混乱する人が多いと思われるので、僕は「アハマダーバード」と書くことにする。敢えて「アフマダーバード」にしない理由は、日本語の「フ」が「hu」ではなく「fu」になってしまうからだ。

 デリーからアハマダーバードまで938km。夕方を過ぎると外の景色は何も見えなくなった。孤独だ・・・。こんな孤独な列車の旅はインドでは初めてだ。まるで日本の列車に乗っているかのようだ。こんな旅行の仕方もあったんだなぁと漠然と考えていた。午後9時頃にジャイプルに停車。その後、夕食が配られた。ヴェジタリアンしかなかった上に、まずくてガックリ。30ルピーだった。

12月18日(木) ヒジュラー寺院ベーチャラー・ジー

 AC車両で冷房が効いていて寒いのかと思っていたが、朝トイレに行くためにデッキに出てみると、やっぱりまだ寒かった。外にいる人も毛布を頭にくるんで寒そうな格好をしている。グジャラート州くらいまで来ればもう常夏の暑さだろうと思っていたのだが、それはどうやら外れだったようだ。もう少し防寒対策をして来ればよかった。後から分かったことだが、ここ数日間グジャラート州は寒波に見舞われており、例年よりも4〜5度気温が低いとのこと。実はデリーよりも気温が低かったりした。せっかくデリーの極寒から逃げて来たのだが・・・。

 アーシュラム・エクスプレスのアハマダーバード到着予定時刻は午前8時。しかしインドの列車が時間通りに到着することは稀である。結局アハマダーバード・ジャンクション駅に到着したのは8時40分ぐらいだった。

 アハマダーバードではちょうど日本人の友人が研究のために滞在していたので、到着後、彼とコンタクトすることになっていた。以前来たときには駅前のA−ONEホテルに滞在したのだが、今回は彼の紹介で、サーバルマティー河を渡った税務署近くにある、ホテル・オアシスに滞在することになった。シングルで275ルピー。部屋は小さいが清潔で機能的。スタッフも非常に親切。テレビ、ホット・シャワー、石鹸、タオルなどが完備されている。チェック・アウトは24時間制。繁華街のCGロードも徒歩圏内で、非常に気に入った。

 とりあえず今日はベーチャラー・ジーへ行くことにした。ベーチャラー・ジーはアハマダーバードの北西100kmほどの地点にある寺院である。バフチャラー・ジーとも呼ばれている。この寺院は石川武志氏の著書「ヒジュラ 第三の性」に紹介されている、ヒジュラーのための寺院である。ちなみにヒジュラーとは元々両性具有者のコミュニティーのことを指すと言われ、現在では自ら性転換した人たちを中心に形成されている。グジャラート州に行ったらまずはそのヒジュラー寺院行ってみたいと思っていた。あまりアクセス情報がなかったので、タクシーをチャーターして行くことにした。往復750ルピーで話がついた。

 アーシュラム・ロードを北上し、ガーンディーのサーバルマティー・アーシュラムを越え、グジャラート州の州都ガーンディーナガルへつながる分岐点を越えてさらに北上して行く。道路はきれいに舗装されていて、快適な走行。この道路は2年前に完成したそうだ。途中、有料道路になる。通行料として45ルピー払わされた。

 アハマダーバードから1時間半ほど北に行くと、メヘサーナーという町に着く。そこからメイン・ロードを外れて西に向かう。ちゃんと「Bechuraji」という道標も立っていた。途中、建設中の運河を越え、30分ほどでベーチャラー・ジーに到着した。小さな村だった。

 ベーチャラー・ジーの寺院はちょっとした要塞のようになっており、入り口は三方にあって、門の前には店が並んでいる。しかし、他のヒンドゥーの聖地に比べたら小規模である。人々も非常に親切だ。辺りをキョロキョロ見回してみるが、ヒジュラーらしき人影はない。寺院の門まで行って、恐る恐る中に入ってみるが、特に何の変哲もないヒンドゥー寺院だった。参拝者もごく普通の人々だった。サーリーを着ている女性を片っ端から、「もしかしてヒジュラーか?」とジロジロ見てしまったが、どうやらみんな本物の女性のようだった。





ベーチャラー・ジー


正門前の門前町


 運転手にヒジュラーを探してもらったが、どうも今はヒジュラー巡礼の季節ではないようで、残念ながら一人も見当たらなかった。常駐のヒジュラーというのが存在するようだが、朝来て正午には帰ってしまうようだ。雨季前後によくヒジュラーが来るようで、ヒジュラーが列をなしている風景を見ることができるらしい。ヒジュラーになりたい人は、ここで洗礼を受けてヒジュラーとなるそうだ。境内には儀式を行うホールがあった。ベーチャラー・ジーはシヴァ神の妻パールヴァティーの化身のひとつで、鶏に乗った女神の格好をしている。それと関係あるのか、境内には鶏が飼われていた。よく有名な巡礼地では、その寺院の起源などが書かれた小さなブックレットが売られており、いろいろ情報を集めることができるのだが、この寺院周辺ではそのようなものは売られていなかった。だから、なぜこの寺院がヒジュラー寺院になったのか、その起源を知ることもできなかった。インドの寺院でその寺院の由来などを調査するのは実はけっこう難しいような気がする。寺院のブラーフマンに「なぜヒジュラーがここに来るのか」と聞いても、「なぜならここはヒジュラーの寺院だからだ」と答え、「なぜベーチャラー・ジーは鶏の上に乗っているのか」と聞いても、「なぜなら鶏はベーチャラー・ジーの乗り物だからだ」と答えるため、全く話にならない。




ベーチャラー・ジー本殿


 帰りに、アハマダーバードの北20kmほどの地点にある、アダーラジの階段井戸によってもらった。グジャラート建築の大きな特徴と言えば、階段井戸である。井戸の底まで階段で行けるようになっており、壁や柱などは繊細な彫刻でビッシリと埋められている。ヒンディー語ではバーウリーとかワーウ、ヴァーヴなどと呼ばれている。階段井戸はインド全土に見られ、デリーにもいくつか残っているが、乾燥した土地であるグジャラート州に特に集中している。アダーラジの階段井戸は、その中でも特に保存状態がよいものだと言われている。以前にも来たことがあったが、帰り道の途中にあるのでついでに行くことにした。

 残念ながら現在アダーラジの階段井戸は修復作業中で、井戸には足組みが組まれており、労働者たちが壁を洗浄していた。だが、入場料などはなかった。階段を下るごとに涼しくなって行き、独特の幾何学的空間に呑み込まれていく。アダーラジは言われているほど保存状態がいいとは思えないが、入り口近辺の交差点部分などはユニークだと言える。何枚か写真を撮って、帰路に着いた。




修復中のアダーラジ階段井戸


 夕方には友人にグジャラート料理のレストランに連れて行ってもらった。ヴィシャーラーという、アハマダーバード郊外にある野外レストランで、グジャラートの村の様子が再現されている。敷地内には家庭用品博物館があったり、ラージャスターン風の大道芸や人形劇が上演されていたりする。食事は床に座って、葉っぱの皿で、手を使って食べるインド伝統スタイル。グジャラート料理は基本的に甘くて油っこいヴェジタリアン料理である。給仕が次から次へやって来て皿に食べ物をよそっていくので、かなり忙しいが、他のレストランではなかなかできないような面白い体験をすることができる。一人188ルピー、博物館の入場料は8ルピーだが、これだけ盛りだくさんの内容なら安いものだと思う。客はインド人ばかりだった。インド文化から離れつつある都市在住インド人が、インドの村の伝統文化を疑似体験して楽しむという姿が、皮肉なようにも見え、また微笑ましいようにも見えた。このヴィシャーラーには多くの著名人が訪れており、故インディラー・ガーンディー元首相、ヴァージペーイー首相、アミターブ・バッチャン、サチン・テーンドゥルカルなどが訪問したときの写真が飾ってあった。アハマダーバードでちょっと変わった食事がしたいと思ったら、ここは断然オススメの場所である。




ヴィシャーラーのグジャラート伝統料理


12月19日(金) 博物館級彫刻モーデーラー&パータン

 今日はインダス文明の遺跡ロータルへ行く予定だったのだが、調べてみたらロータルの博物館は金曜日休みのようだったので、慎重策をとって1日予定を遅らせることにした。代わりに候補地として浮かんだのが、アハマダーバードの北100kmの地点にあるモーデーラと、130kmの地点にあるパータンだった。それらは、グジャラートを巡って時間が余ったら行こうと思っていた場所のひとつだった。昨日行ったベーチャラー・ジーの近くだから、少し無駄なことをした。やはり情報が少ないので、今日もタクシーをチャーターして行くことになった。なんだかいきなり贅沢な旅をしてしまっている。今日は1kmにつき4ルピーというメーター方式で行ってもらうことにした。

 午前10時頃にホテルを出発。昨日とほぼ同じ道でアハマダーバードから北上する。1時間ちょっとでメヘサーナーに到着。昨日はメヘサーナーの町の手前で左折してベーチャラー・ジーへ向かったが、今日はメヘサーナーの町の中心部まで行って、そこから左折した。田舎道をずっと進むと、やがて1時間足らずでモーデーラーに到着した。

 モーデーラーには、太陽神スーリヤの寺院がある。スーリヤ寺院といえば、オリッサ州コナーラクの寺院が有名だ。しかしモーデーラーもグジャラート州の重要な観光地のひとつとしてクローズ・アップされつつある。モーデーラーの寺院はインドに現存するスーリヤ寺院の中で最も古く、ソーランキー朝のビームデーヴ1世が1026〜27年に建造した。コナーラクのスーリヤ寺院は13世紀の建立である。

 悪い言い方をすれば、モーデーラーはオマケで来たようなものだったが、近づいてみるにつれてこれはすごい遺跡だということが分かった。寺院は太陽の昇る東を向いており、西から本殿、前殿(ダンシング・ホール)の順に並んでいる。前殿の東には、スーリヤ・クンドと呼ばれる巨大な人口池が掘られており、その規模と建築には度肝を抜かれる。本殿と前殿のシカラ(塔)が失われているが、注目すべきは壁にビッシリと刻まれた細かい彫刻である。ここまで保存状態のいい彫刻がこんなにたくさん残っている遺跡はあまりない。コナーラクのスーリヤ寺院の最大の特徴である、車輪はこの寺院にはなかったが、彫刻の保存状態のよさと、その躍動感はコナーラクの寺院に勝るとも劣らない。特に前殿の屋根を支える無数の柱の彫刻は非常に保存状態がよく、前殿の中心に立つと、今にもアプサラー(精霊)たちが動き出しそうだ。

 残念だったのは、この遺跡も現在修復作業中だったこと。スーリヤ・クンドの階段には労働者たちが張り付いて洗浄をしており、寺院には木組みが組まれて景観を台無しにしていた。





スーリヤ寺院全景



スーリヤ・クンド



本殿


本殿の入り口


 ちなみにスーリヤ寺院の入場料はインド人5ルピー、外国人100ルピー。ちょっと交渉してみたら僕は5ルピーで入れさせてもらえた。しかしこの遺跡は入場料を取るだけの価値がある遺跡だと感じた。

 次に向かったのは、モーデーラーからさらに北30kmの地点にあるパータン。パータンはかつてヒンドゥーの王国の首都だったが、11世紀にガズニ朝のマハムードの侵略を受けてイスラーム化した町である。現在のパータンはシルクのサリーで有名で、町は典型的なイスラームの町っぽく、迷路のように道が曲がりくねっている。町の外郭には崩れかけた壁や門が残っており、かつての栄光を偲ばせている。

 パータンの見所は、郊外にある王妃の階段井戸(ラーニー・キ・ワーウ)である。やはり入場料はインド人5ルピー、外国人100ルピーだったが、オフィサーにかけあってみたら5ルピーで入れてくれた。

 パータンの階段井戸も、はっきり言って他に並ぶものがないくらい素晴らしい遺跡だった。グジャラート州でもっとも古くかつ巨大な階段井戸で、1050年にソーランキー朝のビームデーヴ1世の王妃(在位1022-1063)が建造したと伝えられている。巨大さにも目を見張るものがあるが、絶句なのはやはり壁の彫刻。モーデーラーのスーリヤ寺院の彫刻も素晴らしかったが、ここの彫刻はさらに素晴らしく、博物館級と言っていいほどの質と完成度である。井戸自体は崩れかかっており、原型を留めておらず、一番下まで行くことはできない。





王妃の階段井戸



半分崩れかかっている


博物館にあってもおかしくないほど
保存状態のよい彫刻の数々
中央はマヒシャースラマルディニー
(悪魔マヒシャを殺すドゥルガー女神)


 モーデーラーのスーリヤ寺院もパータンの階段井戸も、全インド的にはあまり有名な遺跡ではないかもしれないが、グジャラート観光で外せない必見の遺跡だと感じた。ベーチャラー・ジーとモーデーラーとパータンをセットで日帰り旅行すると、きっと素晴らしい1日になると思う。

 帰りにグジャラート州の州都ガーンディーナガルに寄ってもらった。グジャラート州の州都をアハマダーバードだと勘違いしている人が多いが、現在ではアハマダーバードの北東32kmの地点にあるガーンディーナガルが州都になっている。グジャラート州が出来て以来、州都はアハマダーバードに置かれたが、パンジャーブ州とハリヤーナー州の州都として建造された計画都市チャンディーガルに続き、インド第2の計画都市としてグジャラート州の新州都の建造が開始された。新州都の名前はグジャラート州出身のマハートマー・ガーンディーにちなんでガーンディーナガル(ガーンディーの町)と名付けられ、1970年に州都が移転された。チャンディーガルはきれいに区画されて、そこそこ発展しており、快適な都市空間と言うができたが、ガーンディーナガルは都市というよりまだ森という感じで、本当に何にもない街だった。

 ガーンディーナガルの唯一の観光地といえば、アクシャルダームである。スワーミー・ナーラーヤンというヒンドゥー教の聖者が作った教団の総本山となっており、寺院というより遊園地のようになっている。入場料は無料だったが、2002年9月にここで起こったテロ事件の影響からか、警備は非常に厳重で、カメラを持ち込むことができなかった。時間がなくてそそくさと出てしまったが、リッチな宗教団体が金に物を言わせて造った一大宗教テーマパークのような、変な場所だった。

 結局、モーデーラー、パータン、ガーンディーナガルの3箇所を巡って合計距離はちょうど300kmだった。

 夕方はピザ・ハットでピザを食べた。しかしただのピザと侮るなかれ。アハマダーバードのピザ・ハットはピュア・ヴェジタリアンなのだ。グジャラート州はインドの中でも最も菜食主義の傾向が強い州である。厳格な不殺生主義を貫くジャイナ教徒が多いことがひとつの理由だが、もうひとつは各カースト・コミュニティーが自分のカーストのランクを上昇させるため、コミュニティー全体で菜食主義に転向するという運動(サンスクリト化運動)が盛んに行われているからである。また、インドで唯一、州全体が禁酒となっている州でもある。よって、アハマダーバードの街でノン・ヴェジのレストランは数えるほどしか存在せず、また酒も普通には売られていない。肉と酒が豊富に手に入るパンジャーブ州とは正反対だ。デリーからアハマダーバードに来る列車の中でノン・ヴェジの料理がなかったのも、それが関係しているのかもしれない。そんな特異な特徴を持つアハマダーバードのピザ・ハットには、ジャイナ・ピザなる特殊なピザがメニューに載っている。

 菜食主義のジャイナ教徒にもいろいろなレベルの菜食主義があるが、最も厳格な菜食主義者は、肉や卵の他に、タマネギなどの地中に埋まっている野菜も食べない。なぜなら掘り起こすときに虫を殺してしまうかもしれないからだ。ジャイナ教徒はとにかく生き物を殺す可能性がある食べ物を食べないし、生き物を殺すような仕事もしない。そんな厳格なジャイナ教徒でも安心して食べることができるピザが、ジャイナ・ピザである。もちろんアハマダーバード名物ジャイナ・ピザを食べるつもりでピザ・ハットに来た。ジャイナ・ピザにも数種類のメニューがあったが、その中から僕は「ジャイナ・デライト」を食べることにした。チーズ、トマト、グリーン・チリ、パイナップル、ベビーコーンがトッピングされたピザだ。実は密かに「何じゃこりゃ?」という代物を期待していたのだが、食べてみたら案外普通においしかった。なかなかやるな、ピザ・ハット!




純菜食主義ピザのジャイナ・デライト


 ピザ・ハットがある辺りはCGロードというアハマダーバード随一の繁華街であり、多くのモダンな店が並んでいる。アハマダーバードにはマクドナルド、バリスタ、ピザ・ハット、ドミノ・ピザ、サブウェイなど、一通りのファストフード・チェーンが進出しており、けっこう発展しているように感じた。人々も人当たりがよく、なかなか過ごしやすそうな街だと思った。

12月20日(土) 死者の丘ロータル

 朝7時頃にホテルをチェック・アウトしてバススタンドへ向かう。今日は、インダス文明の遺跡ロータルを見て、そのままグジャラート州中南部の半島部に当たるサウラーシュトラ地方へ行く。

 ロータルは辺鄙な場所にあるので、行くのにけっこう苦労した。まずはバーヴナガル行きのバスに乗って(49ルピー)、アハマダーバードを出て南西に向かう。こちらの道路もきれいに舗装されていて快適な走行である。1時間半ほどするとだんだん田舎道になって来て、小さな線路を渡る。するとすぐに「Lothal」と書かれた看板が見えるので、そこで下ろしてもらう。しかし、見渡す限り畑が広がる、ど田舎のど真ん中であり、途方に暮れる。「ロータルまで7km」という看板が出ているので、歩こうと思ったら歩いて行くことも可能だが、重い荷物を持っているのでちょっとしんどい。すると、ちょうどテンポと呼ばれる、エンフィールドのバイクを改造した乗り合いタクシーがやって来た。彼が「ペーシャル」でロータルまで行ってくれると言う。「ペーシャル」って何だろう、と考えていたら、どうも「スペシャル」のことで、要するにチャーターということらしい。100ルピーで往復してくれるという。高い!・・・が、他に何の交通機関もないので、頼むしかない。特に値引き交渉もせず、テンポをペーシャルしてロータルまで向かう。




エンフィールドを改造した
乗り合いタクシー テンポ


 エンフィールド特有の、ドドドドド・・・という、まるで工事中のような轟音と共に田舎道を爆走する。バスが1台通れるくらいの道をどんどん進み、舗装されていない道路を抜けて、やがてロータルの遺跡に到着した。やはりロータルの博物館は金曜日休みだった。昨日来なくて正解だった。博物館の開くのは10時からだったので、それまで遺跡を見て過ごすことにした。

 ロータルは、モヘンジョ・ダーロやハラッパーで出土したインダス文明の遺跡と明らかにつながりのある、今から4500年前の遺跡である。ロータルには、218m×37mの大きさの、長方形をしたレンガ製の船のドックの遺跡があり、インダス文明が海運によって繁栄を謳歌していたことが伺われる。ドックの四辺は正確に東西南北を向いており、南方には水はけ口があって、ドック内の水の量を調節することができたようだ。また、西方には桟橋跡らしき柱の痕跡が水中に見受けられた。





ドック全景 北から撮影



南方の水はけ口


柱跡


 ドッグの西側には、いくつかの建物の跡がある。小高い丘の上には、アクロポリスと呼ばれる、ドックの管理者の建物があり、モヘンジョ・ダーロやハラッパーで見られるような、優れた下水溝が残っている。その外、いくつかの住居跡も残っており、理路整然とした都市計画の下に造られた町であったことが伺われる。ビーズを製造する釜の跡も残っている。





アクロポリス



排水溝跡


何かの排水システムだと思われる


 ロータル博物館の展示物もけっこう面白い。ロータルの想像図がまず展示されており、ロータルのかつての姿を偲ぶことができる。奥には、ロータルから出土した骸骨が2体展示されている。インダス文明の遺跡から発掘された人骨から推定すると、当時の成人の身長は162cm〜185cmだったらしい。けっこう長身の民族だったと言えるだろう。また、モヘンジョ・ダーロやハラッパーの遺跡のレンガは3:2:1の大きさだが、ロータルのレンガは4:2:1であり、少し違いがあるようだ。非常に興味深い。また、ロータルもモヘンジョ・ダーロも共に「死者の丘」という意味らしく、その共通性にも興味が沸いた。




抱き合って寝る骸骨


 ロータルの遺跡への入場料は無料で、博物館は2ルピーだった。ロータルほど有名な遺跡に外国人料金を設定しないというのは、インド考古学局は一体どういう了見なのだろうか。ただ、外国人料金がないだけあってか、遺跡への交通が整備されていないのが難点だ。ロータルもアハマダーバードからタクシーをチャーターして行くのが最も適しているように感じた。

 テンポで再びメインロードのところまで送ってもらい、そこでバーヴナガル行きのバスを待つ。すぐにプライベートのバスが来てくれたので、それを止めて乗り込む。ロータルからバーヴナガルまで50ルピーを払った。ロータルからバーヴナガルまで2時間ほどかかった。

 バーヴナガルはカンバート湾近くにある中規模の街で、綿製品の一大集積地になっている。また、バーヴナガルは古船解体業で有名な場所のようだ。だが、特に見所はない街である。すぐに次の目的地、パーリーターナー行きのバスに乗るため、バーヴナガルのバススタンドへ向かった。バーヴナガルまで来ると外国人は非常に珍しいようで、バスを待っている間、バススタンドで多くの人々の注目を集めた。パーリーターナー行きのバスに乗り(17ルピー)、1時間半ほどでパーリーターナーに到着した。午後2時半頃になっていた。

 パーリーターナーは、ジャイナ教の一大聖地かつジャイナ教建築最高傑作のひとつシャトルンジャイ寺院の麓に広がる門前町である。想像していたよりも大きな町で、活気のあるマーケットが数キロに渡って延びている。バススタンド近くにあるグジャラート州観光局経営のホテル・スメールーに泊まることにした。シングル200ルピー。ホット・シャワー、テレビ、タオルなどが完備されている。部屋やトイレはだだっ広いが、オンボロである。

12月21日(日) 天空寺院都市シャトルンジャイ寺院

 シャトルンジャイ寺院は標高600mの山の上に建つジャイナ教の寺院群で、11世紀から建造が開始されたと言われる。14〜15世紀にムスリムによって破壊されたが、16世紀から再建されて現在に至る。パーリーターナーの町も、このシャトルンジャイ寺院の門前町として発展した。

 インドの宗教施設にはいろいろとタブーやマナーがあるが、ジャイナ教寺院はその中でも厳格である。特に気を付けなければならないのは、身体から一切の革製品を取り外さなければならないことだ。不殺生主義を貫くジャイナ教は、肉食はおろか、革製品すら認めていない。自分の持ち物を調べてみたら、ベルト、財布、カメラのケース、手帳が革製品だった。予めそれらを取り外しておいた。

 朝7時頃にホテルを出て、シャトルンジャイ寺院の登山口へ向かう。昨日も下調べのために登山口まで行ってみたのだが、歩いて行ったらやたら遠かった。宿泊中のホテル・スメールーはパーリーターナーの町の入り口にあり、登山口は一番奥にある。2.5kmほどはあるので、歩くと30分くらいかかる。山登りする前に疲れ果ててしまう可能性があったので、バススタンド付近でオート・リクシャーで登山口まで行った。




シャトルンジャイ寺院登山口


 驚いたことに、登山口は相当な混雑ぶりだった。グジャラート各地から来たと思われる巡礼者たちの他に、ダウリーと呼ばれる輿を生業としている人や、警備の人や、土産物を売る人などが渾然一体となっていた。それらの人ごみの中をすり抜けてシャトルンジャイ寺院の入り口の門まで行く。この門をくぐる前に、手前にあるオフィスでカメラ・チケットを買っておく。40ルピーである。

 門をくぐるとすぐに寺院があり、巡礼客たちが登山前のプージャーらしきものをしていた。僕は別にプージャーには参加せず、石段を登っていった。体調は万全、気候も涼しくて快適。1段飛ばししながら、かなりのハイペースで上を目指していった。しかし、日頃運動不足なのですぐにばてて、ペースを落として休み休み登って行った。

 何となく昔登った中国の泰山のことを思い出した。2人担ぎや4人担ぎのダウリーに乗った人々がたくさん通って行ったが、泰山にも同じような登山者向けの輿担ぎの商売があった。だが、ここのダウリーは泰山の輿担ぎに比べたら軟弱だ。あまりに休憩が多すぎる。毎日毎日上り下りしているんだから、もっと心臓が鍛えられてなければならないだろう。肉を食べていないことが、スタミナを低めているのか。パーリーターナーはジャイナ教の聖地のお膝元にあるだけあって、完全なる菜食主義の町である。また、シャトルンジャイ寺院へ行く途中には、全く食べ物飲み物を売る店がない。水なら飲むことができるが、食べ物は手に入らないのだ。飲食物の持ち込みも厳禁である。よって、登山者たちは自動的に断食しながら登山をしなければならない。寺院内にも食べ物などはない。唯一、ダヒー(ヨーグルト)が手に入るくらいである。この禁欲的な登山も、泰山とは違うところだ。

 登山客は、家族連れ、仲良しグループ、児童生徒の団体などなど、いろいろだったが、心なしか若い女性のグループが多いような気がした。また、白装束に身を包んで、ものすごいスピードで駆け下ってくる尼さんらしき女性を多く見かけた。シャトルンジャイ寺院群の中には子宝祈願のための寺院があると聞くので、それが目的なのかもしれない。一人で登っている人もけっこういた。また、ジャイナ教徒だけでなく、ヒンドゥー教徒もこの寺院を訪れるようだ。

 よく見てみると、インド人たちは余裕で革のベルトをしていたり、水の入ったペットボトルを持参していたりした。裸足で登っている人もいれば、靴を履いて登っている人もいた。確かに誰にも何も言われなかったので、カメラ・チケットがなくても写真撮影ができたし、革製品を持って寺院に入ることも可能だったかもしれない。

 1時間ほど登ると、シャトルンジャイ寺院の威容が前方に見えてくる。この種の登山では毎度のことだが、やはりけっこう感動的な風景である。それは寺院というよりも要塞と言った方が近い。朝日に照らされて、まるで天空の城ラピュタのごとく煌々ときらめていていた。シャトルンジャイ寺院が見えてからもう少し頑張れば、寺院の入り口の門まで辿り着く。




シャトルンジャイ寺院の威容


 シャトルンジャイ寺院は、1000年に渡っていろいろな人々の寄進によって造られてきた寺院の集合体である。いったいいくつの寺院があるのか分からないくらい無数の寺院がひしめいている(920の堂塔があるらしい)。ひとつひとつの寺院を参拝していたら、とてもじゃないが1日じゃ足りないだろう。とりあえず人の流れに沿って進んでいったら、シャトルンジャイ寺院の中でも中心的な寺院と思われるアーディーシュワル寺院に辿り着いた。まるで東京ディズニーランドのアトラクションのごとく、多くの参拝客でごった返しており、お経を読んだり、米や花を捧げたり、手を合わせて祈っていたりと、各自、己の信仰に没頭していた。警備員みたいな人々も所々に立っていたが、僕は基本的に放っておかれたので、信心深い人々を尻目にあちこち歩いて回った。確かにシャトルンジャイ寺院の寺院群は、見るものを圧倒する美しさを誇っている。しかし、あまりに多くの寺院が密集しすぎており、焦点をどこに持って行っていいのか分からなくなる。しかもここは遺跡ではなく、生きた信仰の場所である。僕は建築を楽しみにして山頂にあるシャトルンジャイ寺院までやって来たのだが、僕を圧倒したのは、必死に祈りを捧げる群集の熱気と一体感であった。そしてこういう場所に来ると決まって、余所者で信心深くない僕は居心地が悪くなるのだった。一応仏教徒ということで、ジャイナ教寺院を参拝しても悪くはないと思うのだが、長居する気分ではなかった。スケッチするのにいい景色があったらしようと思っていたのだが、あまりに壮大過ぎて全貌を見渡すのにちょうどいい場所がなかったことと、居心地が悪かったことから、写真だけ撮って山を降りることにした。





込み合う境内



列を成して座る女性参拝客たち



アーディーシュヴァル寺院


シャトルンジャイ寺院全景


 帰りはずっと下りなので早く、1時間足らずで麓の門のところまで辿り着くことができた。久々にハードな運動をしたので、疲れてしまった。

 今日はパーリーターナーのマーケットを散策しようとも思っていたのだが、あいにくここの市場は日曜休みのようで、ほとんどの店は閉まっていた。寺院参拝の後はホテルでゆっくりと身体を休めた。今回の旅行では、もうひとつ山を登る予定である。

12月22日(月) インドの中のポルトガル、ディーウ

 今日はカーティヤーワール半島最南端にあるディーウへ向かう。ディーウは1535年から1961年までの間ポルトガル領だった島である。喜望峰周りのインドへの航路を、「ヨーロッパの国々の中で」いち早く発見したポルトガルは、ディーウ、ダマン、ゴアを植民地にして、貿易の拠点にしていた。インド独立後もそれらの植民地はポルトガル領のままだったが、1961年にインドが武力でポルトガルを追い出すことに成功。現在ゴアは州として独立し、ディーウとダマンはディーウ&ダマンという名で連邦直轄地となっている。

 パーリーターナーからディーウまでの直行バスはないので、3本のバスを乗り継いで行かなければならなかった。まずは朝6時発タラージャー行きバスに乗る(14ルピー)。パーリーターナーから南東の方角へ。道は舗装が壊れかけており、バスがとてつもなく揺れる。1時間ほどでタラージャーに到着。今度はバススタンドでウナー行きのバスに乗り換える。ちょうとバススタンドに到着したときにウナー行きのバスが発車するところだったので、スムーズに乗り換えができた。タラージャーからウナーまでは55ルピー。途中に寄るラーフジャーからウナーまでの間の道が、これ以上にないくらい最悪で、しっかり座ってないと吹っ飛ぶくらいバスは揺れる。タラージャーから3時間半ほどでウナーに到着した。

 ウナーのバススタンドからディーウ行きのバスが出ているのだが、なかなかバスが来なくて、バススタンドで30分ほど待ってやっと来た。ディーウ行きのバスの運転手がかなり運転の荒い男で、危険なほどスピードを出してカーブを曲がるため、乗客は遠心力で外に放り出されそうになっていた。しかし、文句を言う人はおらず、みんなキャーキャー言って楽しんでいたから呑気なものだ。ウナーからディーウまでのバスは7ルピーだった。

 次第に辺りの風景がトロピカルになって来た。気温も上がってきたように感じる。やがてバスはディーウへの入り口の門をくぐる。すると、街の雰囲気が、笑っちゃうくらいパッと変わってしまった。ディーウに入った瞬間、道路が急に広くなり、しかもきれいに舗装され、街灯が整備され、家並みがカラフルで小ぎれいになる。そして遠くに見えてくるのは・・・海!もう何ヶ月海を見ていなかったことか!内陸部に位置するデリーに住んでいると、時々無性に海が恋しくなるものだ。街には海の匂い、潮風の匂い、魚の匂いが溢れている。人々も心なしか陽気だ。人々の笑顔がまぶしい。女の子が「は〜ぁい」とはにかんでいる。そして街にはあからさまに酒屋やバーが並んでいる。酒なし肉なし、乾燥した気候のグジャラート州から、酒あり肉あり、海のあるディーウへ。禁欲と苦行の州を通り抜けて辿り着いたのは、まだ多くの観光客に荒らされていない無垢な楽園であった。

 本島から橋を渡ってディーウ島へ。正午きっかりにディーウのバス停ジェーティーバーイー・バススタンドに到着。そこから歩いて宿を探す。とりあえず海沿いの道フォート・ロードを歩いてみた。女の人がサーリーやパンジャービー・ドレスを着ていたり、道に牛が寝そべっていたり、犬や豚がうろついていたりと、基本的な部分はやっぱりインドだが、他のインドの町とは違う南の島風の空気がゆったりと流れている。フィジーにどこか似ているかもしれない。そのまま歩いていると、いくつか海に面したホテルが並んでいた。高いかな、と思ったが、駄目元で値段を聞いてみることにした。とりあえず、アプナー・ホテルで海に面した部屋を見せてもらった。対岸のビーチを臨むバルコニーがあったりして、いい部屋だった。ダブルで850ルピーとのこと。シングルだから少し安くしてくれないか、と思ったら、なんと300ルピーにしてくれるという。オフ・シーズンでもないのに破格の値段だ。即決でこのホテルに決めた。格安の理由を聞いてみたら、マネージャーは、「君がサルマーン・カーンに似ているからだよ」と答えた。もちろん冗談だろうが・・・。今回のグジャラート旅行中、なぜか「サルマーン・カーン」と呼ばれることが多い。どうも「Tere Naam」というサルマーン・カーン主演の映画が地方ではヒットしているようで、その映画中のサルマーンの髪型が現在の僕の髪型に似ているようだ(本当は似ていないのだが)。昔はブルース・リーとごっちゃになった「ジャッキー・チェン」と呼ばれることが多かった。多分髪型に大きく左右されているのだろうが、ジャッキー・チェンからサルマーン・カーンになったということは、僕のカーストは上がったことになるのだろうか、それとも下がったのか・・・。

 朝からほとんど何も食べていなかったので、とりあえずアプナー・ホテルのレストランで昼食をとる。もちろんフィッシュ・カレー!新鮮な魚介類の獲れる場所で、海の幸を楽しまない手はない。出てきたフィッシュ・カレーは、絶品とまではいかなかったものの、許せる味だった。アッサム州で食べたフィッシュ・カレーの方がおいしかったな・・・。

 ディーウは東西に細長い島になっており、東の端にあるディーウ・タウンが中心地となっている。僕の泊まったアプナー・ホテルもディーウ・タウンにある。また、本島部にもわずかだが、ディーウの領土がある。香港みたいな感じだ。今日はディーウ・タウンを散策することにし、まずは最東端にあるディーウ・フォートへ行った。

 ディーウ・フォートは、ディーウがポルトガルに割譲された1535年に建造され、1546年にジョアン・デ・カストロ総督によって再建された要塞で、所々崩れかけ、潮風の浸食を受けてはいるものの、よく保存されている。北側と西側には教会跡らしき十字架が高くそびえ立っており、そこまで上って景色を見渡すことができる。また、砦の中央部には巨大な灯台が建っている。大砲や機関銃があちこちに残っており、すっかり錆ついてしまった今でも四方に睨みを利かせている。けっこうあちこち歩き回ることができるので、この要塞の散策は面白かった。思わぬところにポルトガル人が残した彫刻や文字などを発見することができる。ちょうどフォート内で何かのTVCMの撮影が行われていた。聞くところによると、アジャイ・デーヴガン主演の「Qayamat」のいくつかのシーンも、このディーウ・フォートで撮影されたそうだ。





ディーウ・フォート



フォートからアラビア海を臨む


まだ使えそうな大砲が
あちこちに残っている


 ディーウ島には現在7つの教会が残っているという。その内、ディーウ・タウン内には3つの教会がある。ひとつは聖ポール教会、ひとつは聖トーマス教会、もうひとつはアッスィスィー派聖フランシス教会である。現在教会として機能しているのは聖ポール教会だけで、聖トーマス教会は博物館に、聖フランシス教会は病院になっている。ディーウ・フォートの上からディーウ・タウンを眺めると、教会の建物だけがポツポツと突出しているのが見えた。とりあえずこれらの教会を巡ったりして、散歩して過ごした。





聖ポール教会


ディーウ・タウンの街並み


 ディーウの言語はグジャラーティー語が第一言語で、ほとんどの人がヒンディー語も理解し、しゃべることができる。また、年配の人になるとポルトガル語も話すが、若い世代は全く理解しないようだ。外国人観光客が多く訪れるためか、英語を流暢に話す人はグジャラート州よりも多そうだ。

 ディーウからダマンまで船が出ていないか情報を集めてみたが、現在は出ていないらしい。以前までディーウ〜ダマン間には船便があったようだが、事故があって以来運航停止となっているそうだ。バーヴナガルからムンバイーへ行く船はあるらしい。

 夕食はホテルのレストランで、ロースト・グリル・フィッシュ(125ルピー)を食べてみた。皿に一匹の魚が、フレンチ・フライやフライド・ライスと共に盛られ、なかなかおいしかった。

12月23日(火) ディーウ探検

 ディーウ島内の移動の足は、オート・リクシャー、テンポ、バスなどがあるが、旅行者のためのレンタル・サイクルやレンタル・バイクがたくさんあり、これを利用するのが一番よい。モペッドと呼ばれる、自転車と原チャリの合いの子みたいな乗り物が最もポピュラーだが、僕は街にあるレンタル・バイク屋でカワサキ・バジャージのバイクを1日200ルピーでレンタルして、島を探検することにした。ハンドルが曲がっているし、メーターやバック・ミラーも付いていないようなオンボロ・バイクだったが、少し乗っていたら慣れた。

 まずはディーウ・タウンを取り囲む外壁のそばにあるナーイダー洞窟へ行った。洞窟と言っても人工的に掘削されたもので、ポルトガル人が砦などを作る石材を掘り出すときに出来た空洞である。特に何かがあるわけではないが、まあ暇つぶしにはなる。

 ナーイダー洞窟を見た後は、ディーウ島を時計回りにグルリと回った。海沿いの道を潮風に吹かれながらバイクで飛ばすのはこの上なく気持ちがよかった。デリーでは決してできなかったことである。比較的きれいに舗装された道で、ほとんど車通りがないので、走行は非常に快適である。そのままディーウの南端に沿って走る道を西に向かって、ディーウでもっとも有名なビーチ、ナーゴワー・ビーチへ行ってみた。ゴアのビーチに比べたら閑散としていたが、その寂れ具合が逆に心地よかった。ナーゴワー・ビーチで昼食を食べた。




ナーゴワー・ビーチ


 ナーゴワー・ビーチからさらに西進し、ディーウ島の西端までやって来た。そこは港のようになっており、多くの漁船が停泊していた他、造船所などもあった。漁師たちから歓迎を受け、いろいろ話をした。ディーウといえばインドの西の端。パーキスターンはすぐそこである。「パーキスターンの船が来たりしないの?」と冗談めかして聞いてみたら、「船は来ないが、パーキスターンに拿捕された船はある」と言われた。そういえば新聞で、パーキスターンに捕虜にされた漁師たちの記事を読んだことがある。まさにそれが彼らだった。パーキスターンに拿捕されて拘束され、最近の印パの関係改善によって1ヶ月前にパーキスターンから解放された漁師や船があると聞いていたが、それが正にそこにいて、そこにあった。何となく感動した。

 さらにバイクで島の北西部へ行く。そこは漁師の住宅街のようになっており、非常に貧しい感じがした。魚の日干しを作っていた。バイクでこの辺りを迷い迷い走っていると、多くの子供たちが出てきて、笑いながら「ボールペンちょうだ〜い!」と口々に叫ぶ。ボールペン村とでも名付けたくなるくらいだった。

 そこからジャングルの中の道を東に向かい、ディーウ・タウンに戻ってきた。・・・ディーウ島も一周してしまった・・・もうやることがない・・・。ディーウはいいところだが、ビーチでのんびるする他はあまりやることがない場所である。そこで暇つぶしにもう1周ディーウを回ることにした。しかしただ1周するだけではつまらないので、時間を計ってみることにした。ディーウ・タウン南西にある門からスタートして、バイクで島を1周してみた。結果、37分40秒で島を一周できた。だからどうしたと言われると何も言えないが、それくらいの大きさの島だということだ。おそらく1周30kmほどだと思われる。暇に任せてディーウ島の道という道をバイクで走り回った1日だった。

 ディーウはゴアに比べたら観光客が圧倒的に少なく、「秘密の楽園」といった感じだ。クリスマスやニューイヤー時のゴアなどは、外国人やインド人の観光客で相当混んでいると思われるが、ディーウはいたって平穏である。きれいなビーチもいくつかある。ナーゴワー・ビーチが最もビーチらしいビーチだが、そこからさらに西にあるゴーンプティーマーター・ビーチは本当に静かで美しい無人ビーチだ。みんなでワイワイ楽しむビーチが好きな人はゴア、静かに楽しみたい人はディーウ、という感じだ。

12月24日(水) 神話時代からの聖地ソームナート

 早朝6時にディーウのジェーティーバーイー・バススタンドを発車するソームナート行きのバスに乗り、秘密の楽園ディーウを後にした。橋を渡って本島に戻り、そこから北西の方角へ向かった。ディーウを出た途端、突然道がひどくなり、バスは揺れに揺れる。アハマダーバード周辺の道路はきれいだったが、それ以外の場所はまだまだ獣道に毛が生えた程度のものだ。グジャラート政府は道路の舗装をもっと隅々まで行き渡らせるべきだ。2時間でソームナートに到着した。

 ソームナートはカーティヤーワール半島の南西部の端にあるヒンドゥー教の重要な聖地のひとつで、かつてはプラバスと呼ばれていた。インダス文明が栄えた5000年前から町が形成されていたらしい。ソームナートには、ソームナート寺院を初めとする多くの寺院が建っている。ソームナート寺院は伝説によると、月神ソームが金で作り、その後「ラーマーヤナ」に登場するラーヴァナが銀で作り、クリシュナが木で作り、ソーランキー朝の王ビームデーヴが石で作ったという。しかし、ラージャー・ソームという名の人間の王が金のドームのある寺院を建て、クリシャン・ラージという名のこれまた人間の王が6世紀に銀のドームのある寺院を建てたことは、歴史的記述が残っており、どうもそれが拡大解釈されて神話にまでなってしまったというのが実際のところのようだ。ソームナート寺院の起源は紀元前6世紀とも紀元前3世紀とも紀元後1世紀とも言われているが、何度も破壊と再建が繰り返され、現在残っている寺院は1950年から1962年に渡って建造されたものである。

 ソームナートには宿泊しないので、荷物を持ったままソームナート寺院を訪れた。ソームナート寺院はアラビア海に面した砂浜の上に建つ壮麗な寺院だった。タミル・ナードゥ州のマーマッラプラム(マハーバリプラム)にも、海岸に建つその名も「海岸寺院」という半分廃墟の遺跡があるが、あれよりもずっと立派な寺院だった。中にはシヴァ・リンガが安置されている。やはり多くの参拝客が訪れており、寺院の下にあるビーチで遊んでいるインド人もたくさん見受けられた。警備が厳重で、境内にカメラを持ち込むことができなかった。




ソームナート寺院


 青い海、青い空をバックに堂々と朝日の光を受けてそびえ立つソームナート寺院は、非常にかっこよかった。今回の旅ではまだスケッチをしていなかったので、この寺院を描くことに決めた。そういえばもう半年以上スケッチをしていなかった。腕が鈍っていたし、朝から何も食べていなくて空腹だったこともあり、出来はあまりよくなかった。2時間半ほどで完成した。途中、寺院を警備する警察官が代わる代わるスケッチを見物に来た。その中でボスと思われる人物に、「パーキスターンにこの絵を送るなよ。奴らは宿敵だからな」と言われた。この絵をパーキスターン人に見せたところで、テロ計画を立てることができるとは思えないが・・・。ソームナート寺院の警備の厳重さは、パーキスターンのテロを恐れてのことみたいだ。

 現在のソームナート寺院が建つ前に、その場所から発掘された遺跡の残骸は、プラバス・パター博物館に収められている。だが、あいにく水曜日は休館日で開いていなかった。

 ソームナートから西に6km離れた海岸には、ヴェーラーヴァルという町がある。かつてインド亜大陸に住むムスリムたちがメッカに巡礼するときに、その出発点となった港町である。ソームナートとヴェーラーヴァルの間にはバールカー・ティールトという寺院がある。クリシュナが猟師に矢で撃たれた場所だと言われている。ソームナート寺院を見終えて、食事をした後に、ヴェーラーヴァルへ向かう途中、そのバールカー・ティールトへ寄った。

 バールカー・ティールトは小さな敷地に地味な寺院が建っているだけの場所だった。寺院の中には木があり、クリシュナが横たわっている像が安置されている。この木の下でクリシュナが休んでいたところ、通りかかった猟師が鹿と間違えてクリシュナを射てしまった。矢はクリシュナの右足の腱に刺さった。クリシュナを射てしまったことを知った猟師は彼に許しを乞う。クリシュナは、自分の全ての運命を知りながらもそこに横たわっていたのだ、と言って彼を許す。神の化身として人間の姿を持って現世に生まれたクリシュナは、その使命が終わるときを知っていたのだった。その傷が元でクリシュナは命を落とす。ギリシア神話のアキレスの最期と非常によく似た終わり方である。なぜか寺院の内部だけでなく、外部も写真撮影禁止だった。

 バールカー・ティールトからヴェーラーヴァルへ行く。ヴェーラーヴァルは特に見所のある町ではなさそうなのでそのままスキップ。ヴェーラーヴァルでバスに乗って、北にあるジュナーガルを目指した(30ルピー)。ジュナーガルが今日の最終目的地である。ヴェーラーヴァルとジュナーガルの間には、ササン・ギール動物保護区がある。ここはアジアで唯一野生のライオンが生息している場所で、動物好きな人にはけっこう有名である。しかし僕はサファリには全く興味がないので、そのまま素通りした。ヴェーラーヴァルから2時間ほどでジュナーガルに到着した。

 ジュナーガルは埃っぽくでゴミゴミした町だったが、アショーカ王の碑文が残っているほど歴史のある町で、一説によると紀元前250年には既に町が成立していたと言われる。だが一見したところ、イスラーム教色の強い町で、あちこちに門やモスクが残っている。イスラーム教徒も多い。何となくウッタル・プラデーシュ州の州都ラクナウーを小さく汚なくしたような町に思えた。僕はこういう、遺跡と生きた町が一体となっているところがけっこう好きだ。デリーもそういう町のひとつである。




ジュナーガルの街角風景


 ジュナーガルではグジャラート州観光局経営のギルナール・ホテルに宿泊した。シングル200ルピー。あまり設備はよくなくて、小さなギザルしか部屋に付いておらず(しかも動かなかった)、サービスもあまりよくない。しかし郊外にあって静かだし、他にいいホテルがあるとは思えなかったので、ここに泊まることにしたのだった。

12月25日(木) 1万段の階段ギルナール山

 ジュナーガルの東側には、ギルナール山という、山頂にジャイナ教とヒンドゥー教の寺院を抱く山がある。麓から山頂まで1万段もの階段があり、それは21日に登ったパーリーターナーのシャトルンジャイ寺院の3倍以上の多さである。今日は早朝からこのギルナール山を登った。

 朝6時前にホテルを出て、オート・リクシャーでギルナール山の入り口まで向かった。まだ日の出前で、辺りは真っ暗である。シャトルンジャイ寺院の教訓を活かし、誰も登山客がいない早朝から登ろうと計画して朝早くから出てきたのであるが、登山口に行ってみるとやっぱり大混雑・・・。クリスマスなのにこいつら何考えてるんだ・・・と自分のことを棚に上げて文句を言いたくなった。もっとも、現在のインド人にとって12月25日はクリスマスを祝うというよりも、ヴァージペーイー首相の誕生日を祝うという性格が強い日である。また、祝日になっているので、今日は特別登山客が多かったのかもしれない。登山口近くには食堂や売店などが密集しており、ここで朝食を食べることができる。ガティヤーというスナックみたいな食べ物とチャーイを食べて、空腹を軽く満たした。

 6時15分頃に登山口の門をくぐり、登山を開始する。多くの群集が詰め掛けており、列に従ってノロノロと階段を登った。まだ真っ暗な上に明かりがあまりないので、足元に気をつけていないと転んでしまいそうだ。日の出前から山に登ろうと思ったら、懐中電灯を持って来るのは当然のことだった。誰かが持っている懐中電灯の明かりを頼りに登っていく。シャトルンジャイ寺院は途中に売店などがなかったが、ギルナール山には道の途中に飲み物や軽食を売る店が並んでおり、その点では楽である。また、シャトルンジャイ寺院のように、革製品を身体から外す必要もない。しかしシャトルンジャイ寺院と比べて道が狭く、途中でゆっくり休める場所が限られているので、その点では大変だ。

 次第に辺りが明るくなり、階段がよく見えるようになってきた。シャトルンジャイ寺院は「巡礼」という雰囲気が強かったが、ギルナール山は「ピクニック」という雰囲気が強い。若者の仲良しグループがお互いに冗談を言い合いながら登っている感じだ。外国人は僕一人だったので、非常に注目を集めた。

 群集の中でゆっくりと登って行ったので、途中休憩する必要もなく、そのままノンストップで3分の2の地点まで到着した。登山開始から1時間半が経過していた。そこにはジャイナ教の寺院がいくつか建っている。どの寺院も屋根にタイルの小片でモザイク状に装飾したドームを持っており、特徴的だった。この辺りでとりあえず休憩。トマトを切って売っているので(5ルピー)、それを食べて元気を回復した。そこから山頂までさらに石段を登って行く。30分ほどでギルナール山の山頂(標高600m)に到着。山頂にはヒンドゥー教の寺院ゴーラクナート寺院がある。そこから尾根伝いに東へ行ったところにもうひとつ山頂があり、寺院が建っていたので、そこまで行ってみた。その寺院はアンバー女神寺院。新婚のカップルが幸せな結婚生活を送るために参拝に訪れる寺院らしい。そういえば新婚っぽい若いカップルが手をつないで登山している姿も多く見かけた。その寺院まで行くと、さらに東にまた山頂があり、寺院があった。ダート・タートラーヤ寺院というそうだ。そこまで行くにはかなり下まで下ってまた登らないといけない。もう疲れたので、アンバー女神寺院で引き返すことにした。





ジャイナ教寺院


アンバー女神寺院までの道


 次々に下から登山客の群集が押し寄せて来るので、下りは上りよりもさらに大変だった。やはり早朝に登山を始めて正解だったようだ。8時を過ぎるとさらに多くの人々が山を登ってきており、ジャイナ教寺院群のある辺りは騒然としていた。10時頃には登山口まで辿り着いた。

 それにしてもこの登山中、多くのインド人から通りすがりに同じことを何度も何度も言われてだんだん不愉快になってきた。僕の顔を見て、「Tere Naam」とか「サルマーン・カーン」と言って笑う人が後を絶たなかったのだ。サルマーン・カーンといったらインド随一のハンサム男優であり、彼と比して呼ばれることは光栄なことと考え、最初の内は笑顔で返していた。しかしサルマーン・カーンは飲酒運転して路上生活者をひき殺し、しかもひき逃げするという、ヒーローにあるまじき卑劣な行為をした男だ(現在裁判中)。僕は彼に対してあまりいいイメージを持っていない。しかも、異口同音に同じことを何度も何度も言われると、たとえ彼のことが好きでも腹が立ってくる。中には「Tere Naam」の「テ〜レ〜ナ〜ム ラ〜ララ〜ラ〜」という歌を歌いだす人がいたり、もっとも悪質なのは、売店の店主が僕の顔を見て急いで「Tere Naam」のカセットを大音響でかけ出したりと、だんだんエスカレートしてきて、髪型を思い切って変えようかと真剣に考えたくらいだった。別にサルマーン・カーンに全然似ていないのだが・・・。それにしても「Tere Naam」はデリーでは全然ヒットせず、酷評を受けており、僕も見ていないのだが、グジャラート州では相当ヒットしているようだ。同じ映画が地域によってここまで違う反応を受けるというのは面白い現象だ。

 ギルナール山からジュナーガルの町の間には、アショーカ王の勅令が刻まれた石が残っている。入場料が必要で、インド人5ルピー、外国人100ルピーである。僕は簡単にインド人料金で入場することができたが、中にあったのは5ルピー払うのも惜しいほど、しょうもないものだった。デーヴナーグリー文字の前身ブラーフミー文字で刻まれており、古いものはアショーカ王が刻ませたもので、紀元前250年の碑文、その後紀元後150年、450年にもそのときの王によって碑文が追加されている。碑文の対訳などが紹介されたパネルが展示されており、その手の事物に興味のある人なら100ルピー払っても惜しくはないのだろうが、普通の観光客がこれを見ても何の感慨も沸かないだろう。




アショーカ王の勅令


 ジュナーガルにはウーパルコートという城砦の跡が残っている。ここの入場料は1ルピー。入り口にはハヌマーンやガネーシャなどの寺院があり、それを抜けていくと公園、貯水場、モスク、階段井戸などがある。ここの目玉は仏教の石窟寺院で、入場料インド人5ルピー、外国人100ルピーだが、ここも金を払って見るほど価値のあるものとは思えなかった。僕は例によって5ルピーで入れてもらえたが、まあ5ルピーぐらいで十分か、と思った。3〜4世紀の石窟寺院で、西インドで最初期の石窟寺院として重要性があるようだ。





ウーパルコート


石窟寺院


 ジュナーガルで最も興味深い建築は、バハーウッディーン廟とマハーバト廟だろう。駅の近くに隣り合って建っているユニークな形の廟で、バハーウッディーン廟は4本のミーナール(塔)に螺旋階段が巻きついており、小さいながらも観光客の目を引きつける魅力を持っており、マハーバト廟も多少くすんで見えるが壮麗な形をしている。バハーウッディーン廟は宰相シェイク・バハーウッディーンによって1891年〜1896年の間に建造され、自身が埋葬されている。ミーナールを上って上まで行くことができる。マハーバト廟はマハーバト・カーンジー2世によって1878年に建造が開始され、バハードゥル・カーンジー3世によって1892年に完成した。この廟にはその2人のナワーブの他、次の代のラスール・カーンジーが埋葬されている。中に入ることができない。どちらも西インドのインド・イスラーム建築を代表する建築物である。





バハーウッディーン廟


マハーバト廟


 ジュナーガルの観光を終え、1時頃に疲れ果ててホテルに帰ってみると、レセプションの人に「すまないがチェック・アウトしてくれ。今日は予約で埋まってるんだ」と言われた。今から休もうと思っていたのに、突然そんなこと言われても困る。「マネージャーはどこだ!」と怒ったが、このままチェック・アウトして次の目的地ジャームナガルに今日中に向かうのもよかろうと思い、怒りながらも荷物をまとめてチェック・アウトしてバススタンドへ向かった。ギルナール・ホテルは全く最悪なホテルであった。

 ジャームナガル行きのバスは1時半過ぎに出発。疲れていたのでバスの中でかなり眠った。バスは5時頃にジャームナガルに到着した。かなりハイペースで移動や観光をし続けて来ており、さすがに疲労が溜まっていた。ジャームナガルではゆっくりと休みたかったので、ジャームナガルで最高級というプレジデント・ホテルに宿泊した。といってもシングルで550ルピー。部屋は非常にきれいで、テレビ、ホット・シャワー、新聞、石鹸、シャンプー、タオルなどが付いている。ホテルに付属しているレストラン7スターは、肉料理も食べれる高級レストランだ。値段は無意味に高いが、ゆっくり休めそうだ。

12月26日(金) 無限詠唱の街ジャームナガル

 ここのところ早朝起床が多くて疲れていたので、今朝はゆっくりとホテルで過ごして休養した。10時半頃から街の探索に出掛けた。ジャームナガルは割と発展した街で、ジュナーガルなどに比べて整然とした街並みをしていた。旧市街は城壁で覆われており、城壁内部は多少道が入り組んでいるが、道幅が広く、他のインドの城塞都市のような混沌は少なかった。ジャームナガルは伝統的に真珠採取業で栄えていた街だそうだ。海に近いところに位置しているが、港町という感じではない。

 まずは街の西側のランマル湖に浮かぶラーコーター宮殿へ行ってみた。1839年にジャームナガルを支配していたマハーラージャー、ジャーム・シュリー・ランマルによって建てられたもので、飢饉の犠牲者を偲んで造られたらしい。現在では小さな博物館になっている。入場料はインド人2ルピー、外国人50ルピー。交渉したら2ルピーで入れてもらえた。展示物は神様の石像、マハーラージャーの肖像画、大砲など、特に大したことはなかった。なぜか鯨の骨格が展示してある。砂浜に打ち上げられた鯨を拾って来たのだろうか?




ラーコーター宮殿


 ランマル湖の近くには、おそらくジャームナガル観光のハイライトとも言えるバーラー・ハヌマーン寺院がある。一見したところ、何の変哲もない新しい寺院である。主神は「ラーマーヤナ」の主人公ラーム。中からはラームを賛美するバジャン(賛歌)が聞こえてくる。シュリー・ラーム、ジャイ・ラーム、ジャイジャイ・ラーム、シュリー・ラーム、ジャイ・ラーム、ジャイジャイ・ラーム・・・。実はこのバジャンこそが、この寺院を有名にしているものだ。なんと1964年8月1日から現在に至るまで、約40年間に渡って、24時間365日ひと時も休むことなくバジャンが詠唱され続けているというのだ。この記録はギネスブックに登録されている。

 信じ難い話なので、半信半疑のまま寺院の中に入る。寺院は簡単な構造をしており、八角形のホールが1つあるのみだ。奥にはラームの神像が祀られている。神像に向かって左側は男性が、右側は女性が座る場所となっており、男性の場所で数人が、ハルモウニウムやダウラクを演奏しながらバジャンを詠唱していた。とりあえずバジャンを演奏している人々のそばに腰を下ろして様子を見てみる。サードゥみたいな人が詠唱しているのかとイメージしていたが、特に特別な人が演奏や詠唱をしているわけではなく、近所のおっさんといった感じの人が、普段着のままハルモニウムを演奏しながら「シュリー・ラーム、ジャイ・ラーム、ジャイジャイ・ラーム・・・」とバジャンを歌っていた。それに合わせて寺院に座っている参拝客たちも同じメロディーでバジャンを合唱する。その内、1曲が終わった。バジャンを歌っていた人が席を立った。・・・途切れてる・・・!?と思ったら、また次の人がハルモニウムとリード・ボーカルを引き継いで、また「シュリー・ラーム、ジャイ・ラーム、ジャイジャイ・ラーム・・・」と詠唱し始めた。なるほど、一人の人が40年間詠唱し続けているのではなく、代わる代わる詠唱しているというわけか。詠唱を途切れさせてはいけないと気をつけているようで、演奏引継ぎ時にも何となくモゴモゴと例のラインを口ごもっていたりした。考えてみたら、いくらインド人でも、40年間ぶっ続けで歌を歌い続けられる人がいるはずがない。しかしどう見てもバジャンを歌ったり演奏したりしている人々は、近所の普通のおっさんである。町内会で分担し合って歌い続けているという感じだ。そして歌い終わると「やれやれ」と満足した表情で去っていく。その内また新しいおっさんがやって来て参拝をして演奏や合唱に加わり、その内リード・ボーカルをやって席を立っていく。これはこれですごいことだと思った。12時になるとプラサード(供え物のお下がり)がもらえて、僕もバナナやパパイヤを拝領した。ずっと寺院の中に座ってバジャンを聞き続けていたくなるくらい心地よい空間だった。寺院を出るときには頭の中をあのメロディーがグルグルとリフレインし続けていた。シュリー・ラーム、ジャイ・ラーム、ジャイジャイ・ラーム・・・




バーラー・ハヌマーン寺院の
ギネスブック詠唱


 その後はジャームナガルの城砦内を適当に散策した。中心部にはいくつかのジャイナ教寺院と、ダルバール・ガルと呼ばれる王宮の跡のような半円状の建物がある。ダルバール・ガルは現在では街の一部と化しており、半円の中心にはマハーラージャーの像が立っている。また、ダルバール・ガルの近くにはこれまたダルバール・ガルと呼ばれる宮殿のような建物があった。門番に聞いてみたら、これこそが真のダルバール・ガルだと言っていた。中に入るにはマハーラージャーの許可が必要らしい。ただ、中は廃墟になっていて何も見るものはない、と言われた。




ダルバール・ガル


 今日はジャームナガルを観光した他はのんびりと過ごした。

12月27日(土) クリシュナの王都ドワールカー

 今日はジャームナガルから西に131kmの地点にある、ヒンドゥー教4大聖地のひとつドワールカーまで日帰り巡礼した。朝6時にドワールカー行きの公共バスが出ているので、それに乗るために朝早くバススタンドへ行った。ドワールカー行きのバスを待っていると、車掌が「お〜い、ドワールカー行きの乗客〜!」と呼んでいたので、呼ばれるまでについていってみると、「バスのエンジンがかからないから、みんなで押してくれ」と言われた。インドのバスは皆オンボロなので、押しがけしないと動かないバスなど珍しくない。だが、いざそういうバスに乗らなければならなくなると、途中で止まらないか不安になる。乗客みんなでバスを後ろから押してエンジンをかけたところへ、また別の人が「ドワールカー行きの人〜!」とやって来た。彼はドワールカー行きプライベート・バスの乗客を集めていた。そっちの方が早く着きそうだったので、私営のバスを利用することにした。6時15分発、60ルピーだった。

 ジャームナガルからドワールカーまでの道もやはり最悪で、バスが揺れずに走る瞬間がないほどだ。この辺りはカーティヤーワール半島の北端に当たるのだが、別に海沿いの道を走っているわけでもなく、だだっ広い平原が広がっているだけの景色の中の道である。ドワールカーには3時間で到着した。日帰りなので、早く到着してくれて助かった。

 ドワールカーに入ると、急に町の看板にヒンディー語のデーヴナーグリー文字が増えたのに気付いた。今まで巡ってきたグジャラート州の町の看板は、ほとんどがグジャラーティー文字か英語のアルファベットだったので、何となく新鮮に思えた。やはりヒンドゥー教4大聖地ともなると、インド全土から巡礼者がやって来るので、自然と文字も公用性の高いものが利用されていると言える。ただ、4大聖地のひとつとは言えど、ドワールカーは海に面した場所にある小さな門前町であった。ドワールカーの人々は、ヴァーラーナスィーなどとは比べ物にならないくらい誠実で親切だった。ホテルは安宿から高級ホテルまでたくさんあったので、宿泊には困らないと思われる。

 ドワールカーにはヒンドゥー教の聖地らしく多くの寺院があるが、その中でもメインなのはドワールカーナート寺院である。5階建てで鋭い形をした寺院だが、寺院の敷地面積はそれほど広くはなかった。やはり多くの巡礼客が詰め掛けていた。外国人も中に入ることができるが、入り口でカメラや携帯電話などを預け、靴を脱ぐ他、宣誓書にサインをしなければならない。その宣誓書には「私はヒンドゥー教に改宗します」「私は生まれながらのヒンドゥー教徒です」「私はクリシュナの信徒です」「私はヒンドゥー教の慣習に尊敬を払います」などの選択項目があり、この中からひとつを選ばなければならない。なかなかユニークなシステムだと思った。




ドワールカーナート寺院


 ドワールカーナート寺院の主神はクリシュナ。ご神体は左手を上げたゴーヴァルダナダラ・スタイル(ゴーヴァルダン山を持ち上げるスタイル)だった。「マハーバーラタ」などの神話によると、マトゥラーのヤーダヴ族の子として育てられたクリシュナは、宿敵カンサ王を殺したが、今度はマトゥラーは暴君ジャラーサンダーの侵略を受けるようになり、それから逃れるためにヤーダヴ族を引き連れてドワールカーまでやって来て、天然の要害に新しい都市を造ったという。よってドワールカーはクリシュナ関係の聖地という性格が強い。ただ、その神話には続きがあり、ドワールカーはヤーダヴ族の堕落と仲間割れによる全滅、バララーム(クリシュナの兄)とクリシュナの死によって海に沈んでしまったという。だから現在カーティヤーワール半島の先端にあるドワールカーは、神話で語られている真のドワールカーではないということになると思うのだが、ヒンドゥー教徒はそんなことお構いなしにありがたがって巡礼しに来ている(ドワールカーは沈んだが、寺院だけは残ったとも言われるが、後付けの説明だろう)。ちなみに、去年くらいにグジャラート州のスーラト沖の海底に遺跡が見つかり、海に沈んだドワールカーではないかと言われていたが、果たして発掘は進んでいるのだろうか?ヤーダヴ族がマトゥラー辺りからグジャラート州へ移住したのも歴史的事実らしいから、ドワールカーの遺跡が海底から見つかってもおかしくはない。




ドワールカーの町


 ドワールカーナート寺院の裏側は小さなガートになっているが、沐浴している人は少ない。このガートはそのままアラビア海につながっているので、しょっぱそうだ。ガートに沿って海の方向へ歩いていくと、砂浜に出る。こちらはガートよりも繁盛していて、海水浴をしている子供たちなどがたくさんいた。海の向こう側には灯台があった。




ガート


 ドワールカーの北にはベート・ドワールカーという島があり、そこにも寺院があるようだが、新しく建てられた寺院らしく、特に興味が沸かなかったので、そこまでは行かなかった。ドワールカーナート寺院の他には、ドワールカーの町から1kmほど離れたところにあるルクミニー寺院ぐらいしか行かなかった。クリシュナとラーダーの寺院はよく見かけるが、ルクミニーの寺院は珍しい。ルクミニーはクリシュナの正妻である。ちなみにラーダーは愛人ということになる。

 ドワールカーはヒンドゥー教の聖地にありがちのべちょべちょごちゃごちゃした雰囲気がなく、潮風に吹かれたさわやかな巡礼地という感じだった。寺院付きのブラーフマンも、布施を要求してはくるものの、断るとしつこく求めて来ず、素直で好感が持てた。ドワールカーに1泊くらいしてもよかったかな、と思った。ドワールカーナート寺院の門前にひしめく売店町で買い物をしたりして時間を潰した。

 ドワールカーからジャームナガルまでの帰路は、公共バスを利用した(46ルピー)。これが相当な失敗だった。1時45分にドワールカーのバススタンドを発車したのだが、鈍行バスで、途中の小さな町にいちいち停車しながら進んでいった。しかもエンジンから煙が吹き出ており、アイドリングするとその排気ガスが客席の方向へモウモウと入り込んでくる。結局ジャームナガルに到着したのは6時15分頃だった。行きは3時間で到着したのに、帰りは4時間半もかかってしまった。私営バスをもっとうまく利用すれば、時間の短縮になる。もっとも、ジャームナガル〜ドワールカー間は道が悪いので、列車を使うのが最も賢い手段のようだ。

 ついでに私営バスのカウンターで、次の目的地ブジへの便を聞いてみたら、今夜の11時半に夜行バスがあるとのこと。明日の朝6時半発の公共バスに乗って行こうと思っていたが、ジャームナガルからブジまでは270kmあり、この調子では公共バスで行ったら相当無駄な時間が浪費されることが予想されたので、私営の夜行バスで行くことを決める。ジャームナガルからブジまで110ルピーだった。

 僕は基本的にバスだろうが列車だろうが、何の乗り物の中でもけっこう眠れるので、夜行も苦にならない。ましてやリクライニング・シートのバスだったので、快適な方である。しかし今回誤算だったのは、バスの中が非常に寒かったこと。今まで冬に夜行バスを使ったことがなかったので、これほど寒いとは予想していなかった。軽装備で来ているので、毛布など用意しておらず、バスの中では凍え死ぬかと思った。

12月28日(日) 未だ復興途上、震災の町ブジ

 朝6時頃、ブジに到着。身体が寒さで震えており、また初めての町に暗闇の中降り立ったので、地理が全く掴めない。とりあえずチャーイ屋でチャーイを飲んで身体を温める。ブジのメイン・ロードにいることが分かり、大体方角も掴めたので、ホテルを探しに歩き出す。いくつかのホテルを巡り、ガンガーラーム・ゲストハウスに宿泊することに決めた。シングル300ルピー。部屋にバス・トイレ付きでテレビがある他は特に何もないが、きれいなホテルだったし、従業員が真摯だったのが気に入った。日本人旅行者もよく泊まっているようで、日本語の本がいくつか置いてあった。

 ホテルで朝食を食べた後、早速ブジの町を歩いてみる。ブジは2001年1月に発生したグジャラート地震の直撃を被った町である。地震によってブジの人口の1割にあたる15万人が死亡し、3万4千軒の家屋が倒壊し、貴重な文化遺産の多くが失われた。あれからもうすぐ3年が経とうとしている。いったいどれくらい復興したかと思っていたが、町はまだ震災から立ち直ったとは言いがたい状態だった。震災後に建てられたと思われる新しい建物もちらほらあったが、多くはひびが入っていたり、半ば崩れかけていたり、瓦礫の山のまま放置されていたり、と3年の間にそれほど急速な復興が行われていないことが容易に伺われた。もっとも、インドのどの町も半分瓦礫の山みたいなもんだが・・・。現在ブジでは新たな都市プランに従って町の整備が徐々に進んでいるようで、あちこちでインフラ工事が行われていた。あと5年もすれば、住みやすい町になっているかもしれない。




ブジの町中
崩れかかった住宅街の中に
広い道路が整備されている


 ブジの観光名所といったら、プラーグ・マハルである。ブジのマハーラージャーの宮殿だった建物で、2001年公開の大ヒット映画「Lagaan」のロケ地にもなった場所である。宿泊しているホテルから歩いてすぐそこだった。この宮殿は震災でそれほど被害を受けなかったようだ。高い時計塔を中心に、落ち着いた色彩のレンガや装飾で飾られている宮殿だ。中に入ることができて、入場料は10ルピー、カメラ代が30ルピー。あまり手入れがされていないようで、まるで幽霊屋敷のようになっていたが、ダルバール・ホールの豪華さは見ものだ。多分「Lagaan」でもこのホールは登場したような気がする。また、階段部分も映画中見覚えがあり、キャプテン・ラッセルが総督に呼ばれたときに通っていたと思う。





プラーグ・マハル



ダルバール・ホール


入り口から2階への階段


 「Lagaan」は2001年最大のヒットを飛ばし、アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた上に、ブジに観光の楽しみをひとつ追加した、偉大な映画だと改めて感じた。

 プラーグ・マハルの奥にはアーイナー・マハルがある。こちらは博物館になっており、マハーラーオ・シュリー・ラクパト1世(在位1752-1761)の使っていた道具などが展示されている。カッチは優れた伝統工芸品で有名だが、それに大きな影響を与えた人物がラーム・スィン・マラムだった。ラーム・スィンはドワールカー近くのオーカーで生まれたとされ、幼い頃から船乗りを生業としていた。あるときアフリカへの航海途中で遭難し、オランダの船に助けられてそのままオランダへ行って、そこでタイル工芸、ガラス工芸、エナメル工芸、時計製造、建築、彫刻、銃器製造などを学んでカッチに戻って、マハーラーオ・ラクパト1世に仕えたという。アーイナー・マハルはラーム・スィンが設計建築し、彼がヨーロッパで身に付けた最先端の技術がいかんなく発揮されている。特に中央部のヒーラー・マハルという小部屋は鏡と貴重な工芸品で飾られていて美しい。玉座が展示してあった部屋は、地震によって屋根が落ちてしまい、今でも復旧されていない。アーイナー・マハルの入場料は10ルピー、カメラ代30ルピー。




プラーグ・マハル(奥)と
アーイナー・マハル(右手前)
ガンガーラム屋上から撮影


 アーイナー・マハルを管理しているP.J.ジェーティー氏は、ブジとカッチ観光のエキスパートである。ガイドブック「ロンリー・プラネット」にも「ブジとカッチ観光は彼に任せろ」と書いてあるくらいで、彼に頼めば何でもアレンジしてくれる。彼はブジに関するいくつかのパンフレットも書いている。商売のためにやっているというよりは、本当にカッチを愛しており、多くの人にカッチのことを知ってもらいたいと思ってやっている感じで、素晴らしい人だと思った。彼に頼んで明日、明後日のツアーをアレンジしてもらった。

 ブジの西部にあるサラド・バーグ宮殿も震災で被害を被っており、3階から上がなくなっていた。その横にある建物が博物館になっており、マハーラージャーのコレクションが展示されている。狩猟が好きな人だったようで、虎や鹿などの剥製が多く飾ってあった。また、テニス愛好家でもあったようで、ウィンブルドンのカップがあった。





サラド・バーグ宮殿


展示物


 ブジの南にはチャトリーという王侯の記念碑のようなものが建っている・・・が、これらは地震でほとんど倒壊してしまっており、無残な姿になってしまっている。一応いくつかは再建されてはいたが、もはや新築といってもいいほどオリジナルな部分は残っていなかった。




壊滅状態のチャトリー


 カッチ博物館も倒壊しており、3年経った今でも再開していない。民俗博物館は開いているようだが、今日は日曜日で休館日だった。ブジの市場も日曜日休みのようで、開いている店は少なかった。

12月28日(日) Tere Naam

 ブジの繁華街にあるモダン・トーキーズで「Tere Naam」が上映されていた。僕を見て「Tere Naam」というインド人があまりにも多いので、いっちょ見てやろうかという気分になった。夜9時半からの回を見た。バルコニー席で20ルピー。モダン・トーキーズは300人くらいが入れる中規模の映画館で、床にゴミが散らばっていたりして非常に汚なかった。映像もスクリーンも質が悪い。観客は若い男ばかりで、意味もなく盛り上がっていた。

 「Tere Naam」は「君の名前」という意味。主演はサルマーン・カーンとブーミカー・チャーウラー(新人)。




変な髪形のサルマーン・カーン


Tere Naam
 舞台はアーグラー。ラーデー(サルマーン・カーン)は大学を卒業しても仕事をせずに大学近辺に友達とたむろって、大学生たちにちょっかいを出しているような男だった。喧嘩っ早くて腕っ節が強いが、正義感も人一倍強く、近所の人々から畏怖されていた。

 ある日、町の寺院のブラーフマンの娘のニルジャラーが大学に通い始めた。早速ラーデーに目を付けられて呼ばれる。ニルジャラーは信心深くて大人しい女の子で、ラーデーは彼女を非常に気に入る。ある日ラーデーはニルジャラーにプロポーズして、無理矢理「OK」ということにして去ってしまう。

 ニルジャラーにはラーメーシュワルというブラーフマンの許婚がいた。ラーデーはラーメーシュワルにニルジャラーから離れるように脅す。ニルジャラーは何度もラーデーが暴力を振るうのを見るにつけて彼から距離を置くようになり、遂に「私に関わらないで!」と彼に絶交を言い渡す。

 そのときちょうどニルジャラーの姉が帰って来ていた。彼女は結婚していたが、結婚先の家族がダウリーをさらに求めて彼女を追い出したのだった。偶然彼女と知り合ったラーデーは、彼女をニルジャラーの姉とは知らずに助け、結婚先の父親を脅して彼女を連れ戻させた。

 ニルジャラーはラーデーが本当は優しい心を持っている人だということを知り、彼に心を開く。ラーデーも喜び、意気揚々とバイクで駆け回っていたが、そのとき彼に因縁をつけたマフィアたちに囲まれてリンチを受ける。ラーデーは重傷を負い、特に脳に損傷を受けた。ラーデーは植物人間のようになってしまい、精神病院に入れられた。医者もラーデーの治療を諦めたが、ひとつだけ解決法を提示する。それはアーユルヴェーダで精神病の患者を治療するスワーミーだった。ラーデーの両親は藁にもすがる思いでラーデーをスワーミーのアーシュラムに入れる。

 アーシュラムでもラーデーはボーッとして過ごしていた。しかしスワーミーの治療とニルジャラーの祈りが功を奏し、遂にラーデーは正気を取り戻す。しかしスワーミーのアーシュラムはまるで監獄で、そこから抜け出すのは困難だった。

 その頃、ニルジャラーとラーメーシュワルの結婚式が行われていた。ラーデーはアーシュラムの警備員から逃れつつ、夜通しで走ってニルジャラーの家まで辿り着く。しかしそこで行われていたのはニルジャラーの葬式だった。ニルジャラーはラーデーを愛するあまり自殺をしてしまっていた。傷心のラーデーは再びアーシュラムに連れ戻された。

 噂通りの駄作だった。前半部分のラーデーのダーティー・ヒーローぶりは爽快だったが、彼が脳を損傷してからのストーリーは悲しすぎるし粗雑すぎる。ヒロインのブーミカー・チャーウラーもかわいくない(テルグ映画界の有名な女優のようだが、これがヒンディー語映画デビュー作になる)。だが、こんな駄目映画が地方で堂々とヒットを飛ばしているということの意味をよく考えなければならないだろう。

 デリーに住んで高級映画館ばかりでヒンディー語映画を鑑賞していると、ヒンディー語映画の重要な側面を見失う恐れがある。確かに最近のインド映画には、国際的レベルに達しているものが出てきている。そのような映画は、映画祭に出品されるような映画と同じ土俵で真面目に批評をすることが可能である。だが一方で、インド人から根強い人気を得ているのが、この「Tere Naam」のようなカリスマ的アクション・ヒーローまたはコメディー・ヒーローの一人舞台のような映画である。現在のボリウッドで言ったら、サニー・デーオール、サンジャイ・ダット、サルマーン・カーンなどの筋肉系男優や、ゴーヴィンダーのようなコメディアンが出演する映画にこのようなものが多い。ストーリーは単純明快、アクション・シーン満載でお色気シーンもあり、勧善懲悪や権力への怒りなどがテーマになっていることが多い。このような映画はデリーのような都市部ではあまりヒットしない代わりに、地方で長々とロングラン・ヒットを飛ばす傾向にある。やはりその人気を支えているのは、低所得肉体労働者たちが多いと思われる。1日の仕事を終えた労働者たちが、身体を休めながら仲間たちとワイワイ言って楽しむために打ってつけの映画だからだ。10代前後の子供たちにとっても、そういう単純な映画が一番面白く感じるだろう。そして彼らには、怒りと暴力で悪を粉砕し、正義を貫く「頼れる兄貴分」みたいな存在が待望されているように感じる。「Tere Naam」でもサルマーン・カーンの登場シーンでは拍手喝采が沸き起こり、ミュージカル・シーンではみんなで合唱していた。インドの映画館の典型的な盛り上がり方である。実はデリーではもうこのような熱気に包まれる映画館は少なくなっている。都会に住んでいると、徐々にみんな大人しくなるようで、静かに鑑賞している人が多い。高級映画館などでは口笛を鳴らしたりする人は稀で、一番うるさいのはペチャクチャしゃべってゲラゲラ笑い合っている若い女の子のグループだったりする。

 「Tere Naam」ではいくつか特定できたロケ地があった。アーグラーが舞台だったため、タージ・マハルやアーグラー城が映っていた他、デリーのプラガティ・マイダーン、プラーナー・キラーや、グルガーオンのシティ・センターがミュージカル・シーンで使われていた。また、映画中もっともヒットしていると思われる「Oodhni」は、なんとこのブジでロケが行われたようだ。しかも震災前である。震災で崩壊する前のチャトリーなどを見ることができる。今とは全然違って完全な形を保っていた。本当にきれいに倒壊してしまったんだなぁと思った。

 サルマーン・カーンは影のあるヒーローという感じで、けっこうかっこよかった。演技もなかなかよかった。誰が考えたのか知らないが、真ん中で2つに分けたセミロングの髪型が特徴的で、これが現在の僕の髪型に似ているため、多くのインド人から「Tere Naam」と言われている。そういえばギルナール山で「ラーデー」「ラーデー兄貴」とも呼ばれていて、何のことだろうと思っていたのだが、やっぱり「Tere Naam」の主人公の名前だった。

12月29日(月) カッチ南部の町マーンドヴィー

 カッチ地方には多くの特徴的な村が点在しており、それらの村を巡るのがカッチ観光の大きな目玉となっている。今日はブジより南にある村々をタクシーをチャーターして巡った。ちょうど同じホテルに同伴者が見つかったので、彼らとシェアして行くことができた。一人は日本人の女性で、日本出身、ニューヨーク育ち、現在ジャームナガルにあるアーユルヴェーダ大学に留学している人、もう一人はジャイプル出身でアメリカ国籍のスィタール奏者というディープなメンバーである。タクシー代は朝8時半から夕方5時までで1000ルピー。

 ブジから南に約34kmの地点にナヴジーヴァン自然治療センターという施設があり、まずはそこを訪れた。ここは普通の観光コースには入っていないが、アーユルヴェーダを習っている人が是非見てみたいというので行くことになった。ナヴジーヴァン自然治療センターでは、インドの伝統医学と現代の自然医学を融合したトリートメントが行われており、自然食品、ヨーガ、瞑想などによって身体が本来持っている自己治癒の力を引き出した治療が行われている。周りに何もない場所に敷地があり、非常に静かで落ち着いた雰囲気。内部はインド離れした清潔さ。ウォーター・セラピー、マグネット・セラピー、指圧、鍼、全身マッサージなどなど、いろいろなトリートメントができて、また敷地内のコテージに宿泊して長期の治療も受けることができる。値段も非常に安く、例えば全身マッサージは80ルピー、宿泊なら1日約300〜800ルピー(宿泊代、食費、トリートメント代込み)である。外国人も数人宿泊して治療を受けていた。ナヴジーヴァン自然治療センターのウェブサイトはhttp://www.navjivannaturecure.com/である。

 ちなみにジャームナガルにあるアーユルヴェーダ大学というのも、その方面の人々にとってはけっこう有名な場所らしい。アーユルヴェーダというとケーララ州が発祥の地として有名だが、いざケーララ州でアーユルヴェーダを習おうとすると、英語で体系的に教えてくれる場所は案外見つからないそうだ。一方、ジャームナガルのアーユルヴェーダ大学は外国人向けコースが用意されており、毎日7時間みっちり授業を受けることができるらしい。サンスクリト語で書かれているアーユルヴェーダの文献の暗記が一番辛いと言う。日本人の学生もけっこういるようだ。ただ、ジャームナガルには何も娯楽施設などがないので、本当に勉強だけの毎日になるという・・・。デリーに住んでいる僕としては、御免被りたい生活である。

 ナヴジーヴァン自然治療センターからさらに南へ行ったところにコーダイという小さな町がある。コーダイには巨大なジャイナ教の寺院があるが、まだ築20年ほどしか経っていない新しい寺院で、特に面白いところではない。後から思えば行かなければよかったと思うほどだった。

 それからさらに南へ向かったところにあるのが、今日の主要な目的地のひとつであるマーンドヴィーである。マーンドヴィーは海に面した町で、ごちゃごちゃしているが、なかなか歩くと面白い町である。市場を探検してみたが、センスのいい骨董品がいくつか見つかった。特に何も買わなかったが、同伴していたスィタール奏者が、ブリキ製の古い小さなヤカンやら、面白いカーブを描いたイタリア製の銀コップなどを買っていた。

 昼食もマーンドヴィーで食べた。運転手オススメのレストランがあるというので行ってみると、店名はゾルバ・ザ・ブッダ。この名前のレストランは見覚えがある!確かアーグラーにあって、「地球の歩き方」にも載っていた。OSHO(ラジニーシ)の宗教団体が経営するレストランだ。2回ほどアーグラーのゾルバ・ザ・ブッダには行ったことがあったが、まさかカッチのこんなところにチェーン店があるとは思ってもみなかった。マーンドヴィーのゾルバ・ザ・ブッダではグジャラーティー・ターリー(40ルピー)を出しており、これがなかなかおいしかった。グジャラート州に来てから何度かグジャラーティー・ターリーを食べる機会があったが、だんだんグジャラート料理が好きになってきた。辛くて甘い料理が多く、おかわり自由なので腹いっぱいになるまで食べられる。というより、給仕の人が無理矢理どんどんよそってくるので、腹いっぱいになるまで食べさせられる、と表現した方がいいかもしれない。この強引なおかわりはどうやらグジャラーティー・ターリーのひとつのスタイルのようだ。

 マーンドヴィーの市場で時間を食いすぎたために、その後の予定がだいぶ狂ってしまった。タクシーを複数の旅行者でシェアして観光すると、安く上がるのはいいのだが、それぞれの興味に合わせなければならないので、時間が足りなくなってしまうというデメリットを痛感した。おかげで今日は予定していた村の観光をほとんどスキップしなければならなくなった。どうもブジより南にある村は、北の村に比べてそれほど見るべきところがないようなので、明日に期待するしかない。

 昼食を食べた後は、マーンドヴィー郊外にあるジャイヴィラース宮殿へ行った。ここは元々カッチのマハーラージャーの夏の宮殿として建造されたが、震災によってブジの宮殿が崩壊してからは、マハーラージャーはずっとここに住んでいるそうだ。ここでも「Lagaan」のロケが行われており、エリザベスが英語の歌を歌うシーンや、舞踏会のシーンなどが撮られた。気付かなかったが、「Hum Dil De Chuke Sanam(邦題:ミモラ)」もブジでロケが行われており、このジャイヴィラース宮殿や、ブジの宮殿などで撮影が行われたそうだ。カッチはまさに大ヒットしたインド映画の舞台の宝庫である。ジャイヴィラース宮殿の形は非常にかっこよく、色彩のセンスも落ち着いていて、カッチのマハーラージャーの趣味の良さが伺われた。屋上に上ると、カッチの平原からアラビア海まで見渡すことができる。入場料15ルピー、カメラ代50ルピー。





ジャイヴィラース宮殿


左上のテラスが「Lagaan」で使用された


 もう時間がなくなってしまったので、今日はひとつだけ村を訪問することにした。南方の村だと、トゥンダやプラーグパルなどが主な観光コースのようだが、敢えて観光地化されている場所は外してもらって、地図に載っていないグンディヤリーという村へ連れて行ってもらった。グンディヤリー村はクマールと呼ばれる陶器職人の村であり、村人全員ムスリムらしい。特に家屋や人に特徴はないが、ろくろで壺を作っているところを見学させてもらった。手動でろくろを回して、泥の塊から器用に壺の形を作っていた。村人も特に観光客ずれしておらず、好感が持てた村だった。




陶器職人


 今日急いでブジに帰る必要があったのは、パーミッションを取るためだった。カッチはパーキスターンと国境を接していることもあり、カッチ各地の村に行くには警察からパーミッションを取らなければならない。ブジ近辺の村と南方の村だけはパーミッションが要らないため、今日はとりあえずそちらを訪れたのだった。警察署は10時半〜6時半まで開いており、5時頃にはブジに戻ってパーミッションを申請する必要があった。グンディヤリー村を観光した後は一目散でブジまで戻り、5時半頃に到着した。パーミッションも無事に取れた。20分ほどかかっただろうか、特に料金も必要なく、オフィスの人の応対も親切だった。ブジは観光地の割には住民が全然観光客ずれしておらず、皆親切なのでいい。

12月30日(火) カッチの村々訪問

 昨日はブジ南部をタクシーで回ったが、今日はブジ北部の村々を訪ねる。今日も昨日と同じメンバーである。一般的な観光コースでは、ドールドー、ホードカー、ビレーンディヤラーなどの村を巡るようだが、これらの村は観光客がたくさん行くために観光地化しており、子供たちがペンを求めたり、写真を撮ったら金を求めたりと、村人たちも非常に観光客ずれしていると言う。そういう観光業に汚染された村を敢えて見て現状を確かめるというのも僕は実は好きだが、せっかくだからあまり観光客が来ない村を選んで回ってもらった。

 まずはブジから北に20kmほどの地点にあるサンジョートナガルへ行った。サンジョートナガルは震災後に作られた新しい村で、ハリジャンという部族が住んでいる。ハリジャンとはマハートマー・ガーンディーが名付けた名前で、「神の子」を意味する。元々「メーグワール」などと呼ばれていた部族だが、その名称は差別語に当たるため、現在口に出してはいけないという。彼らは毛織物、綿織物、革製品などのエキスパートである。

 サンジョートナガルは、村落プランや家屋の建築などは伝統的スタイルを踏襲しているものの、随所に近代的な技術も導入されており、また湖畔の見晴らしのよい丘に村落が広がっていて、環境もよく、「理想の村」という感じだった。電気を太陽電池から取っていたり、元々茅葺きだった屋根を瓦にしたりしていた。観光客はあまり訪れないようで、村人たちは非常にシャイである。各村では伝統工芸品のデモンストレーションや販売を行っており、僕はこの村で革で飾られた鏡を購入した。大きいのが125ルピー、小さいのが75ルピー。

 次に行ったのは、ブジから北に25kmの地点にあるスムラーサル村のカラー・ラクシャー。カラー・ラクシャーはカッチに住む3部族によって1993年に設立された、文化保護と地位向上のためのトラストである。3部族とは、パーキスターンから移民して来たスーフ刺繍を作るハリジャン、ラクダと共に遊牧生活を送るラバーリー、牧羊業を営むガラシヤー・ジャート。カラー・ラクシャーは博物館、工芸品製造、工芸品販売、近隣の子供の初等教育の場になっている。小さな博物館だが、それらの部族の結婚の衣装や装飾品などが展示してあって面白い。解説がグジャラーティー語だけなのは改善すべきだと思ったが。ここの店で売られているものは非常に高価だが、質は確か。チョーパドというゲームのセットと、バッグを購入した。それぞれ860ルピーと220ルピーだったが、合計1000ルピーにしてもらった。カラー・ラクシャーのウェブサイトはhttp://www.kala-raksha.org/

 その次にジャートワーンドという村に行った。この村ではバーンスリー吹きの人に出会い、数曲披露してもらった。2本の笛を口にくわえて、ひとつでドローン音(基本となる音で、ずっと一定の音程)を出し、もう片方でメロディーを作るという奏法である。ラージャスターンの楽師たちの音色と非常によく似ていた。




バーンスリー吹き


 この辺りには昼食を食べる場所がないため、運転手が持ってきた弁当をみんなで分けた。その次に行ったジュラー村では、牛の首に付けるカウベルを作っている職人を訪ねた。銅で形を作っておいて、鉄粉で表面をコーティングして土にくるんで釜戸で焼いてベルを作っていた。大きさによって音が違うが、その音程は大きさに従って驚くほど一定だった。そしてとても温かい音がした。インドの村に行くと、牛の首でカランカラン鳴るカウベルが非常に美しい音色を奏でている。このベルは、牛の所在を知らせる目的もあるようだが、牛が前の牛のカウベルの音に従って後を付いていく効果があるらしい。観光客用に装飾用のベルなども売っていたが、僕は何も買わなかった。




カウベル職人


 同じジュラー村で、刺繍製品を作っているハリジャンの家も訪ねた。僕はグジャラート州を旅行している間、グジャラート州観光局のマークにもなっているトーランという伝統工芸品が欲しくてたまらなかった。トーランとはドアの上に飾り付けるノレンのような飾り物で、グジャラート州では各地でいろいろなトーランが売られていた。パーリーターナーの市場などではビーズを連ねたトーランを見たが、カッチのトーランは刺繍と鏡で彩られた美しいトーランが作られている。ジュラー村のハリジャンの家ではトーランに集中して見せてもらい、大きめのトーランと小さめのトーランを買った。それぞれ400ルピーと200ルピーにしてもらった。他に、ベッドシーツやショール、シャツやスカート、バッグなどが売られており、どれも美しい刺繍が施されていて素晴らしい。




ジュラー村のハリジャンの女性
カラフルな刺繍の衣服を着ている


 最後に行ったニローナー村では、ローガン・アートという世にも稀な芸術品を作っている家族を訪ねた。自然塗料で刺繍のような絵をフリーハンドで綿や絹の布に描く工芸で、まさに職人芸としかいいようのない繊細さ。デザインはメヘンディーにも似ていた。値段も高く、最低でも500ルピー、高いものになると何千ルピー以上する。一族のアブドゥル・ガフールという人は国民栄誉賞を受賞している。





ローガン・アート実演中


刺繍のように見えるが
全て手書きの絵である


 今日巡った村の人々は、どこも僕たちを温かく歓迎してくれて、全く観光客ずれしていなかった。村人たちの作る伝統工芸品はどれも現代にも通じるデザインとユニークさで、インドの底力を改めて思い知らされた気分になった。村を訪問するといっても結局各村々で買い物をして回ったようなものだったが、カッチはいくら出しても惜しくないほど面白いものが手に入る場所だ。買い物天国、旅行者天国である。あまり観光客の来ない村を選んで行ったのもおそらく正解だったのだろう、とても快適で実りのある1日になった。

 2001年1月の地震や、2002年のグジャラート州コミュナル暴動などの影響で、カッチを訪れる観光客は激減してしまったそうだが、最近次第に観光業も回復傾向にあるそうだ。観光地に観光客が来なくなると、シュリーナガルのように観光客に飢えた人々が悪質化するということもありうるが、カッチでは決してそういうことがなく、多くの不幸があったものの、皆穏やかに生活をしているところが何より好感が持てた。実は僕はすっかりカッチのファンになってしまった。時々「インドで今まで行ったところでどこが一番よかったですか?」と質問されることがあり、いつも返答に窮していたのだが、これからは「カッチ」と自信を持って言えるような気がする。カッチ観光の総元締めジェーティー氏は、観光パンフレットの序文でこう書いている。「カッチは旅行者が何ヶ月も退屈せずに過ごすことができる土地である。」果たして2ヶ月3ヶ月カッチにいて退屈しないことがあるか分からないが、真の意味でのツーリスト・パラダイス――観光地でありながら観光地ずれしていない、観光客に優しい地域――であることは確かだ。

12月31日(水) インダス文明の首都ドーラーヴィーラー

 インダス文明の遺跡というと、現在パーキスターンにあるモヘンジョ・ダーロやハラッパーなどが世界的に有名で、今回の旅行で訪れたロータルもインド国内にあるインダス文明の遺跡として名を知られている。カッチにも、ブジから約200kmの地点にドーラーヴィーラーというインダス文明の遺跡がある。ドーラーヴィーラーはカッチ大湿地帯に囲まれた島のようになっており、ブジからぐるりと回っていかなければならない。今日はタクシーでドーラーヴィーラーまで行くことにした。誰も同伴者が見つからなかったので、タクシー代2000ルピーをまるまる払うことになった。

 朝7時にホテルを出発。ブジを東に向かう。次第に辺りが明るくなり、前方で2003年最後の太陽が煌々と燃えていた。90kmの地点にあるバチャーウという町で進路を北にとってラーパル、ラヴェーチーなどの村を通って行った。この辺りにもアヒールなど多くの部族民が住んでおり、女性は胸の部分に特徴のあるカラフルな衣装を身に付けており、また男性も白を基調としたラージャスターニー風のコスチュームをしていて面白い。ロードラーニー村近辺で西に向かった。ここからは湿地帯の上を通る道となる。

 インド最西端にあたるカッチ地方は、地図上で見るとグジャラート州のカーティヤーワール半島と陸続きになっているが、実際は島になっている。南はカッチ湾、そしてアラビア海に面しており、西から北、東にかけての地域は広大な湿地帯が広がっている。この湿地帯は雨季には海水が流れ込んで海の一部となり、乾季には泥と塩の白い砂漠となる。白砂漠と聞いて真っ先に思い出したのが、エジプトにある白砂漠だった。あそこは石灰岩でできた砂漠で、見渡す限り白い砂漠となっていた。あんな感じなのかと想像していたが、実際にカッチの湿地帯を目の当たりにしてみると、全く別の光景が広がっていた。

 湿地帯に入っていくと、まずは砂の茶色と塩の白の混じった平地がずっと広がっていた。氷河にも似ているが、これらは氷ではない。塩である。そこからさらに進むと、広大な湖が広がっていた。その風景はまるでコンピューター・グラフィックスのように幻想的だった。湖には波ひとつなく、遠くに浮かぶ島や、道のそばを通る電柱の列の虚像をくっきりと映し出していた。遠くには白いモヤのようなものがかかっており、湖と空の区別は白色で塗りつぶされていた。あちこち世界を旅行したつもりだが、こんな不思議な風景は初めて見た。タクシーを止めてもらって、興奮しながら道路を下りた。海の匂い、つまり塩の匂いがムンと立ち込めている。無造作に湿地帯の中に入ってみた・・・すると足がズブッと沈む。やばい、と思って1歩踏み出すと、その足もズブッと沈み込む。固い地面にように見えたが、これは全部泥だった。底なし沼だ!すぐに引き返して岩の上に乗ったたからよかったものの、そのまま進んでいたら底なし沼の中に全部沈みこんでいただろう。危なかった・・・。運転手は何も注意してくれなかった。左足が泥だらけになってしまったが、乾くと全て塩になってしまった。





カッチ大湿地帯


まるでCGのような幻想的風景
遠くの島がまるで中に浮いているよう


 ドーラーヴィーラーは湿地帯に浮かぶカディール島の中にある。ロードラーニーから湿地帯を横断する道路を通って島に辿り着いた。しばらく行くと国境警備隊の駐屯地があり、簡単にチェックをされるが、パーミッションを見せろとは言われなかった。昨日も結局パーミッションのチェックなどはなかった。はっきり言ってパーミッションなしでもカッチは回れてしまうかもしれない。もちろん、取っておくに越したことはないが。

 ブジからアンバサダーのタクシーで5時間。12時頃やっとドーラーヴィーラーの発掘現場に到着した。ドーラーヴィーラーは1968〜69年に発見され、インド考古学局によって1990年から発掘調査が続けられている。ここから多くの貴重な発掘品が見つかった他(出土品は現在デリーの国立博物館に収められている)、他のインダス文明の遺跡を凌駕する規模の都市遺跡が見つかっていると言う。今までモヘンジョ・ダーロ、ハラッパー、ロータルの遺跡を見てきたが、やはり5000年前の古代遺跡に足を踏み入れると1000年2000年の遺跡などとは心臓の高鳴り方が違う。

 発掘はまだまだ終わっておらず、現在のところドーラーヴィーラー訪問は観光というよりも発掘現場見学のような状態だった。発掘に携わっているラーマーバーイーという人が親切にもガイドを務めてくれた。まず案内されたのは出土品が並べられている場所。壺の破片などがきちんと整頓されて置かれていた。出土品を手で触って見ることもできたりして密かに感動。しかしこんなことで感動している場合ではなかった。その次に見たのは巨大な貯水池と沐浴場。インダス文明は高度な灌漑施設で知られるが、この貯水池と沐浴場はその中でも最も優れていたシステムを持っていた。河から引いてきた水を一旦貯水池に貯め、その後地下水路を通って沐浴場に流れ込み、さらにそこから近隣の村へ水が行き渡るようになっていた。ドーラーヴィーラーから貯水場は今までのところ3つ発見されているようで、王侯用と庶民用が厳密に分かれているらしい。今のインドのカースト・システムの原型を思わせる。




王侯用の沐浴場


 貯水場は城壁の外部にあり、いよいよ城壁の内部に入る。城壁は優に5m以上はあり、レンガがきれいに積み上げられている。ドーラーヴィーラーの都市遺跡は周囲を771m×617mの大きさの城壁で囲まれており、城砦地区、ミドルタウン地区、ローアータウン地区の3つに分かれている。この城壁内部に入って確信した。ドーラーヴィーラーはおそらく現在発見されているインダス文明の中で最も素晴らしい遺跡である。しかもインダス文明の首都だった可能性が非常に高い。城壁内部も灌漑設備が整っており、大きな井戸もあった。まだまだ発掘されていない部分も多く、これからさらに何が出てくるのか分からない。




城壁内部の貯水池


 城砦の北側には、正門と見られる入り口がある。扉を固定するための穴のようなものが門の両側にあった。また、門の脇には石を並べて作ったインダス文字で標識が空に向かって書かれている。これが世界最古の看板と言われるものである。何を意味する看板だったのだろうか?「関係者以外立入禁止」だろうか、「ウェルカム!」だろうか、それともこの都市の名称が書かれていたのだろうか?想像が尽きない。





ドーラーヴィーラー北門



門の隅には扉をはめる跡らしきものが


北門の脇には文字が書かれた看板
これはレプリカ
本物は厳重に囲われてしまっている


 城砦の東側にも門の跡があり、柱などが残っている。また、東門の外には公衆用沐浴場と見られる貯水場がある。都市は城壁外部にも広がっており、これから発掘を続けていけば、とてつもない規模の遺跡になるかもしれない。

 今までインダス文明の遺跡からは、他の古代文明のような強大な王権の遺構が発見されておらず、インダス文明の社会は身分の差があまりなかったのではないかと言われていたが、ドーラーヴィーラーの遺跡を見るにつけ、やはり巨大な権力を持った王が存在したことが分かる。今まで地方都市の遺跡しか発掘されていなかったから、強大な王権の証拠があまり見つからなかっただけだろう。しかもこれだけの要塞を築く必要があったということは、戦乱があったということを意味する。人類の歴史はやはり戦争の歴史なのか。現在のところインダス文明の担い手は、ドラヴィダ民族だったという説が有力視されている。一瞬ドーラーヴィーラーという村の名前とドラヴィダという名称には何らかの関係があるのでは、と思ったが、ドーラーヴィーラーは「Dholaaviiraa」、ドラヴィダは「draviR」なので、その可能性は薄いだろう。

 現在、発掘現場の近くには博物館が建設中であり、また近くに5つ星ホテルも完成したそうだ(まだオープンしていないようだが)。現在はチャーイを飲む場所もないような辺鄙な場所だが、発掘が進み、観光地として整備されれば、これはグジャラート州のみならず、インド随一の観光名所となる可能性も十分ある。まだドーラーヴィーラーを訪れるのは早かったかもしれない。僕が行ったときには入場料などはなかったが、くやしいことに写真撮影禁止だった。写真を撮らないようにガードマンが遺跡を高所から見張っている。2000ルピーも払って写真一枚も撮れないのでは泣き寝入りもできないので、ガイドの協力を得つつ、ガードマンの目を盗みつつ、何枚か写真に収めることに成功した。

 ラーパルで遅い昼食をとり、ラーパルからブジへの帰りにカーントコートにある古い城砦に寄ってもらった。1000年以上前から城砦があったようだが、それほど古いようには見えなかった。カーントコートの遺跡は震災でかなり倒壊しており、城壁内部にあったという3つの寺院は全て瓦礫の山と化していた。ただ門だけが原型を留めているだけだった。残念ながら、見る価値のない場所になってしまっている。




カーントコートはこの門だけが残っていた


 8時頃にはブジに帰って来た。ちょうどジェーティー氏がホテルに来ていたので、彼といろいろ観光情報を交換した。観光客には、現在のところドーラーヴィーラーでは写真を撮れないことになっていることを予め伝えるべきだと進言した。また、カーントコートはほぼ全滅状態であることも告げておいた。ジェーティー氏によると、ブジ西部にもまだまだ未発掘の知られていない遺跡がたくさん眠っているという。ブジから約30kmほどのところにあるプヴレーシュワルには、1500年以上前の仏教大学の跡と思われる遺跡があり、ブジから135kmのラクパト近辺には、玄奘の「西域記」に記されているものと思われる仏教の石窟僧院があるという。また、ナリヤーの近くには謎の地下トンネルがあるというが、中は迷路のようになっている上にガスが充満しており、またヒョウなどの危険動物が生息する地域のため、きちんと装備を整えていかないと非常に危険だそうだ。これらの遺跡はほぼほったらかし状態になっているというから残念なことだ。

 このまま年末年始をブジで過ごしてもよかったのだが、旅行の残り日数が少なくなっているため、午後9時半発のプライベートの夜行バスでアハマダーバードへ向かうことにした。アハマダーバード〜ブジの間では、夜行寝台バスが運行している。中国で一度寝台バスに乗ったことがあったが、インドで寝台バスを見たのは初めてだった。是非一度体験しておこうと、この夜行バスのチケットを買ったのだった。ブジからアハマダーバードまで230ルピー。

 9時15分頃にバス会社のオフィスに行ってチケットを見せると、「おお、お前か、早くバスに乗れ」と言われる。バスに乗ると、まだ僕しか乗客はいなかった。中は両窓側に1列ずつ、真ん中に2列の2段ベッドが縦に並んでおり、32のベッドがあった。寝台はスリーパー・クラスの列車の寝台よりも小さく狭く、長さは180cm以下しかなかったので、183cmの身長の僕は身体を曲げて寝るしかなかった。ベッドの上には汚ない絨毯のようなものが無造作に敷かれており、不潔な感じがした。揺れも列車の比ではない。結局、インドの寝台バスは特に快適ではないということが分かった。




インドの寝台バス


 僕が乗るとすぐにバスが動き出した。ただ位置を変えているのかと思ったら、そのままブジの町を出てしまった。どうやら乗客は僕一人のようだ。大晦日に夜行寝台バスの中、一人で眠るのか・・・サップと曙の試合を見たかったな・・・と思うと無性に寂しさが込み上げて来た。途中のバチャーウやガーンディーダームで何人か乗客が乗り込んで来て多少車内は賑やかになったが。



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